- 『DIABOLIC! 1話〜2話』 作者:凛樹 / 未分類
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第1話
何気ない日々の続くある日。
「……?」
ジリアがたまたま、使う頻度の少ない薬品を戸棚から引っ張り出した時であった。
半透明のその小ビンの中に、その液剤は数滴しか残っておらず、どうやりくりしても今から使う量には少しばかり足りないのが明らかだった。
(そういえば…)
ジリアは前回使ったときのことを思い出しながらその小ビンを机の上に降ろし、これから自分がすべき事を予想しながらしばらくその小ビンを見つめる。
(…面倒臭いな…)
その液がないと実験は進まないのだが、どうやら外出する事を躊躇っているらしい。いつも外出しないだけに、なかなか踏ん切りがつかず溜息を一つ零す。
しかしいくら考えても悩んでも答えは一つ。もう一度ふぅ、と重々しく息を吐くと、白衣を脱いでそこに置きジリアは実験室を後にした。
出来事は正に突然だった。しかも、誰も予想し得ない形で。
…全ては、ジリアが街の薬局に薬品の調達をしに行った、その帰りの道中での事。もしかすると、気も遠くなる程昔から決まっていた事…
いつもと同じように出掛け、いつもと同じように薬品を買い、そしていつもと何ら変わりない帰り道を、外出する、というジリアにとって非常に神経の遣う“仕事”を終えようとしている解放感に浸りながら、少しずつ気を緩め、足早に家に向かっている所だった。
右腕には、先ほど買った薬品の入った紙袋を抱えて。
久しぶりに目にする外の風景は、少しずつだがやはり以前見た時とは違い、新しい発見がいくつかあった。と言っても、ジリアはそういう物に対して特別に何か感じるというのがないので、何がどう変わっていようとどうでも良いようだが。
しかしそれでも、周りに誰もいない時などは外の新鮮な空気に心地よささえ感じる瞬間もあるのか、
(誰もいなければ、外出もまだマシなものなのだが…)
と、ふとそんな事も頭に浮かんで消えた。そんな事を思いながらも、相変わらずその歩幅を狭める事なくジリアは足を運ぶ。
家までの距離も三分の二を過ぎた頃だろうか。
突如、ジリアのほんの身の回りで一瞬の轟音が鳴り響いた。
その音からジリアはとっさに強風だと察知し、無意識にといって良い程素早く、それに耐えるべく身構えた、その直後。
台風のような豪風がジリアを襲った。耳元で風が大きな声を出して鳴り響く。
思わず目を閉じ、袋を抱える腕に力が入った。
凄まじい風に煽られて、後頭部で無造作にくくったポニーテールがまるで意志を持った生き物のように舞う。
木々から無理矢理引き剥がされた葉が、無抵抗に流されてゆく。
さっきまで本当に静かだったのかと疑うほどに、一瞬にしてその空間は命を吹き込まれたように音を立てて暴れる。一時的に台風が直撃したような、そんな狂風であった。
ただそれは決して長い時間ではなく、ほんの数秒であったが、その間にジリアはそれ以外に何か不自然な音も聞いた。
まるで木々が故意に揺らされたような、あるいは何か重みのあるものが葉を揺らしたような。
しかも、更に不思議な事には、その不自然な音が聞こえたかと思った後、すっ、と先程の狂風はどこかへ消え、またその場所に静寂が訪れたのである。
それは、今度はさっきの豪風が嘘だったんじゃないのかと疑うほどのもので。
しん、と沈黙状態になり、ジリアはようやくゆっくりと目を開ける。
しかしジリアが目を開けた次の瞬間、飛び込んできた光景は―
衝撃的、その言葉そのものだった。
あまりの事に、ジリアはすぐさま自分の目を疑った。疑わざるを得なかった。
そこには、目を見張る程に美しい顔立ちの、しかしどこを怪我しているのか分からない程に鮮血にまみれた、黒い羽根を持つ人物が姿を現していたのだ―
ジリアの目の前の植木、その上方から落ちてきたように植木に埋もれるその人の姿は、周りの風景から切り離された異世界を彷彿させる。そして、その人の傍らには、真っ黒な黒猫。
その人はこの世の、この時代に似つかわしくない、しかしいつか絵本かどこかで一度は目にした事のある悪魔のような黒い羽根を背負っている。
しかも、その人も黒猫も、見る限りでも重傷だと分かる程に至る所にまで傷を負っているではないか。更には、その羽根でさえ痛々しく折れてしまっており、落ちてから動こうとしないところも見ていると、もしかしたら意識でさえもうほとんどと言って良いほどないのかもしれない。
…だからだろうか。その人にこんなにも惹きつけられるのは。透き通るような白い肌に、真っ赤な鮮血。
それはジリアにでさえ、儚く美しいものを思わせる。身体が、何かに囚われたかのように固まる。
普通なら、相手が普通の身なりなら、ジリアといえどここで迷わず駆け寄り、その人の安否を確かめただろう。それが物事の当然の成り行きだ。
しかし、今はどうだろうか。自分が35年間生きてきた間、一度も見た事のない、いや、むしろ絶対に見ることなどないと信じ切っていた類の、羽根のついたその人を目の前にしたジリアは愕然とした。
そしてすんなりと、その事実を信じることができなかった。超現実主義のジリアに、信じられるはずがないのだ。
しばらくどうする事もできず、ましてや放って行く事もできずに、ただただ、その人を見つめる。
しかし時間に比例して、だんだんとその人の存在がジリアにとって確かなものになっていくのが分かった。ずっと疑うには目の前の現状はあまりにも不自然で生々しかったのだ。
そうしてようやく、ジリアがその人に近付く事ができた、その時。
傷だらけのその人は、人の気配を感じ取ったのか最後の力を振り絞るように、ぎこちなくうっすらと瞼を開ける。
「…くす…り……」
そうしてそれだけを言い残すと、見て取れるように一気に、その人は意識を手放した。
「…っおい…っ!?」
まさか、と急に激しく心臓が鼓動し、言われた言葉を理解する間もなく急いでその人、そして黒猫の意識を確かめる。
が、どうやらかろうじて生きてはいるらしい。どくん、と普通と何ら変わりない生きようとしている証拠が、すぐに確認できた。
ひとまずほっと胸を撫で下ろしたジリアは、その次に唯一その人の残した言葉を思い浮かべた。
(…くすり…?‥薬、か…?)
そうして、自分の右腕にしっかりと抱えていた紙袋に、何か言いた気に視線を落とすのだった。
第2話
何の変哲も無い、洋間の一室。見渡せば、夫婦が寝室として使えばちょうど良いくらいの広さである。そこに、殆ど何も乗っていない机と、椅子、ベッド、そしてパッと見何のジャンルか分からない分厚い本やらが、几帳面に揃えられて並んでいる大きめの本棚。それだけがあった。その他には、クロゼットだろうと思われる扉が壁のようについているだけ。見るからに、至ってシンプルな、殺風景な部屋である。
カーテンもまた無地であり、そこから透けるようにして暖かい陽射しが差し込んでいる。凛として優しい、電気などというものでは到底表現できそうにない、自然の創り出す陽だまりだ。
閑寂として平和。何もなさすぎて、嵐の前の静けさのように思われる。ただ、部屋の外から聞こえてくる無邪気な子供達の声、車や自転車の音、鳥の声、そして自然の創る音だけでその部屋は満たされている。それでも、そういった音すら、たまに外から漏れるように、かすかに聞こえてきただけであったが。
そんな部屋のベッド。そこにはいつもと違う風景があった。
見れば、布団の上を流れる銀の輝きをした細い髪。閉じたまぶたの先には、白く滑らかな肌に映える長い睫が伸びている。薄く開いた唇は、形良く少しピンク色に染まっていた。
衣擦れの音一つさせずに横たわるその様子は、まるで美しい姿を失わぬようにと、時を止められ、永遠を生きる人形にされたもののようである。
それはこの部屋に数日前来た、新しい客だった。
傍らには、黒い猫。この猫もまた枕元で丸まったままピクリとも動かず、数日間、二人ともずっとこの状態であった。部屋には、その人と、黒猫。二人きりだった。
それはジリアが突風に見舞われた日。今住んでいる場所とは全く違う所で、事は起こっていたのである。もちろんジリアは、そんな事を知る由もなかったが。
しかし確実に、その時には既にもう、ジリアは逃げられない、渦中の人物となっていたのである。
薄暗く、年中曇天のような場所で、その人はある場所へと向かって、自分の乗っている箒を飛ばしていた。もちろん、その傍には例の黒猫。どうやら、その人とこの黒猫は俗に言う相棒、のようなものであるらしく、大抵一緒に行動をし、大切なときには必ず連れていた。
風を体中に受け、すいすいと気持ち良く飛んだ。真下に広がる、飢えた獣たちがうめき合う森を通り過ぎ、人影がちらほら見える町にも似た所も過ぎ、荒野を眺めた。
どこもかしこも、お世辞にも平和だとか、穏やかだとかいう雰囲気ではなく、どこか張り詰めたような、油断などしていたらすぐに呑まれてしまいそうな空気で満ちている。
実際、この世界で気を抜いた者に明日はないし、その教えが常識化しているからだ。
それから暫く、その人は荒野を飛んだ。ここまで来ると、随分な距離を来たような気もするが、散歩がてらの飛行はこれくらいで丁度かもしれない。
その人はそう思うと、おもむろに口を開き、それから何かを言葉に乗せて発せようとした。しかしその時。
「!!」
突然、後方から高速の光の衝撃波がその人を襲った。
早めに気付いて避けたので、それについては何の問題もなかった。
問題だったのは、それを先駆けとして更にその後方から数人の、白い羽を持った天使たちが続々と姿を現した事。
「いたぞ!アイツだ!!」
先頭に立ってそう叫んだ天使の一人が、ものすごいスピードで向かってくる。その後ろにも、数人の天使たち。天使たちが、その人の事を言っているという事は明らかだった。それは、周りに誰もいないからとか、その天使たちが自分の方を見ているとか、それ以前の問題で。
一瞬で、その者たちの能力を測ったその人は目を細めた。
まるで天使とは思えないような剣幕で追いかけてくる者たちを、その眼にしっかりと捕らえながら―――
「くらえぇえええ!!!」
それから天使たちは容赦なく攻撃を仕掛けてくる。それにその人と黒猫は二人で応戦していた。
天使たちから渾身の力を込めて放たれる攻撃。
一人や二人が相手なら物ともしない攻撃でさえ、大人数で囲まれては油断をしなくても受けてしまうものもあった。
それでも流石というべきだろうか、その人はこれといった大きな傷もなく、半分以下になった相手の残りを片付けていた。
周りには負傷して倒れたまま、立ち上がれなくなった天使たち、かすかに残る意識の中、うめき声をあげてそれでもまだ、力を振り絞ろうとしている者たちがいた。
それらの状況を見ながらも、その人は今目の前の、恐らく一番力がある者だろうと思われる天使を片付けるのが先決だと、攻撃に専念した。
凄まじい爆発音、地面をえぐる程の衝撃。
長引かせるつもりはなかったが相手はなかなかしぶとく、自分もあまり怪我を負っていない代わりに、相手もこのままの攻撃では簡単にくたばらない、と判断した。
間合いをとると、その人はこれが最後の一撃と決めた術を繰り出そうとした。
が、どうやら相手も同じ考えでいたようで、僅かに、相手の方が早く全身全霊をかけたエネルギーを放った。それも、何故かその顔に、勝ったとでもいいたげに笑みを浮かべて。
「?!」
それなのにどうした事だろうか。相手の攻撃の軌道は、どう考えても的外れの場所を目指し始めた。
「ぅあぁあぁぁあ!!!」
反対に、受けた攻撃を防ぎきれなかった相手は、そのまま地面に伏し。
その瞬間に、その人は全てを理解した。
「―――!!!」
最後の力を振り絞って相手が放った攻撃。
それはいつの間にかその人の後方少し離れた所で、残り少なくなった力を合わせた天使たちが束で襲いかかっていた、その人の相棒に向かっていたのだった。
考えるより先に、体が動いていた。
その人は、咄嗟にかばうように覆い被さった。
そしてそれと同時に、天使たちと戦う前に口に出しかけていた言葉を、無我夢中で紡ぐ。
―その瞬間。まばゆい光が辺りを包んで、それは曇天の空まで照らした。
外は暖かく良い天気だというのに、暗幕で陽射しを遮り、暗くした部屋を蛍光灯の光だけで照らした、まるで理科室のような部屋。
何かの機器から発せられる機械音だけが響く中、ジリアはフラスコに入った液体を、書類を片手に時々いじりながら観察していた。
そう、数日前傷ついたその人と、黒猫を拾った張本人である。
信じられない事が起こったあの後、ジリアはまさかそのまま二人を放って行く事もできず、ましてや、―――それが偶然だったとしても―――自分の持っていたものの名を最後の言葉にして気絶されては、拾わずにはいられなかったのだ。
家に近かった事も助け、ジリアはそのまま一人と一匹をなんとか抱え、周りの目を気にしながら早足で家に帰ったのだった。ただ、体力のないジリアはそれだけで息があがって、久しぶりに情けない思いをしたものだったが。
そして(何故こんな事に…)と内心では文句を言いながらも、放っておけず汚れていた衣服を脱がせ、その人のとも、誰かのものともつかない血を拭き取り、また着替えさせてベッドに寝かせたのだが。
あれから何回か様子を見に行っても、その人は起きた様子もなく、ずっと眠り続けていた。
しかし寝ているだけなら特に不都合もないので、ジリアは起きたら起きただ、とそれ以上深く考えずに、最低限の世話だけはしていた。
…正確に言えば、その人は確かに寝ているだけで、ジリア自身が研究中にその日の事を思い出し、時々身が入らなくなるという困った問題を抱えていたが…。
それでも今のジリアにはこれ以上どうしようもなく、少し前からは乗りかかった舟だ、と、キリの良いところまで面倒を見る覚悟をしていた。
ジリアはまたしても自分の手が止まっていた事に気付き、慌てて研究の続きに取り掛かる。時計を見れば、もうそろそろ様子を見に行こうと思っていた時間になっていた。
書類をそこに置き、研究途中のものを適当に後始末すると、ジリアは研究室のドアノブに手を掛けた。
「ジリア!」
「!?」
それとほぼ同時。ドアの向こうから、突然弟のウィズがドアを押して研究室に入ろうとした。
当然ドアの真ん前にいたジリアが避けられたはずもなく、大きな音がしたかと思うとその直後に勢い良くドアが開き、血管を浮かせたジリアがウィズの前に現れた。
「…部屋に入る前はノックしろと言っているだろう!」
怒ってはいるのだが、間抜けな兄の姿に、笑ってはいけないと思いつつも我慢できない笑みが浮かぶウィズは、何とか、普通に声を出すことに成功した。
「す、すまない……しかし、客がいるのにジリアが一緒にいないのはどういう事かと思ってな…」
ウィズの職業は考古学者というもので、普段はどこかしら世界中を飛び回っていて――これは本人が旅好きというのが大いに関わっているのだが――、最近もずっとどこかの国で仕事をしていたはずなのだが、どうやら今帰ってきたらしい。
兄弟といえどもあまりお互いを干渉しない関係だったので、同じ家に住みながらもほぼジリアの一人暮らし状態で、連絡も頻繁に取り合っている訳でもない。だから、ウィズがいつ、どこへ出発して、いつ帰って来るかなんていう事は、ジリアにはどうでも良い事に近いのだ。
そしてウィズが今更になってこんな事を言うのも、当然今帰ってきたばかりで、今、客の存在を知ったからにほかならない。
「どういう事も何も…寝てる奴の側にずっといろというのか」
ウィズが客に気を遣っての事だとは分かっていたが、数日間寝てるだけの相手につきっきりで側にいろというのは無茶である。きちんと容態は確認したし、そこまで気を遣わなくても良いだろう、とジリアは思った。いやむしろ、ちゃんと様子を見に行っていると訴えようと思ったジリアは、何も知らないウィズにどう説明すべきか迷った。
「…? まだ誰か寝てるのか? 俺が見たのは冷蔵庫を漁ってる子なんだが」
「………は?!」
寝ているはずのその人を見たのだろうと思っていたジリアは、ウィズの言葉に自分の耳を疑った。
客といえば自分の連れて帰ってきたその人しか知らない。
しかしその人は数日間ずっと眠り続けいているのだ。
仮に目が覚めたのだとしても、まさか歩けるはずがない。
体中に傷を負い、ボロボロだったその人。あれからまだ何日も経っていないのだ。
確かに、自分に医学方面の知識が少なからずあった事を治療に利用した。
そして、もう一つ。いつからか自分に備わっていた、手をかざし集中するだけで傷などの回復が早くなる、という普通の人にはない特別な能力も利用した。それは、いわゆる気孔とか、ヒーリングとか、そういうものに似ていたが、ジリア自身不可解なものだった。
それでも、この回復の早さは尋常ではない。まだ包帯が必要な程で、完治には程遠いかったはずだ。
…それじゃあ今冷蔵庫を漁っているのは一体誰だ?
勝手に人の家にあがりこんで冷蔵庫を漁る泥棒だろうか?
馬鹿な。それともまさか、ずっと寝ていたあいつがひょっこり起きて、勝手に歩き回って、勝手に冷蔵庫を開けて、そして勝手に貪っているとでもいうのか。
いくら歩けたからといって非常識だろう。
台所に向かいながら、ジリアの頭の中で疑問、仮定、推測、また疑問、と、終わりのない考察が繰り広げられる。
短い間に様々に考えたが、もうじき。あと扉一つ開ければ、そこに答えがある。
ジリアは、台所へと続く最後のドアをその勢いのまま、大きく開く。
「!!」
聞いてはいた。そして心のどこかで分かってもいた。
確かにウィズからの情報は間違っていなかったし、自分の確信も裏切られなかった。
そこには、紛れもなく見事なまでに冷蔵庫を漁る、その人がいたのだ。例に漏れず、黒猫もその隣で大人しそうに何かを食べていて。
しかし実際を目の当たりにしたジリアは、自分の想像を超えるその景色に、ドアノブに手をかけたまま一瞬動けなくなった。
開け放された冷蔵庫。中身を全てといっていい程テーブルに広げられ、それでもまだ漁られるんじゃないかと思わせるのだから、冷蔵庫が哀れに見える。
「何をしている!?」
意識を取り戻したジリアは、そう怒鳴るとずかずかとその人たちの前に歩み出た。
その人は、ジリアが昼食にしようと思っていたおにぎりを食べているが、ジリアの言葉には無反応だ。専念していて聞こえていないのだろうか。いや、そんなはずはない。
「おい!」
間を置いても相変わらずなその人の態度に、ジリアは怒りを募らせ目の前のテーブルを叩いた。
するとふ、とその音でジリアの存在に気付いたように、その人は顔を上げる。
その銀髪と同じ、白銀の瞳が、ジリアを捕らえた。
ジリアも、その瞳孔の開いた蛇のような、珍しい銀の瞳を睨み返す。
「これだけ?」
ジリアの聞いた、その人の2回目の発言だった。
さも当たり前のように、きょとんとするその人は言い放つ。
「は?!」
今日は幻聴が多い、とジリアは思った。
「だから、食べ物」
悪い冗談だ。
目の前の空になったものたちは何なのか。これだけ冷蔵庫をひっくり返しておいて、まだ、足りないというのだろうか。
しかも、良く見ればせっかく巻いてやった包帯もしていない。
ジリアは呆れを通り越して、先程の怒りも鎮まっていなかった事に輪をかけてまた、怒りが込み上げる。
まさかその目の前の人の発言に答える気は微塵もなく、理性の糸が切れて言葉を失くしたジリアは、更にその人に近付いた。
怪我人だと思っていた自分が馬鹿らしい。
ジリアは、終始無言でその人の首根っこに手を伸ばした。もちろん、追い出すために。
「!!」
しかし怒りに身を任せすぎて見えていなかったのだろうか。
確かに今、その人の襟に手を伸ばしたはずだ。それだけの行動を間違えようがない。
それなのに、ジリアの手は勢い良く空を掴んでいた。
「………」
多分、良く見ていなかったから掴めなかったのだろう。
そう思ったジリアは次こそはともう一度目標を確認し、また勢い良く手を伸ばす。
2回目。ジリアの腕が再び空を斬った。
3回目。その人の柔らかそうな髪が揺れる。
4回目。今度は反対の手を振り回した。
5回目。最後に両手で狙っても、相変わらずジリアが掴んだものは空気だけ、だった。
ここまで来ると、いくらジリアでも諦めた方が良い事など分かりきっていた。
怒りは収まるばかりか増していて意地にもなっていたが、怒った疲労が顔を覗かせ始めている事も感じていた。
力ずくが駄目となると、ジリアに残された最後の手段といえば口で文句を言う。これだけだ。
「……何なんだお前は…」
ジリアはうんざりして、唸るような声で言った。
するとその人は何事もなかった風にすっくと立ち上がる。
着替えさせた時に、ジリアが自分の服を着させたので、その人には少々大きかったようだ。袖は1、2回巻いてはいたが手の甲くらいまで隠し、ズボンに至っては引きずったままどうしようもなく、床掃除用となっている。
そんな服を気にする様子もなく、その人はジリアに向き直った。
「ぼくは禊。お兄さんは? お兄さんが、ぼくの手当てしてくれたんだよね?」
微笑を浮かべ、その人は自分を禊、と名乗った。
確かに名前を気にする事を忘れてはいたが、ジリアはそんな事聞いてはいなかったし、知りたいとも思わなかった。
「手当てしたのは俺だが、治ったなら用はない。出て行け」
それでもまだ話ができそうな事には、ジリア自身希望の光が見えた気がした。
冷蔵庫を漁った事を許す代わりに、このまま帰ってくれればそれで良かった。
「お兄さん、名前は?」
わざとだろうか。禊、と名乗ったその人は、ジリアの言葉を無視するようにそこから一歩たりとも動こうとしない。また、ジリアの血管が一筋浮く。
「お前には関係ないし教える義理もない。早く出て行け」
長々とまくし立て、怒る気力はあるが、このまま早めに去ってくれればそんな重労働をしなくて済む。ジリアは自分を抑え、禊を追い出そうとした。
「手当てしてもらったんだから、関係あるよ。名前くらい聞かせて」
しかしジリアの思惑を理解しているはずだろうに、禊は一向に帰る気配など見せない。そんな禊に苛立ちを募らせるジリア。
「関係など持ちたくもない。いいからさっさと出て行けと言っているんだ」
下手をすれば、また力ずくで追い出してやろうかと手が出そうになる。
禊は、終始その表情を変えず、ジリアの台詞のあと暫く黙ってジリアを見つめていた。
次は何を企んでいる、と別に禊がこれまで企みを企てた事もないのにジリアは思った。
不意に禊が動き、ジリアがそれに反応する頃にはもう、禊の目的は達成されていた。
禊の手の中には、ジリアが化学者である証明の免許証。ジリアがいつも、胸ポケットに入れていたものだった。
「…ジリア、キュール…35歳…へぇ」
「なっ…!?」
止められなかった事に動揺する暇もなく、ジリアは自分の諸々の事を勝手に知られた事に不快感を持った。
「返せ!」
すぐに、禊から免許証を奪い返す。が、もう知られた事はどうしようもない。
「ねぇ、ジリア。ぼく、ここに住みたい」
そして相変わらず微笑を浮かべている禊がさらりと言った言葉。言い方が自然すぎて、思わず二つ返事でどうぞと言ってしまうかと思った。
ジリアがそれを思いとどまり、禊の言っている事を正しく理解するまでに、少し時間を要した。あまりに突飛すぎてすぐに理解できなかったのだ。
「ふざけるな……」
ようやく理解はしたが、だからといって受け入れられる願いではなかった。むしろ、これもまたジリアの怒りを生むだけの言葉になってしまっただけで。
ジリアは禊の腕を強く掴んで引っ張ると、もう掛ける言葉さえ見つからない上に怒りで言葉を失い、ただ頭にあるのは、このままこいつを置いておくととんでもない事になる、という予感だけだった。自分に不利なものを排除しようとするのは人間の本能である。ジリアは何の迷いもなく、禊を玄関へ連れ出そうとしたのだ。
「いいでしょ? ぼく、帰るところないんだ」
「家に帰れ!」
ジリアは引っ張られまいと抵抗する禊の腕を力一杯引っ張りながら、ダイニングをじわじわと進む。帰るところがない訳がない。見るからに少年の禊を親は心配しているに違いないし、何よりジリアには、それが子供ながらの我が侭にしか聞こえなかった。
「…ぼく、悪魔なんだよ」
ここまでくると、ジリアは頭が痛くなってきたのを感じた。確かに、そんな馬鹿な事を言う程帰りたくないのかもしれない。その気持ちが分からない訳でもない。しかしだからと言って自分の家に置いてやるほどお人よしではないし、責任だって持てない。ジリアは、流す事しかできなかった。
「そうだな、勝手に人の家の冷蔵庫を漁るような奴は悪魔だ」
「あ、信じてないね」
ジリアが入ってきた、廊下に続く扉まで、もう少し手を伸ばせば届くところまで禊を引っ張ってきた。
「いい加減にしろ。俺はお前に構っている程暇じゃないんだ」
それは嘘ではなかった。今ただでさえ忙しいというのに、こんな子供がいたら…ましてや住むなんてことになったら、面倒など見きれないのは明らかだった。
「じゃあ……これなら信じる?」
「…?」
ようやく追い出せると思った矢先。意味深な禊の言葉に振り返ったジリアは、目を瞠った。
「!?」
振り返って見た禊の足元。床から円形の光が差していたからだった。
思わず、禊を掴む腕が緩んだ隙に、するりと細いそれが抜けていった。
「出でよ!ケルベロス!!」
そのままジリアから少し離れた禊がそう叫ぶと、だんだんと強く、大きくなっていった光の中に、得体の知れない陰が蠢き始めた。地面が轟く音に、圧倒される。
ジリアは夢なら覚めてくれと切実に願った。
何故こんな事になっているのか、皆目見当もつかない。
ただ目を瞠る自分の前に、三つの頭を持った獣が現れたとき、自分は何故こんな場所にいるのかと思った。危うく飛びそうになる意識を必死に繋ぎとめるジリア。さっきまでの自分の常識は、ここにはない。
「どう? これで信じるでしょ? 今はちょっと調子悪くてこれくらいしか出せないけどね」
ダイニングと仕切りなしにつながっているリビングの中に、窮屈そうに収められたその大きな獣の上に乗った禊は、飄々としてそう言い放った。
呆然とするジリアに、ケルベロスは唸り声をあげる。三頭ともが交互に、一斉にジリアを威嚇している。
こんなものを出しておいて調子が悪いとは良く言ったものだ。
「……し……しまえ!早くしまえ!!」
青ざめたジリアは身の危険を感じてようやく喋ることができたが、言えたのはそれだけだった。
「じゃあ、ここに住ませてくれる?」
これはとんでもない脅しだ。ジリアはこの獣をどうにかしてもらいたかったが、しかしそんな理不尽な要求に答えられるはずはない。ジリアは、どう考えても不条理な事に納得できるような性質(たち)ではない。
「ふざけるな!早くしまえと言っているんだ!!」
青ざめながらも、ジリアは叫ぶ。
「……ケルベロス!」
禊が何か指示を出したらしく、ケルベロスはその辺にあった棚をその尻尾で叩き壊した。
「なっ…!?やめろ!!」
そこにはさほど重要なものはなかったが、棚自体が大事なものであるのには違いない。なんて事をするんだと思う暇もなく、ジリアは瞬時に最悪の事態を予想できた。
…そう、このままいくと自分の命の次に大事な、2階の研究室までも破壊されかねないのだ。
それだけはまずい。まずいどころではない。自分にとってそれ以上の損失はないのだから。
しかしこの調子でいくと、それは避けられない事だということぐらいすぐに分かる。避けるためには、ジリアが覚悟を決めるしかなかった。
それほど、研究室はジリアにとって大切なものだったのだ。
「…っ分かった!分かった!!住まわせれば良いんだろう!!」
なかなか承諾しないジリアを前に、次なる目標を探していた禊はその言葉を聞くと、また微笑を浮かべた。
「ホントに? ホントに住まわせてくれる?」
ここで嫌とでも言おうものなら、すぐにケルベロスが暴れ出しそうな雰囲気だ。
「分かったから、早くそいつをしまえ!」
ジリアは理不尽な思いで一杯になりながらも、観念して叫んだ。こうするしか、自分の大事なものを守る術が思いつかなかった。
そのジリアの声を聞いた禊が簡単にケルベロスに合図を出すと、嘘のように一瞬のうちに、その獣は消え去った。異様に広く感じられるリビングに残されたのは、まだ夢を見ているような現状。ここだけ、嵐でも直撃したように物が壊れ、散らばり、そして今は静寂としていた。
そんな部屋を前に愕然とするジリアに禊は近付き、にっこりと微笑む。
「よろしく、ジリア」
「……言っておくが」
低く唸るジリアに、禊は先を促すように合いの手を入れた。
「俺はお前なんかとよろしくするつもりはない。干渉しないのが条件だ」
それなら、何とかやっていけるかもしれないと思いたかった。ただでさえ、見るからに未成年の、得体のしれない悪魔などという子供を預かるのだ。
悪魔などこれまで非現実的なものとして扱うどころか、全く違う世界の話、人に言われても鼻で笑って済ますような話だった。誰も証明することのできない、ましてや自分が見た事も感じたこともない宗教的なものを、ジリアは今まで信じる気にはなれなかった。
…今日、こんな形で嫌というほど思い知らされるまでは。
それでも、あまり関わりたくない事だということに変わりはないし、何より、この一件でジリアの禊に対する印象は、とてもじゃないが良いものとは言えないのは明らかだった。こんなとんでもない奴と仲良く、などできそうにない…いや、できない、とジリアが確信していた。
「あぁ、ぼくの部屋、あの物置になってるトコでいいよ」
しかしそんなジリアの思いを知ってか知らずか、マイペースを崩さない禊はジリアの台詞を無視し、いつの間に見たのだろうか、ジリアが今まで物置として使っていた一部屋を要求した。
空いてる部屋だったからそこに問題はなかったが、無視した事を怒る気力はもはやジリアにはなく、ただ、そんな禊を見ながら新たな予感に頭痛がするのを感じただけだった。
昨日までの生活。平和などと思ったことはなかったが、今になると極めて平和だったのだと思う。
しかし今日から、悪魔だという変な居候が住み着く。
それは自分が招いた客であることを皮肉に思いながらも、ジリアは新しい棚を買わなければ、と思った。
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2005/05/16(Mon)03:36:31 公開 / 凛樹
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■作者からのメッセージ
初めまして。お初にお目にかかります。
この作品、実は私の友人に原案を頂き、恐れ多くも私が作品として仕上げさせてもらっている物です。
第一話と第二話の間はかなり時間的に間隔開いているので、ドキドキしながらも投稿しました。
もし感想を頂けるのなら、長所よりも短所を指摘して頂けると嬉しいです。いや、貰えるだけでも嬉しいので、どんなコメントでもお待ちしておりますが!