- 『幻想のルフラン 1〜8』 作者:Rikoris / ファンタジー ファンタジー
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全角9883文字
容量19766 bytes
原稿用紙約32.05枚
…… 幻 想 の ル フ ラ ン ……
♭♯ アウフタクト ♯♭
これが現実だと知るために
現実でないことを願いながら
この五線譜に
私は出来事を鮮明に記して行こう
♪
♭ 第一小節:瞳に映ったもの――作曲:香燈瑠璃(こうひるり) ♭
激しい陽光、生暖かい風、そしてむしむしする湿った空気。
それらは、半分開いた窓から注がれている。
そして、私はその窓から外を見ている。
夏。
それは私が一番嫌いな季節だ。
多くの者は、外へ出て遊べる、プールや海へ行って泳げる、などと喜ぶが、私にとっては悪魔も同然だ。
原因は、陽光。私は目が弱いのだ。
視力がない、というわけではない。目が強い陽光――というよりも紫外線を受けると、チカチカして頭がクラクラしてくるのだ。何度か倒れたこともある程だ。
特に夏は日照時間が長い上、晴れの日が多いし、その天敵も強さを増すので嫌なのだ。――逆に、夜目は利くのだが。
だから、体育の時間中は体育館の時を除いて、今のように一階の保健室へ足を運んでいる。
相変わらず、私は外を見ている。
理由は……特に存在しない。病弱な子にありがちな、外に行きたいという欲求のためにそうしている訳でもない。強いて言うなら、暇だからだ。
窓の外にあるのは、まあまあ広い校庭。そのトラックにはハードルが幾つも並べられ、クラスメイト達が次々とそれらを跳んで行っている。その単調な情景がさっきからずっと続いている。
いつしか私は窓の外を見るのを止めた。
首がまず痛くなってきて、目の奥もずっと外を見ていたせいで妙にズキズキしてきたのだ。それに、このまま見ていてもこの単調な情景が続くだけだろう。
窓を閉めて、外からの陽光、蒸し暑い空気、そして雑音をいくらか遮断し、上半身を寝台に横たえる。
それから、目を閉じる。眠ろうとしたのではなく、目の奥の痛みを少しでも軽減しようとして。
見えるのは黒ではなく、赤。まだ差し込んでくる陽光のせいだ。
ああ、夏は本当に嫌だ。
蒸し暑いし、強い陽光は私にとってトリカブト以上の毒だ。日中常時存在しているだけに、質が悪い。
この世界にいる限り、逃れようのないことなのだろうが。
――何故、太陽は存在するのだろう?
このカトリックの学校にいるシスターに尋ねたらきっと、“神様がお創りになられたから”と答えるだろう。
私には、それが本当かもわからない。太陽は、人間が誕生する前から存在していたもの。人間に、太陽の存在理由や誰が創ったか何て真に理解することは不可能だろう。
――とまあ、暇を利用してそんな事を考えてみた訳だが。
もう、体育も終りの時間だろうか……。
目を開けると、光が目を突き刺した。眩しさに目を凝らしながら、左腕にしている腕時計を見る。
目を閉じたときから、五分弱しか立っていない。まだ、体育の終りの時間までは十五分位ある。
再び、目を閉じる。
さっきの続きだ。
――この世界以外の、陽光のない世界はないのか?
その問いの答えも、真には解らないだろう。そう、誰にも。
もしかしたらあるのかもしれない。確かめた人なんて誰もいないのだから。
異世界への願望。こういうのを、ピーターパンシンドロームというのだろうか。
右から二番目の星から彼がやってきて私を連れてってはくれないだろうか。……いや、私が行きたいのは彼の居るような世界ではないような。
だが、この際何でも良いか、この世界より居心地が良ければ。
その前に、異世界が存在するかどうかが問題だ。
何て馬鹿げた現実逃避……でも存在するのなら、わずかな可能性でも実践してみたい。
《――…り……る…り……》
ふいに、幽(かす)かに、誰かの声が聞えた……気がした。
保健室の先生は、私が来て直ぐ用事で出て行ったきり戻ってきていないし……。
変だ、遂に耳までおかしくなったか? それともいつの間にか眠りに落ちていて、これは夢か?
《――瑠璃(るり)……》
今度は、はっきりと聞えた。しかも、瑠璃とは私の名前。生れた時から何故か瞳が瑠璃色がかった黒だからという理由で、両親に付けられた名。
夢ではない、夢ならばこう自由に考えを巡らせられるはずがない。
では、空耳か? それにしては、はっきりしすぎている。
再び、目を開ける。人影が瞳に映った。
そんな気がしただけなのかもしれないが。
――少女の、ようだった。
《――助けて……》
その一言が聞えた後、その姿は目の裏から消えた。私に何を問わせる間もなく。
それきり、声は聞えなくなった。
何だったのだ……? 今のは一体?
現実には違いなさそうなのだが……助けを求められる覚えは無い。
考えたって仕方ないか。
『集合、礼!』
窓の外から号令の声が聞える。授業終了のベルも鳴り出す。
色々考えるのにも、飽きてきた頃だ。
グッドタイミング。
さて、教室へ戻るとするか。
♪♪
♭ 第二小節:運命の木霊――作曲:香燈瑠璃 ♭
夕焼け空の下。私は、学校からの帰路を辿っている。
あんなに元気だった太陽も、今や眠りにつこうとしている。陽光が照りつけない為、私にとってはとても心地よい時間帯だ。
少しでも陽光がおさまっているように、私はいつも下校鈴の時間まで学校に残ってから帰路についている。今日は運良く部活があり、下校鈴まですんなり残れた。
「――って、体育の、先生が、伝え、といて、って。あれ、どし、たの? 瑠璃? 難し、い、顔、して」
そう言ってきたのは、家が近所でいつも一緒に帰る同級生、葉月麗莉(はづきれいり)。人付き合いに疎い私の、無二の親友だ。
ちなみに部活も同じで、管弦楽部だ。
私は下校鈴までの暇つぶしのために、中一の頃、当時たまたま一年程前からフルートをやっていたので入ったのだが、彼女は幼い頃からヴァイオリンをやっていて、それを生かすため入ったのだそうだ。
彼女は耳が先天的に悪く、それを少しでも改善するためにヴァイオリンを始めたと言っていた。
今は昔ほど悪くは無いらしく、普通の会話程度の大きさの音なら聞き取れるようである。
「いや、何でもないよ。それより麗莉、先生の言ってたことって?」
「ごめ、ん。聞き、取れ、なかっ、た?」
尋ねると、飴色に近い茶色の瞳を困ったように泳がせながら、麗莉は私に聞き返した。
「んにゃ、あんたのせいじゃ無くって私がぼーっとしてたせいだから、謝ること無いよ」
私はそんな麗莉にそう応える。
ああ、何で私はもっとまともな返事とか励まし方が出来ないんだろう。
「ありが、と。えっと、ね……おこ、ら、ないで、ね……」
何か……嫌な予感。
「明日から、瑠璃、だけ、月、と木、曜日の、放、課後、に、体育、館、で、ハードル、の、練しゅ、見、るって。一度、も、ハードルの時、体く出てないから」
冷たい沈黙が、広がる。
嫌な予感的中。あの熱血教師め。週二日、嫌いな体育の苦手なハードルの練習をする、だなんて!
私にとっては、死の宣告でもされたような物だ。怒る気にもなれない。只、愕然とする。
以前、管弦楽部で演奏した、『べートーべンの交響曲第五番“運命”第一楽章』が、私の頭の中に木霊する。
「……マジ?」
思わず、そんな言葉が口をついで出る。
コクコク、と麗莉は頷く。自然、はぁーと巨大なため息が、私の口から飛び出た。
「あ、瑠璃、それじゃ、ね」
麗莉が、右側を示して言う。
そこには、洋風の一軒家――麗莉の家――が、そびえ立っていた。
「あぁ……また明日」
巨大でかつ美麗な麗莉の家にいつもながら圧倒されつつも、私は応え、彼女と別れた。
それから、左に一軒挟んだ場所に立つ、こぢんまりとした自分の家の玄関をくぐる。
「ただいま……」
呟くが、その声は只、闇に吸収されただけだった。
いつものことだ。
私は、廊下の突き当たりの自室へ入る。
薄暗い部屋の電気を付けると、学生鞄を投げ出して、ベッドに飛び込んだ。
はあ、と再びため息。
ハードルの練習か……先が思いやられる。
ん? 体育……そう言えば、今日の体育の時間の、あの声は何だったんだろう。覚えている、と言うことはやはり夢ではないらしい。
助けて、と声は私に、助けを求めた。
私に……? どうして私なんだろう。気になる。それに、あの声は……何故か、聞き覚えがあった気がした。
《――瑠璃……》
ほら、またあの声……また?
まどろんでいた頭が、冴える。
「誰なのっ!!」
咄嗟に、私は叫んでいた。
《――音楽室の……ピアノの中……》
問いには答えず、声は囁く。
――ピアノの……中?
《見て……》
それきり、奇妙な声は消えた。
♪♪♪
♯ 第三小節:幸か不幸か――作曲:葉月麗莉 ♯
今日、瑠璃ちょっとヘンだったな。
ハードルのせいじゃなくて、それを話す前から。
何かあったのかなぁ?
「麗莉ー! そろそろヴァイオリン、練習する時間でしょー?」
苛立ちのような、気遣いのような呼び声が、隣の部屋――キッチンから聞こえてきた。母の声だ。途端、ズンッと右手に重量感が伝わってくる。
自室でケースからヴァイオリンを取り出したまま、私はボサッとしていたのだ。ハッとして、弓を弦に当てる。
まずは調弦だ。神経を研ぎ澄まし、丁寧に弓を弦に触れさせ、音の波長を探る。四本の弦すべて確かめ終わると、楽譜立てが用意出来ていないことに気付いた。
楽譜立ては窓の傍にある。一旦ヴァイオリンをケースに置いて、私はそれを取りに行った。
それは幸だったのか不幸だったのか。
楽譜立てを手にした時、私は目の端に、見覚えのある栗色と浅葱を捕らえた。何かに惹きつけられるように、私はそちらを向いていた。
浅葱は制服だった。私の通う、私立風駆(かざく)学園の。近くに住む同じ学校の生徒と言えば、彼女しかいない。
案の定、栗色は腰まで伸びるストレートヘアだった。これ程長く美しい髪の持ち主は、そうそうない。間違いなく瑠璃だ。面倒くさいからと、彼女は髪を4、5年切っていないらしいから。
彼女は、栗色をなびかせ走っていた。家の前に走る歩道を、顔をしかめながら。
制服のままだし、何か学校に忘れ物でもしたのだろうか。それにしては、鞄類を持っていないのはおかしい。
それに、いつもの瑠璃はどんな時でもどこかに能天気さがあるけれど、今の彼女はどこまでも必死のようだった。何かを必死で求めているような、もしくは何かから逃げているような感じ。どちらかまでは分からないけど。
とにかく、おかしい。さっき以上に変だ。
私は、気が付くと楽譜立てをほっぽって駆け出していた。自室を飛び出し、玄関へと。
♪♪♪♪
♭ 第四小節:月光の中で――作曲:香燈瑠璃 ♭
日はすでに沈んでしまっていた。
明るい月光と街灯が大地を、そしてそこを駆ける私を照らし出している。
音楽室のピアノの中を見て。
そう、奇妙な声は言っていた。音楽室と言われても無数にあるが、まず思いついたのはある一箇所。私の通う中高一貫校、風駆学園の音楽室。どこか聞き覚えのある声だったから、声の主と会ったことがあるのかもしれない。だとしたら、可能性が高いのはそこだろう。
学校への長い坂を駆け上がる。高台にある学校なのだ。その坂は心臓破りの坂と恐れられるほど、急である。心臓が破裂するかという気になるくらい、動悸が早くなっていく。
《――り……る、り……》
突然どこかから、微かに声が聞こえて来た。私を呼んでいるみたいだ。またあの声?
「る、り……瑠璃!」
今度ははっきりと聞こえた。背後からだ。しかも、この独特のイントネーションは……
「麗莉……!」
振り向くと、夜の光に映し出されていたのは思ったとおりの人物だった。肩の辺りで切り揃えられた漆黒のショートヘアに、宝石のような黒の瞳。暗がりに浮かび上がる白い肌に、同色の清楚なブラウスとロングスカート。
葉月麗莉。肩で息をつくその人物の名が、私の頭をジンッと貫いた。どうして家に帰ったはずのこの少女が、ここに居るのだろう?
彼女の額には、少しばかり汗が滲んでいる。息もいつもの彼女とは打って変わって、荒い。もしかして、私を追ってきたのだろうか?
「よかっ、た。やっと、つぅじ、た。どして、がっこ、戻って、るの?」
麗莉は、フウと息をついて尋ねて来た。数メートル先に見える校舎を示しながら。
「麗莉こそどうしてここに……? この時間はヴァイオリンの練習してるんじゃ?」
口をついで出たのは、麗莉の問いに対する答えではなく、先程浮かんできた疑問だった。麗莉は困ったように眉根を下げた。
「瑠璃が、は、しってるの、見えた、の。私の、部屋、の窓から。か、えり、瑠璃、変だ、ったから気になっ、て。家、抜け、てきた、の」
そして追って来たという訳か。ずっと彼女は私を追ってきていたはずなのに、気が付かなかったのが不甲斐ない。
「ね、どしてがっこ、戻って、るの?」
小首を傾げ、麗莉は先程の問いを繰り返して来た。
話すべきなのだろうか。あの奇妙な声のことを。
「瑠璃……?」
黙っている私を、麗莉は心配そうに目を細めて見つめて来た。どうしたの、と黒の瞳は言っていた。
私は決めた。麗莉にだけは話そう、と。きっと彼女ならわかってくれるはず。笑い飛ばしたりなんかしない。
「あのね……体育の時間、保健室に居たら――」
♪♪♪♪♪
♯ 第五小節:儚き夜の調べ――作曲:葉月麗莉 ♯
保健室に居たら、声が聞こえた。
瑠璃、助けて。
そう声は言っていた。聞き覚えのある気がする声だった。瞳に少女のような人影が映って消えた。
家に帰ると、また同じ声が聞こえた。
瑠璃、音楽室のピアノの中を見て。
それきり、その声は消えた。
こんな事を、瑠璃は語ってくれた。ホラー映画にありそうな、現実にはありえなさそうな事を。
どうしたことだろう? 瑠璃に霊感があるとか?
「それでね、その音楽室がこの学校のじゃないかって思って学校に戻ってきたの。ん? 麗莉、聞いてる?」
瑠璃はその瑠璃色がかった黒の瞳に訝しさを滲ませ、私へ向けて来た。その瞳から逃れようと、私は深く頷いた。考えながらだったけど、聞いてはいた。
「それ、で音楽、室、行く、の?」
尋ねると、瑠璃は「さすが話が早い」と呟く。
「ちょっと確かめにね。ほっとくのも気持ち悪いじゃない」
そして、瑠璃は学校の大きな校舎を仰いだ。
きっと、助けてと言われたから。気になって仕方ないんだろう。彼女はあまり自分の気持ちを他人に伝えようとしないけど、優しいから。
「とは言ったものの……どこから入るかな。校門閉まってるし。うかつだったなぁ」
瑠璃が校舎をただ仰いでいたのは、そのせいだったのだ。
目の前にそびえる校門は、がっちりと閉じられている。用心の為か、下校鈴を過ぎると直ぐに閉門してしまうのだ。だから先生も生徒と同じ頃に学校を出る。
何をそんなに警戒しているのか、この学校には監視カメラがいたるところにあったりして、浸入はほぼ不可能だ。入れたとしても必ずばれる。
「明、日に、するし、かない、んじゃな、い?」
考え込む瑠璃に私は言う。明日来れば、怪しまれずに音楽室に行けるんだから。
「……言われてみれば。慌てて飛び出してきちゃっただけだし、そうするしかないかな」
瑠璃は悔しそうに鋼鉄の校門を一瞥する。それがなければ音楽室に行けたかもしれないからだろう。
原因究明は明日まで待つしかない。肝心なのは辛抱だ。
しかし何を思ったか、瑠璃は校門から視線を移し、校舎の一点を見つめ始めた。
「ね、もう、帰ろ?」
私がもちかけたが、瑠璃は反応しない。瑠璃の見つめる先に何かあるのかと、私もそちらへ目を向けた。
「ピアノの旋律……聞こえない?」
ふと、瑠璃が呟いた。
瑠璃が見つめる先にあるはずのものは、音楽室。そこからピアノの音が聞こえるというの?
私は神経を研ぎ澄ませ、音の波長を探った。すると、高い音の振動が微かに頭蓋骨に伝わってきた。
緩やかな振動だ。幽かに音も認識できた。儚げな、美しいピアノの旋律だった。
その調子には、聞き覚えがあった。誰かが弾いているのを聞いたことがある気がする。
そう、これは夜想曲(ノクターン)。小さな小さな夜の調べ。
♪♪♪♪♪♪
♭ 第六小節:色褪せた思い出の中に――作曲:香燈瑠璃 ♭
ピアノの美麗な旋律が大気へ広がって行く。夏の夜の涼しいそよ風に乗って。
音楽室から流れ出した旋律は、聞き覚えのあるノクターンだった。激しくも哀しげなノクターン。
どこで聞いたのだろう? 私はこの旋律を、鮮明に覚えている。
そうだ、ずっと以前、ノクターンを管弦楽部で演奏したことがあった。それの題名は確か、『ノクターン第二十番嬰ハ短調』。ショパンの遺作だ。
今聞こえてくるのは、そのノクターンに違いない。だとしたら、聞き覚えがあるのも頷ける。しかしながら……
「誰が弾いてるんだろう? 中にもう人はいないはずだよね? 明かりも点いてないし……」
麗莉に尋ねるでもなく、暗い音楽室を見詰めたまま私は疑問を口にする。この学園には、幽霊でも住み着いているというのだろうか? まるで学校ならぬ学園の七不思議だ。
それとも、この音の全てが幻なのだろうか? ただ私の耳が正常ではなく、頭に浮かんだ音を外からのものとして認識してしまっているのだろうか? いや――
私は麗莉の方へ視線をずらす。困惑の表情で彼女は音楽室を見詰めていた。きっと彼女にも、ノクターンは聞こえているのだ。
これは紛れも無く現実の音であり、現実の旋律。二人共が、ありもしないものを認識しているはずがない。
それじゃ、誰が弾いてるんだろう?
思い出そうとする。管弦楽部で演奏したのなら、知り覚えているはずだ。きっと、ピアノ伴奏をしていた人。
けれど過去の記憶は薄れていて、その人の面影しか浮かんでこない。グランドピアノに向かって指を走らせる制服の少女。髪は長めで、丁度私と麗莉の中間くらい。何という名前だっただろう?
「思、い出し、た……」
不意に麗莉が呟いた。「何を?」と瞬時に私は尋ねる。すると彼女は私の方を向いて一言言った。
「そぅけ、んさ、んだ、よ」
最初は何を言われたのか解らなかった。それは、最近は耳にしていなかった言葉だったから。
“そうけんさん”と麗莉は言ったのだ。それはおそらく、ピアノを弾いている主の名前。そして、色褪せた思い出の中の少女の名。
奏鍵燐音(そうけんりんね)。そうけんと聞いて思い出すのは、その漢字四文字を冠する人。それは、同級生で同じ部の、でも長く会っていない少女。
♪♪♪♪♪♪♪
♯ 第七小節:消えたノクターン――作曲:葉月麗莉 ♯
《――やっと思い出してくれたのね》
突然どこからか、聞き覚えのある声が聞えた。幽(かす)かで、弱々しい女声が。それは今も響くノクターンの旋律とは違って、私の耳でもはっきりと捕らえられた。いや、鼓膜が捕らえた音ではなかったのだ。それは、頭の中で直接響いた音だった。
「だ、れ……?」
気がつくとそう呟いていた。相手に聞えているかもわからないのに。けれどきっと、聞えている。そんな気がしていた。
「麗莉にも聞えたの?」
答えが返ってくる前に、瑠璃の見開かれた瞳が私を射った。
「う、ん……。瑠璃に、も、聞え、たの?」
私は、確信しつつ瑠璃へ尋ねた。瑠璃は暫く瞳を泳がせていたけれど、やがて私に焦点を合わせて答えた。
「――聞えたよ。この声、保健室で聞えてきたのと同じのだ」
瑠璃に、助けて、と言った声。音楽室のピアノの中を見て、と言った声。その声が今、私にも聞えている。
《――瑠璃、麗莉、助けて。私よ、燐音なのよ》
同じ学年で、同じ管弦楽部で、ピアノと打楽器を担当していた少女の声だ。確かに、私が思い出した奏鍵さんの声だ。名前で呼び合える位までは親しくなっていた――私は何となく気が引けていたけれど――同級生の声には違いなかった。ついさっきノクターンを聴いて瑠璃の話を聞くまでは、どうしてか忘れかけていたのだけれど。
「今、音楽室にいるの?」
訝しげに瑠璃は疑問を口にする。その相手は私ではなく、奏鍵さんの声。
《そうといえばそうだし、違うといえば違うわ。あなた達から見れば、いないということになるのかもしれないけれど。私は、音楽室のピアノの中にいるの》
音楽室のピアノの中にいる? そんなところに、どうやって人間が入り込めるというのだろう。いや、あるいは人間ではないのかもしれない。
「どうい、うこと、な、の?」
不安と、少々の恐ろしさを胸に私は尋ねる。
《私にも、よく分かってはいないの。でも、あなた達ならここへ来れる》
返ってきたのは、拍子抜けするような答えだった。私と瑠璃なら? それに、“ここ”というのはどこなのだろう? 謎は深まっただけだった。
《ピアノの中を覗いてみて。私の声が聞えたあなた達なら見えるはずよ……》
何が? それに、どうしてピアノの中なのだろう? 無論、そんなところを覗き込んでみたことはない。何があってもおかしくはないけれど、そんなところに誰が何を隠すというのだろう。
「何があるの?」
瑠璃が声へと問い掛ける。
《――もう時間がないの、お願い……》
けれど声は、その瑠璃の問いには答えなかった。
《助けて……》
「ねぇ、どういうこと? 燐音?」
一言言い残して、それきり声は聞えなくなった。どれだけ呼びかけても、反応を示さなくなったのだ。
声が止むと同時に、ノクターンの旋律も消えた。鳴き始めたばかりのセミの声が、代わりに辺りに響き渡っていた。
♪♪♪♪♪♪♪♪
♯ 第八小節:夜の約束――作曲:葉月麗莉 ♯
沈黙が夜を包んでいる。セミの鳴き声は絶えず響いているのにそう感じるのは、今さっきまで頭の中で話し声が響いていたからかもしれない。それが消えたら、急に寂しくなったように感じた。
どうしよう。あの声は時間がないと言っていた。どうするべきなのだろう。目の前の高い校門を乗り越えて、校内に侵入するべきなのだろうか。今すぐ助けに行くべきなのだろうか。
そう思って校門を見上げる。高い。天まで届くとまではいかないけれど、とても乗り越えられそうもない高さだ。まるで、西洋の城の門のよう。校舎の半分程までを、見事に覆い隠している。
ここへ初めに来ようとしていたのは瑠璃だ。私はただ着いて行っただけ。決めるのは、彼女だ。
どうしようか。そう問い掛けるつもりで、瑠璃を見やった。すると、彼女も私の方を見てきた。目が合った。
「帰ろっか」
瑠璃が口火を切った。私は我が耳を疑った。ただでさえ悪い耳だ。聞き間違えた可能性だってある。
「助けたいのは山々だけれど……無理でしょ」
瑠璃は、校門を示していた。体育の授業は出てなくても運動神経はそこそこ良い瑠璃にも、乗り越えるのは無理なようだ。校門は縦の鉄棒が連なっているだけで、よじ登るにも足場がないからだろう。
「麗莉の言うように、明日にするしかないね。もう、帰ろう」
聞き間違えじゃなかったみたいだ。瑠璃はそう言って、校門に背を向けて私へ手招きしてくる。
「そ、れじゃ、明日、放、課後、音楽、室行こ?」
言いながら、私は瑠璃の隣へ行く。瑠璃は深く頷いた。
「朝休みと昼休みは鍵掛かってるしね」
厳重な警備も、時には不便だと思う。何も起らないのは、良いことだけれど。
瑠璃は、右手の小指を突き出してきた。
「約束。明日放課後、絶対音楽室に行こうね」
そう言って、瑠璃は口元だけで笑ってみせる。
「約、束だ、よ」
私も笑い返して、瑠璃の小指に自分の小指を絡ませた。
「さっ、帰りますか」
瑠璃は指を離すと、伸びをしながら言う。謎の声への疑問ですっきりしない気分を、紛らわそうとしたのかもしれない。
「うん」
私が短く返すと、私達は歩き出した。自分達の家へ向かって。
その夜の約束のせいで、平穏が崩れ去るなんて! この時、私は思ってもみなかった。
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■作者からのメッセージ
ご無沙汰しております、Rikorisです。
もう本格的に夏という感じですね。
一話一話が短いのは、小節という設定になっているからです。長くならない限り今回のようにまとめて投稿させて頂きたいと思っております。
まだ未完結の前作の方は、続きが書け次第投稿したいと思っております(打ち切ったわけではございませんので悪しからず)。
何だかこの作品、前作と雰囲気似ていますが(一人称にすると主人公の性格が似るそうな)、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
今回で前置き終了といった感じです。次回は表の方に出すことにしました。
感想、批評などいただけたら嬉しいですm(._.)m