- 『スズメの空』 作者:豆腐 / 未分類
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海に臨む小高い丘の上。そこに聳える年老いた大樹の枝が、彼の特等席だった。特等席で堪能する、寄せては返す波の音や、風が時折運んでくる潮の香りが彼の心を満たしてくれる。
ざわり、辺りの木々を揺らし一際強い風が吹き抜ける。乱暴な風を全身で浴びながら、彼はその小さな瞳を閉じ、危なげも無く翼を広げる。そして胸一杯に新鮮な潮の香りを吸い込み、吐き出す。幾度も深呼吸を繰り返しても、彼の胸の鼓動が落ち着く気配は無い。今夜、ずっと思い描いていた真の空へと挑むのだから。
ゆっくりと、その瞳を開く。そこに映し出されたのは、海へと沈み行く太陽と、太陽の周囲だけを残して夜色へと変わった海であった。彼は紅が徐々に夜色に塗り替えられていく様子をじっと眺めていた。そして、眼下の海が完全に紅を失い、虫たちが忙しなく歌い始める頃、彼の宿敵はその存在を強調し始める。知らず、枝を掴む爪先に力が入る。
彼は、親友から聞いた話で、真の空の存在を知ることになった。友が語るには、今見えている空のさらに彼方、人間たちが宇宙と呼ぶ場所がある。そして宇宙とは真空、即ち「真の空」で満ちているのだという。
その話を聞いた彼は酷く驚き、慌てた。それならば、今まで飛んでいた空は偽りの空ということになる。どうして俺たちは偽りの空でしか飛べない? 昼夜を問わず考えに考え抜いた彼の結論は、彼の親友を酷く驚かせた。
それは真の空は月に奪われた、というものだったからだ。根拠などは何処にも無く、ただ彼の直感がそう告げたのだ。彼は思う。きっとあいつが俺たちから、真の空を奪ったのだ。太陽は満面の笑顔のように、明るくこの世界全てを照らす。だけどあいつは、太陽ほどに輝かず、まるで嘲笑するかのような、かすかな光で照らすだけ。そのくせ太陽と同じ様にどっかりと真の空に居座っている。そればかりか馬鹿にするかのように、その姿を変え、さらには世界を照らさない夜さえある。追いやられた俺たちが、無様に足掻くさまなど見ていられない、とでも言うかのように。
親友が、それは違う、八つ当たりも甚だしい、第一夜まで明るいと落ち着いて眠れない、と何度説得しても、頑として譲らなかった。彼のあまりの頑固さに、親友はついに説得を諦めた。そんな親友を余所に、彼は偽りの空を抜け出し、真の空へと向かうことを決意した。月を、真の空を奪った宿敵と一方的に決め付けたままで。
彼は、幾度も繰り返した。遥かな高みを目指すための訓練を。
親友に助言を貰いながら、遠い真の空を目指して羽ばたき続けた。いつも自分が飛んでいる高さよりも上を目指すことは、想像以上に難しかった。自分の領域からほんの少しでも上空に飛び出せば、たちまち身体は重くなり、翼が思うように動いてくれなくなる。挫けそうな時は、月を見上げ、心を奮わせた。彼はずっと、月に挑み続けてきた。
「……今夜、俺は貴様の場所まで辿り着いてみせる」
威嚇するかのように、両の翼を広げながら、彼は呟いた。空では、厚い雲が庇う様に月を隠してしまっていた。
波の音、虫の歌声、夜の世界が奏でる音たちに混ざり、聞きなれた笑い声が、足元から闇に響く。
「スズメ、僕の友よ。相変わらず君は月を憎んでいるのかい?」
彼、スズメは無駄だと知りながらも、ついつい友の姿を捜す。案の定その姿は見つからなく、闇に視線を注ぎながら答える。
「当然さ。君が何と言おうと、あいつは俺の敵だ」
目で探すのを諦めていた彼は、再び響く、くつくつという笑い声を頼りにして、枝から飛び降りる。降り立った地上では、草のざわめきや、大地の香りが彼を迎え入れてくれた。
背後から身体に何かが圧し掛かってくる。それは、近くでなければ夜の闇に溶けてしまう、彼の友の、夜色をした翼だった。スズメは一つ、ため息を吐く。
「驚かせないでくれよ、全く。君のその身体はあまりにも暗すぎるんだ、カラス」
振り返ると、スズメよりもずっと大きな、彼の友がそこにいた。カラスは苦笑いを浮かべながら、まぁ、そう言うなよ、と翼をすくめる。風が、二羽の間をすり抜ける。雲は出ているが、瞬く星たちの全てを隠すほどではない。カラスは、そんな夜空を仰ぐ。
「それにしても、いい夜だね」
ああ、と短く頷くと、カラスと共に夜の世界に浸る。大樹の上では気づかなかったが、地上では虫たちの歌に合わせるように、草は揺れ、波はその声の大きさを増して、共に歌っているかのようだった。しばらくその歌に聞き入っていると、さくさくと草を踏みしめる音。気づけばカラスは歩き出していた。……上空に、強い風が吹き始めたのだろうか。月を隠していた厚い雲が、次々と剥ぎ取られていく。
カラスはその足を止めて、別に引き止めるつもりはないけど、と前置きをして海を背負いスズメと向き合う。
「真の空に辿り着いたとしても、人間が作った鉄の翼でなければ死ぬんだ。それに、自分の領域よりも上の空が、どれだけ危険かは君だって知っているだろう?」
どんどんと月を覆う雲は剥ぎ取られていき、月が、再びその姿を現す。
銀色の、淡い逆光を浴びながら、カラスはその翼を広げる。
左片方だけの漆黒の翼。
無残に変わり果てた右の翼は、真の空を目指した代償。
「辿りつけても、途中で朽ちても、得られるものなんて……」
何も無いんだ。
そう続くはずだったカラスの言葉は、スズメに遮られる。
「何も得られず、そればかりか右の翼を失ったけれど……」
スズメは、友の朽ちた翼を。
「もう、偽りの空でさえも飛ぶことは出来ないけれど」
続いて、宿敵が待つ空を。
「それでも……、それでも君は、後悔なんてしていないだろう?」
最後に、親友の瞳を見つめながら、スズメは問いかけた。
強い風が吹き抜け、夜の歌声が最高潮を迎える。
カラスはその問いには答えず、スズメに背を向けて左の翼で月を指す。
「最初から上に飛ぶんじゃあない。しばらくは自分の高さで、海の彼方へと向かうんだ。すると、一際強く海から空に向かって吹く風に気づくだろう。その風に乗って、一気に真の空を目指すんだ。君の宿敵を目印にして、睨みながら飛べばいい。……そろそろ行った方がいい。いつまた雲が、君の宿敵を隠してしまうかわからない」
わかったよ、と呟き、スズメは飛翔する。親友にありがとう、と残して、彼は海の彼方を目指す。
スズメの姿が遠い空に消えると、カラスは、くつくつと笑う。
「……参ってしまうよ。本当は君を引き止めに来たはずなのに。そのための言葉を幾つも考えてきたのに。逆に助言をしてしまうなんて」
夜の歌は、もう聞こえない。風も無く、少しだけ寒い。彼の友は嫌っていたが、カラスは、あの儚げな銀色のことが嫌いではなかった。
「あんな風に言われちゃあ、止められないさ。僕は、君の言う通り、後悔なんてしていないんだもの」
愛しげに、もう動いてくれない右の翼を見つめてから、左の翼だけで、風を撫でるように緩やかに羽ばたく。スズメに追い風が吹くようにと願いながら。
ゆらり、大気がねじれ、月に向かい優しい風が吹く。
大樹の傍らで羽ばたく、片羽のカラス。月だけが、じっと彼を見つめていた。
カラスは、何よりも思索を好んだ。だから、親友が月を目指して飛び立ったときも、親友の月に対する挑戦は、カラスにとっての思索と同等の大切なものなのだろうと考え、固く引き止めることはできなかった。
彼の旺盛な好奇心は、思索の種を求める心が生み出した二次産物である、と彼は分析する。真の空は、そんな彼にとって異質な存在だった。普段ならば、実際に行くまでもなく、思いを巡らせるだけで良かった。それなのに、好奇心はどんどん膨れ上がり、遂には彼を飛び立たせ、片羽と引き換えに、真の空への遠さ、自分の意外な一面を見せ付けた。それは、彼にとっては充分に価値のあることで、親友にも言ったように後悔はしていない。彼はただ、更に大きな思索を求めるが故の行動だろう、と結論を出した。
そんなことをふつふつと考えていると、寂しげな夜風のせいだろうか。カラスは、不意に思い出す。いつだったか、そう遠くない過去。彼の親友の、月に対する不思議な感情について、不確かな答えを出した夜のことを。
ざわり。ざわついたのは風か、それとも、カラスの心か。
少なくとも、彼らが出会った頃には、既にその断片が垣間見えてはいた。スズメは毎夜月を睨んでは、文句をこぼしていたのだ。しかし、当時のカラスには、彼は夜になると機嫌が悪くなるようだ、という程度の認識を持つに過ぎなかった。その不可思議な感情を知ることになったのは、カラスが真の空について語ってから、二、三日が過ぎた日のこと。彼が、真の空は月に奪われたのだ、と言い出したその日から、カラスの思索が始まった。
ある、とても静かな、月の見えない夜。彼は尋ねてみた。
「君は、月を憎んでいるようだが、今夜のような月の見えない夜が、一番機嫌が悪いようだね。それは、一体どうしてなんだい?」
スズメは、質問の意味がよくわからない、と言った。
「だって、そうだろう? 今夜は君の大嫌いなものは見えないんだぜ。僕が君だったらこんな夜は、最高の気分になると思うんだけど?」
彼は、ううん、と大げさに考え込んだ。それから、ぽつりと呟いた。わからない、だけど、あいつがいない夜は一番胸が苦しいんだ。
今もまた苦しそうに語る、彼の心情を表すかのような寂しい風が吹いた。波の音もまた、泣いているようであった。
胸が苦しい? カラスには、それが憎悪の感情に相応しいものとは思えなかった。
そう言えば、カラスは思う。
「ねぇ、君は誰かを憎んだことがあるかい?」
不思議そうにカラスを見るスズメに、月以外でね、と補足する。スズメは答える。ないよ、と。
「それじゃあ、誰かを好きになったことは?」
君のことは嫌いじゃない、彼は答え、カラスは首を振る。
「そうじゃなく、雄が雌を求めるような、好き、は?」
そういった経験はないよ、即答する。
カラスが空を見上げると、当然ながらそこに月は無い。大樹に新しい葉が芽生えつつあることだけが見て取れた。
「……まだ、聞いたことがなかったね。君はどうして、月が僕たちから真の空を奪った、と考えたんだい?」
君に会うずっと前から、月を見る度に嫌な気分になっていたんだ。カラスに倣い、彼は宿敵のいない闇を見上げる。
「例えば?」
上手く、言えないけど、胸が締め付けられるような……とにかく、すごく、苦しいんだ。だから、君から真の空の話を聞いて考えたんだ。僕の本能はそのことを覚えていて、だから、月を見る度に悔しくて、悔しくて、こんなにも胸が苦しくなるんじゃないかって。
カラスの中に、一つの考えが浮かび上がった。彼の月に対する思いは、憎悪とは正反対の感情ではないだろうか? 彼はその思いを知らぬが故に、全く逆方向の感情として捉えてしまったのではないか? ……しかし、それが正しいと断定できる要素をカラスは持たない。彼は迷いに迷ったが、結局、親友にその考えを伝えはしなかった。答えは、親友の心の中だけに存在していて、僕の考えが正しいとしても、きっとその答えは、彼自身が導き出すべきものだ、と思ったからだ。
ああ、ため息を漏らし、空を仰ぐ。
僕には、彼の心の中はわからないけれど……。もしも、僕の予想通りに、彼が自分の本当の気持ちを誤解していたとして。僕もまた、それと同様の誤解をしていないと言えるのだろうか。僕もまた、誰かを憎んだことも、愛したこともないのだ。
僕は何故、真の空を目指した? 辿り着いてしまえば、答えは導き出され、尊い思索の種が失われるというのに。真の空の遠さを知った? 自分の意外な一面を知った? そんなものは、誤魔化しではないのか?
僕が真の空を目指した本当の理由は、
僕が真の空に、恋焦がれていたからではないのか?
周囲を包む闇は深く。虫たちの寂しげな歌が微かに響く。
不思議と、哀しくも、切なくもなく、愛しげに遠い空を眺める。
もう、届かない彼方の空を……。
寄せては返す、波の音。太陽が、もうすぐ沈む時間帯であっても、その暑さは変わらない。寧ろ、さらに暑さを増したのではないだろうか、などと考える。隣の見知った青年が小さく息を吐き出したのを、彼の耳はかろうじて捉えた。
「夕暮れ時になると、さすがに少しは冷えるもんだな……」
その言葉に、思わず苦笑してしまう。横目で見ると、青年は不機嫌そうに、海に向かって石やら貝殻やらを投げつけている。彼は、急かすように響く蝉の声に促されて、立ち上がり、砂を払う。
「……それで?」
不機嫌そうな青年の言葉。それが、何を意味しているのか理解できず、そのことを視線で訴えてみる。
「だから、お前が見た、その夢の続きだよ。それからどうなったんだよ? カラスがそれからどうしたか、とか、スズメはどうなったのか、とか。あるだろ? 色々と」
青年は、彼の意図を汲み取れたようだ。アイコンタクトというものも、案外馬鹿にできないな、などと考えながら、ああ、と相槌を打つ。
「続きも何も、そこで終わりだよ。……だけど、あの夢に出てきた奴らはさ、僕たちのことなんじゃないかな。君なんかそのまんまだし。だから、気になるなら、続きは君が創っていけばいいんじゃないの? ……スズメ、僕の友よ」
彼、橘 玖朗(タチバナ クロウ)は、くつくつと笑いながら、からかう様に、そんな台詞を言ってみた。スズメと呼ばれた青年は、みるみるその顔を赤くしていく。
「だから! その渾名はやめろって言ってんだろ。……まぁ、百歩譲って俺をスズメとしてだな。そしたらお前はカラスだろ? お前の右の腕はぴんぴんしてるし、第一、色気も何も無い、宇宙なんぞに興味なんて欠片も持ってねぇだろうが! それに、俺だってあんな岩の塊に惚たりなんかしてねぇんだよっ!」
青年、瀬戸 涼明(セト スズアキ)は、うっすらと輝き始めた満月を指差しながら叫ぶ。どうやら、幼少の頃からの渾名で呼ばれたことが、気に入らないらしい。それとも、もしかしたら、意識はしていなくとも、玖朗が言おうとしたことに、気づいたのだろうか?
玖朗は再び笑い、スズメは不満げに足元の砂を蹴り散らす。
水平線の彼方では、太陽が今日最後の力で、海を紅く染めていた。
さくさくと、小気味良く砂を踏みしめながら、僕たちに近づく気配。
「玖朗、スズメ。さっさと帰るよっ! あの駐車場さぁ、無料だと思ってたら有料なんだって。そういうわけだから、割り勘でよろしく!」
元気よく繰り出された彼女の右手は、手刀やチョップではなく、一応はごめん、という意思表示の類なのだろう……と思いきや、そのままスズメの顔面に命中する。
いつもの喧嘩を始めた二人に、先に行ってるよ、と残し駐車場を目指す。
彼女、真空 満月(マソラ ミツキ)は、僕とスズメの共通の友人であり、有り体に言えば、幼馴染というものだ。
もしも、僕たちがスズメとカラスだとしたら。
彼女は、カラスが愛した真の空で、同時に、スズメが目指した月なのだろう。
ゆっくりと、右手を延ばす。夢の中の自分が目指した、遥か彼方の真の空へと。腕はどこにも届くことはなく、ただ虚空をすり抜け、何かを求めるかのような掌を、風がするりと横切った。彼方では、雲が一つも見えない空で、星たちが輝いていた。
なんとなく、右手をポケットに隠した。振り返ると、月とスズメは賑やかに喧嘩を続けている。彼らの上空を、すらりとウミネコが通り過ぎた。
もしも、あの夢の続きがあるとしたら。
きっとスズメは月まで辿り着き、自分の感情の本当の名前を知るのではないだろうか。
そして、カラスは悔しがりもせずに、親友を祝福し、物語に幕が降りるのだ。
……ここから、二人までの距離は二十メートルもない。だけど、僕にはあまりにも遠すぎる。
そこに広がるのはきっと、スズメがあの夜に飛び越えた、真の空なのだろう。
了
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2005/05/06(Fri)20:56:29 公開 / 豆腐
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■作者からのメッセージ
四苦八苦しながらも、なんとか書き上げることができました。ご意見、感想などを頂ければ幸いです。ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。