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『耳から鰻  一〜四』 作者:恋羽 / 未分類
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            一、耳から鰻 

 念願の一人暮らし。それが今、現実的に僕の目の前に横たわっている。
 いや、それはむしろあまりに現実的過ぎて、長年の想いもたった一週間で醒めてしまうほどに呆気無く俺の手の中にあった。

 見えているのは小さな台所に溜まりどこか芸術的な構図を形成している洗物と。
 荒んだ生活を送っていることを一目で理解させる散々に埋まった灰皿の吸殻と。
 次第にインスタント食品に移行していった食生活が垣間見える溜まったゴミと。
 それから僕が項垂れかかる壁の正面に掛けられた薄汚れて所々ひび割れた鏡と。
 そしてそこに映る疲れ果てて今にも死んでしまいそうな程やせ細った俺の虚像。
 
 ……現実はこんなものかもしれない。それが随分長いこと自分の生活を改善しようとしていた俺の導き出した、薄汚れた結論。しかしそれが結局、現実という奴なのだろう。俺はそう思うことに決めた。
 立ち上がるのも億劫で、俺は朝日も夕日も望めない隣の家と数十センチまで迫った窓の方を見つめる。家賃四万八千円だと、こんなところがせいぜいなのだ。そしてそれ以上は俺の収入ではまかなえなかったし、この年になって親を頼るのもまたどこか申し訳ないような気がした。
 薄暗く、湿っぽい春のこの街。その湿度は俺に、否、俺の部屋に致命的な打撃を与えている。……あちらこちらの壁に我が物顔で蔓延る、黴だ。黒黴と緑の黴と、そしてゴミ周辺では黄色の粘菌らしき生物も見え隠れしている。ここは生物実験室か、と見紛う程に我が城は微生物共の脅威におびやかされていた。
 しかし我が城以上に、俺自身ももっと強力な攻めを受けている。
 所謂兵糧攻めという奴だ。……これほど残忍な攻城法は他にあるだろうか。おかげで俺は逼迫した状況に追い込まれている。
 ……まあ自業自得、だ。今月のバイト代が入るまでの期間を考慮に入れず、好き放題金を使い、遊んだ。仕舞いには親から渡された「どうしても困った時開きなさい」封筒にまで手を掛けてしまったのだから、それは蔓延る黴や粘菌や、古代からその姿を変えない原始昆虫――時折姿を現すようになった――のせいでもない。それは結局俺の計画性の無さのせいだ。
 だが、それでも。このところは金が無いという理由もあるが、どこにも遊びには行かず、バイト代が入るのを今か今かと待っていた。そして今回のこの失敗の反省を生かし、もう二度と不真面目で自堕落な生活は送らない、と決心していたのだ。
 しかし、それがどうだろう。どうにも俺は要領が悪いらしい。それを痛感させられる。
「……二十三円……」
 俺は財布――モノグラムのデザインの、よく若者が持っている代物――の小銭の部分を覗いて、疲れた声を漏らしてしまった。……これほど悲哀感を漂わせる二十二歳が他にいるだろうか。いや、探せばいるのだろうが。
 二十三円で何が買えるんだ。
 二十三円でどうやってあと二日生き抜けと言うんだ。
 二十三円で今時まだ口座振込みじゃない給料を電車で三駅向こうのバイト先で受け取るにはどうしたらいい。
「二十三円で……」
 掠れた声が喉から零れているのに気付くと、俺は溜息でその言葉を紛らせた。
 水を飲んでいれば一ヶ月は生きられる。そう聞いて試してはみたものの、やはり仕事をするとなれば話は全く別なのだと悟った。まして肉体労働ならば尚の事。そういえばその話は船の上のことだったかもしれない。
 俺は、毎日をモヤシと鶏の胸肉で過ごした。米などという高尚な物は俺の身近には存在しない。存在してはいけないのだ。甘えてはいけない。味付けは塩のみ。これがなかなか美味く、体中が潤うような気がした。
 だがその至高の美味ですら、もう味わえなくなってしまったのだ。二十三円ではモヤシすら買えない。いや、安い店ならば買えるのだが、新聞の折り込み広告無しに近所のスーパーを渡り歩くだけの意欲も、最早俺の体から消え失せてしまっていた。近所、とはいうものの最寄のスーパーですら二十分以上かかるのだから。向かう間に倒れてしまうという結果を招く可能性は十分にあった。
 だが犯罪に手を染めるまでの度胸や無謀さも無い。それはこれまでの人生で培われてきた倫理観によるものかもしれない。
 しばらく思考を巡らし、その後再び溜息をつくと俺は壁に頭を付けたまま横に倒れこむ。無駄な体力を使うのは賢明ではない、そう判断したのだ。
 頭を安物のカーペット――ピンク色のリサイクル品――に付けると、もうどうでもいいような気がしてきてしまう。もしこのまま死んだとしてもきっと後悔などしないだろう、と考えてしまうほどに。

 その時だった。俺の体が確かに異常を伝え始めたのは。
 まず指先が、凍るように冷たく微かに震え始めたのだ。
 次には腕や、足先までもが震え始めて冷や汗が流れる。
 それから首、顔と来てその感覚は目的地に蠢き至った。
 ニュロン、と不気味な感覚が俺の耳の内で暴れ始める。
 起き上がっては暴れてみても、全ては耳の中のことだ。
 なんだどうした、と自分の耳に問い掛けても答えない。
 むずむずニュロン、な感覚が俺の耳朶に至って止まる。

 びちゃびちゃ、と水音。それと共に耳から床に何か重い物が落ちる音。
 右耳の中の粘液のような不気味な水に鳥肌を立たせながらも、俺は薄目を開けてそれを見た。
 それは……、鰻。中々立派な鰻が、カーペットの上でうねうねと動いている。黒い背と青いような白いような腹が印象的であった。
 俺は呆気に取られるばかりだ。
 なんで突然鰻が……。それも耳から、生きたままで。
 一体、何なのだ。どういった現象なのだ、これは。
 俺は、うねうね動き、戻るべき水辺を求めている鰻を見ながら、少しの間考え事をしていた。
 そもそも。人間の耳から鰻が出てくるものだろうか。もしそうだとしたなら一体何故に。
 鰻はカーペットの上に蛞蝓の様な粘液を残しながら地道に蠢いている。
 そんなことはありえない、そう結論付けようとして自分がまだ二十歳そこそこの世間知らずであることに思い至る。思えば先程まで空腹に喘いでいたのも、それが原因ではないか。
 そんな思考はお構い無しに、鰻は中古品なりに新しいカーペットに己の粘液染みた体を擦り付けている。
 ……少しは常識がある方だと思っていたが。これはもしかしたら自然現象なのか。本当は誰しもが経験することなのかもしれない。
 そう考えて、はっと気付く。
 もしかしたら、あんなに好き放題遊んでいるフリーター達が食べているのは、本当はこれなのではないか。それだから一ヶ月の収入を全て使い切ることが出来るのではないか。そう考えれば合点がいく。いや、それほど明瞭な論理ではないが、しかしそう考えられないことも無い。
 そうして、自分の今の現代社会では考えられないほどの空腹を思い出すと。
 俺は。

 その掴み所の無い鰻を生きたまま強引に台所へ連れて行き
 丁度実家から持ってきていたアイスピックを鰓の横辺りに
 一突き深々と突き刺し悶える鰻をひとしきり鑑賞してから
 腹を割き腸を取り出して軽く水洗いをしてまな板に置くと
 腹の方から皮一枚を残すようにして骨引きを少し雑に行う

 味付けは塩。塩焼きだ。今まで使ったことの無い魚焼きグリルに鰻を寝かせるとまるで火葬の時のように哀しさを感じつつもその蓋をそっと閉めた。
 その時からだ。俺が変わったのは。


 その日から俺は、他人を食い物にすることを何とも思わない人間になった。親兄弟に対してもすまないと思うことも無い。俺は自分が生きているだけで精一杯なのだ。親や兄弟はもちろんのこと、他人様に構っている余裕など自分には無いのだと気付いたということである。
 そしてそれが幸いしたのか、俺は今は管理が行き届いたスペースで暮らしている。あの荒んだ環境へ戻る気もさらさら無い。一日三度の飯と暖かな寝床。それが与えられている。……大した苦労もせずに手に入れたこの幸せに、俺は心から満足している。

 だが俺は毎日のように考えていた。
 あの鰻は一体なんだったのだろう。
 あの鰻を食った事に後悔は無いが。
 何故にか耳から現れた鰻は不味く。
 疲れ果てた味がした気がするのだ。

 しかし暗い鉄格子の中に密やかな喜びを感じている俺にとっては、今はどうでもいいことなのだけれど―――。





           
二、鰻と女

 木漏れ日。不可思議で一瞬ごとにその表情を変える影は、夏着に包まれた私の体に気まぐれな模様をつける。緑の芝生は上質の絨毯の様に私の眼前を染めていた。
 私は肩まで伸ばした栗色の髪を風に靡かせながら、ただ一人僅かに冷ややかな木陰に座り込んでいる。遠くには様々な遊具が見え、まだ幼いのだろう子供達が遊んでいた。その無邪気さを眺めていると、ずいぶん長い間忘れていた優しい感情に心が満たさせる。
 しかし私はそう長くその微笑ましい情景を眺めていることは出来なかった。
 それは、奥村という存在が私と子供達の間に滑り込むことによって。

 ぬめり。にたり。舐める様な視線に。
    ぐらり。がたり。心が悲鳴を上げる。
 ぬめり。ふらり。男の視線が舐める。
    ぐらり。きしり。壊れた音がした。

「よく来てくれたね」
 その笑みは私の露になっている腕に鳥肌を立たせるのには十分だった。
 ……奥村。
 この男の顔を見る度に、私は自分の体がいかに汚れているのかを思い知らされる。
「来てくれないかと思ったんだよ」
 ――そんな筈、無いじゃない。来ない訳、無い。
 昨日の仕事の後に携帯電話が珍しく公衆電話からの着信を告げた時、私は不審に思った。……気付いてはいた。彼と最初に話した時私の番号の書かれたメモを、いかにも大事そうに受け取ったことを覚えていたから。
 『この間の証拠を持ってるんだ。それと交換で、もう一度、君と』
 汗とは違う物でぬめぬめと濡れた肌の質感。不健康な浅黒い肌。私は思わず後ずさる。
 醜く痩せ細った体つき。骨張った鋭角の顔立ち。所々に残った無精髭が不潔感を助長している。
 そしてみすぼらしく萎れたシャツと皺だらけのスラックス。吐き潰した革靴が妙にてかてかと光っている。
 何より、その表情。人間味の欠片も無い、ぬめりとした生温い笑顔。気味が悪い……。
 私は両の二の腕あたりを少し強く握った。自分自身を抱きかかえる様に。そして寒さに凍える様に。少し遅れて、肩に掛けたポーチが脇腹を突く。
 その私を見て、奥村は笑う。
「相変わらず綺麗だ。君ほどの女はなかなかいないよ」
 四十を超えた奥村の目には、その年代特有のいやらしさが込められている。
 私はとにかく全身の震えを抑えつけようと、指先に力を加えた。肌からは暑さによるものではない汗が噴出し、頭はすでに平静さを失う寸前だった。
 その私の腕に。

 ぬめり。ぐちゃり。触れる男の指。
    ぐらり。くらぁり。薄れゆく意識。
 ぬめり。にちゃり。この男の指先。
    ぐらり。ふるふる。怯える私の心。

 気を失う寸前、辛うじて奥村の声を耳が拾い取った。
「早速、行こうか」
 私の腕を掴んだ奥村は、一体どこへ向かうのだろう。私にはわからない。
 否。分かっている。理解して、そしてこの公園に私は赴いたのだ。だが心は理解できていなかった。
 向かう場所は、あの日と同じ様に。何十年前に建てられたのかすら想像も付かない程に薄汚れ、そして鬱蒼と茂った林がその姿を重く包んだ暗い家。子供の時分であれば幽霊屋敷とでも呼んだであろうその建物。つまり、奥村の家。
 真新しい希望に満ちた住宅街を抜け、細い川に架かる橋を渡り、しばらく歩いたならその姿を見つけることが出来る。
 そう――、あの日私はあの家で。腐りかけた畳の上で。遥か遠くに都会の騒音を聞きながら。――粘着質な奥村のあの腕に抱かれた。……強引に。巻き付けるようにいやらしく触れる指先は粘り気を含む人とは異なる生物の様に、私という人間を悉く甚振り尽くした。
 昼の陽の下においてなお薄暗く、得体の知れない生き物達が蠢く雑木林。その雑草の群れを裂いて伸びる獣道の様に細い土の地面を辿り、奥村と私は再びあの日、異世界を織り成した古惚けた住居に行き着く。
 土に成りかけた木片が折り重なっただけの様な簡素な外壁は全てを苔と菌類に包まれ、かつて瓦だったのだろう屋根は散々に朽ち果てていた。誰がここに、人が棲んでいると思うのだろうか。
 私の腕を放すことも無く、奥村はその家へと私を連れ行こうとする。微かに覗いた奥村の顔には、人とは思えない顔立ちの上に異常な心理を浮かんでいた。
 中に入れば、そこはまるで土蔵の様に暗く、一切の光源は今入ってきた腐りかけの戸口だけ。この古代めいた住居には、家具の様な物が一切無く、湿り切った布団と、この場所には些か不釣合いなプラスティックの衣装ケースが置かれているだけ。……しかしそれを見ても私の心に彼に対する同情心などは湧いてはこなかった。
「……さあ」
 彼は私の体を布団の方に押しやり、慣れた手つきで蝋燭に火をともすと戸を閉めた。
「あの時の様に」
「……先に、証拠という物を」
 私は覚悟をしたように今日初めて奥村に言葉を投げた。
 ああ、と言いながら奥村はポケットからか小さな布地の物を取り出し、私の方に向ける。
 ……私の下着。あの日、逃げる様に飛び出した時に残していった物。
 ――こんな物が、何の証拠になるの。
 私の下着を、一体誰が私の物と判断できるのだ。そんな物、ありふれたデザインで少し探せばどこの街でも手に入る。そんな事で私をこうして、連れてきたのか。私はその子供の様な脅しに、笑うよりもこの男とそして自分の低脳さに腹が立った。
 それ以上に……。
「さあ」
 男は迫ってくる。楽しげに。

 ぬめり。ぬめぇり。舐める視線。
    ぐらり。…………。睨む眼差し。
 ぬめり。ぬめぇり。近づく足音。
    ぐらり。……。取り出す刃。

 ひっ、と短く上がった太い悲鳴。
 私の手に握られたサバイバルナイフ。
 
 ぬめり。ふるふる。震える男。
   ぐらり。にやぁり。笑った私。
 ぬめり。さらさら。流れる液。
   ぐらり。うふふふ。笑った私。
 ぬめり。ぬめり。

 首を一突きにして、倒れたところをまた刺す。流れる血液は止まる素振りを見せず、ただその勢いを増すばかり。暗がりで蝋燭の明かりに照らされるその黒く濁った液体を見つめていると、なんとも表現し難い感情が巻き起こった。
 思えば私は。何であの川縁に立って泣いていたのだろうか。何でこの男と言葉を交わしてしまったのだろう。何で彼の誘うままにこの家へ足を踏み入れたのだろう。そして、何で――。
 私の体はもうすでに奥村というこの男に支配されつくしていた。私はその恐怖に震えることしか出来ずに、ただ彼の常人とは異質な腕に抱かれる事を受け入れるしか無かった。
 それは私に大きな恐怖と、そして、……ほんの少し――否、強大な――。
 私が自分の理性と動物的本能との間で悩んでいた、その時だった。

 ぬめり。ぬめぇり。男の体を成していた物が。
 ぬめり。ぬめぇり。その細く長い体が伸びて。
 ぬめり。ぬめぇり。何本もの太い糸のように。
 ぬめり。ぬめぇり。蠢く鰻の塊となったのだ。

 やがてそれぞれが生命を持った鰻となり、地面にのたうちまわる。私は絶句した。
 なんと奇妙な光景だろう。何匹もの鰻が暗い家の中を這いずり回り、その鰻が部屋中に散るのだ。気味の悪い絡まりあった異常な状況は、私を困惑させ、意識を混濁させ、そして吐き気を催させる。
 やがてその数が段々と増す様な感じがし、しかし鰻――奥村の成れの果て――を踏み越えて入り口に向かう勇気など、私には無かった。例えそれが彼のほんの一握りだとしても、私にはぞんざいに扱う事は出来ない。

 膝の高さまで増えた鰻達。その感触に意識が遠のく。
 腰までも嵩を増した鰻達。私は強い圧迫感を覚える。
 胸にまで至った鰻の群れ。増幅した圧迫感にあえぐ。
 口、鼻を包む川魚の臭気。私は埋もれながらも考える。

 ――奥村は、鰻だったの。
 ――私は鰻を。
 ――愛してしまったの。
 
 私は朦朧とした意識の中で、奇妙なまでに充足した気分を味わっていた。
 それはきっと、究極の愛。そして最大の肉欲の調である。
 しかし私は肉体と精神それぞれの愛が物理的な死に瀕した時、ふと考える。
 究極の愛は死にも勝る存在であるのかと。
 ――私は一体、誰であったかと――。

 ぬめり。
 ぬめり。




          
    
            三、嘘は鰻の様に

 優美な印象を受ける街並――。車窓を流れていくそれは、深夜に差しかかった今どこか寂しげであったが、しかしそこから確かな鼓動が車を走らせる僕の所まで届いてきていた。
 ハンドルを握る手は汗ばみ、腰の辺りは同じ物で殆ど濡れてしまっている。
 ――この手に触れてみて。
 僕は少し落ち着こうとゆっくりと息を吐くと、彼女がそう言った時の情景を思い浮かべる。
 秋の肌寒い夜、白い壁が発光でもするようかのだった彼女の家。驚くほど綺麗に整理された彼女の部屋。
 それから。……私は思いを巡らす。
 真智。まるで白粉でものせたかのような、白い顔立ち。それが昔の真智に対しての僕の感想だった。
 だが彼女は今日あの部屋で語ったのだ。僕の中でかつて彼女に憧れていた感情は脆くも崩れ去った。それは突然の出来事でもあり、しかし必然と言っても支障無いことだったのだ。
 今日五十里真智と僕の間に訪れたこの複雑な何かは、何年も前に僕自身が抱いた淡い愛情の決して早くは無かった結末であり、そしてそれはおそらく後の僕の何物にも代え難い大切な財産なのだろう。
 思い出は美しいまま。だが爛れた僕の中の何かは腐れ、結局僕はその痛み切った体を引き摺る様にこの道を走るしかないのだ。……救いを求める彼女の為に。
 なあ、真智。君は本当に―――。




 風が様々な色を為し、秋の木枯らしとやらが冷たく吹きつけていた。
 車をとめ、街を歩いていた僕はその街並に酷く戸惑ってしまっている。
 何年も前に家庭の事情で出て行った街。その所々に自分の知らない建物や自分の知らない顔が溢れ、僕は何とも言い難い違和感と、時の流れの早さを痛いほどに感じていた。どこか昔ながらの空気を残していたあの街の影はどこにも見出せない。
 友達と通った学校への道や、学校。木造の校舎など見る影も無く、新設されたのであろう鉄筋コンクリートの学び舎は実に尊大に僕を見下ろしていた。
 あの頃のほぼ唯一の楽しみだった駄菓子屋での買い物も、今その跡に立っているマンションでは叶いそうに無い。駄菓子にむしゃぶりつく、薄汚れてはいるが性根の素直な子供達も見当たらなかった。
 見えるものは全て現実や時の流れに染められ、静かに一人思い出に浸る為にこの地を訪れた僕には残酷だった。
 閑散としてかつて賑わっていた頃の面影すら残さない商店街。シャッターが下りている店もあちらこちらに見られる。
 街を歩く人々の表情にも、現実的な痛みが薄らと見え、僕はやるせない気分になってしまった。思い出の中の街には意味も無く笑顔が溢れていて、たとえどんな窮状にも屈しないような芯の強さが感じられたのに。
 ――時代は、僕を置き去りにしていくのか。
 僕は浅はかな自分の現実逃避を、今更ながら笑い飛ばす。都会の生活に疲れたから、心地良い思い出に浸ろうなどと、本当にばからしい。誰がお前の心などを気にして昔のままでいるものか。
 時の移ろいに打ちのめされた僕はただしばらく立ち尽くし、しばらく考えてから歩き始める。
 目的地は……自分でもわからない。わからない、というのは。
 僕の足自体が自然そこに向かっていた、ということだ。かつて歩いた街並とはずいぶんと変わってしまったが、僕は昔と変わらない道路の様子から記憶の糸を無意識に手繰り、そして昔と全く同じ姿を残しているその家に辿り着いたのだ。
 その家は……、周りの街並が古い姿を必死で脱ぎ捨ててしまおうと苦闘している横で、それを嘲うようにただ同じ姿でたっていた。
 しかし、それはかつての街並に溢れていた古臭く黴臭い建物ではなく。そして今の街に立ち並ぶありふれた建物でもなく。西洋的で洗練されていながら古風であり、重厚感がありながら柔らかに自らのありのままの姿を残していた。
 その古めかしいが真新しい木造建築は、僕を見下ろしながら同時に天をも見つめている様に思えた……。
 その家の門柱に備えられた呼び鈴を人差し指で押すと、改めて僕は自分がどのような経路を辿ってここにいるのかを考えている。
 しかしその考えが結論を持つ前に。僕は自分の犯した失敗に気付かされてしまう。
 彼女がこの家にまだ住んでいるとは限らないではないか。
 だが、それはどうやら無駄な考えだったらしい。しばらくして門柱の奥から現れた顔と白いワンピースを見て、僕は溜息と安堵を吐息に混ぜた。そしてそれは彼女を呼ぶ声になる。
「真智」
 変わらない。かつて少女と呼ばれる年頃だった彼女の顔は大人の女になってはいたが、しかしその少女の頃の名残は確かに真智の顔の中に残されていて、それは今日僕がこの街に求めていた満たされない願望を埋めて余りあるものだった。なにより僕の無意識がこの家へ足を運ばせたのはそれが目的だったのかもしれない。
 新ちゃん、そう呼ぶ彼女の細く柔らかな声からは驚きのような表情は見出せず、まるで僕が――何年もの年月を経て大人と呼ばれる年齢に達した僕が――ここにいることが必然であるかのように、自然に僕をそう呼んでいた。その声も昔とは幾分変わって、生きる事の苦悩を含んでいるような気がしたが。
「どうしたの。入ってきて」
 彼女はそう言うと僕に背を向けて家の扉をくぐり中へと入っていった。
 しかし僕はその真智の表情に僅かな違和感を覚えたのだ。
 ――何故彼女は僕がこうしてここにいることを変に思わないのだ。
 普通ならば驚くなり、若しくは近況を聞きながら家の中に誘うのではないか。何故彼女は僕がここにいることに対して何の感情も抱かないかのように家へ誘い入れようとするのか。
 だが、かつて真智と共に過ごした日々を思うと、その違和感も大した事ではないのかもしれないと納得してしまう。……彼女は些か、特異な種類の人であったのだ。
 何も奇行を繰り返していた、などという意味ではない。彼女の名誉に誓って違う。
 そう、言うなれば彼女は落ち着き過ぎていた。それが彼女の特異さであり、そして僕が愛した女性の魅力的な一面である。更に言えば、彼女から離れる時に僕が真智に言った別れの言い訳……。
 僕は鉄製のこじんまりとした門を通って彼女の家に足を踏み入れた。
 

 それは不思議な感覚だった。
 目の前に広がる彼女の部屋。それはあの懐かしい日々のまま、そこにあった。それは少し異様な光景だった。
 だが。僕はその部屋をまじまじと眺める事は出来なかった。それ以上に、僕の方を真剣な眼差しで見つめる真智を無視する事は出来ないから。彼女はベッドに腰掛け、立ったままの僕を見上げている。
「久し、振りだね」
 僕の言葉に彼女は何の反応も示さない。ただ僕を見つめるばかりだ。
 その視線が僕にはどうにもかつて彼女の元を去っていった自分を責めている様にも思え、なんとも言えない不快感が心を満たしていた。
 僕は部屋の扉の前に座りこんだ。……真智との距離は三メートルというところか。だがそれ以上に心の壁が彼女と僕の間に立ちはだかり、近付く事は許されない様子だった。
「……何も言ってくれないのか」
 彼女は僕の問い掛けに答える気も無いらしく、ただ睨む様に見ている。
 僕は何も語り掛ける事は出来なかった。それはつまり、彼女と僕の間に重い沈黙が訪れることに直結する。女性らしいとはいえない、簡素で飾り気の無い部屋の中は二人の息遣いだけに支配されていた。
 そのまましばらく時間は流れていく。昼下がりの時間にこの家を訪れたのだから、おそらくはもう少しで日が暮れ始める頃だろう。
 もう、帰ろう。そう思い立ち、僕は今まで逸らしていた視線を彼女に合わせ、そのことを伝えようとした。
 が、僕は一瞬後、そんなことは全く忘れ去っていた。
「なんで、泣いてるんだ」
 僕が自分の中に数々溢れてきた言葉の中から選び出せたのはそれだけだった。
 真智は泣いている。部屋が暗くなったからだろうか、やや青味を帯びたような彼女の顔からはまるで生気が感じられず、彼女の目から零れる涙だけが彼女がそこにそうやって座っていて、そして間違いなく僕がここに存在している事を認識させてくれているような気がした。
 彼女の涙を見たのは……、あの別れの日以来だ。十年前になるだろうか。その時と全く同じ涙が彼女の目を潤し、清潔そうなシーツに滴り落ちている。だが彼女の表情は先程とほんの少しも変わることはなく、絶えず僕を見つめている。
 僕はようやく、彼女が少しおかしい事に気付き出した。再会の瞬間に感じた違和感が違和感以上のものになる変わり、僕の脳が彼女の存在を危険なものなのではないかという疑念を抱き始めたということだろう。
 落ち着いてなどいられない。僕は言い知れぬ恐怖が心の中に不思議に満ち始めている事に驚く間もなく、この部屋を後にしようとしていた。
 だが。
「ねえ、新ちゃん」
 そう語りかけた声を裏切れるわけは無かった。理由など無い。彼女の声に悪意のようなものがこもっているとは到底思えなかったのだ。彼女の声から恨みや怒りなどをほんの少しも感じ取れなかった僕は、彼女の続くのであろう言葉に耳を傾けてしまう。
「……なんで人って変わってしまうんだろうね」
 その言葉は寂しげであり、そして同時に僕ではなく自分自身に言い聞かせているようでもあった。だからというわけでもないが、僕は黙ってしまうより他ない。
「新ちゃん。私はね、新ちゃんのことが大好きだった。他の人が言っても嬉しくなかった誉め言葉でもね、新ちゃんに言ってもらうとすごく嬉しかった」
 僕の中に切なさが巻き起こった。嵐の様に心の中を吹き荒れ、僕は平静さを保つ事に必死にならざるを得ない。
「新ちゃんが私を嫌いになってもね、私は好きなままだった。だから新ちゃんを遠くから見ているだけでも十分だって自分に言い聞かせてたの。でもね」
 彼女は言葉を切ると、今まで僕からはよく見えなかった左の手首を僕の方に見せた。
 そこにあるのは。
「貴方がいなくなって、私はわからなくなったの。自分が何の為に生きてるのかも、なんで私がこんなに変わってるのかも。……昔、私の全部を好きでいてくれた新ちゃんのことも」
 彼女の手首に碁盤の目を描く様につけられた傷。肌の内側の桃色の肉が僕に無言で語りかけてくるような気がした。……それほどまでに。
 僕はただ、立ち上がって彼女を抱き締めたいほどの切なさに心を支配され、それに抗う理由も力も無かった。
 だが僕が彼女に触れようとすると、彼女は僕の目の前に手の平をかざし、拒んだ。
「駄目なの。新ちゃんは私に触る事なんて出来ないのよ」
 彼女はそう言って、僕が止まるのを見ると白い手を下ろした。
「なんで」
 僕の言葉と視線に彼女は少し目を逸らし、小さく吐息を漏らす。
 そして彼女は真摯な目を向ける。
「新ちゃん、お願いがあるの」
 なんだ、と僕が聞き返すと彼女は更に真剣な眼差しで僕を見つめた。
「松菜川という川が、夫董山に流れているの。その上流に行って、私を見つけて」
「……見つけるって。君はここにいるじゃないか」
 じゃあ、と言って彼女は辛そうな表情を浮かべながら右の手を僕の方に向けて突き出した。
「この手に触れてみて」
 僕は意味がわからなかったが、しかし彼女の言う通り、彼女の手に触れようと自分も手を出して……。




 僕の手が彼女の手に触れることは無かった。僕の手はまるで彼女の手が存在していないかの様にその手をすり抜け、そしてその先にある彼女の体に触れる事すら無かったのだ。
 僕は今もまだその時の嫌な感覚が頭から離れず、信じがたい真実を噛み下す事が出来ずにいる。
 だが。確かにその経験は僕の記憶に残されているし、寝惚けていたのでもないことは間違いない。
 現実がいかに不可思議であろうと、人間はそれを受け入れざるを得ないのかもしれないな、そう思いながら僕は車を降りてドアを閉めた。
 彼女に聞いた通り、確かに松菜川という川が夫董山にその源を発しているのは間違い無いようで、林道が始まる場所にたてられた大きな看板にもそれが記されている。そして僕はすぐに真夜中のハイキングを開始した。


 一歩踏み出す度、足元からは枯葉の砕け散る音がする。乾燥した枯葉は寂々とした夜の山道に響く。
 僕は革靴のまま山に足を踏み入れたことを少し後悔してはいたが、そんなこと以上に真智を見つけ出したい感情に突き動かされていた。汗が滴るのも気にせず、体力が消耗していくことも何とも思わず、ただ一足ずつ歩いていく。
 不気味な鳥の声がどこからか聞こえてきたが、気味が悪いというよりもむしろ応援されているような感覚になる。
 三日月程度の明るさに道は照らし出され、露わになった地面の色が何とも言えず僕を誘っている様に思えた。


 そうして歩き続け、僕が川音に出会ったのはもう東の空が僅かに紫に染まり出した頃だった。
 僕は流れた汗を拭う事も考えず、ただその音を探す。
 藍色の空間にそれより幾分明るい水面が姿を現した時、僕はもう殆ど走り出していた。何よりもまず水が飲みたかったのだ。
 余りにも澄んだその水面に両の手の平を差し入れ、そして掬い上げる。その何物にも勝る清水の輝きを、僕は感動する暇も無く飲み下す。


 林道の次は岩場を歩く。彼女を見つける為に。
「川に突き当たったら、また上流を目指して。しばらく行くと洞穴があるから……」
 真智の言葉を思い出しながら、ゴツゴツと大きな岩ばかりが並ぶ川原を歩いていく。
 僕は歩きながら思いを巡らせていた。
 ……彼女が言った「私を見つけて」という言葉は、一体どんな意味を持っていたのだろうか。
 あの家にいた彼女が彼女自身ではないとしたら、彼女は一体。
 真智。
 見えない。答えが。見えてくるのは、僕がかつて彼女の元を去ったことが、彼女に対して最悪の結末を齎したのではないか、ということだけ。
 真智。
 真智の幻影の家を後にして、近所の人間に聞いてみるとあの家は確かに空家なのだという。何故かといえば。
 ――娘が行方不明になったから。
 真智。
 ……本当なのか。触れられない君と話した事。近所の人間が話した事。それは本当なのか。
 だとしたら。……僕は一体どうしたらいいんだ。
 真智……。答えてくれ。


 朝焼けが空を異常に赤く染め上げ、それがどうにも血の色に見えて仕方ない。
 思考の末重くなった足を引き摺り歩く内、それは明らかに僕の目の中に飛び込んできた。
 あれが……。
 僕は居ても立ってもいられず、走り出す。真智から語られなかった結論が僕の考え通りである事を願って。
 その洞穴は小さな口を開いて待っていた。
 僕はその口を覗きこむ。が、中は思った以上に広く、そして暗く、とりあえず僕は中には言ってみるほか無かった。
 そして、それは余りにも容易く見つける事が出来たのだ……。
 暗い岩壁に凭れ掛かるようにして固まっているそれは、人の肌の様に見えたが余りに白く。
 土に汚れてはいるが何とも無機質な美しさを持って。
 暗い窪んだ空間に見えない瞳を持ってこちらを見つめていた。
 それを見た瞬間。僕はその表情などあるわけも無い白い物が。
 ……真智なのだと気付いてしまった。彼女の言葉も自分の考えも必要とせず、ただ一瞬で僕はその骸が真智なのだと気付いたのだ。
 
 
 それから、しばらくの間。僕は彼女に寄り添っていた。真智の横に座り語りかけ、一人笑ったり怒ったり。とにかく彼女と語り合っているつもりで話し続けた。
 それ以上、僕には何も出来なかったのだ。彼女を死に至らしめるほどに、淡く幼い愛情によって苦しめ、それからの彼女の事は何一つ知らない僕には、それぐらいのことしか出来なかった。
 そうして日が空の頂点に達するまで、僕は真智の横にいた。
 しかし少し疑問が起こる。
 ……なんで彼女の心と体が別々の場所に存在しているのか。
「……なんでだろう、なぁ、真智」
 僕が思わずそう口にした時。
 目を疑うほどの光が薄暗い洞穴の中で奇跡の様に起こったのだ。
 眩い光に目を閉じながら、僕はこの光が何かを知っている気がした。いや、僕の真横にある真智の残骸を見つけた時ほど早くはなかったが、その光が一体何であるかに気付いたのだ。
「真智」
 そう問いかけると、光が笑ったような気がした。
 瞼越しにも感じるほどの強い光が弱まった時、僕はその瞼を引き上げ、光の変化を見つめる。
 光が暗い閉塞的な空間で揺れ動き、最後に至った形態は。
 ――鰻。
 僕は変化した光が、黒く細く長い鰻になった時、少しの戸惑いと大きな納得で心が満たされる気がした。
 そう、彼女の心は鰻になったのだ。
 元々彼女が鰻であったわけではない。しかし彼女を僕が見つけたことによって、真智は鰻になったのだ。
 鯰でもなく、鱒でもなく。鰌でもなく、他の何でもない。彼女は鰻になったのだ。
 僕は彼女の体を掴みあげると、川まで歩いていって水の中にそっとつける。昼の光が鰻の体をキラキラと輝かせた。
 すると真智は、ゆるゆると体を揺らめかせ、そして川の流れに乗り下流を目指していく。
 僕はそれを見送り、何とも言えない情が心を締め上げるのを感じながら、しばらくの間動けなかった。





 近所の人の話を聞くと、彼女は学校でいじめを受けていたのだという。彼女は少しもそんなことは教えてはくれなかった。
 だから僕は思ったのだ。彼女は嘘をついたのだ、と。手首の傷も、僕と別れた後も僕が好きだったということも。ただ感傷に浸っているだけなのだと。それは久々に子供の時分を過ごした街に傷を癒しに来た僕と同じことなのだろう。霊となって、自分が暮らした部屋を――おそらく生きている僕には想像もつかない方法で――再現し、自分を思い出していたのだ。
 ただ彼女が何故嘘をついたのか、それを考えると少し不思議な感じがした。それは僕自身がかつての彼女の印象を引き摺っているからなのか。いや、違う。そう僕は考える。彼女はきっと嘘をつけなかったのだ。
 嘘をつけなかった彼女が、死んだ後僕に嘘をついた。だから彼女は鰻になったのだと思う。
 僕は帰りの車の中で黄昏の時間にさしかかった道を走りながら、考える。
 彼女は器用さが無かったのだ。人と人の間をすり抜ける器用さが。
 だから、彼女は鰻になった。
 人生に次があるのかは知らないが、もしあるとして。
 次回人に生まれてくる時、もっと器用に人の間をすり抜けていける様に――。
 

   



        番外「鰻雨」



「現実は残酷だよね」
 言葉を漏らして、彼女は虚ろな目を空に浮かぶ月に投げかけた。
 僕は何も言わずに、しかし同じように窓の外の月に目を向ける。
 赤い月は何も言わず、その姿を僕と彼女、美紗緒の前に晒していた。
 明かりを消したアパートの一室。窓際に置いたテーブルから見える深い青色に染まったアスファルトが、街灯の寒々しい冷たい光を照り返している。もしかしたらそれが美紗緒を、現実を嫌悪する方向に導いたのかもしれない。
 僕と向かい合って座る彼女は、夏の薄いシャツを開かれた窓から吹きこむ風にはためかせている。以前に「楽な格好が一番好き」なのだと言っていた通り、彼女の着ているシャツの下に下着の気配を感じ取る事は出来なかった。だからといってこれから二人に何が待っていると言うわけでもないのだけれど。……ただ僕は、彼女に異性として意識されていないのではないか、そう思ってしまう。
 彼女の言葉の意味はわからない。彼女の漏らす言葉の一つ一つには、僕のような人間には決して至る事の無い領域の深みがある。それがもう二ヶ月同じ部屋で暮らした僕にも解るようになった事実なのだ。だから僕は彼女の言葉を肯定も否定もせず、ただ彼女と同じように、同じ方向に浮かんでいる月を見つめる事しか出来はしない。
 現実は残酷。その意味は僕のような人間が思うそれと同じ意味なのだろうか。「働かなければ生きてはいけない」その重み。「死はいつか訪れる」そのもどかしさ。……そんな、全く平凡極まりないことを、彼女が言うだろうか。僕にはわからなかった。
「……こうしている時にも、沢山の人が死んでるのよ。私達がこうして月を見ている時に、同じ月の下で」
 彼女はしばらく経ってから言葉を続けた。
 やはり彼女が言っているのは普通の事らしい。いつものような僕には理解できない話ではなかった。それが僕には無性に嬉しかった。
「そうだね。今も地球のどこかで、人々は争っているのだし」
 僕は初めて発言することができた。心から胸を張りたいような、そんな気分に陥る。まるで彼女に自分の存在を認められたような気分に。
 しかし彼女は僕の言葉を全く無視し、再びやや雲の浮かんだ空に目を戻す。僕は居た堪れない気分に戻される。
 僕の声は、彼女に届いていたのだろうか。僕の喉は確かに空気をふるわせただろうか。それが心配になった。そんなことは心配する必要もないと言うのに。
「……現実の一番の残酷さって言うのは、何だと思う?」
 彼女は僕に目を向けた。ああ、と僕は心から安心してしまう。その時僕は初めて自分が生きているのだと感じる事が出来る。彼女の瞳に映る僕は、確かに生きて彼女を見つめていた。
「覆らないことじゃ、ないかな。死んだ人間は元には戻らないし、過去をもう一度やり直すことも出来ない。それは、考え様によってはすごく残酷な事だと思うんだ」
 彼女は僕の言葉を受け止めて、……またしばらく月を見つめた。赤い、暗い月に無言で何かを語り掛ける様に、彼女は僕ではなく月を見つめていた。
 そのままで、僕を見つめようとはせず、彼女は口を開く。
「確かにね、それも残酷な事。ゲームみたいに簡単にやり直せたらいいのに。でも……、ある意味ではそれが人生の楽しみでもあるわけよね」
 美紗緒はうなじを隠すほどまで伸びた黒髪を、やや冷たい風にふるわせ、その香りを僕に贈った。
「君は……? 君は何が残酷だと思う?」
 僕は質問する。僕みたいに普通でありがちな言葉じゃなく、彼女の不思議で理屈の通らない考えが聞きたかったのだ。
 彼女は、ふ、と小さく鼻で笑った。それは嫌味を含んだ物ではなく、むしろ優しさと悲しさを少しずつ含んだ物に感じられる。
「私が思うのは……、人の心のことだよ」
 その一言はまたすぐには理解できないような、難解な要素をはらんでいる様に僕には思えた。
「人の、心?」
「そう」
 彼女はそう答えて、潤んだ瞳に月を映した。「現実は人の体じゃなくて、心を壊してしまうような気がするの。心は何にでも惑わされるでしょう? お金や、肉欲や……。そんなものに惑わされて、それでも。そんなどこにでもある沼を避けながら私達は生きてる」
 彼女は少し涙を目に溜めながら、顔を僕の方に戻した。その時に涙が一滴、テーブルの上に零れてしまう。
 美紗緒はその滴の後を指でなぞり、何かを書こうとしてやめてしまう。何を書こうとしたのだろう、それが僕には疑問だった。
「そして生きて生きて、最期の時になったら。……一体何が待っているのかな? 悲しさに包まれて死んでいく時、私達を待っているもの。それは何なのかな? 誰も知らないのは解ってるの。でも、それを知らないのに皆生きてる。なんで?」
 美紗緒の言葉は少しずつ最初の残酷さから離れ出しているような気がしたけれど、僕はそれを口にはしなかった。
「……きっと、死ぬのが怖いからじゃないかな。生きる事に意味を探して苦悩して、それでも答えなんてわからないまま皆死んでいくんじゃないか?」
 僕がそう言うと、彼女は氷の入ったグラスを少し傾けて、酒を一口飲み込んだ。唇が少し湿り、それがどこか官能的な印象を抱かせる。
「そう、誰も知らないんだと思うよ。だから宗教は人の世がある限り消えないし、宗教同士の争いも人の世が続く限り終わりはしないんだと思うの。……だって皆自分の考えが本当に正しいと思ったなら、自分の神に命を捧げて楽園に行きたいと思うんじゃないかな。周りの人を自分の考えに賛同させようとするんじゃないかな」
 彼女の言葉がようやく帰着した。彼女が言いたかった事はこれなのか。僕は彼女の考えを理解できたことに少し喜びを覚える。
「確かに……、残酷だね」
 僕は彼女と感情を共有できた嬉しさを心に隠しながら、俯いた。「弱いからこそ、人間以外のもっと強い何かに縋ろうとするのが人間なのかもしれない。……もし神様や仏様がいるとしたら、そいつらはきっと残酷な奴なんだろうね。それを信じている人がいるなんて、なんだか下らないな」
 僕が解ったような顔で笑うと、美紗緒は冷たい表情を僕に向けた。
「……そういう事、あんまり言わない方がいいよ。軽々しく他人の信じている事を否定するのは、人間の悪い癖だと思う。例え誰も聞いていないとしても、何も知らない人がそんな事を言うのは違うと思う。犯罪だって人殺しだって、正しいなんて事はもちろん言っちゃいけないと思うけど、でも自分勝手に否定するのはおかしいよ」
 やや強い言葉に、僕は困ってしまう。しかし彼女の顔がそのままいつまでも冷たい表情であり続けることも無く、すぐに笑顔が戻ってきた。
「自分の考えがあるっていうのはいい事だと思うけど、それを吐き散らかすのはかっこ悪いと思うけどな。そんなのはテレビに出てくる偉そうなおじさんに任せておけばいいんだよ。ヒロはヒロの考えに従って生きればいいしね」
 美紗緒はそう言いながら、椅子から立ち上がる。「お風呂」と言った彼女の目は微笑に満ちていて、風呂から出てきた彼女との、これから起こるであろう展開を期待させるには十分だった。
 彼女は自分のグラスを流しに置きながら、ユーティリティ・スペース、浴室と続く扉をそっと開き、そして締めた。
 僕は汗を掻いたグラスの中の褐色の液体を喉に流しこみ、そしてまた月を見上げる。
 赤い月は空にいつの間にか広がった薄雲の向こう側から、そのほとんど光度を失った姿を朧げにスクリーンに映していた。
 思えば。……何故僕達はこうして語り合ったのだろう。それはほんの数十分だけの気紛れではあったけれど、しかし何故この日この時を僕達は語り合う事に使ったのだろう。彼女が現実について口にしてから、僕達は考える必要も無いような事を語り合った。その目的は一体なんだったんだろう。
 僕は自分がきっと酔った目をしているんだろうな、と自嘲するような笑みを浮かべつつ、明日の空の姿を密やかに推理する。
「明日はきっと……、鰻が降るでしょう」
 僕は独り、そんな言葉をこぼす。
 そんな訳は無いのだけれど。きっと明日は梅雨空の齎す嫌な天気なのだろうけれど。僕はそう言いたかったからそう言った。
 その言葉の意味を自分で考えながら。僕は美紗緒を待ちながらほんの少しの眠りに落ちた。
 眠りの果てに待っている物がなんであるかも知らず。
 眠りが僕に与える物の意味も知らず。
 僕は鰻が降る空を思い描いていた。




             
    四、川神



「お父ちゃん……」
 喘ぎ泣くつうの表情に男は苦悶した。いたいよう、と繰り返し続くつうの声は男の心を悪夢へと誘う。
 囲炉裏端。寒くない様にとその間近に布団を敷き、出来うる限りの栄養のある食べ物を与えていた。淡い雪が舞うこの村外れに住まう男にできる、せめてもの娘に巣食う病魔への抵抗である。
 だが彼女の顔から苦痛が消える事は無かった。
「お母ちゃん……」 
 娘は暗い萱葺きの天井を仰ぎながら、見えるはずの無い母の姿にそう言った。彼女に優しく柔らかな手の平で触れる母はもう、ずいぶん前に男やつうの前から消えていったというのに。黒煙となって風に紛れていったというのに。
 余りの痛みに虫の鳴くような声を出す事にすら疲れたのだろう、つうは眠りに落ちてしまった。
 ……嘉平はその痩せた小さな顔を撫でる。武骨なその手は百姓から農民と名を変えた後も、相変わらず泥土をこねくり回すことぐらいにしか使えず、まして目の前で病魔に苦しめられる愛娘を救うことなど叶う訳もない。
「……行くしかねぇ」
 嘉平はそう決意をしたように言葉を漏らしてから、薪を囲炉裏にくべた。自分が去った後にもこの隙間風が吹きこむ家の中で娘が凍えないようにと。
 そして嘉平は身支度を整えると、立て付けの悪い引き戸をいつものような力任せではなく、そろりと開け、そろりと閉めた。
 嘉平は雪が湿らせた道を歩き出す。ただただ、つうを救う為に。
 白い息がみすぼらしい嘉平の口から空に舞いあがる。だが彼はそんなものは見えはしないとでもいう様に歩く。
 ――神様仏様、どうか娘を救って下せぇ。
 その一念のみが彼の体を突き動かし、冬の風を打ち払った。何物にも代え難き、何物にも勝る宝を非情な病から守る為だけに、嘉平の体は存在しているかのようである。
 もはや彼に残された道は。抗う術を失った彼に残された道は、嘉平に思いつく限りでは一つしか見当たらない。つうの病を知った村の者達も揃ってそれを勧めた。
 それとは。
 太く、まるでうねる蛇の様なそれは、鬱蒼とした木々に抱かれながら、多くの恵みを民に与える。しかし時にそれは多くの人の命を奪うほどに膨れ上がり、何もかもを飲みこむ存在。
 ……川。宇土川と呼ばれるその川は一時としてその姿を留めず、いつも優しげな表情を人々に向け、恵みを与え給う。それが故に隠し持つ牙が如何ほど鋭いかを見失わせてしまう。
 だからこそ人々は、この太き川をまるで神の様に奉り、その心無きものに大いなる魂を感じようとするのだ。それが全くの徒労であろうとも。
 そして……。川が生まれる場所、山深き水源には名高い僧が建てたという祠が存在しているのだと言う。嘉平が道無き道を蔦や背の高い雑草達に阻まれながらも向かっているのは、そこだった。
 もうしばらく、嘉平は食事を摂ってはいない。彼は愛娘に対する危惧が為に食事など喉を通らないほどになってしまっていたのだ。
 否、少し違う。
 彼の体が食事を受け付けないのは。
 彼がこうして水神の祠へ向かっているのは。
 ……何もかも全ては嘉平自身の犯した罪によって、自身を苦しめているだけの事なのだ。

 ――水神様の祟りに違いねぇ、何かしたのかぇ、嘉平。

 ――水神様を疎かにすると、祟りがあるってぇのは知ってるだろぉが。

 つうの病を知って嘉平の家を訪れた村の衆は、口を揃えて嘉平を責めた。その真意など知れている。

 ――おめぇさんの娘がどうなろうが知りはしねぇが、水神様のお怒りは村の衆皆に降りかかるんだで。

 村長が言ったその言葉が思い起こされる。
 それこそが彼らが暗に言いたかった事なのだろう。しかし嘉平にしてみればそんなことはどうでもいい事だ。平時ならばそうも言えないが、今この時に彼に先々村が被るであろう害を考えろと言う方が無理な事である。
 だが。しかし村の衆の意見を聞いて嘉平は確信したのだ。
「水神様の、祟りか……」
 嘉平の口から漏れる言葉は、すぐに白い靄に変わり消えていった。
 米を作る。それこそが嘉平に与えられた使命なのだというのに。毎年の実りを齎す河に感謝せねばならないのに。
 何がいけなかったのだろう。
 ……嘉平にはわかりはしない。だからこそ、嘉平は歩く。
 それはただ、愛娘に対してのみ発揮される切なる情愛が嘉平にそうさせているのだ。
 美しいなどとは言えはしない。彼が負った罪によって、今つうは死の危機に瀕しているのだから。






 あの時は、そう、今日のこの森の中の様な雪ではなく凍りつくほどに冷たい氷雨が降り、湿った空気が周囲の全てを密やかな愚鈍に染めていた。
 肩を上下させ、嘉平は黒く日に焼けた顔を眩しい訳でもなく、しかしいつにも増して顰めていた。それは丁度森が夜の青に近付き始めた頃。
 嘉平は横たわる彼と同じような風体の、しかし随分彼よりも年を食った男を見下ろしていた。生成りの衣は夥しいまでに溢れた茜に染められている。否、染められているのはただ首筋からうなじ辺りだけで、他はほんの少し前にその男の体が流したのであろう多量の汗に濡れているだけだった。
 ――何故。
 嘉平はどこか虚ろな瞳をその動かなくなった男に向けている。その瞳からは全く慈悲深さなどは感じられない。そんな人間らしい心情など、その時の彼には浮かぶ訳も無かったのだ。
 ――何故。
 彼はただ答えの返らぬ問を繰り返すばかりで、それ以上の思考を抱くだけの力すら持ち合わせてはいない。眼前で少しずつ静物へと姿を変えつつある男の、その陥没した血の滲む頭部を見るだけで、彼の心からはもう何かしようという意欲が掻き消えていくのが彼自身にもわかった。
 ここでこうして男を見つめている事自体が、もう彼方の世界の事の様に感じられ、悪夢よりも苦く、正夢よりも現実的な影が嘉平の心の端で巻き起こっているだけである。
 ……嘉平と男の亡骸の傍らを、ただ滔々と川が流れていた……。
 その淀み無き清き流れが、素朴を絵に描いたような嘉平を変えてしまったのかもしれない。否、彼の内に長い間溜めに溜められてきた善意の澱のような物は、その毒気によって嘉平を犯し、人の心を持つ者には決して思い浮かばぬ行動に彼を駆り立てたのだろう。


 足を踏み出す度、露わになった脛を地を這う草が刃物の様に切り付けていた。そこから淡く流れ出す血液は気味が悪いほどにゆっくりと彼の足を染めていく。
 だが嘉平が自らの足に目を遣ることは無かった。そこから流れる紅を直視するだけの気力も無く、嘉平はそのこそばゆくひりつく感覚を受容することしかできはしない。
 いつの間にか速くなり始めた嘉平の足取りは決して軽快という訳ではないが、しかしその一足一足には確かな意志が込められていた。
 ……逃げる理由など、どこにも無かった。何から逃げる必要があるのだ。この獣のみが行き交う森で。
 あるいは彼の中に眠る何か知覚を超越した何かが、未来を朧気に察知していたのかもしれない。
 目に見えぬ、耳に聞こえぬ、しかし確かにそこにいる何かを密かに畏怖していたのかもしれない。
 何をしたというのだ。
 嘉平は独り、不気味な藍に染まった森の中を逃げていた。





 虚ろに変わりつつある記憶の旅路を辿り、しかしその中の自分以上に道を急いでいた。
 目に映る木の幹はざらざらと、触れただけで傷を負うほどに刺々しく見える。彼自身の内なる恐怖心がそうさせるのかもしれないし、彼との対面を拒む水神が何かの力によってそうさせているのかもしれない。ただその木肌は余りにも、……嘉平自身に似ていた。
 ――水神様よ、それほどまでにこの俺が嫌いですかぇ。
 無言の嘉平は、随分高く上がった筈の太陽すらも隠す一塊の雲を睨みながら、ただ吐き出す息に苛立ちを織り交ぜるばかりだった。
 森の木々を枯らし尽くした寒風は、嘉平からも纏った衣を奪い取ろうと激しく吹きつけている。その風にどこか憎しみのような物が含まれているのが確かに感じられ、それが嘉平の心を著しく萎えさせた。恰も永久に続くかの様な道を歩む嘉平には、実に耐え難い事である。
 その時折雪を孕みながら舞う風が唐突に止んだ時、嘉平はその存在を瞬時に悟らざるを得なかった。
 ……祠。
 凍える森には相応しくない小綺麗な、真新しい木造の祠。地蔵尊でも祭り上げるのが適当な、嘉平の胸程度までの高さのそれは、しかしそれでありながらも、決して目に見えぬ威圧感を確かに発しながら森の枯れ木の間に鎮座していた。
 漸く見つけた祠。話に聞いていた通り確かにその脇に小さな泉があり、そこから宇土川が始まっている。全ての恵みの源であり、全ての災いの元凶でもある川が。
 それを見た時、嘉平はつうの病が治った幻視を味わっていた。……春の麗らかな日差しの中で、嬉々として蝶と戯れるつうの無垢な笑顔が、彼の心をすでに埋め尽くしてしまっている。
 その逃避の世界から彼を悲痛な世へと引き戻したのは、風の中に混じる……、経の声。
 不気味な、抑揚の無い、人の発する物とは思えない無表情な囁きが、嘉平の耳に届いてくる。たったそれだけのことでも彼を先程までよりも更に重い現実を思い返させて余りあった。
 経の声が近付いてくる。声と共に、枯れ果てた草を踏みしめて進み足音が聞こえてきた。
 その方角に目を向けると。そこにいたのは。
 修験者の出で立ち。不精に伸びた髭と髪は黒く、太い眉の下の瞳が嘉平を睨みつけている。三十路を過ぎた僧が、手に数珠を持ってこちらに近付いてきた。
 嘉平はその異様な出会いに些か混乱し、しかし水神の怒りを解くのには丁度いい事かもしれない、と彼自身も僧侶に歩み寄る。
「坊様、どこへお行きになられる」
 このところ誰にも見せなかった笑顔を向けて、嘉平は声をかける。
 その声に、僧侶の読経が止まった。だがその眼光は少しも緩みはしない。
「……お主……、お主かぁ」
 突然叫ぶように声をあげ、僧は物の怪でも見る目で嘉平を睨む。
「お主がぁ、宇土川を散々に荒らした男じゃなぁ」
 その声は上擦っていて、寧ろその僧形の男こそが魔性にも思える。
 しかし、男の声がどれだけ嘉平を縮み上がらせたかは言うまでもなかった。ひぃ、と小さな悲鳴を上げながら、嘉平は一歩後ずさる。しかし凍ってはいない土は柔らかく、そこに足をとられて倒れてしまう。
 その姿を見て……、僧侶は笑った。高笑いは雪の降る森に響き渡る。
「どうやらぁ……、当たりかのぅ」
 落ち着いたその低い声は、倒れてなお震えの止まらない嘉平には酷であった。



「嘉平ぇでねぇか」
 赤土の道をとぼとぼと歩く嘉平を、家の前で薪を割っていた男が呼び止める。
「どうしただぁ、どこさ行ってただ」
 だが嘉平は答えようとはしない。ただ手に風呂桶位の桶を持ち、視点の定まらないまま目の前に伸びる道を辿るのみである。
 男が近寄り覗き見ると、桶の中には……、鰻。
 そして彼は一人呟き続けていた。
「……こいつを食わせぇ……こいつを食わせぇ……」
 男はただその異様さに、彼を見送るだけであった。



 家に帰り着くと、嘉平は呆としながらも、鰻を鉈でぶつ切りにして鉄鍋に投げ入れた。それをつうが悶え眠る囲炉裏の火に掛ける。
「……こいつを食わせぇ……こいつを食わせぇ……」
 彼の視線は中空を舞っている。
 森で出会った僧の言葉が、すでに彼の精神を壊してしまっていた。
「……こいつを食わせぇ……こいつを食わせぇ……」
 ただ繰り返す、その言葉。それは亡者の呟きの様に弱々しく、そして不気味な響きを持って狭い家を支配している。
 その声はつうの痛みに混じる寝息を切り裂き、しかしそれと一切交わろうとはせずに、凍える部屋中を飲み込んでいた。
 鍋の煮えたぎる音。
 異常なほど荒い娘の吐息。
 色の黒い男の独白。
 それらが為に、家中が不気味に揺す振られる。
 嘉平は無表情のまま、眠る娘の口元に煮えた鰻を運ぶ。
 熱湯と共に匙の上に乗った鰻は奇妙に白く、その白さはつうの青白い肌と重なり合い、……娘の口にあと何寸かのところで嘉平の手を止めてしまうだけの威力を持っていた。
 彼はは、と息を呑み、つうの顔を見つめて自分が今一体何をしようとしていたのか、その不可思議な行動に思わず驚いてしまう。眠る娘の口に煮えた鰻を押し込もうとしていたのか、と。
 何故だ、そう嘉平は考え、森の中で出会ったあの僧侶を思い出す。その時に感じた恐怖も。
 彼は手に持った匙の上の鰻を口に入れて飲むと、肌が粟立つのを感じながらもすぐに家を飛び出した。
 

 
 辿り着いたのは貧相な村では最も大きいその屋敷。村の長の屋敷である。
 その戸口を無作法にも叩きつけ、そして戸を勝手に開けた。そこには嘉平の家とは比べ物にならない広さと暖かさの板の間があり、そこに据え付けられた囲炉裏の端で寝転がる村長が見える。
「なんじゃ嘉平、何の用じゃぁ」
 上体を起しながら驚いた様子で嘉平を見つめる村長の目には、不思議な狼狽が浮かんでいた。
「……鰻が」
「鰻……。鰻がどうした」
 嘉平の言葉はそこで切れてしまう。……何から話していいのやら。彼は首を傾げた。
 しかし、もうこれ以上嘉平には自らの内にこの一連の出来事を留めておくだけの忍耐など備わっていなかった。
 結局彼は事実を語ろうと心に決める。それは単にこの悪夢のような日々からの脱出を狙う目的によるのではなく、寧ろ嘉平に宿る親としての使命感がそうさせていたのだ。
「おらぁ、水神様を怒らしちまっただ」
 その一言に村長はまたも驚き、そして考えられないほどに冷や汗を流し始める。……その態度はどうにも嘉平が想像していたものとは異なり、何とも言えぬ違和感を感じざるを得ない。
「……お前はほんに嘉平かぇ」
 そんな言葉が長の口を突いて出る。へぇ、と聞き返す嘉平の顔には困惑が明らかに浮かんだ。
「まさか、お前」
 皺だらけの老人の顔が蒼白と化す。そしてあの森の中で嘉平が僧侶に対した時の様に、後ろ手を付いてわなわなと震えるばかりである。
 その様子を見ても、嘉平には何が何やら訳もわからず、ただその様子を不思議そうに見つめていた。
 嘉平が老体を気遣い、その体を寝かせてやろうと近付いて行くと。
「……来るな、来るでねぇ」
 激しい声を発し、彼を押し返そうとする。その老人とは思えぬ力強さに、嘉平は驚かされた。
 そうして長に近付けないまま、彼のこの行動に首を傾げていると、ただ一刹那。
 ……嘉平はあの経を、その耳に捉えたのだ。 
 遠く、遥か遠く。微かに、しかし確かに。
 その経を聞いた、ただそれだけで森での恐怖が彼の体中に巻き起こった。
 その声は……、嘉平の中から響いている。
 嘉平はそのことに恐怖と不快感が入り混じった感覚を得たが、彼の目の前にいる老人は彼とは全く違う反応を示す。
 嘉平を指し、
「誰じゃ、誰じゃ」
と喚く姿は、まるで読経に追い遣られる悪鬼の様であり、嘉平の中にある違和感を大きくより不気味なものに変えた。
 そうだ。
 この老人は、誰なのか。
 何故彼はこうまで怯えているのか。
 強く、疾く。経は流れる。
 それは。

 ……川の流れの如く。

 その読経が明らかに嘉平の喉を揺らし始めた。彼はまるで耳元で暴れる蟲を飲み込んだような錯覚を覚える。
 それがどれだけ続いた時であろう。
 老人が白目を剥き、口からは泡を吹き、それと共に経の声は掻き消え、……嘉平が残された。
 今目の前で繰り広げられた出来事の意味は全くわからず、しかし彼にいくつか理解できたこともある。そのいくつかの理解が、心地の悪い味を嘉平の心に残していった。
 ……川は流れるだろう。
 そして、恐らく。
 あの川は、……鰻なのだ。





 あの日の出来事を愛娘と語ることができるのも、全ては嘉平がその心を清く強く持ったからであろう。
「お父ちゃん、なんで村長さんは死んだの」
 無邪気な顔でそう聞くつうの顔には血の気があり、愛らしいその頬は頬紅でも塗ったようである。
 嘉平はその問に困惑しながらも、自分なりに考え上げた答えを持っていた。
 しかしそれは余りに馬鹿げていて、その上滑稽で、そして何よりも彼自身すらも騙せぬほどに説得力に欠けていた為、彼は敢えてそれを口にはしなかった。
「わがらねぇな」
 嘉平は前歯の欠けた不細工な、しかしそれ故に愛嬌のある笑顔を娘に向ける。娘もまた、彼に笑みを見せた。
「なぁ、つうよぅ」
 うん、と聞き返す娘に今度は申し訳なさそうな顔を向ける。
「母さんがいねぇで、ほんにすまねぇなぁ」
 心から、彼はそう零した。
 つうは、幼い娘は、父に気を使うでも無くうん、と頷いた。
 


 ぇえーぇぇ、やぁさぁぁ、あぁよぉー……。
 
 冬が通り過ぎた、春の暖かい日。嘉平は歌を歌いながら鍬を振るう。土からは蚯蚓だの、げじげじだのがのたのたと眠りから目覚めて這い出てくる。
 蓄えの余り無かった父子二人は、それでもどうにか長い冬を越えていた。
 家の事を可愛い娘に任せきりにして、しかしその分嘉平は今まで以上に仕事に精を出している。
 この分ならば、またこの年の冬も乗り切ることができるであろう。そして先々、つうが嫁いでいったならばもう、彼には思い残すことも無い。
 
 やぁぁああぁさぁぁよ、はぁぁなぁぁ……。

 歌を口ずさみながら、鍬を硬くなった土に振り下ろす。何度も何度も振るう内、そこから随分と長い蚯蚓が姿を現した。
 それを見て、嘉平の手が止まる。
 長細いものを見て、冬の日の鰻を思い出したのだ。 
 今更ながら、彼は思い返す。
 ……あの僧侶は、川の神が姿を変えたものなのではないかと。
 そうして、川の水を汚した嘉平を殺そうとしたのではないかと。

 ぇえーぇぇ、やぁさぁぁ、あぁよぉー……。

 だが。川の神には本当に憎むべき人間が誰なのかわかったのではないか。彼が自らまやかしを打ち破り、彼の娘を守ったのを見ただろう。そして深くわかったのだろう。
 ……嘉平がどのような思いで村の教えに背き、顔を見知った血を流して倒れ息絶えていた川の船頭を、水葬したのかが。
 あの船頭は、村長と同じ歳の頃に見えた。もしかしたら彼等の間に何かの諍いが起こったのかもしれない。それは時を遡らぬ限り彼には窺い知れぬことである。
 とにかく。今も嘉平は生きていられるのだし、もしかしたならあの日嘉平が熱いまま食べ、後に冷ましてつうに与えた鰻は水神の力の一部だったのかとも思える。

 やぁぁああぁさぁぁよ、はぁぁなぁぁ……、っとぉ。

 しかし嘉平には真を知る由も無く、また知る気もさらさら無かった。何故今の貧しいながらも幸せな生活に、そんな不可思議で無為な答えがあるとも思えない考えを押しはさむ必要があるというのだ。
 彼は汗を手拭いでぬぐいながら、握り飯でも食おうと畦道へ歩いていく。
 空は抜けたように青く、きっと今日も宇土川は澄んでいるのだろうと嘉平は静かに思い描いていた。
 その川を汚す者は、もうこれからもいない。






                         完

2005/06/09(Thu)14:41:47 公開 / 恋羽
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■作者からのメッセージ
 うーん。本当に。本州の梅雨っていつの話なんだろう。教えて欲しいです。いつまで続くものなんですがねぇ? 来月頭にまた本州の方に行くことになっちゃうと思うんですが。……溜息です。
 さて。作品の方です。この作品にばかり気合を入れてました。色々と変なところも在ると思いますが、しかし気合だけは入っているな、とわかっていただければうれしいなぁ、と思っております。今回のは割と自信があったりしてしまっているので、出来る事なら辛口を頂きたいです。恋羽のプライドを踏み潰してしまってください。
 それではもしお読みいただけましたなら、ご感想などお聞かせ願えたらと切に願っております。

 ……ってか、川の神ってことは民族的な宗教なんだから、坊さんの格好してるのはまずいかな(汗 でもそれなら何の格好を……?
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