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『風幻』 作者:無夢 / 恋愛小説 恋愛小説
全角9541.5文字
容量19083 bytes
原稿用紙約29.9枚



 風が窓を揺らす音で目が覚めた。カーテンの隙間から見える空はまだ暗い。ベッドの上で上体だけを起こして、枕元にあるスタンドを点けた。その時、私の頬を濡らす涙に気付いた。そういえば何か悲しい夢を見たような気がする。内容はあまり覚えてない。
 時計を見ると、まだもう一眠り出来そうな時間なので涙を拭ってスタンドを消そうとした。が、スタンドの横にある写真が目に入り、手を止めた。
写真の中で笑う私。背景は『卒業おめでとう』と書かれた黒板。そして、私の肩を抱く学生服を着た男。名は村沢誠梧(むらさわ せいご)。私より少し背が小さく丸い顔で、女が嫉妬する程に艶のある髪。その為、格好良いと言うよりは可愛いと言ったほうが適当である。しかも、私のほうが一歳年上だから尚更だ。
明日高校生になる私が、中学校の思い出を思い返そうとすると、誠梧の顔ばかりが浮かんでくる…。

      ◇

私が中学二年生の時の入学式、出会った。出会ったと言っても、欠伸を噛み殺しながら拍手をしているときに、体育館の真中をぎこちなく歩く誠梧をちらりと見ただけだ。その時は、「初々しいな…」と思った程度だった。入学式の後に同じクラスの友人達が、可愛い可愛いと、はしゃいでいるのを私は横目で見ていた。
名を知ったのは、それから数日後の部活の時。陸上部だった私は、いつものように準備体操をしていた。
「おい、ちょっと皆集合しろ」
顧問がメガホンで言う。その横には何人かの一年生。その中に誠梧もいた。私達が集まり、新入部員が一人一人自己紹介した後、顧問はメガホンで私を指し、
「指導係はお前だ、田宮(たみや)」
「私、ですか…?」
「お前の名前を呼んだんだ。聞こえなかったか?」
顧問は私を睨んだ。
「…いえ、聞こえました」
「よし、じゃあ他の者はいつも通り練習を始めろ」
顧問がそう言うとその場から立ち去ると、私と一年生以外の部員が散らばった。一年生は何をすればいいのか分からない様子で私を見ている。多少苛立ちを覚えていたが、私は出来る限りの笑顔を作り、
「田宮楸(ひさぎ)。よろしく」
と、言った。

誠梧は誰とでも仲良くなれるような性格だった。人を疑うこと知らない純粋な心、中学生にしては幼い容姿。誠梧は皆のマスコット的な存在だった。特に年上、私の同級生に人気があった。友人曰く、笑顔が可愛くて癒される、母性本能をくすぐられるらしい。確かに私もそうだと思ったが、そんなことにはあまり興味がなかったので、特別意識すると言うことはなかった。


強い日差しが照りつける夏の日、私は日光を避けるため、大きな楓の木の下にいた。その日は試合の日で、競技場の外で自分の出番を待っていた。日向の熱いアスファルトとは違い、木の下はひんやりしている。
私は靴を履き替えるため木製のベンチに座り、履いていたスニーカーの紐を解いた。一度両足の靴を脱いだが、近くにスパイクが無いことに気付き小さく舌打をした。
「あの、田宮先輩…」
背後から声がした。
「何?」
顔だけを後ろに向けて、声の主を見る。誠梧だった。誠梧は私の顔を見ると少し驚いた表情をし、更に悲しそうな顔をした。何事かと思ったが、すぐに原因が分かった。……私の顔。試合前の緊張と、スパイクが無いまま靴を脱いでしまった自分に対する苛立ちで明らかに不機嫌な顔をしていた。私は一度顔を前に戻し、軽く顔を横に振って再度誠梧の顔を見た。すると誠梧は安心したように微笑を浮かべて
「あの、これ」
と、右手に持っているスパイクケースを差し出した。
「私の…」
「これ、探してたんですよね?」
誠悟の突然の言動に驚いた私は、戸惑いながら
「あ、ありがとう…」
と、言って誠梧からそれを受け取った。
「頑張ってください! 俺、応援してますから!」
満面の笑みで、彼は私に言った。笑っている誠梧と目が合い、私は何故か慌てて視線を逸らした。胸の鼓動が早い。これは緊張のせいだ。そう自分に言い聞かせた。

競技場の地面を一歩一歩踏みしめる。私が走るのは百m走。零コンマ以下の勝負だ。大勢の観客に見つめられ、一直線のコースをただひたすらゴールを目指し走る。これだけのただ十数秒のことだが、その緊張感は凄まじい。この十数秒の為に練習を重ねてきた。負けるわけにはいかない。
「頑張ってください!」
誠梧の言葉が脳裏に浮かんだ。私は大きく深呼吸してスタートラインの上に立った。目を閉じ、体中の力を抜いて二、三回軽く跳ぶ。そしてゆっくりと目を開け、膝をついた。
「位置について…」
頭上から声がした。ラインに指を合わせると、指から膝から、熱気が伝わってきた。
「用意…」
腰を上げると空気が一瞬して張詰め、その空気を壊すかのように号砲が鳴り響いた。
瞬間、スターティングブロックを思い切り蹴った。少し耳鳴りがした。上体を徐々に上げ、ゴールを見つめる。そして、走る。全てがスローモーションだった。周りの音は無くなり、眼にはゴールしか映っていない。
 走る。一位を目指して。少しでも速く。走る。ゴールに向かって。走る。風を受けて。走る。走る。走る。走る。走る。走る。走る。走る。走る。……………………それは突然のことだった。ゴールしか見えていない私の眼。それに青空が映った。今まで身体全体で感じていた風が止まり、左足首に激痛。痛みが身体全体を走った。  そして次に私の眼に映った物は、迫り来る煉瓦色の壁。競技場の地面だった。反射的に手を前方に押し出した。手が痺れるような痛み。膝から頬に当たるざらついた地面の感触。……………転倒したと理解するのには時間が必要だった。
 競技場内がざわつき出す。何十、何百人もの人間が私を見て口々に喋り出した。何を言っているのかは聞き取れない。ただ、ざわざわと雑音が聞こえるだけ。
 私はまるで時間が止まったかのように、ぴくりともしなかった。動けない。まるで、金縛りにあったようだ。足首の痛み。それだけが私の意識の中にあった。何も考えられず、ただ地面に張り付いていた。と、その時。私の止まっていた時間を動かす声が聞こえた。風の中に声が聞こえた。がやがやと聞こえる雑音の中で、その声だけは、はっきりと。
「田宮先輩!」
 誠梧の声で、私は我に返った。
 そうだ、こんなところで倒れていてはいけない。立ち上がり、走らなければ。そう思うと両手両足に力が入り、上体を起こすことが出来た。右足を立て、左足はなるべく地面に付かないように立ち上がる。そして、またゴールだけを見つめ、走り出した。周りに選手はいない。皆、既にゴールしている。しかし私の心は悔しいという感情を出すことをしなかった。ただゴールへ一歩一歩進む、それだけ。そして、左足を引き摺りながらも、私はゴールラインを踏んだ。その瞬間、ざわついていた観客席から雨のような拍手が聞こえ、私は涙を流した。悲しみや悔しさの涙ではなく、喜びの涙を。
 ………風が吹いて、私の頬を冷たくした。

 翌日。転倒の際に左足を痛めていた私は病院に行く事にした。そこは腕の良い医者だと評判で、朝の十時だと言うのに、患者の数が多かった。小さな町医者なのに、かなりの人気だ。
 待つこと待たされることが嫌いな私は、病院という場所はあまり好きではない。しかも、ここの医者は一人一人丁寧に診察をするので、待ち時間が異常に長い。そんな時、人は「他人の診察は早く終わらせて、自分の診察だけを長くして欲しい」なんて勝手なことを思ったりする。医者からすれば、待ち時間は短くて診察は長く、なんてことは、ほとんど不可能に近いだろうに。
 私は待ち時間を持ってきていた小説で潰す事にした。文庫本で約五百ページ。内容はサスペンスホラーらしい。平凡な女子高生が何でも願いを叶えてくれる神様に出会い、願いを叶えてもらったがその後に……という話。   既に百ページ程読み終っていたので続きから読み始める。………………………………欠伸を一つ。ちらりと時計を見た。木の家の形をした時計から真っ白な鳩の人形が飛び出した。十一時。まだ順番は来ない。今日の陸上部の練習は十二時半から。遅れたくはないが、もし万が一遅れたとしても病院に来ているのだ。多少は目を瞑ってもらおう。そんなことを考えながらまた小説に視線を落とした。今は願いを叶えてもらった友人が死んでしまうというショッキングな展開になってきている。再び本の世界に入り込み、時間の経過を忘れた。…………
「田宮さん。田宮……えっと…」
 看護師が私の名を呼んでいるのに気付いた。私は本を閉じ、右足だけで椅子から立ち上がった。時計は十一時半を指している。
「ひさぎです。田宮楸」
 私は看護師にそう言うと、左足を庇い歩きながら診察室に入った。
「今日はどうしました?」
 机に向かいながらカルテを書いていた医者が回転椅子を回して私の方を向いた。私は椅子に座り、
「昨日走っていたら足をぐねってしまって…」
 左足首を摩りながら言った。
「では、ちょっと見せてください」
 診察が始まった。――診察室から出たのは十二時。左足首はギプスを巻かれ、元の細さの倍近くになっていた。靭帯を痛めてしまったらしい。もちろん運動などしてはいけない。私は松葉杖を突きながら受付でお金を払い、大きく溜息をついた。病院から出て、母に迎えに来てもらえるようメールを打ち、しばらく待つと病院の前に母が運転する車が停止した。母は私のギプス姿を見て驚いたが、次の瞬間
「まぁ、あれだけ豪快にこけたら、そんな風にもなるわねぇ」と笑い出した。
「笑ってないで、このまま学校に連れてって」
私は車の助手席に乗り込んだ。
「あら、どうして? 部活休めるチャンスじゃない」
「何言ってんの。軽い怪我なら練習参加。どうしても出来ない場合は見学か雑用する。それが部の決まり」
「そう…。相変わらず厳しいのね、あの先生は」
「まぁね。ほら、早く」
 私がそう言うと、母は学校に向け車を発進させた。
 着いたのは十二時十五分。私のギプスを見た部員達は目を丸くした。しかし、私は彼らには何も言わずグラウンドの隅に置いてあるベンチに腰掛けた。すると、部員達は何も言わず準備運動を始めた。一人を除いて。
「大丈夫ですか? 田宮先輩…」
 誠梧だった。
「大丈夫。一応……。あれだけ豪快にこけたんだから、こんな風にもなるよ」
 母の言葉をそのまま使う私。
「ごめん、村沢。頑張れって言ってくれたのに、格好悪かったね」と、冗談交じりに笑った。
 しかし、誠梧はそれに対し、大真面目な顔で
「格好悪くなんてないです。すごく格好良かったです」
 と、言った。そんな誠梧の発言に私は面を食らった。
「格好良いって…あんなに派手にこけたら…」
「それでも諦めずに最後まで走ったじゃないですか。だから、先輩はすごく格好良かったです!」
 誠梧は少し頬を赤らめながら叫んだ。その声で他の部員の視線が私達に集まった。何人かの人間は明らかに私を睨んでいる。誠梧の事を狙っている私の同級生だ。彼女達は、指導係で誠梧と話す機会の多い私を目の敵にしている。私はそんなつもりなどないのに……、と最近まではそう思っていた。どうやら心の奥底では違うのかもしれない。私も癒しの笑顔の虜にされてしまったのだろうか。
「ありがと。あの時、村沢の声のおかげで走れた」
 私がそう言うと誠梧は丸い顔を真っ赤にして目を伏せた。それがおかしくて、私が小さく笑うと誠梧はじっと私の顔を見つめた。
「あの…、田宮先輩…」
 透き通るような円らな瞳で私を見つめている誠梧から、目を離すことが出来なかった。
「俺…えっと、その……俺は…先輩のことが…」
 誠梧は今にも泣き出しそうである。そんな誠梧の口が少し尖り、小さく息が漏れた。その時、
「村沢くぅん」
 遠くから間の抜けた声が聞こえた。先程私を睨んでいた内の一人だ。
「ちょっと来てぇ」
 彼女は身体をくねらせながら手招きをしている。
「えっ……でも…」
 戸惑っている彼に対し、
「早く行かないと、あの子は後でうるさいよ」
 口元を緩ませて言った。
「でも…」
「ほら、早く」
 私が彼女を顎で指すと、
「は、はい…!」
大きな声で返事をして誠梧は私に背を向け走り出した。そして、誠梧の背中が小さくなったことを確認すると、私は全身の筋肉の硬直を解いた。心臓の鼓動が早く、顔が熱くなっていた。
その時、誠梧が何を言わんとしていたのか、それが分かったのは数日後のこと。部活が終わった後誰にも邪魔されることなく、誠梧は言った。

「好き」と。


 私の怪我は数週間で治り、それから私達は毎日一緒に帰っていた。練習終了後、他の部員に見つからぬよう、まず私達以外が全員帰るのを待った。私は校門付近で、誠梧は昇降口の中で。校門から昇降口は、ほんの十m程の距離だったが私達が一緒に帰ろうとしていることがばれたことがなかった。皆、私と誠梧はお互いに別の人を待っていると思い込んでくれるのだ。そして、私は他の生徒達が粗方帰ったのを見計らって誠梧に合図を送る。それを見て、誠梧が「分かった」と合図を送ってくると、私は一人で校門を出る。私がしばらく一人で歩いていると後ろから誠梧が追いつく。ここまでしてまでも私達の関係が露見することがあってはいけないのだ。どんな嫌がらせを受けるか分かったものではない。
「あの…」
 そんなある日の帰り道。
「田宮先輩は…」
 ここまで言って彼はあー、と言いながら間を空け、
「ひ、楸はさ…」
 と言い直した。その声はまだぎこちない。
「何? 誠梧」
 そんな誠梧に対し私はからかうように名を呼んだ。二人きりの時は名前で呼び合い敬語も使わない、二人で決めたことだった。
「えと…どうして陸上をやってるの…?」
 彼の言葉遣いにはまだ幼さが残っている。
「陸上をやってる理由? うーん…そうだなぁ…」
 少し考えた後、
「風…かな」と答えた。
「風?」
「そう、風。風を感じるのが好きって言うか、風になりたいって言うか、何だかよく言えないけど…」
「そうなんだ。何か俺と似てるね。俺も風と一緒に走るのが好きだから陸上やってんだ!」
 誠梧は無邪気な顔で私に笑いかけた。その笑顔を少しの間見つめ、私は
「ははっ、そうかもね」
 と、言って目を逸らした。
「どうして笑うんだよぉ」
 誠梧は頬を膨らませる。
「別に……。よし! じゃあ風と一緒に走ろうか!」
 私はからかい半分で言いながら、走り出した。

 私が三年生になり、部活を引退してから誠梧とあまり会えなくなった。私が今まで通っていなかった塾に通い、受験勉強に本腰を入れ始めたからだった。
 私の志望校はもちろん陸上で有名な学校である。しかし、私の今の学力では合格確率はあまり高くない。担任が「それでも頑張れば何とかなる」と言ったので、その言葉通り頑張ることにした。朝起きて学校に行き授業を受け、それが終わると即座に塾である。塾は夕方から午後十時まであり、更に帰宅した後も予習復習宿題と休む暇は皆無に等しかった。その為、誠梧に会う時間は無く、校内で時折すれ違う程度になっていた。
 私は毎晩塾から帰宅し、勉強が一段落着くと外に出て走った。走って風を感じていた。しかし、それでも何かすっきりしなかった。胸に何かもやもやしたものが残っている。それを消すために短い距離を全速力で何度も走るが、いつまでたってもそれは消えることがなかった。
 そんな日々が続いたある冬の日。そろそろ受験も追い込みの時期である。私に「受験」という二文字の重圧が圧し掛かり、気が詰まっていた。
 午後十時。塾が終わり外に出た。冷たく乾いた空気が肌を刺す。受験の緊張感と徹夜続きの生活に心身の疲れが頂点に達していた。私の顔は今、誰が見てもひどく無愛想だろう。
 私は毛糸の手袋を両手に着け帰路についた。と、その時。何処からか私を呼ぶ声がしたような気がした。辺りを見回すが誰もいない。
「気のせいか…」
 私は再び歩き出した。すると今度は
「楸!」
 と、大きな声がした。少し高い、女性の様で女性ではないこの声。前方に誰か立っている。その人影はゆっくりと私に近寄り、街灯の光でその顔が照らされた。
「誠梧…?」
 誠梧は優しく笑った。
「どうして…?」
「最近学校で元気がなさそうだから励ましに来た!」
その笑顔は一点の曇りも無い。それを見ると私も自然と笑顔になった。自分で言うのも何だが、こんなに優しく純粋に笑ったのは久し振りだった。
「ありがとう、誠梧」
「うん! 楸なら絶対受かるよ! だから大丈夫!」
「うん…。でも学校、離れるね…」
 私は俯いて言ったが、
「大丈夫! 俺も同じ学校に一年後行くから! 絶対、絶対行くよ!」
 そんな誠梧の声を聞くと涙が溢れ出した。そんな私の涙を見ると彼は慌てた様子で
「俺、何か変なこと言った? あっ! もしかしてプレッシャー掛けちゃった? ……ごめん…」
 と、少し肩を落としてしまった。
「違う違う! そうじゃない! 嬉しくって…」
 私が言うと誠梧は嬉しそうに笑った。
「本当? 良かった!」
「うん。…じゃあ、もう少し勉強しなきゃいけないから」
「あっ、うん。頑張って」
 私が首を縦に振り、その場から立ち去ろうとすると、
「あっ! ちょっと…!」
 突然誠梧が私の右手を握った。
「えっ…?」
 驚き、彼の顔を見ると顔を林檎の様に赤くして
「あの…えっと…無理、しないでね…」
 誠梧の手に少し力が入った。
「うん、ありがとう」
 そう言って手を解いて歩き出した。
自分でも顔が赤くなっているのが分かる。握られた手は暖かみを帯び、私の心と体はすっかり軽くなっていた。


受験が終わるとその二日後には卒業式。そして、卒業式の翌日は合格発表だった。まだ合格か不合格か分からないまま卒業するのだ。
教室に入ると黒板には色鮮やかな装飾がされていた。机の上には安全ピンの付いた赤い花が置いてある。それを胸元に着けて、体育館に向かった。
卒業式では不思議と涙は出なかった。周りで友人達がすすり泣いているのを見ても、泣くことはなかった。悲しくない訳ではない。誠梧や友人達と離れるのは非常に辛い。別れというものはあまり体験したくないものだ。しかし、それは始まりでもある。高校に入学し、ほぼ零の状態から生活を始めるのだ。私の心では始まりに対する期待が大きかったのかもしれない。
卒業式が終わると校門に向かった。同級生達は私の前を過ぎ行き、去るのを惜しみながら帰っていく。私はそれを見ながら待った。あの日々にしていたよう、全員が帰るのを待った。半時程待つと、やっと殆どの人が帰り、私は顔を昇降口に向け、中にいる誠梧と笑い合った。
「写真、撮ろうよ」
 二人きりの教室で誠梧が言った。私は頷きポケットからデジタルカメラを取り出して、教室のちょうど真中にある机に置いた。タイマーを十秒にセットし黒板の前にいる誠梧の横に立つ。私は顔の横でピースをして笑った。すると誠梧は私の肩に手を回し、同じくピースをした。フラッシュが光り、残像が残る目でふと足元に目を落とすと、誠梧は少し背伸びをしていた。私の肩を抱く為、つま先で立っていた。私にはその姿が可愛く、愛おしく思えた。


 合格発表の日。発表されるのは午後一時頃だと言うのに私の心臓は朝から忙しく動いていた。食事は殆ど喉を通らず不安ばかりが頭の中を回っている。手も小刻みに震えた。そんな私に母は
「大丈夫。あんたはあれだけ頑張ったんだから、合格してるわよ。合格してなかったら文句言いに行ってやる」
 と、笑い飛ばした。
「そんなことにならないように祈っとく」
 私の心が少し落ち着いた。しかし、まだ手の震えは止まらない。私はダイニングを離れ一度自分の部屋に戻った。部屋の扉を静かに閉めると、母が私に言った。
「昨日あんたが撮ってきた卒業式の写真、あれ帰りに現像頼んできなさいよ」
 ……写真。この言葉を聞き、私は急いで壁に掛けてあった制服のポケットからデジタルカメラを取り出した。ボタンを操作し、液晶画面にあの誠梧とのツーショット写真を表示させる。癒しの笑顔。頭の中で回っていた不安が消えたような気がした。誠梧と約束したのだから、絶対大丈夫、自分に言い聞かせた。
 そして午後一時。制服のポケットの中でカメラを握り締めた。
「大丈夫。絶対、大丈夫…」
 そう呟いて校門をくぐった。掲示板の前に人だかりが出来ている。喜びの雄叫びを上げている者、涙を流している者、小さくガッツポーズしている者、呆然と魂が抜けた様に立ち尽くす者、様々だった。私はその中をすり抜け掲示板の真正面に立った。緑色の掲示板に三桁の数字が並んだ白い紙が張り付けられている。私の番号は、二二四。全体を見つめ、まず近い数字を探した。二一五。
その下には二一七。ゆっくりとまるでスローモーションの様に一つ一つ数字を見ていった。二一八、二二一、二二二、二二三……。そこで数字は終わっていた。声も出さず涙も流さず周りの雑音は聞こえなかった。私だけがこの空間から切り取れてしまったような感覚に陥った。無表情のまま掲示板を見つめるが、二二三、その下に数字は無かった。しかし、その時私はあることに気が付いた。二二三の横に二五〇と言う数字があったのだ。私はそれを先程とは逆に一つ一つ見上げていった。…………二二四。その数字は私が二一五から見ていった数字の列の隣、その一番上にあった。
 私は自分で自分の間抜けさを呪った。しかし、次の瞬間、胸の奥から私は合格しているという喜びがこみ上げ、笑顔がこぼれた。
 それから書類などを貰い中学校に合格の報告をする為高校を出た。
「誠梧にも言わなきゃ、合格したって…。喜んでくれるかな? あっでも今、部活かな?」
 私は独り言を言いながら歩いていた。すると、
「楸」
 背後から声がした。振り返ると、そこには誠梧が笑顔で立っていた。
「誠梧…?」
「楸、良かったね。合格して、俺も本当に嬉しい」
 誠梧は優しい笑みを浮かべたが、すぐに表情を曇らせ、
「でも…俺、楸に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
 誠梧の顔は何となく白かった。いつもの褐色の肌が青白い。そういえば先程見せた笑顔も何処となく力が無かった。まるで存在が薄くなっているという様な感じ。
「約束、守れない…。俺が絶対に楸と同じ学校に行くって約束、守れない…」
「誠梧…?」
 声が少し震えていた。
「でも、俺はずっと側にいる」
 誠梧がまた力なく笑うと、目から一筋の涙が流れ、零れ落ちた。
「ずっとずっと楸の側にいる。だからずっと風を感じていて欲しいんだ。ずっと、走り続けて欲しいんだ!」
 誠梧が大声で叫び、今までで一番大きな笑顔を見せた。まるで太陽の様に暖かく春風の様に優しい笑顔。
「誠梧…!」
 私は誠梧に駆け寄ろうと、右足を踏み出した。刹那、強い風が吹き、私は眼を閉じてしまった…。


 

誠梧が交通事故で死んだと聞いたのはそれから十分後のことだった。

       ◇

入学式当日。私は真新しい制服に身を包み、これから毎日通ることになる校門をくぐった。
今日から私はこの学校で学び、部活で汗を流す。



風を感じるために走る。



その風の中に誠梧がいるような気がするから。



誠梧がそれを望んでいるから。



私は風を感じ続ける。



柔らかな春風が私の周りで舞った。

               
                    完
2005/04/27(Wed)20:34:30 公開 / 無夢
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