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『死ねない痛み  8/12』 作者:上下 左右 / 未分類 未分類
全角43755.5文字
容量87511 bytes
原稿用紙約133.75枚
 その1


「んっ……」
 俺は周りの目を気にする事なく大きく伸びをする。
なにか夢を見ていたような気もするが覚えてはいない。まぁ、夢っていうものはそんなものか。
 列車のほどよい揺れが心地よく、それによっていつの間にか寝てしまっていたようだ。
 伸びをしたのはいいが、脳は完全に覚醒していない。視界は、微妙にぼんやりしている。
 ちょうど駅に停車していたので、どの駅なのか確認をしてみた。まだ、目的地に着くまではだいぶ時間がかかるようだ。なら、もう一眠りさせてもらおうか。
今走っている路線はとてもマイナーなもので、地元の人しか使わないようなものだ。だから、この駅でも一人も乗ってこなかった。せっかく人はいないのだから贅沢に使わせてもらうとするか。
 そう思って、横長い座席に寝転がろうとした。
「んっ?」
 前を見ると誰も座っていない。しかし、俺の視界の片隅に何かがある。俺が寝る前、そこには誰もいなかったはずだ。
 そういえばさっきから俺の肩には何か乗ってるような感覚がある。
下手に刺激しないように、顔だけを横に向ける。彼女はそれに気づくことなくやや下を向いていた。スースーという寝息が聞こえてくるところからすると、どうやら眠っているようだ。
 そこには、俺よりも身長が低い女が座ったまま眠っている。年齢は、おそらく俺よりも二つは若い。まだ幼さの残っている寝顔を見てそう思った。
 それにしても何故、これだけ多く空いている席の中でここを選んだのか。
 整った顔立ち、きれいな髪、外からでもわかるスタイルのよい体。もしも相手が自分の彼女なら襲ってもおかしくない。それほど完璧な容姿をしている。でも、こういうのにかぎって性格が悪かったりするんだよな。
 心拍数が上がっていく。
 やばい。今、誰かに顔を見られたら変態に見られてしまうかもしれない。おそらく、俺はそんな顔になっている。
 それを誤魔化すために窓の外を見ることにした。
 外は真っ暗だ。おまけに猛吹雪で景色など影すらない。 
十二月の北海道は本当に寒そうだ。もしもあんな中に一時間も立っていたら確実に氷づけになってしまうにちがいない。
 子供のころに一度それに似たようなことをして死にかけた記憶がある。
 今から向かおうとしているのはその子供の頃に住んでいた場所。この前親父が他界したので俺に家を継ぐために戻ってこいという手紙が届いた。
 仕事もなにもしていない俺は、すぐに出発した。だが、後を継ぐ気なんて全く無い。
 仕送りで生活していた俺。今まで世話になっていた人物が死んだというのに行かないのは非人道的だと思う。そういうのは恩をあだで返すっていうんだな。
 そんなことを考えていると、突然に睡魔が襲ってきた。目的地まではまだ時間があるのだから寝てしまおうかな。
「ねぇ」
 遠くから声が聞こえたような気がするが構っていられない。俺は眠いんだから用事があるならその後にしてくれ。
「さっきまで起きてたでしょ。無視しないでよ」
 俺を呼ぶ声に怒りの色が混ざった。そして、その言葉と共に俺の瞼を指で強引に開く者がいる。
「痛たたたたた!!!!」
 無理に開かれたほうは堪ったものではない。瞼が裂けそうに痛い。起こそうとするのはまだ許せるが、その方法にも限度というものがあるだろ。
 すぐにその手をどけて立ち上がる。
 前の席とはだいぶ感覚があるのでその拍子に足を打つことはない。
「なにするんだよ」
 その痛みで眠気など完全に吹き飛んだ俺は、この車両に唯一乗っている人物に目を向ける。
「起きた起きた」
 そこには、心から喜んできる女性がいた。さっきまで俺の横で眠っていた女だ。
 明らかに怒っている俺の表情をみると、笑顔は一瞬にして拗ねたような顔に変わった。
「だってあなた、せっかく起きたのにすぐ寝ちゃうしさ」
「それはそっちも寝ていたからだろう」
 相手があまりにも自然に話しかけてきたから俺も何事もなかったかのように返事をしてしまったのだが、そもそも俺はこの女のことを知らない。
「お前、どこかで会ったか?」
 初対面の人間に馴れ馴れしいのは仕方がないとしておこう。こいつがそういう性格なのかもしれない。別に人の性格をとやかくいうつもりはない。
 だが俺は、彼女に一度会ったことがあるような気がしてならない。どこで会ったのか、ただ見ただけなのかはわからない。
「ひど〜い。昔に何度も会ったのに忘れちゃったの!?」
 俺ってこんなやつに会ったことあったかな……。
「いつ会ったんだ?俺はお前と会ったのは今回が初めてだと思うんだが」
 もう一度女に質問をしてみる。いくら思い出してみてもこんな女は記憶にない。これだけ魅力的なやつを忘れないと思うのだが……。
「最初に会ったのはいつだろう。確か十年ぐらい前だったかしら」
 十年前、ということは俺がまだ屋敷にいた時の話だ。あの頃の俺は病弱だったので家の中で過ごすことが多く、友達などいなかったような気がする。病気のせいで半分以上学校など行っていなかった。いくら小学校に留年制度がないとはいえ、出席日数というものが足りない。もしも俺が普通の家に生まれていたら、まだ中学校すら卒業できていないだろう。そこは親父の力、すなわち金の力でここまできた。
 だからといって勉強がまったく出来ないというわけではない。学校のあっている時間は家庭教師によって教育を施され、それが終わると行儀などの指導が待っていた。学校に行っていたほうが何倍もマシだと思えるような暮らし。おかげで中学生の時も成績だけはトップだった。
 そんなわけで俺には友達という友達がいなかった。
 屋敷に大勢の人はいたが、俺よりも年下の者などいなかった。そんな時期に会っているとは思えないのだ。
「嘘をつくなよ。俺はお前なんかにあったことはない」
 俺は確実に会っていないことを頭の中で確認し、すぐに女へと否定の言葉を放つ。
「なんだ、ほんとに覚えてないんだ。ちょっとショックだなぁ」
 本当にショックなのだろうか。女は泣きそうな顔になった。
かわいい。あまりにもその仕草が女らしく、思わずそう考えてしまう。そして、俺は悪いことをしたという気持ちになってしまった。
「いや、すまない。今のはちょっと言い過ぎた」
 さっきの瞼に対する攻撃のせいで、どうやら頭に血が上ってしまったようだ。落ち着くために自分の席に座る。
「悪いが最初から話してくれないか。どうやら俺は何も覚えてない」
 落ち着きを取り戻した俺は隣に座っている女にそういう。
「まずは名前を教えてくれ。ずっとわからないままじゃ大変だ」
 彼女を見下ろす形でその姿を見る。相手もこっちを見上げるようにしているので顔を見つめあう結果になった。これだけかわいい顔を見ているとなんだか照れてしまう。
「ほんとに覚えてないんだ。わかった。お姉さんが教えてあげましょう」
 そういって、彼女は少し呆れながらも楽しそうに初めて会った時からそれからの生活を語り始めた。でも、どうみても俺よりも年下のような気がするのは俺だけだろうか。
 彼女の名前は秋月鈴花という。俺と初めて会ったのはさっきも言ったとおり十年前。俺が病気になるたびにお見舞いに来てくれていたようだ。毎回毎回来てくれていたという話なのに、どうして俺は忘れていたのだろうか。
「思い出した?」
「全然」
 そういわれてもまったくといっていいほど思い出せない。
おかしい。病気になった時の記憶はいくつも存在するのだが、そこに彼女が一度も登場しない。
「だめだ。どうしても思い出すことが出来ない」
 そういうと、沈黙の時間が流れる。俺たちしかいないのだから当たり前だが、周りからは話し声が全く聞こえてこない。聞こえてくるのはゴトンゴトンという列車特有の音だけ。
 相変わらず、どの駅に到着しても誰ひとりとして乗ってくるものはいない。これだけ誰もいないと地球上で生き残っているのが俺たちだけのような気もしてくる。
 特に派手でもない内装はまったく変化がない。あるのは外の景色だけだ。
「そんなに私のこと忘れたかったわけ?」
 そんなことわかるはずがない。秋月との思い出どころか彼女の存在すら出てこないのだ。本当にそんなことがあったとしてもそのことすら覚えてはいない。
その言葉を口にして彼女はまたも悲しそうな顔をした。
「頼むからそんな悲しそうな顔をしないでくれ。俺のほうが傷つきそうだ」
「なんで?」
 何故って、そんな恥ずかしいことを口に出来るはずがない。何とかごまかさないと……。
「そういえば、秋月っていくつなんだ?さっきはお姉さんとか言っていたが、どう見ても俺よりも年下なんだが」
「なに。女の子に歳を訊こうって言うの。あんたは」
 うっ。今の俺は確かに失礼な奴だった思う。年頃の女性に年齢を聞くのはあまり好ましいものではない。しかし、さっきの質問をごまかせたのなら良しとしよう。
「年齢は言ってあげないけど、確実に霧斗よりも年上よ」
 霧斗というのは俺の名前だ。春道霧斗。たった一代で日本の借金をチャラに出来るほどの財産を築き上げた春道財団の息子。本当なら俺がその後を継ぐはずであった。しかし、親父は会社を一代で終わらすつもりだったらしく、親の力を借りずに自分の力だけで生きていけという意味も込めて中学を卒業した瞬間に家から追い出したのだ。
必要最低限の金だけは今まで送ってもらっていた。さすがに生活が安定するまでは金を送ってくれるはずだったようだ。毎度毎度就職しろという手紙が一緒に入っていたことは言うまでもない。
「次は終点」
 高くも低くもない機械的な声が客のほとんどいない車内へと空しく響き渡る。
「おっと、やっと着いたか。よし、秋月。下りるぞ」
 荷物を持って席を立った。
 見ると、さっきまで座っていたはずの女が横から消えていた。俺が考えている間にどこかに行ってしまったのだろうか。考え事をすると周りが見えなくなるのは悪い癖だ。きっと、ひとつ前の駅などで下りたのだろう。
 まだまだ話したいことは山ほどあったのだがしかたがない。夜も遅いことだし早く親父の家に行くとするか。 
 さっきまであれほど強かった吹雪も止み、きれいな星が顔をだしている。


その2




 駅の周りには自然が多く、街灯というものがほとんどない。まさに手が付けられていない状態だ。こんなところに人が住んでいるのか不思議になるほどの静寂。車が走る音や人の歩く音すら聞こえない。
 バス停を探してもどこにもないし、タクシーが止まっている様子もない。どうやら家までは歩いていかなければならないようだ。
 地図を開き、家がどこにあるのかを確認する。あまりここから距離は離れておらず、十分ぐらいで到着できる。よし、こんな寒いところでじっとしていても始まらない。さっさと行くとするか。
 俺は唯一光のある駅から歩き出した。その時だった。
 後ろから車が近づいてきた。都会に住んでいる癖というものなのだろうか、車がほとんど通らない道でも端を歩いてしまう。まぁ、そのおかげで今は轢かれずにすんだんだけどな。
 自らのライトで高級を思わせる黒いボディーを光らせながら俺の真横で車は停止した。
「春道霧斗様ですか?」
 怪しい臭いをプンプンさせた車の窓が少し開き、おとなしそうなイメージのある女性の声が聞こえてきた。いや、大人しそうというか感情がこもっていないといったほうが正解かな。
 俺はこんなところまで名前を知られているようなすごい人物ではない。もしも名前を知っているとすれば身内の人間ぐらいのはず。
「誰だあんた。なんで俺の名前を知っている。ここら辺に知り合いなんてものはいないから勧誘とかならお断りだぞ」
 気温は零度を下回っている。そんな中で長話などはしたくない。さっさとわけのわからないやつを追い払って実家へ到着しなければならない。もしも明日の朝までに到着できなければ死んでしまってもおかしくは無い。
「申し訳ございません。今のは確認をとろうとしていただけです」
 声の主はそういうと車のドアを開いて登場した。
 背の丈は俺よりも少し低いぐらいだ。暗闇なので色まではわからないが長い髪はなにを使えばそうなるのかと思うほどのつやを持っている。
「あんたは?」
「私は春道様の家で働かせてもらっている者です。本日は主である霧斗様がご帰還されるということでお迎えに上がりました」
 言葉を無理に丁寧にしているのでところどころにおかしな部分がみられた。
あまり俺と変わらなさそうな歳なのに敬語を使われるというのはあまり好きではない。
「ああ、親父の家で働いている人か」
「いいえ、今ではあなた様の家です」
 どうやら親父は、俺にあの家を受け継がせるつもりのようだ。現に、家の者と名乗ったこの子は俺のことを主と呼んでいた。
「残念だが、あの家の主になるつもりはない。財産ももらわなくていいのならもらわないつもりでいる。君が俺に畏まる必要はどこにもない。だから、俺がこっちに滞在している間だけでも普通に話してくれないか?あんまりそういう堅苦しい話し方は好きじゃないんだ」
「いいえ、そんなことはできません。霧斗様は私の主ですから」
 だめだ。人の話なんか聞いちゃいない。感情のない顔から発せられる言葉は敬語だった。
こんなのでは、せっかくのきれいな顔が台無しである。
「その話はまた後にしましょう。まずは車にお乗りください。長い時間ここにいては風邪をひいてしまいます」
 そういって後部のドアを開けた。中からは暖房により暖められた空気が流れでてくる。早く入らないと中の温度が外と同じになってしまう。せっかくの親切を無駄にするわけにはいかない。さっきの話は車の中で行うことにするか。
「ありがとう」
 俺は礼を言って、暖かい車の中に腰を下ろした。今まで寒い中に立っていたのでそこが天国のように感じられる。
 彼女も同じように乗り込むと、車を発進させた。
「先ほどの話の続きですが、霧斗様には明日からいろいろとしてもらうことがあります」
「ああ、財産とかそういうのだろ?」
「いいえ、違います。家に残っている財産は全てあなた様が相続することになっています。そのことに関してではありません」
「残念だがその言い分は却下だ。俺はあの家を継ぐ気はない」
 俺は一般的な位置で働き始めたい。いきなり社長などといった高い地位からのスタートなんてやりたくもない。
「俺のほうもさっきの続きだが、その堅苦しい言葉遣いをやめてくれないか?話しているこっちは困るんだが」
「先ほども申し上げたとおり、それはできません。主人の命令を忠実に聞くのが雇われ人の務め。そんな者が気軽に話していてはおかしいでしょう」
 同意を求めるような言い方をされても困る。
 こうなっては、最終手段を使うしかない。
「お前は、俺の言うことなら何でも聞くのか?」
「はい。申し付けられたことならなんでも」
「だったらまずはそのしゃべり方を何とかしろ。これは願い事じゃない。命令だ」
 自分で言っていて嫌になってくる。何故同い年ぐらいの女の子に向かってこんな言葉を言わなければいけないのか。もっと別の出会い方をしていれば普通に話すことも容易だったはずだ。
「わかりました。できるだけ努力します」
「ああ、努力してくれ。まずは、その霧斗様ってのをやめてくれな。呼び捨てでいい」
「すみません。さすがにそれはできません。せめて霧斗さんと呼ばせてもらうことにいたします」
 まぁ少し硬いが、それぐらいなら普通に話す分には問題ないだろう。少し丁寧な話し方をする子だと思えば我慢はできる。
「これでまともに話すことができる。まずはあんたの名前だ。いつまでもこのままだと話しにくいだろう?」
 相手の名前がわからないといつまでもあんたとかお前としか呼べない。それだと人というものは物凄く話しにくいものなのだ。
「知ってはいるだろうが、俺は春道霧斗。ただのフリーターだ」
「私は夏森洋子です。先ほども申し上げたとおりこれから霧斗さんのお世話をさせてもらう者です」
 そんなこと言ってたかな?さっきまでの俺は寒いという環境にいたからそれを耐えるために意識を集中していた。だからその部分を聞き逃してしまっていただけかもしれない。
 暗闇であまりわからなかったが、思ったとおり彼女の彼女の髪は艶のあるきれいな黒色をしていた。バックミラー越しに見る顔はさっきの予想とはかけ離れていた。妙に大人びいた顔つきは無表情から来るものなのかもしれない。
「よし、これで会話というものが成立するようになった。まずはお前について教えてくれないか?例えば歳とか」
「今年で十八になります」
「はっ?」
 十八ってことは俺よりも二つ歳下だ。彼女は、そんな歳なのになぜあの家に仕えているのか。
 俺が同い年の頃、十八歳の時といえば楽しく高校生活を送っていた。勉強も中学のころにほとんど終わらせていて、復習をするようなものだったから学年順位もそこそこの位置にいた。そのおかげできつかったことといえば金を稼ぐために行っていたバイトぐらいのものでそれ以外は快適な事この上なかった。
 そんな時に、彼女はすでにあの家で働いていたというのか。 
「それがどうかなされましたか?」
 彼女も彼女でそんなことはどうでもいいといわんばかりだ。本人が気にしていないのならそれでもいいのだが。
 外にはちらほらとしか街灯は見えない。都心部に比べたら蛍光灯と蛍なみの違いがある。でも、俺は強すぎる光よりもこれぐらいのほうが落ち着く。
「いや、別にいい。俺よりも若いんだなと思ってな」
「はい。私は霧斗、さんが八歳の頃でした。私は春道家に仕えだしたのは」
 俺が八歳のころといえば、夏森は六歳。そんな歳でまともな仕事ができるはずなどない。
「私の家は代々春道家に仕えております。母が、私のことを見習いとして働かせるようになりました。直接お世話をさせてもらったことはありませんから私のことは知らないと思いますが」
 確かに当時、中でも外でもそんな子を見かけたことがない。同じ屋敷に住んでいたというのにそれはそれですごいことのような気がする。
「夏森はそれでいいのか?お前たちが俺のことを主って言うんなら止めさせてやることもできるはずだが」
「いえ、それは無理です。今私がやめるとあの家を管理する者がいなくなってしまいます」
 俺にはあまりよくわからないが、人間が一人いなくなるだけで屋敷の掃除やらなにやらが行き渡らなくなってしまうものなのか。
「それはいったいどういう意味なんだ?」
「言葉で説明するよりも、実際に見てもらったほうが早いです」
 彼女はそういうと、ゆっくりと車を停止させた。


  その3

「到着しました」
 その言葉を聞いて、外に出ようとドアに手をかける。しかし、俺がそれを開くより先に開かれた。
 こんなことをされると、やはり恥ずかしいというかなんというか。
 先ほどからずっと見えていた大きな壁。それが俺の目の前で鉄の柵によって途切れている。それはものすごく大きな門だ。一般家庭にあるようなものとは世界が違うようにも感じられる。
 化け物屋敷か。
 これから数日間滞在する屋敷を見て、俺は自然にそう思ってしまった。
 外装はそれほど汚れてはいない。むしろ最近建てられたといわれればそれで通じてしまうようなきれいさだ。庭の手入れもしっかりしている。暗いのでシルエットのように見えるが十分にきれいだと思える。
 なんというか、雰囲気に禍々しいものが混ざっている。金持ちの人間を見てもあまり善人には見えないような、そういう感じだ。
「おや、帰ってきたのかい?」
 家の中から声がしたかと、玄関のライトがオンになる。
 先ほどまで暗い中にいた俺は、それほど強くない光でも一瞬目が眩んでしまった。
 きれいだという感想は中に入っても同じだった。
 飾られている壷や絵画は古いものとは思えないほどに綺麗に磨かれている。月のようなわずかな光でも反射しそうなほどの出来栄えだ。
「今戻りました冬雲様。髪の毛ぐらいセットしたほうが宜しいと思いますが?」
 失礼とは思うが、彼はあまりこの屋敷に合っているとはいえない。セットされていないボサボサの髪に、折り目のほとんどついていないまっさらな白衣を着ている。
「いいじゃないか。僕と君、そして霧斗君しかいないんだし」
 夏森とは違い、冬雲という男は俺のことをすでに様付けではない。その代わりに君付けだ。霧斗様と呼ばれるのにも抵抗はあるが、霧斗君と呼ばれるのも又違和感がある。
「こちらの方は?」
「この人は冬雲良太様。お父上である先代春道様の専属の医者でありました」
「よろしく」
 笑顔で握手を求めてきた。
 それに応じない理由はない。
 差し出された手を握り返す。
「こちらこそよろしく。冬雲さん」
「他人行儀なんか使わなくていいよ。特にさん付けなんかね。」
 さっき、夏森にあそこまで言ってしまった以上、俺もそれに従うしかない。自分でああいうように言っといて、自分が呼ばないわけにはいかない。
「それじゃぁ冬雲。これから一週間ほどよろしく」
「あれ、霧斗君。これから一緒に過ごすんじゃないのかい?」
「それはそっち側で勝手に決めたことであって、俺は納得していない」
「どうしてだい?財産だってこれだけあれば一生遊んで暮らせる。あんなにかわいい子もいるっていうのに」
 何故といわれても困ってしまう。
 今まで、俺は理由がわからないまま家を出ていた。そして、今度は意味もわからないまま跡を継げという。なんだか、いいように利用されているだけのようで嫌なのだ。
 何もかもが突然過ぎるというのもある。だから、もう少し時間が欲しい。
「全て否定しているわけじゃない。ただ、もう少し時間が欲しい。親父が死んで、突然こっちに来るようにいわれたから、頭の整理がついていなくて」
「まぁ、決めるのは急がなくてもいいよ。おそらく君はこの家を継ぐという選択肢しかなけどね」
 冬雲の表情は、言っている途中で豹変した。笑顔というものは完全に消えてしまい、狂気に満ちた笑いへと変わった。
「それは、いったいどういう意味だ?」
 その顔を見たときに背筋がゾーッとした。まるで人殺しを楽しむ殺人鬼のような顔。そのような表情を一度見てしまえば二度とその人間をまともな者と見ることができないような、それほどおぞましい笑みだった。
「それに関してはまた明日にでも話そう。いろいろと長くなるからね」
 さっきの表情は俺の見た幻覚だったのか。そんな風に思えるほど男の表情は穏やかなものになっている。
 この男にいったいなにがあったのか。よほどのことがない限りあの表情はできない。
「それにしても、洋子ちゃんによく様付けをやめさせれたね。よほど気に入られているのかい?」
「いや、俺も最初は頼んだんだけど嫌って言われた。だから仕方なく命令したんだ」
「命令か。霧斗君も場合はちゃんときいてくれていいね僕の場合は命令してもきいてくれないんだよ。どうしてかな」
「それはきっと冬雲のことを心から慕っているからじゃないのか。俺は会ってから間もないからきき入れてくれたんだろう」
 いつのまにか夏森は消え、玄関には二人だけになっている。
 ここだけでなく、奥の電気がついているということは彼女がそこにいるのであろう。
「できれば慕って敬語じゃなくて、慕わずタメ口の方がいいんだけどなぁ」
 彼はそういうと、光の続いている方へと歩んでいく。
「さて、少し遅くなったがご飯にするとしようか。洋子ちゃんが支度してくれている」
 すでに部屋へと入った冬雲は俺のことを手招きしている。
 先ほど電気がついていたのは食堂だったようだ。
 このテーブルは、いったい何人用だとききたくなるような大きなテーブルがひとつ。それには全く吊り合わない二つだけの椅子。
 先ほどの廊下でもほんのりと暖房が効いていたが、ここはそんなものではない。半袖でも十分に生活できるほどだ。これほど大きな部屋をこれだけの温度にするために、どれだけの電気代が必要になるのか、予想もつかない。
「食べよう、霧斗君。君もお腹が減っているだろう」
 大きなテーブルの上には湯気をたてながら無数の料理が並んでいる。これだけ立派な料理は今までに見たことがない。下手な料理店よりもうまそうに見える。
「これは全て洋子ちゃんのお手製だよ。君が帰ってくるときいて張り切って作ってくれていたんだよ」
「そんな、冬雲様」
 これを作った本人は恥ずかしそうにしながら冬雲に対して抗議する。
 ここに来て、彼女のこんな顔を初めてみた。やはり、夏森も年頃の女の子。ちゃんと表情というものを持っている。一安心だ。
「そんなに恥ずかしがることでもないじゃないか。おいしいことには変わりないんだから」
 彼はそういうと、俺に自分の座っているのと反対側にある椅子を勧める。
 それに無言で頷くと、そこに腰を下ろす。
「あれ。ひとつ足りないような気がするが」
 テーブルに用意されているのはどうみても二人分だ。しかも冬雲と俺の前にしか料理が出されていない。明らかに彼女の分がたりない。
「洋子ちゃん。お願いだから一緒に食べようよ」
「いえ、使用人が主人とともに食事をとってはいけない規則になっておりますので」
 恥ずかしそうな顔は消え、またもや無表情でそのようなことを言う。
 彼女は二人のちょうど真ん中に立っている。まるで、なにか命令されるのを待っているかのように。
「またか」
 通常の家で生活していたら、ここで起こることが全部おかしいように思えてくる。
 これを戻すのも、彼女をこのようにしてしまった親父の子供である俺の仕事だ。
「夏森、自分の食事を用意しろ。明日からはみんな一緒に食事をとる」
 何でこんなことを命令しなければならないかな。
「かしこまりました。先に召し上がっていてください。すぐに用意して参りますので」
 今度は全く抵抗をしなかった。今のが命令であることを察知したのだろう。こちらに背を向けて台所に向かっていった。
 もちろん俺も冬雲も食事には手を付けていない。
 少々料理が冷めてしまうのはもったいないが、あんな風に見られているよりはよっぽどマシだ。
 彼女が戻ってくるまでにそれほど時間はかからなかった。
 俺らと同じ食事を用意した夏森は俺らが座っている大きなテーブルではなく、部屋の隅にあった一人用の小さなテーブルに座ろうとした。
「違う。こっち」
 それをすぐに止め、テーブルのちょうど中央を指差した。
 彼女は少し戸惑いながらも椅子を自分で持ってきて、そこに腰を下ろした。
「このテーブルじゃ、二人では大きすぎたろうに」
「実際には僕一人だったんだけどね。何度いっても一緒に食べてもらえなくてね」
 なんか、二人ともすごい生活をしているような気がしてきた。
 とりあえず、これ以上料理が冷めないうちに食べてしまおう。
「それじゃぁ、いただこうか」
 冬雲のその言葉で俺たちは食事を開始した。
「うまい」
 これは心のそこからの感想だ。嘘偽りは全くない。むしろ冗談で口に合わないと言おうとしたが、それよりも先に言葉が出てしまった。
「だろう?彼女の料理は街にあるような料理店よりは全然おいしい」
「そんなことはありません」
 またも、ちょっと恥ずかしそうな顔をしながらそれを否定する
「いや、これは確かに冬雲の言うとおりだ。確かにうまい」
 口ではなんだかんだ言っていても、やはりほめられるとうれしいようだ。
 その後、三人には沈黙の時間が流れた。俺のスプーンが皿にこすれる音だけが響く。
 あまりの沈黙に耐えられなくなった俺は、自分から質問をしてみることにした。
「なぁ、二人とも俺が子供の頃からこの家にいるんだよな?」
「いや、僕は君とは初対面なんだ。君が出て行ってからこの屋敷に仕えだしたからね。それがどうかしたのかい?」
 親父の専属だと言うからそういわれればそうだな。俺がここにいた時、親父はまだバリバリに働いていた。医者などいらないか。
「ちょっとききたいことがあったんだが、冬雲にはわからないかもしれないな」
「ということは、私でしょうか?」
「ああ。秋月っていう名前を聞いたことないか?」
「!!」
 冬雲の表情が一瞬凍りついた。この表情からすると何かを知っているな。
「残念ですが、そのような方は見たこともきいたこともありません」
「そんなはずはない。俺がこっちにいた頃に何度もきていただろう」
「昔は人の出入りなどよくありましたので、親戚の方がきたのではございませんか?」 
そもそも、俺にはそいつに会った記憶がないのだ。初対面の女にあんなことを言われて信じる俺も俺だ。
「いや、すまない。気にしないでくれ」
どうも冬雲の様子がおかしい。この話に触れられたくないような態度だ。さっきから一言も話さない。ただ単に話しに入ってこれないのではない。明らかに話したくないという様子だ。
 俺のこの質問がさらに場の空気を重くしてしまった。ただ話さないだけではなく、異様な雰囲気が三人を包み込んでいる。 
「ごちそうさま」
 俺は食べ終わった食器を台所に持っていく。
「私が持っていきますので置いていてください」
「いいって、自分でできることはやらないとな」
 彼女の言っていることを無視して進む。
 台所は広い。調理場といってもいい。夏森はこんなところで料理をしているのだ。広すぎて落ち着かない気もするが。
「それで、俺の部屋はいったいどこにあるんだ?」
 全員が食事を終了し、冬雲が部屋に戻ったのを確認して夏森にきいてみた。
「少々お待ち下さい。すぐに案内しますので」
 台所(厨房?)で食器洗いをしていた彼女は終わってもいないのにこっちを優先してくれた。
 いや、案内してくれなくても口で言ってくれれば大体わかるんだけど。
「ありがとう。でも、自分の仕事を優先してくれてもいいんだが」
「いえいえ、主人の用事を優先させないといけませんから」
 うれしいのか悲しいのか、なんだか複雑な気分だな。
 それにしても、外から見たときは広いと思ったが、中を実際に歩いてみると更に広く感じる。まるで学校の校舎を歩いているような感じがする。
「ここです」
 普通の二倍はあろうかという大きな階段を上った二階。そこの一番奥にその部屋はあった。廊下には赤いじゅうたんが敷かれ、元々そこにはいろいろなものが飾られていたような後が残っている。
 その部屋も食堂に負けず劣らずの広さだった。おそらく、全く動かない象がこの世にいるとすればここで飼うことも可能だろう。
「なぁ、もう少し狭い部屋はないか?こんなに広いんじゃ絶対に落ち着かない」
 彼女は明らかに困った顔をしている。
 他の部屋も見せてもらったがどれも俺には広すぎてあわない。
「どこか物置かなにか空いてないか?」
「物置に住もうというのですか?そんなことはさせられません」
 表情には出ていないが、さすがに言い方が少し怒っている。
「しかし、気に入ってもらえる部屋がないのであれば明日にでも狭い部屋をご用意いたします。これだけ大きな屋敷です。きっとちょうどよい部屋があります」
 明日、物置でも掃除してくれるのだろうか。
「仕方ありません。今日は私の部屋でお休み下さい。霧斗様が泊るには少々汚くて狭い部屋ですが」
「いや、それはさすがに」
 いくら使用人とはいえ、女の子の部屋だ。男の俺が泊るわけには行かない。
「大丈夫です。私なら他の部屋で休みますので」
「それはもっとダメだ。俺が君を追い出すような形になってしまうからな」
 俺は更に続ける。
「しょうがない。今日はリビングで寝る。さっきあそこにはちょうどいいソファーがあったからな」
「しかしそれでは」
 いいかげん、これを言うのも飽きてきたな。
 明日にでもその話は解決させるとしようか。この子を説得するには時間がかかりそうだからな。ゆっくりと話し合って納得させないと今後、こんなことが続いてしまうに違いない。
 今回は俺の表情を見てすぐに納得したようだ。
「わかりました。それではこれよりお布団をお持ちしますので、リビングの方でお待ち下さい」
 彼女はそういうと、屋敷の奥のほうへと消えて行った。
 俺は言われたとおりリビングに向かうため階段を下りていく。
 ここには地下というものがあるらしい。一階のフロアに更に下に向かうための階段がある。これだけ広い屋敷なのだからあっても不思議ではない。
 行ってみるか。
 地下があるなどなかなか珍しい。いったいどのような構造になっているのか見てみたい気もする。
 心臓が激しく運動をしたときのように異常な速さを見せている。それほど暑くもないというのに額からは汗が流れている。
 いったい、この先になにがあるというのだ。
 俺は、人間にも動物と同じように危険を察知する能力があるのだとこういうときに思う。ただ、自然災害にはほとんど反応しないだけで、私的にはものすごく反応するのだと。
 激しい頭痛が俺を襲った。軽い眩暈もする。
「霧斗さん、そのようなところでなにをなされているんですか?」
 俺は、その声を聞いて我に返った。自分はこんなところで何をしているのだろうか。
声のした方を見てみると、両手いっぱいに布団を抱えた夏森がそこに立っている。
「君が布団を取りに行って、どのくらい経った?」
「十分程度ですが、それがどうかしたのですか?」
 それだけの時間、ここで立っていたことになる。 
 俺は何も言わずにその場を後にしてリビングに入る。中は食堂と同じようにとても暖かかい。
「そんなことしなくてもいいって」
 夏森がソファーにベッドメイキングをしだしたのでそれを必死に止める。
 だが、その努力もむなしく全て終わらせてしまった。
「それではお休みなさいませ。明日は何時ごろに起床なされますか?」
「特に何時というのはないんだが。そうだな、九時ぐらいに起こしてくれ」
「かしこまりました」
 彼女はそういうとリビングのドアを閉めた。

  

 その4


 周りに静寂が立ち込める。隣の部屋にある大きな柱時計の振り子音が不気味な音を鳴らしている。遠くからは人のうめき声のようなものも聞こえる気がする。
 今日はいろいろとあったな。これだけ大きな屋敷にも来たし、夏森という子にも出会った。冬雲という独特の雰囲気を持った男にも会った。
 そして、ものすごく怪しい女とも出会ったことだ。
不思議な奴だった。初めて会ったというのにひさしぶりだといった。いったい、なにが目的だったのか。まさか、新手のナンパ方法だったのか?
 いや、女よりも気になることがあった。あの地下への階段だ。
ほとんどないはずの俺の第六感が明らかに行ってはならないと言っていた。あのまま無理に進めば自己防衛のために意識が飛んでいたかも知れない。
 なにか、俺が見てはいけないものがあそこにあるというのだろうか。
 いつの間にか、頭痛も止んでいた。
 この屋敷は一体なんなんだ。
 俺は昔ここに住んでいた。それは確かだ。なのに、全く懐かしいという感じがしない。
外見だけでなく、内装にも全く覚えがない。人間、少し変わったぐらいでわからなくなるものではない。まるでここは住んでいた場所とは違う場所のように思える。
 たとえ一人だったとは言え、屋敷にはいろいろな思い出があった。
 病弱な体で大きな木を登って怒られたこともあった。廊下を走っていて怒られたこともあった。門の外に出ようとして怒られたこともあった。こうやって思い出してみると、叱られてばかりの生活を送っていたような気がするな。
 んっ?俺はそんなことをたった一人でやっていたのか?子供の頃は一人でそんなことをしていたというのだろうか。
 なんか、もう一人いたような気が。
「痛ッ」
 まるで、何か思い出すのを邪魔するかのようにまたも頭痛が俺を襲う。さっき感じたものと比ではない。まるで頭を何度も壁に打ちつけられているような痛さ。
 俺にはどうすることもできない。ごまかそうとして寝ようとするが痛みのせいでそれすらもできない。
 時間が経つにつれて痛みは増していく。
痛みによって暴れだしそうな体を必死で抑えこみ、声をださないように努力する。もしも出せば夏森が飛んできそうだからだ。
「ううっ」
 なんなんだこの痛みは。今までに一度もこれほどのものを体験したことがない。頭に大きな怪我をしたこともないから、それの類ではない。
 体が、あまりの痛さに汗を吐き出している。
 誰かが俺を揺すっているような気がする。
 しかし、布団に潜っている俺はそれが誰なのかもわからなければ本当にそうされているのかもからない。
「霧斗、起きなさいよ」
 今度ははっきりときこえた。女の声だ。
 俺はそれに答えることができない。この頭痛のせいで答えることが……できる。今の声がした瞬間に頭痛は嘘だったかのように止んでいた。突然現れたり消えたり、なんとも忙しい頭痛だことで。
 こんな時間に誰なんだ。夏森はさん付け、冬雲は君付けで呼ぶ。呼び捨てにするの奴はここにはいないはずなのだが。
「いったい誰だ」
 もちろん寝ようとしていたので周りは真っ暗闇だ。普通ならば相手の顔などわかりはしない。
 だが、そいつのことはすぐにわかった。
 なんせ、目の前にそいつの顔があったからだ。この距離だと外から入ってくる淡い月明かりでも十分にわかる。
 ここで気になることがひとつでてくる。そいつはこの屋敷にはいないはずなのだが、どうしてその声が聞こえるんだ。
「やっほ〜。元気にしていた?」
 まるでそこにいるのがさも当然かのように俺の目と鼻の先で笑っている。
「元気にしていたもなにも、さっき別れたばかりだろ」
 あまりにも突然のことに、思考が理解していない。何の変哲もない答えを返してしまった。
「それもそうよね」
 俺から顔を離し、足元に座る。一般家庭にあるようなソファーとは比べ物にならないぐらい大きいので、座る場所には困らない。
 なぜかこの家にいる彼女、秋月はなにがうれしいのか小さく鼻歌を歌っている。それは激しくはないものの、にぎやかな曲だ。
 この曲、今までに何度か聞いた事がある気がする。まぁ、昔に流行った曲ならあってもおかしくないか。
「それで、お前はなんでこんなところにいるんだ?」
 さっさと本題に入る。
 秋月は鼻歌をやめてこちらを向いた。
 俺の目は暗闇に慣れてきたおかげで彼女がどのような行動をとっているかどうかぐらいはわかるようになっている。
「なんでっていわれても困るんだけど。ここ、私の家だし」
 両者に沈黙の時間が流れた。
 こいつはなにを言っている。さっき夏森や冬雲に聞いたところ、こいつのことを知らないといっていた。彼らはここの住人。どちらを信用するのかは誰かに聞かなくてもわかるだろう。
「そんなことはどうでもいいじゃない」
 今一番肝心だと思われる部分をそういい、秋月は笑顔のまま話をそらした。
 二人は、列車に乗っていたときと同じように特に意味のない話をする。そして、やはり同じようにこのことも話し出した。
「でも、本当に昔のことは覚えてないのね?」
「そんなことはない。昔のことは鮮明に覚えている」
「嘘よ。だって私のこと覚えてくれていないもの」
「覚えているも何も俺はお前のことを知らないんだ。忘れているわけじゃない」
 確認をとっても、こいつのようなものは昔家にいなかった。
「いたもん。どうしてそんなこと言い切れるのよ」
 まるで、子供が拗ねているかのような言い方だ。自分では年上だとは言っていたが予想どうり、精神年齢はそれほど高くはないようだ。
「ここの住人に確認したからな。間違いないぞ」
「あの二人か」
 先ほどの笑っているような声とは全く異なり、殺気の混じった声色になる。
 それっきり秋月は話さなくなってしまった。場の空気が重い。まさか、こいつとの会話でこのようなことがあるとは思ってもみなかった。
「どうした?お前、なんか怖いぞ」
 心の底からの感想だ。
「そんなことないわよ」
 殺気があったのは先ほどの一瞬だけでまた、元の調子に戻った。満面の笑みでこちらを見つめる。
「今日はもういいや、帰る」
 こいつはさっき、自分はこの家に住んでいるといっていたのに帰るとはいったいどういうことだ。矛盾しまくっているぞ……。
秋月がそういうのを最後に、俺の意識は一瞬にして深い闇の底に沈んでいった。

 俺は、見覚えのない廊下を走っていた。いろんな装飾品があって、ものすごく立派なところだ。体の小さな俺にはそこが宮殿の廊下のようにも思えた。
 どこまでも続く廊下。どこまで行っても明かりは付いているのだが先は常に真っ暗で、なにがあるのかはわからない。
 いったいどのくらい走っただろうか。心臓は今にも破裂せんばかりに激しく鼓動し、肺も少しずつ空気を取り込む量が少なくなっていっている。足だって何度も縺れてしまった。しかし、何とか体制を立て直して走り続ける。
 右腕には強烈な痛みを感じる。見ると、そこからは大量の血が流れ出している。怪我をしたのはだいぶ前のようだ。そこから血がにじみ、下に垂れている。地面には、俺が走ってきた方からずっと赤い点が続いている。
 助けて、と叫ぼうとするが声が出ない。出すような余裕がない。そんな力があるのなら走ることに集中しろ、俺。
 もしも、捕まれば命が無いというのはわかっている。相手が人間ではないからだ。
「くっ」
 筋肉が悲鳴を上げている。頭では走らなければいけないということがわかっていても体が言うことをきかない。俺が筋肉を伸ばそうとする力より、縮もうとする力のほうが強くなってきている。
「うあっ!」
 ついに、足が動かなくなってしまった。
 バランスを崩して地面に思い切り倒れる。顔が地面との摩擦で火傷する。
 それでも必死になって前に進もうとする。手と足を使って、まるで地面を這うように。
怖い。捕まれば死んでしまう。捕まれば明日は無い。そう思うと頭の中を恐怖という色が染め上げていく。もう、頭の中は前に進むことと怖いというものしかない。
 無理に前に進もうとするものだから指の先はボロボロになり、爪は剥がれてしまっている。
 俺の倒れているところは腕から流れる血のせいで真っ赤な海ができている。ものすごい早さで体温が奪われていく。それとは逆に、体の表面は生暖かい血液で少し熱を感じる。
これだけの血液を失ってよく生きているものだな。
「ううっ」
 立ち上がろうと少し頭を上げた瞬間、誰かに思い切りたたきつけられた。あまりにも強い衝撃に視界が一緒真っ白になる。
 追いつかれた。
もう、こっちには逃げるだけの体力は残されていない。このまま、むざむざと殺されるしかないのか。
 またも、体に激痛が走る。今度は脚。逃げられないようにしたのだろう。どちらにしろ、俺はもう立ち上がることさえできないというのに、ご苦労なことだな。
相手は次々と俺の肉を食いちぎっていく。
「……」
 俺の体が仰向けにされた。やはり、魚と同じで人間の腹の肉は油がのっていてうまいの
だろうか。もう、自分で呼吸をしているのかもわからなくなってくる。
 目の前にそいつはいた。後ろからの強い光によってその姿はシルエットのように見える。女のように見えた。ほっそりとした体つきに膨らんだ胸。髪はそれほど長くはない が、男の物とは明らかに毛質が違う。
 それを見たのが、俺の最後だった。


「!!」
 俺はソファーから落ちてしまった。まだ、脳が完全に覚醒していないのであまり痛くはなかったが、その衝撃で目を覚ます。周りはまだ暗く、屋敷の中は静まり返っている。
 寝汗をかいたようだ。来ている服がベタついて冷たい。着替えの入っている鞄は夏森がどこかに持っていってしまって俺の手元にはない。仕方ないのでシャツだけを脱ぎ、肌の上に直接セーターを着る。ざらざらとした感触が気持ち悪く、拭き取っていない汗を毛糸が吸い込んで気持ちが悪い。だが、あんなに濡れたシャツを着ているよりかはマシだ。
 それにしてもすごい汗だ。確か嫌な夢を見ていたような気がするのだがどれほど嫌な夢でもここまで汗をかくものかな。
 内容はあまりよく覚えていない。夢とはそういうものか。
 寝ぼけた頭でソファーへよじ登り、近くの机に置いていた腕時計を見てみる。まだ六時を少し回ったぐらいだ。いつもなら、まだ起きてすらいない時間。ここは二度寝をするのが正解だな。
 冬真っ只中で曇りならばこの暗さも納得いく。ここは明かりを取りいれるための窓が天井に設置してあるのだが、そこには真っ暗な空が広がっている。
 再度布団を被り、目をつぶる。また、暗闇が俺の視界を支配した。
 眠気はすぐにやってきた。意識がどんどんぼやけていく。
「霧斗様、起きていらっしゃるのですか?」
 コンコンと扉をノックして、夏森が中に入ってきた。先ほどの物音がなんなのかを確認しに来たのだろう。
 消えかけた意識が一瞬にして引き戻される。いつもならこれぐらい、寝たフリをして流すはず。なのに、今回は意識がはっきりしているので返事をすることにした。
「ああ、起きているよ」
 そう言って上半身だけを起こし、本来腕を置く場所にもたれかかる。
「早いですね。昨夜は九時に起床されるときいていたのですが」
「基本的にはこの時間ぐらいに起きるからな。もしも寝ていたら君に起こしてもらおうと思っただけだ」
 本当はもっと寝ているつもりだったのだが、少しぐらいはいい印象を与えとかないとな。昨日から、彼女の前ではあまりいい事はしていないような気がするからな。
「それでは、明日からはこの時間に起こさせてもらいます」
「ああ、よろしくたのむ」
 なんか、俺は今とても大変なことを約束してしまったような気がする。明日から帰るまで、毎日この時間に起きなければならないのか。寝不足の毎日が待っていそうだな……。
「そういえば、俺の鞄はどこに置いたんだ?」
 昨日行方不明になった俺のバッグの行方をきく。できるだけ早くシャツを着たい。
「霧斗様のお荷物でしたらお部屋の方に運んで起きました。今日からはそこでお休み下さい」
 部屋の準備ができたということは、彼女は一晩中働いていたというのか。
「ちなみに、君は何時間休んだ?」
「私は二時間ほど休憩をいただきました」
 二時間って、寝る暇もないじゃないか。
「それでは、私は朝食の準備をしてまいります。霧斗様の部屋は二階の一番東にある部屋です」
「わかった」
 俺はソファーから立ち上がって、腕時計をはめる。布団を持って廊下に出ようとした。
「布団は私が運んでおきます。シーツも洗わなければいけませんし」
 そういわれて、俺はしぶしぶソファーに布団を戻す。まぁ、これぐらいはやってもらっても罰は当たらないだろう。
 今度こそ俺は、夏森の横を通って廊下に出た。
「そうだ。さっきから様付けに戻っていたぞ。気をつけてくれ」
「もうしわけございませんでした。以後気をつけます」
 深々とお辞儀をして謝ってくる。
 突然そんなことをされて焦った俺は、謝る必要はないとすぐに告げる。昨日の約束ではできるだけそう呼んでくれといっただけで、今のはただの注意だ。さらにできれば、そのしゃべり方もなんとかしてほしいんだがな。
 広い廊下を通り、階段に差し掛かった。
 おかしい。確か、昨日はここに地下へ続く階段があったはずなんだが、それがきれいさっぱり消えてしまっている。地面につなぎ目みたいなものは存在しない。元々その場所には何もないかのようにスペースが広がっている。
 昨日のは見間違いだったのか。いや、そんなことは無い。俺は確かにこの場所に立って、その階段を見つめていたのだ。
 階段のあった場所にいき、地面をよく見てみる。暗いので少しわかりにくいが、やはりどこにもない。叩いてみても、下に空洞があるような様子はない。
 仕方がない。今はこの辺で止めておくか。これだけ暗い中でこれ以上やっても無理だろうな。あきらめて部屋に行くとするか。
 昨日も感じたが、改めて一人で歩いてみると迷ってしまいそうだ。
 歩いても歩いても一番東の部屋に到着しやしない。同じようなドアが並んでいるだけだ。
 これだと、室内の移動に自転車が必要になるぞ。
 またここだ。さっきから同じところをぐるぐると回っている。家の中で迷うなんて前代未聞だぞ、こりゃ。
少し恥ずかしいが、後で夏森に連れて行ってもらうか。服も、我慢するしかない。
「やぁ霧斗君。起きるのがずいぶんと早いねぇ」
 俺が部屋探索をあきらめて一階に戻ると、そこにはちょうど冬雲があくびをしながら歩いていた。昨日と同じで、髪の毛はボサボサのままだが。ものすごく眠そうなのは俺の気のせいか?
「この屋敷はまるで迷路だな。恥ずかしい話だが迷ってしまった」
「まぁ、無理もないよ。一階だってある意味迷路なんだ。もっと複雑に作られている二階は、大迷宮といってもいいよ」
 そんな笑い事ではないと思うぞ、冬雲よ。どうやってこの屋敷で生きてきたんだ。
「そろそろ朝食の時間だから、食堂に行こうか」 
 時計を見てみると俺が起きてまだ三十分ほどしか経っていない。まさか、毎朝この時間に朝飯なのか。


  その5





 夏森の朝食は昨日の夕食と同じで、やはりおいしいものだった。見た目は普通の焼き魚なのだが塩の加減や焼き具合がちょうどよい。味噌汁も味噌の味だけでなく、ダシに使われた小魚も主役に匹敵するほどまでに引き出されている。ここまできたら店が開けるぞ。
 不満がひとつあるとすればこの西洋風の館に和食が似合わないことだ。
「なぁ、どうして和食なんだ?なんかイメージと合わないぞ」
 昨日とは少し配置が変わり、俺が中央に座っている。そして机の両端には冬雲、夏森が座っている。当主を中央に配置しようと言ったからこうなった。
 それにしてもこのテーブルはでか過ぎる。二人とも、俺とは二メートルは離れている。せっかく三人で食事をしているんだからもう少し近くで食事をしてみたいものだ。俺がここの主ならこの机はさっさと取り替えてしまうぞ。
「冬雲様がどうしても朝だけは和食がいいと申しておりましたので」
 夏森は箸を置き、冬雲の方を見てそういった。
「それにしても、今日のはいつもよりもおいしいねぇ」
 彼は彼でうまそうにご飯を食べ続ける。マイペースな人間だな。
 ここだけを見ると、一般的な家庭の風景にしか見えないだろう。まぁ、この二人がまともな人間だったらの話だが。冬雲は変な性格だし、夏森はきちんとした性格のように見えて実は冗談が好きだったりする。
「霧斗さんが戻られたので、いつもより余計に薬を入れましたから」
「!!」
「ウソです」 
 なんか、無表情でそんなことを言われたら冗談が冗談に聞こえない。せめてウソというときぐらい少しは笑ってほしい。
「あまり気にしないほうがいいよ霧斗君。洋子ちゃんの冗談は日常茶飯事だからね」
 だから、笑い事じゃないってば。
 こんな風に大勢で食べるのはやはり楽しい。一人暮らしになってからほとんど単独だったから、こういうのはあながちいいものだと思う。
 食事を終えて、食後のお茶を三人で楽しむ。やはり、食事と同じで日本茶がだされた。やはり、お茶ひとつにしてもかなり高いものを使っている。味といい香りといい俺が今まで飲んできた市販の日本茶がまるで水道水のように思えてきた。
「なぁ、ところで昨日冬雲が言ってた仕事ってのはなんなんだ?」
 ふと思い出した俺は、その言葉を放った本人に聞いてみた。
「それは私からお話しましょう」
 冬雲よりも先に夏森が声をあげた。
「親父が死んだから会社を継げっていうのか?」
「いいえ、違います」
 会社は普通、親父の息子である俺が継ぐのだが、それにまったく接していない俺がやっても潰してしまうのがオチだ。だから、その会社に勤めていた親戚の人が社長をすることになったとのこと。
「じゃぁ、俺の仕事っていうのはいったいなんなんだ?」
「この街に巣食う化け物を退治することです」
 はっ、はい!?
 まるで、鼠退治をするかのようにさらりと言ってくれる。
こいつはなに非現実的なことを言っているんだ。化け物だぁ。
「またまた、そんな漫画みたいなことを言って、冗談だろ?」
「はい、ウソです」
 またかよ。本当にそうなのかと思っちまった。本当に、この家のやつらと一緒にいると疲れる。俺の中での彼女の印象が、命令に忠実で働く、無表情で優秀なメイドさんという印象が……。
「洋子ちゃん。近頃冗談が増えてきたね。磨きもかかってるよ」
「ありがとうございます」
 冬雲はそれが普通のように笑顔で言う、どうも、この男と一緒にいる時はボケキャラになってしまうようだ。気をつけないと。
 二人共親指立ててるし。
「話がそれた。それで、本当の仕事はいったいなんなんだ?」
「それでは、案内しますのでついてきてください」
 夏森は食器をそのままに立ち上がって部屋を出て行った。俺も急いでそれを追った。
 廊下の突き当たり、階段のあるところに彼女はいた。そこで手招きをすることも無く立っている。
「いったいどこにいくんだ?話だけでも十分だと思うが」
「百聞は一見にしかず。その目で直接見たほうが納得すると思いますから」
 彼女は昨日の夜はあったのに朝は消えていて、また今は現れている地下へと続く階段を下りていく。俺が見たときには絶対にあそこには階段というものが無かったはずだ。どんな作りになってるんだ、ここは。
 心臓の鼓動が速くなっている。頭痛もする。昨日と同じだ。階段を下りようと考えただけで意味不明の症状がでてくる。
「なにをなさっているのです、早くこちらに」
 先ほどの冗談を言っていた彼女の面影はどこにも無い。完全に俺が会った時の真面目な彼女に戻っていた。
 異常の発生しまくっている体にムチを打ち、階段を一段一段慎重に下りていく。地面が見えなくなったので、踏むはずさないように注意する。
 地下は電気が無く、暗闇が広がっている。
 そんな真っ暗な中を夏森はすでにいなくなっていた。この中を進むなんて、どこになにがあるのかを全て把握しているのだろう。彼女の履いているスリッパの音だけが暗闇の中から聞こえる。
 奥の方で扉の開く音がした。それと同時にひとつの光が現れる。
 それは廊下全体を照らすことなく、一筋の光が伸びているだけだ。ということは底までの距離がかなりあるということだ。
「さぁ、早くこちらへ」
 シルエットのように見える彼女の姿を頼りにそこに向かって歩き出す。
 途中、まるでトラップのように配置されているダンボールなどに引っかかりながらどうにかそこにたどり着いた。
 いくら場所を覚えているとはいえ、よくどれにも当たることなくここに来ることができたな。もしかしたら彼女の目には赤外線機能がついていて、暗いところでも平気で歩くことができるのではないのか。
 その扉の向こうは部屋になっていた。だが、上にあるどの部屋よりも広く、比べるだけで失礼に当たりそうなものだ。おそらく、敷地の四分の一はあるだろう。とても広いひとつの部屋に大量の柱が堂々と立っている。それはまるで、他の国にある何とか神殿を思わせる作りだ。
「なっ、なんだこのでかい部屋は」
 世界にはこれぐらいの大きな部屋はいくつか存在するのだろうが、俺はそこに行ったことがない。
 俺のそんな発言を無視し、奥へと進んでいく。
「ちょ、待ってくれ!」
 こんなところで一人にされたら帰れなくなってしまうような、そんな気がする。
 不気味だ。
 この部屋全体に嫌なオーラが満ちている。きっと、俺にそれを見ることができたら前が見えなくなっているのかもしれない。
「どうかしたんですか、霧斗さん!!」
 先ほどまでは忘れていた頭痛。それがここに入ってからすぐに強力なものになった。昨日の夜に味わったものとほぼ同等のものだ。
 たまらなくなった俺は、その場に倒れこんだ。
 鼓動がどんどん速くなっていく。息をするのがとてもきつくなってきた。
 俺の中で何かが暴れまわっているような感じだ。
「大丈夫ですか」
 彼女は倒れている俺を見てまるで飛ぶような速さで近づき体を揺さぶる。
 それに全く反応することのできない俺。頭の痛さにより、周りのことなど気にすることができなくなってきている。
 気が狂いそうだ。
「うう、うあぁ」 
のたうち回ることもできず、ただその場で頭を抑えながら呻くことしかできない。
「待っていてください。すぐに冬雲様を連れてまいりますので」
 行かないでくれ、そう言おうとしたが声を出すことができない。手を伸ばすこともできない。少しでも頭から手を離せば割れてしまうような気がしてそれをすることができなかった。
 夏森は俺に背を向けて行ってしまった。
 残された俺はどうすることもできずに倒れている。
 ものすごい痛さがまるで生きているかのように襲ってくる。
 それにしても、この頭痛はいったいなんなんだ。今まで生きていてこんなことは一度も無かった。この屋敷に来て、ある事をしようとするとこいつは現れる。ひとつはこの地下に来ること。現に今、ものすごい痛みと戦っている。
 そして、もうひとつは昔のことを思い出そうとすること。昨日の夜、ちょっとした疑問を感じた瞬間これに襲われた。
 この二つに何か共通点があるのだろうか。
 気のせいか、頭痛は更に激しくなってきているような気がする。痛みが襲ってくる感覚が短くなってきている。まさか、このまま行けば締め付けられるような痛みがずっと続くのではないかと心配になってくる。
「霧斗ぉ。こんなところで寝ていたら風邪ひくわよ〜」
 そして、こいつの声がまたも聞こえる。今の俺の状況には全く合わない明るい声で現れた。
「大丈夫?なんだか顔色が悪いような気がするけど」
 そうだ。確か昨夜もこうなった時にこいつが現れた。どうしてそんなことを忘れていたのか、自分でも不思議になってくる。
 頭痛はいつの間にか止んでいる。
 俺は目を開けてみた。
 すぐ前にはそいつの顔があった。部屋は全体的に薄暗いが、昨夜よりもはっきりと顔が見える。これだけ近いと、やはりものすごく恥ずかしい。顔を背けようとするが、相手の手で固定されていて動かすことができない。
 頭の後ろに柔らかい感触がある。これはクッションなどではなく人肌の柔らかさだ。視界に広がる光景を見るところ、それは彼女の足の上に頭が乗せられているということがわかる。
「やめろよ」
 顔が熱い。きっと真っ赤になっているに違いない。
 体に力をいれ、その場に座る。
 もしもあの二人にこんなところを見られたら、なにを言われるかわかったものではない。一日中いびり続けられるに違いない。そんな生活は嫌だ。
「それで、お前はなんでここにいるんだ?」
「昨日も言ったじゃない。ここが私の家だもの」
 こいつの言っているこことは屋敷のことを言うのか、それとも本当にここのことなのだろうか。
 ここで生活しているにしても人間が住んでいるとは思えない場所だ。テーブルも机も無い。ベッドも無ければ水道のようなものも無い。ここに住むことなど常人には不可能だ。
「何故お前はここに住んでいるんだ?上であいつらと一緒に住めばいいじゃないか」
「無理よ。だって、私ここから出られないもの」
 昨日の夜は上にいなかったっけ?お前。
「それに、あの二人と一緒に暮らすなんてごめんだわ」
 やはり、二人のことになるとものすごく冷たい声になる。確実に殺気が混じっている。
「そんなことはどうでもいいじゃない。霧斗に見てほしい物があるの」
 秋月は勢いよく立ち上がると、俺の腕を引っ張る。
 ちょうどいい。ここがあいつの家だと言うのなら、中を案内してもらうのもいい。
 彼女が伸ばしてくる腕に掴まって立ち上がった。
 夏森が戻ってこないのが気になる。主人があれだけ苦しんでいたというに、ほったらかしにするとはどういうことだ。仕事真面目度ポイントマイナス十点だな。
「それで、俺に見せたいものってなんなんだ?」
「まぁ、楽しみにしててよ。霧斗が昔を思い出すことができるものだから」
 俺の過去に関係あるもの。だが、俺は別に昔のことを忘れているわけではない。思い出すもなにもない。 
 何でこいつはこんなにうれしそうなんだ。
 柱しかない殺風景な部屋。そこを二人で歩いていく。
 少し前を歩いている秋月が一本の柱を曲がった。
 そこには扉があった。家にある木でできた粗末なものではない。鉄でできた、まるで特撮番組で出てくる秘密基地の扉のような形をしている。
「私はこの中には入れない。霧斗、一人で入って見てきて」
「一人でって、お前が連れてきたんだろう」
 彼女はなんだか悲しそうな顔でそう言う。その顔を見ながら俺は少しの間静止する。
 その時だ。はるか後方から何かの爆発音がした。それと同時に、小さいながらもものすごい威力をもつ物がコンクリートにめり込んで、ぱらぱらと灰色の欠片を散らした。
「なっ、なんだぁ!?」
「霧斗さんから離れてください」
 次に聞こえてきたのはさっき俺を置いて上に行った夏森の声だ。これは彼女が放ったものなのか。
 振り返って見ると、そのには片手で銃を構えた彼女がいた。昔、あれに詳しい友達のところで見たことがある。あの銃は大人の男が片手で撃っても腕を痛めるというほどの反動がくるもの。女性である彼女が本当に撃てるのだろうか。
 装備はそれだけではなかった。もう片方の腕にはマシンガンを持ち、さらには大きなグレネードランチャーを背負っている。まるで、映画に出てきそうな格好をしている。
 服も変わっていた。先ほどのような仕事用のきちんとした服ではなく、上から下まで真っ白な着物を着ている。
「なんだその格好は?」
 あまりにも現実離れした姿に、俺は情けない声を出してしまった。
 二人は真剣な顔で見つめ合っている。今の俺は二人の放つ殺気により押しつぶされそうだ。
「私がなにをしようと私の勝手でしょ!あんたにとやかく言われる筋合いはないわよ」
「そうもいきません。あなたを監視するのは私達の仕事です」
 二人の声はとても冷たい。夏森は感情が無い声ではなく、明らかに怒っている。秋月も秋月でものすごい怒りようだ。無表情ではあるがコメカミの辺りが痙攣している。
 両者のにらみ合いが続く。
 なにが起こっているんだ。昨日聞いたときに、夏森は秋月のことを知らないといっていた。なのに今、知らないといった本人と対峙している。それに、何故二人ともそんなに殺気だっているんだ。
「待てよ二人とも。どうしてそんなに仲が悪いんだ!夏森はそんなものまで持ち出して」
 二人とも全く反応しない。
「やめておいたほうがいいよ霧斗君。この二人は仲が悪いから」
「!!」
後ろに人がいるとは思いもしなかった俺は不意をつかれた。
 見てみると、そこにはにこにこしながら二人の方を見ている冬雲の姿があった。彼もまた、夏森のように重装備をしていた。服も、同じように着物を着ているが、こちらのものは真っ黒だ。もちろん男物。
「冬雲までなんて格好してるんだ」
「仕方が無いよ。これが僕らの仕事なんだから」
 彼は苦笑いしながら俺を見下ろす。この男、こうやって並んでみるとめちゃめちゃ身長が高いのがわかる。
「なにをしに出てきたんですか。あなたが出てこなければ私たちも平和で楽なんです」
「私はただ霧斗に会いたかっただけよ。間違ってもあんた達に会おうなんてこれっぽっちも思ってないわよ」
「お願いして出てこなくなるのだったらいくらでもお願いしてあげます。それほどまでにあなたには会いたくありません。それに、あなたが霧斗さんに会うなんて許せない行為です。昔あの人にしたことを忘れたのですか?」
「それはそうだけど……」
 ものすごく悲しそうな顔になる秋月。どうも立場的には彼女の方が弱いようだな。
 彼女が俺に昔したこと。こいつが俺になにかしたのか。記憶の中にいないやつにいったいなにをされたというんだ。
「まぁ、確かにあれは許されることじゃなかったからねぇ」
 三人とも、俺の知らない過去を知っている。自分に関することなのに覚えていない自分がちょっと不甲斐ない。
「なぁ、秋月がいったい俺になにをしたというんだ!」
「あなたがおとなしく引き下がってくれますと、こっちもありがたいのですが?」
 俺の言葉をかき消すかのように夏森が嫌味のような発言をした。
彼女の勝利のようだ。前のような元気な足取りは無い。事情のよくわからない俺には、ものすごくかわいそうに見えてくる。
「霧斗、その二人には気をつけてね。後ろから撃たれないように」
 一度こちらを振り向き、俺にそう言って彼女はどこかへ消えて行った。それは俺のことを本気で心配している様子だった。こんなときに何もできない俺が情けない。
「夏森、なんてことを言うんだ。彼女は単に俺に見せたいものがあるって」
「見せたいものがあるかどうかなんて問題ではないんです。彼女が一緒にいる時点で問題があるんです」
「それの意味がわからないんだ。どうして俺が彼女といてはいけないんだ。お前にはなんの関係もないじゃないか!!」
 俺の中で、意味のわからないことを言っている彼女に対しての怒りが膨れ上がった。俺が誰と一緒にいようが俺の勝手だ。この女にとやかく言われる筋合いは無い。
「そもそも、何故彼女だけがあんな扱いを受ける。お前達と一緒に暮らすことはできないのか!」
 さらに怒りは大きくなる。
 先ほどまでの堂々とした態度が、一瞬にして怒られているメイドのように縮こまってしまった。
「落ち着きなよ霧斗君。この件は彼女を責めても仕方がない。むしろ、これは君自身が解決しなければならない問題。春道家が解決しなければならない問題。それに巻き込まれているのは僕達の方なんだ。そのことを忘れないで欲しい」
 軽く肩をたたかれ、振り向いた俺に冬雲はそういった。彼の顔からは珍しく笑顔が消えて、真面目そのものになっている。
 俺自身が解決しなければならない問題。彼らを巻き込んでいる。なんのことだ。


  その6




「なんの話だ!」
「聞くよりも、見ながら聞いたほうがわかりやすいでしょう」
 話に急遽割り込んできた夏森が、ドアのロックを解除する。ドアの右側についていた電卓のようなもの。そこに暗号を打ち込めば開くというものだ。一文字打つごとにカチカチとボタンを押す音だけ聞こえる。
 やけに長いパスワードを入力すると、ピピーという機械的な音を放ち、解除された。
 重たいドアが真ん中から二つに割れて開いていく。
 それは一枚ではなかった。内側にもドアが存在した。夏森は、そのドアを一枚目と同じようにロックを解除した。やけに頑丈なつくりをしているな。
 今度の扉は縦に開いた。中からは真っ白な光が漏れてくる。
 心拍数が上がる。息が苦しい。鼓動が速すぎる。
「大丈夫かい、霧斗君。ずいぶん苦しそうだけど?」
「平気だ。それよりも、いったいここはなんなんだ?」
 その部屋にはコンピューターが大量に置いてあった。機械を守るためのものか、寒い上に冷房が付けられている。はっきり言えば凍えそうだ。こんなに部屋を冷やしていたら、機械に氷柱ができるんじゃないのか。
 さっきの場所と比べれば本当に小さなものだ。しかし、普通の部屋よりははるかに大きい。
「こちらです」
 前には夏森、後ろには冬雲。周りから見れば、護衛がついているかのように見えるだろう。
 そこにそれはあった。いや、いたというべきだ。
 部屋の中央にあった大きな柱。その根元にはいくつも配線がつながっている椅子があった。そして、そこには一人の女性が座っている。ボロボロの衣服を身に纏い、元々はきれいなはず茶髪の髪は汚れに汚れ、地面につくほど伸びている。肌もボロボロだ。
「なっ、なんだこれは……」
 驚きの光景に俺は唖然とする。なんとかでた言葉はこれだけだ。
 意味がわからないにも程がある。こんな部屋があること自体おかしいのだが、さらに人間がそこで拘束されている。普通に考えればおかしい。それにこの寒さで動くことができないと、凍えてしまうのではないか。
「こいつは人食いです。人の肉を食い、この世に害しか及ぼさないもの」
 人食い?たしかどこかの本でマンティコアと呼ばれ、非常に凶暴で人を襲って食おうとする怪物と書かれていたような気がする。だが、急にそんなことを言われてもピンと来るはずが無い。
「また冗談なんだろ?」
「最初は確かに信じられないかもしれません。現に私も最初見せられたときには信じられませんでした」
 この家では先祖代々こいつ、人食いを監視しなければならないという使命があるらしい。親父の行っていた会社はここの管理をするための資金稼ぎのようなものでこちらが本業だという。おまけでやっていた仕事が大当たりするっていうのも羨ましいのだが。
「でも、僕らはそれを信じざるをえなくなった。十五年前の事件でね」
「十五年前の事件っていったい?」
 俺はそんなこと何も覚えていない。まぁ、五歳の記憶など覚えていないものの方が多いかも知れないが。
「十五年前、こいつが一度だけここを抜け出したんですよ。その時、屋敷の者はほとんど殺されてしまいました。それを見た私は、人ではない者を初めて信じることができたんです」
「僕も同じさ」
 人食いが逃げ出した時、家の中は血の海とかし、この日本ではお目にかかれないような光景になっていたのだという。そいつは何とか捕まえることができたが、その後がいろいろと大変だったらしい。 
「だが、それと秋月の事とどう関係があるんだ」
「わかりませんか、そいつが誰なのか」
「?」
 俺は、椅子に座らされている女のことをよく見てみる。
 手、足、体は厚い鉄の板で拘束され、目には布のようなものが巻かれている。なにもここまですることはないような気がする。
「あんまり近づかないほうがいいよ。弱っているからといってあんまり近づくと食べられちゃうよ」
 手が届くぐらいの位置まで近づこうとした俺の足を、その言葉が止めさせた。信じられる話ではなかったが、念のためだ。
「そこに……、誰か……いるのか」
 予想にもしていなかったことだったので、一瞬にして一メートルぐらい後退した。
 あまりにも突然だったので焦ったが、よく考えて見ると別にしゃべってもおかしくはない。なんたって生きているのだから。
 この声には聞き覚えがある。しわがれてしまってかなり変わってはいるものの、その大元の部分は変わっていない。
「まさかお前、秋月なのか……」
 声だけではない。顔立ちもちゃんとすれば彼女のように思えなくも無い。
駆け寄ろうとした俺を、すごい力で冬雲は止めた。
「近づいてはいけないといっただろう。死にたいのかい?」
 こんなことが信じられるはずがない。さっきまで彼女はあんなに元気な顔を見せてくれていた。一瞬にしてこうなってしまうなんておかしすぎる。常人である俺に理解をしろというほうが無理である。
 それにさっき自分はここに入ることができないと言った。さっき、この部屋に入らずにどこかへ消えて行った。
 彼女がこんなところに、こんな姿になって存在しているはずは無いのだ。
 そうだ、秋月がこんなところにいるはずがない。
「秋月に似ているが、こいつは誰なんだ。また俺を困らせようとこんな手の込んだことして」
「あなた様は、どうしてこいつをすぐに秋月だとわかったのですか?声も姿もさっきのものとは全く違うというのに」
「誰も秋月だとは言っていないだろう。ただ似ているだけだと」
 何故といわれてもものすごく困る。直感というかなんと言うか。そんなものが、彼女が秋月だと判断したのだ。
「直感ですか」
「だったらなんだというんだ!」
 さっきから、なんだか怒鳴ってばかりのような気がしてきた。もう少し落ち着くことにしよう。
「もしも彼女が秋月なら、さっきまで向こうにいた秋月はなんなんだ?」
 不思議な点はたくさんある。なぜ彼女がこれほど短期間でこうなったのか。さっきどこかへ消えてしまったのに、どうしてここにいるのか。そして、人食いという化け物がどうしてこんなところにいるのか。なぜこの家がこんな役目を背負っているのか。
「さっきのは秋月であって秋月ではありません。逆にいえば秋月でなくて秋月です」
「すまん、なんだかなぞなぞみたいでわからん。もっと簡単に説明してくれ」
「つまりはだね霧斗君。今目の前にいる彼女も鈴花ちゃんだし、さっきの通路で洋子ちゃんとケンカしていたのも鈴花ちゃんってこと」
 さっきの広い部屋みたいな場所って通路だったのか。絶対に他の部屋よりも広いぞ。
 こっちの説明もよくわからん。俺が聞きたいことから少しずれてるし。
「だから、何であいつが二人もいるんだよ」
「ここにいる彼女が本体。人を食べないと力がでることのない存在。そしてさっきの彼女はただの精神体。元々の人格が本体から分離して生まれたものです」
 また俺のよくわからないことを……。
「簡単に言えばこっちは本体で、あっちは幽霊みたいなものだよ。物に触ることもできなければ、ほかの人は見ることもできないんだ」
 後ろで冬雲が簡単に説明してくれる。今度はわかりやすい。
「でも、あいつは俺のこと触ってたぞ」
 彼女は列車の中で俺の瞼を無理やり開いたり、リビングで俺のこと揺さぶったり、さっきの通路で俺に膝枕していたりしていた。こんなことを言ったらまた夏森が怒り出してしまうかな。さっきは近くにいたというだけであれだけ激怒していたからな。
「それは、おそらく君と彼女が近い位置にいるからさ」
 近い位置?いったい何のことだ。そりゃあ、触るには近くにいないと無理ではあるだろうが。
「だから、実は僕らが持っている銃も彼女には通用しないんだよ」
「じゃぁ、いったい何で……」
 そこまで言って思い出したかのように次の質問がでた。
「二人の格好はなんなんだ?どうしてそんな姿をしているんだ」
夏森は少し顔を赤らめている。今の格好が恥ずかしいのか。俺には逆にかっこいいとも思える。
もう一度二人の姿をよく見てみる。
 腰には大きなハンドガンとナイフ。背中にはマシンガンとグレネードランチャー。それらの装備がなぜか着物によく似合っている。この二人が美形だからなのか、元々それが合うのかは俺にはわからない。
「銃とかは精神体の方には効かないんだろ?」
「これは本来、彼女に対しての装備なんだけどね。だから精神体の時はほとんど装備しないんだ」
 冬雲が秋月を見る。
「だったら、今回はどうして?」
「彼女が妙に張り切っちゃって。精神体相手に意味が無いって言ったのに」
 気のせいだろうか。さっきよりも彼女の顔が赤くなっているような。
「感情的になるなんて珍しいことだから僕も着替えたんだけど。どうしてあんなに怒っていたんだい?」
 おお、この二日間で始めてみる表情だ。なんか、だんだん彼女のいろんな表情を見るのが楽しくなってきた。
「仕方がありません。だって、彼女は霧斗様にひっ、膝枕を……」
 あの現場を見られたのか。こっちの方が恥ずかしくなってくる。顔だけが異常に熱い。
「霧斗君。君はもうそんな関係なのかい。でも残念なことに彼女は精神体だからね。子供を作ることはできないんだよ」
「なっ、なに言ってるんだ、お前は!」
 さっきまでの真剣さはどこに消えてしまったのか。完全に彼のペースになっている。
 顔から火が出そうなほどに恥ずかしい。
「まさか、霧斗さんがそんな人間だったなんて」
 夏森、なんかキャラが変わっているぞ。しかも、台詞棒読みだし。
「なぁ、こいつが人食いだということはわかった」
 まだ信じがたいが、ここはわかったことにしないと話が進まない。
「何で夏森そこまであいつのことを敵視するんだ?あいつは俺以外に危害を加えることはないんだろ?」
「それがダメなんです。もしものことがあったらどうする気ですか。相手は精神体とはいえ、霧斗さんにとっては本物と変わりません。いつ存在が逆転してもおかしくありませんから」
 存在が逆転するとは、人格が入れ替わるということなのかな?
 どうも、夏森の説明はわかりにくいところが多い。
 今度は本気で心配してくれているようだ。顔がマジ。
 秋月は俺と出会ってから三回、全く襲ってこようともしなかった。どう考えても危険なやつには見えない。しばらく様子を見てみることにするか。信じる信じないはその後でも問題は無い。あいつが俺の目の前に現れてくれたらの話だが。
「霧斗君。いったん休むといいよ。いろいろなことがあったし、疲れただろう」
 体はそれほど疲れていないのだが、頭はかなり疲れている。人食いだの精神体だの現実離れしたことが多すぎた。信じられないようなことばかりだ。こうなってしまってもしかたが無い。
「よし、上に戻るとしようか」
 ドアに向かう俺の背後からはうめき声が聞こえてくる。もしかしたら、昨日きこえていたのは気のせいではなく、こいつだったのかもしれない。低く、まるで野獣のような声は続いている。
 重そうな音を立てながら扉が一枚、二枚と閉じていく。そこにはまた静寂が戻った。



  その7

 俺は家を出て、近くの公園に足を運んでいた。けっこう大きな場所で遊具、自然共に多く、中央には噴水まであるという豪華な作りをしてる。近くに住んでいる子供達は広場で遊び、その親達は近くで夢中に話をしている。
 空は青々としている。雲ひとつ無い快晴だ。この憂鬱な気持ちを追い払ってくれるかのようだ。
この町は電車があまり無かったのでかなりの田舎だと思ったのだが、意外にそうでもないらしい。何故駅の周りだけあれほど発展してないのかが不思議なくらいだ。バスも通っているし、ショッピングモールというのもある。
 町の中心は東京ほどではないが、人が多くゴミゴミしている。そういうところはあまり好きになれないかもしれない。
 それとは違って、ここはなんとのどかだろうか。
 俺はあまり人の多いところは好きじゃない。世の中にはいろんな奴がいて、ああいう風に多いところの方が人と暮らしているという実感があるといって好きなのもいる。だが、こういう人のあまり来ないところの方が落ち着いていて俺は好きだ。
 噴水の前にあるベンチに座っている俺の周りにはたくさんの鳩達が餌を探して着陸している。
 あの後俺は、いったん上に戻ると気持ちを整理するために町を散歩することにした。悪いが、あの二人がいるとよけいにややこしくなりそうだ。二人に聞けば全ての謎がわかるだろう。しかし、今の俺にそれを全部受け止めることができない。だから、少しは自分で考えることにしたのだ。
 こういう風景を見ながらだと、落ち着いて頭の中を整理することができる。
 この時期はまだ風が冷たい。だが、それがまた気持ちいいと感じる時もあった。それが今だ。体は防寒着のおかげでそれほど寒くは無いが、顔には冷たい風が容赦なくふきつける。何故これを気持ちいいと思うのかは自分でもわからない。
 白い息が俺の口から漏れてはすぐに消えていく。俺の抱えている悩みもこんな風に消えてくれるとどんなに楽だろうか。
 世間は戦争も無くこれだけ平和だというのに、何で俺の中でだけこれほど大変なことになっているのか。勘弁してほしい。
「こんなところでなにしてるの、霧斗。寒くない?」
 出た。俺の中で一番の問題点が。
「別にいいだろ。それよりも、お前こそ寒くないのか?」
 彼女の格好は明らかに真冬に着る物ではない。真っ赤な長袖を一枚に膝のちょっと下までのスカート。普通の人間なら風邪をひいてしまってもおかしくはない。
「あの二人から聞いたんでしょ?私は精神体だから寒さなんて感じないのよ」
「ああ、聞いたよ。お前は俺とあの二人以外には見えていないんだったな」
 こんなやつが街中を歩いていたら見ているほうが寒くなってしまう。よかったな、みんな見えなくて。
 先ほどから主婦のみなさん方から冷たい視線が来るのですが、おそらくは俺が独り言を言っているように見えているのだろう。隣にいるやつは他の人には見えていないのだ。見られても仕方ないわな。
「なぁ、聞かせてくれ。お前はいったいなんなんだ?」
「なにって、あいつらの言っていたとおりよ。人食い。人の肉を食べるもの」
「それがどうもひっかかるんだ。あいつは十五年前から拘束されている。ということは人間の肉を食べることができないんじゃないのか?」
人食いは人肉を食べなければ生きてはいけない存在ではないのか。
「残念だけどそうじゃないわ。それは人間達が勝手に作った話。私たちマンティコアを隔離するために作った話なの」
 元々彼女は、人間の肉を食べることなく生きていけるのだという。普通は俺達と同じ食事をとり、普通どうりに生活をする。外見もほとんど変わらないので人間として生きていくこともできた。人間の肉を食べるのは人間でいう性欲のようなもので、食べなくても生きていくことはできるがそれにはとても我慢が必要になる。だから彼女の本体は死ぬことはないというわけだ。
 一度人の肉を口にしてしまうとまるで中毒にかかってしまったかのようにそれを欲するようになってしまう。だから彼女の本体はあんな風になってしまったのだという。
「私だってこんな風にはなりたくなかった。別に人間の肉なんて食べたくもなかったし、人間みたいに暮らしたいと思っていた。なのに頭の中であいつが、もう一人の私が言っていたの。殺せ。そしてその肉を食えって。必死に抵抗したんだけど結局はダメだった。私は食べてしまったの」
 今にも泣き出しそうな顔で、頭を抱えながら叫ぶ。この声が本当に誰にも聞こえなくてよかったと思った。失礼だが少し覗き込んで見るとその目には涙があふれていた。
 もう、子供達の声や主婦の目線など気にならない。今は目の前にいる女性の事しか頭に入ってこない。
「もういい、落ち着け」
 彼女の目からは涙が落ちる。しかし、それは地面を濡らすことなく消えていった。これも現実のものではないので当然といえば当然なのだが、なんだか少しかわいそうになってきた。
 俺以外の物に触れることができない。誰にもその存在に気が付いてくれることも無くこの世に残り続ける。それはたった一人で毎日を過ごしているということだ。唯一見えている夏森と冬月にもあのような態度で接せられる。
 彼女の肩に手を回した。今のところ、唯一触れるのは俺だけだ。彼女の存在を認めているのも俺だけだ。そんな俺が今の彼女を慰めないでどうする。あまりにもかわいそう過ぎるではないか。
「だって、私本当は霧斗のそばにいることすらおかしい存在……」
「それ以上言うな!!」
 秋月の言葉を中断し、俺は大声で叫んだ。周りの目はおそらく俺のほうに向いているだろう。だが、そんなことよりもこれ以上先の言葉を彼女の口から聞きたくはなかった。
「お前が精神体だろうと悪霊だろうとそんなことは関係ない。俺は別に迷惑とも思っていない。むしろお前と一緒に暮らせたらどんなにいいかと思っている」
 夏森は、先ほどはあんなことを言っていたが実はかなりいいやつだ。冬雲も変なテンションを持っているが絶対に悪い奴ではない。話せば一緒に暮らすことができるのではないのか。
「それができたらどんなにうれしいことなのかしら。でも、ダメなの。私はもう少ししたら消えてしまう。今回はさよならを言うためにここに来たの」
 なぜか、彼女が人食いだとか、精神体だとか聞いたときよりもショックを受けた。
「なんで……」
「私は本体とは独立しているように見えるけどどこかでつながっているの。本体のエネルギーを使って私は構成されている。だから本体の栄養が不足すると私が消えてしまう。今までは私はほとんど出てこなかったからそんなに消費することはなかったの。でも、この二日間で三回目も出てきてしまったし」
 彼女が現れるのにはそれほどまでにエネルギーを消費してしまうのか。
「どうしてそんなに無理をしたんだ。消えるってことは、お前がいなくなってしまうということなんだろう?」
「だって、霧斗に会いたかったんだもの。あの二人が私の前で言っていたのよ。霧斗が帰ってくるって。その時私はとてもうれしくて、いつもなら抑えられているところを強引に分離したのよ」
 まさか、彼女は俺のためだけに出てきてくれているというのか。自分が消えてしまうという危険を冒してまで。ここまでしてくれるということは、俺のことを好いてくれていると考えてもいいのだろうか。
「なぁ、それって……」
「そうよ。私はあなたのことが好き。初めて会ったときに、あなたは私のことを友達としてみてくれた。他の人達は私のことを見ることもできなかったから。もの凄くうれしかったの。そのときからだった。私はあなたのことを想いだした。時間が経つにつれて私の想いは大きくなっていったの」
 彼女はなおも話し続ける。涙を流しながら真っ直ぐに俺を見つめている。
「でも、もういいの。あなたに会えて、この世に思い残すことはなくなったわ。霧斗は私のことを忘れて。そうすればあなたは自分の仕事を迷いも無くすることができるでしょう?」
「なにを言っているんだ。俺がお前を忘れられるわけないだろう!?」」
 たった二日間だけだったがもう、彼女のことを忘れることはできない。まったく、無茶なことを言ってくれる。
「霧斗、前にも同じことを言っていたわ。あなたがまだ子供の頃に」
「なぁ、以前から気になっていたんだが何でお前が俺の子供のことを知っているんだ。ほんとに昔、俺と一緒にいたのか?」
 そのときの記憶には、いまだに彼女が登場していないのだ。
「まだ思い出してくれてなかったんだ」
「すまない」
「いいのよ。それはあなたのせいじゃないわ」
 落ち着いた彼女をベンチに座らせて、俺もそのすぐ横に腰を下ろした。
「私はあなたと一緒に遊んでいたの。もちろん私は小さい頃の姿をしてね」
 彼女は精神体なだけあって成長することも老いることも無い。体の大きさは好きなように変えることができるのだという。だから、俺と会うときは毎回少女の姿だったと思う。今がこれだけきれいなのだからきっとかわいかったに違いない。
「いろいろなことをしたんだよ。木に登ったりもしたし、廊下で鬼ごっこもした。敷地の外に出ようとしたらあなただけ連れもどされちゃったこともあったの」
 今の秋月は人食いでも精神体でもなく、昔話を楽しむ少女にしか見えない。よりによって、どうして彼女がそのような運命を背負ってしまったのか。もしも俺が逆の立場だったら、同じことを彼女に言っていたのだろうか。
 彼女の具体的な話により思い出すことができた。そう、確かに彼女はあの屋敷で小さい頃の俺と遊んでいたのだ。
 いつも俺を引っ張りまわしていた髪の短い女の子。それは彼女だったのだ。どうしてこれほどまでに思い出すことができなかったのだろうか。今回は頭痛が起こる気配すらしない。
「おかしいわね私。忘れてって言ったのに逆に思い出させるようなことをしちゃった」
 顔では笑っているが、それは明らかに作り物だ。
 だが、すぐにそれは崩れてしまう。さっきまで止まっていた涙がまたも流れ出した。
「私、本当はあなたに忘れてもらいたくない。人食いになってからの唯一居てもいい場所。それを失いたくはない!」
 凄い勢いで抱きついてきた彼女に驚き、ベンチの上に倒されてしまう。
 俺は動くことができない。秋月は人食いである前に人間の女性なのだ。死にたくないという感情もあれば一人になりたくはないという感情も持っている。今までは笑っていてあまりそれを外には出していなかったが、その仮面が剥がれた彼女はいつでも崩れてしまいそうなのだ。
「大丈夫だ。お前の居場所はなくならない。お前は俺が生きている限り一人じゃないんだ」
 そんな彼女を崩さないようにできるだけやさしく抱きしめる。ちゃんと体温が伝わってくる。本当に俺の前ではただの人間だ。
「ありがとう、霧斗。私、そういってもらってうれしかったよ」
 秋月の体からは何か光のようなものが出ている気がする。
 だんだん、腕から彼女を触っている感覚が無くなってきた。
「おいおい、うれしかっただともう会えないみたいじゃないか。こういう時に言うなら、うれしいだろ」
 認めたくない。彼女が消えてしまうなんて。
 秋月はなにも言わずに抱きついているだけだ。そうしている間にも体温を感じなくなってきている。
「なぁ、秋月。本当に俺と会えてよかったか?」
 目からはたくさんの涙が流れ出してきた。いくら心では認めたくはなくても、頭が理解してしまっている。彼女が消えてしまうということを……。
「もちろんだよ」
 それが、彼女の最後の言葉だった。
 まるで大量の蛍が一斉に飛びたったかのように光が空へと舞い上がった。もちろん、柔らかい彼女を触っている感覚も消えている。
 悲しみが心の奥からガスのように満ちてきた。涙が粒ではなく、本当に流れ出ているきがする。
「うっ……。ううう……」
 俺は奥歯がギリギリと音を立てそうなほどに思い切り食いしばった。
「うぁぁぁぁぁぁぁ……!!」
 そして俺は、今までに出したことが無いほどの声で叫んだ。喉が痛い。それでも俺は叫び続けた。彼女の気持ちに早く気づいてやれなかった自分に、彼女のことを忘れていた自分に対しての憎しみもこめて。
「……」
 叫ぶのをやめて、俺はすぐに走り出す。俺にもできることがあった。昔のことを思い出した俺はそれに気が付いたのだ。


その8




 全力疾走で屋敷まで戻った。それは本当に速かった。おそらく、人間にはだすことのできないほどのスピードだっただろう。
「おかえりなさい、霧斗さん。どうしたんですか、そんなに急い……」
 出迎えてくれた夏森を無視して、止まることなく階段を駆け下りた。前と同じで地下の通路は真っ暗だった。何かに当たったような気もするがそんなものを気にすることなく突き進む。
 俺はまたこの場所に来た。現実と非現実の世界の境。俺にはそれが、地獄への扉とも天国への扉とも思えた。
 何故覚えているのかはわからないが、ドアについているロックを解除した。夏森が行った時のようにピピーっという機械的な音がなって、ゆっくりと開いていく。
 もうひとつも同じように開ける。中からは、ひんやりとした空気が漏れ出し、俺の体を通り抜けた。
 そいつはそこにいた。朝に見たまんまの姿でそこに座っていた。
 今の俺には、ただひとつのことしか頭に無い。彼女を、秋月を戻すこと。善悪の区別など考えている暇も無い。
 自動車と同じだ。ガソリンが切れたのならまた入れればいい。エネルギーがなくなったのなら、それを補充させればいいだけの話だ。
「待ってろよ。今解放してやるからな」
 彼女を束縛している鉄の枷は引っ張っただけではとれないような物だ。人でないものを押さえつけるにはこれぐらいのものを使わなければいけないのだが、今の俺にはただの邪魔者でしかない。
「こんなものがあるから!!」
 近くにあった鉄でできた配水管を無理やり引きちぎった。俺にそんな力があったとは知らなかった。
 引きちぎったところからは滝のように水が流れ出す。一瞬にして地面は水浸しになってしまった。
 秋月の体に当てないように固定している鉄の板だけを力いっぱい殴りつける。
 それは五、六発殴ると地面に落ちる。乾いた音が地下に響き渡った。
 これで残り二つ。
「なにをやっているんですか、霧斗さん!」
 音に気付いたのだろう。急いでやって来た夏森は、俺を止めに来たに違いない。しかし、俺はすでに全ての拘束具をはずし終えた後だった。
 やった。これで彼女は外に出ることができる。これで栄養の補給を行うことができる。そうすれば、あいつが戻ってくる。
「秋月が戻ってくる」
 うれしかった。また彼女に会うことができる。また、あの楽しい一時を過ごすことができる。
 気が付けば、俺は完全に正気を失っていた。彼女が外に出るということはどういうことなのか、夏森が俺のことを呼んでくれたことによって目が覚めた。彼女の栄養とはなんなのか、どうしてさっきはあんなことを考えたんだ。
 またもや同じ過ちを犯してしまったのだ。十五年前と同じ過ちを……。
 そう思ったときにはすでに遅かった。
 もう一度彼女を封印しようとしたが、その道具がすでに無い。たった今、俺が壊してしまったばかりだ。この俺の手で。
 人食いの口が片方だけつりあがった。自分を縛るものはなにも無いということを喜んでいるのだ。
「きゃぁ!!」
 その瞬間、座っている女の姿が消えた。
 短い悲鳴が聞こえたのでそっちを見てみると、そこには血まみれになった夏森が倒れていく途中だった。それが、妙にスローモーションに見える。
ドサッと何の抵抗も無く倒れると、大量の血が水浸しの地面に広がる。
「夏森……」
 突然、人が血まみれになって倒れるところなど初めて見た俺は思考が働かない。
 その状態で数分が過ぎたが、俺には数時間にも思えた。
 すぐに夏森の下に走る。
「おい、しっかりしろ夏森」
 うつ伏せに倒れている彼女を起こした。口からは一筋の血が流れている。だが、それが致命傷ではない。ただ、内臓から食堂を通ってきて吐き出されたものだ。
 一番大変な傷は腹部にある。ちょうど胃にあたる部分に大きな穴がぽっかりと開いてしまっている。数分経った今でも血が固まる気配すらない。水が血液と混ざってどんどん赤く染まっていく。
 彼女の体は冷たく、肌に全く血の気が無い。それもそのはずだ。息をしていない。鼓動も聞こえない。完全に死んでいる。
 どうすればいい。どうすれば助けることができるんだ。
「これはいったいなにがあったんだい、霧斗君」
 救いの声が聞こえた。今までどこに行っていたのかは知らないが、冬雲が立っていた。この光景を見ても全く動じない。
「そんなことよりもまずは彼女だ。お前は医者だろ?何とかしてくれ!!」
「なにがあったのかは大体わかったよ。でもね、洋子ちゃんなら大丈夫。放っておけば傷は治るから」
 放っておけば治る。なにを寝ぼけたことを言っているんだこの男は。まさか、彼女の死体をみて気でも狂ってしまったのか。
「心配なら上に連れて行って着替えさせてあげたほうがいいよ。死んでいる間中そんな服を着ていたら風邪をひいてしまうからね。僕はこれを直してから行くから」
 彼は部屋の隅にある箱から工具を出して、水道管を直す作業を始めた。
 意味のわからないまま彼女を上に運んだ。
傷口には全く触れてはいない。なのに、いつの間にか彼女の傷はきれいさっぱり消えており、そこには穴の開いた服と血の跡が残っているだけだ。肌にも赤みがさしてきた。心臓の動き始めたのもわかる。
 本当に冬雲の言っていたとおりになった。何もすることがなく生き返ってしまった。本当に、この屋敷に来てから不思議なことしか起きないな。
 とりあえず昨日俺が寝ていたソファーに横にさせる。
 さて、次は冬雲に言われたことをするか。
 ……。
 これには問題がひとつあった。着替えさせるという行動を男である俺がやってもいいものなのか。いくら彼女が俺の言うことを何でも聞くからと言っても、年頃の女の子だ。そんなことをしていいはずがない。
 だが、せっかく生き返ったのにいきなり風邪をひくというのもいやだろう。
洗面所から大きなバスタオルを持ってくる。彼女の服がどこにあるのかわからないので、仕方なくこれを巻いておくとするか。
 できるだけ体を見ないように服を脱がし、体にタオルを巻いた。そしてその上に部屋の隅に畳んであった毛布をかけてやった。これは朝俺が使った物だな、きっと。
 これでまずは一安心だろう。ここは暖房のおかげで暖かいし。
 それにしてもどうして俺はあんなことをしてしまったのだろうか。夏森が安全なのを確認すると、次の問題が浮上してくる。彼女の体のことは後で冬雲にでも聞くとしよう。この世には人食いがいるのだ。なに者であっても不思議ではない。
 俺は一人の女性のためだけに町の人達を危険にさらしているのだ。もしもあいつが犠牲者を出せば、俺はどうすればいいのだろうか。
 大きな柱時計が正確に時を刻んでいる。
「いや〜、疲れた疲れた。直した瞬間に別のところが破裂しちゃってねぇ。予想以上に大変だったよ」
 ドアを開けて入ってきた男は、頭をタオルで拭きながら笑っている。服も着替えてきたらしく、先ほどのものとは変わっていた。
「でっ、どうだった。彼女の体は?」
 こいつ、これを言うために俺にあんなことをさせたな。全ての件が終わった後、覚えてろよ。
「なぁ、彼女はいったいなんなんだ?」
 そんなことはどうでもいい。今は夏森の体のことだ。さっきの口ぶりだと、冬雲はそれについて知っているようだったから、答えてくれるに違いない。
「霧斗君。君は彼女の事をいくつだと思う?」
「歳か。十八歳じゃないのか?」
 それは、彼女が自動車の中で自ら言っていたのだから間違いはない。見た目はもう少し年上にも見えるのだが、やはり無表情のせいだ。時々見せる感情のある顔はちゃんと年下に見える。
「実は彼女、今年で百三歳になるんだ」
 またこの男は意味のわからないことを。なにをバカなことを言っている。彼女がどれだけ厚化粧をしようとも百何歳の年寄りがこの様にきれいな顔をしているわけがない。
彼は真剣だ。顔から笑顔が消えている。
「さっきのでわかったかもしれないが、彼女と、そして僕は人間じゃないんだよ」
 そりゃぁ、さっきのことを見ればそれぐらいは大体予想できたが、彼らの歳が百を超えているのはまだちょっと信じられない。
 俺は何も言わずに先を進めてもらう。
「僕達二人は人食いを監視する為に人工的に作り出された者。ここの地下でいろいろな実験を受けたんだ。人食いの細胞を俺らに注入してできたいわば人食いもどきさ。確かにその実験は成功して、僕らはあいつの力を手に入れた。人の肉を食べたいとは思わない代わりに身体的能力は到底及ばなかったけどね。手に入れたのは、老化しない体と死ぬことのできない体」
 彼は食堂に行ってナイフを持ってきた。それを俺に握らせる。
「正確に言うと僕とは違って、彼女は死なないんじゃないんだ」
 夏森は死なないのではなく、一度死ぬと自動的に体の傷が治り、何事もなかったかのように心臓が活動しだすのだという。まるで、彼女の時間だけを戻すかのように。
「他にもたくさん仲間がいたさ。実験は何十人という者が受けたからね。でも、みんなはあまりにも強大すぎる力に耐え切れず、体が崩壊していった。残ったのは彼女と僕だけさ」 
 そして、俺の手を握りながら自分の胸に突き刺させた。場所や刃物の長さを見みると、心臓を貫いてしまっている。刃物が刺さった部分には血がにじんでいる。この男も本当に夏森と同じで死ぬことは無いようだ。
「人食いは同じ人食いでしか倒すことはできない。俺たちが生かしているのは殺さないんじゃなくて殺せないんだ。ちなみに僕は彼女よりも本物に近いからこんな風にすぐになおるんだよ」
 驚いている俺を無視して心臓からナイフを抜く。そこにはすでに傷はない。流れた血が服ににじんでいるぐらいだ。傷跡すら残っていない。まるで手品でも見ているような感じになってしまう。
「人食いは人食いでしか殺せない。僕もよくわからないが、ある特定のオーラによるものらしい。僕らでは彼女を殺すことはできない。同様に彼女は僕たちを殺せない。だからこっちが二人なのを利用して押さえ込むしかできないんだ」
 彼女を殺さない理由がわかった。人食いのことをきいた瞬間に早く殺してしまえば仕事もなくなるのではないのかと正直思ってしまった。
「苦しかったよ。自分が別の人格に支配されそうになりながらもそれを許されなかった。もちろん僕達をこんな体にした君の一族を恨んでもいたよ」
 顔が初日に見た狂気をまとった表情になった。
「でも、それは君のお父さんの時まで。その時は僕も洋子ちゃんも屋敷に住むものに化け物扱いされてたからね。特に彼女はいろいろと大変だったよ」
 まぁ、仲間に歳を全くとらない人物がいれば怪しく思う。そして、人間は自分と違うものを持つものがいると仲間からはずしたいと考える生き物だ。それがたとえ少女だったとしても例外ではない。
「僕は君のお父さんの専属医者だったから特に監禁されることは無かったけど、彼女は違う。他のものとは完全に隔離され、鈴花ちゃんと同じように地下に束縛されていたんだよ。僕らも人食いと同じで何も食べなくても死にはしないからね。誰と話すことなく今まで過ごしてきたんだ」
 なんだか、その話を聞いていると申し訳なくなってくる。俺が直接的に行ったのではないが、やはり責任というものを感じてしまうな。
「すまない。俺の一族がそんなことをしてしまって」
「いや、君には感謝しているよ。人間でない僕たちに向かって君は謝ってくれた。もしも君が同じように僕らを扱っていたら、同じように怒りを覚えたかもしれないけどね」
 なんか、今までの軽い笑いではなく、心のそこからの笑顔を見たような気がした。
「俺は冬雲たちが人間だろうとなかろうと二人がこの家の住人であることには変わりはないよ」
 それはそうだ。彼らが人間ではないとわかったところで俺が殺されるとかそういう心配は無い。むしろ、そんなことぐらいで差別したがる人の気がしれない。そっち側の人間の方が多いとは思うが。
 これは、秋月にも言った言葉だった。
「霧斗君。鈴花ちゃんのことは好きかい?」
 真っ直ぐに来た質問に俺はちょっと戸惑ったが、はっきりとその質問に答えた。
「ああ、大好きだ。みんなが言っていることは本当だったんだ。本当に大切な人は失ったときに初めてわかる。俺は彼女が消えてしまったときに生き返るのならなんでもしようと思った。だからこんなことをしてしまったんだ。本当にすまない」
「愛する人を救いたいというのは僕だってわからないでもないよ。でも、今回は残念だよ。おそらく彼女はおとなしく捕まってはくれないだろう。もう、このまま放置しておくか、殺すしかない」
「だが、お前達じゃ殺せないんじゃないのか?」
 さっきの冬雲の説明だと彼ら二人がどれだけがんばっても殺すことはできないはずでは。
「今までは確かにそうだった。でも、今回は違う。君という強い味方がこちらにはいるんだからね」
 彼のこの言いようからすると、まさか俺は……。
「なぁ、それってまさか」
「そうだよ。君は彼女と同じ人食い。同じ存在であるが故に精神体である彼女にも触れることができたんだ」
 そうか、今朝彼が言っていた「近い」とはそういう意味だったのか。彼女と同じ種族だから霊感とかのない俺が彼女を見て、触ることができたのだ。
 自分が人食いであることが知らされてもあまり驚くことは無かった。これだけいろいろなことがあって、自分も普通ではないと心の中で思っていたのかもしれない。
「ショックかい?」
「いや、むしろ彼女と同じ存在なんだなと思えて少しうれしい気もするよ」
 少しずつ考え方が常人とは違ってきたような気がする。この気持ちがあるのなら彼女の気持ちもわかるのかもしれない。
「もう、殺すしか方法はないのか?」
「あったとしても、僕にはそれしか思いつかない」
 俺が殺さなければならないのはかなり大変だが、それしか方法がないのなら仕方が無い。彼女のためにも町の人のためにもやるしかない。彼女を野に放してしまったのはこの俺だ。その責任はとらないといけない。
「わかった。俺も強力する。いや、ぜひともさせてくれ」
「霧斗君……」
 突然後ろから声がした。
 先ほどからずっと話していたので忘れていたのだが、後ろには夏森が寝ているのだった。
「洋子ちゃん。起きたんならまずは服を着てきたほうがいいよ」
 この男のテンションの変わりようはすごいと思う。先ほどの真剣な顔、いつも笑っている顔。どっちが本当の彼なのかわからなくなってくるほどだ。
 短い悲鳴が聞こえて大急ぎで部屋を出て行った。
「霧斗君が着替えさせてあげていれば彼女もあんなことにはならなかったのに」
 うっ、なんなんだよその微笑みは。ものすごく意地悪そうな顔で笑う男をみて、なんかひさしぶりに人を殴りたいと思った。
「さてと、僕も着替えてくるとしようかな。今から僕達の最後の仕事が始まるからね。君もその格好じゃ俊敏な動きはできないだろう」
「たしかにそうだが、あれはちょっとやだぞ」
 今朝彼が着ていた黒白の着物に重火器を装備できるだけ装備したようなあの格好。どうも俺には重すぎて動けそうにもない。
「大丈夫。君のはもっと軽い格好じゃないと相手の懐にはいれないよ」
 彼女を倒すには俺が接近戦を行わなければならないらしい。銃等の遠距離武器では俺から出るオーラが消え、ただ相手に傷をつけることもできないのだという。たとえ傷つけることができても、すぐに再生してしまう。
「だからって、こういう格好になるわけか」
 俺のつけている武器は腰にあるナイフのみだ。銃を持たせてもらえないのはどうせ当てることができないからだろ。まぁ、たしかに撃った事がないのだからしょうがないと言えばしょうがない。
 そして何故黒、白と来て俺の服は紫色なんだ。そもそも何でこれを着なければならんのだ。おそらく通行人に見られたら恥ずかしさで二、三日寝込むぞ。
 見ると二人の姿は前と少し変わっていた。
 冬雲は拳銃やマシンガン、猟に使うようなショットガンを装備している。こちらは若干の変更点が見られるだけだが、もう一方はそうでもない。
 夏森の装備からは拳銃とマシンガンが消え、ライフルと背中にばかでかいもの二丁担いでいる。
「なんだそのでかいのは。前のよりも大きくなってるぞ!」
「対戦車ライフルだよ。彼女は遠距離攻撃を担当するんだ」
 話では夏森が長距離からの狙撃を担当。冬雲は中距離からの俺のバックアップ。そして俺がこのナイフによる近距離攻撃。見事な役割分担だ。
「なぁ、お前達二人はそれでいいとして俺はどうすればいいんだ。お前達のように俺は戦闘慣れしていないんだぞ?」
 それに、この二人と違って俺の場合はあいつに殺されてしまうのだ。攻撃を避けることもできない。一発目に狙われたら全てが終わってしまう。
「それは安心してください。私がそんなことはさせませんから」
 背負っているでかいライフルをポンポンと叩きながら彼女が少し笑って言った。
「じゃあ、そろそろ行こうか。あんまり遅くなると犠牲者が増えちゃうからね」
 時間にすると夜の八時ごろだ。いつの間にかそれだけの時間が経ってしまっている。飢えた彼女は時間に関係なく人を襲っているに違いない。すでに犠牲者が出ていてもおかしくはない。
「よし、行こうぜ」
 俺は覚悟をきめて屋敷を出る。外は静寂が支配していた。犬の鳴き声ひとつきこえない。ここは町から少し離れた場所にあるので不気味なほどに静かだ。これを嵐の前の静けさとでもいうのだろうか。


2005/05/04(Wed)20:25:47 公開 / 上下 左右
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■作者からのメッセージ
どうも〜、忙しいと思ったら実はそうでもなかったので更新することにしました〜。
ついに八まで来ましたよ。うれしいです。思わずブレイクダンスです。

これから先、どんどん展開が速くなっていきますのでお気をつけください。
それでは、読んでいただいてありがとうございました。また、次回更新の時にお会いしましょう
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