- 『緋真幻想歌 ―完―』 作者:神夜 / アクション アクション
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全角107349文字
容量214698 bytes
原稿用紙約301.55枚
「プロローグ」
月夜に照らされた住宅地の裏路地を、人間では考えられないような速度で横切る影がひとつ。
荒い息と共にアスファルトを蹴り上げ、道路に立てられた電柱の中ほどまで跳び上がり、その影は猛スピードで裏路地を駆け抜けて行く。
通ったはずの道などまるで憶えておらず、ここがどこで、そしてこれからどこへ行けばいいのかさえも影にはわからない。それでも走り続け、背後から一定の距離を隔てて追ってくる『敵』から逃げ続ける。しかしどれだけ走っても『敵』との距離は開かず、向こうからはこちらの姿さえ確認できていないはずなのに、それでも影が残す僅かな気配だけを頼りにして正確に追ってくる。衝撃波にも似た殺気が背後から吹き抜けた際に影を包み、「どこへ逃げても無駄だ」という無言の言葉を投げかける。
影と『敵』が行う、捕まればタッチされて鬼がチェンジするのではなく、捕まれば鬼に殺されるこの「鬼ごっこ」は、一体どれくらい続いていたのだろうか。
最後の跳躍を果たして裏路地から飛び出した後、影の体力がついに限界を迎えた。アスファルトに倒れ込みそうになるのを何とか堪え、影は左右に視線を巡らす。そこへ入ってくるは、一軒の家の駐車場に止められた自転車の側にある物陰。考えている暇は無かった。まだ体内に残っていた力を振り絞って走り寄り、自転車の脇を擦り抜けて物陰へ転がり込む。影は一瞬で息を殺して気配を消し、月夜の闇と一体化する。微かに震える体を抱きかかえるかのように自らの肩を腕で掴み、身を小さくして必死に恐怖と戦う。
やっと逃げ出せたのに、と影は思う。ここまで来て捕まるなんて、絶対に嫌だ。何とかして逃げ切らなければならない。普通の追手なら上手くやり過ごせると考えていたが、影を追跡しているこの『敵』は、普通の追手ではないのだ。どう考えても分が悪い。逃げ切れなければ戦って倒せばいいと思っていたが、人間と契約している籠狗(ろうく)の《蒼の刻》と戦って勝てるわけはなかった。ならば手段はひとつ、このまま逃げ切るしかない。もしここで捕まれば殺されるか、あるいはまたあの暗い牢獄に閉じ込められてしまう。暗く閉ざされた孤独の世界。あそこには、あそこだけにはもう二度と、戻りたくはない。
頭の隅に、『敵』がアスファルトを歩く際に装備された《蒼の刻》が擦れて鳴る、まるで空缶が道路を転がるような、カラカラカラという無機質な音が響いた。
息を止め、気配を完全な闇とする。震えている体を「我慢すれば光が見れる」との思いで抑え込み、物陰の隙間から自転車の車輪を縫って目前の道路をじっと見据える。カラカラカラと鳴り響く音がゆっくりと、ゆっくりと、近づいて来る。本当にすぐそこから聞こえているような気がした。気を緩めたら最後、すぐにでも自分の首が切り落とされるのではないかという恐怖に駆られる。
影が見つめるそこに、雲に隠されていた満月の明かりがそっと射し込んだ。
同時に、道路の上に『敵』が姿を現した。
それを簡単に言い表すのなら、『敵』は蒼い瞳と飛び散る火花だった。月明かりに照らされているのにも関わらずに『敵』の姿は漆黒のような闇に包まれており、そこから覗くふたつの蒼い瞳とアスファルトを削り取りながら火花を散らす十本の刃だけがゆっくりと移動している。カラカラカラと音を立てて影の視界の中を右から左へと歩いて行く『敵』が、何かを思い出したかのように唐突に足を止めた。
迷いなど微塵も感じさせない動作で、蒼い瞳が真っ直ぐに物陰に潜む影を見つめ、闇から口を開け放って実に楽しそうに笑う。
驚きのあまりに死ぬかと思った。そして、気づいたら『敵』の姿は月明かりの下からは消えていて、気づいたら迸る殺気がすべてを飲み込み、気づいたら物陰の側に停めてあった自転車が五つの線に切り裂かれていた。耐久性もクソも存在しなかった。五本の刃の餌食とされた自転車は音も無く全壊し、静かにコンクリートの上に粗大ゴミと化して大破する。自転車のベルのフタがころころと転がり、影の隠れていた物陰に当たって停止した。
それが合図だった。『敵』によって振り下ろされた五本の刃を、影は【変化させた】自らの右腕で受け止め、刃物がぶつかり合った際に生じる独特の澄んだ音を響かせ、一瞬の静止の後に影は地面を蹴って再び逃走を開始する。
遠ざかって行く影の気配を意識の遥か彼方で追いながら、大きなため息を吐き出して『敵』はどこからともなく取り出した煙草を口に咥え、ライターで火を点けて煙を吸い込む。盛大に吐き出された白い煙が月明かりに照らされて漂うのを見つめながら、『敵』の放つ殺気のせいで沈黙してしまっている辺りの生き物に少しだけ意識を傾け、「お騒がせしましたクソ虫ども」とつぶやく。
煙草を咥えたまま、『敵』は蒼い瞳と十本の刃がアスファルトを削って飛び散る火花と共に、ゆっくりと月夜の中へと歩き出す。
やがて殺気が消え、その場には全壊した自転車の残骸だけが残された頃になってようやく、それまで黙っていた虫たちが小さな声で鳴き始めた。
影と『敵』に邪魔されていた夏の夜が、帰ってくる。
「緋真の刀」
一体誰の仕業なのか、朝起きたら自転車が粗大ゴミに成り果てていた。
文字通り、昨日までは歴とした自転車だったものが、一夜を経て歴とした粗大ゴミに変貌を遂げていたのだ。乗ってペダルを漕ぐと車輪が回って進む、という本来の役目を放棄して、自転車はお釈迦になっていた。嫌がらせにしては大掛かり過ぎる、というより、こんな嫌がらせをするような人間などこの世には存在しないはずである。やるにしてもサドルを奪ったり、タイヤをパンクさせたり、その程度だろう。なのに、それなのにも関わらず、現実問題として、自転車は粗大ゴミになってしまっている。
まるで鋭利な刃物のようなもので切り刻まれて全壊する我が自転車を前にして、御影泰斗(みかげたいと)はしばらく状況が理解できずに呆然としていた。
つい数秒前まで「遅刻だ急がないと遅刻だ」と叫んでいたのが嘘のように静まり返り、泰斗は中学に入学したときに買ってもらって高校二年生になった今もまだ役目をしっかりと果たしてくれていた我が相棒の変わり果てた姿を見下ろしながら、肩に掛けていた弁当箱しか入っていない鞄を無意識の内にコンクリートの上へと落とし、「……嘘だろ、オイ」とただただ幽霊のようにつぶやく。
状況を整理しよう、と慌てふためく脳みそで泰斗は思う。
まず、この自転車は昨日学校から帰って来たときにはまだ原型を留めていたはずだ。この手で後輪に鍵を掛けたのだから間違い無いはずである。ならば次だ。昨夜の眠る前、カーテンを閉める際に駐輪場を見た際にもまだ自転車はここにあって、ちゃんとした形を保っていた。あれが夢であるわけがないのだから、それも間違い無いはずだ。そして最後に、遅刻かどうかの微妙な時間に起床して慌てて仕度を整え、鍵を持って自転車の駐輪場へ向ったのが今から三十秒前の話である。その時点では、自転車はすでにこのようにバラバラに切断されてしまっていた。
つまり、だ。
昨夜に泰斗が寝て今朝に起きるまでの間に、何者かがこの自転車を刃物のようなものでぶった切って粗大ゴミに変えてしまった、ということなのだろうか。が、その犯人の見当などまるでつかない。サドルが無いとかパンクさせられているとかなら何とか犯人を突き止めることも可能だったかもしれないが、さすがに泰斗の知人の中に刃物で自転車を壊せるような奴はいなし、嫌がらせをしてくる相手にも心当たりがない。そもそも世界広と言えど、刃物のようなもので自転車を破壊できる奴などいないのではないかと思う。
一体誰の仕業なのか。嫌がらせにしても悪質過ぎる。これはもう、嫌がらせやイジメの範囲ではなく、もはや犯罪の次元なのではないだろうか。漫画やテレビの世界でも、こういう事態は見たことがない。なんでそんな非現実的なことが現実に起こっていて、しかもその標的が他の誰でもないこの自分なのか。別にやるのは構わないが、標的を別の人にして欲しかったと切に思う。これではどこにも遊びに行けないではないか。それ以前に学校にも行けないではないか。どうしてくれ、
――学校、
思考の狭間を漂っていた泰斗の意識が、一発で現実に引っ張り戻された。
全身から血の気が引き、それまで自転車が粗大ゴミになったという思考に邪魔されて聞こえていなかったはずのセミの声が一挙に舞い込んでくる。一歩目で駐車場に停めてある母の車にしがみつき、二歩目で横に回って助手席の棚の上に置かれた小さな置時計に視線を移す。それは「車の時計ってどうしてかすぐに壊れるのよね」と愚痴を漏らした母のために、泰斗の従姉弟である伊吹彼方(いぶきかなた)が買ってきた時計だ。その時計が、朝の八時二十三分を指しており、そして学校が始まるのは八時四十五分からである。
学校までの道程は、ここから自転車で約三十分。自転車でかっ飛ばせば何とか間に合う時間だった。だったはずなのだが、自転車が粗大ゴミになってしまった今はそれを望むことはできない。自転車で三十分もかかる道程を、走ってそれと同じ時間で学校へ辿り着けるかと言えば、それはまず不可能である。もしかしたら行けるかもしれないが、帰宅部の泰斗に三十分もフルスピードで走るだけの体力は当たり前のように無かった。
遅刻して行けばいいじゃねえか、という悪魔の囁きにカウンターを見舞う。今日は、今日だけは遅刻するわけにはいかないのだ。一時間目の授業は数学で、この一週間ずっと忘れ続けていた宿題を今日こそは提出しなければ成績が危ない。そして厄介なことに数学の笠間のババアは遅刻すれば最後、あたしの授業を遅刻するような生徒の提出物なんて受け取れませんわよおほほとか嫌味なことを言って受け取ってくれないに決まっている。笠間冬子三十七歳独身はそういうババアなのだ。
だから、今日だけは遅刻するわけにはいかないのだ、いかないのに、それなのに。
どうして、自転車がこんなことになっているのか。予備の自転車は当たり前のように無く、加えて自転車全壊のショックを未だに引き摺って混乱していた泰斗は、母に頼んで車で送って行ってもらうとの選択肢をついに導き出せなかった。考えている暇すら惜しいと歯を食い縛り、前だけを見据えて走り出す。何とか学校に間に合わせなければならない。最低でも授業が始まる八時五十五分までには学校に着かなくてはならないのだ。そうしなければ、本気で留年という学生にしてみればこれ以上無いくらいの恐い事態に陥ってしまうのだ。
道路に出て学校への道程の一歩目を踏み出したとき、唐突に置きっぱなしにしていた鞄のことを思い出す。一度引き返した痛恨のミスである、と自らを呪い、それでも泰斗は鞄を肩に掛けて再び走り出した。
晴れ渡る青空から照りつける太陽の陽射しの暑さが体を支配し、数秒しか走っていないのにも関わらず大量の汗が噴き出し、カッターシャツが肌に張りついて気持ち悪い。ここ数日、毎日のように鳴いているセミの声が今日ばかりは泰斗を罵る罵声に聞こえた。夏休みが訪れれば学校などに行かなくてもいいのだが、それが訪れるのはもうちょっと先のことであるのが悔やまれる。いつもは自転車で通るはずの通学路を全力疾走で駆け抜け、赤信号さえも無視して、車のクラクションに度肝を抜かれて頭を下げつつ、前だけを睨みつける。
その途中、視界を横切った石段に意識が止まった。足を止め、一秒だけ考える。一秒が過ぎた後、回れ右をしながら三歩だけ逆走して通学路から外れた石段を駆け上がった。この石段の先には名も知らない神様が祭られている町の神社があって、その神社の裏手にある林を突っ切れば学校への近道になることを泰斗は知っていた。子供の頃は毎日のように遊び回ったその林は、高校生になった今でも泰斗の庭みたいなものである。幸か不幸かは知らないが、自転車の無い今はその近道が使えることに思い至った。
落ち葉が掃除もされずに散乱する石段を上り、目前に広がった大きな鳥居と地面に埋め込まれた石畳と古ぼけた神社を視界に収めながら足を動かす。ああ小さい頃はここでこうして遊んだよな、などと昔を懐かしむ余裕は今の泰斗には当然のように無い。鳥居を潜って石畳を駆け、神社の柱に手をかけて体の軌道を無理矢理捻じ曲げて裏手に入り込み、
神社の裏手に立っていた人影に気づいたときには遅かった。
アクセルを踏みっぱなしだった車と、限界を突破したような泰斗の勢いがそう簡単に止まるはずはなく、人影と思いっきり正面衝突した。その際に何か硬い、人間の肘のようなものが鳩尾に突き刺さった衝撃で意識が一瞬だけ遠のき、咽返しながら世にも無様な格好で背後に引っ繰り返る。尻餅を着きながら鳩尾を押さえ、ゲロでも吐くんじゃないかというような勢いで泰斗は咳き込む。胃液にも似た感覚が喉奥から湧き上がり、鼻を突き抜けて霧散したその刺激に涙が浮かぶ。
脳みその八割が状況を理解できていなかったが、それでも残りの二割が働いて視線をぼんやりと正面衝突した何かに向けた。
残っていた二割の内、一割が死んだ。状況を理解できていない脳みその九割が暴れ出し、それでも生き残っていた一割が暴動を必死で押し止め、視界の中にいるものを理解しようと勤める。どこからともなく運ばれてきた言葉は、ただの一言だった。
――……巫女さん?
巫女さんである。
巫女装束を身に纏った少女がひとり、泰斗と同じように尻餅を着きながら、驚いた表情でこちらを見つめていた。
セミの声だけが響く、何とも奇妙な沈黙が長く続いたような気がする。
巫女装束を纏った少女が僅かに口を開きかけ、しかしすぐに視線を外して何事かを考えるような素振りを見せた。
残っていた最後の一割までも、ついには死に絶えた。混乱を通り越して考えることを放棄し始めた脳みそが、汚い本能丸出しで「可愛い巫女さんだな」と素直に思う。泰斗がぶつかった巫女の少女は、泰斗よりも少しだけ年下のような気がする。整った綺麗な幼い顔立ちを持ち、生まれてこのカタ一度も日焼けなどしたことがありませんと言い切ってもおかしくない雪みたいな白い肌をしていて、黒く澄んだ瞳はどこまでも深く美しく、そして何より注意を引かれるのは、その少女の肩にかかる程度の長さの髪の毛だった。少女の髪の毛は、太陽の光を受けてキラキラと輝くような白銀色をしていた。
『巫女さん=おばさん』という偏見を持っていた泰斗にとって、この巫女少女は新たな発見だった。考えることを放棄していた脳みそが、漠然と「こんな神社にもこんな巫女さんがいるんだ」と呑気なことを考え、そして唐突に均衡が破られた。完全に爆発した脳みそが「何してる馬鹿かお前は遅刻するぞ提出物が危ないぞ留年だぞ」と大声で警告を発する。暴走した脳みその狂気は身体を包み、未だに尻餅を着いていた泰斗を無理矢理突き動かす。
すぐさま立ち上がりながら巫女さんに向って「すみませんでしたそれでは御機嫌よう」と頭を下げてさっさと学校に行かなければならないと思った。そうしようと思って立ち上がったはずなのに、その泰斗の行動を一体何と勘違いしたのか、突如として少女の方が先に立ち上がって地面を蹴り、こちらに向かって突進して来た。回避する暇は無かった。飛びつかれた際に背後に押し倒され、後頭部が景気の良い音を奏でて意識がまたもや一瞬だけ遠のく。それが決定的な隙となり、少女が泰斗の背中に回り込んで細い腕を首に回して一気に締め上げてくる。
何かの冗談か、あるいは遊びだったのかもしれないと思っていたのは最初の一秒だけだった。
こんな少女のどこにそんな力があるのか、大の大人以上の力を持ってして首を絞められていた。見事なまでに決まっているチョークスリーパーだった。たまったものではなかった。混乱を通り越して考えることを放棄した脳みそが最後に辿り着いたのは、沸点を遥かに上回った怒りだった。一体何が楽しくて、留年が危ないこの瞬間に、見ず知らずの巫女さんに首を絞められねばならないのか。冗談では無い、遊んでいる暇も無い、離せコラ。
怒りに任せて背中に回った少女の腕を解こうとするが、驚いたことに首に回された少女の腕は泰斗の力を持ってしてもビクともせず、それどころか逆に抵抗する泰斗を危険人物と判断したのか、少女がさらなる力を込めて首を締め上げてきた。笑い話でも何でもなく、この状況に誠の恐怖を覚えた。息が保たないことが何よりも恐ろしく、このままこの少女に締め殺されてしまうのではないかと本気で思う。意識が完全に暗闇へと落ちる最後の一瞬、有りっ丈の力を振り絞って少女の腕を解こうと、
首を絞められたのと同じくらい唐突に、少女の腕から力が抜けた。
そこを好機と見なし、泰斗が少女の腕から逃れて咳き込みながら距離を取り、憤怒の形相で振り返って罵声を吐こうとした。しかしそれは、途中で止まってしまう。さっきまで首を絞めていた少女は、もはや泰斗など見ていなかった。少女は神社の入り口辺りを真っ直ぐに見つめ、絶望を叩きつけられたかのような表情をして微かに震えていた。
泰斗は、無意識の内に少女の視線を追って神社の入り口辺りを見つめた。
声が聞こえたのは、その瞬間だった。
「……ようやく見つけたぜ。手間取らせんなよ」
泰斗の視線の先、神社の石段をゆっくりと上がりながら、その男は姿を現した。
太陽の光に細められた鋭い瞳、無造作に固められた茶色の髪の毛、右耳に黒い輪の形をしたピアス、歪んだ口には捻じ曲がった煙草を咥えており、実に面倒臭そうに二十歳前後と思わしきその男は歩み寄って来る。一見すれば格好良いと思える顔だったが、雰囲気があまりに異様だった。その辺にごろごろと居座っているただの不良のものではない。もっと別の、泰斗では想像もつかないようなところで腹をくくっているような感じのする雰囲気を放つ、得体の知れない男だった。
そして、石段を上がって来たのはその男だけではなかった。男の側に決められた距離を取って並ぶ、泰斗がぶつかった少女とはまた違う、もうひとりの巫女装束を纏った少女。ふたりの年はそう違わないように見えるが、泰斗の前にいる少女はどこかまだ幼い感じを受けるのに対し、男の側にいる方の巫女の少女は凛々しい顔立ちをしていて、そこから受ける感じがまるで違った。無表情から受ける冷たい印象が、泰斗より年上に思わせる。そしてその少女の腰まである長い髪は、白銀とは異なった、まるで空のように透き通った蒼色をしていた。
泰斗の前で、白銀の髪の少女が音も無くその場に尻餅を着く。少女はどう見ても恐がっていて、そしてこの状況から泰斗が考えられることはひとつしかなかった。あの男と女は、この少女を連れ去ろうとしている悪者。少女の尋常ではない脅え方が、その答えを裏づけているような気がする。それに何よりも、あの男が正義の味方だと言われてもまず信用できる人間などどこにも存在しないだろう。
大半のことがわからなかったが、極度の興奮状態にあった泰斗はとにかく逃げなければならないと思う。この少女を連れて、今すぐ逃げ出さなければ何をされるかわからない。冷静な部分が「余計なことに首を突っ込まずに早く学校へ行け」と命令するが、あえてそれを無視した。泰斗は首を絞められた怒りを一瞬で消し去り、芽生えた正義感を振りかざして少女へ駆け寄ろうと、
またしてもそれより早くに、少女の方が先に行動を起こす。突如として泰斗を振り返った少女が立ち上がり、助ける意味で差し出したはずの泰斗の腕を鷲掴み、それを問答無用で自らの胸に押し当てた。恥ずかし過ぎて死ぬかと思った。巫女装束を通してもはっきりと伝わる、少女の胸の感触に脳みそが木っ端微塵に破壊された。
安っぽい正義感は一瞬で砕け、助けることを忘れて少女の腕を振り払おうとするが、やはりビクともしない。
有無を言わさぬ口調で少女が絶叫する、
「わたしの名を呼んで!」
泣きそうな声で泰斗が反論する、
「はあっ!? 名っていうかお前腕離せってオイマジで!」
「早くっ!!」
放たれた怒号に泰斗の度胸は一発で萎え、本当に泣きそうな顔で少女を見つめたとき、
それを見ていた男が煙草の煙を吐き出しながらつぶやく。
「――やめとけ。お前が契約しても良いことなんてひとつもねえぞ」
何の話をしているのか、泰斗にはやはりわからない。
それでも少女は叫ぶ、
「わたしの名は緋真(ひさな)! 早く呼んでっ!!」
男の忠告は頭の中から消え去り、少女の叫びが恐くて言われた通りに従っていた。
どうにでもなれっつーんだくそったれが。そんな気分だったように思う。
口を開くと同時に、泰斗が少女の名を叫ぶ。
「――緋真ッ!! ……なんだよ、これでいいのかよ、他におれにどうしろって、」
瞬間、
泰斗の腕が触れている緋真の身体が突如として光り出す。風など吹いていないのに白銀の髪がふわりと舞い上がり、光の輝きが増す緋真の体が僅かに泰斗に近づく。それに度肝を抜かれて後ずさろうとするが、驚くような勢いで力任せに引き寄せられ、嘘だろオイ!!、と心の中で絶叫する泰斗が慌てて仰け反ろうとしたときにはすでに手遅れで、気づいたら緋真と唇が重なっていた。恥ずかし過ぎて死ぬかと思った、どころの騒ぎではなかった。体の細胞ひとつひとつが危険信号を全開で弾き飛ばし、それを感知した脳がすぐさま行動に移そうとするが、そこにある瞳を閉じた緋真の顔から視線を外せない哀れな己がすべてを否定する。
重なり合っていた唇を通して、『何か』が泰斗の体内に流れ込んでくる。まるで熱湯でも直接流し込まれたかのようなものが喉を通り、しかしそれは胃に到達することなく体中に流れて泰斗の身体に馴染むように溶けて消えていく。そして流れ込んだ分を返すかのように、泰斗の体内で『何か』が凝縮されて喉を駆け上がり、またしても唇を通してそれは緋真の体内へ流れ込む。
心臓が大きな鼓動を打つ、身体が焼けるように熱い。
意識が朦朧とし始めた刹那、目前にあった緋真の瞳が開かれて唇が離れる。真っ直ぐに見つめてくる美しい少女から視線が外せず、しかし巫女装束を通して胸に押し当てられていた自らの右手がゆっくりと緋真の中へ入って行くことだけは視界のどこかで認識していた。泰斗の右手の手首までが、光に飲み込まれるかのように緋真の中に入っていた。在り得ない現象のはずなのに、それを自然と飲み込んでいる自分がどこか異様だった。
そして、緋真の胸の中に入っていた泰斗の手の指先が、『何か』に触れた。硬い、『何か』がそこにある。
掴んで。そうつぶやく緋真の声に、まるで催眠術でもかけられたかのように泰斗はそっと手を動かし、その『何か』に手を添え、掴む。
それに比例して光が増す、目前にいる緋真しかもはや見えない、
「貴方の名は何ですか」
緋真の問いに、光に包まれながら泰斗は言う。
「御影、……泰斗」
「……泰斗。貴方が、わたしの、――契約者」
刹那、
すべてを飲み込んだ白い光に視界が閉ざされた。眩いばかりの光に目を閉じ、腕で自らを庇うように泰斗は体を強張らせる。
そしてようやく光が納まり、視界が元通りの色を取り戻したとき、目前に緋真はいなかった。
照りつける太陽の光を何となく肌で感じて、響き渡るセミの声を何となく耳に入れ、泰斗は右手を前方に差し出す。差し出した右手が掴んでいる『それ』が緋真であるということは、すぐに理解できた。しかし理解と納得は、また別の思考だった。理性が本能的に『それ』が緋真であると理解していても、人間が『これ』になるはずはないと感情が納得しない。最後の否定、無駄な抗い。その納得しない感情の根本ではすでに納得している、ということを納得したくなかったのかもしれない。だけどもう、理解し、納得してしまった。なぜなら、『これ』がなんであるのかを泰斗はもう知っているから。なぜなら、『これ』から緋真の存在を感じるから。
なぜなら、『これ』は、緋真だから。
泰斗が手にしているそれは、一振りの刀。太陽の光に照らされて輝く刃が、偽物であるはずはなかった。
正真正銘の刃を備えた、正真正銘の日本刀。それが、この手に握られている。
そして泰斗自身は気づいていないだろうが、今、御影泰斗の瞳は雪のように白く染まっている。
拍手の音と共に、泰斗は視線をそれまで黙っていた男へ向ける。
「まさかちゃんとした儀式も無く本当に契約しやがるとは思ってもみなかった。さすがは《白の刻》、とでも言っておこうか。だがこれで、本来なら連れて帰るはずのおれの手間が省けたわけだ。それに楽しみも増えたしな、一応、礼を言っておく」そこで一瞬だけワザとらしい間を置いてから、思い出しかのように「……そうだよな、《白の刻》が契約したなら仕方が無い、今ここで、……殺して行くしかねえよな」
男が一歩下がり、側に待機していた蒼く長い髪を持った巫女少女がそっと歩み出る。
その背から男は少女に抱きつくような仕草をした後に、実に楽しそうに笑う。
「人間と契約した籠狗とやり合うのはこれが初めてだ。せっかくだ、見て行けよガキ。――これが、《蒼の刻》の籠狗だ」
そう言った瞬間に、先ほどとは少しだけ違う蒼い光が輝き出し、抱きついていた男の腕が少女の体に飲み込まれ、それに比例してゆっくりと少女の体が形を変えていく。光に捻じ曲げられるように姿を変えた少女の光は、そのまま差し出されていた男の手に収縮されて決まった形を形成する。男と『少女だったもの』を包み込んでいた光が弾けて消えた刹那、そこから現れるのは男の両腕から両方の手の甲にかけて装着された爪のようなものだった。爪、といっても人間の手に生えているような生易しいものではない。簡単に言い表すのなら、それは泰斗が手に持っている刀の刃が左右対称に五本ずつ一定の間隔で装備された二体一対の、武器だった。
男の腕が下に垂らされるとその刃は石畳に着くほど長く、石と刃がぶつかる度に小さな火花が飛び散って地面が抉り取られる。
手に持つかつて緋真だった刀を握り、かつて少女だった爪を装着する男の蒼く染まった瞳を見つめ、
これは夢ではないのか、と今さらに泰斗は思った。
何もかもが現実のものとは思えない。一体何が起きて、一体自分が何をしていて、一体これから自分がどうなってしまうのかがまるでわからない。今朝起きたら自転車が粗大ゴミにされていて、学校に遅刻したら留年が危なくて、近道だと思ってここに来たら緋真とぶつかって、なぜかは知らないがいきなり首を絞められて、そう思ったら今度は謎の男と謎の少女が出現して、緋真が光った次の瞬間には刀になって、また光ったら今度は謎の少女が爪になって。そしてこの流れでいくと、自分は、これからどうなってしまうのか。実に簡単なところに答えは転がっているだと思う。だけど、簡単過ぎて手を伸ばす気になれなかった。
自分の手に持っているのは武器である。男の手に装着されているのもまた、武器である。そんなふたりが対峙しているのだ、やることなどひとつしかなかった。こんな状況で話し合いができるとは思っていないし、仲良く世間話する雰囲気でもない。何か切っ掛けがあれば、戦闘が始まるに決まっていた。触れただけで石をも抉り取る本物の刃物を相手に、本物の日本刀で戦おうとしている。本人にその意志が無くとも、状況は勝手に流れていく。
待って欲しい。これが夢であって欲しい。いや、夢であるはずなのだ。自分はまだ部屋のベットの中で眠っているのだ。絶対にそうに決まっているのだ、決まっているのに、なんで、――この夢は、覚めないのだろうか。何でこの夢は、こんなにも現実味を帯びているのだろうか。どうして自分は、震えながら、刀を、構えているのだろうか――。
それを戦闘開始の合図と捕らえたのか、男が笑いながら地面を蹴って加速を開始する。その接近を真っ向から見据える泰斗の思考は半ば停止していて、このまま切られればもしかして夢は覚めるのではないかという下らない希望が湧き上がった。自暴自棄に陥った脳みそではそれが最も有力な説に一瞬でのし上がり、無抵抗のまま切り裂かれようと刀を下げた刹那、
体が泰斗の意志とは関係無く動いた。地面擦れ擦れを這うように迫って来ていた男の腕に装着された長い爪が振り上げられ、五線の刃が泰斗を真下から切り裂くかどうか時間差で、一振りの刀が軌道に割って入る。五本の刃と一本の刃が交錯し、冗談のような火花が飛び散る中で、泰斗の白い瞳と男の蒼い瞳が絡み合う。受け止められた攻撃を男は力任せに押し切り、反動に作用された泰斗の体が背後に吹き飛ぶ。その勢いを地面に刀を突き刺すことで殺し、体勢を整えながらゆっくりと刃を構える。
泰斗自らの意志で動くのは、もはや眼球だけだった。体が操り人形のように勝手に動かされている。右手に握った緋真であった刀を恐怖に染められた思考で見つめ、自分でもわからない叫びを上げようとするが口さえも動いてくれない。頭の中で絶叫するが返ってくる声は当たり前のように無く、これが夢であって欲しいと願い続ける。そんな泰斗の内心など気にも止めず、男が再び地面を弾いて加速した。
火花を飛び散らせて迫る男を見つめていた泰斗の脳裏に、突如として緋真の声が響く。
――戦ってください、泰斗。
馬鹿言うな、と速攻で叫び返したのだが緋真の返答は無い。
真横から振り抜かれた左爪を刀で防いだ後、男の右手が泰斗のこめかみを鷲掴む。体は動かないくせに、痛覚だけは共有しているらしかった。こめかみから痛みが走り、身を捩って痛みを霧散させようとするが、動かない体からは直の苦痛が押し寄せる。男の右手が上がると同時に泰斗の体が持ち上げられ、引き戻された左爪が太陽の光を反射して煌めく。男の口元が歪み、何かの言葉を発するが泰斗の耳には届かない。
戦ってください、とつぶやく緋真の声が再び頭の中に響く。
戦えと言われて、死ぬかもしれないこの状況ですぐに戦える方がどうかしている。人間死ぬ間際になれば信じられない力が出るとかいうが、そのまま死んでしまう奴だってごまんといるはずだ。もちろん自分は後者である。ここぞというときにはいつも力を発揮できずに終っていくのだ。もう慣れた、だから戦えない。夢であるはずのこの景色の中で、何をどうして戦えって言うのかが理解不能である。無責任なことを言うな、お前はいいよな、だってこうして日本刀に変身して殺される心配は、
【緋真が、日本刀になっている】――?
突如として安っぽい正義感がぶり返す。右手に握っている緋真を見つめ、一瞬の間で決意を固める。この刀は緋真である。どういう理由で人間が刀に変貌するのかは謎のままだがしかし、それでもこれは緋真なのだ。巫女装束を身に纏った、恐らくは年下のひとりの女の子なのだ。傷つけられれば痛いに決まっている。先ほどの二撃を受け止めた際にも、緋真は少なからず痛みを負ったはずだ。こめかみを押さえられているこの痛みより大きいのか小さいのかは知らないが、それでも痛いはずである。確証は無かったが、漠然とした確信があった。
自分ひとりが痛くて苦しいわけではない。たった一度だけでいいのだ。一撃を振り下ろしたらこの男との距離を取って、踵を返して一気に逃げ出すのだ。こんな戦い慣れしているような男と真っ向やらやり合って勝てるはずがない。だったら、逃げるが勝ち、なのである。逃げ切れたら緋真から事情を聞けばいい。それが泰斗の手に負えることなら手を貸して、負えないのなら警察にでも任せればいい。だから今は、たったの一度、たったの一撃だけでいいのだ。
緋真を自らの意志で握り締めた瞬間、泰斗を束縛していた感覚が消え、自分の思った通りに体が動かせるようになった。男に持ち上げられて足は地面に着いていないが、それでも攻撃は行える。泰斗に狙いを定めていた爪より早くに、獣のような叫びを上げて刀を右斜め上から一気に振り下ろす。突然の反撃に男が驚いたような表情をしたのが隙となり、泰斗の放った刀は男の肩口を、
刃が空を切った。こめかみの痛みがふっと途絶え、気づいたら地面に落ちていた。すぐさま立ち上がって男がどこへ行ったのかを探るために辺りを見渡すが、どこにも男の姿は無かった。逃げてしまったのではないか。そんな安易な考えが泰斗の心を落ち着かせたのが仇となる。
「――戦う気になったか」
声は、上から聞こえた。
反射でそこを振り返っていた。
「だが、所詮は素人の大振りだ。おれには通用しねえよ」
男は、神社の屋根の裏側に爪を食い込ませて貼りついていた。
何かの映画で見たように、壁に貼りついて男は泰斗を見下ろしている。ガリッ、という音と共に爪が屋根から外れて男の体が落下し、地面に両手両足で這い蹲って今度は泰斗を見上げた。男は、実に嬉しそうな顔をして笑っている。その笑みに言い表せない恐怖を覚え、しかし何とかその感情を抑え込み、泰斗は有段者が見れば苦笑してしまうような隙だらけの体勢で刀を握り締めながら構えを取り、這い蹲る男へ攻撃しようと一歩を踏み出した。その一歩を踏み出した時点ですでに、男の体は泰斗の視界の中から消えていた。
真横を風のようなものが流れ、少しだけ背後に引っ張られるような力が働いた刹那、泰斗の右頬に小さな切り傷が五本、すうっと入る。そこから流れ出した少量の血が顎を伝って泰斗の肩に滴り、汗と混ざり合いながらカッターシャツに赤い染みを作った。その赤色が自分の血であるということが、すぐには理解できなかった。そして同時に、背後にいるのが先ほどまで目の前にいた男であることもまた、理解できていなかった。その気になれば、男は泰斗をすぐにでも殺せるのだという事実だけが、漠然と脳内で理解された。安っぽい正義感はやはり簡単に萎えた。
震え出した腕を見つめることもできず、カラカラカラと音を立てながら地面を抉り取って火花を散らす爪がゆっくりと近づいて来るその音が、今は何よりも恐い。逃げ出したいはずなのに体が言うことを聞かない。何かの力に作用されて動かないのではなく、ただ恐怖に怖気づいただけだった。腰が抜けてその場にへたり込まないだけマシだったように思う。安っぽい正義感も、度胸を奮い立たせる怒りも、逃げ出すだけの根性も無い。どうすることもできなかった。頬から流れている血が、未だに自分のものだとはどうしても思えない。
どうして自分がこんなことしてるんだっけ、と錯乱にも似た思考が浮かび、そしてそれが活路を見出す。
緋真も痛いのだから、自分も少しは我慢しろ。まだ殺されたわけではない。掠り傷程度の傷を負っただけだ。もっと酷い怪我を今までだって何十回と負ってきたはずだろう。今さらこんなみみっちい傷が恐いとは言わせない。こんな痛み、緋真が負った痛みに比べれば屁でもないぞ。泣き言は聞かない、これが最後だ、振り返って刀を構えて戦え。一撃だ、たったの一撃なのだ。それを食らわせたら逃亡開始、逃げるが勝ち。逃げるのもまた勇気の結晶だ。本当の腰抜けとは、何もせずに殺される奴のことを言うのだ。このまま女の子ひとりを見殺しにする奴のことを言うのだ。だから、たったの一撃だけ、それだけいいから、戦え。
緋真を、守れ。
緋真の声が聞こえたのは、そのときだった。
――……ありがとう、泰斗。
瞬間。
焼けるような熱さが泰斗の体を吹き抜け、白い瞳が灼熱の波動を宿す。
鼓動を打つ緋真の刃がゆっくりと炎を生み出し、やがてそれは荒れ狂う劫火と化す。渦巻く劫火を纏った刃を見つめ、泰斗は言い知れぬ力を感じた。活気の戻った脳みそが「これが世に聞く火事場の馬鹿力か」とどうでもいいことを思う。緋真の鼓動がはっきりと伝わる刀を握り締め、泰斗は無意識の内に笑った。はっきり言おう。さっきまで逃げることしか考えていなかった自分が情けない。今の緋真を手にしているこの自分が、他人に負けるわけはないのである。何でもできる、何でも来い、どんなものも敵ではない、上等である。負ける気が、しない。
劫火の刀をその手に、泰斗が振り返る。その視線の先にいるのは、最高に楽しそうな顔をする男。その笑みもそこまでだ、と泰斗は思うのだが、男は表情などまるで崩さずに言う。
「契約して僅かな間に籠焔(ろうえん)をも使うとはな、お前らには驚かされてばかりだ。さすがは《白の刻》、潜在能力はやはり《蒼の刻》より上なのかもしれねえな。……だが、言ったろう。所詮は、素人なんだよ」
負け惜しみだと泰斗は思い、そして、
男が爪を左右に広げて叫ぶ、
「――行くぜ双劉(そうりゅう)ッ!!」
男の蒼い瞳に、泰斗と同じような、しかし泰斗のそれよりは遥かに強烈な灼熱が宿る。
気圧された、というのが本音だった。男から迸った殺気と十本の刃からあふれ出した劫火は、緋真の刀とは到底比べ物にならないほど巨大で、比べる必要も無いくらいに力強さが違っていた。巻き起こった劫火が泰斗の劫火を飲み込んで支配し、それは爪に纏わりつきながら蠢く。男から迸って辺りを覆い込むような強靭な殺気は、簡単に泰斗の脳内まで届き、負ける気がしなかったという思考を一瞬にして捻り潰す。天地が逆転したかのような圧倒的な力の差。やはり最初から、この男に勝てるわけはなかったのである。
男の体が僅かに沈んだ瞬間、泰斗がそれに気づいて構えを取
振り上げられた炎の爪が、泰斗のすべてを凌駕して緋真の刀を空高くに舞い上げた。太陽の光を反射しながら回転し、無機質な音を立てて地面を転がった刀はやがて静止して、光の下にパァアっと輝いたと思った次の瞬間には、そこから巫女装束を身に纏った緋真が姿を現す。力無く横たわる緋真の瞳は閉じられ、もしかしたら息をしていないのではないかと瞬間的に思ったが、それを男の声が否定する。
「死んじゃいねえよ」
泰斗の視線が緋真から男に向けられたときにはすでに、そこには男ともうひとりの巫女装束を纏った少女がいた。
辺りを支配していたはずの炎は一瞬で掻き消え、そんな炎など最初から存在していなかったかのように男は平然とどこからともなく煙草を取り出して口に咥え、ライターで火を点けて煙を吸い込む。盛大に吐き出された煙が漂う中、男が踵を返すと同時に少女が変わらずの無表情でそれに続く。何の説明もしないまま去って行こうとする男の背に向って泰斗は一瞬だけ何と声をかけていいかわからず、しかしそれでも「あのっ、」と言葉を発した刹那に、それを男が遮った。
歩いたまま、こちらを一度だけ振り返って煙を吐き出しながら、
「後は好きにしろ。《白の刻》は連れ帰って煮るなりヤルなりお前の好きにすりゃいい」
けどな、と男の鋭い瞳が研ぎ澄まされる、
「おれはお前と《白の刻》に興味が湧いた。お前が契約したんだ、責任は取ってもらう。いいか、忘れるな。お前は必ず、このおれの領域まで這い上がれ。そして、このおれともう一度戦え。……それが、籠狗と契約したお前の責任だ。《白の刻》と契約したお前の役目だ。もしもおれ以外の奴に殺されるようなら、地獄の果てまで追いかけてもう一度、おれが殺してやる。憶えておけ、ガキ」
そんな捨て台詞を吐いて、男と少女の姿が神社の石段から消える。
残されたのは、泰斗と、そして気を失っている緋真だけだった。
どうすればいいのか、まるでわからなかった。
◎
母がパートで家にいないことが、唯一の救いだったように思う。
御影家には仕事で夜まで帰って来ない父と、昼間はパートに出掛けている母と、学生である泰斗が住んでいて、そしてもうひとり、従姉弟の伊吹彼方が居候しているのだが、この時間に恐らく彼方は家にいるだろうけど、仕事の関係上で昼と夜が逆転してしまった生活を送っているため、寝ているに決まっている。昼間にどこかへ出掛けなければならない用事が無い以上は、彼方が起きて家の中を徘徊している心配はないはずだ。そして泰斗は、彼方が今日は朝から爆睡していることを知っている。つまりは用事が無いということであり、今も彼方は絶対に眠っているということになる。
それでも泰斗は細心の注意を払い、物音をひとつも立てずに自宅の玄関を抜け、未だに気絶したままの緋真を背中に背負いながら階段を上がり、冷汗を流しながら沈黙する彼方の部屋の前を何とか突破し、自室のドアを閉めた瞬間に盛大な息を吐き出した。気絶した女の子を学校サボって家に連れて込んでいる場面を見られれば彼方に何と言われるか想像するだけでも恐ろしい。できれば両親にも見つかりたくはない。緋真がいつ目覚めるかわからないが、それまでは誰にも発見されるわけにはいかなかった。
背負っていた緋真をベットの上に下ろし、床に座り込んで泰斗は頭を抱える。
冷静である半分の脳みそが「これで留年だぞ馬鹿野郎」と罵声を吐き、残りの半分が意味不明な言葉を出鱈目に叫ぶ。これから急いで学校へ向い、職員室に殴り込んで笠間のババアを視界に捕らえ、有無を言わせず土下座して謝れば許してくれるかもしれない、と少しだけ思うが、緋真をここに残したままでは行動に移す気にはなれなかった。もし泰斗がいない内に緋真が目覚め、廊下に出たところで彼方と鉢合わせたら目も当てられない。万事休す、留年確定以上の大惨事になってしまう。
ベットに横たわる緋真は規則正しい寝息を立てていて、心地良さそうに瞳を閉じている。呑気なその寝顔を見つめながら、泰斗はふと、実は気絶しているというよりはただ疲れて今もまだ眠っているだけなのではないかと思い至るが、無理矢理叩き起こすだけの気力はこちらにも無かった。疲れて死にそうだったのは、泰斗も同じである。一体何が起こっていたのか、未だに理解できていない。あれが果たして現実だったのかどうかさえも危ういのだが、目の前に眠る緋真がいる限り、あれは夢ではなく現実であるはずだった。
謎の男と謎の少女が去って行ってからすぐに、泰斗は自分も逃げ出そうかと思った。が、気絶していた緋真をそのまま放置して行くわけにもいかず、取り敢えずはこうして連れ帰ってみたのだが、これからどうすればいいのかがやはりわからない。あの男は、「おれの領域まで這い上がれ」と言い、そして「おれともう一度戦え」とも言った。それが泰斗の責任と役目である、と。そんなことを言われても困る。喧嘩もロクにしたことがないこの自分に、あのような殺し合いがそう何度もできてたまるものか。思い出しただけで震える、恐怖がぶり返す。
そんな感情を押し殺すかのように、泰斗は大きなため息を吐き出してぼんやりと起き上がった緋真を見つめていた。綺麗だった巫女装束はあの炎の影響なのか所々に焼け焦げてしまっていてボロボロなのだが、それでも緋真に外傷らしい外傷が無いように見えるのが不幸中の幸いか。それでも着替えくらいはさせた方がいいのではないかと泰斗は思う。
緋真がこっちを見つめていて、泰斗もまた、緋真を見つめていた。
唐突に我に返った。仰天して叫びそうになっていた自分を気力で抑え込み、切って貼ったようなぎこちない笑顔を慌てて浮かべる。しかし何と言っていいかはすぐにわからず、ぐるぐると回っていた脳みそがなぜか、「お、おはようっ」との言葉を吐いた。吐いてからすぐに自分を罵ったが後の祭りである。緋真は多少面食らったような表情をした後に、ふっと表情を緩めて「おはよう」と返してきた。
たったそれだけのことで、幾分か気分が落ち着いた。
「……あ、あのさ、」
――君は、何だ?
単刀直入にそう訊ねようとして、寸前のところでやめた。今の緋真がそれに明確な答えを返してくれるとは思えなかった。まずはもうちょっと適当なことを話をして、緋真を多少なりとも理解して互いに打ち解けてからそれとなく上手い具合に聞き出す方がいいのではないか。聞きたいことや訊ねたいことは山ほどある。だけど今はそれを我慢して、少しだけ下らない雑談に花を咲かせ、緋真が笑えるくらいに打ち解けてから重要なことを聞いても遅くはないと思う。それよりも、そっちの方がいいとさえも思う。それならば何を話そうか、下らない雑談って何があったっけ、ええっと、
そんなことを悩んでいた泰斗の前で、緋真が自らの服装を見下ろした。焼け焦げた巫女装束を指で摘み、少しだけ悲しそうな顔をする。
話題が見つかった。
「替えの服って、持ってる?」
泰斗を見つめ、緋真が遠慮がちにふるふると首を振る。
荷物自体を持っていなかったので、それも当たり前なのかもしれない。
「だったらさ、おれの、」そこで一瞬だけ言葉が緩み、しかし勇気を振り絞って「おれの服貸すからさ、それに着替える?」
泰斗がそう言うと、緋真は僅かに考えるような素振りを見せてからこくりと肯いた。
決まれば行動に移すだけである。泰斗は立ち上がって部屋の隅に鎮座していたタンスへ歩み寄り、引き出しを開けて中からシャツとズボンを物色する。泰斗のサイズが緋真に合うとは思えないが、それはそれで何とかなるだろうと切って捨てることにする。緋真に似合いそうな服を探すのだが、やはり男である泰斗の服の中に女の子に似合いそうなものなど当たり前のように無く、応急処置みたいな感じで適当な服を引っ張り出した。黒い無地のシャツと、すっかり色褪せてしまったジーンズ。それを持って緋真を振り返り、
「一応、これに着替」
言葉はそこで止まった。
泰斗に言われるより早くに、緋真はなぜかもう巫女装束を脱ぎ始めていた。
こいつ正気かと本気で思う。世にも情けない悲鳴を上げながら、泰斗は投げつけるかのように服を緋真に押しつけ、慌てて部屋を出ようとドアノブに手をかける。その瞬間に、廊下に出るのはマズイのではないかと気づく。もしバタバタと廊下を走れば彼方が起きてくる可能性がある。そうなってしまっては手遅れだ、取り返しのつかない事態に発展する。しかしだからと言って、着替えをする女の子を後ろにして部屋に留まることは男としての理性を疑われる。泰斗は高校二年の健全なる男子生徒である。女の子が後ろで着替えているのに平常心でいられるわけがない。いられるわけはないのだが、
もうすでに、泰斗の平常心はとっくの昔に麻痺してしまっているのかもしれなかった。緋真と神社の裏手でぶつかったあの瞬間から、泰斗が持ち合わせていた平常心なんていうものはいとも簡単に砕け散り、非現実的な現実を完璧に飲み込んでいるのかもしれなかった。だから、落ち着いて考えてみるとそう慌てる状況ではないのかもしれないと思う。後ろを振り返らなければ問題は無いのではないだろうか。そう判断した泰斗はドアノブに手をかけたままの体勢で味気無い茶色のドアと睨めっこし、コンセントを抜かれた電化製品のように停止する。
後ろから耳に届く布の擦れる音は、男の理性を崩壊させるのには十分過ぎる効力を持っているはずなのに、すでに平常心を失っている泰斗には屁でも無かった。女の子が日本刀に変身してそれを握って殺し合いを果たした今の泰斗には、自分の部屋で女の子が着替えをしているという事実が極々小さな出来事のように思える。少なくとも心臓は普通に鼓動を打っているし、男としての機能は沈黙しているし、自分は落ち着いている。何だやればできるじゃん、とよくわからないことで泰斗は誇らしげになった。
泰斗の手がかけられていたドアノブが向こう側から回されたのは、そのときだった。
「たいとー。なに、あんた何でいるのぉー? 学校はぁー?」
寝惚けたような口調で言葉を発し、ドアを引いて顔を覗かせたのはこの家に居候している伊吹彼方である。
彼方は学生の頃からよくモテたことを泰斗は知っている。もともと可愛い顔立ちで活発な性格だった彼方は学校では最も人気のある女子生徒で、大学ではミスナンチャラに選ばれているはずだ。二十四歳になった今の彼方は着実に『大人の色気』を増しつつあって、最近では働いているデザイナーの職場で大人気になっているらしい。しかしそんな彼方も家にいるときまで文句無しの美人というわけではなかった。人間表があれば裏もある。泰斗の目の前にいる彼方は、寝起きですと言わんばかりに髪の毛が爆発していて、化粧も何もしていないせいで眉毛はほとんど無く、服装はキャラクターもののパジャマで、おまけに右手を口に当てながら盛大な欠伸をしてみせた。彼方に好意を寄せる男性がこの伊吹彼方を見れば幻滅すること間違い無しだ。
彼方は日常生活、つまりは家事全般が人一倍苦手である。デザイナーの職場に就いたものの、職場は家から大分離れていてひとり暮らしをしなければならなかったはずだったのだが、「ひとり暮らしは絶対に嫌っ! だってゴキブリ出るもんっ!!」という実に下らない理由で両親と大喧嘩をした挙げ句の果て、職場に近い場所に位置していたこの御影家に転がり込んで来たのだ。幸いにして泰斗の両親は彼女を快く迎え入れ、余っていた部屋を分け与えられた彼方は毎晩徹夜でデザイナーの仕事を頑張っている。
だから彼方は、徹夜している代わりに昼間は寝ているはずだった。そしてもちろん、ついさっきまで彼方は寝ていたはずだ。それなのに今は起きている。どうして起きたのかはわからないが、その世界滅亡にも匹敵する重大な現実問題に、泰斗はすぐに気づけなかった。少しばかり驚いただけで、そこにいる彼方に向って泰斗は自然に苦笑する。
「おはようカナ姉。それがさ、ちょっとあって学校はサボった」
彼方は目をゴシゴシと擦りながら、
「今から行けばまだ三時間目には間に合うでしょーが。早く行け馬鹿、学生の身分でおサボりなどお天道様が許してもこの彼方様が許さ、な……ぃいッ!?」
眠たそうにしていた彼方が突如として奇声を上げ、泰斗を押し退けて部屋の中に乱入する。
「な、何だよカナ姉、痛いって、どうか、し……たあッ!?」
泰斗も奇声を上げ返し、ようやく事態の深刻さに思い至った。
部屋の中には緋真がいる。その事実を、まるで忘れていた。
彼方の視線を追って慌てて部屋の中を見つめたとき、脳みそがたったの一発で再び爆発した。後ろで緋真が着替えていても揺るがなかったはずの麻痺していた理性が音を立てて木っ端微塵に崩壊した。彼方が口を金魚のようにパクパクとさせてベットの一点を凝視し、そして泰斗も同じようにそこを凝視して硬直する。指一本まともに動かせず、崩壊した理性が悲鳴を上げている。
緋真は、ズボンは履き終わっているものの、シャツはまだ着ていなかった。
おまけに、下着も身につけてはいなかった。
彼方が突如として踵を返して泰斗の部屋を飛び出し、自室に飛び込んで物凄い音を立てて何事かをし始める。その音に我に返った泰斗が泣きそうな顔で彼方の後を追おうとするが、追ったところでもうどうすることもできない状況になってしまっているのだと気づいて立ち止まり、その場でぐるぐるぐるぐるぐるぐると回り続け、やがて限界を突破した脳みそが発狂した。逃げよう、と思った。今すぐ外国へ旅立って二度と家に帰って来ないでおこう、と思いついてからすぐに、しかし自分がパスポートなどという上等な代物を持っていないことを思い出して撃沈する。
ヒステリックに陥った幽霊のような雄叫びを上げながら、しかしそれでもこちらを驚いた表情で見つめていた緋真に人差し指を突き刺し、大声で、「お前は早く服着ろこの馬鹿っ!!」と絶叫する。が、向けてしまった視線を一瞬の内に外したのだが時すでに遅し、健全なる男子生徒なら誰にでも訪れるような現象が泰斗を襲う。わかってるよ馬鹿って言うな、みたいな顔をして不服そうに服を着る緋真に背を向け、泰斗は床に蹲って身動きをしなくなった。
物凄い音を立てて彼方の部屋のドアが開き、その風圧が泰斗まではっきりと届く。髪と化粧を整えて服を着替えた彼方が再び泰斗の部屋に乱入して来て、シャツを着終わった緋真を僅かな間だけ見つめた後、蹲る泰斗の肩に腕を添えて実にイヤラシイ笑みを浮かべた。一体どこからかっぱらってきたのか、彼方の目には似合わない黒のサングラスが掛けられていて、その奥から見えるヨコシマナ瞳がキラキラと輝いている。
「ちょっとねえダンナ、学校サボって朝からエンコーターイムですかい? もうやっちゃった後? それともこれからするの? お姉さんに言ってごらんなさい、誰にも言わないから、ねえちょっと泰斗ってば!」
きゃっきゃとはしゃぐ彼方を手で押し退け、泰斗は叫ぶ、
「するわけないだろ!! これにはちゃんとした理由が、」
それでも彼方は引かない、
「隠すな隠すな。ムキになって反論するのは墓穴を掘るよ。少しくらいヤマシイこと、しちゃったんでしょ?」
そう言われて真っ先に浮かんだのが、神社で緋真とキスをした場面だった。
あのときの緋真の唇の柔らかさと、そして手に押しつけられた胸の感触が鮮明に蘇り、意識せずとも赤くなった泰斗の顔を見つめ、彼方は「脈アリ」と拳を握る。
「なになになにっ!? どうしたのどこをどうしたのっ!?」
こうなりゃ知ったことか、と泰斗は突如として立ち上がってつき纏う彼方を無視して机に歩み寄り、小さな引き出しを開けて中に突っ込んである数枚の札の内、五千円札を掴んで彼方の右手に握らせる。
彼方は一瞬だけきょとんとした後、しかしすぐに真顔になって「なに、これ。口止め料?」と訊ね、肯く泰斗に「馬鹿にしないでよっ!!」と真顔で叫びつつ、しかし五千円札はちゃっかりポケットにしまう。
これでもまだ駄目か、と歯を食い縛った泰斗は、唐突にこちらを不思議そうに見つめていた緋真と目が合った。似合わないと思っていた泰斗のシャツもズボンも、緋真にはなかなかに似合っていたことが少しだけ驚きだった。男もののぶかぶかの服を着て、ベットの上にぺたんと座り込む緋真を見つめていたとき、泰斗は一瞬で閃く。まずはどんな手段でもいいから、この状況を打破しなければならない。そのためなら、どんな犠牲だって払ってやる。
引き出しの中から今度は一万円札二枚を取り出し、「またワイロか!?」と叫ぶ彼方にそれを握らせ、真剣な顔でつぶやく。
「頼みがある、カナ姉」
泰斗の声色に彼方が僅かに驚き、さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返る。
「ベットにいるこの子は緋真。だけどわけがあって今は彼女のことは話せない。いつか必ず話すから、今は何も聞かないで欲しい。それと頼みと言っちゃ何なんだけど、このお金で緋真の服やら何やらを買って来て欲しい。この子、着替えも持ってないらしいんだ。だから、」
よしわかった、と何の抵抗も無く彼方は納得した。
呆気に取られた泰斗から握らされた二万円をポケットに押し込み、さらに引き出しからもう一万円だけ密かに抜き取って捻じ込み、何食わぬ顔で緋真を見つめて満面の笑みで笑う。
「行こう緋真ちゃん! ショッピングだっ!!」
「え、ちょっと待ってよ、緋真はここに残――」
言うが早いか、混乱する緋真の手を引いて彼方はあっという間に泰斗の部屋から出て行ってしまう。
それを追いかけようとしたときにはもう手遅れで、階段の下から彼方が捨て台詞を吐いて行く。
「あたしに任せれば何でも解決さ!!」
彼方に任せてまともに物事が解決した試しなど、今までただの一度もありはしなかった。
一体何のために二万五千円(+一万円)もの大金を叩いたのか、まるでわからなかった。
ひとり部屋に取り残され、御影泰斗は途方に暮れた。
結局、彼方と緋真が帰って来たのは、夜の九時を三十七分も過ぎた頃だった。
家を飛び出して約十二時間、ふたりがどこで何をしていたのかはまったく知らないが、頬についた五本の切り傷のカサブタを突いていた泰斗の部屋に突如として彼方は踏み入り、ヘトヘトになったような顔で三つも抱えた紙袋を床に置き、ゾンビのように「もーだめ、もー死んじゃう、緋真ちゃんの衣装発表は明日で許して、足りなかった分の二万円は出世払いでよろしく、それと緋真ちゃんのことはおじさんとおばさんにはあたしの友達ってことで紹介しといたから、ああそれからお風呂ももう入って来た、パジャマはあたしの貸してあるからすぐに寝かせてやりな、あたしも寝るから」と一気に話してから墓場へ戻って行ってしまった。
部屋に残されたのは紙袋三つと、呆然とする泰斗と、黄色いパジャマに子供っぽいクマのキャラクターがプリントされたパジャマを着る緋真だけだった。少しだけ困っているような緋真に何と声をかけていいかわからず、取り敢えず置かれた紙袋にそっと近寄り、泰斗は中身を覗き込む。ぎっしりと詰まっている真新しい服。誰がこんなに買って来いって言ったよ馬鹿カナ姉、とため息を吐き出しながら、ふと違和感のような光を感じ、居心地悪そうに立ち竦む緋真へ視線を向けた。
服の裾を何度も折り返したパジャマを着る緋真の白銀の髪の毛は、微かに濡れて宝石のようだった。そしてその胸元に光るアクセサリーを泰斗は見つめる。革の紐で結ばれた先に銀色の十字架がついているチョーカーだった。さすがはデザイナーの彼方である、それは緋真にはよく似合っている。似合っているのだが、千円や二千円で買える代物ではないはずだ。わたしは高級品です、というような輝きを持っているそのアクセサリー。
諦めを含めて、何となく聞いてみる。
「……緋真。そのチョーカー、幾らした?」
少し考えた後、緋真が右手の指を一本、左手の指を全部立てる。
千五百円であるはずはなかった。そのチョーカーの値段、一万五千円也。
そんなもんに無駄な金を使うな。今すぐ彼方の部屋に踏み込んでそう叫びたい衝動に駆られたが、彼方に依頼を頼んだのはこの自分である。恨むなら自分自身の愚行を恨むしかなかった。大きく長いため息を吐き出した泰斗を見つめていた緋真が、視線を何度か左右に彷徨わせ、やがて何かを決めたように泰斗へ歩み寄り、首からそのチョーカーを外して差し出してきた。
意味がわからず、
「なに?」
「……返す」
「どうして?」
「泰斗が、困ってるから」
――何やってんだろう、おれ。素直に思う。
泰斗は苦笑する。
「……いいよ、もう。おれが選んだわけじゃないけど、それは緋真へのプレゼントってことで納得するよ」
少し躊躇いはしたが、どうやら緋真もそれを気に入っているらしく、まだぎこちなくではあったが、チョーカーを胸に当てながら泰斗へ向ってそっと微笑んだ。
その微笑を見たとき、泰斗の胸の奥がすっと晴れ渡ったような気がした。同時に、聞かなければならないことがあるのを思い出す。
緋真は、一体何なのか。最も重要なこと。聞かなければ何も始まらないこと。それを聞こうと泰斗が意を決した瞬間を見計らったかのように、緋真が小さな欠伸をした。真相を聞かなければならないと決めた決意はその欠伸で「明日でもいいか」とすぐに妥協し、泰斗は肩の力を抜いて呆れた風に笑う。
「寝る?」
こくりと肯く緋真は、見た目以上に子供みたいだった。
泰斗は立ち上がる、
「この部屋のベットを使って。おれは下のリビングで寝るから」
それだけ言い残して部屋を出ようとした泰斗の服を、緋真がきゅっと掴む。
振り返った泰斗の目に写ったのは、恐怖に塗り潰されたような表情をして震える緋真だった。どうしてそのような反応を緋真がするのかがわからなくて、まさか自分が何か変なことでも言ってしまったのではないかと先の言葉を心の中で復唱してみるが、別に悪いところなどひとつも無いはずである。だが尋常ではない緋真の状態に動揺し、しかし何と言っていいかついにわからずに狼狽する泰斗に向かい、緋真が俯きながらつぶやく。
「……ひとりは、嫌」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「嫌って……一緒に寝ろ、って意味?」
冗談で言ったつもりだったのだが、なぜか緋真は本当に肯く。
泰斗はさらに狼狽する。それは幾らなんでもマズイだろう。疲れ切っている自分に何かしらの行動を移す元気は無いだろうが、それでも女の子と一緒の部屋で寝て平静を保てる自信も無い。後ろで着替えをしていたあの状況とはまた違う危険が存在するのだ。元気が無いことと欲望の有無はまったくの別物である。泰斗が奥手だと勘違いしているのなら痛い目を見るぞ、これでも女の子とつき合ったくらいのことはあるのだ、極普通の高校生に一緒に寝ようって、お前それマジでヤバイだろう。
しかし、泰斗のそんな思考とは正反対に、緋真の言葉は予想を覆すものだった。
「……ずっとひとりだった。暗くて冷たくて、誰もいない所でいつもひとりぼっちだった。ひとりで眠るのが恐いの。あそこに戻ったみたいで恐い。寝て起きたら、またあそこにいるような気がする。だから、お願い泰斗」
白銀の髪が微かに震え、つぶやくように緋真は乞う。
「……ひとりに、しないで……」
俯いていた緋真から、一筋の涙が床に流れた。
それは、泰斗の思考を根こそぎ吹き払うだけの威力を持っていた。
緋真の言う、『あそこ』がどんな場所なのかは知らない。だけど。
ひとりにしてないで。そう言いながら泣く緋真を、部屋にひとりで残していけるわけはなかった。
ベットで眠る緋真から少し離れたソファに寝転がっていた泰斗はひとり、薄暗い天井を見つめていた。
耳に届く緋真の寝息を聞きながら、泰斗は誰に言うでもなく「……何なんだよ、一体」とつぶやく。
一体自分の身に何が起こっているのか。そしてこれから自分が辿るべき道はどこにあるのか。
緋真と名乗るこの少女は、一体何なのか。
何もかもが、まるでわからなかった。
窓の外から、月夜の明かりに紛れて虫の鳴き声が響いていた。
泰斗と緋真が出逢って最初に迎えた夏の夜は、そうしてゆっくりと更けていく。
「ひとりぼっちの籠狗」
一晩寝れば、麻痺した理性も失われていた平常心も大方は戻ってきた。
今朝起きてようやく、女の子が一緒の部屋で、しかも泰斗の自室で眠っているという事実の重さに思い至ったわけなのだが、その辺りはもう目を瞑ることにする。
まず最初に、自転車粗大ゴミ変貌事件のことについては母と話して一応の解決を見たものの、警察に届けるか否かで少しだけ揉めた。が、結局は泰斗が「そんな大事にするようなことでもないだろ」と母を説得し、しばらくの間は車での学校通学を行うことに成功した。自転車を壊した犯人が誰なのかは、大凡の見当はついていた。あんなことができる人間など、そうはいないはずである。できる人間と言えば、それは地面を削り取る爪をつけた奴くらいしかいないわけで、いつか機会があればその真相を暴いてやると泰斗は思うのだ。
次に緋真のことである。泰斗が学校へ行くため朝早くに起床し、まだベットで眠りこけていた白銀の髪を持つ少女をすぐさま叩き起こして、「おれは学校に行くから家で大人しくしてろ、昼飯は母さんが用意してくれてるからそれを適当に食え、何かわからないことがあればカナ姉を起こして聞け」と半分以上寝惚けていた緋真に言い残して学校へ行こうとした。しかし緋真は泰斗の服を掴んでふにゃふにゃの口調で「……わたしも、一緒に行く」とつぶやく。だが「それは駄目だ」と泰斗が却下するより早くに緋真はまた気絶するかのように眠ってしまい、泰斗が母の車へと乗り込んだときもまだ眠りこけていたはずである。
そして最後に、最も重い現実問題について、である。
学校に登校してすぐに、泰斗は職員室へ走った。「ノックして入るように」と書かれた貼紙がテープで貼りつけてあるドアをノックもせずに中にいた教師の全員が振り返るかのような勢いで開け放ち、一瞬だけ視線を巡らせた後、視界の中に数学教師である笠間のババアを捕らえた。何事だと他の教師が見守る視線の先を泰斗は大幅で歩み出し、呆気に取られてこちらを見上げていた笠間の厚化粧された濃い顔を見下げる。
一触即発の緊迫状態が過ぎ去ること二秒、泰斗はその場に土下座して一週間未提出だった宿題のプリントを献上しながら絶叫する、
「すんませんっ!! 遅れましたあっ!! 昨日の提出日を突如として発現した熱で休んでしまったのはこの御影泰斗一生の不覚っ!! ですが留年だけは本当に勘弁してくださいっ!! この通りですっ!! 本当に、本当にすんませんでしたあっ!!」
たまったものではなかったはずである。
場所が場所なだけに、笠間も謝り続ける泰斗の提出物をそう簡単に跳ね返すわけにもいかず、それどころかここで受け取りを拒否すれば悪者にされるのはどう考えても笠間の方であった。生徒が職員室で恥を凌いで土下座までしているのだ、その行為を無下にできる奴なんてそうはいまい。状況が理解できてないはずの他の教師がそれでも同情の混じった瞳で泰斗を見つめ、それから「これだけ謝ってるんだから黙って受け取ってやれよ」というような視線を笠間に向ける。
居心地の悪さを感じたのか、笠間が突然に差し出されていたプリントを引っ手繰るように受け取り、「わ、わかったわよ、もういいわ、早く教室に行きなさいっ」と慌てて立ち上がりながら泰斗の背中を押して職員室から締め出した。ドアの閉まった向こう側から、泰斗の背に小さなざわめきが広がっている。それを体全体で感じながら、泰斗は拳を握って笑う。
笠間はプリントを受け取った、つまりはこれで留年は逃れられたわけだ。最も重いはずの現実問題は、こうして解決したのである。しかし教室に入るなり、職員室に泰斗が駆け込むところを見ていた友達の瀬良悠樹(せらゆうき)が近寄って来て、頬についた五本の切り傷をまじまじと見つめてから恐る恐る、「……それ、笠間のババアに引っ掻かれたのか? ……お前、もしかして留年確定?」と素で訊ねた。
そんなこんなで、御影泰斗の学校での一日が今日もまた始まる。
泰斗は眠気が尾を引く一時間目を何とか切り抜け、脳みそが活発化し始めた二時間目を寝て過ごし、腹が減った三時間目を早弁することで空腹を満たし、もう少しで昼休みだと考えながら四時間目を湧き上がってくる笑いを堪えて生き残り、午前中の授業の内容などまるで憶えていないのにも関わらず、時間と共に学校での半日が流れて終った。今日の四時間目の授業は笠間の数学で、教室に入ってからチャイムが鳴って出て行くその間実に五十分、笠間は心の奥底では意識しているものの、一度たりとも泰斗に視線を向けようとはしなかった。ただ厚化粧された額には青筋にも似たものが蠢いているのが何となくわかったのがどこか愉快で、込み上げてくる笑いを我慢するのに泰斗は必死だった。
昼休み到来を告げるチャイムが未だに鳴り響いている中、悠樹が不思議そうな顔をして泰斗の席に手を着く。
「お前さ、笠間に何したんだよ。あいつ泰斗のことずっと気にしてなかったか? 朝の職員室で、一体何やらかしたんだよお前は?」
朝に返さなかった返答を今になって返す、
「職員室で土下座して謝った」
「……馬鹿じゃねえの、お前」と悠樹はその行為をただの一言で一掃する。
あの行為が馬鹿であるのは泰斗も承知の上での行動である。しかし留年して残りの二年間を屈辱の下に過ごすのと、たったの数分だけの恥ずかしい目に遭うのでは、やはり後者の方が数倍マシだった。普段の泰斗ならあのような行動は死んでも絶対にしないが、さすがに留年が懸かっているだから嫌でも真剣になってしまう。こんな事態を招いた原因が原因だし、なおのこと真剣になるというものだ。
ぼりぼりと頭を掻いた悠樹が呆れながら、それでも表情を緩めて苦笑しながら言う。
「お前の武勇伝はあとで聞かせてもらうことにして、だな。ジュース買いに行こうぜ」
「おう」
悠樹の言葉に促されて立ち上がり、泰斗は席を立って教室を出る。
昼休みの喧騒が端から端まで響く廊下を悠樹と並んで歩き、ふと窓を通して目に入った青空に一瞬だけ立ち止まる。振り返った悠樹が「何してんだよ?」と問いかけてきたので、「何でもない」と首を振りながら再び歩き出す。悠樹が横で何かを話しているのだが、今の泰斗の耳には届かなかった。脳裏に隅に焼きついて離れない青空の色は、昨日見たあの蒼い髪の毛を持つ巫女少女のものと重なっていた。
そして謎の巫女少女と共にいた、二十歳前後と思わしきあの謎の男。昨日の出来事が果たして何であったのかを、泰斗は当たり前のように今も知らない。緋真に聞こうとはしたのだが、小さな欠伸の前に妥協してしまって昨夜は何もわからず終いで一夜を過ごしてしまった。今朝も話を聞く時間は無かったし、状況は未だに謎のままで宙に浮かんでいる。今日家に帰ったら、すぐにでも緋真に訊いてみよう、と泰斗は思う。このまま緋真を家に置いておくのには無理がある。成り行き上、昨夜は仕方がなく泊めてみたが何日も連続で行えるものではない。
はっきり言ってしまえば、緋真は得体の知れない存在なのだから。
この世のどこに、日本刀に変身する女の子が存在するというのか。そんな非現実的なことを仕出かした白銀の髪を持つ女の子が、普通の一般人であるはずはないのだ。宇宙人か、あるいは新種の人間か、はたまた軍事機密で改造された人間兵器なのか。その真相を知っているのは緋真と、あの蒼い髪の少女と、そしてあの謎の男だけであるはずだ。緋真と蒼い髪の少女はともかくとして、あの男は恐らく泰斗と同じ普通の人間ではないのだろうか、と泰斗は考える。
だがもしあの男が普通の人間であったとしても、しかしもっと特異な人間であるような気もする。想像もつかないような次元で腹をくくったような異様な雰囲気を持っていたし、何の抵抗も無く状況も理解していない泰斗を相手に問答無用で戦闘を開始する分だけを見ればただの人間ではないだろうが、少なくとも緋真の存在よりかは現実味を帯びていると思う。
あの男の何もかも知っているような素振りが今も脳裏に焼きついて離れない。あの男にもう一度会えれば何もかも、緋真という少女の正体もわかるのだろう。頭の中でそれを望む一方で、それでもあの男とはもう二度と会いたくないとも感じる。男は「おれの領域まで這い上がれ」と言い、そして「おれともう一度戦え」とも言った。そのことが何を意味するのかは、考えなくてもわかるだろう。会えばまた必ず、殺し合いを始めるに決まっていた。
憂鬱なため息を泰斗は吐き出す。
結局の話、泰斗が事情を聞き出せるのはやはり、緋真しかいないのである。緋真が今、何をしているのかはわからないが、たぶん昼時なのだから母が用意してくれたチャーハンでも家でひとり食べているのだろう。帰ったら話を聞かねばならない。今日はもう、欠伸如きに妥協するわけにもいかない。このままズルズルと肝心な話を引き伸ばせば、絶対に取り返しのつかない事態になってしまうのは明らかだ。学校から帰ったら緋真を部屋に呼んで、最初から最後までのすべてのことを訊き出してやる、と泰斗は廊下を歩きながら決意を固める。
いつの間にか到着した購買部は他の生徒でごった返していて、パンやらジュースやらを買うことに命でも懸けているんじゃないかというような剣幕で目の前の敵を押し退け、我先にとお目当ての商品を手にしては教室へ帰って行く。パンならともかく、ジュースは自動販売機でも買えるので売り切れることはないだろうが、それでも購買部で売っているジュースの方が自動販売機よりは二十円もお得なのだ。学生にしてみればその二十円が後々大きな反動となって返ってくるし、昨日の出費を考えればなおさらだった。だからごった返す購買部へと目掛け、悠樹と一瞬だけ視線を噛み合わせた後に泰斗は突っ込んでいく。
何人もの生徒を押し退けた際に、泰斗の目に並べられた缶ジュースが入った。炭酸系統のジュースがいいと考えていた泰斗はすぐに銘柄を認識し、並べられたジュースの中にはその種類がひとつしか残っていないことに気づく。誰かに取られる前に取らなければ、と泰斗は思う。ぎゅうぎゅうに押し込まれた人混みの隙間を縫って手を伸ばし、泰斗の手がお目当てのジュースへと触れた。
触れた瞬間に、突如として伸びてきた手がそのジュースを奪い取る。が、そう易々と逃してなるものかと泰斗は手に力を込めて強引に引き寄せる。と、相手も泰斗の反応が気に障ったのかとんでもない力で缶を引っ張る。驚くような力に作用された泰斗の体が購買部のカウンターの最前列まで引き抜かれ、泰斗の狙ったジュースを持つ相手の目の前に躍り出た。誰だおれのジュースをパクろうとしてる奴は、と泰斗が眼光を研ぎ澄まして相手を睨みつける。相手も相手で泰斗と同じような顔をしていて、しかし泰斗を見るとすぐに「意外な奴に会った」というような顔をしてから、唐突に殺気の孕んだ顔をして口元を歪ませた。
体が凍りついた。
喧騒が響き渡る昼休みの活気が意識の彼方へと遠のく。
「お前、この学校の奴だったのか」
そう言って、二十歳前後と思わしきあの謎の男は笑う。
冗談ではなかった。研ぎ澄まされた瞳と無造作に固められた茶色の髪の毛と右耳にされた黒い輪の形をしたピアスは今も健在で、さすがに学校では煙草は咥えていなかったが、それでも見間違えるはずはない。昨日、泰斗と戦ったあの男が、泰斗と同じ高校の制服を着て、泰斗が狙ったジュースの缶を鷲掴み、泰斗を見て不敵に笑っているのである。上履きの線が三本入っていた。つまりは、男は一学年上の先輩だった。二十歳前後と思っていたのは間違いで、まだ十七か十八歳であるはずだった。
血の気が引いていたのは最初の一瞬だけで、そして引いた血の気は津波のように波乱を含んで押し寄せて来る。
無意識の内に缶から手を離して踵を返し、泰斗はその場から逃げ出そうとする。が、伸びた男の太い腕が泰斗の首を瞬間的にがっちりと捕らえ、半ば締め上げるような勢いで動きを封じ込められた。
「逃げんなよ。お前には話があるんだ」
そっちにあってもこっちには無いんだ離せ、とは当たり前のように言えなかった。
男は泰斗の動きを封じたままで、購買部のおばちゃんに出鱈目な量のパンとジュースを注文し、手渡された紙袋を持って金も支払わずに歩き出す。それなのにも関わらず、購買部のおばちゃんは「いつものことだ」というような顔をして他の生徒の注文を受けて男を見送る。人混みから無理矢理連れ出された泰斗が誰かに助けを求めようと視線を彷徨わせた刹那、そこに悠樹の姿が入ってくる。
「助けてくれ」との意味を込めた瞳を向けたのだが、悠樹はすぐに首をぶんぶんと振って「無理だ。おれにはそんな恐い先輩に逆らう度胸は無い」と断言して逃げて行った。お前友達を何だと思ってんだと泰斗は怒りに打ちひしがれたが、それでも自分がもし悠樹の立ち場なら自分も迷わずに逃げ出すとも思う。こんな悪人面の先輩に立ち向かうだけの度胸は、やはり普通の生徒には無いのだから。
他の生徒も見て見ぬフリをする中、泰斗は引き摺られるように廊下を横切って階段を上がり、屋上へ続く扉まで連れて来られた。この都築(つづき)高等学校には屋上があり、昔は前面開放されていたらしいのだがいつしか開かずの扉に閉鎖されてしまった。理由は屋上で良からぬことを行う生徒が多々いたからだ。授業をサボったり喫煙したりは当たり前で、ナニしたりするその他諸々の事情で永遠に閉ざされてしまっている開かずの扉の向こうにある、楽園の屋上。その楽園へと続く黄金道を、男は制服のポケットから取り出した錆びついた鍵でいとも簡単に開けてしまった。
鈍い音を立てて扉が開き、暗い階段に夏の陽射しが射し込む。室内の暗さに慣れていた泰斗の目には刺激が強くて、思わず目を瞑った。それが仇となり、男が強引に歩き出した際に段差に足を取られ、泰斗は派手に転倒する。男はそんな泰斗を一瞬だけ見やった後、しかし助ける素振りなどまるで見せずに屋上の中心部へと歩いて、そこにあった場違いな緑色のベンチに腰掛けた。
コンクリートに膝をぶつけた痛みに必死に耐え、それが治まってからようやく、泰斗は屋上へと視線を移した。
殺風景な場所だった。灰色のコンクリートの隙間からは雑草が生え、屋上をぐるりと囲む青色のフェンスはすっかり色褪せ、そんな中心部に鎮座するベンチだけは妙に真新しくて、そのベンチに踏ん反り返ってビールの如きにジュースを煽っているのは見た目は二十歳前後であるはずの、都築高等学校三年生だと思わしき謎の男だった。男の姿が太陽の陽射しに僅かに霞む。それに気づいてぼんやりと泰斗は空を見上げ、この屋上がただの殺風景な場所ではないことを知る。
夏の空が、すぐそこにあった。視界いっぱいに広がる澄んだ青空と、のんびりと漂う大きな雲と、どこからともなく響き渡るセミの声と、吹き抜ける夏の風。この学校にもこんな場所があったのだということを、泰斗は初めて知った。恐らくは、この楽園が閉鎖されて以来、ここへ訪れた者などひとりを除いては誰もいなかったのではないだろうか。目の前でジュースを飲みながらパンを食べてる謎の男以外は、この光景を知らなかったはずである。
少しばかりの感動に泰斗が包まれていたのも束の間、男から「いつまでそこにいるんだ」と声が届いた。
突然に居心地が悪くなり、泰斗は慌てて立ち上がって、だけどどうしていいかわからずに視線を彷徨わせていると男が手招きをした。まさか近づいたところでグサリと殺されるのではないかと心配したが、さすがに学校では殺されないだろうと思い至る。それでも細心の注意を払って男の前まで歩み寄り、見据える先から差し出されたパンが一瞬だけ刃物に見えて脅えたことに恥ずかしくなる。
「食え。どうせ昼飯まだだろ」
差し出されたパンを受け取り、見つめる。
まさか毒物でも入っているのではないかと真剣に思う泰斗へ向い、男は言った。
「昨日は気づかなかった。そういや確かに、お前は昨日もここの学校の制服着てたような気がする。……まあ、今となってはどうでもいいことだ。探す手間が省けたしな。お前に言わなけりゃならないことがある。お前が昨日契約した《白の刻》だが、あいつはどうした?」
《白の刻》というのが何を意味するのかはすぐにわかった。男は、緋真のことを言っているのだ。
泰斗が遠慮がちに「家に、います」と答えると、男はくつくつと笑った。
「連れ帰ったのか。よかったぜ、これでお前が『放置してきました』なんて言いやがったら殺してたところだ。……それで、だ。昨日、《白の刻》から大方の事情は聞いたんだろ? まさか何も知らずにあいつを家に泊めたわけじゃねえだろ。さて、あいつがどこまで知っていたのかを聞かせてもらおう。必要最低限のことはお前には知っておいてもらわなければ困るからな。《白の刻》は、どこまで話した?」
本当のことを言うのは躊躇われたが、ここで嘘を突き通せば後が恐かった。
冗談抜きで、殺されるかもしれないと泰斗は思う。
「……いえ、あの、……何も聞いて、無いんですけど……」
男が怪訝な顔をした。あまりの恐怖に泰斗はやっぱり逃げようかと思うのだが、もう遅い。
飲み干した一本目の空缶を握り潰し、屋上へ無造作に放り投げながら男がため息をつく。
「馬鹿かお前は。なんで素性もわからない女を家に泊めれるんだ。お人好しとかそういうレベルの話じゃねえだろうが。ったくよお、これじゃおれが最初から説明しなけりゃなんねえじゃねえか。……面倒だ、掻い摘んで説明する。一回しか言わねえし、質問されても答える気は無い。それを踏まえた上で耳グソかっぽじってよく聞け。まず最初におれの名前は東雲惣介(しののめそうすけ)、この学校の三年だ」
――あれ、東雲って確か……。
東雲という苗字を、泰斗は何度か耳にしたことがある。珍しい苗字だったし、忘れるはずはない。忘れるはずはないのだが、どこで聞いたのかを思い出せなかった。泰斗がこの町で生まれて十数年、幾度と無くその苗字を聞いた。しかし幾度も無く聞いているのにも関わらず、身近過ぎてどこで聞いたのかがどうしても思い出せない。東雲、東雲って確か、どこだ、どこで聞いたんだ。
男が二本目のジュースのプルタブを開け放ち、
「東雲って名前、聞いたことくらいあんだろ。この町一帯を取り締まってる家名だ。名前も無いような山があるだろ、ここからちょっと行ったトコに。そこの目の前に馬鹿でかい家が建ってるだろ。それが東雲の家で、おれはそこの現当主だ。つまりはこの町を取り締まってる役柄にあるのは、事実上はこのおれってわけになる。この高校にも結構な額の金を流してるからな、お偉いさんはおれには頭が上がらない。授業なんて出なくても自然に卒業できる。今まで学校でおれとお前が会わなかったのはそのためだ」
――東雲。そうだ、思い出した。
この学校から少し行ったところに裏山があって、その目前に漫画のような馬鹿でかい家を持っている家柄。何百年も昔からある名家中の名家、東雲家だ。幽霊屋敷みたいに風格漂うその建造物に、幼い頃の泰斗は好奇心を剥き出しにして友人数名と張り巡らされた障壁を突破して中に侵入したところ、すぐさま黒いスーツを着たおっかないお兄さんに発見され、首根っこ引っ掴まれて外へ放り出されたことのある、あの東雲家だ。
そこの現当主が、この目の前でパン食ってる謎の男の正体、東雲惣介。
「今から話すことは現実の出来事だ。信じる信じないは勝手だが、まずは何も言わずに聞け。
――今から数百年もの昔、日本が戦国時代真っ只中って頃、この世界に人間の姿をした、しかし人間を遥かに超えた存在が現れた。人間の姿をしているのにも関わらず、人間以上の身体能力を持ち、体の一部を鋭利な刃物に変化させる特異な能力を持った戦闘狂の一族。それが籠狗と呼ばれる種族だ。人間以上の可能性を秘めたその一族が戦国時代に現れたんだ、当時の馬鹿共にしてみりゃ画期的な存在だったろうよ。刀も弓矢も火縄銃さえも通用しない、最強の精鋭隊。公の歴史の文献には載ってねえが、裏の裏、誰の目にも見えないような暗闇の中で常に前線で暗躍していた奴らだ。歴史上の大きな戦にも幾つか関与してるはずだぜ」
惣介はパンの袋を空缶同様に捨て、新しいパンを物色しながら、
「けどまあ、それは数百年もの昔、戦国時代の頃の話だ。時代が変わればものの存在理由なんてモンは簡単に変わっちまう。戦が無くなれば戦闘狂の籠狗などただの邪魔者でしか無いんだよ。それに逆を言えば、味方にしとけば最強の一族だが、一度敵に回れば最悪の一族と化す。刀も弓矢も火縄銃も通用しないんだ。止める術はねえ。そこで当時の馬鹿共は、ある一定の家柄に籠狗の封印を任せた、ってわけだ。その内のひとつがおれの家、東雲。全国には東雲以外にも幾つかあるらしいが、おれは知らない。ともかくだ、何百年も前から、おれたち東雲の血を受け継ぐ者は籠狗一族を《箱庭》に封印し、監視してる」
発掘した焼きそばパンの袋を開け、惣介がそれに齧りつく。
が、不味かったのかすぐにそれを袋に戻して違うパンを物色する。
「それが簡単な歴史なわけだが、今度は籠狗についてを話す。そもそも籠狗とは何なのか。一体この世のどこに、体の一部を鋭利な刃物などに変えられる化け物みたいな人間がいるのか。普通はいるわけがないが、現実にこの世界にはそんな一族が存在する。ただし、奴らはおれたちと同じような人間じゃない。宇宙人か新種の人類か、それとも神の意志を受け継ぐ者たちなのか。今の科学で解剖でもしてみりゃいろいろとわかると思うんだが、おれたちの一族はそれを禁忌としてる。封印された籠狗はもう、人の記憶からは完全に消え去っている。それをぶり返えしても、おれたちに取っても籠狗に取ってもメリットなんてひとつもねえ。あるとすりゃあ、人類最大の発見だとか何だとか騒ぐ業界の奴らだけだろうよ」
惣介はピザの形をしたパンを取り出し、それを齧る。今度は美味かったのか、袋に戻さずに食べ始めた。
「さっきも言ったが、時代が変わればものの存在理由なんてモンも簡単に変わっちまう。戦が無くなって数百年、平和ボケしたこの世界に籠狗はもう必要無かった。戦闘を行えなくなった戦闘狂の一族は進化……じゃないな、退化し始めた。どういう原理で発動してるのかは知らないが、体の一部を武器に変化させる特異な能力はいつしか薄れ、おまけに姿形、構造までもが人間に似ているもんだから人間と結ばれて子供を作る奴も現れてな。こっちの世界には籠狗の血を何も知らずに受け継いでる人間が何人かいるはずだ。アスリート選手の超人的な能力なんてのは、下手すりゃ籠狗の血が働いているからだって可能性もある。今じゃ純正の籠狗なんて数えるほどしかいねえし、体を武器に変化させられる能力を持ってる籠狗はそれこそ極々少数だろう。戦闘狂の意志もほとんど無くなり、今や籠狗一族は《箱庭》の中で人間のように暮らしてる。かつて最強最低だった戦闘狂の一族は、人畜無害の一族、つまりは普通の人間に成り下がっちまってる」
そこまで話していた惣介の言葉に、ひとつの巨大な疑問が泰斗の脳裏に降って湧いた。
惣介の話を頭からすべて信用したわけではない。しかしこの話がもしも本当だとするのなら、大きな矛盾が存在する。戦闘狂の籠狗一族は時代に流されたことにより、人間と大差無い種族まで退化した。ならばなぜ、緋真は、そして惣介と一緒にしたあの蒼い髪を持つ少女は自らの体を武器に変化させることができたのか。否、変化というような生易しいものではない。本物の武器に変貌したのだ。そのことは惣介の話とはまるで噛み合わない。人間に近い存在になっている籠狗がなぜ、あのような姿に変貌するのか。
不信感が顔に出ていたのだろう。惣介がその答えを言う。
「……さっきまでのが、十五年前の話だ。今から十五年前、東雲が封印して安静化していた籠狗一族の中で変動が起きた。薄れていく特異な能力の一端が、正真正銘の神の意志となり、純正の籠狗から《蝕(しょく)の刻》がこの世界に産み落とされた。数百年昔の籠狗を遥かに超えた、人間では永遠に辿り着けない境地に辿り着いた異端な存在。腹は違ったが、簡単に言えば同時に産まれた四つ子だ。《黒の刻》に《紅の刻》、お前の家にいる《白の刻》、そしておれと一緒にいた双劉、《蒼の刻》。通常の籠狗には存在しなかった能力、己とは違う生き物との契約を行うことにより、体の一部を変化させるだけではなく、【体そのもの】を武器に変貌させる。さらにその領域を越えると地獄の業火を司る、籠焔が発動する」
けどな、やはりそれは異端な存在だった、と惣介は視線を青空へ向けた。
「異端な存在はこの世にあるわけにはいかない。戦国時代なら話は別だったろうが、この平和ボケした日本のこの時代に、《蝕の刻》の籠狗は必要無かった。存在してはならなかった。だからおれたち東雲と籠狗が《蝕の刻》の処分を決定した。詳しいことはおれのオヤジが取り仕切ってたから知らねえが、《黒の刻》と《紅の刻》は殺したって聞いてる。……あの頃のおれはそんな事情なんて知らなかったからな、いつものようにオヤジに隠れて《箱庭》に出掛けて、そこで殺されるはずだった《蒼の刻》に出会って、偶然に儀式を経て契約しちまった。契約すると魂の根本で結びつけられちまう。どっちかが死ねば、両方とも死ぬ。それが原因で《蝕の刻》の内、《蒼の刻》、双劉はおれが全責任を取ることで生き残れた」
惣介は制服の胸ポケットから煙草を取り出して、それを何の躊躇いも無く口に咥えた。
「もうひとりの《蝕の刻》、お前の家にいる《白の刻》のことだ。あいつも本当は殺される予定だったんだが、おれが双劉との契約で問題が起こって暴走したときの対抗勢力として生き残すことが決まった。……ただな、双劉とは違い、《白の刻》は光が見れたわけじゃない。《箱庭》の奥底にある洞窟の中で牢獄に鎖で繋がれ、十五年間生きてきた。これからもそうして生きていくはずだったんだが、それが二日前、籠狗の不手際で《白の刻》が《箱庭》から脱走、こっちの世界に出て来ちまったわけだ。それでおれと双劉が借り出されて《白の刻》を追った。
だが、そこで《白の刻》はお前と出会い、契約しちまった。おれと双劉が辿ってきた道の最初の一歩を、お前は同じように踏み出したんだ。……言っておくが、おれは《白の刻》を殺す。それでお前が死のうが知ったことじゃない。死にたくなければ強くなれ。このおれと双劉の領域まで這い上がれ。それが、《白の刻》と契約したお前の責任と役目だ」
煙草に火を点けて煙を吹かす惣介を見ているものの、泰斗の視界には何も入ってはいなかった。
昨夜、緋真の見せた恐怖に塗り潰されたような表情の意味を、そして「ひとりにしないで」と涙を流しながら言った緋真の言葉を、ようやく悟った。
産まれた瞬間から殺されることが決まっていて、ただの保険としてたったひとりで暗闇の中で生かされ続けてきた籠狗。そんな場所からようやく逃げ出せたと思ったら惣介のような奴に追い立てられ、果てに辿り着いた神社で緋真は泰斗と出会い、契約した。そこに緋真は、光を見たのだろうか。緋真は今、どうしているのだろうか。これから自分がしなければならないことは、一体何なのか。
どこからか聞こえるチャイムの音を他人事のように聞きながら立ち竦む泰斗の横を惣介は横切り、煙草を咥えながら校舎の中へと消える直前に、こう言った。
「これからどうするかはお前次第だ。だが、忘れるな。お前が逃げても、おれは追う。地獄の果てまでも、必ず。それに遅かれ早かれ、お前には籠狗の手が伸びるだろう。迷ってる暇は無い。死にたくなければ、《白の刻》と共に、おれと双劉のように強くなれ」
煙草の煙が風に揺られて形を変える。惣介はもう泰斗の視界にはいない。
青空が晴れ渡る夏の空の下、泰斗は屋上でいつまでも立ち竦んでいた。
◎
惣介の話を一から十まで信用したわけではなかった。ただ、一から五くらいまでなら信用している。
その根本にあるのは、籠狗一族の辿った歴史云々の話ではなく、緋真が十五年間たったひとりで監禁されていたという事実だった。それは、一体どれだけ暗く恐いことなのだろう。普通の日常を生きてきた泰斗には、大凡想像のつかない孤独の世界なのではないだろうか。その洞窟の中にある牢獄をこの目で見たわけでも詳しい内容を聞いたわけでもないが、それでも漠然と理解できる。そこは、虚無が支配する場所以外の何物でもないのだろう。そんな場所で、緋真は十五年間、ずっとひとりで過ごしてきた。あの雪のように白い肌は、本当に日焼けなど一度もしたことが無いのだ。
母の運転する車の助手席に乗っている間、泰斗は一言も話さなかった。母はため息ばかりついて窓の外を見据える泰斗に向かい、「難しい年頃なのね」というどこか抜けた考えをそっとつぶやいて、余計な検索は一切しなかった。
家に着くなり、駐車場の片隅に置かれた自転車の残骸には目も暮れず、泰斗は家に入ってテレビの音が響いていたリビングへ向った。リビングのドアを開けるとそこにはテーブルの側に腰掛けてテレビを興味深そうに見つめている緋真がいて、物音に驚いたように振り返り、泰斗に気づくと微笑むように笑った。
一瞬だけ何と声をかけていいかわからなかった。
「あ、っと……緋真。ちょっと話があるからおれの部屋に来てくれ」
不思議そうに緋真が首を傾げ、しかしすぐに肯く。
それを確認した後に泰斗はリビングを出て階段を上った。緋真と話をするのはいいが、果たして何と切り出したものか。深いところを無神経に訊ねれば緋真の暗い記憶を無暗に突き刺しかねない。かと言って自分に上手い具合にそこまで持っていくだけの話術は無い。どうしたものか、と泰斗は思う。ひとりでぶつぶつ言いながら階段を上り、廊下を抜けて自室へ行こうとした刹那、
廊下の途中にある彼方の部屋のドアが突如として開き、そこから伸びてきた手に胸倉を強引に掴れ、真っ暗闇の中へと引き摺り込まれた。夏の午後四時過ぎだというのに部屋の中は何も見えないほどの暗闇に支配されていて、ビデオデッキの放つデジタル時計の光だけが微かに輝いている。何も無い昼間でも彼方は寝るために雨戸を閉めているらしく、床に何が転がっているのかさえ理解できなかった。下手に動いたらコケるかもしれないとの不安が広がり、身動きが取れない泰斗の視界の中を、まるで猫の目のようにゆっくりと動く瞳がふたつ。
彼方はまた、ゾンビのように言葉を吐く。
「泰斗、聞かせて。あの緋真ちゃんって一体何なの? あの子は一体あんたの何? どうして髪の毛があんな色をしているの? 染めているのとは違うよね? 病気? それとも生まれつき? 今日びのあの年頃の女の子がブラのひとつも知らないわけがないでしょ? あの子は一体誰で、何者で、あんたの何なわけ?」
浴びせられた疑問が多過ぎてどれから答えていいかわからず、言葉に詰まっている泰斗の瞳を見つめ、彼方は表情をふっと緩める。
しかしすぐに真剣な顔になり、たったひとつだけ、訊いてきた。
「あの子は、泰斗に取って危険な存在じゃないよね?」
その問いには、自然と即答していた。
「――違う。緋真はそんなんじゃない」
実際、それを断言できるだけの確証は無かった。
惣介の話を聞いているだけの分にしてみれば、緋真は危険な存在なのかもしれない。だけど、それでも。
ひとりにしないで。そう言って泣いた緋真が、泰斗に取って危険な存在であるとはどうしても思えない。《蝕の刻》だから危険だ、というような理由だけで割り振るのはあまりに残酷だった。緋真は、惣介と一緒にいた《蒼の刻》の双劉と同じ存在なのだ。双劉ができるのだから、緋真にだってできるはずだった。緋真は、危険な存在ではない。それを、信じたかった。
暗闇の中で彼方は微笑む。
「……そっか。わかった、もういいよ。何かあったらあたしに言いな。忘れないで。何があっても、あたしは泰斗の味方だから」
そう言うや否や、物凄い衝撃と共に泰斗の体が部屋から廊下に放り出された。
ぴしゃりと閉まったドアを見つめ、引っ繰り返ったままの体勢で「これが味方にすることか」と何となく思う。が、すぐに泰斗は廊下に座り込み、今は見えない彼方に向ってそっと礼を言った。味方になると彼方が言ったのなら、それは本当なのだろう。彼方は出鱈目だが、嘘はつかない真っ直ぐな人間である。困ったことがあればすぐに彼方に相談しよう。ヤマシイことが無い限り、彼方は全力で力になってくれるはずだった。
「なにしてるの?」
廊下に座り込んでいた泰斗に届く、緋真の声。
緋真は階段の途中で立ち止まって泰斗を見つめていた。そこでようやく、緋真の服装のことに気づく。昨日のような巫女装束でも男ものの服でも黄色いパジャマでもなく、今日の緋真は赤いスカートに黒のタンクトップを着て、髪の毛がヘアピンで留めてあった。それが彼方と昨日買ってきた服のひとつなのだろう。緋真にはちょっと派手過ぎのような気もするが、さすがは彼方だ、その服装は緋真によく似合っていた。そしてそんな普通の服を着た緋真を見ていると、この女の子が籠狗の《蝕の刻》という異端な存在であるとはどうしても思えなかった。
今の緋真は極普通の、どこにでもいるようなひとりの女の子だった。
泰斗は表情を緩めて立ち上がる。
「何でもないよ」
きょとんとする緋真を手招きし、ふたり揃って部屋に入る。
鞄をその辺りに放り投げ、ベットの上に泰斗が座り込むと同時に、緋真が手前のソファに腰掛けた。
僅かな静寂、窓の外から響いていたセミの声が途絶えた一瞬を見逃さずに、泰斗は緋真を真っ直ぐに見据えて第一声を発した。
「籠狗のこと、全部聞いた」
緋真の顔が凍りついたのが、はっきりとわかった。
白銀の髪が微かに震えている。やがて一度だけ視線を外した後、緋真が縋るような瞳で泰斗を見つめる。
昨夜と同じような、緋真の乞うようなつぶやき。
「……わたしを、《箱庭》に連れてくの……?」
緋真の瞳を真っ直ぐに見据えていられなかった。
それでも気力を振り絞って潤んだその瞳を見つめ返し、泰斗はゆっくりと拳を握る。
「……緋真は、どうしたい? その《箱庭》って所に、帰りたい?」
残酷な問いだというのは自分でもわかっていた。だけど、それを聞かねば何も始まらない。
そして、最も言わなければならないことを、泰斗は口にする。
「それとも、ここに居たい?」
「居たい」
緋真は一秒も考えなかった。
泰斗が彼方に聞かれたときのように、自然と答えは決まっていたのかもしれない。
「泰斗と一緒にここに居たい。……泰斗だけ、だったから。わたしを真っ直ぐに見つめてくれたのは、泰斗だけだったから。わたしとちゃんと喋ってくれたのも、泰斗だけだった。わたしが《蝕の刻》だって知っても同じようにしてくれるのは、泰斗だけなの。彼方もわたしと話してくれる。あそこにはもう戻りたくない。恐いのも暗いもの、もう嫌。迷惑はかけないようにする、だから、……ここに、居させて。お願いだから、泰斗……っ」
昨日と同じように孤独の涙を流し、俯く緋真を見つめながら、泰斗は思う。
選択をしなければならない。いや、最初から選択肢なんてものは無かったのかもしれない。あるとすれば、それは勇気なのかもしれない。今ここで、決断をしなければないのだ。成り行き上仕方がなく、はもう通用しない。何もかも認め、理解した上で、危険と共に緋真を受け入れること。それが《白の刻》、緋真と契約した御影泰斗の責任と役目なのだろう。最初は偶然だった。自分は巻き込まれただけだった。それでも、例え偶然だったとしても泰斗は緋真と出会い、契約した。
逃げることはしたくなかった。緋真を、受け入れようと思う。
「……おれは、あいつらみたいに戦えるかどうかわからないし、詳しいことも何も知らない」
安っぽい正義感ではなく、核たる信念を通して言おう。
「けど、約束する。できるかどうかわからないけど、それでも、おれが緋真を守るよ」
緋真を泣かせたくはないと切に願う。
緋真のすべてを知ったわけじゃない。惣介から言わせれば無知もいいところだろう。
でも、自分が緋真の契約者なら、緋真を守ろう。力になれるかどうかわからないけど、共に戦おう。
俯き、涙を流して嗚咽を堪える緋真が、小さな声で、何度も何度も、ありがとう、とつぶやく。
緋真へ歩み寄り、震える髪をそっと撫でてやる。
この少女を、もう二度と、泣かせはしない。
――緋真を、ひとりにさせはしない。
「《白の刻》」
どこか行こう、と緋真にぽかぽか叩かれた。
夏の暑さに瀕死状態で床に転がっていた泰斗を見下ろしながら、何度も何度も緋真は「どこか行こう」と言い続ける。正確には「どこか行こう」ではなく「どこか連れて行け」という風に訳すのが正解なのだが、どうでもよかった。朝から寝転がってはアイス齧って黙りこくっていた泰斗に痺れを切らしたのだと思う。最初は「面倒臭いから嫌だ」と抵抗していた泰斗だったのだが、そもそも緋真はこの家から出てどこかへ遊びに行ったことが無く、ずっと箱入り娘と化していたことに思い至り、それは可哀想だろうということで重い腰を上げた。
しかしどこへ行っていいのかがわからなかったので、取り敢えず近場にある大きな公園に連れて行ったところ、どうやら緋真はそこを気に入ったらしく、木々の隙間からスポットライトのように射し込む陽射しの中を舞い降りた天使のようにくるくると回ってはしゃいでいた。それに飽きると今度は小川の隅に座り込んで足を水につけて実に嬉しそうに笑う。冷たい感触が新鮮なのか、緋真は時折泰斗を振り返りつつもぱしゃぱしゃと跳ね回る水に小さな子供のように笑い声を上げていた。
そんな光景を少し離れた木陰に座って見守っていた泰斗は、先ほど買ったばかりのジュースのプルタブを開けて口をつけた。夏の陽射しの届かない木陰で飲むジュースの味は格別で、それを噛み締めているとこのまま眠ってしまいそうなほどの快楽を運んでくる。ぼんやりとした視線を緋真の背中から外し、公園の中心に立てられた大きな時計を見つめる。その瞬間に時刻は午後の一時を刻み、どこか間の抜けたメロディを一節だけ奏でた。
日曜日の午後の公園には、人が多く訪れていた。この公園は県内でも有名な大きい公園であり、地元の住人にしてみればちょっとした憩の場である。一通りの遊具はもちろんのこと、アスレチックみたいなものも設備されていて、整えられた芝生の上にはちらほらとシートを広げて弁当を食べる家族連れも見られた。近所の子供たちが疲れなどまるで知らないかのように走り回り、遊具やアスレチックに群がって声を張り上げている。噴水の脇にあるベンチに座ったカップルの姿も何組か視界に入ってきた。
夏の日曜日の、午後の一時の、いつも通りで当たり前の光景だった。
この公園に来たのなんて何年振りだろうか、と泰斗は思う。小さな頃は毎日のように遊び回っていたこの公園だったのだが、いつしかふっつりと訪れなくなった。確か最後に訪れたのは中学生の頃ではなかったか。この公園の端にはそれなりに大きい池があって、その池に実は主級のブラックバスが泳いでいるという噂が学校で流れたのが原因で、いるはずもない主級のブラックバスを釣るために友達数人で繰り出したのだ。が、結局釣れたのは小指ほどの大きさしかない鮒だけで、ブラックバスの姿は愚か、鯉の姿さえも確認することはできなかった。
あの日がこの公園に訪れた最後の記憶だった。恋人がいるのならともかく、高校生にもなって友達と公園で遊ぶことは何だか恥ずかしい気がして、いつしかここには訪れていなかった。だけど今日、緋真と数年振りに訪れたこの公園の光景は、何も変わっていなかったことが少しだけ嬉しかった。変わったことと言えば遊具の色が塗り替えられたくらいで、それ以外はあの頃と何も変わってはいない。最初は抵抗があったが、この公園の光景が見れたことがなぜか心地良かった。
駄々をこねた緋真に感謝した方がいいのかもしれない、と泰斗は苦笑する。
そしてその緋真はというと、いつの間にか小川の端からは消えていて、気づけばこちらに向かって歩いて来ていた。側まで歩み寄って来た緋真が泰斗の隣にぺたりと腰を下ろし、木に凭れながら本当に楽しそうに微笑む。泰斗が差し出したジュースを受け取りながらそれを一口だけ飲んだ後に、視線を公園にぐるりと向けてから、またこっちを向いて笑う。
「楽しい?」
泰斗が訊ねると、緋真は肯く。
「楽しい。泰斗は楽しい?」
少しだけ不安の混じった緋真の表情がどこか可愛かった。
「楽しいよ」
よかった、と満足気に笑う緋真の白銀の髪が吹き抜けた風に揺られてキラキラと舞い踊る。
緋真の胸元には今もまだ、十字架の形をした銀色のチョーカーが輝いている。
ふと口をついて言葉が出た。
「やっぱり、そのチョーカーは緋真に似合う」
緋真の顔がぱっと明るみを増す。チョーカーをそっと持ち上げ、
「これはわたしの宝物なの」
「宝物?」
うん、と緋真は肯く。
なぜそのチョーカーが宝物なのかわからなくて、泰斗は首を傾げつつ、
「どうして?」
緋真は、純粋に笑った。
「だって泰斗がくれたものだもん」
呆気に取られた、というのが本当のところだった。
そして、あまりにも無邪気に笑う緋真が少しだけ愛おしかった。
「また何か買いに行こうか。今度はおれが選んだものを緋真にプレゼントする」
気づけば泰斗の口から出ていた言葉を聞き、緋真が今までいちばん嬉しそうな顔で微笑む。
緋真と一緒に過ごすこの時間は素直に優しく感じた。無垢な笑みを浮かべる緋真が、抱き締めたくなるほど可愛かった。
それからしばらくは何をするでも無く、緋真と一緒に木陰に座り込んで、公園の光景をぼんやりと見つめていた。公園を走り回る元気いっぱいの子供の集団、芝生の上にシートを広げてまだ弁当を食べている家族連れ、待ち合わせに遅れた彼氏が彼女に頭を下げている、視界を右から左へとバトミントンのロケットが横切って消えた。やがて幾度目かの風がふたりの前を吹き抜けた際に、隣にいた緋真の頭が泰斗の肩に寄りかかってきた。状況を理解したときにはもう遅く、緋真は瞳を閉じて小さな寝息を立てていた。
小さな子供みたいだ、と泰斗は笑う。
全力で遊んで、疲れたらすぐに眠って。こんな場所でこんな状況に陥るのには多少気恥ずかしかったが、それでも緋真を起こす気にはなれなかった。緋真は今まで、誰でも一度は通ったことのある道を、ただの一度たりとも通ったことが無いのだろう。全力で遊んで、そして疲れたら眠るという当たり前のことが、緋真にはずっとできなかったはずだ。なぜなら、緋真は異端な存在だったのから。なぜなら、緋真は《蝕の刻》の《白の刻》として産まれ落ち、その瞬間から殺されることが決まっていて自由を奪われ生き続けてきたのだから。
十五年という永遠にも近い歳月を、たったひとりで、暗闇の記憶と共に過ごしてきたひとりぼっちの籠狗。
今はただ、緋真の我侭につき合ってやろう、と泰斗は思う。
緋真が泰斗の家に来て、今日で五日になる。
その間を、緋真はずっと御影家で過ごしている。両親の説得は彼方がいつの間にかしてくれていた。どんな言葉で両親を口説き落としたのかは知らないが、父は緋真に向って「彼方くんが居候してるんだからひとりもふたりも同じだ」と笑い飛ばし、母は「女の子の子供が欲しかったから嬉しいわね」と緋真を気に入ってくれている。身分も素性もまるでわからない緋真を、何の抵抗も無く快く受け入れてくれた両親には感謝してもし足りないくらいだった。いつか話せるときがきたのなら、今度は彼方からではなく、泰斗自身の口から緋真のことを両親に話さなければならない。それが唯一、泰斗にできることだと思う。
隣で眠る緋真の髪をそっと撫で、泰斗は前を流れる小川を見据えた。
この五日間、泰斗は惣介と双劉には会っていない。まだわからないことが幾つかあったから話を聞きたくて惣介を探してみたのだが、東雲惣介はあれから学校には一度も来ていなかった。知り合いである、惣介と同じクラスの先輩に尋ねてみても「あいつのことはよくわかんねえからなあ」とお手上げ状態。東雲惣介という都築高等学校三年生の男子生徒はほとんど学校には来ず、来ても教室には滅多に足を踏み入れないらしい。ただ単に、学校の教室という限られた場所が嫌いとのことなのだが、真相は誰にもわからなかった。
あの日のあの屋上で、惣介は言った。
「これからどうするかはお前次第だ。だが、忘れるな。お前が逃げても、おれは追う。地獄の果てまでも、必ず。それに遅かれ早かれ、お前には籠狗の手が伸びるだろう。迷ってる暇は無い。死にたくなければ、《白の刻》と共に、おれと双劉のように強くなれ」
あの日から惣介には会っていないし、籠狗の手も伸びては来ない。
平穏そのもの生活が今もまだ継続している。
何よりもこの五日間、緋真は一度もあの姿にはなっていないのだ。そうする必要が無かった。惣介は「強くなれ」と言ったが、果たしてどうすれば強くなれるのかがわからない。練習すれば強くなる、というのはスポーツでは共通した手段だが、この状況で何を練習すればいいのかがまるでわからないのだ。剣道を始めてみたところで高々数日で剣の腕が上達するとは思えないし、かと言って我流で何か適当な練習をしたところで大したものは得られないだろう。緋真とそのことについて話したことも無く、そして練習云々などのことの前に、緋真をあの姿にはしたくない、というのが泰斗の本音である。
緋真を守ってやる、と言ったのは本気でそう思ったからこその言葉だ。
だけど、それとこれとは話が別である。
泰斗へ凭れかかっていた緋真の頭が吹き抜けた風に揺られるかのようにゆっくりと動き、倒れ込むように泰斗の膝の上に落ちた。少しだけ不器用な膝枕だと気づいた際に少しだけ狼狽し、それでもやはり緋真を起こす気にはなれなくて泰斗は苦笑する。気持ち良さそうに眠る緋真の寝顔を見つめて微笑んでいた泰斗から離れた所を、カップルと思わしきふたり組みがこっちを見ながら、僅かに白銀の髪のことを気にしつつもくすくすと笑って通り過ぎて行く。
唐突に恥ずかしさがぶり返り、泰斗は慌てて視線を木々の隙間から覗く青空に向けた。
青空の色はやはり、双劉の髪の毛の色と重なって見えてしまう。
――戦うことが、恐い。それが、今の泰斗のどうしようもない本音だった。互いに血を噴き出すまで激しい殴り合いの喧嘩などしたことが無いし、格闘技に興味はあるが技術が無い。大雑把にまとめればこの世には三通りの人間がいると泰斗は思う。ひとつが争いを好み自ら参加する者。ひとつが争いを嫌い逃げ出す者。ひとつがそのどちらでもなく、両者を納得させ平穏を保とうとする者。どちらかと言えば、泰斗は両者を納得させて平穏を保とうとする者だと思う。友達が喧嘩していれば止めに入るし、学校では今までなるべく争いごとが起こらないようにいろいろと気にかけてきた。
しかし今のこの状況で、泰斗の考えが通用するとはまったく思えなかった。
もし相手と話す機会があって説得しようとしたとしよう。だけど相手は「で?」の一言で切って捨てるに決まっていた。他の奴がどうだかは知らないが、少なくとも東雲惣介という男はそういう部類の人間であるような気がする。何か根本的な理由があるのかもしれないが、客観的に見れば惣介は争いを好み自ら参加する者であるように思うのだ。問答無用に襲いかかって来たあの状況がそれを立証しているのではないだろうか。
結局の話、泰斗の意志とは関係無く物事は動いていき、やがて必ず悪い方向を指して牙を剥くのだろう。
緋真と出会って五日も経っているのにも関わらず、最も重要なことは未だにわからず終いのままで、最も必要な解決策も未だに出てきていない。これから自分はどうするべきなのか、どうすればいいのか。どうすることが泰斗に取っても緋真に取ってもいちばんいい方法なのだろうか。このままで過ごせる時間は、果たして後どれくらい残っているのだろうか。
答えの出ない自問自答は繰り返され、そしてそれは泰斗の口から大きなため息となって吐き出される。
同時に、泰斗の膝の上に乗っていた緋真の頭がびくりと震えた。
閉じられていた瞳が開かれ、緋真が覚醒したかのように目を覚ます。
その反応と緋真の顔色に、泰斗はしばらく言葉を返すことができなかった。
まるで最低な悪夢でも見ていたかのように緋真は蒼白の無表情をしていて、虚ろな瞳は焦点が定まらずに虚無が宿り、視界に入っているはずの泰斗の姿をいつまでも確認できていないようだった。泰斗の服をぎゅっと握り締め、震える体で何事かをつぶやこうとする。が、呂律が回らないのか口が動かないのか、緋真の口からは言葉らしい言葉はついに出て来ず、虚無の瞳に涙が滲む。
尋常ではなかった。心配よりも何よりも先に、恐怖が芽生えた。
気づいたら無意識の内に緋真の肩を掴んで声を張り上げていた。
「緋真!? 何だ、どうした!?」
泰斗の声が引き金になったかのように、緋真の様子が突然に治まり、氷のような無表情でこうつぶやく。
「――……来る」
その言葉を、理解できなかった。
「来るって何が!?」
が、またしても突然に緋真の体からは力が抜け、ふっと瞳を閉じた。
電池の切れた人形のように動かなくなってしまった緋真が今は何よりも恐ろしく、もしかしてこのまま目を開けないのではないかと半ば本気で思い、錯乱した泰斗はその頬を叩いてでも目を覚まさせてやろうと思った。思ったのだが、泰斗がそれを行うより早くに緋真が閉じた瞳をゆっくりと開ける。それでも錯乱した脳みそはすぐには落ち着かず、自分でもわけのわからない言葉を叫ぼうとした刹那、
緋真が泣きそうな顔で首に抱きついてきた。
泰斗が正気に戻る切っ掛けをくれたくれたのは、白銀の髪から漂うシャンプーの匂いだった。
「…………たいと…………」
頬の側にある緋真の口が、震える声で泰斗の名を紡ぐ。
背に回された細い腕に小さく力が篭り、緋真が嗚咽を抑えて泣き始める。
とにかく緋真を落ち着かせなければ、と泰斗は思う。
しかしどうしていいかわからなくて、悩んだ挙げ句に子供を慰めるように髪を撫でてやることしかできなかった自分がもどかしかった。それでもこれが今の泰斗にできる精一杯のことでしかなく、緋真が泣き止むまで泰斗は何も言えずにずっとそうしていた。
それから一体、どれくらいの時間が流れたのだろうか。一分だったのか三分だったのか、もしかしたら十分くらい経っていた可能性もある。時計を見れば一発でわかるはずのその答えを、それでも泰斗は時計を見上げることができなかった。緋真から視線を外したら、この腕で抱き締めている少女が消えて無くなってしまいそうで不安だった。また、先ほどのようなことになるのではないかと恐かった。
何も言ってやれない自分が、酷く情けなかった。
誰もいない公園の片隅の木陰の下で、泰斗は緋真を慰め続ける。
やがて落ち着いたのか、小さな嗚咽を漏らしながら緋真は言う。
「……泰斗が、いなくなったのかと、思った……」
何を言っていいのか一瞬だけわからず、それでも緋真を安心させてやらねば、と思う。
「……心配しなくていい。おれはここにいるから」
泰斗の言葉を聞いているのかいないのか、緋真はこう続けた。
「あそこにいる、夢を見たの……。真っ暗で、誰もいなくて、……わたしはいつも、ひとりぼっちで……」
洞窟の中にある牢獄。それは果たして、どんな所なのだろうか。
十五年間の閉ざされた暗闇の記憶は、果たしてどれだけ恐いことなのだろうか。
いつかのように、緋真は泣くように言った。
「…………ひとりに、しないで…………」
自分の手は、一体何を掴もうとしているのだろう。
自分の手は、一体何を離そうとしているのだろう。
掴もうとしているのは、非日常。離そうとしているは、日常。
非日常を掴み、日常を離すのが正解なのだろうか。それとも日常を掴んだまま、非日常を離すのが正解なのだろうか。この問いに、もしかしたら正解なんていうものは存在しないのかもしれなかった。ならば答えは、自らの手で掴み取らなければならないのだ。日常を掴んだままで非日常を掴み取ることはできない。その逆もまた然り、非日常の中にいて日常を掴み取ることもできない。だったら答えは、永遠に出ないか、それともすぐに出るかの二通りしか無いのだと思う。掴むべきか、離すべきか。考える必要は無いのかもしれない。
なぜなら、非日常はもうずっと前から始まっていたのだから。
なぜなら、五日前のあの日から日常は終ってしまっていたのだから。
なぜなら、今、泰斗の腕が包み込んでいるのは、緋真という少女なのだから。
虚勢でも強がりでも無く、同情でも哀れみでも無く、成り行きでも仕方なくでも無く。
震える緋真を優しく抱き締め、
誰もいない公園の片隅の木陰の下で、泰斗は決断を下す。
「……だいじょうぶ。おれは、緋真をひとりにはしない。約束するよ。だから、」
ぐずっ、と緋真が鼻をすすった刹那の瞬間、泰斗の意識が小さな違和感を感じた。
緋真から視線を外し、公園をぐるりと見渡す。感じた違和感はたちまちにその大きさを増し、ひとつの理解となって降り注ぐ。泰斗の視線の先には、夏の日曜日の、午後の一時過ぎの、いつも通りで当たり前の光景は、無かった。元気に走り回っていた近所の子供の姿も、芝生の上にシートを広げて弁当を食べていた家族連れの姿も、噴水の側のベンチに腰掛けていたカップルの姿も、視界を横切ったバトミントンのロケットも、それ以前に生き物の気配と呼べるものが何ひとつ存在しなかった。いつも聞こえていたはずのセミの声さえも、今だけはまるで耳に届いて来ない。
泰斗と緋真を残して、公園は無人と化していた。
誰もいない公園の片隅の木陰の下で、泰斗は、緋真の言葉の意味をようやく悟った。
来る、と緋真は言った。何が来る、と緋真は言いたかったのか。
最初の一撃に気づけたのは単なる偶然だった。
視界の真ん中に取り残されたかのように存在する黒い点のようなもの。それが何であるのかはわからなかったが、それがとんでもない速さでこちらに向かって突っ込んで来ているのだということだけはすぐに理解していた。緋真を抱き締めたままで反射神経が勝手に働いてその場を離脱する。直後、泰斗の凭れていた木の幹に黒い点は静かに突き刺さった。倒れ込んだ状態でそこへ視線を向けて初めて、泰斗は黒い点が矢のような鋭い刃物であることを知る。弓矢から放たれたと思わしきその矢は、やがて泰斗が見つめる先で砂のように粉々に砕けて風化した。風に揺られて姿を消した矢が残したものは、木のどてっぱらに開いた真っ直ぐに深い穴だけである。
何者が如何なる目的でこんなものを放ったのかはわからなかったが、相手が殺す気で攻撃を行っているのだということをたったの一撃で思い知らされた。
緋真が泰斗の下から顔を出し、辺りを震える瞳で見つめた後に、ある一点を凝視しながら凍りつく。たった一瞬しか動いていないのにも関わらずに荒れる息を吐き出しながら、泰斗は緋真の視線を追った。
地面に倒れ込むふたりから離れた場所、噴き上がる噴水の柱の上に、そいつは立っていた。
太陽の陽射しに煙を上げるのではないかと思うほどの漆黒の衣類が全身を覆い尽くし、顔も体格さえもはっきりしないのだが、唯一剥き出しにされた右腕だけが肌色を示している。しかしそれは、普通の人間の腕ではなかった。手首の辺りを一本の骨のようなものが突き抜け、弓形に反り返ったその両先端には一線の細い糸が張り詰められている。手首から弓矢を生やしたそいつには、気配と呼べるものが無かった。
そいつは言う。
「我が名は飛笙(ひしょう)。《白の刻》とその契約者とお見受けする」
泰斗の返答など待たずして、飛笙と名乗った漆黒は噴水の柱の上から姿を消した。
漆黒の衣類を身に纏った飛笙が何であり、何者であったのかを、泰斗は瞬時に悟っていた。緋真が「来る」と言ったのは、飛笙のことを指していたのだ。相手は惣介と双劉ではない。ならば考えられる結論はただのひとつしか有り得なかった。相手は、籠狗である。惣介の言う、籠狗の手が伸びて来たのだ。物事は泰斗の意志などはまるで無視して、現実は必ず悪い方向を指して牙を剥く。その瞬間が、訪れていた。
二撃目は真上から放たれた。その攻撃に気づいたのは今度は緋真の方で、小さな声と共に覆い被さっていた泰斗の体を真横に跳ね飛ばし、自らもそれに続く。先ほどまでふたりが倒れていた地面に矢が突き刺さり、しかしすぐに風化するかのように風に吹かれては消える。体に付着した草や土を払っている余裕など当たり前のように無かった。泰斗は側に倒れていた緋真をすぐさま抱き起こし、辺りに視線を向けるが飛笙の姿は捕らえられない。
風を切り裂く矢の音を聞いた。その音が聞こえた方向を無意識の内に振り返り、それが幸か不幸だったのかは知らないが、矢は泰斗の頬を掠めて背後へ突き抜けた。流れ出す血を思考の彼方で意識しながら、五日前に惣介と戦ったときのような恐怖が湧き上がる。戦うことが恐いと思ってしまうのは、どうしようもない本音だった。意識せずとも体が震えるのを緋真に気づかれないように抑え込み、次の攻撃がどこから放たれるのかわからないことに恐怖は増し、出鱈目に視線を巡らしていた泰斗の背後から矢が放たれる。
「泰斗!」
緋真の悲鳴にも似た叫びの刹那、その腕が真っ白な光に包まれたと同時に、瞬時に一振りの刀へと変貌した。
緋真の手首から真っ直ぐに伸びる刃が振り抜かれ、迫っていた矢の横っ面を薙ぎ倒す。泰斗が振り返ったときにはすでに、矢は空中で風化していた。呆然とする泰斗の目前で緋真は立ち上がり、変貌したあまりに不釣合いな刀の腕をそのままに辺りを見回し、一点を凝視しながら硬直する。否、硬直ではなく、そこに敵が潜んでいることに気づいたが故の、停滞だった。今までの緋真からは想像もつかないような鋭い眼光を瞳に宿して、《白の刻》は刀を構えながら姿勢を低くしていく。
思考が停止していた。目の前に佇む緋真が、泰斗の知っている緋真とは遠く掛け離れていた。無邪気な笑顔など微塵も感じさせず、惣介のように敵の存在と気配だけを一直線に見据える眼をしていた。どこから放たれるかわからない攻撃よりも、今の緋真に恐怖を覚える自分がいることに泰斗は気づく。緋真が緋真ではなくなっている。それともこれが本来の緋真の姿なのか。これが戦闘狂の籠狗一族から産まれた異端な存在、《蝕の刻》の内の《白の刻》緋真の本能の根本に根づく姿そのものなのだろうか。白銀の髪が揺れる度に、殺気のような波動が泰斗を貫く。
駄目だ、と頭の中のスイッチが切り替わった。緋真をこのまま戦わせてはならない。
緋真が緋真で、なくなってしまう。
停止していた思考が唐突に叫び声を上げた。
「緋真!!」
びくり、と白銀の髪の少女の体が揺れ動いて泰斗を見つめ、そのときになってようやく緋真自身も自分がしたことに気づいたような驚いた表情を浮かべる。構えていた刀を下ろして助けを求める弱者の瞳を見せ、何事かをつぶやこうと口を開きかけた。が、その言葉はすぐに奥から滲み出した本能に押し殺され、緋真は無表情に染まった顔で泰斗をじっと見据えながらその言葉を言い放つ。
「――戦ってください、泰斗」
泰斗へ向って緋真が一歩を踏み出した瞬間、その瞬間を好機と見なした飛笙が先ほどまで緋真が見つめていた場所から瞬時に飛び出し、空中を駆け抜けた際に矢が放たれる。空間を切り裂いて背後から突っ込んで来る弓を、緋真は振り返りもしなかった。まるで後ろに目があるかのように、泰斗から見れば適当に腕を振り抜いたくらいにしか見えないはずの動作で、緋真の一線の刃は空中で矢を叩き落とした。白銀の髪の後ろで風化していく矢の破片を視界の端で意識していながらも、泰斗は視線が無表情の緋真から外せずにいた。
刃に変貌させたのとは逆の、白く細い左腕をそっと差し出して緋真はもう一度、先と同じ言葉を紡ぐ。
「戦ってください、泰斗。貴方はわたしの契約者です」
緋真であるはずの存在が、今は何よりも恐怖を掻き立てた。
尻餅をついて見上げる泰斗へ差し伸べられた緋真の手を、掴む勇気が無かった。戦うことはもちろん恐い。そのことは否定しないし、それどころか肯定する。だけど今は、もっと別の理由で戦うことを拒んでいる自分がいた。今ここで、緋真の手を取って自分が戦えば、緋真が緋真でなくなってしまうという漠然とした恐怖が胸の奥底に巣食っている。緋真を戦わせてはならない。自分が緋真を守らなければならないのだ。緋真の代わりに、自分が戦わなければならない。そう頭では理解しているのに、しかし体が言うことを聞かない。見つめてくる緋真から視線が外せず、言うべき言葉も見つからずにすべてが空白に染まっている。
再びどこからともなく放たれた矢を、やはり緋真はハエでも払うかのような仕草で一閃し、真っ直ぐに泰斗を見据え続ける。まるでそうすることが当たり前だという顔をする緋真が、さらに一歩を踏み出す。地面に膝をついて呆然と見つめる泰斗の腕を取り、そっと自らの胸に押し当てようとする。意識してではなかった。恐怖がそうさせたように思う。気づけば緋真に掴まれた腕を強引に振り払っていた。
それは緋真に取ってみれば、予想外の行動だったに違いない。何の変化も示していなかった緋真が驚愕と絶望を織り交ぜたかのような表情を一瞬だけ浮かべた後、無表情に戻った瞳で泰斗を見つめ、それでも泣きそうな声色でつぶやく。
「どうして? 泰斗が、言ってくれたんだよ……? わたしを守る、って。わたしをひとりぼっちにしない、って。それなのにどうして、泰斗はわたしと戦ってくれないの……? ……泰斗は、わたしが嫌いになったの……?」
「違うっ!!」
違うのだ。
緋真を守ると約束したのも、緋真をひとりにしないと決断をしたのもこの自分だ。だけど、違う。今の緋真は、緋真であって緋真ではない。少なくとも、泰斗の知っているあの緋真ではない。今ここで緋真を戦わせれば自分はきっと一生後悔する。もしここで戦ってしまえば最後、無邪気に笑うあの緋真はもう二度と戻ってこないような気がする。戦うことと、緋真が緋真でなくなることは、根本的に話が違った。緋真が緋真であるのなら戦おう。全力の力を持ってして、自分にできる限りのことを最大限にしよう。しかし、今の緋真と共に戦うことだけはしてはならないのだと、確信にも似た思考が脳髄から湧き上がってくる。
緋真を取り戻さなければならない。
どうすれば緋真が元通りになるのかはわからない。それでも何かの行動に移さなければ何も始まらないのだ。緋真が緋真であるために。無邪気に笑うあの緋真を、取り戻さなければならない。何をすればいいのかはわからない、だけど。籠狗の《白の刻》ではなく、泰斗の家で過ごしていた緋真という少女が側にいてくれることだけをただ願う。震える息を飲み込んで拳を握り、体を支配する恐れを度胸に変え、泰斗は緋真の手を掴んで抱き寄せる。僅かに強張った緋真の体が泰斗の腕から逃れようと身を捩るが、泰斗は離さない。
搾り出すように声を出す。
「……頼むから、」
こんな緋真の姿など、見たくはなかった。
「元に戻ってくれ……。おれの知ってる緋真に、戻ってくれ。頼むから、緋真……っ!」
離れようと強張っていた緋真が突如として沈黙した。
泰斗が抱き締めた緋真の体から力が抜け、束の間の沈黙がふたりの間を支配する。
腕を不釣合いな刀に変貌させ、感情を押し殺していた白銀の髪の少女の表情に確かな色彩が広がった。鋭い眼光に緩やかな光が射し込み、迸っていた殺気が風に吹かれて霧散し、緋真の瞳に涙があふれる。抱き締めているせいで緋真のぬくもりと震えが直に伝わってきていた。頬のすぐ隣にある緋真の口が嗚咽を漏らし、小さな声で泣き始める。
戦うのが恐い。わたしがわたしでなくなるのが恐い。ひとりぼっちでいるのが恐い。そう言って、緋真は泰斗に縋って泣き続ける。
言い表せない安堵が胸に中に広がる。泰斗が抱き締めているこの少女は、無邪気に笑うあの緋真だった。座り込んだまま、緋真の背に回した手で震える髪をそっと撫でながら泰斗は微笑み、口を開く。よかった。そう言おうとした。しかし泰斗の口から出た言葉は、意志とはまるで関係無い、「かっ」という悲痛な呻き声だった。
状況がすぐには理解できなかった。飛び散った赤い鮮血が自分のものであるという事実に脳の情報処理が追いつかない。白銀の髪から視線を外し、泰斗はゆっくりと自らの右肩を見据えた。
そこに、一本の矢が突き刺さっていた。それは泰斗の視界の中で風化し、肩口にひとつの穴を残して消滅する。そこから流れ出した血が泰斗の腕を伝いながら緋真の髪を染め、その事実にやっと脳の情報処理が追いついたときになってようやく、冗談のような激痛が体を駆け巡った。衝撃にも似た痛みに泰斗は声にならない声で絶叫する。身を地面に転がした際に肩口から飛んだ血が呆然とする緋真の頬に付着し、
その刹那の一瞬、緋真の刀が輝きを増した。
飛笙の放った一撃が、薄皮一枚で繋がっていた緋真の意志と本能の隔てを打ち砕く。地面をのた打ち回って肩口を押さえ込みながら歯を食い縛る泰斗の側から立ち上がり、緋真がまったくの無表情で刀を前方に突き立てた。そこから迸った殺気が空間を吹き抜け、刃から走る剣圧が地面を揺るがせる。駄目だ、と泰斗は思う。緋真を戦わせてはならない。せっかく取り戻したのに。それなのに、どうして、こんなっ。緋真を止めなくては駄目だ。そんなことはわかっているのに、どうしても体が動かせない。体に言い聞かせても肩口の激痛が泰斗の思考を塗り潰し、振り絞った声はついに言葉にはならず、何もできない泰斗の視界の中で緋真が地面を破壊した。
加速した緋真は、泰斗が目で追えるような速度ではなかった。気づけば緋真は一瞬で飛笙の潜む木の真下に辿り着いていて、一閃の刃と共に幹が真っ二つに切断され、轟音を立てて倒れ込んだ際に木の葉が舞い上がる。数十枚の深緑の葉に紛れて飛翔した飛笙の姿を、無表情の緋真は当たり前のように見逃さない。地面を蹴って空中で飛笙に追いつき、撃ち出された矢を左手で掴み取り、振り上げられた刃が弓矢に変化していたその手首をたったの一撃で一刀両断する。
夏の陽射しが射し込む中で噴射した血が宙で輝きながら地面に降り注ぎ、かん高い悲鳴を上げて芝生の上に落下した飛笙が切断された右手首を押さえて一瞬だけ立ち止まる。遅れて着地した緋真が負傷した飛笙を真っ向から見据えて刀を構え、姿勢を低くしていく。腕を失った飛笙に、もはや戦う手段は残されていなかった。緋真が走り出すより早くに飛笙が悪態をついて踵を返し、逃亡を開始する。が、今の緋真がそれを易々と見送るはずはないのである。
緋真の刀がさらなる輝きを宿し、無表情で振り抜かれた刃から衝撃波が疾った。地面を抉り取りながら突き抜けたそれは背を向けていた獲物に瞬時に追いつき、振り返った飛笙の足を巻き込んで渦を巻く。風が形成するカマイタチのように飛笙の両足がズタズタに引き裂かれ、真っ赤な鮮血を噴き出して顔面から芝生に激突して激しく転倒する。手首が無くなり、そして両足も使えない。今の飛笙は、羽を捥がれた蛾と同じだった。それでも飛笙はなおも緋真に背を向け、手で這いずいながら逃げ出す。
緋真の刃が、無様なその背に牙を剥く。戦闘狂の籠狗一族の本能を一挙に受け継いで産み落とされた《蝕の刻》。一度その本能が牙を剥けば最後、それは誰にも止めることのできない最強最低だった籠狗一族の正真正銘の末裔と化す。今の退化した籠狗が束になってかかったところで、《蝕の刻》には太刀打ちできるはずはないのである。故に《蝕の刻》は処分されることが決まっていた。故に《蝕の刻》は異端な存在だった。本能は何よりも強い願望。今の緋真には、もはや敵の姿しか見えていなかった。
緋真、と必死の思いで叫んだ泰斗の声は、もう届いていない。
緋真が地面を蹴った。輝きを増した刀の切っ先の狙いが無防備な飛笙の背に定められ、一線の刃がその胴体を切断するか否かの瞬間、飛笙と緋真の間に曲線を描く刃物が割って入った。刃物同士がぶつかり合う独特の澄んだ音を響かせ、地面に蹲っていた飛笙が何者かの手によって抱きかかえられてその場から消える。緋真が静かに立ち竦み、辺りを見回してから一点を見つめる。そこに、飛笙とはまた違う、漆黒の衣類を身に纏うふたりの籠狗がいた。片方は手を曲線を描く短剣のようなものに変えていて、もう一方は飛笙を背負って真っ直ぐに緋真を見据えていた。
籠狗の援軍である。しかし緋真は、何の躊躇いも無く再び地面を蹴った。問答無用に迫り来る《白の刻》を真っ向から見据えていたふたりの籠狗が構えを取り、飛笙を抱えた方は後方に飛び退いて離脱し、もう片方は曲線を描く短剣で緋真の刀を受け止めようとする。が、それが叶わぬことであることを、その籠狗は一瞬で悟る。《白の刻》から振り抜かれた刀は、いとも簡単に短剣を弾き返して獲物の首を真っ直ぐに狙っていた。その刃を籠狗が避けれたのは単なる偶然で、漆黒の衣類が切り裂かれて空に散り、遅れて少量の血が噴き出す。
瞬時に距離を取って仲間の下に戻った籠狗が後じさりながら《白の刻》を警戒し、慎重に距離を開けていく。そのふたりが逃げようとしているのはすぐに理解できる。飛笙とは違い、駆けつけたふたりの籠狗は戦闘が主体ではなかった。本来ならこの戦いに参戦する予定は無かったはずなのだが、予想外の戦力で飛笙が負傷したため、殺される前にこの場を離れようと割って入って来たのだ。もしここで《白の刻》が迂闊に動けば、隙を突いて瞬く間に姿を眩ませるだけの自信がふたりの籠狗にはあった。
それは緋真にわかっていたはずだった。しかし、一度暴走を開始した本能は止まらず、何の躊躇いも無く緋真が再び地面を破壊した。そしてそれは、ふたりの籠狗の自信を木っ端微塵に砕くだけの速度を持っていた。籠狗がその場から逃げ出そうとするより速くに緋真はふたりに到達し、驚愕に染まった表情をする獲物を変わらずの無表情で見つめ、輝く刃を振り抜いて一気に胴体を切断しようと、
蒼く長い髪が翻り、五本の刃と一本の刃が交錯して冗談のような火花が迸った。瞬間、緋真の体が驚くべき力で背後に吹き飛ばされて公園に生えていた木々に激突した。巨大な衝撃音を響かせ、小さな苦痛の呻き声を上げて気を失った緋真が地面に倒れ込んで沈黙する。やがて輝いていた刃は光に包まれて姿を変え、そこから細く白い緋真本来の腕が姿を現す。
何もできずにそれを見つめていた泰斗の視線の先、倒れ込んだ緋真のその向こうに、巫女装束を身に纏い、手の指をすべて刃に変貌させた《蒼の刻》である双劉がいた。双劉は身動きひとつしなくなった緋真を一瞥した後に、ゆっくりと背後の三人の籠狗を振り返る。状況の理解できていない三人の籠狗は狼狽し、逃げ出すかどうかを悩むかのように互いに視線を噛み合わせた刹那、
いつも通りに咥えた煙草の煙を吐き出し、東雲惣介が双劉に歩み寄る。
「動き回る籠狗の気配を追って来てみりゃあ、《白の刻》が暴走を開始してやがる。原因は何かと思えばやっぱりか。テメえら夷月(いつき)んトコの隠密だろ。何でテメえらがこんなトコにいるんだよ。この前におれが言った言葉を、聞いてなかったなんて言わせねえぜ。……誰の命令だ?」
双劉の側に立った惣介の眼光に、三人の籠狗は明らかに気圧されていた。
右腕を短剣に変貌させていた籠狗が一歩だけ前に踏み出し、惣介を見上げながら、
「と、当主殿、我々は、」
「誰の命令だと聞いてるんだ。何度も言わせるな」
観念したかのように、籠狗はその名を口にする。
「……夷月様、です」
やっぱりあの糞爺か、と毒づいて惣介は煙草を地面に落として踏み潰した。
「この前にも言ったはずだ。《白の刻》と御影の契約は儀式を行っていないせいで不安定な状態で停滞している。何か下らない刺激を与えれば簡単に均衡は破れて必ずや暴走を開始する。そのときはお前らが束になっても《白の刻》には勝てない。全員皆殺しにされるのがオチだ。《白の刻》と御影が完全に結合された瞬間を見計らっておれが獲物を叩く。だから無暗に手を出すな。……おれはそう言ったはずだぜ。聞いてませんでした、じゃあ済まさねえぞ。それにこっち側でこんな堂々と戦われてちゃおれの後始末が増えるだけだ。この責任、一体どう取るつもりだ?」
惣介の横から双劉が歩み出し、陽射しに照らされて輝く十本の刃をそっと広げた。無表情の双劉から無言の圧力がかかり、三人の籠狗はさらに狼狽して視線を地面に向けて沈黙する。暴走した《白の刻》ひとりを相手にしても勝ち目の無い普通の籠狗に、東雲現当主と契約を交わしている《蒼の刻》の存在はあまりに巨大だった。たった三人足らずの籠狗では、《白の刻》は愚か《蒼の刻》に勝つことなど夢のまた夢である。それに《白の刻》も《蒼の刻》も契約者と共に戦っていないのにも関わらず、これだ。逆らえるだけの度胸もクソも、当たり前のように存在しなかった。
惣介は胸ポケットから取り出した煙草をまた咥え、ライターで火を点けて煙を吸い込む。灰色の煙を盛大に噴き出しながら、惣介は俯く籠狗を見下げ、たったの一言だけ言葉を吐いた。
「失せろ」
万策尽きた、とはまさにこのことを言うのではないだろうか。
「帰って夷月に伝えとけ。もしまた《白の刻》に手を出したら、今度は間違い無く殺す。こいつらはおれの獲物だ、誰にも邪魔はさせねえ。……失せろっつっただろ、目障りなんだよ。一秒以内に消え失せろ、さもなくば今ここで、――お前らを殺す」
一秒もかからぬ内に、弾かれたように三人の籠狗が公園から姿を消す。惣介が遠ざかって行く籠狗の気配を追っていたのは最初の二秒だけで、二秒を過ぎた頃に意識を切り替えて煙草を口につけた。呆れたようなため息を煙と共に吐き出して、刀を元の指に戻した双劉を見つめる。
「双劉」
名を呼ばれただけで、双劉は惣介が何を言いたいのかを理解したかのように「はい」と僅かに肯き、何の動作も無くその場から一瞬で消えた。消えたと思った次の瞬間には倒れ込んでいる緋真の側に双劉が姿を現し、少しだけ申しわけなさそうな表情で体を屈めて地面に膝を着き、白銀の髪を一度だけそっと撫でた。意識の無い緋真の体を抱きかかえた双劉が再び無動作で消え、またしても瞬間的に肩口を押さえて未だに倒れ込んでいた泰斗の側に現れる。
何も考えられず状況さえも理解できていなかった泰斗はただ、呆然とする視界の中で双劉を見上げ、しかし肩口の痛みが思考を塗り潰すせいで何の言葉も言えないまま朦朧とする意識の狭間を漂っていた。惣介が近づいて来る足音が聞こえた。双劉の逆側から泰斗を見下げながら実に不満そうな表情を顔に貼りつけ、惣介は血が止まらない肩口を見据える。
「あんな雑魚どもにやられやがって。《蝕の刻》と契約した奴の晒すザマじゃねえぞ。……ったく。左手出せ」
惣介の言葉など、泰斗の頭には半分も入っていなかった。
血を流し過ぎたのだろう。思考と視界が霞む。拳さえも握り締めることができず、左手を出せと言われてもすぐには従えなかった。見当違いのところで結ばれた言葉をぼんやりと理解し、意識を振り絞って左手を上げようと試みるが全身を駆け巡った肩口の激痛に気力は呆気無く萎える。息が荒く、心臓の鼓動が異様なほど速かった。このまま死ぬんじゃないだろうかと半ば本気で思う。
惣介が二本目の煙草を地面に落として踏み潰し、面倒臭そうにしゃがみ込んで無理矢理泰斗の左手を鷲掴んで引っ張り上げた。悲鳴を上げるほどの痛みが走った。実際に身を捩って悲痛の叫びを上げた。それでも惣介はまるで気にも止めず、遠慮無くに泰斗の左腕を掲げて双劉を振り返る。それとほぼ同時に緋真を抱えた双劉が惣介の側に座り込んだ。
惣介は掴んだ泰斗の腕を緋真の胸に押し当て、つぶやく。
「目を閉じて意識集中させろ。暗闇の中に光を見つけたらそれを掴め」
言う通りにしなければ殺す、と惣介の眼光が言っていた。
しかしそれ以前に一刻も早くこの苦痛から逃れたくて、泰斗は言われるがまま目を閉じた。が、どう頑張っても痛みに邪魔された意識を集中させることができず、緋真の胸に左腕を押しつけられた状態で激痛の一分が過ぎる。やがて痺れを切らした惣介に「全力でやらねえと死ぬぞ」と宣告された。その言葉があながち嘘ではないことを泰斗は漠然と悟っていて、暗闇の中に残っていた最後の気力を絞る。全身を駆け巡っていた苦痛を必死に抑え込み、目を閉じて見える闇に意識を凝らす。
闇の中心に小さな光の粒のようなものが見えた。掴め、という惣介の声に従って光の粒を掴むようなイメージを抱く。刹那に光は大きさを増し、暗闇を覆い尽くして空白に染め上げる。光に包まれた意識がゆっくりと遠ざかり、霞んだ思考と視界はそのままだったが荒い息と鼓動の速い心臓だけは静かに落ち着き、全身を駆け巡っていた激痛が不思議と治まっていく。
そこで泰斗の意識は唐突に途絶えた。
結界が残ってる内は誰も来ねえから寝てろ。
意識が消える一瞬、惣介のそんな声を聞いたように思う。
◎
虫の鳴き声に意識を呼び戻された。
泰斗が目を覚ました頃には青空に浮かんでいたはずの太陽は沈んでいて、空は紺色の夜空が支配している。半月と共に輝く星の群れは遥か遠くの宇宙にあるはずなのに、今だけは手を伸ばせば本当に届きそうなほど近くに思えた。寝ている間に見た夢の中で、惣介と双劉を見たように思う。目に見えて耳に入ってくるものをひとつひとつ、泰斗は眠気が覚めやらぬ思考の泥沼の中から追いかける。飛行機が放つ翼端灯の光が夜空をゆっくりと横切り、その側では星が揺らめくように輝き、どこかの草むらで虫が音楽を奏で、吹き抜けた風が木々の葉を揺らし、ボケたセミが一節だけ鳴いて、隣で緋真が小さな寝息を立てている。
現実は、一発で泰斗の眠気を弾き飛ばした。
慌てて隣を振り向いて初めて自分が公園の敷地に生えた木に凭れかかるように据わっていることに気づき、同じくして泰斗の肩に頭を預けて昼間のように眠りこけていた緋真に気づいた。夜の暗闇の中にあってもなおはっきりとわかる白銀の髪を微かに揺らし、緋真は果てし無く続く深い眠りの底に沈んでいた。緋真、と声をかけようとした瞬間、泰斗の脳裏に右手を刀に変貌させて無表情で敵を襲う緋真の姿が蘇って口を噤んだ。歯を噛み締めて俯き、泰斗は右手の拳を握った。
右手。つまりは右肩。
無意識の内に右肩を左腕で摩っていた。が、開いていたはずの穴はなぜか塞がっていて、流れ出ていたはずの血も止まっていた。一瞬だけあれはもしかして夢だったのではないかと思ったのだが、あの激痛が夢であるはずはなく、何よりも服に染みついた赤色がペンキや絵の具であるはずもなかった。自分は確かに、右肩に矢が突き刺さった激痛のせいで血を流しながらのた打ち回っていたのだ。
寝ている間に見た夢の中で、惣介と双劉を見たように思のだが、あれが夢だったのか現だったのかはやはりわからない。しかしこうして自分が生きていて、どういう理由からなのかはわからないが傷口まで塞がっているということはつまり、あの光景は夢ではなく現実のもので自分は惣介と双劉に命を救われた、とかそういうことなのだろうか。もし惣介と双劉がここへ来てくれなばければ自分は、そして緋真は果たしてどうなっていたのだろうかと考え、泰斗はひとり静かに震える。
隣ではまだ、緋真が小さな寝息を立てている。
随分と迷ってから、泰斗は意を決して緋真を起こすことに決めた。それでも目覚めた緋真が緋真ではなかったら、という不安が泰斗の決意を僅かに揺さ振る。だけどこのままこうしていても状況は何ひとつ変わることはなく、時間を先に引き伸ばせば引き伸ばすほど決意は崩れていくのは明らかだった。遅かれ早かれいずれは向き合うことになる。それならば、早い方がよかった。
眠る緋真の頬を宝石に触れるように手を添え、そっと呼びかける。
「……緋真」
これで起きればいいのに、と思う一方で、起きて欲しく無いと思っている自分もいた。
そして現実は、後者の方向を指す。
「ん……」
小さな声を上げ、閉じられていた緋真の瞳がゆっくりと開く。
緊張の糸が最も張り詰めていたのはその瞬間だった。もしここで目覚めた緋真が昼間のような状態だったのならば取り返しのつかないことになっていたのかもしれない。緊張の一瞬が過ぎた後、泰斗の考えは徒労に終っていたことを知る。開かれた緋真の瞳には鋭い眼光も殺気も宿ってはおらず、目を覚ましたのは泰斗のよく知る緋真だった。緊張の糸が切れ、腰を抜かすような安堵が泰斗に舞い降りた際に泣き笑いにも似た表情が自然と浮かんだ。
寝ぼけ眼で泰斗を見つめ、緋真は言う。
「……たい、と……?」
瞬間。胸の内で燻っていた感情があふれた。
気づいたら、緋真を抱き締めていた。
気づいたら、どうしてか自分は泣いていた。
緋真が緋真でいてくれたという安堵の裏には、紛れも無い悲しみと恐れが巣食っている。ここにいるのは緋真だ。無邪気に笑う、泰斗の側にいつもいたあの緋真である。だけどその裏には、一体何があるのだろうか。本能だけに囚われた籠狗一族の末裔、《白の刻》。その事実を、今日になってようやく思い知った。緋真はただの人間で、どこにでもいる普通のひとりの女の子だと思っていた。否、そう思おうとしていた。そう、思っていたかったのだ。
心の奥底で、本当はわかっていたのかもしれない。緋真は籠狗で、泰斗とは違う存在だということを。それでもそれを信じたくなかったのだろう。だから緋真には普通に接してきた。だから緋真には普通の生活をさせてきた。だから緋真をあの姿にはしなかった。いい訳染みた考えである。本当は恐かったくせに。あの日のあの時、緋真と共に惣介と戦ってからずっと、恐かったくせに。それを押し殺すために緋真を普通の人間だと思い込もうとしていた。それを緋真に気づかれないように虚勢を張っていた。それで事が納まるのだと、心のどこかで本気で考えていたのかもしれない。
しかし、思い知ったのだ。緋真が籠狗で、泰斗が契約者である限り、事が納まるなんてことは絶対に無い。緋真がここにいて、泰斗が契約者である限り、惣介や籠狗の追手がすべてを破壊していくのだろう。今日は運良く助かったが、今度も助かるという保障なんてどこにも無いのである。今度こそ本当に死ぬかもしれない。今度こそ本当に、緋真が緋真でなくなってしまうのかもしれない。ただ単純に、恐い。敵と戦うことも、無表情で敵を追い立てる緋真も、何もかもが恐かった。どうしようもない本音である。立ち上がって非日常を進むだけの勇気も度胸も、もうすでに底を突いていた。
抱き締めていた緋真が「何だかよくわからないけど笑おう」みたいな感じでぎこちなく微笑む。
背に回された手に微かな力が篭り、緋真は泣いている泰斗に向って問う。
「どうしたの、泰斗……? どこか、痛いの……?」
泰斗は答えない。
ひとりにしないで。そう言って緋真は泣いた。
そして自分は、緋真をひとりにしないと誓った。
そんな誓いなど、何の役にも立ちはしなかった。勇気も度胸も底を突き、この手で非日常を掴んで過ごしていくと数時間前に決めたはずの決意さえもが粉々に砕け散っていた。肩を矢で貫かれた痛みにのた打ち回って生死の狭間を漂った感覚と、無表情で敵を殺そうとする緋真の姿が脳裏に焼きついて離れなくて、それはすべてを支配しながら膨れ上がり、一点の真っ黒な恐怖心となって泰斗を飲み込む。五日前から始まったこの非日常を、手放そうと思う。手放さなければ、やがて自分は本当に死ぬのだと思う。恐れは何にも増した闇と化している。
砕けた決意と共に、泰斗は緋真を裏切った。
「……ごめん、緋真……」
震える声を絞り出す。
「やっぱりおれは、緋真を守れない。恐いんだ。戦うことも、それから、……緋真も。だから、ごめん。緋真をひとりにしないって約束したばっかりなのに裏切って、本当にごめん……」
「……泰斗……?」
緋真の泣きそうな声が耳に届く。
それでもやはり砕けた決意は蘇らなくて、言葉は妥協してくれなかった。
言ってはならないはずの一言を、泰斗は言った。
「……もう二度と、おれは緋真と会わない」
抱き締めていた緋真の体が強張ったのがはっきりとわかった。
それなのにも関わらず、背中に回された緋真の腕からは力が抜けた。
「……ヤだよ」と緋真は震えた声でつぶやく。腕に再び力が篭り、泰斗の背をきつく抱き締めて緋真は叫ぶ。
「泰斗が約束してくれた! わたしをひとりにしないって約束してくれたもんっ!」
そこで叫びは失速、嗚咽の混じった言葉が紡がれる、
「もうひとりぼっちはヤだよ……っ。あそこにはもう、戻りたくない……ひとりで、誰もいなくて、暗くて恐くて……。泰斗が一緒に居ていいって言ってくれたから、だから、だからわたしはっ、」
その言葉を最後まで聞く前に、泰斗は緋真の体を引き離した。
絶望と恐怖と悲しみと、僅かな希望が混じった表情を緋真はしていた。
そんな緋真に向かい、泰斗は謝り続けることしかできなかった。そんな緋真の、潤んだ瞳を見つめることができなかった。違う言葉を吐いてしまえば何もかもが終ってしまうような気がした。緋真を目を見つめれば自分は過ちを犯してしまうような気がした。震えながら「ヤだよ」と小さく繰り返す緋真へ視線を向けず、泰斗は俯いて唇を噛む。まだ間に合う、と頭の中でもうひとりの自分が叫ぶ。だけどそれは、してはならないことなのだと泰斗は思う。
泰斗は人間で、緋真は籠狗だ。緋真がもしも、普通の籠狗だったのなら結末は変わっていたのかもしれない。しかし緋真は《蝕の刻》の《白の刻》である。暴走した緋真は何よりも恐かった。再び緋真が暴走してしまえば、泰斗にそれを止める術は当たり前のように無い。緋真が緋真でなくなってしまう前に。そうなってしまう前に、すべてを終らせなければならない。この五日間を、無かったことにしなければならない。隣で笑った緋真を思う、孤独の涙を流した緋真を思う、嬉しそうに微笑んだ緋真を思う、
抱き締めた、緋真のぬくもりを思う。
掴んでいた手は、緋真を手放した。非日常が、終わりを告げる。
立ち上がった緋真が涙を流しながら首からかけたチョーカーを外し、泰斗へ向って投げつける。それでも泰斗は振り向かない。何事かを緋真が叫んだのだが、今の泰斗には聞こえなかった。僅かな静寂、やがて緋真が踵を返して走り出す。地面を蹴った緋真は一瞬で視界の中から消え失せ、誰もいない公園に泰斗はひとりで取り残された。これでよかったのだ、と泰斗は思う。これで何もかも終って、日常が戻ってくる。
それでも、どうしてか緋真の瞳から零れた涙が脳裏に焼きついて離れない。
虫が鳴いている、夜空に星が瞬いている。
地面に転がっていたチョーカーを拾い上げ、それを胸に抱え、御影泰斗は泣いた。
「決断の刻」
月明かりも消えた部屋の闇に目が慣れたのは、随分と前だったように思う。
午前の三時二十三分を示す目覚まし時計の秒針が動く動作さえもがはっきりと目で追える。深夜と早朝の境目であるこの時間は、それまで聞こえていたはずの虫の声もふっつりと途絶え、まるで世界そのものが死に絶えてしまったかのように静まり返っていた。ただ、目覚まし時計が一秒単位で時を刻む秒針の音だけが部屋の中を支配し、そんな中で御影泰斗は部屋のベットに凭れて膝を抱え、虚ろな瞳を右手に握り締めたチョーカーに落として沈黙している。
公園から家に帰って来たのは、夜の十時前だったはずだ。それからずっと部屋に閉じ篭り、まったく同じ体勢でまったく同じように、泰斗はチョーカーだけを見つめている。そのくせ視界に入っているのはチョーカーではなく、脳裏に焼きついたひとりの少女だった。白銀の髪をゆっくりと舞わせ、少女は微笑んだ。白銀の髪を翻らせ、少女は泣いた。
少女の瞳から零れ落ちた涙だけが、今も思考の中を漂っている。
正しいことをしたのだと思う。これでよかったのだとも思う。
それなのになぜ、自分はこれほどまで後悔の念に塗り潰されているのだろうか。恐いのに。無表情で敵に刀を向けたあの少女が、これ以上無いくらいに恐いはずのに。このまま一緒にいれば、少女が少女でなくなってしまう。それを理解したからこそ、少女を突き放したのに。それなのにどうして自分は、こうも未練がましいのだろう。自らが決めたことなのだ。後悔しても仕方がない。後悔するのは筋違いだ。戦うことも少女も何もかもが恐くて、謝り続けることで己を正当化し、今までのすべてを無かったことにした。それが正しいのだと、これでよかったのだと、本気で思っていたのに。
強く、強く、肌の色が変わるほどに右手のチョーカーを握り締める。
もう手遅れなのだ。この手は非日常を手放し、日常を掴むことを選んだ。こうやって幾ら後悔したところで結末は何も変わりはしない。そんなことはもう、嫌というほどわかっている。わかっているのになぜ、まだ自分はこうして思考の中で遠ざかる少女の姿を目で追おうとしているのだろうか。ひとりにしていないで、と少女は泣いた。だけど自分は突き放し、少女をひとりにした。今さら悔やんでも仕方がない、懺悔するには遅い。自分は人間で、少女は《白の刻》で。その壁が存在する限り、この手は二度と、非日常を掴むことは無いのだろう。掴みたくても、掴んではいけないのだと思う。
膝を抱え、視線を落としたチョーカーを握り締めて、一体何度、同じ質問を自らに問いかけ、同じ答えを得たのだろう。
何度悩んでも答えは必ず、たったひとつの結論に辿り着くのだ。自分の意志とは関係無く物事は動いていき、やがて必ず悪い方向を指して牙を剥く。結局の話はそれと同じである。自分の意志で良かれと決めて動いたとしても、この非日常は必ずや悪い方向を指して牙を剥くのだ。越えられない壁がある。どう足掻いてもどう抗っても絶対に届かない果て無く高い壁。手を伸ばしても決して掴むことのできない壁のその頂上に、ひとりぼっちの籠狗は座り込んでいるのだろう。
最初から決まっていたのかもしれない。《白の刻》の契約者になったところで、無知の自分が何かしらの行動を移せるわけはなかったのである。できることと言えば、少女に向って普通に接してやることくらいだった。しかしそれも満足にできないまま、牙を剥いた非日常の前になす術無く自分は手を離して突き放した。後悔しても仕方がない、懺悔するのは筋違い、自らが選んだ道なのだ、もうどうすることもできはしない。
少女を追いかけていい資格など、自分には微塵もありはしないのだろう。
自らの惨めさがぶつけようのない怒りとなって胸の奥に巣食っている。
物音が聞こえたのはそのときだったように思う。
静まり返っていた御影家の二階の廊下をバタバタと騒々しく足音が近づいて来て、泰斗の部屋の前でピタリと止まる。伊吹彼方の辞書には「ノックをする」という言葉は存在しない。例え泰斗が連れ込んだ女の子とナニしていたとしても、彼方は何の遠慮も無くドアを開けるに決まっていた。泰斗の部屋の前で彼方が止まっていたのは一秒にも満たず、力任せに掴れたドアノブが壊れるほどの勢いで回され、眠気はまるで無く元気いっぱいの彼方が満面の笑みでドアを開け放った。
「おはよー緋真ちゃんっ!」
この時間に「おはよう」との言葉を吐けるのは、恐らくは徹夜で仕事をしている彼方以外はこの家にはいないはずである。
まだ中で緋真が寝ていたらどうしよう、との不安も彼方には存在しない。あたしが起きているのだから皆起きている、が彼方の持論だ。その持論のせいで、幾度と無く泰斗は真夜中に彼方に叩き起こされたことがある。その理由は様々で、自分のことを棚に上げて時には「ゴキブリが出た!」であり、時には「お腹へった何か作って」であり、時には「暇だからゲームしよう」であり、時には「寝過ぎると馬鹿になるぞ!」であるのだ。
彼方は部屋の中に乱入するや否や、暗い部屋のベットに歩み寄って満面を笑みを浮かべる。
「あのね緋真ちゃん、明日――ってもう今日か。今日ね、あたし仕事で出掛けなくちゃならないからさ、それ帰って来たらまたどっかショッピングに行かない? ああだいじょうぶ、もちろん支払いは泰斗持ちだから心配しないで。足りない分は出世払いで払ってもらうから。……ねえちょっと緋真ちゃん聞いてる? 寝過ぎると泰斗みたいに馬鹿に」
そこで彼方の言葉は止まった。
ベットには誰の姿も無く、いつもはソファで眠りこけているはずの泰斗は床に座り込んでいて、部屋の中は驚くほど静かで。その事実に、場違いなハイテンションだった彼方がようやく気づいた。しかし今の彼方にはまだ、違和感などという上等な感覚は無かったはずである。ただ単に、この光景を軽視していたのだろう。
だから彼方は、「緋真ちゃんは? トイレ?」と、そんな間抜けなことを言ったのだ。
質問に答えず俯く泰斗の側に腰掛け、彼方はまだどこか抜けた笑顔をしながら言う。
「それよりさ、あんたも聞いてたでしょ? 今日の夕方に緋真ちゃんを拉致するからよろしく。それからこれは彼方お姉さんからの命令です。お金はバイトか博打でもして増やしておきなさい。そうしないとあんた、絶対にいつか必ず破綻するからね」
いつもの泰斗ならば、何かしらの突っ込みがあったはずである。
しかし泰斗からの返答は当たり前のように無く、ここいらで彼方もこの部屋に充満していた違和感のようなものに気づく。
彼方は一瞬だけベットに視線を向けた後、泰斗を見つめ、それでもまだ一歩を踏み出せなくて、
「泰斗? 何、あんた座ったまま寝てるわけ?」
それでも泰斗は答えず、彼方がついに核心を突く。
「……ねえ、緋真ちゃんは?」
その問いに、一瞬だけ泰斗の心臓が大きく鼓動を打つ。
微弱な反応だったのだが、彼方は見逃さなかった。
突然に笑みを打ち消し、真剣な瞳で俯く泰斗を見据える。
「ちょ、ちょっとねえ、どうしたのよっ? 緋真ちゃんはどこ行ったわけ?」
俯いたままだった泰斗に、彼方が僅かに苛立ちの混じった声で、
「泰斗、答えなさい。緋真ちゃんは、どこに行ったの?」
答えるつもりは無かった。だけど、気づいたら答えていた。
「……出て行った」
「どうして?」
うるさいな、と泰斗は思う。
彼方には関係無いのだ。これは自分と緋真の問題で、彼方が横槍を入れるようなことではないのである。確かに彼方には緋真のことでいろいろと世話になったし、緋真をここに居候させることができたのも彼方のおかげである。それは否定しないし、それどころか感謝もしていた。でも、もうその感謝も必要無いものになってしまっている。緋真は出て行った。そしてもう二度と、ここには戻って来ない。放って置いて欲しい。何も訊かないで欲しい。今のこの状態で、彼方の相手をしているだけの余裕は無かった。自分のことだけで手一杯なのだ、頼むから余計な手間をかけさせるな。
声が棘を持っていたのが自分でもはっきりとわかる。
「カナ姉には関係無い」
「――何、それ」
「これはおれと緋真の問題だ。だから放って置いて」
束の間の静寂、彼方は言い切る。
「泰斗。今すぐ連れ戻して来なさい」
無視する。再び名を呼ばれる。
「泰斗!」
「何だよっ! カナ姉には関係無いって言」
上げた顔を、彼方に思いっきり引っ叩かれた。
女性とは思えない威力だった。不安定だった泰斗の体勢はたったの一発で弾き飛ばされ、床の上に無様この上無い格好で引っ繰り返った拍子に、右手に握っていたチョーカーがベットへと音も無く落ちた。右頬がズキズキと痛みを運んで来て、同時に驚くような熱を持っている。状況が一瞬だけ理解できず、しかし理解した瞬間に何もかもが弾け出す。不安定だったのは泰斗の体勢だけではなかった。引っ叩かれた際に、胸の奥で燻っていたぶつけようも無い怒りの矛先が見つかったのだ。
ベットに転がったチョーカーを見つめていた彼方を睨みつけ、泰斗は叫ぶ。
「カナ姉には関係無いって言ってるだろ!? イチイチ口出すんな! 何の理由も知らないくせに偉そうなことばっかり言われたら迷惑なんだよっ!」
泰斗は立ち上がり、半ば本気で彼方を殴ってやろうかと思った。
しかしそれを先回りし、彼方の両腕が泰斗の胸倉を鷲掴む。
そこから飛び出すのは、今までの彼方からは聞いたことも無いほどの低い声だった。
「ええそうね、あたしは何も知らない。今日、あんたと緋真ちゃんの間で何があったのかなんてあんたと緋真ちゃんの問題だもん、あたしが知るわけないじゃない。緋真ちゃんが何者で、どうして緋真ちゃんの髪はあんな色してて、緋真ちゃんがあんたの何なのかなんてのももちろん知らない。けどね、泰斗。何も知らないのはあんたも同じなの」
泰斗と同じように怒りの篭った彼方の瞳に、涙が滲む。
「あんたさ、緋真ちゃんがあんたのことをどう思ってたか知ってる? 緋真ちゃんがあたしに向ってあんたのことを話すときの嬉しそうな顔を知ってる? 緋真ちゃんと初めてデパートに行ったときに、あの子があんたのことを何て言ったか知ってる? そこにあるチョーカー持って微笑む緋真ちゃんは知ってる!? いつも家であんたの帰り待ってた緋真ちゃんは!? あんたのことを大切な人だって言った緋真ちゃんを、あんたが知ってるのっ!?」
怒りは目前で流された涙に呆気無く萎え、胸倉を掴んでいる彼方の手が震えている。
何も言えなくなった泰斗へ向い、それでも彼方は言う。
「……泰斗、あんたはあたしの質問に言ったでしょ? 緋真はそんなんじゃない、って。それなのにどうして、あんたは緋真ちゃんを追い出したりするの……? あれは嘘だったわけ? 何があったのかは知らないし、たぶん訊いても教えてくれないでしょうね。でもね、泰斗。……今ここで緋真ちゃん追い出したままにしてたら、あんた絶対に、一生後悔するわよ」
彼方が泣いているところを、泰斗は初めて見た。そして同時に、ここまで本気で怒っている彼方もまた、初めて見た。
彼方の言い分は正しいのだろう、と怒りの霧散した頭の中でぼんやりと思う。彼方が何も知らないように、泰斗も何も知らないのかもしれない。だけどそれでも、少なくとも自分は彼方よりかは現実を知っているつもりだった。確かにここで緋真を追いかけなければ一生後悔するのかもしれない。しかし、もしここで追いかけてたとしても後悔すると思う。なぜなら、今の自分は緋真が恐いのだから。無表情で刀を突き立てたあの《白の刻》が何よりも恐いのだから。この恐れは、無邪気に笑う緋真しか知らない彼方には到底わからないものに決まっている。
それにこっちから突き放したのだ。今さらにどの面下げて緋真に会えと言うのだろう。会って何と声をかけろと言うのだろう。彼方が嘘をついているはずはない。緋真が泰斗のことを「大切な人」だと言ったのは本当のことであるはずだ。緋真がそう思ってくれているのと同じくらい、泰斗に取っても緋真は「大切な存在」だった。それでも自分はもう、過ちを犯してしまっている。恐れに支配され、その「大切な存在」を突き放した。緋真の「大切な人」なのにも関わらず、自分は緋真から手を離してしまったのだ。今さらにどの面下げて会いに行き、何と声をかけろと言うのか。手遅れなのだ。
緋真が《白の刻》として暴走した時点ですでに、立ち上がる度胸も勇気も底を突き、緋真をひとりにしないと約束した決意も砕けてしまっている。非日常を再び掴みたいと思っていたとしても、それは、してはならないことなのだ。なぜなら、自分は戦うことを、そして緋真を、恐れているのだから。そんな自分が緋真をこの手で掴んでも、同じことの繰り返しにしかならない。今度こそ本当に緋真が緋真でなくなってしまうかもしれない。そうなってしまえば最後、今以上の後悔の念に苛まれるに決まっていた。勇気も無ければ度胸も無く、決意も砕けた腰抜けの自分に、緋真を連れ戻す資格は無いのだろう。
彼方から視線を外した泰斗へ向かい、もう一発平手が飛んできた。同じ場所をまた叩かれ、せっかく治まってきたはずの痛みと熱が再発する。痛みは拳を握らせ、熱は霧散した怒りをかき集める。なぜ自分が叩かれねばならないのか。何も知らないくせに偉そうなことを言うな。こっちの気持ちもわからないで、一方的に叩かれたままにしておかせるか。
彼方が「連れ戻せ」と怒鳴る。その口の動きを目尻の熱くなった視界で見つめ、泰斗は握った拳を開けて彼方の頬を引っ叩き返した。
乾いた音が鳴った。彼方の髪が翻り、顔がその下に隠れる。
それでももう、止まらない。怒りは言葉となって爆発する。
「このままでいたら後悔するなんてことわかってるよ! おれだって緋真を連れ戻したいに決まってるだろっ! でも駄目なんだよっ、おれじゃ緋真を連れ戻せないんだよ……っ! おれから突き放したんだ、今さらどの面下げて会いに行けって言うんだよ! ……そんなことできるなら、」
してはならないと言い聞かせ、我慢していたその一言。
「――そんなことできるならとっくの昔にやってるっ!!」
それだけ言い放った刹那、彼方の平手がまた泰斗の頬を捕らえた。
体重が左に揺らめき、頬から伝わる痛みと熱を噛み締めながら、泰斗の拳に正真正銘の怒りが篭る。今度こそ、この拳でぶん殴ってやろうと決めた。従姉弟だとか年上の女性だとかそういうのはもはやどうでもよく、この怒りをぶつけてやらないことには腹の虫が納まらない。自分の主張ばっかり訴えて人を殴っていいご身分だ、何にも知らない無知がどれだけ残酷なのかを思い知れ。
半分は彼方に叩かれた怒りで、もう半分は何も知らずに緋真と過ごしていた自分に対する憤りだったように思う。
拳を握り締めて腕を振り上げ、
そして泰斗は彼方の笑顔にぶつかった。
「……やればできるじゃん、泰斗」
彼方のつぶやきに、振り上げた拳をそのままで泰斗はどうすることもできなくなる。
「さっきのがあんたの本音でしょ。それを聞けてよかった。何もできずに泣き言ばっかり言ってるようなら本気でぶん殴ってやろうかと思ったけど、やっぱり泰斗は泰斗だね。……早く行ってやりな。緋真ちゃんはあんたを待ってるはずだから。無理じゃない。それはね、泰斗にしかできないことなんだよ」
笑う彼方が、いつもと違う彼方に思えた。
拳を下ろして俯き、泰斗は沈黙する。緋真を連れ戻したいに決まっていた。隣で笑う緋真がそこにいてくれることだけをただ願う。言うのは簡単だ。今すぐに走り出して家を飛び出し、どこかで泣いているであろう緋真を探しに行ければ、この気持ちは晴れ渡ってすべてが上手く回り出すのかもしれない。だけど、それを実行するのには想像以上の勇気と度胸と、そして今までより遥かに強い決意が必要だった。中途半端な決意で動けば、緋真をさらに苦しめる結果になると思う。
俯く泰斗の頭を彼方が軽く叩き、「迷ってる暇があるのなら早く行け馬鹿」とつぶやきながら背後に回り込んで丸くなった背に蹴りを入れた。違う場所で結ばれた怒りが少量の勇気と度胸に姿を変え、しかし決意だけはすぐには湧き上がって来なかった。立ち上がって走り出せば何も考えずに突き進めるはずである。それをわかっているのにも関わらず、やはり立ち上がって走り出すための決意が固まらない。緋真の涙が脳裏に焼きついて離れない。あの涙を拭ってやれる資格が、果たして自分にあるのだろうか。
いつかの震える髪を撫でた切なさが胸に舞い降りる。
――ひとりにしないで。
緋真はそう言って泣いていた。緋真を泣かせないと誓ったのが何十年も昔の出来事に思える。もう一度だけ、立ち上がってみようか。あの日のあの時、緋真と一緒に惣介と双劉を相手に戦ったあの瞬間のように、もう一度だけ立ち上がって、決意を固めて緋真の所へ行ってみようか。たった一撃でよかったはずだ。今も同じである。たったの一歩だけでいいのだ。その一歩を踏み出せば自分は歩き出せる。非日常を再び掴む決意ができる。緋真を泣かせないと、緋真をひとりにしないと誓った約束を、今一度だけ、奮い起こしてみようか。
決意が完全に決まったわけではなかった。それでも泰斗は見えない何かに動かれるかのようにそっと立ち上がり、ベットに座り込む彼方に背を向けてゆっくりと歩き出す。三歩だけ歩いた所で机に足を引っ掛けて転びそうになり、その際に体を走った痛みが体の呪縛をすべて開放した。どの面下げて会っていいのか、会って何と言えばいいのかさえもがわからない。それでも、約束だけを果たそうと思う。
走り出そうとした泰斗へ向い、彼方が笑う。
「泰斗。……忘れ物」
振り返った泰斗に放り投げられたものを空中で受け取り、見つめる。
十字架の形をしたチョーカーだった。緋真の、宝物。
それを握り締め、彼方に視線を向けた。
「……ごめん、カナ姉。それと、……ありがとう」
このお礼は出世払いでよろしくね、と冗談口調でつぶやき、それから彼方は「頑張れ」と背中を押してくれた。
彼方の笑顔に肯いてから、泰斗はチョーカーをポケットに突っ込んで走り出す。廊下を抜けて階段を転がるように下りて玄関へ辿り着き、下駄箱の横っ面に掛けてあった新品同様の自転車の鍵を捥ぎ取って外に出る。空には薄っすらとした紺色が広がっていて、もうじきに夜が明けて太陽が昇ることを示していた。それを視界の隅で意識しながらも駐輪場に走り込んで二日前に買ってもらったばかりの新しい自転車に駆け寄り、後輪に掛かった鍵を外してサドルに跨る。まだしっくりとこない乗り心地だったが文句を言っている暇は無く、ペダルを全力で漕いで朝靄の広がる道路へ飛び出した。
どこへ行けばいいのかはわからなかった。緋真が今、どこで何をしているのかもわからない。それでも、行かなくてはならないのだ。心当たりは無かったが、緋真がそう遠くへは行っていないような気がなぜかして、それを頼りに近場から虱潰しに探し回った。早朝から道路の真ん中で叫ぶのは近所迷惑だという考えを根こそぎ吹き飛ばし、泰斗は喉が枯れるような勢いで緋真の名を呼び続ける。
早朝の風が涼しかったのは最初の五分だけで、それを過ぎた辺りで全身から噴き出す汗に体力を奪われて一度だけ自転車を停めた。その場所が偶然だったのか必然だったのかは知らないが、泰斗が自転車を停めたのは昨日緋真と訪れた公園の前だった。停めた自転車を再び走らせて公園の敷地内に入り、無理矢理ハンドルを切って木々の隙間を抜け、小川に辿り着いたときに体力の限界がきて、噴水の側にあった水道の水を吐きそうになるまで飲んだ。
口元を手荒に拭い、公園にはまるで人気が無いことに気づく。それと同時にここには緋真がいないとの確信が沸き上がり、また自転車を走らせた。公園から出た際に新聞配達屋のバイクとぶつかりそうになって、気をつけろと叫ぶ親父に頭を下げながら前だけを見据える。来た道を引き返して喉が痛くなっても構わずに緋真の名を呼び続け、太股が悲鳴を上げるが泰斗は止まらない。
家を飛び出してどれくらい経ったのかはわからなかったが、しかし紺色の空に明るみが射して来たところを見るとそれなりに時間が経っているのかもしれなかった。夜明け前に緋真を見つけたいと思っていたのだが、このままで探し続けてもいつまでも緋真を見つけ出せないのではないかという不安が広がってくる。もしかしたら最悪、緋真はもう惣介のいう《箱庭》に連れ戻されているのかもしれない。本当にそうなっていたのなら幾ら探したとしても緋真を見つけるのは不可能である。そんな諦めにも似た思考が一瞬だけ湧き上がるが、それを意志の力で捻じ切って捨てた。
ついに夏の太陽が空の彼方にその姿を現す。それを見計らっていたかのようにセミが鳴き始め、突如として気温さえもが上がったような気がした。勢いを増して噴き出す汗を拭うこともせず、荒い息をそのままに自転車を漕ぎ続ける。が、人間にはやはり限界というものが存在するらしい。喉は血が出るのではないかと思うくらいに痛くて、太股の感覚はすでに無かった。どうしようもなくなり、泰斗は自転車を停めて白みを帯びた青空を見つめる。後悔ではなく悔しさが押し寄せてくる。どうして緋真を見つけることができないのか。緋真がどこにいるのかが、まるでわからなかった。
緋真の行きそうな場所の見当がつかない。緋真と訪れた場所などあの公園くらいしか無い。しかしあの公園に緋真はいなかったはずである。考えろ。緋真をいつまでもひとりにさせておくな。今まで探した所には緋真はいなかった、それならばどこへ行ったというのか。もし自分が緋真の立場ならどこへ向う? どこへ行こうと思う? どこがいちばん、印象に残っている――?
刹那。緋真がいるであろうその場所が、たったひとつだけ頭の中に浮かんだ。
「――そうか、」
泰斗はひとりつぶやく。
停めていた自転車の向きを力任せに変え、噴き出す汗も痛む喉も感覚が無い太股も無視してペダルを漕ぎ、泰斗は人気の漂い出した道路を走り抜ける。
まだ探していなくて、そのくせ最も印象に残っている場所。泰斗がそうなのだから、恐らくは緋真に取ってもそうなのだろう。非日常が始まりを告げたあの場所に緋真は必ずいると思う。
泰斗が緋真の契約者となった、名も知らない神様が祭られている神社。
泰斗と緋真が、初めて出逢った場所――。
スタンドも掛けずに自転車を乗り捨て、息も絶え絶えに落ち葉が掃除もされずに散乱する石段を上り、目前に広がった大きな鳥居と地面に埋め込まれた石畳と古ぼけた神社を視界に収めながら悲鳴を越えて絶叫する足を動かす。走るだけの体力はもう残っていなくて、それでも気力を振り絞って鳥居を抜けて石畳を踏み締め、神社の柱に手をついて裏手に回り込む。
そこに、味気無い神社の壁に凭れ、膝を抱えた腕に顔をうずめている白銀の髪の少女がいた。
言い表せない安堵と共に、どこか悲観な気持ちになった。息を僅かに整えながら一歩を踏み出し、しゃがみ込む少女の隣に腰掛けた。泰斗の存在に気づいているのかいないのか、少女は顔をうずめたままぴくりとも動かない。泰斗は何も言わずに朝日の射す空を見上げた。荒い息はそう簡単には落ち着かず、急に止まったせいで太股がついに硬直し始める。もはや立ち上がって歩き出すだけの気力は本当に底を尽きていた。でも、それでもいいのだと泰斗は思う。
なぜならもう、この少女を見つけることができたのだから。
視線は空へ向けたまま一瞬だけ悩み、泰斗はいつかの緋真のようにこう言った。
「……なにしてるの?」
随分と間が経ってから、緋真はぽつりとつぶやく。
「……家出……」
何かのドラマで憶えた台詞なんだろうな、と泰斗は思った。
予想していなかった台詞に少しだけ苦笑する。
「家族が心配するぞ」
「家族なんて、いないもん……」
僅かに考えてから、泰斗は言い方を変えた。
「大切な人が心配してる」
ぐずっ、と緋真が鼻をすする。
「……大切な人なんて、いないもん……」
泰斗は大きな息を吐き出す。
手を離したのも、突き放したのも、この自分である。それでももう一度だけ、歩み寄りたいと思う。できるのならもう一度だけ、約束をしたいと思う。緋真を泣かせたくはなかった。緋真をひとりにさせたくはなかった。そんな誓いを破ってしまった自分が言うには、虫のいい話なのかもしれない。だけどそれが許されるのなら、今度こそ約束を誓い、守り通したいと願う。
神社の木の幹に止まっていたセミが青空に舞い上がる。
「……許してくれ、なんてことは言わない。だけどもう一度だけ、チャンスをくれないか」
返答は無かった。それでも泰斗は続ける。
「今度はもう、絶対に緋真を裏切らない。……本当は戦うのも恐いし、昨日の緋真も恐い。けど、それでもやっぱり、おれは緋真を泣かせたくないから。緋真をひとりにさせたくないから。償いをさせて欲しいんだ。今度は絶対に、おれは緋真を裏切らない。緋真を、緋真だけを守っていきたい」
舞い上がったセミが再び戻って来て、さっきとは違う場所に止まる。
顔を伏せたまま、緋真が小さな声で問う。
「……泰斗は、わたしと……戦ってくれるの……?」
戦うのは恐い。その恐れは今も変わらない。
しかし緋真が緋真であるのなら。自分が戦うことで緋真が側にいてくれるのなら、もう犠牲は問わない。最初に、緋真と共に戦ったあの瞬間にも思ったはずだった。自分が痛いように、緋真もまた、痛いのである。辛いのも苦しいのも自分ひとりではない。ここで戦うことを拒否するのは逃げである。女の子ひとりを戦わせて背を向けるのは腰抜けの証である。勝てるかどうか、の話ではないのだ。戦うか否か。信じれる者と戦うかどうかが、今はそれだけが大切なことなのだと思う。
空を見上げ、拳を握り、泰斗は言い切る。
「戦う」
「……死んじゃうかも、しれないのに……?」
木に止まったセミが鳴き始めた。
あの日の屋上で惣介から聞いた話を思い出す。
「おれが死ぬのなら、緋真も死ぬんだろ。強がりなのかもしれない。でも、それでもいいと思う。もし負けたとしても、それはひとりじゃないから。おれはずっと緋真と一緒にいるよ。緋真をひとりにさせたくない」
本当に死ぬかどうかはわからない。惣介の話がすべて真実だったとするのなら、泰斗か緋真のどちらかの鼓動が消えれば両方の鼓動が消えるのであろう。死ぬのが恐くないかといえば、それ以上の嘘は無い。人間誰でも死ぬのは恐いに決まっていた。どれだけ覚悟を決めたところで、死ぬ間際になれば取り乱すに決まっていた。恐らくは自分もそうなのだろう。死ぬのは恐い、恐いけど。
緋真をひとりにさせる方が、今は恐かった。
この手をもう、離したくはないのだ。
「信じて欲しいんだ。おれの手をまた、緋真に掴んでもらいたい。時間がかかるかもしれない。緋真はそれが恐いかもしれない。でも、約束するから。おれは緋真を裏切らないって、今度こそ本当に、約束する」
白銀の髪が震えている。
俯いた緋真の頭をそっと撫で、それでも泰斗は青空を見つめる。緋真が隣で笑っていてくれればそれだけで心地良かった。隣で微笑む緋真が愛おしかった。緋真には泣いて欲しくない。無邪気に笑う緋真が好きだった。この少女を守るためならどんなことでもしよう。例え自分の身が危険に晒されようと、それでもこの少女を守っていこう。それが今、自分にできる唯一のことだと思う。
朝日が顔を覗かせる夏の青空の下で、白銀の髪の少女は膝を抱えた腕に顔をうずめながら小さく震え、同じ言葉を何度も何度も繰り返した。それは緋真を束縛している呪縛だったのだと思う。緋真の中に存在する十五年という暗闇の記憶。牢獄に閉じ込められてひとりで過ごしてこなければならなかった虚無の世界。その記憶が無くなることは無いのだろう。ならば、少しでも緋真が笑えるようにしてやりたかった。暗闇の記憶が思い出せなくなるくらいに、光の記憶を緋真に与えてやりたかった。
恐かった、と泣く緋真に、光を見せてやりたかった。
戦うことが恐かった。
ひとりでいるのがずっと恐かった。
わたしがわたしでなくなるのが恐かった。
泰斗がもう来てくれないのかと思って恐かった。
……信じても、いい?、と緋真は言う。
涙で濡らした顔を上げた緋真を見つめ、泰斗は決意を固めた。
ポケットに手を突っ込んで彼方から受け取ったチョーカーを取り出し、緋真へ差し出す。緋真は一瞬だけ驚いたような顔をした後にそれをそっと受け取って胸に抱き、涙を流しながら、ありがとう泰斗、とつぶやく。胸に抱いた大切な大切な宝物をその手に、緋真は泣きながら微笑む。愛おしかった。この笑顔が見たかったのだと泰斗は思う。一度は手放した非日常だった。だけどやはり、自分はこの少女と共にいたいのだ。日常はずっと昔から終っていた。緋真と初めて出逢ったあの日から、この場所で、すべては始まっていたのだろう。
泰斗の視線と緋真の視線が重なり合う。
言葉は必要無かった。やるべきことはひとつに決まっていたのだから。泰斗は腕を伸ばし、緋真はその腕に自らの手を添えた。泰斗の右手が緋真の胸に押し当てられ、交わり合った箇所から互いの鼓動が一つに結合される。焼けるような熱が吹き抜けた瞬間、それはすぐさますべてを包み込むようなぬくもりに姿を変える。泰斗の右手が光に飲み込まれて緋真の胸に入り込み、そこにある《白の刻》の核に指が触れた。
自らの意志でそれを掴むのだ。緋真を受け入れよう。緋真と強くなろう。緋真と一緒に戦おう。
緋真と共に、生きていこう。
泰斗の手が《白の刻》の核を掴む刹那の一瞬、
突如として緋真の首に漆黒の首輪がはめ込まれた。状況を理解する暇も無かった。結合されていた泰斗と緋真の鼓動が強制的に遮断され、光に包まれていた右手が空間に弾き飛ばされる。漆黒の首輪がはめ込まれた緋真が恐怖に塗り潰されたような表情を浮かべている。差し伸べられた緋真の手を、弾き飛ばされた泰斗の右手が無意識の内に掴もうとした。が、視界が影に閉ざされたと思った瞬間には泰斗の体が神社の壁に激突し、背中から走った激痛が脳髄を駆け巡る。
虚ろな視線の先で、漆黒の衣類を纏った数人の籠狗を見た。四人の籠狗が緋真を無理矢理に押さえ込んでおり、背後に回り込んでいた一人が漆黒の首輪に手を添えて何事かをつぶやく。それと同時に緋真の体が弓形に反り上がり、意識を失ったかのようにぐったりと倒れ込んだ。身動きひとつしなくなった緋真を抱え、五人の籠狗が一斉に神社の裏手から姿を消す。叫び声すら上げれなかった。地面にうつ伏せに倒れ込んでいた泰斗が立ち上がろうと体に力を入れた刹那、
それを残っていたもう一人の籠狗に踏み押さえられた。
「――御免」
老人のような声だった。
その声を最後に、首筋に衝撃が走って泰斗の意識が暗闇に落ちた。
泰斗が意識を取り戻したとき、そこにはもう誰の姿も残ってはいなかった。昨日の公園のように人の気配は微塵も感じさせず、数人の籠狗の姿も辺りには無く、セミの鳴き声さえも聞こえてはこなかった。そしてそこには、当たり前のように緋真の姿もなかった。御影泰斗をひとり残して、神社の裏手からは生き物は誰ひとり何ひとつとして存在しない。
理解したときにはいつも手遅れだった。今回も同じである。緋真が籠狗に連れ去られたのだと気づいてももう遅い。何もできなかった。緋真を守るのだと、緋真をひとりにはしないのだと、ついさっき決意したばかりだったのに。緋真の問いに答えたばかりだったのに。緋真と共に生きていこうと決めた次の瞬間には、その道は呆気無く閉ざされてしまっている。自分の無力さを呪っても始まらない。この状況を嘆いても意味は無い。やるべきことはひとつしか思いつかなかった。緋真を守ることが、自分にできる唯一のことである。
頼れる存在など、ひとりしか思い至らなかった。
気を緩めれば己の無力さに涙が滲む気持ちを必死で抑え込み、首筋の痛みを噛み締めながら神社の裏手から抜け、石段を駆け下りて横倒しにされていた自転車を引っ張り起こす。サドルに跨って無我夢中でペダルを漕いだ。赤信号だろうが何だろうが無視して突き進んだ。萎えそうになる意志が湧き上がってくる度に大声を叫ぶことでそれを捻じ伏せ、噴き出す汗も荒い息も感覚が無くなる太股も無視して道路を暴走する。
視界に裏山が入ってくるまでの道程など、まるで記憶に残っていない。何かの漫画であるような盛大な門の前に自転車を捨てるように置き去り、開けっ放しにされた大門から広大な敷地の中へ足を踏み入れた。いつかの記憶を頼りにすれば、この中には黒いスーツを着たおっかないお兄さんが何人もいたはずだったのだが、今はそんなものに恐れを為している暇は無い。整えられた庭園を駆け抜け、風格漂う巨大な屋敷の前に辿り着くまでに三分以上かかったような気がする。
見上げれば見上げるほど馬鹿でかい家である。こんな所に住む奴は、どうせ性格が悪いに決まっていた。戦闘狂で、人が痛がっているのにも関わらず何の気にも止めずに行動を移す奴だ。しかしそれをわかっていてもなお、泰斗が縋りつける人物はこの家の者を除いて他にはいなかった。協力してくれる可能性は限り無く低いと思う。もしかしたら追い返されるかもしれない。それならそれでもいい。ただ、訊くことだけは訊かなければならないのだ。協力してくれないのならひとりで乗り込むまでだ。緋真を連れ去った奴らを相手に、真っ向から戦ってやる。
どつけば壊れそうな、しかしどついても絶対に壊れないであろう分厚い玄関のドアを殴るようにノックした。呼び鈴を探しても無かったところを見ると、こうするのが正解だと思う。早朝の静まり返った家の中に、泰斗のノックの音だけが響き渡っている。早く出て来い、と心の中で叫ぶ。こんな所で道草を食っている暇など微塵もありはしないのだ。一刻も早く緋真を連れ戻さなければならない。緋真をひとりにさせておいてはならないのだ。
何十回目かのノックの後に、突如として分厚いドアが叩きつけられるように開いた。
「うるせえなっ!! 一回やりゃわかるんだ殺すぞッ!!」
いつも通りに煙草を咥え、東雲惣介が実に不機嫌そうな顔で現れる。
しかし泰斗を見るとすぐに怪訝な顔をして、煙草の煙を吐き出しながら、
「……なんだ、お前か。何の用だ」
息を整え、泰斗は言った。
「緋真が、連れ去られた」
「――なに?」
惣介の表情が曇り、咥えていた煙草を食い千切るかのように噛み締める。
それも束の間、くつくつと惣介が笑い出してつぶやく。
「……やってくれるぜ、あの糞爺。――……で? お前はおれにどうしろと?」
「《箱庭》がある場所を教えてください」
惣介は考えもしなかった。
「断る。それに教えたところで、東雲と籠狗以外はあの門は潜れない」
「だったら、」
手段を選んでいる暇は無かった。頼れる存在は、この男以外は有り得ない。
泰斗は拳を握り、頭ひとつ分大きい場所にある惣介の眼光を見上げる。
「――手を貸してください。緋真を、連れ戻したいんです」
煙草を玄関口に落として踏み潰し、惣介が笑う。
「馬鹿言え。おれがお前を手伝って何の意味があるんだ」
言い分は最もだと思う。だけど引き下がることはできない。
緋真を守るためならどんな犠牲だって払ってやる。戦うことは恐い。それでも緋真をひとりにさせておくことの方が今は何倍も恐いのだ。緋真と共に戦うと約束した。そして緋真はまた、自分を信じてくれた。緋真を裏切ることはできない。もう二度と、緋真を掴んだこの手を離したくはない。例えこの身が危険に晒されようとも、緋真が隣で微笑んでくれることだけをただ願う。恐れを勇気と度胸に変え、この一歩を踏み出さなければ何も始まりはしないのだ。
泰斗は言う。
「もし緋真を取り戻せたら、おれは貴方と本気で戦う」
「……あん?」
「おれに『もう一度戦え』と言ったのは貴方だ。その約束を果たす」
研ぎ澄まされた惣介の眼光が泰斗の瞳を真っ向から見据える。
やがて惣介が泰斗から視線を外し、何事かを考えるような素振りを見せた。しかしその時間さえもが今の泰斗には勿体無く、掴みかかって早く決めろと叫んでやりたい衝動を必死に堪えて我慢する。どこからともなく響いていたセミの声に混じって聞こえた、それはそれで楽しいかもしれねえな、というつぶやきを泰斗は確かに聞いたはずである。
そして突如として伸びて来た惣介の手に胸倉を掴れ、至近距離から睨みつけられた。
「……今の言葉、忘れるんじゃねえぞ」
睨み返すかのように泰斗は肯く。
交渉成立だ、と惣介は言う。
「双劉!」
その名が叫ばれた刹那、
「――はい」
「うわっ、」
気配はまるで無かった。いつの間にか泰斗の背後に舞い降りていた蒼く長い髪を持つ巫女少女に思わず声を上げていた。驚いて振り返っている泰斗など視界に入っていないかのように、双劉の瞳は真っ直ぐに惣介だけを見つめている。その視線の先で惣介は実に楽しそうに口元を歪ませ、どこからともなく取り出した煙草をまた口に咥え、ライターで火を点けながら双劉を見つめる。
「話は聞いていたな?」
「はい」
吐き出された煙が泰斗の鼻を突く。
「おれはこれからこいつと一緒にお前の故郷を叩く。……反論はあるか?」
そこで泰斗は、今まで無表情を貫き通していたはずの双劉の表情の変化にしばし言葉を発せなかった。冷徹な無表情しか浮かべなかった蒼い髪を持つ籠狗。緋真と同じ《蝕の刻》の内のひとり、《蒼の刻》。この少女は緋真とは違う存在なのだと心のどこかで思っていたのかもしれない。だけど、わかった。いや、わからされたという方が正しいのかもしれない。この少女もまた、緋真と同じひとりの女の子に他ならないのだ。
惣介を見つめながら、双劉が綺麗に微笑む。
「――惣介さんの望むままに」
煙草を咥え、惣介は双劉を見つめ返して笑う。
「久しぶりの全面戦闘だ。遠慮するなよ、双劉」
「はい」
惣介と双劉を敵に回せば、これ以上恐い連中はいないのではないだろうかと思う。実際に戦ったことがある泰斗から言わせればなおのことだった。しかしこうして、形は歪だがそれでも手を組むともなれば、これ以上頼れる連中もそうはいないはずである。このふたりは、紛れも無い最強の助っ人だった。
惣介の視線が泰斗へ向けられる。
「もう後戻りはできねえぞ。覚悟は、出来てんだろうな?」
もう一度肯く泰斗を満足気に睨みつけてから、惣介は実に、実に嬉しそうに笑った。
「あの糞爺に上下関係はっきりと思い知らせてやるいい口実が出来たぜ」
目的はまた違うが、目指す場所は同じだ。
恐れを捻じ伏せ、拳を握り、泰斗は決意を決めた。
思うことは、ひとつだけ。
緋真を、連れ戻す――。
「ひさなの幻想歌」
――しゃん。
太陽の光が届かない洞窟の深淵。
暗闇が支配する洞窟に足を踏み入れ、進もう。電気の点いていない暗い部屋の中に放り出されたとしても、人間の目は時間が経てばある程度のものは見えるようになる。が、それは少量の光があってこその現象だ。本当の闇の中に一度入れば最後、慣れれば見えるなどという次元の話ではなくなる。漆黒が充満するその世界の光景を、高々人間程度の目が捉えられるはずはないのだ。しかしそれでも、前に進もう。
――しゃん。
一体どれだけ歩いたのかはわからない。それでもやがて見えてくるのは、朱色の光である。
朱色の光に照らされ、ようやく漆黒を彷徨っていたはずの視界が十分に保てるようになる。改めてこの洞窟の中を見てみよう。太陽の光は届かず、生き物の気配さえも感じ取れない闇の世界。そこに射す微かな光に照らされて輝くのは、洞窟の岩に充満した少量の水滴。下手をすれば簡単に頭をぶつけてしまいそうなほど天井は低く、それに加えてそこからは鍾乳石が垂れ下がり、一定の間隔を隔てて滴り落ちる雫の音が洞窟に響き、いつまでも消えない残響として渦巻き続ける。
――しゃん。
そしてそんな音に紛れて、小さく響き渡る鉄の音色。
もう少しだけ、進んでみよう。
太陽の光も届かないそこを照らすのは、一見しただけでは数え切れないほど突き立てられた蝋燭の光だ。太陽の光同様に、風の咆哮も届かない洞窟の深淵の中に存在する幾百本の蝋燭が消えることなく脆く儚く、壁に沿って半円を描くかのように命の灯火を焚いている。鍾乳石から滴り落ちた雫が蝋燭の半円の中心部に落ち、そこに無造作に置かれていた銀色の鎖を濡らす。鎖の出所を探ろう。鎖の片方は洞窟の壁に到達しており、人間の腹くらいになら簡単に風穴を開けれそうなほど鋭い杭で完全に固定されている。
――しゃん。
その音色は、鎖が地面と擦れ合う度に生まれていた。杭で固定されたのとは逆側の方に視点を移す。
そこに、ひとりの少女が膝を抱えて震えている。
本当の闇にあってもなお輝くであろう白銀の髪を持ち、染みひとつついていない巫女装束を身に纏い、首には白銀と対立するかのような漆黒の首輪がはめ込まれている。鎖はその首輪に繋がれており、鎖の長さが少女の動ける範囲を示していた。しかし少女に動こうとする気配は微塵も無く、小さく震えて何事かをつぶやき続けている。蝋燭の灯火が少女をただひとり、照らしている。鍾乳石から滴る雫の音と鎖が擦れて鳴る鉄の音色だけが洞窟に溶け込むかのように鳴る。
漆黒の世界で奏でられる、唯一の音色に重ね合わせ、
――少女は、歌う。
心の中で、少女はたったひとりで、幻想を歌う。
ここから出たい。助けて欲しい。光を見たい。
そして何より、一緒にいたい。信じられる大切な人と、いつまでもいつまでも、一緒にいたい。
少女は、幻想を歌う。
そうして、少女はつぶやき続ける。
――……泰斗……――
◎
一台のバギーがイカれたエンジン音を吐き出しながら猛スピードで舗装されていない、轍さえも残っていない獣道を突き進む。運転手がハンドルを強引に捻じ曲げる度にシートから尻がズリ落ちそうになる。剥き出しにされた車体のパイプに掴っていないと一瞬で振り落とされるような気がする。森の手前に差し掛かった辺りから視界に次々と飛び込んでくる木々が出鱈目な速度で背後へ消えていく。しかしそれを追って後ろを振り返ることができない。振り返ったその瞬間に振り落とされるのではないかと本気で思う。
何なら運転させてやろうか腰抜け、と惣介は煙草を咥えた顔で泰斗をサイドミラー越しに見つめる。
冗談ではなかった。そんなことを言っている暇があるのならしっかり前を向いて運転しろ。そう言いたいのは山々だったのだが、口を動かせば上下に激しく揺られるバギーの反動で舌を噛みそうだった。ジェットコースターに乗っているようなものである。唯一違うところと言えば、それは安全性の問題だ。ジェットコースターは何かトラブルが起きなければ安全である。しかしこれは違う。惣介の腕にすべてが懸かっている。何かひとつでも歯車が狂えばその時点で木に激突して大破するだろう。振り返ることもできなければ目を開けていることもできない。恐過ぎて死にそうだった。
どうしてこんなことになっているのかと言えば、発端は惣介の一言から始まる。
「質問する。お前は一刻も早く行きたいか、それとものんびりで行きたいか」
もちろん一刻も早く行きたい、と返答した。が、今はその返答を返した自分を呪う。
惣介は僅か数秒で身支度を済ませ、指先でくるくると車か原チャリのキーらしきものを回して屋敷の横に回り、閉ざされたシャッターを開け放った。そこにあったのは、埃を被っていた一台の古ぼけたバギーである。キーは車のものでも原チャリのものでもなかった。埃を被っていたくせにバギーは一発でエンジンの息を吹き返し、運転席に惣介が乗ってその隣に双劉が座り、泰斗だけが荷物でも置くような場所に無理矢理押し込まれた。
「掴ってろよ。死んでも知らねえからな」
その言葉の意味を泰斗が聞き返すよりも速くに、惣介はバギーのアクセルを開けた。
振り返れもせず目も開けられない泰斗の前で、惣介はゲームセンターの車のゲームの如くにアクセルを踏みっぱなしでバギーを走らせ、それなのにも関わらず双劉は無表情で前だけを見つめている。このふたりは正真正銘の化け物なのではないのか、とバギーに乗ってから泰斗は一体何度思ったのだろう。
狂った運転手が操作する、狂ったバギーがイカれたエンジン音を吐き出して斜面を駆け上る。
泰斗は惣介が車の運転免許を持っているのだと信じている。そう信じないことには、とてもじゃないが正気を保てそうになかった。しかし実際は、惣介に車の運転免許は無いのである。一応十八歳の惣介は車の免許を取れるのだが、面倒だからという理由で教習所には通っていない。それにここでなら免許を持たずとも運転はできる。なぜなら、この辺り一帯はすべて東雲の私有地なのだから。だからナンバープレートのついていないバギーは我がもの顔で突き進むのだ。
タイヤが斜面に乗り上げる度に恐ろしいほどバギーが傾き、パイプを掴んでいる泰斗の手に懇親の力が篭る。しかし数秒前から右手の感覚が曖昧になってきているのがはっきりとわかった。このままこの地獄の走行が続けば近い内、それも極数分で命が尽きると思う。当初とは別の理由で一刻も早く目的地に着いて欲しいと心から願っていた。
やがてバギーが見えない壁にぶつかったかのように急停止する。目を瞑っていた泰斗にしてみれば放り出されたように思えて、気づいたときには体重が前に滑り出していてパイプを掴んでいた右手が重みに耐えかねて離れた。前の運転席と助手席の間にかなりの勢いで突っ込んだ際に頭をぶつけ、景気のいい音と共に少しばかり夢の国を歩いていた。
「遊んでねえで早く降りろ」
惣介のそんな声で泰斗は現実に引き戻される。
右手でぶつけた頭の箇所を摩りながら身を起こし、ぼやけた視界で辺りを見回す。
見渡す限りに木々しか広がっていないような場所にバギーは停められていて、その側にいつの間に降りたのかわからない惣介と双劉が立っており、そして泰斗はひとりでバギーの荷台に座り込んでいる。急に恥ずかしくなってバギーから降りようと思い立ち、体を起こした瞬間に力が抜けた。惣介の無茶苦茶な運転のせいで足が震えていたのだと理解したときには遅かった。泰斗の視界は上から下へと落ちて落ち葉の広がる地面に、
落ちなかった。空中で体が停滞している。体が支えられているのだと気づくまでにかなりの時間が必要で、半ば狼狽しつつ支えてくれた惣介に顔を向けて礼を言おうとした。が、なぜか惣介は泰斗から離れた場所に立って煙草を吸っている。その手は胸の前で組まれていた。つまりは、泰斗を支えているこの腕は惣介のものではないということだ。まさか幽霊の手を借りたのではないかと一瞬だけ焦った後に、泰斗は自らを支えてくれたのが惣介でも幽霊でもなく、双劉だったことにようやく気づいた。
双劉は変わらずの無表情だった。
「だいじょうぶですか?」
「え、あ、――はい。だいじょうぶ、です」
少し考えれば双劉は泰斗より年下であるのだから敬語を使わなくてもよかったはずなのだが、狼狽していた思考に双劉の無表情はいつもより大人びて写り、無意識の内に敬語を使っている自分がいた。
双劉の腕から離れて地面に立ち、やっと震えの治まった足を見下げて初めて、泰斗は生きていることがこれほどまでに素晴らしいのだと実感する。そんな馬鹿げたことを考えていた泰斗を一瞥し、惣介が面倒臭そうに言う。
「お前に言っておかなくちゃならないことがある」
視線を向けた泰斗を見返し、惣介は何かをこっちに放り投げた。
空中で掴み取ったそれは、僅かに錆びついた鍵だった。
「《白の刻》を拘束してる首輪はそれで離せるはずだ。もしものために造っておいたスペアだったんだが、まさかこんな状況で使うとは思ってもみなかった。それはお前にくれてやる。それを無くしたら《白の刻》は連れ出せないと思っておけ」
その言葉にしっかりと肯き、泰斗は受け取った鍵をポケットの奥底に捻じ込んだ。
惣介が咥えていた煙草を木の幹に押しつけて火を消し、
「それからこれは忠告だ。《箱庭》の中に入ったら何があっても、お前は絶対に後ろを振り返るな」
意味がわからず、
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味に決まってるだろうが。おれと双劉で《白の刻》までの道を作ってやるから、お前は何も考えずにそこを進めって言ってんだ。お前が格下の雑魚に気を取られる意味はねえんだからな」
何だかよくわからない忠告だったが、振り返ってはならないのだということはわかった。
また肯く泰斗から視線を外し、惣介は拳を握る。
「ちょっと下がってろ。これから門を開く」
門って何ですか、と泰斗が訊くより速くに惣介が行動に移す。
握った拳を落ち葉の広がる地面に叩きつけ、それまでには無かった光を瞳に宿らせ、口元を楽しそうに歪ませた惣介がつぶやくように詠唱する。
「血の契約者、古の誓いの下に東雲が命ずる、《箱庭》へ続く異界の門を呼び起こし、我の前に姿を示せ」
束の間の沈黙、その言葉に何の意味があるのかと不思議に思った刹那、
泰斗は、地面に打ちつけられた惣介の右拳に浮かび上がった赤色の痣のような紋章を確かに見たと思う。どこか古代の遺跡の壁画に書かれていそうな理解不能である文字のような、それは核たる意味を持っているのだがこの世にはもはやそれを解読できる者は存在しないのではないだろうかと思わせる、歪な鎖のような形をした赤い痣だった。一瞬の出来事だったのでそれ以上のことはわからなかった。赤い痣から迸った真紅の光が泰斗の視界を真っ赤に染め上げる。
森の木々を支配して一挙に広がった真紅の視界に視線を彷徨わせ、しかし結局はどこを見ても同じだったので再び惣介に視線を戻す。戻した瞬間に地震のような巨大な揺れが巻き起こって空間を駆け抜けた。何が起こったのかわからずに混乱する泰斗を容赦無く揺れが襲い、上下に揺さ振られる感覚が足元から体のバランスを破壊し、危うく転びそうになったところをまたしても双劉に助けられた。この揺れの中にあってもなお双劉は微塵もバランスを崩してはおらず、支えた泰斗に向って無表情な瞳が「だいじょうぶですか」と問う。どっちが年上でどっちが年下なのかまるでわからなかった。情けなさに苛まれて双劉から慌てて離れ、何とか自らでバランスを整えようとする。
始まったのと同じくらい唐突に振動は止み、空間を支配していた真紅の光が惣介の右拳に収縮された。響き渡った惣介の怒号のような声と共に収縮された光は一発で爆発し、打ちつけられた拳の真下から何かが姿を現す。赤色をした巨大な何か。地面から這い出た何かはたちまちにその大きさを増し、あっと言う間に見上げるほどの高さにまで達した。惣介が満足気に笑い、拳を引いてゆっくりと立ち上がる。
泰斗の視線の先にあるそれは、鳥居だった。神社にあるものとまったく同じものが、何も無かったはずの地面から突き出てきたのだ。しかも鳥居の柱から内部が、まるで水面のように揺らめいている。そこから向こう側を見つめてもぐにゃぐにゃと歪んで見えてしまい、自分が水の中にいるのではないかという錯覚を運んでくる。異次元へ繋がる扉みたいだ、と泰斗は思った。そしてそれは、強ち外れた思考でもなかった。
籠狗の封印される《箱庭》に続く異界の門。それが、この鳥居である。
「――これで本当に、後戻りはできねえぞ?」
惣介がこちらを見て挑発的な笑みを浮かべる。
真っ向から睨み返す。
「最初から後戻りする気はないです。緋真を連れ戻す。それだけですから」
上等な心構えだ、と惣介は笑った。
目前に佇む異次元へと続く鳥居を見つめ、泰斗は拳を握る。
この向こうに、緋真がいるのだ。緋真を泣かせないと誓った。緋真をひとりにさせないと約束した。その誓いと約束を今、決断と共に果たそう。この先に足を踏み入れれば、もしかしたら無事に帰って来れないかもしれない。戦うことになるかもしれない。本音を言えばやはり、その恐怖は胸の中にある。だけど、その恐怖よりも、緋真をひとりにさせておくことの方が今は何倍も恐いのだ。掴んだ緋真の手を、もう二度と離したくはない。
泰斗が一歩を踏み出そうとしたとき、惣介がそれを制するかのように言う。
「何か質問があれば今の内に聞いておく」
そう言われて、ふと脳裏を過ぎる質問があった。
「あの、」
「なんだ?」
「惣介さんは、こんなことしてだいじょうぶなんですか?」
この男は仮にも籠狗の封印を任されている東雲家の、それも現当主なのだ。
そんな人物がこんなことを行って果たして無事でいられるのだろうか。現当主だから何とかなる、などとそういう問題ではないような気がする。もしかしたら何かしらの罰を受けるのかもしれない。惣介が自ら協力してくれるのはやはり有り難いが、しかしそれでもし何か面倒なことになれば少しばかりの罪悪感が芽生える。厄介事に惣介を巻き込んだのは自分なのだ。そこは心配になる。心配になるのだが、惣介は別段気にする様子も無く、それどころか逆になぜか嬉しそうな顔をした。
「気にすんな。どうとでもなる。お前の気にすることじゃねえさ」
あの爺を殴れるんなら安いモンだ、というつぶやきは小さ過ぎて泰斗には聞こえない。
泰斗はそんな惣介から一瞬だけ視線を外して双劉を見つめ、
「それからもうひとつ」
「あん?」
本番前の、一種の度胸試しである。
「――双劉はどうして、巫女装束なんて着てるんですか?」
奇妙な沈黙の後、惣介が盛大に笑った。
答えは予想していたもののひとつだった。
「《蝕の刻》だからって理由もあるが、半分はおれの趣味だな」
笑う惣介の隣で双劉が少しだけ呆れた顔で苦笑している。
やっぱりか、と泰斗は思う。緋真も最初に出逢ったときは巫女装束を纏っていた。それには籠狗だからとか《蝕の刻》だからとかの理由があるのではないかと思っていたが、こっちの世界にいるのに着ている理由が無かった。つまりは双劉が好んで着ているのか、或いは着せられているのか。答えは後者と出た。が、呆れた顔で苦笑しているのにも関わらず双劉の表情には拒否の色は見えない。双劉もまた、好んで巫女装束を着ているのかもしれなかった。
一頻り笑い終わった惣介が泰斗を見やる。
「それで? 質問はこれで終わりか?」
泰斗は畏まる、
「質問ってわけじゃないですけど、」
「なんだよ?」
「……ありがとうございます、手伝ってくれて」
「勘違いすんな」
惣介は真顔で言っていた。
「これは取り引きだ。これが終ったら、お前はおれと全力で戦うんだ。それを忘れるなよ」
忘れたわけではない。こっちから持ち掛けた話なのだ。だけど今は、それでも。
ありがとうございます、なのだ。
「話はこれくらいでいいだろ。そろそろ行くぞ」
惣介の右手が、目前の鳥居に触れた。そこから放射線状に波紋が広がり、向こう側の光景が歪む。本当に水面みたいな現象だった。楯のプールがそこにあるのではないかと本気で思う。しかも水面に入り込んだ惣介の腕は、向こう側に突き抜けてはいなかった。水面に飲み込まれたかのように、惣介の手は本当に消えていた。紛れも無く、この扉の向こうは《箱庭》という異次元に繋がっているのだろう。
今から自分は、止まらない列車に乗るのである。緋真を連れ戻すために、後ろを振り返らず、真っ直ぐに突き進むだけの線路を走るのだ。上等である。そのためにだけ、死にそうな思いまでしてバギーに乗ってここまで来た。今さらに逃げ帰ってたまるか。この一歩を踏み出し、止まらない列車に乗り、振り返らない線路を突き進み、この手で緋真を連れ戻すのだ。
何の躊躇いも無く惣介の姿が水面に消え、続いて双劉の体も消えた。泰斗もそれに習う。ゆっくりと差し出した手を水面に入れる。何かしらの感触があると思っていたのが、右手からは何も伝わってこない。冷たいとか痛いとかあると思っていた分、少しだけ拍子抜けした。そしてそれが最後の一歩を踏み出すのを早めた。泰斗は足を踏み出し、水面へと自らの体を任せる。
空間が捻じ曲がり、次元が繋がり合い、視界が切り替わる。
目を開けたそこに、さっきまで見ていたはずの森の光景は無かった。
そこには、ひとつの村が広がっていた。
見渡す限りに広がるのは広大な山脈の横っ面であり、それに守られるかのように存在するひとつの村。それは本当に、村と呼ぶに相応しい所だった。一世代前の木造の家屋が数多く建てられていて、時間を遡ったかのような温かさがある。田舎と表現するのはまた違う。最も近い言い方をするのなら、それは故郷なのだと思う。ここが生まれ故郷のはずはないし、訪れたのも今は初めてだ。しかしそれでも、なぜかそう思ってしまう空気を、《箱庭》は持っていた。
そして、懐かしいような空気と共に《箱庭》に充満しているのは、肌を刺すような殺気だった。
考えれば当然の結果だったのかもしれない。仮にも籠狗の連中は、惣介の命を破って緋真を連れ去ったのだ。ならば惣介が殴り込んでくるということくらいは、予想の範疇だったのだろう。だからこそそれ相応の戦力を門の前に固めて威圧する。惣介にそれが通用するとは思えないが、無いよりかは幾分かマシであるはずだった。実際に、惣介には通用しなかったが泰斗には通用した。《箱庭》へと踏み出した一歩をそのままに、泰斗は息を呑む。
鳥居を囲むかのように、漆黒の衣類を身に纏った籠狗が何十人も待機していた。ひとりひとりの顔も体格もわからない分、それは本当に闇が辺りを覆っているように見えた。目を凝らして数えてもその数をすぐに割り出せないのは明白で、そのくせ辺りを漂う殺気の数が十や二十じゃきかないことだけは自然と悟っていた。
殺気に取り囲まれて身動きが取れなかった泰斗の側で、しかし惣介だけは何の変化も見せない。
「出迎えご苦労。だがお前ら雑魚に構ってる暇はねえ。夷月と《白の刻》を出せ。これは東雲現当主の命令だ」
いつにも増した鋭い眼光が籠狗を順に見渡すが、誰ひとりとして気圧される者はいなかった。
「聞けません当主殿。これは夷月様の命です」
どこからか聞こえた声に、惣介はくつくつと笑う。
「そう言うと思ったぜ。それにもしここで引いても、どの道おれはお前らを見逃す気はねえさ。このおれの忠告を犯したんだ、相応の処罰は受けてもらう」
そこで惣介はふっと双劉を振り返り、ある一点に指を向けながら、
「――確かこっちの方向だったよな?」
双劉はやはり無表情で、
「はい。間違いありません」
「あの、何の話ですか?」
置いてけぼりを食らったような気分になって口を挟んだ泰斗を睨みつけ、惣介は双劉の後ろに回った。
「お前に話しても仕方がねえことだ。それより、忘れるんじゃねえぞ。絶対に後ろを振り返るな」
泰斗が返事を返すより早くに、惣介が双劉の後ろから抱きつくように手を回す。
それに比例して双劉の体から蒼い光が弾き出され、抱きついていた惣介の腕が飲み込まれていく。同時に輝いている双劉の体がゆっくりと形を変え、捻じ曲げられるように姿を屈折させ、そのまま差し出されていた惣介の手に収縮されて決まった形を形成する。惣介と双劉を包み込んでいた光が弾けて消えた刹那、そこから現れるのは惣介の両腕から両方の手の甲にかけて装着された爪。左右対称に五本ずつ一定の間隔で装備された二体一対の武器。
あの日以来、泰斗がこれを見るのは二度目だ。東雲惣介と契約している《蒼の刻》の本来の姿。長く鋭い爪が垂れ下がり、地面を抉り取りながら派手は火花を散らす。迸る威圧感と殺気は、籠狗の放つものとは比べ物にならない。比べる価値もありはしない。《蒼の刻》とその契約者は、紛れも無い最強の戦闘狂である。惣介の眼光で怯まなかったはずの籠狗が、《蒼の刻》の戦闘体勢を見て僅かに姿勢を低くして徹底的な警戒を開始した。
それをまたしても順に見渡しながら、惣介は腕に装着されていた爪を左右へ展開する。双劉、という小さな呼び声と共に十本の刃から劫火があふれ出して渦を巻き、空間を焼き尽くしながら蠢いていく。地獄の業火を司る籠焔。泰斗が使ったものとはやはり、これも比べ物にならないほど巨大でありながら強力で、触れるものすべてを焼き払う威力を持っている。空をも覆い尽くす劫火が荒れ狂い、生き物のように宙を舞う。
しかし突如として空間を支配してた籠焔が差し伸べられた右爪に収縮され、惣介が口元を歪ませる。澄んだ音と共に振り抜かれた右爪から一挙に収縮されていた劫火が爆発し、一線の柱となって籠狗の壁を突き破る。その直撃を籠狗が避けれたのは偶然ではなく、惣介が避けれるように速度を加減したからだ。籠狗の包囲網を突破して突き進んだ籠焔が、惣介の狙い通りのものに激突する。地面を伝わって衝撃が走り、遅れて轟音が耳に届く。
やがて劫火の柱は姿を変え、炎のトンネルを作り出した。
「――行け」
惣介の声と同時に背中を思いっきり蹴り飛ばされた。
体勢が崩れて前にコケるような勢いで歩み出し、気づいたときには炎のトンネルの内部にいた。左右が蠢く劫火で塞がれていて、前方はどこかに向けて一直線に空洞が続いており、そして後ろにいるはずの惣介を泰斗が振り返ろうと、
「振り返るなッ!!」
その怒号に泰斗は踏み止まる。
ようやく我に返り、泰斗は炎のトンネルの先だけを見据える。これはもう、止まらない列車なのだ。背後を振り返ってはならないのだ。自分にできることだけをしなければならいのだ。この手で緋真を連れ戻す。今の自分にできることはそれだけである。迷っている暇は無い。惣介と双劉が開いてくれた道だ、ここを突き進まないでどうしろというのか。ここまで来てまだ後ろを振り返るのか。――冗談じゃない。緋真をいつまでもひとりにさせておいてたまるか。
惣介に礼を言わないことが、今は礼を言っているのと同じ意味を持っていた。
一瞬の停止の後に、泰斗が地面を蹴る。真っ直ぐに続く空洞を駆け抜け、泰斗は緋真の下へと走る。
開いていた炎のトンネルの入り口が、完全に塞ぎ込まれた。
――惣介さん。
双劉のつぶやきに、惣介は笑うことで応えた。
目前に鎮座する、蠢く炎のトンネル。籠焔をここまで大規模な範囲で操ったのは初めてだったのだが、何とか上手くやれたようだった。もし途中で威力が霧散して掻き消えたとしても、その頃には泰斗も目的地を悟っているはずである。泰斗を隔離して先に進ませた理由はふたつ。ひとつ目が、《白の刻》を連れていない泰斗をここに残しておいても足手纏いになるからだ。そしてふたつ目の理由。――獲物を、独り占めするため。それが惣介のどうしようもない本音だった。目前に広がった漆黒の籠狗たちを、誰ひとりとして逃しはしない。お前たちが逆らった相手が誰であるのかを、思い知らせてやる。
太陽の光を反射させて輝く十本の刀をゆったりと動かして、惣介はまずどいつから切り刻んでやろうかと考える。《白の刻》と戦ったときは中途半歩で終らせてしまったが、状況が状況なだけに今回はそこまで甘くはない。それに五日前に態々忠告までして、昨日も言い聞かせてやったのにこれだ。忠告を犯した責任を取ってもらおうではないか。一度目は許してやったが、二度目は無い。ひとりひとりに、上下関係がどのような意味を持つのかを叩き込んでやろうではないか。
そんな惣介の考えを遮るかのように、再び双劉の声が聞こえた。
――来ます。
「……ああ、わかってる」
例えるのなら、それは暗闇を彷徨う光の靄のようなものである。
辺りを覆う漆黒の籠狗の気配に紛れて近づいてくる、異様な気配。他の籠狗から受ける感じのものとはまるで違う、ひとつの違和感だ。そしてその違和感を放つ人物こそが、惣介が最も殴り飛ばしてやりたい籠狗。惣介を取り囲む籠狗の群れは下っ端である。この雑魚どもを統括する、《箱庭》と東雲を繋ぐ中枢に存在するひとりの籠狗。惣介が知る限り、その籠狗は今現在生きている籠狗の中でも最古の生き残りだった。
漆黒が道を開ける。一本の道の奥から歩み出し、最古の籠狗は片目で惣介を見やった。
「……どういうおつもりですかな、当主殿」
一見すれば、その辺のどこにでもいるような小汚い爺である。
が、放たれる雰囲気はその辺の小汚い爺などが持て余すものではなく、ゆうに百歳を越えているのにも関わらずに背筋は伸び切っており、今日びの老人では考えられない威圧感が全身から迸っている。漆黒の衣類を襤褸のように纏い、服から顔が生えているかのような感じのその顎には白い髭が悠然と携えられている。それは《箱庭》の長の象徴であり、同時に惣介にしてみればいけ好かない籠狗の親玉の目印だった。
《箱庭》の長、最古の籠狗。その名を、夷月という。
皺の重さで閉じられているんじゃないかと思うような瞼が今一度開かれ、《蒼の刻》を手にした惣介を前にしても取り乱す様子は無く、老人独特の嫌な威圧感を放ちながら再度口を開く。
「ご乱心でも為されたのですかな」
相変わらず気に食わない糞爺だぜ、と惣介は毒づく。
「……生憎様だ糞爺。まともな心なんてのはな、オヤジが死んでおれが東雲の当主になった時点で捨てて来ちまったぜ」
確かに、と夷月は目を閉じる。実際は微かに見えているのだろうが、惣介からしてみれば閉じているとしか思えなかった。
「貴方のお父上は素晴らしい方でしたな。ですが、貴方は違いますな。……殺さねばならない《蒼の刻》と契約し、《白の刻》さえも己の欲望のためだけに一存で勝手に彷徨わせ、挙げ句の果てにはこうして《箱庭》へ牙を剥こうとしておる。貴方が忠告をしたと言うのなら、こちらからは警告を言わせてもらえますかな」
放れた殺気が惣介を真っ向から吹き抜ける、
「……お引取り願えますかな。よもやたったひとりで、我々を敵に回すつもりだと、貴方は言うのですかな?」
突き抜ける殺気をものともせず、惣介は口元を歪ませて実に楽しそうに笑う。
「その台詞をそっくりそのままお前に返してやるぜ。お前らがどう足掻いたところで辿り着けない境地に辿り着いた《蝕の刻》を相手に、これっぽっちの籠狗で太刀打ちできると思ってんのか」
「引くつもりは無い、と?」
「当たり前だ。お前のそのいけ好かねえ態度を修正するまでおれは戦うぜ」
「……残念ですな、当主殿。ならば我らも、それ相応の対応をさせてもらうしかありませんな」
「上等だぜ」
夷月が一歩下がったと同時に、漆黒から眩いばかりの光が弾き出される。
漆黒の衣類から体の一部を突き出し、それぞれが変化させたそれぞれの鋭利な刃物を一斉に構える。それをぐるりと見回しながら、惣介は眉を顰めた。気配だけを頼りに数えるのなら、取り囲む籠狗の数は大体二十五から三十五の間である。その約三十人の籠狗がすべて、体の一部を武器に変化させているのだ。おかしい、と惣介は思う。中には知った武器の奴もいるが、五人にも満たない。他の籠狗の武器は皆、惣介が初めて見る系統のものだった。
東雲が管理する《箱庭》の中で、体の一部を鋭利な刃物に変化させることのできる純正の籠狗は、現段階では夷月を含めて七名だと聞いている。しかし、目の前に存在する籠狗は当たり前のように七名だけではない。残りの籠狗が飾りであるはずはなかった。つまりは、そこから考えられる結論はひとつしかありえなかった。
戦闘体勢を整える籠狗の向こうに佇む夷月を見つめ、惣介は不敵に笑う。
「糞爺……籠狗の数、サバ読んでやがったな」
夷月もまた、不敵に笑い返す。
「隠し玉は取っておくのが、戦闘の初歩だと思いませんかな」
「そうかもしれねえな。……が、ひとつだけ決定的な間違いあがる」
「……間違い?」
「ああ、そうだ」
十本の爪に、緩やかな劫火が纏わりつく。
そうして惣介は、双劉と完全に結合する。
「――こんな雑魚が幾ら集まったところで、隠し玉になんてなりゃしねえんだよ」
惣介から迸った殺気を感じ取りながら、夷月が無表情と化す。
「試してみますかな?」
「試してやろうか?」
「……ご覚悟を、当主殿」
その声を引き金に戦闘体勢を整えた籠狗が一斉に加速を開始し、漆黒に視界を遮られたそこから夷月の気配が驚くべき速さで遠ざかって行く。
逃げやがったな糞爺。そんなつぶやきを漏らしながら惣介は面倒臭そうに煙草を取り出て口に咥え、息つく間も無く振り抜かれる数十人の籠狗の刃をひとつひとつを何でもないことのようにかわし、一瞬だけ攻撃に空白が出来た隙を見計らって纏わりつかせていた劫火で火を灯して煙を吸い込む。ジリジリと距離を詰めてくる籠狗を見渡しながら、煙草を咥えたままで惣介は問う。
「腕がいらねえ奴からかかって来い。腕がいる奴はおれの視界から消え失せろ」
しかし誰ひとりとして、その場から逃げ出す者はいなかった。
再び煙を吐き出し、惣介は拳を握る。
(用意はいいな?)
双劉からの返答はすぐに返ってきた。
――惣介さんの望むままに。
地面を蹴り上げて突っ込んでくる獲物を見つめ、惣介は笑った。
地獄の業火を纏いし十本の刃が、空間を切り裂きながら舞い踊る。
◎
渦巻く炎のトンネルの中を走りながら、泰斗は籠焔という代物をつくづく不思議に思う。
燃え滾る劫火のくせにトンネル内部の気温は一定に保たれており、熱いとは微塵も感じさせない。それはもともと籠焔とはそういう代物だからなのか、それとももっと別の理由の、例えば惣介が威力を調整しているからとかそういうことなのだろうか。質問をしても答えてくれる人物がいないので真相は謎に包まれたままだったが、今はそれが有り難いと思った。しかしさすがに夏の日の、しかも密室に近いトンネル内部に閉じ込められたら暑いに決まっている。ただ、まだ我慢できる程度の熱気でしかないのが唯一の救いであり、全身から流れる汗同様に無視する。
惣介と双劉が開いてくれた道をひたすらに突き進んだ。
やがて息が切れ始めた頃になってようやく、炎しか見えなかったトンネルに変化が訪れる。
そこで一度だけ、泰斗は立ち止まる。恐らくはここが、《箱庭》の中にある洞窟へ続く入り口だったのだろう。炎の壁から圧倒的な熱で捻じ曲げられてひしゃげた鉄の扉が突き出ていて、その奥には薄暗い闇が広がっていた。炎のトンネルはここで終わりを告げており、しかし籠焔の灯火が街灯のように洞窟の闇を一定間隔で照らしている。
この先に緋真がいるのだという、確信。
立ち止まっていた足をまた動かして、泰斗は洞窟の奥へと進む。
先までの熱気が嘘のように洞窟の内部は冷たく、汗を吸った服が酷く肌寒く感じた。洞窟に反響する音は泰斗の足音しか聞こえず、そしてそれは残響としてどこまでも通り抜けていく。その残響は、ちょっとやそっとではこの洞窟の最深部に辿り着けないのだと泰斗にわからせるのには十分過ぎる効果を持っていた。点々と続く籠焔の灯火を頼りに先へ先へと進み続ける。低い天井から垂れ下がった鍾乳石に何度も頭をぶつけそうになり、滴り落ちた水滴が泰斗を直撃する度に抑え込んでいるはずの恐怖心が暴れ出す。
その恐怖心はやがて、ひとつの不安を運んでくる。
この先には果たして、本当に緋真がいるのだろうか。
確かにこの奥から緋真の鼓動のようなものを漠然と感じ取れる自分がいる。だがそれでも、一度芽生えた不安はそう簡単には拭えなかった。このまま走り続けて最深部へ辿り着いたとき、そこに緋真がいなかったらどうすればいいのか。惣介が開いてくれた道を信じる一方で、もしかしたら籠狗の誰かが緋真の監禁場所を変えたのではないかと思う。万が一そうなっていたとしたら、自分は、
要らぬ考えを気力で捻じ切り、泰斗は荒い息を吐き出しながらさらに走る。
その途中で、籠焔の灯火が徐々に小さくなってきていることに気づく。この灯りが消えたら帰れなくなる。今まで通ってきた道程に電気の類は当たり前のようになかった。本来ならこの洞窟は、正真正銘の闇が支配する場所なのだろう。そんな場所に取り残された最後、一生ここから出られないに決まっている。誰かが助けに来てくれない限り、自分はここで死ぬのではないかと恐れが湧き上がる。
その恐れと同時に、緋真はずっとこんな場所で、十五年間もひとりで過ごしてきたのだろうかと思う。
ひとりにしないで。そう言って泣いた緋真の言葉の意味を、泰斗は今、ようやく理解した。
こんな場所にひとりで閉じ込められる恐さがどれほどのものなのか。こんな場所でひとりで過ごさねばならない孤独がどれほどのものなのか。たった数分しかここにいない泰斗では、その尻尾も掴めないだろう。たった数分だけでこんなにも恐ろしいのだ。その恐れを十五年間、緋真はずっと背負って生きてきていたのだろう。虚無が支配する孤独の世界で膝を抱えていたひとりぼっちの籠狗。緋真がどれだけ苦しい思いをしてきたのか。緋真がどれだけ辛い思いをしてきたのか。そのことを考えるだけで、なぜ自分は緋真の手を離したのだろうと言い表せない感情が胸を締めつけ、なぜこの手は緋真を掴んでいないのだろうと酷く己を攻め立てた。
その刹那。
――しゃん。
そんな、無機質な音を聞いたように思う。
その音色と同じくして、籠焔の最後の灯火が、途絶えた。
力尽きて消えたのとはまた違う。最初から、籠焔はここまでしか到達していなかったのだ。
そして、籠焔の灯火が無くとも先に進めることに泰斗は気づいた。
洞窟の奥底から、朱色の光があふれている。その光を求め、泰斗は足を緩めてゆっくりと歩み出す。
最後の隔てを抜けたときに、泰斗は我が目を疑った。
そこは洞窟の最深部である。それまでは何も無かったはずの洞窟の奥底に、数百本の蝋燭が無造作に突き立てられている。洞窟の壁に附着している水滴が蝋燭の照り返しで光り輝いているように見えるのにも関わらず、どうしてか美しいとはまるで思えなくて、変わりに寒気のようなものを運んでくる。それは、何かの儀式を行うための準備のような、とにかく壮絶で異様な光景だった。
緋真は、蝋燭に囲まれた生贄のように、膝を抱えて震えていた。
「――緋真!」
弾かれたように白銀の髪が翻り、一瞬だけ彷徨った緋真の瞳が泰斗を捕らえる。
巫女装束を身に纏った少女は、夢でも見ているかのような表情をしていた。
「………………泰斗………………?」
ぽつりとつぶやく緋真へ駆け寄る。
呆然とする緋真の側に膝を着いて初めて、その首にはめ込まれた首輪とそこから伸びる鎖に気づいた。この首輪が緋真を束縛し、この鎖が緋真をこの場所に繋ぎ止めている元凶なのだろう。十五年間、緋真はここでこうして、生きてきていたのだろう。想像もつかない。こんな場所で、たったひとりで過ごさねばならない恐れは一体、どれほどのものなのだろうか。
夢を見ているのかもしれない、と緋真は思っていたのかもしれなかった。目の前にいる泰斗が現実の泰斗だとは思えなかったのかもしれない。潤んだ瞳が泰斗を見つめて微笑み、微かに震えた右手が差し出されて、鎖が地面と擦れ合ってしゃん、と無機質な音を奏でる。差し伸べられた手を、泰斗は無我夢中で掴んだ。
瞬間、緋真の表情は一変した。
夢であると思っていたことが現実だと気づいたとき、歌った幻想が叶ったとき、果たして人は、どんな顔をするのだろう。
驚いたような表情を緋真が浮かべていたのは一瞬だけであり、すべてを理解した瞬間にすべてが弾けた。迷子の子供が母親を見つけたかのように顔をくしゃくしゃに歪め、それまで抑え込まれていた感情は涙となってあふれ出し、声にならない声で泣いて、緋真は泰斗の手をぎゅっと握り返す。泰斗、と繰り返してつぶやく緋真を抱き寄せ、ここにいる、と泰斗も繰り返した。
震える白銀の髪を撫でながら、もう片方の手でポケットの中を探る。惣介から受け取った鍵。それを探し当てて引っ張り出し、緋真の体を抱き締めたままで首輪に触れる。丸みを帯びた漆黒の首輪の一部に、小さな空洞があることを手触りで悟った。そこに鍵をゆっくりと差し込み、右に回した。カチャン、と小さな音が鳴った刹那に、首輪から白い蒸気のようなものが噴射した。それは洞窟を吹き抜けた際に幾本もの蝋燭を一発で掻き消し、やがて空気に溶け込んで霧散していく。同時に、首輪が後ろから二つに分かれて地面に落ち、鎖と共にしゃんと鳴る。
緋真を束縛し、繋ぎ止めていた楔はこれで何も無い。緋真がここにいなければならない理由も、これで費えた。緋真を連れ戻そう。こんな虚無が支配する孤独の世界に緋真がいる必要など微塵もありはしないのだ。掴んだこの手をもう二度と、離しはしない。暗闇の中にあってもなお白銀に輝く髪を撫でながら、直に伝わってくる緋真の震えと嗚咽を抱き締めて、泰斗は言う。
「……帰ろう、緋真」
たった数日しか一緒にいなかった。
しかしそれでも、緋真のいるべき場所はここではないのだ。
「おれたちの家に、帰ろう」
随分と長い間、緋真はただ泣いていたように思う。
そして緋真は、何度も何度も肯きながらもう一度だけ、その名を呼ぶ。
「………………泰斗………………」
緋真を泣かせないと誓った。
緋真をひとりにさせないと約束した。
この手をもう二度と離さないと、決断した。
帰ろう。緋真がいるべき場所へ。緋真が側で笑っていてくれることだけをただ願う。緋真が隣で微笑んでくれればそれだけでよかった。緋真が笑い、微笑むことができる場所はここにないのだ。帰ろう、緋真のいるべき場所へ。緋真を泣かせたくはなくて、緋真をひとりにさせたくなくて、この手をもう二度と、離したくはない。
今一度だけ、強く、強く心に刻む。
緋真と共に、生きていこう――。
立ち上がった緋真の手を引いて、来た道程を引き返した。蝋燭の光が無くなってしまったため、最初の三歩だけは無暗に走れなかったが、それを過ぎた辺りから籠焔の灯火が視界を取り戻してくれた。段々と籠焔の光が弱くなってきているのはわかった。だけどそれでも、出口まで全力で走ればどうにか間に合いそうなくらいには光を保ってくれていることが救いである。
二人分の足音が走り抜けてきた漆黒の洞窟の深淵に響き渡り、まるで化け物の叫びのように何重にも反響している。
やがて遥か彼方に日の光が見え始めた頃、それまで内部を照らし続けていた籠焔の灯火が力尽きた。静かに消えゆく地獄の業火を意識の隅で意識しながらも、出口を目指してなおも走り続ける。光がさらに強く輝き出したとき、握っていた緋真の手に力が篭る。緋真も、思うことは泰斗と同じだったのかもしれない。これで、逃れられるのだ。この虚無が支配する孤独の世界から、緋真は解き放たれるのだ。この手を離さずにいられるのだと、本気で思っていた。
光に身を任せるかのように洞窟から飛び出して、一度だけ立ち止まって緋真を振り返り、
「――《白の刻》を、どこへ連れて行くつもりですかな」
日の光の温かさを忘れ、凍りついた。
視線を前方に向け、そこに仁王立ちしているひとりの籠狗を視界に捕らえる。太陽に照らされた影が本体の何倍の大きさを示して伸び、泰斗と緋真を行く手を阻むように佇んでいる。漆黒の衣類を襤褸の纏い、顎から白い髭を生やし、その籠狗は泰斗を真っ直ぐに見据えている。その籠狗が放った先の声に、聞き覚えがあった。忘れもしない、緋真が連れ去れたあの瞬間、泰斗の意識を暗闇の底に叩き落とす間際に聞こえた、あの声だ。
名は、自然と理解していた。惣介が何度も口に出した、その名。
「……夷月……」
ほう、と夷月が僅かに驚いた顔をする。
「貴方は我が名を知っておるのですな。……それでそんな貴方が」
再び紡がれる問い。
「《白の刻》を、どこへ連れて行くつもりですかな」
それには答えず、緋真の手を握ったままで泰斗は言う。
「通してください」
「できぬ相談だとは、貴方もわかっているのではないですかな」
何のために夷月がここにいるのか。それを考えれば、馬鹿でもわかる。
「《白の刻》は殺さねばならない存在。貴方と契約してしまったのならなおのこと。……貴方は必ず、近い将来にその子を持て余すことになる。その前に、《白の刻》を置いて、立ち去ってはもらえませんかな?」
戦うと、決めた。
緋真が緋真である限り、もう犠牲は問わない。
苦しいのも辛いのも、それは泰斗も緋真も同じなのだ。ならばせめて、少しでも悲しみを減らせるように。ならばせめて、少しでも癒されるように。緋真と共に生きていこう。そして、緋真と共に、戦おう。もう二度と、背を向けて逃げ出しはしない。今ここで、真っ向から立ち向かおう。もし負けたとしても、緋真をひとりにはさせたくないのだ。
閉じられた瞼の向こうにある眼光を見据え、泰斗は拳を握る。
「もう一度だけ、言います。ここを通してください」
「……どうやら、話し合いは無意味のようですな。ならば、仕方がありませんな」
襤褸の裾から差し出された、夷月の骨と皮しかないような皺だらけの右手。
しかし、それがひ弱に見えるかと言えば、それはまったく違った。僅かに開かれた眼光が泰斗と緋真を捕らえ、握られた拳が光を弾く。研ぎ澄まされた輝きはやがて前方に広がり、夷月の身長と同じくらいの大刀を生み出す。緋真と同じ型の武器であるはずなのに、やはりその大きさが比べ物にならない。右手首から身の丈ほどもある大刀を地面に下ろし、迸る殺気と共に夷月の気配が莫大に範囲を増す。
泰斗は緋真を振り返る。緋真もまた、振り返った泰斗を見つめた。
言葉は必要無いのである。泰斗の差し出した腕に、緋真は自らの手を添えた。泰斗の右手が巫女装束の上から緋真の胸に押し当てられ、交わり合った箇所から互いの鼓動がひとつに結合される。焼けるような熱が吹き抜けた瞬間、それはすぐさますべてを包み込むようなぬくもりに姿を変える。泰斗の右手が光に飲み込まれて緋真の胸に入り込み、そこにある《白の刻》の核に指が触れた。あのときは邪魔が入って果たせなかったが、今は違う。己の意志で、緋真のすべてを受け入れよう。恐がったりしない。
《白の刻》を掴んだこの手はもう二度と、緋真を裏切らないと誓う。
視界を覆い尽くす光が消え失せたとき、そこには緋真はいない。変わりに、泰斗の右手に緋真はいるのだ。泰斗が握り締めているのは、一振りの刀。太陽の光に照らされて輝く刃。あの日以来、緋真と初めて出逢ってからこの姿を見ることはなかった。その原因となっていた恐れを勇気と度胸に変え、雪のように白く染まった瞳で、泰斗は緋真の刀を見つめる。
――……泰斗。
不安そうな緋真の声に、泰斗は笑いかける。
(だいじょうぶ。おれは、緋真と一緒にいるから)
――……うん。
輝く刃が空間を切り裂いて振り抜かれる。
夷月がなぜか、どこか敬うような瞳をしていた。が、それも一瞬の出来事であり、突如として眼光が研ぎ澄まされて一言だけ言葉が紡がれる。
「――参る」
身の丈ほどの大刀を携えた夷月が、地面を破壊した。
老人とは思えない速さだった。大刀はもはや夷月の体の一部であるのだ、その重みに夷月が押し潰されることはないのだろう。押しつけられた大刀が地面に深い溝を残して突っ込んでくる。それを真っ向から見据えながら泰斗は緋真の刀を握り返す。不思議と体が軽かった。あのときのように、勝手に体を操られるような感覚も無い。幾ら老人とは思えないくらいに速さとは言え、夷月の突進は惣介と双劉に比べれば幾分か劣っている。振り上げられた大刀の軌道を、泰斗は正確に目で追えた。
刀と大刀がぶつかり合えば力負けするのは常だが、籠狗と《白の刻》の壁はそれを完全に無効化させる。速さもそうであるのなら、威力も惣介と双劉には劣っていた。一振りの刀が大刀を空中で停止させ、すぐそこにあった夷月の眼光と泰斗の白い瞳の視線が噛み合う。緋真と完全に結合されたからなのか、普段の自分からでは考えられない力が胸の奥からあふれているような気がする。停滞していた大刀を押し返すことも、用意にできた。背後によろけて大刀を構え直す夷月を目掛けて地面を蹴り上げ、泰斗は刀を振り下ろす。
一瞬だけ遅れて大刀が刀の軌道に割り込み、微かな火花を散らして澄んだ音を響かせる。夷月の眼光を見据えたままで力任せに刀を押し退け、泰斗は無防備になったその腹に蹴りを見舞おう足を浮かした。が、刀ではなく蹴りで攻撃を加えようとしたその甘さが裏目に出る。足が上げられた瞬間を見計らって放たれた夷月の左掌が泰斗のバランスを木っ端微塵に砕き去り、背後によろけて倒れ込んだ視界の中で、漆黒の襤褸が上空に舞い上がった。
尻餅をついたままで上を見上げたとき、大刀の切っ先が真っ直ぐに泰斗を狙っていることに気づく。泰斗が避けようと思うより速くに緋真が行動を移し、泰斗の体を左に飛び退かせる。直後、突き刺さった大刀が地面を揺らしながら亀裂を走らせた。地響きを巻き起こして地面を割り、圧倒的な破壊を発生させる。刀身の半ばまで埋もれていたはずの大刀がすぐさま引き抜かれ、粉々に砕けた地面の破片を振り払うかのように一度だけ空を切る。先の一撃を食らっていれば、泰斗はひとたまりも無かっただろう。速さも威力も惣介たちには劣っているはずなのに、それでもここぞと決めた際の一撃の桁が巨大だった。
割った地面にさらなる溝を残して夷月が大刀と共に狙いを泰斗に定める。真っ向から見据えてくる気迫が大きい。それは、泰斗の覚悟がまだ足りないということだ。気迫に圧されているようではどんな奴が相手にしろ勝てるわけがない。神経を集中させろ、恐れることなど何もありはしない。今、自分は緋真と共にあるのだ。緋真と共に戦っているのだ。何を恐れる必要がある。戦うと決めたはずだ。恐れを捨てろ、甘さを捨てろ、犠牲を問うな、緋真をひとりにさせたくないと願うのなら、その覚悟を固めろ。向ってくる相手をすべて、捻じ伏せろ。
泰斗が握り締めた、緋真の刀が輝く。
振り上げられた大刀を再び受け止め、泰斗は叫び声を上げる。強引に大刀を押し返してバランスを崩させ、開けた腹部へと刀を振るう。夷月の腹を一線の刃が捕らえるかどうかの刹那に、地面が破壊されて刀が空を切った。跳び上がった夷月が背後へ距離を取り、大刀の頭を地面に向けながらゆっくりと円を描いて歩き出す。その腹部を纏う襤褸が一線に切り裂かれていた。先までとは違う、泰斗から感じる正真正銘の気迫に夷月は警戒を怠らない。
守ってばかりでは意味が無い、と泰斗は思う。気迫に気圧されることはなくなった、ならば今度はこちらか攻めなければならないのだ。緋真を守りたいとの思うのなら、相手を叩け。後手に回ってばかりいてもそれを成し得ることはできない。
今度は、先手を取る。その意志を感じ取って、泰斗の中で肯く緋真を握り締めたまま、泰斗が走り出す。円を描いて警戒体勢を敷いていた夷月の姿勢がさらに低くなり、大刀の頭が振り上げられる。太陽の光を背に振り下ろされた大刀の軌道を目ではなく、緋真と繋がっている感覚で割り出してかわし、夷月の懐に潜り込む。肩口で襤褸の向こうにある胸に体当たりを食らわせ、背後によろけた刹那を見極めて刃を突き立てた。
思っていたよりもずっと、鈍い感覚が刀を通して伝わった。夷月が紙一重で距離を取ったために僅かに狙いを外したとは言え、それでも傷を負わせた。その感覚が心地良いものであるはずなかった。下手をすればたったそれだけのことで度胸が萎えそうな感覚を捻じ切り、泰斗は歯を食い縛る。目を背けるな、まだ勝負はついていない、しかしこれはそう何度も堪えられる感覚ではない、だったら、だったら次の一撃で、決める。まだ刀の間合いに入っていた夷月に再度狙いを定め、握り直した刀を振り抜こうと、
――泰斗!
頭の中で響き渡った緋真の声を共と同時に、体が勝手に動いた。振り抜いた刀は狙いを外れて見当違いの方向を指し、なぜ緋真がそうするのかがわからなくて抗議の声を上げようとしたときになってようやく、泰斗も気づいた。軌道を取り戻した大刀が真横から迫り、先まで泰斗の首があった場所を一刀両断し、その場から逃れた泰斗の体を発生させた風圧で引き戻す。
バランスなど微塵も存在しなかった。まるで風に胸倉を掴れて引っ張り戻されているような気分だった。まずい、と悔やんだときにはもう遅い。大刀の刃ではない、刀身の部分が平手打ちのように繰り出されて泰斗の肩を強打する。骨の軋むような音が耳に入り、重力クソ食らえで体が宙を舞う。洞窟の入り口がある岩壁に背中から激突し、視線が下から上を示した瞬間に意識が一瞬だけ遠のく。やがて戻ってきた重力に作用されるかのように泰斗が空間に落ち、苦痛の声を漏らして地面に倒れ込む。
背中から響く痛みが邪魔して立ち上がることができない。脳裏の彼方で緋真の呼ぶ声が聞こえるが返事を返すことがついにできなかった。倒れ込む泰斗へ向い、漆黒の影がゆっくりと伸びてくる。大刀が地面に溝を残す音が徐々に近づいてくる。立ち上がれ、と体に念じても立ち上がることができず、拳さえも握れない。悔しさだけが空回りを繰り返す。たった一撃でやれてたまるか。胴体をぶった切られたわけではない、五体はまだどこも破損していない、高々痛みだけで倒されてたまるか。自分がやらなくて誰がやるというのだ、守るんだ。緋真を、緋真だけを守るのだ。
すぐそこまで歩み寄って来た夷月がつぶやく。
「……ここまでですかな、契約者殿」
黙れ。こんなところで終ってたまるか。
――泰斗……っ!
緋真の声をはっきりと聞いて初めて、泰斗の胸の奥にひとつの確信が降って湧いた。
それはたちまちに大きさを増し、泰斗の思考を支配する。
緋真へ向けてつぶやく。
(……ごめん、緋真。おれだけの力じゃ、やっぱり緋真を守れない……)
――……たい、と……?
(――だから、)
自分ひとりがどう抗おうと恐らく惣介には、それどころか夷月にも勝てはしないだろう。まだ心のどこかで、ひとりで緋真を守り切るという見栄のようなものがあったのかもしれない。ひとりで戦っているのではないのに、どうして自分はこうも突き進んでしまっているのだろう。ひとりで突き進めば勝てるものも勝てなくなるということに、ようやく気づいた。緋真と一緒に戦うということは、格好つけて泰斗ひとりが刀を振るうことではないのだ。魂の根本で結合されるその意味は、果たして何なのか。それは、共に生きるという意味だ。泰斗が望む、自分と緋真の姿、そのものなのだ。
緋真を握り、ただ純粋に、この子を守りたいと願う。
(だから、一緒に戦って欲しい。緋真の力を、貸して欲しいんだ)
あの日のように。緋真が自分の思いを受け入れてくれたこそ発動した能力。
それを今再び、この手に宿そう。
「……緋真」
地面に倒れ込んだままで紡がれた泰斗のつぶやきに、緋真が泣き笑いを浮かべる。
やっとひとつになれた。そう言って、緋真は微笑んだ。
あの日のように。緋真はまた、契約者と意志を交錯させる。
――……ありがとう、泰斗。
突如として発動した籠焔がすべてを飲み込み、荒れ狂った地獄の業火が舞い上がり、《箱庭》の遥か上空へと一気に突き抜けた。
巨大な劫火の柱を造り出し、《白の刻》と契約者がひとつになる。
雲を貫く籠焔の柱を、惣介は煙草の煙と共に見上げていた。
その側に立っていた双劉が僅かに驚いた表情でそれに習っている。
実に、実に嬉しそうなつぶやき。
「……そうだ、這い上がれ。このおれの領域まで這い上がれ、御影ッ!」
煙草を噛み締め笑う惣介と、笑う惣介を見つめて微笑む双劉。
そんなふたりの周りには、合計で三十一人の籠狗が倒れこんでいる。
ふたりに、外傷は一切見当たらない。
「――見事」
遥か上空まで舞い上がり渦を巻く地獄の業火を見上げながら、夷月は小さく言葉を紡いだ。
これほどまでに巨大な籠焔を見れるとは思っていなかった。惣介と双劉が発動させる籠焔とはまた違う力の鼓動。高く高く舞い上がった地獄の業火を見上げ、夷月はもう一度先と同じ言葉をつぶやく。《蝕の刻》だけが辿り着けた領域。通常の籠狗では未来永劫辿り着けないであろうその境地。実に見事。これが完全結合を果たした《白の刻》の姿。殺さねばならないはずの、異端な存在が生み出す波動の姿である。
籠焔の柱はやがて形を変え、膨大な量の劫火が一点に集中していく。炎の柱の中に立ち、籠焔を一振りの刀に宿らせ、《白の刻》の緋真と、その契約者の御影泰斗は真っ向から夷月を見据える。悠然でありながら壮絶なその出で立ち。抑え切れない籠焔が緋真の刀からあふれ出して泰斗に纏わりついている。これが境地か。これが《蝕の刻》が生み出す波動の姿か。何たる威力か、何たる脅威か。何と強い――。夷月はそう思う。
これがもし、もっと別の形で発動されていたらと考えると寒気が押し寄せる。こうなった《蝕の刻》を止めることは何者できはしないだろう。しかし、それ故に殺さねばならなかったはずの《白の刻》は、《蒼の刻》同様に暴走する波動を捻じ伏せて我が物とした。《白の刻》もまた、《蒼の刻》のように信じられる契約者と出逢ったということか。もはや暴走する可能性は無に等しいと言っていい。現に《蒼の刻》がそうなのだから、《白の刻》も同じ道を辿るのだろう。《白の刻》を閉じ込め、殺す必要性は費えた。
――が。それでも夷月は、右手に携えた大刀の切っ先を泰斗に向けた。
これで罪が消えるとは思っていない。ただそれでも、僅かな償いをしたかった。《蝕の刻》を殺さねばならないと決断したのは、万が一に暴走された際に止める術が無いからだ。それは籠狗と東雲が決めたことである。無論、それは夷月の意見でもあった。だが、それでも。自らの身内を殺さねばならない苦しみをわかってくれるだろうか。自らの身内を閉じ込めておかねばならない辛さがわかってくれるだろうか。
我が孫を大切だと思えば思うほど、逆に苦しめて辛くさせてしまうこの必然を、わかってくれるだろうか。
「――……参るッ!!」
夷月が地面を破壊する。
大刀の切っ先から火花を散らし、最古の籠狗が加速していく。
それに真っ向から打って出る泰斗と緋真。籠焔を纏いし刀がゆっくりと揺らめき、劫火が迸る。
夷月の一線が、振り抜かれた。
緋真の鼓動を、自分のことのように感じ取れる。
泰斗が緋真であるように、緋真が泰斗でもある。
魂の結合とは何なのか。それは共に生きるということ。共に生きるとは何なのか。それは、ひとつになるということだ。体のすべてを互いに共有し、喜びや楽しみ、悲しみや苦しさ、痛みの辛さや、それらすべてをわかち合い、同じことを想う。泰斗が緋真で、緋真が泰斗で。刀を握り締めているこの体は泰斗のものであるが、同時に緋真でもある。握り締められているこの刀が緋真の体であると同時に、泰斗の体でもある。《蝕の刻》が辿り着いた境地とは、そういうものだ。ふたつでひとつの契約。故に、誠の強さを得る。
振り抜かれた大刀を、泰斗と緋真は避けることも防ぐこともしなかった。ただ、それを真っ直ぐに見据えながら籠焔を纏わせた刃を構え、すべてをこの一撃に懸けて反撃する。先に振り抜かれた大刀より速くに一振りの刀は一線を描き、澄んだ音を鳴り響かせる。空高くに舞い上がった大刀の刀身が空中で煌めき、やがて地面に突き刺さる。しかし主を失ったそれはすぐに砂のように風化し、風に揺られて消えていく。泰斗から数歩離れた所で、刀身を半ばまで切り落とされた夷月が膝を着く。
僅かな沈黙の後に、泰斗は握っていた緋真を開放する。
荒れ狂っていた劫火が一瞬で消滅し、光に包まれて一振りの刀から元の姿へ戻った緋真が泰斗の側に佇み、背を向ける夷月の背中をじっと見つめた。
「……どうしたのですかな。なぜ、トドメを刺さないのですかな」
泰斗は夷月に背を向けた。
「誰かを殺すためにここに来たわけじゃない」
緋真を連れ戻すために、ここに来たのだ。
立ちはだかる敵は捻じ伏せなければならないとは思う。だけどそれはもう、必要無いなのだろう。夷月は腕を失い、戦闘意欲も捨てたように見える。もう立ち向かっては来ないだろうし、もしまた立ちはだかるのであれば、もう一度立ち向かえばいいだけの話だ。だから今の夷月にトドメを刺す必要は無いのである。何かを傷つけるあの感覚を態々味わう必要も無いのだから。
泰斗は歩き出し、ふと緋真を振り返る。
「――行こう、緋真」
その言葉に微かに肯いてから、緋真はまた夷月を見つめ、小さくつぶやく。
「…………ごめんなさい」
それだけ言い残して踵を返し、緋真は泰斗に向って走り出す。
泰斗と緋真が夷月をその場に残して立ち去って行く。
残された夷月はひとり、空を見上げて言葉を紡いだ。
「………………緋真………………」
それは、《白の刻》に夷月が与えた名だった。
◎
鳥居の前に惣介と双劉はいた。
泰斗と緋真を視界に捕らえると惣介は笑い、予想していたのとは違うことを口にした。
「とっととここを出るぞ。お前みたいな奴を入れたせいで門の持続時間が短くなってやがる」
てっきり口を開くなり、おれと戦えと言われるのではないかと思っていた泰斗にしてみればそれは少々意外な言葉で、ものの弾みで「戦わないんですか?」と訊ねてしまったところ、惣介はすぐさま「んなわけでねえだろ。ただ、戦うのは後始末が終ってからだ」と返してきた。どうやら忘れたわけではなかったらしい。いや、そもそも惣介が戦闘のことを忘れるわけはないのである。なぜならこの東雲惣介という男は、戦闘狂の塊みたいな奴であるのだから。
波紋の広がる水面へと惣介と双劉が先に入り、この《箱庭》という異次元から元の世界へ帰って行く。泰斗もそれに続こうと足を踏み出した刹那に、突如として緋真が声を漏らした。それは、何かとても大事なことをようやく思い出したような声だったように思う。だけど泰斗にはそれが何であるのかは当たり前のようにわからなくて、振り返って緋真を見つめる。緋真は蒼白の顔で胸の辺りに両手を添えて視線を辺りに彷徨わせていた。
その姿に違和感を覚えたのは、一体いつだったのだろう。しかしそれでもその違和感の正体が掴めなくて、泰斗はだた、「……どうかしたのか?」と緋真に問う。
緋真は、こう答えた。
「……無いの」
何が無いのかをまだわからなくて、
「なにが?」
「……宝物……」
その言葉で、ようやく緋真を包み込む違和感の正体を掴んだ。
公園の木陰の下で緋真が掲げ、これは宝物なのと嬉しそうに微笑んだ光景が脳内でフラッシュバックする。緋真と初めて出逢った日の夜に、彼方が選んで泰斗が緋真にプレゼントしたあのチョーカー。緋真の胸元にいつも光っていた、革の紐で結ばれた先に銀色の十字架がついている、白銀の髪の少女によく似合うチョーカー。それが、緋真の宝物。
踵を返して走り出そうとする緋真の腕を慌てて掴んだとき、鳥居が一瞬だけぐにゃりと歪んだ。持続時間が短くなっている、と惣介は言った。それはつまり、この《箱庭》と向こう側の世界を繋ぐ次元の扉が不安定になっているということなのだろう。この扉が閉ざされたらもう二度と向こう側に戻れなくわけではないと思う。だけど、今向こう側に帰らなければ、なぜかもう二度と帰れないような気がした。
泰斗の手を振り払おうとする緋真に叫ぶ。
「どこ行くつもりだよ!?」
「探しに行くっ!」
「どこにあるのかもわからないんだろ!? そんなことしてる時間は無いだろうが!!」
「探しに行くもんっ!!」
なおも走り出そうとする緋真を引き寄せ、真っ直ぐに瞳を見つめる。
「あれならまた買ってやる、だから、」
「あれじゃなきゃダメなんだもんっ!!」
一歩も引かない緋真を見つめる泰斗の背後で、再び大きく鳥居が歪む。
外側の世界から惣介の怒鳴り声が聞こえているような気がする。
微かに涙が滲む緋真の瞳を見つめていたとき、泰斗の頭に確信が満ちた。この瞳が何を言っても聞かないことを悟った。緋真に取って、あのチョーカーは特別なものなのだろう。それはきっと、泰斗が思っているよりもずっと、大切なものなのだと思う。あのチョーカーの代わりなど、この世のどこを探しても他にはありはしない。唯一無二の特別で大切な、緋真の宝物なのだ。
緋真を泣かせないと誓った、緋真をひとりにさせないと約束した、この手を離さないと、決断した。
「――あれじゃなきゃ、ダメなんだな?」
泰斗に問いに、緋真は肯く。
切実な表情を前にして、泰斗は決めた。
「だったら、おれも一緒に探しに行く」
もう二度と帰れないかもしれない。それでも、緋真をひとりにさせてはおけない。
緋真の手を掴んだままで、鳥居に背を向けたままで、泰斗が一歩を踏み出そうとしたとき。
「……泰斗は、ここにいて」
緋真が、そんなことを言った。
その意味をすぐには理解できなかった。
「ここにいて、って……ひとりで探しに行く、なんて言うんじゃねえだろうな?」
またしても肯く緋真に、今度こそ怒りが芽生える。
緋真をひとりで行かせられるわけがなかった。そんなことは緋真も知っているはずなのになぜ、今になってそれを言うのか。納得できるはずがなかった。緋真だけを行かせて何もせずに黙っていることなど、当たり前のようにできなかった。その考えを緋真にはっきりと伝えて共に探しに行くことを納得させてやろうと思ったとき、緋真がそっと泰斗に抱きついてきた。
背中に回された腕に確かな力が篭り、緋真はつぶやくように言葉を紡ぐ。
「……今度は、泰斗が信じて」
緋真は、笑う。
「ぜったいに帰るから。だから、信じて」
泰斗がこの手を離さないと決断したのと同じくらいに強く、緋真もまた、強く決断している。
それを、理解してしまった。言うべきことは、ひとつしかなかった。
「……絶対に、帰って来るんだろうな」
「うん」
……信じて、泰斗。
そう言った緋真にそっと押された刹那。
空間が捻じ曲がり、次元が繋がり合い、視界が切り替わる。
目を開けたそこに、もはや《箱庭》を繋ぐ鳥居は無かった。異界の門が地に還っていく。
惣介が何かを言っているが何も聞こえない。どこからか響いているセミの声だげが耳に入ってくる。
すべてが終って残ったのは、緋真と交わした約束だけだった。
緋真は、それから三日経っても戻っては来なかった。
「エピローグ」
煙草の煙が夜空にゆっくりと舞い上がっていく。
視界いっぱいに広がる夜空に雲はひとつも存在しなくて、嘘のような満月と盛大に群がる星が下界を照らし、どこからか聞こえる虫の鳴き声が小さな合唱会を開いている。そんな合唱会の中心にあるのは、馬鹿みたいにでかく風格が漂う屋敷だ。月夜の淡い灯りに照らされて屋根に並べられた瓦が白く光っているように見え、その真ん中辺りに座り込んで煙草を吹かしている奴がいる。
東雲惣介である。胡坐を掻いて座る惣介の膝の上には双劉の頭が乗っていて、蒼く長い髪を広げて静かな寝息を立てていた。双劉は、惣介の前でしかこういう隙を絶対に見せない。もしこの場所の近くに他の誰かの気配が漂っていたのなら、双劉は何があっても眠りはしないのだ。惣介とふたりきりで、しかも辺りに人気の無い所以外では双劉は眠らない。常に外敵からの警戒を怠らないのは、別に惣介がそう命令しているのではなく、双劉が独断で決めた信念である。そしてそんな双劉が唯一無防備になるのが、こうした時間だった。それは、惣介を心から信頼しているが故の隙である。
たったひとりしか知らない双劉の寝顔。それをぼんやりと意識の下で見つめながら、惣介は煙草の煙を夜空に吐く。
あれから三日だ、と惣介は思う。
ようやく苦労が身を結んだ、とも思う。
これだけ手間をかけさせたのだ、ちょっとやそっとでは済まさない。心から楽しませてもらおう。それにはまず、さらに強くなってもらわねば困る。今はまだまだ発展途上の強さである。そんな状況の獲物を叩いても何も面白くは無い。向こうから持ちかけてきた取り引きだ、最高の状況で戦わせてもらおうではないか。せっかく見つけ出した、惣介と双劉の領域に辿り着けるであろうひとつの可能性なのだ。満たされない戦闘意欲を掻き立て、満足させてくれる唯一の獲物なのだ。今よりさらに、強くなってもらわねば苦労が無意味になってしまう。
時が満ちれば獲物は極上になる。それまで待つのだ。最高の戦闘が楽しめるのなら、幾らでも待ってやる。そうして必ず、捻じ伏せるのだ。ひとつの可能性、唯一の獲物を、絶対に逃しはしない。今はせいぜい安息を楽しみ、強くなっていけ。忘れるな。お前が逃げても、おれは追う。地獄の果てまでも、必ず。どこまでもどこまでも追い詰めて、必ず捻じ伏せてやる。だから強くなれ。おれと双劉の領域まで、這い上がって来い。
煙草を咥えながら、惣介はひとりでくつくつと笑う
「……楽しそうですね、惣介さん」
いつの間に起きていたか、寝転がったままの双劉が惣介を見上げていた。
「起きてたのか。……楽しそう、か。そうだな、近い将来に最高に楽しくなるだろうよ」
夜空を見上げて実に嬉しそうな顔をする惣介を、双劉は少しだけ心細そうな瞳で見つめる。
何かを言いたげに口を僅かに動かしたのだが、そこから言葉は紡がれなかった。
それは、惣介の手が双劉の頭に置かれたからだ。
「安心しろ。お前はいつもおれの側にいればいい」
双劉は、心地良さそうに微笑む。
「――……惣介さんの、望むままに」
「まだ寝てろ。この三日間、お前ほとんど寝てねえだろ」
「はい」
くすりと笑い、双劉が瞳を閉じる。
しばらくしてから聞こえてくる寝息を耳に入れながら、惣介は再び夜空を仰ぐ。
咥えた煙草の最後の一口を吸い込み、煙を満月に向って盛大に吐き出しながら口元を歪ませた。
「……とっとと見つけ出せよ、御影」
眠る双劉の髪をそっと撫で、惣介はくつくつと笑う。
◎
真夜中にいきなり部屋に乱入して来た彼方に「ゴキブリが出たゴキブリが出た早くやっつけてよ早く早く早く泰斗っ!!」と叩き起こされ、意識も曖昧なままで彼方の部屋に向ったのだが、そこにはすでにゴキブリの姿は無く、ひとりでわんわん泣く彼方が「見つけ出せ今すぐに絶対にどうしやってもいいから見つけ出して必ず殺せっ!!」と女の子には似つかわしくない台詞を連呼するものだから寝るに寝られず、結局は夜通しで彼方のどっち散らかった部屋を掃除する羽目になったのだが、一度逃げ失せたゴキブリを再び発見することは至難の業以外の何ものでもなく、綺麗に片付いたこの部屋のどこかに潜んでいるであろう黒い悪魔に恐れを為した彼方は、何を血迷ったのか泰斗のベットを占拠して勝手に眠りに就いてしまった。
それからはまるで眠ることができず、夜中の二時から学校へ登校するための起床時間である七時まで泰斗はずっと起きていた。その五時間の間、泰斗はこの三日間ずっと考えていたことをまた考え直していた。思うことはひとつだけで、脳裏を駆け巡る言葉も一言だけだった。
信じて、泰斗。緋真のあの言葉だけを信じて、泰斗は待ち続けている。緋真が戻って来る、その瞬間を。だけど、ただ待つということは想像以上に苦しくて辛いものだった。もしかしたら緋真は――、そんな不安が、何百回と泰斗を包み込んだことがある。しかしそれでも、その度に泰斗はその不安にカウンターを見舞って黙らせ、緋真だけを信じて待ち続ける。緋真が帰って来ると言った、ならばそれ信じるしかない。緋真が自分のことを信じてくれたように。自分も、緋真だけを信じていよう。
緋真の微笑みだけを、泰斗は思う。
自転車の鍵を外してサドルに跨り、駐車場を出る間際に母の車の助手席の棚の上に置かれた置時計に視線を巡らせる。現在の時刻は八時二十分。自転車でかっ飛ばせば学校には間に合うだろう。いつかのように自転車が大破していて走って行かなければならないこともないし、宿題を提出しなければ留年するという心配も無い。何の変哲も無い、普通の日常が舞い戻ってきている。これが本来の世界なのだろう。それはわかっている。わかっているけど、でも。
ペダルを漕いで自転車を道路へと滑り出させ、泰斗は真っ直ぐに道を進む。
その途中で視界を横切った石段にあの日のように意識が止まった。自転車のブレーキを慌てて握り締め、考える。三日前から、毎日のようにこの石段を上っている。この先にもしかしたら緋真はいるのではないかと、いつも思っていた。しかしこの石段を上ったとしてもそこには当たり前のように誰もいなくて、その度に泰斗は余計な不安を感じるのだ。今日も同じに決まっていた。この先にはやはり誰もいないのだろう。頭ではそう理解していながらも、なぜか感情が納得していなかった。
――予感、なんて大層なものじゃなかったはずだ。
それでも気づいたら自転車をその場に残したままゆっくりと歩き出し、落ち葉が掃除もされずに散乱する石段を上り、目前に広がった大きな鳥居と地面に埋め込まれた石畳と古ぼけた神社を視界に収めながら足を動かす。神社の裏手に近づく度に、鼓動が大きくなっていく。知らずの内に駆け出していた。もしかしたら、という言い表せない希望が胸の奥から湧き上がってくる。神社の柱に手を掛け、泰斗は裏手に回り込む。
そこで泰斗は立ち止まり、言葉無くして立ち竦む。
神社の裏手には、誰の姿も無かった。
乾いた笑が漏れた。泰斗はあの日のように、味気無い神社の壁に凭れながら座り込む。いつもと同じで、ここには緋真はいない。一体いつになったら戻って来るというのか。約束はどうしたというのか。信じているのに、どうしてお前は戻って来ないんだ。弱音が零れる。あの日の緋真も、今の泰斗と同じだったのかもしれない。恐かったのだろう。泰斗が来てくれないのではないかと、恐かったのだろう。
晴れ渡る青空を仰ぎながら、泰斗は目を閉じる。
刹那に、隣に誰かが腰掛けたような気がした。
それでも泰斗は目を開けず、ぼんやりと思考の狭間を漂いながら、こう言った。
「……家出、でもして来たのか」
ふるふる、と首を振る気配が伝わる。
「大切な人が心配するから、家出なんてしないもん」
はは、そりゃそうだ、と泰斗は笑う。
「どこのどいつだか知らないけどさ、そいつは今、どこでどうしてるんだろうな」
答えは無い。ただ、泰斗の手がそっと握られるような感覚がある。
「たぶんさ、おれが思うに……そいつは絶対に、」
声が震えているのが、自分でもはっきりとわかる。
「――……泣いてるんだろうな」
泰斗は俯く。閉じた瞳から涙があふれ出す。
おれは一日だっただろうが、三日も待たせやがってバカヤロウ。
目を開く。泰斗の手を、雪のように白い肌をした小さな手が握っている。
涙で歪んだその向こうに、ボロボロになった巫女装束を身に纏う、白銀の髪の少女を見た。
その胸元に輝く、少女の宝物である、十字架のチョーカー。
少女の体を抱き寄せ、力いっぱいに優しく抱き締めた。秘めていた感情がすべて、涙と一緒に流れていく。
背に回された少女の腕から伝わるぬくもり。今はそれが、何よりも愛おしい。
「…………おかえり、緋真…………」
そう言って、泰斗は笑い、
「…………ただいま、泰斗…………」
そう言って、緋真は微笑む。
夏の日の、誰もいない神社の裏手で、セミしか見ていない世界で、
泰斗と緋真が、約束を果たす。
そうして始まるは、少女が歌ったひとつの幻想。
少女の奏でる幻想歌が、ゆっくりと、ゆっくりと、始まりを告げる――。
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2005/05/08(Sun)15:31:47 公開 /
神夜
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■作者からのメッセージ
さてはて、これにて【緋真幻想歌】は完結となります。今まで読んでくれた皆様、誠にありがとうございました。
何とも微妙な着地の仕方だったのですが、これが限界でした。……本当はあれですわ、『彼方と惣介が実は知り合いで昔に――!?』とか『《白の刻》と《黒の刻》は実は生きていて――!?』とかそういうサイドストーリーなのか続編なのかわからない内容があるにはあるのですが、たぶんそれを書いたら神夜が破壊されるような勢いだったので封印なのです。それにしても……あぁ、緋真より双劉の方が書いてて可愛かったのは気のせいなのか……気のせいじゃないよなあ。こういうキャラをヒロインにして、長編を書きたい。
さてさて、次回は何を書こうか。ショートに手を出すか、それともまた長編か。……しかしそれにはまず今現在やってるゲームクリアしないと始まらないか。20時間やってまだ中盤辺りってどうよオイ、などと自問自答を繰り返しつつ、またいつか自分の作品でお逢いできれば光栄です。
今まで読んでくれた皆様にもう一度感謝のお言葉を。――誠にありがとうございました!!ひとりでも楽しんでくれた方がいてくれたら感謝極みッス!!
それではまた、どこかでお逢いできることを願い、神夜でした。