- 『月と、太陽……』 作者:たま / 未分類 未分類
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全角15481.5文字
容量30963 bytes
原稿用紙約48.55枚
プロローグ
葉が舞っている。
月の光に微笑みながら風と戯れ、ひらひらと中空を漂いながら冷ややかな夜風に吹かれて、やがてその葉は広大な森の大地に落ちた。大木の根元に落ちた葉は、その大木を見上げる。
齢数千年はあろうかというその大木の幹には這うように蔦が幾重にも絡み付いており、その壮厳さを一層引き立てる。木から伸びる立派な枝には青々とした葉が、すやすやと眠る子供のように、今はお互い僅かに擦れ合ってささやかな寝息を立てていた。微風に揺られて立てるそのささやかな寝息は大木についている葉の数だけ響き、さわさわと心地よい音を森に歌った。
大木達が軒を並べるこの森の中に、一陣の、強い風が吹いた。
風は、森に住まう木や、生き物達の体を優しく撫ぜ、木々の間から漏れる僅かな月の柔らかい光を楽しみながら、やがて目的の場所へやってきた。
この森の大木達の中に於いても抜きん出て大きい、齢幾万とも幾億とも云われる巨木。誰が名づけたか、その木は『月陰樹』(げついんじゅ)と呼ばれていた。
竜のうねるような力強い生命の鼓動を感じさせる地を這う根も、普通の木ほどもあろうかという幾筋にも伸びる逞しい枝も、幻想的に薄霧に隠され夜露を滴らす美しい緑の葉も、ぬらりと月光を照り返す苔を生やした堂々とした、驚くほどの大きさの幹も、それに巻かれた苔むして最早木の一部とも思える太く立派な注連縄も、全てがこの巨木をこの森の主たる神秘で荘厳な存在へと魅せる。
その巨木の幹へ風はやって来て、まるで遊ぶように周りを一周すると楽しげに巨木の葉々を歌わせた。すると、周りの木々達の葉々もまるで合唱するかのようにその歌声を披露した。
ざわざわと響くその音はやがて広大な森全てにまで広がり、鳥や、鼠や、狸など森に住まう全ての動物までが、その合唱に参加した。そして、その動物達は皆迅速に、何かに呼び寄せられるように巨木へ向かって走った。
ざわざわという木々のコーラスに、様々な動物達の歌うソプラノ、アルト、テノール、バス……それらの織り成す大合唱は今や一つ、『月陰樹』を取り囲む形で形成されていた。壮大なスケールで行われる大合唱は、しかし今忽然とその一切の音を止ませる。
水を打ったように静謐としたその空間に、月の光に誘われて、まるで蛍のように淡い光がゆらゆらと舞い降りた。巨木の根元に降りたったその光は段々と人の形を形成していく。やがて人の形を成した光はその淡い発光を一層淡くして、その光は巨木に吸い込まれた。
その光が全て木に吸い込まれて消えた瞬間、爆発したかのように木々と、動物達の大合唱が成った。それは森の大木を震わせ、大気を震撼させるようなものだった。そしてそれは、一晩の間止むことはなかった。
そうして、この誕生祭は一度、幕を閉じた――
『陽の、光り』
青い、青い星。
その青さは、陸よりも海の方が大きいから。
でも、その星の地軸にはまるで生卵を刺すように
紅い紅い十字架のようなものが、衝き立っていた。
それはとても凄絶な光景のようで、
でもそれは、とても優しい物のような気が、した。
人のどよめき、商人達の呼び入れの声、子供達の笑い声。
彼、『サン・ウェリアル・シェクノイア』はこの喧騒が好きだった。人のどよめきには活気が溢れているし、商人達の呼び入れには情熱にも似た熱いものが籠ってる気がするし、子供の笑い声には人を元気にさせるパワーが込められている気がするからだそうだ。
この大きな通りを歩く人達の恰好は皆一様に降り注ぐキツイ日光にやられないようにと薄汚れたフードを被っているのにも拘らず、彼にはこの通りを行く人々が皆笑顔であるように見えた。いつも見ている筈のこの光景すらなんだか新鮮に感じる。
宙を漂う砂埃に目をやられないように少し目を細めて自分のフードを被り直し、道の脇で景気良く客に声を掛けている商人達を横目にやりながら、ぶつかりそうになった子供へすまなそうに微笑みつつ、招待された席へ急ぐ。その足取りは、些か軽いように見える。口の端が吊り上るのを抑えようともせず、鼻歌なぞ歌いながら彼は今、上機嫌だった。
「フ〜ン、フフ〜ンフ〜ン」
年季の入っている立派な木製の扉を開けると鳴る、鈴の澄んだ音が鳴ったのに目を向けた店主は、その歳を感じさせぬ自慢の陽気な笑顔でサンを迎えた。
「おお、来たか! 皆さんお待ちかねだぞ!」
「はい! 店長!」
言いながら着ていたコートを脱ぎ、背中に背負っていた荷物を降ろし、ぞんざいな作りとも言える革の袋の口を開くと中から木製の何かが取り出された。ニスが店内のライトを反射する流線型のボディに、しっかりした竿から伸びる四本の絃。そして『ぺルン』と呼ばれる家畜の尾を張った小さな弓を取り出し、客達に胸を張り芝居がかった口調と共に大仰に手を掲げてそれらを見せる。
「これなるは失われし文明の秘宝が一、古述書に曰く、『バイオリン』に御座います! この木っ端で何が成るかは、その曇り無き眼でお確かめ下さい! では、これより私、『サン・ウェイクス・シェクノイア』めのショーをお楽しみ下さい!」
前挨拶を終えると決して広い訳でもない店内にいる目一杯の客達から盛大な拍手が起こった。緊張と興奮で顔を赤く染めながら、サンは店の中をもう一度見渡した。どれもこれも使い古された様に草臥れた印象を受ける種々のインテリア。もうすっかりお馴染みになった顔の客達に混じって、見知らぬ顔の人の顔も見られるが、その誰もがサンを期待の眼差しで見つめている。
サンは一度ゆっくりと目を閉じて大きく息を吸い肺の中に酸素を満たした後、自分の中に積もる不安と共に大きく吐き出す。目を閉じたまま、自分の胸にそっと手を当てて、破裂しそうなほど早く打つ鼓動を意識的に抑え、もう一度、二度深呼吸をして、目をゆっくりと見開く。優しい笑顔を湛えたままに、左の肩にバイオリンを乗せる。いつもの念入りな手入れによるものか、ニスの匂いが鼻腔をくすぐる。
そっと目を閉じ、顎と肩でそっと胴を挟み、右手に弓を持ち、左手で絃を押さえる。それだけの行為をこなしただけのその佇まいは何故かいつも、観客達の目を奪う。
「………………!」
その緩やかな運びの指遣いが織り成す壮麗で優美な旋律は店の隅々にまで響き渡り、まるで沁み行くようにそこに居る人々の心を和ませた。
飴のように甘やかで、雪のように繊細で、それでいて暖炉に燈る火のように暖かである。この店にいる誰もがその至高の調べに酔っていた。
店の窓から差し込む日光をバックにとると、彼のその特徴的な銀色の髪がキラキラと日光に優しく照り返す。筋骨隆々でもなければ、もやしという訳でもない、中肉中背といった体形。その優しげな面立ちに、ふんわりとした空気。彼は一種の古美術商と言ったところの商いをして生計を立てているのだが、接客を大事とするこの商売は彼にはうってつけの商売であった。彼自身もこの仕事を天職と思っている。祖父の代から続いている職業である。今のところ、サンは三代目だ。
そしてその商売の傍ら、小さい頃から趣味で練習していたこうした旧文明の珍しい楽器を使い、半ばボランティアで色々なところで演奏しているのだ。最初は訝しまれたものだったが、今ではすっかり常連の客もつき、評判になっているものである。それも偏にサンの天性とも言える才能のお陰であろう。
やがて、絹の衣を引いたように滑らかにその演奏は終わりを告げる。一瞬の静寂の後、微笑みながら顔を上げたサンへ、惜しげの無い拍手が送られた。鳴り止むかどうか不安になるほど長く続いたそれは、店長の『ペロット』の合図によって漸く終了した。
「いやぁ、いつも悪いなぁ」
「いえ、こちらこそありがとうございます。忙しいのにあんな邪魔して……」
「いいっていいって。じゃ、これ今日の分ね」
人懐っこい笑顔で快活に言いながら、手に握っていた草臥れた封筒を差し出した。
それを見て、サンは毎度毎度のこの店長の好意に恐縮する。
「いえ、店長こんなに要らないですよ。こっちが好きでやらさせて頂いてるんですから」
「いやいや、サンの演奏を目当てにウチに通ってる人だって少なくないんだ。こんくらいしないとこっちが恐縮しちゃうよ」
肩を竦めながらサンの服の懐に無理やりねじ込んで、用は無くなったとばかりにさっさと店の奥に行こうとして、何かに気付いたように振り返り、
「次回もよろしくな!」
「……よろしくおねがいします!」
帰途に着く前に腹ごしらえをして行こうと思ったのが災いし、今やすっかり日も暮れて夕闇が濃い。自分の家までの残りの距離を考えて大きな溜息を一つつく。
一陣の風が吹き、サンの体を嘗めるその予想以上の冷たさに身震いを一つする。背筋から来るような震えに情けない表情を見せて、思わずその歩みを小走りへとテンポアップさせる。丈夫なだけが取り柄の靴底に踏まれてじゃりじゃりと悲鳴を上げる小石など気にも留めず、次々に風が来るたびにまるで体当たりでもするように目をギュッと閉じて震えを抑える。フードを深く被り直し、自分の体を抱えるようにして寒さを堪える。
脇に石造りの民家のある
通りを抜けてまだ暫く行ったところで、漸く家の門が見えてきた。石造りの門構えの支柱に、観音開きに造られている頑丈そうな木の門。その門には確か『タイキョクイン』と言ったか、なんだか威厳のある家紋が捺されている。相反する光りと闇、と言う意味だそうである。サンには良く意味が分からなかったが。なんせサンがその話しを聞いた時はまだほんの子供で、自分の広い邸宅の探索に夢中になっていた頃である。ほんとに馬鹿みたいに広い屋敷で、サンが世に学びに出るまでの十年間の間に未だ見た事のない場所が存在する。いやはや、祖父恐るべしと言ったところである。
その思い出深い家が近いのだから、自然と歩調は緩くなり、頭の中は暢気な事を考え出す。
「……今日の月は綺麗だなぁ……」
ふと空を見上げると夜の闇を切り抜いたかのように月がきらきらと輝いている。周りに瞬く星達が、ガラスの散ったように点々とある。月の柔らかいような、冷たいような光りを見上げながら、サンは、泣いていた。何時からだろうかこんな風に、月を見ていると自然と目から涙が零れてしまうようになったのは。悲しいわけではない、苦しいわけでも、痛いわけでもないのに、月を見ると、涙が零れる。
ふうと小さく溜息をついて涙を拭うと、なんだか心の中に小さな蟠りを残したような不快感を覚えながらまた歩き出す。
「今日のご飯は何にし……!?」
体中の筋肉が一瞬に緊張して僅かにも動けなくなる。何時の間にか風が凪いでいる。脂汗が頬を伝わって顎にへと降り、滴り落ちる。腹の底から這い出てくるような不安と、脳の中に犇く警鐘。再び跳ね上がる心臓を必死に抑えつけて何とか動く瞼で瞬きを二度、三度とする。自分の呼吸音と心臓の鼓動がやけに耳に煩い。錆びた人形のように首を鈍く動かして恐る恐ると後ろを振り向く。
『陽は、堕ちた……月の出ずる刻限よ』
月夜に蠢く
『うまそな人じゃぁ……食うてやろか』
醜悪の化生
『逃がさぬよぉ』
「うわあぁぁぁぁぁ!!」
夕闇に木霊する、声
闇より出ずる、モノ
時は、刻みだされる
運命は、歩み始める
力は、胎動を始めた……
『邂逅』
昏く、深い闇が支配する森。この地に踏み入る者の悉くを、その神秘と威を以ってこの世ならざるモノへと変貌させたる魔性の息づく森。昼間の木漏れ日と小鳥達の囀りの溢れる、母の様に温かい優美さは欠片も見えない。
木々や獣達が眠りに就き、魔性のモノが蠢く世も更けた刻限。月明かりが絹のように大木の葉々の隙間から零れ、この闇の森にも微かな光りを届ける。時々踊るように吹くやや温かい心地のよい風が葉を揺らす以外、静謐としたこの空間を崩すものはない。その一つ一つが天をも衝かんというような堂々たる木々の立ち並ぶこの森で、今日この日、突然に異変は起きる。
森の最深部、巨木の犇めき合うこの森に於いて、まるで穴を穿ったようにぽっかりと開けた空間がある。美しく、鏡のように澄んだ泉に、ばら撒いたかのように点々とある苔生した岩。それらの中心に位置するように、それはある。齢数万、数億の巨木。その大きな枝は巨人の腕のように力強く、葉々はその小さな生を大きく顕し、石の塔よりも太く頑丈そうな威厳と風格漂う幹に、うねる竜の様に屹とした生命の拍動が聞こえる根。古術書に曰く、
『幽玄たる姿、雲が如く見えども掴めし容なし
堂々たる威風、竜の息吹が如く恐らるるなり
神秘なる鼓動、神の御心と通ず
魔の森に於いて、現世と幽世を橋渡す巨木あり
其は『陽』と対を成し、『陰』の氣を司りし
全てを映すもの 全てを見渡す眼 全てを包む光
名を―――――』
その木は名を『月陰樹』といった。
森の主。魔の王。闇の指先。呼び方は多々あれど何れも畏怖されてきていた存在。
その木の、丁度根元辺りだろうか、幹と根の境辺りに淡い、青白い光りが見え始めた。絹のように柔らかく、微笑むように静かで、そしてどこか冷たげなその光りは、夜空を照らす、月を思わせた。段々と拡がっていく光りは、水面に反射して夜空の星達を照り返した。岩の苔がその光りをきらきらと跳ね返す。やがてそれは開けたこの空間より外にも届くほどになり、森に美しい月の輝きを差した。
そして同時に、森で寝ていた全ての獣達が、木々が、目を覚ます。何かに弾かれたかのように一斉に走り出す獣達。その光景は、あの、誕生祭そのものであった。
感じているのだ。森たちが。彼女の、鼓動を。
歌が聞こえる
清流のように、静謐としていて
雲のように、軽やかで
子供のように、無邪気で
月のように、優しい
歌が、聞こえる
走る。走る。ひたすらに。
もうどのくらい走ったか分からない。息など疾うにするのを止めた気がするのに、自分の呼吸音がやけに耳に煩い。頭が締め付けられるように熱い。喉から漏れる息はヒューヒューと、もう限界だと自分に訴えている。足も、腕も、鉛を付けた様に重たくなっていた。しかし、止まれない。後ろから追いかけてくるモノから、逃げる為には。
『ほれほれ、もそっと早う歩かんかい』
『何時やっても人間との鬼事は楽しいわえ』
『愉快愉快』
闇から滲み出たような不気味な声を響かせて、三面六臂の化生が背後に迫る。三つの獣のような顔の付いた首を回転させながら、肩から生えた甲殻質な腕を器用に動かして凄まじい速度で、今やその姿はサンの体から四メートルと離れていない。木のような巨躯を以ってすれば直ぐにでも追いつく距離だろう。
(最悪だ……こんなところで妖怪と遭うなんて!)
数十年前、或いは数百年前か、妖怪と呼ばれる異形の化け物が地上に姿を現した。その力は人間の及ぶところではなく、また摩訶不思議なる能を持つ。その凄まじいまでの繁殖力と力で、人間は段々と追い詰められていった。しかし、神は人を見捨ててはいなかった。神は、人にそれに対抗し得る力を、与えたのであった。
人はそれを『法』と呼ぶ。『氣』を使い、森羅万象の力を操る凄まじい戦闘の術。今やそれは大体の人が使える。が、中には例外が何人もいる。才、と言うものが今一つ足りないらしい者達。
そしてサンも、その才のない者達の中の一人であった。
「ハア……ハア……ハア……!」
視界がぶれてきて、何処を走っているのかも分からない。滝のように流れてくる汗も、何度もこけてできた傷の痛みも感じない。最早気合だけで走るのも限界である。そう思って何処か隠れられる所など無いかと辺りを見渡す、
『やい人間よぉ、いい加減飽きたでよぉ』
その声が認識できたときには、サンの体は宙高く浮いていた。一瞬遅れて脇腹に馬鹿みたいな痛みが襲ってきて落下中にも拘らず顔を歪める。鉄の味のする口から漏れた苦痛の吐息も直ぐに掻き消えて、必然的に、サンの体はこの星の重力に引かれて、弧を描いて地べたにタックルをかます。しかしそれだけでは終わらずに反動で再び僅かに宙に浮いて、そのまま四回五回と転がって岩に凭れるような形になって漸く止まった。口からは更に血が吹き出てきて、地面を赤く染めた。
『そろそろ腹も減ったし、食おうで』
『少しばっちくなっちまったなぁ』
『贅沢ゆったらアカンで、久しぶりの人じゃあ』
酷い脳震盪のために視界の揺れるサンは頭からも出血していることを知って、苦笑いした。大事に持っていたのに、遂に砕けて木っ端と化したバイオリンと、目の前の妖魔とを交互に見て、ふう、と諦めたように溜息を漏らすとそっと目を閉じる。
(ごめんね、店長。もう演奏できそうもないや)
ふと、緩やかな浮遊感を覚えた。目を開けると、先程の化け物が口惜しそうにこちらを見ている。だがそれもまるでカーテンを閉めたように見えなくなると、また一瞬の浮遊感があり、それが消えたときには自分は青白い、柔らかい光りの目の前にいた。今自分はどうしたんだろうと考えていると、足元を見て得心がいった。
(転移陣……)
誰が描いたのか知らないがこんなとこに在ろうとは、とまた苦笑いを見せ、再びあそこに戻されないように少し横に動く。
転移陣とは、人の持つ氣に反応してそれに繋がる入り口から出口の転移陣へのゲートを開き、一瞬にして人を運ぶという『法』の一種だ。言うなればそれは空間を繋ぐ扉である。苔に隠れてその陣が岩に描かれていた。
そして再び光りのほうを見る。不思議な光りだ、と思う。何が不思議なのか、とは見たものしか分からないそれがあるのだが敢えて表現するなら、神々しいような、思わず平伏してしまいそうな、威を感じるのである。周りを照らしつけているのだからこんな近くで見たなら目が眩む筈なのに、不思議とそれはなく、寧ろ魅入ってしまう。恍惚とした様子でそれに魅入っていたサンの耳に、何か、歌が聞こえてくる。
『夜の淵 我と汝の星の輝き 静謐の幕
いずこより来たりしか 笛を吹くもの 舞を踊るもの
紅の焔に 蒼の氷柱に 唱を詠む
其の輝きこそ 我を照らせよ
いと高きより 出でよ 夜の王
神の御霊 神の結 神の息吹なり 』
悲しげで、美しく、頭に直接響いてくるようなその不思議な歌の聞こえてくるほうを見渡す。それは光りの向う。
「………………」
何の弊害も邪魔もなく、痛みもなく、スッと立ち上がると出血の止まっている頭にこびりついている血を拭う。岩を降りて冷ややかな清水に入り、絡みつくような水の抵抗を掻き分けて木の根元に辿り着く。近くで見ると、もう山と同じ風にも見える、雄壮な、大きな木だ。蔦の絡みついているしっかりした根を掴んで水から身を引き上げる。泉の中央にある最早木となった島に乗り上げ、いよいよその光りのもとへと近づく。馬鹿みたいに太い根と、下手な建物より頑丈そうな幹の境辺。魅入られたように淡々としたサンがそこに手を触れると、
「おわっっ!?」
突然、光りが弾けて中から一人の、女の子が、出てきた。
「ええ……? え、ええ…………?」
その女の子は、サンと同じ、銀色の髪色をしていた。
それは、出会い
それは、始まり
それは、余りにも突然で
それは、余りにも強引で
それは、余りにも悲しい
物語の、一つの鍵
『あなたには、見えますか』
貴方は、見たことがあるだろうか
彼らの血の色を
貴方は、見たことがあるだろうか
彼らの瞳の奥にあるものを
貴方は、きっと知らない
彼らは、僕らと同じであることを
サンは目を点にして、口を間抜けに開いて、何とも可笑しな顔で自分の抱いている少女を見た。
抜けるような白い肌。折れそうな華奢で可憐な腕。漂う甘く、心落ち着く香り。そして、月のような銀色の細く艶やかな髪……。そのどれもがサンの顔をより一層歪ませた。眉根と眉尻が吊りあがってくる。
「……えぇ………?」
溜息と共に思わず吐き出した戸惑いの言葉は深緑の景観に飲み込まれて、ゆっくりと消えていく。今やパンクしてしまった頭を再起動させて、もう一度状況の整理を試みる。
(帰ってて、妖怪が出てきて、逃げて、転移陣で……えぇ?)
またもやパンクしかけたサンを思考の泥沼から救ってくれたのは、何でもない少女の身動きだった。
「ん…………」
「ん? あぁ、気がついた? 大丈夫?」
自分の体を揺するようにしてからゆっくりと体を持上げ、眠たそうな瞳で質問を浴びせてくるサンを見た。
それで、サンは一切の言葉も、身動きもできなくなった。緊張で金縛りのようになり、顔がカアッと熱くなり、赤くなっているのが自分でも分かる。息をしているのかも分からないが心臓は馬鹿みたいに暴れまわっていた。
濡れた吸い込まれそうな黒い瞳。寝起きの気だるそうな息遣い。繊細で上品な顔造り。全体として細くしなやかな体。そしてやはり、月の光りをきらきらと照らし返す艶やかな銀色の髪。混乱から抜け出して改めて見直したその少女はまるでこの世のものとは思えぬほどの美しいそれだった。瞬きの一つ、手、指先の動き一つ一つが芸術とも言える美しさを湛えている。サンは魅入られた様に、動けなかった。
「貴方は、誰?」
口元を綻ばせて微笑みながら、月明かりの中から少女はサンに尋ねた。見蕩れていたサンは体をビクッと跳ねさせてから裏返ったりしながらも必死に声を絞り出した。
「ぼぼ、ぼくは、『サン・ウェリアル・す……シェクノイア』と言います。あ、あ、あ貴方は?」
「私? 私は……私は……『イブ』といいます」
「イブさんですか! いいお名前ですね!」
邪気のないサンの笑顔を見て、こちらもにっこりと微笑んでイブは言った。
「ありがとう」
「あ、いえ、そんな……」
その言葉にサンはまたもや顔が真っ赤になって、慌てた風に手を翳して何本かネジの抜けたような笑顔を見せた。後ろ退ろうにも後ろは泉、前に進もうにも前には月陰樹の根なので、この引っ付いたような体勢から離れられない。その距離は互いの息遣いも感じられるほどで、サンは自分の鼓動の音が聞こえやしないかと不安になったほどだ。
ふと、イブが何を思ったかサンの手にそっと自分の指を絡めて頬に当てた。指を絡められただけでも心臓が体を突き破らないか心配なほどに跳ね回っていたのに、右手の甲に少しひんやりとしたイブの体温を感じた途端、またその瞬間にまた嬉しそうに微笑んだイブを見て、サンは自分の限界を感じた。
「………………!!!!」
乱暴に指を振り解くと、一目散に泉の中へと飛び込んだ。急に暴れだしたサンと、降りかかる水飛沫に驚きながらも恐る恐る水面を覗いてみるイブ。白い水泡がブクブクと沸き立っていてよく見えない。まだまだ目を凝らしてみると
「ぶはぁっ!」
「……!!」
またまた突然に水面から顔を出したサンに小動物のように驚き、心臓の辺りを押さえるイブ。そこにゴメンゴメンと言いながら水浸しのサンがよっこらせと泉から上がろうと島の淵に手をかけたその時、イブのその驚きように遂に堪えられなかった笑いが吹き出る。
「あはははは! どうしたのイブ! あははは!」
「…………〜〜〜!」
真っ赤になりながらも悔しそうに顔を顰めてサンの所まで行き、サンの淵に引っ掛けている指を一本一本剥がしていく。抗議をする間もなくサンは再び泉に落ちる。その滑稽な様子を見て可笑しそうに口元を押さえ蹲って笑うイブ。再び水面から顔を出したサンは、困ったような表情をして、何気なく周りを見回した。何気なく、だ。
『おお、お飯がもう一匹増えてるだぁよ』
『それは良いことじゃあ』
『腹が減ったよぅ』
驚くような速さでこちらへ奔って来るそれを、サンは見た。風の如き速さのそれは、見紛うはずもない、あの妖怪。ここまで追いかけてきたのか。
「…イ……!!」
その名を呼ぶよりも遥かに早く、この世ならざる処に棲みし化け物共はイブの頭へその獣の牙を突き立て
『愚か者。低級な小物の分際で儂に触れるな』
突如イブの所から、いやイブから聞こえた妖艶だが威圧感のある声。サンはポカンとまた馬鹿みたいに口をだらしなく開けてそれを見ていた。サンには、イブがその妖怪の目の前で毅然と立っているようにしか見えない。なのに妖怪は苦痛の叫びと、恐怖に慄いた目をしている。その口からは赤い血すらも窺える。
サンは恐る恐る声を掛ける。
「イ、イブ……?」
『イブ? 虚け者、儂の名は『リリス』じゃ』
「リリス……」
森の中に不思議に響くその声。イブと同じ筈なのになんだか妖艶さを感じさせられる艶やかな声。イブとは違うその自信に満ちた雰囲気。イブとは違う真紅の髪色。イブとは違う冷たさを感じる紅い瞳。そして、イブとは違う、名『リリス』
『た、助けておくれよぅ』
『死にたくないよぅ』
『もう悪さはしねぇ。人も食わねぇから』
ニヤリと笑い、リリスは手を上から下に振り下ろした。するとそれが合図のように、化け物の体が四方に爆ぜた。雨のように降り注いだ妖怪の紅い鮮血は、しかしまるで見えない壁に阻まれるようにしてリリスには一滴たりと掛からず、肉片もそれに習った。かくしてその場には大きな血溜りができた。月陰樹の幹や、泉には妖怪の血がたっぷりと塗られていた。
「あ……ああ……」
サンは、驚愕の表情で自分の顔を固めたまま動けなかった。此の世ならざるモノが幽世へ還っていく呪怨と後悔の叫びが、その場を支配していた。飛び散った鮮血や肉片が灰になって空へ舞い上がって消えていく不思議な光景の中、一人悠然と佇むリリスの姿が、気を失う直前のサンの記憶に強く残った。
リリスはこう言っていた。
「世話になるぞ。主殿」
私はまだ知らない
私の叫びの意味を
私はまだ分からない
私の嘆く意味が
でも時々、不安になるのは
それが分かっていたからだろうか
『昏き闇よりの覚醒』
暗い、昏い闇。
どろどろと粘つきながら絡みつくようで、凄まじい激流のようで、棘のように傷つけるようで。
右を向けども右は無く、左に振れども果てしなく、下を見れども底抜けで、上を仰げば天井で。
歩けども堕つようで、走れども動かぬようで、止まれども回るようで。
全てが曖昧模糊。それは腹の底から這い上がってくるような恐怖。それは胸の内から飛び出しそうな重い重い鉛の塊。耳の奥から聞こえてくるおぞましい呻き声。
それは、此の世ならざる処。
「………………」
彼は、その中にあって、何かを見つけた。
昏い闇の中に於いて蠢くそれに、彼が触れるその刹那。
弾ける。爆ぜる。溢れるは、これもまた、昏い光り。
「おおおおぉぉぉぉおおお!!!」
「しゃあああぁぁぁぁぁああ!!!」
ぶつかり合う、至高の力と力。
その余波は地を砕き、大気を揺るがせ、あらゆる生命を薙ぎ倒そうと暴れのたうつ。
紅く昏く光りの失せたこの世界に、二匹の魔人が交錯する。
「喝っ!!」
「疾っ!!」
爆発する様に弾け合う二匹。と同時に呪文の詠唱が始まる。
『オル・ギズィ=アルフタウムナク ウェリオレイブ・フェシホルティアヌグ ダ・ベシウス カナ・マクリウシス……』
地から響くように、天より轟くようにその音声を鳴り響かせる黒の男。
『ネリウミタリア ヤク=キエミウクシ サスオエルトイア・ジグ・ミー・ガルヴェイブ ナ・ナ・キエルティアウデス……』
糸を紡ぐように、引き寄せるように、侵すようにその音声を響かせる紅の男。
世界のエネルギーは今彼らに隷従し、彼らの織り成す術式を形作っていく。それは破壊するように横暴で、創造するように大らかで。そして只それは、美しかった。
怒涛の迫力で押し迫る光りの奔流。紅の微光が地を迸り、蒼の閃光が中空を飛来し、黄金の輝きが視界を染める。
その圧倒的な力の収束に地は慄き震え上がり、天は狼狽し陽を隠す。大気は罅割れ次元は渇く。
『おお、地の彼方より賜わん。大いなる剣
天の彼方より授からん。破壊の十字架
今、迎えん。闇より来たりし大いなる希望の刻!!』
『冥王よ、我汝が依り代とならん
されば与えよ。惨劇の牙、血飛沫の爪
今、迎えん。光り打ち砕く大いなる絶望の宴!!』
その窮極にまで肥大した力は、彼ら自身にもその影響を与えている。その体からは血が滴り、肉が裂ける。しかしそれでも尚それは止まらず、寧ろ更に膨れ上がっている。
宇宙をも轟かす極大のエネルギー。しかしそれは確実にこの二匹の魔人の掌に収束されている。実に不可思議な光景だった。例えるならビー玉に閉じ込められた宇宙。恐ろしい力を操るのはたった二匹の、魔人。
詠唱が終わり、一瞬の静寂が流れる。それは永遠であり、刹那であり………無限であった。
『黒き十字架(クルス・ヴェスパ)アアアアァァァァ!!!』
『白の鉄槌(べネティアス・ウォルテシア)アアアアァァァァ!!!』
弾ける、空間。爆ぜる、宇宙。
窮極にまで肥大した莫大なるエネルギーが、指向性を持って胎動する。魔人の掌を以って指向性を顕されたそれは、踊るように爆発した。
全ての罪を灼き尽くそうとする光りの奔流が空間を飲み込み宇宙を凌駕し、たった一つのちっぽけな命を昇滅せしめんと荒れ狂う。
全ての光りを噛み砕かんとする紅い闇の激流が空間を破戒し宇宙を侮蔑し、たった一つのちっぽけな命を消滅せしめんと暴れ踊る。
「おおおおぉぉぉぉおおお!!!」
「しゃあああぁぁぁぁあああ!!!」
在るのは、高笑いする憎悪と、怒り狂う涙。
残るのは、眼を灼く閃光と、耳を劈く轟音。
眼が覚めたら、そこは戦闘の真っ只中。
「……へ?」
死んだような眠りから覚めて
死の門を潜り抜けて
死を打ち砕き
死を押し退けて
死を乗り越えて
私は、また死ぬように眠る
「世話になるぞ。主殿」
最早聞こえてはいないだろうことを知りつつも、燃え滾る髪を風に靡かせてリリスは微笑む。
その佇まいは妖艶にして華麗。灼熱の瞳は濡れた様になっているが、しかしその奥には強く硬い自信と信念を見て取れる。
纏う雰囲気は威圧感を伴い、彼女の尊大な微笑を傲慢なものに見せる。
倒れゆく己が主を見守りながら、溜息をつく。
「……頼りない主じゃのう」
漏れ出た声は溜息と共にあり、何も音を遮る物の無いこの空間に心地よく響く。泉も、水の表面張力で音を跳ね返すので、声を響かせるのに一役買った。
その心地よい響きの余韻が大気に溶けて消えた瞬間、今まで固まっていた空気が、凪いでいた風が、ゆっくりと動き始めた。
爽やかな涼風と、キラキラと輝きだした木漏れ日が、俯いたままのリリスの周りを踊る。静かに聞こえ始めた小鳥達の囀りや、木々の歌声も、リリスを楽しませるように、輪唱する。
ゆっくりと、気だるげとも取れる緩慢さで首をもたげたリリスは、もう一度己が主を見た。その眼には彼女を喜ばせようとする風や木漏れ日のダンスは見えない。その耳には、小鳥達や木々の輪唱など雑音にも聞こえる。
ひょいと、事も無げに足を動かして一つ飛びにサンの隣に舞い降りる。音も無く岩場に着地すると、しゃがんでサンの抱き起こす。その顔には苦渋とも苦悩とも取れる苦い表情が浮かんでいた。
「……主よ……儂は…………」
そのまま顔をサンの直ぐ横までもってきて、甘えるように抱きしめる。サンの、子供のような太陽の匂いがした。見た目よりもがっしりしているサンの首に腕を絡ませ、その穏やかな寝息を耳の傍で聞く。サンの体温が服を通して確実に伝わってくる。それを感じながら、リリスはポツリと一つ、その瞳から大きな雫を零した。
名残惜しげにその腕を解き、体を離す。サンの体温は近くに無くなり、寝息は遠くなり、太陽の匂いは分からなくなる。赤く腫らした目元を人差し指で拭い、悲壮な様子で微笑む。
「もう、そろそろか」
再び快い響きを空間に響かせて、彼女はサンを再びそっと、岩場に置く。それはそれは大切なものを扱うような仕草で。
眼を、そっと閉じる。鼻から大きく息を吸い、口で吐き出す。その間、彼女の頭の中では、己が主を案ずることだけが考えられていた。どうか、どうか彼の方にほんの少しの安息を。どうか、どうか彼の方に微かな祝福を。
「………………」
眼を開き、目に映る全てを自分の中の全てに記憶させる。それは己が主。銀の髪を風に流しながら、その優しい顔を木漏れ日に照らされながら、眠るこの方を。
スッと、勢いよく立ち上がる。それは迷いを振り切るため。或いは感情に楔を刺して置き去りにするため。
もう一度目を閉じる。息を吸って、吐く。これでよし。もう、私に感情など存在しない。私は只の化け物だ。
眼を開き、同時に後ろを振り返る。それはもう二度と見ないため。
何を?
――――さあ、もう忘れた。
突如。光りが、一閃舞い降りた。
眼にも留まらぬ光速であったそれはしかし、木の葉の一枚も揺らしはせず。波紋の一つも水面に起こさなかった。
光の降りた先、何かが居た。
それは、人の形をしている。人が蹲っているように見える。しかしそれは絶対にして確実に人ではない。
それは、確かに質量を有した有機体である。命を宿した生命体である。しかしそれは酷く希薄で、不確かな存在だ。
それは、それは―――――
「久しぶり、になるか。リリスよ」
「……どちらでもよかろう」
その妙に響く、美しい声。整った顔立ち。整然とした佇まい。そう、憎しき、奴。
何とも無げに水面に立つ美麗な面立ちの青年。銀色の髪が木漏れ日に輝く。無色の、澱んで濁った瞳は奥が見れない。華奢に見える体型。纏える雰囲気は、高貴にして邪悪。そう、見紛う筈も無く、見違える筈も無く、憎しき憎しき、奴。
「いつまで闇に身を委ねているつもりなのだ。闇の落し子よ」
「フフ。もうその名で我を呼ぶのは卿のみとなった」
「……! 己……!!」
表情は僅かにも変えず、口だけで笑って軽くリリスをあしらう。リリスはあからさまな敵意を男に叩きつけているのだが、男はまるで微風に吹かれるが如く微動だにしない。
リリスはその真紅の髪を怒りで震わせながらも、その瞳を射殺すかのように男に釘付けにしながらも、その拳を血の滲むほどに握り締めながらも、自らの無能さに歯噛みした。何故に、何故に自分はこれほどにも無力なのか。何故こんなにも無能であるのか。何故、何故!
「そう己を責めるな。我と卿とでは、そもそもの出来方が違うのだ。案ずるな。すぐ楽になる」
「笑わせるな!! 己が神に選ばれたとでも言いたいのか、大罪人が!」
大罪人、この一言を聞いたとき、男の表情がちらりと変わった。少々の、怒りを湛えた表情だ。
してやったりの顔をして、更に捲くし立てる。
「お主は神を討たんとし、結果神に見放され地の果てに追いやられた者ども! それが何を以って神の祝福を受けた身だと申すか! 戯けが!」
「フッ……」
一息にそこまで叩き付けたリリスを見ながら、男は微かに、しかし確実に笑った。鼻で。明らかな、あからさまな嘲笑である。
「よいか、リリス。我は天界に胡坐をかいて愚考と愚行の限りを尽くし、無能を晒す偽りの神などの祝福など、其処此処で蠢く人間どもと同様に必要はない。我らの神は、卿ごときでは与り知れぬ高みに居わす神よ」
「フン、どちらが偽りの神だかな!」
負けじとリリスも言い返す。嘲笑の表情と侮蔑の態度をおまけに付けた必殺攻撃だ。
瞬間、男の顔に表情が失せた。リリスの顔にも緊張の色が走る。密かに臨戦態勢を整える。
それを敏感に感じ取った男は言った。侮蔑と、嘲りと、ほんの少しの退屈を混ぜた声で。
「安心しろ。生憎だが卿の相手をしているほどに我も暇ではない。卿の相手はこやつらが致す」
「……!?」
リリスは驚愕した。目の前の男の力量に。器に。
「瞬間移動……だと」
今の今まで何もなかったその空間に、何十、否何百という妖怪の軍勢が顕現化していた。
瞬間移動。それは聞き馴染みはあるだろうが実際に考えると恐ろしく高度な術。そこに確かに在る存在をそこに『居なかった』ことにし、確かに何もない空間に『居た』ことにする。それには因果律やら物理法則やらととてつもなく膨大な量の重複術式を展開しなくてはならない。そしてそれに作用させるに必要な『魔力』やら『法力』と言ったら尋常じゃない。何せそれは要するに瞬間移動の根幹原理であるものを考えれば一目瞭然である。そう、瞬間移動とは、『運命を書き換える』魔術式なのである。当然それには膨大にして強大な魔力法力を必要とされる。そしてそれを正しく展開させ、重複術式を解いていく超人的な演算能力。まして、何百の大群のそれを一度に、となるとそれは……。
それを、この男は。
「化け物め……」
「お互い様だな」
男は哄笑とその昏い気配をそこに残し、最後は自分が闇に溶けるように、掻き消えた。
後に残されていった妖物どもの大群を見据えて、リリスは自分の背筋を伝わる嫌な汗を認めた。蠢くようにきっかけを待っているそいつらは、確かな殺気と狂気を湛えて獲物を見据えている。ウサギを見る狼の眼。シマウマを見るライオンの眼。獲物を狩る狩猟者の目。
きっかけは、風の吹いた拍子に舞い上がった木の葉がリリスの目の前に来た瞬間。僅かな間隙を突いて、化け物共は一斉に呻きとも悲鳴とも取れる雄叫びを上げてかかってきた。
「くっ……!」
先頭の火蓋が、切って落とされた最中。
眼が覚めたら、そこは戦闘の真っ只中。
「……へ?」
彼はポカンと口を開けて、呆けていた。
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2005/07/13(Wed)21:00:55 公開 / たま
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■作者からのメッセージ
どうも。うちのパソコンに異常が発生していてこんなに間が空いてしまいました。
今回は何だか、慌てて書いたので何だか結果が怖い気もしますが、一生懸命書きました。
もし見てくださった方。どうかアドバイスを頂きたく思います。