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『センチメンタルをこえて』 作者:歩く芽 / 未分類 未分類
全角2664.5文字
容量5329 bytes
原稿用紙約9.15枚
 自分の言いたいことを口に出そうとすると、いつも自分の中の何かがそれを塞き止める。
 いくら言おうとしても口が動かずに言葉が出ない。
 そして僕はいつも意志を伝えることができずに黙り込む。
 普通の人ならあるはずの自分の言いたいことを言うということ。しかし、それはやっぱり普通の人での話で、僕は普通じゃなかった。
 自分の言いたいことを言えないなんてなんてもどかしい話だろう。僕はこんなに傷ついているのに。僕はこんなに痛めつけられたのに。
 僕の心はこれ以上となくボロボロになってしまったのに。
 

 僕は窓際の質素なソファーに腰掛けた。
 天気は快晴。
 雲ひとつ無い青い空。窓から暖かい光が差し込んでくる。外で遊んでいる子供達の楽しそうな笑い声が聞き取れた。
 日光が差し込んでいるのに不思議に薄暗く感じる部屋の中。
 ふと僕はテーブルに置いてあるタバコとライターに気づく。
 僕は何となくそれを一本、血に染まった手で箱から取り出し血に染まった手で口元へ運ぶ。
 点火。
「……ゲホッゲホ……ゲホッ。」
 突如、僕はむせる。
 初めての感覚。のどが刺激され口いっぱいに苦い味が広がっていくのが感じ取れた。
 しかし、僕は言えない。言いたくても言えない。
 ――にがいよ、と。
      
             
 
 春の暖かい日に僕は生まれたらしい。
 僕は父さん母さんにとっての初めての子供だったから、父さんは毎日毎日病院へのお見舞いを欠かさなかった。
 父さんはできる限り母さんのために尽くした。仕事の合い間をぬって果物などの食べ物をいつも持ってきたり、母さんを元気づけたり……
 あの父さんが?僕には未だにその事実を信用できない。
 とにかく父さんは優しい人だった。
 僕が生まれるまでは。

 春の暖かい日に僕は生まれたらしい。
 天気は快晴。 
 その日は家族が一人増えるはずの記念すべき日になったに違いない。
 しかし家族の数は変わらなかった。
 僕は母さんを殺した。

 春の暖かい日に僕は生まれたらしい。
 その時のことは当然これっぽちも覚えていないけど僕は生きるのに必死だったのだろう。
 僕はこの地球に出たかった。
 母さんの腹から出て腹の外を一目見てみたかった。
 だから僕は自分の力で外への道をこじ開けた。
 でもそれがいけなかった。それはしてはならないことだった。
 僕は生きるために無我夢中に外へ出た。
 母さんを殺して、エイリアンのように、僕はこの地球に誕生した。
 春の暖かい日に僕は母さんを殺した。
 小さい頃から父さんにしつこく教えてこられたことだ。
 
 そして、父さんは変わった。
 父さんが僕のことを嫌っていることは分かっていた。無視されて放っておかれるくらいならきっとまだマシだったに違いない。でも、父さんはそうはしてくれなかった。
 世間でいう虐待。
 父さんは僕の顔を見るといつも怒りに満ちた顔をする。
 父さんは僕と目が合うと好き勝手に僕の顔を殴る。
 来る日も来る日も父さんは僕の顔を殴り続ける。
 父さんの暴力はとどまるところを知らない。
 アザ、切り傷、ミミズバレ、火傷の跡……
 僕の体には無数の傷跡がある。自分の体でありながら自分でもいくつあるのか分からない。
 そして好き勝手に暴力を振るったあと、必ず最後に父さんは言う。
「お前がかあさんを殺したんだ!」
 僕にはわけが分からない。
 でも僕はいつも黙り込んでいた。
 顔面を殴られている時も皮膚に燃えているタバコを擦りつけられている時も僕はいつも何も言わなかった。
 抵抗すれば殴られる。
 僕は生きる術を知っていたのだ。黙っていれば父さんはそのうち暴力をやめるということを僕は知っていた。
 来る日も来る日も僕は黙っていた。なにがあっても僕は「痛い。」とも「やめてよ。」とも言わない。どんなに苦しいことがあろうとも僕はただひたすらに黙っていた。
 いつの間にか僕は意識しなくても言いたいことを、伝えたいことを言えない体になっている自分に気がついた。
 僕は完全に心を閉ざしてしまった。いや、閉ざしたというよりもむしろ捨てたのかも知れない。
 でも、僕は心を捨てていなかった。今日僕はそれに気づいた。
 ほとんど初めてと言っていいほど強い感情が僕の中で目覚めたからだ。
  「危機感」という感情が。
                 

 
「父さん。」
 タバコを口から離して僕は話しかけたけど、父さんはうんともすんとも返事をしない。
 それどころかぴくりとも動かない。顔を床につけたうつぶせの状態のまま静止している。
 気持ちが悪い。何か返事をしてくれよ。
「父さん。」
 それでも父さんはぴくりとも動かない。何度呼びかけても父さんは床にうつ伏せに寝転んだまま身じろぎ一つしない。
 血が辺り一面に広がっていた。床一面が真っ赤に染まっていた。よく見ると父さんのすぐ側には真っ赤な大きい包丁が置いてあった。
 僕はその包丁に見覚えがあった。それはさっきまで父さんが持っていた包丁。
 包丁を見た瞬間、僕はふと何かを思い出す。それはたった数分前のこと。
 僕の頭の中でついさっきの出来事が一気にフラッシュバックする。
 真っ赤に染まった包丁は、ついさっきまで父さんが持っていたもの。真っ赤に染まった包丁は、さっきまで僕に向けられていたもの。真っ赤に染まった包丁は、父さんの命を奪い取ったもの。僕が……
 ――ああ、そうだ。僕は父さんを殺したんだ。
 
 天気は快晴。
 雲ひとつ無い青い空。窓から暖かい光が差し込んでくる。外で遊んでいる子供達の楽しそうな笑い声が聞き取れた。
 日光が差し込んでいるのに不思議に薄暗く感じる部屋の中。
 吸いかけのタバコがちりぢりと真っ赤に燃えあがる。白い煙をもくもくと出しながら静かに静かに燃えあがる。
 床にはおびただしい限りの黒ずんだ血。
 僕の父さんはその上に寝そべっている。寝息をたてずぴくりとも動かず父さんは眠っている。
 僕は窓際の質素なソファーに腰掛ける。
 その時僕は僕自身の体から大量の血が流れ出ているのにやっと気づく。真っ赤な血が僕の腹から勢いよく噴出しているのに僕は気づく。
 体の力が抜けていく。視界がだんだんと暗くなっていく。死というものを初めて肌身に感じる。
 死ぬ前に一度くらい。
 僕は最後の力を振り絞ってタバコを口元へ持っていく。
 そして力いっぱいにそれを吸う。
 僕は呟く。

「に……がい……」


 
 ――あぁ、やっと言えた
2005/04/13(Wed)15:28:16 公開 / 歩く芽
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