- 『現代社会の人間嫌い 続』 作者:霜 / 未分類 未分類
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全角39909.5文字
容量79819 bytes
原稿用紙約117.5枚
<あらすじ>
人間嫌いの水野和弘は、教室に行かず学校の至る所に生息していた。学級委員長の瀬戸渚は、連絡係(主にプリント)を渡すため日々逃げ回る水野を見つけ出す事に苦労していた。
あるとき、水野の病気を治すために良いかもしれないともう1人の学級委員遠田龍之介が、クラスの親睦会に参加させることを提案する。渚も同意し、水野を親睦会に呼ぶことに成功した。しかし、いつもは見られない彼の病気が悪化し、逃げるように水野は教室を去っていく。後を追いかけた渚に、水野は「学校を辞める」と告げて、去ってしまった――。
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誰もいない学校の屋上。
普段、屋上に出る事は許可されていない。危ないからだ。飛び降り自殺を防ぐため、という理由もある。ただでさえストレスを抱えやすい時代だ。学校の屋上というのはどう考えても危険極まりない場所だった。
そんな場所にいた、一人の男子生徒。最初に出会ったときはいつだっただろうか。詳しい日にちは忘れたけれど、肌寒い季節だった事は覚えている。あと、ここで出会ったことも。
「瀬戸さん。授業始まってますよ」
アタシが振り向くと、そこにはりゅう君がいた。既に授業が始まっていたのは知っている。何故か、出る気がしなかった。
りゅう君は心配して来てくれたんだろう。付いてきて欲しいとは思ってなかったけど、授業を受けられない状態にしてしまったのは悪いと思っている。
「ごめんね、りゅう君。授業サボらせちゃって」
りゅう君は、とんでもないとでも言いたげだ。けれどそれを言わずに、別のことを訊いてきた。
「水野さんは、どうしているんですか?」
親睦会が終わった後、水野はポケットから退学届けと書かれた封筒をアタシに渡して帰ってしまった。それから数日が経つ。本当にあいつは来なかった。
退学届けは今もアタシが持っている。退学するにはまだ余分に休める日が残っている。一ヶ月程度だが、それまでに戻ってきて欲しいと思っていた。
あんな状態を見ておきながら、戻ってきて欲しいなんて言える勇気なんてなかったけれど……。
今でも鮮明に、脳裏に焼きついて剥がれないあいつの苦しみ。あれをもう一度味わって欲しいとでも言うようなものだろう。あの症状は素人が見ても酷いものだった。
「……分からない」
当たり前の事だが、連絡などない。あいつの携帯の番号は一応知っていたけれど、電源を切っているようだった。
「本当に、何をやってんだか……」
例え人を嫌いになったとしても、本当に孤独になる事は出来ない。あいつが言っていた事だ。
いつも見ていた屋上は、どことなく寂しさを感じる。
それは多分、誰もいないからなんだろう。
あいつは、こんな寂しさをずっと抱きながら生きるというんだろうか。
「本当に――」
もう、戻ってきてくれないのだろうか?
人が寄らない、雨をしのげる場所といったらここしか思いつかなかった。天井は鉄筋とコンクリートでがっちり固められていて、よほど強い地震がない限り壊れる事はない。近くのコンクリートの柱には、誰が書いたのか知らないがめちゃくちゃな落書きが描かれていた。○×ムカツクとか、夜呂死苦!! など、卑猥な用語まで書かれている。
ここは、隣町にある橋の下だった。
俺は、学校を辞めてからとりあえず家を出る事にしたんだ。だって、学校辞めたなんて親に言えないから。現代では希少な頑固オヤジが父親なので、強硬手段をとらせてもらうことにした。どんなに頑張っても一ヶ月は休める。渚はもしかしたら退学届けを教師に届けていないかもしれない。教師だって、受け取りはしても残りの休暇を使い切るまでは退学させようとしないだろう。腐っても教師だから。自分勝手な思いやりを相手に擦り付けるのが得意な人間だ。調子に乗って帰ってくるのを待とうなんて考えているだろう。というか断定できる。
そんなわけで、それまでは家出をする事にした。もちろん親には内緒である。帰ったら何を言われるか分かったものではないけれど、もう学校にいる事は無理だった。正直な話、あの親睦会が辛かった。望んでいるのに人といる事が出来ない。それは、分かっていたけれど現実を目の当たりにすると何とも言えない虚しさが残る。
「さてと……」
俺は、寝かせて置いた身体を起こし、下の川で顔を洗った。あんまり綺麗な川ではないみたいだけど、この際我が儘は言っていられない。現在の資金は十万。出かける際に自分の通帳から引き出して置いた。それなりのお金ではあるが、余計な事に使えばすぐになくなってしまう。節約はしておいた方がいいだろう。だから宿も取る気はなかった。
ジャブジャブと顔を洗い、寝癖のついた髪の毛も軽く濡らす。手櫛で無造作に整えてさっきの場所に寝転ぶ。コンクリートの床は少し冷たかった。ダンボールでも取って来ようか。
学校を辞めた今、俺がすることは何もない。しかも、ぶらぶら歩く事もできない状態だ。家出をすれば警察に連絡が行くだろうから。見つかっては元も子もない。じっとしている以外する事がなかった。
今は十時過ぎた頃だ。学校では、変わることなく授業が行われているんだろう。龍之介は多分問題ないはずだ。まだ少し緊張が抜けていないけれど順応する事が出来ている。俺がいなくても問題ない。直子だって、最後の日に見かけることはなかったが、大丈夫だ。彼氏もいる事だし。俺は愚痴を聞いていただけだった。問題ない。渚は――多分……。もともとそんなに深い関係だったわけじゃない。ただプリントを持ってきてくれるというだけの関係。俺がいなくなっても、困る事は無いだろう。喜んでいいことだと思う。けれど、それは俺の本心か? 言い訳じゃないのか? 辞めると口にしたときのアイツの顔。俺はしっかりと覚えているだろ。何も無い無表情に、ほんの少しだけ悲しみが混じった微妙な表情。誰だって、目の前であんな事を言われれば悲しくなるかもしれない。だが、この感情は何だ? あの表情に俺は凄まじい苦しみを覚えた。絶対に見たくなかった――。
渚は、今頃どうしているんだろうか。そう、純粋に俺は思った。勝手に家を飛び出して心配している両親よりも、渚の事が心配でならなかった。
もの思いにふけっていると、鼻の中が急に血なまぐさくなってきた。同時に、つーっと赤い液液体が流れて口に入ってくる。
「うわ、きったねー」
面倒だったので服の袖口で拭ってしまう。すると、服には一本の赤い線が沁み込んだ。その後すぐに鼻血が出てきた。また拭おうとしたけれど、これ以上は服が汚れるだけで無駄だと判断して止まるまで下を向いていることにした。
……きりがない。
放課後、アタシは水野の家を探す事にした。家に引きこもっているような気がしたからだ。夕焼けが段々傾き、陰が細長くなっている。ナンパ野郎に聞いたところ、水野の住所を教えてくれた。代わりに携帯の番号を教えるハメになってしまったが。
水野の家は学校に結構近いところにあるらしい。帰り道の途中にあるので、時間的な問題はなかった。
電柱の上で鴉がきょろきょろと見回している。アタシも周りを見ていると、近くにごみ置き場があった。回収されなかったゴミを狙っているらしい。無意味に、気高いなあなどと思ってしまった。こんなゴミを漁る生き方で命を繋いでいる。生きることに忠実な気がする。人間は、生きる事だけでは飽き足らず、楽しむ事を覚えてしまった。挙句の果てがこんな世界。水野のような人間は、こんな堕落した生活が合わないのかもしれない。一つの事に懸命に生きる事のほうが合っているような気がする。何も気にせず一つの事に集中できる世界。芸術とかを薦めてもいいと思う。ここに順応することが世界ではないのだから。
住宅街のため、そこらじゅう家ばっかだ。正確な住所を渡されても、これではどれが水野の家なのか分からない。この辺りだということは確かなんだけど。
『水野の家は白い壁と青い屋根が特徴かな周りには似たような家ないから多分分かると思う』
ナンパ野郎の言ったような家は、見当たらない。あるんだろうけど、本当に分からない。
「いっそのこと、聞いたほうが早いか……?」
自問自答をして、どこか適当な家に聞いてみることにした。流石に知らない事はないだろう。見知らぬ人の家に聞きに行くのはちょっと緊張していた。怪しまれたりしないだろうか。
目に留まった煉瓦作りの家に聞いてみることにした。門にインターホンが付いているタイプなので、わざわざ中に入る必要がない。庭(ちっちゃかったけど)では、柴犬が気持ちよさそうにだらけていた。四肢を投げだして横になって寝ている。番犬にならなそうな感じだ。五月蝿くないからいいけど。表札を見ると、『鈴江』と書いてあった。
ピーンポーン。
軽快な音が鳴り、しばらくしておばさんの声が聞こえてきた。
「はーい。どちらさま――ブツン」
…………?
急に途絶えてしまったおばさんの声を気にしていると、ドダンドダンと慌てたそぶりでいきなり家から中年のおばさんが出てきた。相当慌てているようで、何も履かずに出てきている。靴下は汚れてしまっているだろう。そのおばさんは、凄い焦りながら門を開けて、いきなりアタシに飛びついてきた。さらに泣き出しながら、
「美穂ちゃん! 美穂ちゃんでしょ!? どうして!」
「……はい?」
わけの分からない事を言い始めるおばさん。どうすることも出来なくて、アタシはただただおばさんのパニックが納まるのを待つだけだった。
数少ないおばさんの言葉の中に出てきた一人の人名、美穂。誰だコイツ?
とりあえず、謎のおばさんをなだめるのには苦労した。だって泣き止まないんだもん。一体アタシが何をしたというのだ。しばらくの時間を費やしておばさんが泣くのを待って、誤解を解いて、水野宅を聞いて。現在おばさんはは水野宅の居間でお茶を飲んでいる。その隣にアタシが。向かい側には水野の親父さんとお母さんが驚きを隠せない様子でアタシを見ていた。
おばさんとはあらかじめ話しておいたのだが、美穂とやらと勘違いしているらしい。誤解を解いたものの、今度は水野夫妻の誤解を解かなければならない。
「……言いたいことはいろいろあるんですけど、アタシは瀬戸渚といいます」
「あ、そうなんだ……」
なにやらほっとした様子で水野のお母さんが言った。親父さんも先ほどよりは落ち着いている。やっぱり美穂とやらと勘違いしていたんだ。
「すごくそっくりなんだけどねえ」
すっかり落ち着いたようで、おばさんが言う。心なしか残念そうに。おかげでアタシは迷惑こうむりまくりだよ。
「瀬戸さんは和弘関係か?」
親父さんは古風な人だった。いっちゃ悪いが古臭いというほうが適している。無精ひげに鋭い目、短くそろえた髪の毛は、どこか大工の棟梁みたいな感じを受ける。服装は今風だけど。
アタシのことが分かったのは、制服を着ているからだろう。まだ名前しか言っていないわけだし。
「そうです。念を押しておきますが、美穂さんとは違います」
「似てるのにねえ……」
再び残念そうなおばさん。水野夫妻も、よほどその美穂とやらと似ているのか、まじまじとアタシを見ている。あんまりいい気分ではなかった。
「そんなに美穂さんと似ているんですか?」
そう聞いてみると、おばさんが。
「もう、瓜二つだねえ」
水野のお母さんが、
「雰囲気はちょっと違うみたいだけど、顔はそっくりだと思うよ? ねえ父さん」
「……そうだな」
雰囲気とは、この殺伐とした性格のことか? たしかに周囲からはタクラマカン砂漠とか言われる。喜んでいいのか悪いのか……。
「その美穂さんってどんな人なんですか?」
聞いてもしょうがないことだが、聞いてみることにした。そっち方面で話をしておいた方がいいと思ったからだ。本来なら水野の容態を聞きたいところだが、対面できない時点で会える状態じゃないんだろう。暗い話の前に明るい話題でもしておきたかった。
だが、その話を切り出したとき、親父さんの眉が微妙に反応したのが見えた。
「アタシの娘なの。凄い可愛くて――別にお世辞であなたの事を言ってるわけじゃないのよ。お世辞じゃなくても十分綺麗だし」
いやまあどうでもいいですけどね。おばさんは嬉々して語っている。
「和弘くんと仲が良くてねえ。昔は良く一緒に遊んでたのよ兄弟みたく仲が良くてね。中学までは一緒の学校に通ってたの」
アタシはおばさんの話を聞きながらお茶を啜っていた。とりあえず成功らしくおばさんは元気を取り戻したようだ。親父さんの反応が気になったが、気にしすぎているだけかもしれない。現在は二人とも優しい目でおばさんを見ている。
「美穂は優しい子でね周りのことを第一に考えるような子なの。……とてもいい子だった」
だった? その言葉を聞いてアタシは失敗したと思った。どうしてアタシがおばさんと会ったとき、泣くほど感情が昂ぶったのか。いつも会っているような状態なら、制服が違う程度の疑問しか持たないはずだ。会える状態じゃないから昂ぶったんだ。
現に、おばさんはまた泣いていた。鼻を啜りながら。
「アンタ……気を遣わせようとしたんだろうが、内容がまずかったな。美穂ちゃんは死んでるんだよ。だから驚いてたんだ」
親父さんが淡々と語りかける。
死んだ……。
後悔が、アタシの中で膨らんでいく。死んだ人間の事を思い出させて喋らせていたんだ……。愚か者だアタシは。アタシを見ている親父さんの視線に耐え切れなくなって、アタシは自分の足を見た。それ以上顔を上げる事が出来なかった。
「すみませんでした……」
知らなかったなんて言い訳はできない。ただ謝る事しか出来なかった。
水野のお母さんが、
「別にいいのよ。義姉さんが喜んで話していたから聞いてみたんだよね」
親父さんが、
「まあそういうことだな。そんなに落ち込みなさんな。姉貴だって乗り越えて生きてんだ。あまりにもそっくりなアンタが来たからだろう。普通は泣かん」
まだ泣いているおばさんの姿を横目で見て、本当に申し訳ないと思った。アタシの周りでは人が死ぬということがなかった。両親の親はどちらも健在だ。今暮らしている場所とはかなり離れているため、たまに会いにいくことはあっても墓参りに行く事は無い。
死ぬということがこんなに辛いものなのか。その想いが強く残った。
「本当にすみませんでした」
今度は顔を上げて、深々と頭を下げる。これくらいの事しか出来ないから。せめて本気で謝りたかった。再び顔を上げると、おばさんは泣くのを止めて、必死に笑おうと努めていた。アタシに気を遣わせないためだろう。ティッシュで涙を拭って、懸命に笑っている。アタシも無理矢理顔を笑わせた。
「ごめんなさいね。急に泣いちゃって。おばさんね本当に嬉しくて。姿だけでも高校生の美穂ちゃんが見れたから……ねえ渚ちゃん。一度だけ、美穂ちゃんて呼んでいい?」
そんなことは容易い。
「いいですよ」
おばさんは、本当にアタシを美穂と重ね合わせているんだ。やっぱり、位牌の後ろにある写真と実際に生きている人とでは、感じるものが違うんだと思う。アタシは、このときだけ、本物の美穂に成りきる様に決めた。美穂ちゃんは優しかった。砂漠の真ん中にあるオアシスのように。
「美穂ちゃん」
私は微笑みながら、こう言った。
「何? お母さん」
再びおばさんは泣き出してしまった。当たり前といえば当たり前だろう。そんなことをしたのだから。けれど、罪悪感は皆無だった。哀しくて泣いているのなら、覚えるだろう。でも、おばさんの涙は感涙といった方が近かった。とても嬉しそうに、泣いていた。
私達は、おばさんを家まで送ることにした。段々暗くなってきていたので、そろそろ帰った方がいいと考えたからだ。おばさんも、アタシも。水野夫妻がおばさんの家まで付き添ってくれていた。
おばさんが家の門をくぐる前、
「渚ちゃん。本当にありがとうね」
深々と頭を下げてお礼をしてきた。何を言ってよいか迷っていたアタシに、顔を上げて微笑んだ。それで満足したのか、おばさんは家の中に入っていってしまった。謝っておいたほうが良かったんだろうか? といっても、既に余計なことをしているので出来そうにはなかったが。
来るときは夕焼けだったのに、今はもう蒼暗くなっている。そろそろアタシも帰らなければならない。水野のことについては次の機会にしたほうが良さそうだ。どうせまだ日にちはあるわけだし。
「今日はご迷惑掛けてすみませんでした」
アタシは水野夫妻に向けて深々と礼をした。
「いやいや、こっちこそ姉さんの我が儘聞いてもらったわけだし。そんなに気にする事ないわな」
「本当。ありがとね。渚ちゃん」
「……いえ」
「それに、和弘のことできたんだろ?」
「まあ、そうですけど」
水野夫妻は、なんだか深刻そうな様子だった。苦虫を噛み潰した、という表現が適切なのだろうか。相当やばい事になっているとか……。
「どうせアイツについて話すことなんてほとんどないんだがね」
それは、知ったこっちゃないということなのか。そんな風には見えないけれど。
「どういうことですか?」
「家出したんだよ」
「は?」
「あいつは自分の通帳とカードを持って出た。しかも、既に金は下ろし終わってるみたいだな。ちょくちょく下ろしてたんじゃ見つかると考えたんだろ。書置きもあったんだが……一ヶ月ぐらいで帰るとさ」
「警察に頼んだんですか?」
「一応頼んだけどなあ……あいつは昔から妙な方向で頭が切れるからどうだろうな」
親父さんは、ほれっ、と言って何かをアタシに投げた。弧を描いて飛ぶ物体をアタシは両手で受け止めた。両手にすっぽりと入る大きさの硬い物体。携帯だった。連絡が付かなかったのには、こういう理由があったのか……。
「警察に渡さなくていいんですか?」
「どうせろくな友達いないんだ。あの性格だからな。誰の番号もアドレスも登録していない。役に立つはずがないんだ。持っていたいならもっていればいいさ」
「赤の他人ですよ」
そういうと、親父さんは微笑んでアタシを見た。
「それならそれでいい。帰ってきたときに渡してやってくれ」
親父さんはそのまま、お母さんの方は律儀に頭を下げて、後を追う様に去って行く。言いたいことは色々あるのだが、どうしても言葉が出てこない。
しかし、一ヶ月か。学校を辞めるまでは帰らないということなんだろう。親父さんは微妙に突き放したような感じだったが、水野が言うにはそんなこと許さない人だったはずだ。この差は何なんだ? 頭が切れるからって、所詮子供じゃないか。警察から逃げる事だって容易じゃないはず。情報提供する気になれば、案外早く見つかるかもしれないというのに……。
分からない。
アタシは、しばらくその場所で考えていた。
周囲が暗くなって見えなくなるまで、アタシはずっと考え込んでいた。
これで、アタシはどうするべきなんだ?
学校で待っているのか? そんなの放っといて探しに行くべきなのか?
どうしたい。アタシハドウシタイ――。
残りのお金は九万五千ちょっと。家出をしてから数日が過ぎる。とりあえず食費にこんなにかかるとは思っても見なかった。学校に行っているときは、昼食代として一万もらっていたのだが、三食となるとかなりかさむ。料理をするわけにもいかないので、もっぱらコンビに弁当で食いつないでいるわけだが、このせいでもあるんだろう。ちょっと高すぎるような気がする。お金のありがたみが分かってきたのかもしれない。
しかし、そんなことを思っても一ヶ月以内に帰る気は無かった。学校が自分の居場所ではないと分かったわけだし。これからどういう生き方をしていくか。それを考えるための期間でもある。あんなに頑張ってくれた渚には悪いが、仕方の無い事だろう。これ以上あそこにいても迷惑をかけるだけだ。
現在は夜。人気の少ない道路をとぼとぼ歩いていた。一日分の食料がはいったレジ袋を左手に下げて。空にはたくさんの星々が瞬き、地面を青白く照らしている。街灯も当然あるので夜にしては結構歩きやすかった。……散歩している犬に会わなければの話だが。さっき思いっきり吼えられたのでちょっと落ち着かない状態だったりする。
本当なら、こんな時間に歩くのは止めておいたほうがいい。夜は危険だし。近頃はどこでも犯罪や殺傷事件が多発しているので、出歩きたくは無かった。けれど、朝や昼に出歩くとあまりにも不自然なため、こんな時間帯でないと動けない。警察にも連絡が行っているだろうし……。ある意味自由を求めて家を出たようなものなのに、ここまで制限されてしまうのは不満だった。
「ったく……時間潰すのもそろそろ苦痛になってきたしなあ」
基本的にあの橋の下から動いていない。人の通りがかなり少ないためだ。一日に数人ぐらいは通るけれど、見ただけで気分の悪くなる絵柄の書かれた橋の下をわざわざ好き好んで通るような人間は一人もいない。警戒はしているけれど、今のところ大丈夫だろう。ただ、暇なのだ。一日分の食料を買い込む以外あそこから出る事は無い。朝から夜にかけてずっとあそこにいるわけだ。暇なんてものじゃない。退屈で死にそうだった。どうしようもない事だけどどうにかしたい。マジで。
川岸の歩道を歩きながら、俺は早くもホームシックになりかけていた。家が恋しいというか、ベッドが恋しい。一応ダンボールで寒さを緩和している状態だが、比べようも無いほど劣悪な環境だ。ゲームもないし。漫画もないし。なんだか本当に一ヶ月耐えられるのか不安になってきた。
と、俺は前方から聞こえる話し声に反応して身構えた。男の声と女の声がしてくる。足音からして二人。談笑しているところからして、ただの散歩だろうか。……っていうか、何故に俺はそんな反応しなければならないんだろう。最近、人に対する神経が過敏になってきている。安定剤は飲み続けているものの、これは獣がする警戒に近い。威嚇はしないけれど。
「でね〜。だっくんつたらすごいんだよ〜」
「またアイツやらかしたのか? 毎回毎回注意してるんだけどなあ……」
落ち着け。ただのカップルだ。だっくんなんて知らんし関係ない。俺は自分に言い聞かせて再び足を動かした。
街灯の光の円に入ったカップルは、こちらからでも姿を見ることが出来た。小柄で髪を赤く染めている女と、男にしては長めの黒髪の男。ちなみに俺より長身。
二人は、仲良く手を繋いで歩いていた。熱いというより暖かいが適切だなあとか思いながら、俺は眼を合わせないようにして通り過ぎようとした。だが、
「あ! 家出!?」
女の方が、俺に向かって何故かばっちり正解の質問を投げかけてきた。何故ばれたのかはともかく、逃げなければならない。俺は、二人に背を向けて逃げ出した。けれどさらに、
「おーい、逃げなくてもいいんだぜー。似たもん同士だ」
男の呼びかけで、俺は足を止めた。振り切って逃げる事もできたのに。
「あんたら何だ?」
俺は率直に聞いてみることにした。
「そうだなあ。同じ家出仲間って言ったわけだから……仲間集めしているもんって言ったほうがいいかな?」
はあ? 家出に仲間も何もないだろうに。
「どうせ寝ることだけでも大変なんでしょ? だったら、うち来ない? 外で一人寂しくいるよりはいいけれど」
女が何気なく言った言葉に、俺はどうしてか何も言えなかった。正論、という事なんだろうか。
「明日から雨降るっぽいし。行こうよ!」
女の代わりに男が手を差しのべる。俺は、その手を握る事は出来なかった。あくまでも人間嫌いだから。いくら過ごしやすい場所を提供されたとしても、人といることに抵抗を受けないはずが無い。
「まあ、無理強いはしないけどね」
女は、残念そうにそう言った。男の方は、特に何の変化も無い。慣れているんだろうか。初対面の人間にいきなりこんなこと言っているわけだし。
「でも、独りって寂しいと思うんだけどなあ」
女の寂しげな微笑と、直子の顔が重なる。あいつ、彼氏と別れたときこんな顔していたような気がする。孤独を知っている者の笑みだった……。
「……話だけ訊く。それから考えるよ」
俺は二人の後を付いていく事にした。何故かは分からない。独りが寂しいからかもしれない。学校を辞めてまで独りになろうとしたのに。一体、俺は何なんだろうか……。
空には無数の星々と共に大きな月が掛かっていた。とても鋭利な三日月が。そして、遥か遠くから大きな雲が近づいてきていた。不吉な三日月を覆い隠す暗雲は、果たしていいことなのだろうか、悪い事なのだろうか。
分からない。けれど、惹かれるものではあった。
にぎやかな町からだいぶ離れた住宅街。その中でも辺境にある、寂れたアパートの密集地帯。昔はにぎやかだったんだろう。たくさんの高い建物たちが、老塊と化してただただ朽ちていくのを待っている。ゴーストタウン。そんな風にも呼べる場所だった。
俺が案内されたのは、そんなボロアパートの一室。来客用というか、普通に寝室と見てもおかしくない有様の部屋だった。何とも殺風景な部屋だ。飾るものが全く無い。床には毛布が数枚散乱していた。その他には、使えるのかどうか怪しいほどところどころ陥没している扇風機や、カップラーメンのカップ(だけ)などのゴミが。
「家賃安くていいんだよね〜」
女――菅原明美はカラ元気な様子で説明している。ついでに毛布をかき集めて隅っこの方に寄せていた。このありさまを気にして少しはマシにしているんだろうが、あんまり意味は無かった。男の方――菅原大樹は適当なところに座ってタバコを吸っている。
「適当に座っちゃっていいよ」
「……ゴミ片付けてから座らせてもらうよ」
俺は放ってあったゴミ袋を拾い、その中にゴミを放り込んだ。幸い部屋が狭かったので数分で終わった。ゴミのしたにはカーペットがあり、しみで何ともいえない状況になってはいたのだが、コンクリートよりはマシだったので良かった。
俺は改めて座って尋ねた。
「それで、あんたら何なんだ?」
「何なんだって言われても〜。……夫婦?」
「ちなみに、明美が僕の名字勝手に使っているだけだから気にしないでね。僕ら十八だけど、未成年は親の承諾がないと結婚できないらしいから」
意味が違う。気になったけど論点が違う。
最初の方は半信半疑だったが、本当に気前がいい(能天気も少し入っている)人らしい。騙してお金を巻き上げるような人間化もしれないと思っていたけれど、そんな様子もなさそうだ。隙はいくらでもあったのに、そんなそぶりは全く無かった。
「何で家出だって分かったんだ? あと、連れて来た理由がわからない。何の徳がある?」
「ああ。それはねえ」
大樹が俺を指差し、簡単だ、と言いたげな目で見た。
「服がボロボロ。ついでに汗臭い。汚れ具合も丁度いいし。髪の毛も数日洗ってないでしょ? 川の近くにいたから水で洗ったのかもしれないけど、独特の脂っこさが見える。あと目かな」
「目?」
「絶望しかけた虚ろな目でありながら、必死に何かをしようとする意思がある。人は目で分かるんだ」
訊いた事があったようななかったような……。
つまりはそんな人間が家出をする人だということなんだろうか。たしかに、家出をする人っていうのは何かしら理由があるだろう。意味も無くしたいというのはあんまり考えられない。現実に、目的がある自分でも厳しいし。
大樹は、そのまま話を続ける。
「実はね。僕らも家出してるんだ。といっても随分前からだけど。僕は最初一人で適当なところで野宿してたんだけど、偶然明美と遭ったんだよね。一瞬でこの人は僕と同じなんだって分かった」
「その後、一緒に済むことにしたんだよね〜」
そんなに前から一緒なのに、二人は新婚の夫婦みたいに暖かい。支えあえる仲だからこそなのかもしれない。
「一緒に住むといっても、未成年だけで借りる事なんてできないんだよね。だから、ここは師匠の名前で借りさせてもらっている。師匠っていうのは、仕事先の先生なんだ。それはどうでもいいとして、僕らは家出をする事の難しさを知ってる。だからこそ、家出をする人たちを手伝いたいと思ってる。今、ここにもう二人一緒に住んでいる人がいるんだ。僕たちが誘ったんだけどね。ここにいるのも、出て行くのも自由。僕らは一緒にいて楽しいからここにいるんだ。君もそれを求めているのなら、気が済むまでここにいていいんだよ」
一緒にいることの楽しさ……か。どうしてだろうな。この二人と一緒にいても、全く抵抗が無い。安定剤を飲んでいるからというのもあるけれど、純粋に、安らぎのようなものがある。他の人たちも、似たようなものを受け取ったんだろうか。
「一つだけ、疑問がある。無料ではないんだろう?」
俺の質問に、大樹は頭を掻きながら笑った。
「実のところ、一人自立しちゃったせいでやりくりが大変でねえ。まあ、嬉しい事なんだけど。君が家賃として一ヶ月五千円払ってくれるなら有難いんだよね。もちろん働くアテが見つかってからでもいいし」
まあ、そのくらいなら安いものだろう。どうせこっちは一ヶ月だけだ。九万あれば普通に問題ないだろう。水だって飲めるわけだ。症状も今のところ何も出ない。
「分かった。悪いけど、しばらくここに居させてもらうよ」
「やった〜!」
嬉しいことなのか、明美は狂喜乱舞して掴んだ俺の手をぶんぶん振り回している。ちょっと痛いけど、悪くはない。さっきまであった、一ヶ月耐えることが出来るのか心配していた気持ちも、薄れていた。たしかに、独りよりもみんながいる方がいいのかもしれない。心を許せそうな仲間が。
「とりあえずシャワーでも浴びてきなよ〜。久しぶりでしょ? 気持ちいいよ〜」
大樹がバスタオルをもってきて、バスルームに案内してくれた。あと、肌身離さず持っていられるように、と防水の袋も渡してくれた。財布を盗られたいようにということらしい。警戒することはは仕方の無い事だと思っているんだろう。俺もそれを完全に解く事はできそうになかったので、有難かった。遠く離れた国々のストリートチルドレンも、こうやってみんなと暮らしているのかなあと考えながら、俺は久しぶりに暖かい水を身体に浴びせた。
本当に、すごくさっぱりした気分になれた。
シャワーを浴び終え、外にあるタオルを取ろうとした時、自分の服が無い事に気付いた。いや、あることにはある。けれど、それは自分の服じゃなかった。ちゃんとたたまれている綺麗なTシャツとジーンズ。もちろん汚れはない。
着てよいのかどうかちょっと躊躇う。なんだか綺麗すぎて抵抗があるのだ。一応はああいう生活に慣れていたということなんだろう。
しばらく迷っていると、居間へ続くドアが勝手に開いた。
「うおっ!」
「あ、それだいくんのだから。大きさ合わないかもしれないけど、我慢してね」
下はバスタオルで隠していたのだが、それでも見られるのは恥かしい。一方、何の反応もしない明美は、ニヤニヤしながら言ってきた。
「そんな恥かしがるほどいい胸板してないじゃん。まだまだ子供だねえ」
「……やかましい。自身が無いから恥ずかしいんだよ」
アハハと笑って、バタンと閉まる。この女、デリカシーというものが無いんだろうか。
いつまでも上半身裸でいるわけにはいかないので、ありがたく借りる事にした。長身の大樹の服は案の定、大きくてぶかぶかだ。半そでなのに肘が隠れるぐらい大きい。寝巻きみたいだ。ジーンズの方は、ちょっと捲くるだけですんだ。実は短足だったんだな。
着替えを終えて、今に戻ると二人ではなく四人になっていた。自分と同じくらいの身長で、金髪にピアスという不良学生みたいな男と、長髪で男と女の区別が付かないヤツがいる。
彼らは、缶に入った飲み物を飲んで盛大に騒いでいた。大樹の顔がちょっと赤い。多分酒だ。
「おっ、コイツが例の新しい住居人?」
金髪の声はやかましいくらい大きな声だった。アパートなのにこんなに騒いで大丈夫なんだろうか……。気になったがこれだけ騒いでも来ないところ、気にしていないのか、それとも周囲に誰も住んでいないかぐらいだろう。ここに来たときの印象を考えれば、誰もいないと考えた方がいいかもしれない。
「そうだよ〜。水野っていうの〜。キャハハハハッ。裸見られて恥かしがってた〜」
良く分からないが、明美は泥酔状態のようだ。足元がおぼつかない(座っているけど)状態だった。
「……ヨロシク」
俺は簡潔に挨拶をして適当なところに座った。これは個人的な好みだけど、こういう騒ぎは好きじゃない。度を越えている、というのが嫌いなんだ。
「よっしゃああっ! 今日は祝いだ! 酒だ! 飲み明かすぞぉおお!」
何なんだこのテンション。独り忘れ去られたような感じだ。いや、もう一人普通の人がいる。あの男女だ。ちびちび酒を飲んではいるけれど、テンションは高くなかった。限りなくどん底のようにも見えなくは無いが。俺はそいつに声を掛けることにした。
「よろしく」
「…………」
反応が無い。無視しているんだろうか。というかそれ以前にこっちを見ていない。床を見ながらぼうっとしている。俺は覗き上げるようにしてソイツの顔を見た。そこまでしてコミュニケーションをとる必要は無いんだけれど、話し相手がいないというのもなんだか寂しい。下から窺えたヤツの表情は無表情だった。ついでに目つきが凄く悪い……。
俺が元の姿勢に戻ると、男女も顔を上げて、
「……よろしく」
……何なんだろう。もう少し話しかけてみるか? 明美が大樹に抱きつきながら寝息を立てている。大樹はほろ酔い状態で金髪と同等に騒ぎまくっている。この男女はいつもこんな感じでここにいるのだろうか。精神的な壁で拒否をするという点で同族的な感じを受けた。親近感とでもいうのだろうか。そんな感じのものが俺の心の中で芽生えていた。
「あんた男?」
端的で率直な疑問。名前を聞いたほうが良かったかもしれないけれど、どの道気になるのはこっちだった。男女は、どうしてかこっちの方にすばやく反応した。
「男だよ。悪いか」
ちょっと不機嫌になったらしい。失策だったかもしれない。俺は一応名前の方も聞いてみることにした。
「名前はなんていうんだ?」
「椿」
一言。とても分かりやすい。でも男と女の区別は難しい。性別を聞いておいて正解だったかもしれないと思った。ついでということで金髪の名前を聞いてみると「武敏」というらしい。なかなか男らしい名前だと思う。
俺は目の前に置かれてあった酒の缶を手にとって玩んでいた。飲むべきか、飲まざるべきか。一応未成年だし。まあ、どうせそんなの守っているヤツはほとんどいないんだけどね。高校生で飲酒経験のある人というアンケートの統計を見たことがある。高校生は八割方が経験有りだった。法律違反なのに。ちなみに俺は二割に当たるほうだ。今までアルコールなど飲んだ事が無い。一体どんな味なんだろうか。何となく守っていたけれど、今は破ってみたい気持ちに駆られている。
「飲めないの?」
俺の様子をずっと見ていたのか、椿が聞いてきた。
「飲める飲めないの問題以前に飲んだ事が無い」
「ふーん」
そんなに珍しいのか、鋭い目をちょっと大きく開いて俺を見ている。そんな目で俺を見るなよ。
「飲むの?」
「出されたからには飲むべきだろう?」
「そうだね」
俺は意を決して(別に悩むほどのものではないと思うけど)プルタブを開けた。するとシュッという音と共に中から泡のようなものが出てきた。段々膨張していくので、俺は手でそれを押さえてしまった。狭くなった入り口に集まった中身は、最終的にはブシャアっと飛び出し、顔面を直撃した。野球で優勝したときにやるビールかけの原理だろう。玩んでいたせいでなったのか、誰かがそうなるべく仕込んだのか甚だ疑問だが……ちょっと怒りたい気分だった。
「ギャハハハ! やっと飲みやがった! ひっかかったぜコイツ!」
武敏が馬鹿みたいに笑って指をさしている。この金髪野郎……。
「ゴメンね〜。これ僕たちの歓迎会なんだよね。そのために服交換してもらったわけなんだけど――」
俺には大樹の言葉など全く聞こえていなかった。玄関へと逃げて行く武敏を追いかけ、外に出たところで捕まえて、関節技をかけるまでは。
戻った後は普通に初めての酒を堪能し、喉が焼けるような感覚を味わいながら、新しい仲間との団欒を楽しんでいつの間にか寝てしまっていた。
久しぶりに味わえなかった、『楽しい』と思える時間だった……。
ここに来てから一週間が過ぎようとしている。ここの暮らしはなかなか楽しいものだった。誰かが誰かに束縛される事など無く、自由に暮らしている。住人達は外に出たり、家の中でくつろいでいたりと適当だ。暇だったら適当に話したり、カードゲームで楽しむ事もできるし、人と交わりたくない気分になったら、適当に散歩にでも出かければいい。ここら辺はアパートが中心のため、警察が捜索に来る様な場所ではない。未成年にアパートは貸し出せないから。パトロールみたいなものはあるかもしれないけれど、近くにある公園は竹林で自然を楽しむようなところなので、場合によっては茂みに隠れる事も出来る。
俺は今、夜の公園を散歩しているところだった。
綺麗に洗ってもらった自分の服を着て、ざわざわとざわめき立っている林の中をゆっくりと歩く。空を仰ぐと、長い竹の隙間から、綺麗な星が見える。雲が無いため、街灯が無くても十分明るかった。青ざめた雰囲気が、幻想的な空気を作り出している。
俺は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。ここの空間だけ、空気の質が違うように感じられる。数回深呼吸をして再び歩き出した。
変わっているようでほとんど変わらない一本道の風景。人々の人生を例えるのなら、このような一本道なんだろうか。そこにいろんな障害や、上り坂があって。道も途中で分岐するけれど、最終的には『死』という一つの終点へと着く。全てを包んだ一本の線。
俺は今、何処にいるんだろうか。多分分岐点だとは思う。これからの行動次第で残りの人生が変わってしまうだろう。学校を辞めて、適当に働き先を決めて。今は分からないけれど、最愛の人と共に子供を育てる。このまま行けば、そんな道になるんだろうか。学校に行き続けていたらどうなるだろう。大学に進む気は無い。もし専門学校に行くとしても、その後はやっぱり就職して、同じ道を辿るのかもしれない。結局は、どんなところで働けるか、ということの違いだ。決して小さくは無いが、流れで見てみると些細な事のように思える。お金は大事だけど、暮らせる程度ならそれでいいなどと考えているせいでもあるんだろうが。
今考えてもどうしようもない事が、無意味に頭の中に入り込んでくる。
将来なんて、考えた事もなかったな。
――所詮は生き物。どこで死ぬかなんて分からないもんね。これから数分後にあなたは死んでいるかもしれないよ?――
突然、誰かの言葉が聞こえてきた。周囲を見回すが、誰もいない。たしかに声はしたはずなのに。
「……なんだ? 誰だ?」
しばらく警戒して、辺りの音に耳を済ませてみるけれど、葉の擦れる音しか聴こえてこない。ざわめきが不安を呼び、段々とそれを沈めていく。
空耳だったんだろう。多分。俺はそう決め付けて、再び足を動かした。
まったく。せっかくいい気分でいたのに。
しかし、なんだか気になる。いかにも予知みたいな感じだった。数分後に死んでいるかもしれない。信じる理由は無いけれど、考えてみたらぞっとする――はずだった。俺は、そんな先刻のようなものを受けたのに、それについて死ぬかもしれないと考えていたのに、恐怖が無かった。いや、多少はある。不安、のようなものが。でも、無理に拒否する事が出来ない。受け入れるのなら、受け入れても良い。そんな感じの気持ちが湧き上がってくる。
何なんだ?
自分の心が分からない。死というものをよく知らないわけではない。むしろ、人並み以上に知っているはずだ。だって――。
そこで俺は、さらに何かに気が付いた。だって……何だ? 俺は誰も死ぬところなんて見たことが無い。爺さん婆さんは俺が生まれてすぐに墓行きだった。悲しみなんて皆無に近い。何だ? これは。俺は何を言おうとしていたんだ? どうでもいいことではある。けれど、とても大事な事のような気がする。
俺は走った。一本道を闇雲に走り出した。凹凸の多い土の道を全速力で駆け抜ける。自分はどうしたんだろう。誰かに訊きたくてたまらなかった。
一本道の途中で、わき道に入った。道ではない。竹やぶの中を走り抜けていた。この先には、開けた公園がある。そして、公衆電話がかろうじて残されていたはずだ。俺は公園の入り口付近にある公衆電話に向かって、全力で走り続けた。
ボックスを素早く開けて入り込み、受話器を乱暴に掴み取り、小銭を入れる。そしてボタンを適当に押した。自分の知っている、一番最初に思いついた番号を即座に押した。
プルルルルr――
何度も何度も途切れては鳴り出す無機質な音。それに苛立ちつつも、誰かが出てくれるのを望んでいた。
衝動的な想いが一つの結論を生む事もある。
ピッ
軽快な音を立てて電話は通じた。相手はゴソゴソと動きながら、言葉を出すために息を吸っている。
「はい。瀬戸ですが」
その電話の相手は、渚だった――。
「あ……えーと」
俺は何を話してよいか分からなかった。電話をかけたかっただけで、その後のことは何も考えていなかった。
渚の方は、その声だけで俺のことを判断したようだ。
「水野!」
かなり大きな声で渚は叫んでいた。受話器をすぐに遠ざけて、ゆっくりと再び耳に近づけていく。
「そうだけど、それがどうかした?」
「どうかしたじゃないだろう……! アンタなにやってんだ!」
声は小さくなったものの、相当怒っているらしくちょっと怖かった。
「なにって散歩」
「嘘付け! 家でしたって訊いたぞ」
「嘘じゃあないんだけどね。家出してんだけど、散歩してたんだ」
「ふざけんな……。卑怯者」
卑怯者か。学校を逃げて、家から逃げて、渚からも逃げたことを言っているんだろうか。俺は自嘲しながら同意していた。
「まあ、罵りはそのうち聞かせてもらうよ。あんまり金使いたくないから口で言ってくれ。てか、俺がかけた番号はお前の番号だったのか?」
「これはアンタの携帯だよ。アタシが預かってる」
「何で?」
「親父さんから渡された」
何をやっているんだろうか。あの親父は。勝手に家を出ておいて言える義理ではないが。やけにスムーズにかけられる番号だと思っていたら、自分のだったとは。
「まあいいや。持っててよそれ。どうせそのうち戻ってくるから」
プライバシーなんてものは気にしていなかった。自分の携帯が何も使われていないことぐらい知っている。無用の長物だ。でも、今はちょっと役に立っていると思える。渚が出てきてくれたから。なんだかほっとした気分だ。
渚は、少し間を置いて訊いてきた。
「学校に?」
「…………」
「もう、本当に来ないのか? まだやり直す事は出来る。考えてくれ」
「もう時間だ。切るよ……またいつか」
ガシャン、と受話器を置く。静まり返った電話ボックスの中で、一人考える。戻る事は出来る。ただ行くだけなのだから。けれど、あそこに俺の居場所はない。一人寂しく居るだけの屋上は俺の場所じゃない。俺が欲しかったのは、今の暮らしのように、人と共に存在できる空間だった。普通の生活を俺はしたかった。でも、学校は……たとえ渚がいても……。
――その人は、大事な人なんだ?――
唐突に聞こえてきた声。あの声だ。さっき勝手な事を語って消えていったヤツだ。もちろん、俺は見えない。
「だれだ?」
――あなたは誰なの?――
「そんな問答をする気は無いんだよ。何を言いに来た? 言いたい事があるなら言って去れ」
何の感情も無い、俺の言葉に対して、
――あははっ。あなたはとても優しいね。一応話を訊いてくれるみたいだし――
コイツの言葉には、感情が溢れていた。何処にも見えないおかしな存在だというのに。俺が存在していないかのように感じるほど、感情のある声だった。
――大事な人が死んだらどんなに悲しいんだろうね。数分後には死んじゃうかも知れないよ? それだけ――
ソイツは、それだけを言って去っていった。何となく気配が消えるのが分かった。
アイツは何を言いたかったんだろう。言っている事は分かるけれど、意味が分からない。どうしろというのだ。
俺が電話ボックスから出たとき、
キイイィィッ――ガシャァアアン!
赤い車が反対車線の電信柱にぶつかった。前面のひしゃげた車は、辺りに赤い破片を千切り撒き、衝撃で壊れたタンクからガソリンが漏れ出ている。中にいた人は無事だったようで、急いで車の中から這い出ていた。
熱で燃焼が始まったらしい。どこかから火のついたガソリンは、一瞬にして熱を伝達し、燃え盛り始めた。キャンプファイヤーのようにゴウゴウと燃え、真っ黒い煙をもうもうと空に巻き上げる。
もし、自分が反対車線のほうに、たまたまいたとしたら、俺は死んでいたのかもしれない。ただ、そう考えても恐怖は無かった。
哀しみだけが、自分の心を満たしていた。
――やっほ〜。起きてる?――
コイツは、あの日以来俺にまとわりつくようになった。夜の散歩をしていたあの日以来。時たま俺の前に現れてちゃかして消えていく。いや、現れるというのは適切ではない。存在が見えないから。何処からともなく聞こえてくる声。それがコイツだった。
俺は今寝ている。横になっているという意味じゃなく、眠りについている。コイツは、そんな状態でも構わず俺と話そうとしてくる。夢の中に出てくる夢魔のようだった。
『何の用だよ』
眠りに着きながらも、起きているかのように話をする事が出来る。そのせいで疲れが取れなかった、などということはない。無害という点では良かったけれど、今日見たく調子に乗って話しかけてくることもあるので、あんまり好きではなかった。
――暇つぶし――
本当にコイツは何物なんだろうか。声だけの存在で、俺よりも人間らしい感情を持っているみたいだ。幽霊などと思いたくもなる。でも、それは本人が否定していた。『アタシが幽霊になれたんなら、試しにアンタを金縛りにしてあげるよ』とのことで。
『頼むから寝させてくれ。誰かと話したい気分じゃないんだ』
俺は真っ暗な闇に向かって言った。この暗闇こそが彼女の本体とも思えたからだ。
――でも、そろそろ起きた方がいいと思うよ――
『どうして?』
――これ以上寝ていると、夜寝られなくなるんじゃないかなあ――
奇妙な心配をしながら、去っていくアイツ。一応、いるかいないかだけはわかるようになっていた。第六感が発達してきているのかもしれない。
そのまま俺は目を覚まし、弛緩した身体を引きずりながら、手近にあったカーテンを無造作に開け放った。目が焼けるほどの明るい光が、俺の全身に浴びせられる。焼かれた網膜の痛みのおかげで、少し眠気が取れた。改めて窓の外の景色を見ると、かなり明るかった。太陽の高度からして、昼頃だろう。部屋の中に掛けてあった時計を見ると、十二時ちょっと前だった。
言うとおりにしてみて正解だと思った。これ以上寝たら本当に夜眠れなくなってしまう。
さして広くない部屋を見回すと、そこには誰もいない。みんな外に出かけているようだ。大助は、何かの勉強をするために、アシスタントのようなものをしているらしい。何をしているのかは知らなかったし、興味も無かった。美穂は、普通にアルバイトだろう。大助は、ほとんど収入が無い。教えてもらっている間は、基本的に無償とのことだ。だから、その分美穂が稼いでいる。武敏も、たぶんバイトだろう。いつも疲れた疲れたと言っているから。椿は分からなかった。訊いたところ、バイトはしていないらしい。自分のプライバシーは関与されたくないタチなので、あえて訊こうとはしなかった。どの道好き勝手やっている事には変わりないだろう。
しわくちゃになった自分の服を撫でながら、冷蔵庫のドアを開ける。いつもなら、ここに朝食が入っているはずだ。美穂は世話好きらしく(誘っている時点で世話好きなんだろうけど)毎日朝食を作ってくれている。そんなに豪華なものではないけれど、コンビニ弁当に飽きていた俺にとってはとてもありがたいことだった。
黙々、無言で朝食を片付ける。朝食は、玉子焼きと御飯と味噌汁。一般的な料理だ。味噌汁がちょっと薄いのは、まだ半人前ということなのかもしれない。美穂はまだ十八だし、こういうものを作れるだけでも凄いと思う。
空になった茶碗と皿を水に浸し、俺は再び横になった。食後に横になる事は消化にいいとか。ただし、仰向けとうつ伏せは駄目らしい。内容どおりに忠実に横になって、ぼーっとする。今日は何をしようかな。毎日公園に行っているけれど、最近は飽きてきていた。綺麗な光景ではあると思う。でも、何度も見れば誰だって飽きてしまう。ちょっとぶらぶらと散歩でもしてみようかなあ。まだ行った事の無いところにでも。
そんなことを考えていると、急に玄関の扉が開いた。景気良く、ドバンと開けられて、同じように閉じる。こんな入り方をするのは、武敏だけだ。
「あーっ! 今日も疲れた〜」
汗だくでどかどかと入ってくる。汗臭かった。
「今日は早いね」
「午前中だけだったんだよ。しっかし熱いな〜」
「シャワーでも浴びたら?」
そうだな、と同意して武敏はバスルームの方へ消えていった。身体を動かす仕事をしているんだろう。引越しとかは結構時給が高かったはずだ。別にどうでもいいことだけど。
「ちょっと出かけてくる」
俺は扉越しに話しかけた。
「ういー。楽しんできな」
気分爽快なようで、鼻声まで歌っているようだ。
俺は玄関の扉を開けて、外に出た。ガチャンと自然にドアが閉まるのを待ってから、歩き出す。行くアテはないけれど、それはそれで色々と知るいい機会になるだろう。帽子をかぶって、適当な方向に歩み始めた。
――迷子にならないようにね――
……やかましい。
隣町だというのに気付かなかった事がある。やたら商店街が多いのだ。一つの商店街を抜けると、さらに三つの商店街が――みたいな感じになっている。東西南北というふうに別れているようで、中心には噴水と少しの植木があって、休憩所のようになっていた。ここは駅前じゃないが、駅前にも複数の商店街があるようで。俺は初めて商店街というものを見たので驚いていた。
「つっても、こんなにあったんじゃ買うほうも迷うだろ」
独り言を言いながら、人ごみの中を縫うように通り抜けていく。人間嫌いといっても、知らない人間に反応することはない。同じ生物、程度にしか思っていなかった。
商店街とは、なかなか面白いものだと思う。コンビニや、大型の店とは大きく違う空気がある。客とのコミュニケーションが温かい。店の人と談笑している人もいれば、値下げを要求している人もいる。コンビになんて一円もまけてもらえないのに。人の温かさとはとても気持ちいいものだ。俺は人間が苦手で触れあうことも少ないけれど、人間が醜いとは思わない。そりゃあ、裏では信じられない腐った行為をしている人もいる。でも、いいところだってある。たくさんある。
――へえ。人が嫌いなのに、よくそんな嘘がつけるよね――
またか。俺は舌打ちをした。こいつの言葉は不快だった。
人前なので、変人に思われないよう、声を小さくして話す。
(何の用だ)
見えないくせに何処からともなく現れる。しかも、コイツの言葉は俺だけにしか聞こえていないようだ。自分の妄想なんじゃないかと最近は思い始めている。
――人が嫌いなら嫌いって認めなよ。だれも咎めたりしないから――
(俺がどう思おうと俺の勝手だ)
――所詮他人他人。赤の他人だもんね―ー
(わかってんなら口を挟むな)
――はさむ気は無いけどね。目の前にいる人。知り合いでしょ? 何やってるか気にならないの?――
言われたとおりに(癪だったが)見ると、そこにいたのは椿だった。噴水の近くにあるベンチで休んでいる。あの目つきの悪さだけは浮いていた。見る人が見れば、睨まれていると思うだろう。しかし、こんなところで何をやっているのだろうか。見たところ、ぼうっとしている。考えに没頭しているようにも見える。腕組んでるし。
俺は声を掛けてみる事にした。後ろから。
「おい」
ビクッと肩を震わせて振り向いた椿の顔は……恐ろしかった。いつにもまして凄みがある。けれど、俺だと気付いた椿はつまらなそうな顔をして再び前を向いてしまう。
「いや、頼むから話くらいかけてくれよ……」
俺以上に寡黙なので、こういうときは少し困る。
「何か用?」
「用は無いけど」
「ふーん」
寡黙ではあるが、冷たくはない。突き放すような口調でも突き放したいと思っているわけでもないらしい。椿は、座っていたベンチから立ち上がり、
「仕事するか」
悠然と歩き始めた。変なヤツだと本当に思う。いっそのことついて行ってみようか。俺が訊いてみると椿は黙って頷いていた。別に構わないという事なんだろう。了承も得た事だし、俺は椿の隣を歩く事にした。
「何の仕事してるんだ?」
俺が訊くと、
「別に」
あっさりとはぐらかされてしまった。なんだか、わざわざ言うほどのことではないという感じだ。
「俺でも出来る事だったりする?」
そう訊くと、椿は俺の顔を見て、それから胴を見て、最後に足を見た。体力的なものが関係しているのかもしれない。
「できるんじゃない?」
そっけない一言。信じていいのか? それ。
俺があれこれ悩んでいると、あっという間に商店街から出てしまった。見物するのに数時間掛けたのに、こんなにあっさりで出られるという事は、相当遅く歩いていたということか。商店街から離れてしまった事によって、人の数が急激に減っていた。車は見かけるけれど、人はほとんど見かけない。
「こっちだよ」
椿は、いきなり方向を変えた。建物と建物の狭い道を、するすると通り抜けて、どこかに進んでいく。椿は仕事と言っていたけれど、こんなところでする仕事とはどんな事なんだ? ちなみに身体を売るような仕事は御免だ。
細い通路を抜けた先に見えたのは、建物によって囲まれて出来たちょっとした空間だった。鉄パイプや鉄骨などが端の方に積まれている。あと、数人の人が、鉄骨の上に座っていた。不良のようだ。学ランをカラフルに着こなしているので、ヤクザや暴力団ではないと思う。後ろ盾が無ければの話だが。
「ようやく来たか……一人で来ると思ってたが、まあいい。二人だからって関係ねえだろ」
五人の不良が弧を描くように、形態を作る。これって、ケンカじゃないの?
「仕事って、これ?」
「そう」
あっさり言い切る椿。女顔の癖になんて度胸のあるヤツなんだろう。俺が置かれた立場も、何となく理解できていた。めちゃくちゃやばい。
嫌らしい笑みを浮かべているリーダーが、叫んだ。
「やっちまえ!」
三文芝居だなんて思っている暇は無い。その声で、いっせいに五人が突撃してきた。椿に三人、俺に二人が襲い掛かる。ちょっとどころかかなり危ない。
二人のうち一人が、俺に接近戦を仕掛けてきた。獲物は何も持っていない。素手に自信があるのだろう。構えからして、ボクシングをやっていたようだ。その男が、突進のスピードと体重を生かした破壊力のある右ストレートを叩き込んでくる。だが、俺は左腕でそれを払いのけた。軌道を変えられたボクサー野郎の拳は、全く関係ない方向に進んでいく。
「くそっ!」
ボクサー野郎は、残った左腕でフックを放ってきた。俺はそれを腕で払い、相手の肘辺りを掴んだ。そして、強引に引き寄せる。伸びきった腕のした似あるのは、急所のわき腹。俺は躊躇わずに、離した左手で政権を叩き込んだ。
「うっ」
空気が抜けるような息を吐いて、男は崩れ落ちる。アバラが折れたという事は無いだろうけど、かなり苦しいはずだ。放っておいても問題ないだろう。
「テメエッ!」
残った一人が鉄パイプを振り上げて襲ってくる。あんなな構えしていたら振り下ろすことがばれるだろうに。そんな余裕が俺にはあった。相手の掲げられた腕が動く刹那の瞬間を見極める。俺は振り下ろすと同時に半歩下がった。力任せに振り下ろされた鉄パイプは、勢い余って地面を強打する。俺は鉄パイプが振り上げられる前に足でそれを押さえ込んだ。
武器を押さえ込まれた男は、破れかぶれで上段蹴りを放ってくる。冗談だろ? などと思いながら、俺は両腕でその足を防いだ。さらに、足が浮いている間に手で掴み取り、勢いを殺さないように、払った。片足で立っている男は当然回る。後ろを向いたところで、両肩を掴み、足の間接部分を踏んでバランスを崩させた。膝カックンの原理だ。バランスを失った男は、なす術も無く仰向けに寝かされる。俺は水落に拳を叩き込んで終わらせた。
ほんの数十秒の出来事だった……。スイッチが切り替わるように、俺は相手を倒してしまった。体育の成績悪いのに。その前に、何でこんなことを知っているんだ? どう考えてもこんな動き素人の人間には出来ないだろう。俺の前世はスーパーマンだったのか?
「すごいね。何か習っていたの?」
拍手をしている椿は、珍しく笑っていた。感情を表したくなるほど、凄い事だったんだろう。俺も驚いている。
「いや、分からない」
中学校で柔道を少しやっていた事はある。でも、それはお遊び程度のものだ。背負い投げと一本背負いぐらいしか出来ない。出来るけど、相手が受けてくれるような時のみだ。実践で出来るような事じゃあない。他のものなんて全くやった覚えが無い。
「でも、明らかに普通じゃ無かったよ」
「頭が普通じゃないからかもしれないな」
俺は適当に誤魔化した。これは気になるけれど、どうでもいい。問題は椿の方だ。どうしてこんなことをしているのか。何故これが仕事なのか。俺には理解できない。
「これの何処が仕事なんだ? ただの喧嘩だろう」
「喧嘩っていうのは、自分の力を誇示したい人がやるんだよ」
悟った風に言い切る椿。俺は違うと思ったけれど、否定はしなかった。
「目つきが悪いせいで昔から暴力にあってたんだ。身を守っていたら、いつしか僕を倒すってやからが出てきて――それで僕が勝ったら金払えって条件でやってるんだ」
椿は、茶色い封筒を掲げて見せた。中身も取り出して見せる。二万円だ。
「僕は負けたことが無いから。やっていくうちに値段も段々高くなっているみたいだね。僕の仕事はこれでお金を稼ぐ事なんだよ」
「椿はそれで満足しているのか? 嫌じゃないのか?」
俺は、嫌だ。たまたまこうなってしまったけれど、暴力は嫌いだ。人をねじ伏せて何処が楽しいんだ。力なんて持っていてどうするつもりなんだ。椿は、人を傷つけることの意味を知っているはずだ。俺と同じものを持っている。だから、こんなことは止めて欲しかった。たとえ相手が醜くても、自分がそうなる必要は無いんだ。
だが、椿の言葉は予想をはるかに超えたものだった。
凶悪な笑みを浮かべた椿。何かに取り付かれたかのような虚ろな瞳で答えた。
「満足しているよ。こんな腐った連中を殴れるんだからね。殴る事自体は好きじゃないよ。でも、こいつ等を踏みにじるのは好きだ。僕は、人が憎い。だからこそ、この仕事を選んでいる」
全く違う考え。
全く違う結論。
持っているものは似ているのに、ここまで答えが違っている。間違っているわけではないのだろう。でも、納得はしたくなかった。
俺が何かを言おうとしたとき、椿は先にそれを制した。
「水野は水野で僕は僕だ。僕は水野の考えが間違っているとは思わない。心の傷を持っているという点でも同じだね。でも、考え方は人それぞれなんだよ。誰かの考えを頭ごなしに否定する権利は誰にも無いんだ」
椿は、そう言ってその場を後にした。
無残に転がる野郎どもの身体をまたぎながら。
『所詮他人他人。赤の他人だもんね』
アイツの言葉が浮かんでくる。たしかに、俺は椿にとってなんでもない存在だ。でも、だからといってそれでいいんだろうか。人とは、そんなに哀しいものなのか……?
あの日から、俺達はあまり話さなくなった。
意見の違う人間だから、という事で避けているわけではない。人の数だけ色々な考え方がある。椿が言ったような考え方だって間違ってはいないだろう。ただ、人間の裏側の部分を包み隠さず、さらには堂々と前面に押し出している椿が、怖かった。
いつも通りの、遅めの朝食。今日は武敏もいた。仕事が休みらしい。
俺は、玉子焼きをつまみながらそれとなく訊いてみた。
「椿ってさ。どうやって金稼いでいるか知ってたか?」
武敏は、租借を早めてさっさと飲み込み、
「ケンカだろ? ここら辺じゃ有名だからな。あいつは」
知っていたのか……。この様子なら、大樹と美穂も知っているだろう。
御飯を口の中にかき込んで、考える。大樹と美穂はそのお金を受け取っているんだろうか? まだ一週間ちょっとの仲でしかないけれど、二人は極めて温厚だった。そして、温厚だからといって何でもかんでも許すような人間ではない。ちゃんと注意するべき事はしている。ちなみに、俺はシャワーに時間をかけすぎだと怒られたことがある。みんなが早すぎるだけだと思ったりもしたのだが、金はあまり掛けないようにするという暗黙の了解があるのでしぶしぶ了承していた。
口の中が空になってから再び訊いてみた。
「二人はお金受け取ってんの? 人から取ったものなのに」
武敏は、味噌汁を飲んでいるところだった。完全に飲み干してから、
「金は金だよ。俺らはそんな奇麗事を言える立場じゃないさ。あと、取ったってのも不適切だと思うぞ。あいつが望んでやっているわけじゃないし。まあ、あいつはあいつで満足しているらしいけど」
「人を殴って、どこが楽しいんだろう……本当に満足できるのか?」
武敏は、それを聞いて笑みを浮かべていた。どこかおかしいところでもあったか?
「それは人によるだろ。俺はバスケ好きだけどサッカー嫌いだし。お前は優しすぎるんだよ。人の裏側は醜いけれど、それが本質というものじゃない。表も裏も両方とも人間の本質なんだ。だからこそ、あいつにそれを知ってもらいたい――なんてところか?」
分からない。俺は椿が満足そうな顔を見て、哀しくなっただけだから。
俺が黙っていると、
「別に自分の意見を押し付けるわけじゃないんだろ。知ってもらうだけなんだから。だったらいいんじゃないか? 他人は所詮他人だけど、関係しちゃいけない理由なんてないだろ」
そう言って、部屋から出て行ってしまった。
知ってもらう……か。一体どうやって知ってもらえばいいんだろう。それに、どうして椿はあんなに人の醜い部分を強調するんだろうか。まるで子供みたいに。漫画の影響を受け、周囲を冷めた目で見る子供のようだ。
やっぱり、何かあるのかなあ。
そんなことを考えながら、食器を片付けて外に出る事にした。
人を初めて殴ったのはいつだったろうか。
椿は、誰をも憎まず、困っている人には手を差しのべ、泣いている人がいたときは一緒に泣いてあげる……そんな人間だった。
椿は、両親がとても好きだった。大きく、暖かい手で頭を撫でてくれる父が。やわらかい、温もりのある腕で抱きしめてくれる母が。怒られた事もたくさんあったけれど、両親は椿にやってはいけない事をちゃんと分かるように教えてくれた。だから、怒られてもふてくされる事はなかった。もうしないと約束した後には、いつも通り優しくしてくれた。
理想のような家族。椿にとっては理想が現実だった。ある時が来るまでは……。
中学生の頃、突然両親は離婚した。本当に突然で、理由も何もも分からないまま、椿は母親に引き取られて、母方の祖父母に預けられる事になった。もちろん、椿は母親と一緒に住みたかった。けれど、どうしてか許されなかった。
このときから、椿の人生は変わり始める。祖父母はとても厳しい人間で、少しでも気に入らない事があったら、すぐ叩く人たちだった。彼らにとっては愛の鞭といったところなんだろう。でも、椿の心には深い傷が彫られていた。その頃から、周囲の人間との折り合いが悪くなってしまった。アダルトチルドレンというものらしい。けれど、椿は耐えた。苦しい生活ではあったが、すでに中学生だ。数年すれば働く事だって出来る。さっさと自立して、母親と暮らしたかったのだ。
だが、それはさらに自分の不幸を招く事になる。ある日、どうしても会いたくてたまらなくなった椿は、祖父母に内緒で母親の暮らしているアパートへ出かけた。電車で三十分かかる、海沿いの町。道に迷いながらも、勇気を振り絞って人に道を尋ねてようやく母親の住んでいるアパートへとたどり着いた。二階にある『近藤』という表札。間違いなかった。自分と同じ名字だから
高まる心を抑えて、トントンと軽くノックする。
だが、誰も出てくる気配はない。今度は少し強めに叩いてみた。それでも出てくる事はなかった。仕方がないので、隣の住人に聞いていると、
『え? 近藤さん……。隣は誰もいないはずですよ』
そんなはずがない。だって表札があるのだから。
『取るのを忘れたんじゃないですか? どうせ紙だし。このあと用事があるんでもういいですよね?』
バタン……。
椿は、なす術もなくトボトボと階段を下りて行った。
一体は母は何処にいるのだろうか。それだけを考えて、椿はあちこちに聞きまわった。近くに住んでいる人達に、一日中、迷惑を掛ける事も知らずに訊きまわった。
そして分かった事は、去年の台風の日、海で死んだという事だった……。遺体はどこかに引き取られて、ちゃんと埋葬されたらしい。最初は信じられなかったが、母の名前が書いてある墓をみつけたことで、疑いは消されてしまった。母は死んでしまったんだ……。
多分、それからだと思う。人を殴るようになったのは。
数日ぶりに帰ってきたことで、祖父母は憤怒の様子だった。けれど、椿はそんなこと全く気にしなかった。暴力を暴力で返したから。悪い事をしたとは思う。でもお互い様だろう。今までのツケだ。適当に金を奪って、椿は祖父母の家を出た。学校なんてどうでもいい。出席してなくたって卒業できるのだから。
母親が死んだということを訊かされたときから考えていた。どうして、台風が来ているときに海になんか行ったんだろうか。どう考えたって危ないに決まっている。
椿は、考えた。死にたかったんじゃないかと。父親がいなくなった生活に耐えられなかったんじゃないのかと……。父親に対する憎悪が芽生えたのはそのときからだ。
目つきが悪いせいで、やたら変な連中が絡んでくる。中学にいたときは謝る事で避けられたけれど、もうそんなことは出来なかった。連中の顔が、父親の顔に見えてくる。憎たらしく、殺してしまいたいほど憎い父の顔が。
目の前でつぶれる顔面が、爽快な気分にさせてくれる。殴ったときの手の痛みも、なんだか気持ち良い。手ごたえを感じたときの衝撃は、快感だった。
全ての原因は父にある。父さえあんな事をしなければ、こんなことにはならなかった。いつまでも三人で仲良く暮らす事が出来たんだ……!
ヤツの居場所は今でも分からない。一応この町にいることだけはわかっているが。もう一つの特徴だけを頼りにして、椿は今を生きていた――。
特にやる事もない俺は、ぶらぶらと商店街を歩いていた。普通に人の通りが多い。最近は込みあっていても、難なく隙間を通る技術を身につけた。ちょっと嬉しい。
一応、ここにいるのは理由がある。自分の病気を治したいと思っていたからだ。といっても別に大したことではない。人に慣れるということだけだ。知らない人達に対してはほとんど反応しない。でも、人が常にいるということに慣れればもしかしたら学校みたいな場所でも大丈夫になるかもしれない。
あと、椿を探しているという理由もある。気まずくなってしまった雰囲気は、周囲に迷惑を掛けてしまう。他の三人も、俺達の雰囲気を察しているようで、ぎこちないやり取りをしている事がある。できるだけ元通りにしておきたかった。
そんなわけで、思いつくところがここだった。商店街の中心には噴水とベンチなどがあり、休憩できるようになっている。以前いたので、今日もいるかもしれないと考えたわけだ。
香ばしいパンの匂いが漂っている。最近聞いたのだが、学校の帰り際にここでパンを買って、噴水のベンチで食べるのが流行っているらしい。微妙な流行だとは思うけれど、パン自体は流行になるのも頷けるほど美味しかった。
そろそろかな……。
俺の視界の先に、白いモニュメントが見えてくる。人のような、変な動物のような、奇妙な形だ。その先から、水が綺麗に吹き上がり、円を書くように流れ落ちている。そして、下に溜まった水をとどめるための塀に、椿は座っていた。俺から見ると、右を向いて座っている。
だが、様子がいつもと違っていた。ぼんやりと見ているはずの目は、いつも以上に鋭く、唇も、かみ締めるように力んでいる。十分離れたここからでも、明らかな憎悪が見て取れた。
人が多いせいで、誰を見ているのかは分からない。
椿は、突然立ち上がって憎むべきものを睨みつけながら後を追っていった。
ただ事じゃないぞこれは。
俺は見れなかったけれど、三人を素手で倒した人間だ。怒りに任せて暴れれば、どんな事が怒るか分かったものではない。といかくやばい。
俺は、すぐに椿の後を追いかけた。
『所詮他人他人。赤の他人だもんね』
たとえ他人だろうが、放っておけるものか。
椿は、見つけた。見つけてしまった。
椿の視線の先には、右の頬に切り傷をつけた男がいた。女性と一緒に買物に来ているらしい。仲良く二人で買物袋を持っていた。その光景が、またなんとも憎らしかった。
椿の父親が持っていた一つの特徴。それは、右の頬にある傷だ。椿自信がつけてしまったものでもある。昔はあの傷を見て、悪い事をしてしまったと思っていたが、今は違う。感謝している。おかげで、こうして出会えたわけだから。偶然とは恐ろしいものだ。
父親は、椿の存在にまったく気付いていなかった。そりゃあそうだろう。最後に会ったのは七年も前だ。ガラリと変わってしまった椿に気付く人なんてほとんどいないだろう。
二人は楽しそうに笑いながら、雑踏に紛れ込んでいく。逃がしてなるものか。狩人と化したフクロウのように、椿は二人を視界から放そうとしなかった。やがて自分も立ち上がり、ゾンビのように二人の後を追いかけて行く。
いくら人が多いからとっても、見失う事はない。ここは一直線だから。もし見失ってしまったら、急いで出口で待機していればいい。目を光らせていれば、見つかるだろう。けれど、そんなことをする必要はなく、二人に焦点を合わせたまま、椿は商店街を出て行った。
それからは、困る事などなかった。ただ、着いていくだけだったから。数十メートルの間隔を保ちながら、見失わないように、気付かれないように尾行をして行く。特に何の問題もない。
あの傷は、父親が椿を止めようとしてついてしまった傷だった。幼稚園に通って間もない頃、椿は両親にハサミを買ってもらった。小さい子供にでも使える様な小さいサイズのかわいらしいハサミ。当時、椿はそれでものを切る事が楽しくて仕方がなかった。もっぱら切るものは折り紙だったが。しかし、ある時どうしてか別のものを切りたくなってしまった。紙なんてハサミを使わなくたって邯鄲に破れる。どのくらいのものまで切れるのか。それが知りたかった。その想いが、何故か自分の舌を切ってみる、という行為に及んでしまった。好奇心いっぱいの幼児だった椿には、その恐ろしさが全く分からなかった。だから、躊躇なく、別の意味で興奮しながら舌を切り取ろうとした――。もちろん、現在も舌は付いている。それを父親が止めたからだ。幸運にもその行為を見つけた父親は、真っ先に椿に駆け寄り、ハサミをはたき飛ばした。おかげで舌は切れなかったものの、飛んだ刃物は父親を傷つけて地面へと落下してしまった。それが、父親の持つ傷だった……。
当時の椿は、悪い事をしたと思った。そして、誇りにも思っていた。父親が、助けてくれたのだ、と。あれは自分のために負った怪我なんだと。そんな父親が好きで、尊敬していた。
でも今は違う。あそこにいるのは母を捨て、息子を捨て、次の女に乗り移った身の軽い屑野郎だ。昔の誇りなんて影も形もない。あるのは憎まれるだけの手がかりとなる傷のみ。
憎い。殺したい。自分の足元に這い蹲らせて、あの世の母に送ってやりたい。
気が付くと、簡素なアパートに着いていた。そこが現在の住まいらしい。椿たちの住んでいるようなボロボロではなかったけれど、質素なものだ。昔住んでいた一軒家はどうしたんだろうか。売ったのかもしれない。新しい女との生活にでも役立てているんだろう。
住んでいる場所も分かった事だし、そろそろ行くか。
椿は、彼らが入っていったドアの前に立ってインターホンを押した。軽い音と共に、忙しげに走ってくる音が中から聞こえてくる。
ガチャ、とドアが開いた。
「どちらさまですか?」
これは運命だろうか。出てきたのは、男の方だ。余程運が悪いらしい。見忘れようもないその顔が目の前にある。それだけで、椿の憎悪は数倍に膨れ上がった。
閉じられないように、足を少し前に出して、ドアに手を添える。
その行為で不審に思ったのか、
「何だい? 君は」
疑う様子で椿を見ていた。
「すみませんねえ。実は宅配便なんですよ。非番なのに呼び出されちゃって」
適当な嘘ではぐらかす。呼び出されたら制服を着る機会だってあるだろうに。
「そうですか。それで、荷物は?」
信じた父親に対して、椿は鼻で笑った。まさか本当に信じるとは思わなかったのだ。
「大丈夫ですよ。ちゃんと持ってきてますから」
ズボンのポケットに手を入れて、再び外に出した右手は、手近にあった彼の腕を切り裂いた。
「ぐあっ!」
動脈には傷が付かなかったらしい。大した出血も出ずに、背後に倒れている。椿は、ドアを完全に開け放った。
「新鮮な『死』を届けに着たんだよ。父さん?」
椿の浮かべる残酷な笑みは、死神の笑みそのものだった。
他人の部屋でどたばた騒ぎ始める椿を見て、俺はしまったと思った。
様子がおかしいのでつけてみたらこの有様。正解なんだけど、うれしい気持ちは微塵もない。普通にインターホン鳴らして話していたから知り合いだったのかなどと思っていたのもつかの間。男の悲鳴が鳴り響きだした。
俺は隠れていた階段の下(騒動の場所は二階だ)から出て階段を登り、振りかざしていた椿の腕から奇妙なナイフをそっと抜いた。
「何やってんだよ!」
俺は周りの住人にも聞こえる声で怒鳴った。現行犯だ。さっさと警察に連れて行ってもらったほうがいい。仲間だけれど、ぬるい付き合いをするつもりはなかった。
椿は、異常な目で俺を見る。笑っているようで、冷めている。据わった目だ。
「見れば分かるだろ?」
分かるわけねえだろうが。
俺は殴りたいのを我慢して、椿の言葉を聞いていた。
「それよりも、どうしてこんなところにいるんだよ」
「後をつけたんだよ。それだけだ。何をしているんだ?」
俺の再度の問いかけに、
「関係ないだろ。何でもかんでも首を突っ込もうとするなよ」
所詮は他人……か。またこれだ。どうして関係が無いといけないんだ? どんな関係があれば介入できる権利をもてるんだ。ふざけてる。関係なんて、あると思えばいくらでもあるし、無いと思えば全く無い。他人を拒絶するための口実でしかない。
「現行犯で犯罪を犯している人を見かけたんだよ。止めるのが普通だろ?」
「邪魔をするのか……人のものを盗んでいる水野も犯罪者だろ。返せよ」
屁理屈だ。とは思うものの、このナイフ、ちょっと気になるところがあった。柄が無いんだ。どっちにも刃がある。だが、握る方は決められているらしく、少々くねった形をしていた。多分握りやすさを考慮しての事だろう。けれど、こんなものを使おうとすれば、使う者自身、傷つく事になる。実際に、椿の右手から血が滴り落ちていた。こんなもの誰にもらったんだよ。手裏剣握ってるのと変わんないだろうに。
俺は無視して奥にいる男に聞いてみることにした。
「アンタなんかしたのか? コイツいつにも増してキレてるけど」
苦痛に顔をゆがめながらも、男は答えた。
「知らない! 突然切りかかって来たんだ! おい、お前警察を呼んでくれ!」
最後のは、一番奥にいる妻に言ったんだろう。頷いて電話を取ろうとしたとき、
「動くな。……殺すぞテメエら」
ドスの聞いた声で脅しを掛ける椿。何十人もの不良を叩きのめしてきた椿の声は、凄まじく恐ろしかった。俺は一応動く気なれば動けたけれど、椿の方が何をするか分からない。いつもと違う事だけが確かな事だった。
椿は、いつものような口調に戻して、男に声を掛けた。
「忘れたのか? もう俺の事を」
顔面蒼白の男がかろうじて言葉を紡ぎした。
「知るわけ無いだろ……」
「悲しいね。僕をかばってつけた傷とは思えない。ねえ父さん?」
「父さん? コイツ椿の親父なのか?」
正直驚いた。椿に家族がいたなんて思いもしなかった。家出しているという事は家があるということなんだが、椿の場合は少し事情が変わるようだ。
「だから関係ないやつ関わるなって言ってんのにね。ちなみに、奥のアナタは別だよ。アンタには申し訳ないけれど死んでもらう。父さんは、僕から幸せを奪ったんだ。だから、今度は僕が奪ってやる……そして、天国で母さんに謝らせるんだ」
自分のやろうとしている事を淡々と語る椿。恐ろしいにも程がある。
「椿……なのか? お前は」
父親が思い出したらしい。呆けた顔で椿を見ていた。
「そうだよ。ごめんね……影も形もなくなるほど変わっちゃってねえ。あと、水野もそれを返してくれよ。大樹にもらった大切なものなんだ。僕はそれで殺すと決めたんだ」
自分自身を切りつける凶器。まさしく諸刃の剣。大樹がそんなものを渡していたのも驚いたが、これはそれ程大事なものらしい。だったら、なおさら渡すわけには行かない。
「力づくで取り戻せよ。大事なものなんだろ?」
「そのつもりだよ……!」
椿は、一瞬で距離を詰めてきた。……速い。俺より低い身長を利用して、下から顎に向かって拳を押し上げる。くらえば脳震盪を起こすような鋭さだ。避ける事なんて出来ない。俺はわずかに手を添える事で軌道をそらした。紙一重で通り抜けた拳による風圧はなかなかのものだ。
続いて、隙を作らないための素早いストレート。腕がほんの少し引いたと思った瞬間、気付いたときには顔面すれすれのところまでのびていた。俺はギリギリ構えていた右腕で受け止める。その衝撃は凄まじかった。
「なかなかどうして……当たらないものだね」
当たってもおかしくはない攻撃だったけどな。胸中で呟きつつも、椿の動きに気を配っていた。瞬きをしている余裕も無いほど、速すぎる。
このまま、続けていればいつかは負ける。そう判断した俺は、言葉での攻撃をする事にしてみた。
「どうしてこんなものが大切なんだ? 大樹がくれたからって、大樹がそんなに大事なわけじゃないだろう」
「そうだね。大樹はいい人だけど、邪魔するなら容赦しない。僕の形なんだよ。僕を形作ったものなんだ」
その間にも繰り出される突蹴をかわし、反撃を試みる。
「それで殺すってか!?」
隙をついた正拳突き。しかし、それはかすりもせずに空を切った。さらに椿の顔が目の前に現れた。かわしながら接近してきたのだ。
「そうだよ」
ぞっとするような静かな声とともに、大振りなナックルを叩き込まれた。
「ブッ!」
左頬を強打され視界が飛ぶ。意識を保っているもののショックのせいで状況が判断できない。正気を取り戻したときには、大振りを利用した一回転分の遠心力が重ねられた蹴りが腹に突き刺さった。
身体が跳んだ。
ドバン! という音とともにドアを身体で跳ね飛ばし、外の手摺まで吹っ飛んだ。ガシャガシャ軋む手摺にめり込み、俺は動けなくなった。
乾いた音を立てて、椿のナイフが地面に落ちる。取っ手に血の付いた禍々しいナイフ。
「……結局何しに来たんだよ。何の意味もないじゃんか。こんなことしたって」
意識はまだ在った。
何の意味もない……? そうかもしれない。こんな知らないところに来て、止めようとして止められなくて。何の意味があるんだろうな。何の意味が。
椿の足音が聞こえる。近づいてきているようだ。目の前に落ちているナイフを取りに来ているんだろう。
俺は、何しに来たんだ? どうしたい。どうしたかったんだ?
『たとえ他人だろうが、放っておけるものか』
そう思ってきたんだろう。椿を戻してやりたかったんじゃないのか? こんな形でだらけてる場合じゃないだろう。
「僕はこれであいつらを殺す。それが望みだったんだ。母さんを苦しめて死なせたあいつを殺したい――」
椿の手が、ナイフに延びる。
人を殺して元に戻るのか? 道徳的なことを言いたいんじゃない。椿が父親を憎んでいることも分かる。でも、殺せばそれで終わるのか? 殺して、動かない死体に変えることが本当に求めていることなのか?
母親を想う気持ちの同じ分だけ、父親を憎んでいる。事情は知らない。聞く気もない。気持ちも分かってやれるはずがない。でも、誰かがその憎しみにぶつかってやんなきゃいけないんじゃないか?
柄が血で濡らされたナイフ。誰かを傷つけるならば、必ず自分自身を傷つけなければならない両刃の剣。本当は分かってるんだろう。椿、人を殺せば苦しみしか残らない事を。頼むから苦しまないでくれ。俺にとって君はかけがえのないトモダチナンダー―。
右手が瞬時に動いた。蹴られた痛みを無視して刃を鷲摑みで取り上げる。
「なっ!」
動くとは思ってなかったらしい。椿が目を剥いている。だが椿の驚愕はそれに留まることはなかった。
俺は、握り締めたナイフを、後方にぶん投げた。
力を振り絞って投げる。絶対に戻って来ないように。
ガサッという草むらの中に投げ込まれた音が後ろから聞こえてきた。どこに落ちたかは分からない。けれど、椿はこれで殺せなくなる。探している暇があるなら逃げ出してしまえばいいんだから。
「この野郎っ!」
完全にキレた椿は、怒りに身を任せて俺を蹴り始めた。がんがんと子供が地団駄を踏むように蹴り付けて来る。俺は笑っていた。そんなに軽い蹴りじゃない。一つ一つが重く、鋭い。普通の状態なら一発蹴られただけで顔を歪めるだろう。そんな中、俺は笑っていた。
「何がおかしい!」
俺の様子を見て怒りを増した椿が、殴りかかる。顔面直撃の一撃だ。当たればの話だが。
その一撃は、顔まで届かなかった。
左手で受け止めたから。
その手から力み過ぎた振動が伝わってくる。無駄な力は逆に威力を殺す。止めるのに造作はない。ナイフで傷つけることだけじゃない。こうやって拳を振り上げるだけでも、心の中では傷ついているんじゃないのか? ただそれに気付かない振りをしているだけで本当はボロボロなんじゃないか?
「何の意味だと? そんな理屈っぽいこと聞くなよ。助けに来たかっただけなんだから」
「ふざけるな!」
ゆっくり立ち上がる俺の動作に反応して椿は後ろに飛びのいた。何を怖がっているんだ。だらしないじゃないか。今のうち殴っていればいいものを。
ふらつく身体をあえて抑えずに揺らしておく。
椿は無造作に拳を突き出した。
俺はそれを軽く受け流す。そして、空いた脇腹にフックを叩き込んだ。
「ふっ!」
椿の肺から息の漏れる音が聞こえる。なかなかいいところに入ったようだ。
椿は再度攻撃を仕掛けてくる。だが、遥に遅くなってしまったその動きを読むのは容易いことだった。タイミングが取れていることもある。そのための揺れだ。
「何で当たらない――!」
椿は攻撃が当たらない事に焦りを覚えているようだ。それに俺は笑う。そりゃあそうだろう。最初だって当たってはいなかったんだから。
「なあ。止めないか? 不利だって分かってるだろ」
俺の提案に、
「今更ふざけたことを言うな!」
あっさりと切り捨ててくれる。頭に血が上っているんだろうか。こういう相手こそ手玉に取りやすい。
「俺を倒す事が目的じゃないだろ。ナイフも取り戻せないんだからさっさと殺しに行けよ」
俺の指は椿のさらに後ろにいる二人を指している。
椿は、そこでやっと当初の目的に気付いたようだ。目標をあっさりと切り替えてあっちに襲い掛かり始めた。
当然、俺が見逃すはずがない。
後ろを向けた椿の襟を掴み、足の関節を踏む。膝が折り曲がり床に足をつけた。そのまま重心を後ろに持って行き、軽々と床に押し倒す。後は袈裟固めで終了。意外と軽い終わりだった。
「放せ! 邪魔するな!」
駄々っ子のように叫ぶ椿。だれが言う事を聞くか。
俺は腕に力を込めた。柔道では首を絞めることは反則だが、ここは実戦だ。ルールも何もない。
「ああああああああ――!」
息が出来ない苦しみからか、望みを果たせない無念からか。椿は咆哮する。のっぺりとした木目の天井は何も語らない。
俺は本気で絞めていた。少なくとも、意識を奪えばこんな暴走しなくて済むだろう。家に持って帰れるかどうかは心配だが、殺させずに済むのなら喜んで絞めさせてもらう。
けれど、これで終わっていいんだろうか。連れて帰ることが出来たとしても、仲は最悪な状態だ。さらに、家を知っている時点で再度けしかけることさえもありえる。だからといって殺させるわけもいかないし。
「ぐううううう……」
溜まっていた空気さえも使い切る頃合。虚空に突き上げる腕から力が抜けていく。わずかに震えるその手は、哀しくも地に付こうとしていた。
終わる。そう思ったとき、
「止めてくれ。椿を放してやってくれ」
その腕を取ったのは、父親だった。
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椿の手を握った椿の父親は、哀しい目でその手を両手で覆った。
俺は絞めるのを止めた。けれど寝技を解こうとはしなかった。危ないと判断したからだ。
当の椿は、虚ろな目で自分の手を握り締める父親の姿を見ていた。呆けたような顔だった。まさか助けてくれるとは思わなかったんだろう。事情は分からないが、父親に対する印象は最悪に近いようだったから。
「椿、すまない……」
握った手に額を付ける椿の父親。彼は、その状態のまま、淡々と事実を話し出した。
「あのとき、母さんは癌だったんだ。椿は気付いていなかったようだけど、母さんは癌だった。時間を見つけては、病院に通っていたらしい。父さんは、母さんが帳簿をつけているときにそれを知ったんだ……。母さんは、もう治らないって言ったよ。見つけるのが遅かったらしい。末期ではないけれど、既に他の器官に移転しているらしいって。正直な話、怖かった」
椿の目は、父親を見ていた。虚ろな目から変わって、はっきりと凝視していた。
「……それで、逃げたのか?」
無常にも突き放した言い方をする椿を叱責しようとしたが、できなかった。椿の父親は、椿のその言葉を受け止めていたから。
「そうだ。逃げたんだ……怖くて。『苦しくてもできるだけ長く生きるから』って母さんは言った。自分が死ぬかもしれないのに、母さんはそんなこと気にしていなかった。いや、気にしてはいたんだろう。死ぬ事が怖くないはずがない。だけど、父さんと椿のことを何よりも想ってくれていた。だけど、父さんには無理だったんだ。離婚を一方的に迫って家から逃げ出したよ」
椿の手を握る両手は、いつの間にか手を組んで祈る形になっていた。父親の懺悔を、椿はどう思っているんだろうか。椿は無表情に父親の顔を見ている。何とも読み取り難い。
「椿が義父さんのところに預けられたのを聞いたのは、母さんが死ぬ直前だった。忘れても気にならないぐらい時間が経ったら教えてあげて欲しいって。電話だったから止めようも無かったんだ……」
何となくだが、この二人の関係を理解する事が出来た。椿は、母親は父親のせいで死んだと言っていた。けれど、本当はどの道死ぬはずで、父親がいなくなったのはそのせいなんだ。とはいうものの――。
「あははははははははは!」
突然哄笑が鳴り響いた。椿が笑っていた。泣きながら、笑いながら、怒りながら……。全ての感情をごちゃ混ぜにしながら椿は笑っていた。
「椿……」
俺は声を掛けようとした。けれど、何を言っていいか分からない。第一どっちのことで笑っているのかが分かりかねていた。
哄笑を終えた椿は、顔面を兇悪に歪めて父親の手を見ていた。
「関係ないね。僕には。死ぬはずだった母さんを見捨てた事と、見捨てた母さんが死んだ事に何の違いがある? 課程はともかく結果なんて変わりやしない。苦しんで死んだんだ! 最初っからあんたがそんなことをしなければ苦しまずに天国に行けたんだっ!」
その言葉の終わりと同時に、重力が消えた浮遊感を感じた。視界がくるくると回転する。そして、ドダンという音とともに激しい痛みが体の一つの方向から襲い掛かってきた。気が付くと、地面に横になっていることに気付いた俺は、その床を二本足で立っている椿を見上げた。あの状態で投げ飛ばしたらしい。不良どもとの立会いで培った筋力か。
「あんたが謝るのは俺じゃあない。天国で、母さんに土下座してこいよ」
そう呟いたと同時に、父親の悲鳴と激しい音が聞こえてきた。今の俺と同じ状態で床に倒れている。殴り飛ばされたんだろう。さらに、びちゃぁあっと液体が振りまかれる音が聞こえた。同時に出てきた鼻にくる匂い。よく病院などで嗅ぐような匂いだ。
多分、アルコールの類。
「普段は脅しで使うだけのものだけどね。今回は本気だ」
椿は空になったビンとライターを持っていた。本当に火をつけるつもりだ。床はフローリングで木製。当然燃える。
「本当に殺す気なのか?」
俺は簡単に尋ねた。うつ伏せの姿勢で、椿を見上げている。俺の存在に今頃気付いたかのようなそぶりを見せながら、椿は
「当然。何がしたくてここまでしなくちゃなんないのさ」
挑発をかましてくれる……!
一応怒気が伝わったらしい。
「そこで大人しくしてろよ。お前もろとも燃やすぞ? 逃げるなら構わないけどな」
ふざけたことを言ってくれる。人をなめるの大概にしろ。
「良いことを言ってくれるなあ――」
俺は寝ている姿勢から一気に立ち上がり、ラグビーのように椿に向かって飛び掛った。
「逃げるくらいなら死んでやるよ!」
俺は椿の腹に掴みかかり、そのまま押し倒した。必死に引き剥がそうとする椿。けれども俺はしがみ付いたまま離さない。椿は、そのまま持っているライターで火をつけようとしていた。俺は強引に椿の腕を持ち上げ、床から遠ざける。
俺は叫んだ。
「どうして殺さないとならないんだ!?」
「こいつさえ何もしなければ何も変わらなかったんだ! 昔のままでいられたんだ!」
「殺したからって何も変わらないだろう!」
「変わる! 違う世界でやり直せばいい。本当にあるかは知らないけれど、こんな世界に比べれば遥にマシだ!」
そんなガキみたいなことを良く言える。もがいているこの姿さえもガキそのものだ。コイツは、昔のまま、変わっていない。昔の思い出を眺めているだけで、ほとんど動こうとしていない。ゆっくり遠ざかるその幻影にすがって生きている。
「あんたらはさっさと逃げろ!」
俺は椿の父親と女性に向かって叫んだ。それを訊いてさらに椿の腕に力が入るが、俺も限界まで粘った。殺させてなるものか。
「でも――」
父親の方が反論しかけたが、
「落ちぶれ具合なら俺も負けてないんだよ……! こんなヤツでも友達なんだ。殺させないために逃げてくれ」
俺らの横を通って二人は外に出て行った。それを懸命にもがきながら見ていた椿は、泣いていた。
「どうして邪魔するんだ! このためだけに生きてきたんだ……この気持ちが分かるか!?」
わかんねえよ! 心の中で叫びながら、もがき苦しむ椿の姿を俺は見ていた。見るに耐えない哀れな姿。こんな生き方どうして望むんだ。こんな生き方をするために生まれてきたわけじゃないだろうに。
「だったら……頼むから邪魔しないでくれ……」
ボッ。
カチッと押したライターに火が灯り椿の服に火が触れた。ちりちりと黒い煙を立てて焼け始める。
「何を――グッ!」
顔面に黒いものが当たり、身体ごと後方に吹っ飛ばす。蹴られたらしい。どこかの壁にぶつかる衝撃は凄まじかった。打ち所が悪かったらしく、頭もくらくらする。
「これなら邪魔できないだろう……」
燃えた服を身にまとい、苦笑いを作って立っている椿。ズボンから落ちた火の粉が地面に触れ、アルコールに引火し始める。
瞬く間に、辺りに広がり始めた。
「何で……」
「何で……? 復讐が果たせないなら生きてたってしょうがないよ……死ねば母さんに会える……それだけだよ」
当然のような口調で話していた。当然といっても、その炎によって生み出される強烈な激痛は、表情に表れていた。脂汗を滲ませて、哀しい笑みを向けている……。
俺は思った。ふざけるな……!
俺はよろめきながらも立ち上がり、椿に向かって走り出した。それ程離れていない距離を、飛び掛るようにして接近する。
その動作に驚いた椿は、無意識に腕を上げて俺の顔面をぶん殴った。しかし、俺はひるまずに椿を押し倒す。早く火を消さなければならないからだ。とりあえずは燃えている服を破らなければならない。
服を破るために、襟を両手で掴んだとき、椿の拳が飛んだ。反撃しない事をいいことに、椿はありったけの力で拳を振り上げる。俺は、黙ってそれを受けているだけだった。
「なんで邪魔するんだ! 何度も何度も――」
「ふ・ざ・け・ん・な!」
全てを吹き飛ばす大声で、椿の文句を遮り、上着を一気に引き裂いた。案の定、中身は痛々しく焼け爛れており、凝固しかけた血液と脂肪がぐちゅぐちゅと嫌な混ざり方をしていた。皮膚に直接張り付いてしまっている部分を残して、早急に燃えている服を放り投げる。
「自分の人生だろ……人のせいにして生きるな! お前の母親はこんな生き方を望んでいたのか!? こんなことを言うのは奇麗事かもしれないな! お前にとっては。でも……お前のお母さんはそんな腐った人間だったのか? 自分のことよりもお前を想っていてくれる様な人だったんだろ? だったら、望み通り幸せに生きてやれよ……」
パチパチと柱や床から火が燃え盛り、火の粉が散ってくる。椿は、目を丸くして俺を見ていた。振り上げた拳を止めて、時間が止まったように俺をずっと見ている。いや、この場合は動き出したのかもしれない。
俺は呆然とした表情の椿を担いで歩き出した。早く出ないと、二人もろとも死んでしまう。やけに遠く感じる出口を目指して、一歩一歩、歩いて行く。
「なんでお前にそんなことが分かるんだよ……どうしてまっすぐに生きられるんだよ……」
湿った感触が肩にあった。椿は嗚咽を押し殺しながら泣いていた……。なんて答えればいいのだろうか。朦朧とした意識の中で、最良の言葉を捜していた俺は、結局何も言えないことに気が付いた。どうして分かるのか? そんなこと知るか。何となく思いついただけだ。まっすぐに生きられる? 家出をしてこんなことをしている人間がまっすぐ生きているというんだろうか? 分からない。
「……まっすぐ生きている人間なんていやしない。俺とお前はそんなに変わらないと思う。お前は、本当は人を傷つけることを嫌う人間だ。十分いいヤツだと思うよ」
思いついたことをダラダラと話してみたが、自分でも良く分からない。こんなものだろうとは思うけど。椿は、いつの間にか静かになっていた。痛みで気絶しているのかもしれない。聞こえていたのかは分からないが、多分もう父親を殺そうとすることは無いと思う。母親がそんなことを望んでいないってやっとわかったんだし……。
視界が薄くなり、くるくると回転し始める。目の前に出口があるというのに、体力が持たなかったらしい。
ドサリと担いでいた椿ごと床に倒れる。まずい。はやく起き上がって逃げなければ死んでしまう。頭が痛くなってきていた。一酸化炭素中毒になりかけているのかもしれない。はやく、はやく逃げないと……。
気持ちに対して、身体は非情だった。完全に動かない。
遠くなる意識の片隅で、バタンと何かが開く音が聞こえてきた。そして、「大丈夫か?」という声。この声は聞き覚えがあった。椿の父親の声だ。ほとんど無意識に俺は唇を動かした。聞こえているかは分からない。でも、ちゃんと聞いておきたかった。
「大丈夫だ。今度は逃げない。償ってみせるよ……椿のためにも。本当にありがとう――」
そこで、おれの意識は完全にブラックアウトした……。
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2005/05/02(Mon)20:56:46 公開 / 霜
■この作品の著作権は霜さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
あああぁぁぁ〜(フェードアウト
こんなんでいいのか? という疑問と共に投稿です(汗 なんだか都合いいなあ。
椿の話はドロドロしたものにしようとしていたのですが……なんかハッピーエンド?
以前ドロドロしていたものを書いていたので抵抗があるのかもしれないですねえ。次からはやっと本題? です〜。