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『感染源 予言者の信託(読み切り)』 作者:黒之狗人 / 未分類 未分類
全角11694.5文字
容量23389 bytes
原稿用紙約35.55枚
感染源  予言者の信託


 外の景色を眺めると、紅葉がゆっくりと地面へ落ちていっていた。
 秋という季節は儚いというイメージがあるのだが、しかし憂鬱な現状ではそれすらも盲目的に信じられるかも知れない。退屈の類のものが手元にあると、否が応でもそう思ってしまう。
 そんなことを考えつつ、病院の一室の前で黒いスーツのネクタイを直しながら、俺は欠伸を噛み殺した。以前、この怠慢な態度の所為で三ヶ月の減給を喰らったので、流石に周囲に目配せをし、相棒の吉村しかいないことを確かめてからそうしている。
 見て見ぬ振りをしてくれる、寛大な彼に感謝。まあそれも、付き合いの長い同期というのが一番の理由なのだが。
 病室の擦りガラス戸を覗くと、中で数名の大人が蠢いているのが見えた。
 俺達の護衛相手も中にいるのだが、いかせん家族内でのプライベートな状況のため、俺達は中で護衛することを自粛しているのだ。
 これもまあ、俺達の所属する会社の社則に準じているだけなのだが。
 だが、そうしている暇な時間もそうしている内に終わりを迎える。
 紙コップの珈琲を冷ましつつ飲んでいると、突如扉がスライド。瞬間、俺達は熱い液体を一気飲み干して背筋を張る。
 流石にずっとこの姿勢でいるというのも人間の活動限界を超えているのだから恐らくサボっていたのがばれているだろうが、出てきた人物はそれを見ても何も言わなかった。
 それは、髭を蓄えた大柄で壮年の、スーツの男性だった。
 世間はこの男のことを経済界のドン、とか、内閣の顔だとか言うが、正直俺はそんなところに興味はない。ただ、著名な人物の分、狙われる危険が多いために報酬が多いという条件のためにこの仕事を受けただけだ。
 俺には、その横で諂えている秘書や、小物の政治家のような人間にはなりたくない――否、なれないだろう。
 それ以上に、俺達の仕事はこの男の護衛ではないのだ。
 そこで本当の印無を思い出して部屋を覗き様子を見ると、その奥方が目に入ってくる。その手の鎖の先に繋がれているのは、
 ベッドの上で寂しそうな笑みを浮かべる、少女だ。
 憮然とした態度で、しかし免職にはされたくないので振り返り、俺は相棒と共に契約者たる大物政治家に礼をする。自らの誇りや精神から、行動を切り離す事が、立派な社会人の第一歩だと思う。でなければ、俺もこんな太ったオヤジに頭を下げたりはしない。
 数人の手下を連れて廊下を闊歩していく奴に、最大級の皮肉を込めた笑みを浮かべてやるが、こちらを一瞥すらしないので無意味に終わる。奴担当の同業者に同乗するよ。
 そう思いつつ向き直ると、俺は表情を緩めた。小さな子供に接するには、そうした方がいい。
「失礼します」
 奥方にそう言い、俺は相棒と共に再び警備についた。やはり、警備対象が横にいた方が落ち着く。と言うより、離れながら護衛しろと言う方が無理な話だ。
 内心で苦笑しつつ視線を戻すと、少女が無垢の瞳でこちらを見ていた。
「いつも笑っていませんね?」
 それは俺達、護衛全般に対する問いだった。いきなりこの質問をしてくるのも変なので、先程父親と離していたときにそんな話題が出たのだろうと、勝手に予測しておく。
 返答を求めている顔にたじろぎ、俺は何とか言葉を紡いでいく。
「笑えないわけではないのですが…、」
 相棒が笑いを噛み殺しているところが目に映り、殴っておきたい衝動に駆られるが、少女が目の前にいる手前、それが憚られる。その最中でも俺は脳内で言葉を練り、躊躇しながらも言語に変換していく。
「笑っていても貴女を守ることが出来なかったら意味がない。私の仕事は貴女を守ること。それが出来なかったら、私は貴女のお父さんに顔向けできないのです」
 もの凄く、真面目な返答だ。小学校低学年程度の少女に対する返答とは、誰が見ても思えないだろう。
 よく真面目な正確だと言われ、その度にそれを否定してきたが、いよいよ肯定しなければいけないかもしれない。
 そう思考しながら少女に目を向けると、その柔らかな肌を微笑ませていた。世間一般の大人と言われる人種にしてみれば、嘲笑といったところかも知れない。だが、無垢な笑みはその中の悪どい感情を抜き取り、ただの笑みに変えてくれていた。
 偉大なのは………無邪気さだ。
 子供に欲情すると、流石に性犯罪者の予備軍に登録されてしまうので、これ以上子供にそういう奇妙な感情を抱くのは止めておこう。いや、もともと恋愛感情やら欲情やらはしていなかったが。
「お母さん。少しお話が…」
 背後を振り向くと、少女の父親を送り終えたのだろう専属医が、白衣を開けた窓からの風に揺らしながら立っていた。
「あら、ではちょっと行って来るわ。美羽をお願いして良いかしら?」
 俺の肯定する頷きを見て、彼女はポケットから銀色の鋼を取り出し、手錠の穴に差し込む。自己判断で外すことが出来る手錠は、少女と彼女を繋ぐ絆でもあり、同時に周囲へ症状を拡散させないための、一種の防衛手段でもあった。
 電波型思考感染源症候群。俗に感染源と呼ばれるこの症例は、近年発見された特殊な症例の一つだ。
 確か、生後より脳に伝虚部と呼ばれる特殊機関が発達、肥大するのが原因だったはずだ。
 だが、問題はこの症例に罹った患者自身にその影響が及ぶことはない。むしろ、これは周囲に影響を及ぼすものとして、この病が医学界から発表されたと同時に日本政府よりある条例が出る程に警戒されているのだ。
 それは民法に新たに加えられた感染源防護令であり、手錠はその条例の一環でもあるようだった。
 簡単に言えば感染源とは、自らより(人によって違うが)ある一定範囲内に入った人間の思考に自分の思考、及び感情を「伝染」させるのである。それは強く思えば思う程、強力に伝播するし、それを止める手段は伝播防護素材でのパッキングと言った極限られた方法しかなく、その監視下で生きるには、百万人に一人という割合で産まれる感染源を把握するに難しかった。
 それ以上に、感染源に人並みの暮らしをさせたいという、一部の政治家――この子の父親のような――の意見が合ったことが明らかに黙秘されているのも、無視しておくべきなのだろうが。
 まあ、この子の小さな頃から警備に携わっている故、微弱な電波から浴びることで俺達の脳には抗体が出来ている。よって、彼女に感情を書き換えられる事態は皆無。安心して警備はできる次第だ。
 と、いう無駄思考から更に帰還。少女に目を向けると、壁に掛けた何やら宗教的な十字架に祈っている様子だった。
 感染源という、感情を書き換えるという理由で明らかに周囲に嫌悪される症例に冒された人間には、宗教や周囲の環境と言った様々な支えも必要になるだろう。最低でも、彼女一人が神の類を信じ、他人にそれを押しつけるようなことをしない限り、彼女の両親はそれを許すだろう。
 そして、その右手から相棒の左手に伸びているのは、先程母親に繋がれていた手錠だった。
 こうして、常に誰かと繋がっていることが、ある程度の自由を約束された「感染源」としての絶対条件になる。
 まあ、先に俺を笑っていた報いを受けるが良い。面倒は他人に任せるのが一番だ。
 根暗な思考をしている自分が微妙に恥ずかしいが、誰に見られていたり聞かれているというわけでもないので自己警告だけで済ませておこう。
 ああ、合理的。別に何がとは聞かれたくないが。
 一方、振り向くと医者に連れて行かれている最中の母親と視線が衝突する。だが、別段言葉を交わすこともなく、そのままスルー。
 逆に、医者の方がこちらに――どちらかというと、少女の方に、
「今日は天気もいいし、散歩でもしてきたらどうかな?」
 と、言葉を掛けていた。まあ、退屈な仕事に面倒事が少し加わるだけだ。
「俺は賛成」
「わたしもーっ」
 祈り終えたらしい少女が、吉村へ対する嫌がらせに気付かずに、しかし同乗。
 結局、俺と少女は、項垂れる相棒を後目にドアを開くことになった。

 天候は快晴。何処までも澄み渡る空。
 それでも俺達は仕事だ。
 俺は売店で買った珈琲を。美羽は殆ど季節外れに近い市販のソフトクリームを口に運んでいた。
 中庭と言っても、総合病院でのそれはそれなりに広大だ。数時間も掛ければ回りきれるが、いつもそんなに長い時間居るわけでもないので、未だに回り切れていない場所も多い。
 まあ、親の我が儘で外に出ることもそれなりに多いので、五年もの長い間彼女の護衛をしていてもそんなこともあるだろう。その辺りは俺の自分勝手な感慨だが。
 零れ落ちた紅、黄の地を踏みしめながら、クラシカルな石階段へ移行。鬼蜻蜒が中空を滑空し、更に高度へ飛翔。かつての少年の日を思い出すような妙な気分になったが、それが現実逃避の一種であると気付いて、物質界へと帰還する。
 最近、変に思考が飛ぶような気がする。昔話は、老後に取っておく主義なのに。
 相棒をちらりと眺めると、同じように目を細めて何かに耽っているようだった。誰でも似たようなものだ、と俺は勝手に自己完結し、業務に戻る。
「私ね、病院が一番好き」
 あどけない表情で、美羽が俺達に言った。それは、少女の言葉ではなく、一人の令嬢としての言葉だったのかも知れない。
「…どういうことです?」
 何かを思うような大人びた視線を向けてくる少女に、俺はたじろぎながらも問う。それは、俺達のような一般人には全く理解できない話なのかも知れないが、後学のためにでも聞いておこう。
「学校ではみんなに感染源だって蔑まれて、疎まれて。だからって家では家庭教師の先生に、ピアノ教室、ヴァイオリン、生け花にお琴。ゆっくり出来る時間なんて、ここで入院している間だけなのだもの」
 嘆息し、俺に同意を求めてくるが、全く理解不能な悩みなので生返事しかできない。
 そうか、こういう暮らしもあるのか。そう思いつつ、眉をしかめた。
 金持ちや政治家の様な人間の暮らしを理解するには、やはり同じような体験をした方がより共感できるようだ。
 ソフトクリームを食べ終えた彼女は、近くのゴミ箱にゴミを捨てた。俺もそれに倣ったが、その横で少女に引っ張られている相棒が、少し哀れに見えた。
 と。
「おい」
 吉村がいつもの声で呼びかける。病院の建物の方を向き、だが微動だにしない。
「あれ、何だ?」
 奇妙な言葉を放つ相棒の視線の先へ、反射的に振り向いた瞬間、
 二発の、銃声が轟いた。


「何の音だ!?」
「中庭の方だ!」
 医師達が叫ぶ。余程聞き慣れない音だったのだろう。一時的な休息を取っていた医者も、その音源を捜索する。
「中庭…?」
 一人の医師が、患者の母親と向き合いながら声を漏らした。
「まさか…!?」
 その母親はただ、驚愕したような表情を浮かべていた。
 そして医師が制止しようとした瞬間、しかし美羽の母親は部屋を飛び出していた。


「っ!?」
 自らの腹に穿たれた穴と強烈な硝煙の臭いが、それでも痛みにかき消されて無かったように振る舞っている。
 だが、確かに穴からは紅い液体が噴き、しかし極小さな穴からのそれは、早くも少しずつその噴出が収まり始めていた。
 それでも冷静に観察している、余裕が、ない。
 それでも貫通している所為で、これ以上の悪化は出血多量以外には考えられなかった。
 だが、それ以上に俺は焦っていた。あまりにも予想外だった不測の事態に、頭が上手く回らない。その中で辛うじて携帯していたトンファーを取り、構えた。
「手元が狂ったな…」
 六連式――旧型の銃のハンマーを弄びつつ、言った。
 黒い銃身を構えた、吉村が、俺と美羽のすぐ横で佇んでいた。
「てめぇっ…、何、をっ…!?」
 痛みに呻きつつ、俺は言葉という論理で奴の凶行を止める術を模索する。だがしかし、その動機すら全く不明瞭のために、紡ぐべき言葉が見つからない。口八丁手八丁は得意なはずなのにっ。
 そんな俺の無様な姿を悠々と眺めながら、吉村は言う。
「こいつを殺すのさ」
 銃口で少女の額を指し、薄ら笑みを浮かべる。
 その行動に。あまりにも無慈悲で唐突すぎる言葉に、俺は倫理観が消滅したかのような錯覚を覚えていた。
 この男は何を言っている?
ほんの一瞬前まで相棒として護衛任務を請け負っていた男が、その護衛相手を殺すだと?
「んな、馬鹿な話が、あるかっ!」
 喘ぎつつも俺は叫んでやる。威嚇と共に、この男の存在を周囲に知らしめるために。
 その横には、同じように横腹に銃撃を受け、痛みに泣き震える少女。
 俺の場合は明らかに急所を外して撃たれていたのに、少女の方は心臓の少し下を貫通しているようだった。つまり、奴は明らかに本気だ。
 この危険人物が何を考えているか、知りたくもない。
 かちん、と無機質な金属音が鳴り響き、ハンマーが上げられたことを示す。回転弾倉部分が回り、薬室に銃弾が込められていた。そして間髪を入れずに、男の人さし指は引き金に掛けられていた。
「とにかく、俺はこの子を殺す。それが、俺に授けられた使命だ……!」
 そう言い、しかし吉村が怯える少女の顔に怯んだその瞬間、俺は痛みを司る神経を脳内アドレナリン、及びドーパミンといった興奮物質の大量分泌によって痛覚を完全無視し、紅葉と血の舞った地面を蹴り上げる。
 沖縄を源流とする武具、トンファーが唸りを上げて俺の回転についてくる。しっかりと握られた握部はブレることすらなく、遠心力を使い、光速で吉村の手にあった金属とプラスチックで構成された黒い物体を中空へ跳ね飛ばす!
 更に俺の回転運動は続き、地面を蹴り上げて上段蹴りを喰らわせる、筈だったが、それに虚を衝かれていたはずの吉村が完全に反応。防御の態勢に入るのが見えた。
 だが、俺の組み立てられた一線だったはずの攻撃は、右足の膂力で急激に変化。上半身を落とし、右手を付いての中段蹴りに加え、警戒していなかった衝撃に蹌踉めいたその頭を蹴り飛ばすっ。
「っ!!」
 血反吐を吐くような俺の格闘に、仰け反る吉村。
 その首をトンファーで留め、胸に膝をついて手を反対の足で潰し、完全に身動きが取れない状況に追い込む。
 この状態なら手を少し捻るだけで、この男の首を絞めることができる。
 そしてそれを、それなりに格闘術に長けているだろう吉村の方も理解できているのだろう。
 そこでようやく、俺は眼前の男に問いをぶつけた。
「何のために、ンな事をっ!?」
 痛みの中で喋るために、言葉にしづらい。それでも、手の力だけは緩めなかった。
「…未来の悪の芽を摘み取るためだ」
 その眼球に宿されていたのは使命めいた感情。そして鎖で繋がれた少女への、明かな嫌悪と侮蔑。
 そこでようやく気付いて振り向くと、痛みに気絶仕掛ける少女は、吹き飛ばされた衝撃で横たわっていた。
 兎に角誰か応援が来るまでは、このままで居るしかないだろうが。
「どういうことだ?」
 一方的な質問に気が滅入りそうになるが、事実関係を明らかにするには乗り越えなければならない障害なのだろう。
「未来からの啓示だったんだよ。感染源の能力を特殊な機械で増幅させ、過去に働きかけて未来を変えようとしている人間の電波が、奇跡的に俺に届いたんだ。
奴らは俺にそれに関して全ての説明をしたっ」
必死に喋る男の言葉は、しかし既に現実の枠を超えていた。いつの間にSF映画の話題になっているんだ?
 だが、それでも吉村は続ける。
「信じないのなら良い。だが、この子供は未来になって必ず父親の地位を使ってこの国のトップになる。
そして、感染源の能力を電波に乗せ、この国を支配する独裁者になるんだよ!」
その言葉は、盲目の何かを信じる狂信めいたものだった。勿論、信じているものはこの少女の信仰している宗教の、神とか言った類ではないが。
「だから俺はこの子供に近づいた。未来からの神託を俺が叶え、未来を変えるために。この餓鬼を殺すためにっ!」
 俺は眼前で取り押さえている男に恐怖した。言っていることは、まるで妄想そのものでしかなかったからだ。
 確か、麻薬の常習者のような人間は、この様な垂れ流しの幻想に浸り、それを現実に起こると錯覚して何らかの犯罪行動を起こすことが多々あるらしい。だが、この男に関してはそんな素振りは全く見せなかった。
 それはある意味この国を、この世界の秩序を守るために行わなければ行けないと言う使命感だったのだろう。
 彼のイースラム教の唯一神アッラーの啓示を受け取ったという預言者ムハンマドも、もしかしたら同じ様なものだったのかもしれない。いや、それすらも未来からの助言のようなものだったのかも知れない。
 そして、それがただの妄想か、それとも本当のものだったのかは、恐らく俺達のような平凡過ぎる人間には絶対的に理解は不可能なのだろう。
 本人にすら、それは証明など不可能なのだから。
 そうやって俺の脳内で飛ぶ話は、もしかしたら飛びかける意識の権化なのかも知れない。
「…」
 そして沈黙した。沈黙するしかなかった。
 だがその均衡は永遠に続く筈などなく、簡単にうち破られる。
「頼む。あの餓鬼を殺させてくれ」
「嫌だ」
「…………」
 俺の言い放った一言に、再び沈黙。
 瞬間!
「がああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!」
 獣の咆哮と共に喉が潰れるのにも構わず吉村が腹筋の膂力を酷使し、起きあがる。その急激な状態変化に付いていけずに、おれはもんどり打つ。何が起こったのかを脳内で咀嚼し、理解した瞬間には、既に吉村は落ちた鉄の塊をその手に掴み、
「俺はっやらなければならないんだ!」
 狂信的な何かによって、唖然とそれを見ていた少女へ矛先を向けた。
 距離からして、トンファーでリーチを伸ばしても届かない。それは絶対にして絶望の距離。
 引き金が引かれ、上がったままのハンマーが銃の後部に衝突。内部で火花を散らせて薬室の銃弾へ着火。火薬の急速燃焼によって吐き出される燃焼ガスと、爆音、そして撃ち出された小さな金属の塊を射出した。
それはスローモーションのように眼前で流れていき、俺はその先の延長線上を見た。
少女の心臓を、この上ない程完璧に貫く直線だった。
男の顔が喜悦に歪む。阿呆な。こんな不条理なことがあって良いのだろうか。
否、この世界は不条理の連続だ。そしてこれもその中のただ一つに過ぎないのかも知れない。
だが、それでも。
俺は眼前の少女を守りたかった。理屈ではなく。もしかしたら、これも誰かによる何らかの啓示だったのかも知れない。
だが、そうだったとしても。
俺は奴の手から銃を奪った。だが、それすらもがもう遅い。
バスンという鈍い音が聴覚から脊髄へとのぼり、電気信号へと変換されていた。
 俺は悲痛に目を瞑った。あまりにも理不尽な現実に帰還したくはなかった。
 だが、聞こえてきたのは即死したような少女の断末魔ではなく、悲痛の叫びだけだった。
「お母さんっ!」
 その言葉にはっとして、俺は振り向いた。其処には何故か美羽の母親が倒れ、それの中心から流れ出る紅い液体を止めるべく、必死で傷口を押さえる少女の姿があった。
 其処へ駆けつける医者達。そして、その後方から走り来るのは窓から見て誰かが通報したらしい警官。
 散歩の筈だったのに、何故この様な事態になってしまったのだろうか?
 そう考えようとして、考えきれずに頭の中が白濁していくのが分かった。
 眼前の景色が、世界が、まるで霞がかったように揺らめいていく。
 その意識の端で首筋の急所打ちをし、吉村を気絶させる。これでこれ以上被害が出ることは無いだろう。
 そう思いつつ俺は腹の傷を見た。
 美羽の母親と同じ紅い液体が見たこともない程に流れ出ていることに気付いて、
 そして果てた。


「お母さん! 嫌だ。死んじゃいやだ!」
 美羽の叫びが中庭に木霊していた。
 そのあまりにも辛すぎる現実を目の当たりにして、感染源として思考が周囲へと漏れ始めていく。それは不可視の波となって霧散し、放射状に拡散。止まらない出血を止めるべくする医者共へ、その絶望を感染させ始める。
 だが、その電波はあっけなく止まり始める。
 喘ぎ、自らも出血する少女の手で、その母親が呟いていたからだ。
「ごめんね。母親らしいことあまりしてやれなかった…」
 それはあまりにも陳腐な親子の別れの場面だったのかも知れない。
「嫌だよ。そんなこと言わないでよ…」
 首を横に振り、泣き続けながら。それでも少女は続ける。
「お願い。お母さんを助けて!」
 少女が後ろを向く。だが、医者は言った。
「駄目だ。心臓を貫通している…。移植できる臓器も無い。
彼女を救う手立ては………無い」
そして、応急手当をする道具も何も、此処には存在しなかった。
その間にも手の中の母親の出血は留まることなど無く、美羽は必死でその傷口を押さえ続けた。真っ赤に染まった手と、服と。それでも抑え続けていた。
「神様、お願いします! お母さんを助けてくれたら、私は一生――死んでも貴女に尽くします!」
 信仰を告白し、何かに何らかの救いを求める少女。
 しかし、それに答える「何か」は現れず、ただ絶望の時間だけが、刻一刻と続いていくだけだった。
 美羽の母が、震える手を、上げる。そして掠れる声で、自らの傷口を押さえる少女にしか聞こえない程のか細い声で言う。
「お父さんを…、宜し…くね。
美羽…、愛…し……、」
 美卯の頭を血で染まった手で、それでも撫でた一人の母はこの世にはそれ以上無い程の優しい笑みを作った。
 だがその瞬間、瞳から意志の光が急速に消え始め、蝋燭の火が消えるかのように簡単に、母親は絶命していた。辛うじて少女を撫でた手はだらりと石造りの地面へと落下し、紅かったはずの紅葉をそれ以上の朱に染めていく。
 それを見た医師達は、野次馬達は、強力な感染源の電波が飛ぶことを覚悟しただろう。あるいは危惧し、目を見開いた。
 だが、少女は泣くだけだった。限りなく感情を抑え、声を押し殺しながら泣くだけだった。
 眼前の母の死体を目にし、それでも唇を噛みしめた。
 そして悲痛と憤怒の入り交じった顔を、その命を奪った張本人に。社会に、そして世界に向けていた。


 窓から入る陽光の中、暗闇から俺の意識が急速浮上。
 目が覚めると、そこは白い空間だった。嫌いな薬の臭いがするところから外科なのだろう。それに気付いて体を起こそうとした瞬間、腹部に激痛が走った。
「やあお早う。あ、腹の傷はまだ塞がっていないようだから無理はしない方が良いと思うぞ」
 男の声に言われて、激痛に堪えながらも声の下方向へ顔を向けた。そして呼吸が途絶。
 顔に髭を蓄えた美羽の父親が、椅子の上で無表情のまま鎮座していた。その落ち着いた佇まいから重い人生の風格を感じられる。こういう風格の人間は苦手だ。振り向いて全力疾走で逃げたいところだが、傷の手前それが出来ない。
「……家内は、死んだ」
 油断している隙に、重い一言を放たれた。
 再び呼吸が止まり、俺の思考が真っ白になる。
「それって、どういう…?」
「いや、君の仕事は美羽を守ることだけだったから咎めはしない。だが…、」
 そうして言葉を濁した。俺は、俯くしかなかった。
「君が美卯を守ってくれたことは知っている。これからも彼女を守って欲しい」
 そう言って立ち去ろうとする男に、俺はそれでも声を掛けた。振り向いたその顔に悲痛な何かが含有されていることに気付きながらも、俺は問う。問わねばならない。
「何故、それを俺に? 俺は貴女の奥さんを殺し、娘を殺そうとした男の相棒だった人間ですよ」
「その相棒から娘を守ったのは、紛れもなく君だろう?」
 内閣の顔が抑揚のない声で言い渡す。だが、それも無理をしてのことだと、見ているだけで理解できた。
「それに、娘の要望があってな…」
 そう言って向き直り、彼は俺の病室から出て行った。後に残ったのはスーツにかけられた何処かの香水の残り香と、
「おじさん」
 入れ替わりに入ってきた美羽の姿だった。
「話したいことがあります」
 そう言って俯いていた少女は、俺の顔を見た。その瞳から伝わってくるのは確固たる意志の光。
 それを直視することが、何故か俺には出来なかった。それに構わず、美羽は続ける。
「おじさんにはお世話になりました。お父さんに言って貰いましたけど、これからも宜しくお願いします」
 深々と礼をした。だが、その姿に何か違和感を感じた。先日までは感じなかった、何かを。
「お母さんのことは、済まなかった。君も含めて、私には…守りきれませんでした…」
 俺は事件の起こった日に少女に言った言葉を、俺は反芻していた。信仰のような何かに縋らなければ、もしかしたらそれに関しては言い訳など立たないのかも知れない。だが、俺には何かを信じるような信心深い心は、あれからの短い間に芽生えるはずもなく、言語での弁解は絶対的に不可能だった。
 だが、少女は首を横に振った。
「今回のことは仕方なかったんです」そして続ける。
「今回のことで、神様という存在がどれほど無慈悲なものなのかを知りました。もしかしたら、それが啓示だったのかも知れない。
どんなに祈っても救われることのない世界。だから私は神に絶望し、それでもこの世界を正す一つの啓示として今回の惨劇を受け取りました。それは、あの人――吉村というあの犯人に下された神託だったのだと、私は思います」
俺の目は見開いていただろう。眼前の少女の口から吐き出される言葉の羅列。それは確かな意志を秘めた言葉だった。
「だから私はあの方の言っていたことを指針にします。私が今回のような惨劇を起こさない、一つにまとまった平穏な社会を作ります」
 それは、少女には大きすぎる野望。そして理想だった。
 だが、眼前の少女にはそれを為し得る覚悟と、他人に自らの思考を伝染させる感染源の力と、内閣所属の父親という絶対的な支援がある。それを利用し尽くすのなら、その理想は叶うのだろう。夢のような漠然としたものではなく、現実を伴った「理想」として。
 少女は、怯むような表情を浮かべる俺を一瞥し、続ける。
「きっと其処に至るまでは様々な困難があるでしょう。もしかしたら今回のように命を狙われるような事態になるかも知れない。…いえ、きっとなるでしょう。
だから、貴女のような人材が欲しい。何があっても私を守る覚悟をすることの出来る人間が。だから、私は貴女に護衛を続けて欲しいのです」
少女は俺の内層心理を切り開き、分解し、俺という存在を内部からなぞっていく。俺を覗く少女の手から伸びるのは、不可視の操り糸。それが無数に絡みつき、俺を含んだ世界をその手で操り始めているように見えた。無邪気を装った、一人の傀儡師として。
今回の事件は、純粋だったはずの少女を一八〇度方向転換させる程、凄まじく、理不尽な事件だったのだ。
俺は考える。
もし、ここで断るのなら彼女の行おうとしていることを止める結果になるのかも知れない。それは、吉村が未来から授かったと豪語していた嘘くさい予言の、限りなく少ない実現確率を更に完全に潰すことになるだろう。だが、ここで断ったとしても、もしかしたら現実は変わらないのかも知れない。
その答えを出すことは、その昔自らの人生と将来を方程式で表そうとし、発狂した何処かの数学者のような運命を辿ることになるだろうと気付き、そこで思考を止める。
遠い未来のことなど、俺には関係ない。本当に吉村へ忠告を託した誰かが存在したとしても、今現在生きている俺には全く関係ない。
吉村は享受していたが、それは人に依るだろう。神の信託など、所詮はそんなものだ。
だから、俺は自分のことだけを考えよう。
この先、もし彼女が理想を叶えるとしたら、俺はその横で命を張りながら、それでも悠々と、右腕として大金を受けながら生きることが出来るだろう。
逆に実現しなくても、これまでの仕事が続くだけだ。普通に生き、この少女に気に入られている以上転落することもない。
其処まで策謀を回らせ、俺は結論を出す。
前者の可能性の方が高いというのは、俺の勝手な計算の産物だ。だが、負けることはない。
そして、理想が実現するのなら、その光景を見てみたい気もする。
支配する側でもなく、される側でもない。安全地帯で生きる傍観者として。
だから告げよう。偽りの忠誠を。
不真面目なようで真面目という俺を知り尽くした少女は、もしかしたらそれすらもが計算範囲内なのかも知れない。
それでも。
俺は、未来の独裁者に応えを告げる。
その答えを聞いた美羽は笑った。策謀者のようなそれではなく、一人の少女の顔で、
ただ、無垢で純粋な微笑みを浮かべるだけだった。


<了>
2005/04/05(Tue)22:26:11 公開 / 黒之狗人
■この作品の著作権は黒之狗人さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
確か10月くらいに此処に投稿させて戴いた「感染源」という話の続編、の筈なのに読みきりです
すらっと一本繋がった話が書きたかったので、短編連作形式で
感染源、というひとつの題材を使い切れなかったのが少し心残りです
もう少し自分で満足出来るものが書ければ良いのですが…
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