- 『微笑んで、櫻。舞い散って、桜。』 作者:ゅぇ / ショート*2 ショート*2
-
全角4338文字
容量8676 bytes
原稿用紙約14.75枚
ふわ、ふわ。
ふわ、ふわ。
風に乗って舞い落ちていく桜の花片を見ると、思い出す人がいる。
名前も知らない。住んでいるところも知らない。ただどこからともなく現れて、ともに過ごした一週間。
あたしは、彼に関する欠片も知らなかったの。エリート思考の両親にうんざりして家を飛び出したあたしを、見も知らない彼が救ってくれたの。
今でも眼を閉じればはっきりと思い出すことができる――彼の面影。
「桜の花言葉って知ってる?」
彼はとっても穏やかな物の言い方をした。声は低いんだけど、何だかとても落ち着く静けさがあるの。そういえば桜の花言葉なんて聞いたことがない。あたしは小さく首を横にふった。
彼と出会ったのは、つい昨日のこと。両親に満点が取れないことを罵倒されて飛び出した家の外で、ふわりと声をかけられた。
何で彼に警戒心を持たなかったのか――持たなかったといえば嘘になるかもしれないけれど――分からないわ。
見知らぬ人だったんだけど、でも何だかずっと昔から知ってるような不思議な気持ちがしたの。それにあたしも自暴自棄になっていたから、正直この人がどんな悪人でも構わないわって思ってた。彼が何であたしにそんな興味を持っているのか分からなかったけど、とても綺麗な容姿をしていて、身に纏う雰囲気の隅々までが優しくて。
彼と話していると、自分が馬鹿になったみたいに安心できたのよ。
「桜の花言葉はね、《精神美》」
彼が何でこんなことを言い出したのか、分かってる。あたしの名前は――水谷櫻。
エリート思考で体裁ばかりを気にする両親にうんざりしていたあたしの話を聞いたから。
「《精神美》?」
何よそれ、と思った。
「簡単に言えば《綺麗な心》。桜の花言葉だよ」
綺麗な心、と言われてあたしは少し胸が痛い。満点しか認められなくて、何をしても父親の同僚の娘と比べられて。あたしは両親を憎むしかできない。
――おまえがそんな娘で俺は恥ずかしいよ。
――あんたがそんな様子でT大に落ちでもしたら、お母さんが周りに何ていわれるか分かってるの?
両親の口癖は、腐った水のようにあたしを蝕んできた。あたしって可哀想だわって何度も思った。
「綺麗な心って?」
「嫌いだって思う相手ほど、愛するのさ」
「は?」
少し間抜けな声が出た。
「キリスト教なの? あなた」
確か『隣人を愛せよ』とか『汝の敵を愛せよ』とか、そんな言葉が聖書の中にあった気がする。思わず素っ頓狂な声を出したあたしを見て、彼は可笑しそうに微笑んだ。
微笑んだ顔がとても端整で、綺麗だった。
「俺は無宗教です。残念ながら」
笑いながら、あたしの髪を無造作に撫でる。その繊細で優しい手から、暖かい気持ちが流れ込んでくるような気がした。あたしよりもひとまわり大きな手だわ。
「櫻って名前、綺麗だな」
「……そう?」
突然名前のことを言われて、あたしは俯く。この名前は、あたしも気に入ってるの。
家のすぐ傍にとっても大きな桜の木があって、そこから両親が名付けたんだって。
「愛されてるよ、櫻」
名前の由来を話すと、のんびりと彼はそう言った。何を言ってるのよ、何も知らないからそんな楽天的なことを言えるのね。あたしが愛されてる? どこが? 誰に?
「お父さんもお母さんも、櫻のことを愛してるよ」
間違いなくね、と言う。何を根拠にそんなことを言うのか、あたしには全然分からない。分かったようなことを言わないでよ、と不機嫌になったあたしの携帯が鳴った。
「――もしもし」
――櫻!? 何してるの、さっさと帰ってきなさい。夜遊びなんてやめて頂戴よ、恥ずかしい!!
一方的に怒鳴って切られる。あたしは携帯のディスプレイを何となく見つめながら、ぽつりと言った。
「……帰らなきゃ」
「櫻」
公園のベンチを立ったあたしに、彼はまた優しく声をかける。
「櫻。お母さん、心配して電話かけてきたんだよ」
「……そんなの、慰めにもなんないわ。やめてよね」
何だか涙が出るほど虚しかったの。情けなかったの。
『心配して電話かけてきた』なんて嘘でも信じられない自分と両親の関係が。
彼みたいに純粋に親を思えない自分が。
「明日もここにいるよ」
彼はそれでも全く嫌な顔ひとつせずに、あたしの後ろ姿に声をかけたのよ。嫌になっちゃうでしょ。何だか彼といると――自分が一番汚れてる気持ちになるんだもの。
思えば何で彼の名前を訊く気にもなれなかったんだろう、あたし。
彼と出会って一週間目の夜は、細々と雨が降っていた。もう四月なのに肌寒くて、少し鳥肌だってたあたしに彼はシャツを羽織らせてくれたわ。
「寒いね」
「……うん」
一週間で、人の気持ちって変わるものなの。
両親に何を言われても、あたし彼に会うだけですべて解放されたような気持ちになった。完全にやる気をなくしてた数学と物理の勉強も、馬鹿みたいにはかどりはじめたのよ。それって、やっぱり彼のおかげ。固まっていた心がゆるゆると解かれて、少しおおらかになったみたい。
「櫻、かぁ……」
「何?」
「いや、やっぱり綺麗な名前。俺が一番好きな名前だな、と思って」
辺りの桜も花片を散らし、そろそろ初夏への準備を始めている。一番綺麗な時期は過ぎたけれど、それでもまだ薄桃の花色は眼裏に灼きついているわ。
好きな名前、と言われてあたしはとても嬉しかった。
「ねえ」
「何?」
「あたしね、聞いちゃったの」
「うん?」
彼の不思議なほど優しくて暖かい瞳があたしを見つめてる。ねぇ、何でそんな眼であたしを見るの? いったいどこから、何のためにあたしの前に現れたの? 何であたしは何も訊く気にならないのかしら。
「お母さんとお祖母ちゃんが話してるところ」
あたしは昨夜から泊まりに来ている祖母と母との会話を思い出した。
――あんた、あれじゃ櫻が可哀想だよ。頑張ってるんだから、褒めるところは褒めてやらなきゃあ。
――お母さん、そんなこと分かってるわ。でも今更褒めるなんて……。
――勉強なんて、あれくらい出来たら充分じゃないか。別にT大に行くだけがすべてじゃないよ。
――あたしは四大卒でも就職に苦労したの。お母さんも分かってるでしょ? あたしと同じ苦労をあの子にさせるわけにはいかないのよ。どんなにつらくても、あの子は今苦しむことで将来楽できるのよ!
櫻は愛されてるよ、と言った彼の言葉を思い出したわ。何でそうやってお祖母ちゃんには言うことをあたしに直接言ってくれないの。ねえお母さん。
あたし、嫌われてなかった。そう気付いてしまったら、今までみたいに反抗的な気持ちがなくなるのも当然よね。
「ほらね」
愛されてたでしょ、と彼は微笑んだ。
何であたしに分からないことを、彼が分かってるんだろう。結局今日の朝も、散々模試の結果に文句を言われたわ。でもお祖母ちゃんとの会話と、彼の言葉を思い出してしまって。頑張る気力まで沸き起こってきちゃったりなんかして。
あたしって、こんなに単純だったかしら。文句を言われてムッとするにはするんだけど、母親の本音を知るだけでこんなに安心できるものなんだって分かったの。
「櫻。花言葉は?」
「……《精神美》でしょ。もう覚えたってば」
「偉い偉い。櫻の心は綺麗だよ」
そんな恥ずかしいこと、よく言えるわよね。苦笑いが漏れる。日本人の顔をした西洋人なんじゃないかしら。そんな気障なこと、こっちが恥ずかしくなる。
風が、ふわっとあたしたちの顔を撫でて吹き去っていった。とても細かい雨が、糸のように身体を覆ってく。――また携帯が鳴った。母親からだ。
「もしもし」
――何なの、ここんとこ毎日夜出歩いて!! 危な……っていうかお母さんが恥ずかしいからやめてちょうだい。早く帰ってきなさい!
「わかったってば」
母親のヒステリックな叫び声は、彼の耳にも届いていたみたい。電話を切ったあたしの目を見て、彼はくすりと微笑んだ。
「お母さんやっぱり心配してるね」
「あれで?」
「危ないって言いかけてなかった?」
「だよね」
思わず笑ってしまう。不思議ね。
ちょっと本音を知っただけでこんなに優しくなれる。
誰かのちょっとした一言で、いろんなことに注意を払うことができる。
何だか結局、彼と出会って言葉を交わしただけであっさり心が晴れちゃって。今までギスギスしてたのが嘘みたい。
「…………ありがと」
「どういたしまして」
眼があった。あ、あたしこの人好きかも――と思った瞬間に。
「櫻、好きだよ」
夜空に光が射した気がした。何でだろう。素性も知らない人なのに、名前も知らない人なのに、何でこんな不思議なほど暖かな気持ちを抱けるの。
それとも恋とか出会いって、そんなもの?
「幸せになって欲しかったんだ、櫻に」
そう言って彼はふわりと笑う。何だか微妙なニュアンスを含んだ言葉だわ、と思いながらそれでもあたしは彼の笑顔に見惚れる。
帰らなきゃ、というように彼はあたしの肩を優しく叩いた。
「帰るわ。また明日ね」
今までは彼が言っていた言葉を、今日はあたしが言う。彼はまた優しく微笑んだ。
数歩行ってからふりむいたあたしに、彼は言った。
――「ほら。微笑んで、櫻」
笑ってる顔が一番可愛いよ、って。
それが最後だったの。
ふわ、ふわ。
ふわ、ふわ。
風に乗って舞い落ちていく桜の花片を見ると、思い出す人がいる。
あの日、あなたが言った言葉を今でも覚えてる。ねえ、あたし微笑んで生きてこれたわ。あの日が彼と話した最後の日で――あたし、その翌日にすべてに気付いたの。
あの日があなたの最期の日だったのね。
あなたと話した日の翌日、気付いたの。あなたの名前にも、それからあなたが何処から来たのかということにも。
とっても簡単なことだったのに、やっぱりあたしは最後になるまで気付かなかったのよね。
あなたの名前は『桜』。何処から来たのか分からないなんて思ってたけど、あなたずっとあたしの傍にいたのね。
家のすぐ傍に。
(考えたら……あたしはあなたから名前を貰ったのね)
すべて気付いた日。それはあなたの最期の日で。
詳しいことは分からないけど、母親は区画整理がどうこうって言ってたわ。
――あの日、あたしの家の傍にずっと前から在った桜の木は、伐られたの。
『微笑んで、櫻』
うん、微笑んでるわ。
『微笑んで、櫻』
ねえ、あたしちゃんと生きてるよ。
-
2005/04/05(Tue)21:40:56 公開 / ゅぇ
■この作品の著作権はゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
久々連載に集中してたかと思ったら、またワケの分からんショートを書いてしまったと苦悶しつつ。あたし書いてて思ったんですけど、何か流れが軽くて消化不良な気しません?この作品。何か書き終わった後も「何かなぁ……」とは思ったんですが、かといってこれ以上何をどうにも出来ず、結局このまんまで……(汗。何が言いたかったって、『微笑んで、櫻』の一言が書きたくて仕方がなかったんですよぅ(涙;とりあえず季節物なので、「ああ、桜の季節だなぁ」と思いながら読み流していただければ嬉しいです。ああああんまり厳しい指摘は勘弁してください(いっつもコレ)アワアワ。投稿したことを少し後悔しながら、失礼します。
最後の部分、一部修正しました。前のほうが良かったって方がいらっしゃったらゴメンナサイ(笑。どうしても桜の精が書きたくて仕方がなかったこの話、自分が思っていたよりもたくさんの方に読んでいただいて嬉しい限りですっ。
で、バニラダヌキさんのご指摘について直してみましたが、結局変わってない気がします(爆)
バニラダヌキさん>有難うございます。季節感を大事にしたつもりだったので、それだけでも伝われば嬉しいス。
ギギさん>有難うございます。あたし実はショート苦手で、長編派だったりするんですが、少しでも良いなと思っていただける作品が書けていれば幸せでつ♪
貴志川さん>有難うございます。これといった山場のないショートでしたが、『桜の精』と『微笑んで、櫻』だけが書きたくて。櫻という漢字に良いイメージをもっていただければ嬉しいです。
エテナさん>有難うございます。ええ、あたしもほどほどの家庭に生まれてよかった。とはいえ、母親とは年中喧嘩が絶えませんが。