- 『月光奏鳴曲』 作者:輝月 黎 / 恋愛小説 恋愛小説
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原稿用紙約82.85枚
私は、舞姫。
――何をして生きているかと訊かれたら、そう答える。
例えその神聖さがなくたって、その言葉しか、この自分を形容できる言葉がないのだ。
この人生の中で、自分は舞うことしか知らない。
ただ、流れる楽の音を鼓動に刻み付けて。
その波動を、完全に体中に溶かして。
そして、舞うのだ。
何かを伝える為に。
ただ、
その何かが、分からないのだけれど。
だから私は、
いつまでも、“純粋”と言われるのかしら。
そんなの、完璧に間違いなのに。
______________________
満月の夜。
だが壮麗なまでに大きい古木の影になり、その蒼光はこの場所までは届かない。季節特有の春嵐も、闇に抱かれれば眠ってしまう。
研ぎ澄ました神経に響くのは、僅かな光と微風に吹かれ木々が指先を通わせるような、躊躇いがちな木の葉の囁きだけ。
凛は、その暗い森の中に静かに腰を落とした。
「やっぱり無茶だったかしらね」
思いのほかそんな独白がよく響いて、しかしそれが忌々しくて、彼女はその秀麗な容姿に似合わない舌打ちをする。
音もしない風に、夜色に溶けない不思議な黒の、長い長い艶やかな髪が巻き上げられる。ひらひらとした白っぽい舞装束も、暗闇に妖しげにたなびく。
その時、僅かに木々の間が割れ、儚い蒼さの月光が、彼女に向かって差し込んだ。
……その姿は、まるで月の女神のよう。
名前の通りに凛然とした冴えた表情で再び音もなく立ち上がると、静寂の森の風を真っ向から受ける。白い顔の中で目元は細く黒々と映え、陽光の下では明るい紅玉(ルビィ)のような色の瞳も、濃い闇の中では、深紅の柘榴石(ガーネット)に近く見えた。
だがそんな宝玉の瞳に浮かぶのは、……あまりその儚げな美貌にはそぐわない、焦りと憤り。
そんなものを振り切るかのように、凛は舞でやる所作で振り向く。
微風を孕んだ白い衣は、その清純な色に似合わず、ふわりとあでやかに広がる。
そこにまっすぐな黒髪がたおやかに流れて、いたずらな幾筋かが仄かに染まる頬を伝う。
それは、ただ一つの動きに過ぎない。
振り向き終わるまでの、瞬き一つの時間に過ぎない。
なのに、その一瞬、彼女は泡沫の幻、まるで人界の奇跡のような舞姫、だったのだ。
――少なくとも、傍目にはそう見えた。
だが彼女自身は、自分をそんな清らかな存在だとは、一度も思ったことがない。
だから平気で舌打ちもするし、艶やかな髪をぐしゃりと握り乱すことも躊躇わない。容色がどうであれ、本当の意味で美しくないのならば、飾るのは無意味だと、常々思っているからだ。
しかし流石に凛冽としてすらいる静けさを破るのは嫌らしく、心の中で自分自身に向かって悪態を吐くに留めた。
(無茶どころか、単なる無鉄砲じゃない。仕事を放り出して逃げるなんて)
凛はこの森に入る――と言うか迷い込むまで、小ぢんまりとした、主要街道から外れた街で、舞っていた。そこがいつもの仕事場所と言うことはない。旅の途中二、三日宿を借りて、そのお代の代わりに舞って、それでまた旅立つと言う生活の上での、“どこでもいい舞台”だった。
そこで、彼女は、陵辱しかけられたのだ。
酔った男たちばかりだったので、最初から多少危ないとは思っていた。だが彼女にとって金を稼げるのは舞しかないから、その脳裏の警鐘をわざと無視したのだ。
舞い終わった途端、乱暴に引き寄せられて、圧倒的な力の差で組み敷かれて。
気付けば、衣に手を掛けられていた。
それからはよく憶えていない。
何故か押さえつける力が弱くなった瞬間に、何も考えず一気に逃げ出したから、その後は追ってきたのかどうなのかも分からない。
ただ確認できるのは、ここに自分は生きていて、そして、未だ清いままの体だと言うこと。
それを思い出して、凛は無言のままに鴇羽色の唇を噛む。
(どうするのよ、これから身一つで。荷物も置いてきたままじゃない)
まさか戻れない。
だが護身の短刀も、道を行く為の路銀用の金も、全てそこに置き忘れてきたのだ。しかも悪いことに、着の身着のままのこの格好は機能性のない舞装束だ。ここがどこの森かも知らない以上近くの街を目指すことも出来ない。
つまり完全な八方塞状態で、もうどうしようもなかった。
見事な黒髪を破いた衣の裾で結いつつ、ぎんと闇に眼光を強める。そこに敵がいるとでも言うように。
(このまま森で朽ち果てるなんて、絶対嫌)
そんな無様な自分なんてとてもではないが想像できない。
空気が冷えてきても、やがて月光が雲間に絶えても、凛は絶対に弱音を吐こうとはしない。何かに屈することは、死ぬよりも屈辱的だと考えるからだ。
誇り高く、屈することなく。
――だから自分は、少女の時代を過ぎても清純などと呼ばれるのだろうか。
何度となく脳裏で閃く、その疑問。
確かに体を許したことはない。まともに恋愛をする暇もなく金を稼いでいたし、そんな苦しい生活では友人も出来なかった。
そうして人との関わりを持たないことが“清純”だと言うのなら、それは確かに自分は清純なのだろう。
だが凛自身は、本当に一度も……自分を美しいと、清らかだと思ったことなど、ないのだ。
(……容姿を武器にして、本来は神に捧げるべき舞を金に換え、保身の為に他人を拒絶する私の――どこが清らかだって言うの)
結局それは、厳しい現実に『屈して』いるのだ。それが浮き彫りになるから、だから凛は“清純”と称されるのが嫌いだ。そしてことあるごとに自分を清純だと言う人間達も、嫌いだ。
……誰かに頼ると言う思考は、そんなだから、彼女は持ち合わせていなかった。
______________________
ひたすらに、深い闇。
月光の死んだ森に変わらず存在するものは、それだけ。
微風も絶えれば、そこに残るのは恐ろしいまでの神秘すら憶える、静謐。
だが凡そ人間離れした風情の舞姫にとって、いっそそれは心地よくすらある。
瞳を優美に閉じて、まるで暗闇に寄り添うかのように、不安定な足元を気にもせず立ち上がる。
そして、動く上での型もしきたりも全てを捨て、自由に舞い始めた。
真白の長い袖が翻る度、静かな風が舞い上がる。
黒髪がそれに靡く度、白皙の如き顔(かんばせ)が闇に垣間見える。
気流に弄ばれる白華の花弁のように儚く回ったかと思えば、輝く白銅の剣のように鋭く身を翻らせる。
蝶の翅の如くしなやかに腕を広げ、まるで体を押し包む不可侵の静謐の闇と共に踊っているように、甘く薄く微笑んでくるくると舞った。風のように、或いはそこに遊ぶ、気紛れの象徴の風精(ふうせい)のように。
そのあまりにも浮世離れした神秘的ですらある心地に、凛は陶酔する。
夜風に頬を撫でられ、うっとりと思う。
(現世(うつしよ)に交わらないことは、こんなにも楽)
それはきっと汚れずに済むからだ。
汚れきったこの身が、より下へと貶められずに済むからだ。
純粋さを失って、そうしてそれと代償に生きて行く自分が、綺麗になって行くようだからだ――
「……っ!」
自覚して、凛は唐突に舞うことをやめ、息荒く崩れ落ちる。純白の衣が泥に汚れるのも気にせず。
麗しくすらあった酔いから醒めれば、残るのはそんな、自分は汚れていると言う思いだけだ。
それを改めて心に刻み付けて、凛は妖しく美しく……だが緋色の瞳には凄絶な荒みを宿らせ、最高にあでやかに、笑んだ。
醜い心を抱える自分自身を、嘲った。
……じわじわと泥と同化して行く装束は、まるでこれまでの自分の人生を見ているかのようだった。
______________________
そうして泥にまみれていると、不意に、木々が歌い出す。
ざわざわと。
ばさばさと。
まるで警鐘のように、歌い出す。
それまで優しかった闇が、急に重くなる。
その不自然な変化に、凛は自嘲を収める。柳眉をきゅっと寄せ、乱れた黒髪を再び纏め上げる。
それだけの緊張感が、押し迫ってくるのだ。
(一体、何? こんな真夜中に)
好き好んでここに入り込むような者などいないだろう。それはきっと獣の類でも同じだ。
(じゃあやっぱり迷い込んだ、人間?)
ふと考えたが、馬鹿馬鹿しくてその考えはすぐに放り出した。
……自分以外のどこの誰が、こんな森に、こんな夜中に、一体どうやって迷い込むと言うのだろうか。
だが、
いたのだ。
人間が。
「……おい、そこの白っぽい黒いの」
最初に掛けられた言葉は、それだった。
その言い方に、誇り高い舞姫は、それが誰の声かも考えることなく、反撃の言葉を発する。
「なっ、何!? それ白なの黒なのどっちよ!!」
多少、……と言うか全然的外れではあったが。
咄嗟に言い返して、はたと凛は気付く。
(どこに、いるの?)
闇になれた瞳で辺りを見回しても、……その声の主は、見当たらないのだ。
(と言うより、あの声……)
ぞんざいな言葉のくせに心地よく低くて、そしてまだ若い、男の声。
どこかで聞いたことがあると思うのは、気のせいだろうか?
(それも、遠い記憶じゃないような)
そんな風に思考の深淵にはまりそうになっていると。
「じゃあこう言ったら分かるか? “泥だらけの舞装束を着た黒髪の舞姫”」
相変わらず偉そうで、乱雑な言葉。
だがそこに含まれたものが苛立ちであることに、凛は気付いた。
闇の中、だからだろうか。
瞳で見るよりも、風に感じるものの方が多い。
木々の囁きに得る感覚の方が多い。
凛は、その囁き、風の悪戯に、感覚を全て委ねる。
感じたままを、言葉にした。
「……右斜め前、その方向の一番大きな木の、裏」
「!!」
呟いたら、男の気配が僅かに乱れる。
つまりそこにいるのだ。
細く息を吐いて、凛は人影が見えないと知りつつも、その方向にまっすぐ紅眼を向けた。
「出てきなさい。私はかくれんぼがやりたい訳じゃない。用があるのでしょう? 私を舞姫と知って来たのなら」
静寂を静かに割る、声。
小鳥のさえずるようなソプラノなのに、まるで女神のように毅然とした響き。
それに気圧されて、男は隠れることをやめた。
「よく分かったな、あの程度の気配で」
言葉の内に、舞姫の座り込む開けた場所に進む。
近付いてくるのを知って、さらりと凛は言った。
「分かるわ。……特に、戦士の類の気配は、ね。洗練された気配の殺し方だから、逆に不自然」
その言葉は、牽制。
殺そうとしてもいいが、こちらは既にそっちの素性が窺えていると言う、脅し。
伊達に、汚く生きてきた訳ではない。
命を守る有効な手段を、凛は知っているつもりだった。
だがそんな切り札は、予想外にあっさりとかわされた。
「ふん? 気配を読むのに優れているんだな。ま、馬鹿なだけの女よかマシだ」
酷い偏見的な言葉に流石にむっとする。
「一体何の用? こんな夜中に、こんな森まで私を追うなんて」
「何故追っていると分かった? 一言も言ってない」
「当たり前じゃない」
何故そんなことを聞かれるのか分からないままにも、彼女は答えた。
「この暗闇の中で、私の容色が分かる訳がない。それに舞姫とも一言も言ってないわ」
的を射た、鋭い観察力、思考能力を必要とする答えに、男は軽く驚いた。
「へぇ。面白い女だ、舞姫とやらは」
「貴方、女性への偏見強すぎるわ。きっと化粧をして姦しく騒ぐだけの貴族のご令嬢しか知らないのね」
「まぁそんなに育ちは落ちぶれている訳じゃないからな」
「それをなんて言うか、知ってる?」
微かに揶揄を含んだような、微妙に甘くなった凛の声音。
それを怪しんで、男は無言を守る。
だが凛はそんなことも気にせず、その甘さのままに言ってやった。
「ふふ、……世間知らずの御曹司(馬鹿息子)、って言うのよ」
食わせ物の男が一発で沸点に達したのは言うまでもない。
「このッ――!!」
一気に間合いを詰めようとする足音に、歌うように尚、言葉を紡ぐ。
「いいの? 私をここで、一時の激情で殺して。貴方はそれでいいの?」
荒々しい足音が、止まる。
やがて悔しげな声が聞こえてきた。
「……汚ねぇなお前は。俺がお前を害せないことを知っててやってんのか」
一触即発の震えた余韻であったのに、凛は敢えて飄々と言い放つ。
「そうなんじゃないかしらね。じゃなかったら、圧倒的に不利な中で喧嘩する馬鹿はいないわ」
全てを計算ずくの綽々とした台詞に、もう一度、姿を見せずに男は唸るように呟いた。
「汚ねぇ」
そんな罵倒である筈の言葉に、しかし凛は、見えないと分かりながら、うっとりとあでやかに、笑った。
「ありがとう」
______________________
宵の明星が、梢の合間にそのたおやかな金色の光を注ぐ頃。
音を抱く夜風は次第にきりりとした涼やかな朝風に変わり、黎明なき暗黒も次第に薄闇へと移り変わる。
そんなどこか神秘的なものすら感じさせる空気の中で、舞姫と男は一歩も譲らず対峙していた。
「何度言ったら分かるの? 馬鹿御曹司」
「お前こそ何回言わせたら気が済むんだ傲慢女」
「未来永劫永遠に無理ね。だって貴方がぎゃあぎゃあ言い続けるから余計に苛々するのよ」
「だったらさっさと言え!!」
「だから――何度言えば言葉を理解できるの。……私は、貴方に名を教える気なんか全くないわ」
その内容は、『名を名乗れ』と言うものだったのだが。
堂々巡りの議論に遂に嫌気が差したのか、男は濃い藍色の短髪を思いっ切りがしがしと掻いた。
「いい加減にしろ!!! ったく何でそんなに外見と根性が一致してねぇんだよ! 俺は本来ならこんな森に入らずに済んだんだ! それがお前が逃げるから!!!」
「じゃあ大人しく犯されてろって?」
あまりに直接的な物言いに、どんなに言葉遣いがあれだろうが育ちはいい御曹司は二の句が継げなくなる。
そんな様子を最早少年と言う歳ではあるまいにと呆れつつも、凛は眉根を厳しく寄せて、柘榴石の瞳を剣呑に光らせた。
「冗談じゃないわ。私は舞姫であって売女じゃない」
そこにあるのは、いかに汚く生きてきても絶対に手放さなかった、舞姫だと言う誇り。
「第一私はこれ以上貴方に関わる気はない。何故追って来たのか理由も話さないような奴にのこのこ付いて行く程馬鹿でもないわ。なら名前を告げる理由などない筈」
触れれば崩れそうな儚げな美貌だと言うのに、瞳の毒すら感じさせる鮮色だけがそれに不釣合いで、なのにこの舞姫にはとても似合っている。
その強烈な瞳で要求しているのは、交換条件。
別に凛自身は、貴族でもないから名前など告げても何の差し障りもない。偽名を使ったとしても何の問題もない。
だが男が知りたがるから、利用する。
……つまり凛は、告げる時には、自分を夜通し、それこそ酒場から追いかけて来た理由を得なければ、名は与えないと言っているのだ。
その条件に例え男が口を割らなかったとしても、それはそれで凛にとっては好都合。別れる正当な理由が出来る。
――と、喧々囂々とした言い争いの中で、彼女はそこまで考えてのけたのだ。
もし男に生まれ貴族であったならば、まず間違いなく世界に名を馳せる知将まで上り詰めただろう、巧みで的確な思考能力。
そんなものをただの舞姫が、身に着けているのだ。
それを、男は信じられない。
舞っている様子や美貌からは、人間だとすら、最初は思えなかった。
神々の愛でたようなその造詣。
人界の穢れとは無縁そうな、清純さ。
しかし実はこちらがたじろぐ程に鋭い考え方をし、身を決して害させない、他を触れさせない毒を放つ。
垣間見せるのは、艶やかで華やかながら、危険すら感じさせる、妖しさ。
(……分からない、この女)
理解の範疇外の、誇り高い、舞姫。
それをまだ、男には理解出来なかった。
だがそんな思考は、いよいよ深みにはまると言う所で遮られる。
「いい加減にして」
びしり、とした厳格さすら伺わせる台詞に、男は思わず、いつの間にか落としていた視線を上げる。
その正面に臆することもなく腕を組む、高潔の舞姫。
泥まみれの姿にも関わらず……夜闇の引いて行く森の空気に、美しさを微々たりとも崩さず凛然と立っている。
妖艶を仄かにちらつかせる紅い唇が紡ぐのは、苛々を隠しもしない、刺々しい言葉。
「かなりの妥協の上の協議の途中で黙り込まないで。私だって、考えなければならないことはある。馬鹿の低脳な会話に、一晩付き合ってあげただけでも有難く思いなさい。……私を、連れ出す気があるの? ないの?」
きつい言葉に、男も殆んど反射的に反撃する。
「無論、連れて行く気があるからこうしてここにいるんだろうが……、え?」
しかし……その会話が妙なことに、気付く。
「――俺は、お前を連れ出すと言ったか?」
「言ってないわね」
出鼻を挫くように投げ付けて、それに重ねるように、言った。
「本当、貴方は馬鹿ね。こんなものは考えれば分かること。 何故、逃げ出した所まで追ったのか。がたがた言いながらも貴方が私の元から去らないか。 それはつまり、こんな女に辟易しても、どうしても連れて行かなければいけないと言うこと、じゃないの?」
風が、巻き上がった。
清浄とした薄明の中で。
関係を持つまいとする舞姫と。
接点を捕まえようとする男と。
二人の間を、舞い上がる。
次第に淡い金の光を受け始めた紅玉の瞳は、いっそ毅然と。
男の、今まさに去ろうとする闇に瑠璃色を溶かしたような瞳に、挑むように笑い掛けた。
「……囚われて、あげようじゃない? 逃げるのはもう沢山よ。疲れたわ」
泥に汚れた、しかしそれでも繊細で白い指先は。
貴婦人のするように、手を取られるのを待って、男に差し伸べられていた。
______________________
「お前、どこに連れて行かれるかも知らないで、それで付いて来ると、言うのか」
自分らしくないと、はっきりと自覚している。
だが舞姫の言葉に拍子抜けするのはどうしても否めない。
「すぐ殺されないことだけは分かっているもの。もし殺す気なら、貴方にやらせていただろうことは……推測の域を超えないことだけどね」
肩を竦めると言うおどけた仕草だと言うのに、その途端流れた黒髪が妙に艶めいて、とても優美に映る。
しかし煩そうに払う顔は、本気で顰められていた。誰もが憧れる艶やかで綺麗な長髪は、彼女にしてみれば邪魔でしかないらしい。
「本当――分からん女だ。それだけの美点を揃えておきながら、何故そんなに性格がきついんだよ」
ついつい漏れた、そんな本音。
だがそれを聞いた途端、舞姫はそれまで以上に、苦々しそうに眉根を寄せた。
「……私に、どれだけの美点があるのよ」
「え?」
急に調子を低くした言葉に、思わず慌ててしまう。
何しろ……彼女の纏う空気が、刺々しさから冷たさに変化したのだ。
しかし舞姫自身は、ほんの数瞬でそれを収める。
残るのは、故意の静寂だけ。
それを破ったのは、明らかに誤魔化しの言葉。
「いえ――、何でもないわ」
「ない訳ないだろうが」
言葉で一歩踏み込んだら、それを跳ね除けようとするかの如く、返った声は固い声。
「……何でもないと言っている」
「だから、何もないようにはどう考えても見えないんだ」
「煩い。何? 私が何か言った?」
「言ったから言っている」
どちらも譲らない、その頑固さ。
血の鮮やかさの紅と夜闇の深い瑠璃がぶつかり合って、清浄な朝の空気が、本来にはない鋭さ、冷たさを帯びる。
それはまやかし。
だが二人の間に確かに生じた、……それまでのものなど比にもならないような険悪さ。
「お前の主張は不明瞭だ。何が何でもないのか、はっきりしていない」
「それが何。……だったら話を成り立たせなくてもいいじゃない」
進まない話に苛々が募ったのか、ぎんとその紅瞳を吊り上げて、凛は氷の礫をぶつけるような台詞を男に叩き付けた。
「……いい加減、消えて。今すぐ。私の前から」
「断る」
きっぱりと言ったら、そこで初めて声を荒げた。
「何故!! 何でっ、貴方と話していなければならないの!?」
そのどこか悲痛さすら感じる響きに、男は氷の鏃のように、冷淡に言葉を発する。
「――馬鹿はお前だな」
段々と自分自身が苛立って行くのが分かる。
……それが何故かは、分からないが。
どこから湧いたものか知れないその苛立ちを、言葉に乗せる。
「お前は自分で俺に付いて来ると言った筈だ。それが何故、お前自身について触れただけで消えろと言う? 完全に矛盾している」
「っ!!!」
触れてはいけない部分に触れてしまった、
そう気付いた時には、遅かった。
最早朝霧の沸き立ち始めた森の中で、金の光を受けた舞姫は。
深い自嘲を、その細い全身から滲ませて、
魔性すら感じさせながら、艶然と微笑んでいた。
「……そうよ。私は馬鹿ね。 自分以外を拒絶することしか知らないんだから!!」
微笑の、言葉だったのに。
朝の光の中で、その叫びは、とても悲しく聞こえた。
「だけどそれが何!? いい加減にしてよ! 私は綺麗なんかじゃない! 清くなんかない!! 本当はっ、誰よりも汚いの……!!! そんなの最初から私は知っていたのに、何で今更、貴方なんかにそれを暴かれなくちゃいけないの!? 最初から、美しいところなんてないのよ!!! なのに何で! ……消えてっ、今すぐ私の前から消えて!!!!!!!!」
それは確かに、酷い拒絶の筈なのに。
どうしても『助けて』と聞こえてしまうのは、……自惚れなのだろうか。
男にそう思わせる程、今の凛は危うかった。
今にも溢れそうな、器の中の水のように。
これ以上つつけばあっけなく、絶妙な均衡が崩れそうな程。
――妖しいまでの微笑みは、涙を隠す巧妙な仮面で。
そうして汚れたことを装って、他者を突き放し、容易く傷付く心を護って。
明日も生きていられるように、生きて行く。
……その危うさを全て悟られぬよう舞う、誇り高い、舞姫。
確かに、その生き方は綺麗とは言えないのに。
こんなにも美しく、そして悲しく瞳に映るのは、何故だろう。
そんなことが、脳裏を掠ったが。
それ以上は考える余裕はなかった。
いつの間にか、男は舞姫を抱きしめていたのだから。
______________________
息が止まるかと思った。
体全体で感じる熱が、荒々しいのに、優しい。
……自分が抱きしめられていると理解したのは、しばらくしてからだった。
「なっ……な、何するの!? ちょっ――」
足掻いてみても、力で敵う筈がない。
凛の中には、本能的ですらある恐怖が浮かび上がってくる。
圧倒的な力の差で優位に立たれ、組み敷かれる――恐怖。
「やめて、やめてっ! 放してっ……!!」
「――馬鹿か」
そんな酷く恐慌した叫びに返ったのは、低く、罵倒であるのに、優しい声。
「いくら完璧に弱さを隠したって、んなの別の方向から見りゃあっけなく本当が見えるんだよ」
これは欲情故の抱擁ではない。
どちらかと言えば、……冷え切った子猫にしてやるような、熱を分け与える為のような、優しさの抱擁。
「そりゃお前は、死と隣り合わせの世界で生きてきた舞姫だ。身の丈に合いもしない強がりの仮面を被らなければ生きて行けない程の、歪んだ世界で生きていた人間だ。……だけどな」
腕の中の体は、とても細くて――春の浅い夜にさえ、冷え切っていた。
「もう少し、自分以外の人間と関わることを知れ。じゃなきゃいつかは……壊れる」
触れた肌の、温度。
そこに感じられるものは、既に恐怖ではない。
拒絶することも、
怒ることも出来ない程の。
凛がこれまで知り得なかった、熱。
――優しさ、だった。
その熱に浮かされて、抵抗の力が奪われる。
「放してっ……」
そよぐ朝風の中で、その呟きは酷く弱々しく消えた。
「私に関わらないでっ――、放っておいて、……放して……!」
違う。
違う。
(こんな私っ、私じゃない――!!)
嫌だ。
こんな自分、知らない。
――与えられる熱に、身を任せそうになる、弱い自分なんて。
(人に頼るなんて駄目、今すぐ放れなきゃ駄目、このままじゃ駄目!)
これまでもそうして生きてきたのだ。
それは決して間違いではないと言える。他人がどうだろうが、自分はそうして生きてきた。自分にとって、拒絶することが、生きる道を伸ばすことなのだ。
なのに。
唐突に目の前に現れたこの男は、勝手なことを言う。
「放せるか馬鹿。今放したら絶対お前は壊れる」
「知らない……! 壊れたって、どうでもいい! 心なんか、感情なんか忘れても、それでも私は生きて来たんだから!!」
「だから、――限界だろうが、もう」
「構わない!! 死なない限りは、それがどんな道だろうが、水際だろうが!! 私にとっては何の関係もない! 私はっ、人界のことなど知らない、舞姫なんだから!!!」
自分は一体何を口走っているのだろう。
思考が混乱して、繰り返すのはただ単調な疑問。
何で。
何で、こんなにも酷く拒絶の言葉を叩きつけるのに。
この男は腕の力を弱めもしないの?
何で……自分も、そんな身勝手な熱を拒めないの?
知らない。
こんな自分、知らない。
……人間の持つ熱を受け入れている自分なんて、知らない……!
既に、恐怖は男に対してではない。
自分自身に対してだ。
こんな弱々しい自分なんて、いるとも思わなかった。温度を受けるだけ冷たさを湛えていたなんて、思いもしなかった。
知らない。
(怖い――!!!!!)
もう何も考えられない。ただ、自分自身に恐怖を覚える。これまでの生き方を真っ向から否定する反応を示す心に、酷い戸惑いと、恐ろしさがある。
嫌だ。
こんなことで揺れる自体、己の知る自分ではない。
だから……本能で、全ての現況との関わりを絶たんとする。体で、言葉で。
凛は酷い混乱の中で、しかしこの一言だけは決して捨てなかった。
「放して!!!!!」
自分を護る為の、拒絶の言葉だけは。
だがどんなに足掻いても、力の使い方を心得ている腕から逃れられる筈もない。この男が相当の戦い手であることは、気配の殺し方で読んだ筈だ。自分自身で切り札としたその感覚すら擲って、……どうでもいいと言いながら、このままこうして、これまでの自分が壊れることを恐れている。
孤独と言う自負。
ひとりで歩んできたと言う誇り。
高潔を貫く――そんな自分が、強かに、それでも確かに生きて来たと言う証。
それを自分自身に否定されて、これまで繋いできた命すらも否定されたようで。
ただ怖かった。
伝わる優しい温度すら、恐怖と感じた。
……或いはもう、常の心など崩れ壊れていたのかもしれない。
冷静な思考も、的確辛辣な言葉も、相手を油断させて逃れる術も――全て、どこかへ消えてしまったのだから。
出来るのは、馬鹿みたいに拒絶し続けることだけ。ほんの少女の頃から、これだけは身につけていた、清純など程遠い自分を一番的確に表すこと。
“他を寄せ付けてはいけない”――、本能にも似たそれだけ。
「放して――っ!!!」
______________________
何度そう叫ばれようと、放す気など、さらさらなかった。
無意味に抵抗される度に、より放り出してはいけない気がするのだ。理屈より先に、熱を与えなければと、無条件に思ってしまうのだ。
それだけ、危うい。必死で抱擁を逃れようとする舞姫は。
普段情に厚くも優しくもない……いや他人に対して冷淡ですらあるこの男に優しさを宿し、あまりに強情な態度に苛立たせるまでに。
「今更……逃がすか。一晩も追わせて」
耳元に極々近い距離で囁かれた言葉は、凛を竦み上がらせた。しかしそんな恐慌した態度すら、苛々になる。
何故。
――何故、この舞姫はこんなにも他人を恐れるのかと。
自分で汚い、美しくないと言いながら、異常なまでに、他人に触れることを恐れている。
そんな矛盾が、何故か苛立ちを誘い、腕に閉じ込める力を増させるのだ。
「これだけ手間取らせておきながら、今更逃げたら容赦なく殺す」
言いながら、思った。
(馬鹿か俺は)
優しくしたいのか、怯えさせたいのか、一体どちらなのか、なんとも区別し難い。だが敢えて言うならば、優しくしたいからこそ舞姫の徹底的な拒絶の態度に苛立つのだろう。
こんな、あまりにも不器用な、自分自身の優しさ。そんなものでも、ないよりましだ。きっと今この舞姫を取り逃がしでもすれば、自分が見つけ出し斬り伏せる以前に、立ちの悪い誰かに殺されるだろう。血に飢え狂った輩なんぞ、近頃は山といる。
だから。
……自分には、この苛立ちばかり誘う舞姫を、『連れて行く』と言う責務があるから。
(――今は、守ってやらなければいけないか)
責務を果たす前に壊れられてしまえば、それまでの苦労の意味がなくなる。
そんな打算を含んだとしても……それでもそれはある種の優しさに、変わりはなくて。
だからこそ、混乱する。このまま自分は何をしたいのか。
責務を果たしたいのか。苛つかせるだけの舞姫を殺したいのか。要求に従って開放してやりたいのか。それともずっと腕の中に閉じ込めておくつもりなのか。
自分自身の心が、不可思議な揺れ方をするのを――彼は不快にすら思った。
そして再び、まるで駆り立てられているかのように、苛立ちばかりが先走る。最早それが何に対しての感情なのかすら、考える余裕がなくなる程に。
「放す訳がない。そんな理由がない。……それとも死にたいか」
脅しにも似たその言葉は、実の所少し端折り過ぎである。男が言いたいのは『このまま心が不安定な状態で、それでも世間に出てあっけなく事切れたいのか』と言うことであって、逃げたら殺すと言う意味ではないのだ。
だがやはり、彼のそんな『優しさ』は率直な分どうとでも取れる。
……即ち、今与える熱は上辺だけ。今与える言葉は偽りだけ。逆らったら、殺す。そうしたとんでもない誤解すら生じるのだ。
そして怯えた凛が取った解釈は、間違いなく後者だった。
(何? 何で!? 何で……!!?)
最早、熱に思考回路がぼやけ、彼女が繰り返すのはそんな果てしのない疑問だけだ。
何故、自分は捕まらなければならない? 何故、逃げられない? 何故、殺されなくてはならない?
この熱さは嘘なのか? さっき必死に拒んだ温かすぎる言葉は、全て捕らえる為の罠なのか? 所詮、優しさは嘘……?
(……なんで……!?)
もう、逆らうことなど出来ないのに。
全身に押し寄せる熱さが、心とは裏腹に、心地よくすらあるのに。
それが嘘? みんな偽り? なら、何で。
(何で、抱き締めたままで言うのよ――――――!)
これでは拒むことが出来ない。
捕らえる為の罠だと言うのならば、いっそ剣を突きつけてくれた方がよかった。
……人肌の心地よさに溶けてしまいそうになっている体が、どうしても言うことを聞かないから。
逃げるべきだと。
何としてでも腕の縛りから抜け出さなければならないと。
そうして孤高に生きなければならないと。
これまで培ってきた生き抜く為の勘は、割れんばかりに声高にそう主張している。
だが、……出来ないのだ。
例え偽りだとしても、この男の与える熱は……優し過ぎるから。
凍るが故に美しく、だからこそ乾き切った氷の結晶を掌に乗せそっと水へと還すような、非情でありながら――そんな中でも優しい、温かさ。例えそれが、美しさを壊してやろうという思惑の行動だったとしても、それ自体は優し過ぎる、溶かし方。
いっそ凛には、男の熱はそんな残酷な優しさに感じる。
(こんなの、ずるい……)
彼は放す理由がないと言うが、こちらにしてみれば逆らえる訳が、ない。
偽りの優しさでもって、逃れられない戒めにするなんて。
そんな風に考えて、凛冽と言う名の舞姫は、いつの間にか熱くなっていた瞳をぎゅっと伏せた。
……もうほんの一夜前までとの自分自身の中での感情の変化にすら気付かない程、……熱に、飢えていたのだ。
彼女は力に屈服して、仕方がなしに男に腕を引かれたのではなかった。
曲解された残酷な誤解の上ですら、優しさに逆らえなくて。
感情の揺れに葛藤しつつも、自ら男の手を握ったのだった。
______________________
「……耀(あかる)?」
微かな戸惑いと共に復唱された己の名に、男――耀は、ゆっくりと答えた。
「あぁ。俺は耀だ。“耀き”の意味の、耀」
「耀……」
ぼう、っと、どこか空ろな声で呟く舞姫に、耀はゆるゆると、殆ど拘束に近かった腕を緩める。
すると突然舞姫は崩れ落ちそうになり、慌ててまたその細い腰を支えたのだが。
その当の本人は何の衒いもなく、そんな体勢であるにも関わらず、陽の光の中では紅玉のような鮮やかな瞳を、まっすぐと耀の宵闇色の瞳へと向ける。
そこに浮かぶ色に、耀は息を呑んだ。この誇り高い舞姫がまさか、こんな表情を表すとは思いもしなかったのだ。
……深い、そして切なげな悲しみの色など。
「酷い」
自分でそれを意識して言葉にしているのか……それすら疑う程、今の凛は弱々しかった。
恐らく絶対、これまでそれだけはしなかっただろう、泣きそうに涙を湛えた紅い瞳。
「耀は酷い」
春の強い風に、ひらりと泥に塗れたままの舞装束が揺れ、長く艶やかな黒髪はさらさらと歌った。
その中で、……温かな風に頬をなぞられ、凛は、再び瞳を閉じた。
熱い。瞼の裏が、じわりと熱い。それ以上に心の奥が、切なくなる程、熱い。狂い出しそうな程に、泣き叫びたくなる程に、呼吸すら苦しい程に。 熱い。
これは怒りなのだろうか、憤りなのだろうか。耀に対する嫌悪なのだろうか。卑怯な手を使って自分を捕らえたことへ対しての、怨みの熱さなのだろうか。
それとも悲しみなのだろうか、切なさなのだろうか。孤高でいられない自分自身への哀れみなのだろうか。拒みながら、それでも抗い切れなかったことへの、自嘲の為の熱なのだろうか。
……分からない。
ただ、彼の残酷な優しさが、熱い。
それが何故かなど、理解できない。
だからこれ以上は言えないのだ。
「酷い」
その言葉を最後に崩れ落ちた舞姫を、耀は三度抱き止める。
「ったく……何なんだよ一体」
第一不可解なのだ。
自分で囚われてやると言ったのに、これまでの抵抗、そして「酷い」とは何事なのだろう。
(分からん女だ)
まさか、とんでもない誤解をされているとも知らず、耀は溜息を吐いて凛を横抱きに抱える。
(……さて、どうするか)
取り敢えずこのまま街に行く訳には行かないだろう。気を失っている状態の人間を抱えて道を歩くなんぞ、正気の人間の行動ではない。まぁ自分自身相当な常識はずれだとは思うが……それは、武器を手にした時だけだ。断じて。
だがしかし、叩き起こすと言う手段は流石に気が引ける。そして正直なことを言えば、今にも泣きそうだった瞳をもう一度見るのは、少し辛くもある。
――ならば仕方がない。
「少し、遅れるが……まあしゃあないな」
そうぼやくと、耀は驚く程優しく、なるべく去年の落葉が残る地面へ舞姫を横たえた。
途端にさらり、と、彼女の黒髪が風に踊る。その温かな風は耀の藍色の短髪をも軽く梳って、悪戯に若緑の木々を歌わせ、駆けて行く。
そんな様子に、ふと耀は視線を周囲に向けた。これまで舞姫の相手に精一杯で、周りを見回す余裕がなかったのだ。
(他の気配の確認すら怠るなんざ、戦う人間としては失格かねぇ)
軽く自嘲気味に苦笑した深瑠璃の鋭い瞳は、去って行った風を追うかのように上を向く。
その視界に映るのは、淡い柔らかな緑の光。
夜の中では闇としか見えなかった森は、陽光には慈愛に満ちた、萌え始めたばかりの緑を輝かせる。月光の下では冷たくすらあった風も、体中で感じる通り軽やかに温かくなっている。
春の森は、穏やかでありながら変化が激しい。巡る風は温かでありながら、その実存外勢いが強い。芽吹く木々すら、その姿は優しくありながら日々の成長は凄まじいまでの逞しさがあるのだ。
そんな二面性の上に成り立つ少し危うい絶妙な美しさを、耀は嫌いではない。元々良家の子息でありながら幼い頃から完全に剣を持ち戦うことを叩き込まれたものだから、絢爛な建造物や繊細で流麗な詩歌を好むよりも、雄大な歴史物語や遙かに広がる大空に心を躍らせたものだ。
……だからこそ、今はただ昏々と瞳を閉ざす舞姫に、惹かれる。
闇にすらぎんと月光に輝いていた強い瞳は、まだ目覚めない。的確で辛辣な言葉の紡がれた唇は、力なく軽く開いたまま。抱擁を必死で拒んだ細い全身は、ただ風と光に撫でられ眠るのみ。
強さがあるからこそ、何気ないこんな無防備さが、より美しく見える。儚く映る。
本当は脆く弱いが故に、普段は強く誇り高く、潔癖なまでに他を寄せ付けない、麗しの舞姫。相反する二面性があるからこそ、本当に美しく映える、儚い美貌。
耀は何をするでもなく、再び目覚めるまで、その美しき光の中の眠り姫を見つめていた。……と言うよりは、目が離せなかった、と言う方が正しいのだろうか。
この一時を逃すのは、惜しい。
どうせその紅玉の瞳が再び煌けば、研ぎ澄まされた優美な白刃のような、凛冽の舞姫に戻るのだろうから。
______________________
「……何ですって?」
案の定、その後暫くすれば揺れる光に覚醒を促された凛は、再び誇りを取り戻していたようだ。さっきまでの自分など忘れ去りたいのか、以前にも増して人当たりがきつくなっている気もしないでもないが……そんな態度が今更耀に通用する筈がない。
彼はよく鍛えられた己の剣を磨きつつ、何てこともないように言った。
「だから、言った通りだ。 俺のクソ戯けな主がお前を御前に召したいって言うから、俺はない暇を無理矢理与えられてふらふらふらふら行方を眩ませるお前を一月も追い掛けたんだよ」
「――――っ、――下らなさ過ぎるわ……!!」
それだけの為に、“あんな”に残酷なことをしたのだろうかと思うと、本気で腹が立った。それが何故なのかは、……やはり、不思議と分からないのだが。
ともかくそんな思いが知らず知らずの内に渋面と言う形で表れたのか、こちらを向いた耀は不可解そうにきりりとした眉根を寄せる。
「しゃあないだろうが。俺に八つ当たりすんなよ。悪いのはお前の流布しすぎた評判とクソ主だ」
「そんなの私の責任じゃないわ! 第一何で、貴方はそれだけの為に一月も私を追ったの!? そのまましらばっくれて消息を絶って、別の誰かに仕えることだって……貴方程の戦士ならば、無理じゃないでしょうに!」
「……あのな」
舞姫の、そのあまりにも孤高を基準とした考え方に、耀は軽い頭痛すらした。
そんなことが出来る位ならば、とっくにそうしている。
「誰もがお前みたいに天涯孤独の人生を歩んでると思うなよ。俺だって一応、それなりの家格はあるし親と兄弟がいるんだ。しかもどれだけ頭にくる野郎でも絶対に従わなければいけない戯けな立場ってのもあるんだ。一応、貴族なんだからな」
自分で『一応』を強調するのもどうかと凛は思ったが、それは言葉にせずに置いた。いい加減この男と自分が見事に噛み合わない思考回路をしていると悟ったからである。きっとこのまま言葉の端々に突っ込み続ければ、話は尽きないに違いない。
溜息でもってその諦めを打ち切り、凛は吐き捨てる。
「それらを、言わば質に取られてるって言うの? 馬鹿馬鹿しい」
「お前にとってどれだけ阿呆らしくとも、俺にとっては尊重しなければいけないもんなんだ」
「そんなものの為に、私は貴方に付いて行かなければならないなんて……本当に、下らないわ」
白々しい溜息を吐く凛に、鞘に収めた剣を再び腰に佩き直して、耀はその宵闇の瞳に不可解の色を浮かべた。
「……何故今更、そんなことを言うんだよ」
言い換えれば、それは疑惑と不審の眼差し。
「お前は舞姫だ。舞うことが人生の本懐であり、生業である筈だ。なのに何故、舞うことを拒む? あの戯けの前で舞って与えられる報酬だって、俺から見れば、一介の舞姫に対しては法外だと思うぞ」
その言葉に言い返そうとして、しかし、凛は唇を噛んで堪えた。
いつも通りになど、どうして出来ようか。
(誰だって……あれだけ、……優しくされて、でもそれが嘘で……その嘘が、たったそれだけの、いつもと変わらないことの為だったなんて……素直に従える訳、ないじゃない――!)
だが、言えない。言葉にしてしまえば、それはそのまま、優しさに甘えた自分自身の弱さを晒すことと同義となるのだ。
ただでさえ――不覚だったと、言うのに……。
そこまで考えて、凛はふと、長い沈黙を続けていたことに気付く。今更、噛み締めていた唇の痺れに気付く。それこそ明らかに挙動不審だ。
(いえ――いいわもう。どうせそれだけの縁よ。いつものように舞えばそれで終わり。こんな不快な男と、これ以上の関係はないのよ)
それはそれで、
何故か辛いのだが。
……自分自身でも理解の出来ない、そんなもどかしいことこの上もない思いすらも振り切るように、凛冽の名の舞姫は、走る風を真っ向から受けるように立った。
そして出来るだけ、ありったけで毅然と聞こえるように、言った。
「いいわよ。そうね。……仰る通り、私は舞姫よ。高貴なる方々の仰せのままに、下賎の私は、最高に美しく舞いましょう」
いつものように艶やかに笑ったつもりだったのに、何故か、表情は微々とも動かなかった。
眉根を寄せた、苦しげな表情のままで。
そして今日の陽の沈まぬ内に、徐々に躍動の季節へと向かわんとしている萌える森から、人間の気配は消えていた。
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季節は、日差しがそろそろきつくなり始める頃。
しかしそれでも夜は、比較的過ごしやすい風が吹く。
都に続く街道沿いのそれなりに賑わいを見せる宿は、まだ宵の明星が輝きだしたばかりの頃だと言うのに、いつもにも増して人が多かった。
まぁそれも当然。何しろ、世間を密かに、しかし確実に騒がせている麗しの舞姫が、久方ぶりに姿を表して、一夜の舞を見せると言うのだから。
そしてそんな雑多な喧騒から一歩離れた所では。
「おい凛っ」
道行に必要な路銀、そして泥に汚れたものの代わりとなる舞装束代、それに護身の短刀、……金銭的にも実際にも「お守り」を請け負うと言う形でやっと舞姫の名を知った耀は、十中八九その苦行を強いられた為だろう、非常に渋い顔で凛を呼んだ。
「酒場にはこれ以上人が入らねぇぞ。客焦らすのもいい加減にしろ。そのうち暴れ始めっぞきっと。ガラの悪い奴らが多少入り込んでやがる」
それに対して、気前はいいがその分したたかでもある美人の、この宿の女主人から大きな姿見の鏡を借りていた凛は、その中の自分と見つめあいつつこともなげに言った。
「あら、それを止めるのが貴方の仕事でしょうに。 別に私はこうやって地道に稼いで生きてきたんだから、貴方に付いて行かなくても別に困らないのよ、耀? それを分かっていての、命令かしら?」
相も変わらず辛辣で攻撃的な言葉に、最早反論する気力すら殺がれた耀は、半分自棄くそで応える。
「……済みませんでした、晴朗なる美貌の舞姫君よッ!! わたくしめの失言を、その寛大な御心を持ってお許し下さいっっ!! どうかその蒼き月の如きっ、神々しくも麗しきお姿を拝見したく思う者が多く居ります故っっっ、雲井からその輝きをのぞかせて下さいませっっっっっ!!!!」
「まぁ、涼しげな口上でございますわね。 ……でもその言葉達は最高に私を不機嫌にすると、教えなかったかしら。 特に“晴朗”の辺りなんかは最悪よね」
巧妙に猛毒を染み出させた言葉に完璧な微笑みを浮かべた凛は、完全にいつもの舞姫だった。わざわざそこまで言ってから、優雅に扉へと歩を進める。
――いずれにせよ、長ったらしい耀の口上の終わる頃には、仕度が整っていただけなのだが。
……りぃん
鈴の音が、響く。
高い、それでも耳に心地よい、甘く凛々(りんりん)とした音色。
……りぃん、りぃん
高まるばかりの熱気と噎せ返るような酒気で浮き上がっていたその場は、その音で一気に鎮められる。
そうして鳴り響くのは、静かに舞台へと進んだ舞姫の捧げ持つ、銀色の鈴だ。
鮮やかな紅の紗(うすぎぬ)を数本結わえられたそれは、彼女がしずしずと歩を進めるたびに、心の奥まで染み渡るような清浄な響きを放つ。
……りぃん、りぃん、りいぃぃいん――
微かに吹き込む緩やかで温かな風に、紗の紅が艶やかに翻る。
だがそれよりも鮮やかなのは半ば伏せ気味の、舞姫の瞳。
……りいぃぃぃいいん
妖艶、艶麗、そんな言葉をいくつ並べても言い表せないような、黒々とした睫の合間から覗く柘榴石の深く鮮やかな紅。儚げな白い顔を縁取る、長い、闇に染まらぬ漆黒の髪。
妖しく美しいのに、不思議と清冽の雰囲気を纏っているのだ、この凛と言う舞姫は。
たとえ本人がどれだけ否定しようとも、彼女の持つ空気は、とても清い。人と交わらない頑なさが、どんなに揺れる思いを抱えていようとも、迷いや揺るぎなどなく毅然と前を見据えているように映るのだ。
(ある意味、“騙している”と言えなくもない)
今や鈴の音しか響かない中で、耀はそう考えて誰にも聞こえぬようにいっそ嘆息した。
(それこそ、周囲ばかりか……自分自身すらも気付かない内に、見事に欺く程に)
きっと、凛は知らない。 一体何が『本来』の自分なのかを。大抵の人間は他面的な性格をしているものであり、それは誰にでも言えることだ。
だが――この舞姫の場合、極端すぎる。
激しいまでに他を拒むという面。いつもそうあるように意識している、毅然とした面。自分自身で厭っている、汚い面。他人から見れば、清浄で美しい一面。
しかしそれだけではない。彼女は気付いていない……いや気付きたくないのだろう、限りなく脆く弱い面、さっきのような辛辣な言葉の応酬を楽しむ面、……人の熱を恋うる面が、確かにあるのだ。
表面的な面と、心理の奥の面。
その中のどれが本来の“自分”なのか、凛は知らないのだ。
表の自分で心の自分を包み隠し、だから……少しつつき責めただけで、あれ程脆く揺れるのだ。
(まぁしゃあないと言えばしゃあないけどな)
静かに裾を捌き床に片膝をついて微笑みを浮かべる、そのあまりの清冽の美貌に、彼女が人界の奇跡、天の神々の贈り物とさえ呼ばれたのはいつ頃からだっただろう。
その言葉に、自分を見失っていたのかも知れない。
きっと……凛は本当は、人間に関わるのが、本質的に嫌いではないだろうから。
世間の求める『舞姫』を、知らず知らずの内に演じ続けて来たのかも知れない。
それも、よく己を見つめぬままに。
(だから人間が一番分からんのは、実は自分自身のことだ)
敢えて弱い部分を見つめたいと思う人間なんぞ、余程崇高な者であるか徹底的に惑った者のみだろう。
その弱さが、実は一番大切な『自分』に繋がるものだとも知らず。
……りぃん……
(……なんて、な。馬鹿馬鹿しい)
やがて鈴を震わせて立ち上がった舞姫を眺めつつ、耀は誰にも気取られぬ程に、淡く苦く自嘲した。
(俺がどうこう言えることじゃないってのに。未だ自分自身が『道』に迷い惑っている、俺が)
これはただ、師の受け売りを思い返したのみ。
一度は世界の全てを呪い、しかしそうすることで達観し、そして今は愛する偉大な師の大きすぎる言葉がふと脳裏に描き出された――それだけ。
もう一度だけ自嘲を僅かに口元に刻み、耀は今まさに舞わんとする凛冽の名の舞姫を見つめた。
……何故、彼女の心理についてまで考えたのだろう。馬鹿馬鹿しい。
(俺の役割は、あいつをあのクソ主の所まで送るだけだ)
それ以上踏み込むことをして、一体自分はどうしたいのだろう。
改めてそう心に刻み付け、――しかしそうすると、何故かもう一度師の穏やかな声が反復する。
『人間が一番分からないのは、自分自身のこと……忘れてはならないよ、耀』
――何故か一瞬、本当にほんの少しだけ、苛立った。
______________________
りぃん、りぃん、りぃん
胸の高さに構えた鈴が、歩みに合わせて鼓膜を震わす。
微風に揺れる紅は、炎の巻き起こす熱風を具現しているように思う。
次第に鳴る感覚の狭まってきている鈴の音は、踊り狂う炎の精霊の歌声。
人と相容れぬものでありながら、その荒々しいまでの美には魅了せずにいられない、気高さや情熱を司る精霊。
今宵の舞姫は、炎の如く。
(何よりも鮮やかに舞って見せよう)
今や自然に動き出す足。紅の紗が翻るのは自然の風のせいではなく、己の徐々に激しくなる動きのせい。
鈴と、舞い踊る足音と、……鼓動。
その他の音はない。今は音楽に合わせて舞うのではない。
(私が全て)
余計な音はいらない。下らない囃し立ても必要ない。
この空間に自分以外あっていいものは、自分が最高に鮮やかに舞える舞台だけ。
りいぃぃいん
炎の歌声を模した美しい音を、高く、高く歌わせる。
その為には……腕を大きく振り、ひたすら情熱的に、華やかに、そして速く、何度も回ればいい。
それだけを判断すると、凛は左足を軸にし背を思いっきり反らせて、まるで飛び散った気紛れな燐火のように、決して美しさを崩さず、激しく回った。
紅い瞳が、暖色の灯りに耀く。鮮烈なそれは、凛々と澄み切って。
それをちらちらと覆い隠しながら乱れる黒髪はいっそ、炎を乱し狂わせる疾風に思える。
激しく燃える紅蓮の炎を思わせる、その舞。
白妙の舞装束が翻る。鈴に結わえたものと同じ紗を裸腕に巻きつけ、まるでそれ自体が紅の翼であるかのように靡かせ、風に遊ばせる。
りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん
最早その炎の乱舞に、観衆は舞姫以外の全てを忘れた。
それ程までに、記憶を一時的に弾き消してしまう程に、鮮烈で――美しいのだ。
だがそんなことは気にもせず、凛然の舞姫は、舞う。
ただ、本能のままに、舞う。
ひたすら鮮やかに、美しく、激しくあれと。
誰に教えられた訳でもない。でも、不思議と昔から体に身に付いていた、……舞うと言う術。
きっと、生まれる前から記憶しているのだ。
己の中の至宝として。
或いは生きる糧として。
徐々に神経を犯して行く高揚に、凛はそんなことをぼんやりと考えていた。
だが耀はと言えば、その絶世の舞を最後まで見ていなかった。
……いや、最初は確かに見惚れていた。追うのがやっとのような速さで変わるステップに、純白と漆黒と紅が入り乱れる華やかな回転。しなやかに伸ばす繊手に握られた銀鈴は高らかに歌い、なのに淡く麗しい微笑みは崩れない。
感性だけの問題ではない、――体力や俊敏さが求められる火炎舞を、よくもまぁここまで極められたものだと感心していた。彼が見た彼女の舞は、これまで三度で――今日の『火炎舞』を除けば、陵辱され掛けた時の静かで妖艶な『蝶華舞』、森の中で最後には崩れ落ちた、名もない高雅な風の舞であり、その両方とも激しいとは言えない舞だったからだ。改めて、この凛が『奇跡』とまで称され実しやかに噂になる理由が分かった。
と――そこまでは、酒場と控えを隔てる扉に寄り掛かりながらちゃんと見ていた。
では何故、みなまで見なかったかと言うと。
「ええい待て!!」
「……っ!」
夜の宿街を、抜き身の剣を持ったままで、人波を押し分けつつ走り抜けると言う危険極まりない追いかけっこを、不覚にも始めてしまったからである。
それは、凛の舞が始まって暫く経った頃だった。
(――?)
清浄な鈴の音に神経が研ぎ澄まされていた耀は、すぐに場の“変化”に気付いたのだ。
舞に恍惚とする空気の中でただひとつ異色だった……、そう、『執着』。
とにかくごった返す中で、しかし対人の腹の探り合い、即ち“道”としての剣技を修める耀が目を凝らせば、“異物”など容易く見つけ出せる。そしてその男が確か『蝶華舞』の時に暴行に及ぼうとした男だと思い出したのは、その腕にまだ新しい刀傷があったからだ。
……彼自身が、付けた。
凛は知らないが、あの時拘束が弱まったのは耀がその男達をほんの数秒の間に全員傷付けた為だ。だから彼女は逃げ出し、耀は邪魔する者のない状態で追えたのである。
だが所詮時間稼ぎだけのつもりだったから、出血は派手なもののそれ程深い傷は付けなかったのだが――
(畜生っ! あん時ひとおもいに動脈掻っ切ってれば……!!)
火事場の馬鹿力と言うものなのか、標的の足は異常としか思えないまでにフル回転している。なかなか追い付けない苛立ちに任せて物騒なことを考えつつ、傷を庇いながらも必死で逃げる男を追う。余程あの時の耀が恐ろしかったのか、濃藍の髪に宵闇瑠璃の瞳の精悍な顔を見つけた途端、凄まじい慌てぶりで酒場を飛び出したのだ。
「ったくっ……逃げなきゃこれ以上追わんってのに!! いいから止まれ!! ぶっ殺すぞてめぇ!!」
「とっ、止まったら尚更切り伏せるつもりだろうがー!!!」
「ったりめぇだろうが馬鹿、いい加減しつけぇんだよ! まともな方法で女の相手できねぇんなら未練がましく追っかけるような真似すんな!!」
「ひいいいいいいいいいい!!!」
「大人しくお縄にかかれ! お前みたいなのがいるから俺の仕事は長引くんだよこん畜生!!!」
最早七割がた意味の通らない八つ当たりに近いが、結末が殺戮鬼ごっこである以上そんなことはどうでもよかった。
「え? ……じゃあ、耀は飛び出した切りで……?」
「そうなのよねぇ……。なんかすっごい勢いで出てった暗そ〜うな男を追って、そのまま」
つい先ほどまではとにかく儲かって満面の笑みだった宿の女主人だが、凛の確認に戸惑いを隠しきれない。
何しろ件の彼は、――明らかにこの舞姫の保護者であったのに、行方を眩ました切りなのだから。
「全くっ……連れて行くとか言っときながら、ひとりでどこへ行ってんのかしら! だから馬鹿は正真正銘馬鹿なのよ!!」
そんな様子で憤りを隠しもしない凛に、女主人は不思議そうに言う。
「馬鹿馬鹿って……恋人のこと、そんなふうにいうもんじゃないわよ。確かにあんた若いけど、十八を過ぎれば女なんて老ける一方なんだから。いくら美人で二十代だって油断できないわよ〜? 男なんてほら、浮気なもんだから……って、あら?」
一気に渋くなった舞姫の表情に、どうやらやっと失言だと気付いたらしい。
「……だぁーれーが、恋人ですってぇ………………? 馬鹿にしないでよ! あの馬鹿との関係はねっ、雇用主のお使いと被雇用者なの!!」
それ以上など、考えたくもない……いや、考えられる筈がない……!
(あんな残酷なことやる奴と、これ以上どうやって近づけって言うのよ――!!)
無理なのだ。これ以上彼を知るのが怖いから。
何が真実で、何が嘘なのか分からないまでに、優しいから。
いっそあの時の抱擁まで、本気の優しさに思えてしまうから。
駄目なのだ。
傍にいて分かった、いつも優し過ぎるから……だから、絶対に受け入れてはいけない嘘まで信じそうになるから。
「……それだけ、なんだから……っ!」
なのに、苦しい。
やっぱり、嘘でも何でも、優しさが温かすぎる。
あの拒絶しきれない程の熱に慣れてしまったから、こんなふとしたことで揺れるほど、自分は弱くなっている。
だから、苦しい。
近付くことを恐れているのに、その温かさを求めてしまう食い違いが、苦しい。
恋人だなんて誤解、その苦しさが浮き彫りなって、もうこの身には毒でしかない。
(それもこれも……あれが、耀が馬鹿だから……っ)
こちらがどれだけ拒絶しても。
それに気付かない、耀が悪い。
言葉の切りいきなり俯いた美しい舞姫に、女主人は得心したように笑んだ。
「ふーん、そうよねぇ。……確かに、“未だ”、恋人じゃぁないわね〜」
誤解の上に成り立ったその台詞に、凛は苦しさについて考えることも放棄して再び顔を上げる。
「だから違うってば!! 耀となんかっ、そんな……」
半ば自棄の叫び声に、すっかり人生相談屋になった女主人は冷静に応える。
「ほら、その顔」
びしりと指まで指されて、思わず凛は固まった。
すかさず鏡を目前に構えられ、見た、自分の表情。
……信じられない程赤くて、目が潤んでいる。
「あんた知ってるでしょ? 以前の自分の評判。神の愛し子、人界の奇跡って呼ばれてたこと。そん時は本当に人じゃないように思えたもんよ。笑顔だって計算されたような、完璧なものだったから」
ゆっくり下ろされた鏡の向こうにあったのは、どこか人で遊んでいるにも関わらず、とても優しい笑顔。
「でも今はね、恋する女の顔よ。自分の想いの通じない相手に怒って、でも、そんな自分に迷ってるって顔」
心外な筈の言葉なのに、何故か凛はそれを遮れなかった。
……そう、まるで耀の熱のように。
「知らなかったんでしょ、ずっとひとりで。恋なんてさ。だからきっと、今のあんたは自分の中の感情に気付いてないだけ」
「聞いときなさい?」
あまりに衝撃が強くて、それ以降の言葉はあまり頭に入らなかった。
恋?誰が?私が?誰に?……耀に……?
「今あんたが抱えてるものが、恋ってもんよ」
こんな苦しさが?
信じてはいけない嘘の為の優しさを、信じそうになる弱さが?
連れて行くと言ったのに、いきなりどこかへ消えた彼への、憤りが……?
「ち……違うの……っ!」
何度否定しても、すっかり誤解に納得した彼女にはきっと聞いてはもらえない。だが本当に、“これ以上”なんてないのだ。
でなければ――、本当に、抱える傷は膿み二度と戻らなくなってしまう。
「恋なんてっ……恋なんて、私は知らないんだから……!!!!」
きっとその領域に踏み込めば、今より辛いことがあるのだ。そんな予感がある。そんな状態に耐え切れる程自分は強くない。
ただでさえ……ただでさえ、視界に耀という存在が現れた時からずっと、崩れ落ちてしまいそうな危うい所にあるのに。
好きや嫌いなど、そう言う感情以前の問題で、……誰かに対して意識を向けてはいけないと、心が悲鳴を上げている。
軋み、うめき、そして決して見えない血を流す。熱く苦い、純粋な赤の、血を。
(あぁ、だからこんなに苦しいんだ)
考えてはいけないことを考えようとさせるから、苦しいのだ。
そうして追い詰められた精神は、傷付き、目に見える形で血を流す。
――涙と言う、透明な血を。
急に泣き出した凛に、原因となった女主人は言葉が継げない。凛はあまりの苦しさに何も言葉に出来ない。
すすり泣きにかぶる、遠い喧騒。
再び俯いた舞姫の、頼りなく、誰に縋り付くことも出来ない細い肩。
彼女を取り巻く“世界”の厳しさを、あまり上品な客を泊められないような宿を切り盛りする女主人は、よく分かっているからこそなにも言えない。
ただ思うのは、舞姫の禁域に入り込んでしまったと言う、漠然とした予感。
(本当に……この子は、恋なんて知らないのかも知れない)
恋。
誰かを慕い、共に在りたい、心を、或いは体を重ねたいと思う感情。
時にそれは愛にも似ているが、決定的に違うのは、恋が優しく温かいものを与えられるのを望むのに対して、愛とは自ら与えることによって返るものを慈しむことだと言うこと。
きっとこの舞姫は、その両方を知らない。愛情の、優しさや温かさの求め方を、与え方を、知らない。
人生に於いてそれは何よりも大きな支えとなるのに、それを知らない。
だからこそこうして、触れられることを極端に忌む。 己に介入されることを、頑ななまでに拒む。今のように、防ぎようなく拒絶と言う壁を取り除かれれば、彼女はあっけなく崩れ泣いてしまう。
その姿の何と頼りないこと。
紅の瞳はただ涙に濡れ、言葉を紡ぐことすら出来ず、倒れそうな体を必死で震わせて保っている姿の、何と悲しいこと。
(こんな状態で、これ以上“人”に触れようものなら……この子は、本当に壊れてしまうかもしれない)
第一、この舞姫は泣き方を知らない。
これだけ嗚咽を響かせるのに……絶対に一歩踏み出して、誰かの肩で泣くと言う、自己救済の方法を知らない。
一人で飲み込む涙など、辛いだけなのに。
誰かに頼って、依存して、甘えることを知らない。
そう考えて、女主人は、自然に舞姫を抱き締めていた。決して彼女を支え切れる程逞しくない腕で、それでも精一杯に、彼女を受け止めようとした。
(何て、不器用な子……何でも知っているようで、でも、何も知らない……可哀想な、子供)
この舞姫は、無垢な赤子よりも、純粋過ぎる。
生き方を知らない。命を繋ぐ術を知らない。生まれたばかりの赤子だって、乳を求め……母に頼り甘える術を知っている。
なのにこの舞姫は、それすらも知らない。
知らないからこそ苦しくて、そうして心を傷付け、独涙(ひとりなみだ)を己に灌ぐのだ。
その姿が、どれだけ哀麗(あいれい)に映ることか。
哀れを誘い、なのに最高に麗しく映えることか。
唐突な温かさに、条件反射的に身を竦ませた凛に、女主人は芯の通った声で言った。
「泣きな。……堪えないで、泣きな。それで――人に、人の温かさに、触れることに馴れな」
それは決して優しさだけの抱擁ではなかった。
世界の厳しさに、拒絶以外の方法で耐える術を教える為の、厳しさすらある熱だった。
育った子を谷に突き落とす猛々しい獅子の母の如くの、温かいだけではない優しさだった。
「泣いてみな……。 いい加減、弱くてもいいと認めな」
(……何で……)
凛は、もう既に茫洋と途方にくれて考えていた。
何で人間はこんなにも優しいのだろうと。
残酷で非道で信じられない、欺瞞に満ちたものである筈の人間が、何故いつも、触れるたびにこんなにも温かいのだろうと。
いつも不可解だ。
耀にしろ、この女主人にろ。
何故こんな、ただ弱さを曝け出すことしか出来ない自分に、優しくするのだろう。分からないのだ。
(私はきっと……知らないから、泣くんだ)
空ろですらある心を無視して、涙は溢れる。何が悲しくて泣いているのかも分からないのに、止まらない。
分からないから、知らないから、きっと私は泣く。
この寄る辺の知れぬ悲しみの在り処が分かれば、きっと泣かない。
強いて言うならば、不安に近いような、この悲しさ。
何に対して、一体何故…………そんなことは分からないが。
普通にしっかりと生きているのに何かが不安なのだ。
しゃんと立っているのに何処か何かが頼りないのだ。
きっとその何かが分からないから……余計、不安で。
何の為かも分からない、涙を流す。
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■作者からのメッセージ
どうも、暫く流浪の旅人となっていた輝月です。(嘘です、HPにかま掛けてました
月光奏鳴曲(ムーンライトソナタ)お読み頂き感謝感謝です。
流浪の旅に出ていたので(だから嘘ですって)暫くぶりにお目に掛かりますが、話は全く進展しませんでした(爆
あぁ何で凛様泣き止んでくれないのー、何で女主人さん母性刺激されちゃってんのー、ってか耀はまだストーカー男(?)を追って走り続けてるのか馬鹿野郎ー、LVにしやがれこん畜生ー……(以下略)……
そろそろいい加減長くなってきたので、次位からは新規投稿にしようと思っていたり。いずれにせよ、お付き合い宜しくお願い致します。