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『凍てつく冬に  完結』 作者:恋羽 / 未分類 未分類
全角12982.5文字
容量25965 bytes
原稿用紙約40.7枚

 遥か彼方に、淡い紅色の空を背景にして眩いほど白く雄々しい山々がそびえている。きっとあの山の向こう側には知らない街が存在していて、そこには自分が見たことも無い誰かが暮らしているのだろう。慎ましやかな人々の生活。唐突にそんなイメージが目に浮かんでくるほどに、空は澄み渡り、厚手の上着を照らす太陽は僕を愛でていた。
 目覚めの時。風雪が激しく吹きつけた夜を越えて、僕は冷え冷えとした雪原に佇んでいた。
 今自分が這い出てきた黄色いテントはそれほど雪をかぶってはいなかった。わずかな雪を払いのけると、ふと枯れ木の立ち並んだ森に目が行く。
 そこには白い森があった。夏の緑の葉とは違う、白い衣を身に纏った木々が僕に微笑みかけていた。
 テントの真横に生えていた木に目を向けると、……目を疑うほどの美しさ、だった。
 樹氷。凍てつく冬に木々にただ雪が張り付き、それが溶けてまた張り付いて、という繰り返しによって木々が白く輝くようになる。言葉で語るとそれ以上の表現は出来ない。だが、それは雪の結晶にどこか似ていて。自然の造形美というものはこれほどまでに人間の目に訴えかけるものかと、寒気に乾燥しきっていた目から涙が零れてしまう。
 朝日がその樹氷の森を優しく照らしながら昇っていく。

 氷の森に太陽の明かりが灯り、冬の朝は目覚めていく。
 この誰もいない孤独の森で、僕は自然の寵愛を受けていた。
 ただ人知れず揺れ落ちる樹氷の雫が。
 僕の頬を伝う涙と共にそっと雪面に流れ落ちた。

「……んへっしゅ!!」
 くしゃみが、出た。
 仕方が無いかもしれない。放射冷却の影響だろう。気温が異常に低い。
 ……感動しているだけでは死んでしまう。体を温めなければ。
 僕は覚悟を決めて這い出たテントにもう一度戻ることにした。


     *


 テントの中で昼までぬくぬくと過ごすと、僕は改めて外に出た。
 青い空に浮かぶ太陽はほぼ天頂に達し、陽の光がまるで遠い春を予見させるような暖かさを僕や、この森に棲む全ての生き物達に与えてくれる。
 朝の感動的な樹氷群は昼の太陽の下、雫となって降り積もった雪の上に滴っていた。その姿もどこか美しい自然の一齣であり、僕の単純な心を感動させるには十分だった。
 しかし感動してばかりではいられない。僕は自然を愛するナチュラリストではない。と言っても別に好き好んで自然破壊をしてるわけでもないけど。
 僕の楽しみは……、わかさぎ釣りだ。
 しかも、人里離れた山奥で。駐車場じゃないところに車を止め、わざわざ重い道具を背負い、極寒の中でテントを張って眠り、……ようやくこうして小さな湖の畔にやってきたのだ。
 僕のわかさぎ釣り好きは最早留まることを知らなかった。人が沢山いて、暖かい空間で釣りをして、釣り上げたわかさぎを天ぷらに……、じゃあ満足できない体になってしまったのだ。
 誰も知らないような場所で、甘くはない環境の中で、冬の寒さに凍えながら。そうでないとわかさぎとのバトルを楽しめなくなった。
「おおおぉぉぉぉ……!」
 僕は奇声を発しながら雪の降り積もった湖面を走った。雪の中を走るのはかなり体力を消耗する。だが、僕のわかさぎに対する情熱は決して冷め遣らない。
 湖面の中心あたりに辿りつくと、小さなスコップで雪をかき始める。当然、奇声は発したまま。
 しかしその携帯用のスコップでは遅すぎる。掬い上げたその雪の少なさに苛立ち始める。
 もうスコップを使うことすらもどかしく、遂にはスコップを放り投げ両手で雪を掘り始めた。
 一メーターほど掘ったところで、固い面にぶつかる。……僕はにやりと笑う。
 そこで背中のリュックに結び付けておいた、例の氷に穴を開ける道具の登場だ。
 細い一本の金属製の棒に螺旋状の板が付き、両手回しのクランクが付いている。ただそれだけの道具だ。
 だが。その道具が僕の手に納まった瞬間。
「ほおぁぁぁぁ……!」
 ものすごい勢いでクランク部分が回転し始め、棒は湖面深くに突き刺さっていく。
 しばらくすると氷の抵抗も無くなる。
――至福の時の始まりだ。
 僕は電光石火ののスピードで、竿、仕掛けをリュックから取り出すと瞬時に今自分で開けた穴に糸を垂らす。
 この湖にわかさぎがいることは夏の内に調べがついてる……。あと僕にできることと言えば、辛抱強く待ち続けることだけだ。
 だが、自然の寵愛を受けた僕には辛抱強さすら必要なかった。
 掌に伝わってくるピクピクという感覚。
――ん、一匹や二匹じゃない……。
 僕は勢いをつけて引き上げる。
 三匹のわかさぎが、冬の寒々しい空気と僕の白い呼気の中で綺麗にはねた。
「……んっしょい!!」
 くしゃみが出た。だがそんなことは考えなくていい。たとえ鼻水が垂れようとも、僕の周りには誰一人として人間がいないのだから。
 僕が高らかに笑いながらわかさぎを針から外していると。
 ずっと遠くの方で、白く染まった木々の間を何かが通り過ぎていくのが見えた……。
――え?
 本当に、え? だ。今の、何だ?
 わずかに見えたあの動き方は、……人間みたいだったけど。やや黄ばんだ白が、青白色の雪の中で妙に際立って僕の目に映ったのだ。
 気のせいだろうか。
 僕はしばらく考えていた。……この湖が人が来ない所だということは散々調べつくしたのだから間違いない。じゃあ、あの人影は……?
 いや、もしかしたら違う何かと間違えたのかもしれない。例えば動物とか。
 と考えて、もし熊とかだったらもっとまずいのでは、と更に恐怖が増す。
 深く考えてみて、手の中のわかさぎがぴちぴちはねるのを手に感じる。
 まあいいや、と僕は楽天的な性質を取り戻す。別に熊だろうがなんだろうが、かかってこいや! みたいな。
 それから僕はとにかく釣りまくり、そしてその合間を見て天ぷらの用意をし、食いまくった……。


     *


 西日が僕の目を刺すように山へと下っていく。
 白に統一された平らな絨毯が黄昏色に染まり始め、黄金の野原に立っているような錯覚に陥る。
 時折一粒二粒、気まぐれに空から白の妖精が舞い降りて、降り積もった雪が作り上げた大地に音も無く辿りつく。
 柔らかな光と一点の穢れも無い雪が織り成す芸術が、たった一人、僕という人間の為だけに存在していた。
「……ふっしょあ!!」
 くしゃみと一緒に、わかさぎの尻尾が口から零れ出た。
 今口に運んだので何匹目だろう。軽く百匹は超えているのではないか。
 さすがにいくら昨日から何も食べていないとは言っても、胃袋がわかさぎの天ぷらだけで満たされると気分が悪い。なんとなく口から吐き出されるげっぷもわかさぎのにおいというか、キュウリのにおいというか。どっちにしてもあまり気分のいいものではない。
 満腹の腹を抱えて、僕は立ち上がった。一瞬わかさぎが逆流してくるが、耐える。
 道具を背負うとその重さに弱音を吐きそうになった。弱音以外のものも少し吐いてしまいそうだったが。
 やっぱり、わかさぎへの情熱が多少和らいだからだろうか。胃袋の中一杯にわかさぎを詰め込んでしまうと、情熱も糞も無いのかもしれない。
 だが、情熱の代わりに僕の中には達成感と満足感が入り混じり、この上ない幸福となって満ち満ちていた。
「……もうここに住んじゃおうかな」
 独り言を呟いてみる。誰も答えはしない。
 子供はどうするのよ! そう叫ぶ妻はいない。
 お父さんミキが嫌いになったの? 涙目で問う娘もいない。
 クゥーン…… そう寂しげに鳴くゴールデン・レトリーバーもいない。
「……俺は自由だ!!」
 そう叫ぶと、本当に吐きそうになった。
――もういいや、住んじゃおう。ここに。
 食べ物はわかさぎ。そこら辺の木の枝でも折って家を作って……、あ、動物に入られないようにツリーハウスがいいかな。
 僕は釣りに向かった時とは違う理由でウキウキしながら、テントを目指した。
 が、僕は首を傾げる。
「……あれ?」
 湖の畔。森と湖の境目あたりにテントを立てたはずだった。そして、僕は自分の足跡を辿って戻ってきたのだ。絶対にその場所を間違うはずが無い。
 だが、僕が昨日夜を明かしたはずのその場所にはテントが無かった。
 少し呆然とした。
――どうして?
 テントを立ててあった場所にはわずかに熱で雪が溶け、沈み込んでいる形跡がある。そこにテントが立っていたのは明白な事実だ。
 しかしどこをどう見ても、辺りには茶色の木の幹と白い雪以外見当たらない。
 しばらく考えながらボーっとしていると。
 テントが立っていた場所から、湖とは反対方向に延びている足跡を見つけた。
 僕がここに来た時の足跡かと思っていた。他にこのテントに近づいたものはいないと思っていたから。
 だがよくよく考えて見ると、昨日は吹雪だったのだ。僕の足跡なんて残っているはずも無い。それに確か、僕が昼に釣りに出た時には足跡なんて無かった。
――誰かが……、いる!?
 僕の中に唐突に浮かんだその思考は、昼頃に見たあの人影らしき物を思い出すことによって更に現実味を帯びたものになった。
 間違いない。あの時僕が見たのは人間だったんだ。あいつか、あいつの仲間が僕のテントを盗んで逃げていったんだ。
 もし犯人が動物だったならテントなんて持っていくはずが無いし、もしそうだとしても人間らしいこの足跡の説明が付けられない。
 僕の中にふつふつと苛立ちが湧いてきた。
 この野郎、あの冬用のテントは五万九千八百円もしたんだぞ! 誰だか知らんがぶん殴ってやる!!
 僕は重いリュックを雪の上に叩きつけると、足跡を辿り始めた。


     *


 日が沈むと、雪の青さに気付かされる。空が濃紺にその色彩を変えると、やがて莫大な数の星達が木々の合間を縫って僕に微笑みかけてくる。
 気温は体感で氷点下を遥かに下回っている。おそらくマイナス十度以下にまで冷え込んでいるだろう。
 吐く息に含まれる全ての水分が凍ってしまいそうだ。口から吐き出される息がまるで濃度の高い霧のように思えた。
 鼻の粘膜が張り付く感触がわかる。奇妙な感覚だ。だがおかげでくしゃみは出なくなった。
 顔の皮膚感覚は全くと言っていいほど無くなっていた。今誰かに話しかけられても上手くしゃべれないだろう。
 どこまでも単調に道は、そして足跡は続いている。おかげで迷った人間がよく言う、同じ所をぐるぐる回っている感覚にはだまされずに済んだ。
 だが。僕の体力は次第に消耗し始めていた。雪を掻き分けて進むのだから普通に歩くのとは全く感覚が違う。なにせ、膝よりも上に雪面があるのだから。
 何度も引き返そうかと思った。引き返して、車に乗って帰り、冬の外気よりも冷たい妻の料理を食べようかと思った。
 しかし、五万九千八百円は捨てられなかった。あれは有名冒険家が以前使っていたのと同じ品なのだ。なけなしの小遣いからちまちま貯金をして買った僕の宝物なのだ。絶対に諦めてたまるか。
 その苛立ちも、だんだんと弱々しくなってきていた。もうこれだけ歩いてテントを盗みに来るなんて、見上げた奴じゃないかと認めてしまいそうである。
 太陽が完全に沈み、あたりには凍えていく木々だけが残された。
「もういい加減にしてくれ」
 口をついて出た言葉はそれだった。僕は目の前に延びる単調な足跡に心からそう言いたい。
 疲れて足を止めることも多くなる。体が確実に悲鳴を上げていた。
 雪を足で掻き分けることが困難になり、それでも必死で蹴るように進もうとすると。
「あぁぁぁ……」
 体のバランスが崩れる。僕は両腕を伸ばして倒れこんだ。
――人間って十度ぐらいの気温でも凍死するって聞いたな……。
 縁起でもないが、僕は自然に死について考えていた。
 今僕が着ている防寒服では、この氷点下の世界で眠ることなど出来ないだろう。雪の上で、となればなおさら無理だ。
 だが僕にはもう、体を起こしてこの雪の中を歩き続ける体力も根気も残ってはいなかった。まして周囲に明かりは見当たらない。誰の助けも求められなかった。携帯電話は車に置きっぱなしだし、もし持ってきていたとしても通話など出来なかっただろう。
――何だ。最期まで冴えない人生だったな……。
 多分ここで野垂れ死んだとしたら、誰にも見つけられないままゆっくりと春を向かえ、様々な動物に分解され、この木々の肥やしになっていくんだろうな、と考えると、この死に方もまんざら悪くないかな、と思った。
 天上の星々は瞬き、冷たく緩やかな風は吹き、木々は静かに囁き、そして僕はその全てに何かを教えられた。漠然としてはいるが、人間の死と言うものはこういうものなのかもしれないな、と考えると僕は目を閉じた……。


     *


 明るい闇が、僕の周りを包んでいた。白い天井に囲まれた世界。重く冷たい辺りの空気が僕を押しつぶす様に圧力を掛ける。
 白の天井付近だけが妙に明るく、まるで僕を導いているみたいに見えた。少しの間待っているだけで天使がそこから舞い降りてくるような、そんな神秘がそこに存在している。
「……のえっしゅ!!」
 僕は重い空気の中でくしゃみをした。この場所はどうやら乾燥していないらしい。
 しかし、寒い。体が凍りつくほどに。
 しばらく震えていた僕は遠くの方でスポットライトのような灯りが天井から降っているのを見つけた。
――なんだろ、あれ。
 僕はその方向に向かって進んでいく。そして、気付かされる。
 僕は、宙に浮いている。
 それどころではない。走るつもりが、腰を振り振り進んでいるのだ。
 それはまるで……、魚の様に。
 宙に浮いているんじゃない、周りにある空気みたいな物は水なのだ。
 だが僕は立ち止まったりしなかった。あの光が、僕の腰の動きを早めているのかもしれない。
 その眩い光の下に、キラキラと光る鈎針がある。
 もちろん僕はその時点で今自分が置かれている状況を悟っていた。
――僕は、釣られるわかさぎになっているんだ。
 そのことをわかっているから、決して僕は針に食いついたりしない、つもりだった。
 だが僕の魚の口は僕の意に反してそのキラキラ光る針に食いついた。瞬間激痛が口から全身に走る。
「いてってててて」
 そう叫んでみるが、誰も返事をしない。ましてや仲間のわかさぎも助けてはくれない。
 口に走る痛みのせいで僕は苦しみもがく。それがまずいのは十分わかってる。だが体が言うことを聞いてくれない。
 針から伸びた見えない糸が、そっと引かれはじめた。それに抗う力は僕の魚の体には残されておらず、僕は息の出来ない湖面の上へと引きずり上げられた……。


     *


 もう、死んだか……? 僕はそんなことを考えて目を開く。
 そこには……、どこかで見たような建物の内観が広がっていた。
 太い木製の柱が剥き出しの梁に伸び、暗くほとんどその様子を見ることが出来ない屋根、いわゆる甍という奴に繋がっている。
 壁も何も全てが木製で、壁には干物にされたのであろう鮭が縄で結び付けられ、赤い身の中に白い骨を露出させている。
 暗い部屋の中央、つまり僕が寝転がっている場所には古めかしい板の間があり、囲炉裏が作られている。囲炉裏にくべられた薪がパチパチと時折心地良い音を鳴らす。
 そして、だ。壁に掛けられているもう一つの特徴的な物。それに僕の目はどうしても引きつけられた。
 これを僕が写真で見たのはいつだったろうか。確か小学生ぐらいの頃、社会科の授業で見た記憶があった。
 アイヌ民族の特徴的な民族衣装。アツシ、とかいったか。それが壁に掛けられていた。僕は首を傾げる。アイヌ民族は百年以上前に和人に吸収されたはずだ。その民族の服が何故これほど生活観溢れる形で置かれているのだろう。
 そしてその隣には……、僕のテント、五万九千八百円の品が無造作に置かれている。
 僕はそれを見た時、冷めかけていた復讐心が再び煮えたぎるのを感じた。
 僕をここに連れてきたのが誰だろうが関係無い。僕は命の恩人だろうが何だろうがそいつをぶん殴ってやる! アイヌだろうが何だろうが、かかってきやがれ!
 そうして拳を握り締めているところに、狭いこの建物の入り口付近から誰かが入ってくる物音が聞こえた。
 そこに現れたのは、……若い女だった。
 やや浅黒い感じに見える肌の色、日本人と言われる人種とはどこか異なった雰囲気を感じさせる輪郭と顔の作り。やや色褪せた感じの白のアツシを身に着けた細身の体と、ものすごく古臭い藁製の長靴があまりにも印象的だ。
 女は僕の方に近寄ってくる。
 そして顔を驚きに引き伸ばすと、次の瞬間には僕に対して何やら小声でしゃべり出した。あーでもないこーでもない。彼女の話す言葉が僕には全く理解できない。
――こいつめ、テントを盗んだ言い訳してやがるな。
 普段家庭で溜めに溜められた鬱憤が、問答無用の行動に僕を駆り立てた。
 僕は、普通に、グーで、その女を殴った。
「このやろ、言い訳すんじゃねぇ!!」
 板の間に倒れこんだ女は驚愕の表情で僕を見た。だがそんなことは関係無い。大事な物を奪われる悲しみがわかったか、と僕は満足した。
 女が倒れたまま何やらぺちゃくちゃしゃべり出す。だが結果は同じだ。意味がわからない。
 もう一度殴ってやろうかと思ったが、さすがに相手は女と言う事もあるし、僕がこうして生きていると言う事は彼女が僕をここまで連れてきてくれたのだろう。その恩義には報いなければならない。
 そこまで考えてみて、あれ? と気付く。
 本当にこの女がこの家まで連れてきてくれたのだろうか。男でも歩くのが困難な深い雪の中を、男一人背負って。この目の前の女に、そんな力があると言うのか。
 アイヌどうこう人種云々を抜きにして、僕は無理だと言う結論に達した。女でなくても、よっぽど屈強な男でなければ。
 屈強な男、というのをイメージしてその野性味溢れる姿に僕は縮み上がった。
 そしてこの女がその男の妻である可能性が高いと言う事にも、僕は気付かされる。
――やばい。
 殴ってしまった。何も考えずに、グーで。
 僕は思わず揉み手をした。
「いやぁ、ジョークですよ奥さん」
 僕がそう笑いかけると、彼女は更に驚いた様子だった。
――ここがセールスマンの腕の見せ所だ。
 僕は精一杯取り繕おうと、女の全身を見る。
「奥さん、いやぁ実にお美しい。ご主人様はお幸せですなぁ」
 僕は高笑いをする。そして真面目な表情を作る。
「ご主人様には実にお世話になりました。どうかよろしくお伝え下さい」
 そう言って立ち上がると、彼女はまるで変な生き物でも見るような目を僕に向けた。そして相変わらず小声で僕に何かを語り掛ける。ボソボソボソボソ。結局何を言いたいのかわからない。
 その言葉をさりげない笑顔でかわすと、僕は入り口に向かって早足で歩いた。もちろん途中でテントを回収しつつ。
 そして入り口に辿り着いたところで。
 僕はその存在を見上げた。
 女が後ろから何かを叫ぶ。その言葉の響きだけが何となく僕に意味を伝えていた。
『逃げて』
と。
 だがそれに気付いた時には遅すぎた。
 僕はその一瞬後、男の拳と衝突し宙を舞っていたのだから。


     *


 大きく鋭い包丁のような刃物を、男は嬉しそうに囲炉裏の前で研いでいる。その赤い炎に照らされた顔はいかにもいやらしく、意地汚い動物的な雰囲気を帯びていた。
 女は震え、男の顔と僕の顔を交互に見る。その引きつった表情が、今後の僕の運命を教えてくれているような気がした。
 男は羆と見まごう程の大男だった。その毛深い顔は息苦しさを感じるほどだ。目が二重なのがどこか彼の顔から険を取っているようにも見えるのだが、そこに愛らしさを感じている場合ではなかった。
 僕は板の間から一段下がった土間で後ろ手に縛られている。足も同様で、あの男の力で縛り付けられたのだから外れるわけも無い。おかげで縛られた手足の感覚が無くなるほどだ。
「ご主人。今日は一体何を食べさせていただけるのでしょう?」
 とりあえず、そう言ってみる。
 だが男はなんの反応も示さない。想像通りの無反応だ。
「楽しみだなぁ。もしよろしければ僕もお手伝いいたしますよ?」
 僕がそう言うと、男の手元から石ころが投げつけられた。それが僕の顔面に命中する。
 痛い。僕が痛みを声に出すのを堪えていると、その表情が面白かったのだろう、男が笑った。
「……もっと面白い顔も出来ますよ? 縄を外してもらえれば」
 だが男は僕の言葉など意味がわかっても無視するといった感じで、再び作業を続ける。もう何分研ぎ続けているのだろう。
 僕は女の方に目を向ける。どうやら僕の最後の頼りはこの女のようだ。多分彼女は僕を食べてしまう事に反対なのだろう。口にこそ出さないが、その表情から明かな不快感が窺えた。
 きっと先程の小声での語りかけは僕を逃がそうとしていたのだろう。もし言葉がわかったなら、僕は彼女にどれだけ感謝していた事だろう。だが言葉が通じない以上彼女が何も出来なかったのは仕方のない事かも知れない。
 僕はさっき見たわかさぎの夢を思い出した。
 釣り上げられたわかさぎは所詮食われるだけの運命なのだ。僕が今日胃袋におさめたわかさぎ達のように。
 女が何か、男に話しかける。
『ねえ、やめましょうよ』
『うるせぇ。食わなきゃ俺達が死ぬんだぞ』
 二人の会話はそんな響きを含んでいる様に思えた。
 食い下がる女に、男は立ち上がると平手を見舞った。渇いた高い音が室内に響き渡る。そして女は倒れ込んだ。
「ご主人、DVはまずいですよ。離婚したら慰謝料が」
 僕がそこまで言うと、男はさんざん研ぎ澄ました刃を僕に向けて閃かせる。
「……いやぁ、人の家庭の事に口を出すなんてよくありませんね」
 しかし男は僕の方にゆっくりと近付いてくる。その足は止まる気配が無い。
 三メートル、二メートル。
 僕の目に男の背後から忍び寄る女の覚悟を決めた顔が映る。
 一メートル。
 女の手には大きな木の棒が握られていた。
 男が、そして女が、それぞれ手に持った武器を振り上げる。
「危ない!!」
 どちらにともなく僕は叫んだ。
 男の手に持たれた包丁が、僕に向けて振り下ろされる。その刃の向こうに男の微笑が見えた。
 が、男の包丁は僕の体を外れて土間に突き刺さり、刃の彼方に見えていた男の顔は無表情な物に変わった。その直前に聞こえた鈍い衝突音が原因なのだろう。
 男は僕のすぐ横に倒れこみ、立っているのは女だけだった。
 僕はただ唇をわなわなと震わせ、女を見つめる。その横で屈強な男が小刻みに痙攣している。
 女は二度三度男の後頭部を殴りつけた。そうする内に男の痙攣も止まってしまった。
 それから何を思ったか、女は男の手に握られた包丁を奪うと僕に向けた。
 僕はこれ以上無いほど震える。殺される、と男にそれを向けられた時には抱かなかった恐怖を感じていた。
 そうだ。僕は彼女に妻を重ねてしまっていたのだ。だから彼女の手に握られた包丁が恐ろしいし、先程は問答無用で彼女を殴ってしまった。
 そして考える。……もしかして、この女も僕を食べてしまうつもりだったんじゃないか? 男を殺してしまえば取り分が増えるから、それで男を殴り殺してしまったんじゃないか?
 その先入観が、彼女の手に握られた刃に歪んだ輝きを灯らせていた……。


     *


 僕は……、生きている。
 なんの事は無い。彼女は僕の手や足を縛り付けていた縄を切って外してくれたのだった。
 彼女は僕を開放した後、男の体を深い雪の中へと引きずり出した。
 帰ってきた彼女の瞳が涙に濡れていたのをよく覚えている。彼女の涙は重く、そして透き通っていた。
 それから、僕は彼女と沢山の言葉を交わした。彼女の言葉の意味は未だにわからない。けれど、僕は彼女の言葉にうなずき、僕は自分の身の上を語った。今になって思うが、言葉の意味なんてそんなに重要な物じゃないのかもしれない。
 彼女は殺してしまった男の代わりに、外へ狩りに出かけた。……アイヌの女は狩なんてしないはずなのに。僕のために殺した彼女の夫は彼女が生きる為に必要な存在だったのだ。
 僕が彼女にその事を謝ると、彼女は意味もわからないはずなのに力無く笑った。大丈夫だよ、そう僕に語り掛ける様に。
 これ以上彼女に迷惑を掛けるわけにはいかない。そう思って僕が家を出ようとすると、彼女は泣いて止めた。……僕は彼女を支えなければいけない、そんな事を漠然と考え始めたのはその時だった。
 だが僕の脳裏を涙を流す妻や娘の顔がよぎる事も多く、度々僕は悩まされる。
 そんな時、彼女は自分の寝床に僕を誘った。彼女には僕の気持ちが手に取るようにわかったのだろうと思う。
 僕は彼女を愛してしまった。体も洗っていないし、自分の体臭も鼻についたが、彼女はいつものように笑っていてくれる。
 そうして僕と彼女は自然のままに体を重ねた。
 これはこれで幸せなのかもしれない。僕はそう考えるようになった。現代社会を逸脱して、自然に身を委ね、愛する者と共に生きていく。それこそが人間の生きる道なのかもしれない、と。
 妻や娘には申し訳無いと思いもしたが、僕は彼女を捨ててあの家庭に戻る事は出来なかった。
 僕は湖に通い、わかさぎをとってくる。彼女はどこから捕まえてきたのだろう、鹿なんかを弓で射てとってきたりした。
 決して食べ物が多い訳じゃなかったが、それでも幸せだった。
 そして願ってしまった。こんな自然の中でずっと暮らせればいい、と。
 僕は望んではいけない事を望んでしまったのだ。
 元々はあの男が支えていた彼等の食生活を、僕が壊してしまった。それは紛れも無い事実だ。
 彼女は日増しに衰えていった。と同時に、明らかに病的な咳が彼女の口から聞かれるようになる。
 僕は彼女を病院へ連れていこうとした。だが彼女は言葉もわからないのに僕を止める。結果的に僕を失ってしまう事を恐れたのだと、今の僕は思っている。
 次第に彼女は寝床からすら立ちあがれなくなった。僕は彼女の口になけなしの食べ物を運んだが、栄養も何も考えられていない食事を彼女は食べられないようになった。
 季節が冬から春に変わろうとし始めた今日。
 僕はほとんど何も言わなくなった彼女を背負い、死の臭いが薫り始めた家を出ることにした。
 辺りには春の息吹が立ち込めている。雪はまだ残されていたが、しかしいつかのように歩き難いと言うほどではなかった。森から聞こえてくるのは鳥の鳴き声。小動物の懸け回る音。人間の目には余りにも遅すぎてわからない植物の成長音。
 だが僕にはそんな物はどうでもいい。自分の周りに満ち溢れる生命の鼓動よりも、彼女の体からだんだんと遠退いていく彼女を僕は繋ぎ止める為に、僕は小走りにその道を進んだ。
 その時、だった。彼女が僕の耳元で囁いたのは。
『もう、いいよ』
 僕の耳にはそう聞こえた。
「そんなこと、言わないでくれ」
 僕は進む足をできる限りに速める。
『もう、助からないよ』
「そんなことは無いんだ。君の知らない世界がこの向こうにあって、君の病気ぐらいすぐに治るんだ」
 僕は涙声で言いながら、ほとんど走っていた。
 だが僕が彼女の足に回した手が滑り、彼女は地面に落ちた。
「大丈夫か!?」
 僕がそう聞くと、彼女は笑う。
『このまま置いていって』
「だめだよ、諦めるな。僕は君を失いたくないんだ」
 僕と彼女の言葉は重なり合っている。それが実感としてわかった。彼女の心と僕の心が今ようやく完全に繋がり合ったのかもしれない。
 僕が彼女の手を掴み、再び彼女を背負おうとすると。
 彼女は泣いた。寂しげに、悲しみと死の苦しみが交じり合った表情で。
『あなたは大切な人の元に戻るの。それがどんなに苦しい事でも。あなたを待っている人がそこにいるんだから』
 僕はもうそれ以上何も言えなくなった。僕の目にも熱い物がこみ上げる。
『私をここに置いていって。……あなたをここに引き止めてしまった私にできる最後の償いだから』
 そうして彼女はおそらく最後になるのであろう言葉を告げると、目を閉じた。
 僕はしばらく何も出来ないでいる。森の中、たった一本の木にもたれかかった一人の愛する女性を、僕は救うことができないのだ。
 彼女は静かに、余りにも静かにその生命の鼓動を止めた。
 僕よりも何歳も若い彼女が、自然の中で生きる種族の生き残りが、その運命にしたがって命を森に還したのだ。
 僕はただ涙を流し、死という物を憎み、その場に膝をついた。 
 死という物はこんなにも残酷な物なのだろうか。こんなにも理不尽な物なのだろうか。僕は彼女を追って死んでしまいたくなった。
 だが、僕は死んだりしない。
 僕は彼女の体を背負うと、先程飛び出した家に引き返した。彼女の体は生前よりも軽く感じられた。
 彼女の体を家の前に寝かせると、僕は家の中からテントをもってくる。
 そして、彼女が雪が溶け始めた時に彼女の夫にそうしたように、家の前の地面を彼女が使った木製のスコップで掘り始めた。
 スコップ一振り一振りが何も出来なかった僕の償いの気持ちであり、そして僕のような人間の為に殺された彼女の夫への鎮魂の気持ちであった。
 夕日が僕を、そしてこの木製の家を優しく包んでいく。その血のように赤い色が、不思議と僕を慰めてくれた。
 彼女を土の中に降ろす時、僕はテントを一緒に彼女の横に置いた。僕の一番の宝物、だった物。
 彼女の体に土をかける時、何も考えられなかった。何を考えたら彼女が安らかに眠ってくれるのか、僕にはわからなかった。だから何も考えない。
 そして彼女を埋め終わると、僕は何分かずっと手を合わせ、そして今来た道を引き返していく。
 一歩踏みしめる度に僕は彼女との思い出に浸った。彼女と生きた日々が、僕の体中に満ち溢れた。
 ふと、彼女は幸せだったのだろうか、と思う。それは僕にはわからなかった。
 自然と共に生き、自然の中で死んでいった彼女。僕よりも若いはずなのに、森のことを深く理解しているようだった彼女。
「……へっくしゅ!!」
 くしゃみが、出た。だが今度こそ周りには誰もいない。鼻水が垂れても気にする必要は全く無い。だが今はそれが無性に寂しかった。
 

     *


 僕は冷たい家と傲慢な会社と厚化粧の主婦の家をぐるぐる回る生活を続けている。
 何週間かは「どこに行ってたんだ」「心配したわよ」「大丈夫だったか」などという温かい言葉が僕に投げかけられたが、しばらくすると以前と何も変わらない生活が戻ってきた。
 遅くまで働いて、上司にこき使われて、帰れば冷蔵庫で冷やされた夕食を温め直す日々。幼い娘にまで臭い汚いと追いたてられる。犬は主人の顔も忘れたのか、家に帰ると吠えてくる。そんな生活。
 だが、僕はこの生活に満足していた。これ以上は何も望まない。
 誰も知らないところで生まれ、滅びた種族の一員として懸命に生き、そして死んでいった彼女との日々が僕に今の恵まれた生活を再認識させてくれた。
 病気になれば病院に行けばいい。冷めた料理は電子レンジで温め直せばいい。僕はその一見味気なくわびしい生活に満足している。
 冬の間、何日も家をあけていた僕を妻は、娘は待っていてくれたのだ。僕はそれだけでもう十分だ。
 愛なんて物は結局目には見えないし、そこに存在しているのかもわからないのだから。
 季節が巡って、冬になると僕はわかさぎ釣りに行くだろう。今までの様に一人で山奥へ行くのではない。家族向けの湖の釣り堀に行くのだ。
 そうしてわかさぎを釣りながら僕は語るのかもしれない。自然の中に生き、自然を神と崇め、そして大いなる自然に抱かれて死んでいった一人の女性の物語を―――。






     完


2005/04/01(Fri)17:29:58 公開 / 恋羽
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■作者からのメッセージ
 コメディ風味の作品にしようかと狙って書いていたのですが、最後までその勢いを持続できず(笑 もともとイメージしていた方向性から少し離れてしまって、妙な方向性へ……。それでも作品に込めた物はそれなりに真面目な物だったので、それを感じていただけたら幸いです。
 ところで雪なんですが。……未だに残りやがっています。しかも北海道らしいパウダースノーじゃなくて、うざったいベタ雪です。雪かきする身にもなってみろ! 雪!
 それでは、この作品にお付き合い頂きありがとうございました。できればご感想をお聞かせ下さい。御読了、お疲れさまです。
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