- 『春宵の精霊使い 1〜7(続く)』 作者:輝月 黎 / 未分類 未分類
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全角19770文字
容量39540 bytes
原稿用紙約62枚
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大陸南西の小国、ミストの春は早い。
北の方ではまだ名残の雪が降るというが、こちらでは既に春告げの花も咲き始めた。
時は、そんな春初めの、宵闇の降りる頃。
それはつまり花街が、本格的に賑わい出す頃でもある。
その甘くどこか退廃的な空気の漂う中で……あまり似つかわしくない、トーンの高い怒声が上がった。
「何なのよっ、いいでしょう別に!! 私は働かせてくださいって言ってるだけじゃないっっっ!!!」
叫んでいるのは、十三、四に見える、こんな下町にはあまり見られない程の上質な衣を身に纏った少女だ。だがその声量からして、深窓のご令嬢ではないことは確かである。
「だーかーら。何度言ったら分かるのかねぇ、お嬢ちゃん。ウチはそう言う趣味のお客さんが来る酒場じゃないの」
それに対して、言い争いの相手をしている気だるげな美人の女主人は、仕立てこそ安物だが華やかなドレスを違和感なく着こなしている。長年こう言う場所で商売をしている、一種の貫禄だ。
そんな女主人に存外強い力で背を押されて、長い白金色の髪の少女はよろけつつ裏通りに放り出された。それでも、と食いつくその鼻先で、酒場の裏扉は軋みつつ閉められる。
――非常に分かりやすい、『追い払い』である。
「何よぉっ! 娘一人くらい、働かせてくれたっていいじゃない! どうせろくな給料払わないくせに!!」
苦し紛れに叫ぶが、細い路地にわんわんと反響しただけだった。
そのすげない反応に、遂に少女は逆上した。
「〜〜〜もーーーーーーーっっっ!!!!! そりゃどうせ私はちんちくりんで胸も尻も足りませんよーーーーだっっっ!!!!!」
ついでとばかりに、沈黙を続ける扉を蹴って、その勢いで駆け出す。
働けないのならば、こんな所、いる意味がない。
そんな彼女の去った、言わば嵐の後の酒場では、女主人と常連が語り合っていた。
「全く。あのお嬢ちゃん、何のつもりなのかねぇ。親が待っているだろうに」
大して気に留めた様子も無くぼやいただけなのだが、客は敏感に反応した。
「最近は物騒ですからねぇ。あんな小さな子だって、稼がないと生きていけないのかも知れません。 ま、こんな所で働くものではないと思いますけど」
こんな場末に不釣合いな程、丁寧で品の良い、未だ若い声である。
だが彼が常連なのは間違いない。証拠に、美人の女主人に臆することもなく気安く言葉を交わす。
「あぁら、お言葉じゃない?悪かったわねぇ、“こんな所”で」
「背丈の足りないお子様が稼げる所ではないと言う意味です」
「まぁ。じゃあ、……今晩は誘われてくれるのかしら?」
そのあからさまに妖艶な誘いに、しかし、若い男は苦笑でもって答えた。
「冗談じゃないですよ。実を言えば仕事中ですから」
そこまでで言葉を切り、常連客は席を立った――
(ったくもおおおおぉぉぉぉぉ!!! そんなに私じゃ駄目な訳!?)
一方少女はそんなやり取りが行われているとも知らず、娼婦達が店の前に立ち並び始めて、妖しげな色の灯篭の燈りつつある花街をずんずんと進む。
言い争っている内に解けてしまった長髪を結い直しつつも、腸が煮えるのは否めない。
「そりゃね、そりゃぁよ。私は確かに寸足らずで胸もないわよっ。そりゃ認めるわ」
そう言う割には悔しげに、暗い色の瞳を潤ませてはいるが。
「だーけーどっ!!! 私だって、私だってもうっ、十五になるんだからあああああっっっ!!!!!」
再び喚き散らして、充分速かった足取りをもっともっと速め、終いには走り出す。どうやら、お嬢ちゃん扱いされたのが余程腹に据えかねるらしい。
だが、その怒りも長続きしなかった。
苛立ちに任せて細い道に駆け込み、一気に表通りに抜けようとする。すこし距離は長いが、この道が一番速い。
雑然とした路地に足を取られないように、俯きつつ走る――
……どんっ!
「っ!? いった――っ」
痛みを巻き起こした状況が飲み込める前に、身を守る本能でかがみ込む。なまじ勢い良く走っていた為、何かに頭からぶつかった衝撃は相当だ。
「〜〜〜っっっ、何なのよ一体っ!!」
少女は悪態を吐こうと、あまりの痛みに抱えていた頭をきっとばかりに上げる。
だが、罵りの言葉は出なかった。
いやそれどころか、言葉自体が死んだ。
彼女がぶつかったのは、運悪くも、明らかにガラの悪い浮浪人どもだったのだ。
「何なんだとは、こっちの台詞だぜお嬢ちゃん?」
「相当急いでいたようだけど、お家に帰るんでちゅかー?」
「……っ……」
「あぁ? ……何か言ったらどうだガキ!?」
愚弄の言葉のついでに、無理やりに腕を引かれ、立たせられる。
辺りは既に、闇の支配する領域へと動き出している。
都独特の夜の華やかさも、退廃し荒廃したこの地区には、届かないのだ。
「やだっ、止めて!!」
彼女は、知っている。
こんな時間、こんな場所をうろついている輩など、そろいも揃ってろくな奴がいないことを。
だが本来ならば絶対に屈しはしないだろう性格の少女は、内心唇をかみ締めながらも、男達に頭を下げる。
(分が悪いっ……私が相手するには、人数が多すぎる!)
「あっ、謝ります!! ごめんなさいっ!」
「聞こえねぇなぁ?」
「もっと声、出させねぇと。 なぁ?」
四方八方から伝わる、荒んだ気。
遠い光によって生まれる影しか、周りにはない。
それが、余計に不安と恐怖を煽る。
――殺されるか、暴行されるか。或いはその両方か。
迂闊にこんな場所に入り込み、不注意でぶつかってしまった瞬間から、末路は二択しかなくなっていた。
だが、追い出しを食らって扉を蹴ったような少女に、大人しく従う気など毛頭ある筈がない。
「嫌ですっ! 謝りますから!! ごめんなさいってば!!!」
なんとか逆撫でをしないように抵抗するが、身長も違えば体格も違う。ましてや、相手は理屈の通じない浮浪人達だ。
「っるせぇんだよガキが!!」
「っ!!」
壁に投げ付けられる。
折角結った髪を引かれる。
(もう駄目! 殺されて、たまるかっ――!!)
思わず頭に血が上り、自分で納得させた分の悪さも忘れ、反撃に出ようとした、
その次の瞬間のことだった。
「!? うああああっっっ!!!!」
「なっ、何だこれ!!? って、うおっ」
訳がわからないが、拘束される力が弱まった途端、少女は駆け出す。一刻も速く表通りに逃げる為に。
しかし。
「えっ……嫌だっ、何これっ!?」
図らずとも、男と同じ台詞を零してしまった。
体の自由が、全く利かないのだ。
足を踏み出すことも、腕を上げることも、振り返ることすらも。
四方八方から、まるで空気自体に押されているような――
少女がそれに気付いた途端、響いたのは、上品な若い男の声。
「無駄ですよ。貴方がたはもう俺の傀儡です」
それは背後から聞こえた。即ち、少女が男の顔を見ることはかなわない。
だが、
何故か、泰然と笑っている気がした。
「なんだとぉ!!?」
その余裕の雰囲気に虚勢を張る浮浪人に、この奇妙な状況の仕掛け人であるのだろう男は、さらりととんでもないことを言った。
「俺、これでも一応、皇帝が認めた魔術師ですから」
-2-
「で?何故あんなにしつこく働きたがったのかな?」
自分は名乗りもせず、そしてあまつさえ名前や歳を聞くよりも先に、魔術師の質問はそれだった。
まぁ、少女に素直に答える気などなかったのだが。
しばし沈黙して、やがてありきたりの台詞を唇に乗せる。
「あんたに教える義理はないわ」
後はもう、視線すら逸らす。
その強硬な態度に、魔術師は言葉もなく、おかしそうにくすりと笑った。
「なっ……何がおかしいのよ!!」
虚勢を張って叫んだが、周囲の視線を集めただけだったから、やがて小さくなる。
(こいつ絶対、わざとやってる!! 間違いなくわざと無視してるーーーーーー!!!!!)
彼の飄々とした煌きを宿す青玉のような瞳に視線を戻して、負けるもんかとばかりに睨み付ける。だがそんな刺々しい態度にも、かれは笑うのみだ。
(大体、ぜったいこいつ自分の外見が好きって笑い方してるしさ!!)
余裕綽々な、それでも穏やかさが前面にでた、
(……す、すっごい美形なんだけどっ……)
少女は、浮浪人達から助けられた時のことを思い出した。
『俺、これでも一応、皇帝が認めた魔術師ですから。法外なことに対しての罰則に無駄な抵抗をする人間は、容赦無く叩きのめしますよ?』
言われた途端、その場の空気が凍った。比喩表現ではなく、本当に。
それ自体が刃を剥きそうなほど鋭い空気は、呼吸をするだけで喉を刺す。春物の衣では薄すぎて、すぐに体温が奪われ始める。
(一体、何なの――!?)
その冷たさがあまりに苦しくて、少女はなんとか逃れようと手足に必死に力を込める。だがそんな抵抗をする度に、周囲の冷たさは増すようで、余計に熱を奪われる。
しかし、それは始まりと同じく唐突に終わった。
『? ……あぁ、ちょっと効き過ぎたかな。ごめんね?』
言葉とほぼ同時に、それまでの苦しさが嘘のように掻き消える。
思わず倒れそうになった所を支えてもらい、鼻腔に満たした風は、――間違いなく、恣意的に甘い花街の匂い。
そこで、はたと気付いた。
自分を支えているのが、誰なのか。
それは、鋭利な美貌の青年だった。
強い輝きを宿す青玉(サファイヤ)のような瞳に見詰められれば、大抵の女はため息をつくだろう。
短く切った髪は艶のある淡い灰色で、太陽の光に透かせば、銀にも白妙にも見えると思わせる。
顔の造形は繊細で、それでも女々しい所などなく、完璧に男の顔立ち。それでもまだ大人の妖艶さはなく、微妙に少年の輝かしさが見えて。
背はすらりと高く、なのにやはり、脆弱な感じはない。
――大人だが、成り切らない。そんな絶妙なかっこよさなのだ。
だがそんな近寄り難い容貌も、笑顔ひとつで一気に柔和な印象に変わる。
半ば、そんな多面的な美しさに見蕩れていたら。
『立てるよね? じゃ、少し待ってて』
そんな言葉を残して、彼は迷いなく振り返る。
そこにはまだ、浮浪人達が冷気の拘束を受けてもがいていた。
『さてと。お遊びは終わらせましょうかね』
美貌を甘く輝かせ、魔術師は、すっと右手をかざす。
ちゃっかりと傍観を決め込んだ少女は、何をして浮浪人どもをこらしめるのか興味津々で眺めていた。
何しろ魔術師は、『いる所にはいる』……即ち『いる所にしかいない』と言うかなり特殊な職種なのだ。
それは、大陸中の強国には、戦力として沢山いる。だがここは、まがりなりにも和睦の国であるミストなのだ。まさかそんな平和な国のしかも花街に、自称ではあるものの“皇帝が認めた魔術師”が現れるなんて、あまりあることではない。
だが、そんな期待を裏切るように、――魔術師はあっさりと振り向く。
そして少女に向かって、こう言ったのだ。
『ごめん、髪の毛数本くれる?』
『……は?』
あまりに意味不明瞭な願いに、思わず彼女は聞き返してしまう。
しかし魔術師は、笑顔を崩しもしない。
『だから、君のその綺麗な髪の毛。出来れば三本くらい』
その真意は分からないながらも、魔術師が確実に苛立っているのは分かった。
笑顔を崩さない代わりに、剣呑なまでに光る青玉の瞳だけで要求を突き付けてくるのだ。
『……っ……』
『くれない、かな?』
結局は迫力負けした。
ぱらぱらと手渡された数本を丁寧に揃えて、魔術師は満足げに言う。
『うん、綺麗な髪だね。それに、』
何故か言葉を切って、それまでの笑顔をはじめて解いて、
――どきどきする程に、鋭く笑った。
『魔術に強そう』
それはどう言うことか問う前に、彼はさっさと少女に背を向けてしまう。
『よし。道具も揃ったし、そろそろ風鎖(ふうさ)は消すとしよう』
魔術師が芝居がかってそう歌うように言うと、ぱん、と、軽く何かが弾けたような音がした。
途端、浮浪人達が崩れ落ちる。
(なっ、何!?)
まるで操り人形の糸を切ったかのようなその様子に、少女は無言で目を剥いた。
そんな状況を楽しむかのように、魔術師はゆったりと笑顔を作る。そしてそのまま、殊更優しく、……歌った。
音韻がある訳ではない。
伴奏がある訳でもない。
だがそれは、何故か、歌なのだ。
『 怒れる乙女の白金よ、果たしを誓う枷となれ。陽光の色紡ぎ出す、闇すら引かす縛めとなれ 』
その響きの発せられた途端。
彼の掌の中の少女の髪の毛は、全く異質のものになる。
“縛め”――即ち、白金に輝く、鎖に。
唖然とする少女をよそに、魔術師はその鎖を使って手際良く浮浪人達を縛り上げて行く。全員をひとかたまりにするまで、それ程時間はかからなかった。
それから少女は魔術師に、呆気に取られている内にいつのまにか表通りに引っ張ってこられて(多分浮浪人達は放置だ)。
それでさっきの質問に戻るのだ。
だが、少女の強固な態度に変わりはない。
例えどんなに華やかな橙色の街燈に照らされた笑顔が麗しくたって、……まぁ多少はふらつくが、絶対にだまされない覚悟を決めている為、意地で持って持ち堪えるのだ。
「ねぇ、いい加減答えてくれないと困るんだけど」
「知らないわよっ。助けてくれたことには感謝するけど、答える義理はないわ」
「あることにしてくれないかなぁ。俺一応君が名実共に『蹴って』来た酒場の常連なんだけど」
「その歳で?どう言う不良よ」
「……君、俺を何歳だと思ってる?」
段々ずれて来た質問に、少女は噛み付いた。
「知ーらーなーいーってばーーー!!!名前も知らないような奴の歳なんか知るかっての!!!」
その叫び声に、またもや周囲の目が集まる。裏道と違って、明るく善良な人々の通る道では、喧嘩張りの大音声は否応で目立ってしまうのだ。
(絶〜対っ、こいつ、この周りの反応を見越してここに引っ張ってきたなーーーーー!!?)
叫べば簡単なのだが、如何せん、諸事情ある為、悪目立ちはしたくない。
そんなこんなで恥じ入って小さくなる少女の様子を見て、暫し魔術師は思案する。
(この娘(こ)、どう言う身分の子だろうなぁ。身形は悪くないけどこの性格では――)
判別し難い。
背徳的な場所では平気で叫び散らすくせして、それでこうして、正常な人の目があれば恥ずかしがるのだ。だからと言って人を怖がる様子もない。
(――もう少し、突っついてみるか。どうやら楽しそうだし……厄介ごとが絡んでいそうだし)
そんな危ないことをさらりと考えて、魔術師はどんな攻め方をするのか、頭の中で組み立て始めた。
-3-
「――ねぇ」
暫しの沈黙の後の、何だか知らないが改まった呼びかけに、少女は無意識の内に視線を合わせてしまった。それだけの力が、この魔術師の声にはある。
それは言い換えれば、魅力。
ほとんど本能で惹かれてしまったものだから、後悔するには遅かった。
「ねえ」
彼はひたすら静かに言葉を紡ぐ。
だが、抗えない。
抑えつけられている訳でも、縛られている訳でもないのに、
何故か、身が竦んで動けなくなるのだ。
それはもしかすれば、彼の表情にも拠る物なのかもしれない。
……笑顔が消えた美貌は、恐ろしい程に凛々しく美しい。それこそ震え上がるまでに。
そうした冴えた表情で彼が囁いた言葉は、少女を一瞬で豹変させるに足る、推測。
「思うに……君は下町の子じゃない。そして、この国の子でもないね」
途端、
少女は動いた。
身軽さを生かし一瞬で間合いを詰めて、手刀で容赦なく首筋を狙う。
だがあらかじめ反撃は予測していた魔術師は、難なく振り上げた腕で避け、その受けた衝撃を全て、体ごと捻って背後へと受け流す。
「っ!」
なんとか転ぶことは踏鞴を踏むことで回避したが、構えは無様に崩れた。だが再び、冷たい煌きの青玉の瞳を睨み付ける。
(幾ら男だって、一対、一なら、何とか、なると、思ったのに、)
あの、完璧に力の方向性を生かした技は、並大抵の者に出来るものではない。
(やばい奴に、捕まったのかも、知れない――っ)
しかし魔術師は、それ以上の反撃はしない。それでも少女に間合いを取らせないようさり気なく距離を取りながら、淡々と言葉を紡いで行く。
「俺は考えてみたんだ。君の人間性について」
この騒ぎに、二人の周囲は遠巻きに人だかりが出来始める。
だがもう、今更少女は気にしない。
その態度でそれまでの推測を確信したかのように、魔術師はすっと瞳を細めた。
「最初は、あの口論や扉を蹴ると言った様子から、下町の娘だと思っていたけどね。それじゃついさっきまでの態度の説明がつかない。本当に毎日“そう言う”環境で育っているなら、ここで――明るい場所で、目立つのを躊躇う理由はないだろう」
暖色の明かりに、彼の目の青は微妙に明るく色彩を変え、なのにより鋭く剣呑に、閃く。
「そこで、俺は思ったんだ」
その瞳の奥まで、春の柔らい色彩は届いているのか、分からない。
ただ、少女を映しているのは、確か。
獲物を睨む猛禽のように、温かみのない、全てを射抜こうとするような――強い、視線で。
「どっちが本当の君なんだろう……って」
あからさまな敵意をぶつけていると言うのに、彼は冷静なままだ。
恐ろしく、冷たいまでに。
「でも君の身分を仮定して考えたら、その答えは自然と導き出せた」
二人の間に走る緊張感に、周囲の人々は自然押し黙る。
時の止まったかのような静寂。
それを、薄い絹を静かに裂くように破った、冷酷さえ感じさせる、鋭い声。
「下町に住む者達には見下した強情な態度を取り、それでも一般の人々への体裁は取り繕い、なのに貴族の令嬢のような淑やかさはない。そして、身の上の話になると強情に拒み、こうして真実に近付くことを言えば、素人とは思えない動きを見せる」
魔術師はその言葉の内に、右手を水平に上げる。そして少女の方向に、その掌を向けた。
「だがこの中に、普通、君の立場の人間が付けるべき仮面はない」
そこに生まれる、――紅蓮の焔。
「そうだろう?」
凍るような視線に射竦められ動けない少女に向かって、それは次第に紅々と輝く狼の姿を取る。
「……リスタシアの、シェルウィリス王女?」
その言葉を合図とするかのように、焔の狼は、少女――シェルウィリスに、牙を剥いた……。
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「本当に、厄介な拾い物をしちゃいましたかねぇ」
窓から吹き込む軽い春風に、物憂げなため息をつくと、すかさず愚痴気味に突っ込まれた。
「――お前はいつもそうだよな、無意識の内に俺の苦労を増やして行くんだよな」
「そんなこと言われましても」
優雅に朝の紅茶をすすりながら、魔術師は世継ぎの皇子と対面している。
本来対面と言えば、上座と下座、主君と臣下の位置にいるものなのだろうが、彼の場合はもう特例だ。一緒のテーブルに着いて一緒の茶を飲んでいる。王宮内では既にその扱いは皇族並である。
だが皇族方はこの魔術師を気に入っている為、宮仕えの者達も半分諦めている。
「それにしても、あんな子供に向かって炎術ぶちかますなんて、大人気ないぞシオン」
「そんなこと言われましても」
ついでに至極甘い焼き菓子を躊躇いもなく頬張り、幸せそうにほけほけと笑う。
とてもではないが……このシオン、正確に言えばヴェクサシオンが、昨晩の氷のような魔術師と同じ人物だとは誰も思わないだろう。
まあいつまでもふざけている訳にはいかず、多少は真面目に切り替わり、ヴェクサシオンは何度も繰り返した台詞をもう一度言葉にする。
「それは、散々いたぶるのは簡単でしたでしょう。王女は噂通りそうとう鍛えていましたが、やはり少女の力です。受け流し続ければ、いつかは倒れます。ですがそれも趣味が悪いでしょう。それなら一発脅かして気絶してもらった方が、気分的に楽ですから」
「いいや焔の狼だって充分趣味悪いと思う。 所で噂とは何だ?」
訝しげな皇子に、ヴェクサシオンは嫌がる様子もなく説明を始めた。前半部は都合よく“聞こえなかったこと”にしたらしい。
「ええそう、噂です。 元からリスタシアの王家には、あまり宜しくない噂があったことはご存知ですよね」
「あぁ……あの、王の謀反未遂だとか姫の誘拐未遂だとか」
その当時、よく周りの王家から『甘すぎる』と蔑まれた噂である。
「どうも、それが元々の原因らしくて。つまり安心な世継ぎが欲しくて、丁度それと頃合を同じくして生まれた姫を王城に殆ど閉じ込めて、帝王学から矜持から自尊心から武術から……とにかく何もかも徹底的に仕込んだ、と言う、噂です」
その言葉を聞いて、ミストの時期皇帝は半ば呆れたように呟いた。
「何だそれ」
「全くです」
いつの間にかおかわりまでしている紅茶にどさっと砂糖を入れてかき混ぜつつ、ヴェクサシオンは暢気に同意した。
「最初はあまりに馬鹿馬鹿しくて、俺も放っておいたんですけどね。――昨夜、王女に花街なんかで逢って、ふと思い出したんですよ、これ」
ほぼ砂糖の水溶液と化している紅茶に顔を引き攣らせる皇子の足を、衛兵に見られぬよう巧妙に蹴り飛ばし、魔術師は遠い目をして語る。
「恐らく、城に監禁状態なのにいい加減我慢がならなくて、何も考えずに飛び出して来たんでしょうけど。上品な衣を着けていてそれなりに可愛らしいくせに、喚き散らすし扉は蹴り飛ばすし夜の下町を突っ走るし、挙句素性を聞き出そうとちょっと突ついたら怒り狂って手刀落とそうとしたし……今考えれば、それも全てプライドのせいですかねぇ」
今日の空を穏やかに巡る暖風のような、掴み所のない、暢気過ぎる考察だった。
さて件のシェルウィリスはと言えば、客間と言う名の牢に軟禁されていた。部屋にはおおよそ武器となるような類いの物は一切なく、扉を一枚隔てた向こうには忠実な衛兵がいる。
とはいえ身分を考慮してか、呼べばすぐさま女官が駆け付けるし、欲しい物を言えば大抵揃えてくれる。
だが、『出してくれ』と『魔術師に逢わせろ』と言う要求だけは叶わない。今何より望むことはそれなのに。
(――ああでも私が悪いのよ。あそこで咄嗟に反撃しようとしなけりゃしらばっくれられたのよ。それによくよく考えれば、皇帝公認にまでなれる魔術師の売りが魔術だけじゃないなんて当たり前だったわ。何であそこでそれが武術だって気付かなかったんだろう!!! 馬鹿馬鹿馬鹿っ、私の馬鹿……!!)
幾ら後悔しても、事実が変わる訳ではないのは百も承知だが、その他のこと……例えば逃げ出してきた城のこと、これからの待遇のこと、どうやって生きて行くかなどを考えたくないから、昨夜の猛省をしているのだ。
……時を同じくして、ヴェクサシオンが自分をぼろくそに言い、尚且つ推理の域で自分がこの国にいる理由をずばり当てたことを知ったら、それも後悔の種になっただろうが。
(にしても、あの魔術師も魔術師なのよ!! 何で私が王女だって分かった途端、掌返す訳!?)
半ば八つ当たり気味な考えだが、疑問には変わりない。それに加え生国にいるのと何ら変わらない現状と言うのも腹立たしい。
結局、結論的には苛々が溜まってしまっただけなのだが。
シェルウィリスは思いっきり叫び散らした。
「あぁあもう何もかも腹立たしいっっっ!!! いい加減出てきなさいよあんのクソ戯けな魔術師いいいいいぃぃぃぃっっっっっーーーーーーーーーー!!!!!」
クソ戯けかどうかは置いておいくとして、この叫びで“噂”を思い出したヴェクサシオンもヴェクサシオンであり、まぁ普通に見ても分かるが相当変わり者だ。
叫ぶだけ叫んで、息が切れて、頭がくらくらしてくると、いい加減喉も枯れてきて、シェルウィリスは床に崩れ落ちる。
「ったく、私は王女の立場なんて捨ててきたつもりだってのに――世間様は分かってくれないものね」
窓から入る風に、淡く爽やかな花の香りが微かに含まれ、鼻腔をくすぐる。
(――いっそ、この身が、風の精霊ならよかった)
狭い窓枠を抜け、空を舞い、人の手の届かない、遥か彼方まで駆けて行ける、自由の象徴。
(って、待って、待ってよちょっと)
非現実的な妄想に、……彼女は、それまで考え付かなかったのが不思議な程の、脱走策を見つけた。
即ち、
「窓、から、出ればいいじゃない」。
シェルウィリスは黒曜石のような瞳を、柔らかく差し込む光に輝かせた。
しかし、窓の桟に足を掛けた途端……彼女は固まる。
「なっ……何よこの嫌がらせ的な高さは!?」
脱走どころではない、 ――この部屋は、目測だけで恐らく地上十階は超えている。
そのあまりの高さに、シェルウィリスは再び床に突っ伏す。だがすぐにすごい勢いで跳ね起きて、奥に見える見かけも質も重厚な扉を睨みつけた。
自分をここに運んだのだろう……青玉の瞳の魔術師の、最後に触れただろう、その扉を。
「……、そうよ、そうよね。あの性格悪の魔術師が、折角捕えた獲物を、みすみす逃がすような失態を犯す訳ないわよね! 私が考えそうなことだって、全部お見通しなのよね!!」
やけくそで、喉も裂けよとばかりに、喚く。
(もうっ、泣きたい――っ何で、何もかも私の思い通りにならないのよ――!!!)
どのように育ったとしても、何でも自分の思い通りになると信じ続けている、その考え方は間違いなく王女のものだった。
それが人生において大抵の場合間違いであることを知らない彼女は、必死で堪えながらも目が潤むのを止められない。傷付いた喉が漏らす嗚咽も留まらない。
だから、
気付かなかった。
……窓からそよいでくるものとは異質な、涼やかな風が、一陣室内に舞い上がったことに。
気付かないまま半泣きで、苛立ちに罵詈雑言を並べ立てる。
「あのクソ魔術師っ……あいつがあんなところにいなけりゃ、今頃私は自由だったのに!! ああもう一発殴んなきゃ気が済まないわ!! な……泣かせるし……っ!!」
「いや俺が助けなきゃ多分殺されてたし、第一泣いているのは俺のせいじゃないでしょ」
「違うもん!! 絶対、絶対魔術師のせいだもん!! わ、私は強いから泣かないもん――!!」
「この言い分、完璧にガキの独り善がりだよな、シオン」
「俺に話を振らないで下さい」
「ガキ言うなーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
ノリで叫んで、
そこでやっと、シェルウィリスは気付いた。
独りだった筈の室内に、昨夜の魔術師と、もう一人見知らぬ青年がいることに。
「全く、あれだけ派手な風の魔法陣にも気付かない程、怒り狂ってたとはねぇ」
そんなことをさも意外そうにほざく魔術師はともかくとして、その隣に立つ黒に近いような茶の髪の青年に、シェルウィリスは、何となく覚えがあった。
滅多に社交界に顔を出していなかったが、それでも王女として出たことがなかった訳ではない。おぼろげな過去の記憶を何とか辿って、やっと該当する人物が浮かぶ。
「……え、えっと……ミストの、次期皇帝の皇子……でしたっけ?」
「ご名答、リスタシアのじゃじゃ馬姫」
容赦のない皮肉は、ある意味シオンの攻め方よりも痛い。
だが薄氷のようなどこか緑がかった薄蒼の瞳は、面白そうにきらきらと輝いている。
「あぁだけど名前で呼んでくれ。実を言うとそう言う立場で来た訳じゃないから」
「は?それどう言う――」
「宮廷魔術師ヴェクサシオンの親友として来たってこと」
「軽々しく言わないで下さいよ、親友だなんて。それに皇子としての立場も捨ててもらっちゃ俺が困ります」
「ぼけなくせに妙に頭固いんだよお前は。俺だってふざけたい時はふざけたい」
「いつでも半分冗談で生きてるんじゃないですか、貴方は」
下らない言い争いに発展しそうな雰囲気に、シェルウィリスは流されそうになって、それで逆にこれじゃいけないと気付く。
……即ちこう考えたのだ、
(この空間でまともな思考回路をしているのは、きっと自分だけだ)
「ちょ、ちょっとまってよあんた達。私訳がわかんないのよ。第一何でここにくる訳? ……えっと、えーっと……」
その思わぬ苦境に救いを提供したのは皇子だ。
「名前か? この変な魔術師がシオン――正確に言えばヴェクサシオンで、俺がアルカス=ルーンだ。呼ぶときはアルカスでいい。ってかそれ以上縮めんな」
「何でいちいち俺を貶めなきゃ気が済まないんですか貴方は。と言うより、貴方はご自分の立場を捨ててきている訳じゃないんですから、言葉遣いはそれなりのものにして下さい」
「煩いな、小姑かお前は」
「そんなの返上しますよ、奔放過ぎる皇子に手を焼く役目は宮廷魔術師としてだけで充分です」
「……ちょっと」
「あーあーそうだよな、お前は所詮そう言う奴なんだよな。俺の基本的人権を無視して給料にだけ忠実な冷血漢なんだよな」
「それ以前に貴方は皇帝と臣下の心痛を考えてから人権の主張をして下さい」
「……ねぇ」
「人権は基本的に誰にでもあるんじゃないのか?」
「理論武装甘いですよ。第八代皇帝……曽祖父の祖父君が記した改定律書位全部読んだらどうですか? この国で人権の範疇に入るのは全ての“国民”であり、皇子は含まれません」
やはり延々と続く、内容こそ小難しいが実体としては単なる屁理屈に屁理屈を重ねた子供の喧嘩に、シェルウィリスは枯れた喉も無視して、大音声で叫んだ。
「あんた達、何しに来た訳!!? 煩いのよ、邪魔なのよ!! 用が無いならこの部屋の外で存分に喧嘩して頂戴、っっっこのクソ馬鹿共ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!」
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「ああいや、済まなかったなシェルウィリス嬢。シオンが全面的に悪いんだが、どうもこのように馬が合わなくてな」
「充分合ってると思いますっ! って言うか、それ以上噛み合ってどうすんのってくらいぴったりの馬鹿!!」
「……、微妙に、俺としては納得し兼ねる言葉なんですけどねぇ。まぁ喉を潤してください、姫君」
移動は魔法陣を使ったくせにどこから持ってきたのか、魔術師はティーセットを持ちこんでいる。
「ん。ありがたくもらっとく」
実際昨晩から叫びすぎで喉がびりびりしていた彼女は、素直に受け取り素直に口に入れた。
濃くて、仄かに甘い、恐らく香草の茶だ。喉を刺激することなく、すっと呼気を通してくれる。
……自国を飛び出すまでの王女としての生活でもついぞ飲んだことがない程、美味しい。
そんな表情が出たのか、アルカス皇子がにやにや笑いながら教えてくれた。
「美味いだろう?」
こくりと頷くと、ヴェクサシオンに聞こえない程度の声量で、悪戯げにこっそり囁かれる。
「実はな、それシオンが淹れた茶なんだよ。本当、毒舌だけは壊滅的状況のくせに、こんなことだけは上手いんだ」
途端に、アルカスの後頭に風の衝撃波が炸裂し、彼は前のめりになる。
仕掛けたのは無論、ヴェクサシオンだ。
「ったく何吹き込んでるんですか。いい加減にしないと褥に毒蛇仕掛けますよ」
そんな言葉の応酬に、思わずシェルウィリスは状況を忘れて笑った。
難だかんだ言いながら、この青年二人がやはりこの上もなく噛み合っているのを感じたからだ。
「さて、王女様も落ち着いたようですし、本題に入りますかねぇ」
その間何やら影で作業をしていたヴェクサシオンが、輝かんばかりの満足げな微笑みで振り返った。……きっと褥に仕掛ける毒蛇を用意していたに違いない。
「実は、俺的に言えば、姫――いや、シェルウィリスは、ここに留まるだけ無駄だと思うんだよね」
口調を崩した魔術師は、存外幼く見える。
そう言えば年齢を聞きそびれていたことにシェルウィリスは気付いたが、取り敢えず保留しておくことにした。
何しろ、彼の言葉は、今の自分にとって何よりも魅力的な希望だったからだ。
「それってつまり、晴れて私は自由の身ってこと!?」
「いや、……シオンが言っているのは用無しと言う意味だろ?」
二人の言葉に、ヴェクサシオンは穏やかな微笑みを崩さず、答える。
「二人とも、俺が提示したものの一面を捉えているけど、それは決して全体じゃない」
朝のまだ昇りきらない陽光に透けると、彼の髪はやはり銀に近く染まる。
(あーあこんなとこでタメ作るような性格の悪さじゃなきゃ、素直に見蕩れてやれるのに。つくづく惜しい、と言うかどうでもいいからさっさと話しなさいよ)
手酌で絶品の茶を飲み干しつつ、自分でも少々短気だと自覚している王女様は素直に苛つく。
それを感じ取ったのかどうかは知らないが、魔術師はゆっくり語り出す。
「まず、シェルウィリスの自由の身って言葉だけど、それは、まぁ確かに自由だ。ここから出るときは、もう君は王女じゃない。俺の知り合いの、旅の娘になる。……だけど、それで晴れて自由とはならない。何せ、世間と言うものを学習しなければならない」
思わず言葉に詰まるシェルウィリスを一瞥して、ヴェクサシオンは淀みなく言葉を紡ぐ。
「だってしょうがないだろう。これからは人の上に立つ身分じゃないんだから。人の見方、関わり方が根本から変わってくる。君の性格からして、それを時間が覚えさせるということは絶対にない」
「悪かったわね、世間知らずで!!」
悔し紛れの怒声はあっさり無視された。
「さて、アルカスの考察だが。流石次期皇帝だけあって、完全に国政の有り様を捉えていると思う。確かに、王女の身柄を差し出したとしても、リスタシアにとって、半年前に家出した姫が切り札になるとは思えないな。もしなるんだったら、この半年間もっと大仰に騒いでいた筈だ。だから、ある一面から見れば、その考察は限りなく正解だ。だけどそれが全てでもない」
「やっぱりか」
皇子はその答えを承知していたらしい。
「お前は政治で動く奴じゃないことは、よぅく知っていたからな。だろ、シオン?」
「まあね」
「じゃあ、全てじゃないのなら、その残りは何?」
シェルウィリスの尤もな疑問には、アルカスが答える。
「んー……俺の勘で言うと、……好奇心、だろうな」
「好奇心――?」
「そうだ。シオンの、好奇心」
いまいち理解の出来ない様子の彼女に、アルカスは「お前の心だろうが」とヴェクサシオンに残りの答弁を押し付ける。
「ちょっと待て、勝手に説明を始めたのはお前だろうが。何で今更俺が肩代わりしなきゃいけないんだよ」
「そりゃ、本人の言葉の方が、想いってのは伝わりやすいだろ?」
「勝手なこと言いやがって……」
だがやがて観念したのか、魔術師はシェルウィリスに向かって言った。
「まあね。……こいつの言う通り、政治的差し引き以外は、殆ど俺の好奇心だ」
「何に対する好奇心なのよ?」
さらに踏み込む彼女に、ヴェクサシオンはほんの少しだけ逡巡するように眉根を寄せる。しかし、瞬き一つで、自然な魅力が滲み出る、あの絶品の笑顔を浮かべた。
その表情に、さっきまで散々毒づいていたことも忘れて、シェルウィリスは心を跳ねさせた。
殆ど無意識に心臓を押さえる彼女を、まるで珍しい宝石であるように、眩しげに眺めて、魔術師は、歌うように言葉を繋ぐ。
「――今は“こう言う”姫君が、人生をどこまで思い通りに進めるのかに対する、……好奇心、かな」
-6-
風。
一歩を踏み出して、シェルウィリスが感じたのは、それだ。
遙か遠くへと駆け抜けていく、強い、強い風。
微かに冷たいそれに白金色の長髪を巻き上げられて、でも、その力に逆らうこともせず、そのままさらさらと流して。
先へと流れる、風。
膨らむ自由への希望に、彼女は思いっきり伸びをした。
(もう、私を縛るものは、何もない)
王女の立場も。
この城の囚われ人の立場も。
塔から外へ出た瞬間、全て風が攫って行った。
嬉しさに、思いっきり、空の彼方へと届くように、高らかに声を響かせる。
「私は、自由――!!」
心躍る、この言葉。
自由。
あぁ、何て素敵な響き。
……そうして酔い痴れるシェルウィリスに、冷静な突っ込みが入る。
「だから、完全な自由なんかじゃないって。何度言ったら分かる? 君はまだ学ばなければならないことがあるんだってば」
「――あーもううっさいわよ!! んなの分かったから!! いいじゃない浸る位!!」
決して絶世の美女ではない彼女から見れば憎たらしいくらい美形な、しかしそれ以上に謎な魔術師、ヴェクサシオンである。
「はいはい、分かった分かった。どうでもいいけど、はい」
明らかに適当に流されて、その上で何かを差し出される。咄嗟に受け取って、それを確認すれば――
「……リボン?」
滑らかな絹の、漆黒のリボンだ。
「これ、どうしろって?」
首を傾げると、軽く苦笑されて、渡すようにと手を出された。
「こうして使うように、って、つもりだったんだけど……ね」
言葉の内に背後に回り込まれて、抗議の暇もなく、髪を梳られる。
「っ!? なっ、何!?」
「髪、結ばなきゃ。言っとくけど長い髪なんて旅路では邪魔でしかないし、第一背に流しているなんて、自分では何もしない王族位のものだよ」
ひやりとした指先が時々うなじに触れて、シェルウィリスはまた無駄にどきどきする。
(いい加減っ、こいつも自分の容姿を考えて行動してくれないーーーーーーーー!?)
これだけ整った顔だと、いくら性格が飄々としすぎていて難でも、一応それなりに年頃の乙女としてはときめいてしまうではないか。
そんな内面はどうやら気にしない……と言うか、気付いてすらいない人間らしいヴェクサシオンは、さっさとリボンを結ぶ。そして正面に回って、満足げに言った。
「……、うん、完璧。綺麗綺麗」
「しっ、白々しい賞賛やめてよね!!」
「あ、別に君褒めた訳じゃなくて、俺の結び方が綺麗だって自画自賛なんだけどさ」
(――――紛らわしいっちゅーに!!!!!!!!!)
怒髪天をつきそうになるが、この魔術師の前では何事も無意味だと悟って、溜めた息を細く吐き出すだけに留め置いた。
(もう、いいのよ。こいつはこう言う人間なのよ。自称する自画自賛に何の躊躇いもない嫌味な――って言うのも何か違うんだけど……)
どうしようもない思考の深淵に陥りそうになって、シェルウィリスは考えるのを止めてしまう。
結局、果てしなくマイペースなのだ。恐らくは。
「……ねぇ、そんなことはどうでもいいのよ。……って言うかそれ以前に旅って言うけど、何が必要なの?」
その台詞に、ヴェクサシオンは驚いたように、青玉の瞳を見開いた。そう言えばまだ何歳なのか聞いていないが、大人のくせに、やはり妙に幼い。
(かっこいいんだけどさ)
そんな行動の不可解さに眉を顰めつつも、なんとなくそんなことを考えていた。
だから、……彼が一瞬酷く疲れたような表情をしたのを、見逃した。
「あのさぁシェール、君一体どうやってリスタシアから逃げおおせたの?」
「は? 何で今更そんなこと――。あれは『家出』だもん。『旅』じゃないもん」
(この、自覚のない完全な王女め……)
言ったら彼女が怒り狂いそうな言葉は、ヴェクサシオンはちゃっかりと飲み込んでおく。
「言い方が悪かったか。じゃあ、一体どうやって、ミストまで移動してきたの?」
「えーと? 別に、普通に」
(王女の普通なんか、普通に世間から見れば非常識だってば)
非常にそれを指摘したい衝動に駆られたが、やっぱり怒り狂いそうなのでやめておいた。
「いや普通って言われても、分かんないんだけど。俺王族の常識にそんなに慣れてないし」
当たり障りのない言葉を捏造する辺り、彼の彼たる飄々とした部分だろう。
その問いに、シェルウィリスはあっけらかんと答える。
「ふーん? 決まってるわ、金子掴ませて馬車乗り継ぎよ。ミストは平和でいい国って聞いたことあるから来たんだけど、やっぱりちょっと苦労したわね」
(――、やばい何言ったらいいのか分からなくなって来た)
ミストが大陸南西に位置するのに対して、リスタシアは大陸中央部近郊の国だ。そんなに遠い距離ではないが、馬車で移動なんて言う近い距離でもない。第一そんな金、持ち運んでいてよくぞ盗まれなかったものだ。
そのあまりの世間知らずぶりに、ヴェクサシオンは何から教えるべきか頭を抱える。そんな様子の理由も、シェルウィリスには気付かないらしい。結ってやった髪を、しきりに触って確かめている。
(この娘絶対、野放しにしてはいけないな……)
いつどこで誰に捕まり騙され殺されるか、分かったものではない。
(本当に、厄介な拾い物をしたかも)
だが、過ぎた時は戻りはしない。この世間知らずの元気娘を野放しにする危険性に比べれば、その後悔も無意味に変わる。
(これも、運命か)
こんな所でそんな場違いな言葉が思いついて、しかしそれ以外に考え付くことはなかったから。
重くなりつつある思考を、極力軽い溜息に変換したのだった。
だがシェルウィリスにしてみれば、折角話して『あげている』のに急に黙り込んだヴェクサシオンが気に入らない。
「ねぇねぇねぇ! 人が聞いてるんだから答えなさいよー!!」
「誰のせいだ、誰の」
思わず呟くが、運良く聞こえなかったらしい。幸運に感謝したい。
相変わらず、彼女は黒曜石の瞳をきつく閃かせて、答えろとせがんでいる。
「……あぁ、はいはい。俺の場合必要なのは、最低限の金と護身の剣と、いざと言うときの為の皇子の署名あとは旅装」
「それだけ?」
「“それだけ”って、これ以上なにを用意しろって?」
「着替えは?」
「必要になったらどっかで買う」
「食べ物は?」
「右に同じ」
「えっと、じゃあ、何か書くものとか……」
「見聞旅行する訳じゃないんだから」
まだ何か言おうとするシェルウィリスを手で制して、いい加減うんざりしてきたヴェクサシオンは一気に捲し立てた。
「大体君は一定の場所に留まりたくないから旅をするんだろう? 目的は進むことだ。なら身軽であるに越したことはない。勿論快適な生活なんて望むべくもないし、金だって途中で稼がなければならない。それが分かっているのか? シェルウィリス」
再び氷の眼差しとなった魔術師に、シェルウィリスは萎縮した。
体に何の損傷もなくても、あの冷たい瞳と焔の狼に牙を剥かれた衝撃は相当だったのだ。
「……わ、分かった……」
その怯えが、もろに表情に表れていたのだろうか。
ヴェクサシオンは、安心させるように、小さく、優しく微笑んだ。
「ごめんごめん。ちょっと脅してしまったみたいだ。シェールは何も知らないんだものな」
ぽんぽんと軽く頭を叩かれて、そんな子供扱いが微妙に屈辱的で、反射的に、シェルウィリスはヴェクサシオンの手を払い落とす。そして、そのことに真っ赤になった。
(こ、これって、この扱い嫌がるって、ガキってことを認めてるってことじゃないーーー!!!!)
だがそんなこと、ヴェクサシオンは気にしていない。この姫の性格からして絶対に叩き落すと予感していたからだ。
(思考回路、単純そうだもんなぁ。間合いを取る時も駆け引きするより突っ込む方だしなぁ)
旅路が不安と楽しさで構成されるだろうことは、ヴェクサシオンの中ではほぼ確定だ。
-7-
「んじゃ、これで完璧?」
嬉しげに問うシェルウィリスに、一日買い物に付き合ったヴェクサシオンはうんざりと答える。
「あぁはいはい、大丈夫大丈夫。それでもう少し言動が慎ましやかなら完璧」
「何よそれっ!! その明らかに適当な反応は!!」
怒鳴り声にも目を閉じることで応えた。
何しろこの姫君は、『じゃあ、必要なものを買いに行くわよ!』と問答無用で魔術師を引っ張っていったのだ。勿論荷物持ちとして。
それが何とも下手くそな買い物のしかたで、言い値にそのまま金を出そうとするわ、薦められたものはとにかく手に取るわ、いいものの選び方なんて何にも知らないわで――
それの救済に全労力を費やさせておきながら、その上身につけたときの見た目のチェックまでしろとはあまりにも酷だ。
とまぁ、ヴェクサシオンにしてみればそうなのだが。
「全くもう!! 人が折角聞いてあげてるのにさ!」
もういい、と頭の後ろで髪を翻らせ、シェルウィリスは姿見に視線を戻す。
(我ながら、なかなかじゃない)
自己満足だと感じつつも、そう思うのだ。
上は黒の、首まで隠れる柔らかな布の衣で、それに重ねるのは袖のつくりの大きな、薄藍の織物の衣だ。
スカートは膝上の短いものだが、その下に体にぴったりとしたとても短いズボンを着けているから安心して暴れられる。
膝から下には布を巻いて、靴は短めの柔らかな編み上げのブーツ。
腰に巻いた少し緩めのベルトには、使い慣れた短剣が差してある。唯一国から持ってきたものだ。
多少差し引いて見ても、充分似合っていると思うのだが。
(なのに、何でこいつは何の反応もしない訳!? これだけ可愛い私を見ておきながら!!)
明日の朝になれば、別れだと言うのに。
だがそんな感慨など欠片もないらしく、ヴェクサシオンは苦く眉根を寄せて呟く。
「じゃあ俺もう帰っていい? 疲れた……」
「情けないわね。歳なのかしら?」
「だから君は俺を何歳だと思ってるんだ一体」
覇気も抑揚もない声に、はたとシェルウィリスは気付いた。
「そう言えばそうよね。シオンあんた何歳?」
何度も何度も疑問にしておきながら、その度聞き忘れていたことを思い出す。
だがその何回かは自分から切り出したくせに、ヴェクサシオンは平然と言った。
「んー? ……何歳だと思う?」
「……まどろっこしく時間かけてんじゃないわよ!! 私が聞いてるの、わーたーしーがーーー!!!」
ぶち切れたシェルウィリスに、ヴェクサシオンは溜息一つ、装うことのない言葉を発した。
「十九」
有り得ないその言葉に、シェルウィリスは滑って転びそうになり、思わずたたらを踏む。
「嘘っ!?」
「いや嘘つく必要ないし」
「だって、だってだってどう見たって、絶対絶対二十以上に見えるしっ! だっ、第一、酒場の常連だって……!!!」
その混乱した言葉に、やっと魔術師は疲労ゆえの失言に気付いた。
「あー……うん、まぁ。……嘘と言うことに、して欲しいんだけどなー……」
引き攣った笑顔の言葉に、しかしシェルウィリスは騙されない。
「嘘じゃないでしょー!!? あんたが誤解を自ら解くことなんて有り得ないもん!!」
「うー、えっと」
「何!? 何でどうやって!!? なんで私と四歳違いのくせに!? 誰がどう見ても皇子より年上だったでしょ!? だって、待ってよ皇子は二十二でしょーーーーー!!?」
いよいよ言い逃れ出来なくなってきた。
「ねぇねぇねぇ!! 何で何で何で!!? その顔で何で、二十も行ってないのよ!!!! ってか皇子はそれ知ってんの!? もしかして秘密なの!!? ねぇねぇねぇねぇねぇ!!!!!!!」
放っておけば永遠にこのテンションを保ちつつ叫び続けそうなシェルウィリスに、ヴェクサシオンは黙秘を諦めた。
「――うん、えっと。 俺は、十九です。なのにこの容姿だって言うのには、それなりにややこしい理由があります。そして、この事実を知っているのは、これまではアルカスだけでした」
やけくそのように淡々と敬語で語る彼に、シェルウィリスはきらきらと瞳を輝かせた。意趣返しの理由が、転がり込んで来たからだ。
「その理由って、何よ!」
「……嬉しげに聞かれることじゃないことは確か」
「そりゃそうよね、あんたが言葉に詰まるんだから!」
最早、おいしいネタを掴んだ彼女は活き活きとしてすらいる。
旅立ちの前夜は、(ヴェクサシオンにしてみれば、頭痛がするまでに)賑やかになる予感がしていた。
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■作者からのメッセージ
さてさてさて、シェールはまだ旅立ちません(爆
何しろ、謎な魔術師の実年齢と言う決して放り出せない疑問が解けそうなのですから。
彼の年齢と外見の謎にどういう理由があるかと言うと、……うーん、それはまた次回で!(←性悪のキャラを作る自身も充分性悪です)