- 『真夏のクリスマス』 作者:渚 / 恋愛小説 恋愛小説
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原稿用紙約52.5枚
朝から、もう何回携帯を開いただろう。目を閉じても平気なぐらい、指がその単調な動きを覚えてしまった。左上の封筒のボタンを押す。一番上の受信ボックスを開く。4桁のパスワードを入力する。新着メールはない。一つ戻って、センターに問い合わせする。「新着メールはありません」の文字。ため息をついてメニューボタンにもどし、携帯を閉じる。
何の連絡もない。もう4ヶ月になるだろうか。最後にあったのは、クリスマス。街にはイルミネーションがされて、あちこちからクリスマスソングが流れていた。そんな中を歩いた。大好きな人と腕を組んで。
彼とは、もう二度と会えないんだろうか。
真夏のクリスマス
朝目覚めたら、泣いていた。つんと目の奥が痛い。鼻をすすりながら起き上がった。最近、朝が嫌いになった。目が覚めるのが怖い。いつまでも、やわらかい夢の中にいたい。目覚めを拒否する者に、どんな生きる価値があるというのだろう。
気がつくと、枕もとの携帯に手が伸びていた。半年近く、毎日10回はしている指の動きを繰り返す。あんまりやりすぎているせいか、ボタンが少しへこんで直らなくなってしまった。
「新着メールはありません」
頬につっと、涙が伝うのがわかった。無駄だとわかってるのに、やめることができない。余計傷つくくせに、わずかな期待を拭い去ることができない。
こぶしで涙を拭いながら、今度は電話帳を開いた。一番上に乗っている、あいつの名前。あたしが、この半年間待ち続けている、彼の名前。消してしまおうと、何度も思った。どうせアドレスも番号も変えられていて、ここに登録してあるのじゃ連絡はつかないのだ。そうわかっていても、できなかった。これを消してしまえば、彼との繋がりは、もうすべてなくなってしまうような気がして。
あたしはふっと笑った。きっと、すごく自虐的な笑み。こんなもの消さなくても、もうとっくに彼との繋がりはなくなっているのだ。そう思うと、悲しくて空しくて情けなくて、携帯をベットの上に投げつけた。
のろのろと立ち上がり、洗面台の前に立つ。鏡に映る自分の姿を見た途端、体の力が抜けた。ひどい姿。目は赤く充血して腫れている。ぜんぜん手入れをしていない髪は水気を失ってぱさぱさになり、涙で顔に張り付いている。もともと痩せ型なのにこの半年で8キロもやせてしまい、顎はとがり、鎖骨が飛び出している。骨が出っ張った肩からブラウスが滑り落ちそうだ。
それだって十分ひどいが、もっと嫌なのは、「声」が聞こえるからだ。私の目が、心が、体が、すべてが叫んでいる。彼を求めている。
そんな自分を見るのも嫌で、あわてて蛇口をひねり、顔を洗った。
『もしもし、恭子?どうしたの?お母さん何度も電話したのに』
「気付かなかった」
『嘘言うんじゃないわよ。あんなに何度もかけて気付かないわけないでしょう?』
「ホントよ。用それだけなら、もう切るよ」
『こら恭子、待ちなさ――』
母の言葉を最後まで聞かずに乱暴に電話を切る。いらいらとため息をついて、また横になる。確かに母は何度も電話をしてきていた。もちろん気付いてたが、あたしは受信拒否した。携帯がなるたび、不在着信があるたびに、心臓が千切れそうなぐらい鼓動は高まった。彼からの連絡かと震える指で携帯を見てみると、母から。今度は胸がはちきれそうなぐらいの空しさが溢れてくる。それが耐え切れなくて、連絡手段を絶ったのだ。だが、家の電話はそこまで性能が良くない。母は一人暮らししているマンションのほうに電話をかけてきた。母は心配してくれているのだ。わかってる。わかってるけど、今は彼以外からの電話は、苦痛なだけだった
あたしは黙って電話線を抜いた。彼からの連絡はいつも携帯にだ。彼以外からの連絡は、何の価値も持っていなかった。
あたしと彼を繋ぐ物。いや、繋いでいるとはいえないのかもしれない。あたしが一方的に見るだけだ。あたしの恋人――いや、元彼というべきなのかもしれない――は、いまや、トップアイドルなのだ。彼の名は澤田直樹。彼の姿をテレビやラジオで見かけない日はほとんどない。CDを出せば初登場一位。ドラマに出れば高視聴率を維持。コンサートをすれば、ドームは人でいっぱい。この半年ほどで、彼はあたしの手が届かないぐり、遠い人になってしまった。
今日の歌番組に、直樹が出る。新聞のテレビ欄に彼の名前を見つけてから、たっぷり5分はそこで目が止まった。ドクンドクンと鼓動が聞こえる。直樹。スポットライトの下で輝いている直樹。見たい。はじめはそう思った。でも、そんな希望はいろいろな感情で真っ黒に塗りつぶされていく。彼を見れば、きっとまた辛くなる。体を内側から引きちぎられるような、あの痛み。今までも何度もテレビで彼を見ては、その痛みを味わった。その度にもうこれからは見ない、そう決心するのに、それはいつも脆くも崩れ落ちてしまう。 そんなことを思ってるうちに、いつの間にかベットに腰掛け、リモコンに手を伸ばしていた。ああ、結局見ちゃうんだ…そんな風に思いながら電源を入れた瞬間、直樹が映った。心臓が飛び上がるのがわかる。あたしは画面越しの愛しい人の姿に見入った。髪はスタイリストにきちんとセットされ、顔もメイクされてはいるが、彼は変わっていない。笑うと少し下がる目尻。少しかすれたような、独特の優しい声。日本人にしては茶色っぽい大きな二重の瞳。半年前と何一つ変わっていない。
「直樹……」
無意識のうちに言葉が零れる。思わず立ち上がって画面に手をついた。直樹は司会者と話しながら笑っている。半開きになったあたしの唇から震える声がでてくる。
「直樹」
彼は反応しない。当たり前だ。これだって録画なんだから。直樹が気付くはずない。それでも、あたしはやめられなかった。
「直樹」
あたしを見て……。
声は、届かない。
トークが終わり、直樹が歌い始めた。優しい、甘いハスキーボイス。目を閉じて、そっとささやく様に歌うのも、変わっていない。あたしは画面に鼻が付きそうなぐらい顔を近づけた。性能の悪いテレビの中で、荒い粒子で直樹が描かれている。あたしは貪欲に、彼を求めた。
曲はほんの3分ほどで終わった。歌い終わった直樹が少し照れくさそうに笑うと、黄色い歓声が起こる。客席の女の子が直樹の名前を呼ぶ。直樹はそれに優しく手を振り返した。
その瞬間、膝の力が抜け、その場にぺたんと座り込んだ。涙があふれてきて、止まらない。あたしは両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。彼はもう、あたしだけのものじゃないんだ。かつては、彼の名前を呼ぶのも、彼の優しい笑顔を見るのも、あたしだけだった。直樹も、あたしだけのために歌を歌い、あたしだけに笑顔を向けてくれた。でも、今はもう違うんだ。
直樹と知り合ったのは、17歳のときだった。友達に誘われた合コンでたまたま出会った。偶然とはすごいものだな、と今でも思う。あたしの友達も直樹の友達もすごい盛り上がってて、引っ込み思案なあたしにはちょっとついていけないものがあった。直樹は集まった男の子の中では、ダントツにかっこよかった。友達は直樹に群がり、アドレスやら番号やらを書いた付箋を押し付けていた。直樹は困惑していたが、それでも笑顔でそれをすべて受け取っていた。直樹は顔は最高に良かった。が、不器用だった。女の子に何か言われても曖昧に返事を返し、おもしろいことなんかひとつも言えない。そのうち女の子たちは少し顔のランクは下がっても、話し上手な男の子のほうに行ってしまった。そのときの直樹の顔は、今でもよく覚えている。寂しそうな、でも、相手をいたわるような笑顔。その顔を見た途端、あたしはふらふらと直樹に近づいてしまった。何か、磁力のようなものが強烈にあたしをひきつけたのだ。そのとき、別段可愛くもなく、直樹と同じで不器用なあたしは全然他の男の子から相手にされていなかった。
あたしが近づくと、直樹は優しい笑顔を向けてくれた。あたしはちょっとためらったが、直樹の隣に腰を下ろした。直樹は別に嫌がりもせずに話しかけてきた。
「君、名前なんていうの?」
「相野恭子。あなたは?」
「俺?澤田直樹。よろしく」
彼はまた微笑んだ。あたしも不器用ながらも、微笑んだ。このときの笑顔は、あたしの生涯の中で、一番いい笑顔じゃないかと思う。
そのあとは、あたしたちはちょっとずつ話し続けた。二人とも決して喋り上手じゃなかったけど、とても穏やかな空気だった。緩やかに、滑るように言葉が出てくる。直樹は話すのは下手だけど、聞き上手だった。常に少し微笑みながら、話の腰を折るようなことはせずに、小さく頷いている。口下手なあたしでも、彼となら会話が続いた。その日は他愛ない話を一時間ほどし、お互いにアドレスと番号を交換して別れた。
きっと、これで終わってしまうんだろうなと思ってた。あたしから直樹にメールしたり電話したりする度胸はなかった。別に直樹だって、こんな特に何の取り柄もない女なんか、すぐに忘れてしまうだろう。彼は不器用だけど優しいし、顔もいいからもっとふさわしい女の子と見つけるだろう。あたしは彼と恋人になりたい、なんて少しも思わなかった。いや、思っていなかったといえば少し違うけど、なれるわけないと思ってたから努力する気もなかった。彼のことはいい思い出として、胸の中と携帯の電話帳の中にしまっておくつもりだった。
何の連絡もないまま、一年が過ぎた。あたしは彼氏なんかできないまま、受験勉強に没頭するようになった。そろそろ追い込み、という夏休みだ、彼から突然連絡があったのは。数学の問題集をぼんやりと眺めていたら、カバンの中で携帯がなった。誰だろうと少し疑問に思いながら出してみると、直樹からの電話。正直言って、焦った。淡い思い出として心の中で存在していた彼が、急に電話してきた。死んだ人が急に目の前に現れたような感覚だった。震える手で電話を取ると、一年前と変わらない、独特な声が耳に飛び込んできた。
『ごめん、急に電話してさ、迷惑だった?』
「…ううん、全然」
『なら良かった。あのさ、今時間大丈夫?』
「うん」
『じゃあさ、今から会えるかな?』
いまいち信じられないまま、あたしは電車に揺られていた。今から会いたい?また何で?頭の中でいろんな思いがぐるぐると渦巻いている。久しぶりに会えるという高揚感。緊張。照れくささ。ぼんやりとしているうちに、あっという間に待ち合わせ場所に着いた。直樹は、すぐに見つかった。彼はきょろきょろとしていたが、あたしを見ると嬉しそうに笑い、手を振った。あたしも小さく手を振った。彼は背中にギターケースを担いで、駆け寄ってきた。あたしの前で立ち止まり、また微笑む。
「久しぶり」
「うん」
「髪伸びたねー」
「うん。伸ばしてるんだ」
「そっか」
「直樹君も、背伸びたね」
「うん、今成長期なんだこの一年で7センチ伸びた」
「今成長期?なんかゆっくりだね」
「そう?」
「うん。あたし小5だった」
「えー、そっちが早いんだって」
緩やかに流れる会話。一年前と変わらない心地よさだった。しばらくそんな他愛ない会話をしていたが、あたしはさりげなく話題を今日の用事に持っていった(いや、多分全然さりげなくではなかった。何度も言うがあたしは不器用なのだ)。直樹はああ、といって少し恥ずかしそうに笑った。
「あのさ、俺、ミュージシャン目指してんだ」
「ミュージシャンって、あの、テレビとかにでてる?」
「うん。まあ、今は自分で曲作って事務所に売り込んでんだけど、なかなか認められなくてさ」
直樹は照れくさそうに頭をかいた。
「それでさ、今回また曲作ったんだけど、モデルが恭子ちゃんなんだよね」
「あたし!?」
思わず大きな声を出してしまった。それぐらい意外だったのだ。こんな、特になんの目立つところもないあたしを、どうやって歌にしたんだろう?
「一年前にさ、いろいろ話したじゃん。あのときのことをモチーフに、ね」
「…………」
黙ってうつむいてしまったあたしを見て、直樹はあわてたようだった。どうやら、嫌がってるとかそういう風に見られたらしい。
「ごめん、勝手につくっちゃって。聞くべきだとは思ったんだけど、いっといて結局だめだったら悪いし、だから……」
直樹はかなりあわてていた。あたしはそれがおかしくて、思わず笑ってしまった。それを見て、ずっと喋っていた直樹は話すのをやめた。怪訝そうにあたしを見ている。
「…全然、嫌なんかじゃないよ?嬉しい」
「ほんと?」
「うん。あたしのことなんか、きっともう忘れてると思ってた」
「まさか!!」
直樹は大袈裟に言った。いや、大袈裟に見えるけど、きっと本人はまじめだったんだろう。
「全然忘れてないよ。あの時話したこと、すっげー覚えてるもん」
「ほんと?」
「うん。この一年、ずっと恭子ちゃんのこと考えて……」
そこまで言って、直樹はぴたりと言葉を止めた。見る見る直樹の顔が赤くなっていく。その前に立っているあたしの顔も、同じぐらい真っ赤だった。別に直樹は好きとかそういう意味で言ったんじゃなかったんだろうけど、不器用なあたしたちにはそんな微妙な狭間の言葉は禁句だ。
「…えっと」
直樹はその場の気まずい雰囲気を消すように小さく咳払いした。
「それで…この曲が結構事務所に好評でさ。次の曲しだいでは、CDデビューさせてくれるらしいんだ」
「ホント!?すごいね、おめでとう」
「ありがとう」
直樹はにっと笑った。すごく綺麗な笑み。気付いたときには、口から言葉が零れ落ちていた。
「直樹君て、笑うの上手だよね」
直樹は一瞬意味がわからないような顔をしたが、やがて少し苦笑した。
「そんなの言われたの初めてだよ」
「あ、別に皮肉じゃないよ?ただ、直樹君喋るのとかはだめなのに、笑うのはすごく、なんていうか、慣れてる?って感じがする」
「そう?」
「うん」
直樹は少し首をかしげて考えていたが、やがてまいっかと呟き、またあたしに視線を戻した。
「まあ、今日はその報告だけ」
「あれ、歌ってくれないの?そのためにギター持ってるんだと思ってたのに」
「ええ!?やだよ、すっげー恥ずかしいもん」
「ケチ」
「はは。またさ、デビュー決まったら連絡するよ」
「うん。がんばってね」
「おう。悪かったな、わざわざ呼び出して」
「ううん」
「送ってくよ」
「うん」
この時、正直言って辛かった。また次の曲ができるまで直樹はきっと連絡してこないだろう。曲がいつできるかもわからない。あたしは自分自身に少し驚いていた。ほんの数時間前まで直樹はただの思い出だったし、それだけで十分だと思っていた。でも、今はもっと一緒にいたいと思っている。そういう感情がどういうものなのか、いくら不器用なあたしでもわかっていた。こういうのを、恋って言うんだ。
直樹は特に変わった様子もなく、いつものように喋っている。あたしも努めて普通に接した。このまま、何の変化もなく、途方もなく次の直樹からの連絡を待つ。考えるだけでも辛かった。
そんな風にぼんやり考えていた所為で、電車が少しよろけたときに、あたしは足をもつれさせ、大きくよろけた。転ぶ……!!そう思ったとき、誰かがあたしの腕をがっしり掴んだ。直樹だった。彼はそのままあたしの腕を引っ張り、あたしは体勢を持ち直した。直樹は何も言わずに、あたしの背中に手を当てて、支えてくれた。混んでいる電車の中であたしと直樹はぴったりと密着していた。あたしの顔がちょうど直樹の胸で、彼の鼓動が小さく聞こえた。相手にあたしの鼓動が聞こえていませんように…こっそりと祈った。心臓はものすごい勢いで脈打っていたから。
なんとなく黙ったまま、あたしたちはあたしの最寄り駅まで電車に揺られていった。
「こっからはいいよ。まだ明るいし、一人で大丈夫」
「そう?」
「うん。ここまでありがと」
「いえいえ」
「曲作り、がんばってね」
「うん。じゃあ……」
直樹は小さく手を振り、あたしに背を向けた。ホームで電車を待っている直樹。男の子にしては少し長めの髪が、電車が通過するたびにさらっとゆれる。あたしは切符を握り締めてただ突っ立っていたが、電車がホームに入り、いよいよ直樹が電車に乗ってしまう、というときに意を決して彼を呼んだ。直樹は怪訝そうにあたしを振り返った。あたしは小さく深呼吸をし、できる限りの笑顔を浮かべていった。
「…また、メールするから」
直樹はしばらくただ黙ってあたしを見ていたが、やがてふんわりと微笑んだ。おう、と手を上げて答えた瞬間、電車のドアが閉まった。ゆっくりと流れて行く彼の背中を見送るあたしの火照った顔を、冷たい風が撫でていった。それでも火照りは全然収まらない。
もっとあの笑顔が見たい。もっとあの声が聞きたい。そう思った。
「恭子……」
久しぶりにあたしの顔を見た朋美は、絶句してあたしの体を見回した。まあ、無理もないだろう。すっかりやつれ果ててしまったのだから。あたしは皮肉っぽい笑みを浮かべた。直樹といたときのような笑みが、どうしてもできない。
「びっくりした?」
「…うん、すごく」
「だいぶ痩せたからね」
朋美は哀れむような上目遣いであたしを見ながら紅茶を一口飲んだ。喫茶店の中はコーヒーのにおいとバニラのにおいが交じり合った、妙な香りが漂っていた。
「…やっぱり…直樹君のことで……?」
あたしは黙って視線をテーブルに落とした。これだけでも、向こうには十分伝わるだろう。朋美はあたしと直樹のことを知っている、数少ない人だ。あの時、合コンに誘ってあたしと直樹を会わせてくれたのも朋美だった。
「連絡…ないの?」
「……うん」
コーヒーにミルクを入れ、ゆっくりとかき混ぜる。黒っぽかったコーヒーが、ゆっくりと綺麗なブラウンに変わっていく。そんな様子をぼんやり見ながら、あたしはぼそぼそ話し始めた。
「…きっと…もう連絡、してこないと思う。でも…諦めきれなく…て……」
涙が出そうになって、あわててこらえる。もう何度も泣いたのに、涙は枯れることを知らない。もうこれ以上一滴も残ってないと思っても、翌日の朝にはやっぱり泣いている。枯れてしまえばいいのに。何度、そう切実に祈っただろう。
「…わかるよ、恭子の気持ち」
朋美はカップをまわしながら呟いた。自分に言い聞かせるような言い方だった。
「あたしも、経験あるもん。彼氏ともう別れたのに、どうしても諦めきれなかった」
「朋美はどうやって諦めたの?」
あたしが訪ねると、朋美はふっと笑った。自虐的な笑みだった。
「我慢できなくて、あたしから連絡してね。そしたら彼に、ひどいこと言われて」
「なんていわれたの?」
朋美は目を伏せた。苦悶するような表情を一瞬見せたが、やがて妙に明るい笑顔で、妙に明るい声で言った。
「『お前みたいな女、顔も見たくない』って。それでさっ、なんかもうどうでも良くなっちゃって、吹っ切ったの。なんか、アイツよりいい男見つけてやるーって変に燃えちゃってさ」
馬鹿みたいよね、と笑ってから、朋美はぐいと紅茶を飲んだ。きっと、朋美は辛かったんだ。あまりにも見え透いた強がり。朋美もまた、不器用な人なのかもしれないなと思った。
「…あたしにはムリだ、その解決法」
「え?どうして?」
「…番号もアドレスも、変えられちゃったから」
自分で言って、悲しくなった。そこまで拒否されているのに、どうして諦められないんだろう。
一年ぶりに再会して、あたしたちの距離は急速に近づいていった。3日に一度ぐらいはお互いにメールし合った。二人で遊びに行ったこともあった。いつの間にか、あたしたちは恋人同士になっていた。その1年ほどは、本当に幸せだった。初めて手を繋いだあの日。観覧車の中で、不意に直樹が落としたキス。初めて聞いた、直樹の歌声。直樹があたしだけのために歌ってくれた。そのときから優しく、ささやくように歌っていた。
そんな風に一年が過ぎ、あたしたちは高校を卒業した。あたしは普通に大学に進学したが、直樹は大学には行かなかった。なぜかと聞くと、彼は嬉しそうに笑った。卒業式の少し前に曲が完成した、それを事務所に持っていくと非常に評価してもらえ、デビューが決まった、と。あたしは心から祝福した。それがきっかけで、この幸せが崩れるとも知らずに。
直樹の曲はデビューシングルからかなり売れ、期待の新人として直樹自身も注目を浴びた。続くセカンドシングルはミリオンヒットを記録し、直樹は一気に一流アーティストの仲間入りをした。歌番組で司会者に話題を振られ、しどろもどろに回答する直樹を見るのは、幸せだった。ドラマの主演もこなし、彼が女優とキスをしたり抱き合ったりするのを見るのは少し辛かったけど、直樹はそのことで何度も何度も謝って来てくれていたし、そのぶん、あたしもキスしてもらったりしたからあんまり気にしていなかった。
直樹がデビューして1年がたった頃だ。その頃には直樹は毎日スケジュールが詰まっており、ほとんど会えなかった。それに、トップアイドルの直樹にとってスキャンダルは命取りだ。だから、会えるとしてもどこかに出かけることはできなかった。メールの返事もなかなか返ってこなくなった。会えないのは寂しかったけど、それでもあたしは直樹を束縛したり、困らせたりはしたくなかった。
「物分りのいい彼女」を演じてきた。本当は毎日でも会いたかったし、恋愛ドラマもあんまり出てほしくなかった。でも、さすがにクリスマスは我慢できなかった。どうしても会いたかった。メールはいつ返ってくるかわからなかったから電話した。10回ほどの呼び出しのあと、直樹の声が聞こえてきた。
『もしもし?』
「あ、直樹?あたし」
『恭子?久しぶり』
あたしは驚いた。彼の声だ。少しかすれた独特な感じは変わっていなかったが、すごく疲れた声だった。驚きを抑え、平常心を保つように心がけながら、会話を進めた。
「あのさ、クリスマス、なんだけど」
『うん……』
「…会えないかな?」
『…………』
直樹が困っているのが電話越しにでもわかった。それでも、今回は引き下がれない。
「ほんの少しでもいいの。だから、お願い」
『…わかった。ほんとに少しになっちゃうけど……』
「うん。ごめんね、無理言って」
『ううん。たまには外いこっか』
「ホント!?」
『おう。そうだな……』
久しぶりに、あたしの顔に満面の笑みがあふれた。直樹に会える、それも、久しぶりに外で。クリスマスの飾りがされた町を歩く、そんな普通のデートが、そのときはかけがえのない幸せだった。
商店街の大きなクリスマスツリーの下で久しぶりに直樹と再会したとき、あたしは絶句した。直樹は以前と変わらない様子であたしに手を振り、微笑みかけてくれたが、駆け寄っては来なかった。そんな元気もない、といった感じだ。以前よりおしゃれになった服の中の彼の体は、すっかり肉が落ちていた。目の下には隈ができている。あたしは思わず駆け寄り、彼に抱きついた。すっかり薄くなった胸に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。直樹も細い腕であたしを抱きしめてくれた。彼はこの一年で、すっかり疲れ果てていた。
あたしは泣きたくなった。彼は望んで芸能界にはいった。それは事実だ。でも、それでもこんなにやつれ果てた彼を見るのは辛かった。あたしは風邪のフリをして鼻をすすり、微笑んで彼を見上げた。
「久しぶり」
「おう。久しぶり」
「…会いたかった。すごく」
「ごめんな」
直樹はそういって、またあたしを抱きしめてくれた。直樹の胸に顔をうずめる。以前と同じ、彼の匂い。これは変わってなくて、少しほっとする。
「直樹」
「ん?」
「これ…はい」
あたしは彼の腕に抱かれたまま、バックから小さな箱を取り出した。かわいらしいリボンが結んである。あたしから彼への、クリスマスプレゼントだった。小さなチョーカー。仕事のときによくアクセサリーをしてるのを見て、直樹が好きそうなのを選んだつもりだ。直樹はふっと微笑んだ。
「ありがとう」
そういうと、直樹はあたしにそっと口付けした。暖かいぬくもり。たっぷり10秒ほど浸ってから、ようやく彼は唇を離した。
「ごめん。忙しくて、まだプレゼント買ってないんだ」
「ううん、全然いいよ。直樹、忙しいもんね」
「ごめんな。全然…会ってやれなくて」
直樹の声が沈んでいる。どうやら、かなり悔いているらしい。あたしはもう一度彼の胸に顔をうずめ、目を閉じた。
「直樹…あたし、ずっと直樹の傍にいるよ……」
「…ありがとう。でも…俺じゃ、恭子のこと幸せにしてやれないかもしれない」
直樹は暗い調子で呟いた。あたしはそんな雰囲気を吹き飛ばすように、彼の腕を取った。
「久しぶりのデートだもん、楽しもうよ。ねっ?」
クリスマスの商店街はうきうきするような楽しさにあふれていた。きらきら光る飾り、陽気なクリスマスソング。あたしたちは特に何をするでもなく、ただぶらぶらと歩いた。いつもどおり、流れるような他愛ない会話をした。その間、あたしは彼の腕を放さなかった。次はいつ会えるかわからない。今のうちに、しっかりと彼のぬくもりを肌に覚えさせておこう、と。
やつれてはいたが、彼の笑顔も声も、ほとんど変わらない。幸せだった。本当に幸せだった。そして、こんな幸せがこれからも続くと思っていた。
直樹のスケジュールの都合上、デートは2時間ほどで終わった。またはじめと同じツリーの下についたとき、直樹は静かにあたしの腕を離させた。今までにない、なんだか冷たい行動に戸惑っていると、直樹が静かに切り出した。
「別れよう」
別れよう―――あたしは一瞬、意味がわからなかった。が、意味が飲み込めた途端、顔から血の気がうせるのが自分でもわかった。直樹があたしをじっと見ている。あたしは唇を噛み、うつむいた。体が震えているのは、寒さの所為じゃなかった。
「どう…して……?」
ようやく搾り出した言葉は震えていた。かみ締めた唇が切れて、血の味がする。
「…俺こんなんだから、ほとんど会えないし…会ってもさ、雑誌とかに見つからないようにこそこそしなきゃいけないの、恭子にも悪いし――」
「あたしなら全然平気だよ!!」
直樹の言葉をさえぎってあたしは叫んだ。ほとんど悲鳴に近い声。通行人が2,3人、何事かと振り返った。それでも、あたしは話し続けた。
「そんなの全然平気だよ!?会えなくてもいい、どこにもいけなくてもいいから…こうやってたまに会ったり、ちょっとメールしたり、それだけでもあたし、全然平気だよ……?」
直樹は冷めた目であたしを見ている。どうしたらいいのかわからなくて、あたしは必死で喋り続けた。
「あたし、何かしちゃった?あ、今日呼んだの、迷惑だったよね!?ごめんね…ね、でも、今度からはわがまま言わないから、ちゃんと我慢す――」
「うざいんだよ!!」
あたりがしんとなった。それぐらい大きな声で、直樹が叫んだのだ。あたしはぴたりと喋るのをやめ、ただ直樹を見つめた。瞬きすることさえ忘れていた。やたら陽気なクリスマスソングが聞こえる。直樹はあたしの目を見ずに、そっぽを向いて不機嫌そうに喋り始めた。
「…今スキャンダルとかになったら面倒なんだよ。だから極力会わないし、家の外にもでなかったのに…お前がいたら、どうにかしなきゃいけないって焦るばっかりで、どんどんストレスたまるんだよ。お前の存在自体が、ストレスになってんだよっ!!」
あたしの目からポロリと涙が零れ落ちた。頭では理解できていないのに、あたしの涙腺の反射行動だったようだ。あたしの存在自体が、ストレス…頭の中が真っ白になる。
「…もう解放してくれよ。ウンザリなんだよ」
直樹は吐き捨てるように言った。その顔に張り付いていた笑み。あたしが大好きなそれとは違う、自虐的な笑み。
固まっているあたしをそれ以上見ずに、直樹はあたしに背を向けた。細い背中が、どんどん遠ざかっていく。あたしはその場に座り込んだ。街行く人がちらりとあたしを見ながら歩いていく。まだ理解できないないのに、あたしの目からは涙がぼろぼろ出て止まらなかった。
いつの間にか7月になった。彼と別れてから、もう7ヶ月近くになってしまった。
『さて、澤田直樹さん、今回の新曲について、何かエピソードはありますか?』
あたしはテレビを、しかもまた直樹が出ている番組を見ながら、ぼんやりと考えていた。あたしが、直樹の重荷になっていたんだろうか。直樹があんなにやつれてしまったのは、あたしの所為なんだろうか。
『えっとですね、まず曲名がちょっと意味不明だと思うんですけど……』
『確かに、ちょっと難しいですね?』
どうやったら直樹を諦められるんだろう。淡い希望を完全に捨てきれるんだろう。ぼんやりした頭に、直樹のある言葉が飛び込んできて、はっと飛び起きた。今のは、聞き間違い…?司会者や観客が驚いて声を上げている。
『えー、ホントですか!?』
『えー、はい。実は僕、デビュー前からお付き合いしていた恋人がいたんですよ』
心臓が飛び上がった。もう少しで胸の皮を突き破りそうな勢いだ。あたしは胸に手を当て、画面を食い入るように見つめた。
『え、どんな方なんですか!?お付き合いは長いですか!?』
『えーと、17歳のときからです』
『えー!!直樹さん今20歳、でしたっけ?』
『はい』
『じゃあ、お付き合いして3年ぐらいですか?』
『あ、いえ、半年ぐらい前に別れちゃいました』
直樹が画面の中で苦笑した。あたしは瞬きも忘れて画面を見つめた。17歳のときに出会い、半年ほど前に別れた、直樹の恋人。どう考えても、自分のこととしか思えない。
『去年のクリスマスに別れたんですけど…そのときの僕の気持ちを題材にしてます』
『え、どんな感情ですか』
『んー…それは、言うより歌ったほうがわかりやすいと思うんで、聞いてください』
『あ、わかりましたー。じゃあ直樹さん、スタンバイお願いしまーす』
心臓がめちゃくちゃなリズムで脈打っている。期待と不安、断然不安のほうが大きかった。一体、どんなひどい言葉でなじられるんだろう。
『それでは歌っていただきます、澤田直樹さんで『真夏のクリスマス』です、どうぞ』
優しいバラード調の前奏。直樹はギターを弾きながら、そっと、あの優しい声で歌い始めた。
あの日君が見せた笑顔も
涙も全部心の深くにしまってるよ
「ずっと傍にいるよ」と
微笑んだ君が
とても儚く見えてただ強く抱きしめた
「ただ僕の傍にいて」その言葉が
言えなくて
君のために紡いだ言葉
最後のメッセージ「サヨナラ」
痛む胸気付かない振りして
君に背を向けた
ポケットに忍ばせた
クリスマスプレゼント
渡せなくて
勇気がなくて
今でも君への思いと共に
大事にしまってる
失ってはじめて気付く
君がいることの大きさを
渡せなかったクリスマスプレゼント
僕の本当の気持ち
君に伝えたい……
そんな思いを抱いて
今日も君がくるはずない
あの日の待ち合わせ場所で待つよ
僕にとって
今日はまだクリスマスだから
まぶしい太陽だけが
僕の傍にいるよ
『ありがとうございましたー。なんだか聞いてると、微妙な別れ方をしたみたいですね?まだ複雑な心境みたいですねー……』
そこから先は聞いていなかった。あたしはいてもたってもいられなくて、家を飛び出した。
日が沈んでもまだまだ蒸し暑い商店街を、あたしは走り抜けた。歌の中にあった「あの日の待ち合わせ場所」とは、あの大きなクリスマスツリーの下だ。いないかもしれない、いや、いるわけない…そう思っているのに、体は言うことを聞かなかった。
商店街を通り抜けると、突然、ただっぴろい広場に出る。7月の今、クリスマスツリーは出ていなかったし、イルミネーションもない。あたしはきょろきょろしながら広場の真ん中まで走った。直樹。直樹、直樹、直樹。
だが、彼の姿はなかった。あたしは息を切らし、ただそこに立ち尽くした。当たり前…そんな言葉が頭の中を渦巻いた。あれはただの歌だ。直樹がいい素材だと思って、リメイクして作っただけだ。本当の気持ちなんかじゃないんだ。
わかってしまうと、悲しいを通り越して、空しくなった。力の一欠けらまでが体の外に出てしまって、あたしはその場に立っていることもできなかった。がっくりと膝をつき、ただぼんやりと、流れていく人ごみを見ていた。
「恭子!!」
ついに幻聴だ、とぼんやりと考えた。懐かしい、直樹の声。もう、彼に名前を呼ばれることはないんだ。
「恭子!!」
ああ、まただ。後ろから聞こえる。あたしはのろりと振り返った。ああ、今度は幻覚だ。直樹がこっちに駆け寄って来る様に見える。
「恭子!!恭子!!」
…本当に、幻覚…?なんだか、やけにリアルだ。それに、走ってくる足音が聞こえる。
まさか……。
あたしはぐっと体に力を込め、立ち上がった。直樹がもうすぐそこまで来ている。あたしはふらふらと直樹に歩み寄った。あと1メートル…70センチ・…50センチ・・・20センチ…10センチ…。きっと触れたら消えてしまう。幻だから。
その幻が、あたしの体を抱きしめようとして、その直前で止まった。躊躇しているようだ。あたしはその人を眺めた。荒い息。それがあたしの前髪を揺らしている。あたしは震える声でたずねた。
「直…樹……?」
その人は、あたしの目をまっすぐに見た。そして、微笑んだ。あたしの大好きな、あの笑顔。そして、あたしの大好きな、あの声で答えた。
「…ああ。俺だよ、恭子」
あたしはじっと彼を見つめた。恐る恐る手を伸ばす。触れたら消えてしまうんじゃ…そんな恐怖を抱きながら、そっと彼の肩に触れた。消えも、すり抜けもしない。体温を持った、人間の肉体。彼は優しく微笑んだ。
「俺だよ、恭子。直樹だ」
言い終わるか終わらないかのうちに、あたしは直樹に抱きついた。直樹だ。あたしが求めてやまなかった、直樹だ。直樹もあたしの痩せた肩を抱きしめてくれた。我慢できなくなって、あたしは声を上げて泣いた。彼の胸に顔をうずめ、小さい子供のようにわんわん泣いた。夢じゃない。幻じゃない。直樹がいる。あたしがこの7ヶ月、求め続けて止まなかった、彼が。泣き続けるあたしを、直樹はただ抱きしめ、耳元で何度も呟いた。
「ごめん…ごめん……」
ようやく涙が止まったのは、彼の胸を借りて5分ほど泣いてからだった。鼻をすすりながら胸から顔を上げ、直樹を見上げた。7ヶ月前と変わっていない。テレビで見るときよりもなんだか、「人間らしさ」のようなものが見えた。
直樹はあたしの肩を掴み、そっと自分から離し、頭から足までを眺め回した。そして、震える声で言った。
「恭子…すごい、やつれた……」
「…うん…だいぶ痩せちゃったし」
「俺の…所為…?」
あたしはちょっと迷ったが、嘘を言っても仕方ないと思い、小さく頷いた。直樹は一瞬締め付けられたような音をのどから出したが、次の瞬間、あたしはまた直樹の腕の中にいた。あたしも彼の首に腕を回す。が、あたしは驚いた。耳元から泣き声が聞こえてきたからだ。直樹が、泣いてる。
「直樹……?」
「…ごめん…俺の所為で…こんな…こんなにしちゃって……ごめん……」
直樹の腕に力がこもる。あたしも強く抱きしめ返しながら、そっと呟いた。
「教えて…あの歌の意味……」
あの時期、直樹は一番精神的に辛い時期だった。はじめのほうにかなり売れたため、それを維持するためには次の曲も前のに勝るぐらい完成度の高いものにしなくてはいけなかった。焦り、不安、憂鬱…いろんなものが入り混じって、直樹はパンク寸前だった。そのときに、あたしのことを考えた、と彼は言った。
「あたし、重荷だった?」
ベンチに腰を下ろし、直樹にもたれかかりながらそっと尋ねた。直樹はあたしの肩を抱いて、苦笑した。
「ん…まあ、重荷って言えば、重荷だった。でも、別にうざいとか、そんなこと全然思ってなかったんだよ」
直樹はまたゆっくり話し始めた。
メールもろくに返せないし、会うことなんてほんとに稀。会ってもどこかに出かけることもできずに、どちらかの家にこもりっぱなし。そんな状況で、あたしが寂しかったり、物足りなく感じたりしていることを、直樹は敏感に見抜いていた。あたしは隠していたつもりだったけど、やっぱり、不器用さが裏目に出たようだ。何とか恭子を楽しませたい、安心させたい、そんなプレッシャーを直樹は感じていた。それを感じた事務所は、女なら結婚するか別れるか、どちらかにしろと言ったらしい。
「それで…別れたの?」
あたしは悲しい気持ちでたずねた。それに気付いたらしく、直樹はあわてたように首をぶんぶん横に振った。
「ちがうちがう!クリスマスのとき、まだ悩んでたんだ。でも、結婚しようと思った。恭子に傍にいてほしかったから。でも…実際に行って、恭子の顔を見たときに思ったんだ。ああ、俺じゃ、恭子を幸せにはできないって」
「どうして?」
「恭子、すごく寂しそうな顔してた。もし俺と結婚したら、恭子はずっと、一生そんな顔して過ごすのかなって思ったらすごく怖くて…だから、突き放したんだ。恭子のためだって、自分に言い聞かせて。恭子が早く忘れられるように携帯も変えたんだ」
直樹は疲れた感じでため息をついた。今でも、まだきちんと気持ちの整理がついていないようだ。
「マスコミとか悪質なファンとかから恭子を守れる自信もなかったし、全然安定してなかったから経済的にもいつがたが来るかわからなかったんだ……そんな状況じゃ、恭子のこと幸せにはできないだろ?」
あたしは、呆れて笑った。直樹が怪訝そうにあたしを見る。
「直樹…すっごく間違ってる。全然あたしのためになってないよ。あたし、クリスマスからずっと、直樹のこと忘れられなかった。テレビで直樹見るたびに辛くって悲しくて…ずっと直樹からなんか連絡ないかって待ってたんだよ…その間にこんなに痩せて、やつれちゃったんだよ……」
「そっか…。ごめんな、ホント……」
あたしは黙って首を振った。直樹はしばらく黙って微笑んでいたが、やがて小さく咳払いし、まじめな顔になった。あたしもつられて背筋をピンと伸ばす。
「恭子。あの時…クリスマスに渡せなかった、プレゼントあるんだ」
「忙しくて買えてなかった、ってヤツ?」
「いや、あの時、ホントは持ってたんだ。歌の歌詞にもあっただろ?」
「ああ…『勇気がなくて渡せなかった』、てヤツのこと?」
「うん」
直樹はポケットに手を入れると、そこからワイン色の箱を取り出した。それをあたしの目の前であけて見せる。中身は指輪だった。驚いているあたしの目をまっすぐ見て、彼はいった。
「俺と…結婚してください。傍にいてください」
目からポロリと涙が零れ落ちた。二つ、三つとあふれ出してくる。あたしはすぐにぐしょぐしょになってしまった顔で、ゆっくりと頷いた。涙で震える声で直樹に言う。
「あたしを…幸せにして。傍にいさせて……」
直樹は微笑んで頷いた。そして、あたしたちはそっと口付けした。ずいぶん遅れたクリスマスプレゼント。真夏のクリスマス…タイトルの意味がようやくわかった。
「ちゃーんと守ってね?」
「おう。任せとけ」
あたしは彼の腕を取り、そっと目を閉じた。この温もりを感じられる幸せをかみ締めながら。
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2005/03/20(Sun)01:39:56 公開 / 渚
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■作者からのメッセージ
こんばんわ。渚です。
今回は直感的に思いついたものをがしがしかきましたので、結構荒削りかと思います^^;
直樹君には、実はモデル・・・というか、イメージがある芸能人の方です。「全然違う!!」と反感買いそうなので公表はしませんが^^;どうでもいい裏話です。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。