- 『Day after tomorro』 作者:宮坂ユキ / 未分類 未分類
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全角4231文字
容量8462 bytes
原稿用紙約12.6枚
姉貴が死んだ。買い物帰りに事故にあって全身強打、脳内出血。腕が一本なかった。足はありえないところでありえない方向に曲がっていた。顔は半分ガーゼで覆われていて見ることさえ叶わなかった。
学校に連絡が入って病院に駆けつけた時、既に姉貴は暗い地下室で寝ていた。親父が来た時は既に狭い箱の中だった。
何もかもが突然で唐突で、何もかもが信じられなくて俺は姉貴が死んでから今まで涙の一粒もこぼしていない。
お袋が死んでから家は姉貴を中心に廻っていた。お袋の代わりにすべての家事を引き受けていたのが姉貴だった。進学したい気持ちを諦めて俺と親父の面倒を見てくれた。朝は起きると姉貴が朝食を作り終えていてテレビでニュースを見ている。親父と俺が揃うとパンを焼いてスープを温め直してくれる。
弁当は大抵既にできていて先に出発する親父が俺の分も包んで、自分の分だけ持って出て行く。ついでにゴミ出してきて、としっかり親父にゴミ袋を持たせるところはまさしく主婦そのものだった。
俺と3歳しか違わないのに姉貴はとても大人だった。
昼間は何をしていたのか知らないけれど時々小説家の真似事のように、少しだけ話を書いているのを知っていた。これは親父はきっと知らない。話を書いている時、姉貴は唯一の特技だから、と笑っていた。
帰ってくると夕食の準備やら洗濯物やら家事をしていて、腹減った、何かない?と聞くと煎餅やら夕食のおかずの一品やら、極偶にケーキが出てきた。「買ったけど、今食べたら太るからあげる」などと笑って出してくれた。
夕食の準備をしているときは長い髪を1つにくくっていた。切ればいいのにって言っても頑として聞かなかった。大好きなアーティストのようにな伸ばすんだ、と言って笑っていた。シチサン、と揶揄すると違うの!と怒った。
姉貴の残った左腕に白く、時に赤い細い傷があるのは以前から知っていた。夜中に起きてきて薬を飲んでいるのも知っている。基本的に黒い服しか着ないのも、帽子を深くかぶらないと外出できないのも知っていた。お袋の形見の帽子をこういうことにしか使えないのは申し訳ないと落ち込んでいたのを見たことがある。大事に首から提げていた指輪がいつの間にかなくなっていることを知ったのはいつのことだったか。
姉貴は事故で死んだけれど事故にあわなくてもいつかいなくなっていただろう、と俺は思う。
姉貴が死んだの日は姉貴が好きだった梅雨のような雷鳴る土砂降りの雨で、葬式の日は姉貴の大好きな沖縄のように真っ青で広い空だった。
葬式から数日しか忌引きが認められていない。学校はとても不便だった。親父は有給をとって会社を休んでいる。でもほとんど部屋から出てこない。食事の準備やら家事やらは俺がしたり近所のおばさんが手伝ってくれたりしている。食事が終わると親父はまた部屋に閉じこもる。お袋の写真と並んで姉貴の写真が置いてある机の前に座って何をするでもなくひたすら写真を見ていた。
俺も何をするでもなく姉貴の隣の自分の部屋で、暗い夜を過ごして夜明けを待っていた。
朝起きて自分で朝食を作ることにも慣れるのには一ヶ月以上かかった。親父はその頃になってようやく会社に復帰し始めた。朝食を作るので手一杯だったから勿論手作り弁当なんて温かいものもなく、俺と親父の昼食はパンやコンビニ弁当ばかりで食べても温まるものなんかあるはずもなく、体と心は温度が下がる一方で涙が出そうになる。それでも俺は泣けないでいた。
姉貴の部屋は姉貴が生きていた時と寸分違わず誰の手もつけられないでいた。つけられなかった。そのままにしておけばいつか帰ってきて、パソコンに向かって何かを打ち込んでいる姉貴の姿が見られるかもしれないと思っていたのかもしれない。その姿に腹減った、と言えば煎餅でもおかずの一品でもケーキでも出てくるような気がしていた。それでも当然、葬式から1ヵ月以上経った今でもそんな姿は見ていない。
初七日はとっくに過ぎ去った。
納骨もとうに終わった。
墓も遺影も位牌も仏壇もすべて親父の部屋に揃っていて、それらすべてのことが姉貴がいないことをあらわしていた。
夜、姉貴宛に電話がかかってきた。死んだことを伝えると長い沈黙が流れた。線香を上げに行きたいから明日伺ってもいいか、と電話の主が言う。どうぞ、会ってやってください、きっと喜びます、と言うと明日の昼間に伺いますと言って電話が切れた。妙にのどが渇いた。
昨日の電話の声がやってきたのは13時をわずか過ぎた頃だった。声は姉貴の担当だと言った。声は線香を上げてお疲れ様でした、と言った。
「実はお姉さまの書いた作品が賞をもらいまして」
「賞?姉貴の作品てそんなにちゃんとしたものだったんですか?」
ご存じないのですか、と声は言って鞄の中から1冊のハードカバーを取り出す。差し出されたそれを俺は取ってぱらぱらとめくる。
「題名くらい、見たことありませんか?」
裏表紙から数枚めくって同じ出版社の別の作品のページを見ると差し出された本の作者と同じ名前がいくつか並んでいた。姉貴と同じ名前。その中には聞いたことのあるものも混じっていた。
「その『夕焼け』っていう本は題名を弟からもらったと言っていましたよ」
覚えていませんか?と言われて記憶の糸を手繰り寄せると確かに俺が気まぐれで言ったことを思い出した。
「…まさか、本当にその題名で書いているとは…」
「お姉さまの書かれる話の基本は童話だったんですけど、その話で始めて長編小説をお書きになって」
「……賞をもらったって言うのはどの本なんですか」
「今お持ちの本です」
ページを最初に戻してめくり直すけれど本格的な小説らしく数ページでは内容の把握が不可能だった。かろうじて登場人物と背景設定が分かったくらいだった。登場人物は主人公の少女とその両親、それから、戦争で生き別れになった恋人。
「どんな話ですか」
声はゆっくり説明を始めた。
それによれば戦争が始まったばかりの沖縄で恋人が徴兵されることになった少女がその恋人と手紙のやり取りをし、ついには手紙を書く紙さえなくなり、持ってきていた徴兵令の赤紙を使って恋人が最後の手紙書き、それから2人が再会するまでを描いた物語らしい。
「再会した時に少女は既に虫の息で、戦渦に巻き込まれて届くのが遅くなって、ようやく届いた恋人の書いた最後の赤い手紙を少女の代わりに周りの人が読み上げてくれるのを聞きながら死んでいったんだ。僕はこの最後の手紙が悲しくてね」
その手紙がどんな内容だったかを問うと本をとられて手紙の全文が載ったページを開いて再び渡された。
恋人以上に愛しく。
家族以上に近しく。
国より、何より、世界よりも大切に。
大切に、大事に思っている。
願わくは僕が消えてからも君が息災であれば。
そしてできるだけ長く君の隣が僕の居場所であらんことを。
生きているうちに君に会えてよかった。
それだけで意義があった。
それだけで素晴らしい一生だった。
僕はもう十分生きた。
毎日が幸せで楽しい一生だった。
君の一生もそうであればと願う。
この手紙が読まれるとき僕はどこにいるだろうか。
生きているだろうか。
君は僕を忘れていないだろうか。
君は僕を覚えているだろうか。
君は僕をまだ想っていてくれているだろうか。
帰ってきたら居場所はあるだろうか。
君の隣はまだ空いているだろうか。
今更、伝えても届かないかもしれないけれどあえて言わせてほしい。
好きだ。愛している。
この言葉が君に伝わっていることを祈っている。
この手紙が読まれないことを祈っている。
「少女が息を引き取ったすぐあとに恋人が現れてね、手紙を読まれたことを泣くんだ」
俺の見つめる紙面上では僅かな差で間に合わなかった恋人が膝を折り、まだ温かみの残る少女の頭を抱いて嗚咽を漏らしていた。恋人が少女をとても大切にしていたことが如実に分かる。恋人はひたすら謝罪の言葉を口にしている。悪かった、申し訳ない、すまない、許して欲しい。言葉はしっかりしていたがきっと台詞にすると切れ切れで、くぐもっていて、聞き取り辛いであろうほどに涙を流して。嗚咽を漏らして。少女の髪が涙で濡れ、張り付く表現があった。
声はポケットからハンカチを取り出して俺に渡す。俺はようやく自分が泣いていることに気づいた。文字の恋人と少女の亡骸が落ちた俺の雫でふやけた。本を開いたまま差し出された少し皴の寄ったハンカチを取って頭を少しだけ下げた。目に当てると今まで流れずに塞き止められていた涙がここぞとばかりに溢れ出してきて止まることはなかった。ハンカチはあっという間に涙の温度でぬるく、そして濃紺に染まった。
「それからこれが、お姉さまからこのお話の原稿を頂いた時に原稿に挟まっていた手紙です。お返しするのが遅くなってすみません」
声が鞄から取り出した手紙はデジャヴののように真っ赤な、紅の封筒。どこかで見たわけでもないのにとても見覚えがあった。宛名は書いていなかったけれど差出人にはしっかりと姉貴の名前が書いてある。封のしてあるシールを剥がして封筒と同じく真っ赤な便箋を取り出すと久しぶりに見る姉貴の字が並んでいた。ペン類の正しい持ち方ができないせいで歪んだ文字。手紙の内容は一瞥しただけで把握できるほどに短く簡潔明瞭だった。
生まれてきてよかった。
お父さんに会えた、お母さんに会えた、孝太に会えた。
頼りない娘で、姉でごめんなさい。
幸せな人生をありがとう。
俺は一瞥しただけでまともに読むことも叶わなかった。見ただけで目前が大きく揺らめいて文字がぐにゃりと曲がってそのまま手紙に顔を沈める。ハンカチをあてることも忘れ、手紙に涙を流し続けた。
「俺……姉貴が死んだ実感、なくて、通夜でも告別式でも……一滴も、泣かなかったんです……ッ」
「そうか」
声は優しく言った。
「そうすればいつか帰ってくるんじゃないかって!……勝手にッ、……思って……」
「そうか」
「でも、っ……そんなのありえないから……明日、姉貴の墓に行って……墓石の前で……思いっきり泣いてやろうと思います……」
「そうだね」
机の上には小さな水跡が多くできていた。そこにまた多くの水を降らせる。室内は明るく、とても静かで聞こえるのは涙の落ちる音と俺の嗚咽と鼻水をすする音だけだった。
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■作者からのメッセージ
はじめまして、新参者の宮坂と言います。ヘタですが、これからも楽しんで書けて池たらと思っています。
どうぞ、構ってやってください。