- 『歌物語 2/2(?) 第一部 完』 作者:ゅぇ / ファンタジー ファンタジー
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全角38546.5文字
容量77093 bytes
原稿用紙約118.15枚
【雪華王】
其王称雪華王 其の王雪華王と称されき
彼持黒髪碧眼 彼黒髪と碧眼を持てり
其声飄々貴声 其の声飄々たる貴声なり
気崇高不可犯 気高く崇高にして犯すべからず
常在雪北国頂 常に雪ある北国の頂に在り
北の大国柳。柳帝の真名を香峨という。
この男が十四の若さで帝に即位して、十年が経とうとしていた。ともかく歴史書を開いてみると、この男は相当冷酷な帝であったようである。一見静かな男に見えるが、実のところ烈しい性質をしており、彼の怒りを買って生き延びた者はかつていないと。
この大国には悪習がある。何時から始まったのかは定かではない。捕虜であるとか志願者であるとかそういった類の者を広場に集め、獅子に喰わせたり兵士に虐殺させたりする。悪趣味極まりないもので、柳人はそれを祭りと称するのである。一度だけその祭りを勝ち抜いた者がある、と。歴史書にはそれしか記されていない。祭りを生き延びた者は巧みに逃亡したらしい。名も知れぬ逃亡者。その祭りから数ヶ月後、柳に歴史書に残る政変が起こることになる。
さて、と柳帝は寝台に深く腰をかけた。暖炉で火が赤々と燃えている。この男は用心深い、自室に決して誰も入れぬ。風呂の際も、信頼のおける間者しか傍に置かなかった。
この国は蟲を抱えている。湯庸、という叔父。この帝位を狙う大蟲である。今のところはお互い慇懃無礼に付き合って事なきを得ているが、いつこの叔父が牙を剥くとも知れなかった。叛乱分子は早めに取り除いておきたい。だが国内のどの勢力が己の味方で、どの勢力が叔父の味方か。それを見極めたいとも柳帝は思っている。
冷酷無慈悲と怖れられる彼が今のところ大人しいのは、そのためである。謀反勢力を見極め次第、この国中の膿を全て絞りだしてやろうと。
(……ふん)
あの女と出逢ったのは運命かもしれぬ。柳帝は思った。噂では聞いていた『風の者』奈綺。隙のない身のこなし。迷いなく耀く双眸。これは使える、と思った。『風の者』は舜に血脈を持つ間者の筋である。彼らは常の間者よりも遥かに卓抜した能力を持つ。
その行動はまるで人間離れしており、そして舜帝に惜しみなき忠誠心を捧げていた。
その『風の者』の中でも異彩を放つ女。間者は皆その名を聞くだけで顔色を変えた。その女を使うためにはどうすれば良いか。舜のものであろうと柳帝には関係ない。欲しいと思えば手に入れる、それがこの男のひどく乱暴な持論であり、この考え方は当時の皇帝としては至極当然のものであった。奈綺を手に入れるためには、舜という彼女の祖国を盾にするしかない。そう思って舜へ進軍する振りをしてみせたのである。
このことを考慮すると、『風の者』奈綺は彼に上手いことおびき出されてしまったのだといえよう。
(しかしあの女、よくあそこまで勝ち抜いたものだ)
其の力どれほどのものぞ、と祭りに出してみたのが驚くほど強かった。
自分の倍ほどもある大勢の大男に囲まれてなお怖気づくことなく、片端から勢いよくぶち殺して回った。あれには驚かされる。肉などついているのか、というような痩せた身体で見事な役回りを演じてくれたわけである。あの祭りの中で踊らされていたのは、むしろ観客のほうだったかもしれぬ。柳帝はそう思っている。
あの女が矢傷を受けて逃走を図ったのは予想外だったが、正直なところしめたと思ったものである。ここで貸しを作っておけば、いつか必ずこの女を柳に呼び戻すことができる。それが柳帝の狙いであった。
『即来』
すぐに来い、と文を飛ばして。柳帝はただ奈綺の訪れを待つ。あの女なら間違いなくやって来る、と彼は信じてやまなかった。
奈綺が柳に辿りついたのは、文が手元に届いてから七日後の真夜中のことだった。
身体についた雪が溶け、その身体は汚らしい泥鼠のようである。流石に冬の白山は厄介なもので、幾度か雪崩に巻き込まれかけながらここまで駆けて来た。雪というものは他国の間者による奇襲よりも遥かに怖ろしい。それが柳まで着いたときには、目も当てられぬ姿になっていた。
「…………」
真夜中である。ひっそりと静まりかえった宮廷、城壁に身体をつけて様子を窺う。
何処が柳帝の寝室か、確実に捉えなければならぬ。番兵を殴り倒せばあとで騒ぎになるし、強行突破もできない。とにかくどうにかして城壁を乗り越えなければならないのである。そして柳帝の寝室に辿り着く、というのが差し当たっての奈綺の仕事なのだった。
何が辛いといって、寒い。雪にまみれてここまで辿り着くうちに、冷たい風が雪が溶けた後の水分を凍らせようと吹きつけてくる。睫毛を触ってみると、凍ったような触感さえある。普段から幾ら身体を鍛えているといっても寒いものは寒い、それでなくとも脂肪の少ない身体だった。門のほうを見ていると、番兵たちが口々に話しこんでいる。
脇に小さな卓子(つくえ)を置き、どうやら酒を呑んでいるらしかった。篝火が赤々と燃え、その光で何本か卓子に置かれた酒器が見える。これだけ寒ければ、確かに火酒でもなければ凍死してしまうに違いない。
半刻ほど番兵たちの様子を窺っていると、酒の入った彼らは次第に明朗な笑い声をあげ始めた。女の話でもしているのだろうか、締まりのない幸せそうな笑顔である。
(……こんな番兵でいいのか、柳帝)
彼らは彼らの幸せがある。柳帝のもとに平伏して、少しの報酬と少しの酒で楽しく人生を過ごしていける幸せだ。番兵たちが笑い合っている声に紛れて奈綺はそっと腰帯を一本解き、鉤をくくりつけて城壁のてっぺんに放り投げた。くんっ、と一度強く引いてみる。 しっかりと向こう側に引っかかったらしく、確かな手ごたえがあった。そして再び番兵に目立った動きがないか確認し、奈綺は腰帯を頼りに壁を蹴った。少しの音は、雪が掻き消してくれる。城壁の上の雪が落ちないように、最後はそっと腰帯の鉤を外し、再び腰に巻く。内側には人がいなかった。しかしこれでは柳帝の寝室が何処にあるか分からない。ちょうど建物三階ほどの高さであろうか、正面にひとつ室があるようだ。灯かりが洩れているのはそこの窓で、何か札のようなものが貼りつけてある。
(ここか)
呪符だった。鬼除けの呪符で、これは宮中でも皇帝の寝室以外に貼ることはない。
皇帝の身に鬼が憑かぬように祈る、この風習は舜も柳も変わらなかった。辺りに人気がないことに助けられる。先ほどと同じように腰紐に鉤をつけ、正面に見える丸窓に思いきり放った。かつん、と渇いた音がする。ちょうど窓の外枠に鉤が引っかかった手応えを感じ、奈綺は腰帯をぐっと握り締めた。
丸窓に人影が映り、窓が開けられた。さあっ、と室内の灯かりがかえって中の人間を影にする。奈綺の確信はやはり当たっていたようだ、その人影は窓だけ開けてすぐに奥へ引っ込んだ。見間違えたりなどしない。
あの冷たく凛とした気配は紛れもなく皇帝が纏う気高さ。長身の姿に欠片の弛みもなかった。腰帯を握り、先程の城壁と同じ要領でまるで猿のように奈綺は丸窓まで駆け上がった。小柄で細い女であるから、遠目に見れば少し大きな獣にしか見えないだろう。
だいたいにおいて、それだけの高さを音もなくするすると駆け上がってゆくさまは人間とは思えない。獣か、さもなくば物の怪か。この時代は至極当然のように物の怪の存在が信じられている。
騒ぎになってはまずい、と奈綺は開放された丸窓から室内に飛び込んだ。
そして速やかに窓を閉ざす。雪に覆われた外とこの室内との温度差が激しかった。凍りついた手がじわじわと溶けてゆく気がする。身体中についた雪や泥がその暖かさで溶け、立派な絨毯にぼたぼたと滴り落ちていく。汚い、とにかく汚い。
「…………」
奈綺は黙ったまま、ぼろぼろになった皮沓の底を絨毯にこすりつけた。手近なところにあった絹布をひょいと取り、薄汚れた顔と身体を軽く拭く。
皇帝付きの女官が見れば悲鳴をあげて卒倒するに違いなかった。皇帝のための手布を許可もなく手にとるなど、無礼討ちにされてもおかしくない行為である。
しかも女官たちが日々丹精こめて掃除している絨毯に、惜しげもなく泥水を滴らせて、どうにも嫌がらせとしか思われない。まるでここが自分の室であるかのように傲然としていた奈綺に、大きな麻布が放って寄越された。豪奢な織り布の向こうから、静かに男がこちらを見ている。黒い髪、美しい碧眼。それが愉快そうな色をたたえて奈綺を見据えていた。あの文で、必ず奈綺がやってくると。そう信じていた瞳である。
「いつから乞食になった、おまえ」
汚れた絹布を脇の卓子に放り投げ、寄越された麻布で身体を拭く。麻のほうが水気をよく吸った。濡れた髪が白い頬にへばりつき、おそらく道中でついたのであろう傷が無数に点在していた。
「借りを返しに来た」
やはり皇帝に対する物言いではない。本来臣下であったり下々の者であったりというのは、皇帝との謁見を許されても視線を合わせることは許されない。目を伏せ、決して貴人と視線が合うことがあってはならないのである。しかし奈綺は目を逸らさない。
まるで喧嘩でも売るのかという鋭さで、柳帝の双眸を見返している。
この女は己の価値を知っているのだ。ここで柳帝が己を無礼討ちにするのと、生かしておくのと。どちらが柳にとって有益が奈綺はよく理解している。性質の悪い女といえなくもない。借りを作っている身であるはずなのに、悪びれもせずに柳帝の目前で身体を拭き、泥水を跳ね飛ばした。
「おまえには俺の采女となって貰おう」
男が言った。采女とはつまり貴人に仕える女官で、容姿の優れた者が選ばれる。皇帝に手をつけられることも多く、貴族が出世の手段として娘を差し出すことが習慣になっていた。
「俺はそんな汚らしい采女は要らん。湯に入れ」
ついて来い、と彼は奈綺に後ろ姿を見せた。奈綺は決して嫌がらない。否、風呂に入りたいのである。とにかく身体の垢を落とし、温まりたい。与えてもらえるものなら、幾らでももらう。奈綺は後ろから声をかけた。
「それから温かい食事と寝床」
厚かましいにも程がある。皇帝が先を歩きながら、喉を震わせて嗤ったのが分かった。
【風の者】
泥を落としたその下は、驚くほど白く滑らかな絹肌である。肌理こまかな肌が、艶めいて柳帝の目をうつ。滑稽なものだ、と彼は微笑を洩らした。あの泥鼠が、湯に入って汚れを落としただけでこれほど変貌するのは、見ていて爽快ですらある。傍で柳帝が凝視していても、まるで意に介する様子がない。
おそらく口中のどこかに針でも隠しているのだろうが、ひどく堂々と湯浴みをしている。その大胆さが、柳帝にはどうにも愉快なのである。
「おまえは俺が朝駆けをしたときに見つけてきた、村の娘だ」
男は静かに口を開いた。奈綺は一瞥をくれることもなく、ただ湯殿の中につかってぼんやりしている。ぼんやりしているように見えて、その瞳は冴え冴えとしており、しっかり男の言葉を聞いているのだ。
「明日の夜明け前、俺は独りで朝駆けに出る。湯殿に入って少し小奇麗な衣に着替えたら外へゆけ。東に森があるだろう、其処にいればいい。俺が連れて帰る」
温かい食事は喰わせてやる、と彼は言った。気に入った娘だからといって、ぬくぬくと一晩良い思いをさせるつもりはまるでない。夜明けまでの数刻、雪の森で独り待てというのである。奈綺が、微かな水音をたてて湯殿から立ち上がった。
「私の名前は」
ゆらゆらと上がる湯気の中で、ひどく彼女の身体が白い。『風の者』にしては美しすぎる、粗さのない身体をしていた。手近に用意されてあった麻布で身体を無造作に拭いながら、冷たく問い返す。この女ほど己の感情を隠すことに長けた者はいないだろう、と思われる。いつでも無表情に見えるが、しかしそれが美しい。
「そうだな。おまえの名は結蓮」
「……結蓮」
奈綺は村娘たちが一般的に着ける着物を手早く身につけていく。私は村娘の結蓮である、と。今から『奈綺』という名も『風の者』という肩書きも忘れねばならぬ。
「森で会おう。明日、夜明け前だ」
温かい豪勢な食事を終え、奈綺は人目を忍んで軽々と宮中の外へ飛び出した。
美しい采女が入った、と宮中に噂が広まった。柳帝自ら拾ってきた、類稀な容貌を持つ村娘らしい。しとやかで美麗、性質も良く明晰である。
「結蓮、陛下のお召しですよ」
女官長が織り布の向こうから顔を覗かせた。人の好い中年の女で、これが後宮仕えをする身分の低い采女や女官を一手に引き受け面倒を見ている。
「はい」
柔らかな声色である。結蓮、は薄桃色の長い裳裾を広げながらそっと立ち上がった。
双眸はゆるやかな色。桃色の紅をひいた唇は艶々と美しく、手入れをされた蛾眉は優雅に半月を描いている。村娘というが、育ちの良い貴族のような風貌をしていた。
女官長に伴われ、その結蓮がしずしずと廊下を歩き、皇帝の寝室へ向かう。皇帝の寵愛を受けた娘は初めてだ、と周りの文官も武官も感嘆の思いをこめて囁きあった。
「陛下。連れて参りました」
女官長の一歩後ろに、膝をつき拱手する。温かな絨毯に膝がめりこんでいく。目の前の重厚な扉が開かれるまで、少しの間があった。
「粗相のないようになさい」
いつものことながら、女官長が耳元で囁く。はい、と結蓮は大人しく頷いた。
「入れ。女官長は下がって構わん」
あの傲慢な男の声がして、女官長は結蓮をそっと押し出した。足音を立てずに室内へ入る。もうすでに慣れた麝香の香りがふわりと漂って、結蓮の鼻腔を刺した。
扉の傍らには例の用心深い柳帝が立っており、扉を閉めてゆっくりと鍵をかけた。鍵をかけて柳帝が彼女を室の奥へ導き、寝台に座らせたときに女の双眸が豹変した。
「鬱陶しい……」
呟いてこの女は華やかな裳裾を足で捌いた。双眸がきつい。先程までの美しく柔らかな瞳は完全に消失し、眉も怒っているのではないかというほどにきつく張られている。
取り巻く空気が冷たく鋭角なものに一変していた。
「見事なものだ、流石に。まるで別人だな」
腹いっぱいの食事。暖かい寝床。湯も絹も使いたいだけ使える。そんな貴族の暮らしをしながら、奈綺の身体は締まりを失わない。生業であれば人格も変えてしまう、それが『風の者』なのである。薄桃色の襲(おすい)が美しい白肌をさらに輝くものに見せ、耳に開けられた金色の耳飾が揺れる。髪に施された髪飾が、奈綺が身動きするたびにしゃらしゃらと清らかな音をたてた。
「おまえを正妃候補として立ててゆくぞ」
俺の基盤を固めてゆくために、と柳帝は静かに言う。この男には特定の寵姫というものがない。後宮に通う習慣もないので、まず姫たちに子がいないのである。子がいないということは、つまり跡継ぎがいないということ。このまま跡継ぎさえいなければ、柳帝退位の後はおそらく湯庸が帝位に就くであろう。彼はそれを狙っているはずである。
「俺に正妃が出来、跡継ぎが出来ることを湯庸は何よりも怖れている」
婚儀の席に、あの男なら何かを仕掛けてくるに違いない。それを柳帝が予見しているらしいことを、奈綺はすぐに察した。
「それで? どこで始末すれば良い」
「さて……婚儀の席ででも。始末の仕方はおまえに任せよう」
ふん、と女は鼻を鳴らした。この優秀な『風の者』にしては珍しく、殺したがっている。どうにもあの祭りに対する苛立ちが消えないらしい。何かの機会があればそれに乗じて、何とか葬ってやりたいのである。貴族の身なりをして煌々ときらめいている彼女よりも、むしろこうして柳帝の寝室で無愛想に脚を組んでいる彼女のほうが生きいきとしてみえる。人間のもとの出来が違うらしい。
「豪奢な耳飾をこんなに手荒く扱うとはね」
奈綺が無造作に外して、寝台脇の卓子に放った耳飾を柳帝がそっと指で弄んだ。この女にはもとから『風の者』としての素質が備わっていたのだろう、と柳帝は思った。
美しい絹を見ても目を輝かせるということがない。華やかな酒席で他の妃たちが嬌声をあげていても、静かに瞳を伏せているだけである。それがこうして柳帝の寝室に来ると、疲れたと愚痴を零し、いつもの双眸を見せる。
柳帝はそっと奈綺の顎を指先で持ち上げた。他の女ならば潤んだ瞳で媚を売ってくるはずだったが、奈綺の双眸はあまりに堂々としている。何だこの男、といわんばかりの顔でまっすぐに柳帝を見上げた。
「いつ……婚儀を挙げようか」
次の満月では早すぎるな、と柳帝は嗤う。彼がそのまま奈綺の艶めく唇に口付けた。
「…………」
さてどうしたものか、と奈綺は考えている。婚儀を挙げ、その婚儀で湯庸に事を起こさせるためにはこの柳帝と仲睦まじい様子を演じてみせねばならぬわけだ。こうして口付けられても、みすみす撥ね退けるわけにいかなくなる。
(……この男)
口腔に柔らかな舌を感じて奈綺は憮然とした。
「噛むか、この女」
唇を離した、と思ったら柳帝の唇端から血が滲み出ていた。噛みついたのである。
相変わらず凶暴な奴だ、と男は嘲笑を浮かべた。
「おまえは正妃だ。今後は柳帝正妃のつもりで振舞え。でないと他の女に喰われるぞ」
まだ気分が乗らない。この男に絶大の信頼を寄せていない、というのもその一因である。目の前で艶めく柳帝の形良い唇を一瞥して、奈綺は寝台に潜りこんだ。
「寝る」
余計な手出しをすればあんたを殺す、と相変わらず物騒な物言いに柳帝は思わず嗤った。
「おまえ」
奈綺の瞳が人知れず光った。桃園へ使いとして出された夕暮れ。女官長から、柳帝に献上する上等の桃を五つほど捥いでこいと云われ、広大な桃園へ入った。その桃園で呼び止められたのである。結蓮、としての空気を存分に纏っていたはずだが。
「おまえ、笠を外せ。名を」
桃園の番人らしい。奈綺は笠を外し、わずかに膝を曲げて敬意を表して見せた。
「結蓮と申します」
「結蓮……ああ、最近入った采女か」
つい、と男が奈綺の頬に指をなぞらせる。気に入らない男だ、と奈綺は内心反吐が出る思いである。他人に触れられるのをひどく嫌う女だ。
「……ふん……巧く化けたものだな」
(ちっ……)
「は、何を……」
「俺は間者だ、湯庸殿下のな」
愚かな男だ、と奈綺は思った。自ら素性を述べるなど、自殺行為に等しい。
奈綺の瞳から結蓮の色が消えうせた。桃園に番人は独りである。どうやらこの男は、もとの番人を殺して自分が番人になりすましたらしい。
「皇帝陛下が何かを企んでいるとは思っていたが……」
「貴様、恥ずかしくないか」
薄色の裳と襲。見るからに動きにくそうな衣裳に、飾り物がしゃらしゃらと音をたてる。その優雅な見目と違って、彼女の唇から吐き出される言葉はひどく殺伐としている。
「何?」
「間者が己の素性を明かしてどうする。まあ……どちらにせよ生きて主のもとへは帰れないだろうが」
「……黙れ。何故舜の『風の者』がこんなところにいる。教えるなら生かしてやっても構わん」
「湯庸殿下を殺すため。それくらい分からないか」
「っは。馬鹿はおまえよ、目的を暴露してどうする? さて、死んで貰うか」
傍目から見れば、奈綺に勝てる見込みはなかった。男に動きを封じられる前に、衣裳が彼女の動きを閉ざす。
「……っぐ」
呻き声をあげたのはしかし、奈綺ではなかった。
男が小さな呻き声をあげてどさりと地面に倒れる。奈綺が針を吹いたのであった。この女は毒針を使う。それも大人が一瞬で死に至るほどの毒を使う。針による傷口は小さく、誰の目にも分からない。斃れた男を一瞥して、奈綺は笠を被りなおした。
さて、この死体をどうしようか。奈綺が桃園に来たことを、女官長たちは知っている。
(まず湯庸は何も言ってこないだろう)
間者を送り込んでいたとは、公言できぬ。とにかく他殺や変死と分からぬようにしてしまえば良い。奈綺は桃園の少し北にある森に目をやった。あの森には狼がいる。
衣の一番下に隠し持っていた小瓶を二つ選び、奈綺はそれを小指の先でくるくると掻き回した。それを男の死体にかけ、草笛を作って三度ほど吹いた。死体を放置したまま桃を幾つか捥ぎ、手持ちの編みかごに入れる。草笛を吹いて少しした頃、森と桃園の境目あたりで獣の咆哮が耳をうった。
(……さて、これで)
あの液体は獣を寄せる。あれを舐めた獣は凶暴性を増し、ご丁寧に放置された生肉を貪るだろう。そうすれば針の傷痕も決して分からない。
『彼は狼に喰い殺されたのだ』。
奈綺は裳裾をそっと持ち上げ、かごを持って桃園を出た。夕陽が沈もうとしている。
かあ、かあ、と鴉が群れをなして森の奥へと飛んでゆく。姫君たちは気味が悪いと嘆くが、奈綺にとっては風情のある景色にしか見えぬ。後方で、一際大きな獣の咆哮が聞こえた。
しかしあまり人を殺してまわるわけにもいかぬ。そう迂闊に外出できないだろう。
外出を避けるためには、やはり柳帝の室に入り浸るしかないのか。あの男と睦むしかないか。しかし面白そうだ、と奈綺が唇を上げた。先程人を殺したことで、少しばかり心が逸っているようだ。萎えていた気持ちが、一気に新鮮な輝きを取り戻した心地がする。
(少しばかり本気でやってみるか)
この大国柳で、思う存分暴れてみるのも悪くはなかろう。
『柳帝即位十載。玉麗采女立后。其人端麗容姿』
――柳帝即位十年。美しき采女柳帝の正妃立后。其の人端麗なる容姿を持つ。
噂は噂を呼び、あの冷酷な柳帝が美しい采女に首ったけだとか、彼女の前では殺生ひとつしないとか、そんな尾鰭までついて噂が広まった。
後宮の妃たちは嫉妬と羨望の瞳で奈綺――いや、ここでは結蓮としておこうか。嫉妬と羨望の瞳で結蓮を見つめ、また身分の低い采女たちもまた羨望の眼差しで結蓮を見つめた。毎夜のように柳帝の寝室に召されるのだから、他の女君たちに嫉妬されてもおかしくはない。嫌がらせも受けたし、身分の高い妃と顔を合わせれば必ず厭味を言われた。
結蓮は健気に耐える。誰の目にもそう映ったから、良識ある大人たちは皆結蓮を不憫に思い、そして柳帝の寵愛を受けることを喜んだ。
「そんなに欲しければくれてやるのに」
愛されるために毎日召されるはずの柳帝の寝室で、まさかこの健気な采女が毒舌を吐いているとは誰も思うまい。結蓮の賢明さと健気さを愛すべきものと思っている文官長が聞けば、驚愕のあまり卒倒してそのまま死んでしまうだろう。
「何を」
「柳帝陛下の寵愛を。貰って何を嬉しいことがあるものか」
柳帝の前で吐き棄てる。怖ろしい根性を、この女は持っている。生きてきた十七年の間に培われたというよりもむしろ、持ってうまれたものだろう。与えられることを、もとから嫌っている節がある。自分で得なければ意味がない、と。そんな頑固な信念を、彼女は持っているのである。
「無礼な女だ。俺の寵愛のおかげで、舜へ帰ることも出来たんだろうが」
ふん、と奈綺が鼻を鳴らす。
「さて、散歩にでも行こうか」
丸窓から陽射しを感じる。午(ひる)から夕暮れに向かうときの、あの独特の陽射しである。何故おまえと散歩など、と言いかけて奈綺は黙った。
これは生業(しごと)だと、もう一度心に言い聞かせる。考えてみれば愉快な生業ではないか、この手であの湯庸を殺すなど。
「ゆくぞ」
一度だけ鬱陶しそうに柳帝を見上げてから、奈綺はわずかに瞬きをした。
「御意」
優麗な微笑み。煌びやかな音をたてる耳飾。豊かに纏めあげられた栗色の髪。
薄桃に紅をさした頬と唇。――結蓮――に豹変する。柳帝も近頃、この娘の脅威の変化力に驚いているのである。滑稽なほどにくるりと変貌する。こうして寝室を一歩出ると、その美貌に奈綺の色は微塵も感じられない。荒ぶる魂も、鋭い焔のような炯眼も、それから野生の獣のような身ごなしも。何もかもがまるで息を潜める。
そこには皇帝の寵愛を一身に受ける女の色香と優しさ、貴族的な柔らかさ。そして今にも手折られるのではないかとさえ思われる、やや間延びした危うさがある。
奈綺が冬の月だとすれば、結蓮は春の月。冷たい闇を切り裂く三日月ではなく、ぼんやりと霞む春の望月である。
同じ人間がこれほどまでに空気を変えることができるのは、やはり『風の者』としての才か。
神泉を散歩している風情でいながら、最初に気配に勘付いたのは奈綺である。おそらく湯庸の間者に違いない。
(……右手の大木に一人)
「冬にしては暖かいな」
「ええ、とても。珍しいこと」
(左手の茂みに一人。その向こうに……二人か)
桃園も神泉も、下男たちの手によって雪の始末は成されている。道脇に積もった雪の粒子が、午後の光を受けてちらちらと輝いていた。音を吸い込んでしまう雪に囲まれながら、奈綺の感覚は正確に間者の居場所と数を捉える。この才というのは、つまり本能に近い。何をどう間違えたか、この女には動物よりも動物らしい勘が備わっているのである。
「陛下……」
潤んだ双眸で『結蓮』は柳帝を見上げた。口づけをせがむような艶やかで可憐な仕草。この結蓮と奈綺の落差に、柳帝はいつも驚愕する。驚愕とともに笑い転げたい衝動に駆られるのだが。神泉の傍らで、柳帝が深々と結蓮の唇を奪う。神泉を流れる水音以外に音はなく、柔らかな衣擦れも息を潜めた。冬の弱い陽射しを受けて、柳帝と結蓮の髪が綺麗に光の縁取りをつくる。深い口づけを受けながら、結蓮は小さく唇を動かした。
――ヒトガイル。
そう唇を動かす。柳帝の眉がぴくりと動き、頷くように彼は瞳を伏せた。視線が絡み合う。鋭い氷のような碧眼と、ゆるるかな栗色の瞳。美しい瞳だ、と結蓮は不思議なものを見る気持ちで彼を見返した。
(……この男……)
歯を割ってすべりこんでくる舌に、内心激怒しながら女は結蓮の顔を保つ。
「早く婚儀を挙げよう、結蓮」
低い声が身体の芯に響き、独特の艶をもって骨の髄を震わせる。この男の声は武具になる。この一声で、女は身体中が溶ける快感に囚われるだろう。
「愛しているよ」
「陛下……」
たいした茶番劇だ、と奈綺は瞳を閉じる。その表情はやはり結蓮のままで、柳帝を慕う麗しい妃の顔そのもの。この柳帝さえも錯覚しそうなほど、恍惚とした表情でしがみついてゆく。俺は本当に結蓮という名の貴族妃を正妃にしようとしているのではなかろうか、と。
「いい娘だ」
強く抱き寄せると、柳帝の鼻を芳しい香りがついた。あの夜、泥鼠のような薄汚い格好で飛び込んできたときとはまるで異なる香り。磨けば光る輝石である。泥まみれのその下に、驚くほどに美しい雪肌を持っているのだ。
「室へ戻りたいか、結蓮」
結蓮は頷いた。少しばかり潤んだ瞳が、柔らかに揺れた。
――ご心配には及びませぬ。
湯庸が寝台に深々と横たわり、美しい女官に身体を揉ませている。
「女と戯れ、如何にもどっぷりとのめりこんでいるようで」
「ほう……美しいか」
「それは、無論。世に稀なる麗しい花の采女でございます」
酒器を片手に、中年の男は笑みを浮かべた。女官たちも何かが麻痺しているのであろう。その笑みがひどく汚らしく吐き気を催すようなものなのに、ただ嬌声をあげて主の身体を揉み、酒を奉る。
「なるほど。婚儀は何時か」
「さて……それは」
美しい采女の姿でも思い浮かべたのであろう。湯庸の鼻腔がわずかに膨らんだ。
酒臭く、肩口にはふけが落ちている。汚い男、といって構わないだろう。
「溺愛する采女を失ったら奴はどうなるかな……?」
ひひ、と湯庸は厭らしい笑い方をする。その笑い声にあわせて、女官たちもまたきゃらきゃらと華やかな笑い声をたてた。
「采女さえ奪えば、何もかも崩れ去る筈でございます。それはもう、目も当てられぬ寵愛ぶりでございましたゆえ」
と、間者は自信ありげに言った。これも無責任な話である。間者であれば柳帝がどのような性質をしているか分かりそうなものなのだが、どうやらこの哀れな間者にはそれが分からぬらしい。
寵愛する采女を奪えば、それが彼の逆鱗に触れるのではないか。今よりさらに冷酷な皇帝に変貌するのではないか。それだけの推測が、この間者にはできないのである。出来の悪い間者をもつことがどれほど怖ろしいことか。己の命にも関わることである、と賢明な主であれば気付いたろう。
しかしこの湯庸という男自体が、そのまま愚鈍を塊にしたような男であるから、まるで自分の間者の無能さが分からない。間者に探らせれば事は都合のよいように運ぶ、そうなかば病的に信じている節がある。
(……豚め)
奈綺にしてみれば、采女さえ奪えばうまくいくと判断する間者が不思議で仕方ないのである。彼女は音もたてずにするすると天井裏を這い、外へ抜ける通気孔を伝った。
柳帝の寝室へ戻るふりをして、湯庸の邸へ走り忍び込んだのである。奈綺にとって、結蓮という別人格の人間が存在することは便利なことであった。柳帝の寝室で夜ごと睦みあっていると他人に信じさせておけば、奈綺はその間自由に動くことができる。危険は初めから承知している。
「貴様、何者ぞ……!」
通気孔から城壁の外へ向かって跳躍した奈綺に、長槍が突きつけられた。数人の――兵ではない。
「貴様、間者か。何を見た、何を聞いた!!」
見るとその数人の男の足裏はひどく傷ついている。山野を駆け、岩場を走り回った踵である。なるほど、間者か。奈綺はすうっ、とひとつ息をついた。
顔を見られては困る。困るが、殺してしまえば奈綺の顔を証だてる者などいない。まして皇帝が寵愛する采女に疑いをかけるなど、ただの度胸では出来るはずもないのだ。奈綺は軽く微笑した。その微笑は、やはり結蓮として見せる優麗なものとは異なる。相手を恐怖に陥れるような――そのわりに殺意の欠片もない微笑である。
「さて、何も……」
一人の男が高く跳躍し、上から槍で狙いを定める。残った二人が小太刀を抜くのは風のように速い動きだったがしかし、奈綺にはまるで通用しない。何故間者をしていながら、たった数人で私を仕留められると思うか。
小太刀を抜こうとした二人の男に手も触れず、奈綺は腰に挟んでいた糸刃扇(しじんせん)を抜いた。扇の形をした武具で、そこにくるくると取り付けられた糸が刃になっている。上手く呼吸を外しすいすいと槍を避ける奈綺に、男たちは三人みな大地に足をつけた。この糸刃扇は、もとを柳に発する。柳の間者が主に使うもので、それを見知らぬ女が取り出したことによって男たちは少なからず動揺した。
この武具は、相当の鍛錬無しには使いこなせぬ。その奥義を知っているのも柳の間者だけなのである。
「貴様いったい……」
「おまえそれを何処で手に入れた!?」
もう一度、と跳躍した男の首が、次の瞬間にはなかった。残る二人が茫然としたのは、奈綺が扇を使いこなしているからではない。あまりにも戦闘に似つかわしくない美しい娘が、平然と糸刃をくるくる弄んでいるからである。
一瞬間をおいてゆっくりと墜ちてきた人間の頭部を、奈綺は思いきり残された二人に向けて蹴り飛ばした。すんでのところで彼らは仲間の頭を避け、飛び退る。
ぐしゃっ、という生々しい音をたてて頭は後ろの大木にぶつかり、そして落ちた。綺麗だった切り口に、雪がへばりつく。雪の大地に血が滲んだ。
「答えろ!! おまえ何処でそれを……」
「まさか……こんなものを使いこなすのは」
それでも間者なのか。こんなところで驚愕していて良いのか、同胞よ。感情をひた隠し、常に無感情のままに生業を果たす。それが間者であろうが、と奈綺は半ば呆れた溜息をついた。慌てて二人が自身の糸刃扇を取り出そうとしたときには、もうすでに遅く。
(初めから何故使わない?)
糸刃扇を使いこなす自信に欠けているのだろう。使い方を誤れば己の腕を切り落としてしまうこともあろうし、確かに殺傷能力は高いものの糸刃が風に流されて使いにくいのだ。まだ若い間者である。糸刃扇を使うことに慣れていないのだろう。
ばしゃっ、と音がして二つの頭が地に落ちた。頭と切り離された胴、そこに申し訳程度にくっついた手足がまだ動いている。
「殺すときには無駄口を叩くな。隙が生まれる」
そっと囁いて、足先で二つの頭を大木のもとへ向けて蹴った。ごろごろ、と音をたてて血に濡れた頭部が三つ並ぶ。最初から最後まで、奈綺の顔には殺気がない。ただ無感動な冷たさが漂っているだけである。この女が怖れられたのは、ひょっとするとその殺意の無さだったかもしれない。殺意の無い人間に殺される恐怖。理不尽さ。こればかりは殺される者にしか理解し得ないだろう。奈綺は一度だけ彼らに向かって合掌してから、やがてすぐに夜の闇に紛れた。
間者は風を怖れる。風向きで猟犬にも臭いを嗅ぎとられようし、風で使いにくくなる武具もある。風が強すぎれば木の上に潜むことも困難だ。しかし奈綺という『風の者』には強みがあった。遥か先代の舜帝がつけたという誇りかな名『風の者』。風のように駆け、風と一体となって生きる。それが『風の者』と名づけられた所以である。
奈綺は風を怖れぬ。それが彼女の力を否が応にも高めてゆく。
持ってうまれた資質と舜帝に戴いたその名を穢せぬという自尊心が、この娘を人間でもない獣でもない不思議な生き物に仕立てあげようとしている。
柳帝婚儀の布令が国中に出されたのは、そろそろ冬が終わろうかという頃である。雪は相変わらず高く積もり積もっていたが、日は確かに長くなりつつあった。
「次の望月の夜だ。いいな」
皇帝の寝室で、奈綺は黙って枕に顔をうずめた。呻くように返事を返す。
「うまくやれ。全ておまえに任せるぞ」
「…………」
昨夜雪の山中で山犬と戯れていたら、どうやら風邪をひいたらしい。柳帝はまるでそんなことに気を遣う様子もなく、酒器を片手に呑気に嗤っている。
「何とか言え。犯すぞ」
「……黙れ。借りは返すと言った」
寝返りをうって奈綺はまっすぐに柳帝を睨みあげた。風邪をひくなど幼い頃以来の珍事である。身体のだるさに苛々して、奈綺はもう幾度か寝返りをうった。瞼が重く、関節が痛む。朝起きてから玉子粥を食ったのだが、その満腹感が異常なほどの眠気を誘って奈綺を襲うのである。
「冬の夜に雪山で山犬と戯れて風邪をひくなど……」
酒器を持ったまま男は奈綺の眠る寝台にゆったりと腰をおろした。
「おまえは間抜けか」
柳の雪は湿っぽい。そう身体に良いものではないことを、すっかり忘れていた。ほぼ人生で初めてに近い風邪に、自分で自分の間抜けさを呪ったが。
「…………」
この男に言われるとひどく腹立たしい。熱があがりそうだ、と奈綺は柳帝を避けるようにそっぽを向いた。しかし近頃さらに腹立たしく感じることがある。
(柳など……)
いつか滅ぼしてやる、と内心憤ってみせる。柳帝の傍らでのみ本性を出せる現状。彼の寝室へゆくときが最も安堵するという自分に、奈綺は憎悪に近いものすら感じていた。この女はともかく気が強い。負けん気が強すぎるのである。
「婚儀までに治せ。俺が看病してやろうよ、つきっきりでな」
ふざけるな、と起き上がろうとして、額を強く小突かれ倒れる。この野郎、と思ったのも束の間。確かに婚儀までに体調を治さねば、と大人しく奈綺は寝台にもぐりこんだ。
【満月の宵 前編】
望月耀冬更夜 冬の更夜に月耀きけり
常夜寂光汝照 夜常に寂光汝を照らす
映雪金光煌放 月光雪に映り煌輝を放つ
視彼眼前貴人 彼の貴人眼前に視ては
宿命流如蒼河 蒼河の如く宿命流るる
春が近づいている。太陽が少しずつ暖かさを増し、積もった雪をきらきらと照らしていた。婚儀の布令が出てからは、人が変わったように奈綺は大人しく畏まっている。
風邪をひいたこともあり、柳帝の寝室に引きずり込まれたまま動けなかったのである。
「奈綺」
「…………」
奈綺は無言のままで男を見上げた。この女のまっすぐな瞳がいい、と柳帝は思った。
確かに驚くほど冷ややかで無感情な双眸だが、この奥にはきっと情がある。少なくとも柳帝はそう感じている。
「大蟲がそろそろ躍起になりはじめている。俺でなくおまえが狙われているな」
「…………」
ふん、と奈綺が鼻を鳴らす。そんなことは百も承知で、この女にとってみればそれは取るに足らないことなのである。今更顔色を変えて怯える必要もあるまい。
「まったくおまえもとんだ化け猫だ」
髪を乱暴に掻きあげて、奈綺は寝台の脇にある水差しから器に水を注いだ。
室の中はよく温まっており、そのせいか水差しから移した水も幾分ぬるくなっている。瑠璃の器から水を一気に飲み干して、奈綺は寝台にゆったりと寝そべっている男を避けるようにして窓際へ歩み寄った。ここ最近、万一のことを考えて奈綺は柳帝の寝室に籠っている。二人の間に艶めいた睦み事はなく、ただ日々を暮らしているだけだった。
あまりにも平穏すぎる日々に奈綺は幾度か室を飛び出そうとしたが、柳帝に無理やり引き戻された。
「奈綺、水を」
自分のすぐ近くに水差しがあるにも関わらず、奈綺に向かって顎をしゃくってみせる。その腹立たしい仕草に、奈綺は視線を逸らした。自分で入れろ、という彼女なりの合図なのである。窓の外に視線を投げたまま微動だにしない奈綺を一瞥して、柳帝は小さく笑い自ら水差しを手にとった。
風が、木々を揺らしていく。
(…………)
奈綺の双眸が、ふと緩んだ。静かに窓に布をおろし、足音も立てずに柳帝の隣にひょいと腰かけた。
「今宵は自室に戻る」
「何故」
「間者が」
「ふん……」
柳帝の飲みかけた水を、無礼にも無造作に飲み干す。飲み干して、寝台の傍に脱ぎ捨ててあった薄桃色の襲と単衣を重ねて羽織った。腰帯を締め、長く華やかな裳を背後に垂らす。あっというまに結蓮の姿、まるで各地を練り歩く芸劇団の俳優(わざなぎ)のように見えた。
立ち上がった奈綺の肩を、柳帝がそっと抱く。その手に彼らしからぬ温かみを感じて、奈綺はただ口を閉ざす。
「奈綺……いや、結蓮か」
ぱちぱち、と暖炉の火が音をたてて弾けた。
「結蓮。無茶はしてくれるな、おまえは俺の正妃になる女だ」
時折見せる人間らしい表情が、この男をより魅惑的にしているのかもしれない。
後宮の南隅にある妃君の一室。これが奈綺に与えられた私室で、柳帝に召されればここから彼の寝室へと上がるのだ。白梅紅梅の丁寧な刺繍が施された豪奢な掛布の中には、鴨の羽毛がふんだんに使われている。この時期にはたいそう暖かく、奈綺の身体を包んだ。
彼女には予感がある。昼間に柳帝の寝室で、窓外を見やっていたときに感じた気配。風の動きで察した間者の気配である。まるで獣のように風を味方につけている奈綺は、ただ風のひとふきだけで様々なものを感じ取った。
布団にもぐりこみ、瞳を閉じて寝息をたてる。
枕元には夕食の膳が置きっぱなしにされており、酒器には飲みかけの火酒がたぷたぷと揺れていた。酒の面に、室内の薄明かりがゆらりと映っている。窓の鍵は閉めていなかった。
(…………)
遅い、と思いながら奈綺はただじっと規則正しい寝息をたてた。
――…………。
おそらく真夜中。女官も文武官も皆寝静まったであろうと思われる夜更け頃、奈綺は静かに腰の小太刀に手をかけた。何の物音もしなかったが、窓からの気配に奈綺はしっかりと気付いている。枕元に人が立つ気配が、奈綺を襲った。
夕食の膳を物色しているらしく、その人間が膳やら酒器やらに視線を動かしているのも手にとるように分かる。奈綺はわざと、潤んだ瞳をうっすらと開けて寝返りをうった。
空気が静かに動くのが分かった。太刀だ、と思った瞬間に布団を跳ね上げ寝台から飛びのいた。
「――…………っ!!」
寝息をたてていたはずの女が不意に飛びのいたために、真夜中の闖入者は小さく息を呑む。跳ね上げた布団が膳の上に舞い落ち、はずみに酒器がごとんと床に転げ落ちた。
ふわり、と強い酒の匂いが漂った。
「……訊こう。貴様、何を企んでいる」
若い男である。見たことのない顔だが、湯庸の差し向けた間者に違いない。
薄暗い室内には小さな灯りしか立てておらず、その男がどのような顔色をしているのか一瞥しただけでは見てとれなかった。奈綺は薄桃色の上品な襲を身に纏ったまま、その男とまっすぐに対峙する。小柄な男で、奈綺よりもほんのわずか背が高い程度のように見えた。
「答えろ、何を企んでいる」
低く抑えた声が威圧的である。
「何か企んでいるように見えましょうか」
くすん、とこの不思議な女は鼻を鳴らして嗤った。言葉尻だけは珍しく丁寧である。
人を挑発することにかけては、柳帝に引けをとらない。奈綺がただじっと彼の顔を凝視すると、男は思わず目を逸らす。相手を威圧するには相手の眉間を見つめるだけで良い。
「……見える。何を企んでいるか答えろ。そうすれば命だけは助けてやろう」
奈綺の唇が鋭く上がった。美しい容貌に薄灯かりが影をつくり、それが一層この女の凄みをひどくしている。
改めていえば、やはりこの女は美しいといえよう。すらりとした身体には一分の隙もなく、鼻筋が通った彫りの深い顔立ちをしている。これだけ人目を惹く美貌をしていながら、隠密間者――『風の者』として生きているというのは奇跡に近いことかもしれない。
「私は何も企んでなどいませんが」
「柳帝と組んで何を考えているのか、教えて貰いたいな。姫よ」
男が太刀を下げたままうっすらと笑った。
「何を惚けたことを仰っておられるか。このような夜更けに人の室に忍びこんでくるほうが何かを企んでおいでなのでは」
奈綺が緩やかに双眸を歪めてみせた。こうして優しそうな表情をしてみせると、何ともいえない優美で可愛らしい笑顔に思われる。その笑顔のままで、奈綺は後ろ手から器用に小太刀を風のような速さで相手に投げつけた。
さすがにここまで忍びこんでくるだけの間者である、すんでのところで顔を傾けて小太刀をかわす。小太刀がかつん、と渇いた音をたてて寝台の後ろの壁にぶつかった。
「……どうやら死にたいと見える」
男が太刀を流れるように振り回す。それがまるで手品のように、二人の視界を少々遮っていた織布を切り裂いた。はらはらと布の切れ端が落ちていく。奈綺はその布の切れ端を狙って、腰に挟んでいた残り三本の小太刀を力いっぱい投げつけた。
「……それで俺を殺せるとでも?」
小太刀はそれぞれ男の袖口や服裾を突いただけである。男はにやりと嘲笑して、太刀を上段に構えた……――その瞬間。
「……っぐ!?」
口の中から鮮血がごぼりと吐き出された。男の服を切り裂いたのは二本の小太刀で、残りの一本は奈綺の微妙な手の動きによって巧みに操られ、男の背後に飛んでいたのである。それがくるくると旋回を繰り返しながら、男の背を捻り抉った。
何故こんなにもあっけないのだろう、と奈綺は床に這いつくばった男を見て思う。おそらく奈綺が女である故であろう。そのふとした時に見せる優しい美貌が理由なのだろう、と。
「運が悪かったな」
呟いて、その綺麗な顔。その静謐とした表情を崩さずに、毒針を彼の首筋に打ち込んだ。窓を開け放していたせいで、指先が幾分冷えている。男がこときれるのを確認してから、奈綺は窓の傍に歩み寄った。
「何をしている」
奈綺は小さく呟いた。
――後宮の妃君たちの室は、宮殿の一階にある。その窓際から下をのぞくと、一人の男が月光を後ろに影をつくり、凛とした立ち姿を見せていた。
【満月の宵 中編】
「陛下の命だ、おまえの様子を見て必要であれば力になれと」
「それでのこのことやって来たのか、陛下を置いて」
考えてみればそれは、懐かしい顔だった。ともかく顔を合わせれば口喧嘩の絶えない好敵手。音もなくその男は窓枠を乗り越えて室の中へ入り、そっと窓を閉めた。
その身のこなしは、奈綺によく似ている。気配がない。暗闇に紛れる黒猫のようにひっそりとしているわりに、その双眸には力が漲っていた。
「陛下を置いて柳なんぞにやってきたおまえに言われたくないな」
「……支岐」
あんたは喧嘩を売りに来たのか、と奈綺は不機嫌に呟いた。
「私が来たんだから、わざわざあんたまで来ることはない」
「俺を追い返すってことは、陛下の命に背くも同然だぜ。俺は陛下の命で来たんだから」
「私の力になりに、か……」
寝台の脇に倒れ伏している湯庸の間者を、奈綺は感情のない瞳で見下ろす。
冷え冷えとした瞳には、もはや結蓮の気配は欠片も残っていない。
「ならこれの始末を。山犬にでも襲われたように見せかけて捨ててくれれば良い」
支岐が男の顔を沓先で上向ける。ふん、と鼻を鳴らして死体を担ごうとした支岐の眉がぴくりと動いた。
「奈綺、いるぞ――……二人、三人……いや四人」
窓の外の気配に、彼が先に気付く。湯庸の間者に違いなかった。この男一人ではなかったのか、と奈綺はすでに硬直し始めている死体を鬱陶しそうに睨みおろす。
おそらく仲間が奈綺に返り討ちされたことに気付いて慌ててやって来たのだろう。
「どうする、外に出るか」
支岐が窓のほうに目をやりながら奈綺に伺いをたてた。舜の国内では犬猿の仲である、しかしひとたび生業のこととなれば、この男ほどぴたりと息の合う仲間もいなかった。
奈綺も支岐も舜が誇るべき『風の者』である。
「やむを得ない。出よう」
後宮の一室でこれ以上騒ぎを起こすわけにはいかない。人の目を覚ますわけにはいかなかった。二人は静かに窓を開け、少し下の大地にひたりと飛び降りた。
素早く周りに視線をやってみても、誰もいない。ただ数人の気配がこちらを窺っていることだけは、痛いほどに分かった。宮廷の南側に位置する桃園、その脇には小さな森がある。
「…………」
無言のまま、奈綺は小さくその方向を顎でしゃくって見せた。
――そして駆ける。背後にやはり静かに追ってくる気配を感じながら。
あっという間に辿りついた森のはずれで、二人は音もたてずに大地の雪を踏みしめて走る。足跡で居場所が知れるため、ともかく支岐を残して奈綺はまっすぐに先を目指した。 一度だけ振り返ると、支岐の姿はとうに消えうせている。木に登ったのだろう。
(……湯庸も賭けに出ているのか)
己の将来が、柳帝の婚儀によって大きく左右されるのである。必死になるのも分からない話ではなかった。しかしあの男は器ではない、と奈綺はひっそりと思う。
あの男には皇帝としての精彩がない。あれが皇帝になれば瞬く間に国は傾き、周辺諸国から戦を仕掛けられるだろう。柳帝があの性格であるにも関わらず、この国を平和に治めているということは。
(あの男にそれだけの器があるということだ)
森の木々の間から、黄金色に輝く月が覗いている。望月にはまだ間があるだろう、あれが満ちる夜に奈綺と――いや、結蓮といったほうが正しいだろう――柳帝の婚儀が行われる。
それまでともかく、事を荒立てるわけにはいかぬ。確実に湯庸は仕留めねばならない獲物なのである。これで事を仕損じては己の恥、ひいては『風の者』としての恥になると、この美しく気高い女は思っている。
「…………」
奈綺の鋭い感覚が、ずっと背後のほうで雪が足で踏み崩される気配を捉えた。支岐と敵方が鉢合わせたのだろう。それを察して奈綺はくるりと踵を返した。支岐の居場所を的確に捉え、四人の間者を挟みうちにできる方向へ回り込む。
そろそろ湯庸も、間者の中で優位にたつ者を寄越してきたらしい。四人がそれぞれ糸刃扇を使いこなし、支岐はそれを避けることに幾分時間をとられていた。
いやしかし、四つの糸刃扇を避けていること自体が神業なのである。月光に反射する雪の光で、それでなくとも舞い狂う糸刃は目で捉えにくい。
それをおそらく糸刃のつくる風だけを頼りに避けているのだろう。風をこの上ない味方とする『風の者』に見られる、特殊かつ最高の能力でもあった。
「…………っ!」
支岐の背後に回ろうとした二人の間者が、大木の脇に佇んでいた奈綺に気付いた。
支岐がいかにも腹立たしげに唇を歪めたのが見えて、思わず奈綺は笑いそうになる。そんなところでぼんやり人が闘うのを傍観しているな、とでも言いたいのだろう。
舜の間者とばれるわけにはいかない。奈綺は四人の持つそれと同じものを、ひょいと懐から取り出した。奈綺のほうを向いている二人の顔色が変わった。
柳の間者における秘奥――糸刃扇。それをこの女が何故持っているのか。
二人に顕れた一瞬の、それもたいそう微かな動揺を奈綺は見逃さない。動揺はうつる。 二人の小さな動揺はもう二人の間者にも見事に転移し、それを支岐もまた見逃さなかった。奈綺の糸刃扇から風に乗せて糸刃が繰り出され、一人の男がそれを転がりながらかろうじて避ける。
しかし幾重の輪をつくって繰り出された糸刃を一度避けただけでは意味がなく、次々と飛んでくる鋭い刃は男の手首と腰を立て続けに切断した。ぱっくりと裂けた胴と手首の切り口からまるで噴水のように鮮血が飛び散り、雪の上が美しい絵でも描かれたかのように華やかに彩られる。
奈綺が一人を殺したことによって、均衡が崩れた。一瞬あっけにとられた三人のうち、最初に我にかえった男を支岐が襲った。
「貴様ら、どこの……!」
どこの国の者だ、と言いたかったのかもしれない。
しかし叫ぶ途中で支岐の飛ばした毒針は男の眼を突き視力を奪い、それと同時に小太刀が喉元を掻き切った。血の迸る、しゃあっという音が小さく響く。
無言の、殺しだった。残った二人の糸刃扇は、すでに使い物にならない。支岐は続けて自分の傍まで忍び寄ってきていた男の糸刃をすんでで避け、彼の胸元に飛び込んだ。
「……なっ!?」
大胆な性格は幼い頃からである。糸刃が少々頬を掠ることなど欠片も厭わずに支岐はそのまま相手の胸元に入り、心の臓に小太刀を深々と突っ込んだ。
ぐぶぐぶ、と太刀が肉にもぐりこむ厭な音がする。それを突きたてたまま支岐は視線をあげた。
「避けな」
奈綺の静かな声が飛び、支岐が飛びのいたそこに大きな男の死体がどさりと落ちた。
首がない。糸刃扇で切り離された切り口は、切れ味のよい包丁で叩ききった大人参のように美しい。そこから噴き出る鮮血が、幾滴か支岐の頬にかかった。
「……済んだか……」
支岐が小さく呟く。奈綺が身体についた雪を軽く払って、腰帯の奥から小瓶を取り出した。狼寄せの薬であった。月はまだ傾いてもいない。二人が後宮を出てから、まだ一刻も経ってはいなかった。室に置きっぱなしの死体を持ってきな、と奈綺は呟くように言い放つ。何を偉そうに、と支岐は幾度か舌打ちをしてから森をあとにした。
(…………)
怒りながらも従う彼の後ろ姿を見ながら、奈綺は深く溜息をつく。望月の宵は、確実に近づいてきている。その宵が、湯庸の息の根を止める時であった。
【満月の宵 後編】
――今宵、満月が昇る。
薄い純白の絹肌着を着る。
足首にしゃらしゃらと音をたてる百日紅を象った足結(あゆい)を結び、流れるような白い裳をふわりと後ろから羽織らされた。足を動かすたびに、飾りがしゃらしゃらと透明な音をたてる。婚礼衣裳の世話をしてくれている女官長は、まるで自分のことであるかのように嬉々とした表情で奈綺を見つめた。
「陛下に見初められて良かったね、幸せになれるよ」
母親のような口ぶりである。奈綺は苦笑して愛想程度に頷いた。
まさかこれが偽りの婚儀だとは、思ってもいないに違いない。白裳の上から、婚儀に使う上等の白絹をもう一単衣羽織る。先ほど身につけた白裳よりもずっしりと重く、それはまるで奈綺の身動きを封じようと躍起になっている気がした。
「女官長様、婚儀の準備はすでに整っております」
「ええ、分かりましたよ」
采女が恭しく奈綺に拱手する。彼女に拱手されるほどの身分ではなかったし、むしろこの采女のほうが余程奈綺よりも身分が保証されているだろう。幾分滑稽な思いを噛み殺しながら、奈綺は軽く微笑を返した。
「さ、結蓮。これからはあなたをこうして軽々しく呼ぶことも出来なくなる……」
そう言って女官長は、最後に金色の豪奢な刺繍と縁どりがほどこされた襲(おすい)を奈綺の後ろから優しくかけた。そして黄金色の美しい桃花の髪飾を、髪ざしの左右にしっかりと挿す。
髪飾のずっしりとした重みが、奈綺を憂鬱にさせた。柳帝の寵姫という立場は凄いものだ、と改めて思う。同じ身分として並びたっていた筈の采女が、軒並み頭を垂れて奈綺に敬意を表す。
その光景が滑稽であり、同時に何故か切なくもあった。
「ではゆきましょう」
女官長が微笑んだ。
「貴女は世の誰よりも花のように美しく、誰よりも星のように輝きを放つお方です。正妃殿下に幸多からんことを」
祝い言葉を述べるのが、婚儀前の女官長の役目でもある。彼女の言葉を微笑みで受けて、奈綺は前後を采女二人ずつに挟まれて室を後にした。
婚儀が行われる謁見の大広間に行くまでに、長い回廊を幾曲がりかする。
回廊から外を見ればすでに陽は暮れており、庭のあちこちに篝火がゆらゆらと揺れていた。西の空には、まるく大きな満月が顔を見せている。
少し暖かくなってきた夜風が、奈綺の頬をゆっくりとなぶって流れていった。
謁見の広間へ通じる最後の大回廊を歩ききり、居並ぶ文武官や女官たちが拱手するなか広間の扉が開かれた。
天空に昇っていく龍と、河沿いに揺れる柳が描かれた荘重な両開きの扉が開かれたその向こうに、玉座につく柳帝の姿を垣間見える。
柳帝の意であるのだろう、国中の重鎮及び大豪族たちは首を並べていたが、他国の皇族は来賓として招いていないようだった。
女官に導かれるまま、奈綺は客賓たちの間を通り、玉座の前にひざまずく。柳帝の左隣、玉座から幾ばかりか低い場所に湯庸の席が設けられていた。声は一切ない。
ただ奈綺の――いや、婚儀衣裳を着た結蓮の美しさに息を呑む気配だけが広間に満ち満ちる。
「――……汝を」
柳帝の厳かな声が響いた。客賓の前にはすでに婚儀の豪奢な膳が用意されている。
瞬時に様々な光景を眼に留めながら、奈綺は視線を伏せて柳帝の声を聞いた。
「汝を柳国第十四代皇帝朕の正妃に迎うることを誓う」
視線を伏せたまま、顔を少しだけあげる。婚儀で、奈綺が言葉を発する機会はない。
嫌というほど教え込まれた作法通りに、事を進めていくしかなかった。
「杯を交わせ」
柳帝の言葉で、着飾った美しい女官たちが膳をひとつ運んでくる。ここで柳帝よりも年配の皇帝直系血縁者は湯庸しかいない。
皇帝の正妃は、夫である帝の血縁者と杯を交わさねばならなかった。そのための膳である。黒い鉄器の酒器と、切子の杯がふたつき。
(……厨房の采女には悪いが……仕方あるまい)
奈綺は開けてあった鉄器の蓋を閉め、二つの杯に酒を並々と注いだ。先に湯庸の杯、次に自分の杯。
これも作法通りである。
「妃よ、杯を」
奈綺が杯の酒を一気に飲み干した。
「叔父上、杯を」
湯庸が杯の酒を一気に飲み干した――……その瞬間にふらりと体勢を崩したのは奈綺である。奈綺が口許を押さえ、上体を崩した。
「…………っ」
咳き込む。
奈綺の唇から、鮮血がつと滴り落ちた。吐血である。がたり、と音をたてて立ち上がった柳帝の顔が動揺しているのが分かった。皇帝の動揺は伝染し、あっというまに広間が大騒ぎになる。柳帝が薬師を呼べと怒鳴る声が響いた。
(死ね、湯庸……)
驚いて湯庸が立ち上がろうと。
「ぐ……げぇっ」
立ち上がろうとした瞬間、湯庸の口からも奈綺と同じように鮮血が迸った。
息が出来ないらしく、喉を掻きむしっている。あっというまに喉にみみず腫れができた。奈綺もまた同じように喉に手をあて、か細い悲鳴をあげる。
呼ばれた薬師が広間に走りこんできたときには、湯庸はすでに意識を失っており、奈綺もまた意識が朦朧とした状況に落ちていた。薬師が、湯庸と奈綺の両人の脈をとり、瞳孔を確認する。そして奈綺のほうへ駆け寄ってしゃがみこむと、何か薬らしいものを手早く調合して薄く開けられた奈綺の唇から流し込んだ。
「薬師、叔父上も早く看て差し上げろ!」
柳帝が怒鳴る。薬師は、口許まであげていた黒い布を片手で軽く押し下げて恭しく拱手した。
「お言葉ながら陛下」
奈綺の首がかくんと垂れる。顔色は見るからに蒼白で、死んでしまったのかと思うほどに血の気がない。
「湯庸殿下は見込みがございませぬ。あまりに強い毒を一気に胃の腑に流しこまれた所為でございます」
「妃は!?」
側近が柳帝に代わって薬師に怒鳴った。
「妃殿下も相当毒をお飲みになっておられます。まだ分かりませぬが……こちらの殿下よりも回復の見込みがあるかと」
「……まことか」
「はい。妃殿下は御婚儀の前に何か召し上がられましたか」
婚儀前の妃は、白粥と桃酒を少々食すことになっている。これは柳独特の作法で、これが一年間の豊饒と桃園の繁栄を祈る儀式も兼ねているのだ。
それを側近が答えると、薬師はなるほど、というように幾分わざとらしく頷いた。
「こちらの殿下は?」
湯庸を指す。湯庸は、すでに唇から泡を吹いて哀れに倒れ伏していた。
薬師が奈綺のあとに飲ませた薬もすでに効かなかったようである。脈がないことを確認した幾人かの文武官が、皇族逝去時の作法通りに左右の袖口を二度ずつ瞼にあて、拱手した。
「殿下は何も召し上がっておられぬ。婚儀の膳があるから、と」
湯庸の側近が遠慮がちに口を挟んだ。
「おそらくそれが原因でしょう。妃殿下は少なからず胃の腑に入れておられた所為で、毒のまわりが遅かったのでございます。殿下は空の胃の腑に急激に酒を召された所為で、毒もまた急激にお身体にまわったのでございましょう……」
畏れながら回復の見込みが高い妃殿下の治癒を優先させていただきました、と薬師は恐縮しながらそう言った。
「…………婚儀は中止だ」
柳帝が凛と響く声で言った。すでにその顔は皇帝のもので、まるで冷静そのものである。
この男の堂々とした風情に気圧されるように、客賓たちは口を噤んだ。彼らもどうして良いか分からないのである。
「湯庸殿下の喪儀を行わねばならぬ。取り急ぎ準備せよ、いいな」
「御意」
女官や文武官が慌ただしく動き始めた。その中で奈綺は薬師と女官長によって運び出される。
「叔父上の喪儀が終わるまでは婚儀は執り行わぬこととする。早急に喪儀に入る用意をせよ、妃は身体が安定するまで安静にさせておけ」
「御意」
柳帝の的確かつ堂々とした采配に、皆幾分安堵したように息をつく。
このような祝いの儀式時に、人が死ぬなどあってはならないことである。とんでもない禍事(まがごと)に、誰もが動揺していた。それが柳帝の采配によって動揺から解き放たれたようである。
皆がそれぞれの役目を果たすために動き出し、また客賓たちは宮中で喪儀に入る準備をするために広間を後にしはじめる。
「何かあれば私に伝えよ」
「御意」
衣を翻して、柳帝は自室へ向かう。その双眸が、一瞬深く鋭く光を放った。
こみあげてくる笑いを、この男は何とか噛みころす。
――この国最大の叛乱分子は葬り去った。
「…………」
奈綺が運び込まれたはずの室を一顧だにせず通りすぎ、彼は黙って自室に引き取った。
『――柳帝即位十載。皇湯庸逝去。柳帝中罷婚儀。是日以入喪儀』
――柳帝即位十年。皇族湯庸逝去す。帝婚儀を中途で罷め、此の日を以って喪儀に入る。
【闇夜の月光】
「――…………」
寝台に横たわる婚儀衣裳の女の顔は、青白い。血の気が失せ、実は死んでいるのではなかろうかと思うほどひっそりとそこに横たわっている。
「貴様の息の根を止めれば……」
寝台の傍らに忍び寄った男は、そう微かに呟いた。昏々と眠る女に幾分哀れみを感じているような色が覗くが、それでもそれを振り払うように袂から小瓶を取り出した。
寝台の脇にある卓子の上に、整然と置かれていた水差しの中に小瓶の中身を幾滴か垂らす。
鳥兜から採取した猛毒で、たったその一滴でも人が五人ほど死ぬに値する。それを男は、二滴三滴ほど使った。確かに毒中りで眠っている妃を暗殺するには、毒でもって殺すのが最も怪しまれぬ方法であろう。
「湯庸殿下の恨みを晴らすのは俺の役目だ……」
踵を返して、扉のほうまで歩いた男の足が止まった。その顔色が青ざめた。
「き……貴様、謀ったか……」
男の耳元で、ふふ、と微笑む微かな気配がする。
奈綺だった。小太刀の冷たい刃を男の喉もとに当てたまま、奈綺は何ともいえない優麗な笑みを彼に向ける。
「何を惚けたことを……。謀るも何も、私は暗殺されそうにまでなったというのに」
落ち着きすぎている感さえ漂う声色。
婚儀衣裳は身体に纏いつき、それはひどく重く奈綺の自由を奪う。しかしそれでも奈綺は物怖じしない。徹底的に気配を消し、一撃で相手を斃すことに命を賭ける。
「……貴様も毒を呑んだはずだ」
「毒に慣れるのも生業のひとつと考えているのでね」
「――……っ」
男が逆に奈綺の腕を捩じ伏せようとしたが、時はすでに遅く。奈綺の小太刀がすっぱりと男の喉を掻っ捌いていた。
「喋りすぎた所為で、私の気配を掴みそこねたな」
男の唇が何かを言いたげにぱくぱくと動いたが、しかしすでに言葉はない。
巧みに男の身体を盾にしたため、奈綺は返り血ひとつ浴びなかった。
青ざめた顔色と美しく華やかな婚儀衣裳のままで、男を血祭りにあげて微笑んでいる。それはまるで柳に延々と伝わる戦の女神のような様相さえ呈していた。ほんの血の一滴も浴びないように留意しながら、奈綺は男の身体を床にそっと下ろす。
そして草笛を一度二度吹いてから、水差しの中の臭いを嗅いだ。小さく小首を傾げてから、再び卓子の上に置いた。
斃れた男を一瞥してから、静かに寝台にもぐりこむ。宮廷内はすでに静まりかえっており、先刻婚儀が無残な結果に終わったことなど微塵も感じさせないほど静謐とした静けさがあたりを支配しているのが分かった。
「呼んだか」
窓が音もなく開閉される気配がして、奈綺はそっと上体を起こした。支岐である。
「湯庸はどうした」
「死んださ。あの時点で息はあったが、運び出す途中で完全にこときれた」
「……礼を言うわ。で、ついでにこれも始末して」
「本当に良い性格をしてる。だいたいさっきだって、おまえどれ程服毒したんだ?」
溜息をつきながら、支岐が軽々と倒れ伏している間者を担ぎ上げる。
「湯庸と同じだけ」
無謀なことを、と支岐は舌打ちをした。先刻婚儀の席で湯庸と奈綺の容態を診たのは、この男である。
どちらかと言えば武具を使いこなすのが巧みな奈綺に比べて、この男は毒術に詳しい。奈綺が少し前から招び寄せ、渡来の薬師として宮廷内に滑りこませていたのである。
「おまえの身体はいったい何で出来ているんだ」
骨と皮とそれから血肉さ、とうそぶいて奈綺は嘲笑した。犬猿の仲である支岐だったが、生業のうえでこれほど頼りになる相棒もいなかった。
礼を言う、といいながらまるで有難いと思っている風情がないが、これでも彼女なりに感謝の念を表しているのだ。
「とりあえず始末してくるさ」
「支岐、あとこれも。臭う」
言って奈綺は、枕元の水差しを支岐に差し出した。
「落ち着くまでは薬師としてここに居る。ほとぼりが冷めたら国へ帰るさ」
「ああ」
水差しを左手に、男を右肩に担いで、支岐はひょいと窓枠を乗り越えて姿を消した。
「おまえの身体はいったい何で出来ているんだ」
奈綺はひとつ溜息をついた。婚儀の翌日、ようやく陽が傾きはじめるという頃になって柳帝が室へ入ってきたのである。支岐と同じことを訊くな、と奈綺は唇をへの字に曲げた。
「おまえも毒を呑んだんだろう」
「あれくらいで死にはしない」
この女は『風の者』である。
『風の者』ほど過酷な幼少時代を過ごす子供はいないだろう。
師匠が子どもたちの体質を見ながら、徹底的に闘う力を叩きこむ。ついていけない子供は捨てられるか殺されるか、どちらにしても悲惨な結末を迎えるしかなく。
「…………」
柳帝は、何ともいえない双眸で奈綺を見つめた。たいした女だ、と半ば呆れているらしい。片眉が妙に下がっている。愉快に思っているのか不快に思っているのか傍目には分からない表情だったが、それでもこの男ならば確かに愉快に思っているのだろう。
「身体は平気か」
奈綺は頷いた。いや、まったく平気といえば偽りになろう。湯庸を確実に殺すために、酒器に多めの毒を垂らしたことは事実である。
人一人の致死量ほどの毒ならば、呑んでも当然平気であったが、さすがにあれだけの毒を呑めば少々胃袋が痛む。婚儀の席から運ばれる際には、幾度か本気で吐いた。
――――奈綺は、幼い頃から毎日のように少量の毒を呑みつづけてきている。
日々幾年も毒を呑み続けることで、身体は人一人の致死量程度には軽く耐えられるほどに毒慣れする。
最初は毒を身体が受けつけず、何度も意識を手放し物を吐き、そのうえ師匠に殴られたりもしたが、今ではこれほど役に立つ体質はない。
此の度だって例外ではなく。湯庸と同じ酒を呑んだために、奈綺が殺しの下手人として疑われることはない。
間者には疑う者もあっただろうが、事の真相を知ろうと動けば奈綺が支岐が殺す。間者の動きさえ封じてしまえば、湯庸の死は完全に闇の中へ葬り去られるだろう。
たとえ奈綺が怪しい、と噂がたったとしても証拠がない。そしてこの国の最高位の人間が指図したことである、柳帝が柳帝である限り窮地に立たされることはないだろう。
何かあれば舜に帰ればそれで良い。
「……湯庸の喪儀が終われば、今度こそ婚儀を挙げるぞ」
ふん、と奈綺は嗤った。よく考えれば囚われているのだ、この男に。
借りを返した今となっては、もうすでに舜へ帰ってもいい筈だった。それが結局まだ柳に居座ることになっている。
「逃げようなどと思うなよ」
心情を隠すことに長けている奈綺だったが、それでも時折この傲慢な男が己の心中を見抜いてくるのが腹立たしい。そして腹立たしい、と思っている自分がまた腹立たしい。
しかし湯庸が毒殺された直後に正妃が消えるのもまずかろう。
ともかく己の生業を全うするとか、そういったことにかけては人一倍律儀なところを併せ持っている奈綺という女が、まさかここで逃げるわけがなかった。
(……舜には彩がいる)
それが小さな安堵を誘う。舜のことは心配せずとも良いだろう。
彩が舜の命運を握っているということは、逆に奈綺が柳の命運を握っているということだ。
殺そうと思えばいつでも柳帝を殺せる場所に、いるということだ。
「……何を考えている」
「何も。借りはもう返したと思うから、次の婚儀はこちらの貸しね」
平然と言い放つ奈綺を軽く見下ろして、柳帝は喉を震わせて嗤った。
――湯庸の喪儀は、ふた月後に終わる。その頃にはこの北国にも初夏が訪れているだろう。
【海がみたくて】
初夏茫洋広海 初夏茫洋と海広がり
燦燦輝日眼前 眼前に日燦々と輝く
虚空映新緑涼 新緑涼やかに虚空に映る
大柳厳然立聳 大国柳厳然と聳え立ち
風無限揺木々 風無限に木々を揺らす
横たわる男の腹を、奈綺は小太刀で横一文字に切り裂いた。柳の間者ではない。
柳に隣接する西国昌(しょう)との国境を越えてきたと思われる男である。
奈綺が目に留めたときには何故か彼は足取りも覚束ないままふらふらとしており、間者にしてはひどくあっさりと息を引き取った。
「…………」
腹の薄皮一枚を隔てて赤黒い血肉と白い骨が垣間見える。腹中で渦巻く余計な臓物を掻きだして草叢(くさむら)に放り、奈綺の手は見事に胃袋だけを切り開いた。
初夏の真夜中。新月で、星灯りも奈綺の手元には届かない。まったく光のない闇の中で、奈綺はただ的確に手を動かしてゆく。
辺りはほぼ無音に近く、時折虫の音が仄かに聞こえる程度であった。
(……飢饉に内紛か……)
奈綺は切り開いた胃袋の中身を確認して溜息をつく。冬からこの初夏にかけて柳に滞在していたが、それでも隙を見ては間諜を繰り返し、ある程度諸国の動向は掴んでいる。
西の昌で前年から内紛が起こっていることは知っていたが、まさか間者が餓死するほどの飢饉に見舞われているとは思わなかった。
それでなくとも飢饉気味であったのが、おそらく内紛のために蓄えすらも底を突いたのであろう。
男の胃袋の中には、ふた粒ほどの小さな豆。それと飢えに耐えかねて飲み下したのだと思われる木の皮が消化されずに残っているだけだった。頬骨もこけ、同じ間者としてはあまりに哀れな姿でもある。
――ぐぐ……。
ごく低い唸り声が向こうの茂みで聞こえた。血肉の臭いに誘われて山犬が寄ってきている。心配せずとも死体は山犬が食い尽くしてくれるに違いない。
奈綺は再びひとつ溜息をついて、腰をあげた。
背後の気配には、ずいぶん前から気付いている。
「……何をしている」
胸元から糸刃扇の要が覗いているところを見ると、柳の間者であろう。
奈綺は己の顔を隠している黒い布を、念のためにきつく結びなおした。
仮にも柳帝と婚儀を挙げる予定の正妃である。真夜中に男の臓物を引っ張り出しているところを、さすがにおおっぴらにするわけにもゆかぬ。
「見たとおりのこと」
奈綺はあっさりと言い捨てた。振り返る奈綺の正面には一人の男しか居ないが、気配はまだあと三つ。右手草叢に一人、正面奥の大木上に一人、それから――。
(左手後ろの草叢に一人)
――と思った瞬間に後ろから冷たい気配が飛んできた。毒針の嵐である。無数の毒針が後ろから襲ってくるのと同時に、正面の男の手から糸刃扇が繰り出されて奈綺は思わず大地を蹴り上げた。
「女。貴様……」
柳の間者である。まがりなりにも柳帝の力になるべき者たちであり、奈綺としてはそうみだりに殺し尽くしてしまうわけにもいかなかった。
それがこの女にとって、さしあたって最もじれったいことだ。殺すよりもむしろ手加減するほうが難しい。
「貴様、何処の間者だ。見たことのない顔ではないか」
「そのような人間が、何故こんなところで男の腹を割いているというか」
四方からくぐもったような声が聞こえてくる。奈綺は完全に囲まれていた。
どうしようか、と彼女にしては珍しく思い迷う。思い悩んだが結局、後ろから糸刃扇が飛んでくる気配を感じて迷いを打ち消した。迷っていてはこちらが殺される。
(面倒だわ。――許せ、殺す)
軽く合掌しておきながら、軽々と大地を蹴って虚空へ身体を舞い上げた。
四方から飛んでくる糸刃を器用に避け、また左手の小太刀で器用に弾きつつ奈綺は右手首を捻って糸刃扇を操る。みなが認める腕。もともと武具を扱うことにかけては天賦の才能があるらしい。
むしろ柳の間者よりも巧みに糸刃を風に乗せて操り、まず前方から攻撃してきていた男の右方向に糸刃を飛ばすと見せかけて彼の首に。同時に左手の小太刀を器用に右後ろの気配に向けて飛ばし、残りの一人が大木を蹴って奈綺の真上に来たのを察しながらその方向へ向けて口に含んでいた毒針を思いきり吹いた。
前に居た男の首が、あっさりと胴体と離れてゆっくりと落ちていく。雪の冬とは違って、首が土に落ちる鈍い音がはっきりと闇夜に響いた。そしてその一瞬の後、右後ろに居たはずの男が眼を小太刀にやられてよろめき斃れる。
それにとどめを刺そう、と奈綺が糸刃扇を繰り出そうとした。
「――…………っ」
すんでのところで避けた。先ほど真上から奈綺を狙った男だった――奈綺があの速さで飛ばした毒針を彼は避けたらしい。
さすがに柳の間者も雑魚ばかりではないか、と舌打ちしながら、それでも奈綺は巧みに糸刃を飛ばして眼の潰れた男の手足を絡めとる。
「貴様の相手はこの俺だ、余所見をするな」
奈綺の毒針を避けた男が怒鳴った。
「そう吼えるんじゃないよ」
彼のほうにしっかりと眼を向けながら、奈綺は糸刃扇を持つ手をくんっ、と引く。
押し潰されるような獣じみた悲鳴とともに、鮮血が迸る音もなくぼたぼたと手足が落ちる音だけが耳をうった。
「……令健っ、貴様よくも」
親友だったのだろうか。唯一生きて奈綺と対峙した男が激昂する。
惜しい、と奈綺は微笑を漏らした。この男は今までの下衆共とは違う。おそらく相当の糸刃扇の使い手であり、なおかつ優れた反射神経の持ち主だ。今までに奈綺の毒針を避けた者などなかなか居ない。
惜しい、ともう一度彼女は思う。
「俺の仲間を」
間者が激昂することなど、あってはならないはずだった。常に冷静さと強靭さを要求されるのが間者であり、決して己の感情で我を失ってはならない。無感情な間者は、無感情だというそれだけで何よりも強靭な間者となり得るのだから。
「俺の仲間を……」
「間者に仲間など居るものか」
間者は孤高で居るべきである。
間者は無感情で居るべきである。
間者は冷静沈着かつ冷酷非道であるべきである。
仲間に憐憫の情など持っていては、身の破滅を導く。
(惜しいことよ)
「仲間と情を交わすからそうなる」
「…………この」
この、という言葉の次に何を言おうとしたのかは分からない。この女、といおうとしたのかもしれないし、この鬼神、と言おうとしたのかもしれない。
だが結局のところ続きを口にする前に、彼の胴体は真ん中から綺麗に寸断されていた。 上半身が大地にどさりと崩れ落ち、その上体に申し訳のようにくっついた顔の表情が微かに動く。
怒りの表情とも無念の表情ともとれない顔の動きだった。
(それほど情に厚い人間なら――間者になどならなければ良かったのさ)
人の死に際を見ても、何とも思わなくなった。きっと生まれ持った資質だろう。だからこれほどの『風の者』になり得たに違いない。転がる四つの屍に眼もくれず、奈綺はひとつ欠伸をしてから宮廷へと足を向けた。
こんな些細なことに気をとられているわけにはいかない。昌の動向を本気で探らねばならぬときが来た、と奈綺は黒布の下で唇を噛みしめる。戦になるかもしれない。そのとき自分はやはり柳で闘うのだろうか、と奈綺は不思議な感傷に襲われた。
【焔の兆し】
――舜。
まだ年若き舜帝は、この夏歴史に残る英断を下した。数年前、北国柳からこの舜後宮に忍んできた女間者彩を正妃にするという決断である。敵国の間者を正妃にするなどという暴挙だとは、舜帝に昔から仕える『風の者』しか知らない。他の者たちはみな、後宮の妃が舜帝の寵愛を得たのだと素直に捉えている。
「期待しているよ、彩妃。この舜を守り立てて貰おう」
冗談めかして、舜帝は寝室の窓に寄り添う美女に声をかけた。彩は微笑む。
もともと先の戦で垣間見たこの若い皇帝に見惚れて、今回の舜入りを快諾したのである。生業と称して、惚れた男の傍に一生居られるならばそれほど幸福なことはない。
あの気性の荒い『風の者』奈綺には悪いが、と彩は思った。彩の祖国柳では、つい先だって国内最大の叛乱分子湯庸の勢力がひといきに除かれたというではないか。
「柳帝も人を見る目がある……」
舜帝は、凛とした眉をあげながら水差しから器に水を注いだ。整った容貌をしており、後宮の妃たちが熱をあげる美しさを持っている。が、我が主とはまるで違う、と彩はぼんやりと彼を観察した。
(陛下は――……もっと冷たい方だ)
柳帝は、たとえ彩のように身近に仕えた間者にさえも本心を見せぬ。
孤高の貴人でありながら、まるで獣のような鋭利さを併せ持つ。我が主ながら怖ろしい方だ、と思えた。
「それで奈綺が奴の正妃になるというではないか」
「ええ。報せが来ております」
舜帝は思う。柳はずいぶんと昔から柳と敵対関係にある。国力が均衡しているが故に大きな戦こそ起こらないが、些細な諍いは絶えない。
「彩よ」
「はい」
「私はおまえと奈綺を…………」
寝台の脇に、氷室から掘り出してきた大きな氷の塊が綺麗に丸く削られた状態で鎮座させられている。今年の夏は殊のほか暑く、氷なしではなかなか寝付くことも出来なかった。
「柳と舜の架け橋にしようと思うが、力になる気はあるか」
「陛下の仰せの通りに致します」
彩の主君は柳帝のはずである。だが柳にはあの奈綺がいるという思いと、それから舜帝に対する想い故に彩は従順に俯いた。女は恋に生きることこそ幸福だ、奈綺と同じ間者ながら彩はそう思っている。恋のためならば主君さえも裏切れるのが女の間者だ、と。
柳帝を裏切るつもりはない。裏切らずともあちらに奈綺がずっと居座っていてくれさえすれば、自分が舜にいる理由ができるのだから。
「報せを出せ。奈綺にあてて、彩妃を舜の正妃に据えるとな」
「……御意」
彩は恭しく拱手し、微笑んだ。嬉しい――この男の傍に居ることができる。たとえ深い愛情で結ばれた仲でなくとも。
くしゅんっ、と性格に似合わぬ可愛らしいくしゃみをして奈綺は鼻をすすった。
「風邪か?」
感情のない柳帝の問いに、奈綺はふんと鼻を鳴らすだけで答えもしない。一国の皇帝に対して無礼極まりない態度である。
「風邪なら大人しく寝ておけ。人の隙を見てちょろちょろ宮廷を抜け出すな」
「…………」
私が居なければ昌の動向すら分からなかったではないか。思いながらこの男にいちいち口出しされる口惜しさに歯噛みしながら窓際に立つ。ちちちっ、と爽やかな囀りをあげながら小鳥が木々の間を飛び交っているのが見えた。
「さて、婚儀も十日後に控えたことだし」
柳帝に気をとられていた。
「子は幾人産んで貰おうか」
「何?」
「相変わらず柄の悪いことだ……」
思わず目を剥いた奈綺のもとに、窓外から一羽の小鳥がばさばさと羽根を鳴らして飛び込んできた。一瞬の隙を突かれて、思わず奈綺は眉をつりあげる。どこの間者が放ったものだ、と小鳥を締めあげかけてその手を止めた。
(……何よ)
支岐の使うひよどりではないか。普段なら、ぴぃぴぃと煩く囀る鳥のはずだったが、目の前のひよどりはひとつの囀りもたてずに落ち着きなく首をきょろきょろと動かせている。人馴れしているせいか、柳帝の気配にも怯えることなく奈綺を真っ向から見つめてきた。
(…………)
足首に文が付けられている気配はない。ならば、と奈綺は鳥の口を半ば無理やり抉じ開けてみた。
「何だ」
柳帝が奈綺のもとへゆるやかに歩み寄る。彼の足首に付けられた豪奢な足結い(あゆい)が、しゃらしゃらと上品な音をたてた。嘴の中から出てきたのは、小さな紙切れを折り畳んだものである。まるで柳帝を無視する格好で、奈綺はそれを器用に広げて目を落とした。
――舜迎正妃吾。嫁柳命。才。
奈綺は思わず絶句した。才、というのは彩の異名である。彼女の流麗な筆で、舜が彩を正妃に迎えたことと、舜帝の命が記されてあった。我が主君の思いがけない命に、奈綺は何ともいえない顔で柳帝を見上げる。
『柳に嫁せと命ず』
そう記されていた。芝居ではなく――……つまり真にこの男に嫁せ、というのだ。
奈綺は彩とは違う。この女は、恋のために生きるなどという選択肢は持ち合わせていないし、主命よりも己の意思を優先させるような資質も持ち合わせてはいない。それがどんなに厭なことであっても、奈綺にとっては主命が第一なのである。
(この男に?)
要するに主君舜帝は、彩を舜に入れ、奈綺を柳に出すことで両国関係を一気に平和の方向へ持ってゆくつもりなのだろう。その意図が、奈綺には痛いほど分かる。
幼い頃からただひたすらに尽くしてきた相手だ。そして己の本分は『風の者』である、と。ならば道はひとつしかあるまい。今までのような芝居ではなく、この一生を柳帝に捧げるしかないのだ。
「あんたに嫁げ、と。我が陛下のご命令よ。彩は舜の正妃に迎えられる」
「彩が?」
「あの女、陛下に惚れていたのさ」
こみあげる笑いをかみ殺すように、柳帝は唇を歪めた。
「なるほど……本懐を遂げたか。あれは一途だからな」
(知っていたのか、この男)
溜息しか出てこない。他国の皇帝に惚れた女を、軽々と送り出してしまえるその神経が理解できなかった。だが彼はこともなげにいう。
「殺しても良かったが……それでも忠誠心のある馴染みの女だ。内に秘めておいて寝首を掻かれるのも御免だし、それならいっそのこと舜にくれてやるのが一番だろうよ」
「…………」
何もかもが最初から仕組まれていたような気がしないでもない。主君舜帝と、この腐れ男柳帝に。だがしかし、それでも奈綺は舜帝の命に従うしかないのである。
「いいじゃないか。おまえが思っているほど俺は平穏が嫌いではないということさ」
してやられた、という感が否めずに、奈綺は思わず紙切れを握りつぶした。
【華燭の典】
――――柳帝即位十載夏至。
仰々しい婚儀衣裳を身につけたまま、奈綺はひっそりと神泉の傍らに佇む。
納得はしていない――この婚儀に。結局何ということ、様子を探るために忍んできたはずの柳で何故その敵将の妻女とならねばならぬのか。
「…………」
何度目かの溜息をこらえて、奈綺は口を閉ざす。主君舜帝の命だからこそ、こうして婚儀に臨むのである。芝居でなく柳帝の妃になるということは、もう軽々しく舜に舞い戻ったりできないということでもあり、それが奈綺にとってはさしあたっての悩みの種だった。
決まった恋人がいるでもなし、想い人がいるでもなし、生業のためならばたとえ嫁す相手が誰であろうと構わない。
ただ一国の主に嫁すとなれば話は別で――やはり奈綺にとっての主君は舜帝に違いないのだ。柳帝に嫁すということは、つまり彼に身も心も尽くさねばならぬ、ということなのだが。
「儀が始まります。参りましょう」
女官長から奈綺の世話を任された、中年の女官がそっと奈綺の衣裳裾を手にとった。
(……どうしたものかな)
「お美しいこと。ご多幸をお祈りしておりますよ」
「……有難う御座います」
答える仕草は艶やかで流麗、結蓮としての顔が美しく微笑む。しかし心の中は今後いったいどうしたものかと考え込んだまま、奈綺は廊を幾曲がりもして大広間へ向かう。
湯庸の喪儀が終わってそれほども経っていない今の時期、客賓も最小限に抑えているはずだ。先の婚儀ほど盛大なものにはならないだろう。そして扉がひらかれる。
これは生業の一環であり、決して己の人生そのものではない。心に言い聞かせながら、奈綺は正面の玉座に堂々と座す柳国の皇帝を一瞥した。神々しいまでの威光を放つ、清冽な美貌と冷酷な双眸。この男が腹の中で何を考えているか、おそらく側近でさえも分かってはいないのだろう。
このたびの婚儀では、湯庸ほど身近な親族が居なかったために盃を交わす儀礼も短時間で終わった。もちろん誰かが泡を吹きながら倒れることもなかったし、奈綺が倒れることもなかった。
終始穏やかに婚儀はすすめられる。長年のしきたり通り、柳帝も奈綺もいっさい視線を交わさない。
(交わしたくもない)
この女はそう思いながら、美しき森の精霊のような風情で盃を受け、客賓に挨拶をしてゆく。
そう、視線など交わしたくもない。無駄に流れてくるこの男の心情など、感じたくもないのである。側近にさえ分からないことであっても、奈綺には分かる。視線がぶつかっただけで、彼が何を望み、何を考えているのか手に取るように奈綺の心の中に流れこんでくるのだから。
「…………両陛下にご多幸をお祈り致します」
宴が始まってからも、柳帝と奈綺は言葉を交わさない。それが柳に連綿と続く婚儀のしきたりであるが、何故なのかは奈綺にも分からなかった。
宴が盛り上がり、客賓や側近文官武官どもがしたたかに酔えば酔うほど奈綺の顔は冷めてゆく。これはもう奈綺のもって生まれた性格に加えて、『風の者』としての性分であるらしい。酔った人間が、必ず何処ぞで襤褸(ぼろ)を出すことを奈綺はよく知っている。 我を失うほど酔う臣下は持たぬほうが良い。いざというときに役に立たぬ。
(よくよく臣下に恵まれぬ国よ)
数年前に柳帝の傍付になった若い男が、煽るように酒を呑み騒いでいる。奈綺はそれを冷たい眼で見つめながら、むしろ柳帝を哀れんだ。そして柳帝の顔もまた、宴が盛り上がるほどに冷めてゆく。
奈綺がふと彼を一瞥すると、間違いなく奈綺と同じ性分をしているのだろう――彼もまた、己の傍付になった男が酔いに酔っているのを見つめていた。喰えぬ男だ、と奈綺は思った。
この男は、見ている。誰が己に従う人間で、誰が己に歯向かう要素を持ち合わせている人間かということを。誰が使える人間で、誰が使えない屑かということを。
(………………)
そして柳帝と視線がばちりと合った。しきたり、とはいっても皆明朗に酔っている宴の席である。柳帝と妃が視線を合わせたなどということを、ご丁寧に見張っている者などいるはずがない。
柳帝が、一度だけ例の傍付に視線をあてて、それから再び奈綺に視線を戻した。
――そら見ろ。視線をあわせただけで分かってしまう腹立たしさ。分かりたくもない男の真意を、分かってしまう妙な心持ち。奈綺は無表情のまま視線を逸らし、大仰に溜息をついた。
婚儀の夜。つまり下卑た言い方をすれば男と女が名実ともに夫婦になる夜ということで、しかしその宵柳帝の寝室に妃は居なかった。
男は黙って舶来物の葡萄酒を口に運ぶ。ふん、と鼻を鳴らして秘かに彼は笑みを浮かべた。それにしてもあれは勘の良い女だ、とこの男はこの男なりに感心しているのである。 視線をひとつ合わせただけで真意を勘付くなど、側近にすらも居はしない。
それが『風の者』特有の能力なのか、彼女がもって生まれた天性の才能なのか。およそ日ごろの鍛錬だけでは、ああまで敏感になることはできないだろうと思われる。
おそらく、あの女本来の持ち合わせた力なのだろう。だから愉快なのだ、と柳帝は喉を震わせる。
「この婚儀が……」
吉と出るか凶と出るか。油断をすればあの女のことだ、柳を乗っ取るくらいのことはやってのけるだろう。よほど気を引き締めて彼女と生活を共にしなければ、必ず喰われる。 しかし彼女ともしも心相通ずることがあれば――。
柳は今以上に、押しも押されぬ大国になるだろう。
そして柳帝が窓辺に佇むその同刻。奈綺はひとつの室に、ゆるやかな風のごとく忍び込む。
【蒼き風神】
すっと奈綺は眠る男の首筋に手をあてた。とくんとくん、と彼の首筋が脈打っている。 眠るその顔は幸せそうであり、わずかに開いた唇から酒の臭いが漂いでていた。
哀れだ、とさすがの奈綺もそう思う。鈍感な女なら良かったか、少なくとも柳帝の意志を理解していながらそれを無視することは奈綺にはできぬ。
なまじ勘が良すぎるのだ、と奈綺は自分でもよく分かっていた。
(………………)
しかし、奈綺は己の立場をも理解していた。私はすでに舜国の『風の者』ではなく、柳国の間者であり、しかも柳帝の正妃という立場におかれているのだと。
(それでも私は舜帝陛下のものだ)
舜帝の命であれば、それがどんな命令であろうとも奈綺は従う。
彼が柳帝に嫁げというならば嫁ぐ。柳帝に尽くせというならば尽くす。
たとえ愛情の欠片ほどもなくても、奈綺は舜帝の命に従うことだけがすべてだった。彼の命に忠実に従うことが、奈綺のすべてだった。
(許せ。仕方あるまい……あの男の前で醜態をさらしたあんたの責だ)
奈綺は唇に毒を含ませて、眠る男に深く口づけた。長く深い接吻に、息ができなくなった男が身動きをする。
それを押さえて、奈綺は無理やり彼の口腔に毒を流し込んだ。ごくん、と流し込まれたものを男が嚥下する。瞬く間に痙攣を起こしはじめる様子を静かに見守りながら、奈綺は自分の手首に落ち着いている豪奢な飾物に視線を落とした。
柳の守り神である玄武が彫りこまれた、美しい飾物であった。あの嫌味で冷酷な男の妻に、私はなったのだと。自分が冷酷であるということを重々知りながら、女はそう思って嘆息する。
多量の毒を服んだ哀れな柳帝の臣下は、もうすでに息絶えていた。顔が青黒く腫れあがっていた。
「――……やるしかないか」
舜帝の命だ、と奈綺は己に言い聞かせる。これから柳の大掃除が始まるのだ、と真夜中に浮かぶ月を見つめながら心を決めた。
湯庸が消えうせた今、これからは柳帝の時代がやって来る。そのためには徹底的な国内の清掃が必要だった。叛乱分子を洗い出し、始末する。
あの男は――あの美しき皇帝は、今宵のこの酔いつぶれた男の殺害を皮切りに、抵抗勢力を一掃してゆくつもりに違いない。柳の基盤を揺るがぬものにしてしまうということは、舜帝に仕える奈綺としては不本意なものであったが。
(……柳と舜の橋渡しをせよと仰るのだから)
舜では彩が全力を尽くしているのだろう。恋する相手の舜帝の傍で、その一生を終えるためだけに。
私も舜帝陛下のもとで一生涯を終えたかった、と思いながらもやむを得ぬ。いまだ酒の臭いをさせる男の死に顔を一瞥してから、奈綺は静かに室を後にした。
「奈綺よ」
しかし奈綺は、決して柳帝に向けて敬意を表することはなかった。あくまで私は舜帝の手の内にいるのだと、無言で誇示しているかのように。
「始末したか」
「した」
たった一言、短く切り捨てるように答える。この女の態度の悪さを、柳帝はさして咎めることもしない。慣れているといえば慣れていたし、思い返せばこの気性を気に入って傍に置いたのも事実である。
咎めることもない、と皇帝はゆるり酒器を弄びながら嗤う。
「これからが俺の時代だ」
「………………」
確かにな、と奈綺は小さく嘲笑した。
「覚えておけ、おまえは俺の正妃だ。舜帝の正妃ではないということ、忘れるな」
「私はあんたの正妃だよ。けれど私は死ぬまで舜帝の『風の者』だということ、忘れるな」
皇帝に向けて、礼儀をわきまえない物の言い方。本来なら手討ちにされても文句ひとついえないはずの行為が、この女の場合はまかり通る。しかし彼女は決心している。
悪口雑言、尽くすべき主人に向けて吐き出しながら、彼女は決心している。
(陛下の命なら……死ぬまでこの男に尽くしてやるさ)
柳帝が酒器をつと窓辺に置き、そのまま衣擦れの音をたてながら奈綺に歩み寄る。
彼の美しい手指が奈綺の細い顎をゆっくりともたげ、男はそのまま彼女に深く口づけた。
柳帝の瞼はひそやかに閉じられていたが、奈綺の双眸は静かに虚空を見つめている。覚めた冷たい瞳で、奈綺は皇帝の接吻を甘んじて受け入れた。
「海がみたい」
ふと言葉を繋いだ奈綺に、男はそっと唇を離す。形のよい唇が艶やかに濡れていた。
「海?」
「舜に居るときには……なかなか海を見る機会がなかった」
舜は内陸の王国であり、海に面していない。四方を山に囲まれているために、『風の者』の奈綺といえどもそう容易に海と接することはできなかった。
(…………海がみたいから)
そういうことにでもしておこうか。この柳に残ることに、何か些細でもいいから理由付けをしておきたいのである。この勝気な女は。
「なるほど。なら連れていってやろう……嫡子でも生まれた暁にはな」
「一度死んで出直してきな」
「つれない女だ、少しくらいは素直になれないか?」
奈綺がひどく妖艶な笑みをたたえて、男を見返す。
「充分素直よ。素直な本心を言ったまでです、陛下?」
慇懃無礼な言葉じり。細い腰を抱いたままの柳帝の手を、やんわりと押しのける。
どちらが有利とも不利ともいえない立場で、お互い巧みに言葉を交わす。
「俺の真名を教えておこう」
「………………」
「香峨。覚えておけ、おまえ以外にこの名を呼ぶ者はいない」
(…………香峨)
心中で、奈綺は小さくその名を呟く。真名を教えるということは、つまりよほど奈綺のことを信用しているのか。それとも死ぬまで奈綺を手放すつもりがないのか。
真名があれば、呪術を使って呪い殺すことさえできるのである。よほど心を許し、信用している相手でなければ真名を教えることは危険だといえた。
「殺されたいのか」
「まさか。人の手にかかって死ぬなど真っ平ごめんだ」
まるでこたえていない表情で、柳帝が笑顔を見せる。武術毒術だけでなく、もちろん呪術も一通り会得している『風の者』である。よくもそのような人間に真名を教えられるものだと、奈綺は溜息を隠せない。
「だが…………そうだな。もしも人の手にかけられるとしたら、おまえに殺されるのが一番ましかな」
再び窓辺の酒器を手に取り、一度二度くるりと器を回してから液体を喉に流し込む。喉仏が、静かに動いた。大嫌いだ、と奈綺は唇を歪めた。
「油断しないことだね、柳帝。いつか寝首を掻いてやる」
「そうか、楽しみにしているよ」
気の強い山猫のような奈綺の瞳が、まっすぐに柳帝の視線と絡み合った。
『柳帝即位十載初夏。敢行柳帝与妃婚儀。柳舜結友好条』
――柳帝即位十年初夏。柳帝と妃の婚儀敢行さる。柳舜友好の条を結ぶ。
――――第一部 完――――
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2005/04/24(Sun)15:34:10 公開 / ゅぇ
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■作者からのメッセージ
短い更新、もうあれですね、適当さ満開の更新でした。反省しつつごめんなさいっ。これにてしばらく『歌物語』はお休みに入ります。いや、やろうと思えばできるんですけど、だってあれですよ。『英雄』と『神様』の連載があるもので(笑)それが終わったら、気儘に歌物語でも書こうかな、と。思い出した頃に投稿するかもしれないので、奈綺と柳帝のその後を楽しみにしておいて…(別に楽しみじゃないですよね(笑)くださいっと。とりあえずはそのうち、また次回にでもっ!