- 『「みよちゃん」』 作者:笹井リョウ / 未分類 未分類
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全角12260文字
容量24520 bytes
原稿用紙約36.35枚
見えないからこそ、見えるもの。
「みよちゃん」
まさかそんなわけないと思った。だって、虹のふもとには宝ものが眠っているって信じていたし、真下をするっとくぐれるものだと思っていた。だけど、小さなころ友達と手を繋いでいくら走っても、私達と虹との距離は変わらなかったし、ふもとなんて見つけることも出来なかった。私達が走れば虹も同じだけ走っていってしまうし、私達の疲れがたまるほど虹はどんどん薄くなっていってしまう。あぁ、今日も消えちゃったね。次は絶対あれをくぐろうね。もしも宝を彫りあてることができたら山分けだね。私達は消えていく虹を指差してそう誓った。虹が見えている私達でさえ、それが光の加減で出来ている幻だなんてことには気がつかなかった。
「虹って、細いの?」
麻未は、空を見上げるように首を傾けたまま、私にそう伝えた。夕暮れの光が歩いていく道を撫でており、道の端に転がっている小石の角がとれていくように感じる。私は麻未の質問にとっさに答えることが出来ず、握っていた手のちからを一瞬だけ緩めてしまった。私と麻未のてのひらの隙間ににじんでいた汗を、冷たい空気がさらっていく。
「え?」
「ねえお母さん、虹って細いの? 今日学校で先生が話してたの。虹というものは、空に架かる橋のようで、とてもきれいですって…」
私は真美子の顔を思い浮かべた。そういえば今日、そんな話をしていた気がする。私は、真美子が図書館から借りてきていた、虹に関する紙芝居の絵を思い出していた。
「お母さん、あたしね、今までずっと、虹っていうのは空全体が七色に染まることだと思ってたんだ。サーって、空を七色の絵の具にひたすみたいに…」
私は空を見た。いまは、橙色の絵の具に空がひたっているのよ、と麻未に伝えてあげたかったが、それを見ることが出来ない麻未にそのことを伝えるのは酷に感じた。
「みよちゃんもそう思ってたみたいなんだ。だから、今日、先生の話を聞いてすごく驚いたの」
――みよちゃん。
「そっか。みよちゃんもそう思ってたんだ」
「うん」
麻未はうなずく。麻未が操る障害物を感知するためのつえが、私の足首に当たった。「麻未、いまのは私の足だからだいじょうぶよ」ぴく、と怯えたように動きを鈍らせた麻未に、私は伝える。
麻未は目が見えない。生まれたときから、麻未は光を知らない。
◆
紅葉がはらはらと舞う季節だった。街を埋め尽くす紅葉の葉が、着飾ったマネキンの置かれたディスプレイをからかって飛んでいく。私と哲郎は大学に入って三回目の秋に出会い、まるでそれが必然であったかのように愛し合った。友達の紹介ではじめて哲郎に会ったとき、私はこれは用意されていた出会いだったんだという気持ちになったことを覚えている。あとから聞けば、哲郎もそのように感じていたらしい。やはり私達の出会いは用意されていたものであり、私達の知らない必然だったのだ。
運命の出会いを感じたと同時に、私は悩んだ。哲郎の相手は本当に私でいいのか。こんな私でいいのか。だから私は哲郎に伝えた。「哲郎、本当に私なんかでいいの。私なんかと一生と共にするのって、哲郎が想像している以上にたいへんなことなんだよ。難しいことなんだよ」眉を下げてそう伝える私の頬を、哲郎は軽く、ぺちんと叩いた。「大好きだよ」
出会ってから二ヶ月でからだを重ねた。場所は、私の家から切符三八〇円分離れた哲郎の部屋だった。「私、はじめてなんだけど」「うそだね」「うそだよ」私は自宅から通っていたけれど哲郎はひとり暮らしだった。哲郎の生活感が満たす部屋の中で、私達は快感を分け合った。「痛くない?」「甘く見ないでよ」あのときは強がってそう伝えたが、本当はすごく痛かった。
私達が結婚した直接的な理由は、麻未が出来たからではない。私達はそのタイミングで麻未を身ごもっていなくてもきっといっしょになっただろうし、妊娠に気付いていなくてもいっしょになったと思う。だけれど、私達が結婚を決意したタイミングで麻未の存在に気付いたために、私達は周りからできちゃった結婚だといわれている。私にとってそのことは、人生においてかなり大きなミスだと思う。
私はつわりは軽い方らしく、妊娠の時期はそんなにつらくなかった。だけれどやはり食事にはかなり支障が出て、突然ケンタッキーが食べたくなったりキムチを食べたくなったりして哲郎を困らせた。「いつもごめんね哲郎。だけどこの子が欲しがっているのよ」「いか明太をか」困ったような笑みを抱えたまま、哲郎はいつも店へと走ってくれた。私のためかどうかはわからないが、炊飯ジャーにはいつもほくほくとした湯気を秘めた白いごはんがあった。
妊娠が発覚して二つの季節をまたいだころ、ふくれた私のお腹の中で、ころころと動く命を感じた。私達は視聴率のとれないドラマに出ている夫婦のように、お腹に耳をあてながら喜びを分かち合った。このお腹の中には、新しいちいさな命がある。私達の愛が、形になるんだ。「名前はなににする」「…アサミ」「え? なんで?」「両親が、私の名前をつけるときに、マキコかアサミか迷ったんだって。私はアサミの方がよかったから、その思いもこめてアサミ」「適当だな」「私達の愛だけじゃない、私の両親の愛もこもってるのよ。四人分よ」「男でも女でも使えるしな」「そのとーり」
陣痛は突然だった。
身を裂くような痛みが私を襲った。私は開けていた雑誌をばさりと落とし、座っていたソファーから落ちた。全身の毛穴が開ききり、汗がそこから噴出して来た。哲郎が顔色を変えて私を抱え込み、言葉途切れに救急車を呼ぶ。私は難産だった。逆子だったらしく、首の部分が引っかかってアサミはなかなか生まれてくれなかった。そういえば、逆子を直す体操を教えてもらったのにさぼってたな、と、痛みに薄れていく意識の中で私はそう思っていた。哲郎は私のてのひらを握り締めていてくれた。「大丈夫だから。がんばれ、アサミのために」哲郎の声は、私には聞こえていなかった。だけれど、あとから見せてもらった哲郎のてのひらについた跡に、私は哲郎の愛を感じた。私のつめが刺さった、たくさんの跡。
アサミが私のからだから出てきて、哲郎は泣いた。私が見た、哲郎のはじめての涙。
アサミが生まれて、ふたりで生きていた世界に、ぽん、とひとり小さな命が加わった。幸せだった。たいへんなこともたくさんあったけれど、私達は笑う回数がとても増えた。
麻未の異常に気付いたのは、麻未が生まれてから三ヶ月くらい経ったころだった。
麻未は、すべてのものを目で追わなかった。ただ、ほう、とそこにあるものを見つづけている。私が麻未の目の前を通り過ぎても、麻未の目は動かない。麻未を連れて外に散歩に出たとしても、太陽がまぶしいと顔をしかめることもなく、風に舞う蝶々を捕まえようと小さなてのひらをひらひらさせることもなかった。ただ、目の前にある暗闇を、ほう、と眺めつづけていた。
この子、目が見えないんだ。私は悟った。
◆
麻未が通っている学校は、目の見えない子や、耳の聞こえない子などの障害を抱えている子供たちが通う学校だ。私達の家から、歩いて二十分くらいで着く場所にある。敷地はそんなに広くないし、運動場だって狭い。部活動に運動部はなく、生徒全員はそれぞれ文化部のいずれかに参加している。
麻未は美術部に所属している。目が見えないのに絵を描くことは、とても難しいことよ、と私が忠告すると、「うん。だから挑戦したいの」と答えた麻未。私は自分の質問を恥じた。
麻未のクラス――というか学年で一クラスしかないのだけれど――の担任は、真美子先生という。歳は確か四十歳くらいで、中肉中背。少し茶色がかった髪の毛を、後ろでひとつにまとめている。麻未のクラスの全ての教科を受け持っており、麻未も真美子先生のことをとても好いている。
そして、麻未のクラスメイトは木村みよ、という女の子ただひとりだ。つまり、麻未のクラスは、麻未とみよちゃんの二人だけということになる。みよちゃんは耳が聞こえない。つまり、しゃべることもできない。麻未は、みよちゃんのために簡単な手話を覚えた。みよちゃんと会話をするために、麻未とみよちゃんは常に手を繋いでいる。時々筆談をすることもあったが、二人はいつもてのひらで繋がっている。
みよちゃんも、麻未と同じく美術部に所属している。麻未とは違い、ものを見ることが出来るみよちゃんは、麻未に絵の描き方を教えてくれる。絵を描いているときでさえ、二人は手を繋ぐ。麻未は右利き。みよちゃんは左利き。二人の真中に鏡を挟んだみたいに、二人の背格好はとても似ている。全学年で美術部に所属しているのは、麻未とみよちゃんの二人だけ。他の子たちは、文芸部、合唱部、吹奏楽部、コンピュータ部のいずれかに所属している。
学校が始まるのは朝八時半。授業が終わるのは午後三時。部活が終わるのが午後四時。朝家を出るのは午前八時。夕方家に着くのは午後四時二十分。学校の名前は、「ひまわり学園」。
――と、麻未には言ってある。
私は、麻未の寝室のカーテンをあけ、半分ほど布団にうずもれている麻未の頬を、きゅ、とつまんだ。頬にてのひらをつけたまま、麻未に「おはよう」と告げる。
「おはよう」
カーテンから差し込む朝のひかり。今までついてきたすべての嘘を洗い流してくれるような、この丸いひかりを、麻未は見ることが出来ない。
私は布団のなかであたたかくなっている、麻未のてのひらを握った。杖を、麻未に握らせる。
「早くごはん食べないと、遅刻するよ」
麻未はゆっくりと立ち上がる。私と頭一個分くらい違う、背丈。
「え、いま何時?」
「七時半」
やだー、早く言ってよ、と麻未は朝ごはんへと走る。麻未はパンが好きなので、私が朝はご飯派であっても朝ごはんはパンとなる。「やったあ、今日はクロワッサンだね」パンを手にとって、硝子細工を扱うように触りまわしたあとに、麻未は私に喜びを伝えた。今日は牛乳じゃなくてココアを作ってみたの、と私は伝える。
今日も、一日が始まる。
ちぎれた雲を編みながら、私と麻未は道を歩いた。学校へと続く道。見なれた道。途中ですれ違った真美子「先生」に、私は軽く会釈する。
麻未は、この道にあるものすべてに喜ぶ。吹いた風を、今日朝食べたクロワッサンと同じように扱う。やった、ふわって風が吹いた日は、いい一日になることが多いんだ。聞こえた小鳥のさえずりを、今日朝飲んだココアのように喜ぶ。小鳥って、こんなにかわいい声してるんだから、きっと顔はもっとかわいいんだろうな。麻未はココアの色さえも知らない。
「みよちゃん今日も来てるかな」
「来てるよ」
麻未の問いかけに、私は間髪いれずに答える。「だってみよちゃん、今まで一回も休んだことないんでしょ? 健康な子だよね」私がそう伝えると、麻未は「うん」と頷く。「本当にいい子なんだよ」そうやって、麻未は私の顔を見た。私はどきりとした。
ちぎれた雲を編みながら見る、空にあるやさしい雨のあと。
午前八時から午後四時までは、嘘でぬりかためられた世界。
◆
麻未が通っている学校は、目の見えない子や、耳の聞こえない子などの障害を抱えている子供たちが通う学校だ――と、麻未には言ってある。だけど実際は、そうではない。
麻未が通っている学校は、私達の住んでいる家。真美子先生は、私の妹である真美子が、木村みよは、私が演じている。午前八時に家を出て、できるだけ町内を広く、広く、ニ十分間かけてゆっくりと歩く。そしてまた、家へと戻っていく。麻未には「学校」だと偽っている場所。「ひまわり学園」は、私達の家だ。麻未は「友達」だと信じているみよちゃん。それは私。
私は家のドアを開けた。真美子がやってくる。
「それじゃあ麻未、お母さん帰るからね」
私は麻未にそう伝えると、大きな足音をたてながらその場から少しだけ歩いて離れていく。麻未はつえを使いながら器用に下駄箱から自分の上靴を探し、履く。真美子は、「おはよう麻未ちゃん」と言いながら、麻未を「学校」へと迎え入れる。
午前八時から午後四時までの、嘘でぬりかためられた世界。
「おはよう先生」
私はくちびるをそう動かしながら、「木村みよ」として家へ入っていく。耳の聞こえないみよちゃん。しゃべることのできないみよちゃん。みよちゃんは、今日も濃く、堅く創られていく。
麻未は着ていた上着をきれいにたたんで、机の横に置いていた。机の上には「学校指定」の白い鞄。私達が家を出て家に帰ってくるまでの間に、真美子は机や椅子を用意し、麻未に悟られないようにリビングにおいてある家電を違う部屋へと移動させる。
私は麻未のとなりの席につく。するとすぐに、麻未は手をつないでくる。私のてのひらを探るようにして、空気をつかむ麻未のてのひら。私は握る。麻未は握り返す。伝わる手のぬくみと、木村みよに会えたという喜び。
お は よ う
私は麻未のてのひらのなかで、手話をした。麻未は少しうなずいて、私に向かって微笑んだ。
嘘でぬりかためられた世界の、幕が開く。
真美子は、いつも字幕のついた紙芝居で授業をする。毎日、大きな図書館から子供のためになる紙芝居を借りてきてくれている。その紙芝居ならば、目の見えない麻未でも話の内容はわかるし、耳の聞こえない「みよちゃん」にも話の内容はわかる。麻未には紙芝居など見えていないけれど、真美子はこの場所によりリアリティを求めている。いいわよ気にしないで、私けっこう昔は教師とかにあこがれてたから、ほんとはちょっと楽しかったりするのよ。真美子には頭が上がらない。
きょ う は な ん の お は な し か な
麻未のたどたどしい言葉が、てのひらを通じて私に届く。私は答える。
ひ ま わ り
麻未は返す。
ひ ま わ り ?
私は答える。
う ん か み し ば い に 、 ひ ま わ り の え が か い て あ る
今日真美子の用意した紙芝居は、ひまわりが主人公の話だった。ひまわり畑に咲いている、無数のひまわり。たくさんのひまわりは、空に向かってぐんぐんと育っている。太陽の光と命の水で、人間の背を追いぬかんばかりに上を向いて育っている。その中に一本だけ、汚れ、小さく、うつむいているひまわりがある。僕はなんで大きくならないんだろう。なんで小さなままなんだろう。僕だけしたを向いているし、小さいし、みんなと違ってきれいな黄色をしていない。みんなと違う。僕はみんなと違うんだ――…だけどそんなとき、そのひまわりは気付く。みんなは上を向いてぐんぐんと育っていくから、空しか見えていない。みんなは上の世界しか知らない。だけど僕は、みんなの知ることの出来ない下の世界を知っている。小さくてかわいい虫と、僕らを見上げている色とりどりの花と、たくさんの命を支えているふところの大きな土。僕はその世界を知っている。みんなと違うからこそ、みんなとは違うものが見えるんだ――
真美子が紙芝居を読んでいる間、麻未の指は動かなかった。私も、指を動かさなかった。
「…はい。この話を聞いて、麻未ちゃんとみよちゃんはどう思ったかな。ふたりとも、私はみんなと違うんだ、って思って、悩んだこととか、思いつめたこと、あるんじゃないかな。でもね、ふたりとも、このひまわりと同じなんだよ。みんなとは違うからこそ、見えるもの、聞こえるもの、絶対にある。見えないものや聞こえないものを嘆くんじゃなくて、見えるものや聞こえるものを、もっともっと大事にしていこうよ」
真美子は紙芝居を片付けながら、そうまとめた。私は素直に、いい話だな、と思った。
い い は な し だ っ た ね
う ん
私達は指を動かし合った。
真美子がいうに、数学の授業はとても難しいらしい。図形を見ることの出来ない麻未に図形の授業をすることは、とてもたいへんらしい。真美子は、盲目学校用の図形の線が全て浮き出ている教科書を買って来たり、毎回針金を使って図形を作って来たりしてくれる。私は、真美子に本当に感謝している。理科でも社会でも国語でもなんでも、麻未に合う教材を用意してくれる真美子は、嘘をつくりあげるスペシャリストだ。
麻未は英語が大好きだった。英語の授業になると、麻未の指の動きは速くなる。
や っ た い ま か ら え い ご だ ね
わ た し え い ご に が て
だ っ た ら わ た し が お し え て あ げ る
いつか家でも、麻未は将来英語関係の仕事に就きたいと話していた。目の見えない人たちのために、洋書を和訳して、点字にするの。今話題のハリー・ポッターとかを。本も読めるし、好きな英語も生かせるし、とってもいいと思わない? 麻未は私にそう伝える。私はそのとき、麻未をめちゃくちゃに抱きしめた。あなたがしたいことをしてほしい。あなたのしたいことをすればいい。夜、布団の中で微笑む麻未を、カーテンの隙間から漏れた青白い光が照らしていた。
「今日は、日曜日から月曜日までの単語を覚えましょう」
真美子はそう言いながら、ホワイトボードに単語を書き並べ始めた。Sunday Monday Tuesday Wednesday Thursday Friday Saturday...ブロロロ…ギッ
郵便の、バイクの音。腹に響く太い音。
「はい! じゃあ先生が発音しますから、あとからついてきてねー」
真美子は手をぱんぱんとたたきながら、元気良くそう言った。郵便のバイクが来た時の、真美子の癖。手をたたいて無駄に大きな声を出す。いつも、このあたりでがしゃん、とポストを閉める音がして、汚い雲をつくりあげるような音をたてて、バイクは去っていく。真美子の顔が強張る。
私は、声を出すふりをして口だけ動かした。これも、真美子の求めるリアリティ。
ふと、我に返ったりもする。こんな必死に嘘をついて、私達は一体なにをしているんだろう。
「上手だねー麻未ちゃん。将来は英語関係の仕事にでも就くの?」
真美子はそういいながら、麻未の黒髪をくしゃりと撫でた。五感のどれか一部が欠けている生徒には、からだへのスキンシップが大切だ、と真美子はなにかの本で学んだらしい。私にも、わざとらしく頭を撫でてくる。リアリティ。本当の姉妹なのに、なにこの下手な芝居、と時々おかしくなって、私はしばしば笑ってしまう。ぽろりと欠けるリアリティ。
「じゃあ今から、前習った単語と今回習った単語力をためす、少し長い文を読んでもらいまーす。みよちゃんはさっき配ったプリントを見てね。麻未ちゃんは、今から流すテープを聞いてくださいねー」
私はプリントに目を通した(これもリアリティ)。Tom is a very tall boy. He is a menmber of the tennis club. Monday he practice...麻未は、上目づかいで空中を見るようにしている。麻未がリスニングに集中するときの、癖。
私は、麻未とつないでいる手の力を少し緩めて、窓の外を見る。時々、全てを放り出したくなったとき、私はこうする。私の家の窓からは、本当の学校が見える。健康な子供たちの通う、本当の小学校。たまに、グラウンドで体育をしているクラスがあると、私は無性に寂しくなる。この子には、ああいう経験をさせてあげられないのか、これからも。なんで私は、お腹の中で普通の目をつけてあげられなかったのか。なんで麻未は私のお腹の中に誕生してしまったのか。もっと違うひとから生まれていれば、普通の子として生活を送れていただろうに。そこまで考えて後戻る。幸せだったはずの麻未の誕生を、悲観的に考えてしまったら終わりだ。
「じゃあ、続きは午後にしようか。おなか空いたでしょ。ちょっと時間的には早いけど、ごはんの時間にしよう。午後の授業はいつもどおり一時から始めます」
真美子はそういうと、私にだけわかるように伝えた。「さっきのバイク、ちょっとどきっとしたね」
◆
ごはんを食べるときも、私達は手をつないでいる。てのひらを中心に、行き交う感情。喜びや悲しみ、楽しさや寂しさは、全部てのひらを伝って腕からからだへと流れ込んでくる。麻未の想い。
み よ ち ゃ ん お べ ん と う な ん だ っ た ?
少し汗ばんだてのひらの中で、麻未の指が動いた。
き ょ う は サ ン ド ウ ィ ッ チ あ さ み ち ゃ ん は ?
私がそう問うと、麻未は「 ち ょ っ と ま っ て 」と言って、ごはんを一口、口に含んだ。麻未の好きな、おかかのふりかけを満遍なくふりかけたお弁当。私が毎朝作っている、麻未のお弁当。
や っ た お か か の ふ り か け ご は ん
お か か す き な の ?
だ い す き
ふっ、と笑う麻未。私は、おかかのふりかけごはんを口に含んだ。おいしい。みよちゃんの言う「サンドウィッチ」も嘘であり、私は毎日麻未と同じお弁当を自分にも作る。二種類も作るのは大変だという思いよりも、麻未に作ったお弁当が本当においしいかどうか、毎日自分自身で確かめているのだ。
たれのたっぷりとかかったミートボール四つ。麻未の苦手なほうれん草をバターでいためたもの。カレー味の小さなコロッケふたつ。プチトマトふたつ。うさぎのように皮を切ったりんごひとつ。少し少なめの麻未のお弁当。
たれのたっぷりとかかったミートボール六つ。私の大好きなほうれん草をバターでいためたもの。カレー味の小さなコロッケみっつ。プチトマトよっつ。うさぎのように皮を切ったりんごひとつ。少し大めの私のお弁当。
手をつないだまま、私達はごはんを食べる。時々手話で言葉を交わす。 お い し い ね 。 う ん 。 時々私は外を眺める。飛ぶ虫。走っていく車。みんなにそれぞれの人生があって、みんなはそれぞれに生きている。私と麻未はどうなるんだろう。
ね え
麻未の指が動いた。
ひ ま わ り っ て 、 お お き な お お き な き の こ と じ ゃ な い ん だ ね
き ?
私がそう聞き返すと、麻未は紙にボールペンで「木」と書いた。麻未は、簡単な漢字とひらがななら書ける。
う ん ひ ま わ り っ て い う の は 、 い ち め ー と る く ら い の 、 す こ し お お き め の は な の こ と だ よ
私はそう答えた。
き れ い ?
き れ い だ よ な つ に さ く の
麻未は指を動かす。今度は私のてのひらじゃなく、紙の上にボールペンを走らせた。
わたしずっと、ひまわりって大きな大きな木のことかとおもっていたの。だけど今日せんせいのかみしばいをきいてそうじゃないってわかった。
麻未はそこで一度手を止めた。そして決心したように、またボールペンを忙しく動かし始めた。
まえだって、にじは空全体を七色にそめるものだとおもっていたのに、それはちがうってわかった。見えないと、こわいの。今までしんじていたものが、本当はまったくちがっていたりする。今日だって、ひまわりがそんなに小さなものだなんてしらなかった。
私は麻未のてのひらを強く握った。麻未のてのひらは、汗でじっとりとしていた。麻未は、私のてのひらを強く握る。
あめってほんとうはどういうものなの? 水玉のかたちをした水色のつぶがふってくるんじゃないの?
あ さ み ち ゃ ん
空ってどれくらい広いの? くもってどんなかたちしてるの? かみさまはほんとうにくもの上にすわっているの?
あ さ み ち ゃ ん お ち つ い て
土ってどんな色してるの? たんぽぽは? さくらは? ゆきはかぜはいしはくさはみちはまちはいえはままはぱぱは
あ さ み ち ゃ ん や め て
わたしほんとうはこわいの。わたしなにも見えないでしょう? だから、しんじているものはぜんぶうそなんじゃないかって。わたしのかおもわからない。ままのかおも。ぱぱのかおも。もしかしたらままは本当のままじゃないのかもしれない。ぱぱもちがうかもしれない。わたしがすんでいるところは日本じゃないのかもちがうほしなのかもここはどこかもわからないわたしがだれなのかも
わ た し の は な し を き い て
麻未は、ボールペンを止めた。真っ白だった紙は、麻未の書いた歪んだ字で埋め尽くされていた。
あ さ み ち ゃ ん は あ さ み ち ゃ ん だ よ こ こ は に ほ ん お か あ さ ん も 、 お と う さ ん も ほ ん も の
私は、汗でじっとりとしている麻未のてのひらの中で、指を動かしつづけた。汗でじっとりとしているのは、私のてのひらも同じだった。てのひらから流れてくる、麻未の不安。動揺。私の気持ちも、麻未へと流れていく。
ぜ ん ぶ ほ ん も の だ よ み え な く て も ほ ん も の あ な た の お か あ さ ん は お か あ さ ん だ よ あ な た を あ い し て る た っ た の ひ と り の お か あ さ ん
途中で、みよちゃんがこんなこというのは不自然なことかもしれないと思ったけれど、私は指を動かしつづけた。ごめん真美子、あなたが求めつづけているリアリティは私によって欠けている。だけど、だけどこれだけは麻未に伝えさせて。
う た が わ な い で す べ て の も の を あ な た が し ん じ て い る も の を わ た し も し ん じ る よ
私は指の動きを止めた。じんわりと汗でにじむてのひらの感覚。麻未と私の間で、行き交う思い。窓から吹き込む風が、私達のてのひらを撫でていく。麻未は泣いていた。
あ り が と う
麻未は、指の動きでそう呟いた。私は麻未のてのひらを強く握り締めた。
そのとき、麻未のくちびるがゆっくりと動いたのが見えた。
真美子の目が見開いたのがわかった。
「ありがとう、お母さん」
私は「みよちゃん」と同じで、耳が聞こえない。
◆
みよちゃんはいつも、麻未よりも先に帰る。「 ば い ば い 」指の動きで麻未にそう伝えると、麻未は「 ま た あ し た ね 」と返してくる。私は「学校」を出ると、ドアの前でずっと麻未を待っている。
しばらくすると、「学校」から麻未が出てきた。そして、麻未のうしろには、真美子も一緒についてきた。
「麻未ちゃんのお母さん、今日、一緒に帰ってもいいですか? 仕事が早く終わったものですから」
真美子は声に出しながら、手話をする。麻未も真美子も、私のために手話を覚えてくれた。
私は麻未を手を繋いだ。さっきまで感じていた麻未の不安や動揺は、真っ白く洗い流されていた。
真美子は私の隣を歩いた。
あ さ み き ょ う も た の し か っ た ?
う ん と っ て も
麻未は、私の手話にすぐ反応して、すぐに返事を返してくれる。ここから二十分間、家から大きな円を描くように、私達は町内を歩く。山と山の間にとけていく夕陽が、とてもきれい。
私達は歩きながら、青の部分と橙の部分に分かれてしまった空をていねいに編んでいった。夕陽のひかりが、境目をどんどんあいまいにしていく。橙の空に黒いシルエットのからすが、妖艶な美しさをかもしだしていた。枯れ葉に残っているやさしい風のあと。街に残っている、今日という日の残り香。
お べ ん と う お い し か っ た よ
麻未の指の動き。
き ょ う は あ さ み の す き な お か か だ っ た か ら ね
私の指の動きは、麻未よりも少し速い。
私達は手を繋いで歩いた。真美子は隣にいる。左脇に抱えている大きなスケッチブック。私と極秘の筆談をするときに使うもの。今日のバイクのときだって、真美子は私にそれで筆談をしてきた。「さっきのバイク、ちょっとどきどきしたね」
真美子はスケッチブックを広げると、黒いポスカですらすらと何かを書き始めた。白いはずのスケッチブックは、陽に焼けてオレンジ色をしている。
き ょ う じ ゅ ぎ ょ う で え い ご が あ っ た の
不意に、麻未が手話を始めた。私は真美子から視線を離した。
ほ ん と う ? あ さ み は え い ご が す き だ も ん ね
う ん 、 す き ぜ っ た い に え い ご を い か せ る し ご と に つ く ん だ す ご い で し ょ ?
真美子はポスカを鞄にしまった。私にスケッチブックを大きく開いてみせた。
―麻未ちゃん、みよちゃんの正体があなただって気付いてる。―
私は指の動きを止めてしまった。
… お か あ さ ん ?
―今日、麻未ちゃんちょっと取り乱したじゃない。見えないからなにも信じられないって。それであなたが麻未ちゃんをなだめたあと、小さく呟いたのよ。「ありがとう、お母さん」って―
ど う し た の ?
―やさしいね、麻未ちゃん―
私は指を動かした。
あ さ み
な に ?
真美子が、「じゃあね、麻未ちゃん。私の家こっちだから。さようなら、お母さん」と手話をしながら言って、左の道に折れた。
み よ ち ゃ ん の こ と 、 す き ?
麻未の動きが、一瞬、止まった。
だ い す き
今度の動きに、迷いはなかった。
あ し た の お べ ん と う 、 な に が い い ?
ひ さ し ぶ り に サ ン ド ウ ィ ッ チ を た べ た い な
ど う し て ?
き ょ う 、 み よ ち ゃ ん 、 サ ン ド ウ ィ ッ チ だ っ た か ら
そ っ か じ ゃ あ お か あ さ ん が ん ば っ ち ゃ う ね
私達は家に着いた。明日も早起きをしなくちゃ。
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2005/02/28(Mon)18:34:34 公開 / 笹井リョウ
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■作者からのメッセージ
笹井です。お久しぶりです。どなたか覚えてくれているのでしょうか笑
この「みよちゃん」はずっと前から書きたかった話なのですが、なんとも受験で書けず…この二日間で書きました。
少しでもこころがほんわかしていただければうれしいです。
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