- 『そして彼の夏。【読みきり】』 作者:ゅぇ / 未分類 未分類
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あの頃俺たちは生きていた。迫りくる命の危険の真っ只中で、それなりに幸せに日々を送っていた。いつか死ぬ。そんな覚悟はできていたが、死ぬ間際に自分がどんなことを思いどんなことを悔やむのか、そんなことは想像もつかなかったし、想像しようとも思わなかった。ただきっと思い返せば、俺には友達がいて家族がいて、少しでも自分の好きな勉強ができて。それなりに幸せに生きてきたのだろう、と思い返す。そんな予感は、少しだけあった。戦争の影がない生活。そんなものを知らない俺たちは、影の中にただ一筋の光を求め、そして何かくだらなくとも自分の信念を確立しようと躍起になっていたのだ。
「早苗さん、お土産を買ってきたよ」
片倉恭一は、小さな包みを差し出した。母親の手伝いでもしていたのだろう、前掛けで手を拭いながらいそいそと出て来た少女が嬉しそうにこちらを見上げている。細い身体の娘だったが、母の店を手伝って毎日よく働いていた。
「何ですか? 嬉しい」
色白で、優しい表情を絶やさない。藤木早苗という名の十七歳である。包みを受け取って、ひどく嬉しそうに開けはじめた。
「いいんですか? あたしがいただいて……」
小さな柘植の櫛である。彼女の母親には新しいえんじの反物を買ってきてあった。航空隊から汽車で少し。この飯屋には多くの航空隊員が常連として通ってくる。こうして昼時になると、航空隊から通ってくる予備学生や教班長たちで混み合う店だった。
「いいんですよ、あなたの為に買ったんだから」
恭一は笑った。どんな些細なものでも、彼女はいつも嬉しそうに笑うのである。その笑顔を見るのがとても幸せで、窮屈な軍隊生活も苦痛ではなかった。昭和二十年。大東亜戦争はいったい何時になれば終わるのだろうか。
まあ、余計なことを考えるのは海軍の精神に反する。というよりも考えてもどうしようもないことでもある。
学徒出身兵として京都を離れてすでに二年近く経っていた。軍隊にも慣れて、学友だった奴らと和歌の話をすることも減ってきている。だいたい出身大学ごとに分けられているため、同じ航空隊には学友が多く所属していた。仲の良い友人のうち、一人練習飛行の際に事故で死んだが、他の者はそれでも何とか元気にやっている。
京都を遠く離れても、やはり友達は友達同士でいられることが何よりも嬉しいと恭一は常々思っていた。
「毎日使わせていただくわ。ありがとう、恭一さん」
早苗がこちらを見上げて微笑んでいる。本当に嬉しそうに笑う娘だ、と恭一はほほえましく思った。出逢って一目で惹かれた。元来女にはそれほど興味もなかったが、彼女を見た瞬間に胸がときめいて仕方がなかったものである。
彼女も自分を好いてくれている、と知った暁には思わず歓喜の声をあげてしまったし、今でもしばしば揶揄される。そこらを歩いている鼻の低いそばかすだらけの女学生とは、まるで違う少女だった。
結婚の話を、彼女の母親から持ち出されたときは天にも昇るほど嬉しかった。それは事実である。良かった、彼女の母親に俺は認められていたのだと。そんな思いが恭一の心をホッとさせたが、しかし、だからといってその話を簡単に受け入れてしまうわけにはいかない理由が恭一にはあった。
大東亜戦争が始まって、すでに四年目。国民はまだまだ神国日本の勝利を信じてやまないようであったが、航空隊で日々友人たちを戦場に送り出している身には、もはや敗戦の色しか認識できない。特攻機が改良され、近日中に特攻隊が編成されるということも、恭一は耳にしていた。今、早苗と結婚してどうなる。自分は彼女を幸せにできるか。彼女を一生笑顔のままで過ごさせてやれるか。
(……分からない)
俺にはわからない、と恭一は思った。気持ちだけは誰にも負けない。
だが、彼女を幸せにすべき己の命がどこまで持つかが分からない。己にどれだけの寿命が残っているのか、それにはまるで自信が持てなかった。
ましてまだ恭一は二十四歳。子供もいない若い身の上であればこそ、他の所帯持ち妻子持ちの兵士より先に特攻隊員に指名される可能性が高い。
「……早苗さん。本当は、あなたに結婚を申し込みたいのです」
早苗の綺麗な双眸が、恭一の視線をまっすぐに受け止めている。
この気持ちだけは、と恭一は正座したまま早苗と向き合った。一瞬早苗が泣きそうな顔をして、そのとき恭一は初めてこんなにも強く思った。……戦争がなければいいのに。戦争さえなければ、俺は何よりも先に早苗を嫁にもらって一生幸せにしていけるのに。
「けれどあなたを妻にもらっても、すぐに未亡人にしてしまうかもしれない。自分はいつ死んでもおかしくない身です……だから」
いつのまにこの娘を愛していただろう。ふと気付けば、彼女の存在は恭一の中で何よりも大きく育っていて。学友たちと談笑しあった京都大学の教室とともに、いつでも早苗のことが脳裏に浮かぶ。
航空隊の窮屈なハンモックの上で、真夜中にふと目を覚ましたときになどはひどく強く彼女のことを思い出した。
恭一は米国に行ったことなどもちろんない。英国にも行ったことはない。自分たちの国が戦う相手が、いったいどんな国なのかまるで見当もつかなかった。だが、恭一たちが戦闘機に乗り手でサインを交わしているときに、米国の戦闘機は無線でやりとりをしている。恭一たちが双眼鏡で前方を確認しているときに、米国の戦闘機はレーダーを使って前方確認を行っているというではないか。化け物だ。そんな国と戦って、いったい何をすれば勝てるというのか。恭一ほどの若造でさえ分かることである。まさか上官たちに分かっていないはずがあるまい。現に分隊長だって、何度も日本の戦況を愚痴っていたではないか。
――日本は負けるぞ、負けるぞ。おまえら、まさか米国に勝てると思ってるのか。
たまたま他所の定食屋で行き会った分隊長の言葉を思い出す。上官だと思って、勝つことを信じて戦うのが自分たちの役目であります、と言ったらこっぴどく怒鳴られた。
――ラジオで流れる大本営発表なんて、嘘っぱちだぜ。
仮にも上官が、そんなことを言っていいのか。その当時は不安に思ったものだが。何にせよ、この日本は今にも負けるかという窮地に立たされているのだ。いつ死ぬかわからぬ男に嫁いで、喜ぶ女がどこに居ようか。
「恭一さん、私をお嫁に貰ってくださいませんか」
だから、不意に早苗の口からそんな言葉が飛び出したときにはひどく驚いて、恭一は目を見開いた。もしかしたら少々間抜けな顔をしていたかもしれない。見つめる恭一を、早苗もまたひたすら見つめ返した。二人の視線が絡まりあった。
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
「……先ほども云いましたが、戦況は悪くなっています。自分もいつ死ぬか分かりません。結婚しても、すぐにあなたを未亡人にしてしまうかもしれない。それでも……かまわないですか」
兎に角、早苗が一番幸せな道を行ってくれればそれで良かった。
「かまいません。恭一さんのお嫁さんにしていただけるというだけで、早苗は一生幸せに生きていけます」
思わず、笑みがこぼれる。もしかすると彼女にはつらい未来が待っているかもしれない。夫のいない、未亡人としての未来が待っているかもしれない。だが、それでも彼女が自分を夫に、と望んでくれるのならばそれほど幸せなことはないと思った。
七月一日。
一ヶ月近く外出許可が出なかった。ようやく恭一が家に戻ってきたときには、以前鳴いていなかった蝉がうるさいほどに鳴いていた。空は青く、白い雲がところどころに浮いている。
(『春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山』……か)
頻繁に発令される空襲警報がなければ、戦争などどこで起こっているのかまるで分からないような平穏さである。青空と白い雲に、昔友人たちと共に学んだ京を想起し、また皆で遊びに行った奈良の古都を思い出す。
心の中で、持統天皇の句を口ずさみながら恭一は家の敷居をまたいだ。これが最後かもしれない、と恭一は微かに思った。
「早苗」
恭一は彼女を、早苗と呼ぶようになっている。言霊というものは本当にあるかもしれない。彼女を呼ぶ自分の声に、何にも勝る愛情がこもっているのが己にも分かる。
「恭一さん」
久々に帰ってきた我が家……そう、京都の我が家ではなく早苗の待つ家である。夕ご飯には何が食べたいですか、と早苗は前掛けで手を拭って恭一に駆け寄ってきた。相変わらず白い肌が、眼に眩しい。
俺と並んだらまるで囲碁の碁石だな、と恭一は少し愉快に思った。まっすぐにこちらを見つめてくる早苗の笑顔が、今ひどく懐かしい。
「……お手製の鍋焼きうどんが食べたいな」
母親に似て、早苗は料理が上手い。少し前からは、店のメニュウは早苗が調理するようになっていた。早苗の作る鍋焼きうどんと親子丼が、恭一は大好きだった。結婚する前からそれは変わっておらず、早苗はそのことをもう充分に承知している。
「恭一さんはいっつもそうね。帰ってきたら鍋焼きうどんばっかり」
早苗がそう言って笑う。それでも文句ひとつ言わずに、台所へ向かってくれるのだ。知っているから、恭一は黙って微笑む。早苗は、決して恭一の前で笑顔を絶やさなかった。それは何の屈託もない笑顔に思えたが、彼女には彼女なりに何か不安を感じているに違いない。
時折、美しい眉のあたりが翳ることがある。戦争、という二文字が何よりも重く二人の未来にのしかかっているのだった。結婚してみると余計に、そのことを実感する。あと少しで平和はくるのか。それとも延々過ごしても戦争は終わらないのか。言いようのない不安は、一度顔をもたげるとなかなか消えてはくれないものである。
「どうしたの、口数が少ないね」
大人しく傍らに腰を下ろした早苗を、恭一はそっと覗き込んだ。
「いいえ、嬉しいんです。久しぶりに会えたから……」
「ごめんね。またしばらく淋しい思いをさせるけれど……」
明日には戻らなくてはならなかった。新婚だからといって、軍隊は甘やかしてはくれない。時間をまもらなければ、もちろん鉄拳を数発という修正を食らう。なかなか軍隊というところは、厄介なところであった。ソーダ水に水羊羹に蜜柑三つに、それから牛肉やら菓子一袋。餡餅四つ。そんなものを一気に配られて、その場で一気に食べ後で食べてはならんという。
軍隊というのは、そんな場所だ。窮屈でもあり、不思議でもある。馴れればそれほど苦しいこともない。一人の人間を訓練する、という意味ではそんなに悪い場所でもなかった。……たまに早苗の傍へ帰ることができる。そんな保証があれば。
「よく眠れました?」
「ああ、ぐっすり」
早苗が甲斐甲斐しく身支度を整えてくれる。それから握り飯の包みと餡餅を二つ持たされた。帰りの汽車の中でどうぞ、と早苗は笑った。
こんなさりげない気遣いは、昔から変わらない。そしてその気遣いに、恭一はいつでも救われる。
「じゃあまた。気をつけて、何かあったらすぐ逃げるように」
母親がいない隙を見計らって、恭一はそっと早苗の頭を撫でた。お母さんの身体にも気をつけてあげて、と言い足して恭一はゲートルを巻き、土間を出る。また軍隊に戻るのだ、という気持ちが恭一の心を締めた。
陸軍に比べれば、海軍はまだまだましだという。頑張っていれば、またすぐに早苗に会える。死の覚悟はできている、と己で思っていながら、そんな未来を信じてやまない自分がいた。
「お気をつけて」
そっと早苗は頭をさげた。昨日と同じ、空はとても青くて雲は白かった。蝉が耳に痛いほど鳴いていて、本格的な夏の訪れを告げていた。この蝉もわずか一週間の命。空に羽ばたき、そしてあっという間にその命を散らせてゆくのだろう。俺もあの蝉のように、尽きるのだろうか。
恭一は、そして早苗に背を向ける。そして歩き出す。駅へ向かう道、ひとつめの曲がり角でふりむくと、やはり早苗はまだこちらを見送っていた。手をふる。早苗が笑顔で手をふりかえしてくれたのが、優しく恭一の瞳に映った。
七月七日。
家から航空隊へ戻ってわずか五日。七夕の夜。編隊で木更津のあたりを飛行、帰ってきた晩飯どきである。様々な特攻機が試験されている、という話を聞いた直後に恭一は新しい特攻隊員に指名された。
何かが、すっと落ちてゆく心持ちがした。慌てうろたえる思いはまるでなく、ただ恭一は己の名を呼ぶ分隊長の唇を、冷静に見つめる。とうとう来たか。それが正直なところだった。以前まで、自分が死ぬときに何を思うかなんてことは想像もつかなかった。だが今なら分かる。
何をおいても一番に、早苗のことを想うのだろう。そして家族を。そして学友を。仕方あるまい、これは俺たちの役目なのだ。負ける戦と分かっていても、それでも突入していくこと。抗うよりも、受け入れなくてはならない。
皆が送別会をしてくれる。特攻隊が組まれたときには、いつでも送別会が行われた。今までは送る側だったのが、今回は送られる側である。ちょっとした感慨を持つ。
(……死、とは……)
死、とは何だろう。明日、出撃となる。帰り道の分の燃料は積まない。確実に死が迫っている。昔は古今和歌集を学んでいた自分が、気付けば戦死というものをするのか。不思議な気持ちに襲われて、恭一は軍歌を歌う連中を静かに見つめる。酒は出ない。煙草の一本と、ソーダ水で乾杯だった。
もう、この連中とも二度と会わない。そう思えば、あまり反りの合わなかった奴にさえも何となく親しみを感じた。
星が出ている。煙草を吸いながら夜空を見上げ、今までの軍隊生活を思い返した。途中からは、その思い出の中には必ず早苗がいた。置いてゆくことを許してください。……いつでも眼裏には早苗が蘇る。
『遺書。早苗様、お義母様。
御身体に不調はございませんか。私はもちろん心身ともに元気一杯であります。先日あたらしい特攻隊の編成があり、一番に指名されました。敵の機動部隊が本土へ来襲する可能性が大きいとのことで、今朝早くから待機しておりますので、飛行機の傍で一筆したためさせていただく次第でございます。
早苗さん、私が生きた二十四年のなかで貴女と過ごした月日は確かに短いものではありましたが、それでも自分にとってはこれ以上ない幸せな時間でした。貴女を置いたまま行くのは心苦しく、また貴女の御心もお察ししますが、私は後悔しておりません。どうか貴女とお義母様、我が両親等々をお守りするという使命のもとに満足してゆくことを信じ、あまり気を落とされませんようにお願いしたいとおもいます。
早苗さん、貴女のことを考えて幾度も悩みました。あなたを未亡人にしてしまうことに苦しみも感じましたが、しかし命令が下れば皆がそうしていったように私も出ていこうと思います。いつか必ず平穏な時代がくると、信じております。たとえどのような時代が来ても、どうか皆様お健やかに、お幸せにお暮らしください。私はそれだけを兎に角強く祈っております。本棚の本は、早苗さんが適当に片付けてください。
突っ込むとき、おそらく貴女の顔が一番に思い浮かぶことでしょう。どうか早苗さん、貴女の今後の幸せをお祈りしております。ただいま、七時です。そろそろ命令が下るのではないかと思われます。走り書きで申し訳ありませんが、これにて。さようなら。
片倉恭一』
本州が遠ざかってゆくのが分かる。隔離された特攻機の中、プロペラが回る轟音だけがやけに煩く聞こえる。地球は確かに円形をしている、と恭一は穏やかに思った。眼下に広がる太平洋に、薄く靄がかかって見える。恭一はちょうど編隊の真ん中を飛んでいた。
曲がるぞ、という戦友の合図に恭一はぐっと機首をめぐらせる。そろそろ太平洋に陣を構えたアメリカ艦隊の姿が現れるはずだった。
(…………)
今、思うことは何もない。ただ目標に向かって、まっすぐに特攻機を操縦するだけである。気持ちを乱して、敵艦隊にたどり着く前に墜落するのはどうにもみっともない。不思議なほどに、落ち着いていた。空は晴れている。時折、機体の下を白い雲が流れていくが、それほど量は多くない。
雲が流れていく合間に、青黒い海がとてもよく見えた。
アメリカ艦隊の姿が目に入ったとき、気のせいか編隊に緊張が流れた。
いよいよだ、といった思いが恭一の唇を幾分渇かせる。
右隣を一瞥する。よくカッターの練習のときに一緒だった、上本と目が合った。彼がにやりと笑った。よく減らず口をたたいては、教官にぶん殴られていた男である。ひょうきんな奴で、皆に好かれていた。
(……またな……?)
上本の唇は、そう動いたように見えた。何を思って、またな、と言ったのだろうか。考える暇はなかった。
(またな、か……)
それから左隣を一瞥する。藤田という学友である。京都大学で同じ演習をとっており、共に文学を語り合った。紀貫之の和歌を解釈するのに意見が食い違って、口論したこともある。それは今こうしてみると、ひどく懐かしい顔だった。目が合って、藤田は何も言わないままにひとつ、頷いた。
前方の特攻機が三機、扇状に旋回しはじめる。それが合図だった。
俺たちは今から死ぬのだ、という実感がふつふつと込み上げてきて、長年を共にした学友たちとの別れがふと身に沁みた。燃料は、もうすぐなくなる。計器に忙しく目をやりながら、恭一は突然少し離れた場所を飛んでいた友機が火柱をあげて堕ちてゆくのを見た。あれに乗っていたのは誰だったろう。興奮しているのだろうか、思い出せない。火達磨になった戦闘機は、あっという間に落ちてゆく。しかしその中、気力だけで操縦しているのだろう。それはふらふらとごみ屑のように堕ちていきながら、方向をアメリカ空母に向けていた。
(……これが特攻隊だ)
これが、死ぬということだ。恭一は静かに無電に視線をあてる。
ゆかねばなるまい。すでに時は来た。左隣にいた藤田機が、砲撃を巧みに交わしながら斜めに突っ込んでいくのが見えた。まっすぐアメリカ空母を見据えて、奴は何かを叫んでいる。最期の瞬間に、友人が叫んだ言葉が何なのか分からないことが、今はとても切なかった。恭一の手が、動いた。
今ここが戦場だ、という実感が湧いているのか湧いていないのか、それすら分からない。
――『ワレ突入ス』
急激な気圧の変化に、耳鳴りがする。左右を砲弾が飛んでゆくが、なかなか当たらないのが不思議だった。怖ろしくでかいアメリカの空母がそろそろはっきりと目に映る。遠くで轟音を立てて、さきほどまで一緒に飛んでいた特攻機が次々と墜落していった。無茶な光景だった。幾つかの戦艦や護衛艦が、火柱をあげる特攻機に突っ込まれて炎上している。あの甲板にいる兵士たちにも、家族がいるに違いない。それでも戦わなくてはならないのか。殺さなくてはならないのか。俺たちは何の解決にもならないことをしているのだ。……悲しくて滑稽だった。
恭一の特攻機は、ぐんぐんと速度を上げる。突如衝撃を感じ、エンジンが壊れたのが勘で分かった。平衡感覚が保てない。機体がぐらりと傾き、傾きしながら空母へ向かってゆく。熱い。ひどく熱い。
いつの間にか、自分の機体も燃えていることに気付いた。今にも死にそうなこの状況で、何故こんなにも落ち着いていられるのだろう。炎をあげる翼を横目に、恭一は思う。死ぬと分かっているからだろうか。
右隣にいた上本機が、爆発する。そのまま空母から外れ、傍の護衛艦に突っ込んだ。恭一の機体も相当やられていた。上本機が突っ込んだ時の烈しい衝撃音が、遮るものもないまま耳をつく。
(……お父さん、お母さん……)
どうかお健やかに、と願う。小さい爆発音がして、自分の足がやられたのを知った。機体を包む炎が烈しくなっているのが分かる。だが、意識は驚くほどはっきりとしていた。そこから、砲撃を浴びながら空母へ突っ込むまでが長かった。三半規管がおかしくなり、気が狂いそうに感じられる。
身体中が、兎に角熱い。ふ、と何かが脳裏をよぎった。
楽しかった。とても楽しかった。とても裕福な暮らしではなかったが、両親とも健在でよくぜんざいを作ってくれた。大学の中庭で野球をして、教授室の窓を割ってしまったこと。あの美しい並木道。
石段に腰かけて、和歌の解釈について議論した。あの行きつけの店で、トンカツの早食いをしたことも。何もかもが今鮮やかに蘇った。
これが走馬灯か、と恭一は唇に笑みを浮かべる。
砲弾の音が、遠い。どこに空母があるのか、よく分からない。
ともに学び、ともに軍隊生活を送った学友の顔が一人ひとり思い出される。藤田の顔が、笑っている。議論をしては、和歌ゆかりの場所を訪れて共に感動した。嗚呼、幸せだった。
(…………!!)
気付けば目の前は炎。燃え盛る炎の合間に、懸命に恭一の特攻機を撃ち落とそうとする米兵らしき人影と、空母と見える大きな物陰が見えた。
燃料は、もう底をついている。身体中に、これ以上ないというほどの衝撃を受けながら恭一は操縦桿を放さなかった。
「…………」
おさげ髪の早苗が。清楚なもんぺをはいた早苗の姿が、一際鮮やかに思われた。恭一さん、と呼ぶ穏やかな声が耳をうった。そしてもう一度思う。
(楽しい日々だった)
未亡人にしてしまう。どうかそれでも幸せに、と早苗を思った。
恭一の死を知れば悲しむだろうに、今は彼女の笑顔しか思い出せない。戦争さえなければ、と。恭一は決して今は思ってはいけないことを思った。鮮やかだ、思い出はこんなにも。
(……幸せだった)
「……早苗」
熱さでからからに渇いた唇が、小さく早苗の名を呼ぶ。その名を呼んだだけで、心が安らぐ。手は、操縦桿からやはり離れない。目の前に何かが迫った、と思ったときには物凄い衝撃が身体を襲い、手を操縦桿に残したまま体が空中へ放り出されるのが分かった。
意識が遠ざかる瞬間、自分の千切れた左手が操縦桿にへばりついているのを見る。ひどい痛みと熱さと、それから衝撃を感じた次の瞬間には、すでにもう何も感じることはなかった。
(……藤田よ、今いく)
それが、片倉恭一の最期だった。享年二十四。
あの頃俺たちは生きていた。迫りくる命の危険の真っ只中で、それなりに幸せに日々を送っていた。いつか死ぬ。そんな覚悟はできていたが、死ぬ間際に自分がどんなことを思いどんなことを悔やむのか、そんなことは想像もつかなかったし、想像しようとも思わなかった。ただきっと思い返せば、俺には友達がいて家族がいて、少しでも自分の好きな勉強ができて。それなりに幸せに生きてきたのだろう、と思い返す。そんな予感は、少しだけあった。戦争の影がない生活。そんなものを知らない俺たちは、影の中にただ一筋の光を求め、そして何かくだらなくとも自分の信念を確立しようと躍起になっていたのだ。……そしていつか死ぬ間際に名を呼ぶ、たった一人の人を見つける。
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2005/02/11(Fri)23:17:26 公開 /
ゅぇ
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ゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
また読みきり書いてしまいました。これは『あの夏。』の恭一バージョンです。これもテーマがテーマだけに賛否両論あるんだろうな、とは思いますが。おおめに見てください(汗)どうなんでしょうね。戦争っていうのは。とりあえず日本ももうすぐ戦争になったりするのかな、なんて。まさかそんなこと、と思ってても。あたしたちはやっぱり「考えること」が必要だな、と思います。ものすごく適当になりつつある生きかたには相当反省。いつでも犠牲になるのは国民で、それは分かってるはずなのに口をつぐんで何も言えない自分が嫌です。とにかく大切な人々が戦争に行くことがないように。無事でいられるように。それは願いです。平和主義の皮をかぶった利己主義かもしれませんが、それが平和の根本ではないか、と。戦争なんてなければいい。綺麗ごとという人もきっといます。あたしも時々思うくらいだし。でも、それを綺麗ごとと片付けて、汚いほうに進んでいくよりはきれいごとに終始したほうがまだ良いかな、と思ったりなんかして。ま、とりあえず頑張ります(何を)駄作ではありますが、読み流していただけたら(^−^)ちなみにこれは「恭一の突っ込むシーンが見たい」という神夜さんのリクエストから書きはじめた作品です。満足いかないものかもしれませんが、書いてみましたよ神夜さん!!!(笑)