- 『クール・スパーキング・ネオン』 作者:飛中漸 / 未分類 未分類
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全角16849文字
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原稿用紙約57.45枚
やっぱ、こーだよな。これがふつーだよ。
どっかで遊んで、キスして、んでここ、っと。
それが当たり前だよな、定番だよ、あの女がおかしいんだよ。
ほんとわかんね、あの女。
いい顔するのになあ。
あんときだけは妙にかわいいんだよなあ。
次会ったらどう……
「ねえ、ジョージ?」
「あん?」
「私の話、聞いてた?」
「ああ、聞いてた聞いてた」
「……嘘ばっかり。あっち側なんて向いてたくせに」
おれの腕の上に頬っぺたの温かくて柔らかい感触がある。パサついた髪がちくちくする。
腕枕にのっかりながらおれのほうを向いた女は、なんか妙に目がきらきらしてる。
嫌な予感がする。怖い。こういうときの女はなにを言い出すか分からん。
言うなよ。言うんじゃねえよ。こいつは都合よく現れてくれると重宝してたのに、ああ。
「ねえ」
「ん」
「ほかのひととも、こういうことしてるの」
ああ。あああああああ。ジ・エンド。
しまった。おれがバカだった。
「してる」
女が一瞬とまった。
何を期待してたんだ。冷静に考えれば分かるだろ。
「……何人くらい」
「数えるのはやめた」
おそるおそる訊くくらいなら訊かないでくれ。
しかも答えを理解するのに時間かけるな。
オマエはバカか。
相当のバカだろ。
バカに限ってこうだから、マジでバカは嫌になる。
「ジョージ」
この先、聞きたくない。
「もうほかの女に会うの、やめてよ」
「なんでだよ」
「私だけじゃだめなの?」
「オマエだけ? なんだそれ。何様のつもりだ?」
「私、好きなの……あなたのことが好きになっちゃったのよ!」
わっ、と女が泣き出した。
あー、これで何度目だ。めんどくせー。
これだから女は嫌だ。
「話はそれだけか? なら帰ってくれ。ここの勘定はオレ持ちでいいから」
「なによ、その態度……私がどれだけ本気なのか分かってないんでしょ!」
「分かってねーよ。分かりたくもねー」
「うっ…私なんて体だけがあればいいのね!」
涙ふきながらそーゆーこと言うな。
「全部ぜーんぶ、遊びだったね、遊びだったんでしょ!?」
いまさらなに言ってんだよ?
「そっちだってその気だったんだろ」
「なんですって?」
「街中で声かけられて、一緒にほいほい遊びに言って、その日のうちに……」
「それがなんなのよ!」
がぁ。こいつ、怒ると顔がぶっさいくだなぁ。あー、貧乏くじ引いた。
「すくなくとも今は本気なのよっ、なんでそれを分かってくれないのよ……」
「ごめんなー、おれすんごいバカで頭がわるいからさー」
「初恋よ! あなたが! こんな男! そしていつも初恋は実らない! なんでなのよ!」
そんなのおれの知ったこっちゃねー。ジンクスなんてどうだっていいし。
「このドエロ! スケコマシ! 女の敵!」
「あー、はいはい、そーですよー」
「あんたなんか死んじまえばいーのよっ!」
「そーかもしれないねー、そのうち死ぬかもしれないねー」
「くっ……私は、わたしは、あなたに踊らされていただけだったの?」
ぴく。
ああ、急にしおらしい真似をしたって、もう手遅れになってんだってば。
この耳は相変わらずこの言葉に反応する。「死」には慣れたと思ってたのになー。
「自分の意思で踊っていただけマシだろ」
「はぁ? 意味不明。なに言ってんの?」
「踊らされてたんじゃねえ、自分の意思で踊ってたんだよ、オ・マ・エは」
「なに自分を正当化しようとしてんよ、この悪党が!」
「……オマエは、本当に踊らされる人間の悲しさを知らないんだよ」
「なにそれ」
ま、わかんねーよな。オマエみたいなバカ女には。
理解しなくていいから、どうせそんな頭もねーだろ。相手すんのも疲れるんだよ。
「いまさら賢いフリしてんの? 笑っちゃう」
うそつけ。目がつりあがりっぱなしだぞ。
「用済みなんだよ、オマエは。用済みの女。それが分かるくらいは賢いだろ?」
おー、顎の先から耳の端まで、見事に赤くなっていきやがる。
「もういいわよ、あんたなんか大ッ嫌い!」
そんなこと、大泣きしながら言わなくてもいいだろーに。化粧が崩れてるぞ。
「死んじまえ!」
あー、服を着るときくらい慌てるなよ。シャワーくらい浴びてけばいーのに。
荷物忘れてねーか。大丈夫か。まったく。
安心しろよ、そのうち死んでやるから。
「なんか不機嫌そうな顔ねえ。何があったんだい、困ったことがあれば……」
「うるせェっ、オマエに保護者面する資格なんてねぇんだよ、このクソババァ!」
玄関先からこれだ。婆ちゃん、お願いだから引っ込んでろ。
「こらっ、ねぇっ、晩御飯は?」
「いらねえ!」
おれは賃貸マンションのせまっくるしい空間の中で、なんとか婆ちゃんを突破して
小さな部屋のドアを閉じて篭城した。まずは出しっぱなしの布団の上に寝転がった。
ちーん。
婆ちゃんが仏壇に線香をあげてる音がする。どうせ、いつものことだから、
爺っちゃん、父っちゃん、母ちゃん、んで……兄ちゃんにも語りかけてるんだろ。
「ごめんよぉ……私がいたらないばっかりにねぇ。あんなふうに育っちゃって」
違う。しょうがねえだろ、それは婆ちゃんも分かってるんだろ。自分のせいにすんな!
余計におれがつらいだろ……嫌なんだよ、仏壇は……これ以上はもういいんだよ。
「あーっ、スカッとしてぇっ!」
おれは携帯電話を取り出して、ボタンを操作して「グループ 女」を呼び出した。
また会いたい。暇な時間を教えてくれ。
それだけ書いて一斉に送信。
どうせきちんと返事してくれるのはいても数人だけ。
しょせん、それだけの女たち。
ただ、送らなければ気がすまなかった。
むかついてむかついて、むかついていた。
「ちぇっ、また無視かよ」
これで今日は何人目だ? 十人連続か?
まるでダメだな。今日もハズレか?
駅前の向こうにはあんなに人がいるのにな。しけてやんぜ。
どいつもこいつも、近づくだけでに逃げていきやがる。
いくじねーでやんの。
声かけられたことなさそーな女ばっかだもんなぁ。
ほんと、マジでいまいち。
場所を変えるかぁ。
もう今日はあきらめっかな。なんかダメそうだもんな。
ゲーセンに行くか。ゲーセンゲーセン。
なんにしよっか。
スカッとしてーな。
スカッと。
今にも雨が降りそうな曇天が、夕暮れ後の街を包む下で、おれは歩いていた。
ガッコなんて昼からサボって、いつものように似たような連中を釣ってシケコもうと
高架うえを走っていく電車を見上げながら、駅の近くの繁華街の入口に陣取ったが
どーにもこーにも今日はうまくいかねえ。
ああ、なんでだよ、一人くらい引っかかれよ。
あの女とヤッて以降、サッパリ、ズンバラサッパリ。
さー、はてはて。気に入らねえっ。
あいつのせいで運が落ちたんじゃねえか。
冴えねえ表情だもんな、マスクみてーで。
今でも思い出せるもんなぁ、はっきりと。
パーツが整ってるだけに、余計に不気味でよ。
なに考えてるか分かんねえし。
声かけたら「何?」
遊ぼうと言ったら「いいわよ」
挙句の果ては、どこに行こーかと言ったら
「さっさと最終目的地へ」
おかげでなんか調子が狂っちまったんだよなあ。
ああ、あの顔がちらつきやがる。
でも最中だけはしっかり喜んでやがんの。
そういう顔ができんなら普段からしてりゃあ、
「じょーぉじぃ〜?」
あ? おれか?
誰かおれの名前、呼んだだろ。どこだ?
人が多くてわかんねえ。
こんな繁華街の道の横から、誰が止まってる?
どこにも、誰もいねえじゃねえか。
「じょぉおじぃい」
ん? 下か、下のほうか。ビルの隙間に誰か座り込んで……
「オマエっ!」
「あー、ひさしぶりぃ、じょおじい。元気してるぅ〜。あったし、はっぴーぃ」
「オマエっ、またヤクやってんだろっ。それだけはヤメろって言ったじゃねぇか!」
「えぇ〜、だってぇ、べつにいいじゃなぁい、すこしくらぁい」
「少しじゃねぇだろっその顔は。目ン玉溶けてバレバレだっこのバカ、約束だったろ?」
「やっくそくぅ? あー、あー、あぁ。そんなことあったっけ? 一緒のときかなぁ」
「あ、の、と、き、ヤクをやめてくれるって言ったじゃねえか、なにやってんだよ!」
「だってー、ほかにたのすぃーこともないっし〜。あたしのことなんてどーでもい……」
「バカやろっ、どーでもよかねえから怒ってんだろ!」
「じょぉじぃー? なぁにおこってんのよぉ。あたしのこと、好きな癖でもないくせにぃ」
「それは……それは……そうだけど……ヤクはやめてほしい。死んじまうよっ」
「しぬぅ? しんだぁっていいじゃぁなぁい。らぁあくになれるぅんだしぃー」
「オマエっ……ふっざけんなぁ!」
「〜?」
「なんで生きられるサダメにあるオマエがっ、オマエが生きようとしないんだよっ!」
「じょぉ、じょぉじぃ? ねー……どこいくのぉ? また女ぁ……」
「くそっ」
おれは繁華街の人ごみの中を、みな駅に向かっていく流れに逆らって、進んでいき、
「くそっ」
かきわけた視界には、空が暗いのにも関わらず、さまざまな照明が目に入ってきた。
「くそっ」
右側にはなんとも横に長いスーパーマッケットの昼白色が建前の清潔をアピールして、
「くそっ」
やがて左側にゲームセンターからおどけて電子音に乗った原色の嵐も過ぎ去って、
「くそっ」
繁華街の並びもつきかけたあたりでは、ようやく暗がりが出来始めていた。
「くそっ」
「くそっ……」
「っくそったれめがあああぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
おれは、道のど真ん中で背中を天に仰ぎまげて雄叫びを上げていた。
それに気付いたのは、周りに人だかりができて、ヤツらがざわつき始めてからだった。
ソイツらを睨みつけてやると、ちらりと向いただけで後ずさりやがる。臆病者らめ。
胸クソ悪い。こんなヤツらの見世物なんかじゃねえ。してーことして何が悪い。
ポツリ。
頬になにか冷たいものが当たった気がした。またポツリ。今度は鼻の上だ。
手のひらを広げた。数秒に一回くらい、感触があった。
「……帰るか」
おれは、次の先の十字路を右に曲がって、やや遠回り気味に駅に向かった。
駅についた頃には雨は本降りになっていたが、走り出す気にはなれなかった。
「婆ちゃん?」
いないのか。まだいつもより帰りが早かったからな、買い物に出かけてるんだろ。
はあ。厄日だよ。兄ちゃん。世の中ってうまくいかねえよーにできてんだなあ。
そんなことって当たり前なんかな。はい、線香。びしょ濡れでごめんね。
ちーん。
まったく、爺っちゃんも父っちゃんも、なんで子供つくっちまうかなあ。
母ちゃんもよくもまー知ってて結婚したもんだ。おかげでオレらは大迷惑だ。
灰に刺さった一本の柱は、先にほのかな朱色が灯って、真っ直ぐな煙を上げたが
筋は緑色の柱の長さよりも短いところで散り散りになって溶けて消えていった。
それを見ていたおれは、ろうそくに息を吹きかけて消そうと思ったが、
ふと思いとどまって、手のひらを軽く丸めて手首を振って、その風で火を消した。
「おれも……そろそろ兄ちゃんの年に追いついちゃいそうだね」
仏壇の前で、正座に姿勢を変えながら、しげしげと黒光りする位牌を見つめた。
「兄ちゃん、兄ちゃんの初恋はどうだった?」
死の味がした。
「え?」
「ジョージ!」
婆ちゃんの声がした。
目が開いた。天井が見えた。
外が明るかった。
おれの部屋だ。
「あんたまた遅刻よ! それとも今日もサボるつもり? 何度老いぼれを学校に――」
「う……ん、いくよ、いくから、そんな怒鳴らないで……」
「ほんっと、朝に弱いんだから! 誰に似たのかしらね、まったく」
誰にも似たくなかったよ、できることなら。
少しは頭を働かせろよ、婆ちゃん。
それにしても……夢か。夢だったんだな。嫌な……夢だ。
……兄ちゃん。
また、一日が始まるんだな。
手は、うん、震えてない。
昨日は何があったっけ。
ああそうか。道端で吠えたんだっけな。覚えてる。
じゃあ今日は、どんな予定がある?
オレは枕元で充電中のケイタイを、布団に入ったまま手を伸ばして握りとった。
メール着信が一件。時間は昨日の深夜だった。内容は、
「明日の夜、同じ場所で。」
ただただ簡潔だった。思わずつぶやきながら読み返しちまった。
さらにおれは送信元を再確認までした。見間違いなく、あの女からだった。
どどんっ、
かーん、
おまえの強さは本物だな
だが俺にも引けぬわけがある
行くぞ!
太鼓の音が二打ちして、ボスが画面の下から登場して自機が弾き飛ばされた。
おれの強さはゼンゼン本物じゃねーよ。買いかぶりもいーとこだ。
ゲームキャラにそんな渋い声で言われても困る。
でも、そっかー、アンタにも「引けぬわけ」があるんだな。
片目なのは「伊達じゃない」ってことか。
なら、おー、来いや。その挑戦、受けたろーじゃないの。
どごーん
ブルブルブル ブルッブルッ
ケイタイが震え出して、気をとられた瞬間にバカでかいバズーカにやられた。
昨日のクソ女からだ。ちっ、こんなやつのために百円がパーだ、パー。
液晶画面を確認すると、そろそろ待ち合わせ時間がやってこようとしていた。
ま、ちょーどいい時間だしな。行くとすっか。
ランキング表の自分の名前のところに「まごいち」と打ち込んで、
女主人公キャラの顔グラフィックを表示させて、ちょっと気分を取り戻した。
音だけが賑やかに詰まったゲーセンを後にして、
空虚な気持ちを背中の後ろに置いて残そうと努力しながら
おれは繁華街の道を駅に向かって歩いていった。
建物の切れ間から姿をのぞかせる夜空が、今夜はなんか澄んだ藍色に見えた。
吸い込まれそうになるくらいに真っ暗で、その中心に三日月が輝いていた。
「こっからが、今日の本番かな、ジョージ?」
自分に言い聞かせながら、駅前の広場へとつづく階段を上りはじめた。
妙にピカピカした、得体の知れない材質でできた手すりに腕を伸ばして
そっとその感触を確かめながら、表面をなでるように滑らせていく。
おれは、わくわくしてんのか?
このおれが? 女に会うのに?
はっ、まあ、どんな格好して待ってることやら。あの女は。
たしかにそいつは楽しみだけどなー。
階段を上りきったあたりで右側に駅前広場が舞台にせりあがってくる。
上手の駅構内改札口から乗降客が出ては広場の奥をせわしなく移動していく。
広場の三箇所にエキストラ役として路上ライブをする若者を配置していても、
家路へと急ぐ人々は周りの未熟なBGMには関心を一切寄せることなく
下手の新しくできた乗換駅のほうへと、さっさと入退場を繰り返している。
「おれは、主役でいいんだよな?」
さあ、それはどうだか。自分でもよくわかんねえ。おれはやりてーようにやるだけ。
舞台監督を見つけたらぶっとばしてるんだろーな。おーい、監督さんよぉー。
広場の平面に足をつけて、あたりをちょっと見渡し、それからケイタイを取り出した。
午後7時25分。こないだはたしか7時半だった。今日もいるのは同じ時間の気がする。
じゃんじゃか、じゃかじゃか、じゃんじゃら〜ん
聞き取れない、がなり声の歌詞をケンタッキーおじさん並の扱いで無視しながら
広場の中を移動してみた。丸が三つ。円周上には石造りのベンチ。カップル用。
明かりも少なく、通勤通学の通り道でもない、税金でつくられた青天井無目的ホール。
ただ、おれは好きな場所だった。
だって、ほら。
やっぱりあの女はそこに座ってた。
会社用なんだか普段着なんだかいまいち判断しかねる中途半端でおしゃれな服装。
切っ先の整えられた長い黒髪は真面目にみせながらも、艶やかに色気が出ていた。
背中をすっきり伸ばしているから、後ろにのぞくうなじが唾を呑み込ませさえもする。
読んでいた本をおもむろに閉じて、視線の端でとらえられたおれは、動けなかった。
「行きましょうか」
「どこにだよ」
「あなたが行きたいところへ」
まったく微笑みも見せずに言いのけやがった。
表情一つ変わりゃしねえ。なんだよ、まったく。ほんと、この女は。
女はわかんねえ。ぜーんぜんわからん生きもんだよ。
特にこの女。目の前を歩いているこの女。
ラシイけどな。愛想がなくても美人は美人だ。
しかも仮面じゃねえから上玉なんだよな。
どーして笑顔を見せないんだか。
ま、気持ちよくて楽しけりゃ、なんでもいーんだけど。
かちゃ
ルームナンバーの書かれた鍵を縦長の暗い穴に入れて捻りまわすと
わずかに悲鳴を上げたドアが、おそるおそる入口を開いていく。
おれはノブを引っ張って、女をまず先に仰々しく中へ招きいれた。
女は無反応にスタスタ部屋へと歩いていった。ほんと、演じ甲斐のない女。
手探りで照明のスイッチを探り出し、ぱちりと押すとカチカチンと音が鳴って
思わずその方向を見ると、頭の真ん上の蛍光灯に明かりが灯っていた。
正面に視点を戻すと、なんとも微妙に明るく暗い照明が部屋のあちこちで鈍く光り
あの女といえば、いつの間にか窓際まで寄っていて、カーテンを引いていた。
ショウの幕開けってわけですか。
なにを御覧ですかな、女王閣下?
そうつぶやきながら、おれは好奇心いっぱいに女に近づいていった。
ムードつくりたいしな、ムード。
さすがにいきなりってのは、おれだってそのあとがノラねえし、なあ――
だん
「え?」
いきなり真っ暗になった。思わず声をあげちまった。カッコわりぃ。
「停電かな。大丈夫か?」
「平気」
ここまで冷静な声を出されると、逆に心配になる。
おれは、無意識に声の主を見やった。
そこには、虹が広がっていた。
画家のパレットの上で原色の絵の具が鮮やかに混ぜられていた。
一回まばたきをしてからようやく、それが女の顔の形をしていることが分かった。
真っ白なキャンバスに、色とりどりのネオンの光が映っていたのだった。
ネオン? 停電してるのにか? この建物だけなのか?
おれは急に気になって、女の隣からカーテンを除けて窓ごしに外を眺めた。
停電はこの部屋だけでも、この建物だけでもないようだった。
街の明かりがぜーんぶ消えたような感じだった。
だけど、この歓楽街の通りに飾られた、向こう側のネオンの看板だけは
いまもなお煌煌と欲望の臭いをまきちらして、それをエサに蛾を招き寄せていた。
「表の生活の明かりが消えたとしても、欲望の火は消えないってか?」
ちょっと気障っぽく、賢そうに、無い知恵ふりしぼって言ってみた。
だが、女の声色は相変わらず冷静に、
いや、
少しどこか面白がって……?
「変電所かどこかでトラブル――街中の電気が一気に落ちた。
でも、きっとここは、そことは違う変電所の管轄なんでしょうね」
ふんっ……ほんとにかわいげのねー女。
「だけど、ある科学者が本の中で書いていた。昔、銀座で停電があったそうなの。
屋上の明かりも街灯もすべて消えた。ただ、ネオンサインだけがともっていた」
こんな饒舌な彼女は初めてだった。そりゃ会って間もないけれど、だけど……
でも、これまでがどうとか、そんなことはなんかちっぽけに思えてきた。
そしておれの目は、いつになく多く語る彼女の顔に釘付けにされてしまっていた。
青を髪が反射して、オレンジを額が受け取って
投げ返された瞳の緑は、耳を黄色に染め上げて
あごで紫に共鳴させられた、響きが出てくる先は赤く、
その唇に、薄っすらと浮かんでいたのは――
バチィッ
窓下のネオンが真っ白な火花を打ち上げた。
その瞬間、照らし出された彼女の顔は、
見る男の視線を離さない、香り漂うような輝きに満ちていて、
面白そうに世界を眺めながら、静かに優しく唇にたたえていたのは――
「微笑み――」
おれの口から、そんな言葉がかすかに漏れてしまった。
多分、誰にも聞き取れないくらいの小ささで。
でも、おれは見てしまった。
彼女はたしかに微笑んでいた。
カチ、カチカチン
入口ドアのほうから音が聞こえた。
蛍光灯に電気が通ったのだ。
室内の照明も徐々に戻ってきた。
だんだん、いつもの部屋に帰ってきた。
でも、彼女はそのままそこにいて、変わらなかった。
変わっていたのは周りだけだったのか? おれ自身が変わっていたのか?
そんなおれの思案をよそに、彼女は身をひるがえして歩きはじめた。
どこへ、と尋ねようとする前に、背中越しに声がした。
「もうシャワー使えるね」
わかんねー。ぜんっぜん、わかんねーよ。
「ジョージ!? 帰ったの? ただいまぐらい言いなさいよ!」
「あー、……ただいま」
なんなんだよ。あの女。
やっぱ、あんときはいい顔しやがるのに。
つれねーでやんの。無表情。
「……なんか魂を抜かれたような顔をしてるわねえ」
「うっさいよ、ほっといてくれ」
「ああ、そうかいそうかい……あ、そうそう、あなた宛てに電話があったよ」
「おれに電話? 誰から」
「病院。ぜひ今度いちどでいいから来てく――」
どんっ
おれは靴を脱ぎ終わった刹那に、傍の壁を右のこぶしで横殴りしていた。
「おれは行かねえって、いつも毎回くどくどくどくど言ってんだろうがっ!」
「ジョージ! いい加減にしなさい。自分のことは自分で決めればいいでしょう、」
あ、婆ちゃんが怒ってる。珍しく怒ってるよ。
「でも、これはジョージ、あんただけの問題じゃないのよ! これからの人たち――」
「これからなんておれなんかに関係ないんだよ!」
おれは、いつもと気迫が違う婆ちゃんから逃げ出したくて部屋の中に立てこもった。
「病院に行った兄ちゃんだって死んじまった、おれが病院に行ったって、」
鼻で息をすすったら、ズッと音がした。
それで自分が泣き始めていることにようやく気付いた。
「おれが病院に行ったって、兄ちゃんは戻ってこねえ、おれだって死ぬだけだろ!?」
「ジョージっ!」
「なんで婆ちゃんは父ちゃんを生んだんだよ!」
「ジョージ……」
ドアの厚さを間に挟んでいても、婆ちゃんの気迫が衰えていくのが分かった。
おれは両腕で胸を全力で押さえていた。
けれど、言葉が口から出て行くのを止めることはできなかった。
「なんで父ちゃんと母ちゃんは、おれたちなんて生んだんだよ!」
返事は無かった。その代わりに、婆ちゃんがすすり泣きしているのが聞こえた。
「しかもなんで母ちゃんまで先にあの世に逃げるんだよ! 無責任だよ!」
もう返事が無いどころか、婆ちゃんの気配すら感じられなくなっていた。
「なにが遺伝だ、ふざけんなよっ、おれなんか生まれなきゃよかったのに……」
おれは部屋の奥へと駆けていって、布団を頭からかぶって、くるまった。
兄ちゃん……助けてよ。
お願いだから生き返ってでも死んだままでも現れてよ。
恋なんかするから早く逝っちゃうんだよ。おれらは恋をしちゃいけないんだよ。
ハンチントンだかトンチンカンだか、そんなもん知ったこっちゃねえ、
でも一人だと怖いんだよ。
傍にいてほしいんだよ。
兄ちゃん……兄ちゃん……
涙が止まらなかった。
体の震えも止まらなかった。
ただただ布団が作る闇の殻のなかに、虚ろな安心感を作り出して
なんとかそれでせいいっぱいに自分の弱さを守ろうとしていた。
ちーん
遠くで、線香をあげている、婆ちゃんの姿が見える。
きっと泣いているんだろーな……おれだって、泣いてるんだよ。
恋愛をするからいけねんだ。子供をつくっちゃいけねーんだ。
だから兄ちゃんは恋をした途端に死んじまったんだろ? 兄ちゃん。
兄ちゃん、死の味って、どんな味だったの?
あの女が微笑んでいた。
しかも、おれの目を見ながら、微笑みかけてきて、
信じられないことに彼女のほうからおれの唇に
そっと優しく触れて温もりを伝えるキスをした。
え?
「死の味って、こんな味じゃないかしら」
え?
それって、どういうこと?
ねえ?
どういうこと?
それって微笑みながら、言うことなの?
ねえ?
どうして、その微笑みからおれの目は離れられないの?
ドンドンドン
「ジョージ!」
ドアを叩く音と、婆ちゃんの怒鳴り声がいっぺんに聞えてくる。
目が開いた。
真っ暗だった。
布団をどけた。天井が見えた。
外から光が入ってきた。もう明るかった。
「遅刻するよっ」
「あー、……起きる、いま起きるから……」
夢か。
そりゃそうだよな、あの女がそんなことするわけ――
おれは無意識に右手の甲で自分の唇が押される感触を確かめていた。
手の甲は夢のときよりも遥かに固かった。
夢では、もっと柔らかかった。
「あー、……行っちまった」
気合が入らねえなあ。学校行っても、ぼーっとしてるとか言われて立たされるし。
駅前の広場なのに、いやに人がすくねーでやんの。
いいじゃねーか、空がこんなに青くてキレイなんだから、眺めていたって。
そこらへんで歩いている女なんかよりも、よっぽど空のほうが見ていて気分いーよ。
あー、なんかどいつもこいつもブサイクだよなー。
今日はもー、とことんハズレ。
人生の中でも特別、最悪。
ゲーセンにでも行こっかなー。
でも、金もそんなに持ってないし……
婆ちゃんから小遣いもらうの忘れた。
でも、家計は厳しそーだよな……
ベンチに座って、空でも眺めてよーか。
今日はそんだけでいー気がしてきた。
しぃろい雲が流れるのを、のんびり眺めてさー
横を見たら、あの女が微笑みかけてくれてる、そんなだったら最高……
最高……?
なんで、そこであの女なんだよ?
べつにどの女だっていーだろ?
そもそも女選びがいやだから空見たんだろ?
なのに、なんであの女が出てこなきゃいけねーんだよ?
しかも最高だと?
おれはなに考えてるんだ?
……まさか、まさかそんなわけねーよな。
そんなこと、あるはずが――
ねーよ、ちげーよ、そんなんじゃねーよ、
答えろよ、おれ! おれが間違ってるって誰かはっきり言ってくれよ!
おれは人を好きになりたくなんかねーんだよ!
好きになっちまったら兄ちゃんみたいに死んじまうんだよ!
女なんか好きになりたくなんかねーよ……
恋愛はマジで勘弁だよ……
……好きなのか?
これが好きってヤツなのか?
おれはあの女に惚れちまったのか?
たった微笑み一つで命をあけわたしちまったってのか?
嘘だろ?
おれ、死んじゃうの?
いやだよ、死にたくねーよ。
もっと、生きていてーよ、やりたいことだってたくさんあんのに。
100%病気で死ぬからって、四十歳までならだいたい生きられるんだろ?
まだ二十年以上のこってるんだろ? 恋しなきゃそんだけあんだろ?
兄ちゃんは恋をしたから悪いんだろ? そうなんだろ? そう言ってくれよ!
おれは……おれはもっといろんなことをしたい、
いろんなところに行ってみたい。いろんなものを見てみたい。
もしもそのときに隣にあの女がいて微笑みかけてくれたなら――
――くれたなら、それはやっぱり恋なのかなあ、兄ちゃん?
兄ちゃん、恋ってこういう気持ちを言うの? おれには分かんないよ。
死にたくない。でも、あの女の微笑みがもう一度だけでも見たいんだ。
あの女が隣で微笑みかけてくれたら、死んだってかまわねー。
でも、死んじまったらあの女に会えなくなっちまう。
死にたくない。
好きだ。
死にたくないけど、好きだ。
好きだけど……死にたくねーんだよ!
なんなんだよ、
なんでおれがこんな目にあわなきゃいけねーんだよ、
どうしておれがこんな究極の選択を迫られるんだよ、
おれはそんなに強かねーって、
いつも空に向かって叫んでんだろーがっ、
「ぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ」
石のベンチの上で座りながら、
おれは両手首を思い切り両膝に押しこんで
大地に向かって怨嗟の悲鳴を叩き付けた。
周りの通行人はきっと一瞬、足を止めて奇異の目でこちらを見ただろう。
でも、そのまま自分の目的地へとまた歩き出して行くんだ。
もしかしたら警察がやってきて、おれを捕まえていくかもしれない。
いっそのことだったらそうしてくれ。警察がおれをどうにかしてくれるもんなら。
ねえ、兄ちゃん。
兄ちゃんは最後になにを思っていたの?
これが死の味なの?
おれには分かんないことだらけだよ。
とんとん
誰かが軽くおれの背中を叩いた。警察か。ま、それもいいか。
……いや、よくはなかった。
目の前にいたのは、小学校入りたてくらいのボーヤだった。
丸い顔につぶらな瞳がキラキラしてやがる。髪も細くてさらさらだ。
ん、で、そのボーヤがおれに何の用? 吠えたから?
「おにーちゃん、これ」
そう言ってボーヤが手を伸ばしてきて差し出したものを見た。
小さなかわいらしいこぶしが突き出されて、握られた指が開いていくと
手のひらのど真ん中に、イチゴ味の飴玉一つがちょこんと転がっていた。
「え?」
「うまいんだぜ。食べると元気が出るんだっ!」
そう言ってボーヤがおれに飴を渡すと、
ボーヤは戦隊もののファイティングポーズらしき格好をやってみせてくれた。
「じゃあな、にーちゃん。がんばれ」
そう言いながら、生意気にもニッと笑顔で、ピースサインだかVサインだか見せていた。
そしてバイバイしながら、ボーヤは両親とおぼしき大人の男女のところへ駆けていった。
女性は両手を伸ばしてボーヤを迎え入れて、男性はボーヤの頭を撫でていて、
三人ともがおれのほうをみて、やさしく微笑みやがった。くじけるんじゃない、と。
おれは、右手に乗せられた白地に赤の水玉模様が彩られた包装の飴玉一つに
視線を落として、しげしげと見つめざるをえなかった。
球の左右両側に羽が生えたような、いわゆる一般的なキャンディーの形。
その二つの翼を、おれは左手と右手、両の指でつまんで引っ張って、
中身を取り出して口の中に放り込んだ。
甘かった。
どこか懐かしい味がした。
でも、しょっぱさも感じるのはどうしてだろう。
ボーヤたちが向かっていった先のほうも、視界が歪んでもう見れない。
父ちゃんと母ちゃんがおれを生んだ理由が分かった気がした。
爺っちゃんと婆ちゃんが父ちゃんを生んだのも、当然なんだと思えた。
あんな子供がおれにもできたらいいなと、ふと考えてしまった。
そして、涙はさらに大粒に、飴玉の大きさの分だけ
ポロポロと頬を伝っては手と腿の上に落ちて、広がっていった。
「ただいま」
「あれ、お帰り。早かったね。……どうしたの、元気ないねえ」
「婆ちゃん、今までゴメン」
「あらあら、なにを言い出すかと思ったら……」
ちーん
おれは、珍しく婆ちゃんの目の前で仏壇に線香をあげていた。
そして、深く深く、一つだけじゃなくすべての位牌に祈りを捧げていた。
「婆ちゃん……病院の電話番号って何番?」
「病院? 風邪でもひいたのかい」
「違うよ。大学病院。研究を手伝いに行くんだよ」
「……どうしたんだい? あれだけ病院を嫌がってたのに」
「婆ちゃん」
「ん?」
「おれ、生きたい」
「…………」
「生きて、生きて人を愛したい」
「そう――ああ、そうかい、ジョージはそう思ったんだね」
「うん。おれが病院に行ったほうがいいんでしょ」
「さあ? 自分のことは自分で決めるのがいいのよ」
「そうだね。……ねえ、婆ちゃん」
「なんだい?」
「父ちゃんを生んでくれて、ありがと」
「……なにをそんな突然……あ、こら、どこいくの」
おれは急いで部屋の中に逃げていった。
なんかこれ以上は恥ずかしくて人前にいられなかった。
「やあ、君がジョージくんだね。はじめまして」
白衣を着た、ひげをはやしたおっさんは、広い診察室におれを呼ぶと腕を伸ばしてきた。
おれはしばらくしてようやくそれが握手を求めた手だと気付いた。
握手をしながら、白衣はこうのたまわった。
「来てくれてありがとう。君の事はお兄さんからよく聞かされていたよ」
兄ちゃんは研究に協力的だった。おれと違って、真っ直ぐな性格だったから。
進んでいろんな実験に参加したらしい。血液サンプルもたくさん残ってるみたいだ。
「君も知ってることかもしれないけど、確認のためにも説明させてもらうね」
そうして小さな一対一の講義が始まった。この病気は遺伝していくこと。
病気の遺伝子は常染色体である第4染色体上にあるということ。
優性遺伝していくこと。そして、この遺伝子は100%近い発症率で発現すること。
病気になると確実に死ぬこと。四十歳代の発症が多いが若年性のも存在すること。
ハンチントン舞踏病。いまだに治療法が確立されていない不治の病の名前だった。
もちろん全て知っていた。でもそれを説明するのがインフォームド・コンセント。
医者の先生方がおれたちを実験に使うのに必要な手続きの一つだった。
改めて専門家に、きつくてつらい現実を突きつけられるのは、うざかったけど、
しかし、これがないと困る人がいる、もしくはいたのかと思えば我慢ができた。
そんな心の余裕がおれの中に生まれていた――不思議な感覚だった。
「先生」
「ん? なんだい、ジョージくん」
「おれは何歳まで生きられるか、分かりますか?」
「う……ん、そうだね、調べれば大体は分かる、分かってしまう時代だね」
「分かってしまう……」
「そうだ、分かることは必ずしもいいこととは限らないからね」
「はい」
「つらい現実に耐え切れない人だっている――特にこの病気は過酷だ」
「はい」
「いい返事だ……お兄さんもそうだったよ。いろいろ経験してきたんだね」
「……おれは、知りたいです」
「知りたい?」
「何歳まで生きられるか、知りたいです。大体でもいいですから」
「いいのかい? 本当に。調べた結果が出てしまえば私は伝えなくてはならない」
「かまいません。明日に寿命が尽きてもいいから……病気に少しでも抗いたい」
「抗う、か。若いね。ぼくが君だったら、そんなこと言えないかもしれない」
「……生きたいだけです」
「そうか」
医者は、そう言ってにっこりすると、書類を一枚奥から取り出して、サインを求めた。
実験同意書。家族の承諾も必要だけど、それは外で待ってる婆ちゃんので充分のはずだ。
とにかく、できることはなんでもやりたかった。
第4染色体ってもんの上に、遺伝子がいくつ繰り返されてるかで、
ある程度は病気の重さとか性格だとか調べられるらしいんだけど、
正直言って仕組みは理解できねー。言葉もわかんねーもんばっかで頭がクラクラ。
ただ、血液を採って、口の中から頬の裏を擦り取って、尿を汲んで、頭を機械に通して、
できる限りのことをやろうとしているのは、なんとなく分かった。
そして、今はとりあえずそれでいいと思った。
ただ、困ったのは、家に帰ってからだった。
あの女のことを思い出しちまって、胸が締め付けられるようで痛い。
夢にまで出てきて微笑みを見せられては、起きてからも夢心地。
授業はハナから聞いてなかったけど、さらに黒板なんて見れやしない。
ゲーセン行ってもつまんねーし。女を見定めようとしてもどいつもこいつもブスばっか。
きっつい。やっぱ、特定の女に惚れるなんてことはするもんじゃねーよ。
会いたい。とまたメールを送ったけど、返事なんて来る気配すらなかった。
一日目はなんとかあっという間に過ぎていった。
二日目は、だんだん状況が呑み込めてきて、パニックになりかけた。
三日目になって早くも音を上げそうになった。
しかし、一本の電話が、その流れを断ち切った。
「ジョージ、電話だよ」
「家に電話? どこから」
「病院」
「なんで? 検査結果は一週間後だと――」
「とにかく早く出なさい」
そうしておれは、その日のうちに、病院へ向かうことになった。
「やあ、ジョージくん。いきなり呼び出してごめんね」
「いえ、それはいいんですけど、先生」
「ん?」
「おれの病気は……そんなに悪いんですか? もうそこまで進行して――」
「はははっ」
医者は突然、大声で笑い出しやがった。
こっちは真剣なのに、このやろー。
「先生っ!?」
「ああ、ごめんごめん。違う違う、そうじゃないって。朗報だよ」
「朗報?」
「君は病気の遺伝子を受け継いでない」
「え?」
そのときおれの顔を自分で見たら、なに言ってんだこいつ、と語ってただろう。
「いくら調べても、病気の遺伝子パターンが出てこないんだ」
「だって、発症率は100%じゃ――」
「遺伝子を持っていたらね。でも、遺伝子が100%、子供に伝わるとは限らない」
「あ……」
「まあ、君の家系はずっと発症が続いてきたから――大変だったろうね」
「大変……でした……」
思わず声が詰まって、泣きそうになったが、なんとかこらえてみせた。
「この結果をいち早く君に伝えたほうがいいと思ってね、それで」
「じゃあ……じゃあ……」
「なんだい? ジョージくん。訊きたいことがあればなんでもかまわないよ」
「おれは、人を好きになっても……死なないんですね?」
「人を好きになると死ぬ? どうして?」
「だって……兄ちゃんは恋した途端に発症して……」
「それは偶然だよ」
でも――
「ほかの家系からのデータは、恋愛と発症に相関があるとは示していない」
「相関……」
「要するに、恋愛と発症は無関係だよ。ジョージ君は恋をしているのかい?」
「…………」
おれは、その質問にだけは答えることができなかった。
他の、医者からのあらゆる質問には可能な限り協力したつもりだった。
しかし、そんな単純な質問が、一番の難問だった。
こんな経験は初めてだった。
「おれは、人を好きになってもいいんだ」
家に帰ったおれは、部屋の布団にくるまって、布団をぎゅっと抱きしめた。
「人を好きになってもいいんだな、本当にいいんだよな」
なぜか、すっごい嬉しかった。そして、一人の女性の姿が浮かんできた。
もうどうしても会いたい。そのときに、この気持ちを伝えたい。
あの微笑みを独占したかった。いつもそばにいるという存在を感じたかった。
次に会ったときには告白してしまおう。そして、全身で愛し合って――
ブルブルブル ブルッ ブルッ
ケイタイが震えた。あの女からだった。
今日の夜、同じ場所で。
相変わらず淡白な文面。簡潔にして明快。でも、それが嬉しかった。
「待ってたよ」
彼女が来ると、おれは石のベンチから立ち上がって、そう告げた。
顔がほころんでいるのが自分でも分かった。気持ち悪いほどニコニコしていた。
「どこへ行こーか? 最初から最終目的地かい?」
彼女はいつもの無表情で見返してきた。
ただ、つまらなそーにしてる気がわずかに感じられた。
「ねっ、ねえ」
たまらずおれは、場を持たせようと語り始めた。
「お、おれ、好きな人ができたんだ」
「……そう」
「誰だと思う?」
「さあ」
つれない返事。でも、それもいつものことだと思っていた。
「おれ……アンタのことが好きだ」
言っちまった。おれ、言っちまったよ。
でも、言いたくてしかたなかったんだ。いーじゃねーか。
このまま早く直行しよーぜ、目一杯アンタと一緒に楽しんで――
「それじゃ、終わりにしましょ」
「え?」
眉をすら動かすことなく、女はあっさりと言いのけた。
「なんでだよっ、今までなんの引っかかりもなくお互い――」
「今のあなたは嫌い」
「……なんで?」
おれは泣きそうな情けない声を出していたことに、自分で気付いていなかった。
「……悲壮感が漂う、どこか心の張り詰めた感じのあるあなたがよかった」
「そんな……今のほうがいいじゃないか! 心の底から愛して。幸せにしたいのに」
「あなたには無理」
「――!?」
そこまで言われるとは思ってなくて、思わずおれの体は、がくん、崩れ落ちた。
まずは膝から折れて地面に着いて、次に背中が丸まって。
最後の力を振り絞って、顔を上げてみると
彼女はすでにここから去りかけて背中を見せていた。
「……どうして?」
ふと彼女の足が止まった。
「どうしてなんだ?」
彼女の足が動いて、その上の体がこちらを振り返った。
「不幸はあなたにだけ降りかかるわけじゃない」
それだけを言って、彼女はまた背中を見せて、
今度こそ人ごみの中へ去っていった。
おれはそれからというものの、女をひっかけることに興味をなくした。
食欲もなくなって、婆ちゃんがとても心配してた。
寝不足になったり、泣き止まなかったり、空に向かって吠えたりしてた。
これが世の中によくある反応で、おれの初恋が失恋に終わったからだと気付いたのは
生きようと思い始めてからわずか一ヶ月先のことだった。
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2005/01/29(Sat)06:56:40 公開 / 飛中漸
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■作者からのメッセージ
初投稿です。はじめまして。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
この文章はネット上で読むことを前提に作ったものです。正規表現の議論を踏まえつつも、故意に改行を多用しています。この文章の場合、地の文の特徴を考えると、改行を無くして段落にまとめるほうが読みにくいのではないか、そもそも地の文の特徴が失われてしまうのではないか。というように一応の理由はあるものの、読みにくくはないかと心配です。書き手としては、実験だと思って開き直っていますが。
内容については本文で言い切っているつもりです。目標は、第一に読み通してもらえること。第二に面白いと思ってもらうこと。とりあえずこの二つを実現したいと思案するばかりです。
率直なご感想をお寄せください。ダメ出し大歓迎です。思うそのままのダメ出しは、書き手が最も得られにくい一方で最も勉強になるからです。よろしくお願いします。