- 『夕凪(上・中・下)』 作者:昼夜 / 未分類 未分類
-
全角11309文字
容量22618 bytes
原稿用紙約41.85枚
あんはんは知ったはるやろか。
向こうの気持ちは判っても、自分の気持ちは判ったらあきまへん。
これをせえだい、心に留めておきよし。
そうせな、愛に食われてしまうえ。
◆
わてらは遊女と呼ばれとる。
上っ面は舞妓やけど、何でもありのちっこい店や。身売りもせんぐりやってきた。
そやさかいって、ぼやくことはあるけど、ばばちとかえらいとか思へなんだ。
どもならん。
うちはここに拾われて、こないして生きることしか知らんのやから。
「何を考えとる」
ことも終わって着物を羽織り窓辺を見ながら一服、これがうちの楽しみや。
何を考えとるかって?
今日の夕飯のことやよ。
「あんはんが帰ってしまわはるのが悲しいんどす」
「おゆう……」
わての背中に、名前も知らん男の温もり。
女はこんなにえげつなく、男はこんなにしょうもない。
お藤はんもけったいなことを言わはったもんや。
初潮を迎えたあの日から、うちは女になったんや。あれから五年、狐と狸の馬鹿し合い。
愛に食われたはお藤はんの方どしたえ。
「――おゆう、結婚せんか?」
あんた、誰?
うちの足がなんぼ白くて綺麗や言うても、あんたに触らせるんは銭の為。約束の時間はあと5分。
早漏男は余計な話が多てかなんわ。
「へえ、おおきに。 せやけどうちは生まれてから死ぬまで遊女どす。 あんはんにも抱かれ、他の男にも抱かれる……こんな女があんはんみたいなええ人と、あんじょういく訳にいかんのおす」
そないな泣きそうな眼で見んとって。
名前も知らんあんたはん。
「そろそろお時間でっせ」
「……ああ、ほな、また……」
「うちの淋しくならんうちに来とおくれやす」
瞳を潤ませ、しんなりすることも覚えたえ。
同い年の小梅は生きてるやろか、ふとそない思たらふすまの向こうに小梅が立っていた。
「おゆうちゃん、小梅もう、えらい」
水の玉が小梅の瞳に盛り上がる。うちは座って煙草を咥えたまんま、小梅に「あの間夫か」と尋ねた。
「えろうがさいお人で、せんぐり求めてきはるんよ……毎日来られたら死んでしまうわ」
か細い足が震えて崩れる。頬はこけ、眼からは涙。
「……菊あばさんに話してみいや」
「誰があばさんや、夕凪。 小梅何したはんの」
「菊千代……」
ここの遊女のトップに立って、何年経つ。もう充分あばさんやないの。
「間夫やて、花魁みたいなこと言うたらあかへん……そやさかい夕凪はべんしょや言われる」
うちは菊千代を睨んですっくと立ち上がる。乱れた髪もそのままに。
「あほくさ。 うちらと花魁とどない違うん? やってることは変わらへん……うちがべんしょやったら、それに気付かんあんたらは心もばばちな」
菊千代の顔が紅潮した。とは言うても白塗りの下やから、よう判らん。
「あんた――――」
何か言おうとした時、下から悲鳴が聞こえた。
うちは菊千代の横をすり抜け、階段を駆け下りた。
「どないしたん」
「おゆうちゃん……お松ちゃんが……」
「!」
ふすまの向こうに、首筋から血を大量に流した松乃が奥の壁にもたれかかって息絶えていた。
松乃は最近、一人の間夫を見つめる目が違(ちご)た。
「……愛に食われたか」
うちはやかましい野次馬どもを「のいて」と掻き分けて、奥の床へと歩いて行った。
誰が死んでも、死なんでも、関係ないのがこの世界。
せやけど、お藤はんも松乃も、なんであないに笑顔なん?
「おゆうちゃん、菊千代ねえさんが呼んではる」
小梅がうちの袖を引っ張る。やつれた顔はまるで病気や。
誰も彼もが病気なんやろけど。
◆
「あんたはなんでそないに盾突く?」
開口一番に菊千代があごをしゃくりあげる。うちは入り口の戸にもたれかかった。
「まだお藤はんのこと考えてんのんか?」
「ちゃうよ」
「あてが嫌いか」
「嫌いや、そやさかいって盾突いてるつもりとちゃう。 嫌いなんは昔っからや」
腕組みしながらうちは喋る。
「ほな、なんでや」
「知らん」
静寂が部屋を包んだ。
「……なんでか聞きたいんはうちや」
「何やて?」
「何で食われるのを判ってて、愛を求める」
こないな話をするつもりは微塵もあれへんだんに。しかも菊千代に。
「……阿呆なこと考えてやんと、しっかりしおしや。 あんたは生半尺ななりやけど、そないなあんたを気に入っとるお方は大勢いてる」
「へえへ」
うちは菊千代の戸をぴしゃり、と閉めた。
「あないなことを考え出すやなんて……魔物に取り付かれなんだらええけど」
その声は、うちの耳には届かなんだ。
◆
翌朝には新入りが挨拶に来やった。
「よっ、よろしゅう御願いします……」
今までの新入りとは雰囲気のちゃうおなごやった。
「都と云います」
年の程は十四、五とゆうた頃やろか。穢れを知らん肌に見えた。おなごはうちのはだけた足を見た。
「……あんたみたいな子が来っとこちゃう、往(い)ね」
うちはそれだけ言うて、そっぽを向いた。きっとおなごは泣くやろう。
何でそないな態度を取ったかは判らん。せやけど、うちはその時お藤はんと初めておうた時を思い出していた。
「しっ、失礼します……」
おなごは悲しそうな顔をしながらも、泣きはせんかった。
「……都、ゆうたっけ」
「はい……」
部屋を出ようとする都が振り向く。
「ねきにおいない」
うちの言葉を聴いて、都がそおろと近づく。
「うちは夕凪や。 何でここに来た」
うちは横にちんまり座る都を横目で見やった。
「う、売られました」
「……ここへ来たからには、しんどい、えらいと思たらあかん」
「はい」
「男に惚れたらあかん」
「はい」
「ここは魔物が巣食うとる」
「魔物?」
「ねっちりねぶるようにして、うちらを食える時を待っとるんや」
「愛や弱気に姿を変えて、うちらの隙を伺(うかご)うとる」
「愛や、弱気――」
うちは煙草を都に渡した。
「呑みおし」
「…………」
都は食い入るように細長いそれを見つめ、両手でそおろと口へ持っていく。
スウ、と吸い込む音がした途端、えろう咳き込みだした。
「これ、かなん」
涙目でむせながら、煙草をうちに向ける。
うちは大声で笑(わろ)た。
「あんじょう呑んで覚え。 それを様にしたら、乗り切れることが増えるんや」
よう見れば、なかなかの器量。度胸も座っとる。
「まん(運)が悪い思て生きなあかんえ」
都は真っ直ぐうちを見て頷いた。
「そろそろ菊千代んとこ行きおし」
うちはまたそっぽを向いた。
「ほな、しつ――」
「部屋を出る時は、お先にごめんやっしゃ」
「……お先に、ごめんやっしゃ」
◎
お藤はんはきょうび見られへんほどのえらいぺっぴんやった。
「またそないにべべ汚して」
えげつないとこは一つもなかった。
街を歩けば誰もが振り向く。
床に就いたら誰もが虜。
それがお藤はん。
その頃のうちの顔や体は青タンだらけやった。
脱走、捕獲の悪循環。
誰にでも噛み付いたどえらいおなごやったと思う。どえらいのは、今も変わらへんけど。
初めて膝をつき合わせたんは九つの時。姿は見かけても、話したことはあらへんだ。
「世間が憎いんか?」
「憎い」
「ここが憎いんか?」
「憎い」
「出たいんか?」
「出たい」
「お菊にせんどどつかれても?」
「出たい」
刹那、左の頬にぱしんと閃光が走った。菊千代にどつかれることより心が打たれた。
「ややこみたいにしょうもないことしたらあきまへん」
「――何さらすんじゃ! しょうもないことあらへん!」
「あんたはここで生きるしかあらへん」
「何でや!」
「ここで生きることしか知らんからや」
「あんたはわてが拾って、お菊が育てた。 ここで生まれて、ここで生きてきたんや」
やけに赤い紅が目についた。煙草でかすれた艶のある声が、何やくすぐったかった。
「尻尾を巻いて逃げるんやったら、それなりの恩を返して逃げおし」
「……逃げるんとちゃう」
「ここで過ごす運命から逃げるんとちゃうのん? 別にどないでもかまんけど、けつじまりが悪いえ」
「――っ! けったくそ悪いやっちゃ! ぎょうさん客引いて、こっきり恩を返したろうやないか!」
怒りが頂点に達して立ち上がったうちを、しっぽり見つめるお藤はん。
「へえ、せえだいおきばりやっしゃ」
お藤はんのあの笑顔は忘れへん。あれがほんまもんやと思た。
◎
そうや、あの時部屋を出よう思たら言われたんや。
「おゆう、まんが悪い思て生きなあかんえ」
◆
「ああ……そこは堪忍して……」
「おゆう、おゆう――――っ」
遊女の部屋は色んなにおいがする。慣れたと思ても、ふとした時に鼻をつんざく臭いがしてくる。
それはうちの生きてきたしるし。
「はあ……はあ……」
体を重ねることは幸せなんかとちゃう。
それが終わって、煙草をふかすことが幸せや。
わてとどえらい数の間夫の吐息が充満するこの部屋で、うちは思た。
「いつも、おまえは煙草を呑むね」
わての髪をいとおしく撫でる。
そこに何も感じひんのは、うちがおかしいん? それとも、正しい?
「へえ、あんたはんとの余韻を消してしまわな淋しいやんか」
うちはとうに恩を受けた分の返しは済んだ。
せやけど、まだここにおる。
お藤はん、あんたはやっぱりほんまもんや。
あんたはんのせいでここで生きていくしかないと判ってしもた。
◆
数日経って、小梅が死んだ。
やっぱり、あの間夫は魔物がついとった。
嘘も方便ちゅうやつを使わなんだのは、奴が小梅に魅入ったからや。
なあ、あの日えらい、と言った小梅を救わなんだうちは、あかんたれ?
こんな時は無性にいらちになる。
誰かうちを叱っとおくれやす。
しとしと、ざあざあ、雨の音
ぽっくり、ぽっくり、おこぼの音を
掻き消すように、降り注ぐ
あんたの姿も、もう見えへん
◆
「おゆう」
「何や」
「何したはるん」
「畳の痲(め)、数えてまっさ」
指で煙草の焦げ跡をなぞる。
「あほかいな」
「やかまし」
菊千代のせいでどこまで数えたか解らんようになってしもた。
「ほれ、おいない」
「はい」
ちびっと背丈の伸びた都が顔を出した。
「菊千代――」
うちはその意味を察して名を呼んだ。
「あんたが今日から、この子の世話しおしえ」
皺の幾重にも重なった目尻が下がる。けったくそ悪い笑顔や。
うちは座敷に寝転がった。
「往ね」
「そないいけずなこと言わんと」
「じゃまくさい。 早(は)よ往なんとどつくえ」
「都、ええから入っておっちんしとき」
「はい」
菊千代が戸を閉めた。都はうちの横に正座して笑った。
「夕凪はんが言わはった煙草、覚えましたえ」
うちは起き上がって胡坐をかくと、口に咥えた煙草を都に咥えさした。
息を吐くと白い煙がじんわり天井に昇って消えた。
まだぎこちない姿が、練習したことをうちに伝えた。
「あんたは今日から凪や」
「――凪?」
都はせわしなく瞬きをした。
「うちの名前をあげる」
理由は解らん。何でか、そないしたかった。
その日から、都は凪になった。
◆
ある日一人の男がやってきた。
ここは花街の中のちっさい下世話な遊女屋、当たり前のことや。
うちは厠から出て階段を昇る筈が、その男が階段を塞いでいた。
「邪魔になりまっさかいどいどくなはれ」
その日は生理で何もかもこっきりじゃまくそうなる。
客に媚を売らんうちは、こんな態度をようとっていた。
「こら、おゆう。 言葉に気をつけえや」
「何や、源。 今日のうちにけちつけんのん、なまゆうとったらいわすど」
源治はお互い十四の頃からの付き合いや。喧嘩もようした仲で、こないな会話は日常茶飯事。
「すみません」
男が避けて空いた道を通る。うちは階段しか見てへんかった。
せやから男の言葉の発音が違うとか、男がえろう男前やったとか、知らんかった。
「若いのにえらいこうとうなもん着たはりますなあ」
源治がそないべべを褒める言葉だけが耳に入った。
◆
その日、客を取らんと日がな寝転がるうちに、凪が言伝を授かってきた。
――明日、あなたとお逢いしたい。 与佐吉
今日でもええのに。変な男や、うちはお腹のぐずぐずした痛みの方が気になるんや。
◆
昨日よりはましやった。何で女にはこないなもんがあるのん。
「夕凪はん、痛み止めどす」
凪がちっこい粒を二粒くれた。
「おおきに」
日に日に凪はしっぽりしてきゃる。
「今日は昨日の兄はんが来ゃはるね」
「せやね。 何でうちなんやろ」
「夕凪はんは綺麗やもん」
輝いた眼でわてを見る。
「じゅんさいなおなごやで」
うちは凪から目を逸らした。
あんたの方が綺麗やで。
◆
「おこしやす……お待ちしとりましたえ」
どの客にもやるような、正座して頭を下げる、しんなりした挨拶。
「作らなくていい、私は君自身を見たい」
「は?」
何いちびってはんの、こん人。
「上品にしなくていいんだ」
「何言うてはりますのん」
うちは背筋を伸ばして男を見た。男は胡坐がよう似合(にお)てた。
「私は君みたいな女を初めて見た」
「……わてみたいな女?」
「その気だるさの中に有る芯の強い瞳」
あっちゃべらの人は皆こない意味の解らんことを言わはるんやろか。またそれが顔立ちと似合(にお)てて腹立たしい。
「ほんなら、礼儀もはんなりも忘れて言わせてもらいまっさ」
「何?」
「何しに来ゃはったん」
「そりゃ、君に逢いに」
「お客はん」
「与佐吉と呼んでくれ」
「――与佐吉はん、うちの仕事のじゃましに来ゃはったんなら帰って。 表の花街行きなはれ」
「邪魔?」
「うちを抱かんのなら帰って、うちの仕事はそれやさかい」
ただただ話すなんてしんきくさい。それは舞妓に任せとる。
もう今日はなんやけったくそ悪いわ。こん人帰ったら客も打ち止めにしよ。
そない思ううちの顔を与佐吉はまじまじと見た。
「それじゃあ――」
立ち上がる姿を見て、「さいなら」と言おうとした。
「君を抱けばいいんだろう?」
与佐吉が後ろに回った。
着物の襟口から手が入る。ごつごつした他の男とは違た。
「……へえ、おおきに」
首筋に吐息を感じとったら、帯がゆるまった。
◆
汗に濡れた髪を、与佐吉が指でといた。
汗に濡れた裸体を、与佐吉の濡れた裸体が包んだ。
他の人とは、全てが、違う。
うちは終わった後の一服も忘れとった。
隣を見ると、へたって寝はった与佐吉の顔があった。
ぱち、と目を開けると、うちの顔見て口を開きはった。
「私は昨日、君に惚れた」
――あんはんは知ったはるやろか。
向こうの気持ちは判っても、自分の気持ちは判ったらあきまへん。
これをせえだい、心に留めておきよし。
そうせな、愛に食われてしまうえ。
何でか、お藤はんの言葉を思い出した。
判っとる。うちは食われたりせん。
うちは夕凪や。男を食って生きてゆく。
◎
「何やそれ、愛が人を食うなんてあらへん」
「どんなこっとすなぁ」
「誰がどんや……」
「さすがの夕凪でも、年と体を重ねたら、いずれ判ることどす」
うちはお藤はんに口をとんがらせて言う。
「お藤はんは判ってはるん」
「そりゃあ、もちろん」
「へえ、そうどすか」
いーっと歯を見せて、お藤はんに背を向けた。
「――判ッとってもどつぼにはまる、そないなこともあるんえ」
うちは立ち止まって振り返った。
そこには淋しげに笑うお藤はんがおった。
「……判ったよ」
何かけったいな気持ちになって、うちはまた背を向け、走って行った。
「あんじょういかへんもんどすなあ」
◎
その三日後にお藤はんはのうなった。
ドスで男の心臓を貫き、その後自分も喉をかき切った。
「夕凪! 来たらあかん!」
うちがその部屋に入ろうとするのを菊千代が止めた。わての体を抱き上げる。
「菊千代! 嫌や、離せー!!」
その手から逃れようとせんどもがいても、子供の力じゃ太刀打ち出来なんだ。
抱きかかえられた一瞬、部屋全体に飛び散った血潮と、窓にもたれるようにして目を見開いたお藤はんが見えた。
笑顔やった。
「あああああああ――――!!!!」
うちは気でも狂ったんかっちゅうくらいに泣いて叫んだ。
十五の秋やった。
「女心と秋の空、って言わはるやろ?」
「へえ」
「せやから秋の空は嫌いなんよ」
「?」
「女の心はきらい。 女の心を持った秋の空がきらい」
お藤はんは、お藤はんの嫌いやった秋の空の下で葬られた。
◆
「秋の空……」
「お藤はん、思い出してんのんか」
「源」
「おまえもあの頃のお藤はんと同い年になったもんな」
源治がうちの隣にどっかと座った。
「やかまし」
「ははは」
しばしの沈黙。ぽんとうちの頭を源の手が叩いた。料理人の手やった。
「おまえは死んだらあかん」
「……何やそれ」
「まあ、まだまだおまえがここには必要やっちゅうこっちゃ」
源治は笑う。
「いいあいもまだまだしてたいさかいな」
「勝たれへんくせに」
「負けたっとるんや」
うちも笑った。
「あのお人、おまえに惚れとるぞ」
急に真顔になって源治は言うた。
「知っとるよ、言われたし」
うちは窓の外の鳥を見た。ぴゅうと一鳴きして消えてった。
「ほんならええわ。 好きにせい」
「うちがあんお人について行く、言うても?」
源治がうちの顔を見た。
「……おまえが決めたんやったらええんとちゃうか」
「あほかいな」
うちは笑って源治を見た。
「うちの死に場所はここや」
源治はすっくと立ち上がり、戸の方へ向かった。
「おまえはそれを望んどるんか」
「望むも何も、それしかあれへん」
煙草の煙を目で追った。
「おまえの死に場所はおまえが決めれ」
「せやから、ここに決めとる言うたやろ」
うちは立ち上がって振り向いた。
「ここで生きることしか知らんからって、ここで死ななあかん訳とちゃうんやど」
お藤はんから、ここで死んでいった人らから、そう思い込まされた、そう言いたいんやな。
「源治、うちら女とあんたら男は違うんよ」
うちは窓の外をまた見た。
「他の女と、夕凪、おまえも違う」
「あんたって、ほんまにすかんたこ」
「おまえもや」
ちょびっと笑って源治は部屋を出た。
うちはあの日から泣いてへん。
お藤はんがのうなった日から。
なんでって、泣くことがあらへんから。
そやけど、何や、今日は泣きそうや。
◆
与佐吉は毎日うちに会いに来た。
うちは毎日与佐吉と寝た。
気が付くと、煙草を呑まん日々が続いとった。
「じゃあ、また明日来るよ」
「へえ、おおきに――」
戸口に立った与佐吉は、突然うちの体を抱き締めた。
「……帰るのが惜しい」
「与佐吉、はん……」
耳元で囁かれる声に、さっき抱かれた体が疼く。
「――帰るよ」
匂いを残して与佐吉は帰った。
「おはようおかえりやす……」
うちは部屋に戻って急いで煙草に火をつけた。
何やこれ、何やこれ、何やこれ――。
全身鏡に映った自分がうちの瞳に入った。
乱れた着物の裾から艶かしく光る足、胸元。
やけに紅く映る唇。
うちは唇に震える手をやった。
あん人の感触が残っとる。
うちは着物の帯を解いた。
現れる体にあん人の綺麗な指の感触。
――そして、知らん男の感触。
うちは厠へ走った。
嗚咽。
いや、汚のうない。うちの人生や。
うちは煙草を忘れたんやない。
与佐吉の匂いを消さんと。
早う、早う、早う――。
うち、どないしたん?
◆
「おゆう、あんた、あれに惚れとるね」
菊千代が厠から出てきたうちの背後で呟いた。
「……あほかいな、それ言う為だけに厠の前で待ってはったん?」
うちは裾を下ろして、菊千代を振り返ることなく歩いた。
「目が違う」
「――惚れてへん」
「……さよか。 誰でもいっぺんはあることや、夢や思て早よ忘れおし」
「――惚れてへん言うとるやろ!」
うちは階段を駆け上がる。
「せやから、惚れてるんや」
菊千代は顔を歪ませて呟いた。
◆
――あんはんは知ったはるやろか。
向こうの気持ちは判っても、自分の気持ちは判ったらあきまへん。
これをせえだい、心に留めておきよし。
そうせな、愛に食われてしまうえ。
五月蝿い。
わての気持ちなんか判れへん。
惚れてへんのや。
五月蝿い、五月蝿い。
お藤はんはいけずや。
うちに残すだけ残して、さっさと往んでしもた。
「――夕凪はん、泣いてはるん?」
凪の声にはっとして、手を頬にやった。
指先が濡れる。
「……なんで――」
凪がうちの隣に座って、ちんまりした手でうちの目元を拭った。泣きそうな顔して首を振り振り、凪は言うた。
「弱気にならんといて、夕凪はんが魔物に食われたら厭や」
「凪……――」
うちは凪を引き寄せた。涙が止まらんかった。
うちもこうしてお藤はんを引き止めたら良かった。
殺したんはうちや。
お藤はんもここでしか生きられへんかったんに。
「夕凪はん、痛い……」
凪の口のある部分が熱かった。
◆
翌日、与佐吉がまたやって来た。うちは部屋にある、ちっこい膳を挟んで与佐吉と向かい合った。
「夕凪、私とここを出よう」
「……来て早々、何ですのん?」
うちは真っ直ぐ与佐吉を見た。こないに真っ直ぐ見たんは久々やった。
「私はおまえと夫婦(めおと)になりたい」
「へえ、おおきに」
「私は真剣に言ってるんだ」
判ってる。判ってるから怖いねん。
平然を装い、うちは口を開いた。
「――うちはここを出られまへん」
「どうして? 何か理由(わけ)があるのか?」
与佐吉が自分の着物を強く握るのが判った。うちはその胸に飛び込みたかったけど、その代わりに煙草に火をつけた。
「ここで生きてきたからどす」
「え?」
「あんたはんとは世界が違う。 いつか、どっちかがどっちかを殺す」
「――私は殺さない」
与佐吉は笑う。
「おまえが私を殺すなら、そんな死に方もいいと思う」
こらえろ、夕凪。
「うちは厭やわ」
「私と一緒に行かないか」
「――まだ、ここでやらなあかんこともあります」
うちはそこで凪を呼んだ。
「ご、ごめんやっしゃ」
座って頭を深く下げる凪を見て、与佐吉はうちと凪を交互に見はった。
「おいない」
うちがそない言うて手招きすると、「おこしやす」とぎこちなく与佐吉に挨拶し、うちの隣へ座った。
「――この子は?」
「うちは凪どす、どうぞ、よろしゅうに……」
「うちはこの子を立派に育てなあかんの……育てあげて、立派になった姿を見届けたいんよ」
うちは凪と目が合った。凪はにっこり微笑み、与佐吉を見た。
「うちは、夕凪はんと離れとうあれへん。 与佐吉はん、連れて行かんとって」
力の篭っていた与佐吉の手が緩まった。
「凪、と云ったね」
「はい」
「君はいい女になる」
そう言わはった与佐吉の顔は淋しげで、嬉しげで、お藤はんのようやった。
「夕凪」
うちの体がその声に反応した。
「……何どすえ」
「私は、もうここへは来ない」
お藤はんに叩かれた時の痛みに似た、鈍い感覚が全身に広がった。
うちは煙草を膳の上に置いた。
「へえ、おおきに……」
頭が膳に隠れるくらい、うちは頭を下げた。
与佐吉はその膳を横へずり避けた。
「おまえのその、気のない返事が好きだよ。 ありがとう」
深く下げたうちの頭を撫でる。
「――凪、送ってくれないか」
「――は、はい」
与佐吉は立ち上がり、戸口へ向かう。
凪は頭を垂れたままのうちを気にしながら、与佐吉の後を追った。
両手の爪が、畳を削る。
「……おはよう、おかえり、やす」
二人がもう部屋を出ていてくれてよかった。
こんな掠れた声、聞かせられへん。
◆
「凪、ありがとう」
笑顔で与佐吉は言う。
「いいえ、おおきに」
凪は慌てて頭を下げる。
少しばかりの間があって、与佐吉は凪の目線に腰をかがめた。
「夕凪には言わないでくれるかい?」
「へえ、何どすか――」
◆
凪が部屋に戻った時、うちはすっかり涙が止まっとった。
「遅いえ」
「すんません」
凪が心なしかうちを見て笑った気がした。
「何やの?」
「――何もあらしまへん。 これからもよろしゅうに」
正座して、頭を垂れた。
うちは煙を吐き出した。
「せやな、ビシビシいこか」
お藤はん、うちは結局愛に食われた気がします。
心はあん人が持って行きはった。
せやけど、こうして生きてます。
お藤はんもほんまは判ってたんやろ。
惚れたもんは、どもならん。身売りは消せん事実やさかい、ここから出たら苦しむと。
うちに言うたあの言葉は、自分に言い聞かせはったんやね。
うちもさっき、死んでもええと思たよ。
けど。
「凪」
「はあい」
うちには凪がおる。
お藤はんに、うちもそない思わせてあげられたらよかったなぁ。
「髪、切ったるわ」
凪はうちの前に座ると、くるりと振り返った。
「夕凪はんは、うちが19になったら泣くよ」
「凪が今のうちの年になった時か」
「うん、賭けてもええ」
「なま言うてやんと、さっさと前向き」
うちは頭を無理矢理前に向けた。
◆
あれから時は5年経ち、うちは24、凪は19になった。
「えろう、べっぴんになりおしたなぁ」
菊千代はまだまだ健在や。変わったことは料理長と夫婦になって、遊女を辞めたことくらいか。
今でもようどつかれる。菊千代のげんこは痛いんや。
源治が料理長の右腕になった。それ以外は何も変わり映えせん、ちっこい遊女屋。
「うちのこと?」
うちがそない言うと、菊千代は大口開けて笑た。
「あんたはずる賢う、老けたただけやわ」
「あほぬかせ」
「凪や、凪」
菊千代は、外に出た凪を指さした。
煙草ももうむせることはない。
床上手やと評判や。うちも一位の座が怪しいわ。
「おゆうねえさん」
「どないしたん」
しんなりうちに近づく凪に、うちは問うた。
「お客はん、来てはるえ」
「何や、連れてきたらええ――――」
「夕凪」
のれんの外から聞こえたその声が、うちの耳から全身を震い立たせた。
涙が勝手に溢れて、零れる。
うちは玄関に走って、のれんを上げた。
「与佐吉はん……」
「迎えに来た」
与佐吉がうちの体を宙に浮かせた。
うちは首にしがみつく。
「――――っ」
この匂い。
あれから何度夢に見たやろか。
この体。
あれからどれほど求めたやろか。
「もう、忘れてはるかと……」
「おまえをか? 忘れられるような女じゃない」
凪の顔が見えた。
『夕凪はんは、うちが19になったら泣くよ』
◆
あのとき、与佐吉は幼い凪にこう言った。
「私は夕凪を待っていようと思う」
「待つ……?」
「ああ、会いには来ないが、いつか夕凪を迎えに来ようと思う」
凪が与佐吉の顔をまじまじと見る。
「そうだな、凪が夕凪と同じ年になった頃にしよう」
瞬きもせず、見つめる凪が顔一杯に笑った。
「与佐吉はんは魔物と違たんやね――」
「魔物……?」
「夕凪はんは、与佐吉はんを好きやよ」
訳が判らない、と云った顔で与佐吉は頷いた。
「本当なら嬉しいけど」
「ほんまやて、せやから、絶対忘れんと迎えに来ゃって」
与佐吉の着物の裾を握り、凪は真剣に懇願した。
与佐吉は凪に微笑むと、頬に触れた。
「じゃあ、また会おう」
19の凪は、幼い時のままの笑顔を二人に向けた。
[終幕]
-
2005/02/04(Fri)13:54:04 公開 /
昼夜
■この作品の著作権は
昼夜さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
やったー。
まず、終われたことに喜びを。
ああ、管理人様お手数かけました。
ここで皆様に返信しようかと。
ゅぇ様--ぶっちゃけ想像の範囲で書かせていただきました(笑 時代的にも江戸時代後半っぽいイメージで。どうやら私も幕末の雰囲気が好きなようです。私服を和服にしたいくらい。浅田次郎さんの著はきちんと読んだことがないので読んでみようかな。
バニラダヌキ様--保存なんて有難いことを。一人舞い踊っております(怪 ラストの部分は自分も読み返した時にちょっと物足りなさを感じたのですが、敢えてそのまま投稿してみました。ちょっと手直し(文入れ替えただけ)しました。
影舞踊様--かなり雰囲気と場面、情緒を重要視していた(つもり)なのでそう言って頂けると嬉しいです。そしてやっぱり再会のシーンはそれ相応に引くべきでしたね。
卍丸様--脇役があってこそ主役の夕凪が引き立つと思い、夕凪をとりかこむ人物を出しました。容姿が判りにくいかな、と思ったのですが、まあそれはそんなに重要じゃなかったので読者様にお任せ(笑 かなり静と動で言えば静の部類で、小説なのに映像を重視してしまう私としてはかなりこの作品は書き易かったですね。
夜行地球様--途中段階では本当にどうするか決めていませんでした(笑 構成的には五年後のシーンがなくてもこの話は成り立つんですが、幸せになって欲しいなぁ、と思って与佐吉に迎えに来させることに(笑
7com様--ジンジンきて頂けましたか。間違って彼女を殺さなくて良かったです(笑 凪編は連載になりそうなので、ちょっと先になりそうな。その時にはまた御一読して下されば有難いです。
エテナ様--心配してくださってたとは嬉しい。読者側が感情移入出来るかどうかが見えなかったもので、そう言われて安心致しました。
このストーリーの流れなら、苦い展開の方がベタだったのかもしれませんね。
だから逆にこれで良かったんだな、と再確認致しました。
一読下さった皆様、本当に有難う御座いました。