- 『ABC 完結』 作者:影舞踊 / 未分類 未分類
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全角96545文字
容量193090 bytes
原稿用紙約278.8枚
「Prologue」
高層マンションの屋上。今日は雲ひとつない快晴で月がよく映えている。都会じゃ灯りがまぶしすぎて星が見えないなんてことは言うけど、そんなことない。きっと空を見上げもしない人が言った言葉だ。だって現にこうして見えてるじゃないか。黒く遠い空のはるか向こうで光っている星達。彼らの光が僕らの目に届くのは、遠いところなら何万光年もかかるといわれている。
―もしかしたらその光はその星の最後の光なのかもしれない。
そんなロマンチックな言葉を吐いたやつの顔が見てみたいよ。きっと人の目を見て話せないやつだろうな。
「手を上げろっ!」
怯えたような声が僕の後ろから聞こえた。はいはい。こんなに快晴の夜に、星を見ようとは思わないのかな? あぁ、そうか。例えその星が存在してようがいまいが彼には関係ないことなんだ。最後まで光って消える星の光は誰かに見てもらえるのかな。
「手を上げろと言ってるんだっ!」
さっきよりはいくぶん怒っているようだ。気が短いなぁ。もしかしたらこう考えてる最中にも光を失っている星はあるのかもしれない。眼下に広がる明るい夜空。飛び込んでみようか、いつものように。
ああ、僕も人の目は見ないタイプだなこりゃ。
どんなに綺麗に着飾っても人は宝石には適わない。願いを叶えれば適うと言われる宝石もあるが、そんなの嘘っぱち。だって、自分よりも上の身分の人が、下の身分の人の願いを聞くなんてありえないでしょ。変な理論だと言われるが僕はそう思っている。
$1$ 「振り」
真夏日よりのじめじめした日、こんな日に食べるアイスは最高だ。シャリシャリした食感がなんとも言えない。炎天下の中棒アイスをペロンとなめて歩く少年。彼の名前は風野俊太(かぜのしゅんた)、ぶかぶかしたブレザーを着た少年で、間違えて高校の制服を着た小学生のような印象を受ける。俊太は極普通の私立高校の一年生で、帰宅部所属の万年劣等生。不良グループとつるんでたり、授業をサボったりするタイプではなく、普通に頭が悪い。今日も学校では特に何もなく、いつものように友達(?)に脅かされたり、昨日と続けて日直だったり、靴が片方どっかにいってたり、いろいろ普通だった。あっと、俊太は溶けかけたアイスにかぶりつく。あまりに一度にほうばろうとしたせいで残っていたアイスの半分が落ちてしまった。アスファルトに落ちたアイスは見る見るうちに溶けて、液体となっていく。「あ〜あ」と残念そうにそれを見つめるが、見つめたところでアイスが戻ってくるわけでもない。俊太は残った棒だけをもう一度舐め、裏を確認する。はずれ、何も書いてないと言うことははずれなのだ。近くにたくさんの路上駐車があって狭い道をいっそう狭くしている。前から車が来てないかな?と確認して俊太は後ろを振り向く。誰もいない。俊太は足にぐっと力を入れてジャンプした。
浮き上がる体。高くなる視界。近くの塀の上に飛び乗り、そこからさらにジャンプ、斜め前にあった建物の非常階段の手すりに摑まりくるっと体を反転させて階段の踊り場に着地する。誰が見ても眼を疑う光景であろう。しかし誰も見ていない。俊太は錆びた階段をガンッガンッと響かせながら上った。カチカチ。開いていないことはわかっているが、とりあえず確かめてみた。俊太はネクタイピンを外し、それを少しいじる。ネクタイピンは見る見るうちに形を変え、複雑に曲がった針金へと変化した。
―カチカチ…カチャ
気持ちのいい音がして俊太はドアノブに手をかける。ガチャッという音を立てて錆びたドアは開いた。そのまま体を建物内へ滑り込ませ自分で開けた鍵を再び閉める。ゆっくりと誰もいないことを確認し、俊太はネクタイピンを元に戻した。口にくわえていたアイスの棒を手に取る。カッカッカッと、ぼろいコンクリート造りの建物の廊下に乾いた足音が響く。俊太は疲れたなぁと言いながら階段を上った。階段を上がって6階の1番奥の部屋。ゴミか土かわからないようなものが溜まっている廊下の端。それを避けるように進んで俊太は赤いドアの前に立つ。赤と言ってもくすんでいて、もう茶色へと変色している。ドアノブに手をかけまわす。面白いように何度も何度も回る。壊れているのだ。意味のない遊びをいつものように楽しんで、ドアノブをぐっと押し込みまわす。このドアを開けるのは少々コツがいるのだ。
―下手糞なセキュリティーよりも十分安全だ
心の中で思ったことを口には出さずに俊太は笑みを漏らす。いい加減このアパートヤダ。ドアを開けて適当に靴を脱ぎ、リビングに向かう。廊下においてあったゴミ箱に、完全に乾いてしまっているアイスの棒を放り込み、リビングのドアを開ける。スゥーっとクーラーの気持ちのいい風が入り込んできた。
「ただいま〜」
「ん〜、おかえり〜」
母親がテレビを見ながら答える。俊太は制服を脱いでリビングの椅子に掛けた。台所に行って冷蔵庫を開けひんやりとした空気を楽しむ。意味もなく開けていたのでは怒られるので、俊太はコーラのペットボトルを取り出した。何かないかな? と台所の食器棚の上の棚を探す。偶然にもポテトチップスのコンソメ味だ。俊太の大好物である。それらをもって俊太は自分の部屋へといった。ポテトチップスとコーラ、最高に太る組み合わせだ。しかし俊太は全く太っていない。むしろ痩せているタイプだ。自分の部屋が恐ろしく暑かったので、クーラーを入れて暫くの間廊下に座ってぼんやりすることにした。
ドアの隙間からひんやりした空気が入ってくる。そろそろ天国だ、と俊太は自分の部屋のドアを開ける。涼しい。夏の醍醐味は海でも、肝試しでも、花火でもなくこれなのではないかと俊太は心からそう思った。立ち上げていたパソコンのメールを見る。そこには[ありがとうございました]という件名のメールが来ていた。ニコッと微笑んでコーラに口をつける。シュワッとした炭酸を舌の上で転がし、俊太は「僕って大人みたい」と思った。
―うぅ…眠い…あと少し…あぁヤバイ…眠い…起きないと…
ジリリリリリッ
けたたましい音が頭上で鳴り響く。それに呼応したかのようにさらに重なる音の集団。たまらず俊太は飛び起き、その一つ一つを黙らせていく。5個目の音を黙らせてその音の持ち主を持ち上げる。目の高さまで持ち上げられたそれはカチカチという音を立て動いている。もう嫌だ。俊太はそれをベッドの上に投げ捨て、着ていたパジャマをその場に脱ぎ捨てる。パジャマを脱いで自分がうっすらと汗をかいていたのがわかった。あぁそうだ、昨日の夜はそんなに暑くなかったから窓を開けて寝たんだった。俊太は急いで制服に着替えると鞄を引っつかんで部屋を飛び出す。リビングは冷房が効いていて気持ちよかったが、こんなところでのんびりしている時間はない。昨日のまま椅子に掛けられているブレザーと、リビングに捨てられたように置かれているセカンドバッグ(略してセカバン)を掴んで俊太はリビングを見渡す。いた。母親がソファに座り込んでテレビを見ている。
『えー今朝入った情報によりますと、やはりおとといの夜に盗まれた模様です。犯行現場には全く痕跡が残っておらず、警察当局はABによる仕業ではないかとの見方を強めています』
「起こしてよっ」
学生鞄とセカバンを椅子に置き、怒鳴るようにそう言いながら俊太はブレザーを羽織る。
『これでABによる事件は5件目ですか? 雪さん、どう思います?』
『間隔が詰まっている時もあればそうでない時もありますからね。それになぜこんなものを、と思うようなものを盗むときがありますから、全く不可解ですね』
「ん〜…母さんも今起きたとこだから。それとそこ」
眠そうな声を出して答える母親。いやいやいや違うでしょ。突っ込みたくなる母親の後頭部を無視して、机の上にあるコップの牛乳を飲み干す。父親はもう出かけたのだろう。いつも父さんは早い。自分も見習わなければとコップを置いて玄関に猛ダッシュ。俊太は靴の踵を踏みながら玄関のドアをこじ開けた。外気との温度差にめまいを起こしそうになりながら廊下を走り抜ける。このマンションにはエレベーターというものがない。階段を駆け下りながら俊太は思った。何もかも狂ってる、と。
昨日の夜は結構早く寝た。珍しくパソコンに届いていたメールにはうきうきした。でも結局そのメールに書かれてる内容もよくわかっていたので、開いた瞬間にそのうきうき気分は吹き飛んだ。[この前はありがとうございました。また何かの時はよろしくお願いします。]そうそう何かは起こらないよ、そんなことより[今度遊びませんか?]とかでも書いてくれてたらよかった…珍しく同い年の人だったのに。
俊太は自転車にまたがって学校へと必死に足を動かす。左手首の新品の腕時計に目をやると、午前8時30分。遅刻かどうかきわどい時間だ。というかなんでセットしていた目覚まし時計が5個とも全部遅れてるんだ。足を回すのと同じぐらい頭の中もぐるぐる回る。頬をつたう汗が風で冷やされて少しだけ気持ちいい。こりゃ学校に着いたら地獄だなぁ。俊太の住んでいるマンションから学校までの距離は自転車で10分ほどの距離だ。もちろんこの時間に登校している生徒は、俊太と同じく寝坊した生徒か、不良グループかだ。もっとも上の部類の不良グループさんはもっと遅い出勤なのだが。
荒い息を整えて自転車を止める。何とか間に合った。自転車は苦手だ。それは俊太の背が低いことが原因で、伸びきった状態ではほとんど足がつかないのである。もっと小さい自転車にすればいいのだが、高校入学時に「そのうち大きくなるから」と、無理を言って買ってもらったものだけに「足がとどかないから、買い換えて」とは言い辛いのである。学生鞄とセカバンを自転車の籠から取り出して左手を確認。8時37分。間に合った、とは言っても教室に着くまで油断は出来ない。俊太は自転車置き場から再び走り出す。
最悪だった。
校舎の曲がり角。もっとも注意しなければいけない場所。そこを勢いよく駆け抜けた俊太の小さい体は、大きなものにぶつかって、ぼんと弾かれる。
「あぁん?」
口に煙草をくわえたしかめっ面をした男。短い髪の毛に無精髭、細い目で俊太を睨むのは同じクラスの斉藤忠雄(さいとう ただお)だった。
「ハハハ…」
汗が冷や汗へと変わっていく。遅刻確定。俊太はゆっくりと体を起き上がらせ、ごめんなさいと頭を下げた。俊太の小さなお辞儀は、大きな斉藤の腰の辺りまで頭がいく。
「おお、お前俊太じゃねぇか」
わざとらしく斉藤はにやけて俊太の肩に手を置く。俊太はいつものように小さくなりながら愛想笑いをした。今日は斉藤一人のようだ。もしかしたら見逃してくれるかも、そんな甘い考えを持ちながら俊太は愛想笑いを続ける。斉藤はゆっくりと煙草の煙を吸い込み、俊太の顔に向かって吐きかけた。観察するように俊太の姿を目で舐め回した後、斉藤は俊太の左手を掴んで目の高さまであげる。途端に長いブレザーの袖がまくれて、きらきらした新品の腕時計が斉藤の目に止まる。
「これ、いいな」
「あっ…はい、新品で…」
「くれよ」
「あの…新品で…」
何を言っても無駄なことはわかっている。下手なことを言ったら殴ってきかねない。俊太はそれとなくそれがまだ買って間もないことを伝えようとした。斉藤の細い目が俊太をにらみつけ、ちぢこませる。
「……………はい」
すごすごと腕時計を外し斉藤に背中を押される。「遅刻するぞ」、そんなことを言われながら俊太は下駄箱にダッシュした。
いつものことだ。廊下を走りながら俊太は思った。別にあの腕時計は買って一週間ほどの新品で、2万した高級品だったが特に思い入れはない。別に取られても構わなかった。そんなことより俊太は問題を起こすのが嫌だった。頭も悪いし、運動も出来ない俊太はとにかく馬鹿にされていたが、その気になれば斉藤一人を叩きのめすぐらいは出来る(と思う)。ただ目立ちたくなかったし、これまでもそういったケンカはしたことがない。教室のドアを後を建てないようにゆっくり開ける。クラス中の注目を浴びて「すいません」を謝り席に着く。先生も一瞬注意はしたものの、俊太が席に着くと何もなかったかのように授業を再開した。よかった。心の中で、1時間目の先生が現国の谷田でよかったと安堵する。今日は4時間目体育かぁ、黒板は見ずに教室の前に貼ってある時間割表に目を移す。嫌な日だ。そもそもこんな暑い日に外で体育なんて…
「風野君!」
「はい?」
聞き返したのがおかしかったのか、クラス中が笑いに包まれる。顔を赤くしながら俊太は「聞いてませんでした」と言った。結果一時間目の終業ベルが鳴るまで、俊太は立ったままだった。
「今日は身体テストをやるからな。まずは…ん?」
「すいません。遅れました」
遅れてきたのは風野俊太。遅刻の理由は昨日と続いて今日も日直だったためである。
「気をつけろよ」
体育の教師、町田正(まちだ ただし)。町田は俊太の遅れた理由も聞かずに、持っていた出席表に何やら書き込み始める。何度となく遅刻する俊太の理由などもうわかっているのだろう。やれ日直当番だっただの、やれ体操服が消えていたただの、やれ上の学年の人に絡まれていただの、惨めな俊太の遅刻の理由を聞くのがかわいそうになったのかもしれない。あれこれ詮索されるより、俊太はさり気にその心遣いが嬉しかった。
「それじゃ始めるぞ。まずは50メートル走からだっ」
町田の一声で生徒全員が列になってグラウンドに集まる。俊太もその列に加わって50メートル走のコースに立った。2人づつ走る50メートル走。俊太はこれが嫌いだった。どうせなら一気に走ってくれよ、そうすれば誰が遅いのかうやむやになるのに。タイムを計らねばいけないのとそれだけのコースを一度に取れないため、この考えはもちろん却下であるが、俊太は馬鹿だった。
「位置について…よーい…ドンッ!」、ピストルの音にひるみながらも俊太はとりあえず走った。隣でぐんぐん俊太を追い抜いていく彼の名は菊池翔(きくち かける)。明るくて爽やかなスポーツマンだ。素晴らしいフォームで駆け抜ける菊池は、隣の俊太の馬鹿っぽい走りをより馬鹿っぽく映えさせてくれる。菊池より2秒遅れでゴールイン。遠くで女子がキャアキャア言っているのが聞こえたが、恥ずかしいだけなので見ないことにした。もっとも、菊池を見て騒いでいるのであるが、俊太はいかんせん馬鹿だった。
その後、ボール投げ、持久走、立ち幅跳びなどをやったがどんくさい俊太はどれも平凡か、それ以下の成績だった。しかし、その後の給食がおいしく感じたので俊太は満足した。体育の後の弁当はおいしいなぁとゆっくりと噛み締める味は飲み物の牛乳で一気に質が落とされる。「いったい誰だ!ご飯にはお茶だろ」などと心の中で叫びつつ、俊太は嫌いな牛乳も含めて完食した。大きくなるようにと母親が牛乳をいつも入れるのだ。今日のような暑い日にはわざわざ保冷剤まで入れてくれてある。再三お茶にしてくれと頼んだが、俊太の母親は「これも愛情よ」と取り合ってくれなかった。やっぱり狂ってるなと今日2回目の言葉を頭の中でめぐらせる。
昼休み、俊太はいつも図書館にいる。理由として、夏はクーラーが効いており、冬場は暖房が効いているからだ。3階の教室から2階へと階段を下りていく時に、再び斉藤とその一味と会った。朝は一緒にいなかったが、どうやら昼休みから来たようだ。俊太の姿を見つけるなり、これはいいかもを見つけた的な目で俊太に近寄って斉藤が口を開いた。
「おぅ俊太、さっきは面白かったぜ」
「何が?」
斉藤の隣で声を上げる細身のノッポ。貝山順二(かいやま じゅんじ)と言って斉藤の右腕だ。
「さっきの体育の時よ、こいつの走り方の面白いのなんのって」
「こんな感じか?」
口を尖らせて両手をあらぬ方向へと振る数仁太(かず じんた)。俊太よりも少し背が高いぐらいであるが、斉藤の左腕であり、目つきが悪い。頭の狂ったような顔をして走る俊太の真似をする数を見て、二人は大笑いする。俊太もハハハと苦笑いした。ある程度笑ったところで、それじゃあと言い小さく3人の間を抜けようとすると、「待てよ」と肩をつかまれた。
「ところでお前よ、俺らにもなんかくれよ」
「斉藤さんには時計やったんだろ」
いきなり目つきが変わって俊太の周りを取り囲む3人。
「なんかって言われても…何にも持ってないですよ、僕…」
「おまえさ、頭も悪けりゃ運動も出来ない。そんな奴がなんで学校来るのかわかってる?」
数が俊太と同じ視線で質問を投げかけてくる。馬鹿なやつはこれだから嫌なんだという感じだ。二人はプククッと笑ってその様子を見る。自分は何も悪いことをしていないのだが、なぜかそうしなければいけない気がして、俊太は申し訳なさそうに答えた。
「えっと…少しでも良くなるため、ですかね?」
「ノウノウノウ〜」
貝山が俊太を見下ろしながら答える。微妙な英語の発音で挑発するように続けた。
「イイデスカ〜? アナタハ、ワタシタチニ、プレゼントスルタメニ、キテルンデスヨ〜」
馬鹿かこいつは。などとは口が裂けても言えない。沈黙はまずいと思って俊太はとりあえず謝った。
「あっ、ごめんなさい。でも…今日はもう何もないです…」
3人と目を合わせないように俊太は俯いて答えた。
「嘘つくなよ。なんか持ってんじゃね〜の」
貝山と数が俊太の体のあちこちを乱暴に調べ始める。もちろん俊太は何も持っていない。結局出てきたのはポケットに入っていたコンパクトティッシュだけだった。
「ちっ、馬鹿がっ! もういいわ」
貝山が舌打ちしながら斉藤と数に行こうぜと言う。斉藤は腹、数は俊太の足を蹴って同じく舌打ちしながら去っていった。イタタッと腹を押さえながら階段を下りて図書室に向かう。勉強はともかくとして、運動ではもうちょっとマシな生徒を演じるべきだったなと俊太は後悔した。廊下の窓から入ってくる夏の日差しを避けるように歩き、図書室のドアを開こうと手を掛ける。目の前にぶら下がった「CLOSE」という英単語。C、L、O、S、E? クローズ? 反復して頭の中の辞書を開いてみる。閉まっている。体で体感「CLOSE」。ガタガタとドアを言わせてから俊太は教室に帰った。
「ただいま〜」
「「おかえり〜」」
両親の重なった声が聞こえてくる。いつも通り超セキュリティーのドアをこじ開け、俊太が帰宅した時には7時を回っていた。帰宅部の俊太であるが、たまにこういう日がある。リビングに入って人工的な冷気を体に浴び、俊太は生き返ったような気持ちになる。今日の夜は昨日と違い暑かったのである。びっしりと張り付いたシャツを脱ぎに脱衣場まで直行する。とりあえずお腹がすいたのでティーシャツを着てリビングに戻る。
「そうだ父さん。目覚まし時計が全部壊れちゃってるんだけど、直してよ」
その気になれば自分でも直せるが、こういうのは父に任せるものだと俊太は思っている。一応父親の顔を立てているのだ。俊太はグイッとコップに入った麦茶を飲み干した。
「ああ、あれか? 別に壊れてないぞ」
「いや、だって今朝鳴らなかったし」
テーブルの上に置かれていたから揚げをつまみ口にほおばる。じゅわっとした熱い肉汁で、俊太は火傷しそうになりハフハフと口を動かす。
「あっ、今朝はな。父さんがセットしといてやったんだ」
「は!?」
母親が台所からご飯をよそってくる。父親は何も大したことはしていないよという感じでプシュッと缶ビールのフタを開けた。椅子に座るために学生鞄を床にどける。
「ハイ食べましょ。今日はあなた達の好きなから揚げよ」
本当に何もかも狂ってるなと思ったが、から揚げの味は狂ってなかったのに安心した。食事を食べ終えた俊太は鞄を持って部屋に戻る。開けっ放しの窓から入り込んでくる生暖かい風をシャットアウトし、エアコンのスイッチを入れる。目覚まし時計を手に取り、よく見るとやはり設定時刻が30分ずらされていた。何を考えてるんだ、あの親は。ぶつくさと文句を言いながら、5個全ての時計の設定時刻を元に戻し、俊太は鞄を開いた。茶色い大きめの封筒。取り出すと書かれているのは「ABさん お願いします」という文字。小さい子が書いたような、お世辞にも綺麗だとは言えないが、なぜか愛着が沸いた。にっこり笑ってその封筒を開ける。
物語の初まり。そこは読者をひきつけるために重要なものであり、全てが始まるきっかけである。だから俊太はいつも本を選ぶ時、最初の部分だけ読んで、その本が面白いか面白くないかを決める。そんなんじゃほとんどの本は面白くなくて、本を買うときなんかはいつも時間がかかる。でも、たまに初めっから面白い本を見つけた時なんかは、その場で動かなくなってしまうほどのめり込んでしまう。気がついたら腕痙攣みたいな。
今俊太が手にしている茶封筒と手紙、たまに俊太はこれを持って家に帰ってくる。誰にも見つからないように、俊太だけの秘密。学校で手に入れるわけじゃない。誰かから渡されるわけでもない。でもこれをもつと気分がうきうきする。知らない誰かとかかわりを持つことが出来るんだ。本を買う時、俊太はおんなじ様な気持ちになる。そして、この封筒に納められてる手紙も、大体は悪戯や興味のないもので、だからいつもは冒頭だけ読んで燃やしてしまう。それでも毎度この封筒を開けるときは気分が高揚するのだ。俊太は封筒の中からしわとシミがついた手紙を取り出した。
俊太は「あぁ僕って謎多き男だったりして」、と今日の体育の時間を思い出した。
$2$ 「ヘタレ」
暗い路地を曲がると細長い一本道に出る。長さ20メートル足らずで、行き止まりになっているゴミ置き場のような狭い空間。壁にはラクガキと、足元には鳥の糞。よくよく壁を眺めるとぴったりと縫い付けられたようなドアがあるのがわかる。押しても引いても開かないドア。なぜならそれは横にずらすタイプだから。へんてこなつくりのドアで、年がら年中開いている。中に入ると、いんちきくさいダークな照明と、もうもうと変な香りのするお香が立ち込められており息苦しい。大きさ6畳ぐらいのスペースに所狭しと置かれて意味不明な置物。何かの動物の頭蓋骨、大きな数珠、引き裂かれたマントやら色とりどりの毛の集まり。何かはわからないが、ここが普通のお店ではないことはわかる。看板のないお店の中にいるのは一人の胡散臭い髭を生やした親仁。暗いのにサングラスをかけて、1畳程度のカウンターに寝そべっている。カウンターの上に置かれたこれ見よがしの水晶球。その横に置かれた無数のお札やら、何かの棒。そう、ここは占い屋なのである。
ガラッ
いきなり引き戸が開き、一人の少年が走りこんできた。何を気にした風もなく男は寝そべったままだ。
「おっちゃん! どういうことだよ」
入ってきた少年の顔はひどく焦った様子で、店の店主に声をかける。どうやらはじめてここに来たようではない。
「なんだぁ…うるせぇぞ、泣き虫俊太が」
「おっちゃん、なんだよっ! ABが捕まったって」
ひどく興奮した様子で話す少年の雰囲気に動じた風もなく、店主はゆっくり体を起こすと、ラジオのスイッチを入れた。ラジオから流れてきたのは今風の洋楽。怪しい雰囲気の店内に、少しだけ現実味が戻る。
「はぁ〜ぁ…眠…んで、捕まったってか? んなこと知るかぃ」
◆
今日もいつもと同じ様に学校に行って、帰ってきたらニュースをチェックして、ABのニュースがあったらラッキー、なかったらまあいいやで終わるはずだった。
昨日見た手紙はきちんとした内容だった。つまりそれはABがその任を遂行してくれるってことだ。いつもそうだった。なんでそんなことが可能か、それは占い屋のおっちゃんが次に起こるであろう事件をズバリ言い当ててくれて、その内容がぴったりそのまま手紙の内容とあっていることがあるのだ。だから俊太はいつもそれを自分の手柄のようにし、依頼者をもつ謎のABとして存在していた(もっとも俊太が勝手に思っているだけだが)。しかし、今日でその俊太の謎に包まれたABとしての生活は切れてしまった。ニュースから流れた信じられない言葉。
『今日夕刻未明、ABと名乗る人物が警視庁に出頭してきたとの情報が入りました』
「は?」
ニュースを聞いた瞬間、自分の耳を疑った。ABが出頭、何の目的で? いや、そんなことよりもその人物の素性が俊太には信じられなかった。
『自分をABと名乗っている男性はどうやら過去に犯罪歴があった模様です――はい、どうやら中継が繋がった模様です。報国さん? 報告さん?』
テレビの画面が、何枚かの紙を持って片手を耳に押し当てているリポーターの画に変わる。白い建物の前にたくさんの報道記者と、パトカーが並んでいる。背後に見えるのが警視庁の建物のようだ。
『はい、こちら現場の報告です。今入った情報によりますと、出頭してきた男性の名前は安部信二(あべ しんじ)容疑者。過去に窃盗、暴行、殺人未遂の前歴のある人物です』
窃盗、暴行、殺人未遂? 窃盗はともかくとして暴行と殺人未遂。ABがそんなことをするとは思えない。やっていることは泥棒なのだが、悪人だとは思えない。俊太がそう思うのには理由があった。初めてABの事件を聞いた時、俊太は心の底が熱くなったのを今でも覚えている。警察に対して挑戦的に送られた予告状、完璧なテクニックで誰にも見つからずに盗むテクニック。そしてこれは後でわかったのだが、盗んだものの全ては何かしらのあくどい手段で手に入れられたものらしい。ABはねずみ小僧のような正義の泥棒だったのだ。それを知ってから俊太はさらにABにのめりこみ、自分もそんな風になりたいと思うようになった。
今でこそこんな風だが、俊太も昔は腕白小僧だった。いろんな木に登りまくっては、近所の人から猿のようだと言われた。体が小さい分いろんな狭い路地にも潜り込めたし、何よりそうやって秘密の通路みたいのを探すのが好きだった。しかし、大きくなってくるにつれそんなことをしている暇と場所もなくなったし、そんなことをすると恥ずかしいという気持ちも生まれた。勉強も面白くない。周りの友達とは気が合わない。そんなこんなで、俊太は何事にも真面目に取り組まなくなっていた。
そんな時に出会ったのがABのニュース。決して良いことではないのかもしれない。でも、俊太にとっては腹をくすぐられるような、昔のワクワクを思い出させてくれた事件だった。「良いこと」と「好いこと」。俊太は「好いこと」をとったのである。
『えー、さらに今入ってきた情報によりますと、どうやら容疑者は3日前、つまり前回の犯行の時に盗んだものを所持していたということです』
憧れだった存在。それを利用していた自分。それがなくなった事で開いた虚無感。俊太は何もかも持たずに家を飛び出していた。
◆
「ふむ、それでここにいると」
頷く俊太を見ている、かどうかわからないサングラス。どうして家の中でサングラスをかけているんだろう。疑問に思うことは多々あるが、とっつきやすい第1の疑問を俊太は睨みつける。確かにこのおっちゃんはこの前手紙を取りに来た時、いつものように占ってABの行動を指摘してくれた。そんでもって家に帰って見た手紙の内容は、おっちゃんが指摘したABの行動にぴったりマッチしていた。これで今回も自分は謎のABを演じて、依頼者とのやり取りを持てるかなと考えていた。
「まぁ諦めろ。どうせいつかは捕まるもんだ。ハッキングできるんだろ? もっとおもしれーことに役立てろよ」
ハッキング。俊太が茶色い封筒を手に入れる場所に書いてある架空のアドレス。そこにメールを送ると、もちろんどこかに届くはずもなく、自分に送り返されてくる。しかし送られたデータをプロバイダからハッキングして、随時手に入れられるようにしている。だから、簡単に見知らぬ人のアドレスも手に入れることが出来るし、何もばれずに一方的にABとして振舞うことが出来る。
だが、今の俊太にとって依頼者云々はどうでも良かった。憧れの存在が捕まって、その人物の素性が殺人未遂まで犯していた凶悪犯。殺人を犯していないとはいえ、ABのイメージを壊したその存在は、俊太にとって十分凶悪だった。
「でもおっちゃんさ、予言したじゃ―」
「グダグダうるせぇな。置物にすんぞ」
めんどくさそうにカウンターの下のほうから煙草と灰皿、マッチを取り出す。シュッという音を立てて火をつけ煙草を口にくわえる。一気に吸い込まれた煙草の先が真っ赤に燃えた。
「うっわ、ゴホゴホッ…やめろよ」
顔に吐きかけられた大量の煙を手で払い俊太が叫ぶ。俊太はどうしようもなく煙草が嫌いだった。吸っているものの気が知れない。これ以上言うとまた文句を言われそうなので、とりあえず俊太は話を変えた。
「なんでそんなの吸ってんの」
「正確には呑むだ、ボケ」
ふ〜ん、と言って煙草から離れる。狭い空間に椅子を引きずる音が響く。親仁は何かを思いついたように俊太に目を向ける。
「あのねぇ俊太君、ここにスペースがあるんだよねぇ」
「うん…?」
サングラス越しにこちらを見ているのがはっきりとわかった。口元が緩んでいる。
「させるかぁ! どういう意味だ! どういう意味だぁ!」
「本気で取りやがって、これだからテメェはおちょくられるんだよ」と言って笑う親仁。「突っ込んでやったのに何だその言いぐさはぁ」と息をまいて答える。暫くそんなようなやり取りが続いた後、店内に置かれていたタロットカードをいじっていてバラッと床に散らかしてしまった。
「5千円な」
「高っ、リアルに高いよ」
焦って拾い上げるが床の汚さに負けたタロットカードは何かわからないほどだった。少し掃ってみる、絵が微妙に見えるようにはなったが使えそうにはなかった。と言うかそもそも使っているのだろうか。半年前、ABの事件が起こり、ABへのお願いポストを作った。その時にここの場所を見つけて、それ以来ポストを見に来た時にここによっている。しょっちゅう来る訳でもないが、ここに客が来ているのを俊太はまだ見たことがない。
「汚したんだから買えよ。言っとくが、もともと汚れてたとか、使わないとかいう意見は聞かないからな」
ラジオのチューナーを合わせながらぶっきらぼうに言う。ここにあるものは基本的に型が古い。ていうかラジオ以外には現代的なものが何にもないのだが。
「でも、財布持ってないからしょうがないとして…」
苦笑いして何とか許してもらおうと思ったが甘かった。
「よし、そうか。ならあれだ、もう帰れよ。財布取ってこい」
非道だ。この前2万円はたいて買った腕時計のせいでお金はほとんど残ってない。これ以上絞り上げられると今月が乗り切れない。それ以前に帰れって。カツアゲか、半ばカツアゲっぽいぞこれ。
「お〜ら、帰れ帰れ」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。ABホントに捕まったの? 占ってさ、おっちゃん」
本題。聞きたかったこと。取り合ってくれないかもしれないが、ABが捕まったことに対して何らかの真実が欲しい。あのニュースは真実なんだろうけど、どうしても信じられない。親仁はふぅ〜と3本目の煙草を口から離した。困惑した俊太の表情に目の見えない顔を向け、真剣な(と思われる)表情で口を開く。
「いい加減にしろよお前。ニュースで言ってたんなら本当なんだろうが。俺に聞くな。いいか、お前は何でもかんでも人に頼りすぎなんだよ。占い然り、AB然りだ。お前は自分で出来ないことを錯覚してABに重ねてるだけだ。ABが捕まったのはテメェが自分を利用してると思ったからじゃねぇか? いつかはお前も自分のことを変えると思って期待してたんじゃねぇか? なのにテメェはいつまでたってもAB、AB。すごいと思われたいんなら自分でなんか行動してみろ! テメェは何にもすごくねぇ。…わかったか腰抜け野郎。……わかったらとっとと財布取ってこい」
「…うる…」
俊太は既に椅子から立ち上がっていた。引き戸を思いっきり開けて駆け出す。あまりにも地面を強く蹴りすぎたせいか、足の裏が痛い。外はもう暗かった。学校が終わって、テレビであのニュースを見て、ここまで来て、月が出るまで煙たい店の中にいて、結局自分は何がしたかったんだろう。おっちゃんの言ってたことが途中からわからなくなったが、とりあえず馬鹿にされてるのだけはわかった。学校でも馬鹿にされる。でもそれとは違う感じだった。何かを諭すような、隠してたことを指摘されるような、ひどく自分が恥ずかしくなった。おっちゃんに対する憎悪、自分に対する憎悪。どっちが本当のものか、たぶん後者なんだろうけど、それを認める勇気が俊太にはなかった。路地を抜けてネオンが輝く夜の商店街。「くそ、くそ」と呟きながら俊太は夢中で走り抜けた。
「マジでさ、以外にアブねー奴だったじゃん?」
「ほんとに〜。私結構憧れてたのになぁ」
「うわ、マジかよ!?」
教室中は昨日のABが自首した事件のことでいっぱいだった。それだけ皆に知れ渡っていた。注目を集めていたんだろう。ABによる盗みの事件があった次の日もこんな感じだった。そんな時俊太は人知れず笑って、心の中で僕が絡んでるんだぞ、という優越感を味わっていた。もちろんみんなに喋って自慢したかったし、そうすれば人気者になれるだろうことも知っていた。でも誰にも言わなかった。自分だけの秘密にしておきたいという気持ちと、ばれて警察に言われたらどうしようという不安もあったからだ。
だが今の俊太は違う。教室中で話されているABの事を聞くのが嫌だった。いつもは「ABってすげ〜」、「きっとこういうトリックだぜ」、「どんな顔なんだろ」というような、謎でいてそれでも憧れとなっているABの話を聞くことが出来た。俊太はその話には加わらなかったが、耳に入ってくるその話題を聞いているだけでその日一日が楽しかった。しかし、今耳に入ってくるのはABへの幻滅の言葉。罵倒の言葉。
ABはヒーローだった。俊太をヒーローにしてくれていた。もっともそれは俊太の気持ちの問題であったのだが、それでも手紙を手に入れてABの振りをする。それだけで自分が…
「よう俊太」
机に伏せていた俊太の前に体格のいい男が現れる。斉藤だった。貝山と数はいない。俊太と同じクラスなのは斉藤だけなのだ。
「今日は珍しく遅刻してねぇじゃねぇか?」
いつもはこんな風に声をかけてくることなどない。それに授業にすらあまり出ないこの男が、俊太に何のようだろうか。休み時間なら君達グループで勝手に遊んでくれよ、と俊太は思った。伏せていた体を起こさずに視線だけを上に向ける。下手したら睨んでるとでも取られかねない仕草だが、今の俊太はそう取られてもよかった。
「なんだぁその目? まぁいいや、それよりよ――」
何の話かもわからない、どうでもいいことを話し始める斉藤。俊太は耳に入ってくる言葉を無視しながら目を瞑った。確実に聞いてないことがばれるだろう。それでもよかった。やるんならやってやるぞ。目を瞑って覚悟を決めていたが、一向に何もしてこない。不審に思って目を開く、まだ饒舌に意味のわからないことを喋り続けている。
「じゃあな」
気持ち悪いほどにこやかに笑って戻っていく斉藤。視線を流しながら次の授業の用意をする。一番後ろの席であるから、特に関係ないことをしていてもばれにくいのが俊太にはありがたかった。床に落ちていたセカバンを広い机の横に掛けなおす。英語の教科書とノートを一応鞄から取り出し、指で鉛筆を回す。何を考えるでもなくそうしていると、ガラッと先生が入ってきた。
昼休みが終わってから5時間目は体育。俊太は体操服に着替えるため図書室から教室に戻った。すると、教室中が騒がしい。気にせず俊太は自分の席に戻り、セカバンを机の上に置いた。
「誰よこれ〜? あたしのブルマ返してよ」
クラスのマドンナ的存在の紀陽美奈(きよう みな)が教卓に立って、何やら紙をピラピラとさせている。ショートヘアーの黒髪で、活発な女子。俊太は彼女が苦手だった。男子の多くは彼女の積極的なセックスアピールで勘違いするのだが、基本的に女子とかかわりのない俊太にとってはその魅力もよくわからなかった。
「ちょっと誰よ? いいの、読むわよ?」
どうやら何かが書かれているらしい。俊太はセカバンのチャックを開けながらその様子を興味なさげに見た。
「いいのね? じゃぁ…んん、『私はあなたのことが好きです。でも、あなたのことが好きすぎるので、話すことも出来ません。だからあなたのブルマだけでも下さい。 捕まったABより』って変態〜。いったい誰よ〜?」
キャハハと笑う紀陽。俊太はセカバンの中に手を突っ込んだまま固まった。許せなかった。ABのことをそんな風に利用するやつも、そんな風に思われるようになってしまったABも。
「おい、その手紙から察するにお前と話したことない奴じゃないのか?」
突然現れた斉藤が、推理物のドラマに出てくる探偵のようにその手紙を取る。そして「ん〜む」と呟きながら隣にいた貝山と数にもその手紙を見せる。そして、
「わかったぜ。この犯人」
「えっ!?」
ツカツカと歩いてくる斉藤。俊太はセカバンに手を突っ込んだまま斉藤を睨んでいた。間違いない。
「犯人は―」
俊太がセカバンに手を突っ込んで止まっていたのは、ABの名前が出たからだけではなかった。その中に入っていた異質なもの。そして、今朝の斉藤の意味不明だった行動の理由がやっとわかった。
「お前だ俊太!」
そう言って俊太のセカバンに突っ込まれていた腕を引き上げる。その途端にひらっと俊太の手から滑り落ちるブルマ。「キャー」という女子の悲鳴と、男子の笑い声。苦笑いをする俊太のところへ走ってきて頬を思いっきりひっぱたき、ブルマを拾い上げ戻っていく紀陽。呆然とする瞬太。それを見てさらに笑う斉藤、貝山、数。沸き起こる「変態コール」。叩かれた右側の視界が微妙に粗い。引き上げられた腕を振り払おうと力を込めるが、斉藤は思ったよりもやはり力強かった。勝てると思っていた自分の自信も、ABをなくした自信と一緒に消えていく。斉藤が手を離し、自由になった俊太は教室から飛び出た。教室から聞こえてくる笑い声が聞こえないように耳を塞いで、俊太は昨日の夜と同じように走った。
昼の太陽が真上にあって、蒸し暑い空気を切り裂くように俊太は走った。学生鞄も、セカバンも置いたまま、上履きのまま学校から出てきてしまった。いつもだったらこんなことはない。また心の中でABに頼ろうとしている自分を見つける。学校から走って走って、それでも家に帰る気はなかった。汗で体に張り付いたシャツが気持ち悪い。クーラー大好きの俊太。それでも今はこの暑さの中で悶えていたかった。
川原。学校と駅と自分の家の中心に位置するここは休みの日にもほとんど誰もいないほど寂れてる。ここの裏側というか、駅へ続くところの商店街と、駅広場がもっぱら人の集まるところになっている。普通の日で、しかもこの時間にはもちろん誰もいなかった。俊太はここが好きだった。もともと田舎に住んでいた俊太、親の仕事の都合でこの都会に引っ越してきたのが小学生に入る頃。それまでは田舎で山の中を友達と探検などして、活発に遊んでいた。確かに都会に来て、便利なことは便利だった。夜遅くまでいても周りは明るいし、いつでも開いているコンビニもある。でもここに来るとやはり俊太は心が和む。昔を思い出すほどの歳ではないかもしれないけど、なんだかわからない懐かしさっていう概念が、俊太は好きだった。
ブレザーを脱いで川原に横になる。空だけは田舎と変わらないかもしれない。ふと、ズボンの尻ポケットに違和感を感じる。ポケットに入っていたのは手紙。あの日、ABがまだ捕まってなかったあの日。手に入れた手紙。しわくちゃで、シミだらけで、汚い字で書かれた。泣きそうだった。いろいろ馬鹿にされたけど、それは仕方ないことなのかもしれない。夢の中ではあんなにさっそうとビルの上から飛び降りることが出来るのに。現実ではこんなにも…
「あー!」
一際うるさい子供の声。別に自分には関係ないのだが、慌てて起き上がる。こういうすぐにびびるところがダメなんだ、と改めて俊太は思う。起き上がってどこの子供がケンカしているのかを探そうとする。だが、意外にもその子達は自分の目の前にいた。
「えーびーさんだぁ〜」
「やったね奈留ちゃん」
一人の男の子と女の子。男の子の方が年下だろうか。奈留という名前らしい。突然自分の手を掴んでひっぱて行こうとする。
「ちょっちょっと…」
男の子に背中を押され、女の子に手を引かれ、小柄な俊太の体は小学生ぐらいの子供二人によって、立ち上がらされてしまった。我ながら情けない。そう思いつつも、家に帰るのも、学校に戻るのも嫌だった俊太はとりあえずその子達に引かれるままついていった。
俊太は「あ〜ぁ、僕ってそんなに幼く見えるかなぁ」と、今日何度目かの自己嫌悪に陥った。
$3$ 「決意と励まし」
奈留と優治、それが俊太の手を引っ張っていく二人の子供達の名前である。奈留が小学2年生、優治が小学1年生。幼い二人は見ず知らずの俊太にいろいろと話しかけてくる。否、俊太にではなく、「AB」としての存在に二人は興味津々に目を輝かせている。簡単な自己紹介をお互いに済ませたのに、さっきからずっとこの調子で、そしてその度に俊太はこの言葉を言う。
「だからね。僕はABじゃないんだよ。俊太兄ちゃんって呼んで、ね?」
「ふ〜ん、ところで、ABさんはなんであんなとこにいたの〜?」
全く聞く耳を持っていない。子供ってこんなに物分り悪かったっけ、と俊太は頭をひねる。さっきから止まらないでずっと歩いているこの子達は僕をどこに連れて行くんだろう? もしかして新手の誘拐なのかな? 俊太がそんなこと思っているのが伝わるわけもなく、小さな誘拐犯二人は俊太の手をぐいぐいと引っ張って歩いていく。迷いもなく、二人は笑いながら俊太に話しかけ進んでいく。いつの間にか駅からずいぶん離れたところにきてしまっている。学校まで帰るのに道間違わないかなぁと思うが、その時はおまわりさんにでも聞こう。
「奈留達はね〜。カレーライスが好き〜。ABさんは何が好き〜?」
川原から離れて学校と自分の家の間の方角だろうか、この辺りはあまり来たことがないが寂れている。近くに高層マンションもあるのだが、長屋のボロアパート(もちろん1階立て)がたくさんある昔の風景が印象的な場所だ。近所づきあいを大切にしそうなお婆ちゃんとかが出てきそうな雰囲気が、俊太に懐かしさを与える。
「ABさんは何でも盗めるんだよね〜」
笑いかけてくる奈留。顔を覗き込んでくる優治。それに答えられずに微笑む俊太。
「へへへ〜僕たちの手紙読んでくれた〜? ABさんに頼んだらきっと上手くいくんだってお姉ちゃんが教えてくれたんだ」
この子達だったのか。だから、手紙を持ってた僕のことをABだと思って…、
―本当は、気づいてた
手紙を持ってるところ見られてた。だから彼らが僕のことをABだと思ってることも。それでもそうじゃなければいいと思ってる自分がいた。
「でも想像してたよりABさんって小さいんだね。奈留達でもなれそうっ」
顔を見合わせて笑う二人。大きく手を振って俊太の腕をぶらぶらさせる。とても楽しそうに、嬉しそうに。何がそんなに嬉しいのか。遊びのつもりで書いた手紙じゃないことはわかっている。この二人ならなおさらだ。でも、頼んだことをしてくれたわけじゃないのに、ただABだと思う人を見つけただけでこんなに喜ぶ。
―そうか…こんなに信頼されてるんだ
人を頼るだけの腰抜けと馬鹿にされ、学校ではあらぬ疑いを掛けられ、それらから何も出来ずにただ逃げた僕をこの二人は信頼してくれている。その願いに応えることの出来ないダメなやつを、天下のABだと思ってくれている。
「着いたよ〜。へへ〜、ここが奈留達の家〜」
連れてこられたところは二人の住んでいる家らしかった。粗末な木造の小屋といった感じだ。長屋の一番端に位置していて、そこから先は空き地になっている。家の前に置かれているプランターには枯れたチューリップ。僕をここまで連れてきてどうするんだろう。もしかして中に怖いお兄さんとかがいて確実に僕に仕事をやるよう言うんだろうか。いや、でもこの二人はそんなことをする子達に見えないし。
キャッキャと声を漏らして遊んでいる二人。戦いのような事をしている。どちらかが悪者で、正義の味方がかっこよく闘っているんだろう。昔は俊太もよくやった。戦いの前にどちらが正義の味方をやるか決めるので、その時に既に戦いが始まるのだが。おそらく二人とも俊太のことをABだと信じ込んでいるんだろう。今までのやり取りから、いくら馬鹿な俊太でもそれはわかった。だからといって、出来ないことを出来ると嘯いて彼らを悲しませるのは酷な気がする。どうせならはっきりと違うといってあげよう。俊太はそう決心して二人の方に歩いていった。
夕暮れが赤く空を染め上げる。空き地で遊ぶ奈留と優治に近づく俊太。学校をサボった。赤くなった空を眺めてその実感を噛み締める。もしかしたら家に電話がいっているかも知れない。後で怒られるのかな。鞄と自転車取りに帰らないと。大きくため息を着き、空き地で遊ぶ二人の影を踏んで立ち尽くす。せわしなく動き回る二人。パンチの応酬、キックのダンス。二人の間に入ってその動きを止め、口を開こうとした。その時、奈留と優治の言葉が俊太の耳に響く。
「もうここまでだぞ、AB。観念しろ〜」
「フフフ、甘いな刑事君。私はどんなところでも飛べるのだよ。とうっ」
そう言ってジャンプし走り始める。優治の周りをぐるぐる回る奈留。それを悔しそうに見つめる刑事役の優治。ごめんなさい。謝らずに入られなかった。彼らにとっての正義の味方はABだった。自分には何の罪もないと思っていた。これから話す話を彼らにしたらどんな顔をするのだろう。嫌だしたくないと思う自分、しょうがないと思う自分。いくら悩んだところで同じだった。結果はもう出ていた。結局、俊太の心は「しょうがない」という方を選んでしまう。再び口を開こうとしたその時、
「奈留〜、優治〜」
二人を呼ぶ声に後ろをハッと振り向く。同時に聞こえてくる「え〜!?」という声。
「なんでここにいんのよ? …変態」
訝しげな目つきで自分を見つめるのは紀陽美奈、俊太の頬をひっぱたき、俊太が盗んだ(とされる)ブルマの持ち主だった。短いスカートとはだけたシャツ。夕日に当たって茶色く染まったショートの髪、鋭い目で俊太のことを睨む小さな顔。自分の後ろで走り回っていた奈留と優治はテケテケと美奈の方へ駆けて行く。…姉。紀陽美奈がこの二人の姉なのか、ということは…
「何よその目? 変態のくせに」
何かに怯えたような声で俊太に喋りかけてくる。学校にいる時とは別人のように感じる。じかに話したことはないが、いつも学校での態度は自信満々でいかにもお嬢様という感じだったのに。何も言わずに呆然と立ってる俊太に腹を立てたのか、美奈が歩み寄ってくる。またぶたれるのだろうか。こわごわと体を硬くする。
「なんであんたが妹たちと一緒にいるかって聞いてんのよ! 答えなさいよ!」
捲し上げる美奈の態度に押されて俊太も思わず口を開く。
「いや、その、えっと…」
しかし口から出てきたのはしどろもどろもいいところのてんでダメな科白。全く意味をなさないその言葉に美奈がより腹を立てる。
「何よ! ぶたれたからって仕返しのつもり!? 言っときますけどね、私が住んでるのはあの向こうの高いマンションだから」
「えっ? …でも、妹さんたちはここが家だって…」
おずおずと木造の長屋を指差す。奈留と優治がその前に立っていた。
「あ、あそこは倉庫よ。あの子達にとっては秘密基地ってことよ!」
何も言わずに視線を下げる。すごく居心地が悪い。空き地の真ん中で何をやってるんだろう僕は、と俊太は消えたくなった。何にも解決しないまま、逃げるだけしかしてない自分。何かを変えたい。そう思ってもその勇気がない。
―テメェは何にもすごくねぇ。…わかったか腰抜け野郎
おっちゃんの言葉が頭をよぎる。
「あの―」
俊太が声を出そうとした瞬間、それ以上に大きくて野蛮な怒号が辺りに響き渡った。
「オラーッ、紀陽! さっさと出てこんかい!」
驚いて腰を抜かす俊太を無視して駆け出す美奈。家(美奈曰く倉庫)の前で2,3人の明らかにやばそうな人達が奈留と優治を囲んでいる。蹴り倒されたプランターからこぼれた土、激しく叩かれている家の玄関。そこへと駆けて行く美奈。俊太は動くことが出来なかった。
「やめて下さい。お金は来週にして下さい。それまでには払いますから。」
強い声で言い切る美奈。大きな声が俊太の耳まで届く。
「はぁ!? 何を言うとんねん? ええか、いい加減利子分も返せてへんねやで。お前の体でも売ったろか!?」
「すいません、すいません」
服をつかまれながらも前を見て謝り続ける美奈。その後ろに隠れる奈留と優治。それを傍観するだけの…
やめた!
駆け出す足。震える手。それでも俊太の体は前を向いていた。今日初めてじゃないかというぐらいに。
「すいません、すいませんて、いつ払うんじゃこら!?」
「ABさんに頼んだからすぐだもんっ」
空き地から飛び出し、明らかにやばそうな人達を目の前にして聞いた言葉。震える声で、それでも泣かずに、前を向いて放たれた言葉。自分なんかよりもずっと勇気を持っている子を目の前に、俊太は震える手で震える足を叩く。
「ほぉ〜ABに? じゃあいつその「ABさん」がお金持ってきてくれるんかの〜!? ええっ!?」
「一週間後ですっ!」
突然現れた俊太に目を丸くするどころか、邪魔だとばかりに睨みつける。奈留に顔を近づけていた男がこちらに向かって今度は近づいてくる。黒髪をオールバックにしてたくましい髭を整えたお兄さん。薄い色のサングラス越しに威圧感のある目が動く。たくさんの指輪がはまった手、ジャラリと音が鳴りそうなほどアクセサリーのついた腕が俊太の肩にドシンと置かれる。
「お兄ちゃんさ。誰か知らないけどこういうことに部外者は口を挟んじゃいけないよ〜。ABなら―」
「ABは僕ですっ! 一週間後に絶対お金を用意します!」
自分でも信じられないような言葉。声が震えているのはわかっている。でも出さないわけにはいけない。ABとして、彼らの前ではかっこいいABでいたい。それが僕が出来る、僕に勇気を与えてくれたABへの恩返しだ。
「ほぉ〜、ならそれまでに金用意できなんだらお兄ちゃんに払てもらおか。そんでええんやったら、ここにサインしてくれるか?」
威圧的で有無を言わさぬ行動。震えている足を再び叩くと、ズボンを握っている優治がいた。下を向いて、泣かずに立っている。奈留も同じ、美奈だけが俊太の行動を見つめている。意を決してペンを握る。もう後戻りは出来ない。心の中で両親に謝って俊太は渡された紙にサインをした。
誰もいなくなった空き地。暗い月が出始める。ボロボロの木のベンチに俊太と美奈は座っていた。ヤクザの人達が帰ってから鍵を開けて家の中に入れてもらった。擦り切れた畳と汚れたステンレスのキッチン。隙間風の入る壁はいろんなもので塞がれていた。美奈の母親は留美枝というらしい。パートで夜遅くまで働いているらしくまだ帰ってこない。どうしてあんなことをしてしまったんだろう、とは思わなかった。風野家にとっても紀陽家にとっても、俊太はとんでもないことをした。それでもなぜか充実感があった。あの後、奈留と優治が俊太のことを「やっぱりABさんだ」と喜んでくれたからかもしれない。あの二人はわかっていた。流石にあれだけ俊太ということを強調されれば、嫌でもこの人はABじゃないと思ってしまうだろう。しかし、それを受け入れようとしなかったのは、それを認めたくなかったからで、掴んだ希望を失いたくなかったのだろう。
「なんであんなことしたの? あんなの…別に感謝しないから」
「………」
手紙はやっぱり涙とともに書かれていた。しわくちゃになっていた手紙の文字が読みにくかったのは汚いだけじゃなくて、滲んでいたせいでもあった。あの子達が切に願った思いの手紙だったんだろう。それをABに出してみればといったのは、姉である美奈の優しさだったようだ。父親が作ってしまった借金で、当の本人はそれを残して逃げていったそうだ。ドラマなんかじゃよくある話だが、こうも現実味を帯びてくると笑えない。
「あんたABじゃないでしょ。変態のくせに」
「……その上、ヘタレで…ハハッ」
苦笑して場を和まそうとするが、そんなもので和むはずもなく余計に重苦しい雰囲気が空き地に広がる。星は案外綺麗に見える。どんなに熱くて住めない星でも、こうやって僕に安らぎを与えてくれる。空を見ながら、ふと思っていた疑問を口に出す。
「泣かないんですか?」
唐突に聞かれた質問にも美奈はよどみなく答えた。まるで聞かれなれてるように。
「泣いてどうすんのよ?」
美奈の方は見ずに会話を続ける。別に格好をつけるわけでもなんでもなく、ただその言葉が自然と口をついた。
「…泣いても、いいと思いますよ」
「うるさいっ」
バシッとベンチを叩いて立ち上がる。「どっかいけ」、そう言って彼女曰くの倉庫に戻っていく。もちろん誰にも言うつもりはない。彼女は何も言わずに家に入っていったが、馬鹿にされる辛さは自分が1番よくわかっているつもりだ。俊太はどっかいくために立ち上がった。
◆
今何時だろう? この前まで着けていた腕時計がなくなって、携帯を持ってない俊太には時間がわからなかった。でも関係ない。ここの店はいつでも開いているからその心配は要らない。ただ、昨日あんなふうな態度を取ってしまっていたから、少し気が引けた。しかし、そんなことでまた困っているようではABとしてやっていけるか。狭い路地を抜けた突き当りの汚い壁。その右側に押しても引いても開かない扉を、力いっぱい横に流して、俊太は叫んだ。
「おっちゃん! 占って!」
飛び込んできた俊太を少し驚いた感じで見つめる親仁。微妙な間の後、座れという風に顎で椅子を指す。
「おう腰抜け。金は?」
あって早々それか。しかもこっちの要求もてんで無視。苦笑しながら財布を取り出し、5千円を渡す。
「んで、何だ? 何占って欲しい? 代金は特別にこの5千円に入れといてやるぜ」
なんとも怪しげな鉢巻を巻き始める親仁。
「ABの次の仕事について」
「よし、わかった」
少しだけ俊太の顔を見て笑う親仁。何にも見えない水晶に真剣に取り組む親仁。その様子を見つめる俊太。はたから見ればなんとも滑稽な様子かもしれない。サングラスをかけて、変な鉢巻をして、汚れたシャツを着た少年を相手にしている。しかもその内容が「捕まったABのその後について」。笑われそうで笑われない。誰もここにはいない。俊太は胸を張って結果を待つ。どんな結果が出ても自分で決めたんだ。何か少しでも人の役に立ちたいと、ダメダメだった昨日と同じ今日、そう思った。
「……出たぞ。これは……」
「……何?」
「よかったなヘタレ、どうやら復活するみたいだぞ。これは……今回のお前が持ってる依頼に関係してるみたいだぜ。ふむふむ、それで……上手くいくらしいぞ。おぉ、ちょっと待て! いつもと様子が違う。なんだ? いつもよりもヘタレてやがるなコリャ。う〜む、よくわからんが、まぁ――」
一呼吸置いて水晶玉に向かって叫ぶ。
「頑張れ!」
大きな声に驚いて少しだけ涙が出た。
俊太は「おっちゃんはいい人だ」と、高すぎるタロットカードの代金を眺めながら思った。
$4$ 「正式な依頼」
『泣かないんですか?』
今日あったことを思い出す。俊太はベッドの上に寝転がって、虫食い模様の天井をぼんやりと見つめていた。どうしてあんな事を言ってしまったんだろう。風呂から上がり、パジャマを着て静かな涼しい部屋で耳を澄ます。聞こえてくるのはエアコンの静かな送風音だけ。冷静になった頭で、自分が口にした言葉の大きさと恥ずかしさを知った。何も考えずに言ったつもりだったあの言葉、俊太は顔から火が出そうだった。大して親しくもない間柄、むしろ嫌われている関係なのに、自分はなんてことを言ったんだろう。かっこいいドラマの1シーンで、かっこいい俳優さんが言うんなら、ため息が出るほど惚れ惚れする言葉なんだろう。自分の頭の中でもそういう風な関係に憧れがあったことは認める。しかし、自分はそんな風な関係の人物でもなければ、男前の俳優でもない。
『泣いてもいいと思いますよ』
繰り返される自分の過ちのシーンが頭の中で繰り返されていた。思わず頭を抱えて、布団をかぶる。恥ずかしかった。どんな顔で、どんな口調で言ったのかも覚えていない。明らかにどうかしていた。暗い中で、夜空を見ていて、女の子と二人きりで、どうしようもなく出た言葉だった気もする。でもその後、確実に紀陽は怒っていた。きっと、何の関係もないやつからそんなことを言われて腹が立ったんだろう。俊太はさらにきつく頭を抱え、強く強く目を瞑った。
夢を見ていた。真っ白な空間で、何もない空間。終わりも始まりも、自分がどうやってここに入ったのかもわからない。まぶしいぐらいの強い照明があるけど、それがどこにあるかもわからない。俊太は白い大きな空間にいた。周りを見回しても誰もいない。これは夢なんだ。口に出そうとした言葉は消えて、白い部屋に黒い文字となって浮かんだ。
「やあ」
男らしい声。後ろを振り向くとさっきまではいなかったはずの人物が立っていた。男の顔は、男自らの発した声で黒くわからなくなっている。「誰?」そう発した声は先程と同じように空間に文字となって浮かび上がる。男はそれを読み取り、笑って答えた。
「ABさ」
黒い文字で隠された男の顔、唯一見える口元には自信を持った笑みが湛えられている。この男が……AB。たまらず叫びそうになるが、叫んでも空間を黒くしてしまうだけだと思いやめる。視線を男の足元から頭のてっぺんまで慎重に走らせ、男の醸す雰囲気をくまなく捕らえる。黒いスーツに身を包んだ男は真っ白な空間には不釣合いだが、とてもかっこよかった。
「意外に冷静だね。さすが自分をABと名乗るだけの事はある」
楽しそうに男は言う。
「だが……君は臆病だ。自分に自信がない。そのくせ格好をつけたがる。全く、人間とは不思議な生き物だよ」
俊太は黙って男の喋る言葉を聞いた。文字がどんどん空間を埋め尽くしていく。
「君はよく逃げる。それに割といい腕も持っている。いつからだね、鍵穴を空けれるようになったのは?」
真っ白な空間に『10歳の時です』という文字が浮かび上がる。
「ふむ。そうか、なかなか優秀。ではいつからだね、ウイルスを作れるようになったのは?」
真っ白な空間に『12歳の時です』という文字が浮かび上がる。男はさらに口元に笑みを湛える。
「ははは、いや実に優秀。では聞こう。いつからだね、逃げるようになったのは?」
真っ白な空間に『……』という文字が打ち込まれる。どうやら、口に出さなくてもある程度強い思いは空間に出るらしい。
「答えにくいのかい?」
俊太は首を振る。空間に『昔からです』と言う言葉が浮き上がった。そう昔から。昔は腕白小僧だった。それでもしょっちゅう逃げていた。怒られるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、嘘ばかりついていた時期もある。隠したいことだったが、目の前に立っている男には全てを見破られているような気がした。
「そうか……いやいや、きわめて優秀。まさに泥棒になるために生まれてきたような子だね、君は。トリック、ワーム、そしてエスケープ。おまけにビッグマウスも持ってるみたいだしね。どれをとっても優良児じゃないか」
白い空間がいつの間にか黒い文字で埋め尽くされ、夜の様になっていた。誉められた。何のとりえもないと思っていた自分が。誰かに誉められる。久しぶりに味わう気分だった。たとえ夢の中でも、ABに誉められるのなら、現実で他の誰に誉められるよりも価値があるように感じた。立派なAB。自分が? とても信じられないが、ABが言うのならそうなんだろうと思えてしまう。何からも逃げてきた自分をこんな風に言ってくれる。夢の中だからとは思いたくなかった。せめて今だけは。
「自信を持ちたまえ。君は私が自信を持って推薦できる……立派なABだよ」
どんどん暗くなる空間。いつの間にかABの姿はあの自信のありそうな口元だけになっている。
「ABの略は【All Bandit】。全てを盗むものって意味だ。覚えとくといい」
空間が闇に包まれてゆく。ABの自信ありげな口元も、闇に包まれ見えなくなってゆく。俊太はその場から動くことが出来なかった。いや、動かなかった。動いてもそれは夢で、相手はABで、捕まえられる要素は何一つなかった。ただ確かなのは、俊太の胸にうっすらとわいた自信。
「あぁ言い忘れたが、タロットカード。大事にしたまえよ」
その最後の言葉で、目の前は本当に真っ暗な闇になった。俊太の意識もどこか遠くへ行きそうなほどの深い深い闇。だが、黒い文字で作られたその空間は、俊太に心地よい眠気を誘ってくれた。夢の中でさらに眠る。何とも不思議だが、それが当然のことのように思える俊太だった。
朝起きると、クーラーを点けっぱなしにして寝ていたことがわかった。布団をかぶり、体を縮込ませて冬のように寝ていた自分を鼻で笑う。体がしんまで冷えていた。クーラーを消し、窓を開ける。時計を見ていつもよりも早く起きたことに気づく。こんだけ寒けりゃ仕方ないよと、何とも他人事のように考えている自分がいた。窓から入ってくる日差しと風は冷え切った俊太の足元まで届き、温めてくれる。とりあえず5個全部の目覚まし時計をオフにし、服を着替える。
夢を見た。変な夢だった。ABが出てきて、丁寧な話し方で、タロットカードのことを知ってて。詳しくは思い出せなかった。ただABが出てきた。それだけは覚えていた。それと、なんだか気分がよかった。しんとした朝の空気吸って、窓から身を乗り出すと、何でも出来るような感覚にさえ襲われた。薄いシャツを着て、ネクタイを締める。いつものネクタイピンを軽く止めて、ズボンのベルトをめいっぱい締める。
散らかった机の横に……。忘れていた。そういえば昨日は学校に何もかも置いてきたんだった。何も持っていない。自転車もない。俊太は靴下をはいて、早く起きた自分に感謝した。窓を閉めて、俊太は自分の部屋を後にした。ポケットにタロットカードを入れて。
リビングには新聞を見ながら優雅に和食を食べている父親がいた。きちんとした箸使いでよどみなく動く手と、新聞しか見ていない目。よくこれで正確に食事できるなと感心しながら、冷蔵庫を開ける。やけに大量の牛乳が目に付いたが無視してコーヒー牛乳を取り出す。コップを取りにいったら、アンパンが置いてあったのでついでに調達する。コーヒー牛乳をコップに注ぎ、アンパンを食べ、口に含む。しまった。やはりここは牛乳にしとくべきだった。今更思ってもどうしようもなく、仕方なくむしゃむしゃとその場で食べた。
父親はまだ新聞を見ながら、機用にご飯を食べていて、とりあえず行って来ますと声を掛ける。その言葉でやっと俊太の存在に気づいたのか、「おお今日は早いな」とずれた挨拶をする。軽く手を振って玄関に向かう。そうだった。靴も上履きのままだったんだ。仕方なく上履きを履いて、厳重な『オートロック式』のドアを押しあける。やっと太陽の日差しが夏っぽくなってきた。体に触れたぬるい空気を気持ちいいと感じる。俊太の体はまだ冷えていた。
体が嘘みたいに軽かった。鞄を持ってないからか。
エレベーターのないボロマンションの階段をすべるように駆け抜け、塀の上に飛び乗る。まだ登校時間には早いため、生徒を見かけない。塀の上を縫うように走りながらビルの間をすり抜けていく。それほど高くないビルの間。子供一人ぐらいが通れる狭い通路。行き止まりまで行ったら横のビル壁を蹴って三角飛び。3メートルぐらいの高さまで飛び上がり、手を掛ける。無理やり体を持ち上げ、ビルの屋上に上った。
少し息が切れる。随分早い。思ったよりも全然出来た。ビルの屋上から非常階段に飛び降りる。飛び降りたらその下の通路へ、そこからは普通の道。生徒の数も多くなってくる。温まってきた体を感じ、手を握ってみる。昨日までは持ってなかった力があるような気がした。
学校には遅刻せずに到着でき、それどころか今まで来たことないぐらいの早い時間だった。教室を見回すと、勉強している生徒がちらほらいて、その他には自分のことを変態扱いで見てくる女子が何人かいた。席に戻ると、昨日よりもボロボロになった感じのするセカバン。汚くチョークの粉が振り掛けられている鞄があった。机には変態ABと油性マッキーで書かれており、どうしようもないほど自分が嫌われているというのを感じた。あぁ、と溜息をついたところで何かが変わるわけでもなく、また他の誰かにこれ以上されないうちにと俊太は鞄を持ち上げる。
「ちょっと、教室で掃わないでよ。汚いんだから」
さっきまで腫れ物を見る目で俊太を見ていた女子のグループがの一人が俊太にそう言い放つ。「ごめん」と言って鞄からチョークが落ちないように教室を出る。くすくすという笑い声が後ろから聞こえた。
チョークを払い終わって手を洗う。ポケットからハンカチを出そうとして、何か硬いものに触れた。タロットカード。思い出す。そういえば朝家から出る時に入れたんだった。なんで入れたんだろ? 俊太の頭の中からは今朝見た夢のことが消えていた。ポケットからタロットカードを取り出すと、汚れた絵がそれを何かわからないものにしていた。ピラピラと振ってみる。何も起こるはずもなく、それは汚いままである。しかし指を離した瞬間、その濡れた部分に何かの文字が書かれているのがわかった。慎重に他の部分にも濡れた指を当ててこすってみる。現れてきた丁寧な文字、
[心得 泥棒は顔が命]
何だこれ? と濡れたタロットカードを見つめる。心得? 顔がよくなきゃダメってことなのか? ま、いいやとそれをポケットに戻し、ハンカチで手を拭いた。
「ねぇ」
不意に後ろから声を掛けられぎゃっと言う悲鳴を上げる。恐る恐る振り向くと、そこには紀陽美奈がいた。いつもと同じ少しはだけた服装で、短いスカート。鋭い目つきでこちらを睨んでいる。
「はい……何です、か?」
「ちょっと来て」
そう言って歩き始める。慌てて濡れた学生鞄を掴んで追いかける。俊太が何か話しかけようとすると、きっと睨んでその口を塞ぐ。人の見ている前で話しかけるなといった風だった。
そうして連れてこられたのは体育館の裏。ここはほとんど誰も通らない。しかもこんな時間だ。もうすぐ授業が始まってしまう。向き直った紀陽の顔を見れず、そわそわと目を走らせる。
「それ何?」
いくらか乾いてきた学生鞄をさす。そりゃそうだろう。こんなものを持ち歩くのはよほどの秀才か、馬鹿だ。しいて言うなら俊太は後者だが。
「いや、……ちょっと濡れて」
言い訳にもならない言葉を発する。定まらない始点を落ち着かせようと、俊太の目は足元で止まった。
「ふ〜ん」
沈黙。全く興味がなさそうである。いや実際ないんだろうけど。体育館の倉庫にもたれかかって空を見始めた紀陽。何なんだ? 口には出来ないが、俊太の心の中で踊り始める疑問。昨日のことかな。文句を言うんなら早く言えばいいのに。貶されるのは慣れている。だから、貶されるものの気持ちもわかる。僕は人を馬鹿になんかしない。
「あんたさぁ」
不意に紀陽が口を開く。視線は空を見たままだ。
「人前で……私に話しかけないでよね」
何だそんなことか。もちろんわかっている。昨日あんな変なことを言ってしまったのは忘れて下さい。そう言いたかったが、口からそんな長い言葉が出るはずもなく、
「も、もちろんです」
とだけ答える。視線は足元のままで。
「それから、ABのことだけど。あんたじゃないんでしょ?」
「はい」
「じゃあ昨日のこと忘れて。あんたには関係ないことにしといてあげるから」
「はい」
「知り合いなの?」
「はい?」
突然口調が変わる。何かにすがるような、そんな声。
「AB……知り合い?」
紀陽の足元が俊太の視界に入る。
「ええっと……」
なんと答えていいのかわからない。
「知り合いならさ。……頼んでほしいの。あの子達の出した手紙」
尻すぼみに小さくなっていく紀陽の言葉。家と学校での生活のギャップ。母親は留美枝といって働いていると言っていたが、たぶん嘘だろう。表札には紀陽草雄、佳子、美奈、奈留、優治としかかかれていなかった。たぶん父親と一緒に逃げたのだろう。きょうだい3人でああも逞しく、ああも楽しげに暮らしていた。たぶんここで身を引けば自分には何も降りかからないだろう。何も起こらないんだろう。目の前にいるのは赤の他人。もしもここで逃げ出しても、誰も何も言わないと思う。いろんなことを考えるが、結局は逃げ道。考え方は一向に変わらないが、口から出た言葉が俊太の成長。
「はい」
そうはっきりと言った自分がいた。
「
依頼内容:願いを叶える宝石「ブラッドマリア」の強奪
期限日時:7月7日
場所:イギリス秘宝館
備考:初仕事
報酬:自信
」
「『風野俊太、一世一代の大博打になるか!?』そんな見出しで新聞作ったら面白いかも」と、俊太は力なく笑った。
$5$ 「たまねぎの渡し方」
いつも通り日直の最後の仕事、黒板消しの掃除を終わらせる。随分上手くなった。特技を聞かれたらこれを答えよう、と自慢にならない特技の発見を嬉しく思う。それを終わらせて、人が少なくなった教室を出る。セカバンを背中に、鞄を右手に持っていそいそと自転車置き場に向かう。下駄箱で靴を履き替えようとして、今日1日(正確には昨日の午後から)履いていたせいで上履きがかなり汚くなっているのに気づいた。明らかに臭そうなそれを下駄箱に押し込め、靴を履く。紐も何もついてない無愛想な靴。黒くて、何の模様もついていないが、俊太はこの靴がお気に入りだった。それを履いてつま先をトントンとし、自転車置き場に走る。今日はこの後おっちゃんのところに行こう。
自転車置き場で自転車を探す。部活をやっている生徒が多いため、まだ大量の自転車がある。しかも昨日どこに置いたか、俊太は忘れていた。暫く歩きまわった後、ぴたと俊太の動きが1台の自転車の前で止まったサドルがない……。わかりやすいなぁ。近くを見回してみるが、目の前の自転車に足りない部品は落ちていない。どうしようかと悩んだ挙句、諦めて自転車置き場を後にした。
暗い路地。高いビルの間と、入り組んだ道路の下にあるせいでこの場所は昼間でも暗い。汚いゴミがあちこちに落ちていて、スプレーの落書きがあちこちに描かれている。こんなところにはとんと無縁そうな少年。俊太は自転車のサドルがなぜかなくなったため、歩いてここまで来た。行き止まりまで来て、何もないように見える右側の壁のちょっとした出っ張りを掴み、横に流す。開けた中から少し煙が出て、何とも怪しい光が漏れる。何の煙なんだろうと思いながら、それを手で払い俊太は中に入った。
結構ここにはよく来るが、今まで中に人がいたことはない。今日も当然のようにそう思っていて、店の中に入った瞬間に「おっちゃん」と声を掛けようとした。
しかし、すぐ目の前に誰か知らない人が座っているのに気づく。出かけた言葉を飲み込んで、そろりと店の脇による。一つしかない椅子に座っているということは客なのかもしれない。奥の方に入っていき1畳ほどの畳の上に腰掛ける。いろんな置物が置いてある空間は、はっきり言って座り心地が悪い。椅子に座っている人がいるのに、親仁は姿を見せておらず、その客もその場で煙草を吸っている。男は短い髪の毛と綺麗に整えられた髭、俊太は若い時の親仁を見たことはなかったが、男が若い時のおっちゃんみたいだと思った。
男の特徴を探るように、それでもばれないようにちらちらと見ながらそこでもじもじしていると、奥から「この暗い中で役に立たないだろ」と思われるサングラスをかけた親仁がのそりと顔を出した。くわえ煙草にちょび髭と、長い顎鬚。白かったら仙人に見えるような出で立ち。その男は俊太を見つけると「あん」とやる気のない声を出した。
「何だ俊太。てめぇまた来たのかよ。ウザイ野郎だな」
あってそうそう、その言葉かよ。もう訳わからん。そんなことは表情にも出さず、いつもどおりに話しかける。
「おっちゃんさ、タロットカードにさ。なんか出てきたんだけど」
「あ?」
客の方には顔を向けずにそう言う親仁。常にけんか腰なのかこの親仁は? そう思いながらタロットカードを取り出し、それを持ってカウンターに近づく。
「ほら、これさ。[心得 泥棒は顔が命]だってさ。どういう意味? 顔がよくなきゃだめってこと?」
「ハハッハ」
突然笑い始める客。片手で額を押さえながら高く笑うその声は、見た目よりも男が若いことを表している。親仁もその笑い声につられてぷぷと口元を緩めた。若干腹を立てながら、反面ビビリながらその様子を伺う。
「マジかよ。ハッ……ハハッハ。その心得もわからねぇやつがAB? ……ハハッ、クソガキだな」
「ぼけか? ……泥棒は変装して顔がバレねぇようにしろってことだよ。ぷっ、頭わりぃ」
かぁっと顔が赤くなるのがわかる。暗い照明でよかった。だったらそう書けよと呟き、もといた畳の上に戻ろうとして男が自分のことをABといったことを思い出す。思わずなんでと叫びそうになるところで、親仁が口を開いた。
「まぁそういうな。だからお前が手伝ってやるんじゃねぇか。おい、俊太挨拶しとけ。こいつは役所削史(やくどころ さくし)っつー名前だ。お前が今度ABやるみたいだからよ、俺からの些細な援助だ」
この親仁は何考えてんのかわからないなぁ。援助って……煙草をふかしながらこちらに向き直った男は俊太の様子を見て、また馬鹿にしたような笑い声を漏らす。とりあえず、目の前の二人は自分がABになったと言うことを知っていて、おっちゃんの頼みで役所さんて人はここに来てて、僕を助けてくれる(らしい)。そんでもって、今僕は馬鹿にされてる……と。親仁の突然の言葉を頭の中で理解していると、役所が俊太に怒った様な声を出した。
「あんたの頼みだから来てやったのによ。……何だよこいつ。おいてめぇ、さっさと名乗れよ」
「あっ、すいません。風野俊太って言います。高校1年生で、昨日ABになりました」
本当は今日だったが、グダグダして今日決心したなんていったら怒られそうな雰囲気だったのでやめた。もちろん昨日なった、とかいう意見がふざけているというのはわかっているのだが。それを聞いて役所が予想通りの反応を見せる。
「はぁ〜? 何つった? おいおい、勘弁してくれよ。昨日今日なったやつのお守りなんて、おらぁごめんだぜ」
やってられるかと言う感じで席を立とうとする役所を親仁が抑える。
「おうおうおう。ま、そういうなや。こいつもそれなりには見込みある、と思うぜ……。それにお前の腕を見込んでだよ。それに今回ABが狙うのは例のアレだってよ」
「あん? そんなら余計嫌だね。しんどい思いは嫌だし、リスクがでかすぎんだよ。海(うみ)さんがやってくれよ」
「あほか。何のためにお前呼んだんだよ」
男と親仁の間で会話が成り立ち、俊太が呆然とそれを見ているという状況。置いてけぼり感を感じる。自分も会話に入ろう。二人の会話が妙にかっこよく感じ、それに加わっていない自分がひどく惨めに感じた。役所と親仁の会話はとんとん進み、一向に途切れない。暫くして会話が止まったので、口を開こうとすると、役所が俊太の名前を呼んだ。
「あー、俊太とか言ったな。俺のことはさっき聞いただろ。とりあえず協力してやる」
吸っていた煙草をすりつぶしながら、役所は視線を合わせずそう言う。
「え……? あの……、ありがとうございます」
何かわからないがとりあえず御礼を言っておく。いい加減煙草を吸うのをやめて欲しかった。親仁と役所、二人の吸う煙草の副流煙で死にそうにけむたい。こちらに来いという風に手招きする親仁、それにしたがって立ち上がり、カウンターに近づく。カウンター下の隙間(があるらしい)からか組み立て型のパイプ椅子を俊太に渡す。少し煙草の煙にむせ返りながらそれを組み立て、役所の隣に座った。
「俊太も吸うか?」
いきなり馴れ馴れしく声を掛けてきた役所。違和感はあったが、今までそんな風に接してもらったことのない俊太にとってはなんだか嬉しかった。ぶるぶると首を振り、その出された煙草を押し戻す。親仁が「依頼状」と言ったので、ポケットから奈留達の書いた手紙を出す。最近ニュースでやたら取り上げられている願いを叶える宝石「ブラッドマリア」の来日、それを見て知ったのだろうか。幼さゆえの大胆さだろうか、それを盗んで手に取らせて欲しいという依頼。触ってみたい、願いを叶えるというのが目的なんだろう。
「は〜ん。ブラッドマリアな〜。厄介だ、これ。……やだやだ、しんどそうだぜ」
手紙の文面を目で追いながら役所が呟く。どうやら手伝ってくれるというのは本当のようだ。
「あの、援助って正確には何をしてくれるん……ていうか、役所さんは何をしてる人なのですか?」
暗い照明の下、近くで見ると役所の顔は俊太とそれほど変わらないように感じた。否、童顔の俊太と比べると大分違うが、年齢的には少し上ぐらいのように見える。
「元ABの片腕ってとこかな」
「やっぱり捕まったからですか?」
は? という顔をして俊太を見つめる。その後、親仁と顔を見あわせて、再び俊太に向き直り「まぁな」と言った。
「俺が全部計画立ててやっから、お前は俺の計画通り動くだけでいい。余計なことは考えんなよ、これから一週間後、お前と俺でABの仕事をやんだ。なんか質問は?」
「聞いとけよ、俊太」
ポカーンとしている俊太の隣で、役所は新しい煙草を取り出して火をつける。目の前では、山盛りの煙草が入った灰皿がカウンターの中へと運び込まれ、空になった灰皿が戻ってくる。俊太が何も言わないからか、聞く気がないのか、その二人はすぐに俊太を無視して話し始める。その光景を目で追いながら、笑っている自分に気づく。くしゃくしゃで、毛むくじゃらのボールをいじくりながら、俊太は「質問いいですか」と言って、二人の会話に入った。
「役所さんて何歳なんですか?」「はたちだ」「えぇ!」「それから削史さんって呼べ。……役所さんなんてオヤジっぽい」「わかりました。……大丈夫ですかね、僕?」「は? んなこと知るか、言っとくが俺は助けねぇからな」「でも援助は……」「俺の言うとおりやりゃ間違いねんだよ。しんどいのはごめんだぜ」
ひとしきり話し終えた後、最後の疑問を口にする。
「はぁ……あの、他にはABに仲間っているんですか?」
もしかして他にも手伝ってくれるのかもしれない。やっぱりおっちゃんの知り合いはこの人だけなんだろうか。役所の無愛想ながらも丁寧な受け答えは、一人っ子の俊太にとっては感じたことのない兄のような存在感を与えるようになっていた。
「知らん。お前は?」
親仁の渡すコーヒーのようなものがカウンターの上を通る。この店にもこんなものがあったんだ、と俊太は今日初めて教えられた。
「え? 僕はそんなの全然知らないですよ」
「違う。ダチだよ、ダチ」
俊太に渡されたのはオレンジ色の液体。それを受け取りながら即答する。なぜか自信を持って答えられた。
「いないです」
「ふ〜ん。……いいな、しんどくなくて」
甘い匂いがするが、明らかに薄められているジュースを口に運びながら思う。この人は変わってると。まだ会って1時間ほどしか経っていないが、ここまで俊太が気兼ねなく喋れた相手はいなかったし、何より今の受け答え。おそらく俊太とはタイプの違う人間であることは確かで、役所が何者なのかは全くわからない。だがわからないが、俊太は役所の隣にいる自分が誇らしく、嬉しく感じられる。笑っている親仁、コーヒーをすすり熱がる役所、黙ってジュースを飲む俊太。年齢の全然違う3人だが、初めて俊太は仲間と言う言葉を知った気がした。
「ふぅ、んじゃ行くか。ま、ここまでヘタレな野郎が慈善事業をしようってんだから、悪いやつじゃねぇとは思うが」
役所は、ふぅーと大きく煙を吐き出し言葉を続ける。
「とりあえず俺も依頼人を確認しときてぇしよ。もうちょいしんどいことやっとかねぇとな」
立ち上がる役所に続いて、俊太もグイッとジュースを飲み干し椅子から腰を上げる。ガラッと戸を開ける役所。こちらを振り向き、俊太について来いという仕草をする。親仁にコップを渡して俊太も店を出た。店から出て暗い路地を抜け、商店街に出る。そのまますたすたと歩き、コンビニの近くの駐車場に入る。がらんとした駐車場の一角。小さな昔の年代物の車があった。役所はその車に乗り込み、俊太にも乗るように促す。「年代物のビートルだ。カッコイイだろ」そう言って笑う役所は少年のようだった。
ブルルルッというエンジン音、小気味よい振動、煙草のにおい。思わずむせ返りそうになる空気の中へ飛び込むと、役所自身がむせていた。「くさっ、何だこれ」「煙草ですよ、ゴホッ」窓を全開にして顔を出す。ゆっくりと動き出すビートル。空はもう茜色が濃さを増してきていて、車から突き出た俊太の顔に夜の湿った空気が頬を掠めた。
「俊太よう、お前ABの意味知ってんのか?」
走り始めてすぐ、役所が聞いてきた。
「えーっと……」
AB、ABと世間ははやし立てるが、その名前の由来は全くわかっていない。そりゃそうだ。俊太は自分の名前がなんで俊太なのかさえも知らないのだから。しかし、知りませんと答えてしまうと自分が圧倒的に役所よりも格下の様な気がして(実際そうなのだが)、うまいあて言葉でも言ってさっきのヘタレ野郎の汚名を晴らしたかった。俊太は考える。何かないか。どこかで聞いた様な……。あっ、
「『おーる、ばんでっと』です」
頭の中に浮かんできたぴったりの言葉を当てはめてみる。
「はい、もう発音ダメだし意味もちがーう。やっぱり俊太は全然ダメー」
ハッハハと笑う役所。古そうなカーステレオに、英語で何かが書かれたテープを突っ込む。即効で鳴り響く大音量のジャズ。その音調に合わせて「ダメダメ俊太〜♪」と唄う役所。貶されたが、学校とは違う感じで、俊太は満足げに笑う。「ダメダメ俊太〜♪」、俊太はいつの間にか繰り返される役所の歌詞を小さく口ずさんでいた。
「あの、削史さん」
ガンガンと鳴り響く車内では、俊太のすずめのような声は役所に届かない。
「削史さん! ここのお店寄ってくれませんか」
うるさいステレオと役所の唄に負けないように、俊太は大きな声で叫んだ。
◆
「どうや、ええ話やろ? お前が言う取る条件のんだるし、利子も半分にしたる」
いやらしい声と、いやらしい振る舞い。強引な手段で、弱みに付け込む。美奈の細い腕を掴んで、握り締める逞しい腕。美奈の周りには3人の男。男に囲まれた美奈に逃げる道はなく、見えるものはない。唯一背中に感じる薄い我が家のトタン板。悔しい気持ちとは裏腹に、顔からは笑顔が出る。
「すいません。そこをなんとか……」
「なんや? あいつが彼氏なんか? 俺らは別にええんやで、その条件聞いても損にならんさかいな」
この男達は毎日のように我が家にやってくる。昨日まではお金を取りに、今は単に嫌がらせをしに。昨日、変な同級生の同じクラスのやつがこの男達と妙な約束をした。そのせいで自分はこんな目にあっている。勝手なことをするから……。それを取り消してもらうために美奈は男達に向かって微笑んでいた。
「彼氏とかじゃないんです。ただ、……関係ないですから」
泣いて頼んでも意味はない。気丈に振舞って、強気に出れば裏目に出る可能性もある。これが正しい対応。笑顔で、わずかでも残っているであろう男たちの良心に訴える。風野俊太は関係ない。あんな何も出来ないやつとは知り合いですらない。ただの気持ちの悪い、いじめられっ子で、同じクラスの阿呆だ。
「あんなぁ、そやったらええんちゃうか? 何も難しいこと言うとらんやろ。ほらっ、いこか」
「ちょっ、やめて下さ――」
「「やめんかっ!」」
そこに現れたのは、逞しい体の警察官と少し道を外れているような強面の警察官。その警察官二人の怒声に男達は、バンッと家の壁を殴り去っていった。ビクつく美奈に優しく微笑みかけ、肩に手を置く。「大丈夫」と言う優しい声に「はい」と答えて、お礼を言う。強面の警察官も笑うとそれほど怖くない顔で、案外親しみを持てる。バンッと叩かれた音に驚いたのか、奈留と優治が玄関から恐る恐る顔を出した。警官二人は二人にも同じように笑顔を向け、奈留と優治はビシッと敬礼のポーズをする。それを見て再びにこりと笑い、二人の警官もそれを返した。美奈が安心してその光景を見つめていると、強面の警官が口を開いた。
「あぁそうだ。晩御飯は作ったかな?」
「え……と、まだです」
「そうか、それならちょうどいい。ちょうど、鍋の材料にいらないものを買いすぎてね。使ってくれ」
渡されたのはスーパーの袋。中に入っていたのは大量のたまねぎと、にんじん、じゃがいも、お肉。それからカレーのルー。どうやればこんなにカレーにぴったりの物だけを余らせられるんだろう。そう思いながらも、美奈は「ありがとうございます」と深くお辞儀をした。それを渡すと、二人の警官は「あぁ、そろそろ鍋パーティーの支度をしなければ」と笑ってその場を後にした。
ポタポタとこぼれる涙。包丁を動かして細かく切る。こうした方が甘みが出やすい。涙も出やすい。美奈はぐしぐしと、滲む視界をこすり手を動かす。時々、涙だけではなくて嗚咽が出そうになる不思議なたまねぎ。隣で奈留と優治がにんじんとじゃがいもの皮を楽しそうにピーラーでむいている。「買いすぎだよ、たまねぎ」、美奈はそう思いながらも、出てくる涙が止まらないようにたまねぎを切り続けた。
◆
「あれだけしんどいことしてる娘ならな。とりあえず問題ねぇ」
「よかった。……あっ、どうでした、僕。できてましたか?」
まじまじと役所の顔を見つめる俊太。窓の外から入り込んでくる風も、夜になって大分涼しくなった。その風のせいで煙草が早く燃えちまう、と愚痴を漏らしていた役所は相変わらず煙草を加えてけだるそうに運転している。今はカーステレオは切れていて、ビートルが風を切る音と、道路上の車の排気音だけが聞こえる。何かを言う前に、大きく煙草の煙を吐く癖がある。今日1日(正確には4時間ほどだが)、役所の側にいて俊太が見つけた癖。役所は大きく息を吐いた。
「上出来だ」
途端に鳴り出すカーステレオ。ハハッハと笑って俊太の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。かと思ったら片手で運転しながら、リズムを取って唄いだす。踏み込まれるアクセルがブンッと勢いのある音を立てた。
俊太は「どうか事故しませんように」と、隣で暴れる運転手を見ながら思った。
$6$ 「ABであるならば…」
『イギリス秘宝館来日!』
翌日の新聞の一面。大々的に記されているその文字を見て悲鳴を上げそうになる。わいてくる実感。今日から5日間、高級ジュエリーを展示しに、はるか遠くの紳士の国からやってくる秘宝館。もちろん俊太は宝石なんて買う予定はないし、興味もない。ただ渡さなければいけない宝石と、渡さなければいけない相手がいる。もちろんそんなことは誰にもいえない秘密だが。
今日は学校が創立記念日で休み。にもかかわらず、俊太は早くに起きていた。それというのも、昨日会った暴れん坊将軍に「遅刻しないように」と、厳重に注意された待ち合わせがあったからだ。早くといってもちゅんちゅん雀が鳴いて、朝の光が黄色くて、爽やかな涼風が入ってくるような時間ではない。今はお昼の11時。休みの日、特に何もない時は、俊太は大抵12時過ぎまで寝ている。ぼさぼさの髪の毛をなでつけながら、手にしていた新聞をテーブルの上に戻す。なんかあるかな? 父親はいつも通り仕事、母親は買い物に行ったのかリビングにはいない。
10畳のリビングに敷かれた小さなカーペット、はみ出したフローリングの部分が足の裏に冷たくて気持ちいい。クーラーが適度に効いたそこから、少し熱気のあるキッチンに入る。キッチンの窓から、夏の日差しが煌々と照りつけ、その場を暖めていた。ガチャリという音をたてて食器棚を開き、コップを取り出す。冷蔵庫の中には牛乳しか入っておらず、それが俊太に母親の行き先を確信させた。コップに牛乳を注ぎ、食器棚の下の戸棚を空ける。何もなし。綺麗に片付けられたその空間は空しいぐらいにゴミ一つなかった。しょうがなく諦めて牛乳を口に含む。キッチンからリビングに戻り、テレビのスイッチを点けた。
『今日午後から、ABとして世間を騒がせた安部信二被告の初公判が行われます。現場に報告記者が行っています。報告さん、報告さん?』
『はい、こちら現場の報告です。先程から急激に取材陣が押し寄せまして、やはりこの初公判は稀に見る注目度です。えー、それで阿部被告についてなんですが、どうやら全面的に罪を認めているようで、かなりあっさりとした結果になるんではないかと言う見解が強まっています』
昼間から熱の入ったニュースが流れている。たぶん特別番組だろう。それだけの価値はあると思う。報告という記者の周りでわいわいと騒いでいるカメラマンや他の記者が見える。これが結末。そんな言葉が頭をよぎる。下にいるものは必死で上を見ようとする。するが上のものはその頭を押さえつけ、けして下のものが上にこれないようにする。
『それにしても、よかったですね。もしかしたら今日からの英国秘宝館での展示物が、ABに狙われていたかもしれないですからね。雪さん、これについてはどう思われますか?』
司会の女性アナウンサーが楽しそうにトークを振る。振られたのはジャーナリストの男性。後ろで束ねた黒髪に、皺のある顔がなんとも独特の空気を出している。
『そうですね、やは』
プツッ、テレビの電源が消える。俊太は飲み干した牛乳コップをキッチンに戻し、洗面所に向かった。
――7月7日、英国秘宝館でABは復活するんだ
◆
「……遅いなぁ」
遅刻せずに来たものの、肝心の暴れん坊将軍が来ていない。薄々感じてはいたが、連絡先のわからない人に待たされるというのは嫌なものだ。俊太は携帯を持っていない。持ってても連絡するところが家ぐらいしかなかったからで、全く必要でなかった。しかし、今初めて携帯欲しいなぁと思った。周りで同じように誰かを待っている多くの人は腕時計を見たり、携帯をいじったりしている。俊太が今いるのは駅広場。俊太の好きな川原の裏側に当たるところで、商店街が目の前に見える。
駅広場にいるからといって、別に電車を使って移動するわけではない。この町で最も大きくて明るい場所で、人工的な造形の噴水が綺麗な場所だから、デートやその他の待ち合わせにはもってこいなのだ。腕時計も携帯もなく手持ち無沙汰にボーっと噴水のヘリに座り、足をぶらぶらさせる。小奇麗に着飾った周りの人々と比べて、俊太の身なりは限りなく浮浪児のような格好だった。否、それほどひどくはないが、周りの人と比べると、ジャージ姿のその格好はやはりいいものではない。しかも、これから暴れん坊将軍と向かおうとしているのは、今日来日したばかりのイギリス秘宝館である。
こつんと頭を小突かれた気がして後ろを振り向く。そこには蝶ネクタイに、黒いタキシードとシルクハットをかぶった暴れん坊将軍がいた。
「削史さん、遅いですよ」
不満そうに言ってみる。役所はそれが聞こえなかったかのようににこやかに、澄ました顔で俊太に礼をする。ぐるりと手を動かし、こちらにどうぞと言う感じで大きな黒い車へと俊太の歩を促す。そこには、昨日乗っていたものとは違う、黒い大きな車があった。名前は知っていたけど、じかに生で見たのは初めて、リムジンと呼ばれる高級車だった。恐る恐る役所の顔を見上げ、様子を伺う。こんなものに乗っていいのだろうか。お金は持ってないし、何より自分はこんな格好で。
「別に格好は気にせず来い」と言ったのは役所であるのに、自分はしっかりと紳士をしている。理不尽だ、と思いながら見つめていると、それまでにこやかだった役所の顔が険しくなる。早く乗れと、その顔が言っていた。半ばビビリながら焦ってリムジンに乗り込むと、役所も続いて静かに乗り込んだ。バタンと自動で締まるドアに少し感動を覚える。役所は先程と同じ調子で「出してくれ」と言って、前に声をかける。どうやら運転手もついているらしい。俊太は、「削史さんは本当はお金持ちなんだ」という結論に至り口を開こうとした時、がさごそと大き目の綺麗な黒い袋の中身を漁っていた役所が顔を上げる。
「あーしんど。このボケッ、さっさと乗り込めよ。ったく……おらっ、着替えな」
そう言って役所が俊太に渡したのは、一回り小さ目のタキシード。役所が着ているものとは違い、後ろが2つに分かれた燕尾服に、白い蝶ネクタイ。あぁそういうことなのかと納得し、ふかふかの座席に座ってそれを受け取る。再び黒い袋に手を突っ込み、続けて役所が言った。
「言っとくが勘違いすんなよ。俺はこんなんじゃねぇからな……っと、これもだ」
ポンと、眼鏡がタキシードの上に置かれる。それだけしか言わなかったが、役所が言いたいことがなんとなく判った気がした。
「とりあえずは下見だ。何事もここから始まるからな。本来なら俺一人で行くんだが、お前を連れていかねぇといけねぇみたいだからよ。ややこしいけど、これから俺が言うことちゃんと覚えとけよ。初心者っつーのは、ほんと……だりーな」
心底思っているのだろう。めんどくさそうなやる気のなさが、もろに伝わってくる。俊太はジャージを脱いで、渡されたタキシードを一生懸命着ながら、役所の話を聞いた。役所の話はこれから行くイギリス秘宝館で何をするかと言う大まかな目的と、礼儀作法だった。金持ちの紳士として振舞え、貧乏そうなところは見せるな。これが大まかな話の内容だった。実際いろんな礼儀作法を聞かされたのだが、耳から入って脳にいくと同時に、それは面白いように収容されたのである。自分でもわからないところに。
あらかた役所の話が終えた頃には、俊太もタキシード姿に変わっており、すっかり大人な雰囲気だった。この前変装した時よりは手が込んでないが、たぶん下見だけだからいいんだろう。度の入っていない眼鏡をかけると、リムジンがゆっくりと動きを止めた。丁度目的地に着いたようだ。ドアに手をかけて開けようとして、それを役所に注意される。
「おいこら、俊太君。チミはお話を聞いていたのかね?」
ビシと付け髭を顔に叩きつけられ、思わず手で押さえる。そうだった、運転手さんが開けてくれるのを待つんだった。いきなりの失敗を悔やみながら役所の顔を見ると、うっすらとこめかみに怒りのマークがあるような笑顔だった。オールバックの髪型で、何とも威厳のある顔立ちだ。
「僕はそれつけなくていいですか?」
「お前はもともとお坊ちゃんみたいな髪型だからな。いいから、さっさと髭つけとけ」
言われて鼻の頭にくっついた髭をはがし、口元に貼り付ける。髭は伸ばしたことがないが(というかもともと薄い)、こんな手触りなのかなと触っていると乗っていた車のドアが開き、明るい夏の日差しが入り込んできた。
「ありがとうございます」と、言おうとして口を噤む。お金持ちの紳士にとっても、雇われている運転手にとっても、それは当然のことなのである。危うくまた怒られるところだった。後ろから黙って出てくる役所の顔を見てハハハと笑ってみせる。「何だこいつ」という目で俊太を見て、役所はイギリス秘宝館の入り口へと歩いていった。大きな建物、最近新しく立てられた博物館でセキュリティもばっちりと政府のお墨付きだ。この綺麗な建物の中でイギリスの誇る超綺麗な宝石が展示される。来るのは今日だけにしたいかもと、弱気な気持ちをごくりと飲み込む。紳士らしく胸を張って、役所の後ろを焦らずに着いて行き、俊太もイギリス秘宝館に入った。
秘宝館の中には流石に警備員がしっかりと配置されていた。それと同時に気づくのが、監視カメラの多さ。あそこにあると持ったら、既に視界には4個ほどのそれが入っている。大きなエントランスで受付けを済ませて、通路を歩く。広い通路には綺麗な絵画が飾られていて、それだけでも画に興味がある人は足を止めるだろう。もっとも俊太は画にも、これから見る宝石にも興味はないのだが。
1本の通路と3つの部屋。これがこの博物館の構造だった。通路をまっすぐ行った正面に1番大きな部屋があり、そこに目的の宝石『ブラッドマリア』がある。その途中で十字路があり、2つの部屋がある。右の部屋には『ピジョンブラッド』を初めとした数多くのルビーと、珍しい『コーンフラワーブルー』と色とりどりのサファイアが展示されている。そして、左の部屋には『ファンシーカラーダイヤモンド』としてたくさんの色のダイヤ、またラウンドブリリアンカットを初めとしたたくさんの形のカットのダイヤが展示されていた。
見てまわるつもりはなかったのだが、それら全てを懇切丁寧に説明してくれる館長がいたので、無視するわけにもいかず、俊太が目的のブラッドマリアの所に着いた時は目がちかちかしていた。おかげで幾分宝石に関して詳しくはなれたのだが。
ブラッドマリアの宝石のある部屋はそれまでの2室とは違い、たくさん宝石が置いてあるわけではなく、あくまでブラッドマリアを中心として、少しだけの宝石がそれを引き立たせるためのように置かれていた。今まで見てきた宝石はどれも非日常の物で、引き立たせるために置かれていたそれらの宝石ももちろん綺麗だったのだが、ブラッドマリアは違った。こんなものがあるのかという色。見る角度を変えると色が変わり、弱い照明の下でも燦然と光り輝いている。大きさも半端ではなく掌サイズのラグビーボール型。『宝石』というよりも正に『宝の石』と言った感じだった。
「素晴らしい。これほどの大きなものは見たことがありません。さぞかしお高いんでしょうね」
役所が声を変えて、館長に話しかける。しかし、その目はブラッドマリアを捉えておらず、部屋の監視物に向けられているのがわかった。館長はそんなことにも気づかず、饒舌にブラッドマリアについて話し始める。
「そうですね、もちろん値段はつけられませんが、つけるとするならば100億ほどになるんじゃないでしょうかね」
それを聞いて俊太は飛び上がった。幾ら借金があったとしても、返して余裕でお釣りが来るじゃないか。こんなものを盗むの……? 冷や汗を垂らし、ビクついた俊太にも館長は目を向けない。満足そうに、自信たっぷりの言葉が続けられる。
「ブラッドマリアの語源は聖母マリアからきているのですよ。人間たちの絶えない欲望によって引き起こされる戦争。それらによって失われてゆく命。それを悔いた聖母マリアは自らの血を聖なる器に注ぎ、そこにたくさんのロザリオや十字架を入れたそうです。それらがマリアの血によって溶かされ、聖杯の中で固まり、この宝石ができたといわれています。まぁ、もちろん伝説の童話なんですけどね」
「神秘的な面白いお話ですな」
役所が館長の話に軽く相槌を打つ。俊太はさっきの値段のことが忘れられず、まだビクついていた。
「でも、これってやっぱり、泥棒の……防犯対策等は大変ですか? やっぱり」
言葉遣いに気をつけ、俊太が尋ねる。あえて防犯対策が完璧かどうかは聞かない。聞いたら倒れそうだから……。しかし、その希望もむなしく、館長の口からは自信たっぷりの言葉が告げられる。俊太には、それが死刑宣告のように聞こえた。
「ええ、もちろん万全を期しておりますよ。詳しいことは言えませんが、このケースに触れただけでも警報がなるようになっていますし、警備員が24時間体勢で見張っていますしね」
自信ありげな表情からは、盗まれることなど微塵も考えていないことが窺える。ブラッドマリアの入ったケースに目を戻しながら役所が言う。
「金庫に保管はしないのですか? 見たところ、ものすごく頑丈そうなケースに入ってますが」
「さすがお目が高いですね。そんじょそこらのプラスチックケースじゃありません。強化プラスチックといいまして、銃弾も通さないんです。それで、このプラスチックケース、私が触れた時だけ開くようになってるんですよ。一応金庫は用意してあるのですけどね、そちらよりもこちらの方が安全だということで」
笑みを絶やさずにそう言う館長はとても嬉しそうで、皺の入った顔に少年のような目を輝かせている。
「なるほど」
もう見るところはないのか、役所が俊太のほうをちらりと見て館長に答える。
「それに最近、あのABも捕まったじゃないですか。もう、心配要素はないですよ」
「なるほど」
俊太はいくらか大きめの声で頷く。
「だったらもっと手ぇ抜いてよ」、心の中で泣きながら俊太は思った。
◆
―お前本当にABか?
―はい。だから何度も言ってるじゃないですか
「しかしなぁ、なんか納得いかないんだよな〜」
もう何度繰り返したかわからない取調べのことを思い出し、西部銃朗(せいぶ じゅうろう)は溜息をついた。いきなり出頭してきた安部信二という容疑者。自らをABと名乗り、なぜ急に出てきたのかと問うと、「疲れたから」と答える。もちろんABが捕まったのは警察としては嬉しいことなのだが、銃朗は全然納得していなかった。如何せん下っ端ではあるが、これまで何度かABの事件には関わったことがある。いつかこの手で捕まえてやる。それが銃朗の目標になりつつあった。
その途端に起こった今回のAB自首事件。事件という響きは可笑しいのかもしれないが、それほど警察内部でも衝撃の起こったことではあった。今そのABの裁判が行われている。あの調子ならば、おそらく今回の一度で控訴もせずに終わりそうな気がする。証拠も持参のそのABは、本当にもう捕まることしか頭にないほど固執しており、ひどく銃朗の意欲を踏みにじっていた。
裁判の行われているであろう部屋の前の廊下で、缶コーヒーを飲む。今年で22歳、コーヒーはブラック、あだ名はクロック。時計のように時間にきっちりしているため、先輩にそう付けられた。初めは嫌だったが、慣れてくるとむしろ愛着さえ沸く。黒く固いスチールの缶を握り、再びABのことを思い出す。
取調べで顔を会わせた時、驚いた。ごつい顔の割に小柄な体で、しかし声は意外なほど高く、そして甘党だった。自分よりも明らかに年上であろうその顔、もちろん人間見た目ではないのだが、やはりその印象が強い。そんな顔に似合わず、意外に大人しい動作で(自首するぐらいであるから、本当は大人しいのかもしれないが)、コーヒーのコップに砂糖を入れて混ぜていた。
飲み終えた缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に放り投げると、ぞろぞろと法廷から人が出てきた。どうやら終わったようである。銃朗はその人の群れの中からABとその付き添いの刑事を探す。ぞろぞろ出てくる流れの中で、すらっとした長身の渋い男前を発見する。
「南条警部っ」
「んっ、おお、西部か。どうした? 今日は非番じゃなかったのか」
今日は非番。しかし、どうしても気になったこの裁判はすぐに結果を知りたかった。その旨を説明すると、「まめなやつだ」と笑われたが、南条はごく簡単に結果を教えてくれた。
「今回だけではまだ決まらなかった。ABはずっとわしらの言うことを肯定しとったんだがな。まぁ、裁判てのはこんなもんだ」
そうですかと言って肩を落とす。やはり否定はしなかったか。ABは本当にもう捕まってしまうのか、と言うかそもそもあいつが本物のABなのか。再び疑問はそこに戻ってくる。ポンと肩に手を置かれ顔を上げる。ABを捕まえるのを目標にしていたもの同士、自然と気持ちはわかるのだろう。そしてふと、そのABがいない事に気づく。
「あれ? 安部はどこに行ったんですか?」
「ん。あいつはトイレに行きたいって言って……」
「俺はABじゃねぇー!」
安部の声、否、似ているが少し低い気がする。そんな男の声が確かにそう叫ぶのを2人は聞いた。
$7$ 「騙し騙され」
軽快な駆動音。ほとんど振動せずに走るリムジンの車内は、流れるプールで流されているような気分に浸らせる。このふかふかのシートもその要因の一つだろう。俊太はその中で目を閉じて、100億円を思い浮かべていた。あまりにも桁が大きすぎて想像できない。しょうがなくさっき見た大きな宝の石、ブラッドマリアを目の裏に焼き付ける。なんであんなのが100億円もするんだろう? 直に接していないとこう思ってしまう。宝石に興味もなければ、知識もない。お金もろくすっぽ使ったことのない俊太にとって、先程出会った存在は大きすぎた。
目を閉じていると、確かにそこにはブラッドマリアがある。掴もうとしてもけっして取れるはずはない。しかし、今の状態に近いものを、俊太は5日後には手にしている。となりでごそごそと音を立て、豪快に服を脱いでいる人は、確かにそう言っていた。
「あーーだり。もういいや。今日はこんでいいだろ。酒でも飲みに行こうぜ、俊太」
リムジンの中で蝶ネクタイを外しながら、役所が肩を回す。博物館にいた時はあんなに丁寧な紳士だったのに……。今俊太の隣に座っているのは、短い金髪に鋭い目。外した付け髭の下に、整った顎鬚が逞しい昨日の暴れん坊将軍だった。
「えっ、……僕お酒とか無理ですよ」
俊太も蝶ネクタイを外しながら答える。確かにあれだけ長い間宝石を見て、興味のない話を聞かされ続けていれば疲れる。俊太は珍しく来たスーツで、凝った肩を手でほぐした。
「アホか。んなもんは慣れだよ、慣れ。よし、今日はお前を男にしてやる。この後『シーウィスタリア』に行く――んだよ、その顔は?」
役所は意気揚々と声を上げたが、俊太の顔を見て不満そうに声を漏らす。
「あの……削史さん、大丈夫なんですか? あんなにものすごいもの盗むのに、そんなに浮かれてて。それに僕お酒飲めないですし……大体『しーうぃすたりあ』って、どこですか?」
おどおどした目で役所を見ながら尋ねる。本当にさっきまでとは別人の役所は、煙草を取り出しそれを口にくわえる。その一挙一動をゆっくり視線で追いながら、俊太は返事を待つ。黙ってライターで火をつけてから、役所は重く口を開いた。
「俊太よう」
「はいぃ」
少し緊張気味に答えたせいで、声が裏返る。ふかふかのシートがぼよんと少し弾んだ。
「んな事気にすんなよ。俺が計画立ててやっからよ、ダイジョーブだって。何ならシーウィスタリアでちょこっと計画練ってもいいしな。大丈夫大丈夫、一休み一休み。焦ったっていいことねーぜ。そもそもお前はしょ・し・ん・しゃ、なんだからな。年長者の意見はよく聞くように。つーことで、酒も飲むと。……ま、盗むの俺じゃないしね」
豪華なリムジンの空気に、安っぽい煙草の煙が満たされてゆく。役所は目つきが悪いので、見つめられると怒られるのかと思ってしまう。今もそんな風に思って固まってしまったのだが、以外にご機嫌な言葉遣いであったのに俊太は安心した。最後の言葉を除いては。
「あの……」
「あー、『シーウィスタリア』はあれだぞ。昨日もいったとこ。海さんとこの占い屋だ。運転手さん、音楽掛けてくれ」
途端にリムジンにこだまする騒がしいギターサウンド。やっぱりこの人、暴れん坊将軍だ。俊太は聞きそびれた最後の言葉の意味が、本気じゃないことを祈って窓の外に目を向けた。
◆
丁寧に掃除されている廊下は歩くとカツカツと言う音を立てる。そして、その音が徐々に早くなっているのに気づく。先程あった大きな叫び声。確かに安部信二のものだった。トイレに行った安部が叫び声をあげたからと言って、それは大したことではない。しかし、その叫んだ内容が内容なだけに、南条と銃朗はその声の元へと急いでいた。
「逃げたり、とかは大丈夫ですよね? 南条さん」
「あぁ、大丈夫だ。何人か付き添いの刑事も連れてきとるからな。にしても、さっきの裁判中は全くそんな素振り見せなんだがなぁ」
南条は首をかしげて歩を進める。エントランスとは逆方向の廊下の突き当りを右に曲がると、そこには呆然と立っている警官と、あわあわと怯えている様子の安部がいた。足早にそこに着いた南条の姿を見つけると、安部は泣くように叫んで南条の元に走りよる。それを近くにいた警官の一人が取り押さえた。
「このやろぉ、てめぇがABだろうがっ! 警部、俺はABじゃない。こいつです、こいつがABです!」
必死に暴れる安部はそう言って警官の腕を振り払うと、南条の元に駆け寄った。しかし、そうはさせない。銃朗は南条の隣からすばやく前に身を乗り出し、安部の突進を止める。その力強さが安部の必死さを伝わらせた。銃朗が安部の突進を止めるとすぐに、先程の警官ともう一人の警官が安部を後ろから羽交い絞めにした。
「はなせっ、何でだよ! 俺じゃねぇか、警部。南条警部、わかりますよね? 俺です。三嶋です。三嶋健太郎。俺は――」
そこまで叫んで、警官の一人が拳銃の柄の部分で安部の意識を途切れさせる。安部は力なくだらんと項垂れ、その体を警官二人が支える形となる。
「西部さん、ありがとうございました。警部、すいません。先程までは大人しかったのですが、いきなり暴れ出しまして」
「気にするな」と、南条は背の高い細身の警官に声をかけた。銃朗も、同じように挨拶をする。安部を近くの長椅子に寝かせて南条がもう一人の警官に声をかけた。先程の警官よりも背が低く、綺麗な肌をした、線の細い顔立ちをしている。
「はて、三嶋。お前の名前を言っとったが……、どうだ。ABに恨まれる心当たりでもあるか?」
意外に低い声で、三嶋は答えた。
「いえ、そのようなことは思い当たりません。おそらく、安部が逃亡を図ろうとして言った事ではないかと。それに安部にとっては、警察は全員敵だと思われますし」
南条は「それもそうだ」と豪快に笑う。
「ふむぅ、しかしいきなり自分のことを否定し始めるとはなぁ。こりゃ裁判長引くかものぉ」
ポリポリと頭を掻いてそういう南条はどこか楽しそうに見える。そのまま突っ立っているわけにも行かないので、安部を三嶋ともう一人の長身の警官大和で支えて車まで連れて行くことになった。裁判所の外の大きな駐車場まで(二人とはいえ)男一人を抱えて歩いていくのは、少々重労働のようだった。時々ふらつく三嶋に、「代わろうか」と声をかけたが、「西部さんでしたっけ? 今日非番らしいじゃないですか。自分は大丈夫ですから」と丁寧に断られた。やっとのことでエントランスまで運ぶと、先に出て行っていた南条が車を前に待たせていた。
ようやくといった感じで後部座席のドアを開ける音。しかし、銃朗の目は運転席に座っている南条に注がれていた。携帯電話を耳に当てながら、その顔は先程より険しさを増しており、しかしその中に確かな笑みが混じっている。そして、電話が終わった後に南条はまっすぐ銃朗に顔を向けた。ゆっくりと開く助手席の窓。徐々に聞こえ始める南条の声。消え始める周りの雑音。
「乗れっ。ABからの予告状らしいもんが届いたらしい」
警察署内はパニックだった。捕まったはずのABからの予告状。それが今までとは少し違っていた為、やれ悪戯だの、やれABの仲間だの、新しいABだの。様々な憶測が飛び交っていた。もっとも有力なのは悪戯と言うことだったが、大半の者は今までABがやってきたことを考え、少なからず興奮していた。異様な熱気が立ち込めている署内に入り、銃朗は南条と一緒にその予告状というものを見に行った。もちろん、AB容疑者の安部を今までどおり拘置所に戻した後でである。
「もしかして、逃げようとしてるんじゃないですかね? この混乱に乗じて」
軽く熱気にさらされた顔で銃朗が南条に話しかける。
「いやそれはないだろ。大体一度捕まる理由がわからん。それに拘置所に入ってるんじゃ、どうしようもないだろ」
南条は冷静に状況を分析し、頭をひねる。いろいろな憶測を考慮しながら、二人は大慌てで動いている捜査第1課の部屋に入り、その予告状のコピーを貰う。そこには次のような内容が書かれていた。
「
どうもABです。今回、
えっと何を盗むのかは秘密ですけど、ABとしてとにかく盗みます。
たぶん、博物館みたいなとこから盗みます。
あんまり信じないで下さい。
……怪盗AB 」
支離滅裂な文章。いつものABの予告状と比べると月とすっぽんぐらいの差がある出来だ。場所指定も曖昧だが、明らかにバレバレ。自身なさげな文章からは書いたものの馬鹿さ加減が伝わってくる。何から何まで雑だな。銃朗はやはり悪戯かと、肩を落とす。がっくりと持っていたコピーを机の上に戻し、南条の方を見ると、南条はニヤニヤと笑っていた。
「やっぱり、いたずらですね。期待して損したなぁ」
銃朗がそう言うと、南条が驚いたように顔を向けて口を開いた。
「お前、ホントにそう思うんか?」
「えっ、だって完璧悪戯じゃないすか、これ」
銃朗の言葉に南条が返事を返そうとした時、背後から三嶋と大和の声が聞こえた。
「まだわかんないですよ、西部さん。だってこれ、そっくりですもん」
「そうそう。最初の10文字目、いっつもABの使う言葉の遊びテクにぴったりはまってますからね」
鼻高々と言った感じで、三嶋と大和が交互に答える。それを聞いてもう一度机の上のコピーに目を通す。10文字目……あっ!? 思ったことが顔に出たのだろうか。やっとわかったかと言った感じで、南条が口を開く。
「『かい』『とう』、初めから十番目に『かい』って言葉を入れてくるんだぁ、ABってやつは。今までそうだっただろ? ちったー覚えとかんとよ、高卒坊ちゃん」
南条がぽんぽんと頭を叩く。確かにその通り。ABの予告状は今まで警察内部でも、関係のあるものにしか見せられていない。それはつまり、今言われたことが一般人にはわかるはずがないということである。だから、送ってきた者が『もしかしたらABの仲間』、『本当のAB』と言う考えもありうる。まぁ、何らかの手段によってそれを知り真似て作った、ということも考えられるがそれならば問題はない。そんなことにも気づかずに悪戯だと決め付けたのは、自分が浅はかだった。だが最後の言葉。高卒の坊ちゃん。銃朗はこういわれるのが一番嫌いだった。南条のその言葉に苛立ちを示すように、持っていたコピーを再び机の上に置いた。今度はバシンとうるさい音が鳴るぐらいに。
「冗談だよ。怒らんでくれ」
南条はすまんすまん、と言って銃朗の機嫌を取る。しかし、銃朗の機嫌はなかなか直らない。諦めたように南条は話を変えた。
「今回のABの予告状は偽もんかもしらんし、本物かもしらん。もしも警備するっつっても、おそらくいつもみたいには人数をさかんだろうなぁ。……ってことでだ。もしも警備することになった場合は、お前を入れてもらえるようにしてやるから、それで機嫌直せ。な?」
その言葉でようやく銃朗はしかめっ面の口元を緩めた。
その時、三嶋の口元も微妙に緩んだのは誰も気にしない。
◆
夕闇が迫り始めた夏の午後、薄暗いビルの間の狭い路地裏。綺麗なんて言葉が存在しないその通路に、細身の少年の腕を引っ張り、引きずるように歩く男が一人。大き目のサングラスを付けた表情はカッコイイというよりも、怖い印象を与える。事実、路地裏に入るまでの商店街では、俊太を引き連れ歩く役所は誘拐犯か性質の悪いヤクザだと思われていた。もちろん役所はそんなことに気づいてはいないが、引きずられる俊太は人々の視線から大体の予想はついた。
頭上に入り組んだ道路が陰となって暗い。夜に近づいても電灯というものが存在しないこの裏道の突き当たり、俊太と役所はその右側の壁の前で停止する。役所がやっと俊太の腕を離し、探さなければ見つからないような(特に夜は何も見えない)壁のでっぱりを掴む。ぐいとそれを横に滑らせると、もうもうと白いような黒いような怪しい煙と、紫色の薄明かりがその場を照らす。「あぁ、いい匂いだな」と言ってそこに入っていく役所とは対照的に、俊太は手でその煙を払いながらそこに入る。小さく、絶対に聞こえないように「くさっ」と言ってから、俊太は役所の隣に腰を下ろした。
「んだぁ、何しに来た?」
誰もいないカウンターからやる気のない声が聞こえる。よく見ると、本を顔にかぶせて横になっている親仁がいた。
「おっちゃんさ、愛想悪すぎ」
「何しに来たって、あんたの言った通りこのガキ連れて下見に行ってきたんだよ。んで、今日はここで飲むことにした。と言うことで、よろしく頼むぜ海さん」
のっそりと体を起こし、サングラスをかけた髭面が現われる。『シーウィスタリア』って、なんでそんなこじゃれた名前なんだろう。この人の顔は絶対横文字とか使わなそうなのに。よくて、占い屋『奈落』とか? そんなことを考えていると、のっそり起き上がった親仁が一応注文を聞いてきた。オレンジジュースと言おうとしたが、それ以上に早く役所が『奈落』という言葉を発する。この人、心の中も読めるんだ、などと馬鹿なことを思っていたら、それは特性のカクテルということだった。
「んで、上手くいけそうか?」
おっちゃんカクテルなんて作れるんだ。シャカシャカと振っている様子が、釈迦釈迦に思えて吹き出しそうになる。ていうか、僕やばくない。
「問題ないんじゃねぇ。俺的にはだけど」
やばいなぁ、僕。これ確実に飲まなきゃいけない雰囲気だよ。どうしよう……。
「どうだ俊太。お前はいけんのか? それから、お前ちゃんと送ったのか」
釈迦釈迦振る手を止めて、銀色の入れ物の蓋らしきところを開け始める。
「送ったよ、ちゃんと。……でもさ、なんで送らないといけなかったの? 警察になんか知らせたら、盗みにくくなるのに」
いかにも怪しげな、紫の透明の液体がグラスに注がれる。俊太の発した質問に、親仁は答えず、代わりに役所が答えた。
「やっぱりお前はヘタレだな俊太。いいか、これルールよ、ルール。例えば、俺は今日からしんどいって言葉遣いをしないって決める。でも、それが俺だけのことだったら、何にもフェアじゃねぇ。誰かに言っとくから、それが俺の中で制約になり実行した時に、初めて意味を成すんだよ。つまり、そういうことだ」
コトンと言う音を立て、グラスが目の前に置かれる。なんで例えに自分を持ってくるんだろう? おかしな人だなぁ。ていうか、そういうことって。わかりにくいよ……。
その時、ガラッという音がして後ろから風が入ってくるのがわかった。「珍しいなぁ、お客さんなんて」と思いながら後ろを振り向くと、小柄で色の白い男の人が立っていた。目の前に現れたいきなりのお客さんに、俊太は飛び上がる。一瞬後ろを見た役所は、ちらりと見ただけでまた前を向き、落ち着き払って紫の液体を口に運ぶ。
――そうか、冷静に冷静に。きっとおっちゃんが軽く追い返してくれるんだ。
「おら、さっさと入れよ」
その言葉で小柄な男性は扉を閉めて、自分達と同じところへ歩いてくる。親仁はカウンターの下から折りたたみ式の椅子を取り出し、その男に渡した。
――あれ? そうか、少しだけ占ってあげたりするのかな……。
「そのガキの横に座るといい」
――えー! 何言ってんのこのひとー!
腰を抜かすとはこういうことなのだろうか。俊太が「この人お巡りさんじゃないかぁー」と叫ぶ声は、もちろん彼の心の中でしか聞こえない。
「テレパシー使いたいよぉ」俊太はしみじみ思った。
$8$ 「はじめまして」
――ドキドキ? ワクワク? なんだろうこの気持ち。心臓が早く動いて、スピードの出しすぎで事故をしてしまいそうな車、みたいな感じ? どんな感じだと聞かれても、そうとしか言えない。だって、僕は……僕は今まで、こんな経験はなくて、でもちょっと『憧れ』てたり、『夢に見た』りはしてたけど、実際に起こるなんてことは『予想』もしてなくて。僕がこんな状況に陥ってるのを、誰が予想できるんだろう。学校では見てられないような事ばかりされてるのに。でも……あぁ、やっぱりだ。隣でにやついてる二人は、きっと知ってたんだ。
◆
親仁に促されるまますっと俊太の隣に座る警察官。そこまで誘導して座らせたはいいが、親仁はそのまま警察官を無視して何かを作り始めた。パチパチと言う火の音がするから、おそらくつまみでも作り始めたのだろう。親仁のその勝手な行動にあわあわと俊太が驚いていると、警察官がこちらに顔を向ける。警察官は自分を放っておく親仁を気にした風もなく、俊太の引きつった横顔を見る。
――えー! おっちゃん無視してるんだから、それ気にしようよ〜
心の中でそんなようなことを叫びつつも、俊太はそれに気づかない振りをする。警察官の顔は穏やかで、怖そうな印象は受けなかった。小柄な俊太と同じぐらいか、少し高いぐらいの目線。色白の肌が怪しい紫色の照明で、うっすらと赤みを帯びている。ちらちらと横目で覗き見て得られた情報だが、その代償は大きかった。3回目のちら見の時に、警察官の少し大きめの瞳が俊太の目を覗き込むように重なり合う。どうしようもなく、俊太は視線を逸らす。もともと人の目を見つめるのは得意ではない(というか、恥ずかしい)。そんな何の面白みもないはず(もしかしたら冷や汗だらだら、引きつって、何にも気づかない振りをしている馬鹿な横顔は面白いのかもしれないが)の俊太の顔をまじまじと見つめ、警察官はにこりと笑った。
「君、ABでしょ? 聞いてるよ」
男の声色よりもやや高めの声が俊太の心臓を貫く。先程からびくびくしていた体が拒否反応を起こし、それが口から形となって現われた。
「へ!?」
出てきたのは何とも無様な悲鳴。果たして悲鳴と言えるのか、それすらも怪しい声だった。「しまった」と口を押さえるが、それもまた逆に怪しいと思うのに数秒かかる。警察官は「やっぱり」と声をあげ、けらけらと笑った。その様子を見て、役所も親仁も笑い声を上げる。
「あの……」
その様子をあっけに取られて見つめると、目の前の警察官が両手を顔にかぶせ、顔を隠した。ぐちゃぐちゃと顔を拭くように両手を動かす。ごわごわした手も動きながら、繊細なきめの細かい手へと変わってゆく。「あ、あ」と、何かの映画のキャラクターのような声を出し、呆然とそれを見つめる俊太。そして暫くその手の動きが続いた後、先程よりも高い、と言うよりも女性の声がその警察官の口から飛び出た。
「はいっ! 騙された〜」
そう言ってどけられた手の下にあったのは、綺麗なお姉さんと言う感じの女性の顔だった。少し化粧をしているせいか、先程よりもさらに色が白い。分厚い唇と、大きな目が特徴的な顔立ちの女(ひと)だった。「えっ、えっ?」と首をぐるぐるまわしている俊太を見て、さらに女性はうふふと笑う。
「おい、このぼけっ」
役所が混乱している俊太の頭を掴み、その動きを止める。片手でフライパンを振るいながら、親仁が惚けている俊太に続けて言った。
「……ったく。よく聞け俊太。そいつもABの片割れみたいなもんだ。俺が呼んでやったんだぞ、感謝しろよ」
感謝しろと言われても、何がどうなっているのかさっぱりわからない。目の前にいる警察官の服装を着た人は? ドッキリ? コスプレマニア? そんな俊太のうろたえた様子を見て、流石にかわいそうになったのか、当の本人が口を開いた。
「ごめんごめん。驚いた? 私は小路女或(しょうじめある)って言います。よろしくね、俊太君。驚かせちゃったみたいだけど、全部君のための事だから、ね。許してね」
何とも人懐っこい笑顔を俊太に向ける。まるで俊太のことが好きなのではないかと思ってしまうような、一直線な視線だ。
「こら、その辺にしとけよ。くそガキからかってもしゃあねぇだろ。んで……お前は、上手くいったのか?」
出来立てのつまみを皿に移して、コトンとカウンターの上にのせながら親仁が言った。
「もちろん。まだわかんないこともあるけど、警察の方は少なからず動揺してたわ。やっぱり、ABが捕まったのは大きかったわね。手紙のことあんまり信用してないみたいだし」
見た感じ、俊太の同級生にいても違和感はない。しかし、落ち着いた口調で親仁にそう言う小路は、見た目よりも凄く大人びて見える。
「それにしても、あの手紙ひどかったよ〜」と、小路はいきなり口調を砕く。しゅるっと俊太の肩に手を回し、後ろから抱きつくような形になる。俊太は「ひゃっ」という声を上げて椅子から飛び上がったが、小路はそんなことは気にしない。それどころか、その反応を見てさらに「あはは〜」と意地悪そうに笑った。
「んなぺちゃぱいに抱きつかれて喜んでんじゃねぇよ」
その様子を見て、むすっとした表情で役所が言う。皿から高菜炒めを箸で口に放り込み、豪快に紫色のカクテルを飲み干した。
「うっさいわね。あんたいつも思うけど、年長者への言葉遣いがなってないのよ」
その言葉に便乗するように、コトンコトンと、カウンターの上にさらに二つのつまみが置かれた。親仁はまたジャージャーと何かを焼き始める。
「うるせーな。大体なんでここまで来て警官の服装なんだよ、コスプレババァ」
「何よ、実は見たかったんじゃないの〜? ほれほれ、ミニスカ婦警さんじゃないのが残念かぁ」
がたんという音を立てて椅子から立ち上がる役所、俊太の肩に手を回したまま立ち上がる小路。俊太も引っ張られるように立ち上がり、完璧に不機嫌な役所を目の前にしていた。
「ちょちょっ……」
たまらず仲裁に入る。入らなければ巻き込まれるのが目に見えているのだ。俊太が前と後ろの睨み合いを交互に見て、ビクついていると、親仁が「おらっ、馬鹿やってないで座れ座れ」とその場を制止した。
「アホかお前ら、ったく。ガキみたいなケンカしやがって……。離れろ離れろ。おら、お前はこれでも飲んどけ。あー、それから……なんだぁ俊太。てめぇ、まだ全然飲んでねぇじゃねぇか?」
いつの間に作ったのか、役所にまた違うカクテルを差し出す。険悪ムードの二人に離れるように言って、親仁は俊太のグラスに目を移し言った。「いや、僕飲めないから」。親仁にそう言っても、その声が届くはずもなく、逆にその言葉は険悪ムードの二人をも団結させ、俊太に酒を飲ませる連合なるものに変貌させてしまった。
「俊太、ちょっと食ってろ」
俊太は一人親仁の作った、たこキュウキムチをポリポリと食べる。自分の背後でよからぬことが相談されているのだが、俊太にそれを止める術はない。いっその事この場から走り出そうかと思うが、それだと後が怖い気がした。
『どうする? 強引でもいいんじゃねぇか』
『いや、それじゃ面白みないぜ海さん。』
『よし、私に任せて』
体を堅くして聞いていたひそひそ声が止む。こつこつと言う革靴の音が俊太の背後に近づく。その影は俊太の隣にゆっくりと腰を下ろし、口を開いた。
「ごめんね、強引に飲まそうなんてして。俊太君、お酒飲めないんだもんね」
「あ、そうなんです。ありがとうございます」
どうしようもなく綺麗に見える顔が天使のようだ。俊太は心の中で万歳を叫ぶ。親仁と役所も元の席に戻っている。どうやら、諦めてくれたのかな?
「俊太君」
名前を呼ばれて隣を見ると、ものすごい近さに小路の顔があることに気づく。「なっ、何ですかっ?」と裏返った声で聞くと、フフフと笑った。
「私が飲ませてあげるから、ね」
――えーーーっ!!
小路はそう言うと俊太のグラスを口に運び、そこに真っ赤な唇を押し当てた。紫の液体が小路の口に含まれていき、傾いたグラスが離され小路がウインクして唇を突き出す。徐々に近づいてくる顔は、紛れもなく本物で、俊太は後ずさり。それを見て、俊太が自分のやることがわからないと思ったのか、小路は細い指を自分の唇に押し当て、そして口紅のついたその指を俊太の唇に押し当てる。
助けを求めるように役所と、親仁に目をやると、二人とも見て見ぬ振りを決め込んだらしく、ちらりとだけこちらを見て無視した。しかし、明らかに顔は笑っている。気がつくと警察官の服を着た小路の腕が俊太の肩に絡んできていた。もはや逃げられない。近づいてくる顔。香水のいい匂い。嬉しいような、変な気持ち。しかし……俊太はとっさに、口紅のついたグラスを掴んでいた。
「飲みますっ!」
そう叫んでグイッとグラスの赤い部分を避けて口を付け、紫の液体を飲み干す。まったりとまとわりつくような液体。舌を刺激してくるその味に、今までかんじたことのない香りが鼻から突き抜けた。もちろんその後のことは覚えていない。
次の日、目が覚めると俊太はボロボロの畳の上で寝ていた。小柄な俊太でさえも足が少しはみだしてしまう程小さなスペース。起き上がると、役所がカウンターに突っ伏して寝ているのが目に付いた。親仁と小路の姿は見えないので、少し不安になる。どうしようかと迷った末、学校のことを思い出し、立ち上がる。その瞬間、足がふらつき畳の上にぺたんとしりもちをついてしまった。よく考えると、視界も少しゆがんでいるような気がする。
パンパンと太ももを叩いて、気合を入れる。ぐっと足に力を入れて立ち上がり、それでもカウンターまでフラフラと何とかたどり着けるぐらいだった。カウンターの中でいつものように親仁が寝ているのを見つけ、少し安心する。ジャージ姿のまま学校に行く勇気はなく、とりあえず家に帰るしかない。こんな状態で帰れるんだろうか、という一抹の不安を覚えつつも俊太は出口の引き戸に手をかける。ガラッという音が頭に響き、吐き気を感じる。これが二日酔いってやつなのかなぁ、そんなことを思いながらのろのろと足を動かしていると引き戸にまだ残されていた腕をつかまれる。
「こら、お前どこ行く気だよ」
「え? その、学校に……」
逞しい腕が俊太のか細い腕をわしと掴み、離さない。何か気に障ることでもしただろうか? 心当たりのない俊太に役所は不機嫌そうな目を向けている。
「てめぇ、俺とタイマン張るなんて調子に乗ったことしやがって。本当なら第2ラウンド開始といきてぇところだが、時間が時間だからしょうがねぇ。話は車ん中でしてやっからよ、行くぜ」
それだけ言うと、役所は昨日ここに来た時と同じように俊太の腕を引っ張って歩き始める。フラフラした様子もなく、至極普通にきびきびと歩く。その後姿に恐怖を感じながら、俊太は力のない声を出した。
「あの、学校は……? それから、親にも電話しないと」
「俺がしといてやったよ。お前が気にすることは『全部』手配済みだ。それから、もう4時だ。学校は終わってるだろ」
暗い中と、時計のない空間にいたせいで時間の感覚がなくなっていた。ていうか、やっぱり僕が部活やってるとは思わないんだなぁ。あ、やってても関係ないのか。強引に腕を引っ張る早歩きの役所についていけず、足がもつれる。「痛いですよ」と言っても、不機嫌のせいで聞く耳持たず。
「僕、何したんだろう」と、自分が役所を酔い潰したことは露にも知らない俊太であった。
◆
聖マリアの血で創られたといわれるブラッドマリア。おそらくそれを盗むと言うことであろう、ABからの予告状が届いたのが昨日7月3日。悪戯ではないかとの見方も強かったのであるが、今日7月4日に万が一のことを考え、少数の警備を付けることが決定した。
「それにしても、なんでですかね? 上の人達ももっと警戒してもいいのに」
「そう言うな。もしこれが本当だったら、捕まってるABが偽者で、警察の面子にも関わる。『よく調べもしないでAB捕獲』みたいなことが起きかねん。調べてることよりも、一般人にとっちゃメディアの力のほうが強力だからな」
銃朗の憤慨した声を、南条が冷静に諭す。二人は今、その犯行現場となるであろうイギリス秘宝館へと来ていた。二人の他に後数人警官が来ている。今日からこの秘宝館が帰国するまで、通常の警備に加えて警官を配備することが決定したのである。
「見回り、異常ありませんでした」
話しこんでいた二人の後ろから元気な声が聞こえる。振り向くと、そこにいたのは小柄な警察官三嶋だった。今回ここに二人以外で来ている数少ない警官のうちの一人である。
「ん、よし。じゃぁお前はここで見張ってくれ」
南条はそう言って、三嶋に自分の立っていた場所を指定する。そこはブラッドマリアの置かれている部屋の入り口付近であり、隅々までその部屋が見渡せる。三嶋はその部屋の中央に堂々と置かれているブラッドマリアのケースを見て、半ば呆れたように言った。
「あのプラスチックケースは機械制御ですよね? 案外無用心じゃないですか。金庫室があるんなら、それを使えばいいですのにねぇ。よほど自信があるって事なんでしょうか、案外自分達以外にも警備がいるのかと思ったら、少なめですし」
銃朗がうんうんと頷きながらその話を聞く。
「自信があるんだよ。最新式の指紋照合装置を使ってるわけだしな。警備も少ないが一応24時間体制だ、それにABはこないと思ってるんだよ。俺達ですらまだ悪戯だと思ってる段階だしな」
南条が「そう言うな」という感じで、小さめの声で答えた。その時、後ろからスマートで品のある館長の姿が現われ、南条は愛想良く振り向き会釈をした。銃朗と三嶋もそれに倣って会釈をする。
「あっ、どうも。いやいや、すいませんね。ABはてっきり捕まったと聞いていたのですが、こんなことになりますとわな。いえいえ、警察の方々が善意でやって……うぷっ」
「どうしました」
一瞬館長の顔色がおかしく体がふらついたのに、銃朗がそれを支える。その拍子に三嶋の顔も少し歪む。
「いえ……何でも。すいま、せん。警察の方々の善意には感謝しておりますよ。もっとも、そんな心配は無用だと思うのですがね」
館長はそう言って、「ふぅう」と一息入れる。そして、前を見据えると、改めて手を差し出し、その場にいた南条、銃朗、三嶋と握手を交わした。三嶋と手が離れるかどうかの時、急に秘宝館のベルがけたたましく鳴り響いた。
「何だっ!?」
銃朗が慌てて首を激しく動かす。
「なんでしょう、はて? 誰かが火災報知器でもいじりましたかな」
「何を言ってるんです。もしかして、ABが来たのかもしれないのに」
落ち着き払っている館長に、南条が激しく叫ぶ。三嶋もそれに続けて言う。
「もしかしたら、もうブラッドマリアに何か起こっているんじゃないですか? 調べてみましょうよ」
三嶋のその言葉に館長以外の二人が頷く。けたたましくなり続けている警報音と、三人の熱い視線にせかされ館長も「わかりました」と呟き、ブラッドマリアのケースに近づく。銃朗は、高級そうなペルシャ絨毯の上を、何も起こっていないかのようにゆっくり歩く館長に苛立ちながら、その後に続く。ブラッドマリアの入ったケースの前に来て、改めてそれを目にし吸い込まれそうな美しさに警報音が耳に入らなくなる。だがそれも一瞬のことで、すぐに事態の異常さに気づく。館長はプラスチックケースの下の土台の部分をいじり、蓋のようなものを取り外す。四角く開いたその場所には、金色の土台にはめ込まれた精密機械が顔を覗かせる。いくらかのボタンと、何かを読み取るようなフィルタ、そしてカードの挿入口のような場所。館長は「見ないで頂けますか」と言って、座り込んだ姿勢でこちらに顔を向ける。それもそうだ、銃朗達は言われるままに後ろを振り向いた。暫く警報音の独特のリズムに耳を鳴らした後、突然その音が止み「いいですよ」という声を掛けられる。
「それでは開きますね」
館長はそういって、ゆっくりとプラスチックのケースを持ち上げた。プラスチック越しでしか見ていなかったブラッドマリアの本当の色が目の前に現れる。確かに、見る角度によって色が変わり、キラキラと無数にカットされた面がきらめく。しかし、その奥にはものすごい闇。そう言えばいいのだろうか。黒い、中心にいくまではものすごく透明度の高い色の配列が並んでいるのだが、中心部が光をも吸い込みそうな色をしている。まさに『ブラッド』という言葉がぴったりである。
「すごい」
銃朗だけではなく、南条もその宝石に目を奪われる。取り出した館長自身もその宝石に目を奪われているように、暫く動かなかった。
「あの、大丈夫だったんですよね? もう戻したほうがいいんじゃないですか」
三嶋が思いついたように口を開く。「あぁ、そうだそうだ」と言って、館長が宝石を丁寧に戻した時、南条がその手を止める。
「あの、どうかしましたか?」
いきなりつかまれた腕を慎重に見やりながら、その上に位置する渋い顔を見上げる。
「それ、本物ですよね?」
一瞬ぎくりとしたような顔を見せたが、「はい。もちろんですよ」と館長は笑った。
「なんだったら、検査してみたらどうですか?」
なんとなく胡散臭い。銃朗も南条の言葉に触発され、館長に詰め寄った。
「えっ! これをですか? いえ、まぁよろしいですが、今日の閉館時から明日の開館時まででお願いしますよ……まさか、刑事さん達がABなんてことはないですよね」
苦笑しながら館長は小さく眉をひそめる。
「ははは、まさか。館長さんこそABじゃないですよね? 閉館時から開館時までですか。……うむ、わかりました。では、それは結構ですので、館長さんのボディチェックだけさせてもらいますね」
それだけ言って南条がブラッドマリアを元に戻し、銃朗と三嶋がボディチェックを始める。特に変わったところはなく、もちろんすんなりとそれは終わった。
「それにしても、ダメじゃないですか? こんな風に誤作動を起こしてるようなんじゃ」
三嶋が少し小馬鹿にしたように呟く。南条と銃朗も密かにそれに頷き、館長に強い視線を送る。
「わ、わかりました。では、これからは閉館後は金庫室に保管するようにしましょう」
「それがいいですね。そのほうが我々としても警備しやすいですし」
半ば強制のような気もするが、やはり機械に頼るよりも自分達の手で守った方が信頼が置ける。それに何より、もし本当にABが来るのならば、やはりこの手で捕まえてみたい。そんな決意を胸に抱いていると、南条が「あっ、館長」と言って出て行こうとする館長を呼び止めた。
「お酒の飲みすぎは体に悪いですよ」
照れたように頭に手を回しながら、軽くお辞儀をする老紳士。少しおどおどした館長がその部屋から出て行った後、もう一度ブラッドマリアに目をやると、その奥に掛けられている時計が目に入る。あと少しで閉館時間の6時だった。
$9$ 「思いの道標」
「小路女或、年は24だ。まぁよく言やぺちゃぱい、悪く言やばばぁだ。職業っつーか、役割は情報屋だな。何でもかんでも集めてくる敵に回すと恐ろしい女だ。ついでに変装も超一流だな」
秘宝館からの帰り。愛車ビートルの中で、役所があくびを噛み殺しながら話す。
「いや、よく言っても悪く言ってもそれ悪口ですよ。しかも年齢に関係ないですし……」
「あぁ! てめぇ誰が根回ししてやってると思ってんだ。テメェの都合取り付けんのも、すげぇ苦労したんだぞ」
関係ないことを引っ張り出してきてきれ始める。どうやら、俊太が家に帰らなかったこと、学校を休んだことの言い訳が大変だったようだ。反面、その言い訳内容が大変なことになっているんじゃないか、とものすごく不安になる。
「……だって、削史さんが飲ませたんじゃないですか」
ボソリといった言葉は聞こえなかったらしく、役所は運転を続ける。そんな役所に背を向け、俊太は窓から少し顔を出して空気を吸った。煙草の臭いがしない空気はとてもおいしい。口から吐き出す息はアルコールの臭いがして気分が悪くなる。こんな状態の僕によくやらせるなぁと、役所の人使いの荒さに呆れる。
また、秘宝館での小路の行動もそれと対比して思い出される。本当に有難かった。それとなくフォローしてくれる言葉と行動が、ふらついた足元を支えるもう一つの足になってくれた気がする。情報屋。案外普通な感じがするけど、ものすごく凄いことなんだろうなぁ、と馬鹿みたいに思う。実際窓から顔を出して、口をだらしなく開けている俊太の顔は馬鹿みたい、というか馬鹿そのものであったのだが。
「……だが、まぁ誉めといてやるよ。指紋シールと、レプリカード。暗証番号は覚えとくの当たり前として、お前もなかなか慣れてきたんじゃねぇのか」
役所のいきなりの褒め言葉に車内に顔を戻すと、もわんと煙草の臭いがした。それと同時に伸びてくる右手。わしわしと強引に俊太の頭を掴む。いや、撫でているのだろうか。どちらにしても俊太にはあまり嬉しいものではない。
「レプリカードって面白いですよね。ダジャレっぽ……」
そこまで言って、撫でられていた頭をビシと小突かれる。名付け親が再び不機嫌に戻ってしまう前に、
「イカス名前ですよね」
俊太はそこそこ間の取り方が上手くなっていた。
青い空と、蒸すような風、少し湿った空気がグラウンドの土埃を巻き上げる。太陽の日差しは強くて、それで出来る日陰はほんのりと冷たい。その日陰が恋しくてぼんやりとあらぬ方向を向いていると、顔面に痛烈な衝撃が走る。それと同時に後ろに軽く吹っ飛ばされ、しりもちを着いた。
ハハハハハという笑い声が耳に届き、今が体育の時間なんだということを思い出す。このクソ暑い中グラウンドでサッカー。俊太にとってこれほどやる気の起きないことはない。しかも、ポジションは一番嫌いなゴールキーパー。どうでもよかった。どうでもよかったが、きちんとしていないと今のようになる。ひりひりと痛む顔を抑えて足元に転がるボールを味方のところへ投げる。
しかし、それは難なくパスカットされシュート。ものすごい勢いで迫ってくるボールを避けるために頭を抑えてしゃがみこむ。頭のてっぺんにシュッという風が通るのを感じると、シュルルルルというネットとボールがこすれる音。途端に聞こえる罵声の嵐。「ごめん」と呟きながらボールを拾う。顔を上げると目の前によく知る顔があった。
斉藤忠雄。「代われ」と言われて、バックの位置につかされる。「よかった。ここならあんまりボールこないや」そんなことを考えながら、バックの位置にトコトコと走る。少し動くだけでもじわっと汗がにじみ出る感じがした。試合の流れにそって暫く走り回った後、衝撃的なことが起こる。
ボールがまわってきた。
その事実は確かなもので、しかしただの偶然であり、誰かがパスしたわけではない。でもこの試合で初めて手以外でボールを触った。もちろんそんなつかの間の充実感は、そのボールを奪おうと迫ってくる相手チームのメンバーの姿で掻き消える。ボールを持ったままかっこよくドリブルして、なんてことは出来ない。そのまま取られれば間違いなく後でひどい目にあう。そう、やるべきことは決まっている。
逃げること。
それが俊太にとって出来る精一杯のテクニック。ぐるりと周りを見渡して的確なパスルートを探す。時間にしてほんの1秒足らずの間にその目は、一人のがら空きの味方を見つけ出す。マークはおらず、誰も気づいていない。俊太はそこにすばやくボールをキックした。驚くほど正確に、たぶんまぐれであるがボールはまっすぐ気持ちよい速さで相手チームの穴を突き抜け、一人のフォワードの位置まで到達する。
はずだった。しかし無常にも、ボールは気づかれることなくフォワードを通り越し、その先の相手へと辿り着く。
――気づいてなかった……
相手も気づいていなかったが、味方も気づいていなかった。まさか俊太がそんなうまいことをやるとは思っていなかったのである。結果的にそのパスミスから1点が入り、そのまま試合は終了する。言うまでもなく、そのパスミスは俊太のせいになり、後でメンバー中から貶されるのであるが、俊太は少し自信を持つことが出来た試合に満足していた。
◆
けらけらと笑う声が耳に届く。視線の先にあるのは、男子達が一生懸命にサッカーをしている光景。外よりも空気が篭って蒸すような暑さの中、体育館でのダンスの練習。丁度今は休憩時間で、紀陽美奈は友達数人とその光景を見つめていた。大きく開いた体育館のドアから涼しい風が入ってくる。この暑い中よくやるなぁと思うが、そう思う反面、美奈はその光景が大好きだった。
何かを一生懸命にやっている子。それを見ると普段何も思わない相手にでもきゅんとなってしまう。きゅんとなってしまうなんてことは、古いかもしれないがそうなってしまうのだから仕方がない。何かを得意げに話したり、熱っぽく語る仕草は憧れるし、素敵だと思う。その人にしか出来ないこと―たとえそれが不可能でも―を自信満々にやる人が、美奈は好き「だった」。
「超キモ〜イ。ね、美奈も見てみなよ。ほらほら、あいつなんもしないで突っ立てるだけ。」
晴海が指した先にいたのはクラスの癌で、ブルマ泥棒。風野俊太だった。ゴールポストにもたれかかるようにして空を向いている。全くやる気なしという感じだ。
「きゃはは、見てみ見てみ。ほらほら、ものっすっごい馬鹿な顔してる〜」
そう言って甲高く笑う晴海と冬香。美奈もその二人の笑い声に乗っかる感じで「ほんと〜」と笑った。目を細めて笑うその先で、上しか見ていなかった俊太の顔面に黒と白のボールが激突する。その瞬間、小さく「あっ」と言ってしまった自分に気づく。
「馬鹿じゃないの〜。あっ、ほら美奈、美奈。斉藤超優しくない?」
斉藤のことを好きな冬香が「きゃー」と言いながら肩をばしばしと叩く。斉藤が俊太とポジションチェンジをしているようだ。どうやら俊太はバックの位置に、
自分の目が俊太を追っていたことに気づくまで数秒かかった。焦って「斉藤斉藤」などと、意味のわからない言葉を連呼する。しかし冬香はそれに乗っかり、「斉藤最高」とリズムを刻み始めた。とりあえず、変な疑いをかけられずによかった。
「そう思うのもなんかおかしいけど」、美奈はそんなことを思いながら立ち上がる。
悲しいかな。
俊太が奇跡のパスをするのを見る前に、美奈達はダンスの練習にもどっていった。
◆
銃朗の隣で大あくびをしている男が一人。これでも一応警部であり、今回のここの総括責任者。責任者は大層眠たそうに目をこすり、モニターを見ている。ずっと座りっぱなしでも流石にこれは疲れる。銃朗は先程まで見張りの役であったからそんなこともないが、この大量の監視カメラの映像をチェックするのは流石に至難の業である。
「あ〜いいなぁ、ちくしょい。……ちょっと寝ていいよな。むしろ寝ないとダメだと思うぞ」
南条は立ち上がり、体中をバキバキといわせる。モニタールームにいるのは4人。警備員二人と、銃朗達警官のうち2名が見はっている。(もっとも、南条は常にモニタールームなのだが)
「はいはい、どうぞ寝てくださいよ。南条さんに倒れられたらそれこそ大変ですからね」
銃朗はそう言ってベッドへと歩いていく南条に手を振る。
「そういや三嶋どこ行った? あいつ、おらんようだが」
ベッドに滑り込むように入りながら、南条が思いついたように言う。
「えと、確か今日は……あいつここ当番じゃないです。代わりのやつが来てますよ」
「何! どういうことだ?」
南条が聞いてないぞという表情でベッドから起き上がり、こちらを見る。
「いや、ダメですよ南条さんは。総括責任者なんですから。そもそも三嶋や俺はまだ代わりが幾らでもいますからね。南条さんは、この事件自ら志願したわけですし、警部クラスじゃ他に誰も手が空いてないんですよ」
「あーそうか。残念。ちっとはまともに寝れると思ったんだがな。西部もあんまり気ぃ張りすぎんなよ」
そう言いながらも、声は笑っている。他の警部はこんな悪戯事件には見向きもしない。何の証拠もない不確かなことだけが確かな予告状。そんなものに割いている時間はないのだ。もう既にABは捕まっている。それが事実であり、それ以上もそれ以下もない。その後でもし事件が起ころうとも、その後で考えればよく、自分には何も関係ないことなのである。
しかし、南条は違う。それほど大層なことを考えているわけではない。おそらく楽しんでいるのだと思うが、それでもABからの不確かな予告状を受け、それが真実である可能性を考慮し、出来る限りの警備をする。それが当たり前で、決定事項に理由などない。「誰かが何かをしてくれる、なんて何の面白みもかんじん」。そう言う南条だからこその取り組みなのだろう。変わっている、と言えば変わっているし、当然といえば当然。
銃朗自身も交代できる身でありながら、それをせず、南条とともに警備についているのは、そういった思いがあるからなのかもしれない。
◆
「こんにちは〜」
ものすごく小さい声で囁いてドアをトントンと叩く男の子。しばらく待っていると、ガラッとドアが開いて、隣の男の子よりもさらに小さな顔が二つ現われた。その可愛い笑顔に小路も思わず顔がほころぶ。
「あ〜ABさんだぁ」
キャッキャと子供独特の高い声で二人を迎えたのは、紀陽奈留と優治。紀陽美奈という少女の妹と弟であり、今回の依頼者でもある。美奈という少女はまだ帰っていないのだろうか、姿が見えない。
「いや、だから僕は俊太兄ちゃんだって」
「この人誰〜?」
俊太の言葉を無視して優治が口走ったのを、奈留が人差し指をたて「しーっ」と言う。最近の子達はませてるのかしら? ふふっと小悪魔っぽい笑みを口元に湛えて「こんにちは」と挨拶する。
「「こんにちは〜」」
元気いっぱいに奈留と優冶は答え、笑みを絶やさない。
「はい、こんにちは。今日はね、ちょっとお話聞きたくて来たんだ。お姉ちゃん達おうちに上げてくれるかな?」
何やら少しだけ相談するような素振りを見せたので、俊太の腕を掴んで頭を俊太に引っ付ける。「うわっ」という声こそ立てなかったが、明らかに動揺していた俊太の動きが妙に可愛らしく、必要以上に頭を擦り付けてやった。その様子を見て、奈留と優治がにまっと笑い、家の中へと手招きする。がちがちと微妙に震えている俊太を引っ張り、小路は中に入った。
通された長屋の中は思っていたよりも狭くて、少々面食らう。こんなところで未成年の子供3人が生活しているのか。確かにガスも通っており、電気もある、水道も使えるようだ。しかし、幾らなんでも。そう思ってしまうのは、自分の生活と比べているからなのだ、と小路は少し反省する。
「はーい。どうぞ」
小さな丸いお盆にコップを二つ乗せて持ってくる。その後ろから優治がオレンジジュースを出しているのが目に入った。こんなに小さいのにしっかりとおもてなしをしてくれるのね、ありがとう。心の中でそう呟いて、よたよたとしている奈留からお盆を受け取る。
「ごめんね〜。いいのよそんなに気を遣わなくて」
「お兄ちゃん達、ここに来る前にジュース飲んできちゃってお腹いっぱいなんだ。だから、二人で飲むといいよ」
小路の言おうとしたことを、俊太が受け継いだ。その行動に、「最近の子供って可愛いなぁ」と思う。
――削史は別だけど……
二人は「なぁんだ」、と言ってコップに注いだオレンジジュースに口を付ける。小路が「おいしい?」と聞くと、ただ笑顔で頷いた。やはり、これが子供のあり方だと思う。変に気を遣って、気を回して、我慢して。そんなのは大人になってからやればいい。ただ純粋に、おいしいものをおいしいとそう言うだけでこの子達の存在価値はあるのだ。
「ねぇ〜、質問って何〜?」
俊太と奈留と優冶の談笑をほほえましく見ていると、奈留が思い出したように聞いてきた。その言葉を受けて、小路がさらに笑みを浮かべる。
「よし、それじゃ質問タイムいってみよっか」
なぜかワーイと喜ぶ二人に、より一層愛着がわいた。
◆
「ははっは、いい感じに進んでるぜ。あいつもそれなりに出来そうだ」
薄暗い室内で響く笑い声。
「予定はどうなってる?」
薄暗く怪しい室内で、それにふさわしい声色が笑い声に混じる。
「ん〜、とりあえず『警官は金庫室に釘付け状態』は成功したし、メアリーの情報通り警察の動きも把握できる。そもそもあいつは潜り込んでるから事件当日の働きがもっともでかいんだが、その点は心配ないな。俺もちょちょいと手を加えるし。……それよりも、大体なんでこんなまわりくどい事したんだよ。海さんがやれば速攻なんじゃねぇか」
「いいんだよこれで。俺が捕まったらヤバイだろうが」
――なんであんたが捕まるんだよ
ふぅ〜と煙草の煙を吐き出し、親仁はそう漏らす。役所はその言葉が腑に落ちないという感じで尋ねる。
「あのガキになんかあんのか? 別に深く聞く気はねぇけど……」
「じゃぁ聞くな」
そう言って笑い、少しだけ続けた。
「ま、しいて言えば『変化を求めて』かな?」
「何だよそれ」
不満そうにそう漏らす役所に親仁はフンと鼻で笑った。
シーウィスタリアを出て、役所は愛車の中で煙草をふかしていた。両手を頭の後ろにやって足を投げ出す。愛車といっても綺麗にしているわけではない。元来綺麗好きではないし、細かいことにも気にしない。だが愛着があるものにはひつこくこだわる。役所の乗っている愛車は、旧型のビートル。昔からこういう車が好きだった。でかくはないが、小回りが効く。人間にしてもそうだ。でかくて頭が切れないやつより、小さくて頭の切れるやつ。役どころはそういうやつが好きだ。傷まみれで、車の中は煙草臭く、もっと車を大事にしろという者もいる。
しかし、役所にしてみればこれほど大切にしている車はない。なにせ愛車だ。どこへ行くにもこれで移動し、多少の傷ならば下手糞でも自分で治してやる。それが役所の親心で、それ故でこぼこのビートルは誇らしくもあった。
趣味は創作。顔に似合わず轆轤を回して、器を焼いたりするのが好きだったりする。わいわいと騒ぐことも好きであるが、一人で何かに集中しているのも好きであるし、得意である。
役所は助手席に置いてある深く濃い赤色をした水晶球に目をやった。否、水晶球ではない。ラグビーボール型の水晶の固まり。少し手を加えて赤い色を付けた。役所はおもむろにそれを手に取ると、細かくカットされた表面を見る。しんどい作業だったなぁ。そんなことを思うも、その出来栄えに感心する。どこから『見て』もブラッドマリア。まぁ調べられたら一発なわけだが、柄にもなくそんなことを思って苦笑する。今日を入れて2日後、この本物を直に手にとって十分眺められる。
「俺のこいつはどれぐらい人を魅了できるかな」、手に取った自信作をゆっくりと助手席に戻した。
$10$ 「予定通り?」
7月4日に隣の男に連れてこられてから、2日ぶり。俊太はイギリス秘宝館の駐車場、一台の車の中で役所と一緒に時間を待っていた。ついにやってきた秘宝館来日最後の日、それはつまりAB復活の日であり、俊太にとって人生の分岐点となるであろう日であった。車の中で震える息を吐き出し、吸い込む。吸い込みすぎてむせ返る咳の音が、静かな車内に緊張感を持って響き渡った。座席を倒し、眠ったように何も言わない役所。ここに来るまでにも、前日にも散々言われてきたことが頭をよぎる。「もう覚えましたよ」、何度も口うるさく作戦内容を話す役所に何度そう言おうと思ったかわからない。だがやはり、今となってはもう一度それを言って欲しいとも思う。
何も音のない、窓の外は闇が立ち込めているこの空間で黙っているのは、途方もなく俊太の緊張感をあおった。時刻は9時少し前。閉館後3時間がたち、客はもちろんいなくなり、警備のものにも少し疲れが見え始める頃合い。役所がむくりと起き上がり、俊太に小さなリュックを手渡す。それを受け取って、助手席のドアを開けると、ばしんと背中を叩くように押された。痛くない背中の衝撃に振り返ると、サングラスをかけた男が運転席で寝ているのが目に入る。なぜか礼をしたい気持ちになって、軽く首を倒し、歩き始めた。
――とりあえず、侵入は上からだ
全身黒ずくめのタイトな服装に身を包んだ俊太が、もとい、新人ABが動き始める。
そして俊太がビートルを出て数分後、車の中には誰の姿もない。
もう一つの計画も動き始めたのを、俊太は知らない。
◆
ラスト一日。今日が終われば、結局ABの予告状は悪戯で片付けられ、自分達の仕事は骨折り損で終わる。銃朗は何も変化の起こらなかったこの4日間、いや、今日で公開も終わってしまったのだから、5日間といってもいいかもしれない。その何事もなく平和に過ぎた5日間に少し不満を持つ。やはり、心のどこかではABが現われるのを楽しみにしていた。もちろんブラッドマリアを初めとしたその他の高級な宝石を奪われては、警察としての信用はがた落ちなのであるが、銃朗個人的にはABが現われる方が何よりも魅力的に思えた。そんなことを考えながら、これじゃ警察官失格だなと苦笑する。
「三嶋、どう思う? やっぱりあれは悪戯だったと思わねぇか」
モニターを見つめる三嶋がこちらに顔を向け、笑う。
「どうですかね。まだわからないですよ、でも悪戯だったら『いい』ですね」
銃朗も監視カメラのモニターに眼を戻し、その皮肉にははっと笑う。悪戯だったら『いい』、悪戯じゃないことを密かに願う自分としては、複雑な言葉だ。
モニター室にいるのは銃朗の他に警備員2名と、三嶋。それほど大きくないこの部屋に大量のモニターテレビが設置されており、長時間座って見続けていると目がちかちかしてくる。比較的大型のテレビに4分割された映像。それが7台。つまり、監視カメラは計28台あるということだ。
「はは、南条さんあくびしてるよ」
金庫室の前が映されたモニターに南条と、鳳という刑事が立っているのが見える。普通ここで監視しているのが南条のはずなのであるが、この4日間あまりにモニターを見すぎたため疲れたと言って、今日は見張りをかってでたのである。エントランス、トイレ、部屋A、部屋B、メインルーム。そのどれもに警官と警備員の姿が映り、いかにも大切なものを守ってますという印象を受ける。
「ん? あれ、どうかしたのかな?」
三嶋が不審そうな声を上げたので、ついに来たのかと銃朗も身を乗り出す。
「いや、金庫室の前」
三島に指差されたモニターに目をやると、南条、鳳、そして館長がいた。何やら話し込んでいるようで、時々大きく腕を開いたり閉じたりしている。
「なんかあったかな?」
銃朗がそう言うと、画面の中の三人がますます熱が入ったように話し始める。暫くすると、館長が怒っているかのように、一方的に南条達に叫んでいるようにも見えた。
「行ってきたほうがよくないですか? 僕ここで見てるんで」
「ん、そうだな。じゃあちょっと行ってくるわ」
そう言って銃朗は立ち上がり、モニター室を出て行った。
――け・い・さ・ん・ど・お・り☆
三嶋はにやりと微笑むと立ち上がり、警備員の二人の方へと歩み寄る。
――片方は甘党、もう片方はヘビースモーカー
ポケットに吸いかけの煙草ケースを潜め、逆に袋入りチョコレートを取り出しそれを机の上に出す。いきなり近づいてきた三嶋に多少驚きはしたものの、この4日間の間に大分仲良くなった。三嶋がチョコレートの袋を開けて、ざらざらした包みのチョコを口にほおばる。羨ましそうな顔をした甘党に、さらっとした包みのチョコレートを手渡し微笑む。もう片方の男にもさらっとしたチョコレートを差し出すが、「いやありがとう」と言って断る。それもそうで、煙草を吸いながらチョコを食べるなどよほどの味覚音痴だと思う。取り出したチョコレートの包みをやはり甘党に渡すと、吸い終わった煙草を灰皿に押し付け、ヘビースモーカーが煙草を吸おうとポケットをまさぐった。瞬間、待ってましたとばかりにポケットから同銘柄の煙草を取り出す。「どうぞ」と開いた煙草ケースを振ると、その入り口から何本かの無料の煙草が現われる。もちろんヘビースモーカーは「悪いね」と言ってそれを受け取り、実においしそうにその煙を呑む。
――睡眠作用があるとも知らずに。所詮は雇われの身ね
二人にそれらの「処置」を施した後、再びモニターを見つめる。依然として館長は抗議しており、一向に止めようとしない。
――何やってんのよ、馬鹿ね
別のモニターに銃朗の姿が映った。どうやら、もうすぐ口論場所に着く。こちらでは甘党が3つ目のチョコレートを口にほおばった。
――早くっ!
声に出せない焦りを感じながら、モニターを見つめる。銃朗はゆっくりとだが確実に歩を進め、後2回角を曲がれば着くというところまで来ていた。早く、早く。いくら思ってもモニターの向こうにいる人間に思いが伝わるはずもなく。いやな汗が背中を流れる。
ガタンッ!
突然の音に驚いて隣を見ると、警備員の二人が机に突っ伏せるように倒れていた。
――おやすみなさい
心の中で囁き、再びモニターに目を戻す。銃朗が最後の角を曲がるところが真っ先に目に入った。角を曲がってその姿が消える。そして隣のモニター、その4分割された画面の中。口論している館長と南条達の間に銃朗が、
入っていかなかった。銃朗がたどり着いた時には、館長の姿はなく南条達がぼりぼりと頭を掻いている映像が映っていた。
――まったく……
三嶋は少し頬を膨らませて、モニターのスイッチを録画テープに切り替える。一息ついてさらっとした包みのチョコレートを口に入れる。甘党が手を伸ばした理由も分かる気がする。ふふっと微笑み、三嶋はきつい首元のネクタイを外して、モニタールームを後にした。
――お仕事終わりっと
◆
秘宝館の屋上。夏の風がビュウと吹き、柔らかい髪の毛を撫でていく。普段からビルの屋上やマンションの屋上に無理やり登っていた俊太にとっては特に造作もないことだった。ないことだったが、それだけで心臓がバクバクする。
――屋上に着いたら鍵のかかった扉があるからそれを開けて、入り込め
簡単に言ってくれる。秘宝館内部に比べて狭い屋上をそそくさと走りぬけ、小さな扉の前に立つ。大人では腰をかがめねば入れない大きさである。いや、よもすると体の大きな人間では通ることができないだろう。俊太も腰をかがめて少し「大人」を実感する。ポケットに潜ませていたネクタイピンを少しいじり形を変える。指が震える。誰かが見ているのではないか。扉の中に誰かが入っているのではないか。ありもしない妄想が頭の中ではじける。
――ピッキングはできるらしいが、お前の腕じゃまだまだだ
取り出したネクタイピンともう一つ。通常ならネクタイピンしか使わない俊太だが、役所に言われた通り、ポケットに入っているもう一つの針金も取り出し両手にそれを構えた。ここ数日の間に少しだけ教えてもらった。もっとも、少しで済んだのは俊太の筋がよかったからで、役所がそれを少しだけ不満そうに見ていたのを俊太は知らない。二本の捻じ曲がった針を鍵穴に突っ込んでかちゃかちゃとせわしなく動かす。
カチリ
気持ちのいい音を立てて何かが外れる感触が、手袋越しに伝わる。俊太は深呼吸して針金とネクタイピンを元に戻し、ドアノブに手をかけた。ぐるっと回す。回ったら音が立たないようにゆっくりと引っ張り、中に入り込んだ。扉を閉めると、中は真っ暗で何も見えないことに気づく。頭につけていた暗視ゴーグルを装着し、スーパーマン気分を味わった後、赤ん坊の動きで移動し始める。蒸し暑さのせいか、緊張のせいか、鼻の頭を一筋の汗が伝った。
――狭い通路だが配管に沿っていけば、途中で換気扇がある。そこを取り外して中に入れ
役所に言われた通り、配管に沿ってはいはいを続ける。埃っぽい空気のせいで何度も咳き込みたくなるのを我慢しながら、俊太は進んだ。ごつごつした地面が手袋越しに伝わってくる。暫くそうして進むと床から光が差し込んでいるのが視界に入った。換気扇の部分から明かりが漏れ出している。リュックを下ろし、中からドライバーを取り出す。慎重に音を立てずにそれを外し、換気扇のファンを取り外す。「ここでいいんだよね」、少し不安に思いながらもその場に座り込み深呼吸。
――通気管にこの粉を乗せて流せ
ポケットに入っていたものすごくさらさらの粉を取り出す。これって片栗粉よりさらさらだよなぁ。一度触らせてもらい、あまりの感触のよさに小躍りして喜んだのを覚えている。極微細な粒子、反面超強力な催眠剤。通気管の蓋の部分をゴーグルと手探りで探り当て、ぱかっと開く。ゴミが入らないように網目状になっているが、全く持って問題はない。俊太は粉が入った袋(病院で貰うような)をびりっと破き、自分も吸い込まないようにそこに流し込む。とりあえずそこまで。
――そこまでやったら、俺からの連絡を待て
指示通り役所の連絡を待つ。暫くの沈黙。
下では誰かがいるのかな。役所さんはどうやって僕に連絡するんだろう。今になって詳しい連絡方法を聞いてなかったことに気づく。説明を受けた時、あまりにもしっかりとして、意見は受け付けないとというかたくなな態度だった役所。あぁそうだ。あの時確かにちょっとだけ疑問に思ってたの忘れてた。つまるところどうするべきか。このまま一旦帰る? それはできない。そんなことをすれば、計画が台無しだとこっぴどく叱られる。散々考えた挙句、背中のリュックのことを思い出す。もしかしたらこの中に? そう思ってリュックを下ろそうと、
自分の真下がかすかに振動していることに気づく。思い出される役所の言葉。
――もしも、
振動は大きくなり、騒がしさを増し始める。
――何か、騒動が起きた場合は、
どたどたと走る音、何かを叫ぶ声。
――連絡がなくても作戦実行だ
騒がしさを増す地面に寝そべって、換気扇の網から顔を覗かせる。誰もいない。ゆっくりと網を外して、顔を出していく。誰もいない。監視カメラだけがこちらを向いているが、部屋をぐるりと見回しても確かに誰もいない。監視カメラには顔がばれてもいい。手は打ってあるといっていたから(それに一応邪魔にならない程度の変装はしている)。部屋の中心に煌々と輝くブラッドマリア。するりと部屋に降り立つと、俊太は腰をかがめてそこまで移動した。そろりそろりと顔を上げ、もう一度確認。先程は見えなかったが。入り口付近に二人の警備員が壁にもたれかかるように倒れているのが見えた。おそらく外側では警官も倒れているのだろう。大きな足が入り口の外で横たわっているようなっているのが見えた。
頭を引っ込め、土台の部分を慣れた感じで開く。ぱかっといういい音を立てて開くとそこに現われるのは、カードの差込口と0から9までのボタン、そして指紋照合フィルタだった。震える指が外したカバーを取り落としそうになり慌てる。
――これに関しては問題ないな。そもそも、一回おまえ自身でやってるんだから
ぽちぽちぽちと順に一つずつ、確かめながら押していく。
『0・6・4・2・8・2・1・5・7・9・7・9・3・9〜』
何桁あるんだという莫大な数の暗証番号。それを打ち終わると、今度はカード。ここからはそれほど問題ない。7月4日、警察官2名の前で堂々と(?)演じきったように、一つ一つのロックを外していく(ついでに警報装置も)。情報屋というのは本当にすごい。どうやってこの暗証番号やら、レプリカードの情報やらを取り出したのだろう。今考えて答えが出るわけではないが、何かしら考えていないと恐怖で押しつぶされそうだった。
……ウィーン
突然聞こえた音に、髪の毛が逆立った気がした。これでもかというほど静かな室内に、セキュリティーロック解除の機械音は、ものすごく大きく聞こえた。「さすが最高セキュリティー。この音だけで失神しそうだったよ」、などと呆れるほどヘタレなことをかっこよさげに呟いてみる。ゆっくりと立ち上がり入り口を見る。誰もいない。いるのは倒れた警備員だけ。
――ロックを外したら迷わずブラッドマリアをリュックに詰めろ。それで任務完了だ
リュックのチャックを開き、同じ形のスペアブラッド(役所作)を確認する。これをここに置いていくのに何の意味があるんだろう。
役所の趣味など全く理解できない俊太。それを貶す役所。
『いいか。男には自分の中でゆずれねぇもんがあるんだよ。例えそれが他人から見たらどうしようもないことでもな』
『あんたのはホントに意味わかんないわ』
『るせーんだよババア。テメエに言ってんじゃねぇ』
『ほほぉ、そんなにさらし者にされたいの』
役所と小路の口論がフラッシュバックする。そもそもあの時はなんでけんかになったんだろう。お互いに口が悪いからなぁ。そんなことを考える自分。少し前までは味わえなかった気分。仲間って、いいなぁ。
それを丁重にわきに添えながら、俊太がブラッドマリアに手を伸ばした
時、先程まで遠くでしていたどたどたという音が、そこまで近づいていたのに気づく。「ブラッドマリア!」「ABだ!」、そう叫ぶ声にびびった。それが本音。気づくと俊太は、開いた強化プラスティックをそのままにダッシュで換気扇に戻ってきていた。ファンも戻して、いったんその場から現場を確認する。とりあえずリュックは持ってきたが、プラスティックケースを開けたままにしたのはまずかった。
『どうしよう……』
そんな思いだけが俊太の心の中で渦巻く。渦巻く不安の先で見えるのは、数人の警官が息を切らしてブラッドマリアのケースに近づく様子。息を呑む。いやな汗が額に滲み出た。そのケースが開いていることに驚嘆し、何やら小言で騒ぎ始めるのもすぐだった。警官と一緒にいた館長がブラッドマリアを持ち上げ、それを大事そうに抱えもう一度何かを言っている。目を見張った。
もちろんそうすることは当然の行動で、そうしないのは「そうしてほしくない」という俊太の願望の中の話だった。空のケースを閉めて立ち去る。
――失敗
取り返しのつかないミスを犯して、しかしどうすることも出来ず、俊太は狭い通路をすごすごと戻った。リュックの中で、本来あるはずだった本物。その代わりのスペアがごろりと背中を転げた。
◆
金庫室の前、厳重なロックのかかったその扉の前に二人の警官がいる。南条と鳳という警官二名。南条というほうは警部であり、今回のこのAB予告状疑惑の総括責任者と聞いている。それがなぜここにいるのかは特に問題ではない。むしろこちらにいてくれたほうが都合がいいかもしれない。さて、何と声をかけようか。
「おや、刑事さん達。これはこれは、ご苦労様です」
当たり障りのない挨拶が薄暗い照明の下で光る。男は目じりに皺を寄せて、にこやかに警官の表情を窺う。
「いえ、これも仕事ですから」
鳳という警官が真面目そうに敬礼して言った。背筋がぴんとしていて、いささかの疲れも見えない。否、見えないようにしているだけだろう。退屈以外のなんでもない立ち仕事、『見張り』などという古めかしいものにまともに取り組んでいては気が滅入る。隣に立っている男がその良い例だ。まぁもっとも、その男のせいで鳳という警官は幾分緊張しているのかもしれないが。
「今日で最後ですしね。館長さんも見回りをしていらっしゃるのですか?」
目にたまった液体を拭うようにして、その男南条が語りかける。鳳とは打って変わって気の抜き方を知っている。それとなく脱力した感はあるが、気は張っている。状況把握力も、下のものを指揮する能力も高そうな男。しかし、それだけ。ただそれだけだ。
「まぁ、そんなところですかね。今日で公開を終えて、明日中に荷物をまとめて帰るのですが……、忘れ物などあると困りますしね」
ははは、と小気味よく笑い周囲の気配を探る。監視カメラはまだ正常に動いている。
「それはそうと。刑事さん達はどうしてこんなところで見張りをしていらっしゃるのかな? まぁ、私がそのようなことに口を挿むのはおかしいのかもしれないのですが」
「いや、どうして? とは。館長さんにも了承は取ったではないですか。我々は金庫室を重点的に見張ると」
薄暗がりの中、南条は訝しげな視線を館長に投げかける。館長は何を言っているのかわからない、という感じで首をかしげた。
「はぁ、ですが……刑事さん達の目的はブラッドマリアを守ることなんじゃないんですか」
さらにわからないという感じで大きく腕を広げてみせる。鳳が不思議そうな目で館長を一瞥し、そして南条に目を向けた。この人は何を言っているのか。おそらくそんなことを思っているのだろう。南条はその館長の様子を見て少し強めの口調で言う。
「いや、だから守ってるんじゃないですか。何を言ってらっしゃるのか、いまいちよくわからないのですが」
ひっそりと、しかし確かに館長の口元が緩むが、それはモニターを通して見ている者にも、目の前にいる南条達にも、誰にも気づかれない程度の笑み。暗く薄い、何かを捕まえた時のような、そんな笑み。
「なるほど。やはりそうですよね。刑事さん達の目的はブラッドマリアを守ることだ、と聞いて安心しました。ですが、やはり……ではなぜここを守っていらっしゃるのですか?」
「なぜって、あなたが閉館後はここにブラッドマリアを保管するといったのではないですか。覚えていらっしゃらないので」
まわりくどい言い方をする館長に、半ば腹立たしげに南条が漏らす。腹立たしげに言うのであれば、こちらもそれ相応に。しかし紳士らしく、かつ老体らしく。館長も南条の言葉に不信感を募らせて答える。完璧に形成された強い声。老人の声であり、若干の冷静さを持った声が薄暗い廊下で軽く反響する。
「覚えていらっしゃらないので? などと。私はそんなこと言った覚えはありませんよ! なぜ私がそんなことをするのですか。今回の来日用に『特別』に作らせた高性能セキュリティー、最新式の指紋照合システムも用いているのですよ。それを使わずに金庫室に保管するなど……」
初めは強く、しかし徐々にその声は力をなくしていく。確か音楽用語であった。デクレシェンドだったか?
「いえ、ですが。その高性能セキュリティーが誤作動を起こしたんじゃないですか? それも覚えていらっしゃらないので」
冷静にそう言う南条の姿に、しばし考え込む振りをする。まだ足音も気配もない。監視カメラは依然として作動中。
――ババァやる気あんのか、クソッ
「……すいません。熱くなってしまいました。……そうですか、私が覚えていないだけなのかもしれませんね。確かに最近物忘れをすることもありますし……」
カツカツカツと足音が徐々に聞こえ始める。おそらくこの二人には聞こえていないだろう。それにしか集中していなければけして聞き取れない。しかも夜の闇で鳴く少しの鳥の声と、風の音がするこの空間では。館長はもう一度監視カメラに目をやり、金庫室の天井を見上げた。やはりここには通気口がない。まぁわかっていたことであるから驚くことではないが。そんな館長を、南条と鳳は困った老人を見るように見つめる。
「……そうですね。わかりました。確かめるためにも金庫室の鍵を持ってまいります。では……」
いい加減足音も近づいてきたのでそう言って踵を返す。足音がしない方の廊下を選び、そちらに歩を進める。監視カメラが今ようやく点滅した。
――あっ、のボケ! 今頃切りやがった
金庫室の前に戻ると、そこにいたのは西部という刑事だった。モニタールームで見ていたちょっとしたいざこざが気になり、来てみたということらしい。全て計算どおり。
「では、開けてみますね」
もったいぶった言葉を吐き捨て、鍵穴に大きめの鍵を差し込む。ジャラリとたくさんの鍵がついたそれが扉に当たって、鉄と鉄が当たる音がした。慎重に鍵を回してそこを開くと、厳重なダイヤル式の扉。館長は慎重にそれを回して、重々しく扉を開いた。
扉を開いた瞬間に明るい光が天井から差し込む。どうやら扉が開くと同時に電気がつくようになっているらしい。6畳ほどの大きさの部屋に、小型の金庫のようなロッカーのようなものが置かれた棚。たくさんの戸棚がはめ込まれ、その一つ一つに小さなラベルが貼られている。その一つにブラッドマリアと書かれたラベル。館長はそのラベルの貼られた戸棚に手をかけ、今度はポケットから小さな鍵を取り出した。
「本当はブラッドマリアもここに保管するはずだったのですがね。あれが完成しましたので、この棚は作ったが使わないということになったんです」
館長が「これが悪いということではないのですがね」と呟いてから、戸棚を引き出した。
「やはり、ないですよ。ほら、私は嘘を……」
そこまで言って館長以外の全員が飛び上がる。ようやくここで、あの時の館長が偽者だったと気づいたのだ。保管されていると思っていた場所にそれはなく。つまりは、閉館後偽物としておかれていたブラッドマリアは本物であって、館長は何もしていない。となれば、あの時の館長は、
「AB!」
――それじゃ、今の館長は?
館長の口元がかすかに震える。
「AB!」そう叫んだ言葉とともに駆け出した南条、西部に続いて、館長もその場を出る。金庫室の見張りとして残された鳳が、全てのロックを元に戻して走り去った館長の姿に違和感を覚えたのは気のせいではない。
あまりにも早く、物忘れのひどい老人の走り方とは思えないほどしっかりしていたためである。
◆
メインルームに走りこんで開口一番警備員、および警官が倒れているのを見て叫ぶ。次に、ケースが開かれているのを見て叫ぶ。
「くそ、やっぱりか!」
そんな銃朗に、遅れてきた南条が「よく見ろ」と声をかけ静止する。
――あれ、南条さん俺の前走ってなかったっけ?
予想通り、ブラッドマリアの置かれているケースは開いていた。しかしおかしなことに、ブラッドマリア自体は盗まれておらず、ケースが『開いているだけ』だった。どたどたとその声を聞いた他の警備員や、警官も駆けつける。若干人数が少ないのはおそらく、ここに倒れているもの同様眠らされたか何か知らされたのだろう。
「大変です! モニタールームの警備員は眠らされて、誰もいません」
「くそっ」
南条が舌打ちをして現状を聞いていると、館長が少し遅れてメインルームに入ってきた。
「おぉ、よかった。無事のようですね」
警備員を掻き分けながら強引にメインルーム中心部へと館長が顔を出す。
「警備員のことは気にならないので?」
南条が落ち着いた調子で尋ねる。銃朗はその場を離れて警備員が倒れているところ(入り口付近)へと移動する。館長と南条の細やかなやり取りが耳に残る。
「えっ、あぁ。いや、やはりそれよりも」
「まぁそうですね。それが自然な反応かもしれません」
くくっと笑った南条の声が少しくぐもっている様に聞こえたのは空耳だろう。入り口付近に移動すると、先程は走りこんできたため気づかなかったが、どこかほんのりと甘い香りがした。眠気を誘う。とろんとした目つきのままゆらゆらとしていると、後ろに立っていた誰かに腕をつかまれその場から引き離される。
何度か頭を振られ、軽くビンタも受けると次第に意識がはっきりしてきた。目の前に戻ってくる光景、壁にもたれかかって倒れている警備員、警官。腕をつかまれた警官に指差された天井の部分を見る。そもそもこんなところに警官を配備したのが間違いだったのか。根本から警備体制を否定されるような、嫌な気持ちが浮かび上がる。通気口がぽっかりと口をあいていた。
この穴から。間違いなくそうである。苦虫を噛み潰すようなそんな気分。そんな気分が払拭される間もなく、また少し甘い香りが漂う。はっとして後ずさりし、部屋の中心部。ブラッドマリアの下へと戻る。
銃朗がブラッドマリアのところへ戻ると南条と館長がやはり話し込んでいた。
「本物、ですかね?」
「ええ、間違いありません」
手に取ったブラッドマリアをしげしげと眺め、うつろな表情の館長。しかし、その言葉には有無を言わさぬ強い意志があった。
「ですが、検査は必要でしょう」
南条にそう言われ考え込む館長。自信を持っていたこのセキュリティーが破られ、やはり気が滅入っているのだろうか。幾分辛そうな顔である。しかし、おそらくこれは本物。きっと今回はABといえどセキュリティーを解除するのが手一杯であったのだろう。それに時間がかかったため、我々がここに来るまでに盗むことができなかった。ABを捕らえることこそできなかったが、今回の収穫は「やはり阿部はABでなかった」、「AB初の失敗」それだけで十分である。
「……ええ、そうですね。では早急にお願い致します」
そう言うと館長は悩んだ割には簡単に南条にブラッドマリアを渡した。否、そう見えてしまったのは銃朗があまりに気を張りすぎていたせいかもしれない。それを受け取り、南条は各巡査に指示を出す。銃朗にもこの部屋をくまなく調べろと指示が入った。南条と館長はそれだけ言うと足早にメインルームを出て、廊下を走っていく。おそらく警察本部でブラッドマリアを調べるのだろう。明日イギリスに帰る予定どうこうは関係なく、もしも偽物ならまんまとやられたことになる。
ブラッドマリアがなくなったセキュリティーをいじる。土台まで綺麗なこれはいったい幾らするのか。もしかしてブラッドマリアより高かったり? ありえないな、とその考えを一蹴する。おそらく自分では一生かかっても買えないぐらいの値段なんだろうなぁ。うむ、この考えはありえるな。そう思うと、今度はそれを一蹴できなかった自分の給料の安――
――あっ? 南条さん鍵
そう思って立ち上がり、南条が車の鍵を持っていないことに気づく。基本的に車の運転は部下の仕事なので、キーも部下が所持している。メインルームを出て、南条達を追いかける。しかし、ついに外に出るまで追いつくことは出来なかった。もしかしたら他の者からキーを受け取っていたのかもしれない。そりゃそうだ、冷静な南条さんがそんな慌てたことをするはずはない。そう思いなおして、駐車場から目を離そうとした時、おかしいことに気づいた。
「あれ? 車が、全部ある……」
もちろん車はたくさんある。しかしそう、自分達の乗ってきた車が全て欠けていない。館長が運転して行ったのか、とも思ったがその館長の車もある。
――どういう……
「南条さん! どうしたんですか!?」
鳳の大きな声が秘宝館の中から響いてきて、銃朗は思いっきりドアに駆け込んだ。
◆
――少し前、盗まれなかったブラッドマリアに西部銃朗らが安心している頃
隣にある排気管、通気管、それらに沿うようにして暗視ゴーグルをめぐらす。ズボンの膝の部分が磨り減ってるように感じた。たまに背中でごろりと転がる石が痛い。どうしよう。俊太は思う。怒られるだけではすまない。
『いや、まあいい。無事でよかったよ』、そんな事を言ってくれる人ならば苦労はしない。下手をすれば殺される。本気でそう思う。ああ見えて削史さんはいい人だ。いい人だ。いい人だ。
頭の中で反芻して思い浮かべる。削史さんはいい人だ。その度に歪んだ笑みが俊太の頭を支配する。
狭い通路を出て、体を起こす。久しぶりに足の裏で立った気がした。周りを確認し、夜空を見る。キラキラと輝く星は見えない。今日はあいにく雲が多い。ぼんやりとした夜空は俊太の頭をそのまま映しているように感じる。
立ち尽くしているだけでは始まらない。そもそも今回の自分の目的を考える。そうだった。ブラッドマリアを盗むこと。それは間違いない。だが失――
違う。役所に怒られようが、違う。目的はブラッドマリアを盗むことじゃなかった。何のために小路とともに二人を訪ねたのか。捕らわれていた。見失った目的を思い出した。
足は動き出す。体も動き出す。
そして気持ちもやっと、動き始めた。
俊太が急いで車に戻ると、そこにいたのは役所ではなく小路だった。とりあえず謝ろう。そう思っていた俊太は、ドアを開けた瞬間に「ごめんなさい」と言っていた。それを目を丸くして笑う小路。その様子に目を丸くする俊太。とりあえず車に入り込み、ドアを閉める。温まっていたエンジンがゆっくりと動き始める。
「なるほどね。そっか」
事情を話す。失敗したこと。途中まではうまくやれたこと。申し訳ないこと。それを黙って聞いてくれる小路がとても大人に見える。ある程度覚悟はしていたものの、今は役所に怒られることがなくて安心した。後で、後でなら幾らでも怒られる。だから今だけは、今はどうしても聞いて欲しいことがあった。
「すいません。でも、僕――」
「行きたいところがあるんでしょ?」
暫く車の駆動音だけが響く。情報屋というのは相手の考えを読み取ることができるのだろうか。黙り込む俊太に小路が笑って、
「ほ〜ら、どうしたの? 行きたい所あるんでしょ。あの馬鹿だったら切れて聞かなかったかもだけど。私は俊太君の事好きだからお願い聞いてあげちゃうよ〜」
冗談口調でそう言ってくれる小路に思わず顔が赤くなる。
「……ありがとうございます。それじゃあ――」
ビートルは夜の街を静かに駆ける。煙草臭い臭いが充満する車内。その臭さに小路は怒り、笑う。「失敗をして男の子は強くなるのよ」と、小路は言う。そう言って失敗ばっかりしてるやつもいるけどねと、車の持ち主を引き合いに出す。緊張をほぐそうとしてくれているのが手に取るようにわかった。それだけ俊太の気が張っていたとも言えるが。
ビートルは夜の街を静かに駆けた。ある目的地に向かって。
「本当に削史さんじゃなくて良かった」、と俊太は思った。
$11$ 「Close Down the Business」
小路さんの質問が夕暮れのさす長屋に入り込む。どんなに豪華な家でも、どんなに広い家でも、こういう景色は作れない。擦り切れた畳の上で、小さな木のテーブル。窓からさす夕日を赤い、黄色いといって笑うことができる空間。小さいからこそ意見が通じ、心が通う。人の温かさだけで部屋の温度が上がったり、下がったり。だから、この子達は強いんだと思った。
『もしも宝石が手に入ったら、願い事は何をするの? やっぱりお父さんお母さんに戻ってきて欲しいとかかな?』
奈留は黙って首を横に振る。だけど元気よく、笑って。
『じゃあ、何か欲しいものがあるとか?』
次は優治が黙って首を振った。やっぱり元気よく、笑って。
『じゃあお金が欲しいだけ?』
今度は二人同時に少しだけ頷き、奈留が口を開く。さっきよりもいっそう、元気よく、笑って。
『んとね。お金を返してね。それで、お姉ちゃんと遊ぶの』
『そう、遊ぶの! ABさんも一緒に』
優治が奈留の言葉を繰り返す。僕は『いや、だから僕は俊太兄ちゃんだから』と笑って訂正した。
ブラッドマリアである理由は全くと言っていいほどない。その価値100億といわれるブラッドマリア、そんな大げさなものでなくとも十分返せるであろう借金。ブラッドマリアに願わずにしても、十分に果たせるであろう粗末な願い。なぜブラッドマリアか? それでなければいけないのか? そう聞けば二人は「いいえ」と答えるだろう。ならばなぜ? 子供ゆえの、幼さゆえの考え。大方何かのチラシかコマーシャルでも見て思いついたのだろう。願いを叶えてくれると言われる宝石がある。それでお姉ちゃんと遊べると。
ただそれだけ。それだけの思いだから、叶えてあげようと思った。
僕は、ブラッドマリアを盗めなかった。削史さんは怒るだろう。それはもう仕方ない。そう、それは仕方ない。削史さんに怒られるぐらいの事は仕方ないで済む。でも、あの二人の願いを叶えるために、まだ自分は何かできる。何かできるなら何かする。そうしなければ何も得られないということを、ここ数日で教え込まれたから。
「俊太君、そろそろいいんじゃない?」
小路の声に意識が戻される。車内から見えるのは高いビルが乱立したオフィス街。時刻は深夜2時過ぎ。ここに連れてきてもらってから暫く時間を潰していた。流石にこの時間にもなれば、電気が点いている窓は少ない。大きな看板がビルに立て付けられ、いろいろなお店が入っているビル。やけに細長いビル。時々窓に影が映り、体操のようなことをしているのが見えるビル。残業だろう。
俊太が今から行くべき場所。そのビルの窓は全て電気が消えている。空き家も多いのだろう。そりゃそうだ。好き好んでヤクザの上下に部屋を借りようなんてお店はいないだろう。京翼金融(きょうよくきんゆう)、このビルの4階に陣取っている性質の悪い金融業者。紀陽美奈、奈留、優治達から楽しみを奪う絶対的な【悪】。そう言ってしまうのは俊太が紀陽の肩を持っているからで、そのシステムもよくわからないから。でもいい。人の楽しみを奪う、苦しめる、弱みに付け込む。そんなものはきっと【悪】でしかない。そう思うから、俊太はここにきた。
「それじゃあ、ここで待ってるね。大丈夫、さっきのところに比べれば楽勝楽勝」
小路もわかってくれているのだろう。手伝うとは言わない。俊太一人でやる。それがここに来たもう一つの目的でもあるのだから。ビートルから降りて、小路に軽くお辞儀。変装はここに来るまでにとった。風野俊太として、自信を手に入れるためにここに乗り込む。
道路は車もあまり行き交わず、街灯の弱い電気で照らされた歩道は俊太の気持ちを押しつぶそうとする。そんなくらい道をゆっくり歩いている時間も、意味もない。
――仕事はできるだけ早くしろ
今頃になって役所の言葉がまた思い出される。細いビルの階段が、埋め込まれたように口を開いている。扉も何もないそこに自然と入っていき、階段を上る。緑色の床、階段は一段一段が急で、安っぽい造りを代表しているようである。一つ飛ばしで駆け上る。目に入る2階という文字。あと2個上。上に上がっていくほどに電灯の質が悪くなっているように感じる。薄暗くなってきた足元を踏み外さないように、しかし一つ飛ばしのペースは守って、エレベーターなしに足で階段4階分を駆け上がった。
そこそこに息は切れているが、いつもと同じ。家に帰る時もこんな感じだ。窓から見える景色はやはり4階であるということを実感させる。地面が低いとかじゃない。
「夜空が、近い」
口走った言葉を隠すように慌てて口を押さえる。いつから僕はナルシストになったんだ。はっ、そうか。きっと削史さんの影響だよ。あの人くさい事平気で言うもの。
馬鹿みたいに一人でうろたえて、周りに気を配る。誰もいない。わかっていることだが、安心した。ポケットからネクタイピンを取り出す。もう一つの針金は使わない。理由はないけど、何となく。
――男には自分の中でゆずれねぇもんがあるんだよ。例えそれが他人から見たらどうしようもないことでもな
そうなのかも。役所の言っていた意味が少しわかった気がする俊太である。
使い慣れたネクタイピンを、古びた曇りガラス張りのドアノブに差し込む。カチカチカチ……カチリ。小気味良い音を立ててドアの鍵が外れる手応え。ボロマンションの非常ドアとそれほど変わらないセキュリティーに安心し、少し残念に思う。余裕というやつだろうか。監視カメラもなければ、見張りもいない。こんなところで失敗するはずはない、と湧き出ようとする油断を押し込める。失敗は、しない。
ゆっくりとドアを開いていく。曇りガラスの向こうで映っていた物陰がゆっくりとはっきりと、目の前に現れてくる。ほのかな月明かりが窓から差し込んでいて、それだけの明るさなのに妙にすっきりして見える。とりあえず探さなくてはならない。どこかに紀陽美奈、もしくは風野俊太と書かれた書類があるはずである。
高そうな黒いソファが2つ向き合うように置かれ、その間に長机が置かれた空間。そこはどうやらお客との取引用、相談用といったスペースだろうか。後は壁に沿って置かれている棚と一応規則正しく並べられている机。だがその上にはたくさんのゴミや書類がごった返していて、整っているとは言えない。一つだけ、一番奥に少し大きめの机がある。おそらく『偉い』人の机なのだろう。その机だけはさほど汚れてはいない。
この中から探す。無駄に意味のないところを探していても仕方がない。……どうしよう。早速弱気になりながら棚に近づく。何か手がかりを、そう思うまでもなく棚にはいろいろと文字が書かれていた。「ア」「イ」とそれぞれの棚にカタカナの文字が書かれたシールが張ってある。
――もしかして……
俊太は「キ」と書かれた棚を開き紀陽という名を探す。たくさんのファイルが押し込められており、そのファイルそれぞれに大量の紙が挟まれている。きくち……きのした……きもと……きよう。あった! ファイルの中身を確認すると紀陽美奈と書かれている。それをしっかりと握り締め、次は「カ」の棚を探す。かいはら……かねもと(あっ、いきすぎた)……かぜの。あった! もう完璧にここの造りを把握したような、得意げな気分になってくる。
――後はこれを持って帰るだ……
ガチャ
「あれ、なんで開いてんだ?」
一気に血の気が引く。全身の毛が逆立ったような気分。急いで棚を押し込み、2つのファイルを脇に抱えて隠れる。どうやら一人らしい。顔は見えないが、足音は聞こえる。確実に一人分、しかも近づいてくる。
コツコツコツ……
夜の静かな空気。張り詰めた空気の中で乾いた靴の音はよく響く。この棚に向かってきている。机の陰に隠れているが、このままでは見つかってしまう。俊太はゆっくり、ゆっくり音を立てずに移動する。お尻がむずむずする。
コツコツコツ……
何とか机の横側にはまわりこむことができた。おそらく相手は自分と反対側。しかし、いつこちらにまわってくるかもしれない。何せ相手は足で動いてて、こちらはお尻である。移動能力に差がありすぎる。
コツコツ
足音が止まる。右側、棚のところで止まっているのだろう。ひしひしとオーラというか、存在感を感じる。
――今しかない
俊太は必死にお尻を動かし、その場を離れる。机の反対側に回り込んで、少しだけ覗いてみる。暗さで何もわからないが、その者は何かを探しているらしく腰をかがめてこちらには気づいていない。俊太はここぞとばかりに急いで、今日何度目かのはいはいをして入り口まで移動する。もうここで振り返ってもしょうがない。飛び込むように開いたドアから飛び出て、廊下にヘッドスライディングをかました。
ササーと少しだけ砂がずれる音が鳴ったが気づかれてないことを祈る。祈って、階段を駆け下りる。ボロマンションで鍛えた3段飛び4段飛び、階段をものすごいスピードと音を立てて駆け下りてゆく。もしもあの影が棚を調べていたんならばれているかもしれない、がとりあえず、
――逃げるが勝ち
俊太は急いでビートルへと戻る。後ろは振り返らず、誰もいない道をただまっすぐ、必死に駆ける。平坦な道で、ビートルが止まっている駐車場まではそれほど距離はない。気づけば駐車場の入り口付近まで来ていた。腕が少しだるい。二つのファイルの束を抱えなおして、駐車場の奥に止めてあるビートルへと歩を進める。もしかしたら誰かが追ってきてるんじゃないか、そんなことを思う中できたという安堵感が頭をもたげてくる。
ぶるると頭を振るい「とにかくここから離れれば」と思い、俊太は急いでビートルに乗り込んだ。だがそんな俊太の胸のうち知ってか知らずか。鍵はかかってなかったが、「コーヒー買ってきます」という紙が置かれており、俊太は暫くそこでおどおどしながら待たなければいけないのであった。
◆
行き交う車のヘッドライトはまぶしく、運転手は少しだけ目を細める。結構な数が行き交う道路で、夜の道ともなれば車の区別などつかない。どれもが同じ車種で、どれもが一般的、ひいてはどれもが同じような人物が運転しているのだろうと思わせる。トラックや、暴走族はこれに含まれないが、大抵そんな感じである。そんなありきたりの車の中で、ちょっと変わった顔をした人物が、おかしな会話をして、ありえないものを運ぶ。
矛盾というモノが存在する。だからこそ普通。
「俊太は俺の言った通りの方法で侵入。そんで警備員を眠らせることにも成功した。
俊太が出て行ってから約十分後、俺が館長として侵入。金庫室前の警官と話をする。その際注意しなければいけないことは、俊太が7月4日、つまり3日前に館長として侵入した時のことを考慮すること。あの時、閉館後はブラッドマリアをセキュリティーから取り出し、金庫室に保管するといった、のは全て嘘。それによって警官は金庫室を守り、その分の警備が減る。もっとも、考えるべきなのはそういうことではなく、監視カメラの停止のため。俺が館長として侵入したことにより、金庫室の見張りは少なからず動揺する。
何せ俺は館長(俊太)が『ブラッドマリアを金庫室に保管する、ということに決定したという事を知らない』という前提だから。意見のかみ合わない館長に、警察は、もしくは俺から金庫室を開けて確かめてみようということになる。その時に見張りで重要な警官を割くわけにはいかない。ならどうするか? 一人いればせいぜい十分な場所から抽出だ。本当かどうかわからない予告状であるのだから、現場が第一だしな。
つまり、監視カメラのモニタールームの警官・警備員を何名か割くことで金庫室開閉の際の安全を保つ。ここで、三嶋という警官の名で潜入しているババァ(女或)がモニタールームに残ること。これが条件。この条件通りに三嶋(女或)はモニタールームに残り、まんまと監視カメラをオフにした。そこで金庫室を開き、数名の警官を引きつれ『金庫内にブラッドマリアがない』ということを警官に証明する。それはつまり、館長(俊太)がABであり、今目の前にいる館長を本物であると思わせるのに十分。混乱した人の頭というものはひどく純粋だ。
そしてここから、俺達がそれらの準備をしている間に俊太は見張りの警官を眠らせ俺の連絡を待つ。だがもちろん『あんた』に言われた通り、俺は俊太に連絡する道具など持たせていない。そしてその結末は俺の言ったもう一つの作戦、騒動が起こればそれに即して行動を起こせ。こちらに決定される。予想通り俊太は行動を起こした。完璧なほどに、あと少しでブラッドマリアを盗むというところ。そこで俺達が到着し、俊太の姿はない。シナリオ通り(もちろん俊太にとっては失敗)……のはずだった。後は特別に保管すると言って持ち出すか、イギリスの特別保管部隊が来るまでにすりかえればよかった……が、『あんたの登場』。いったい何を考えてんだ?」
役所は自分の作ったシナリオのメモを閉じ、顔を上げる。一気に言い終えた長台詞満足するどころか、なんならこの倍の文句を言ってやろうかという表情である。その表情が向けられる先、隣で黙ってそれを聞き、運転するはずだった車の運転をしている男へと目を向ける。そして一息、
「――……海さん」
南条という男の顔らしい。その覆面をとればその下には髭面がある。
「なんだよ? そんな難しい顔すんじゃねぇ。俺はただ暇つぶしにだな。それに俺のおかげで事が早く運べただろうが。これが俺流の計画のなんだよ」
しっかりとした男の口からは、なんとも胡散臭い声が漏れ出す。
「ったく、ふざけんなよ。人がどんだけ緻密に練り上げたと思ってんだ。大体、あんたが『やらない』つったからこうなってんだぞ。海さんがやるんなら――……あーくそっ」
役所がヒステリー気味に頭をかき乱す。
「あー、悪かった悪かった。はいごめんなさい」
そのやる気のない言葉は隣で呻き声を上げる役所の何をどうするでもなく、さらにその呻き声を増長させる結果となる。うーうー呻く役所とふぁぁと欠伸をする親仁の後ろで、ブラッドマリアがギラリと黒い輝きを放った。
◆
「おい、今日俊太だろ?」
「え? そんなこと聞くまでもないだろ。何だよ、いないのか?」
「くそ、サボりやがったなあいつ。……お〜い、今日の本当の日直誰だ〜?」
終学活が終わると同時に、消えた俊太の姿を探す生徒の姿がちらほら。今日も俊太は日直。それは俊太にとって、いつもと変わらず学校が終わるのが遅いということを意味する。理由として、掃除場所の一括負担、それプラス日直の仕事が重なってくるからである。つまり、終学活同時に消えた俊太は、今日初めて掃除もサボったのである。(いや、まあ今週は掃除当番ではないのだが……)
「あのやろ〜。明日からは学活後見のがさねぇようにしないとな」
ポツリと呟くのは今日の日直の斉藤だった。
ガタガタ。もう一度やってみる。ガタガタ。わかっている。大分前にこの文字は体感したから。幾ら英語が嫌いでも、これぐらいの初歩的単語なら覚えている。それにも関わらずこうして腕を動かしてしまうのは、その場所にいたいから。居心地がいい。特に最近そう思うようになった。
『Close Down the Business』
最初の文字はわかるが、あとの3つの単語がわからない。何だこりゃ? しまる。おりる。しごと。よくわからないが、きっと図書室と同じことだろう。しかし珍しい。締まっている。今まで何度もここに来て、それでも締まっていた日はなかった。今日と同じ曜日の日にも来た事はある。俊太は白か黒か灰色かわからない扉の前で立ち尽くし考える。
気まぐれ? たぶんそれが一番当てはまっている。あの親仁のことだ。きっと休む日も適当なんだろう。適当に起きて、適当に寝て、適当に占って、適当にぼったくる。きっとそんな商売をしているんだ。自分で考えたその適当さにぷぷっと少し吹き出し、その結論を飲み込む。
「でも意外だなぁ」
昼間なのにもう薄暗い路地裏を戻りながら思う。実際今日は開いていると思っていた。昨日の今日で、扉を開けたら怒鳴られると思っていた。下手をすれば役所にボコボコにされると思っていた。結局失敗したのが事実で、役所には小路が伝えているはずであるから、怖かった。それでも意気揚々とここに来たのは、その居心地の良さにまた浸ろうとしていたからなのかもしれない。
商店街の表通りに出て、歩き出す。目的地は長屋。今日が約束の日。鞄に入った二つのファイル。ブラッドマリアは無理だったが、これがあれば二人の願いは叶えられると思う。時間はたっぷりあるが、少し急ぎ足で俊太は紀陽家へと向かう。鞄の中で光っている役所作『スペアブラッド』。
「『俊太兄ちゃんはやっぱりABさんだ〜』な〜んて言うかも」などと、実はABと呼ばれることを嬉しく思っている俊太である。
$12$ 「盗る人」
「でもそれ可哀想じゃない?」
「可哀想? どこがだ?」
「それは……」
「人にはそれぞれ夢もあって、未来もある。お前は今、堂々と夢を追いかけることができるか?」
「…………」
「俺はできるぜ」
「お前は別だ。俺達のやってることは犯罪だ。どんなに華麗でも、どれだけ世間で騒がれようと、俺達は汚い金で食ってかなきゃならねぇ。まっとうなことをして夢を追うなんてのは、俺達にはもう失っちまった自由なんだ。そんな世界で生きていくのに、あいつは甘すぎる。確かにあいつは楽しかったみたいだが、これ以上深入りさせちゃならねぇ。あいつも今回の失敗でどれだけこの世界が厳しく、嫌なものだったか分かるだろうよ。それで諦めもつく」
「失敗って……あんたのせいじゃん」
「……うるせぇな」
◆
天気は快晴。雲もない。いつの間にか見慣れるようになったこの昔の風景が俊太にとって与えるもの。初めて来た時は目の前の見知らぬ子供に誘拐されたかとおどおどし、同時に少しの懐かしさを感じた。それ以来ここに来る度に思うのはなぜか、後ろめたいもの、申し訳ないような気持ち。そんなものが心の中にあった。
でも、今日は違う。今日の風野俊太は一味違う。否、正確に言えば昨日の深夜から。風野俊太は少しだけ変わったのだ。そしてその証が鞄に入っている二つのファイルであり、今目の前の二人が目を点にして見つめているものである。まぁ本物じゃないが、それはこの際目を瞑るということで。
目を点にした奈留と優治は俊太の予想通りの反応を見せていた。俊太が得意げにその様子を見ていると、
「やっぱりABさんすご〜い! ね、ねっ。触っていい?」
その返事をする前に、優治が手を伸ばし子供独特の高い声を出す。
「おー! すごぉーい! おぉー!」
「ちょっと、優治! 奈留も奈留もっ」
やはり子供ながらにも大事なものだとわかっているのだろう。スペアブラッドを触る手つきが恐る恐るだ。
「真ん中黒〜い!」
「重た〜い!」
代わる代わるにその感動を口にする。その幸せそうな顔を見ると、偽物でも持ってきてよかったと思う。思い出す役所の怖い顔も微笑んでいるように思った。暫くそうしてキャッキャと騒いでいたのがふと静かになる。見るとスペアを机の上に戻し、目を閉じて何かを祈っているような格好をしていた。「あぁ、お願いをしてるんだ」と微笑ましく見つめていると、不意に長屋の玄関が開いた。
「……あ」
一瞬の沈黙。玄関に立ちこちらを見つめるこの家の主。何を思っているかはすぐにわかった。ここで何してる? それ以外にはないだろう。小さな子供二人の家に勝手に上がりこんで、くつろいでいるとはいかないまでも、ごく自然に座っている。俊太がもう少し年をとっていれば確実に不審者である。
「……どうも」
沈黙を破ったのは俊太だった。うっすらと額にかいた汗。セーラー服とは違うが、むしろそれよりも派手な制服。ヒラヒラした深緑のミニスカートと真っ白なシャツ。それを少しはだけさせて着るのが、活発な女子のしるし(らしい)。紀陽美奈は肩に担いだ鞄を居間に放り投げ、机の上に乗っかっている大きな石に目をやった。
途端に硬直する。素直に驚いた顔をして、次にその視線は俊太を捕らえる。紀陽の大きな瞳でじっと見据えられ、思わず苦笑いする。目を見つめて話すのは苦手なのだ。その苦笑いをよからぬ事と思ったのか、紀陽は俊太に詰め寄る。俊太は下を向いて畳を見つめた。擦り切れた畳に何か綺麗なものが入ってくる。視界に正座した紀陽の太ももが見えた。なんだか前にもこんなことあったような。
「あれ、……何? あんたが?」
下ばかり見る俊太の顔を紀陽が両手で持ち上げ、目を合わせる。あわわとしどろもどろに目を動かし。「はい」とだけ答える。
「そう……」
それだけ聞いて、それだけ言って紀陽は俊太の視線を解放した。
「いや、本当は違うんだ。あれは偽物で、盗み損なって。だから、そのっ、スペアで。でも、借金はちゃんと何とかなるようにしたんだ。ほら、これがその書類」……な〜んて、そんなことを言えたらどれだけかっこいいだろう。まぁこれでも結構しどろもどろではあるが。学校じゃてんでダメな奴。何のとりえもなしで、これといって友達もいない。別にかっこいいと思ってもらおう、と思ってやったわけじゃない。紀陽美奈という女子のことは全然『知らない』し、これからもその関係は変わらないだろう。今回こうしてあったこと、は何もなかったことになるんだ。
風野俊太の自己満足。それでいい。居心地のいい場所を見つけた、そのきっかけをくれた人への恩返し的な感じで。別に御礼なんて求めてないYO。いつになく俊太はハイだった。
「――……ありがと」
緊張の糸が切れるみたいに。聞き逃せば一生後悔するような、そんな声。俊太にとっては、そんな声。
「え、えへへ」
馬鹿だと思う笑い方。常が馬鹿なのだから、あえてそんな笑い方をしなくてもいいだろう、と言われてしまいそうな笑顔。きっとこういうのがみんなに嫌われるんだよなぁ、と俊太は思ったが、そう簡単に癖は抜けないものである。
そうやって馬鹿な笑いをして、奈留と優治の相手をして、時々紀陽に文句を言われながらも時間は過ぎていく。午後6時少し前、ついにその時がやってきた。
奈留と優治、スペアブラッドを家の中に残し、俊太と紀陽は外に出る。鞄をしっかり持って、目の前に立ち並ぶ数人の男を見上げた。厳めしい顔をした男の集団は見るからにヤクザという感じである。少しだけ、もう少しだけ。ない勇気を振り絞って、ほんの少しだけでもと、紀陽の前に歩み出る。そして、満を持して鞄を開いた。
「あのお金はまだ――」
しまった! と、そう言いかける紀陽を片手で静止し、鞄の中のファイルを急いで取り出す。紀陽にはまだ書類の事を言っていなかったことを忘れていた。取り出した大きなファイル、男達は何も言わずにその光景を見つめる。俊太は少し得意げににこりと笑って、それを目の前で破った。むっちゃくちゃに、力の限り破った。やがて破れた紙ふぶきが男の足元に辿り着く。そしてそれを見た瞬間に、男はその重大さを知る。
「こんのガキッ!」
もう遅い。俊太は既に持っていた自分の方のファイルもむちゃくちゃに破る。とにかくむちゃくちゃに、男が俊太の胸倉を掴み、それでも俊太は破り続けた。男が俊太を投げ飛ばした後、もうそこにはバラバラの書類とそれを収めていたファイルしか残っていなかった。投げ飛ばされてうった腰をさすりながら立ち上がる俊太、そしてその光景を理解できずに見つめる紀陽。
「兄貴っ……」
若干動揺したように、俊太を投げ飛ばした男が後ろを向く。その言葉に他の付き添いの男も、そして紀陽も俊太もそちらを向いた。兄貴と呼ばれた男は少々でっぷりとした体つきで、派手なシャツに黒いスーツ。金ぴかに輝くアクセサリーが目に痛い。
「豪いことしてくれんなぁ、この坊は。どないして手に入れたか知らんけども、これはちょっといただけんでぇ」
背筋を冷たい汗が伝う。考えが甘かった。たとえ借金が帳消しになっても殺されたら意味がない。サングラスをかけていないその顔は、かけているよりも逆に、腫れぼったい目が見えて恐怖を感じる。書類を始末すれば収まると思っていた。相手を普通の考えで捉えていた。それさえなくなれば要求できないんだから、諦めるだろうと。
――考えが、甘すぎた
「それと、あかんのぉ。坊、こういうんはな、控えってもんがあるんや」
「控……え?」
全てを打ち消すかのような男の言葉にしばし呆然となる。先程まで感じていた少しばかりの優越感は掻き消え、不安と混乱だけが俊太の頭の中を支配してゆく。控え……頭の片隅にもなかった。絶望的な言葉がのしかかる。紀陽もわけがわからず、その視線は男と俊太の顔を行ったりきたりしているだけである。
「そう、控えや。すまんなあ」
突如腹部に走る激痛。気がつけばその場に屈みこんでいた。男の大きな手で頭を押さえられ、その膝が俊太の腹に突き刺さったのである。甘かった。今更思ってもどうしようもない。よだれか胃液か、血なのか。なんだかわからないものが口から出て、地面を汚す。今はとにかく身の安全を、
左頬に強い衝撃を受けたと思ったら、地面に打ち倒されていた。こんな時なのに服に土がついたことを気にする。少しでも冷静でいようと思った。冷静でいれば何とかなるんじゃないか。諦めてくれるんじゃないか。学校でそれが通用しないのは十分わかっているのに、そんな考えを持ってしまう自分が凄く嫌になる。ジンジンする左の頬にじんわりと何かが伝う感触。悔しさじゃない、痛みからだ。男達はそれを見て笑い、さらに俊太に歩み寄る。頬をさすりながら起き上がると、紀陽の方にも他の男達が迫っていた。紀陽は何やら叫んでいつものように抵抗していたが、目の前のでっぷりとした男が笑って言った言葉の前ではそれも掻き消える。楽しそうに、笑って言う。
「軽くお仕置きしといたり」
「へい」 「やだねぇ〜」
男達のこわばった声の中で、間の抜けた声がその場に流れる。確実にその場にいるものの声ではなかった。その声に、男達は驚き、紀陽は眼を見張り、俊太は顔をほころばす。頭の中で真打登場の太鼓がなり始めた気分だった。
サングラスをした二人組み。その格好は目の前に立つ男達に負けず劣らず迫力がある。キラキラした飾り物はごてごてし過ぎず、眉間によった皺はそのものの苛立ちを表しているかのよう。
「ひどいわねぇ。あんたらどこの組かしら。ここの借金はうちらが取り立てることになってるんだけどねぇ」
小路、だろう。ぱっと見ではわからないが、声も若干低いが小路のものである。
「大体、控えは『これ』だろ?」
役所がピラピラと何かを振り、それを燃やした。
「どこのもんじゃ? そんな話聞いとらんぞ」
「んじゃ、帰ってボスにでも聞けや。話すんしんどいわ」
役所は関西人なのだろうか? 男の関西弁に関西弁で返す。男の言葉と違い、その言葉は全くやる気がないが。そのやる気のないのが癇に障るのだろう。わざとなのか、そうでないのかはわからないが、それを挑発と取るのになんら不思議もない。男達は眉間に青筋を浮かべながら役所を見る。そして、先程俊太を殴ったでっぷりとした男が口を開いた。
「さよか、ほんならそれ相応のしるしでも見してくれへんか。どないや? あるんか?」
「だから帰って『愛しの親分』にでも聞けばいいでしょ。そんなめんどくさいことやってらんないわ」
「だまっとれや。不細工が」
一人の取り巻きがそういった瞬間、関係ない(小路の一番近くにいた)男が倒れた。一瞬、その光景に目を奪われた男達が、「このっ!」と言って顔をあげると、そこにあったのは自分達のリーダーが眉間にピストルを突きつけられている光景だった。
「こらこら、あんまり怒らしたらあかんやろ」
やけに細長い銃口をグリと押し付ける。
「「「コラッ! 何しとん――」」」
気づいた取り巻きの何人かが、役所の行動にいきり立った瞬間、
ヒュンヒュン
音がない分逆に、不気味なほどの狂気があった。風を切るような静かな音の後、地面に空いた二つの穴。その行動に男達を含め、俊太と紀陽も目を見張る。そして役所は煙を上げる銃口を再び男に押し付けた。ジュウゥウという音を立て、男が悲鳴を上げる。ハハッハと笑い声を上げながら、役所は手を緩めない。完全に引いていた。俊太はもちろんであるが、その道の男達ですら役所の異常に恐怖すら生まれ始めていた。
そこで、小路がその手を掴み、離す。真っ赤に焼け爛れた眉間を押さえながら、男は取り巻きを引き連れて逃げるように帰っていった。まさに漫画のように逃げていく男達。少し同情した。正義が勝つという感じではなかったから。
「おい、てめぇ」
役所が名前を言わずに俊太の方を指差す。それに気づいて、僕ですかと自分を指差す。
「そう、そこのお前だ。借金のことでちょっと話がある」
「着いてきて」
小路が役所の科白を紡ぐ。先程の凄惨といってもいいだろう光景。生であんなものを見たのだから、誰でもびびる。その凄惨な光景を作った張本人に連れて行かれるのだ。知り合いでなければ、殺されると思ってもおかしくない。そう思っているのであろう。ものすごく不安そうな顔をする紀陽を置いたまま、俊太は二人について歩いていった。
連れてこられたのは俊太の好きな川原。奈留と優治にここで見つかり、連れてこられたのが随分前に感じる。しかし、役所と小路の足はそこで止まらず、もう少し川原を登ったところの鉄橋の下。粗大ゴミが多く不法投棄されていて、お世辞にも綺麗とは言えない場所。鉄橋の下で人目にもつきにくいところであるのが一番の原因であろう。不法投棄された粗大ゴミに混じって、錆びたドラム缶もいくつか見られる。ホームレスでも住んでいそうな雰囲気である。
そんな場所。なぜこんな場所までと思うが早いか、もっと不思議だったのはここに来るまで一言も喋らなかったこと。知り合いだとばれてはいけないのかもしれないが、少しくらいは話してもいいんじゃないかと思う。
そう思って、「しまった」と思い出す。
「おい、コラ俊太。テメェブラッドマリア失敗したんだなぁ? あぁ?」
こちらに向けていた背中が消え、さっきまでと同じ強面のヤクザ顔が俊太を睨む。
「俺があんだけ算段整えてやったのによぉ。どういうことだこりゃ?」
忘れていた。自分がブラッドマリアを盗めなかったことを。役所がここに来るまで喋ろうとしなかったのは、怒っていたからなのだ。
「いや、あのね削史さん……」
「言い訳はいいんだよ! ……糞ガキ。テメェのせいで、こっちは無報酬のただ働きよ。これ、どうしてくれんだ」
有無を言わさぬその雰囲気に言葉が呑まれる。蛇に睨まれた蛙というのはおそらくこんな感じだろう。小路も可哀想に、という感じで見守っているだけ。
「いや、あの、あのね削史さん」
「何だ」
「そうだ、次。次の、今度の依頼頑張りますからっ」
「はぁ〜なるほど」
そう言うと、納得したのか役所は溜息をついた。高そうなスーツの中に手を入れると、煙草を取り出す。今日はそれが少し太めで、茶色い色だった。その茶色い煙草を口に咥え、役所は気持ちよさそうにそれを吸う。そして、肺いっぱいに溜め込んだ白い煙を、一気に吐き出し落ち着いた調子で言った。
「次はねぇよ」
「え?」
思わず聞き返す。その俊太の言葉にもう一度「次はねぇよ」と役所は繰り返した。わけがわからず役所が煙草を吸うのを眺めていると、その隣にいた小路が口を開いた。
「俊太君。次はないの」
「次はないって……」
同じことしか言わない二人にやきもきしながら、同じ事を聞き返す。その同じ事を聞き返す俊太にイライラして、ハイペースで煙草を吸っている男のことに俊太は気づかない。
「俊太君にはね、もう無理。そもそも、俊太君にやろせようとしたのが間違いなの。あの親仁にしても、こいつにしても、勝手な考えで遊び感覚だから。本当にごめ――」
「つーか」
役所が早くも二本目の茶色い煙草を灰にして、小路の言葉に割って入った。
「わかったんだよ。お前が使えねぇってな。俺も海さんも遊び感覚でやってたのはそうかもしれねぇが、計画は完璧にやった。その中でお前が失敗したんだ。そもそも、俺は初めからテメェが気に食わなかったんだよ。俊太ちゃんよぉ」
沸々と湧き上がるのはなんなのだろうか。学校であれほど罵倒されても、嫌がらせを受けても感じなかった気持ち。今それが、激しく俊太の胸のうちを掻き毟る。
「もう金輪際テメェと会うことはねぇ。じゃあな……せいぜい逃げ回って生活しろよ。泥棒でもねぇけどな」
それだけ言って立ち去ろうとする役所は背中を向けた。手も振らない、小路もごめんねとだけ言ってその場を去ろうとした。そんな二人の背中を見て、さっきから渦巻いていた俊太の気持ちが爆発する。
「ふざけんなぁ!」
棒立ちのまま絶叫する。それまで聞いたことのない俊太の大声に、二人は少し驚いた顔をして振り返った。
「あんなに気持ちいい空間作っといて、あんなに楽しい思いさせといて。勝手に決めるなぁ!」
俊太の声が鉄橋の下でむなしく響く。
「僕は、僕は……僕はやめないぞ! 絶対、絶対削史さんと、女或さんと、おっちゃんとまた一緒に……僕はっ」
「あめぇんだよ糞ガキ。テメェみたいな坊ちゃんがやってける世界じゃねぇんだ」
「僕はっ!」
流れる涙には気づいていた。僕は二人の姿が消えるのを黙って見ているだけで。女或さんの細い背中。削史さんのごつい背中。色々見えた。
『マジかよ。ハッ……ハハッハ。その心得もわからねぇやつがAB? ……ハハッ、クソガキだな』
『俊太よう、お前ABの意味知ってんのか?』『おーる、ばんでっとです』『はい、もう発音ダメだし意味もちがーう。やっぱり俊太は全然ダメー』
『おいこら、俊太君。チミはお話を聞いていたのかね?』
『アホか。んなもんは慣れだよ、慣れ。よし、今日はお前を男にしてやる。この後シーウィスタリアに行く』
『君、ABでしょ? 聞いてるよ』
『私が飲ませてあげるから、ね』
『それじゃあ、ここで待ってるね。大丈夫、さっきのところに比べれば楽勝楽勝』
「……じゃあな」
今になってやっと、あの時(ブラッドマリア強奪の始まり)に叩かれた背中が熱を帯びてくる。「じゃあな」という言葉も本当は言ってなかったのかもしれない。遠ざかっていく憧れ。見えるものも思い出も、唯一綺麗になったのは川原の汚い石だけで。それら全部を涙で汚して、僕は一人その場にうずくまって泣いた。こんなに泣いたのは初めてで、鉄橋の上を電車が通ったのにも気づかないほど、僕の泣き声はうるさかったに違いない。
◆
「これでよかったんだろ?」
「あぁ」
「でも、なんか『諦めねぇ』的な事言ってたぞ」
「あぁ」
「あいつを使ったのは本当にただの気まぐれだったのか?」
「あぁ」
「あぁ星人だよな? 海さんは」
「あぁ」
役所はぼりぼりと頭をかいて、暗い部屋を後にした。残されたのは一人の親仁。
少し黙って何かを考える。見つめる先にあるのは、タロットカードを売って儲けた5千円。
――安いもんだろ俊太。
思えばちょっと強引だったかもな。だが、これでいい。俊太は変わった。あれを始めて見た時、どうしようもなくムカついた。なんでかはわからんが、昔の自分に少しオーバーラップしたからかな。変えてやりたいなんていう馬鹿心が出ちまった。
だが、あいつはこんな世界に入っちゃいけねぇ。楽しいからって、それが正しいとは限らねぇ。仲間がいるからって、それが正しいとは限らねぇ。やっていいこともごまんとあるし、やっちゃいけねぇこともごまんとある。
それらの中で何を選ぶのか。逃げ道を選んじまった俺が言うのもおかしいが、まっとうなもんを選ぶのが一番いい。有名になって、騒がれても気分がいいのはその時だけ。いつか自分を卑下するときが来る。(ま、中には例外もいるが……)
俊太。俺達みてぇには、なっちゃいけねぇぜ……
――ま、俺が言える言葉じゃねぇけどな
『でも、なんか諦めねぇ的な事言ってたぞ』
――まさかな
親仁、もとい海藤海老蔵は、薄暗がりの部屋の中で少しだけ口元を緩めた。
◆
泣く。人間だけに許された行為とかいうけど、そんなの人間勝手な考え。動物だって、植物だって悲しい時、どうしようもなく嬉しい時はきっと泣いてる。目から涙を流す。一般的な泣くという行為の反射。そんなものでなくても泣いてる時はあるし、出ても泣いてるわけじゃない時もある。
動物や植物も涙ぐらい流してるかもしれない。それを人が見たことがないというだけ、きっとそう思う。
人間であれば誰でも泣く。産まれた時が最初、それから成長して、悔しい、悲しい、辛い、嬉しい。いろんな感情が混ざって、それが涙というかたちで生まれる。私もよく泣くから、たぶんそんな仕組みだと思う。人間なんだからって、男も女も関係なく泣けばいいのに。時々そう思う。だけど、男の人は男らしく、女の人は女々しく、そんな感じに泣くものだって、なぜか思ってる。
男の人が泣いてるのを初めて見たのは、中学校1年生の時だった。お母さんが知らない男の人と出て行って、お父さんが泣いてた。誰にも知られないように、夜中に一人で泣いてた。それから色々あってお父さん、借金作って私達を残して去った。その時も泣いてたけど、その時は全然男らしくなかった。お父さんのことは好きだったけど、その時に急に嫌いになった。女々しい泣き方、男の人は男らしく泣かなきゃいけないわけが少し分かった気がした。
高校に入って、付き合ったことはなかったけど、何回か告白された。でも、決まって答えはノウ。誰にも知られたくない。家のことは秘密にしておきたかったから。彼らの泣き方はみんな女々しくて、それも嫌だった。
好きなのはスポーツやってる子達が負けて泣いた時、そのときの彼らの泣き顔は凄く男らしくて熱かった。いつの間にか冷め切った涙しか流せなくなっていた私にとって、新鮮に感じるものだったからかもしれない。だから、ほとんどの男の泣き方なんて、きっとどれも女々しいものだと思っていた。それが特に、へらへらしてて、いつもいじめられてるやつで、運動もできないやつなんて、絶対そうだと思ってた。
でもそいつはずっと泣かなかった。学校でどんなことがあっても、へらへらするだけで抵抗もせず泣かなかった。どんな女々しい泣き方をするのか。次第に、そいつを泣かせてその泣き顔でも見てやろうと思うようになって、斉藤達と組んでそいつをはめた。ビンタもしてやったし、みんなの笑いものにもなった。でも、そいつは泣かずで、そいつが逃げ去った教室には虚無感だけが残った。
そんなやつだから、後をつけた。あんな怖い人に連れて行かれて、ちょっと心配したけど、どんなに女々しく泣くだろうという期待もあった。そいつは怖い二人組みと対等に立って、いくつか言葉を交わしてた。話が終わって二人組みが去ろうとした時、いきなりそいつが叫んだ。
「ふざけんな」
って。二人組みは無傷で帰してくれてるのに、なんでそんなことを言ってるのか分からなかった。でもやっとそこで、そいつの泣き顔が見えた。
怒りながら泣いてた。ひとしきり叫んだ後、声を立てながら地面を叩いてた。今まで見た男の人の泣き方の中で一番泣いてるこいつを見て、女々しさは感じなかった。慰めてやるつもりもないけど、気がついたら泣いてるそいつに向かって足が動いてて。何だこいつ、男らしい泣き方するじゃんって思ったのは内緒にしとこうと心に決めて、私はうるさいそいつの側まで駆け寄った。
紀陽が歩み寄った時、俊太は少しだけ後を引く嗚咽を隠しながら立ち上がっていた。誰にも、特に知り合いには涙を見せたくない。馬鹿にされるのは慣れているが、慰められたりすれば、余計に涙が止まらなくなるから。
「風野……」
「は、いっ」
うっと出てくる声を押し殺して、にこやかに顔を向ける。涙は流れていない。目は少し赤いけど、こうして目を細めていればばれないだろう。俊太は熱くなった鼻の奥をズズッとすすった。
「あ、れっ? 何っで。こんなとこ、いるんでっ、か?」
「えっ、その。あんたが連れて行かれたからさ。ほら、もし何かあったら私の責任になるかもしれないじゃない。だから見に来てやったのよ」
少し照れたようにそう言う紀陽もちょっと目が赤い。
「そう、れすか」
ズズッと鼻をすする。季節知らずもいいところであるが、「僕、花粉症なんです」と言っておく。
「あの、もう、借っ金の、ことは。いいれすよ。本当、にっ。いいみたい、れす」
はっきり発音できないのを喉のせいにして、少し咳き込んでみる。すると、紀陽がティッシュを差し出してくれた。「ありがとうございます」と言うと、紀陽も「こちらこそ」と返した。
「……ちょっと聞きたいことあるんだけど」
俊太が鼻をかんでいると、紀陽がもったいぶったように何かを話し始める。
「あのさ、大分前のことだけど。なんで否定しなかったの。あんたじゃないんでしょ? ブルマ泥棒」
暫く何も答えず、俊太が鼻をかむ音だけが鉄橋下に響く。電灯があまりない場所のせいで、辺りはもう真暗と言っていい程だった。
「僕は……」
「うん?」
「あれは僕れす。あの手紙も僕のれす。……僕、ABれすから」
『私はあなたのことが好きです。でも、あなたのことが好きすぎるので、話すことも出来ません。だからあなたのブルマだけでも下さい。 捕まったABより』
おそらく俊太が言いたかったこととは違う。俊太は手紙の内容などほとんど覚えていなかった。ただABという名前が使われていた。それだけは覚えていたのである。そうとは知らずに、手紙の内容を事細かに覚えていた紀陽は取り乱す。これは告白なのかと、見当違いのことを思い、顔を真っ赤に染める。おかしな告白方法であるが、そう取れないこともない。なぜ自分がここまで慌てているのか、自分でも分からなかったが、今は目の前の俊太の目をまっすぐ見れないことに気がつく。(もっとも、俊太は鼻をかんでいるので、無理やり視線を合わせようとしなければ目は合わないのだが)
そんな紀陽の変化に気づいたのか、鼻をかみ終わったティッシュをゴミ箱に放り投げ、俊太が不思議に紀陽を見る。鉄橋の明かりが少しだけ紀陽の顔の赤さを示す。
「どうしたん、ですか?」
「うるさいっ! 馬鹿、人前じゃ話しかけないでよっ!」
それだけ言って、紀陽は駆けていった。一人残された俊太は思う。なんでまたそんなこと言うんだろう。分かってるのになぁ、と。紀陽は違う意味で言ったのだが、そんなことは露ほども知らず、俊太は別なことを考え始める。
さっきまでがたがた言っていた鉄橋も静かになり、緩やかな光が背中をさする。嗚咽も大分治まった。川原の砂利の上を歩いて、夜空を見上げる。ABは捕まった。だから俊太は次のABをやろうとした。親仁にそそのかされ、役所に動かされ、小路に励まされた。もう、ABはどうでもよかった。ただ、あの空間が好きだった。でも、あの空間で求められていたのは俊太ではなくて、ABだった。いつかのように川原に横になって、吹き出しそうになる嗚咽をこらえる。
求められていたのはAB。そう、だから決心した。一人で、これからABとして認められる。絶対に諦めない。認められて、あの空間を取り戻してやる。誰があんなやつらの言うこと聞くもんか。力づくで手に入れる。闇夜にうごめく楽しさ、溢れる自信と緊張感。忘れられない興奮が胸を満たしてゆく。
僕はなるんだ
――失敗なんて絶対に起こさない、スマートで、カッコイイ怪盗に
求め続けたものは得られない。だから奪う。それだけ。手に入れる手段は考えれば考えるだけ思いつき、しかし、その中でも彼らは『盗る』という行為でそれを行う。何かを手に入れる。
強欲な考えはなく、強欲な手段を持つ。
それゆえに彼らは疎まれ、追いかけられる。だが彼らはそれを楽しみ、逃げることを求める。止まっていては始まらない。だからといって、自分から走り出そうとは思わない。そこで、少し小細工をして追いかけてもらう。走るために。
その追いかけられることに慣れる事はなく、常にスリルが付きまとう。一度はまってしまえば抜けられず、苦しい思いもするのを知らず、一種の麻薬のように彼らは走り続ける。
ある日出会った一人の男と、一人の少年。片方は走ることの楽しみと苦しみを、もう片方は純粋な憧れを。
持つべくして持ったものは重く、それを教えてやろうかやるまいか。自分の好きなことであるならば誰にも聞かせたい。それに関心を示すかどうかは別問題。より強い関心を持つものがそれを聞けば、抜け出せなくなることは目に見えているのに。
はまりこんでしまった少年を引き出してやることは難く、これもまた自己完結の形で終わる。少年がその後何を思うか、何をするか。自ずと分かりそうなものであるが、気づかない振りをして自分の罪から逃れる。これもまた『盗る人』としての定めなのかもしれない。
「Epilogue」
――始まりが訪れた、だから彼はここにいる
――不意に訪れた終焉を、認めなかったからここにいる
――突然、偶然、必然
――そのどれもが当てはまったから
――だから彼は、ここにいる
高層マンションの屋上。今日は雲ひとつない快晴で月がよく映えている。満月。狼男が狼人間になったり、男狼が人間になったりする日だ。先日のニュースで、捕まっていたABは偽者だと報道されていた。それを聞いても何だか「ふ〜ん」というだけで、たいした感情も抱かなかった。もう、ABには興味がなくなってしまったのかもしれない。
夜空に瞬く星達。どれが始まりの光で、どれが終わりの光なのか。その一瞬一瞬を目で捉えられれば、これ以上ない興奮があるだろう。でも、それはつまらない。そんな見方を覚えれば、きっと終わりや始まりばかりを気にしてしまうようになるから。普通に流れている普段の光が、凄くちっぽけに思えてしまうから。あぁ、なんてくさいこと考えてるんだろう。
「手を上げろっ!」
怯えたような声が後ろから聞こえる。はいはい。こんな満月の夜に、お月見でもしていたほうがよっぽど風情があるのになぁ。そう言えば、花より団子とは言うけれど、月より団子は言わない。やっぱり月は団子よりも風情があっていいってことなのか。この団子は綺麗だけど。僕は手の中にある丸い水晶を鞄に入れた。
「手を上げろと言ってるんだっ!」
さっきよりはいくぶん怒っているようだ。気が短いなぁ。怒りやすい人とは案外相性が良かったりする。シーウィスタリア。もう消えてしまったお店だが、そこの親仁もお客も怒りやすい人だった。と言っても二人しかいなかったけど。少し懐かしさがこみ上げる。
ABの活動はあれ以来ない。警察にハッキングして、それっぽい事件の際にはこうして変わりに盗んでやっている(ものすごく簡単なやつだけだけど)。今回のは『海老蔵の洞穴』っていうチームの予告状だった。なんとなくABぽかったので来てみたが、やっぱり関係なかったっぽい。ていうかダジャレだしね。
「このっ、撃つぞ!」
痺れを切らした彼が叫ぶ。観念して、両手を広げた。そして飛び込む、いつものように。眼下に広がる明るい夜空。こんな風に吸い込まれるように本当の夜空にも上って行けたら……
あぁ、こんなこと思ってるから、いまだに人の目を見て話せないんだなぁ。
屋上には一人取り残された警官がポツリと立っていた。先程まで屋上の手すりの上で立っていた人物は、その小柄な体を空中へと投げ出した。信じられないことをする。自殺かと思ってもいいような光景である。その光景にほんの少しだけ驚き、警官の服装を着た男は独り言を呟く。
「『真実は在る。嘘のみが創られる ジョルジュ・ブラック』ってね。こりゃ、近いうちに再会しそうだな」
男はそう言って笑い、先の小柄な男を真似てビルから姿を消した。
ブラッドマリアの事件以来、紙面上をABと言う名前が賑わす事はなくなる。その代わりに『ウィンド』という名の怪盗が、警察内では噂になってゆく。しかし、『ウィンド』もある時期を期にぱったりと姿を消し、またABが復活するのである。もっともその時は、ABCという名で復活するのであるが、それはこれよりもう少し先のお話。
「へっへ〜、おっちゃん5千円返してよ」
「うるせぇよ」
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2005/03/13(Sun)20:03:23 公開 / 影舞踊
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■作者からのメッセージ
ラストがものすごく長いですね。前・後編に分けようかと思ったのですが「ええいこのままいったれ〜」と(笑 他にも色々書くべきシーンはあったのですが、ただでさえむちゃくちゃな構成になってるのに、これ以上分かりにくく、さらにリズムもどんどんおかしくなる。では流石にダメだと思い、刑事さんのとことか、紀陽のこととかは書いてないです。
うっしゃ〜誤字直したぜぇ(うしゃ様ごめんなさい。&夜行地球様ありがとうございます。
ささら様のご指摘で、「何万光年は距離」と言われて、はっとしました。いや、恥ずかしいミス(笑 今更直すのもなんなんで、俊太が馬鹿なのだと思っててください(マテ
作中で最後に出てきたABCなのですが、これはオールバンデットケイブということで、ま「完璧な泥棒の住みか(仲間)」って事です。この作品のタイトルのABCについては、後で親仁さんからヒントがあります(笑
終わりはお気楽になってしまいましたが、こんな感じでいいですよね(甘え 皆様の感想、批評があったればこそ完結することができました。拙い作品をここまで読んでいただき真に恐縮とともにありがたく感じております。
親仁のヒント:「あーめんどくさ。とりあえず、何だっけ? あぁ、このABCの由来か。あれだよ、お前ら自分で考えろ。俺と一緒で暇だろ? えっ、違う? しょうがねぇな。全く、『チート』考えりゃ分かるだろ。『チート』考えりゃよ。主役は俺なんだよ。俊太は俺に――(強制終了
危うく言いそうだったので止めます。ていうかすいません。こんな遊んで(反省
レス返しはラストが終わり次第(勝手に)盛大にやります(笑)ですので、お暇な方は見てやってくらさい(気が早い作者より
読んでくださった方々、感想をくださったゅぇ様、神夜様、夜行地球様、バニラダヌキ様、うしゃ様、流浪人様、迎迎様、rathi様、ささら様、月海様本当に本当にありがとうございます。
感想・批評等頂ければ幸いです。
p.s えー、個人的に気になったうしゃ様落雷事件。大丈夫ですか? コメント見た瞬間笑い転げそうになりました(マテ いや、冗談はさておき、後遺症等がないことをお祈りしてます。
ちょこっと誤字修正
レス返しのほうは、コメント欄でさせてもらいますね。