- 『「つまさきの痛み」 読切』 作者:笹井リョウ / 未分類 未分類
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原稿用紙約18.25枚
この石ころを、家に帰るまで蹴りつづけることができたならば、私は受験に合格する。
だとか、そういうことをよくやる人は、幸せだと思う。なんというか、神様を自分の中に持っているというか、自分自身のことは自分自身で左右している気がする。それで石ころが川とかに落ちたとしても、「今のはなし」とかって言えるんだ。だって自分が神様なんだから。
私は今、私が神様だ。
この石ころは形ががこがこしてるから、蹴るたび蹴るたびまっすぐには進んでくれない。こら、ちょっと、そんなにひねくれて進まなくたっていいじゃないの。ひとりで歩いていれば広いと感じた通学路も、石ころを蹴ってみれば狭く突然感じる。ちょっと、私サッカー部じゃないんだからそんなにうまく蹴れないって。形のいい石に変えようかな。ふとよぎった私の甘えを、私の神様がぴしっとたたく。
多分季節は秋だと思う。十一月の終わりって、微妙だ。十五歳ってのも、微妙。思ったようにあっぴろげに泣いたりできなくなるのは、これくらいの歳からだと思う。
◆
「つまさきの痛み」
「恋は下心。そんで、愛は真心」
「なんなの、突然」
「ラブとライクの違いだよ。私にはそれがわかるの」
志乃はそう言ってにかっと笑った。志乃の今のブームは歯磨きらしい。そう言い張るのも納得の白い歯が、教室の電気に照らされてぴかりと光った。というわけでもなかった。
「恋っていう文字には下に心があるから下心。愛は真中にあるから真心なのよ」
志乃、前歯に青のりついてる。
「それ昔ウッチャンナンチャンのナンチャンの方が言ってたよな」
へへん、と得意げに突き立てた志乃の指を、菊地宏樹が通りがかりに折りながら言った。
「なによあんた、聞いてたの?」
「お前の声、でかいから」
盗み聞きすんなっと言いながら、志乃が宏樹に向かってタオルを振り回す。志乃、あんたそれ私があげたハンドタオルだよね。なんだか鼻血みたいなものが付着しているように見えるんだけど。
学校にいるときは、時間の流れが速い。多分地球の自転の変化だと思う。私たちは学校にいると、楽しくて飛びはねたりしているから、世界中の学生の飛びはねによって地球の自転は速くなっているんだと思う。って前、志乃が言ってた。私は少しばかみたいだと感じたけれど口には出さなかった。口に出したら壊れるような気がしていた。私達の、移動教室を共にしているような関係が。
人間関係は硝子細工に似ている。見た目はとてもきれいで、美しい。太陽の光に反射して、いろいろな方向に輝きを飛ばす。だけれど指でつっついてしまえばすぐに崩れるし、光が当たればそこら中に歪んだ影が生まれる。
そんなもんだ。
志乃が、教室から出て行く菊地宏樹の背中を見ている。私は、その志乃の横顔を見ていた。ほんのりと瞳に宿っている光。す、となめらかな曲線を描く頬。私の硝子細工。
「菊地か」
志乃が呟いた。理科室へ続く廊下の途中だった。
「あいつ、生徒会長なんだよね」
うん、と私は頷いた。確か、四人の立候補者の中から選ばれたはずだった。私は、菊地宏樹に票を入れたと思う。
「それがどうかしたの」
窓からの風が、私達の間を通りぬけた。風が、志乃の制服の袖ホックを撫でていく。私達には、距離がある。
「かっこいい」
「そうかな」
右手に抱えていた缶のペンケースが、からころと中のものを揺らした。てのひらにじんわりと滲んできた汗が、ペンケースの表面を濡らした。十一月の乾いた空気。理科室の前。
「頭いいし、運動できるみたいだし」
「そうなんだ。何部なの」
「野球でしょ」
「へぇ」
「かっこいい」
私は訊いた。
「好きなの?」
志乃は答えた。
「好きかも。まだ本気じゃないけど」
「そっか。がんばって。私別に好きとか思ってないし、応援するから」
私は志乃を見て、にっこりと笑った。窓からこぼれてきた風が、私の前髪を弄び、前髪は風に流れて私の顔を隠した。てのひらに滲んでいたじっとりとした汗が、風に触れられてしっとりと消えていく。
「うん」
志乃もにっこりと笑った。私達は理科室に着いた。
◆
秋は、昼と夜の長さが同じだと習った。学校の理科の授業で習った。私の苦手な天体の分野だ。先生は、春と秋はほとんど昼と夜の長さが同じだといい、夏は昼の方が長く、冬が夜の方が長いのだと私達に言った。
石ころは転がりつづける。動きが止まると、私のつまさきがそれを許さない。
私には、今の季節、昼と夜の長さが同じだとは思えない。私達にとっては、動いている時間が昼であり、寝ている時間が夜なのだ。一年間、それはなんにも変わらない。ずっと動いていたならばそれはずっと昼だし、ずっと寝ていたならばそれは明けない夜だ。明けない夜はないだなんて誰が言ったのだろう。私が死ねばそれは明けない夜だ。
私は石ころを蹴りつづける。今日からしてきた新しいマフラーを、首に巻きなおす。ふっくらとしたやわらかな暖かさが、マフラーから感じられる。青をベースにした、アディダスのマフラー。すぐにほつれてしまう、青いマフラー。
夕陽の光が、山の輪郭線をじんわりと消していく。徐々に、山を形どっていた線が、空の中に溶けていく。光が、山を夕空の中へと編みこんでいる。
隣を通りすぎていく、自転車を引いた男子の集団。私は石ころを蹴りつづける。聞こえてくる浅はかな笑い声、止まらぬ足音。石ころ。空。消える山。吹く風。乱れる髪。空。石ころ。
ありふれた景色の中で、ひとつだけぽかんと浮かんでいる、私の嘘。
◆
理科の時間、志乃と菊地宏樹の席は近い。理科室には大き目のテーブルが六つあり、前の列に三つ、後ろの列に三つと並んでいる。そこにマッチの火を落としても、なぜだかマッチが先に消えてしまい決して燃えない、黒い不思議なテーブル。
前の三つのテーブルに、左から一班二班三班。後ろの三つのテーブルに、左から四班五班六班。なんの面白味もないこの並び方を決めたのは、背が低すぎて黒板をまったく有効に使えていない理科の教師、長谷川だった。
志乃は二班で、菊池は三班。テーブルの左側に男子、右側に女子が座るので、必然的に志乃と菊地はとても近い場所に着席することになる。私は四班。窓際の一番後ろの席で、私はいつも校庭を見ている。
今日も校庭では、二年C組の体育が行われている。前までは女子が陸上競技をやっていたのに、今日は男子が校庭にいる。そうか、十二月が近づくと、男子は持久走で女子は創作ダンスの季節なんだな。半そで半ズボンで外に投げ出された男子生徒たちが、風に当たる表面積を出来るだけ減らそうと努力している姿が、なんとなくほほえましい。
中庭から運ばれてきたであろう枯れ葉が、はらはらと彼らに降り注いだ。かさり、とくすぐったく音のなる枯れ葉は、気まぐれに空を飛ぶ。
「片倉さん」
私の姿勢が崩れた。前の席の男子が、テーブルについており私の姿勢を支えていた肘を、突然ずらしたのだ。
「先生、当てたよ」
私は校庭から視線を動かし、前を向いた。一番はしの一番うしろの一角に、全ての視線が集まっていた。私の意識はその視線達に貫かれ、ふわ、とからだの中すべてのものが一気に冷える感触がした。
「聞いていませんでした」
私がそう答えると、ぱらぱらと生徒たちの視線は元の場所へと戻り始めた。私はほ、と大きく息を吐いた。肩の力が抜け、今まで消えていたからだのぬくみが一気に舞い戻ってきた。視界の隅に、志乃の姿が映った。「ばか」口の動きだけで、そう言っているのがわかった。私はにっこり笑いながら、微笑みのかけらを志乃に投げつけていた。志乃のとなりでは菊地が含み笑いをしていた。
校庭からこぼれてくる生徒達の声が、ひどく無機質に聞こえた。
「だめだ」
志乃はそう言った。教室へと帰る廊下の途中だった。
「何が。志乃の話しかた、いっつも突然すぎてわかんない」
「ごめん、私ばかだから」
「知ってる」
私がそう答えると、志乃はとてもおかしそうに笑った。なーによ、あんただって今日注意されてたくせにっ。志乃がからかうようにそういうと、私の中であのからだが冷える感触が蘇った。
「それで、なにがだめなの?」
私がそう訊くと、志乃は顔をしかめた。「このトイレ、くさい」トイレの前の渡り廊下には、つん、とすっぱい匂いが漂っている。
「今の志乃の顔、おもしろかった」
「だってこのトイレくさいもん」
志乃は、自分の鼻の前でてのひらをひらひらと動かした。
「だからって、そんなに顔に出さなくても」
「なによー、あんただって目が悪いからかわかんないけど、よく顔しかめてるよ? ほら、いーって」
志乃は私の顔の真似をしてみせた。その姿がなんだか幼くて、私は笑った。
「それで、なにがだめなの?」
私は二度目の質問をした。
「菊地宏樹。彼女いた」
志乃は言い捨てるようにそう言った。全てを切り捨てるような言い方だった。私は、ぽろぽろと捨てられた志乃の声を拾い集めて、その言葉の意味を探った。
「彼女、いたんだ」
うん、と志乃は頷く。
「ほら、私達、理科の時間って席近いじゃん。だから、いろいろしゃべりながら恋愛の話まで持ちこんだのね」
なんでぺちゃくちゃしゃべってるこいつらじゃなくて私を注意するのよ、長谷川先生。私は無表情のまま、志乃の話の続きを待った。
「そしたら、彼女がいるっていうんだもん。びっくりしちゃった。あまりまだ広まってないよね、この話…でも今聞いといてよかったー。まだ本気になる前だったからさ」
早く新しい男探さないとな。志乃はそういって、両腕を思いっきり天井へと伸ばした。志乃のからだには、大きめのジャージ。寒い廊下なのに、まくってある袖。たるんだジャージの裾を、踏んでいる上靴。かかとを踏んでいる上靴が、歩くたびにぱたぱたと音を鳴らす。細い手首に巻かれた色とりどりのミサンガ。
着飾った人形は、まだ私の嘘を信じている。
◆
そっか。がんばって。私別に好きとか思ってないし、応援するから
つまさきが、痛くなってきた。いびつに崩れた石の形は、私のつまさきと相性が合わなかったようだ。蹴るたび蹴るたび、つまさきが痛い。靴の皮が薄くなってしまったのではないか、私の足のつめは大丈夫かな。
光によって完全に空へと織り込まれてしまった山々へ、烏のシルエットが消えていく。いつもは忙しく電車が行き交いしている線路を、危なげに歩いている三人の子供。不意に、後ろから自転車に乗った誰かにさらりと抜かされた。
ありふれた通学路に、ぽっかりと思い出される、私の嘘。
志乃はまだ本気になる前だったからよかったんだね。私は一体いつから本気だったんだろう。いつからあの人の背中を目で追うようになったのか思い出せない。いつからあの人の横顔に憧れを重ねていたのか、もうわからない。あの人と仲のいい志乃がうらやましかった。あの人が志乃と話すたび、私はいつも志乃の後ろで、少し上目づかい気味に立っていた。私はいつも、上目づかいが一番かわいいと、昔誰かに言われたことを思い出していた。
あの人が野球部なんだってことは、ずっとずっと前から知ってた。私はいつも放課後は、サックスを咥えながら校庭を眺めていた。外に向かって吹いたほうが、音が広がっていい練習になるの。教室に背を向けて練習をする私は、尋ねてくる友人に向かってすべてそう答えてきた。だけど違う。ほんとは違う。校庭で、土色に汚れた白球を追いかけるあの人の姿を見ていたかった。練習に集中するため、と言っていたけれど、校庭を見ていたんじゃ全く練習に集中できなかった。私の目はあまりよくないけれど、あの人の姿ははっきりと見える気がした。おかげで私は授業中でも、校庭を眺めてしまう癖がついた。同じ教室にいる、いるはずもないあの人を校庭に探した。そこで、昨日見ていた残像をほんのりと眺めていた。
彼女がいるってことも知ってた。もう誰もいなくなった教室で、校庭を見ながらサックスを吹いていたときだった。私のサックスの音は、グラウンドの整備をしている野球部の一年生だけに降り注いでいた。陸上部のマットを片付ける先生たちの、よいしょ、という掛け声が聞こえてくるほどに、部活の終わった校庭は広く、そして静かだった。そんな中、あの人は髪の毛をふたつに結んだ女の子と肩を並べて校庭を歩いていた。「先輩、今整備してるんだから歩かないでくださいよー」「あ、悪い悪い。ここ歩いたほうが門に近いからさ」ふたりの会話は、空気の乾いた校庭に目立っていた。彼女の姿は今でもはっきりと覚えている。彼女の姿もあの人と同じように、目をしかめなくてもはっきりと見えた。
つまさきが痛い。石は転がる。道の端。
ふわり、と後ろから風が吹いて、誰かが私を追い抜かした。菊地宏樹とその彼女。腰ばきした学生ズボンと、少し短めのスカート。彼女の足が石に当たって、石が道路の脇へと落ちた。
石は、落ちた。
私は何に願掛けをしていたのだろう。
私は、歩く。
この石を家まで蹴りつづけることができれば、私はあの人に振り向いてもらえるとでも思っていたのだろうか。
私は、石を追い抜かす。
あの人は私を追い抜かすときに、私だということに気付いたのだろうか。あの人の意識の中で私という存在は、浅野志乃の友人というだけでしかないのに。
風が、吹く。
今日は理科の授業をちゃんと聞いていなかったから、家に帰ってからしっかりと復習をしないといけない。ただでさえ理科は苦手教科なのに、そして特別天体の単元は苦手なのに。でもきっと家で復習しただけじゃちゃんとわかるようになるとは思えないし、一通り教科書を読んだ後に塾に行ってから先生に質問しよう。きっと、長谷川先生の話を聞いていてもよくわからなかったと思うし。たいてい、塾の先生の方が教え方がいいんだよな。
星はまだ、見えない。
受験だって近づいてきている。十二月に入ったて半月ちょっとしたら、すぐに冬休みに入ってしまう。冬休みはやっぱり毎日七時間くらい勉強するべきなのかな。毎日塾の自習室に通うべきなのかな。でもなんだか丸一日を勉強に使ってしまうのってもったいない。別に志望校行くためにぎりぎりの学力しかないわけじゃないから、そんなにがんばらなくても大丈夫かな。あぁでもきっとみんなこの冬休みにがんばるだろうから、追いつかれるのがイヤなら私もちゃんとやっとくか。
…泣くな、私。
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2005/01/17(Mon)19:03:07 公開 / 笹井リョウ
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■作者からのメッセージ
最後のシーンが書きたくて。