- 『歌物語 1/2(?)』 作者:ゅぇ / 未分類 未分類
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全角41240文字
容量82480 bytes
原稿用紙約120.15枚
【奈綺】
煙霞をくぐり 負けぬと誓う
これぞ我が身のゆく道ぞ
耀う泡雪踏みしめて
広がる大地を駆け抜ける
ちっ、と軽く舌打ちをして奈綺(なき)は男の首から長針を引き抜いた。血ひとつ流れてはおらず、見えるか見えないかの小さな傷ができているだけである。腰に挟んでいた手布で、奈綺は猛毒の塗られた長針の先をぐっと拭った。うっすらと、男の血が布に滲んだ。
北に柳(りゅう)、南に堯(ぎょう)。南北を大国に挟まれながら、その中心に舜(しゅん)はある。ここは舜の都、宮殿から少し離れた森のはずれ。しん、とした木立の中で奈綺が殺したのは、先日文官として宮廷に伺候してきた男であった。北のなまりがある。何かおかしい、と思って尾けていると、案の定この森のなかで鳥の足に文をつけて飛ばそうとしているではないか。慌ててそこを後ろから狙ったのだった。忌々しげに奈綺は、死んだ男の顔を靴先で仰向ける。
(……運が悪かったね)
軽く合カをして、奈綺は後ろをふり返った。気配があった。
「出て来な、支岐」
木立の中から若い男が出てきた。整った顔立ちをしているが、その表情にはひどく奈綺を嫌がっている色がありありと表れている。支岐(しき)という若者である。
「何だよ」
「この男、間者ではないと言ったのはあんたね。どのツラさげて言ってる? ご立派な間者だったじゃないか」
色白の美しい容貌をしながら、ひどく口が悪い。耳に心地よい声色で悪態をつく奈綺を、支岐は心底嫌そうに見た。痛いところを突かれた形だった。
「……これ、始末しておいてよ」
その美しい仕草ひとつひとつにカチンとくる。
「もう少し女らしくしたらどうなんだ」
「『風の者』に、そんなものが必要だとでも?」
「…………」
ぐっと詰まる。だが確かに、正論だった。『風の者』には、男も女も関係なかった。『風の者』とは、つまり間者のことを指す。それは巷を徘徊するただの間者とはわけが違った。物心つく前から、死ぬような思いをして鍛えこまれてきた者たちである。間者の世界において、頂上に君臨するのが『風の者』。そんな称号を与えられている。
「陛下がお呼びだったぞ」
腹立たしい思いをこらえて、支岐は奈綺に伝える。もっと早く言え、というような顔でこちらを見ながら、奈綺がこちらに後ろ姿を見せて歩いてゆく。美しい後ろ姿だと思う。あの性格の悪さと口の悪さがなければ、本当に美しく雅な娘だと思うのだが。そう、初めて出会ったときには思わず『風の者』としての領分を出て惚れそうになったくらいだったのに。ひとつ口をひらけば、こちらが言い返せないほどの毒舌を吐く。驚くほど気性の強い女だった。美しい瞳には、感情がまるで見えない。
『風の者』は、舜を起源とする間者の集まりである。はるか昔の代の舜帝が『風の者』と名付けたのだと、確か書庫の古文書に書いてあったはずだ。『風の者』には家族がいない。捨てられた子どもや、孤児院から素質のありそうな子どもを捜して鍛えあげるのだった。
物心もつく前から、まず大きな盥(たらい)に張った水に厚めの唐紙を浮かべ、その上を歩かされる。紙を破れば死ぬほど折檻されるのと、それからまだ小さい子どもであるために、一定の期間を経ると不思議と歩けるようになるのだ、水の上を。それを克服できない者は、見捨てられるか殺された。 体力のある男児でも、烈しい鍛錬に耐え切れず死んでゆく者が多い。死んでも、家族がいないので誰も文句を言わない。死ねば、山の中にでも軽く埋葬されるだけだった。
少し大きくなると、日々少量の毒を飲み続け、多少のことでは死なぬ身体を作りあげる。これで毒に冒されて死んでいく子どももいた。火遁の術を会得し、関節を外して縄を抜ける練習も死ぬほどさせられた。一通りの武術は無論こころえ、方々の国の方言まで教わる。
そうして昇りつめるのが、『風の者』だった。その『風の者』の中で最も恐るべき存在であると謳われているのが、奈綺だった。線の細い女児だったが、他の誰よりも間者としての素質を持っている子どもだった。師匠たちは皆驚きの視線でもって奈綺を可愛がった。体格の良い男児がどんどん脱落していく中で、たいした病気もせずに奈綺は育った。
怪我をしても、師匠に泣きつくことなど決してしない子どもだった。同じ郷(さと)の生まれだったためにいつも一緒に奈綺と訓練を受けてきたから、支岐はよく彼女のことを知っている。奈綺が泣いているところなど、見た覚えがない。風邪をひいて体調が悪いときでも、他の子どもより走るのが早かったし、訓練も優れていた。
あれは天性の『風の者』だと、師匠たちが噂しあっていたのを思い出す。あれに、感情はあるのだろうか。涙を流すことが、あるのだろうか。不思議に思う。まさか、人を愛することなど彼女にはないのだろう、とも。
「陛下、奈綺です」
豪奢な織布の向こうから、入れという声がかかった。若々しい声である。麻衣(あさぎぬ)のまま膝をつき、奈綺は拱手した。唯一、奈綺が心から慕い敬う人間であった。
「奈綺か。この頃よく飛び回っているが……身体は平気か」
二十五前後の若い皇帝である。『風の者』は彼の寛容さを慕い、忠誠を誓った。彼の両親はもうおらぬ。父帝はもちろん崩御し、母宮もずいぶん昔に逝去した。人望の厚い彼は、問題なく帝位についたのである。
「平気です。何か、御用だったのでは」
「ああ、頼みたいことが」
「はい」
ちょいちょい、と手招きをされて奈綺は足音も立てずに彼の傍へ歩み寄る。麻衣は汚れてこそいなかったが、裾がほつれていて何ともこの室(へや)に似つかわしくなかった。きつく締めた腰紐には小太刀が挟みこまれていて、そこから幾つか小袋がさがっている。
動きやすいように、途中でばっさりと切られた衣の裾から長い脚がすっと伸びていた。すり傷や、ひっかき傷だらけだったが美しい脚だ。簡単な布靴は履いていたが、その踵にも幾つか傷痕が見えた。何の飾り気もない姿だったが、ただひとつ胸元に翡翠の首飾りだけをつけている。それが、またひどく彼女を美しく見せていた。
「行ってくれないか」
「はい」
どこへ、とは訊かない。
「すぐに発てばよろしいですか」
「ああ、柳へ。この後宮に一人、柳の間者が紛れこんでいるようでな」
静かな声で言う。奈綺はひそかに眉根を寄せた。近頃、柳の間者が多すぎる。柳帝は、賢明ではあるが冷酷非道だと聞く。何を考えているのか。
「戦の準備をしているかもしれぬ。それを確かめ、本当ならば止めてくれ。しばらく向こうにいても構わない」
どのような手を使っても構わない、ということだ。御意、と奈綺は深く頭をさげる。そして、豪奢で美しい室からするりと抜けだした。しばらくは、この皇帝の顔を見ることもないだろう。そんな予感がした。途中、戻ってきた支岐とすれ違って悪態をつかれた。うるさい男だ、と思う。黙っていればそれなりの男なのに、何故ああもあたしに突っかかってくるんだろう、と。干渉されたくなかった。それが同じ『風の者』であっても、必要以上に関わりあいたくなかった。宮廷の片隅に皇帝が設けてくれた私室に戻り、夜を待つ。後宮に間者が紛れこんでいるならば、柳へ向かって発つことを知られるわけにはいかなかった。
毒の入った小瓶と、それから毒を塗った長針を腰からさげた袋にしのばせる。そして、小太刀を綺麗に研いた。風で乱れた髪を、黒い紐でくくりあげる。いつだって、こうすることで心が何度でも引き締まる思いがするのだった。年頃の娘たちが憧れるような美しい衣や輝石に興味はない。動きやすく丈夫な麻衣と、闘うための幾つかの武器があれば良かった。
後宮の妃たちが美しい衣を着て華々しく宮中を歩いているのを見ても、羨ましいと思うことすらなかった。『風の者』の女の中には、妃たちを羨み敵意を持つ者もいる。それが、奈綺にとっては不思議でならなかった。華やかな生活かもしれない。娘たちの憧れかもしれない。だが、あれに何の魅力を感じるのだろう。
日々することもなく、皇帝の寵を得るために争い、徒党を組み、嬌声をあげる。まるで輝きのない人生に見えた。自分には合わない、と思う。たとえいつ死ぬか知れぬ人生であっても、常に激動の中に身をおいておきたかった。他人と徒党を組み、あの動きにくい衣を揺らしながら生きていく。寝台で皇帝を待つだけの人生は、つまらないと思う。
そして夜が来る。昼間から灯かりをつけずにいた、真っ暗な室。奈綺は扉から出ずに、そっと窓をあける。そっと風の音を聴いた。葉摺れの音に変化はなく、暗闇に慣れた奈綺の目が何かを見つけることもなかった。宮中から出るときは、いつでも細心の注意を払う。
室は地面からずいぶんと高いところにあり、飛び降りるには高すぎた。腰紐をくるくると外して鉤を結び、それを窓にひっかける。そして二度ほど脚を石壁に叩きつけただけで、地面へ飛び降りた。うまいこと腰紐の先の鉤を動かして、窓を下ろす。そして腰紐を再び腰に締めて、奈綺はまっすぐに厩舎に向かった。
奈綺が一番気に入っているのは、いつも厩舎の奥で暴れている牡馬である。輝くような黒毛で、利かん気の強い若馬だ。何故か、不思議と奈綺に懐いていた。そっと鼻面を撫でてみると、よく濡れており体調も良さそうである。
「今回もあんたに頼もうか」
決めると、早かった。手早く引き綱をはずし、傍らにあった人参の欠片をいくつか与える。宮仕えの馬丁が触ろうとすると怖ろしいほどに暴れる馬だったが、奈綺の手には驚くほど素直に従った。厩舎の裏口から、彼を引き出す。
夜風が少し冷たい。奈綺は、鞍もつけずに馬に飛び乗った。寝静まった宮殿をふり返り、一度だけ深々と礼をする。そして大門を抜けて市街地を避け、北へ向かった。それからはもう二度と、ふり返らなかった。ただ一心に、柳へと駆ける。
【柳へ】
長安一片の月、萬戸衣(きぬ)をうつの声。
秋風吹いて尽きず、すべて是れ玉関の情。
何れ(いずれ)の日にか胡虜を平らげて、良人遠征を罷(や)めん。
『子夜呉歌』李白
【長安城の空高く澄み渡る月は、静かに町の家々を照らしている。くまなき月光の下で、あちこちで砧(きぬた)をうつ音がきこえる。もう肌寒い秋風が、城中を吹いてやまぬ。何を見るにつけ、何を聞くにつけても、どうしても思いは玉関の彼方に出でて帰らぬ人の上に集まるばかり。嗚呼、いつになったら夷どもをうち平らげて、愛しい人は遠征から帰ってくることであろう。】
舜の都を出て馬を一日も駆れば、白山の麓へ辿りつく。都から遠ざかれば遠ざかるほど、賑わいもなくなり、民家も減っていく。白山は、美しい山だった。冬になればこの辺りでは一番に雪化粧を施し、見るものを感心させる。だが、常人で山に入って帰ってきたものは殆どいない。遭難するか、山賊に身ぐるみ剥がされて殺されるか。白山に入ればそのどちらかを選ぶしかないと、そう言われていた。雪のないこの時期であれば、山賊に遭う可能性が最も高いと思われた。
白山の麓に最も近い村まで来て、奈綺は馬を下りる。馬の背に結びつけていた乾し魚と豆の袋を腰に移す。それから最後の水袋を取り出して馬に飲ませ、人参を無造作に割って食わせた。ここからは、己の脚が頼りである。馬は帰してやらねばならぬ。
「よく頑張ったね」
馬の鼻面に頬を寄せて囁いた。彼がいやいやをするように幾度か首を振り、そしてぶるんっ、と鼻を鳴らした。この次はいつ会えるか分からぬと、彼も知っているのだ。
「帰りな。おまえの脚なら、明日の夕暮れには都へ帰れる」
ぽんっ、と馬の尻を叩く。ぐるぐるとその場で数回まわると、馬は小さく鼻を鳴らして駆け出した。美しい黒毛が、同じ色の闇中に溶けていく。それを見送って、奈綺は水袋にわずか残った水分で唇を潤した。まだ微かに、駆け去っていく馬の蹄音が地面を伝って感じられる。しん、と残った静けさが奈綺を包んだ。
村を避けて山に入る。間者ですらも、命を落とすことがある白山であった。漆黒に近い闇のなかで、確実に奈綺は北を目指す。麓とはいえ、慣れていない者であれば息が続かないほどの高度があった。夜になれば肌をさすように冷たい風が、木々の間を縫って吹きつけてくる。奈綺は、羊皮で作った指なしの手袋をきゅっとはめた。牛皮と違って、こすれても音をたてない素材である。それに、柔らかい。
(……今日は特に冷える)
獣道ともいえないような道を、奈綺はいとも簡単に歩いていく。
(嵐が来るな)
辺りの空気をくん、と嗅いで奈綺は軽く舌打ちをした。水を含んだ臭いがする。山の天気が変わりやすいというのは確かに本当で、特に晴れているときは驚くほど急激に天気が変わる。あまりに晴れすぎているときは、村の者が登山者をとめた。
山の嵐気が、切るような冷たさをもって奈綺の身体を貫く。しかし、それでも奈綺は平然と山越えを遂行した。腹が減れば干し魚と豆を交互に頬張り、喉が渇けば沢に下りて水を飲んだ。温かい毛布も整った食卓もここにはなかったが、ここが己の戦場だと思うと何も苦にならなかった。奈綺は、幼い頃から戦場が好きな子どもであった。他の子どもたちがどれほど戦場へ行くのを嫌がっていても、奈綺は決して嫌がらなかった。むしろ自分から、常に師匠について戦場へ赴こうとする子どもだった。そこが、奈綺の居場所だったからである。
妃たちが、美しい衣を着て宝石を身につけて、優雅に宮廷内を歩いているのはずっと以前から目にしている。それは特に醜いものでもなかったし、かといって美しいものでもなかった。だが、そこは奈綺の居場所ではありえなかった。自分の血を流してでも、己が仕えた主君と祖国のために闘うことが奈綺のすべてだった。だから、かまわない。たった一人孤独のままにこうして山越えをしていても、別段苦しくとも何ともなかった。
白山を越えるには、奈綺の脚でも一日半かかる。山の中腹をまわれば近道になるが、山賊が多いために奈綺は敬遠した。毒針にしろ小太刀にしろ、無駄に使いたくないのである。素手で勝とうと思えば、それもまた可能ではあったが、しかし疲れる。山賊退治が、奈綺の仕事ではなかった。だから奈綺は、一気に頂上までかけあがってから、下山する。
(天気が崩れる)
奈綺は、足を速めた。先程嵐が来ると予測してから数刻も経ってはいなかったが、すでに空を見上げると暗雲がたちこめている。ぽつり、と奈綺の頬に冷たいものが当たった。
「…………ちっ」
そこからは、早かった。しばらくぽつぽつと降っていた雨が、まるで滝のように落ちてくるまでに時間はかからなかった。稲光が幾度か奈綺を照らしたが、雷鳴はまだ遠い。
雨は、まるで舜帝の室に掛けられている豪奢な織り布のようであった。轟音をたてて、白くさえ見える雨が眼前を遮る。丈夫な皮袋も水浸しで、干し魚が水気を吸ってふくらんでいるのが分かった。奈綺は、立ち止まって干し魚をすべて口の中に流し込んだ。濡らしたままで置いておくと、臭いがつく。臭いがつくと、他所の間者に暴露(ばれ)ることがある。奈綺はそれを警戒した。水気を吸った干し魚が、妙に不味い。眉をしかめて、奈綺はそれを飲み下した。豆の袋も、紐を解いた。天を仰いで、雨水と一緒に豆を胃袋へ流し込む。いくつか腐った豆もあったようで、敏感にそれを口の中で探り当てては吐き出した。
(ひどい雨)
思いながら、その激しすぎる雨に皮袋を当てて軽く洗った。裏返した皮袋についていた豆やら干し魚のかすが、勢いよく流れてゆくのが分かった。
それは恐怖との戦いである。時折轟音とともに崩れ落ちていく大きな岩、そして土砂。眼前はまるで布のように豪雨に遮られ、ろくに前方を確認することもできぬ。
それでも奈綺は、崩れ落ちてくるものを器用に避けて柳を目指した。怖ろしい、と思えば確かに怖ろしいことをしていると自分でも思う。が、その恐怖を恐怖と思わぬ育てられ方をしてきたのだ。怯えて山越えができぬのは間者の恥である、と奈綺は思っている。間者に……いや、『風の者』に怯えなどあってはならぬのだ。『風の者』にとって、怯えや恐怖は死の通告に等しい。怯えたときが、『風の者』としての最期だと思っても良かった。
ごっ、と湿った音をたてて小石が足元から崩れ落ちていった。できる限り、誰も通ったことのないような獣道。いや、獣すら通らないような道を選んで進んでいく。辺りに気を配りながら走って、どれほど経っただろうか。朝陽が昇る、兆しが目に飛び込んでくる。あと丸一日、山で過ごさなくてはならない。無茶をすれば死ぬ、それが白山越えである。奈綺の山越えは無謀とはいえ、それでも最低限の注意を払うことは忘れなかった。
いつだっただろうか、馬鹿にされたことがある。何のためにそんな危険な道をゆくのか、と。一国の君主にそこまで忠誠を誓う必要があるのか、と。後宮の姫君たちにも、時折それに似た言葉を投げかけられる。そんなに薄汚れた姿で、女としての幸せがどうしてつかめるかと彼女たちは言うのだった。
(……そろそろ雨がやむか)
だが、危険な道をゆくのに理由はいらなかった。他の人間には必要だったとしても、奈綺にはそんな理由などいらない。それだけの話なのである。一国の君主にそこまで忠誠を誓う必要があるのか? 必要があるとか、必要がないとか、そんなことは問題ではない。『風の者』は舜帝直属の間者なのだ。主君に誠心誠意伺候する、それだけでいい。考える必要などない。……薄汚れた姿で、女としての幸せがつかめるか。そんなものは望んでおらぬ。
人間としての幸せも、女としての幸せも別に望んではおらぬ。ただ、生きがいを感じている。『風の者』として生涯を生き抜くことに。それ以外に、奈綺は何も必要だとは思っていない。戦場が、奈綺の生きる場所だった。それがどんなに血で汚れていて、それがどんなに苦しみの連続だったとしてもかまわない、あのきらびやかな宮殿や温かい家庭などというものに奈綺は何の魅力も感じなかった。同じ『風の者』の支岐でさえも、愚痴をこぼすほど奈綺は何もかもに無頓着で、無関心だった。
(何とでも言わば言え)
私のすることは、私以外に知らなくて良い。奈綺はいつでもそう考えている。己の考えを読まれることが、この世で最も嫌いだった。誰が何といってもかまわない。奈綺は、ずっと前の幼い頃から己のゆく道を見つけているのだ。だから、何の雑念もなくこうして山越えを敢行できる。
湿った風が、少しずつゆるんできていた。雨が上がる、そんな気配がする。
木々の枝先から、音もなく雨雫が落ちてゆくのを見つめる。柳と舜を隔てる蒼河が近い。それは同時に柳が近いということを示している。奈綺は履いていた皮の沓を脱いで腰帯に挟みこんだ。鬱葱と生い茂る木々のなか、奈綺の眼下には大河が広がっている。足元は崖、雨上がりのぬかるみにほんのわずかでも足を滑らせれば、命はないだろう。幾つか突き出た岩に頭をぶつけながら河へ落ち、そして落ちたときには見るも無残な姿になっているに違いない。しかし奈綺は、それを気にする様子もなくひょいと崖下をのぞきこんだ。後宮の妃たちが見れば、きっと絶叫して気を失うだろう。
(……さて、行くか)
暁方の頃合いを狙って、奈綺は丈夫そうな蔓を岩から剥がした。丈夫そうなそれを、何本も切っては繋げ、その大元をすぐ傍らの大木にきつく結ぶ。奈綺ほどの体重なら、これでも十分下へ降りることができる。一瞬の躊躇いもなく奈綺はその蔓の端を手にすると、とん、と地面を蹴った。幾度か崖断面に足をつきながら、ものの十数秒で河にたどりつく。
河原はここにはなく、眼前いっぱいに葦が生えていた。一見しっかりした大地のようではあったが、そこはたいそうなぬかるみ。足がずぶずぶと沈んでゆくのである。奈綺は、手近にあった葦の中で最も太いものを選んだ。根の部分を小太刀で切って空洞になっているところを口にくわえ、それで自分の口内に空気がきちんと送り込まれてくるかどうかを確認した。そして、音もたてずに河へ入る。ごく静かに、大きな波紋がすうっと広がった。
河水は、凍るように冷たかった。身体中の感覚がなくなるほどの冷たさだったが、奈綺は怖ろしいほど平然と水へ潜る。細い葦の管から、細々と空気が入ってくるのがわかる。
(……水草が)
水草が足に絡まる。手首に絡まる。濁った水が視界を遮る。だが、奈綺は絡まる水草を両手で器用に引きちぎりながら進んだ。視界は曖昧だったが、最早視覚には頼っていない。ただ確かな感覚で、柳――つまりまっすぐ北を目指して河水の中を泳ぎ続けた。いや、まっすぐ北というと語弊があるかもしれぬ。対岸に柳軍が陣を敷いているかもしれない、その可能性もあるため、いくぶん東回りで蒼河を渡る。
そうしてどれほど手足をゆるやかに動かし続けただろうか。水を通して、小さな揺れを敏感に感じて奈綺は一度動きをとめた。そういった奈綺の感覚は異常なほど鋭く、動物的といってもよかった。
(…………)
水を通じてごく小刻みに伝わってくる振動。対岸に何かいる、と奈綺は確信していた。水面にわずかの波紋もたてないように、彼女はするすると水中を移動していく。対岸に何かの気配を感じてからおおよそ半刻ほど泳ぐと、そろそろ陸地が近づいてきた感がある。奈綺は今いる場所よりも、もう幾分東の対岸に向かってすすんだ。
(ここか)
そっと手で前方を探る。ごつごつとした岸の感覚が、奈綺の手に伝わってきた。そっと岸に頬をつけて、様子を窺った。時折風に揺られる草木の音が聞こえるだけであったが、しかし奈綺の六感は確実に何かを捉えている。ほんのわずか、風にのって聞こえてくるがちゃがちゃという鎧の音。そして足踏みでもしているかのような馬の蹄音。そのどちらも、おそらく常人では決して聞き取れないくらいのものであったが、奈綺にははっきりと感じ取ることができた。柳が、軍を敷いている。奈綺の眉が、ひどく不機嫌にひそめられた。
水音をたてないようにして、そっと陸へあがる。白山から蒼河に入ったときとは異なって、ここは平地。陸へあがるのは、相当容易である。ずぶぬれの身体をそっと草木になすりつけて適当に水を落とし、頬にへばりつく髪を後ろに撫でつけた。時間が、ない。
(戦になる、急がないと……)
もしも柳が、全軍を舜にぶつけてくるつもりなら奈綺にも止められない。できるだけ急いで柳の進軍をやめさせねばならぬ、という思いが奈綺の脚を早めた。足音もたてずに、そっと軍の気配がするほうへと歩いていく。
「おいっ! 何をしてる!?」
ちっ、と小さく奈綺は舌打ちをした。ここで足止めをくらっているわけにはいかない。どうやら兵士は一人のようだ、一人で軍陣から離れて用でも足していたとみえる。
「おまえ……間者か!」
「それが何か」
「舜の……」
「さて、どうかな」
兵士は、剣を抜いている。柳特有の、無骨な剣である。舜や尭でよく見られる装飾用の美しい剣ではなく、人の骨を芯から叩き斬るために造られたもの。青銅器に鉄を混ぜてできており、それは女子供にはとうてい扱えるものではない。ひどく重く、素っ気ない剣だった。
兵士に丁寧に受け答えをしながら、奈綺は腰布に手をやった。
「女の身でご苦労なことだが……死ぬぞ!」
言いながら兵士が、大柄な身体をこちらに向けて剣をふりかざす。その瞳に、気楽そうな色があった。女というだけで、明らかに安心している双眸である。
「そう、ご苦労」
兵士の動きがとまった。血走った目を剥いたままこちらのほうへ倒れかかってくる大男をひょいと避けて、奈綺はそれを無表情に一瞥した。その美しい顔には、実に表情がない。表情がないだけに、怖ろしいほど美しく透明感があるようにみえる。男の首筋に見事に突き立った長針を、奈綺は抜いた。腰布でその先端を拭い、再び軍陣があると思われるほうへ足をすすめる。長針を無駄に使いたくはなかったが、それでも殴り合いをして大きな気配をたてるわけにもいかなかった。……さて、どうするか。
「…………」
大木の陰からそっと前方を見つめる。ちらちらと篝火が焚かれているのが、よく見えた。蒼河まで進軍していては、今から手をうつのは難しい。いちかばちか、奈綺は歩き出した。止まりそうにない進軍をとめるにはどうしたらよいか。答えは今のところひとつだ。頭を取れば良い、奈綺は濡れた紙を腰から出して小さく手を動かした。
『可。心配後無用』
それだけを書いて、小さな草笛を吹く。人には聴こえぬ音を出す笛、これで奈綺の飼いならしている雀が飛んでくるのである。他の『風の者』たちは、梟や鷹など見栄えのよい鳥を伝達に使うことが多いようだったが、奈綺はあえてどこにでもいる平凡な雀を選んだ。
(急いでもらおうか)
手元にやってきた小さな雀の足に、ごくごく細く折りたたんだ紙を器用に結びつける。そして、軍陣から見えぬようにそっと舜に向けて飛ばした。これで今日の夕方から夜にかけての間に、舜の宮廷につくであろう。奈綺はそれから再び歩き出した。
一瞬、風が動いた気がした。本能的に奈綺は、飛びのく。鼻先を、小さな太刀がかすめる気配がした。
(……なに!?)
ほとんど気配がなかった。ただ、わずかに冷気を感じたような気はする。
「何をしている、ここで」
「…………」
低い声だった。心の奥を震わせるような、底冷えのする声であった。奈綺は、しかしそれに怯えることなく声の主を見据える。黒髪の、若い男だ。肌は黒くないように思われるが、しかし双眸の色ははっきりと分からない。ただ鼻筋がやたらと高く、整った容貌をしているのが見てとれた。間者か、兵士か、何なのか。
「ここまで他国の間者が来ていながら気付かないとは、柳軍の質も落ちたものだ」
ひどく落ち着いた声である。
「で、おまえは舜から来たんだろう。何をしに来た」
「……進軍をとめに」
「ほう、今から? 遅いぞ、進軍は止まらない」
まったく攻撃してくる気配がない。殺そうか、とも思ったが、あえて奈綺は己の手をおさえた。男の放つ空気が、尋常ではなかった。憎悪も殺気もないが、温かみもまるでない。
(……そうか)
「柳帝に会わせて」
「……皇帝に会ってどうする」
男が、喉の奥でくっくと嗤った。傲慢さが見え隠れする嗤いだったが、それがあまりに自然で気にならない。気にならない、ということを奈綺は気にした。だが、今は時間がない。一刻もはやく柳の進軍をとめねばならないのである。この蒼河を渡らせてしまえば、手遅れになる。その思いが奈綺を動かした。
「進軍をとめてもらおう」
予感が、あった。ある予感が、奈綺を無謀な行動へと駆り立てていた。
「進軍をとめてもらおう」
奈綺は、もう一度言った。
【氷点】
我が心 石にあらざれば 転がすべからず
我が心 筵にあらざれば 巻くべからず
威儀棣棣(ていてい)として 選たるべからず
『柏舟』
『私の心は石ではないので 簡単に転がりはしない
私の心は筵ではないので 容易に巻き上げられたりせぬ
礼儀正しく威厳を保ち 卑屈になどなりはせぬ』
少し向こうで、篝火がはぜる音と鎧を着脱する音がしている。ただ奈綺とその男のまわりだけが、静謐として音がない。奈綺の目は静かだ、だが爛々と深く炎をたたえている。
「進軍をとめてもらおう」
男が、腰にさげた皮袋の水を口に含んだ。形の良い、しかし酷薄そうな唇がしっとりと濡れるのを奈綺はじっと見つめる。
「……進軍をとめてもらおう、か。まさかただで止められるとは思っていまい」
当然だ、多少の犠牲なら払おうぞ。だいたい奈綺と支岐がいながら、柳からの間者を見逃し、またそのうえに後宮の間者を見逃した。己の責任である。
「進軍をとめて」
「さて、俺に言われてもな」
男がまた嗤った。野生動物のように煌めく炯眼が、獰猛にみえる。この男なら、視線で人を殺すことさえもできそうだった。
「俺は……柳の間者だから」
「……ちがう」
「なに……?」
男の双眸に、仄暗い光がちらついた。
「ちがう、と言った。あんたは間者じゃない」
「俺が偽ったとでも」
「……それ以外に何が?」
一瞬たりとも視線をはずすことはできなかった。視線をはずせば、何とか保たれた均衡が一気に崩れる気がした。ただ、凝視する。さあっ、と風が吹いていった。視界の隅で、篝火が揺れているのが分かる。
「俺は、間者だ」
「ちがう。その仕草も瞳も、間者ではない……間者ではなく」
「間者ではなく?」
「……貴族の色だ」
予感は、それだった。さきほどからずっと男を観察していた……瞳が獰猛すぎる。間者に必要な静謐さが、まだ足りない。そして仕草。仕草が尊大で、間者にしてはおおらかだった。そして手足を見ても、目立った傷痕がないのである。間者であれば脚、特に踵に傷があるのが普通だ。猟犬に噛まれたり、山林を駆けたりすることで踵は石のように固くなる。見たところ、男の踵は美しく傷痕ひとつなかった。
男が、黙った。しかし動揺した、という表情ではない。先ほどよりも、さらにその双眸が険しく光を帯びた。
「俺が、貴族だと?」
時間がなくなる。
「……噂は聞いている。漆黒の髪に碧眼、冷酷な悪魔と怖れられる北の皇帝」
「……おまえ」
これは賭けだった。真っ向から相手に対峙するのは、間者としては珍しい。何もかもさらけだして、どこまで通用するか。そう、これは賭けだった。
「おまえ、名は」
「……奈綺」
奈綺は、己の真名を語ることを怖れない。
「おまえが噂の『風の者』か」
呟くように、男が口を開いた。『風の者』奈綺の名は、どうやらこの男の耳にまで伝わっているようだ。奈綺の名乗りを聞いて、納得したかのように彼は薄く笑った。
その薄い笑みが、気高い。卑しい色の欠片もなかった。己の価値を知っている男のようである。奈綺は、小太刀に細い手をかけた。この細い手で数え切れないほどの命を殺め、この細い身体で数え切れない戦場を駆け抜けてきた。人を殺すことに、奈綺は何の躊躇いも感じない。それが必要とあらば、殺すだけである。奈綺は、ただ静かに小太刀に手をかけたまま男と向き合った。遠くから聞こえてくるざわめきの中で、ひっそりとした時間が流れた。
「……見返りはもらわなくては気がすまないな」
「何を望む」
「人質を」
人質を、と言って男は奈綺に顎をしゃくってみせた。
「……おまえだ。おまえを望もう、おまえが人質として柳に残ることを約束するならば、兵を退こうではないか」
奈綺の顔が歪んだ。人質として柳に残る? 奈綺の祖国愛は強い、強いだけに早く主君のもとへ帰りたい思いも一入(ひとしお)だった。奈綺の瞳が、豹の瞳のように鋭く光った。
(考えよ。……己がどうすべきか考えよ。どうするのが舜にとって最良か)
今、男の申し出を拒んで舜と柳の戦が起こるのを待つか。それとも己が人質にゆき、この場で戦をとどめるか。あの美しく賑々しい舜都の様子が、鮮やかに眼裏に蘇る。奈綺は、己の価値を知っている。己がいなくなれば、舜宮廷は確かに困惑するであろう。だがしかし、あの美しき国、美しき都を戦場にするわけにはゆかぬ。
「兵をひけ。進軍をとめろ」
「それが俺に対する態度か?」
ふん、と男が鼻を鳴らす。
「あんたに忠誠をたてた覚えはない」
「で、見返りは?」
男が促した。奈綺の手は、いまだ小太刀から離れない。しかしそのまま、奈綺は片膝をついた。心のままに、という意の行為であった。常の男ではない、と奈綺が出た賭け。勝ったといえないまでも、決して敗れてはいない。しばらくは支岐に祖国を託すしかなかろう。
「潔いことだな、気に入ったぞ。兵を退こう」
ぴぃっ、と男が口笛を吹いた。幽かな蹄音が聞こえ、風とともに黒馬が駆けよってきた。豪奢な馬具がつけられており、奈綺の愛馬とはまるで違う。鞍には、皇室をあらわす龍の刺繍が施されていた。奈綺の予感が、あたっていた。
「運が良かったな、俺が型破りで」
奈綺に殺されるか、とは疑わないようだった。彼は、小太刀にかけた奈綺の手の動きを気にすることもなくひらりと馬に飛び乗る。そして、幾度か前脚をふりあげる元気な黒馬を巧く手綱で操った。そして陣のほうへ馬首を向けて、奈綺に命じた。どう見ても、命じることに慣れている。
「乗れ」
一瞬だけ、奈綺は瞳を閉じた。そして細く美しい身体を、馬上に躍らせた。
奈綺の予感は、あたっていた。
「他国の間者は皆見抜けなかったぞ」
美しい唇に、男が妖艶な笑みをたたえる。
「俺がまぎれもない柳の皇帝だとはな」
奈綺は、誰にも気付かれぬほどの小さな舌打ちをしてまっすぐ前を見た。馬の背が規則的に揺れ、それに連動して奈綺の身体も揺れる。この馬に騎乗しているのはしかし奈綺だけではなく、あの長身の男が一緒であった。
「機嫌が悪いようだな」
統率のとれた柳軍は、彼の命であっというまに退いたのである。連絡網が綿密だった、これではそう簡単に柳に勝てはしないだろう。この状況で、奈綺は憮然としてそんなことを思う。機嫌が良いわけもなく、それを分かっているだろうにこの美しい男は奈綺に話しかけてくるのである。まるで謎の行動ではないか。たった一人の間者の要望を飲み、しかもその間者の身体ひとつを見返りに望むとは。
(それとも『風の者』が欲しいのか)
しかし、と奈綺は二度ほど瞬きをする。帰都する行軍は、まだはるか後方。二人きりといえば確かに二人きりの状態であった。
「私を人質に望んでどうする」
澄んでいるものの無愛想な声音。表立った感情を見せない双眸。奈綺のすべてが、男にとっては不思議と愉しいもののようである。喉の奥を震わせて、愉しそうに嗤う。
「欲しい。理由など求めるな、使い道があるのさ」
「……使い道……」
一瞬の隙を狙って、奈綺は口内に短い針をひそめている。男が不審な動きをすれば、目をつぶせる。喉を狙える。物騒なことを考えながら、奈綺は小さく呟いた。
まあ仕方あるまい。陛下は柳の偵察へ、と仰せになったのだ。こうして人質となって柳都へ入るのも偵察といえなくもないだろう。いざとなればこの男の首を取る、それだけだ。何にしろ、舜を脅かすものに容赦するつもりはまるでない。疑うことが、奈綺の仕事でもある。馬の背が揺れる。男の気配に神経を尖らせながら、奈綺はまっすぐ柳都のほうを見つめた。
石造りの牢に、奈綺は放り込まれた。寒々とした場所で、その気温だけで体力のない者は死ぬのではなかろうかと思われる。しばらくここで耐えるしかないようだった。奈綺を放り込んでから、すぐに男は衣を翻して去った。
(…………)
野菜と肉を煮込んだ汁の入った金碗に麦飯、欠けた陶器と水差しが格子から入れられる。囚人にしては扱いが良い。汁も飯も冷めておらず、温かな湯気をたてていた。時折辺りを鼠が走ってゆく。奈綺はその尻尾を狙って針を吹いた。
「悪いね」
ちいっ、と悲鳴をあげて鼠が動きをとめた。簡単な寝台の布に、尻尾を縫いつけられた状態になって動けないのである。その尾を指先でつまみ、奈綺は金碗の汁と飯を与えた。
腹が減っているのだろう。尻尾におそらく痛覚を感じただろうに、それすら忘れたように貪った。しばらく鼠の様子を見る。飯を食ったことで特に異変が現れるわけでもなく、ただひたすら元気に走り回りだした。なるほど、与えた飯は純粋に彼の燃料となったわけか。
(毒も盛らないとは……)
どういうつもりか分からない。分からないが、目の前に安全な食事があるのは事実である。奈綺は匙を手にとって、汁に口をつけた。支岐だったろうか、敵国で与えられる食事に口をつけるなど自尊心が許さない、などと喚いていたが。
(さて、どうしたものか)
そんなものに費やす自尊心などない。だいたいこんなところで飢え死にするほうがみっともないというものだ。奈綺はそう思っていたが、支岐に通用するはずもない。若いくせに融通の利かない男だ。温かい汁と飯が、じわじわと奈綺の身体を温めた。
どれほどこの柳に滞在することになろうか、予測がつかぬ。奈綺は、ただ常ならぬ空気を纏わせたあの柳帝に賭けようとしていた。とにかく何かを得、生きてここから出ねばならない。それは熱い使命感でもあり、舜への想いでもあった。
―とりあえず柳の国情を探るか。
あの男は、奈綺の使い道があると明言した。あれはいったい何だったのであろうか。私を何に使おうというのか……『風の者』として使うつもりか、それとも女として使うつもりか。あの自信に満ち溢れた双眸を、奈綺は思い出す。底冷えのする瞳であった。
―あの男は侮れぬ。
奈綺の勘は当たる。あれは人を殺してきた瞳だ、そしてまた愚鈍な男では決してない。迂闊に動けば、必ず痛い目に遭うだろう。奈綺が痛い目に遭うということは、同時に舜にも損害がもたらされるということである。奈綺は、己の価値を知っている。舜における己の存在価値の重要さを、奈綺は理解していた。
温かい汁と飯に人心地ついた後、奈綺は囚われの身とは思えぬほど落ち着いたたたずまいで身繕いを始めた。蒼河から上がったときから裸足だった足に、皮沓を履きなおす。まだ幾分水気が残っていたが、特に気にならない。ひとつひとつ長針短針に錆びがないか確かめ、付着した水分を麻衣の裾で拭う。腰の小袋にひそませた予備の針にも、それぞれ丁寧に毒を塗りなおした。
(…………)
ひっそりとした気配に、奈綺は気付いて針の小袋を懐にしまいこんだ。石壁にもたれたまま、格子のはめられた扉を一瞥する。
「……陛下のお召しだ」
石牢にはおよそ似つかわしくない姿をした、文官らしき男が鍵音をさせて扉を開けた。どうしたわけだろう、奈綺の見張りはそれほど厳重ではない。
(私が逃げないと踏んでいるのか……それとも)
奈綺を伴って歩き出した文官の周りには、兵士が四人ほど従っているだけである。奈綺がその気になれば、簡単にこの輪を突き破って逃げることができた。
(それともわざと手薄にして……私が逃げるのを待ち伏せているのか)
柳には、森よりも平原が多い。逃げても平原では身を隠す場所があまりに少なく、脅かされなくても良い危険にさらされる可能性が高かった。何も得ないままここを逃げ出して、危険を冒し平原を突っ切るよりは、おとなしく様子を見たほうが得策だといえよう。
奈綺は兵士たちに左右から小突かれながらも、あたりをしっかりと見回した。石牢が、宮殿のいったいどこに位置するのか把握しておくべきである。長い廊下を幾曲がりもした結果、どっしりとした構えの両開き扉があらわれた。
「ご無礼のないように」
忠誠を誓ってもいない他国の皇帝に、ご無礼も糞もあるものか。奈綺はふんと鼻を鳴らす。長い廊を、華やかな女官たちが忙しく行き来している。湯気をたてる豪奢な膳や、美しい瑠璃の酒器。女官たちが身につけたきらびやかな衣裳。ときおり他国の都にしのびこむことはあるが、宮中まで入ることは滅多にない。だがやはり、どこの宮廷もそう変わりばえしないものである。美しく華麗で、高級感に溢れている。
重々しい音をたてて、扉がひらかれた。ひらかれた扉の向こうには、広大な―そう、広大としか言いようのないほど広い謁見の間が広がっている。それもやはり、舜の宮中とそれほど変わりのない光景であった。だが、舜ほど和やかな雰囲気はこの場にはない。どこかぴんと張りつめすぎているような、冷たい緊張感がある。
正面の玉座には、あの男が堂々と座っていた。彼が真に皇帝であるということを、見事に実感させられたかたちであった。本来ここで顔を上げたままでいるだけで、無礼討ちにされても文句はいえない。だが、奈綺はただ視線を上げ、拱手することもなく皇帝を見据えた。その隣に、彼よりもずいぶんと年上に見える男とその妻らしい女性が腰をおろしている。
「拱手を!」
文官が奈綺に拱手を求めた。
「それがおまえの拾った娘か」
「ええ、叔父上」
その言葉で、皇帝の傍らに位置する男女が彼の叔父夫婦だということが知れた。脂ぎった感のある中年の男。そしてそれに似つかわしくないほどに若い美しい妃である。おそらく正妃を蹴落としてのしあがった寵姫に違いない、と奈綺は直感した。
「それを祭りに出すというのか?」
文官が横で奈綺を小突く。こうるさい文官だ、と奈綺は視線を伏せ拱手した。
「ええ。面白い余興になると思いますが」
「ほう……どう思う?」
祭り、とは何だったか。記憶の糸を手繰り寄せる。
(…………)
「よろしいのでは? 愉しそうではございませんか」
「まあ、そうだな。初めて女が加わるということだし……」
「その娘がどこまで生き残れるか、見物ですわ」
ほほほ、と上品な笑い声。妃の髪に挿してあるであろう簪が、しゃらしゃらと華やかな音をたてた。
「娘一人に男と同じ条件で戦わせるのも面白うない、好きな武具を取らせようぞ」
(……祭りとは、あれか)
思い当たるものは一つしかない。柳で毎年行われてきた祭り―豊饒祈願の祭りと称しながら、実のところは貴族皇族の娯楽であるといわれている行事である。奈綺は、その目で見たことはないものの間者づてに伝わってきた報せを思い出した。皇族たちの私兵や獣を使って、捕虜や志願してきた平民を争わせるものだと聞いた。三十日間にわたって催される祭りを生き延びた者には、多額の賞金が出るという。なるほど、と奈綺は理解した。
(私はその祭りに出されるわけか)
「下々の者が血を噴き出して死んでゆく様、本当に滑稽ですもの」
「叔父上、では仰せのとおり武具を選ばせましょうか」
皇帝がぱちん、と手を鳴らした。衣擦れの音がして、武官が数々の武具の類を広間へ持ち込んでくるのが気配で分かった。がしゃがしゃ、と物々しい音をたてて武具が奈綺の前にぶちまけられる。奈綺は、視線を上げることなくそれに目をやった。いや、今視線をあげて皇帝の叔父夫婦を見てしまえば、この手が彼らを殺そうと動きそうな気がした。
「この娘、どこまで戦えましょうかしら」
朗らかな妃の笑い声に、謁見の間に居並ぶ貴族たちがくぐもった笑いを連動させる。
(…………)
これが貴族だ、と奈綺は思った。何の意味もなく、必要性もなく娯楽で人を殺める人間どもだ。奈綺の闘争心が、ふと彼女の瞳を光らせた。鉄と青銅器を混ぜて造られたと思われる一振りの剣に目を留めながら思う。ここに居並ぶ貴族たちを、この剣でただの肉の塊にしてやりたいと思う。それが実のところ、今現在の奈綺の素直な願いでもあった。
「娘、好きな武器を選べ」
皇帝の声である。奈綺は躊躇うことなく、その鉄剣を手にとった。おそらく舜に帰るための第一歩となろう、この祭りを生き残ることが。貴族たちの娯楽によってやすやすと死ぬつもりは、まるでない。祭りに出されることに、欠片の逡巡もなかった。
―機会があれば、殺してやる。
奈綺の指先が、冷たい。
【紅の祭】
神の子よ 自由に気ままに生きるが良いと風が囁く
愛しき神の申し子よ 風の声が聴こえるか 大地の声が聴こえるか
霞む未来のそのなかに 己のゆくべき道標
たとえ血塗れるこの手にも 握れる欠片の真実よ
奈綺の瞳が凍るように冷ややかだった。戻された石牢の中、堅すぎる寝台に腰掛けて何ということもなく無数の針を弄ぶ。指先に、慣れた感触が心地よく伝わってきた。明日の正午から始まるという祭りを前に、ぼんやりと考えこむ。これから三十日間、ただ戦っていくだけの毎日になるだろう。
先刻の皇帝と、その叔父夫婦のやりとりを聞いていたところでは、今までに祭りを生き抜いた者はいないようだった。女が加わるのもどうやら初めてのようである。どうしたものか、と奈綺は針を撫でながら思った。
残さず食べた汁と飯の器。水差しを無造作に蹴りとばして、奈綺は薄い布団に入る。虫の喰った痕のあるごわごわの布団を顎まで引き上げると、それでも身体はあたたまった。舜の宮殿内に与えられた私室にいれば、ふわふわの毛布としっかりした寝台で寝ることができる。
だが、こうした過酷な状況には慣れすぎるほど慣れていた。むしろこの身を刺すような寒さが、生きている実感を奈綺に与えた。
「……何の用」
布団を頬あたりまで引き上げておきながら、近づいてくる気配を逃さない。ややもすると気付かないような薄い気配に、奈綺は布団の中から声をかけた。間者とも異なる気配の消し方、ちょうど蒼河のほとりで驚かされた気配と同じものだ。
「敵地のど真ん中へやってきて出された食事をたいらげる、か。大した度胸だ」
奈綺の石牢は、どうやら他の囚人たちとはまた別の棟に設けられているらしい。辺りに他の人間の気配もなく、番兵も払われたようだった。転がった器を見て、男は小さく嗤った。
(食事は食べるためにあるものだろうよ)
何がそんなに可笑しいか、と奈綺は渋々布団の上に起き上がる。傍目から見れば、間者のわりにひどく無防備に見えた。
「わざわざ石牢に何をしに」
奈綺の声が低い。もともと感情の起伏を表に出さぬ女だったが、珍しく不機嫌の色が濃かった。寝るところだったのを起こされたせいなのか、それとも意に反して柳の人質になったせいなのか、それとも明日からの愚かしい祭りに出されるせいなのか。一瞥しただけでは誰にも分からないだろう。
「遊びに来ただけさ」
ふん、と鼻先で嗤う姿は、まるで柳の皇帝と対等の立場にある人間のように見える。底冷えのする視線に物怖じすることもなく、奈綺は不機嫌を前面に押し出した表情で呟いた。
「ご苦労なことで。で?」
「明日からの祭り、楽しませてもらおう。存分に」
おまえもせいぜい愉しむといいさ、と続けて彼は言った。石牢に一人でのこのことやってくる皇帝は、阿呆か否か。
「そんなに愉しい祭りなら、あんたも出ればいい」
皇帝の側近が聞けばそろって卒倒するような物言いをする。根性の悪そうな美貌をしながら、しかし柳帝はそれを咎めようとしない。
反抗的なその物言いを、心から愉しんでいるふしがある。奈綺はそれを感じながら、石壁にもたれてこちらを見下ろす美しい男を一瞥した。
「あんなくだらん祭りで死にたくなどないわ」
吐き捨てる。人を祭りにぶちこんでおいてふざけたことをぬかすな、と。そう言いたいところだったが奈綺は口をつぐんだまま布団で身体を包んだ。
「そんなことを言いに来たの」
それだけ訊ねた。暗がりの中で、男がにやりと笑ったのが分かった。
「……くれぐれも死ぬなよ、おまえ」
「何?」
「明日の祭りは叔父上が私兵を出してくるそうだ」
一瞬繋がりのない言葉だったが、奈綺はじっと男の唇を見つめる。
「おまえなら簡単にくたばらんだろう。膿を出すのさ、この国を乱す膿をな」
皇帝の青みを帯びた双眸に、烈しい殺意がちらついたのを奈綺は見逃さなかった。物心つく前から間者の生業についている。すぐに意図に勘づいた。
「それか。私の使い道とは」
帝位をめぐるお家騒動は、どこの国でもそう変わらない。柳帝とその叔父の折り合いが悪いことは生業上知っていたが、柳帝がその反乱分子にたいしてどの程度の感情をもっているかは推測の域を出なかった。それを今、思いがけず見たのである。
奈綺の『風の者』としての戦闘能力でもって、叔父の私兵を可能な限り始末する――つまり叔父の私的な勢力をできうる限り削るのが皇帝の目的だったらしい。
(間者を大勢送りこんできたのは、最初からこうするつもりだったからか……)
私がここに送り込まれることを想定していたとすれば、これは怖ろしい男だ。奈綺は小さく舌打ちをした。訊ねた奈綺に、男は答えない。黙って薄い笑みを口元にたたえた。
「おまえは喧嘩好きの采女だとでも言っておこう。心置きなく戦え」
仕方あるまい。乗りかかった舟だ、最後まで踊ってやろうではないか。
(……殺す)
――必ず生きて舜に帰る。
目隠しをして連れて行かれたのは、おそらく宮殿の北側に位置していると思われる広大な広場であった。舜で大衆劇場として使われている広場よりもふたまわり、いや、それ以上大きいと見える。地面を通り、空気を通り伝わってくるどよめきが、奈綺の敏感な耳にはうるさいほどに大きく聞こえた。 音の反響から考えて、相当狭いと思われる通路を幾曲がりかして不意に目隠しを取られた。広場に通じる狭い通路のとばっくちに、奈綺は立たされていた。奈綺の立つ正面に、大観衆が見える。
おそらく円形になった広場の観客席すべてが、同じように観客で埋まっているに違いない。奈綺の周りにも、捕虜と思われる十数人の男たちが立たされ、順に目隠しを外されている。
「…………」
ぴくり、と奈綺の顔が動いた。渇いた風にのって、独特の臭いが漂ってくるのに気付いたのである。
(獣か)
虎か、獅子か。たかが祭りで捕虜たちを殺すために、そんなたいそうな獣まで用意してあるのか。奈綺は人知れず苦笑する。生きてきたなかで、何度猛獣と遭ってきたか。猛獣などよりも問題は飛び道具を持つ人間どもだ、と奈綺は腰帯をきつく締めなおした。
ぎぎぎ、と厭な音をたてて格子が上げられる。
「行け!! そら、さっさと出ろ!」
兵士に突き飛ばされて、奈綺が最初に広場へ出る格好となった。
それに続いて、捕虜であったり賞金目当てであったりする男たちが次々と突き飛ばされて広場へ出てくる。一様に、落ち着かない視線をあたりに彷徨わせていた。歓声があがった。
(……屑どもが)
奈綺の唇が歪む。そのなかには、大勢の貴族の娘たちもいた。日よけのついた中央の席には、おそらく皇帝であろうと思われる男とその叔父夫婦が腰を据えているようである。四方八方から押し寄せてくる揺れんばかりの大歓声に、広場に放り出された男たちはますます萎縮していくようだった。
捕虜でなく、賞金目当てで参加してきたと思われる男たちまでがびくびくしているのを見て奈綺は呆れかえった。
―怖いなら、こんな祭りに志願しなければ良いものを。
奈綺の耳が、ぐるぐる、という獣のうなり声をとらえる。奈綺たちが放り込まれた通路とはまた異なる通路から、獣の入った鉄檻が三つ運び出されてきた。皇帝の叔父の持つ私兵よりも先に、まずこれから始末せねばならないのか。無駄な力を使わせやがって、と奈綺は歓声をあげる観客の中、正面に座る皇帝のほうをまっすぐ見上げる。遠目ではあったが、二人の視線がかちりとぶつかった。
獣は、あばらの浮いた獅子の雌が三頭。獅子は、主に雌が狩りをする。それを考えたうえで雌を選んだのだろうと思われた。獅子はどの獣にも勝る、と巷では言うが、獅子には虎のような気品がない。虎よりは殺しやすい、と奈綺は小さく息をついた。檻の扉を閉めたまま、兵士たちが通路へ戻っていく。そして大歓声の中で、ぎしぎしと檻の扉が開きはじめた。
通路から太い綱を使って、扉を引いているらしい。扉の開きかけた檻の中で、獅子がぐるぐると落ち着きなく転回しているのがよく見えた。
扉が完全に開いて、幾度か獅子が檻中で転回を繰り返したのち広場の土の上に出てくる。赤い口から、涎が糸をひいて地面に滴り落ちた。奈綺の傍らに立っていた壮年の男が、声にならない悲鳴をあげた。
(……たいして役には立たなさそうだけど)
――せめて盾くらいにはなってもらおう。
そっと奈綺は、男たちの後方へ退がった。
人は恐怖の極限に達すると声も出なくなるらしい。一頭の獅子が、足をもつれさせて転んだ青年の正面から飛びかかった。
「逃げろ!」
逞しい体つきの捕虜が、そう怒鳴る。人の好いことだ、と奈綺は黙ってその光景を見つめた。面倒見の良さそうなその男が、懸命に倒れた青年を助けようとしていた。
(飢えた獅子に勝てるものか)
辺りに血の臭いが漂っていた。青年の腕が、肩から喰いちぎられているのである。渇いた地面が、あっという間に滴り落ちる血を吸って黒い染みをつくった。奈綺にとっては見慣れない光景ではなかった。だが、周りの男たちは獣に襲われるという経験に乏しいせいか、息を呑んで逃げまどっている。飢えた獅子の、汚れた毛皮の臭いが鼻をつく。
「おい、女!! そんなところにいたら殺られるぞ!」
志願してきたと見える若い男が、奈綺に向けて叫んだ。身なりはひどかったが、顔は日に焼けて精悍である。奈綺はしかし、それをまるで無視して壁に背をもたせた。肩から腕を喰いちぎられた青年も、そしてそれを助けようとした壮年の男もすでに地面に倒れていた。
獅子が激しく低い唸り声をあげながら、青年の左肩口をくわえて幾度も首を振る。血しぶきが地面に飛び、細かにちぎれた肉片が獅子の口の端からこぼれた。引きずりだされた内臓が、厭な音をたてて獅子の口に吸い込まれていく。骨を噛み砕く音は奈綺たちの耳をうったが、これだけの歓声では観客に聞こえてはいないに違いない。
捕虜にしても志願者にしても、戦場で人を殺しはすれ、こんな無残なものを見たことはないのだろう。奈綺のすぐ傍まで後ずさってきた男が、くぐもった声をあげて上半身を折る。げえぇっ、と彼は胃の腑のものを滝のようにもどした。地面に黄色いものが溜まった。吐きながら獅子から逃げようとする男の目は、哀れなほどに涙ぐんでいる。彼が吐き散らしたものを避けるようにして、奈綺はただ数人の男たちが獅子に食い殺されるのを見つめた。
獅子は喰らうのが目的であって、決して人を殺すことが目的ではない。自分が腹いっぱいになる程度の肉を確保すると、先ほどまでの殺気が嘘のように獅子はおとなしくなった。獅子が広場に放たれてそれほど刻が経っているわけでもなかったが、これが祭りの一幕目であったらしく、どこか上のほうで鉦ががんがんと鳴らされるのが聞こえた。金属的な音が耳障りに響き、奈綺をひどく苛つかせる。
男たちは逃げまどい、肉を喰う獅子から離れた広場の壁に背をびたりとつけた。奈綺が、彼らとはまた違う場所で一人きりで立っているのとは違う。彼らはこれほど陽が照っているのにも関わらず、渇いた砂を踏みにじりながら手に手をとりあって怯えていた。これでは奈綺と彼らと、どちらが男でどちらが女か分からない。
――これじゃ、数日で全滅だな。
奈綺は、すでに肉の塊となってしまった四人の男を一瞥して思った。観客席にいる貴族のひとりでも、ああして肉塊にしてやれたらどんなに良いだろうか。腕から脚から獅子に噛みちぎられ、泣きながらその華やかな人生を終えれば良い。一度広場の真ん中で、ずたずたの肉片になってあの大歓声を浴びれば良い。華やかきらびやかな貴族だ、歓声を浴びる快感にやみつきになるだろうよ。
「退け!! 来た通路に戻れ!」
鎧をつけた兵士が二人、槍をもって広場へ入ってきた。獅子が肉に夢中なのを見越してのことである。奈綺は黙って、先頭を歩き出した。奈綺があまりにも平然と歩き出したために、他の男たちが足をもつれさせながら慌てて後ろについてくる。よたよたと後ろを歩いてくる男たちの気配が情けなくて哀れで、奈綺はため息をついた。
陽が少しずつ西に傾きはじめている。通路に戻され、そのまま目隠しをされて石牢に戻されたところをみると、どうやらこれで終わりらしい。鉦の音を合図に、おそらく観客が掛け金をめぐっておおいに騒ぐのであろう。もしかすると陽が暮れてから、もう一度あの広場に出されるのではないかと思っていた奈綺は、思わず拍子抜けした。陽が暮れても一向に奈綺が連れ出される気配はなく、間もなく食事が運ばれてきた。昨夜と同じ汁と麦飯。それにお情け程度の肉の串焼きが一本ついている。まだ少し生臭い。
(…………)
くん、と奈綺はその串焼きを手にとって臭いを嗅いだ。おそらくこれは褒美なのだろう。獅子に殺されることなく生き延びた全員に、つけられた食事ではないかと思われる。飯を持ってきた番兵が、生き延びたのか、良かったな、と串焼きを顎でしゃくって見せたから確かだろう。しかし、独特の臭いがする。奈綺は小さく嘆息して、その串焼きを盆の上に戻した。
他の男たちは、きっと何も知らずに喰うのだろう。汁を麦飯にかけ、匙で幾度かかき混ぜる。そして一気にかきこんだ。
(人肉か)
汁を吸い込みはじめた麦飯を噛みながら、串焼きを一瞥する。あの独特の臭いは、確かに人肉を焼いた臭いだった。奈綺にとって食べられないこともなかったが、しかしここで食べれば貴族たちの思いのままになる気がして我慢ならなかった。誰の肉か……と考えれば容易である。おそらく獅子が喰った男たちの残りかすだろう。貴族とは悪趣味なものだ、と改めて思うが、しかしそれも無駄なこと。とにもかくにも、私は祭りを生き延びねばならぬ。
夜が深まるにつれて、石牢をしんとした寒さが襲ってくる。寝台を形作る材木の一片を剥ぎとり、腰にあった火つけで火をおこした。ごく小さな炎ではあったが、暖をとるには十分すぎるほどである。奈綺は、幾分汗の臭いが染みついた麻衣の上衣を脱いで、水差しの水で軽くこすった。麻衣の下に着ている丈夫な肌着も、同じように水で汚れをとる。暗闇に、間者にしては白すぎる肌がひどく映えた。
「……間者にしておくには惜しいな」
昨夜と同じように、低い声がする。音もたてずに格子をあげ、男はそっと中へ入ってきた。衣を水で洗うのに懸命で、まるで惜しげもなく裸体をさらしている奈綺を奇妙なものを見るような顔で見つめる。
「何」
淡々と、奈綺は洗った衣を炎にかざした。ほんの小さな炎が、ぱちぱちと静かな音を立てて燃えている。木を剥ぎとられた寝台を見て、男は我慢できなくなったように吹き出した。
「とても女とは思えんな。その生活力を見ていると」
「…………」
「明日から、私兵が出てくるぞ」
手足の指先も丁寧に洗って、乾かす。男の――いや、皇帝の言葉に奈綺は何も答えない。
「殺さないのか」
しかし沈黙の後、唐突に奈綺は呟いた。叔父を殺さないのか、という意である。この皇帝にとって、今現在最も邪魔なのが叔父勢力であろう。わざわざ奈綺を使って、叔父の兵力を削ぐなどというまどろっこしいやり方をしなくても、この男ならばうまく叔父を始末できそうなものなのに。
「蟲一匹殺してもな……蟲の卵がうじゃうじゃと残ろうが」
皇帝直属軍と叔父私兵軍を無駄に争わせて、己の側に無駄な死傷者が出るのが嫌なのだろう。奈綺は小さく鼻を鳴らして、乾いてきた麻衣の上衣を羽織りなおした。ゆるんだ合わせを引き寄せて、腰帯をきつく締める。その口の悪さと、したたかな生活力からは考えられないほど細い腰をしている。衣の裾からのぞく脚はしなやかで美しかったが、足首や踵には無数の傷痕が残っていた。山犬や猟犬に噛まれた痕は、おそらく永遠に消えないのだろうと思われる。
「叔父上がおまえの美しさに惹かれているぞ」
「…………」
「せいぜい気をつけることだな。何にせよ、おまえは生きろ」
ふん、と奈綺は再び鼻を鳴らした。殺せばいいのだろう、私を殺そうとする者を。奈綺は生き延びる術を知っている。皇帝叔父の私兵であれ、獣であれ、貴族であれ、己を殺そうとする者を片端から殺せば奈綺は生き延びることができるのだ。
「国のためか」
奈綺と男の会話は、ひどく漠然としている。会話に脈絡がないようでいながら、しかし不思議と会話が成り立っている。この男は、愚帝ではない。むしろ賢帝であると分かっていた。
「まさか。俺のためさ」
俺の国だ。俺の国が戦で荒れるのは我慢がならん、贅沢をしながら長生きしたいからな。男はそして、平和主義なのさ、とうそぶいた。祖国舜の主君とはなかなか違う男である。奈綺は、男に冷たく一瞥をくれてから寝台にもぐりこんだ。
「寝かせてもらう」
おお、と可笑しそうに嗤ってから男が火を踏み消した。
物心つく前から、人を殺すことを覚えた。人の急所は一撃でおさえられるようになったし、どうすれば相手が最ももがき苦しむかも知った。それはあくまで舜のためである。舜を侵攻しようとしている国を早期に見つけ、さっさと始末してしまうのが奈綺の仕事であった。舜の情報を外に洩らそうとする者も、舜帝の命を狙う者も、奈綺にとっては敵である。
今その仕事を果たせていないと思う。柳の偵察ついでだ、と思って柳帝の人質となってみたものの、こんな祭りに三十日も出されるとは思わなかった。三十日か、と心中で数えてみる。
(お許しください……陛下)
仕方あるまい。心を決めなければならぬ。心に余計な物思いがあれば、必ず己が痛い目に遭う。奈綺は静かに寝返りをうった。今日の獅子は、まるで話にならない。おそらく獅子三頭いっぺんに、奈綺が一人で相手をしても勝てただろう。獣よりも人間のほうが厄介だと、長年の経験で知っている。舜にとって何の利益もないが……そうしなければ生きて帰れないのだから。あの虫の好かない皇帝叔父の私兵だとすれば、何の躊躇いもなく殺せる。
覚悟はできている。私は、生きて舜に帰る。
【砂煙】
風 砂埃を舞い上げて
水 滔々と流れ落つ
陽 煌々と大地を照らし
山 飄々と聳え立つ
神 冷然と山河を漂い
月 涼々と闇を照らす
闇 全てを覆いつくし
我 風のもと馬首翻す
祭りが始まってから、十日が経った。十日間、奈綺はまるで動かなかった。一緒に広場に放り出された捕虜や志願者たちが、死に物狂いで皇帝叔父の私兵と闘うのを壁にもたれてひっそりと見ているだけだったのである。
出来得る限り、無駄な力は使いたくなかった。うまいこと男たちの間を縫い、見事に十日間ろくに動くこともなく生き延びたのだった。無造作に殺されていく捕虜たちを助けようという気持ちは、ほんの欠片も起こらない。
ただひっそりと、奈綺は息をし続けていた。まるで反撃の機会を窺う獣のように。……その瞳はまるで先日広場に放たれた獅子のように爛々と光をたたえている。
残った者は、十一人しかいない。奈綺を入れて、たった十一人だけが十日間生き延びることができたのである。毎晩のように柳帝は、奈綺の石牢にやってきては様々なことを吹き込んでいった。彼の言葉によれば、十日間を過ぎて参加者が激減したあたりからが正念場だと。
「…………」
奈綺は、真上に輝く太陽を一瞥して視線をもとに戻した。奈綺の忍耐も、そろそろ限界に近づいてきている。人を殺すたびに耳障りな笑い声をあげる兵士を、殺したい殺したいと手が叫ぶように疼く。日に日に殺意が増してきて、奈綺は苛々し始めていた。
「ああぁぁ……っぁ」
ひどく厭な叫び声をあげて、一人の男が地面に倒れる。屈強な身体つきの志願者であった。日々殺されていく仲間たちを、みっともないと罵倒していた男である。それが馬に騎乗した兵士の鞭に絡めとられ、地面に音をたてて崩れ落ちたのだった。罠にかかった獣、という感が拭えない。
男をいたぶる兵士は、彼の子どもよりも年下ではないだろうかと思われるくらいの少年兵であった。己の子どもほどの年の兵にいたぶられるのは、いったいどのような気分なのだろうか、と奈綺は他人事のように思った。
奈綺から少し離れたところで、男が鞭に脚をとられたまま引きずり回されている。ざざざ、という音が耳をうち、それと連動して観客の大歓声が空気をふるわせた。私兵は、一昨日くらいから数人ずつで広場へ入ってくるようになっていた。そして、一日に一人いたぶりまわして殺すと満足したように引き揚げていく。どうやら、この祭りを出来る限り長続きさせるために皇帝か、あるいは皇帝叔父が命じているらしかった。幾人かの捕虜たちは、何とか私兵たちに反抗しようとするか、餌食になろうとする仲間を助けようとするか、そういった無駄なことに挑もうとする。が、奈綺はやはり最も目立たない場所で惨状を見ているだけだった。
「た、助け……」
ぼきぼき、という厭な音が低く響いた。骨の砕ける音である、力任せに少年兵たちが殴る蹴るの暴行を加えていた。仲間が目も当てられないような姿へ変わってゆくのを見て、さすがの男たちも声を失くして逃げ惑う。
確かに、それは何ともいえない惨状であった。まともな精神の者なら、とうの昔に発狂しているに違いない。もちろんこの十日ほどの間に、発狂した者も少なくはなく……発狂した者はむしろ涎を垂らし、眼を血走らせながら私兵へ立ち向かい、そしてたちどころに殺害された。残虐の極みを尽くしてなお、観客は歓声を絶やさない。その中には美しい姫君たちもいるだろうに、彼女たちは血を流してずるずると這い回る人間を見ても何も思わないのだろうか。百足一匹を見ただけでも悲鳴をあげるというのに。
「…………な、何をする、何を……」
裏返った声で、男が泣き叫んだ。奈綺は黙ってその光景を見つめる。
ひゃっひゃ、とひどく燗にさわる笑い声をあげて、少年兵たちが男の四肢をそれぞれ四頭の馬に繋いだ。
(屑め)
奈綺の双眸は、微動だにしない。じっと、ただひたすらにじっと少年兵の行動を見つめた。少年兵たちが何をしようとしているか、捕虜たちはまだ何となく掴めていないようである。知れている、四つ裂きにするのだ。
馬四頭がそれぞれ四方に走れば、それだけで予想外の力を発する。思えば哀れでもあった。誰も助けようとしなかった、助けることもできなかった。奈綺が助けようと思えば、助けることはできただろう。だが、まるで奈綺にそんなつもりはない。人の血など通ってもいないのではなかろうか、という冷たい双眸でやはり立ち尽くしているだけだった。
「やめ、や、やめてくれ……やめ……」
「うるせえ、馬の糞でもかぶってろ」
「ひゃひゃひゃ」
四人の兵が、それぞれ馬に乗る。そして誰であったか、一人の兵の合図で馬は腹を思い切り蹴られ、全力で走り出した。
「……っぐ」
くぐもったような呻き声のあとは、もう何も聞こえなかった。聞こえたといえば、飛び散る血の音と筋がちぎれるぶちぶちという音のみで、仲間たちはおろか、さすがに観客や兵士の幾人かも顔を背ける。
(……全員殺してやる)
引きちぎられた男に、憐憫の情は欠片も湧かない。が、兵士たちと観客に対する殺意だけは沸騰するかの如く奈綺の中で煮えたぎっていた。
その凄惨な殺人現場を見ても、奈綺は視線ひとつ逸らさない。ぼたぼたと大地に染みをつくる血溜まりを見ながら、しかし奈綺はぐっとこらえる。
まだだ、まだ。あと少し、とにもかくにもこの捕虜の残りが死に絶えるまでは体力を温存せねばなるまい。顔の周りで煩く羽音をたてていた蜂を、奈綺は片手で壁に叩きつけた。
狭い石牢の景色には、もう飽きた。何の変哲もない灰色の石に、いったい何を見れば良いのだろうと奈綺はただ忍耐の日を過ごすしかなかった。
(あと、十日)
あと十日、耐えれば良い。十日くらいなら闘い抜くことができる。祭りが始まってからちょうど二十日が経過していた。そして、そう。今日で奈綺以外の人間が皆殺されてから数日が経つ。数日前を境に、祭りに出される人間はただ一人奈綺を残すのみとなったのだった。
いつもと変わりばえのしない麦飯と汁をかきこんで、奈綺は己の心の静けさを嫌というほど感じた。私は死なないという強すぎる思いはあったが、しかし心はひどく静かだった。
「どうだ、一人になった気分は」
いい加減うんざりして、奈綺は空になった器を乱暴に放る。毎晩毎晩こうして忍んでは他愛もない話をしていく、そんな柳帝が今日はいつにも増して鬱陶しかった。
「上々よ」
あっさりと嘘ぶいてみせる。
「おまえ、まだあまり殺していないな。叔父上の私兵を」
どうやらそれが不満らしい。出来るだけ殺して欲しいようだ、と奈綺は察した。奈綺は嘲笑とともに柳帝を見上げる。はっきりと眼を合わせるのは、珍しかった。
「殺す」
「…………」
「私を殺そうとする奴は、皆殺す」
「頼もしいことだ」
言って柳帝は愉快そうに微笑を浮かべる。足元に転がった飯碗を、石牢の入り口近くまで蹴飛ばして奈綺は寝台の薄い毛布をめくった。
「観客の一人でも広場へ突き落とせ」
「……何故」
「あんなに歓声をあげて喜ぶくらいなら、肉の塊にして歓声を浴びさせてやろうよ」
柳帝はそこでまた嗤う。何がそんなに愉しいのか分からないが、それでも彼は愉しそうに嗤うのである。気の強い娘だ、と彼はそうも言った。
「頼むよ、おまえ。少しでも蟲は始末できるに越したことはないんだ」
この食わせ者め、と奈綺は冷たく男を一瞥する。が、言うほど腹が立つわけでもない。奈綺の一念はただひとつ。自分を殺そうとする者は皆殺しにしてやる、その一念に尽きる。それは同時に、祖国へ生きて戻るという強く強い想いでもあった。
少し、奈綺に疲れが見えはじめていた。体力を温存していたとはいえ、数日間ぶっ通しで体格の良い兵士たちを相手に闘っているのである、当然といえば当然であるといえた。普通の女なら確実に命を落としているに違いなかったし、並の『風の者』でも下手をすれば命を落とすだろうと思われた。
それでもこの細い身体で、重傷もないまま生き延びているのである。観客が熱狂するのも頷けた。
(…………死ね)
歓声をあげる観客全員、あの男のように四つ裂きにされて死ねばいい。
奈綺は荒んだ思いで観客席と私兵に視線をくれる。何としても生き延びねばならなかった。
「お嬢ちゃん、悪いな。恨みはないん……」
どさっ、と音をたてて中年の兵士が馬から転げ落ちた。
(無駄な口を叩くなよ)
少しずつ疲労を感じはじめている。森や林のなか、木々の間を縫って大勢の敵と闘うことは簡単だった。だがそれは、これほどに隠れ場所のないだだっ広い広場で、細い女の身体で、大勢の屈強な男たちと闘うこととは訳が違う。まるで奈綺の仕事からは程遠いものであった。空になった馬の背に、躊躇わず奈綺は飛び乗った。いつ死んでもおかしくない、というどす黒い予感が奈綺の胸を泡雪のように掠める。一撃で仕留めねば、こちらが殺される。 奈綺は相手の喉笛を狙いはじめた。
「っが……っ」
歓声は相変わらず鳴り止まない。奈綺は、昨日よりも数人増えた兵士たちに落ち着いたまま対峙する。長針で彼らの眼を、小太刀で彼らの喉を狙う。数日の闘いで、少しずつ長針は減ってきていた。どれほど手入れをしていても、数本は血で錆びて使いものにならなくなる。
「おい、貴様……!!」
不意に後ろから襲ってきた兵士の剣を、奈綺は小太刀に渾身の力をこめて受けた。
「小娘、思い上がったか」
「……黙れ」
「なに?」
「黙れ、糞ども」
低く冷たい声。奈綺はそう言って兵士に艶然と笑みを返す。一瞬力の緩んだ剣を跳ね返し、返す小太刀で彼の首筋を一気に掻き切った。
駆けてくる兵士に、眼にもとまらぬ速さで長針を飛ばす。男の返り血を浴びて、奈綺の美貌は真っ赤に染まっていた。澄んだ双眸は飢えた獣のようにきらきらと光り、血塗れた髪が頬にかかって怖ろしいほどに美しい。まるでひとつの絵のように。
そのとき馬が躓いた。斜め前から男が剣をふりかざして迫ってくる。後ろで男が弓矢を構えているのも、奈綺はちゃんと分かっていた。かくん、と前のめりになる中で奈綺は考えた。この剣を浴びれば頭が割れる。矢を浴びれば脚に怪我を負う。避ける暇さえなかったと思う。
「…………っ」
一瞬奈綺の眉が強く歪んだ。躓いた馬が前かがみになり、そのまま奈綺は滑るように大地に飛び降りる。ぎりぎりと噛みしめた唇から、赤い血がつと流れ落ちた。わずかによろめきながら、奈綺が向かってくる男の眼に長針を打ち込む。そして体勢を整えた。
観客が、奈綺の白く美しい脚に深々と突き刺さっている矢に気付くのに時間はかからなかった。思わず柳帝が、腰を浮かせた。
奈綺の美しい双眸が荒々しく殺気だった。脚の傷口から細々と血が流れている。矢を抜けばさらに出血はひどくなるのだろう。周りから兵士がじりじりと間合いを詰めてきた。
(……動きにくい)
だが、矢を抜けば出血のために眩暈を起こす。矢を抜く隙に、兵士に襲われる。奈綺はそう思って、兵士たちを視線で牽制しながら片手で容赦なく矢羽根を折った。その衝撃とともにひどい痛みが奈綺の脚を襲ったが、幾分唇を噛みしめただけで顔色ひとつ変えない。
「ほら、来いよ。手加減くらいしてやるさ」
まだ若い兵士が、おそるおそる近づいてくる。彼は、手負いの獣がどれほど凶暴になるかを知らないのだろうか。奈綺は一瞬で彼の隙を突き、その細身からは想像できないような物凄い力で男を引き倒した。あっという間に、兵士の背から矢を数本と弓を奪い取った。
「この女……!!」
後ろで起き上がった兵士の頚椎を蹴り倒し、先程折った矢羽根の折り口を男の口の中へ思い切り突っ込む。ぐえっ、という声とともに赤い血液が飛び散った。剣を振りかざして向かってくる兵士たちに向き直り、次々と矢を放つ。狙う的は彼らの喉笛。寸分の狂いもなく、奈綺の放つ矢は男たちの喉笛を貫いた。力の限り放った矢は、並んだ男を二人ほど串刺しにするほどの威力がある。
(これ以上ここには……)
これ以上ここにいると、本当に生きて舜に帰れないかもしれない。大歓声の中で、奈綺は冷静すぎるほど冷静に、向かってくる男たちを仕留めていった。こんな細く美しい女が、驚くばかりの殺傷能力を持っている。観客も兵士も、興奮しながら鳥肌だつような怖ろしさを感じていた。ものの数刻のうちに、大広場は屍の転がる砂場となった。倒れた男たちはぴくりとも動かない。奈綺の一撃一撃が、全て彼らの致命傷となっていた。
「…………」
傍らで足踏みをしていた馬の背から鞍を払い落とし、裸の背に飛び乗る。手綱を曳き、奈綺は思い切り馬の腹を蹴った。広場から外に通じる大門へ向かって、追ってくる兵士たちを斬り捨て、射掛けられる矢を切り捨て、ただひたすらに馬を走らせる。
「止まれ!! 止まれ!」
「退け!」
鋭い声で怒鳴り、長針を飛ばしながら奈綺はかろうじて大門を潜り抜けた。
「……逃げるのか」
追ってきた兵士たちが、男の一声で払われる。不審そうな顔のまま、しかし男には逆らえぬと兵士たちは大門の中へ戻っていく。
「逃げる」
軽く黒い衣を羽織った柳帝であった。観客たちは兵士が抑えているらしく、追っ手が中へ戻ってしまうと外には柳帝と奈綺だけになった。広場の中から聞こえる怒号と歓声が、ひどく耳障りである。奈綺は馬上に身を乗せたまま、血泡を地面に吐き捨てた。
「……まあ予想以上に活躍してくれたが」
そう言って柳帝は奈綺の脚傷に目をやる。血が一筋流れており、それが時折ぽたりぽたりと地面に滴り落ちていた。渇いた地面に、それが小気味良いほど吸い込まれていく。幾ら矢尻を抜いていないからといって、その出血は相当のものだろうと思われた。
「柳帝。……望みなら今すぐあんたの叔父をここへ寄越せ。殺してやる」
殺してやる。あの贅肉に包まれた小汚い身体をずたずたにして、地面に転がる肉片にしてやる。奈綺の炯眼がぎらぎらと輝いた。
「おまえ、そんなことをして祖国に迷惑をかけていいのか」
(…………)
舌打ちをし、奈綺は馬から飛び降りる。
「あの男の名は」
「叔父上か。湯庸(とうよう)という。それがどうした」
「……別に。覚えておこう。いつか必ず殺してやる」
「逃げないのか」
祖国に迷惑をかけていいのか。いいはずがない。奈綺は一気に正気に戻っていた。殺気だっていた瞳は鎮まり、荒かった口調も幾分落ち着いている。そうだった。私は一介の庶民ではない。舜の命運を握ることさえある『風の者』。私事では決して動けぬ、国の手駒なのだということを忘れていた。たとえここで自分が死んだとしても、舜と柳の間に戦を起こさせてはならぬ。平和を重んじる舜帝の思いを踏みにじってはならぬ。
「祭りはあと何日だったか」
「……さて、あと九日かな」
脚の傷を一瞥する。これが足手まといにならなければいいが……。こんな祭りに全力を賭けなくてはならないなどとは、思ってもいなかった。正直ここまで苦戦するとは思わなかった。一人で戦うには広場は何もなさすぎたし、相手の数も多すぎた。あと九日、耐えられるだろうか。小太刀に斬られるように、そんな不安が胸を掠める。
「……戻る。手間をかけたわ」
寒い。血を失っているのが、今こうして話している間にもよく分かった。とにかく傷口の手当てをしなければ。さっさと落ち着いて血止めをしなければ、明日までまず体力が持たない。
「帰るといい」
あっさり正気に返るとすぐに、大門の中へ向かって歩き出した大胆な少女に声がかけられた。驚いて奈綺は柳帝を見返る。何を言ったのか、と奈綺の瞳もさすがに驚きを隠せない。隠せない、というよりもこの期に及んで、柳帝に感情を隠す必要はないと判断したからだった。
「帰るといい。そのかわり追っ手はかかるぞ。追っ手をかけねば俺が疑われて立場が危うくなるからな」
馬を曳き、柳帝は自分から歩き出した。東に聳える山を指す。
「あれは姫に通じる稜山だ。あちらから抜けてゆけ。白山を越えると舜の者だとすぐばれる。……恩に着ろ」
奈綺は、柳帝を一瞥してから一度、大門を振り返った。柳帝は私を嵌めようとしているのだろうか。それとも真に逃がそうとしているのだろうか。
「貸しは二つだ。舜への軍を退いてやったことと、今こうして逃がしてやること。いいな、次は俺の都合の良い時に働いてもらうぞ」
逃がそうとしているらしい。いや、もうどちらでも良かった。追っ手がかかってもいい。追っ手など皆殺しにして、舜へ帰ってやる。とにかくこの大広場さえ抜け出すことができれば、舜へ帰れる気がした。おそらくこの男なりに、奈綺の利用価値を見出したのだろう。それがなければ、逃がそうとするはずがない。
(……仕方ない)
「恩に着るわ」
「追っ手には叔父上の兵が向けられるだろう。心置きなくやれ」
結局はそれが狙いか、とも思う。が、これは絶好の機会だった。柳帝の冷たい双眸は、あまりにも冷たく無表情である。唇には薄い笑みが浮かんでいるが、決して彼の本気の笑顔でないことは明白だった。しかし愚鈍な男ではない。うまくいけば結べる男だ、と奈綺は勘付いている。ここで柳帝が見逃してくれて、追っ手さえ片付ければ舜へ帰れるのだ。腹立たしい思いがある一方で、奈綺はそれでも欠片感謝の念を持った。もしも舜へ無事帰れたならば、確かに恩返しはしようではないか。湯庸でも何でも殺してやろうではないか。
「おまえはもう気付いているんだろう、舜の後宮に俺の間者が潜っていることを」
「だから柳へ来た」
「名を彩(さい)という。よろしく伝えてくれ」
馬鹿なことをいう。しかしその思いがけない行動のひとつひとつに、男の尋常でない器量の大きさが滲み出ていた。
「湯庸が皇帝でなくて、柳民は幸せだったね」
脚の感覚がなくなりはじめている。再び馬に飛び乗り、奈綺は男を見下ろした。男の唇に浮かんだ嘲笑が腹立たしかったが、まあそれも良い、と奈綺も嘲笑で返す。
「生きて帰れよ。この俺が見逃してやるんだから。おまえにはまだ仕事が残っているからな、よく覚えておけ」
「分かった。……この借りは必ず」
とにかく舜へ帰ることができれば。奈綺は馬の腹を蹴った。稜山を越えれば、あとは楽に帰ることができる。とにかく逃げよう。忌まわしい広場を後ろに、馬が駆け出す。奈綺は振り返らない。あとはいつ追っ手がかかるか。それだけが問題だった。
【急峻の彼方】
奈綺は走る。柳帝の温情で、馬だけはそのまま与えてもらった。市街地を駆け抜け、出来るだけ早く山の中へ入らねばならぬ。幾度か馬に水を飲ませるために立ち止まったが、それ以外はただひたすら走り続けた。
渇いた土を跳ね上げ、時折その砂粒が顔の近くまであがってくる。あたりに神経を研ぎ澄ませながら、幾度か傷の痛みに眉をしかめた。初夏。天気はひどく良く、頭上に広がる大空は果てしなく青い。皮肉なほど美しい青空だ、と奈綺は唇に小さい嘲笑を浮かべた。東に向かってひたすら走ること数刻、柳の東隣に位置する姫国との国境となる稜山が見えてくる。あと少しだ、と奈綺は馬の腹を再び蹴った。この時代、人は滅多に山に立ち入らない。山には神が宿ると考えられ、無駄に入山する者は神罰がくだって死ぬと言われていた。獣を狩る猟師(かりし)でさえも、仰々しい儀式をしてからでないと山には入らない。傍若無人に山に入るのは、無知の子供か脱獄囚。山賊か間者であると相場が決まっている。奈綺は一瞬の躊躇いもなく、山の麓に張り巡らされた注連縄を飛び越えた。
馬の蹄音が、山中の土に吸い込まれていく。足音が消えた。初夏とはいえ山の奥はやはりひどく肌寒く、澄んだ嵐気が汗ばんだ奈綺の身体を駆け抜けていく。そろそろ脚の傷口が固まってしまいそうで、奈綺は周囲を見渡した。
(東屋があれば、そこで矢を抜こう……)
矢を抜いてしまわなければ、傷口が締まってしまうだろう。『風の者』にとって脚は大切な武具になる。将来支障となるような傷を、いつまでも抱えるわけにはいかない。
山に入って一刻ほどした頃、奈綺は目の片隅に小さな建物を捉えた。石造りの建物で、ひどく小さいものの汚い印象は受けない。もしかすると姫の王族が使う休憩処なのかもしれない、と奈綺は懸念した。だが、そんなことを言ってもおられぬ。王族がいれば王族がいたで、そのとき考えれば。奈綺は馬を東屋の門柱につけた。
「…………」
気配は感じない。少なくとも、まず追っ手の気配はなかった。ここなら何か傷口を手当するのに便利なものもあるかもしれない。腹を決めて、奈綺は馬を飛び降りる。幽かな音もたてずに、彼女はするりと建物の中に滑り込んだ。
(とりあえず布を……)
建物の中はひっそりとしており、物音ひとつしない。気配がないことを、奈綺の本能はしっかりと掴んでいた。どうやら先刻の予測どおり、この東屋は王族のものらしい。建物内は立派な装飾がほどこされていて、寝室らしき室(へや)もまた豪奢な寝台が備えつけられていた。確かに簡素といえば簡素なものだったが、奈綺が少しばかり拝借するには豪華すぎるものばかりである。丈夫そうな織布を、奈綺は小太刀で細長く切り裂いた。
びろうどの張られた小さな椅子に腰かける。奈綺の心配通り、脚の傷口はすでに締まりつつあった。小さく火を起こし、小太刀を熱する。
(……追っ手はまだか)
追っ手から逃れたい一心で駆けていたのではない。奈綺のささやかな復讐心が、この東屋での時間潰しを実行させた。追っ手から逃れたければ、こんなところで脚の手当てをしている場合ではない。熱した小太刀を、注意深く傷口に抉りこませた。
「…………っ」
烈しい痛みが彼女を襲う。幾分息遣いが荒くなったが、しかし声ひとつ立てなかった。締まった傷口をひらき、めりこんだ矢尻を引き抜く。新しい鮮血が床に飛び散った。姫国の王族には申し訳ないと思ったが、東屋に警備兵一人も立てていないほうが悪い。許せ、と思いながら矢尻を捨て、先程裂いた布をきつく傷口に巻いた。ぼたぼたと滴り落ちる鮮血を足先でにじりつけ、ほっと息をついて建物の中を歩き回る。
小さいながらも、しっかりとした厨房があった。戸棚を片端から開けてゆく。並べられた瓶の中から、油が並々と注がれた瓶を見つけて奈綺はそれを懐へしまった。戸棚には様々なもの。乾し肉や小魚、堅餅などの日持ちする保存食もふんだんに置いてある。奈綺はその中から乾し肉を幾かけら千切って、口の中に放り込んだ。……さて、どうしたものか。噛みごたえのある堅い乾し肉を飲みくだしながら、奈綺は窓際に腰掛けて外を見やった。
「……疲れた」
誰もいないことを承知で、呟いてみる。意外と響きが良く、自分の声があちこちに反響して聞こえた。なるほど、これならば誰か来てもすぐに気付くだろう。少し眠ろう、と奈綺は寝室の寝台に戻った。ふかふかの毛布。柔らかな敷布団。髪をかきあげ耳を出して、奈綺はそっと暖かい布団の中にもぐりこんだ。
(…………)
ぱちり、と奈綺の瞳が開けられたのは眠ってから数刻後のことであった。
「……遅いな」
こんなに追ってくるのが遅いとは。追っ手といわないではないか、と奈綺は舌打ちをして起き上がる。はるか遠方から地面を伝ってくる振動。それが馬の蹄音だと気付くのに、時間はかからない。奈綺の場合ならば尚更。
「さて」
東屋に人がいると思わせるために、建物中の窓を開け放してまわる。そして柳帝から与えてもらった栗毛の馬を、もう一度外から見つけやすい門柱に繋いだ。それから奈綺は、するすると建物の近くに立つ大木に登った。葉擦れの音もほとんどさせない、見事な登り方であった。……そして待つ。追っ手がここまでやってくるのを。
奈綺が木の上に登ってからわずか半刻ほどで、馬の蹄音はまるで騒々しい轟音の波となって傍らまでやってきた。奈綺はそっと息をひそめて、彼らを見下ろす。
(二十……三十……)
五十ほどいるだろうか。皆、騎兵である。風が強く、誰一人奈綺のいる木上に視線を向ける者はいない。ざあざあと耳をうつ風の音に紛れながら、奈綺はそっと彼らの群れを取り囲むように油を落としていく。ある程度兵士たちから距離を置いて、油を落としたせいで彼らには気付かれない。彼らは兎に角、東屋の中に人がいるものだと思い込んだまま、その建物の中にのみ気をとられている。
「中にいるぞ、必ず生きたままひっ捕らえよ!! 湯庸閣下の命だ!」
(……ふん? 生きたまま……捕らえられると思ってるのか。なめられたもんね)
円形を描くように油をまいて、奈綺は一番後ろにいた兵士の、その背後に身体を下ろした。まったく気配のない仕草。皆、奈綺に無防備に背中を向けたままである。
「…………」
たった一人、追っ手をまとめる頭領らしき男だけが奈綺と正面きって向かい合う。……五十余りの兵士を間に挟んで。
「…………!!!」
驚愕のあまり、頭領は顔を引き攣らせる。声が出ない。その表情を認めた前列の兵士たちが、慌てて己らの背後を見たときにはすでに遅かった。炎が、上がる。
「…………っあぁ!!!」
「逃げろ、奴だ!!」
声をひそめて東屋に侵入しようとしていた兵士たちの唇から、悲鳴に近い叫び声が上がった。奇襲した側が強いのは、世の常である。兵士たちは、もちろん自分たちが奇襲側だと信じていたから尚更、その衝撃は大きかった。まさか自分たちが奇襲されるとは、思ってもいなかったのである。誰も奈綺に向かって剣を向けようとして来ない。奈綺に向かって、逃げ走って来るだけである。そして自分の行く先に奈綺の姿を見つけて、へっぴり腰で剣を突き出してくるのだった。
「すまないね」
そっと呟いておく。これほど殺意をもって人を殺すことも、珍しい。これは私情に近かった。湯庸、とやらとは決して相容れないであろう。そしてその私兵たち。何度殺しても殺し足りぬ、と奈綺は瞳を光らせる。炎が円を描いてどんどん広がり、さまざまなものが焼ける臭いが漂い始めた。炎に四方八方囲まれて、その円の中で逃げ惑う兵士たちの群れに、奈綺は幾度か小さな松明を投げ込んだ。
「ぎゃあぁあぁぁ……ぁ……あぁ!!」
助けてくれ、助けてくれ、とそこら中で悲鳴が聞こえる。小さな戦であった。人の肉が焼ける臭い。それが辺り一面に漂って、奈綺はその臭いに眉をひそめる。火達磨になって円の中から脱出してきた兵士は、奈綺の長針によって一撃で仕留められた。
これが私の戦いだ。広場で無防備に兵士を相手にしていた、あの私ではない。こうして森があり、林があり、茂みがある。それは全て奈綺の武具となる。自然はそろって奈綺を味方し、どれほど多数の敵を相手にしても決して引けをとらない。
(柳帝、とりあえずあんたの望みはひとつ叶えた。湯庸の精鋭五十は皆殺しだ)
炎がおさまったときには、すでに生きている兵士は一人もいなかった。ただ奈綺だけが息をひそめて木の上に隠れている。ぷすぷす、という厭な音。辺りに立ちこめる煙と肉の焼ける臭い。そして黒く焦げた茶色い死体が、累々と転がる。
「…………」
さて、ようやく帰れる。奈綺は一度だけ、面倒臭そうに合掌をした。
【約束】
柳帝から密かに文が来たのは、ちょうどその年の冬である。
あの時期――つまり柳帝が奈綺を舜に帰したあの時期から、彼女は舜の後宮に入り浸った。舜帝が言った言葉が原因である。この後宮に柳の間者が忍んでいるらしい、という主君の言葉通り、奈綺はすぐにその間者を嗅ぎあてた。女である。まだ若く、奈綺よりもわずか2つ3つほど年上であろうかと思われるほどの妃であった。どうやらまだ一度も、舜帝の寝室には呼ばれていないようだ。その女の名を、彩(さい)という。彩妃は、もちろん容姿に関して非常にすぐれた女であったが、何よりも視線が異常であったと思う。 あまりにも鋭すぎた。帝の寵愛を得るための妃にしては、その双眸は幾分炯眼でありすぎたのである。もう少し瞳をゆるるかにしていれば、奈綺も気付かずに見過ごしていたのではなかろうかと。
その彩妃が間者であると勘付いた奈綺が接触を図ろうとする前に、意外にも彼女から言葉をかけてきた。
『ちょっと、貴女髪を結ってちょうだい』
それが彼女の第一声で。それだけに奈綺は唇を歪めた。おそらく柳帝が、鳥に文をつけてこの女のもとに飛ばしでもしたのだろう。これは向こうも意図的に接触を図ってきている、と奈綺は察した。彩妃は人払いをし、奈綺に髪を結わせる。貴族に女官として仕えることは、奈綺の生業では決してなかったがしかし、それでも奈綺は器用に女の髪を結った。
この仕事をしていれば、世の中の大概のことは一通りできた。
『貴女…………手を組まないかしら』
『何をですか』
きらきらとした妃の双眸。それが鏡越しにまっすぐ奈綺を見つめている。女にしては相当の度胸があるようだ、と奈綺は敵ながら快く思った。
相手が果たして舜にとって利用できるか否か。それを見極めねばならない。相手がそれなりに出来る人間であればなおさら。
『取引よ』
『もしもそちらが情報を流さないのであれば、私も同様に』
びくり、と妃の肩が震えた。ごく微かな動きではあったが、奈綺はその動揺を見逃さない。
『……先手をうったわね』
『貴国は』
と、奈綺は妃の耳元に囁く。一介の女官としては限りなく無礼な行為ではあったが、奈綺はかまわず続けた。
『どうやら体内にひどく大きな蟲を飼っていらっしゃる』
蟲、とはいわずもがな。柳帝叔父の湯庸を指している。彩妃の双眸が、再び揺れた。どうやら幾分悔しいと思っているらしい。奈綺の声は静かだ。
この女は、人を挑発することに長けている。愚かな者は、驚くほどあっさりとその網にとらわれる。
『…………』
しかしこの妃は違った。柳帝が送り込んできた間者である、この舜で奈綺とともに働く支岐よりもむしろ度胸と能力に溢れているように見えた。
『乗ったわ。貴女、私付きの女官におなりなさいな』
彩妃はそう言った。生まれは卑しい。孤児である。それが、まるで他の妃よりも妃らしい雅な話し方をするので、思わず奈綺は口角をあげた。
その彩妃が、湯殿に浸かっているときに奈綺に囁いたのである。
「文が」
奈綺は舜帝に全てを話した。彩妃が間者であるということ、手を組んだということ。流れは全て帝に報告してある。そのうえで、奈綺は彩妃付きの女官としてもらった。
「…………」
ぱしゃ、ぱしゃ、と音が響く。丸窓から、暗闇の中に満月が輝いているのが見えた。脱衣処で焚いてある香の薫りが、この湯殿までゆらゆらと漂ってくる。奈綺は湯気に包まれながら、文を開いた。少々驚く。
『即来』
その二文字。その二文字だけが細い筆先によって書かれていた。即ち来よ。すぐに来い、と命じている。貴様の間者ではないわ、と思いながら、しかし祭りを抜けたときの恩を奈綺は忘れていない。
この女にはどこか妙な律儀さがあり、自分が信じ認めた者を頑固に敬愛しぬくという悪癖がある。だがそれは決して彼女を自爆させない程度のものであり、むしろその律儀さがうまく物事と絡むことのほうが多かった。
いつでも奈綺は、すべて冷静に判断しながら動いている。今舜を留守にしてはならない、という危惧はない。この舜には彩妃がいるからである。
この彩妃がいる限り、奈綺は柳へ行くことを許される状況にある。
「何と」
「……柳へ」
奈綺は一言、小さく答えた。彩妃が白い素肌を湯殿からのぞかせる。そろそろ上がりたいらしい、奈綺は黙って薄布を彼女の肩に滑らせた。
「彩妃よ、私の留守に舜に何かあれば」
妃がこちらを見上げる。そしてそっと湯殿から立ち上がり、脱衣処に向かって足を進めた。
「そのときは柳帝の首が刎ねられると覚悟しな」
奈綺が彼女に敬語を使うのは、人目のあるときだけである。必要がなければ、まるで礼儀をわきまえない物言いをした。奈綺が敬意をはらうのは、基本的に舜帝ただ一人だった。
これが瞳を光らせて低く囁く様は、まるで脅しに似ている。声が透明であるだけに、感情のなさがさらに凄みを深くするのである。
「……あんたこそ」
誰もいない湯殿で、低くやりとりが交わされる。
「柳帝陛下に何かあれば舜が潰れると思いなさい」
奈綺がにやりと笑った。諾、の合図である。そして奈綺は、彩妃の着替えを手伝い、分厚い扉の鍵をあけて廊下へと彼女の身体を押しやった。
「もう戻って休みなさいな」
「御意」
隔離された湯殿を離れれば、どこに目や耳があるとも限らない。
二人の豹変ぶりが、さすが間者であるということを思わせた。
欠片も敬意を抱いていない相手におとなしく拱手し、奈綺はすみやかに舜帝の寝室に向かった。
「陛下」
拱手する。仕事を除いて、自ら奈綺が拱手する相手はこの男しか存在しない。
「柳へ行くことにお許しを」
そしてこの男ほど、奈綺を重く扱っている人間はいないであろう。
後にも先にも、これほど奈綺を重んじた男はいなかった。孤児だった奈綺を拾い、間者に成したのもこの男である。もとから人を見る目に長けていたというべきであろう。それだけに、奈綺がこの年の初夏、柳帝のおかげで無事故国へ帰れたことを忘れていない。これもまた奈綺に似た律儀な男であり、器の大きな人間に対しては驚くほど深く敬意を払う。
常であれば、一国の皇帝が敵国の間者を逃がすことなどありえぬ。その場で殺すか、囚人の慰みものにされるのがおちである。奈綺ほどの間者が生きていれば、周辺諸国にとってはまるで大きな脅威。それをあえて逃したのはどのような理由からか。そのあたりは読めなかったが、しかし彼のおかげで奈綺は舜へ戻ってきたのである。それを考慮したうえで、舜帝は奈綺の面を上げさせた。
「……仕方あるまい。柳帝は器量の良い人間とみた」
暖炉の火が、あかあかと燃えている。それは奈綺にとって無縁のものであり、これからまたすぐに極寒の地へ向かわねばならない。
「彩妃がいる限り、おまえが柳へ行くことは無駄にはならんだろう」
要するに、行け、ということである。奈綺はその寛容さに敬意を感じながら、頭を下げた。自室へ戻り、支岐に文を飛ばす。彩妃から目を離すな、と釘をさしておいた。
この冬は例年に増して雪が多い。舜の宮廷も街も、みなすでに雪に覆われている。奈綺は丈夫な皮沓を縫い直し、身につけた。小さな瓶に気付けと暖取りのための火酒を入れ、毒瓶とともにくるくると器用に腰に巻きつける。 この舜の宮廷に与えられた奈綺の室には、大きな暖炉がある。皇族とまるで同じ扱いである。奈綺は当初、こう贅沢な室に異議を申し立てたが、この宮廷にいるときくらいは身体を休ませよと舜帝に諌められて今に至る。
しかし暖炉はそこに存在するだけで、欠片の火もない。火がないということはつまり、この室には暖がないということである。暖をとるといえば専用に備えつけられた湯殿か、それか寝台の毛布しかない。
暖炉の火に慣れてしまえば、それだけ冬の寒さに慣れなくなる。それがこの美しい女の持論で、まるで温度のないこの室で奈綺は平気な顔をして暮らしていた。
(…………柳か)
柳へ行くのは幾ヶ月ぶりになろうか。柳は舜よりもさらに北、白山を越えたその向こうに位置する大国である。この時期であれば、かの国は舜とは比べようもないほどの大雪に見舞われているはずだ。即ち来よ――……即ち来よ、と言うならばすぐに向かわねばなるまい。早く柳に足を踏み入れるに越したことはなかろう。柳に早く着くためには、白山の麓を回っていてはあまりに遅すぎる。柳へ早くゆかねばならぬということは、白山の頂上をまっすぐ越えてゆかねばならぬということである。常人の影などまるでない急峻を越えねばならぬ。奈綺には命の危険が伴う。それは男たちを相手に闘うよりもはるかに大きな危険であった。
(そろそろ蟲を始末したくなったかな)
奈綺は小さく唇を歪めた。あれほど性質の悪い蟲を抱えていては、思い通りの政もままならないに違いない。始末できるならば早急に始末してしまいたいだろう。おそらく奈綺が呼び寄せられるのはそのためだ。
湯庸を始末するのに尽力せよ、と言いたいのである。仕方あるまい、あの男には恩がある。借りがある。いつまでも借りを被ったままでいれば、いつかそれが弱みになるのではあるまいか。奈綺はそれを案じている。
そっと窓の外を見ると、雪が降っていた。激しい雪ではないが、どうやらやむ気配がない。しんしんと降り続く雪が積もり、国中の音を吸い取ってしまっているような気持ちがする。だがしかし動きだすには格好の夜。
奈綺は窓にかけられた布をひく。重く分厚い布で、外からは室の灯がついているのか否か分からない。それはつまり、奈綺という恐るべき『風の者』がどこで活動しているのか、皆目見当がつかないということでもある。
奈綺はそれを狙って、この分厚い布を舜帝に用意してもらったのであった。
夜が更けてゆくと同時に、馬を曳きだす。雪が多くなれば、馬は必須のものとなる。雪、というのは魔物に等しく、この怖ろしさを知っているのは北国の者だけだ。奈綺にとっては兵士よりも敵間者よりもはるかに脅威を感じる相手。今までに幾度か、雪で死ぬ思いをしている。
それだけに用意も周到で、雪山に対する心構えにも目を見張るものがあった。
「……舜に幸多からんことを」
呟く。この時代、言霊というものは広く信じられている。声に出して言えば、それが現実のものになると皆信じていた。祖国の繁栄と主君の多幸を祈る。奈綺はそして幾度か瞬きをすると、腰帯をさらにきつく締めなおした。
人目を忍んで外に出て、音もたてずに馬の背に飛び乗る。馬もそこのところはよく心得ていて、嘶きひとつせずにただ一度だけ身震いをした。
これも強情な馬で、奈綺によく似ている。よく暴れる性質の悪い馬だったが、毛並み脚力ともに群を抜いて素晴らしく。その暴れ馬も、どうやらこの主、と信用したものにはとことん従う性質らしい。奈綺が軽く彼の腹を蹴ると、馬は軽やかに雪の中を走り出した。柳へ向かう、それは並大抵の覚悟でできることではない。奈綺はしかし、平然とした顔で駆け始めた。
どの歴史書を紐解いても、奈綺という名は出てこない。記されているのは名だたる皇帝の御名であったり、豪族の名前であったりした。しかし歴史が要としていたのは、彼らばかりに限らない。歴史が彼女を手招きしているということは、まるで誰も知らないのである。彼女自身も気付かぬままに、彼女が歴史を大きく動かしてゆく。それは天が呼び寄せた大器であった。欠片も歴史に名を残すことのなかった、女である。奈綺が柳へ向かったこのときを境に、柳は大きな転換期を迎えることとなる。柳帝即位十年。
『……柳帝即位十載。彼国政変有。其急変由不明』
歴史書にはそう記されている。
――……柳帝が即位して十年。かの国に政変有り。其の急変の理由は不明である。
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2005/02/26(Sat)07:58:33 公開 /
ゅぇ
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■作者からのメッセージ
風邪ひきました、風邪。鼻づまり、喉がひどく痛み、身体中関節痛。おいおい、やばいよ、といいながらもそろそろ更新しなければということで書いてみたり。何だかもう身体中の水分がどっかに蒸発してる気がするんですが。まさかインフルエンザではあるまい。人の多いところでバイトをしているので、インフルエンザをうつされる可能性は高いのですが(笑)だいたい薬のんで寝たのに昨日より悪化してるってどういうことだ。肌がかさかさだ……最低だわ。という愚痴だらけのメッセージになったわけですが、この展開の速さはさすがあたしの短所でもあるわけで。そこらへんは目を瞑っていただければ、というより瞑ってください。最初に予防線を張っておきます(爆笑)次からはその柳の『政変』についてちょろちょろ書いていきたいと思ってますので。どうかお暇ならばお付き合いくださいませ。