- 『遠出の先』 作者:HAL / 未分類 未分類
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全角2989.5文字
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原稿用紙約9.2枚
窓ガラスで頭を打った。ズキンと痛む後頭部をさすりながら、大きく傾いた体をゆっくりと起こす。
「いい音がしたな」
運転席の親父が、ミラー越しに俺を見て笑った。
「今どこ?」
座席の背にだらしなくもたれ掛かり、あくびを口の中で噛み殺して聞く。窓の外に目をやると、コンクリートの塀の向こうに海が見えた。
「あと1時間くらいかな」
トロトロと「超」が付くほどの安全運転をしながら、親父が答える。隣の車線から、ワゴン車が追い抜かしていった。
いつの間にか足下に落ちていたケータイに気付き、拾い上げてサイドボタンを押した。時刻は16時前。どうやら俺は、2時間近く眠っていたようだ。
ゴツいプーマの靴を脱ぎあぐらをかいて、手持ち無沙汰でほぼ無意識に受信メールのフォルダーを開く。意味もなくスクロールさせていると、不意をついてフアッと大きなあくびがもれた。
「ちょっと外出るか」
突然親父が、まるで独り言の様に言った。ワンテンポ送れて「え?」と聞き返す俺の言葉は無視して、車線から外れてコンクリート塀ギリギリまで近づき、車を止めた。
「少しだけだから」
シートベルトを外し、チラッと俺を振り向いてそれだけ言うと、親父は車を降りてドアを閉めた。
少しの間静まりかえった個室に一人取り残されてから、俺もとりあえずドアを開ける。突如流れ込んできた冷たい空気が、車内の暖房で火照った頬を瞬時に引き締めた。俺は小さく身震いをして、握りしめたままだったケータイを座席の上で丸まっていたマフラーに持ち換え、しっかりと巻いてから外に出た。
「さっむ」
突き刺さるような冷たい風に怒りすら覚えて思わず毒づきながら、塀に両手をついて海を眺めている親父に近付く。隣まで来て向きを変え、冷たい塀に背中をもたれ掛けて立った。親父の視線が俺に向けられたのを感じたけど、俺は人気の少ない車道に顔をむけたままあくびをした。わざと、めんどくさそうに。
「でかくなったな。今いくつあるんだ?」
しばらくの沈黙の後、親父がいきなり聞いた。
「170」
俺はその質問に簡潔に答える。答えてから、この前計ったらまた伸びていたことを思い出したけど、めんどくさいからそのままにした。それを聞いて、親父は「へぇ」と驚いたような、感心したような声を出した。
「父さん中学の時なんて、まだこんくらいだったぞ」
笑いながらそう言って、右手で「こんくらい」の高さを示す。
「母親に似たんじゃねぇの?」
そんな親父に俺は言って、やっと顔を横に向けた。しっかりと親父の目を捕える。親父は一瞬不意を突かれたように固まって、それから困った顔で「そうだな」と笑った。
意地悪を言った。俺の成長の早さについて語るために、こんな寒い中海をバックにする必要はない事くらい、わかっている。俺は視線を元に戻す。親父がゆっくりと息を吐き出す音が聞こえた。
「お前との久しぶりの遠出が、母さんの墓参りとはなぁ」
別に返事を求める風ではなく、親父は海に向かってただそう呟いた。潮風が微かな音をたてて通り過ぎていく。頬にぶつかる風は冷たい。けど、ちょうど良いと思った。
「もう2年か」
「7年だよ」
親父の言葉の後に間を置かず、俺はそう答える。親父は顔だけまた俺に向けて、さっきと同じように力無く笑った。
俺が小学校に入学してすぐ、母親は突然居なくなった。わけもわからないまま、それでもいつも通り毎日は過ぎて、いつの間にか俺の中に、母親はいなかった。最初からその存在すらなかったかのように、すっぽりと抜け落ちている。ショックを受けすぎたのか、たんに冷めたガキだっただけなのか、それすらもうわからない。俺の「母さん」に関する情報は、昔押し入れから見つけた俺のアルバムの中の、スラッと背の高い女の人ということだけだ。
だから2年前、母親が交通事故に巻き込まれて死んだと聞いた時も、はっきりいって実感が湧かなかった。それが確かに俺と血の繋がった人だったとしても、俺の記憶の中には居ないのだから、知らない人とかわりないんじゃないか。
葬式の朝、真っ黒な服を着た親父が、部屋でマンガを読んでいた俺に「一緒に来るか?」と尋ねた。俺は数秒置いてから、首を横に振った。
なんで親父は行くのだろう、と思った。少しだけ賢くなった頭の中で、「所詮他人じゃん」と呟いた。覚えてもいない母親に対して、高学年になったころから俺の中には、確かに微かな嫌悪感が生まれていた。関係ねぇよ。そう思った。
なのにあの時俺は、親父の顔を見ることができなかった。2階の窓から親父の車を見送りながら、なぜかドクドクと激しく音をたてる心臓を、両手で抑えつけることに必死だった。
戸棚の中から古びた離婚届けの用紙を見付けたのは、つい3ヵ月ほど前の事だ。親父の丸っこい文字の横に、母親の名前は、書かれていなかった。
「葬式にも出なかったのに、いきなり墓参りつれてけだもんな」
今度は俺の方を向いて言う。朝、台所で新聞を読む親父にそれを言ったとき、親父は口元に運んでいる途中だったコーヒーのカップを寸前のところで止めたまま、ポカンと口を開けて俺を見上げた。よほど驚いたんだろう。瞬きを何回もした後で、「あ、今日から冬休みか」と、ズレた返事をした。
「気まぐれだよ」
俺は薄く笑って返す。けど、嘘。本当は昨夜から考えていた。黙々と悩んだ末に、9時までに目が覚めたら行こう、とダサい賭けをした。今朝目を覚まして、時計を見て、ため息を付いた。まだ7時前だった。
「母さんはなぁ、父さんといると、ダメになっちゃうんだ」
「聞いたよ」
3ヵ月前のあの夜に、同じ台詞を聞いた。話しながら親父は、普段飲まない缶ビールを、三本も空にした。
「14歳、か」
親父がまるで自分自身に確かめるように、小さく呟いた。
「准は、母さんの事」
「わかんね」
親父がやっと口にした、きっと一番本題なその質問を、最後まで聞かずに吐き捨てた。
「行ったらなんか分かるかと思ったけど」
俺の言葉に、親父は少し淋しそうな顔をした。そんな親父から目をそらし、息をついて言う。
「ただ、今ここにいれて、よかったとは思うよ」
きっとこれが今の俺の、ただひとつだけ確かなこと。難しいことは分からない。自分から捨ててしまった記憶も、元に戻せそうにはない。けど、母親の実家近くにある墓地の、その小高い丘の上から見た景色は、とてもきれいだった。
「そうか」
親父はそれだけ言って、また視線を海に移した。そしてもう一度微かに、「そうか」と呟いた。
「早く帰ろうぜ。親父の運転すげぇ遅いんだから」
ついさっき自分の口からすらっと出てきた言葉に今更顔が焼けそうなくらい恥ずかしくなって、同時になんだかわからないけど涙が出そうで、俺はそう言って歩き出した。
「よしっ帰るか」
後ろから、親父の大きな声がした。
車のドアを開けてすぐ、座席の上のケータイが光っているのに気付いた。ドアを閉めて、メールを開く。
『たんじょーびオメデト!』
クラスの奴からだった。
「寿司でも買って帰るか」
少し遅れて車に乗り込んだ親父が、シートベルトを締めながら言った。
「一番高いやつで」
俺はマフラーをほどきながら返す。
親父の運転する車は、穏やかに波打つ海のそばを、またトロトロと走りだした。
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■作者からのメッセージ
おひさしぶりです。ここに投稿するのは本当に緊張します;初の家族愛モノです。
読んで下さった方、心からありがとうございます。もしよろしければ、批評などお願いします。