- 『あはれ、桜よ。』 作者:ゅぇ / 未分類 未分類
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原稿用紙約10.35枚
ふわり、ふわり。
漆黒に近い闇の中、薄桃色の花片がゆっくりと落ちてゆく。上げさせた御簾の向こうから小さく笛の音が耳に届き、彼女はふと艶なる笑みを口元にたたえた。そうか、今宵もおいでになったのか。つ、と前栽(せんざい)のほうへ目を向ける。彼女の曹子(へや)に面した植え込みには桜はなかったが、邸の他の場所から風に揺られてきたのであろう。桜の花片がまるで一筋の波のように、ゆらゆらと落ちてくる。命のようである、と彼女は目を伏せた。
「……式部、御簾を」
若い女が、さらさらと衣の裾を鳴らしながら御簾を下ろす。
「火鉢を準備させましょう」
ごく小刻みに震えている彼女の指先を見て、式部がひそやかに言った。幾人かの女房が小さな火鉢を運びこんでくる。昼方まで燃えていた炭が白く灰がちになり、まだあどけなさの残る女房が懸命に火を掻き起こしていた。
話すのが億劫だ。白い灰が少しばかり彼女の単衣に降りかかったが、何もいう気にならなかった。下ろした御簾越しに、遠く笛の音が聴こえてくる。彼女は熱っぽく潤んだ瞳で式部を呼んだ。
「おいでになられた。……少しばかりお酒(ささ)を」
笛の音で分かる。今宵も訪うて来たのか、あの殿方は。何時からか彼女を訪うて来るようになった中将は、笛の名人であった。清涼殿へ参上しては、帝や院にその笛の音を献上なさっているとか。夕べになると、こうして彼は笛を吹きながらやって来るのである。
「……お逢いしたかった」
ひっそりとそう言って、彼は笛を置いた。彼女は、何も言わぬ。ただ微笑みを浮かべて男の整った容貌(かたち)を見つめ返すだけである、御簾越しに。
御簾越しでもうっすらと分かるお互いの容貌。いったいこの方は、我のことをどのように見つめているのであろうか。彼女は毎晩、男と対面(たいめ)するたびに思う。
お逢いしたかったという言の葉が、虚言(そらごと)であるのか真事であるのか彼女には見当もつかぬ。ただ推し量ることしか、術もない。
幼い頃から身体が思わしくなかった。幾度も法師ばらを召しては加持祈祷を行い、祓を行ったが、いっこうに健やかになる気配もない。彼女は、よその娘が行列をなして山寺参りに詣でるのを噂で聞くだけだった。己よりもまだ若い女房たちが、さわさわと邸を行き来するのを見ているだけだった。
(この邸の外を見てまわるだけの、それだけの力があらば……)
凛々しい青年中将の胡坐姿を見ながら、彼女はひどく切なく思う。ぱちん、と閉めた扇の音が曹子の中に清々しく響きわたった。
(……それだけの力があらば……)
何もできぬ暮らしのなかで、こうして正面から話し相手になってくれたのは中将が初めてであったろう。笛を吹き、その日に殿上で起こった出来事を話し、甘い言の葉を囁き。そして明日の夕べも参ります、と言って暁方に帰ってゆく男。あぁ、世間並みの女君たちと同じことを、我はしているのだ。それが少し嬉しい。
火鉢が曹子の中を温め、透き通るように白い彼女の頬にすっと赤みがさす。
女房が、中将に酒を奉っているのを見て思うのだ。あはれ、このようにやんごとなき姫の立場に生まれて来ずとも、自由に動いてゆける女房に生まれて来れたならば良かったろうに。
「……明日もまた、必ず」
「お待ちしております」
女房に、伝えさせる。曹子を出てゆく若々しい男の後ろ姿を、彼女は切なげな瞳で見送った。彼がいるだけでどこか華やかであった曹子が、一気に物寂しくなってゆく……。
どうか、どれほどに短い命でもかまわぬ。
どなたか我の話し相手になってはいただけぬか。
どなたでもかまわぬ。
どうか我に、正面から語らいしてくださる方は。
あはれ、どうか。
どうか、我が玉の緒を少しでも華やかに繋げてくださる方はおらぬか。
如月(きさらぎ)の頃、雪を眺めつつ祈ったことを思い出す。
日に日に、彼女の身体は弱ってゆく。決してその弱さを、周りの者へ見せることはなかったが。しかし彼女は、己の身が少しずつ少しずつ黄泉路へ向かっていることを知っていた。
(我が世は尽きるのであろうか……)
瞼が重い。暖かくなりはじめた空気が、何故か彼女の身体を蝕むようだった。女房が言うには、もう邸中の桜はほとんど散ってしまっているという。
ふわり ふわり。
嗚呼、視えるようだ。闇の中にふわふわと吸い込まれてゆく桜の花片が。時折、風に煽られて桜の花片が巻き上げた御簾から舞いこんでくる。短い命だ、桜とは。
幾年も、そうして舞い落ちてゆく花片だけを見てきた。桜花をつける大木は見たことがなくとも、それだけに桜に対する想いは深く強かった。
少しずつ、息ができなくなってゆく。
深く強い想いに、押し潰されそうだ。この狭い曹子のなかで。几帳が、御簾が、格子窓が、何もかもが彼女を責めたて、押し潰そうとしているように感じられる。
毎夕、男は邸へと通い詰めた。何時でも、彼女の望むことを話してくれた。その話し方は巧みで、まるで彼女がその場にいるかのような錯覚を覚えるほど。それが幸せであった。
……桜が、願いを聞き届けてくれたのであろうか。
男は明け方に帰ればすぐに、後朝の歌を欠かさず寄越した。時には藤の花を添えて、時には桜の花を添えて。そうして彼女は折々の草花を、この目で確かに見た。それも幸せであった。彼がいなければ永遠に見ることのなかったであろう外の世界を、彼女は見た。
桜が終わる。日を経るごとに、桜が死んでゆく。彼女の喉元に、何かがこみあげた。
あざらかな紅いものが、板敷きの間に飛び散った。飛び散ったそれは、紅く染まった桜の花片に見えた。喉の奥が、ぬるぬるとした感触に冒される。
(…………外(と)の方へ)
彼女が血を吐いたことを、女房たちはまだ気付いてはおらぬ。これが初めてではなかったが、もうそろそろこれが最期のような気がした。
外へ、と彼女は動かぬ身体を必死に縁側へと持ってゆこうとする。身体がどんどん弱っていることを女房や式部たちに知られぬように、いつでも毅然と身体を起こしていたのが災いした。つらい。頭の奥が、しめつけられるように痛む。胸の奥から、何度も何度も生温かいものがせりあげてくるのが分かった。
どうか、桜を。桜を。
(いかで桜を見ばや)
どうにかして桜を見たい。……桜を見たい。
彼女は衣擦れの音もたてぬようにひそやかに、しかし必死の面持ちで縁側へ這い寄った。
ふわり、ふわり。
どうしたことだろう。今宵はあの方がおいでにならぬ。
ふわり、ふわり。
闇の中から桜の花片が、降ってくる。嗚呼、雪のようではないか。彼女は微笑んだ。何と美しい光景であろうことか。気高き都人の、雅を潤す光景ではないか。
ぼたぼたっ、と紅のものが落ちた。こらえていたものが、一気に噴き出してくるようだ。潜めていた息が、ぜいぜいと音をたてた。苦しさに、こらえていた涙が頬を伝った。女房たちが慌てて駆け寄ってくるのを、彼女を遠ざかる意識のなかで感じる。
彼女の息がぴたり、と命を失ったとき、邸に最後まで残っていた一枚の桜の花片が落ちた。最後に落ちたその花片を、沓(くつ)が知らずに踏みにじった。
「お逢いしたかった……」
呟いて、中将は邸の門を見上げる。彼の沓裏に、最後の花片が汚れへばりついていた。
「そう、お逢いしたかった」
貴女の希みは叶ったろうか。どれほどに短い命でも、と望んだ結末。嗚呼、感じる。我が身体のなかに貴女が入ってくるのが、分かる。何と心地よいことか。
さて、貴女は今宵も御簾のなかにおはしますだろうか。貴女を連れてゆかねばならぬ。貴女は永遠に美しいままで、我が手に抱かれねばならぬ。男の目が、吊りあがっている。もはや人のかたちを成さぬもの。
「あな、鬼ぞ……!!」
女房の悲鳴が、邸にこだました。
中将は死んでいた。己の邸から程遠い、人も住まぬあばら家で骨と化していた。
「お逢いしたかった」
貴女をこの手で抱きたかった。鬼の、恋。
鬼とは物の怪にあらぬ。穏なるものが潜む器。想えば想うほどに、鬼の恋は美しく咲き誇る。彼女は、それでよかった。たとえ彼が鬼であっても、彼女は微笑む。彼がいなければ決して見ることのできなかった外の世界を、見せてくれた鬼に。たったひとつの笑顔を向ける。
あはれ、桜よ。
美しき鬼よ。
願わくは、後世いつの日か、ともにならんことを。
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2004/12/29(Wed)08:10:40 公開 /
ゅぇ
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■作者からのメッセージ
他の三作品に少し飽きて(オイ)、読みきりを書きました☆この頃、平安ネタで作品を書かれる方もいらっしゃって、あたしも便乗した形です。……便乗はならぬ、と我慢していたのですが、我慢できず。特に何が言いたい、という作品でもありませんので、まぁ適当に読み流していただければ幸いと存じます。