- 『願い歌』 作者:紅月薄紅 / 未分類 未分類
-
全角1593.5文字
容量3187 bytes
原稿用紙約6.6枚
ある時代(とき)、ある女が詠んだ。
―あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな―
「ごほっ……けほっ……っ……」
日が遥か遠くの山に沈む頃。
ある母屋から、誰かが咳込むのが聞こえる。
そこには一人の女がいた。
長い黒髪が肩から流れ落ちるのも、顔にかかるのもそのままに、その女は苦しそうに咳をしていた。
「……けない」
何か小さく呟く。
「……いけない」
俯いた顔は、汗で濡れ、髪が貼りついてしまっている。
「……知られてはいけない」
あの人にだけは。
それは毎夜誓ってきたこと。
愛しい人が来るその前に、己に言い聞かせていたこと。
自分が病に犯されていることを知れば、あの人はきっと苦しむから。
そんな思いはさせたくない。だから。だから―。
「綺麗な髪だ」
「ありがとう」
夜は早々と過ぎていく。
いつかは途絶えてしまうこの夜を、少しでもこの胸に残しておきたい。
女は毎夜、男の胸の中でそう思う。
「今宵は、少し元気がないな。何かあったか?」
男は心配そうに、腕に抱いた女の顔を覗きこんだ。
男の優しい息遣いが聞こえ、くすぐったくて、少し身体をずらした。
「いいえ。何もないわ」
大丈夫よ。
そう言ってはいるものの、女の身体は刻々と病に犯されつづけている。
今にも咳込みそうなのを、ぐっと手を握り我慢した。
知られてはいけない。
悲しませては、苦しませてはいけない。
繰り返し心の中で呟く。
「それならば良いが」
安心したように男は言い、耳元で小さく名前を呟く。
その瞬間、女は胸に悲しみが湧き上がるのを感じた。
この人と離れたくない。
いつまでも。
いつまでも。
「……いつまでも、一緒にいれたらいいのに」
思わず、口から胸のうちが出てしまった。
「……そうだな」
気づいたのか、気づいていないのか。
男はふっと優しく微笑み、口付た。
夜はたちまち朝となる。
待ち焦がれた、幸せな時間ほど、過ぎるのは早く感じる。
「また、次の夜に」
そう言って、男は背を向ける。
「えぇ」
何度その背を見つづけただろう。
何度その背を抱きしめ、「ここにいて」と言おうとしただろう。
思いが叶わないのはわかっている。
それが世の理だから。
けれど、いつこの夜がなくなるかわからないのだ。
その不安が、一層思いを膨らませる。
「さようなら」
小さく呟いた。
「けほっ……うっ…ごほっ…」
また訪れる苦しみ。
けれど今日は、何かが違った。
「っ……けほけほっ……」
いつもよりも、苦しみが大きい。
とうとう。
とうとうやってきたのだ。
この時が。
「ふっ……」
涙が次々とこぼれる。
まだ日は高く、愛しい人はやってこない。
逢いたい。
逢いたい。
その思いばかりが、身体中をぐるぐると回る。
「うっ……うぅっ……」
どうして、もっと遅くこの時が来なかったのだろう。
せめて、せめて。日が沈んでから、愛しい人が来てから、このときを迎えたかった。
女はばたりと床に倒れた。
もう、この世を離れるときが来たのだ。
「……もう一度だけ」
右手を振るわせながら、持ち上げる。
その目は、まるでここにはいない、愛しい人を見ているようだった。
「……せめて、もう一度だけ」
涙が一筋流れる。
瞼が閉じる。
腕がだらりと落ちる。
唇が、何かを紡ごうと、した。
それは最期の願い。
叶うことのなかった、悲しい願い。
せめて、もう一度だけ、逢いたかった
ある時代(とき)、ある女が詠んだ。
―あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな―
私は間もなく死んで、この世にはいないでしょう。
だから、死んだ後の、あの世での思い出にするために、
せめてもう一度、あなたにお逢いしたいものです―。
-
-
■作者からのメッセージ
こんばんわ。また書かせて頂きました。
冬休みの宿題で、百人一首を覚えてこいっというのがあるので、どうせなら小説書いて覚えちゃえいっと思い、書いてみました。覚えれたかといえば…否ですけど…(汗
話はすごく短くなってしまい、もう少し長く書けても良かったかなぁと思いました。。。
でわでわ。また、何か書かせて頂きます。