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『コンパス』 作者:ライ / 未分類 未分類
全角3643文字
容量7286 bytes
原稿用紙約11.35枚


 机を数ヶ月くらい手付かずで放っておいたら、いつのまにかとんでもないことになっていた。最早机と呼べないかもしれない。本は見上げるほどに積み上げられ、まるで小さなピラミッドだ。床には食べっ放しのポテトチップスの袋やら箱やら、挙句の果てには鉛筆が真っ二つに折れて転がっている有様である。
 当然の如く母親にはこっぴどく叱られた。怒られるのは慣れているので聞き流していたが、多分母親は「アンタって子は何でこんなにだらしないの!?」と五分間に十回くらいは絶叫していたのだろう。説教が終わった後ベットに横になった時、その言葉だけが脳裏に甲高く反芻していたから。そしてまたベットも薄汚れたぬいぐるみで埋め尽くされていて、さすがのあたしもゲンナリする。
 ジリリリ、アナログな目覚まし時計が何故かこの真昼間に鳴り出す。うるさい。けど止めるのは面倒くさい。暫し心の中で葛藤していると、居間の方から母親の怒鳴り声がビリビリと響いてきたからしぶしぶ止める。「來(らい)! アンタでしょ、止めなさい!」
「止めましたよーっと」
 あたしはベットに飛び込んで、枕に顔をうずめて呟いた。母親は居間にいるからその呟きが届くはずもない。
 ずっと枕に顔を沈めていると、だんだん呼吸が苦しくなってきた。当たり前だ。でも我慢する。部屋の中は静かだ。時計の秒針の音が、何時もなら聞こえもしないはずなのにこんな時だけ音高く響く。ちく、たく。そんな音さえ煩く感じるあたしの耳は何処かおかしいのだろうか?ちく、たく。
 そろそろ限界を感じて、あたしは顔をゆっくり上げる。目まで押し付けていた所為で視界がぼんやり霞んでいる。あたしはこの瞬間が好きだ。世界はこのくらい霞んでいるほうが丁度良い、直視するにはあまりにも汚れすぎているから。
 霞んだ世界の中、近くで物音がした。続いて「アイタッ」という声。
「麗(れい)?」
 声をかける。姿は見えないが、麗であるという確信はあった。というか、この家であたしの部屋に入ってくる人間はひとりしか、麗しかいない。
 麗の声は意外に近くからした。
「來、お前よくこんな酷い部屋で生きてられるよな。そろそろ掃除すれば?お袋にもこの前大目玉くらってたじゃねーか」
 うるさいな、放っておいて。麗に指図される程あたしは堕ちちゃいない。麗がぼやいたのが聞こえた。「おかげで爪切り踏んだじゃん」――ふん、ざまあみろ。
「で?」
 あたしと麗の間に、主語はいらない。別に入れてもいいけど、必要が無い。今のあたしの発言で省略されている部分は「何しに来た訳?」。ついでに言うと、こんなニュアンスも含んでいる――「嫌味を言いに来ただけなら出てってよ。邪魔」。ま、これはあたしの表情で大体分かるだろうけど。
「貸しただろ、返せよ」
 麗の返事にも主語が無い。何時もこんな会話しかしてないから、国語の成績が悪いんだ。ああ、文法なんてクソくらえ。これからあたしが麗以外の人間と話さなければいい話なんだから。
 
 ――随分と無理な話である
 
 そんなの分かってる、いくらあたしと麗が同じ時同じ母親の腹から生まれてきた双子だって、これからの一生を一緒にできるワケがない。大体麗だってあたしなんかに人生を狂わされちゃ堪らないだろう。それはあたしも同じた。
「何か、借りたっけ?」
「馬鹿か、お前。つい三十分前自分で『コンパス貸して』って俺の部屋来たんだろうが」
 そうだったけ?思い出せない。これは俗に言うアレかもしれない、この間テレビでやっていた――そう、プチ痴呆症。番組の内容は覚えていないけど。でも、それでもいいかもしれない。麗の事だけ覚えてて、後は全部、ぜーんぶ綺麗に忘れられたら幾分スッキリするだろう。
「コンパスかー・・・・・・多分机の上じゃない?」
 よく考えもしないで、ありそうな所を言ってみた。そしたら麗は凄く嫌そうな顔をした。いつの間にか目の霞は消えていて、ベットの隣に立つ麗の姿がハッキリ見える。ただ、まだピントが正確に合っていないのか、後ろの白い壁は今だぼやけたままだった。
 
 ――あ、いいかもしれない
 
 何となくそう思った。麗は見える。あとは霞。いいかもしれない。
 物思いにふけったまま言葉が途切れているあたしに、とうとう麗は本気で怒り出した。麗は怒ったら怖い。そこらへんの暴走族より怖いと思う。少なくとも、麗がケンカで負けた姿は今まで生きてきた十五年の間で一度も見たことはない。
 痛い視線を感じながら、しぶしぶあたしはベットから立ち上がった。
「コンパスねぇ・・・・・・」
「さっさとしてくれ。数学の宿題やってねーんだ」
「一組は宿題が出てんだー。大変だねぇ」
「二組だって出てただろ」
「あれはいいの。写させてもらうから」
 麗は一組。あたしは二組。学校であたしたちを隔てるのはこのクラスという壁だ。小学校の時からあたしたちは同じクラスになったことがない。双子を一緒のクラスに入れては、何か不都合でもあるのだろうか。その所為で、あたしがどれくらい苦しんでいるのか、学校は知っているのだろうか。――知る訳がないのだ。
「あ、あった」
「何でこんなトコにあんだよ」
「分かんないよ。落っこちたんじゃない?」
「テキトーだな・・・・・・まぁいいや」
 コンパスはゴミ箱の中にあった。幸いそのゴミ箱は何も入っていなくて、コンパスが汚れた形跡は見当たらない。ゴミ箱に手をつっこんで、赤いコンパスを拾う。麗のコンパス。小学校の時貰ったコンパスは青かった。あたしはそっちの方が好きだった。赤だと目立ちすぎるから。
「何で赤にしたの?」
「は?」
 聞いてみたら、案の定馬鹿にされたような返事をされた。別に、何でもないとあたしは不貞腐れてベットに戻る。飛び込んだ衝撃で、薄汚れた人形は笑顔のまま跳ね上がった。不気味だった。
「コンパスの色なんて、どうでもいいだろ。一番安かったから」
 じゃあ小学校の時に配られたあの青色のコンパス、壊さなければよかったのに。買うのが嫌だったんなら、あれを大切に使っていればよかったのに。思ったけど、口には出さなかった。麗が故意にコンパスを壊した訳じゃないことを知っているから。
 麗の青いコンパスが壊れたのは小学六年生の、多分秋頃だ。彼は仲間たちとコンパスで遊んでいて、あたしは遠くでそれを眺めていた。隣で二、三人友達が話しかけてきたが、あたしは適当に相槌を打っただけだった気がする。
 それで麗はコンパスを一杯に開いてた。後で聞くと、どれくらい大きな円が描けるか試していたらしい。その時、仲間のひとりが麗のコンパスを奪って、思い切り開いたんだ。コンパスのネジは吹っ飛び、見事な弧を描いて、綺麗に床に落ちた。あたしはそれを眺めていた。暫くの沈黙の後、彼が一番に噴出した。自分のコンパスが壊れたにもかかわらず、笑っていた。
「ねえ麗」
 麗のコンパスを壊した子は最後まで笑わなかったが、麗はその子の背中を叩いてしきりに何かを言っていた。確か、気にすんなよとかそういう言葉。
「何だよ」
「このコンパス、どこまで開く?」
「は?」
 また馬鹿にされたような言葉を返されて、やっぱりあたしは別に、何でもないと答える。麗は怪訝な顔をした。
「――開いてみれば?」
 あたしが何でもないと返したって、麗はちゃんと答えてくれる。昔からそうだった。今も、そしてこの瞬間もそうだった。
 あたしは無言で赤いコンパスをゆっくり開く。そして、丁度180度のところでまっすぐに止まった。
「青いコンパスより開くね」
「まあな」
 あれは確かここまで開かなかったと思う。赤いコンパスは何となく、あの日とは違う事を象徴しているようだった。
「ねえ」
「だから何だよ」
 
 このコンパス、壊したら麗は笑う?

 部屋の空気は澱んでいた。こんなに汚い部屋じゃ無理もない。換気が必要だろう。
「笑うわけねーだろ。寧ろ無言でお前を張り倒す」
 迷う事なく言い切った麗の言葉が、換気をしようというあたしの思いつきに拍車をかける。そうだ、この部屋には換気が必要だ。そして、あたしの心にも換気が必要だ。
 あたしは窓を開けた。冬の冷たい風がひゅうと入ってくる。
「そうだよね、麗ビンボーだもんね」
「それはお前も変わんねーだろーが」
 麗は赤いコンパスを受け取ると部屋を出て行った。部屋は寒かった。でも、澱んだ空気が抜けていくのは心地よかった。
 部屋の換気をするには窓を開ければいい。
 じゃあ、心の換気をするには如何すればいい?

 ――あたしは麗に依存しすぎてる

 乾いた笑い声が漏れた。
 あの秋の日、壊れたコンパスを見て笑った麗がまだ頭に残ってる。
 何に対して貴方は笑った?壊れたコンパスに?馬鹿な仲間に?
 それとも、あの頃から麗にしがみついてしか生きられなかったあたしに?

 あたしは今も、麗を遠くから見ながら生きている。

 




 ――心の換気が必要だ




2004/12/24(Fri)16:10:06 公開 / ライ
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