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『ロビン(MMOLAND編)』 作者:笑子 / 未分類 未分類
全角34496.5文字
容量68993 bytes
原稿用紙約109.9枚
 雲ひとつない真っ青な大空と海。この星に陸はない。この星の生物は白く細長い頭に20本の足を持った全長1メートルほどの知的生命体【パラスミ】のみである。
 日が沈むころ、一体のパラスミが海から顔を出した。パラスミの頭上には真っ白な羽の生えた人が海面すれすれで浮いている。彼女は赤くさきの尖ったつばの帽子を深くかぶり、黒い豹皮のズボンの上からブーツを履いていた。
『もういくのかい、ロビン。やっぱり陸がないといやなの?』
『そういうわけではないよ』
 パラスミの切なげな問いかけに、ロビンは苦笑した。
『でも、リーダーから聞いたよ。【人間】は大地がないと生きていけないんだって。ロビンもそうなんでしょう?』
『私は人間ではない』
 ロビンは即答した。彼女はパラスミの白くすべすべの頭にそっと唇を落とし、別れの挨拶をするとこれから再び旅立つ広い空を見上げた。
『小さなパラスミの子供よ。私はその【大地】から逃れてきたのだ。これからどれだけ多くの星を訪れようとも二度とあの星を歩くことはないだろう。人は大地がなくても生きていける』
 ロビンはゆっくりと上昇し始゚る。
『ロビン……元気で! 僕、ロビンのこと忘れないよ!』
パラスミは手を振った。
『アの星の【タクト】は非常に美しかった。それはお前たちパラスミがこの星をどれだけ大事にしていたかの証だ。願わくばこれからも星とともに美しく生きてくれ!』
 そう言うとロビンは両翼にぐっと力を入れた。水面が激しく揺らめき、ロビンの体は空高く急上昇する。やがて小さなパラスミの目に映るロビンは点ほどになり、消えた。
『さよなら、ロビン。ロビンの旅がどうか幸多いものになりますように……』
パラスミは心からそう願うと、海深くへと潜って行った。

1 
【MMOLAND】
 きらびやかに飾られた宮殿のなかに、エリオットはいた。手には古ぼけたハーモニカがひとつ。
 しかしそれは祖父のたった一つの形見で、エリオットの一番の宝物であり、かかせないパートナーであった。
 エリオットの髪はいつもと違いよく梳かされ、高く結い上げられている。軽くラメの降られた金色の髪は、エリオットが動くたびにきらきらと光った。エリオットは一張羅のスーツが汚れないよう最新の注意を払いながら王女のいる部屋へと向かう。
 赤い絨毯の敷かれた廊下をしばらく進むと、エリオットに気づいた警備兵が呼び止めた。
「待て。この先は王女の招令状がないと進めぬ」
 エリオットはスーツの内ポケットから大事に折りたたまれた招令状を取り出し、警備兵に見せた。警備兵はそれとエリオットを交互に見比べ、感嘆の声を上げた。
「あ、あなたが【さすらいのエリオット】!? 私はてっきり大人だとばかり……!」
「こう見えて私はもう19なんですよ、警備兵さん。大人ですとも。」
 エリオットは気分を害した様子もなく応えた。エリオットがまた一歩進み出るとしかし警備兵がまた呼び止める。
「エリオット様。いくら御客人といえどもその服装では王女の前へお通しするわけにはいきませぬ。メイドをおよびいたしますゆえにどうかお着替えのほどを」
「なんですって? 私はファッションショーに来たわけでもなく、パーティに呼ばれたわけでもないんですよ。ハーモニカを吹きにきただけなんです。それに……このスーツはこれでも私の持っている中で一番高い服なんです」
 エリオットは腹を立てて警備兵に食って掛かった。
「しかし……」
「しかし、じゃありません。どうしても着替えろと言うんなら私、帰ります。王女には『エリオットは王女にハーモニカを吹き聞かせる以外のことでご奉仕はできません』とでも伝えてください」
 「ま、待ってください」
くるりと背を向け、帰ろうとするエリオットの腕を警備兵が慌ててつかんだ。
「離してください。ハーモニカを吹く用事がなくなれば、こんなところにいる理由なんてないんですからね」
 エリオットは捕まれた腕を大きく振り払った。そのとき、廊下の奥から声が響く。

「エリオット。それぐらいにしてあげなさい。彼も困ってるじゃない」

 その声にエリオットは苦虫を潰したような顔をし、警備兵ははっと姿勢を正した。

「久しぶりね、エリオット。3年ぶりくらいかしら?」
「さぁ、そんなこと忘れました」
 微笑みかける淑女にエリオットはそっけない返事を返した。
「冷たいわねぇ、まだ怒ってるの? まぁ、いいわ。部屋に入ってよ」
 そう言って淑女はエリオットの手を取った。
 エリオットは不満げな表情を浮かべながらもしぶしぶ淑女の後につづく。
 淑女は、エリオットが部屋に入ったのを確認すると、鍵を閉めさせた。
 カチャリ、という音にエリオットが敏感に反応する。
「すぐに帰りますから、鍵をかける必要なんかありませんよ」
「あなたがいつ帰るかを決めるのは私よ」
 淑女は笑ってそう言うと警戒の色を浮かべるエリオットにゆっくりと歩み寄る。
 やがて、淑女の顔はエリオットの顔から数センチのところでとまった。
「どういうつもりですか? プリシラ姫。私、ハーモニカを吹きにきたんですよ」
 押し返そうとする腕を、プリシラはぎゅっと掴んだ。
「それも聴きたいけどね。今は話があるの」
「……?」
プリシラはエリオットの目を覗き込みながらまるでずっと前から決めてたようによどみなく言った。
「私と結婚しましょう、エリオット。あなたはこの国の王になるの」
「お断りします」
 エリオットは大きくため息をついた。
「私のこと、好きだって言ったじゃない」
 プリシラは不満げに口を尖らせた。その仕草が子供のようで思わずエリオットは3年前を思い出しそうになる。
「3年も前の話です。それにプリシラ王女、あなたには婚約者がいらっしゃるでしょう?」
「私は好きじゃない。結婚するのは私よ。私が選んだ人と結婚して何が悪いの?」
そういうと、プリシラはゆるいカーブのついた金色の髪をかきあげ、くしゃっと乱した。
「……あなたを愛してるの。他の人となんか結婚できない」
 エリオットは一瞬こみ上げてくる涙を落とすまいと慌てて目頭を掬った。
「エリオット、あなたは? 私をもう愛してないの?」
「私は……」
 エリオットは、まっすぐに自分の瞳を捕らえてくるプリシラの目から逃れようと思ったが、視線を動かせないでいた。
「私は……?」
エリオットはしばらく苦悩した表情のままうつむいたが、ぽつりとつぶやいた。
「私は……愛してません」
 エリオットは涙をこぼすまいと目に力を入れる。
「エリオット……」
 プリシラの声はひどく落胆していた。
「どうか王子と幸せなご結婚を。それでは……失礼します」
 エリオットはぺこりと頭を下げ、部屋を後にした。
 早すぎる退出に驚く警備兵にぺこりと礼をすると、プリシラが部屋から出てきた。
「エリオット」
「……まだ何か?」
 エリオットは努めて冷たく聞こえるようにした。
 プリシラは泣きそうな声で呟く。
「3年前……私のせいであなたのおじい様が亡くなったこと、やっぱり恨んでいるの?」
「……いいえ。王女様。そんなこと思っていませんよ」
 エリオットは振り向かずにそう答え、城を去って行った。



 エリオットの家は、城下町から離れ、丘をのぼったところにある。城からは歩いて1時間ほどかかる場所だが、この緑の丘からはプリシラの住む城が一望できた。
 エリオットはまだ幼いころからよく、あの城を眺めながらハーモニカを吹いた。古く小さな小屋の前に広がる緑の丘には、エリオットとその一つ下の弟しかいなかった。弟の名前はトジメ。しかし今はその弟もいない。3年前に国王サンドキッドに人質に取られてそれきりだ。おそらく、プリシラが隣国の王子、シャンドールと結婚するまで帰ってこないだろう。それならそのほうがいいだろう、とエリオットは思っていた。自分は王になどなりたくはないし、その才もない。唯一胸を張って誇れるものは祖父からもらったハーモニカで奏でるメロディーだけだったし、エリオットにとってそれ以外の才能は生きていくうえでいらないものだった。ただ、なぜかそれでは割り切れない気持ちがエリオットの胸の内にあった。その気持ちはこの3年間もじりじりとエリオットの身を焦がし、悩ませ、そして今日プリシラとあったときそれは爆発しそうになった。彼女をさらって全てを捨ててこの国から逃げてしまおうか。そんな恐ろしい考えが何度もエリオットの脳裏をかすめた。
 しかし、その欲望にエリオットは勝ったのだ。心からの嘘で、愛していないと告げることができた。恐らく年内にでもプリシラは結婚するだろう。そうして隣国との同盟も無事締結され、プリシラはあの宮殿でエリオットのまったく知らない幸せをその男と育んでいくのだ。そうして、自分はプリシラのまったく知らない土地で、独りハーモニカを吹いて歩く。きっと、異国の地で死ぬそのときまで。
 エリオットは小屋の中でいつものボロボロのシャツとズボンに着替え、古ぼけた帽子をかぶるとハーモニカを持って丘に腰を下ろした。
 祖父からもらったこのハーモニカは真っ白な金属でできていて、音も一風変わっためずらしいハーモニカだった。祖父はこのハーモニカの奏でる音を『遊ぶ音』と言った。その名のとおり、このハーモニカはまるで自分の意思を持ち遊んでいるかのように時によってまったく違う音を出すのだ。たくさんの音楽家がこのハーモニカを吹こうとしたが、まともに音が出たのはエリオットだけだった。そのためエリオットはこのハーモニカに心があると信じている。ハーモニカはいつだってエリオットの心とシンクロし、それを表現した。同じ1吹きでもそれは誕生歌にもなり、鎮魂歌にもなった。
 そっとハーモニカを唇に当てる。ピュィとまるで口笛のような音がそこから流れた。エリオットは静かにそれを横にずらす。音は静かに丘を包み込み、草木を揺らす。木々に棲む鳥たちは静かにその音に耳をすませ、誰もしらないエリオットの心を聞いた。

「綺麗な音だな。そんな美しい歌を、私は初めて聴いた。そうか、そんな使い方もあるのだな」

 彼女に話しかけられなければ、エリオットは絶対に気づくことはなかっただろう。突然小屋から聞こえた声に、エリオットは思わず落としてしまったハーモニカを慌てて拾った。
 エリオットに話しかけたのは不思議な雰囲気を持った一人の美しい女性だった。切れ長のするどい目に長く形の整った眉。鼻はここの国の人にくらべ幾分高かった。真っ黒な髪は眉の上と肩の上で綺麗に切り揃えられている。そしてエリオットの見たこともないような不思議な形の帽子に、見たこともない素材でできた服に身を包んでいた。姿は人間なのに、エリオットはまるで宇宙人でも見ているような気分になった。
「異国の旅人が、それほど珍しいか?」
 言葉を失くして立ちすくんでいるエリオットに、彼女はそう言って微笑んだ。それは優しい微笑でなく、幾分嘲笑といった感じのものだった。
「いえ……失礼しました。ただ、僕も異国を旅しているものですが、あなたのような雰囲気を持つ人には会ったことがなくて……」
 エリオットは慌てて謝った。
「あの、それで異国の旅人がこんな何もない丘の小屋にどうしていらっしゃるのですか? 城下町なら、あそこですよ」
 そう言って彼は丘の下に広がる城下町を指さした。
 旅人は静かに首を振る。
「町に用はない。……見てみたい気はするがな。今私が用があるのはお前だ」
 そう言って旅人はエリオットのハーモニカを指差した。
「お前が持っているタクトが欲しい。私はそれを求めてこの地に降り立った」
「え?」
 エリオットは『タクト』と呼ばれたハーモニカをじっと見つめた。
「あなたの国ではハーモニカを『タクト』と呼ぶんですか? あの、申し訳ないですがこのハーモニカは差し上げることはできません。大事なものなのです」
「それはただのハーモニカではない」
 旅人は無表情でそう言った。ヒュウゥと背中を押してくるような風が、エリオットの後方から吹き抜ける。
「『それ』から思い通りの音がでたことがあるか? 自分の意思を持っているかのような音を出すだろう。それは【最後の日】を迎えた遠い星の【記憶】なのだ。それがタクトだ。」
「最後の日……」
 いくつもの星が迎えた【結末】をエリオットも聞いたことがあった。星には生物と同じように寿命があり、いずれは【最後の日】をむかえ星は爆発し、消滅してしまう。それが単なる言い伝えなのか事実なのか、エリオットには知る術がなかったが。
「私はタクトを集めるものだ」
 そう言って彼女が『それ』に向かって手を伸ばすと、真っ白な『それ』は青く光りはじめた。ハーモニカを握るエリオットの指の隙間から、強い風をまとった青い光がこぼれ出す。風は光とともに、徐々にその激しさを増していく。
「これは……一体……」
 吹き飛ばされそうなほどの強い風に、エリオットは呻いた。
 そのとき、誰かがエリオットに語りかけた。

『この世の……を蘇えりしタクトを……を……』

 ゴォォォオと、風の吹き荒れる音がエリオットの耳をつんざく。

『……滅の……古の…』

「誰? 何を言ってるんだ? 聞こえないよ!」
 エリオットの叫び声もハーモニカから吹き荒れる強風にかき消された。
 指先に感じた強い痛みにとうとう彼はハーモニカを手放し、その強風に吹き飛ぶ。激しく地面に体をうちつけ、エリオットは悲鳴をあげた。
 旅人はにやりと笑うとゆっくりとハーモニカに近づいていく。
『それ』は宙に浮き、今や丘中を吹き荒らす強い風と目もあけられないほどの強い光を発していた。
 そしてそれがまるで意味のないことであるかのように、旅人は片手で帽子を押さえ、しっかりとした足取りで両目をしっかりと開き近づいていく。  『それ』の前まで行くと旅人はゆっくりと手のひらで『それ』に触れた。
 瞬間、バチバチと導火線が切れるような音がして、旅人はうっ、と小さなうめき声を上げる。ハーモニカから発せられる光と風が徐々に弱くなり、ハーモニカは宙でブルブルと震え始めた。
 エリオットは強風と光と痛みに、目も開けられないまま地面に転がっていた。やがてその風が徐々に収まり始め、地面に顔をつけていた彼の鼻に、草原の緑の匂いがつんと広がる。ドン、と鈍い音がして、エリオットは背中に何か固いものがぶつかる痛みを感じた。
「いたっ……」
 エリオットは薄目を開けて起き上がり、ぶつかったものを確認した。
 それはいつも見ているエリオットの真っ白なハーモニカだった。風も光も発しない。彼は安堵して、それをぎゅっと握り締めた。
 旅人は右手をさすりながら、その様子を見ていた。
「タクトに、『思い』を込めたな。それもただの思いじゃない。何か特別な……」
 旅人はそうつぶやいた。
「『思い』?」
 エリオットは不敵に笑う旅人を見つめた。
「そう。タクトをその身にしばりつけるほどの強い『思い』。タクトが特別なインパルスを放っている。これはお前の『思い』だ」
 旅人は両手のひらでそっとエリオットの両ほほを優しく抑えた。
 しかし旅人の深緑の瞳がエリオットの瞳をきつく捕らえる。
「心当たりがあるだろう? 言ってみろ」
 言葉の裏に潜む強迫観念に、彼は身をこわばらせた。
「『願い』です」
 エリオットは目を逸らせないまま弱弱しくそう答えた。
「願い?」
 旅人は途端に渋い顔をする。
「毎日、一つのことを願いながらこのハーモニカを吹き続けました」
 彼の頭の中にはこのハーモニカが一体何なのか、目の前の女性が何なのか、あの強い光とともに聞こえた声はなんだったのか、全てがぐるぐると回り終着点を見つけ出せずにいた。確かなことは今、目の前のこの女性が彼のハーモニカを力ずくでも必要としていることである。
 エリオットは慎重に言葉を選びながら答えた。いざとなったら小屋に逃げ込めば護身用の猟銃がある。
「……これは祖父が僕に残してくれたたった一つの形見で、僕の親友なんです。どうしてもこのハーモニカが必要とおっしゃるなら、そのタクトを集めてあなたが何をするのか、教えてもらえませんか?」
 エリオットはゆっくりと立ち上がり、小屋までの歩数を計算する。
「それは……話せない」
 旅人は困った顔をした。モスグリーンの瞳が一瞬悲しげにまたたく。そして、旅人はしばらく考え込んで首を振った後、ふと驚いたように城下町のほうを見た。
「しばし、待て」
「え?」
 突然の嬉々とした旅人の声に、エリオットはとまどう。
「インパルスも弱いし二つもタクトのある星など、見たことがないが……しかし好都合だ」
 そう言うと旅人はくるりと彼のほうに向き直った。
「お前のタクトに用がなくなるかもしれない。『願い』がかかったタクトほど面倒なものはないからな」
 旅人はそう言うと、城下町のほうへ歩き出した。
 エリオットは呼び止めようとしたが、何も言葉が見つからなかった。
 しばらく進んだ後、旅人は少しだけ後ろを振り返る。
 エリオットは目が合い、思わず硬直した。
 風もないのに彼女の髪は激しくたなびく。旅人はにやりと笑うと片手で軽く帽子を押さえる。次の瞬間、旅人の姿がふっ、と消えた。
 広い丘にはエリオット一人。彼は慌てて目をこすり、もう一度旅人のいた場所を見たがやはりそこには誰もいない。
 エリオットは全てのことがまったく信じられない、といったふうに大きく目を見開き、一人つぶやいた。
「人が消えた?……あれは……魔女?」



 水のしたたる音が響く。外で雨が降ると、決まってこの部屋は雨漏りをした。
 年中暖かな気候であるこのMMOLAND王国でも、雨の日に上半身裸ではさすがに堪える。トジメは大きなくしゃみをするとパンッ、と自分のむき出しの肌をたたき、バケツに溜まった水を鉄格子の外に捨てた。
 ビシャッ、という音を立てて捨てられた水がはじける。
「おい! 水を捨てるときは気をつけろって言ったろうがよぉ! 俺にかかっちまったじゃねぇか!」
 向かいの牢にいる男が激しくがなりたてる。男の髪は両耳のサイドしかなくて、頭の上も薄汚れていた。
 トジメはもう一度大きなくしゃみをした後、へへっと鼻で笑った。
「どうせ何ヶ月も交換してねぇボロ服なんだ。今更濡れたくれぇで騒ぐなよ」
 そう言うとトジメはペタンと床に腰を下ろしてあぐらをかき、ぼりぼりと縮れた髪をかきむしった。日の入らないこの牢獄はどこもかしこも薄汚れていて、かび臭かった。
「お前もここに来てもう3年になるんだな……」
 男はトジメを見てそう言いながら服の袖で頭をふく。
 トジメは頭を掻くのをやめ、少し考え込んだ後ガハハ、と笑った。
「あんたはもっと長いんだろ? 息子が反政府組織のリーダーなんだもんなぁ」
 そこで男がいつものように大笑いすると思っていたトジメは、少し眉をよせた。
 トジメのセリフに男がじっと考え込んだからである。
「……おい。どうした?」
 男は自分もあぐらをかくと、牢越しにトジメと向き合った。
「俺はさぁ、別に死んでもいいんだよ。それであいつが好き勝手やれるんだったらな」
「何言ってんだ、300年も続いてる王国が反政府組織の一つや二つに壊せるわけねぇだろ。あんたの息子も早く目を覚ませばいいんだよ。そうすりゃ、あんたはここから出られる」
 男は苦笑した。
「俺がここから出るときは息子の首がはねられたときなんだぜ? それでもおめぇ、自分が生きたいと思うか?」
 トジメは床に転がっているりんごを掴むと、一口かじった。りんごはとっくに黄色く変色してしまっている。トジメは顔をゆがめた後、ぺっと口に含んだりんごを吐き出した。
「俺は生きてやりてぇことがある。俺の場合は誰の命もかかってねぇからな」
「おめぇの爺さん、王様に殺されたんじゃねぇのか」
 男がひひっと笑って言った。
「ここにいたんじゃ復讐も何もねぇだろ。エルは王なんて柄じゃねぇし。プリシラ姫もとっとと結婚しちまえばいいんだ」
トジメがこともなげにそう言うと、男はガハハ、と笑った。
「おめぇ、女に惚れたことねぇだろ」
 トジメの顔色が変わった。
「ねぇよ、あってたまるか!」
 トジメはドン、と床をたたいた。遅れてじんわりとした痛みが手に響く。
 はぁはぁと息を弾ませ、悔しさに揺れた瞳は焦点が定まらなかった。
「まぁ、そのせいでおめぇは今ここにいるんだからな」
 ゆっくりと男はつぶやいた。
「大丈夫、婚約も決まったしもうすぐおめぇは釈放されるだろうよ」
「……」
 トジメは複雑な気分になりながら、もう寝てしまおうと思い横になった。

 夜になっても、トジメの気分はすぐれなかった。目を閉じてはいるが、起きているのか寝ているのか自分でもよくわからないような状態で、ただぼんやりとエリオットのことを考えていた。
 ホーウ、と城の森の中でふくろうが鳴く。
 ふくろうの鳴く夜は魔女が出る、とトジメは小さいころエリオットに聞いていた。
 エリオットは昔話や神話、歴史が大好きな子供だった。トジメが砂遊びをしている横で、エリオットが絵本を口に出して読み聞かせていたころを思い出す。
 
 目を瞑ったまぶたの先に、まだ5,6歳のエリオットの姿が映る。幻覚を見ているんじゃないか、という意識の中で少年のエリオットはトジメに無邪気に笑いかけていた。
 それが少年のトジメに向けられたものなのか、今のトジメに向けられたものなのかはわからない。ただ、その少年がトジメの意識を過去に連れ去っていこうとしてることだけは確実だった。

『トジメ、ふくろうの出る夜はね、魔女が出るんだよ』
 積み木で遊んでいるトジメの横で、エリオットが得意げにそう言った。
 小屋の外ではさっきからずっとふくろうがホー、ホー、と鳴いている。
『エル、魔女なんて見たことあるの?』
『ないよ』
 当たり前じゃないか、という顔でエリオットは言った。
『だったら、いないよ。俺ふくろうは何度も見たことあるけど、魔女はないもん』
『魔女は普段自分が魔女だって隠してるのさ』
『何で?』
『何でって、見つかったら王様に処刑されるからに決まってるじゃないか』
エリオットが呆れ顔でそう言った。 
小屋の外では強風が吹き荒れ、星が出ていた。二人は昨日の夜の残りのシチューを温めなおし、胃袋を満たした。
『お爺さんとお父さん、遅いね』
 心配になったエリオットがつぶやく。温め方が足りなかったらしく、シチューはまだぬるかった。
『二人なら大丈夫だろ。特に親父は最強の騎士なんだぜ』
 トジメが手に持ったパンにがっつきながら答える。
『お父さん、魔女よりも強いのかな』
 エリオットが嬉しそうに言った。
『あたりまえだろ。魔女なんて親父の剣で一撃だよ』
『えー、でもトジメ、魔女見たことないんでしょ? わかんないじゃん』
 エリオットが不満そうに口を膨らませる。
『わかるさ! 町のみんなが親父が一番強いって言ってる。魔女が強いなんて言ってる奴いないよ!』
『……』
 エリオットは何か言いたげに口を開いたが、諦めたように口を閉じて黙り込んでしまった。
 食事を終え、食器を洗った後も二人は帰ってこなかった。
 エリオットは絵本を開き、トジメは積み木を手に持ってはいたが、二人の視線は扉に注がれていた。
『遅いね』
『遅いな』
二人は顔を見合わせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
外ではビュォオ、と風が音を立てて丘を走り回っている。
『いや、やっぱりよくないだろ』
 トジメが首を振った。
『二人の場所はわかってるんだよ? そんなに遠くないし、様子見てこようよ』
 エリオットは上着に袖を通す。そのとき、ホーウ、とふくろうが鳴いた。
『ふくろうが鳴いてるぜ』
 トジメがエリオットの袖を掴んだ。
 それを見て、エリオットが意地悪ににやりと笑う。
『ふくろうはいても魔女なんていないんだろう?』

 小屋の外は二人の予想以上に暗く、風が強かった。服の隙間から風が入り込んでいるんじゃないかと思うくらい寒くて、二人はここは本当にMMOLANDなのかと思った。
 二人は身を寄せ合って、足を踏ん張りながら祖父と父親のいる湖へと急いだ。
 湖に近づけば近づくほど、風は強くなる。
 ザワザワと草木の揺れる音と、一向にやまないふくろうの鳴き声だけが二人の耳を支配した。
『なぁ、おかしくないか?』
 エリオットの袖にしがみつきながら、トジメが呻く。
『なんでこんな風強いのに、ふくろうが鳴いてるんだよ。どこにいるんだよふくろう』
『……魔女のところじゃない?』
 エリオットが嬉しそうに言った。
『やめろよ! そういう冗談!』
 トジメが怒って叫んだ。
『ごめ……冗談なのに……』
『時と場所を考えろよ! って、親父たちだ!』
 トジメは湖の向こうを指差す。
 そこには湖の入り口に仁王立ちし、なにかをじっと見守っている二人がいた。
『お父さーん、お爺さーん』
 エリオットの叫び声に、二人ははっと振り返った。
『エリオット、トジメ! 二人ともこっちにはきちゃいかん! 小屋に帰りなさい!』
 老人が困惑したように叫んだ。
『もう、遅いさ。別にどうというほどのことでもない』
 腰に剣をさした男が、老人につぶやく。老人はがっくりとうなだれ、大きなため息をついた。
 エリオットは、二人がみていた湖をじっと見つめる。風は湖の中心から出ているようだった。湖に近づくほど、エリオットは自分の体がふわりと浮いて、吹き飛ばされてしまうんじゃないかと思った。それでもエリオットは湖に近づく。近づきたい、という欲望がエリオットの体中を駆け回っていた。後ろでトジメが自分に向かって何か叫んでいたが、聞こえない。
 何かに強く呼ばれている気がした。ドクン、ドクンと激しく心臓が鳴り響く。
 湖の中央に人影があった。
 暗くて服装はまだわからない。強風に髪も揺らさず、水に足もつからずに人影は湖の上を浮いていた。不思議な光景ではあったが、エリオットは迷わなかった。
『やっと、見つけた』
 そうつぶやくとエリオットは湖に入ろうと足を踏み出す。
 その腕を剣士が掴んだ。
『気をつけろエリオット。魂を抜かれるぞ』
 その一言でエリオットは確信する。
『あそこにいるのは、魔女なんだね』
 エリオットは父の目をじっと見る。
 深く、黒い瞳は肯定も否定もしない。
 ただ一瞬だけ、口の端で僅かに父は笑った。
『だめだよ! エル!』
 祖父の腕にしがみついているトジメが叫んだ。
 そのとき、ポンとエリオットの背中が押される。
 大きくエリオットの体が前にのめる。顔だけ振り返ると、背中を押したのはやはり父だった。

 行ってこい

 口パクでそういわれた気がした。
 エリオットの体はゆっくりと弧を描いて水面に接し、バシャン、と大きな音を立てて水に沈んだ。
『エルー!』
 トジメが絶叫する。
 水はひどく冷たくて、エリオットは息を詰まらせた。
 ゴボゴボと音を立てて口から泡が漏れ出し、かわりに冷たい水が入ってくる。
 水の中は暗く氷つくように体温を奪っていく。エリオットはここにきて初めて恐怖した。

 死んじゃう!

 必死に手足をばたつかせたが、体はどんどん沈んでいく。
 遠くなる水面を見つめながら、エリオットは絶対に自分は死ぬと思った。
 そのとき、柔らかい風がエリオットの足を掴む。
 くすぐったい感触とともに水中でエリオットの体がガクン、と揺れ何かに押し上げられているように急上昇した。
 ザパーン、と水しぶきを上げて少年の体は再び空気を吸い込む。
 それでも少年の体は上昇し続ける。
 エリオットは宙に浮いていた。下を向くと、自分を見て絶叫しているトジメと、心配そうに見ている祖父が見えた。父の姿はどこにもない。
 十数メートル浮いただけで、星がどこまでも近くなった気がした。
 ひときわ大きい満月が、エリオットの体を飲み込もうと迫ってくる感じがした。
 それに触れようと伸ばした手を、誰かが掴む。
 エリオットは振り返り、そこに少女はいた。
 エリオットと同じ金色の髪にはゆるいウェーブがかかっていて、ピンク色のドレスはとても高価そうだった。水色の瞳は興味深そうにエリオットの顔を見つめる。先ほどとは打って変わって、柔らかく暖かい風が二人を包み込んだ。暖かい風に、エリオットの髪だけがふわりと揺れる。
『君がやってるの?』
 エリオットはそう言って宙で足をバタつかせてみる。
 少女はエリオットの手を握り締めたまま、にこりと微笑む。
 その仕草は気品があり、しかもとてもチャーミングだった。
『私はプリシラ。この国でたった一人の魔女なの。あなたは?』
『僕はエリオット。湖の近くの小屋に住んでる』
 エリオットの心臓が激しく鳴り響き、視線は目の前の少女に釘付けになる。
 二つの夢を、同時に見ている感じだった。
 その様子を、トジメはずっと祖父の横から見上げていた。

 わかっていたはずだ

 少年のトジメの声がこだまする。

「あぁ、わかっていたんだ」
 気づけばそう、口にしていた。
 トジメはゆっくりと起き上がり、鉄格子の外を見ると、まだ日は昇っていなかった。
 向かいの牢にいる男は、仰向けになっていびきを掻いている。
 彼はまだ暗い外の世界を、ひたっと睨み据える。
「プリシラが魔女だって言ったときから、エルはあの女の魔法にかかっていたんだ」
 少しだけ顔を出した朝日を睨みながら、トジメはそうつぶやいた。



 鉄格子の外から朝日が差し込みはじめたとき、ゆっくりと男は目を開けた。
 視線がトジメとぶつかる。男はニッと笑いかけるとむくりと体をおこし、その場に胡坐を掻いてなおった。そしてそのままぴくりとも動かない。
「おい。どうした? ……昨日からおかしいぞ」
 トジメは不振に思い眉をよせた。
 しかし男はそれに答えず、ただトジメの後方にある鉄格子を見据えるだけだった。

「そろそろだな」
 
 男がそういい終わるのと同時に、キィィ、と耳障りな音を立てて武装した兵士が数名階段を下って男の牢の前に立った。トジメは突然のことに目を丸くした。
「デル・ニコルの親、デル・ガランドウで間違いないな?」
 兵士の問いかけに男は素直にうなずく。
 そのなかの一人の兵士が懐から一枚の王家の印が入った誓書を取り出し、読み上げる。
「国家に対する反逆の罪でお前をこれより公開処刑する」
「そんな馬鹿な!」
 叫んだのはトジメだった。
「そいつに罪はねぇ! 国家に反逆してるのはそいつの息子だろうが!」
 兵の一人が荒々しくトジメの牢を蹴り飛ばす。
「黙れ! お前も罪人だろうが! 騒ぐとお前も処刑するぞ!」
「トジメ、逆らうな」
 ガランドウが静かに、しかし決意のこもった声でトジメを制した。
「だけど!」
 トジメは首を横に振る。
「どちらにしろ、俺はここから出られねぇ身だったんだ。俺の息子は一生レジスタンスをやめることはねぇからな。いつ首を跳ねられようが同じことよ」
 そう言って男はガハハ、と笑った。
 兵士は鉄格子をあけ、男の両手を後ろで縛った。
「おっさん……」
 トジメはまだ信じられない気持ちでその様子を見ていた。
「おい、トジメ。呆けてる場合か。しっかり現状を見ろ。これがこの国の【姿】だ。そしてこれがお前が楯突こうとしている王の権力だ」
 男のよどみないセリフに、トジメははっと顔を上げる。男はそれを見てまたニッと笑った。
 男は手を縛られ、両脇に兵士のついた状態で牢の外に出る。
 男はトジメの横でぴたりと止まり、視線をむけずにこう言った。
「悪いのは息子じゃねぇ。息子は俺の死をもってしても曲げられねぇ信念があっただけだ」
 男と交わす最後の言葉に、トジメは涙を流しながら頷く。
「それと、やっぱり悪いのはお前の兄貴でも姫様でもねぇよ。それだけ人を愛せるっていいじゃねぇか、なぁ?」
 トジメは頷きはしなかったが、ぎゅっと拳を握り締める。
「……お前一人じゃ何もできねぇだろうが……諦めるなよ」
 そう言い終えると男は振り返らずに、ゆっくりと10年間過ごした牢を後にした。
 ガシャリ、と階段の上で扉が閉じられる音がする。
 数分の静寂の後、トジメがガクン、と膝をつく。
「うおおおおおおおお! ああぁあああああ!」
 トジメは涙を流し、大きな咆哮を上げて地面を力いっぱい叩いた。
 爪が割れて、血が滲んだがそれでもトジメは叩くのを止められなかった。
「ちくしょぉ! ちくしょおおおお! ここから出せぇ!」
 獣のような叫び声が、虚しく牢獄に響き渡る。
「俺は……俺は……何もできねぇのか……」
 零れ落ちる涙をぬぐいもせずに、トジメはその場に蹲った。



 朝日を見ながらハーモニカを一吹きしたあと、エリオットは朝食づくりに取り掛かった。
 ジャガイモとにんじんをぶつ切りにして、薄く油のしかれた鍋に放り込む。祖父がよく作ってくれたことから、手料理はシチューになることが多かった。
 野菜をいためていると、トントン、と小屋の扉がノックされる。
 エリオットがどうぞ、と言うとキィ、という音を立てて扉が開き、一人の少年が中に入ってきた。年は7〜8歳くらいで、髪には寝癖がついており、くりくりとしたこげ茶の瞳が少年をよりあどけなく見せていた。
「エルお兄ちゃん、久しぶりー」
 おずおずと少年はエリオットに話しかける。
 エリオットは火を止めて、首をかしげた。
「パン屋のポワメラの息子、イルだよ。おぼえてない?」
 それを聞いて、エリオットは驚きで目を見開いた後、声を立てて笑った。
「イルか! あのときはまだ小さかったから全然わからなかったよ。大きくなったね」
 突然の懐かしい小さな訪問者に、エリオットは喜んでミルクを出そうとした。
「あ、お兄ちゃんミルクはいいよ。お母さんに言われて朝食を誘いにきたんだ」
「うれしいね。ご一緒させてもらおうかな」
 そう言うとエリオットはコートを手に取り、ハーモニカをポケットに滑り込ませた。
 少年がちらっと作りかけのシチューに目をむける。
「大丈夫。夜また食べればいいんだから」
 エリオットはそう言うとポンポン、と少年の頭を叩き、帽子をかぶって小屋の鍵をかけた。
 エリオットの小屋からポワメロのパン屋までは歩いて20分ほどかかり、城下町の一角にそれはある。
 二人で歩きながら話をするうちに、少年はすっかり3年前の感を取り戻し、いつもの明朗な話し方にもどっていた。
「お母さんが怒ってたよ。もどって来たならなんで真っ先に家にこないのかって」
「あはは、僕もいろいろあったんだよ。宮殿にお呼ばれもしたしね」
 少年がワオ、と叫ぶ。
「宮殿に行ったの!? いいなぁ、僕も一度入ってみたいよ。……ってことは、プリシラ姫にもお会いできたの?」
「……ああ」
 エリオットは一瞬顔をこわばらせた後、話題を切り替えた。
「ねぇ、イル。最近町で変わったことはあるかい?」
 少年は待ってました! とばかりに瞳をきらきらとさせる。
「聞いて! エルお兄ちゃん。今町に魔女がいるんだよ!」
「え?」
 エリオットはプリシラを思い浮かべる。
 いや、それはあり得ない。この国で魔女だとわかれば処刑だ。
「赤い尖った帽子にブーツを履いた、黒髪の外人さんなんだって! もう何人も見たって言ってるよ」
 赤い帽子にブーツに黒髪だって?
「まさか……」
 エリオットがぽつりと呟くと、城下町のほうからゴーン、ゴーンと鐘が鳴り響いた。
 その音に、はっとエリオットは身を強張らせる。
「処刑だ! 処刑の鐘だよ!」
 少年が嬉々として叫ぶ。この年の子供にはしょうがないことだった。
「……先におばさんのところに行ってくれるかい? 後から必ず行くから」
「僕もいく!」 
「駄目だ。店にもどりなさい」
 エリオットは低くそう嗜めると、処刑台のある町の広場へと急いだ。
 広場はすでに人だかりとなっていた。
「ちょっと失礼」
 エリオットは人ごみを掻き分けながら、なんとか処刑人の顔が見えるところまで移動する。
 処刑台に座らされている男はどうみても50代過ぎだった。
 エリオットは複雑な表情で、ほっと胸を撫で下ろす。
 よかった。トジメじゃない。
 男は国家に対して反逆組織(レジスタンス)を結成したということだった。
 たしかに、極刑だろうな、とエリオットは唇をかみ締める。どこかいたたまれない気持ちになりその場を去ろうとしたときだった。
「あいつじゃない」
 低く、呻くような声が耳に滑り込んできた。
 エリオットは声がするほうを振り返る。
 そこには、フードと黒いマスクをかぶった背の高い男が一人たっていた。
 男はじっと処刑台を睨みつけて何度もつぶやく。
「あいつじゃない。あいつは何もしてない」
 男は無意識にそう呟いているらしかった。
 エリオットはその懸命さと情熱の篭った瞳に目が離せなくなっていた。
「これより、罪人、デル・ガランドゥの公開処刑をおこなーう」
 斧を持った処刑人が、前のめりに屈まされた男の脇に立つ。
 色んな人の声が混じって、広場は騒然としていた。
「罪人は、最後に何か一言述べよ」
 男の口元に、拡張機が押し当てられる。エリオットは悪趣味だと思った。
 男の最後の一言を聞こうと、広場はしん、と静まり返る。
 そしてその後、男は信じられない行動に出た。
 ニカッと笑ったのである。
 エリオットの体を、何か電流のようなものが駆け巡る。
「わが人生に、悔いなーし!」
 広場と言わず、町中に響き渡るような声で男は叫んだ。
「俺に構わずやりたいようにやれよ……バカ息子」
 拡張機が離される。斧が振り上げられ、思わず顔を伏せる住人もいた。
 フードを被った男の目から、一滴の涙とともに嗚咽がこぼれる。
 ザン、と斧が振り下ろされ、小さな首は処刑台の上を転がった。
 死体の後片付けが始まると、住人は自分の居場所に帰り始める。
 フードの男はまだそこに立ち、涙を流し続けていた。
 エリオットはハンカチを取り出し、そっと男に押し付けた。
 男が驚きの表情でエリオットを見る。エリオットは静かに首を振り、その場を立ち去った。一人、パン屋へと向かう小路を急ぐ。
 トジメだっていつ処刑されるかわからない。
 結婚すればトジメを開放してくれる、なんて約束、王は守らないんじゃないか?
 エリオットは全てが信じられない気持ちだった。
 そのとき、ポンと肩を叩かれる。
「明日はわが身かと焦ったか」
 聞き覚えのある声に、エリオットは驚いて振り返る。
 赤く尖った帽子にブーツ、体の半分しか覆わない赤いコート。切りそろえられた黒髪に筋の通った高い鼻。白い肌。無表情な顔に添えられた深緑の瞳は、エリオットの心情を読み取ろうとわずかにまたたく。
「あなたは……」
「私の名はロビン。エリオットよ、お前のことを少し調べさせてもらった。私に協力してほしい。その代わり、お前の望みをひとつだけ叶えよう」
 そう言って、まるで紳士のようにロビンは右手を差し出す。その動作に、女性らしさはまったくない。
「……何でも?」
 エリオットは疑うような瞳をむける。
「ああ、何でも、だ」
 ロビンは手を差し出したまま、にやりと笑った。
 彼女なら、出来るかもしれない。
 エリオットに残された選択肢は少なかった。
 彼はゆっくりと右手を出し、ロビンの手のひらに触れた。
 その手をロビンががしっと掴む。ぐいとエリオットの体を引き寄せ、「交渉成立だな」と耳元で囁くと、エリオットを掴んだまま空高く舞い上がった。
 突然の浮力に彼は戸惑う。
「うわっ、ちょっと……!」
「お前の望みはわかっている」
 真っ白な翼を広げて、ロビンがそう言った。
 卑怯な取引だな、とエリオットは苦笑する。
「なら、城に向かって欲しい。トジメを救出してくれるなら何にだって協力するさ」
 エリオットはそう言って、トジメのいる城を指差した。



 小さな町の一角。平和になれた子供が一人、空を見上げる。
「お母さん。お空に大きな鳥がいるよ」
 子供は洗濯物を干す母親の服の袖を引いた。
「そりゃ、こんないいお天気だもの。鳥だっているわよ。ほら、子供は友達と遊んでらっしゃい」
 母親は空には見向きもせずに、手も休めなかった。
 うん、とつぶやいて子供は母のそばを離れる。
「あの鳥……人みたいだったな……」
 子供はもう一度空を見上げ、ぽつりとつぶやいた。

「ロビン! 早いっ、早すぎだってば!」
 吹き飛ばされそうな帽子を片手で必死に抑えながら、エリオットは叫んだ。もう一方の手はロビンにしっかりと掴まれている。
 エリオットの一つに縛った金色の長い髪が、大空に羽ばたいている。彼の目がMMOLAND城を大きく捕らえた。3年前まで夢にまで見ていたMMOLAND城。もっとも、彼が夢に見ていたのは城ではなく姫だったが……。そして、トジメが人質にとられ、この国を離れてからは思い描くことですらつらい感情しか呼び起こさなくなったMMOLAND城。そして、現在、彼の城を見る感情はさらに変わりつつあるように思えた。
「ねぇっ、まさかこの速度で城に突っ込んだりしないよね?」
 ロビンはエリオットの顔を横目ににやりと笑う。
「このくらい派手の方が丁度いい」
 ロビンが羽にぎゅっと力を込めると、二人はさらに加速した。
「丁度いいって、何が? っつ!」
 突き刺さる風に、エリオットは目も開けていられない。
 門兵たちも、二人に気づき始めた。
 下降しながら、ロビンは指先で小さな円を描く。それは蛍光色の青のような光の炎を発する魔陣円となって現われる。ロビンはその円にふっ、と息を吹き込んだ。たちまちその円は半径1メートルほどの円となり、門兵たちに襲い掛かった。
「な、何!? 今の!」
 門兵たちの悲鳴に目を開けたエリオットは絶句する。
 青色の光を発する文字の書かれた円が、兵たちを突き飛ばしながら追い掛け回しているのだ。
 得体の知れない敵に、彼らは驚愕し逃げ惑っている。
「あはははは! 新鮮な反応だ!」
 転げ回る兵たちを笑いながらすたっ、とロビンは着地する。白い羽がふっと姿を消した。
 エリオットはその場でふらふらとしりもちをつく。油断すると吐きそうだった。
「目が回る……プリシラはこんな激しい飛行しなかったのに……」
「あの女は空を飛ぶのか?」
 エリオットの毒づきに、ロビンは笑うのをやめて眉をひそめた。
 エリオットは顔を背ける。
「魔女か……上等だ、あぶりだしてやる」
 呻くようにロビンは口の端で微笑む。
「え?」
 ロビンは再び指先で小さな魔陣円を描くと、それは大きな炎円となり、今度は城壁を壊しながら生きているかのように駆け回り始めた。穴の開いた城壁からは、その奥にある真っ赤な絨毯が丸見えになっている。
 ドゴゴゴ、と凄まじい音を立てながら、円は駆け回り続ける。
「よし、乗り込むぞ」
 ロビンは満足そうに頷き、呆気に取られているエリオットの腕を引いた。
「ロビン! 何でこんなことをするんだ! 城を壊すなんて!」
「魔女をおびき出すためだ。本当に魔女ならこんなものすぐに直せるさ」
 とんでもない女の手をとってしまった、とエリオットは心から後悔した。
 ロビンは構わず彼の腕を引き、壊れた城壁から城内へ入り込んだ。
 敵襲だー! と叫びながら武装した兵たちが駆けつけてくる。
「下がっていろ」
 そう言ってロビンはエリオットを突き放す。
 彼女はパンッと顔の前で手を合わせると、6つの火の玉を出現させた。
 エリオットが日頃目にするどの火とも、それは違った雰囲気を醸し出していた。
 明らかに自然ではない、なにかモニターを通してでも見ているかのようなよそよそしさがその火にはあった。
 魔女だー! と、門兵たちが叫ぶ。中には慌てて逃げ出す者もいた。
 信じられないような光景の連続に、エリオットは目を丸くするばかりだ。
 ロビンが兵たちを指差すと、6つの炎は次々と兵たちに引火して回った。
 炎は城の真っ赤な絨毯にも引火した。
 火を消せー! と城内の者が叫び回る。
「ロビン! いい加減にしろ!」
 耐え切れず、エリオットはロビンの腕をつかむ。
「大丈夫だ。私の炎は生き物を死なせはしない。」
 ロビンはそう言って、エリオットの瞳をまっすぐに見た。
 信じられない。エリオットは真っ直ぐにその瞳を睨み返してやった。
 しかし彼はその深緑の瞳が、ひどく穏やかに澄んでいることに気づく。
「弟を救いに行くのだろう?」
 まるで子供を諭すかのように、優しく彼に微笑んでみせる。
 その気まぐれな微笑みに、エリオットの心は引き込まれそうになる。
 はっ、と彼女が顔をあげる。すぐに顔をエリオットの方にもどすと「弟の居所はわかっているか?」と厳しい表情で聞いてきた。
 エリオットはコクリと頷く。3年前まで、ちょくちょく訪れていた彼は牢獄がここから少し進んだところにある廊下の突き当たりを曲がったところにある階段を下りていったところにあることを知っていた。おそらくそこにトジメもいるだろう。
「この騒ぎだ。見張りの兵もいないだろう……これを持っていけ」
 ロビンはエリオットに拳ほどの大きさの銀色の丸い玉を一つ手渡す。
「これで鉄格子の一つや二つは吹っ飛ぶはずだ。二人が格子から離れてから投げるんだ。気をつけろよ。これは魔法じゃないからな、手足が吹っ飛んでも私は治せん」
 エリオットは頷いた。
「それから、二人で逃亡して構わないが、私との約束を忘れるな。お前は私に協力する【義務】がある。契約したからな、もし破ったら……」
「破ったら……?」
 ロビンはエリオットの胸倉を掴み、引き寄せると彼の耳元で低くつぶやいた。
「【魔女の呪い】をかけて私の庭で兄弟なかよく裸足で【いばらの散歩】をさせてやる。死体はトロールのエサにでもしてな」
 ロビンはかなり恐ろしいことを言ったつもりらしかったが、エリオットはっきり言って、トロールが何なのか知らなかったし、魔女の呪いも知らなかったがなんとなく痛そうだと思っただけだった。
「わかったら行け」
 ロビンは強くエリオットの肩を押す。彼は一度頷くと、廊下の突き当たりに向かって走り出した。走りながら彼はふと考える。彼女が求める協力とは何なのだろうか、と。やはり自分の持っているハーモニカなのだろうか。彼女はこれを【タクト】と呼んでいた。それに、彼女がこのハーモニカに近づいたときに起こったあの荒々しい風と光。彼女は魔女に間違いないだろうが、それと何か関係あるのだろうか。
 どちらにしろ、トジメの命とかけるものではない、とエリオットは思った。
 本当に大事なものだけを守る勇気と決断は、とうに準備できていたのだ。
 自分のせいで3年間も牢獄に閉じ込められていた弟に、自分は謝罪しなければならない。
 もう弟は自分に笑いかけてはくれないかもしれない。むしろ怒り狂い、憎しみの言葉を投げつけられるだろう。それでも、彼は会わなければならない。彼を救えるのはその原因であるエリオットだけなのだ。
 駆け出すエリオットを見送った後、ロビンは帽子を丁寧に被りなおした。これから起こるであろう激しい戦闘に備えて。
 いつの間にか彼女の周りにいた兵士がみんな消えている。動けないものもいたはずだから、おそらく全員魔法でワープさせられたのだろう。
 コツコツと、踊り場の階段の上から上品な靴の音が響く。
 ロビンはその音がするほうに向かってゆっくりと振り返った。
「お城を壊すなんて……ひどいことするわね……」
 そう言ってプリシラは金色のウェーブのかかった髪を指先で一なでした。
「こうでもしないと、お前は出てくれそうもなかったからな」
「初対面の、しかも一国の姫に向かってお前? 少し無礼なんじゃないかしら?」
 ロビンはふふんと鼻を鳴らす。
「残念だが私の【お前】という言葉は全星共通なんだ。それに私は【タクト】を悪用するものに敬意は払わない」
 ロビンの言葉に、プリシラの表情がわずかに焦る。いや、殺気を帯びたというのが正しい。
「そう……あなた、タクトを知っているのね? ああ、あなたもこれを奪いにきたのね?」
 プリシラの体を包み込むように、ゆるやかな風がおこりはじめた。
 プリシラはドレスの内側からそっとハーモニカを取り出す。それは真っ黒な弱い光を放っていた。瞬間、二人の周りを禍々しい気が取り巻く。
「タクトは渡さない。魔法使いなら手加減もしないわ。私の魔術の前に散るがいい」
 プリシラの手のひらの上に、黒い炎玉がうかびあがる。それはバチバチと電気のように耳障りな音をたてた。
「ふっ」と一笑して、ロビンは身構える。
「タクトの恩恵にすがるだけのニセ魔女が本物の魔女に勝てるとでも思っているのか? ……いいだろう、私の恐ろしさをその身に焼き付けてくれよう!」
 ロビンは両腕にぐっと力をこめる。瞬間赤い炎がほとばしり、それはロビンの腕をまるで蛇のように覆い始めた。



 プリシラは黒い炎玉をロビンに投げつけた。しかしそれはロビンの炎にふれると瞬時に消滅する。
「!!」
 燃え盛るロビンの両腕を見て、プリシラは密かに息を呑んだ。
 その様子を見て、ロビンは嘲笑する。
「魔女と戦うのは初めてか……」
「タクトよ、私に力を……!」
 プリシラはぎゅっとさらに強くタクトを握り締め、祈る。その祈りに応えるかのようにタクトはその黒い輝きをさらに増す。
「タクトはただ所持者に魔力を供給するだけではない。魂を貪り食われるぞ」
 ロビンは彼女を取り巻く黒い霧に眉をしかめながら忠告する。ロビンの燃え盛る炎はその霧を完全に防いでいた。
「お前がお前でなくなれば、私はお前を殺さなくてはいけなくなる。その前にタクトを渡すのだ」
 ロビンは一歩踏み出し、右手を前に差し出す。
「嫌よ! これは私のモノ! これさえあればこの国の繁栄は永遠に約束される……!」
 刹那、プリシラの瞳が一瞬黒く光る。
「! ……時間がないな……」
 ロビンは小さく舌打ちすると、真正面から突っ込んだ。彼女の手がプリシラの持つタクトへ伸びるのと同時に、赤い炎がプリシラを締め上げる。
「きゃああああ!!」
 プリシラはその熱さに絶叫した。その手から、タクトがすべり落ちる。
 ロビンは屈んでそれを拾い上げた。
 真っ黒に染まったタクトはロビンの手のひらに鈍い痛みを伝える。
「どれだけ邪な願いをかければここまでタクトを汚せるんだ」
 ロビンがそう、悲しげに呻いたときだった。
 なにか細いものが足に絡みつく感触とともに、ロビンは頭から後ろにひっくり返った。
 タクトがロビンの手から零れ落ちる。頭を抑えながら自分の足を見て、ロビンは驚愕する。
「髪……!?」
 金色の髪が、ロビンの足に巻きつき、ものすごい力で締め上げていた。おそらく常人の足ならば粉々に砕けているだろう。引きずり込まれないよう、ロビンは階段の手すりを強く握り締める。足に絡みついた髪は、ロビンの炎に焼かれても解けなかった。
「う……う……うぁぁぁああ!」
 断末魔が踊り場に響く。
 しかし、身を裂かれるような痛みに悲鳴を上げたのはプリシラだった。突然皮膚が裂けるような痛みと共に無限に伸び続ける髪が、自分の意思とは無関係にロビンを締め付けたのだ。
 健康的な肌色だった肌は青紫に変色し、まず指の関節が太く大きく長く強化される。ビキビキと身体の各所の骨が伸びる音が聞こえた。手足の骨が伸びきった頃には、プリシラの体は3メートルほどにまで巨体化していた。桃色だった唇も青くそこから覗く赤い舌をより際立たせている。はぁはぁ、とプリシラの苦しげな息遣いが聞こえるも、その表情は伸び続ける髪によって隠されている。
「そんな姿になってまでなぜ国の繁栄など望む!? 文明はいつか必ず滅びるのだ! そんなモノに命を懸けるな!」
 ロビンの怒声に、わずかにその顔を上げる。髪の隙間を縫って、ロビンは変わり果てたその虚ろな瞳を見ることができた。その瞳は宙をさまよい、何も映してはいない。
「見える……見えるのよ……この国の未来が……」
 床を這う金色の髪が、転がり落ちたタクトを拾い上げる。
「空を走る馬よりも早い車……天にも届く建物……豊富な穀物……輝かしいこの星の未来が……私のタクトが見せてくれるの……」
「違う!」
 ロビンは叫んだ。
「お前が見たのはこの国の未来などではない! ……うっ!?」
 今までにない力で体中を締め付けられ、思わずロビンは呻く。タクトはもはやその輝きを失い、ただただ黒い毒霧をあたりにただよわせている。プリシラはかつてないほどタクトと一体化していた。
「私を惑わそうとしても無駄よ。あなたはここで死ぬんだから。私はこのタクトで世界一の国をつくるの……ん?」
 ふと、何かに気づいたかのようにプリシラは横を向く。
「あぁ、エリオットがきているのね……タクトの匂いがする……」
「お前ではあの男のタクトに触れることもできん」
 ロビンは身体に巻きついた髪をぶちぶちと手でむしりながら言った。
「そんなもの、私が少し彼の心を汚してやればいい……それだけよ」
 プリシラは余裕の笑みを浮かべるとその巨体をすべるようにして廊下を移動する。
「待て、お前の相手は私だ」
 ロビンの炎が再びプリシラに襲い掛かった。しかし、それは金色の髪に遮られるだけで行く手を阻む事はできない。
 プリシラは驚くべき速さで廊下を滑り終えると、階段を下りていった。高笑いが城中に響き渡る。

「なぜ、この星に二つもタクトがあるのか……誰がタクトを持ち込んだんだ……?」
 ロビンは首を振る。
「今はそんな事を考えるべき時ではないな」
 ロビンはもう一度深く帽子をかぶりなおすと、小走りにその後を追った。



 日の光が届かないのか、階段はひどくじめじめしていた。エリオットは階段に何度か足をとられそうになりながらも、はやる気持ちで階段を駆け下りる。
「トジメ! いるか!?」
 エリオットが叫ぶ。
一番奥の牢の人影が、ぴくりと動いた。
「エリ……オット?」
 トジメは信じられないような気持ちで牢に歩み寄る。
「トジメ!」
 エリオットは牢に駆け寄った。
「お前……どうしてここに?」
「トジメ、この国から逃げるんだ……ちょっと離れて」
 そう言ってエリオットはロビンにもらった爆弾を取り出す。
 トジメが奥に引き下がったのを確認すると、牢にむかってそれを投げた。
 
 カンっ、ドカンッ、ガラガラ……。
 壊れた牢から、トジメが抜け出る。
 エリオットは、何といえばいいのかわからなかった。
「ありがとう」
 兄の心情を察したのか、そう言ってトジメがエリオットの背中に手を回す。
「トジメ……ごめん……」
 エリオットは深々と頭を下げた。
 3年間も牢に入っていたのに、トジメはエリオットより頭ひとつ分高く、彼よりも日に焼けていた。きっと毎日のように野良作業をさせられていたのだろう。
「エルのせいじゃねぇよ。みんなこの国が悪いんだ。とにかくここを離れようぜ、さっきから嫌に爆発音がするんだが、クーデターでもおこってるのか?」
 エリオットは小首をかしげる。
「目的は……ロビンは、僕にもよくわからないんだ……まぁ僕にはもう関係ないよ、行こう」
 エリオットはそう言ってトジメの腕を引いた。
「ロビン?」
 トジメが首をひねる。その時、カタンと音がして、ヒヤッとするものがトジメの首に押し当てられた。
「!!」
 二人がハッと振り返る。
 トジメの首に押し当てられたものは、銀のリボルバーだった。
 男は銃を押し当てたまま、何かコンパスのようなものを見ている。
 筋肉質で背の高い男だった。少し長めの髪を、オールバックにしている。
「……ここにまちがいないな。お前……髪の長い金髪の方だが……タクトを持っているな」
 男の声に、エリオットは聞き覚えがあった。
「……あなた、父親はデル・ガランドウ?」
 エリオットの切り返しに、男は方眉をぴくりと寄せる。その名前に、トジメもわずかに反応した。
 男はにやりと笑うとまいったな、と軽く頭をかく。
「あぁ……昼間の男か。そうだ、俺がデル・ニコル。この国にクーデターを起こす男だ」
「あなたは何故タクトを求めているんです?」
「クーデターを起こすのにそれが王国側にあると邪魔なんだ。悪いが時間もないんでな、早くタクトを渡してもらおうか」
 男はエリオットよりタクトについて、何か知っていそうだった。
 パチン、と男が指をならすと男と似たような服装で身を固めた人たちがぞろぞろと出てくる。その数十数人。
 トジメは二人の会話がまったくわからなかった。
「エル、タクトって何だよ?」
「僕のハーモニカのことらしいよ。わかった、タクトは渡す。だから僕の弟を離してくれないかな」
 エリオットはポケットからハーモニカを取り出す。
「いい判断だ。そんな物騒なもの一庶民が持つもんじゃねぇしな」
 二コルに支持された男が、エリオットのタクトを取ろうと手を伸ばす。
 エリオットの手のひらの中で、タクトは青白い光を放ち始めた……。
 
 淡い光がエリオットに語りかける。
『私……触れ……すな』
「え?」
 男の手がタクトに触れたとき、強烈な光と風が沸き起こった。

『汚い手で私に触るな!!』

 今度ははっきりと聞き取れた。
 その場にいる全員が驚愕の表情を浮かべる。
 エリオットの手の中で、タクトは激しく震え始める。
 瞬間、エリオットの頭の中を熱いものが激しい痛みとともに駆け巡った。
「うっ」と呟いてエリオットはその場に沈み込む。
「おい! 何だこれ!? エル! しっかりしろ!」
 トジメがエリオットの肩を掴むと、その肩ががくがくと震えているのがわかった。
「エル!?」
 何かが自分の意識を引きずり込もうとしていた。抵抗しようとするが、エリオットの脳の片隅が、抵抗することを拒む。それは、それが何かすごく懐かしいものであるような気がするからだった。激しい痛みと何か温かいものに包み込まれながら、エリオットの意識は遠のいていった。



 一面の銀世界。『雪』を見たことのないエリオットは、この銀色の砂のようなものが何か知らなかった。日の光に照らされ、それはきらきらと光り続ける。その景色のあまりの美しさに、エリオットは眩暈がするほどだった。だが同時にこの景色はどこか寂しさ、わびしさをも感じさせると思った。
 そっと屈んでそれを手のひらで掬ってみる。
「冷たい……」
 銀色の砂はさらさらと彼の指の隙間から零れ落ちた。
『雪とはそういうものじゃ』
 低くしわがれた老人の声がした。声のするほうへエリオットは振り返る。気づくとエリオットの後方に一人の老人が立っていた。老人は真っ白な長い髪と髭は、地面についているほどだった。手には長い杖のようなものを持っている。
「お爺さん。ここは……どこ?」
 エリオットは口を開いた。老人は片眉をひそめ、ひゃっはっは、と笑った。
『お前の夢の中にきまっとるだろうが。さもなくばお前がわしの姿を見ることなどできはしまい』
「僕の夢……? いや、僕はこんな風景知らない」
『ここはお前の星ではないからの。わしがお前に見せているのだ。ついて来い』
 そういうと老人は杖で彼を招き寄せるしぐさをし、歩き出した。
「どこへ行くんです?」
 老人は杖を一振りした。すると前方に巨大な白い塔が現れる。突然のことだった。
 この人も魔法使いだ、とエリオットは確信する。
 もう、すべてが偶然だとは思えなかった。ロビンとこの老人も何か関係があるのだろうか? ニコルは? いや、きっとこのハーモニカ、【タクト】に関係があるんだ。全ては【タクト】を中心に起こっているに違いない。
『その通りだ若造』
 老人は振り返り、満足そうに長い髭を一撫でした。
 エリオットは最初、口に出してしまったのかと慌てて手で押さえ、それから首をかしげた。いや、自分は何も言葉にしていない。
「僕の考えてることがわかるの?」
『ここはお前の夢の中だと言ったじゃろう。夢の中など思おうが発言しようが同じこと……』
 老人はそこまで言うと、一人塔の中へ入って行った。
エリオットはその後を追う。

塔に入った途端、エリオットはその光景に再び驚愕する。
 塔の中は一面、何か黒く平たいものが張り付いていて、天井も床も、そこにはびっしりと彼の知らない文字が羅列してあり、てかてかと光る文字はしかもどんどん流れていく。
赤い光を発する光線がエリオットを調べるように全身を照らし出し、そして……
『これはすべてコンピューターと呼ばれるものだ。あそこの……中央にあるマザーコンピューターが制御しておるのだが……そしてそれはセンサーじゃな』
 彼の思考に、ほっとけなかったのか老人がひとつひとつ解説していく。
「コンピューター?」
 その画面のひとつに、彼は指先でそっと触れてみる。ポーン、と音がして彼の触れた文字は塔の中で一番大きい画面に飛んでいった。
『精密機械なんじゃ。あまり興味本位で触るでない』
 老人が赤いボタンを押すと、エリオットが飛ばした文字が消え去り、映像が映し出される。映し出されたのはたくさんの人々。変わった服装をしていて、みんなが小さな【コンピューター】と言われるものを持っていた。
「彼らは戦争をしているんだね?」
 画面を見て、エリオットは呟いた。
 人々は何かに怯え、手を合わせ祈っていた。

『いや、彼らは戦争に怯えているのではない。【星の終末】に怯えてるのだ』
 
そう言って老人は深く瞳を閉じる。
「星の……終末……」
 エリオットはごくりと唾を飲み込んだ。老人がくっくっ、とそれを笑う。
『信じられぬか? お前たちの住む星は生物ではないとでも? 永遠に続いていくとでも? ……いや、よそう。わしらの星もそれに気づくのは本当に最後の最後だったんじゃから』
「この星の名は?」
 エリオットは悲痛な思いで尋ねる。
 老人はエリオットの瞳を覗き込み、何かを確認したように頷くとまるで物語を語るように話し始めた。
『お前の星から遠く離れたところ、銀河の片隅に地球という星があった。大きな星じゃ。そこにもやはりお前の星のように人間がおった。……じゃが、地球は本当に資源の豊かな星での。何一つ不自由ないもんじゃから進歩するのには長い時間がかかった。そう、一万年くらいかの』
「一万年!?」
『そう。他の星の人間の何倍もかかった(ここで老人はにやりと笑った)。ゆっくりと、やがてこの星の人も他の星と同様文明を持つようになる。だが、恵まれた自然環境にあった地球人はここで他の星と比べて驚くべき進化をとげる。これじゃ(そう言ってコンピュータを杖の先でつつく)、地球人が他の星より遥かにスピードを持った進歩を遂げた理由がこれじゃ。なぜかわかるか?』
 エリオットは首を横に振る。
『これが人間の能力を遥かに超えたモノだったからじゃ。自分より優れたモノを作り出したとき、地球人の未来は大きく変わった。そう、例えば、まず地球人は他の星に降り立つことを可能にした』
「他の星に降り立つ!?」
 エリオットは思わず声をあげた。
『今はもう他の星の住人もそんなことは簡単に出来る』
「僕の星はそんなことできないよ」
『お前の星は辺境の星じゃからの』
 その言葉に、エリオットは少しむっとした。
『銀河系内にいくつか人の住める、もしくは人の住んでいた星を発見すると、地球人はすぐにその星とコンタクトを取り移住し始めた。星と星をつなぐ道をつくり、地球にはない資源を使うことで更なる発展を得た……。空に城をつくり海に町をつくった。じゃが、どんなに発展を遂げても、星の終末だけは変えられんかったのじゃ……』
「でも、みんな他の星に逃げられたんでしょう?」
 そのとき、丁度画面に映る人々が激しく祈り始めた。地面が揺れ動き、ひび割れ、割れ目から無数の光が飛び出した後、その光にすべての人々がのみこまれる。……そこで映像は終了した。
『地球に住んでいた約100億人のうち生き残ったのはたった8人。あとはみな地球とともに滅ぶ道を自ら辿った』
「! なぜ……生きてさえいれば……」
『生まれ育った星が違えば求めるものも違うものじゃ。お前も星の終末に立ち会えばわかる。……お前の星はまだまだ若いがの。話ももう終盤じゃ。地球人は自らが滅びる前に7つの結晶を残した。地球人の文明とも言える最先端の魔法と科学技術をすべてその結晶に注ぎいれたのじゃ』
 魔法、という言葉にエリオットの眉がぴくりと動く。
「それが」
『そう、タクトじゃ。7つのタクトは地球の滅亡とともにはじけとび、銀河を超えてさまざまな星にたどりつく』
「何のために、そんなこと……」
 エリオットの問いに老人は笑って肩をすくめた。
『さぁのう、自分の文明をどこかに残したかったのかの……おぉいかんわい。巨大な欲望が近づいておる……早く起きて逃げるのじゃ』
 老人がトン、と杖を床につけるとたちまち塔が消え、二人は雪原に放り出された。
 吹雪が服の中に入り、エリオットはぶるっと震えた。
「待って! あなたはなぜここにいるの? 何のために……」
『急げ、エリオットよ……いいか、お前がタクトを持っているのは偶然ではない。それから、赤い悪魔に注意しろ……不幸を呼び込まれる前にな』
 老人は杖をエリオットの鼻先に当てる。するとエリオットは自分の意識がだんだんふわふわしてくるのがわかった。
「待って……それはなぜ? 誰なの? ……僕はまだ聞きたいことが……」
『行け。今はまだ全てを知るには早すぎる』
 暖かいものがエリオットを包み込む。その心地よさに思わず眠ってしまいそうだ。
 そうだ、この感覚は、この世界に来る前の……

「エル! しっかりしろ!」
 耳元で聞こえた鼓膜が破けんばかりの大声にエリオットは飛び起きた。
 それを見てトジメの顔にやっと安堵が浮かぶ。しかし彼はすぐに首を振った。
「エル! ニコルが化け物と戦っているんだ」
 エリオットはトジメの指差す方を見る。どうやら怪我をしたらしい……ニコルの片腕から血がしたたっている。その先には、巨大な青紫色の異様に手足の長い生き物がいた。
 長いつめ、節ばった巨大な指。エリオットはその化け物をじっと見つめ眉をひそめる。
 生き物がニコルに向かって黒い火の玉を吐くと、ニコルは腕についた何かのスイッチを押して現れた水色の壁でそれを防いでいた。
「エリオット! 狙いはお前だ! 逃げろ! 俺はこの化け物を殺す!」
 トジメがエリオットの腕を引っ張る。そこで初めてエリオットはまだ自分がタクトを持っていることを確認した。
「あいつのあの機械じゃないと防げないんだ、あの化け物の火、水をかけても消えやしねぇ……ニコルにここは任せよう」
 しかしエリオットは動けなかった。
「待って。あれは……化け物じゃない」
 エリオットはその生き物を見て、確かな確信を持って断言した。



「これが化け物じゃないって?」
 トジメが信じられない、という顔をした。
「じゃあ、あの青紫のでっかい獰猛な生き物は何だって言うんだ?」
「プリシラだよ」
 エリオットが厳しい表情で答える。そのセリフにトジメは言葉を失ったが、精神的ショックはエリオットの方が大きかった。
 トジメは見たくもないそれを、もう一度まじまじと確認する。
「どうして、姫様だってわかるんだよ……?」
「わからない、けどわかるんだ……」
 エリオットは曖昧にしか答えられなかった。
「聞こえなかったのか!? 早く行け!」
 ニコルが怒鳴る。ニコルの仲間たちも銃で応戦しているが、まったく効いている様子はない。二人の目の前で、突然ニコル体がふわっと浮き上がったかと思うと、その体が激しく床と衝突した。「うぅっ」とニコルは呻きながら体を震わせる。彼の足に金色の髪が巻きついていた。
「もしあれが姫様だとしても、どうしようもねぇよ。このままじゃ殺されちまう、行くぞ!」
 エリオットは手の中のタクトに心の中で呼びかけてみたが、応答はなかった。
「エル! 急げ!」
 トジメはエリオットの腕を掴みなおすと、今度こそ全力で駆け出した。
「逃がさない!」
 駆け出すエリオットたちに気づいたプリシラが怒りの咆哮を上げる。その声に反応したかのようにビリビリと空気が揺らめき、金色の髪が床を這いながら蛇のように二人を追いかけた。
「プリシラ! 僕がわからないの!? 何でこんなこと!」
「エル、いい加減にしろっ! うわっ、絡まっ……髪が足に絡まった!」
 トジメは慌てて足に巻きついた髪を掴んだが、髪はしっかりと巻きついて離れない。
「くそっ、化け物め!」
 トジメの毒づきに、エリオットの胸が痛む。
 エリオットは護身用の小さな果物ナイフを取り出すと、トジメの足に絡みつく髪を切り落とした。トジメが小さく礼を言う。
 二人は全速力で階段を駆け上がり、扉を閉めた。鍵をかけることはしなかった。再び回廊に出ても、そこはひどい有様だった。城のあちこちから黒い炎が立ち上り、戦いの経験のない使用人たちは助けて! と喚きながら駆け回る。彼らがいくら水をかけても、その火は消えることがなかった。
――ロビンがやったのか!? それとも……彼女が!?
「エル! 見ろ!」
 トジメが窓から身を乗り出し、叫んだ。
「サンドキッド(MMOLAND現国王)だ! あいつ……城から逃げ出しやがった」
 エリオットが窓の外を見ると、一台の立派な白い馬車が城の外の橋を渡り猛スピードで城下町の方へ走り去って行くのがわかった。
「てめぇの娘が怪物になってよーが構やしねぇってわけか……レジスタンスなんかなくてもこの国はもう終わりだな」
 トジメが憎しみをこめて、馬車の走り去った方にぺっ、と唾を吐く。
――この国の終わり?
 消すことの出来ない炎は回廊に飾られている肖像画にも燃え移り、歴代の王たちを次々と灰に変える。
「いやだ……」
 エリオットは呟いた。
 でも、自分に出来ることなど何もない。どうすれば……僕に力があれば……!
『力を貸してやろうか? 力が欲しいのだろう?』
「!?」
 脳に直接響く声に、エリオットは身を震わせた。夢の中の老人の声だった。
『城内の炎をすべて消し去り、元通りにしてやろう。あの姫も元通りにできるぞ。お前が王になれば、姫を手に入れることもできる』
 エリオットは必死に首を横に振った。トジメがエリオットの様子に気づく。
「エル、大丈夫か?」
『何を怯えておる……わしはお前の中にいるんじゃ……お前の考えること、望むことなど手に取るようにわかる……お前は無力だ……だがわしに祈るだけで、この力を欲するだけで全てを変えることが出来る……祈れ、念じろ……』
「嫌だ!」
 エリオットは力いっぱい叫んだ。首筋からどっと汗が噴出す。握り締めたタクトに目をやると、やはりそれは自己主張するように青い光を放っている。
「おい、エル! どうしちまったんだよ……」
 トジメは兄の肩を大きく揺さぶった。しかしエリオットはただ堅く目をつぶって嫌だ、嫌だと呟くだけだった。苦しそうな兄の様子に困り果てたトジメの肩を、誰かがぽん、と叩く。
『なぜわしを拒む……お前が10年以上も愛し続けたタクトではないか。それを信じろ……この国を愛していたのではないのか? あの女が欲しいとは思わないのか?』
「やめろ……僕は……俺はそんなこと望んではいない……!」

 燃えるように熱くなった首筋に、ひんやりとした冷たい手が触れた。
 
 耳元で救いの言葉が囁かれる。
「よく拒んだな。そうだ、タクトの言うことなどに耳を傾けるな。全てを変える力など、タクトにだってありはしない」
 その声を聞いた瞬間、エリオットの膝がガクン、と折れた。しかし倒れそうになる体は細い二本の腕にしっかりと支えられる。
 エリオットは疲れた表情でその顔を見上げ、その名を呼んだ。
「ロビン……」
「何だ」
 ロビンはエリオットのタクトが再び輝きを失ったのを確認すると、汗にぬれた彼の前髪をそっと掻きあげてやった。
「彼女を……救いたいんだ」
 エリオットは手のひらで自分の両目を隠した。
 手の甲を熱い涙が滑り落ちていく。
「私がやると、あの女は死ぬぞ」
 ロビンは厳しい表情のままそう言った。その言葉が、どれだけこの目の前にいる青年の心を深く傷つけるか彼女はわかっていた。またタクトを拒むほどの勇気を持った青年が、これから望むことも彼女には容易に推測できた。
 手の甲を滑り落ちる涙が激しくなる。
「僕も行くから……ロビン、お願い。彼女を救ってあげて……」
 涙にくぐもった声で、青年は訴える。
 それ以上の言葉はいらないだろう。青年は全てを受け入れた。
「わかった」
 そう言うと、ロビンはエリオットを立たせ、その腕を掴んだ。
「行くぞ」
 エリオットは無言で頷いた。ロビンがトジメの方を見て言う。
「お前の兄は私が必ずお前の元に送り届ける。悪いが先に一人で逃げてくれ」
 呆然と立ちすくみトジメに、ロビンは苦笑するとパチン、と指をならした。
 瞬間、二人の姿が消え、トジメは炎の燃え広がる回廊に一人取り残された。


 二人の姿が消える瞬間、エリオットは自分の体が真っ赤な炎に包まれるのがわかった。熱さをまったく感じない。それはじゃれてくる子供のようにくすぐったい。あぁこれが彼女の炎なんだな、と彼はロビンの一見表情を出すことを許さないかのように整った顔を眺めた。
 数秒のことだった。ロビンの炎が体からゆっくりと消えていく。たどり着いた場所は黒い炎に満ちていた。
「すごい匂いだ……」とロビンは顔をしかめて声を濁らせる。
 ニコル達の大量の血の匂いだった。小さく呻きながら体を震わせる生存者もいれば、完全に静止した体もあった。
 ロビンはエリオットの腕を引くと、地下の一番奥に横たわっている体にそっと触れた。
 その体がぴくりと動く。顔を上げたところで、エリオットはそれが反政府組織のリーダー、デル・ニコルだとわかった。
「大丈夫か?」
 ロビンが少しだけ柔らかい声で話しかける。
「あぁ……だが済まない。借りたものは、壊れちまった……」
 そう言って、片腕を小さく上げる。それはニコルが黒い炎から身を守るために使っていたあの機械だった。今は焦げ付き、割れかけている。
「気にするな」
 ロビンは立ち上がると、辺りを見回す。ニコルが呻いた。
「地下だ……ここよりさらに地下がある。そこの穴から……」
 ニコルが指さした先には、壁が焼け焦げ溶け落ちた跡があり、下へ続く階段が見えた。
 ためらう様子もなくロビンは階段を降り始める。
「罠だぞ」
「わかっている」
 ロビンはにやりと笑うと、まだ血の海に目を奪われ足を止めているエリオットを呼んだ。
 
 階段は真っ暗で、足元を見ることがまったくできない。
「エリオット、目をつぶるんだ」
「転んじゃうよ……」
「いいからつむれ」
 エリオットはしぶしぶ目を瞑った。本当は目を開けていたところで何も見えてはいなかった。
「え……何?」
 エリオットの声が上ずる。
「見えただろう?」
 ロビンが得意げに言った。目を瞑ったエリオットの瞼には、地下へと続く階段がありありと浮かんでいたのだ。
「大抵のまやかしならこれでわかる」
 コツコツとロビンのブーツが音を立てる。エリオットは目を瞑ったまま、興味深げにあたりを見回した。まるで煌々と照らされた回廊のように、エリオットの進む階段は明るかった。
 階段が終わるころ、エリオットの瞳に一人の女性が映し出される。エリオットと同じ金色の長い髪。真っ白なフリルのついたドレス。つやつやとした色のいい肌は、触れれば手に吸い付きそうだった。彼女は自室で一人椅子に座り、うな垂れていた。その肩がわずかに震えている。大きくぱっちりとした丸い目からは幾筋もの涙が零れ落ちていた。
「プリシラ……」
 その声に、彼女はゆっくりと顔を上げる。
 彼もゆっくりと彼女の顔を眺めた。
 苦しみと悲しみに満ちた、苦渋の顔にエリオットはその震えた細い肩を抱きしめてやりたいと思った。零れ落ちる涙を指先で優しく掬ってやりたいと思った。
 ゆっくりとプリシラが席を立ち、エリオットと向き合う。
「お願い……エリオット、助けて……」
 か細い悲鳴のような囁きだった。
 エリオットは衝動的にプリシラに歩み寄る。すると彼女は慌てて後ろに下がった。
「駄目……エリオット……きちゃだめぇ!」
「え?」と彼が声を上げたときだった。

「目を開けろ!!」
 
 ロビンの叫び声とともに腹に猛烈な痛みが走り、エリオットは後方にふっとんだ。

「うっ」と呻いて彼は目をあける。
 どうやらロビンが彼を蹴り飛ばしたようだ。
 彼のいたところ(前方)の床は炎に焼かれ溶けている。ジュウウと音だけでなく、腐った匂いがそこから発せられていた。
 エリオットは顔をあげる。そして、プリシラのいたところにいる巨大な生き物を見た。
「プリシラ……」
「当に正気など失っている」
 前に進もうとするエリオットを、ロビンが低い声で制す。プリシラの両手から再び二つの黒炎が浮かび上がる。それから何か口をもごもごさせると、開いた唇の隙間からメラメラとした炎が見え隠れし、煙を吐きださせた。
「お前が死んだら事だ。下がっていろ」
「どうして僕が死んだら事なんだ?」
 エリオットはちらっと横目でロビンを睨みつける。
「……今知る必要はない」
 ロビンはエリオットに目を向けずにそう言うと、片手を前に差し出し水色の壁をつくり、プリシラの吐く炎と黒炎を防いだ。それはニコルが出していたものと同じものだった。
「私の全ては神が創造した。私の炎は神の怒り。その身を焼き尽くす業火は神の意思」
 ロビンの言葉とともに、その赤い炎が鎧の如く彼女の体を包み込む。はあぁぁぁ、と息を溜めるとその炎はさらに膨れ上がり、そばにいたエリオットの肌にも焼け付く痛みを与えた。
「神の怒りに触れたことを後悔しろ」
 ダンッと地を蹴ると、ロビンは飛び上がるようにしてプリシラの目の前まで駆け寄る。
 その速さは一瞬、エリオットにロビンが消えたのではないかという錯覚さえおこさせた。
 ロビンの拳がまともに腹に入る。
「ウグっ」
 殴られた痛みと炎の熱さにプリシラの顔が奇妙に歪む。顔に浮き上がった血管は今にも切れそうに見えた。
 それでも、目をつぶるとそこに君がいるんだ、とエリオットは思う。
 ロビンの炎が彼女の全身を包む。プリシラが必死に自分の炎でそれをはじき返そうとしたが、ロビンの炎はそれを待っていたかのように勢いを増すだけだった。
「タクトを手放せ。元には戻れないが命は助かる」
 ロビンの額に脂汗が浮かぶ。それは炎の熱さによってではなく、精神的なものからだった。
 プリシラはエリオットの方に向き直ると、その青く変色した唇をにこりとゆがませた。
 まるで炎に取り囲まれた蝋燭が溶け出していくように、彼女の体が溶け出す。
 エリオットは目を伏せた。
 どうしようもなく歯がゆい。彼女を救えない自分が。彼女を見殺しにしようとする自分が、憎い。
「エリオット! どうしてそんな女の隣にいるの? あなたは私の味方でしょう?」
 追い討ちを立てるかのような言葉に、エリオットは唇をかみ締める。
「プリシラ……もう止めよう。タクトなんかなくてもこの国はやっていけるよ」
「私たちは!? 国の繁栄が保障されればお父様だって私たちを認めてくれるかもしれないのに!」
「プリシラ! 【それ】はそんなものじゃない!」
 踏み出したエリオットを、ロビンが再びさえぎる。
 ロビンの手は震えていた。
「タクトを放せ!」
「いやよ!」
 プリシラはロビンに叫び返した後、手の中のタクトをぎゅっと握り締める。
「そうよ……タクトにまた頼めば……」
 プリシラの手の中で、タクトが不気味な黒い光を放つ。
「!!」
 エリオットはロビンの腕を振り切り、駆け出した。
「エリオット!」
 彼を止めようとしたロビンを、黒い炎が襲う。ちっ、とロビンは舌打ちした。
「タクトに願いをかけるな!」
 エリオットがプリシラの腕を掴む。じゅっ、と肉の焼ける音がして、彼は呻いた。
「お願いタクト……私を助けて……力を頂戴……」
 エリオットの手が、プリシラのタクトに伸びる。
 そのときだった。
 ズドン、という大きな音とともに床が一度大きく波打つ。視界が真っ白になり、鼓膜が破れたように完全な無音状態になった。
 数秒して、エリオットに視力が返ってくる。吹き飛ばされて地面に這いつくばっていたようだ。彼がゆっくりと後ろを振り返ると、ロビンも同じように倒れ、気を失っているらしかった。そして、ゆっくりと視線を前にずらす。

「あ……」
 エリオットは、それ以上の言葉が続かなかった。コオオと風の音がやっと聞こえるようになる。
 プリシラの体を、天まで続いているような光の柱が貫いていた。
 体中がしびれたように動かなくなる。瞬きすらも忘れたように目が釘付けになった。
 今だに溶け続けているからか、貫かれているからか小刻みにその体は震え続けている。
 光の柱にかき消されたかのように黒い霧はなくなっていた。
 不安定に宙をさまよっていた瞳が、エリオットの姿をやっと捉える。
「目を瞑って……お願い……」
 掠れた小さな声だった。
 エリオットは目を閉じる。そして体中から血を流し、震えている彼女をひざまづいてゆっくりと抱き寄せた。
 プリシラの白く小さな指が、エリオットの頬を撫でる。
「ごめんなさい……」
 プリシラが小さな声で呟く。白い指先が濡れていた。
 ああ、僕が泣いていたのか。彼女の声を聞いてからやっと彼は気づいた。
「ねぇ、最後に聞かせて……私のこと、好き?」
「好きだよ」
 プリシラは満足そうににこっと微笑んだ。
「そっか……」
 天使というものが本当にいるなら、それは彼女だと思った。
 甘えるようにエリオットの胸に小さな頭を寄せる。 
「僕も逝こうか」
 素直な言い方じゃないな、と自分で思いながらエリオットは言った。
 プリシラは首を振る。
「大丈夫……一人で行けるよ」
 違う。君が一人で大丈夫でも、僕は……。
「彼女が起きたら、ありがとうって伝えて」
 プリシラの指が、ゆっくりとエリオットの瞼に近づく。
「プリシラ……僕は……」
「さよならエリオット、大好き」
 冷たい指先が彼の瞼をこじ開ける。
 エリオットの目に、黒くただれた肉の塊が現れる。まだ熱をもったそれは、命が消えてもドロドロと溶け続けていた。
 光の柱は消え、彼のものではないタクトが一つ転がっていた。そのタクトは透明で、城や森林、人間や動物などを次々と映し出している。それはプリシラが見た、MMOLAND王国の全てだった。
 彼女の面影も残さない肉の塊を、彼はもう一度ゆっくりと抱きしめた。

「すまなかった」
 ロビンが彼の背後からそう声をかけたのは、それから数分経ってからだった。
 エリオットが振り返ると、ロビンは深く頭を下げた。
「もっと早くこの星に来ていれば……全て私のせいだ」
 エリオットは一度腕の中の肉の塊に視線を移す。別にそれが醜いとは思わなかった。
「ロビンのせいじゃないよ」
 エリオットは笑って言った。
「彼女を救ってくれてありがとう」
 ロビンはきっ、と顔を上げる。
「思ってもないことを口にするな。恋人だったんだろう」
「恋人……だったのかな? 好きではいてくれたみたいだけど」
 そう言ってエリオットは微笑む。
 頭の中を、夢となって消えた二人の未来が横切る。
 それを、ロビンのせいにするにはあまりにも虫が良すぎる。
 二人は黙々と穴を掘り、小屋の側の丘の上に遺体を埋めた。
 最後に十字架を立てたところでやっと彼は実感が沸いた気がした。
「今、頭の中が真っ白でさ、何が自分の気持ちなのかとか、よくわからないんだ。正直、君を恨みたくてしょうがないのかもしれない。……でも……彼女が、プリシラが最後に言ったんだ。君にありがとうって。だから、これが正しいんだと思う」
 エリオットは自分を見つめるロビンを静かに見つめ返す。
「ロビン、ありがとう」
 初めて、ロビンの肌を涙が伝った。
 ロビンはそれに気づいてないのか、隠そうともしない。
「泣かないでよ、泣くとしたら僕のほうなんじゃない?」
 ロビンは何度も頷いて、すまない、と謝った。
 ひらひらと桃の花びらがふってくる。
 エリオットは空を見上げた。
 木々が、彼の心を癒そうと葉を揺らしていた。
 小さな花々が彼の心を癒そうと寄り添っている。
 その一瞬、一瞬が、彼の心に深く刻まれていくのが自分でわかった。
 エリオットはロビンにハンカチを差し出す。
「ところでさ、僕に協力して欲しいことって何?」





つづく
2005/01/18(Tue)10:19:32 公開 / 笑子
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■作者からのメッセージ
久々の更新です。次回がMMOLAND編最終回となります。この二週間何していたかというと、センター受けてました(ぼそっ)。しかも、現役生の振りしてテスト受けてたら同じ大学の友達と偶然会っちゃって心臓止まりそうになるし・・・。お前もか、ブルータス! な気分でした笑次は2月の後期試験のために、マイペースでがんばろうと思います。小説を書くのも、やっぱりマイペースにやめられません笑ここまで読んでくださった方、本当にありがとう。ついでに、ここまできたら最後まで読んじゃってください笑。
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