- 『いろんな事があった日』 作者:石田 壮介 / 未分類 未分類
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原稿用紙約20.75枚
会社へ行きたくない。
繰り返される同じ日々に打ちのめされて、私は毎朝上半身だけを起こして、
三十分ほどぼうっとする。その間何かを考えている。人生について考えてい
るようである。ようであると言うのは、考えていたという実感はあるのだが、
なんにも記憶がないからである。寝ぼけているだけかも知れない。部屋を真
っ暗にして、そこにはいかなる物も介入を許さず、ただただ動かない腹話術
の人形のように項垂れて、ブツブツと呟きながら、朝を過ごす。
私はある種の精神病のようなものを抱えているのだ。五月病のようなそん
な病気である。この間も朝目覚めて、不意に行く気が失せて、親戚のおじさ
んを一人殺して休んだ。けれども、決して勤労意欲の欠如から来る、単なる
サボタージュではない。これでも私は店の中核を担っている。とにかく朝の
この時間が陰鬱なのだ。めまぐるしく動く時間についていけない自分がいる。
その時間に合わせる事がとても苦痛で、面倒に感じて、気が狂いそうになる。
だから、私は自分の部屋の時間を止めて、その止まった空気を呼吸して、呆
然と脳みそのどこかにある本能的な部分で今日の進退について、常識と非常
識が葛藤するのである。
先ほど、中核を担っていると言ったが、それすらも先日大きな失敗を犯し
てあろうことか、バイトに降格させられてしまった。主任からバイトになる
と言うのは、なかなか立場として肩身も狭く。いよいよ辞めようかとも考え
ていた。
今日は常識の方が勝っていた。カーテンの隙間から差し込む陽光がなんと
なく神秘的で、心持ち揚々とした。
師走の風は私を思い切り引っぱたく。私の家は会社から、およそ一時間か
かるところにあって、出社時間が九時なものだから、朝七時半には出なくて
はならない。今日も七時二十七分のバスに間に合うように家を出た。このま
ま、今携帯を壊して、九州へでも北海道へでも逃亡してしまいたい。もう会
社等いかないで、今ある貯金で遊べるだけ遊んでしまいたい。私はまだ二十
五だし、再出発だってなんとかなるだろう。
私はバス停の前で一人で旅行プランを立てた。実際、日本一周位するお金
はある。それでも、自分の中の常識が駄目だ!と一喝する。なんでだかはよ
く解らない。理由のない使命感が私の手をグイグイと会社へ引っ張っていく
のだ。
駅からは、JR線で二駅ほど行って、そこの駅で私鉄に乗り換える。駅へ
はいつもどおりに着いて、いつもどおりの時間に来る電車に乗った。嗚呼、
今日も出てしまった。と心の中で嘆息した。ところが、今日は遅刻してしま
った。いざ乗り換えという段になって、駅を降りてみると黒い頭がいつも以
上にごったがえしている。いやに今日は混雑するなと思いながら、乗り換え
改札を通り過ぎ、運行の掲示板を見てみると、なんにも書いてない。は!?
と思わず声に出てしまった。周りに注意を払ってみると、駅員がテキ屋みた
いに、云々…遅れておりまーす!と怒鳴り散らしている。何を言っているん
だかよく解らない。こっちよりも、駅員の方が動揺している。後で聞いたと
ころ、車両事故があったそうで、踏み切りで乗用車と激突したらしい。それ
はそれで朝から物凄い事件である。でも、駅員はうるさい。
私は遅延証明を貰って、十時に出社した。新人の渡辺さんも遅れていたの
で、別段何事もなかった。
ところが、そこでまた不思議な事が起こった。遅れてきた渡辺さんになに
か違和感がある。そうだ!眼鏡がない!
朝から何事が起こったのだろうか。渡辺さんは目をしばしばさせて、とて
も不自由にしている。私も視力はよろしくないから、その気持ちは痛いほど
よく解る。何かを探すような視線になってしまう。
「渡辺さん、眼鏡どうしたの?………ですか?」
と、私はぎこちなく尋ねた。もうバイトだから、かつての新人にも敬語を
使わなければならない。
「いやぁ〜、社長に捨てられましたよ」
渡辺さんは、苦笑いしながら頭を掻いた。
「捨てられた!?」
「はい〜、昨日、店長と飲んでたじゃないですか?それで、銀座のバーに行
ったんですよ」
「何時に?………ですか?」
「三時に」
「三時!」
「はい〜、そこで店長もだいぶ酔っ払ってて、こんなものいらねぇ!って眼
鏡を取り上げられて、割られちゃいました」
「…マジっすか!?」
「はい〜」
「大丈夫です?見えます?」
「いやいや〜、全然こんなんですよ」
渡辺さんは相変わらず苦笑いを浮かべながら、手をふらふらと翳してみせ
た。それから、胸を指差してみせて、
「川上さん、社員証ついているじゃないですか〜?その文字が全然見えない
ですもん。ここから、白紙に見えますよ」
「え………どうするんですか?今日」
「あ〜、だからこれから、眼鏡作りに行ってくるんですよ。経費も今貰った
んで」
「そうですか」
「だから、ちょっと商品陳列の方お願いします」
「はい、解りました」
「すいません、こんな私用で…」
「いえいえ!仕方ないですから」
渡辺さんは頭を頻繁に上下させながら、小走りに出て行った。私は溜息が
漏れた。面倒な仕事が増えた。
それにしても、今日は珍しい事がよく起こる。そう言えば、空模様があま
り良くなかった。何かの前兆かな。関東大震災がついにやって来るかな。こ
んな事を真剣に考えた。そうして、まだまだ何かが起こりそうな予感がした。
そう思って、渡辺さんのやる筈だった仕事の準備をしていると、レジの吉
村さんが手伝いに来た。店長がよこしたのだろう。しかし実際私の今までの
実力を見れば、新人の仕事を抱えた程度で間に合わなくなるような事はない。
だから、余計に癪に障った。知ってて、吉村さんをよこしたのだ。
「手伝いだよ…あ〜………ですよね?」
「そうです」
私の言い直しに慎ましげな笑顔を浮かべながら、快活に答えた。そこには
冷笑も嘲笑もない。ただただ間違いに対する素直な笑いだった。私にとって
救いなのは、店長はああだが、周りが皆温かく見守ってくれる事だ。
「じゃあ、これを四番通路に運んで………ください」
「はい!」
吉村さんに陳列する商品を運ばせて、私は一足先に行って、商品撤去を始
めた。撤去したところを後から来た吉村さんに陳列させて、仕事は快調に進
んだ。気持ちも少し揚々として、
「吉村さん、レイって人とはあれからどうだったの?………ですか?」
と色話を切り出してみた。合コンで知り合った人で、吉村さんが狙ってい
る人だ。唐突に質問されて、吉村さんはまごまごしたが、
「うまくいきました」
と溢れんばかりののろけ笑いを返してきた。
「うまくいった?」
「…は、はい」
「いつ?まさか、昨日?」
「は、はい!」
「おおおおおっ!おめでとー!」
思わず、私も嬉しくなって、飛び跳ねてみた。吉村さんも相当嬉しいのだ
ろう。ランランと目を輝かせて喜んだ。
「クリスマス前に滑り込みかぁ」
「はい!ギリギリセーフで」
「羨ましいなぁ。私なんか、一月前にフラレたさ…ちぇっ」
「…か、川上さんも良い人できますよ。ナンパしたらどうですか?」
「しないしない」
「大丈夫ですよ!良い人できますよ!」
「はいはい、ありがとうね。で?口説き文句…キメテの台詞はなんだったの
?………ですか?」
「え?」
「いやほら、あるじゃない。殺し文句よ、殺し文句!」
「…言わなきゃ駄目ですか?」
「だめ!」
「えー…」
「のろけたからには言わないと!はいはい!」
吉村さんははにかんで、困惑したが、やがて溢れんばかりの嬉しさが口を
ついて出させた。
「えーと、レイさんのお家に行ってー」
「抱きついたの?」
「いえいえいえいえ!正座してましたよ」
「正座?」
「はい、何故か正座してたんですよ」
「かたっくるしいねー」
「で、静かになっちゃって〜」
「気まずいね、なんか」
「で、私が〜」
「私が?」
「likeじゃなくてloveだよ!って」
私は大笑いした。周りのお客さんが一斉に私に注目した。はっと我に返っ
てもくもくと作業をするフリをした。
「likeじゃなくてloveだよ!かよ!」
まだ笑いがこみ上げてきて、クックックと必死に私は堪えた。吉村さんも
我ながら恥ずかしい言葉を言ったもんだと自覚しているらしく、照れ笑いを
していた。
でも、その瞬間の言葉はきっと何よりも重い一言だったのだろう。言葉は
キザだけれど、若さ溢れる情熱の言霊。これは一万冊の小説を読んでも体感
できるものではない。吉村さんの言葉は素敵だ。生きている。
私はそれから、通りかかった上司に、お客さんに、言いふらして、からか
いながら、渡辺さんの仕事を片付けた。我ながら久しぶりに楽しく仕事が出
来た気がした。なんだか、生きる息吹を感じてふっと光明が差し込んだ。
愉快で興にのってきて、よし!今日のエンド(棚の一番端のこと)は凝っ
てやる!と、意気揚々とクリスマス用の飾りつけの残りと、陳列する生チョ
コレート菓子を取って、エンドの前でひたすら試行錯誤して、小一時間程し
てようやく完成した。赤と黒のデザインの箱だったので、赤い布を一面に張
ってバックに飾り付けの残りの杉の木の一部と、その上全部に白い粉を振り
かけた。
小母ちゃん達の興味をひいて、何々?と群がってきた。多分よく解ってな
いんだろうけど、勢いのままにチョコを勝っていって、してやったりな気分
だった。綺麗ね〜!って感嘆の言葉を貰った時には有頂天だった。ただ、一
人のおじさんの、これ、フケがかかってるじゃないかって言う言葉には、少
し傷ついた。
これを副店長に見せると、副店長は眉毛を鋭くしかめながら、
「おぉ、なかなか良いね」
と、お褒めの言葉を貰った。
「ありがとうございます」
私は頭を下げると、バックルームへ戻ろうと空のダンボールを集めた。副
店長はそれを変わらずの渋い表情で見つめながら、
「あ…、川上君」
「はい!」
「あのだね、俺は今月の20日は休みを貰う事になったから、よろしく頼む」
「休みですか?」
「うん、店長にはまだ言ってないんだがね」
「珍しいですね」
「いや、たまにはね。家族サービス」
「へぇ!」
私は驚いた。一年中片時もいなくなった事のない。副店長が、仕事以外何
にも考えてないんじゃないかと思える程厳しい副店長が、休みを貰うなんて、
やはり地震でも来るんじゃないかと思った。
副店長の発言に絶句をしている私に、相変わらずの渋い表情を浮かべなが
ら、ポンと肩をたたき、
「頼むよ」
と、一言言って去っていった。奇妙な事は続くものだ。
仕事が終わると、五時なのにもう真っ暗で、冬も本当に深まったものだと
実感させられた。風も痛い。早く帰ろう。
そんな折に、携帯電話が鳴った。携帯が鳴るなんて久しくなかったので、
驚いた。私には彼女もいないし、友人も数年前から連絡が途絶えてしまった
からである。こんな孤独の私に誰であろうと思って、ディスプレイを見たら、
母からだった。当然親からも連絡なんか来るはずがないから、何か嫌な予感
がした。まさか、交通事故にでもあったのではないか。そんな不安が過ぎっ
た。思えば、朝から不思議な事が続き過ぎである。この事の前兆だったのか
も知れない。
私は恐る恐る通話のボタンを押して、耳に当てた。
「…何?」
「ああ、雅人?」
「ああ、何?なんかあったの?」
「いや、何にもないけど、ご飯でも食べにいこうと思って、電話かけたんだ
けど」
「ああ、そう」
「まだ仕事中?」
「いや、終わった」
「何かあるの?」
「ないよ。どこにいるの?」
「ん?今、駅前の本屋」
「解った。向かうよ」
「はいよ」
これもまた私を驚かせた。母と一緒にご飯を食べるのは、実に二年ぶりだ。
私は実家にいる。それでも母と一緒に食べる事は全くなかった。それと言う
のも帰りは飲みでいつも遅かったし、休日も万年床で部屋から出ないし、ご
飯も部屋に持ってきてもらって、オンラインゲームをしながら、食事を摂る。
そんな二年だったからだ。それだから、この誘われると言う行為も意表をつ
かれたが、それ以前に私の一日のスケジュールに母親と食事という予定が入
る事に非常に驚いた。一日というものはもっと短いものだと思っていたし、
そんなものは到底入らないと信じていた。それは毎日十二時に帰っていた者
の弊害なのだろう。
本屋まで母を迎えに行って、私達は近くのレストランへ入った。何食べる
?と、母に聞かれて、それは十数年前の声と変わらないトーンで、私は懐旧
の念に浸りながら、十数年前も注文したハンバーグのセットを頼んだ。母も
変わらず、ミートソーススパゲティだった。
「調子はどうなのよ?」
「ん、まあまあ」
私はなんともないように答えた。実際はバイトに降格させられたのだが、
そんな事は言わない。不安にさせるだけだし、最近肺病で倒れたばかりだか
ら、体にも良くないだろう。
「そんなことより…」
と、私は今日起こった出来事を喋った。このいろんな事があった実に面白
い今日を伝えたかった。それは学校から帰ってきた子供が今日あった事を言
うのと似ているかも知れない。母は、へぇ、それで、どうしたの?と楽しげ
に聞いてくれた。実に話しやすかった。
「…一日一日変化があるんだなぁって思ったよ」
と、私は嬉々として言い終えると、
「そうよ。変化してるものよ」
と、母も言った。
「うちだって、色々変化してるんだから。あんた、自分の部屋以外見てない
でしょう?」
「見てない」
「DVDとか、観葉植物とか買ったのよ。知ってる?」
「え?」
「家帰ったら、見てみな。色々変わったから」
「うん」
「私だって、老けてるでしょ?」
「うん」
「こらっ。そういう事言わない」
「はい!」
母に久しぶりに頭をはたかれて、とても楽しい一時を過ごした。母親って
こんなに楽しい人だったんだ。そんな風に思った。
家へ帰って、早速居間と台所を覗いた。二年ぶりに覗いた部屋は他人の家
じゃないかと思える位に変化していた。21型のテレビが新しくなって、D
VDが置かれて、棚もカラーボックスもベッドも全部移動している。ベラン
ダに出ると観葉植物が夜空の星に照らされて、青々と力強く伸びていた。ベ
ランダの手すりも錆付いて折れそうだったのが、手入れされて直っている。
二年前に止まった部屋はまた動き出した。
皆変化している、生きている。
繰り返しの毎日も繰り返しではないのだ。誰かが眼鏡を無くして、誰かが
恋人を作って、誰かが親孝行をしている。この私もバイトに降格された。
時間は止まらない、常に動いている。
夜空の星は冷たい風に吹かれて、キラキラと瞬いている。その宇宙の壮大
さ、積み上げられてきたもの、この文明、この時代、この会社、この私。
私はふと涙がこみ上げてきた。
物凄く大勢の人達の時を止めてきた事に後悔した。母親も彼女も友人も寂
しかった。いや、会社も吉村さんも渡辺さんも。それでも、私に与え続けて
くれた。なんと、優しいのだろう。なんと、温かいのだろう。
私は涙を拭きながら、携帯を手に取った。
−再び、時を動かさなければならない−
それには、何よりも百万語のベタついた愛の賛辞よりも今の僕にはこれが、
相応しい気がした。
「likeじゃなくてloveだよ」
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2004/12/15(Wed)23:07:18 公開 /
石田 壮介
■この作品の著作権は
石田 壮介さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
久方ぶりの投稿です。
最近超ハードスケジュールのため、なかなか小説の方に心血を注げない身ですが、よろしくお願いします。