- 『U.C.A−Unique criminal agent(14)』 作者:昼夜 / ミステリ ミステリ
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全角35118.5文字
容量70237 bytes
原稿用紙約113.25枚
この物語はフィクションです。話の中に出てくる地名、人名、団体等は事実に全く関係有りません。作者のイメージ上です。
所々残酷描写が入りますので苦手な方は今すぐ拝読をお止め下さい。自己責任で御願い致します。
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彼は愛してくれ、と言いました。だから私は殺すのです。
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――file1.愛故に since it loves
「なぁ、お前のこと本当に好きなんだよ」
もう何度聞いた台詞でしょうか。初めのうちは僅かに踊った私の心も今となっては叩かれても揺れ動かぬ鋼鉄になったようでした。椅子に腰掛けた私は立ち竦む貴方を一瞥もせずにテーブルの上の果物かごの中にひっそり佇む果物達をじっと見つめておりました。
そんな私に貴方は囁き続けます。言葉を覚えた大きなインコ。そう、貴方のその禽(とり)のような愛らしい丸い眼に私は惹かれたので御座いましたね。
「本当に好きなんだ。愛してるんだよ」
貴方、私はどう答えるべきなのかしら。私は貴方の羽をもぎ取ってしまったのね。プライドの高かった貴方を二つ年下の私の脚にすがり付く程にさせてしまったのね。
「どうして俺だけを見てくれない? もう、不安で仕方ない、彼氏という肩書きだけじゃ補えない処迄来てしまったんだ」
「私は貴方を愛していたのに」
「愛してくれ」
そう、その禽のような眼。私が愛したのは貴方でしたでしょうか。それとも貴方の瞳でしょうか。とにかく私は愛しておりました。
「貴方を愛すわ、是まで以上に。私の愛全てをあげる」
私は立ち上がり、決意致しました。
「! 本当だね! 信じる、信じさせてくれ」
ぐちゅる。
「ぎひゃぁぁああぁああぁぁぁっ!?」
私の右人差し指と中指は綺麗に貴方様の左眼球を捕らえております。ずるり、と云う音と共に眼球が零れ落ち視神経を伝った貴方の血液がぽたりぽたりと私の部屋の床に染みを作ってゆきます。
「貴方はそんなに不安でしたのね。其れならば貴方が是以上不安にならぬように貴方の時を止め、私の一番愛して止まなかったこの瞳と眼を合わせ貴方だけを見つめましょう」
「くひぃ、ぐひぃい」
聞いておられるのでしょうか。貴方様の御顔は元の御顔からは想像もつかないくらい酷く歪んでおられます。泪とも鼻汁ともおぼつかぬ液体が顔面中に溢れておるのです。私は果物かごの傍に横たわる果物ナイフを手に取り、視神経を切断致しました。そしてぬめぬめと赤く光る眼球をテーブルに乗せ、貴方様の方へと向き直りました。
「楽にしてさしあげましょう」
ずぶ。
私は果物ナイフを貴方様の御胸へと深く、深く突き刺しました。ナイフをひねり抜くことで、出血を増やします。
「うっぐ……」
貴方様は血液が留まることなく溢れ出す箇所を一瞥し、手をあてがい膝から床へと倒れこみました。私は顔元へ座り込み御顔に触れました。
「す……ずね…………すず、ね……」
「愛しています、勇哉さん」
貴方様はふっと穏やかな御顔をなさると、右目からも左の空洞からも泪を流しておりました。
「あ、い……し……」
私は頭をそっと床に置き、額を二回撫でました。
ぐちゅ、ぐちゅる。
右目も手早く取り出します。私はナイフを手から離し立ち上がりました。そしてテーブルの上にころんと転がる左眼球を左手に取り二つを並べて眺めました。
右目は瞳孔が少し開いているようです。けれども生きているかのようにその二つの瞳は私をきょろりと見つめておりました。
床の赤黒い染みも服に付いた血痕もちっとも気にならなかったのです。
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……あるのは恍惚とした達成感だけで御座いました」
「達成感?」
淡々と、しかし克明に語られる犯行現場を聞いて、顔色一つ変えずにスーツの襟元を正すと男は問いかけた。左胸の黒いネームプレートには金色で『U.C.A 笹杖一登(ささづえ かずと)』とある。
「……もう一人の方のように一度外の空気を吸われては?」
今迄取調べ室の椅子に横向きに座り窓の外を眺めて話していた女が笹杖に向き直り言葉を放った。
「いや、構わない」
空気を吸う、といって部屋を出た助手は大方嘔吐していることだろう、そう思いながら笹杖は今一度目の前にある資料に目を通した。
神森鈴音(かみもり すずね)。一九八〇年六月二〇日生まれ。二三歳。O型。東京都在住。
祖父の神森右京が海外事業で成功を収め、山奥に鈴音とその母、右京の娘に当たる静音の為に豪邸を建てる。その後祖父は他界。莫大な遺産と保険金を神森母子が相続。しかし、程なくして母、静音も他界。その保険金と、以前の相続金合計の約半分を施設や海外事業団体、その他のボランティア団体等に寄付。現在四名の使用人と暮らす。
二枚目の資料には神森邸の写真や神森右京の会社の事業内容について書かれているようだ。
神森邸は豪邸だった。一枚の写真からでもそれが窺(うかが)える。何せ上空からの撮影らしい神森邸は中心に四センチくらい見える建物、ということしか判らず、あとの写真に写りこんだ部分は敷地内の庭であることが記入されていた。舗装された道と小さなコンクリート造りのものが見える。会社については神森右京の有能だと指定した男が現在は指揮を執(と)っているということと、事業内容は主に電化製品などを研究開発するものであり、それによりヒットした商品名などが記載されていた。
でかい屋敷にでかい企業だ、率直に笹杖は思った。
読む限り、よっぽど自信のある、もしくは凶悪である泥棒以外の犯罪には無縁な大金持ちのお嬢様に思える。笹杖は資料から鈴音へと視線を移した。
容姿をとっても、横顔もそうだったが、正面の顔も尚上品で美しい。鈴音は清潔感に満ちた白い肌を持つ、どこからどう見てもご令嬢と呼ばれるに相応しい女性だった。
鈴音は真っ直ぐで艶のある髪を胸のあたりまで伸ばし、右から左へと流した前髪がたまに左目にかかる度、その細くしなやかな指で耳へかける動作を繰り返していた。
そんな虫一匹殺すことも出来ないようなご令嬢が今、こんな無機質な取調べ室という狭い箱の中で硬い椅子に腰掛け、虫どころか人間を殺した罪を問われている。なんと皮肉な話だろうか、笹杖は苦笑した。
しかし、目玉を抉るとは尋常じゃない。だからこそ『U.C.A(Unique criminal agent)』=『特異犯罪取扱人』の笹杖が此処にいるのだが。
U.C.Aは言うなれば警察には手に負えない事件を扱う仕事だ。早い話が不要物処理班をちょっと一見見栄えと聞こえをよくして設立されたわけだ。だが、設立当初こそ処理班扱いだったものの、時が経つにつれて警察よりも優秀な人材が頭角を現して来たことにより、今では警察官よりも扱いが上となり、U.C.Aになることも困難とされている職なのである。
この肩書きを名乗って5年になるが、事件内容、容貌ともにこんなに『特異』なのは全く珍しい。
だが、ただの猟奇殺人でただの取調べの場であるなら、笹杖がこの事件に関わる術はないのである。
「愛する者に囲まれる達成感、で御座います」
笹杖が言葉を発しないからか、鈴音が口を開いた。
「……死体は何処へやった?」
何の前触れもなく本題を突いてみた。『ご令嬢』の顔に少しでも動揺が浮かぶことを想定して。
しかし、鈴音は顔の筋肉一つ動かさずにただ前髪を耳にかけた。
「何処でしょうか、ね」
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――file2.キャスト、溜め息、煙草の煙 cast and smoke of a sigh cigarette
「全く参ったよ」
笹杖は自販機の向かいにある長椅子に座ってセブンスターのあの独特な香りを肺に充満させ、煙を溜め息と共に吐き出した。
「本当、参った……俺吐くかと思ったもん」
「お前は途中で吐いて来ただろ。 そんなんじゃ成長しないぞ」
笹杖の左に立ち、壁にもたれながら缶コーヒーを口にする背の高い少年はどうやら”空気を吸う、といって部屋を出た助手”らしい。まだ僅かに顔色が優れない。
「いや、我慢し続けてあの場所で吐くのは流石にマズイでしょ……でもあんなにリアルに言われると、こう、頭の中で映像がぱーっと出てきちゃってさぁ…………うっ、思い出すと駄目」
まだ青年と呼ぶには早熟な印象を受けるこの少年、名は出川光(いでかわ みつる)、一八歳。ある事件で笹杖に出逢い、それ以来笹杖と共に行動している。黙っていれば知的にも見える顔立ちをしており、一応U.C.A見習いであるが、スーツ姿にも拘わらず明るい髪を軽く立てさせているところなんかに若さと幼さが見える。胸のネームプレートには白地で名前が書かれている。笹杖が金で書かれているのを見ると、どうやら階級で色が違うようだ。
「で、一登さん。 死体の在り処判った?」
缶をくわえたまま警察署内の自動販売機にもたれた光はふと真顔になり、右側の通路からななめ前のソファーに座る笹杖に視線を移し尋ねた。笹杖はスーツの襟元を正しながら煙草を一息ついた。
「皆無だな」
「そりゃそうか、聞いて答える位なら俺たち必要ないもんね」
空き缶を捨てに行こうと動いた光の動きが止まる。右後方、つまり通路に人の気配。
「イデミツは元から必要ないけどなぁ」
皮肉たっぷりに現れた男は眼鏡をかけ、いかにも頭の良さそうな男前である。
それにしても、笹杖も光も身長が一八〇以上あり、この男もなかなかの長身である。そんな三人が集まると結構な迫力があるものだ。
光は男を睨んだ。
「イデミツって云うな。 タケフジ」
タケフジ、と呼ばれる男の名前は武村藤吾(たけむら とうご)、二八歳。二人の略称が何処かで聞き覚えのあることはさて置いて、武村は笹杖の幼馴染で同級生であった。高校卒業後、笹杖はU.C.Aになる為特別養成施設へ行ったが、武村は合格率の低い大学へすんなり入学し、大学卒業後、国家公務員T種試験に合格して警察庁に採用されたいわゆるキャリア組警察官で、そして現在この若さにして警視の役職を担っているのである。
U.C.Aに協力する意向で設立された捜査三課に属す彼は笹杖含め多くの特異犯罪取扱人の力となっている。ただ光に対しては大人げない態度で接することが多々あるが。
「タケフジって云うな。 イデミツ。 お前は毎度毎度、事件内容判ってんのか?」
光より少し身長のある武村は光の前に立ちはだかり「おアソビじゃないんだよ」と言わんばかりの余裕の笑みを浮かべ言った。
「わかってますうー。 今回の事件はメイドさんの一人がすっげぇ血の海で倒れてるご令嬢を発見して、ご令嬢の血だと思って慌てて運んだ病院で血はご令嬢のものじゃないってんでそのまま警察に直行して事情聴取したら目玉抉ったって言ったんだろ。 そっから警察の動きが進展しないモンで俺たちにわざわざ脚をお運び願った、っておハナシでしょ? タケフジくん」
「そんなことしに来たんじゃないだろ、光。 武村、ガイシャの資料は?」
此処の管轄に来ると毎度のことらしく、笹杖は呆れ気味で軽く光を制止し、長椅子から立ち上がって呑みかけの煙草を吸殻入れにそっと置くと武村の前へと移動した。
「この前の事件から久々に会ったってのに冷たいな、まぁお前らしいけどさ」
そう言いながら武村は手に抱えていたファイルを左手でがさがさと探る。
「冷たいか? ……久しぶり、タケフジ」
わざとらしく右手をあげる笹杖。武村は笑みを浮かべながら片眉を上げてちらっと笹杖を見た。依然左手はファイルを探っていたが。
「その片眉上げる癖、変わってないな」
「はは、お前だけにいつもそう言われるよ……お、あった」
そう言って武村はファイルの中から一枚の資料を笹杖に手渡した。
「被害者とされる男の資料。 確かに神森が殺害したと自供する十一月十五日から今日まで、被害者の住んでいるマンションの住人も管理人も被害者の姿を見ていない。 会社には十三日頃から出勤していない」
「やっぱあの女の人が殺したのかなぁ……あんなに細かく話せるワケだし……」
少し思い出したかのように光の顔がひきつった。
「さあな……だが、事実病院に運ばれた時に神森に付着していた血液の結果はA型、ガイシャの血液型だ。 勾留中に家宅捜査したが豪い豪邸ってこと以外何もハッキリしない」
武村の瞳が眼鏡の奥で曇った。
「とにかく死体も、その抉ったっていう目玉も見つかってないんじゃあ逮捕までこぎつけられないしな。 半落ちだよ」
武村は右手での人差し指で眼鏡を上げると溜め息をついて言った。
「今日は勾留十日目だし犯行状況以外何も話そうとしない。 神森は帰す。 明日お前達が神森邸に行く手筈だろう」
武村と光が話している間、笹杖は黙々と資料に目を通していた。
緒方勇哉(おがた ゆうや)。一九七八年五月十三日生まれ。二五歳。A型。東京都在住。
本名、岸田勇哉。出身地、千葉県。父母を五歳のとき事故で亡くし、施設で幼少期を過ごす。その後緒方家の養子となる。高校卒業と同時にひとり千葉を離れ、東京の劇団に所属、二十歳のとき劇団を辞め、ビジネス会社に就職した。
「さっきも思ったが荒い資料だな……」
一息ついて笹杖は光に資料を手渡し、武村を見た。
「まあそう言うなよ。 浅い奴が重要そうなところだけを書き記したんだろ」
「劇団って、どんな類の?」
「俳優志望だったらしい」
「二十歳で辞めてるな」
笹杖は足元を見つめ、腕を組む。
「諦めたんだろ、珍しいことじゃない」
武村の目を見据え、笹杖は言った。
「諦めたくなる何かがあったのか、ってことだ」
今まで僅かに浮かべていた口元の笑みが武村から一瞬消えた。
「成る程、な。 一応調査中の交友関係とともにその辺のこと探ってくるよ」
「ああ、任せた」
「なあ、あともうひとつ」
資料を読み終えた光は、笹杖の右隣から身を乗り出すと、資料を武村に手渡しながら言った。
「なんだ、イデミツ」
「この緒方って男とあのお嬢様の出会い、それに付き合い始めについても調べてくれよな」
武村は間を置いてにっと笑った。
「お前に言われなくても判ってるよ」
「そーですか、そーですか。 流石、タ・ケ・フ・ジかちょーほさ!!」
ひきつる笑顔の光に対し、満面の笑みの武村。そこで無表情の笹杖が割って入る。
「ところで、一つ気になったんだが」
「何だ」
「神森鈴音の父親についての資料はないのか」
「それ、な」
胸元から高そうな万年筆を取り出し、手に持ったさっきの資料に“神森政幸(かみもり まさゆき)”と書いて笹杖に手渡した。
「行方不明だ」
資料はやる、と言って捜査三課に戻った武村と別れを交わし、光は此処まで乗ってきた車へと先に戻り、笹杖は武村が来る前まで座っていた場所へ再び座り直した。そしてフィルターまでもう1センチもあるかないかという煙草を手に取り、大きく一呑みした。
「全くおかしな世界だ」
紫煙が呟きをかき消すように天井へ昇って消えた。
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――file2 5.日記、自信 confidence of a diary
11/25
今日やっとここに戻ることが出来ました。
私は一体どうしたいのでしょうか。自分でも判らない。
だけど、離れてみて判ったことも。
明日は調査の方がいらっしゃるようです。
けれど、何も進展する筈はありません。
貴方様は愚か、勇哉さんすら見つけられることはないでしょう。
◆
鈴音は日記帳と思われる本にそれだけ書き記すと、その表紙にも背表紙にも何も書かれていない白い本を閉じて木製の大造りな机と椅子から離れた。
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――file3.疑心 it is doubtful.
広大な敷地を持ち、その敷地を堂々と囲み、地面を見下ろす塀と森の匂いに囲まれた巨大な洋館。それが神森邸であった。
まず映画にでも出てきそうな大きい柵の門構えをくぐると、そこには草木が広がり花々が咲き誇る異国の地をも思わせる庭園があり、その庭園の中央には軽やかな水音と白銀のオブジェに見るものの心もあらわれるような噴水、おそらくこの噴水が写真に写っていた小さなコンクリート造りのものだろう。しかし、実物は当然ながら小さくはない。むしろ普通のアパートの一室の二、三部屋分くらいはありそうな大きさだ。そしてその噴水を囲むように綺麗に舗装された道路を車で少し走るとやっと正面玄関が見えてくる、と言った具合に、とにかく神森邸は写真で見た時の数十倍の威厳を放つ大豪邸だった。
実際、昼過ぎに此処を訪れた笹杖と光の二人も日本ではお目にかかれないであろう広さと豪華さに一瞬思考が止まってしまった。
この大豪邸と並んでも引けをとらないクワトロポルテの軽快なエンジン音が正面玄関前で心地よく響く。
「……すっげーなぁ……」
車から降りることを忘れた光が右助手席で無意識に呟いた。
「中も相当なものだろうな……光、はしゃいで壊すなよ」
笹杖は巧みに左ハンドルを操り、自分側に正面玄関が来るような形で車を止めた。ブレーキが唸る。横に広がる二階建ての屋敷は静かに来訪者を見下ろした。
「ココではしゃげる奴がいたら会ってみたいって」
「ほら、降りるぞ」
そう言いながら笹杖はキーを抜き、助手席のダッシュボードの上に常時置いてあるソフトフェルトハットを少し目深に被った。ドアを閉めた反動で茶色のコートが翻る。振り返ると、青い上品なフリルがついた服とシルクスカートを綺麗に着こなした鈴音が微笑みを浮かべ、頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました」
「どうも」
笹杖は軽くハットを取り会釈した。車から降りた光はドアを閉め、駆け足で笹杖の隣へ立ち“こんちわ”と頭を下げた。
鈴音は頭を上げ、笹杖と光に目をやった。
「お待ちしておりました」
そしてふと視線を車へと移す。
「素敵な車で御座いますね……クワトロポルテ、これは九七年のものでしょうか」
鈴音は光の横を通り過ぎると笹杖の車に近づき恍惚とした顔つきで言った。
「御詳しい……なかなか手のかかる“女”です。 車に興味がおありで?」
笹杖は無表情とも笑顔ともとれる表情で鈴音を見た。
「ええ、父が大の車好きでしたもので……、さぁ中にお入りください」
『父』と発した鈴音の面持ちに今までとは違う何かを感じた。しかし、其れを覆い隠すかのように彼女は素早く踵を返し、正面玄関へと脚を運んだ。
一九〇近い背を持つ笹杖が三人分はありそうな両扉式の片扉は鈴音が出てきた時に開いたままになっていて、奥には女性使用人三人と執事らしき中年男性が一人、皆一様に深々と頭を下げているのが見える。鈴音はヒールの踵をコツコツ、と鳴らし笹杖と光を振り返ると手で“どうぞ”と合図した。
二人が中へ入ると女性使用人の一人が扉の開閉器に近づき、手際よくコードを押した。重い音が徐に響き扉が閉まる。
豪華な装飾や電飾が光彩を放ち、高価だと一目で判る代物が所狭しと並べられている中、何故か感じる不安感を拭い去るように笹杖は周囲を一瞥し、ネクタイを少し緩めた。
「うちで働いてくださっている方々です」
神森がそう言うと、三人の女性使用人は神森の左側に横並びになり、男性は彼女達の横で深く頭を下げた。笹杖と光も会釈をする。そこで一番神森に近いショートヘアーで気弱そうな女性が一歩前に出て一礼した。
「それでは、まず私から……此処に勤めて十ヶ月になります、河口と申します」
次に髪をポニーテールにしている背の高い女性が同じ動作をした。
「此処に勤めて一年になります、佐伯と申します」
最後の小柄な女性も同じ動作で口を開いた。
「此処に勤めて半年です、湯川と申します」
そこで笹杖が軽く頷いた。
「ああ、貴女が病院に電話した方ですね」
「え、ええ。 凄い血だったもので……」
湯川は周りの顔色を少し伺うような仕草をした後、ばつの悪そうな顔をした。まあ、善意とは云え、自分の行為でこんな訳の判らない状態になってしまったのだからその本人を前にして極まりが悪くなる気持ちも納得出来る。鈴音本人は相も変わらず微笑みを浮かべていたが。
「最後に私、執事の上田と申します。 こちらで御仕えさせて頂いて五年程になりますかね」
上田が穏やかな笑みで話す。どうも人の良さそうな男である。笹杖は間を置いてきょろきょろしている光を引っ張った。
「U.C.A、笹杖と申します。 こっちは見習いの出川です」
「どうも……コートお持ち致しましょうか」
上田がまた深々と頭を下げた。光はグレーのコートをいそいそと脱ぎ、「どうも」と上田に手渡した。そしてコートは上田の手から、佐伯が別の部屋から持ってきた何とも高そうな洋服かけへと移動した。上田は笹杖に向き直り“あなたも”と云った表情で見た。笹杖は右手を体の前へ軽く出す。
「私はこのままで構いません、早速神森さんが倒れていた部屋に案内して頂けませんか」
「かしこまりました……こちらで御座います」
そういうと身を翻し後方にある大階段へと歩いていった。上田の接し方一つ一つには丁寧さと風格が感じられる。
しかし、自分の仕える人が殺人容疑、むしろ殺人を自供しているにも関わらずこの落ち着き放った態度は何なのだろうか。執事という肩書きがあるからとは云え、多少他のメイド達のように不安げな表情をしてもいい筈だ。
笹杖はそんな思いを隠すかのように帽子を目深にした。眉を顰(ひそ)め、透明感のある黒い瞳で周囲を黙視しながら上田と鈴音の後に続く。ふと眼をやった階段の左側にエレベーターらしきものがある。
「あれは、エレベーターですか」
思わず笹杖は上田を呼び止めて聞いた。
「はい、御察しの通りで御座います……ただ、壊れておりましてね。 修理中なのですよ」
「そうですか」
笹杖はそう言った上田の顔を見てふと気付いた。上田の瞳がはじめから笑っていないことに。
当主が殺人犯かもしれないとかそういった不安の類ではない、上田は何か隠している。笹杖はそう考えながら再びエレベーターを見やった。
「一登さん、早く」
その声で光の方へと視線を渡し、階段を上り始めた。
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――file4.冷たい空気 cold air
「この部屋がお嬢様が倒れておられたお部屋に御座います」
上田は両扉を静かに開いた。ダンスホールのような広い部屋が目の前に広がる。小さな宝石や細工を施されたシャンデリアが煌々しく一つあり、豪華なカーテンがついた大きな窓は森が見えているのではなく森の中にいるような気にさせた。そして中央にはガラス製のテーブルの上に乗った果物かご。
その部屋の全てはおびただしい数の血痕に汚され、血の赤黒さとに染まっていた。
窓から差し込む光がテーブルの下に広がる乾いた血溜まりを生々しく照らす。林檎が一つテーブルの下でひっそりと佇み、ここで起こったことを黙って隠すかのように血を同化させていた。
「光、早く来い」
笹杖は部屋の入り口で未だ脚を踏み入れないでいる光にコートのポケットから出した白手袋を装着しながら言った。
「はっ、はい……ああっ、手袋コートの中だあっ」
光は我に返ると「取って来ます!」と大声を出しながらコートの元へと走った。鈴音や使用人たちに小さな笑いが起こった。
「出川さんて面白い方」
鈴音が口元に手を添えて笑う。
「ただの馬鹿ですよ……」
笹杖の口からは重い溜め息が漏れた。
「それで一登さんは脱がないって言ったんだなあ」
ぶつぶつ呟きながら階段を駆け下りる。笹杖がコートを脱がなかった理由はそんなことではないと思うが。
「つうか、ココ豪華ですげぇんだけど、何か寒いし」
そう言うと光はぶるっと身震いした。だから笹杖が脱がなかったのだとどうして繋げられないのか光の思考力はさて置き、確かにここは肌寒かった。
「オレのグレイくーん」
光には何にでもあだ名をつける癖がある。それこそコートはグレーだから“グレイくん”、手袋は白いから“白手”だとかとにかく安直なものばかり。あまつさえ笹杖のコートは茶々、車もクワちゃんとか呼ばれる始末。もう笹杖も呆れてしまってほったらかしなのであだ名付けは止まることを知らない。
「あった、あった」
嬉しそうな笑顔で“白手”を握ると装着しながら階段へ向かう。が、上ろうとした時、光は左を見て立ち止まった。
目線の先はエレベーター。
光は階段から離れ、エレベーターの前へと移動した。
「……寒っ! こっから冷たい空気が漏れてんのかぁ?」
「修理中」確か執事はそう言った。だから上昇のボタンを押しても何も起こらないことは解っている。
「…………」
光は押したい欲求にかられた。別段悪いことをしようって訳でもないのに辺りを確認する。右手の一指し指がゆっくりと上昇ボタンに近づいた。
「光、何してる! 次の部屋へ行くぞ!」
「うわっ! は、はいっ!!」
光の体が跳ねた。笹杖の声が右手を引っ込ませ、光はそのまま声の聞こえた広間へと階段を駆け上がった。
「手袋取りに行くだけで時間かかり過ぎだ」
怒っているというよりは注意と云った感じで笹杖は言う。使用人達も皆広間の前に集まっていた。
「ごめん、でもエレベーターから寒い空気が出てて気になっちゃってさ」
悪びれた様子もなくあはは、と光は笑った。
「ああ、冷凍庫の空気でしょう。丁度あの裏手が冷凍庫になっておりまして」
上田が穏やかに口を開いた。
「なるほどね」
「広間には警察が先に捜査してることもあってあんまり手がかりはなかった、ここからは私が一階、光は二階に分かれて調べることにする」
笹杖がそう言うと光が小走りで駆け寄り耳元で囁いた。
「犯人目の前にして調査って何か変な感じだね」
「……ああ、ほんとにな」
笹杖は言葉を交わすと階段へと歩いた。そして振り返り鈴音を見た。
「神森さんは私と一緒に来て頂けますか」
「……ええ」
必然的に執事の上田と使用人の河口、佐伯、湯川は光と行動をともにすることになる。鈴音は笹杖の元へ行く前に微かに上田と顔を合わせた。
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――file5.女と微笑み a woman and a smile
笹杖と光が二手に分かれて早二時間が経った。四部屋程しか見回っていない筈なのにこの時間のかかり様、いかにこの屋敷と一部屋一部屋が広いのかを現している。どれもこれも広い豪華な部屋ばかりでいささか調べる気も萎えそうであったがそこはプロ。根気強く、時には鈴音と会話を交えたりしながら着々と調査はすすんだ。
特におかしなところはない、これが今までの率直な感想。
今笹杖と鈴音のいる此処は食事場所として使われている部屋である。中央にどっしりと構えるダイニングテーブルと椅子、窓から見える景色もさることながら、部屋の所々に飾られた絵は有名画家のものや鈴音が趣味で描いた絵で鮮やかに彩られていた。絵画を美術館鑑賞するのが密かな趣味である笹杖に感嘆をつかせる作もあるようで、鈴音の絵の才能はなかなかのものであった。
笹杖はテーブルを丹念に眺め、しゃがみこんで裏まで調べているようだった。そして鈴音の方に首を向け、口を開いた。
「それでは次の部屋に移るとしましょう」
「わかりました、隣の部屋は厨房になっております。 ご覧になられますか?」
煌びやかな装飾に包まれた大きなダイニングテーブルから笹杖の体が離れた。鈴音は一つ微笑むとくるりと背を向けた。
「その前に」
笹杖が鈴音を振り向かせる。
「はい」
「このテーブルと椅子は前にアンティーク雑誌で拝見したことがあるんですが……確か、椅子は十二脚ですよね」
笹杖が目をやったテーブルには年季の入った十一脚の椅子が等間隔で背筋を伸ばし、行儀よく並んでいる。鈴音は椅子に目をやることもなく、只、笹杖を見据えて言った。
「確かに、仰るとおり十二脚御座いました。 でも、一脚どうしても欲しいと云う方がいらっしゃって……この人数なもので1脚くらいお譲りしても支障はないでしょうし、お譲りしたんです」
顔も手も体も何一つ動かさない。どこかから僅かに入る隙間風でスカートと真っ直ぐな髪がゆらゆらと揺れるばかり。
「この人数になってから譲ったんですね、つまり、貴女の母親と父親がいなくなってから」
彼の表情もまた、いつもの思考の読み取れないそれであった。
「……ええ、そうなりますわ」
返答に微かな間はあったものの、その他に彼女に変化はなかった。
「そうですか……行きましょう」
笹杖はつい、と鈴音の横を通り過ぎた。
「……わかりました」
鈴音は目を軽く伏せ、ダイニングルームの入り口へと足を運ばせた。
「なるほど、此処の奥にある冷凍庫がエレベーターの裏になってる訳ですか」
厨房は綺麗で、豪華さは多少他の場所に比べれば劣るものの、器材などはやはり著名人のお手製であったり、お宝の巣窟であることに変わりはなかった。
ただ、他の部屋の数十倍寒いこと意外は。
「フーッ……これは……結構寒い、ですね」
この時ばかりは無表情だった笹杖の顔が寒さに歪んだ。息を吸ったり吐いたりする度に白いモヤが広がっては消えてゆく。よくよく見れば、厨房の奥へ進めば進む程、霜がうすく器材や壁に付着しているようだ。
「こちらにいつもこの防寒具を置いております、どうぞ……」
そう言って厨房のドアの横にあるクローゼットから、ゴワゴワした防寒着を二着取り出し、一着を笹杖に渡した。そして引き出しの中から分厚い手袋、マフラーも手際よく取り出す。
「何故こんなに冷凍庫の温度が低いんですか?」
一旦厨房のドアを閉め、防寒着に袖を通しながら尋ねる。それでもドアの隙間からは小さなモーター音と共に、ひんやりした空気が首筋を撫でる。そこで笹杖は出来るだけ襟を立て、首元の露出を減らした上でマフラーを巻いた。
「此処、凄く山奥でしょう。 冬には一度雪が積もってしまえば町まで出ることもなかなか出来ませんもので、食料を今くらいの時期から保管しております」
家の中でゴワゴワの防寒着を着るご令嬢、という図に笹杖は違和感を覚えたが、ご令嬢自身は慣れたもの、と云ったふうに微笑みを絶やすことなく防寒着から防寒具の着用へと移っていた。
笹杖は軽く頷き、一体自分は今から何処の雪山に行こうとしているのだ、とそんなことを思いながら再び極寒へ続く扉を開いた。
防寒着は結構な費用が掛かっているらしく、全くと言っていい程寒さを体に与えなかった。笹杖は唯一外気に触れている顔を少しでも隠そうと、マフラーを鼻の下辺りまで下げている。
「料理はなさるんですか?」
目線は自分の調べている場所のままに笹杖は言った。
「お恥ずかしいことですけれど、一度も作ったことがなくて……やっぱりそれくらい出来ないと駄目で御座いますかしら」
まあ、鈴音の場合は作ってくれる人が常に傍にいるのだから仕方がないと云えば仕方がない。鈴音は少し恥ずかしそうな面持ちで手袋をした両手をすり合わせていた。
「恥じる必要はありませんよ、私にも二十五にもなって料理どころか洗濯も“出来ない”女に心当たりがありますから……彼女にはむしろ神森さんの上品さを大いに見習って頂きたいですよ」
皮肉もジョークも感じさせない淡々とした言い方で笹杖は言う。
「ふふ、笹杖様はお優しいのですね」
鈴音は俯いた。微笑みではない笑顔を隠すかのように。笹杖は次々と調査をする傍ら、鈴音の様子もしっかりと目視していた。
「そして聡明な方」
鈴音の顔はまだ上がらない。ふと笹杖の調査の手が止まった。鈴音から1メートル程離れた場所で笹杖は鈴音を見た。
「まるで…………」
その言葉の先を紡がない。
「……まるで?」
思わず口にした笹杖の声に鈴音ははっと顔を上げた。微笑みも浮かべない神森鈴音、23歳の女の顔だった。
「何でも、ありません」
その言葉を発した鈴音はもう、いつもの薄っすらとした微笑みを浮かべるご令嬢だった。
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――file6.冷たい温もり cold warmth
三〇分程厨房の中を右往左往と調べまわっていた笹杖であったが、両脇にコンロが三台ずつ、流しが一つずつ、入り口入ってすぐ右側に大きな冷蔵庫がある。一通り見回って豪華な台所、という以外収穫がなかったらしい。
「冷凍庫も見せて頂けませんか」
「構いませんけれど……中は此処とは比べ物にならないくらいの寒さで御座います」
安易に想像はついた。この厨房の奥に進むだけで真冬が五十回来たような寒さなのだから。しかし、だからこそ笹杖は冷凍庫の中を見たかった。
それ程寒ければ警察の調査も手ぬるくなるに違いない。見落とした何かがあるような気がしてならないのだ。
「結構です。 よろしいですか?」
「はい」
鈴音が冷凍庫のドアに近づきノブを回した。ゴウ、と隙間から冷気が溢れ、その分厚いドアを開けるごとに足元に充満してゆく。
冷えに冷えた空気は足元から頭の先まで、入る隙はないものか、と言わんばかりにまとわりついた。
「どうぞ」
鈴音はそう言って重そうなドアを支え、笹杖を見た。
「この扉は閉まってしまうと内側から開かないようになっております。 いつも冷凍庫を使う時には一人が外側でもしもの為に待機し、一人が中に入る手筈で御座います」
いつも使っているとみえる置石をドアの前に置きながら鈴音は言う。笹杖は鈴音の横を通り過ぎ、中へと入った。
「それじゃあ、お願いします」
背を向ける笹杖に鈴音が呟いた。
「……私が此処に貴方を閉じ込めるかもしれません」
「間違いなく死んでしまいますねえ」
「……出川様も殺すかもしれません」
「彼は強いですよ。 馬鹿なので罠にはすぐ引っかかってしまいますけど」
「…………」
笹杖は淡々と鈴音の言葉に答えた後、くるりと振り返った。鈴音の顔はどこか哀しげであった。
「貴女は私を殺さない。 勿論、光も」
そう言い放つ笹杖に鈴音から微笑みが消えた。
「何故、言い切れます」
「我々は遊びに来た訳ではない。 此処に行くよう指示があって来た。 そこで私や光から連絡が途絶えたらどうなります。 少なくとも私の知っている警察や、うちの幹部達の中に貴女を疑わない程、能力のない人は一人としていませんよ」
鈴音は視線を足元に移した
「それでも、殺すかもしれません」
笹杖はそれを聞いて少し笑う。
「はは、そうですね。 捕まっても構わないと言うのならしかねませんね」
「……何故」
鈴音は困惑した表情を笹杖に向けた。笹杖はもと調べていた場所にくるりと視線を戻した。
「言ったでしょう、貴女は私と光を殺さない、と」
「…………何故」
「そんな気がするだけです」
「変わった方」
鈴音は口元にだけ笑みを浮かべた。
「よく言われます」
モーター音が耳を支配する。
笹杖はぐるりと周囲を一瞥した。
――厨房から一直線に進むとこの巨大な冷凍庫がある、そしてその冷凍庫に入ると奥の左手にはエレベーターの体積で突き出した壁。すなわちこの上には二階の廊下なり部屋なりが広がっている訳だ。
頭の中で屋敷一階の構造図を形成させてゆく。後で光の話と合わせて全体の構造図を完成させるのが最近の彼等のやり方になっている。
こんな広い場所の捜査は初めてで光が二階の構造を把握出来ているか心配だったが、とりあえずは訓練の為にもいいか、などと考えていた。
先ずは此処の調査をしっかり早くしなければ顔が凍ってしまいそうな気がして、笹杖は考えるのを後にした。
冷凍庫の中には食料保管と言うだけあって、大量の食料が所狭しと種類に分けてぎっちり詰め込まれてあった。そんなに大食いに見えない、むしろ小食に見える鈴音とこの人数にしては多過ぎるんじゃないか、と笹杖は疑問に思ったが、豪華な食事図を想像して、まあ、雪融けの後にも使うこともあるか、と納得してみた。何しろ、金持ちの思考なんてとても理解出来ないのだから仕方がない。
冷凍庫の中に入って三〇分が過ぎた。笹杖の帽子と髪は軽く固まっているようだ。自分の呼吸が大きくなり、もう限界であると感じた。
「そろそろ、出るか……」
一番奥に来た笹杖は呟くと、腰を上げ、鈴音のいる厨房へと向かった。
何気なく前に進むと、笹杖は停止した。
――モーター音が二つ聞こえる?
微かにだが、この冷凍庫を冷やすモーター音に紛れるかのようにごくごく微かな音でもう一つのモーター音が響いていた。
笹杖は目を閉じ、その音が一番聞こえる方へ聴覚を頼りに動いた。
――後ろ……いや、前だ。右……まだ遠いか…………。
「ここか」
自分に話すように呟き、目を開いた。目の前には突き出した壁があった。
『ただ、壊れておりましてね。 修理中なのですよ』
執事の声が頭の中で再度繰り返される。
「稼動している……?」
突き出した壁の付近を見ると、他の場所よりも霜付きが少ない。分厚い手袋と共に、白手袋も外ずし素手になると、一気に両手の動きが鈍くなってゆく。その右手を自分の右にある壁に、左手を突き出した目の前の壁にそっと添えた。
温かい。
右手の触れている氷のように冷たい壁より微かに感じるくらいだが、確かにほんわりとした温もりがそこにあった。
「笹杖様、出川様が降りて来たようですわ」
笹杖は白い手袋だけをつけ、声のする方へ向き直った。
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――file7.宣戦布告 declaration of war
「光、終わったか」
厨房の入り口前で防寒着を脱ぎながら、そこから見えるダイニングの椅子に腰掛ける光に笹杖は言う。光は既にコートを羽織っていた。
「ん、馬鹿でかくてびっくりしちゃったよ」
「馬鹿はお前だ。 座ってないで車を開けてきてくれ」
淡々とした口調で話す間に、防寒着を脱ぎ終え、ハットにこびり付いた霜を払い落とす。光は肩をすくめて椅子から腰を上げた。笹杖は防寒具や防寒着を片す鈴音を見た。
「ああ、そうです。 エレベーターは修理中だと伺いましたが、どこの業者が修理をなさっているんでしょう」
「え……松宮電気さんに御願いしております」
予想外な質問だと云わんばかりの顔をする鈴音に構わず、笹杖は続ける。
「証明書、お借りしてよろしいですか?」
「上田、お渡しして」
目線は笹杖のままに、鈴音は上田に手を広げることで命じた。
「わかりました、少々お時間を……」
深々と頭を下げ、上田は部屋を出た。
ダイニングにはロココ調の暖炉がある。光と上田を除いた5人はそれの前へ集まった。暖炉は、どんなにふくよかなサンタクロースでも詰まるまい、と大きく誇らしげに大口を開いていた。事前に使用人が火を焚いていたようで、煌々と熱気を放っている。鈴音はそれに一番近い席を笹杖に薦めた。
「お冷えになったでしょう、どうぞ、御体を暖めて下さい」
「お気遣いなく……火には当たらせてもらうとします」
そう言うと、笹杖は白手袋を外しながら暖炉の真ん前へと移動した。よっぽど寒かったようだ。
「座られてはいかがです? もうすぐお茶も入りますわ」
気付けば湯川の姿がない。お茶を入れに行ったのであろう。笹杖は右手を振った。
「いや、頂くわけにはいきません。 お気持ちだけで」
握っていた白手袋を胸ポケットにつめると、彼は両手をゆらゆらと揺れる炎に両手をかざした。
河口はその言葉を受けるようにして部屋を出た。湯川の元へ入れなくても良い旨を伝えに行ったのだろう。
数分して河口が笹杖のコート(愛称:茶々)を手に、湯川と戻って来た。
それから更に数分、上田が姿を現した。
「お待たせ致しました、こちらが証明書に御座います」
上田の両手から、白手袋を着けた笹杖がそれを受け取った。
軽く目を通す。確かに、右下の会社名が“松宮電気(株)”とあり、その上には“エレベータ修理”とバランスの悪い文字で書かれている。日付は十一月十四日から、となっていた。
「……どうも。 手も温まりましたので、そろそろ失礼します」
笹杖は、胸ポケットにそれを二つ折りにして仕舞うと、河口からコートを受け取った。
「わかりました、出川様がお待ちになっていらっしゃいますね」
鈴音はダイニングを出ようと、笹杖の横を通り過ぎようとした。その時、鈴音の足が止まり、彼女は笹杖を見上げた。
「是非、またいらして下さい」
自分は捕まらない、そう言われているようだ。
「……そうですね、今度逢う時には謎解きにでもやって来ます」
自分より数十センチ低い鈴音の目を見つめ、笹杖は冗談めかした言い方をした。ただ、その瞳の奥は、それが決して冗談ではないことを物語っている。
鈴音は上目遣いに「お待ちしております」と返した。
「遅いってー」
運転席に乗り込む笹杖に、ちゃっかりと助手席に収まった光がげんなりと言った。笹杖は自分のコートを頼りにならない助手に渡し、エンジンをかけると、運転席側の窓を開ける。
「それでは」
頭を深く下げた使用人を後ろに従える鈴音に、二人は会釈した。少し霜で濡れたフェルトハットは、その様子を眺めるように所定の位置にちょこんとその身を預けていた。
「さようなら」
鈴音は微笑んだ。
クワトロポルテは来た時と同じように、軽快なエンジン音を唸らせ、神森邸を後にした。
鈴音はしばらく彼等を見送っていた。
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――file8.恐れのルール the rule of fear
まるで、森がその存在を隠すかのように覆い茂り、神森邸はもう見えなくなっていた。一般道に入った車は、その凛々しい姿が少し不釣合いな、ごちゃごちゃとした商店街通りを走る。
赤信号で止まった時、笹杖が口を開いた。
「お前に聞きたいことがある」
「……調査結果のこと?」
座席を僅かに倒した光が首を傾げ、笹杖を見る。
笹杖は光を見ず、信号が青に変わるのを目視してアクセルを踏み込んだ。
「いや、U.C.Aの三つの心得のことだ」
クワトロポルテは笹杖の趣向でMT車となっている。光は加速の度に忙しく動く笹杖の右手に目をやった。
「えーっと……まず第一に、私情を挟まず冷静に。 第二に、隙を見せてはならない。 そして第三に……己の行動には頭の先から足の先まで、常に気を配るべし……だよね」
光は指を折々言った。それを受けて笹杖が頷く。
「一とニは重要であると共に、多少の経験と慣れが要る」
「三つ目は……?」
笹杖は光に目を向けた。
「基本だ」
車が右カーブを描く。
笹杖は前を見ながら静かに、だが耳に響く声で言葉を続けた。
「行動一つ一つに気を配れば、自然に隙が見えなくなり、冷静になってくる。 初めは常に意識するんだ」
光は下唇を噛んで俯いた。
「最後にダイニングで座ったことだね」
「……もしあの部屋に、あの椅子に重要な何かがあったらどうする? 責任が取れるか? 行動を意識すれば、自ずと“もしも”の想定が出来る」
商店街道路の終点間際、再び赤信号が車を止めた。
笹杖はギアをローに入れ、光を真っ直ぐ見つめながら言った。
「俺たちは少しの証拠も見逃さず、どんなに僅かな手がかりですらみおとしちゃいけないところにいる」
光は黙ってその大きな瞳に笹杖を映した。
「俺たちが恐れるのは犯人じゃない。 自分の痕跡が犯人を消すことになるのを恐れろ」
「……はい」
光は右手を握りしめた。
「やっぱさ」
唇がにっとつり上がる。
「一登さんはカッコイイよ」
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――file9.新展開 new deployment
ピピピ、と光の言葉尻とほぼ同時に笹杖の携帯が鳴った。
「光、出てくれ」
「あいよ」
そう答えて、がさがさと手元の茶々をさぐり、左ポケットから携帯を取り出す。
スライド式のその携帯画面には、“武村 藤吾”と表示されていた。電子音を鳴らし続けるそれの通話ボタンを押す。
「もしもしー」
『もしも……なんだ光かよ、笹杖は?』
顔が想像出来るほどの呆れ声で武村が呟く。
「うっせ……今、神森さんとこから帰ってるトコ。 手が離せねーの」
『「ハンズフリーにしてくれ」』
電話口の声と左からの声が重なる。光は目を閉じて、溜め息をついた。
「……二人して言わなくてもいーじゃんか」
「もしもし」
『よう、お疲れさん』
落胆する光を無視し、二人の会話が始まった。
『いくつか解ったことがあったんでな』
光はふてくされながらも、胸ポケットに忍ばせた小型のノートとボールペンを取り出し、書き取る体勢に入った。それを横目で確認して笹杖は言った。
「報告、頼む」
『まず、ガイシャの所属していたとされる劇団について。 名前は“劇団春風”、当時は20名位の団員が、今じゃ50名になった』
「はる、かぜ……っと」
光は揺れる車内で眉間にシワを寄せながら、必死に読める字を書いていた。
『この人数の増え方でも解るだろうが、結構そっちの世界じゃ上手いって有名になってる……聞き込んだところによると、五年前にいた緒方のことを知ってる奴や同期の奴はほとんどいなくて、覚えてた奴もうろ覚えだった。 大した役ももらっちゃいなかったみたいだよ』
「そーなると……辞めた動機は嫌気がさした、ってとこかな」
ペンを動かしながら光は言う。
『かもな……次に交友関係』
ペンは“RELATION”と綴った。
『その日は団長がいなくてうろ覚えの人たちに聞くしかなかった、だから思いっきりアテには出来ないだろうが……彼等の記憶を繋ぎ合わせると、劇団内では一通り誰とでも話すタイプだったけど、どうも偉そうな話し方をするらしくてあんまり好印象はもたれてなかったようだな。 女性団員は顔は良かった、って褒めてたけど』
「その当時、仲の良かった人物は?」
電話の向こうで、小さく唸る声が聞こえた。
『誰でも離すがいいイメージじゃなかった、って言ったろ……少なくとも彼等の覚えてる範囲で仲の良かった人物はいなかったんじゃないか』
光は悪評、と文末に付け足した。
「でも一人くらいいるんじゃないかなぁ」
『…………あ』
武村が思い出した、というような声を発した。光は電話口に目をやる。
「何だよ」
『一人だけ結構話してた人がいる、って言ってたな……えーと、名前は……』
苦悶する声が聞こえる。
「がんばれ、がんばれ、タッケフジ」
『うるさい……ああ、思い出した』
俺のお陰じゃん、と下唇を突き出して光が言う。
「で、その名前は」
笹杖は冷静に話を進めた。
『相模愛(さがみ あい)、今も劇団に在団してるらしい……丁度俺たちが聞き込みに行った時、劇団を一年程休団してる最中で話は聞けなかった』
「おおー、それでも収穫アリじゃん」
ペンが紙の上を走る音が車内に響く。ふと、“悪評”という文字を見て光は口を開いた。
「でもさぁ、神森鈴音みたいな人が、なんでそんな人と付き合ったのか不思議じゃない?」
『それは俺も思ったよ、勿論聞き込んだが皆首を傾げるばかりだ……出会いも付き合い始めも見えてこない、すまん』
“Encounter”と書かれた部分に“?”と書き込む。
「いや、助かった……とにかく、相模愛がキーだな」
「その人っていつ劇団に戻んの?」
ページをめくり、“さがみあい”と書く。
『明後日の二八日だ』
「了解、じゃあ相模愛のことは任せてくれ」
『ああ、俺たちは今、神森政幸について調べてるところだ』
一瞬、笹杖の眼の色が変わった。
「……そのことはじっくり調べてくれ」
『どうした?』
「重要な気がする」
『……わかった』
笹杖達、U.C.Aが武村達、警察に調査報告をすることはない。警察が事件を解決してくれ、と依頼したU.C.Aの手助けをすることは出来るが、根本的に依頼されたU.C.Aが警察の手助けをすることは矛盾しているからである。いくらU.C.Aに協力する捜査三課と云えど、勿論警察であるからには多数の事件と携わる。言うなれば、依頼した事件は任せっきりになってしまわざるを得ないという訳。
「それと」
笹杖は頭の中で報告結果をまとめると、言葉を発した。
「神森鈴音の写真を渡してくれないか、丁度あと十五分程で署に着く」
『OK』
ピッ、という電子音が鳴り、電話は切れた。
「明日はどうすんの?」
光がノートとペンを胸ポケットへ戻し、スーツとコートを整えながら聞く。
「……そうか、お前にはまだ言ってなかった」
そう言うと、笹杖は右手をギアから自身の胸ポケットへ移動させる。そして二つ折りの紙を出すと、それを光に渡した。
「何これ…………あ、エレベーター」
光は邸宅での行動を思い出した。やっぱりあの時ボタンを押しても開かなかったのか、と少し残念に思う。
「エレベーターは動いていた、いや、少なくとも電源は入っていた」
その言葉に光の首が風を切って笹杖の方を向く。
「あの神森のことだ、俺達がくるのを解っていて扉が開くなんてヘマはしないと思うが」
ああ、やっぱそれはそうなんだ、と再び苦笑いになるが、さっきよりは光の心中は明るかった。なぜなら、あの時エレベーターに引き寄せられた自分があながち間違いではなかったと思えたからだ。
「明日はそこで修理のことを聞きに行く」
「うん、段々と近づいてきたね」
光は生き生きとした表情で前を向いた。
「まだまだだ。 事件も、お前もな」
笹杖は小声でうなだれるように言った。
◆
二人が住んでいる家は――と言っても、笹杖の家であるが――神森邸からは一時間半ほど離れた都心に位置し、高層マンションの二〇階の部屋である。
オートセキュリティの4LLDK。いくら二人がデカいと言えど、男二人で住むには勿体無い広さである。もう一人、ここへよく足を運ぶ、半居候的な人物がいるのだが、それはまた後に回そう。
「今日はどうだった?」
笹杖は大きなガラステーブルの上で、ノートパソコンに書類を打ち込みながら聞いた。
「やっぱり野菜が高いよね」
光は奥のキッチンで晩御飯の仕度をする。料理は光の仕事らしい。
「違う。 買い物がどうとかじゃなくて、お前が調べていた二階はどうだったんだ、ってことだ」
さらっとながす。
「あ、そっち? そうだ、言うの忘れるとこだったよ」
あはは、と光は屈託無く笑った。
「何かあったのか?」
「うーん、はっきりしたことは何も無かったんだけどさ。 部屋は五部屋、まあ一部屋の広さがオカシイけどね」
光は“ロン”と名づけた灰色のエプロンをつけて、冷蔵庫の中を覘いた。
「階段上って左側に、使用人部屋と亡くなった親の部屋と酒蔵……右手がホームシアターと、エレベーターを挟んで鈴音さんの部屋」
笹杖は頭の中で位置関係を把握する。
光は喋りながら流し台の上に、肉、人参、ジャガイモ、コーンの缶詰を置いた。
「全体的にとにかく凄くて、何の変哲もないただの豪華な部屋なんだけど……」
ここで光は言葉を区切ったせいで、笹杖は光の方を見た。
きょろきょろして流し台の隣の棚を覗き込み、「あった」と呟き、シチューのルーを手にとった。笹杖の目線がノートパソコンへと戻った。
「それで、まあ何にもないかな、と思ったんだけど。 一つ気になるんだよね」
タン、タン、と包丁が具材を刻む音がテンポよく響く。その手を止めて、光は口を歪ませた。
「鈴音さんの部屋がさ、やけに寒いんだ」
「寒い?」
笹杖もキーボードを打つ手を止める。光は流し台にもたれるようにして、笹杖を見た。
「そう。 他の部屋、って言うかあの家全体的に寒かったよね……でも、鈴音さんの部屋は違う」
「…………」
「もっと寒いんだ」
言いながら包丁を振る。
「……何が寒さの原因か、解ったのか?」
「うーん……わかんないけど……あっ、部屋に入って右の奥に本棚があったんだけど、そこが一番寒かったな」
そう言うと、光は笹杖に背を向け、再びテンポの良い音を鳴らし始めた。
――家全体が寒い一番の原因は、冷凍庫だ。しかし、それだけであそこまで寒くなるだろうか?
笹杖は考えていた。手を口元へとやり、目を閉じる。
謎だけが頭の中を駆け巡っていた。
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――file10.ヒント the hint
「あー、神森さんね。 確かにウチで修理させてもらってますよ」
笹杖と光の頭上にある看板には“松宮電気”と書かれていた。
くすんだ緑の作業服を着ている、ふくよかなこの男性が責任者らしい。名札には『井園』とある。何とも腰の低い男だ。
「具体的に何処を?」
ハットを被った笹杖が、井園に尋ねた。光の手には例によって、小さなノートとペンが握られている。
「エレベーターの扉です……二階のも一階のも何でだか開かなくなってまして」
ちょっと広い額に浮かぶ汗を拭う。
「いやあ、広い家でしたからエレベーターも広くて敵いません」
笹杖は男を観察しながら話した。男はちらちらと笹杖の様子を伺う。
「原因は解っていないんですか」
「はい……機械の配線不備か、エレベーターの向こうで何かが詰まってるんでしょう。 原因を知る為にはまず、こじ開けなきゃならんでしょうな」
「こじ開けなかったんですか」
「それがおかしな話なんですけど、作業を中断してくれって電話がありましてね」
光が笹杖の方を見る。笹杖は井園の額にある右手を見ていた。
「理由はお聞きに?」
「まあ、その、諸事情らしいです。 でもお金は頂いてますし、またお声がかかると思います」
そこで、奥から事務員らしき女性の声が聞こえた。
「井園チーフ、お電話ですー」
「ああ、判った……これで、よろしいですかね」
顔色を伺うように聞く。
「ええ、どうもありがとうございました」
二人は頭を下げた。井園はそれより低く頭を下げ、「失礼します」と事務所の中へ入った。
それを見送って笹杖が口を開いた。
「今日は暑いか?」
「んー……まあ冬にしちゃ暑い方だろーね」
午前中に予定を終えた二人は、取りあえず昼食を取ることにした。
近くのファミリーレストランだ。
「俺、ハンバーグにしよっかな……あー、でもカレーいいなあ」
食うものも成長してないのか、と笹杖はあえて口にしなかった。光の「あ」という声をよそに、インターホンに手をのばす。
「押したかったのにー」
笹杖の溜め息をかき消すように、元気な店員が現れた。
「お待たせ致しましたァッ、ご注文……わあっ!?」
「オムライ……スゥッ!?」
「あ……」
結局ハンバーグでも、カレーでもない光はこの際無視しよう。
「……何であんたたちがここに来んの」
そのフリフリのエプロンに似合わないテンションの低さで、女は言った。顔立ちは鈴音が西洋系の美人とするならば、東洋系の美人、といったところだろうか。前髪を肩まである後ろ髪と同じ位まで伸ばした、サラサラとした黒髪が印象的だ。
何より真っ黒な瞳が意志の強さを現しているようだった。
「……俺としては、何でお前がここでそんな似合わんエプロンを付けてるのかを聞きたい」
笹杖が天城千奈美(あまぎ ちなみ)を見た。『似合わんエプロン』には意味があった。
「こぉんなに似合うじゃないの、ホラ、ホラッ」
半笑で右手を腰に当てる。
「ちっ、ちなサン……」
光が千奈美を小突く。隣のテーブルのカップルが口を開けて見ていた。千奈美は「オホホ」と姿勢を正すと、そっちに見えないように睨んだ。
「料理も出来ないお前がエプロンか、と言いたい訳だ」
笹杖は終始無表情。千奈美を見ることもなく頬杖を突いていた。
「カッチーン、この天城さんを馬鹿にしちゃいけないよ」
「ほう、出来るのか」
「……出来ないんじゃなくてしないってだけよ!」
自信満々に仁王立ちする千奈美に、笹杖は小さく溜め息をついて「やっぱりね……」と呟いた。
「あ〜んたねぇ〜……」
こめかみがビクビクと震える。
「コーヒー」
「は?」
「早く持ってきて」
淡々とした言葉に千奈美は歯を噛み締め、「幼馴染だからって許されると思うなよ! ゾーキン絞り汁出してやる!」と言い残した。
「ちなサン、ここでバイトしてたのか〜」
「“あっち”の方は給料に落差あるからな」
奥で怒られている千奈美が見えた。
「明日怒られるよ」
光は水を一口飲んで、笹杖に笑った。
「家にいれなきゃいいんじゃないか」
笹杖はふてくされる千奈美を見て、微かに笑った。
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――file11.春風 spring breeze
翌日、笹杖と光は“劇団春風”へ聞き込みの為、車へと乗り込んだ。
「ふあ〜……眠い〜」
「もう十時だぞ……遅くまで起きてるからだろ」
「それでも一登さんよりは早く寝たって」
半目状態の光に、笹杖はいつもの調子で言う。
確かに昨夜、笹杖は夜遅くまでパソコンに向かっていた。それに軽く挑むような気持ちで、光も負けじと起きていた。
しかし笹杖は、そんな様子を億尾も見せずにハンドルを握った。光はまた一つ、大きなあくびをした。
六階立ての中層ビルの前で車が止まった。
一階から三階にかけて『劇団春風』の文字が、大きく掲げられている。
「よーし、ここかあっ」
光は勢いよくドアを閉め、その文字を眺めた。車内でぐっすり寝たお陰で、テンションが更に上がっている。
笹杖は車を脇に停め、先走る光の後を歩いた。
「あら、入団希望?」
光が先に一階の部屋に入ると、ドアに一番近い位置にいた女性にそう声をかけられた。
横壁が鏡になった広い部屋で、団員らしき人々が十五人ほどだろうか、個々にダンスレッスンをしている。
「ちっ、違います。 あの、相模愛さんっていますか?」
「なあに? 彼女のコレ?」
いきなり声をかけられて焦る光に、彼女はニヤニヤと親指を立ててみせた。
「それも違いますっ」
「すいません、呼んで頂けますか」
うろたえる光の後ろから現れた笹杖に、女は一瞬見とれた。しかし、程なくして我を取り戻すと、「ちょっと待っててください」と奥へ走った。
「……なあんかさ、俺、からかわれた?」
光が顔を赤らめて隣の笹杖を見る。
「そうとも言うな、しいて言うなら子ども扱いか」
「…………」
光はさっきの女性が走って行った方向を向き、下唇を突き出した。
「そういうところがな」
笹杖は腕を組んだ。
しばらくして奥の階段から、少し明るめの髪を短いポニーテールにした健康的な女性が二人の元へ走って来た。
「相模愛さん、ですか」
確認するように笹杖が尋ねる。揃えた前髪が、大人びた顔つきに幼さを宿す。
「ええ……私ですけど、えっと……」
突然知らないスーツ姿の男性二人に呼ばれ、彼女の顔には動揺が浮かんでいた。
「失礼、あまりむやみに明かせないもので」
そう言って、笹杖はコートの内ポケットから名刺を一枚取り出して愛に渡した。光も続けて渡す。
「ゆっ、U.C.A!? えっ、どうして私に――」
愛は二枚の名刺と二人の男の顔を見比べた。
「少々伺いたいことがありまして」
笹杖は穏やかな笑みを浮かべる。光はにこにこと人の良さそうな笑顔をしている。愛は「はぁ……」と、未だ信じられない様子で頷いた。
「緒方勇哉、御存知ですね?」
「緒方……って五年前くらいに辞めた緒方君、ですか」
まだ少し、緊張した面持ちと言葉遣いで話す。笹杖はそれを受け止めるように、優しい笑みを向けていた。
「その緒方です、相模さんはどれくらい所属してるんですか?」
「七年、になります……でも今日は一年ぶりに復帰して」
段々と解れてきたのか、愛の口調がスムーズになっていた。
「一年休んでいたとお聞きしましたが、その間何を」
「ニューヨークに知人が居て、そこでお芝居の勉強してました」
愛の顔がふっと笑顔になる。本当に彼女は演劇が好きなんだ、と思わせる幸せそうな笑顔をしていた。
「そうですか……お芝居、好きなんですね」
笹杖は愛を優しく見つめた。愛の顔が微かに赤くなる。それが笹杖に対してか、表情に出た自分に対してなのかは解らないが。
「あのー、彼とは親しかったんですか?」
「えっ? ああ、そうね……当時私と緒方君は十八で、年も同じだったし、よく話しました」
思わぬところからの質問に焦った自分を落ち着かせるように、愛は前髪を指で一、二回といて言葉を続けた。
「まあ正直、あんまり周りからいい噂ありませんでしたけど、私、そんなこと気にしない方だったから……確かに偉そうに物言うこともあったけど、慣れてくると気持ちを上手く言えない、人付き合いの下手な人なんだって判ったんです」
光は既に手に持っていたノートと愛の顔を交互に見ながら、ペンを走らせた。
「じゃあ、仲が良かった訳ですね」
その質問に、愛は「うーん」と言ってから答えた。
「良かったかどうかは解らないけど、他の人よりは話してた方だと」
「プライベートな付き合いはなかったと」
「ええ、そう。 電話くらいはしましたけど、大抵は劇団でお話してました」
笹杖は軽く頷いた。
「それじゃあ、当時どんな話してました?」
愛の眼が天を仰ぎ、過去を手繰り寄せる顔つきになった。
「んー、昔のことだからなぁ……演劇についてとか、生活のことだとか……人生についても話したっけ。 そうそう、『いつか大物になる』が彼の口癖だったな〜……確かに演技上手かったし」
当時を思い出したようで、愛の顔に笑みが零れていた。だが、言葉を終えた愛は真顔になり、二人に困惑の表情を向けた。
「緒方君が、どうかしたんですか……?」
二人は顔を見合わせる。笹杖が光に目配せをした。
「行方不明、なんですよね」
「ええっ!?」
酷く驚いた顔で愛は光を見た。そしてふと目線を下げ、呟いた。
「――そっか……そうなんですか…………最近、綺麗な彼女が出来たみたいで幸せそう、って団長とも話してたとこなのに……」
笹杖と光は同時に愛を見た。光は愛に尋ねる。
「彼女、って知ってるんですか?」
「いや、直接的には……すっごく綺麗な人とよく見かける、って」
そこまで言うと、彼女は言葉を区切った。小さな溜め息を漏らし、伏し目がちに言葉を紡ぐ。
「支えてくれる人に出逢ったんだ、って……“あのこと”乗り越えられたんだ、ってちょっと安心してたのに、行方不明なんて…………」
「あのこと?」
「? U.C.Aさんなら警察の人から聞いてると思うんですけど……傷害事件のこと」
「傷害事件?」
光が口をポカンと開けたまま尋ねる。愛は口元に手をやって独り言のように言った。
「警察も知らないなんて、やっぱり現実じゃなかったのかな……」
笹杖は険しい表情で「相模さん」と呼びかけた。愛ははっ、と顔を上げる。
「詳しく、教えて頂きたいんですが」
光のペンを握る手が、微かに汗ばんだ。
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――file12.謎、謎、謎 a mystery calls a mystery
「いいですけど……」
愛は言葉を濁した。
「うろ覚えだし……もしかしたら、彼の夢だったのかもかもしれない」
「結構です、参考までに」
笹杖の言葉に大きく頷いて、愛は口を開いた。
「……あれは、彼が辞める一年ほど前の――冬、だったかなあ。 もの凄い剣幕で、私に電話して来たことがあったんです」
「六年も前のこと、よく覚えてるんですね」
疑う、というよりは感心する、と云った風で、笹杖は必死に記憶を辿る愛に言った。
「内容が内容だったし、話し方も尋常じゃなかったんです」
光はペンを唇に当てる。
「その頃、私と勇哉君はよく電話してたりしてて、仲の良い異性友達、って感じになっていて。 電話がかかって来た日は、人見知りの彼が、やっと本音を言い合える仲になった団員の二人と、初めて飲みに行くって言ってた日でした」
「……団員のふーたーり、っと。 それで?」
「凄く盛り上がったらしくって、お酒が進んだ、って」
――あれ〜? 当時、未成年だったんじゃないかぁー……?
光はそう思いながらも、無言で手を進めた。
「そこまでは普通の話なのに、どうしてそんな剣幕だったか判らなくて……そしたら、捕まるかもしれない、って言い出したんです」
「飲酒で、ですか?」
「私もそう思ったんですけど、どうも怯えすぎてる気がして、どうしたのって訊いたら――」
愛は目を閉じ、五年前のその時を思い出そうとしていた。少しの間を置き、愛は目を開けた。
「人を殺したかもしれない、って」
「彼はこう言ってたと思います――夜も遅くて人通りの少ない裏通りを、三人で飲み屋から出てぶらぶら歩いてた、ちょっと歩いたところで誰かがぶつかって来たから……お酒の勢いと、三人いるって云う変な自信で……その人を三人で殴ったり、蹴ったり……」
「暴行を加えた訳ですね」
光が隣で眉間にシワを寄せる。愛は笹杖の言葉に頷いた。
「最後に……動かなくなったから逃げてきてしまった、って言ってました」
「三人――緒方とその他の二人ですけど――一緒に逃げたってことですか」
「多分……でも、ろれつが回ってない箇所もあって、“酔ってるんじゃないの”って言ったの覚えてます。 その後、その話のことは何も聞かなかったし、彼も話しませんでした……警察に捕まってないってことは、やっぱり酔ってたのか冗談ですよねぇ」
「かも、しれませんね……もう一ついいですか?」
愛は笹杖の顔を見上げる。
「はい」
「緒方と親しくしていたその二人の名前、覚えていたら教えてください」
「ええと、二人共、緒方君からそんな電話があった何週間後かに順を追うようにして辞められたんですけど……えーっと、深く話したことがなかった人たちだったな」
首を深く傾げる。
「別に間違っていても結構ですから、どんな感じだったかだけでもあれば」
笹杖は微笑んだ。愛は数分唸った。
「えーっと……あっ! 住永さんと松葉さんだ! ……苗字しか覚えてなくってスミマセン」
前髪を撫でつけながら、すまなさそうに謝る。光は大きく頷いて、その二人の名前をさらさらっと書き記した。
「いえ、充分です……最後に、いいですか?」
「何でしょう?」
「緒方が綺麗な彼女と居た、と言いましたよね」
「え、ええ……」
「その彼女を目撃した方に会いたいのですが……」
「ああ、上に居るから――って言っても団長が目撃者なんですけど、呼んできますね」
愛はぺこりと一礼し、軽い足取りで奥の階段へ向かった。それを見ながら光がニヤける。
「相模さんって何か可愛い」
「……そうか」
「そうか、って……あ、判ってるよ? 私情は挟みません」
ふふん、と誇らしげに胸を張る光に、笹杖は至極淡々と言った。
「安心しろ、彼女は子供を相手する程子供じゃない。 私情を挟む隙もないよ」
「……一登さんってモテないでしょ」
「来たぞ」
愛と一緒にやって来た団長とされる男性は、がっしりとしたさわやかな印象だ。
「どうも、団長の菅野薫です」
丁寧に頭を下げる菅野に、二人も丁寧に答えた。
「U.C.Aの方々に会えるなんて、三十五年間生きてきて初めてですよ」
そんないいことではない、と笹杖は思うが、三十代に見えない屈託のない笑顔につられて笑った。
「で、私に訊きたいことがあるそうですが」
「ええ、この女性についてです」
笹杖は真顔に戻ると、コートの右ポケットから一枚の写真を取り出した。
「ほー、綺麗な女性ですな……この方が何か?」
「見覚え、ありませんか」
写真から目を離して考え込む。
「たとえば、誰かと一緒に居た、とか」
笹杖が答えを誘う。菅野が「あ」と発し、すっきりした表情で笹杖を見る。
「そうです、そうです。 緒方君と一年前程からよく見かけますよ」
やっぱりか、笹杖は確信した。
「この人……」
横から写真を覗き込んだ愛が、驚いたように呟いた。
「御存知ですか」
「いえ、名前とかは知らないですけど……」
口ごもる愛に、笹杖は「どうしました」と尋ねる。愛は照れくさそうに口を開いた。
「私が、ここで初めて役をもらった時に、ビラ配った人に似てるなぁって……こんな綺麗な人なかなか居ないし、もう少し幼かったけどきっとこの人」
「それはいつ頃の話でしょう?」
「そうですね……住永さんも出てたから、六年前かな」
笹杖は眉を顰めた。
「さっきの電話より後、それとも前ですか」
「えっ、この劇自体は電話より前に発表されてたけど、その人に配ったのは後ですかね……初めて出るんです、って話したら、見に来てくれるって言ってくれて。 嬉しかったな〜……この人が緒方君の彼女だったんだぁ」
表情がくるくると変わる愛を見て、演劇に向いているな、と不謹慎にも笹杖は思った。
◆
「ご協力、ありがとうございました」
笹杖と光は、ビルの外で二人に頭を下げ、車に乗り込む。菅野と愛は笑顔で二人を見送った。
本当に色々な手がかりの欠片を見つけて、正直頭の中が混乱していた。まるで意思を持ったそれに翻弄されているような気持ちになって、微かに苛立った。
「何か、緒方にも怪しい空気だね」
「……ああ」
光は、この聞き込みで結構な枚数を使ったとみえるノートをぱらぱらとめくった。
それを見て、笹杖は帰ったら煙草を吸おう、と思うのだった。
◆
劇団春風と笹杖の家はなかなかの距離がある。家に着く頃には夕日が沈むところであった。
マンションの自動ドアセキュリティーを外し、部屋へたどり着く。
部屋のロックを解除した笹杖は、自分のものではない――明らかに女物の――靴を見て、その場で深い溜め息をついた。
「あ、おっかえりー。 遅いわよ」
「あれ……ちなサン!? 何で……!」
奥のリビングから、ビールを片手に千奈美が現れた。髪の濡れ具合から、お風呂上りだと見える。
笹杖も光も目が点だ。
「……何で居る」
「え? 今日来るって言ったじゃない、あたしもちゃんと来た時お金払ってるでしょ」
「違う。 何で中に入って、風呂にちゃっかり入ってるんだ」
「え? 鍵、使って中に入ったに決まってるじゃな〜い」
ジャージのポケットから出した鍵をちゃらちゃら鳴らす。
「俺はお前に鍵を渡したか……?」
笹杖の顔に疲れの色が見える。
「光のを拝借して、作っちゃいまちたー」
恐ろしく明るい笑顔でピースする千奈美。光はズボンのポケットを探っていた。
「……逮捕するぞ」
「ほっほ、今年二十六歳の天城さんをナメちゃいけねーよ。 ねえ、そんなことよりあんたこの間あたしの悪口言ったでしょう」
笹杖の言葉をちちち、と指でいなす千奈美。ビールを持たない手を腰に当て、ビールを持つ手で笹杖を指した。
「何のことだ」
「一昨日。 あんたがあたしの悪口言った時は、絶対って言っていい程、捜査でミスるのよ」
「またヘマしたのか」
笹杖は玄関から千奈美の横を通って、リビングのソファーへ腰を降ろした。
「ちょっと、いつもヘマしてるみたいな言い方しないでよね」
「探偵の依頼、入ったんだ」
皮肉でもなく、よかったねーと言った口ぶりで光が千奈美の横を通った。
千奈美は探偵会社に勤めている。だが、予定が未定の為、片手間にファミレスのバイトをしていたという訳だ。
「……光、一応その道じゃ売れっ子の天城さんを馬鹿にしちゃいないかい?」
半笑で光の背後に忍び寄る。
「そんなことないないっ!!」
光は慌てて振り返り、千奈美の肩を叩いた。
「この間一登は何て言ってたぁ?」
「えっ、二十五にもなって料理どころか洗濯も“出来ない”女……」
二人の視線が光に注がれる。
「じゃあないです! 違う! 間違った!!」
しどろもどろの光に背を向け、千奈美は「かーずと……」と近づいた。目が据わっている。
「……エルミタージュ、一本でどうだ」
笹杖が目前のガラスのテーブルに肘を置いて言葉を吐き出す。
「嫌」
千奈美はそう言うと、冷蔵庫の横にある、ワインボックスの中から数あるワインのうちの一本を取り出した。極上の笑みを浮かべる。
「コート・ロティで手を打ちましょう」
「…………」
笹杖は光の方をゆっくり見やった。
「捨てないで!」
光は半泣き状態で訴える。
千奈美は二万円のワインを手に、極上の笑顔を浮かべた。
キッチン側のリビングで、椅子に座った光と千奈美がワインを開けていた。
密かにワイン好きな笹杖にはなかなかの痛手であったが、そんなことを気にも留めず、千奈美がノートパソコンの横へワイングラスを置いた。
「悪いな……何だ、何か用か」
グラスを置いても向こうへ戻ろうとしない千奈美に、笹杖は“鬱陶しい”と言わんばかりの声を出した。
「ちょっと、この写真の人U.C.Aの事件に関わってる訳?」
「え?」
千奈美はテーブルの上に置かれた鈴音の写真を手に取った。
「お前知ってるのか」
笹杖はキーボードから手を離し、立ったままの千奈美を見た。
「知ってるも何も、大分昔の依頼人よ……凄い美人でお金持ちよね、稼がせてもらったわ」
――依頼人? どう云うことだ……。
その笹杖の考えを見透かすように、千奈美は写真を笹杖に渡すと、口唇をきゅっと上げた。
「やあね、いくら過去の依頼人でもプライバシーってものがあるじゃない」
「俺たちに情報協力、ってことでどうだ」
「そうね〜……ロゼ三本でどう?」
「…………」
びしっと指を三本立てた千奈美を見ながら苦悶する。何も言わない笹杖に千奈美が呟いた。
「知ーらない」
三本で一万円足らず……。笹杖は立ち上がる。
「判った」
千奈美は「二本に負けてあげる」と笑い、ガッツポーズをとった。
コート・ロティを一口含み、口の中で転がして飲むと、千奈美は満悦した様子で――口調は至って真面目であったが――二人の顔を見た。
「二人の男の身元調査よ」
光は目の前の缶コーラから千奈美へと視線を移動した。笹杖はワイングラスを手に、頬杖を付きながら千奈美に尋ねた。
「男の一人は緒方勇哉、って名前じゃなかったか?」
「誰よ、それ」
笹杖は「いや、知らないならいい」と頷き、グラスを口へ運んだ。
「とにかく、あたしは今までの顧客はほぼ覚えてる。 その中でも一番って言っていいくらいの印象的な依頼人だった」
「外見とか? だって依頼内容は珍しいモンでもないよね」
「まあ、それもあったけど……報酬額よ」
千奈美は髪を掻き揚げた。
「二人調べるのに、相場は安く見積もって四〇万前後。 リスク計算で高く見積もっても、一〇〇万前後なんだけど……彼女、一千万積んで来たのよね」
「いっ、一千万〜っ!?」
光が目も口も大きく開けて叫んだ。
「あたしもびっくりしちゃってさぁ……こんなに受け取れません、って言ったんだけど」
本当に言ったのか、とあえて笹杖は聞かなかったが、心を読んだかのように千奈美が笹杖を睨んだ。
「あ、本当に言ったのよ。 五〇〇万ならまだしも、一千万てケタが違うじゃない」
「五〇〇万ならいいのかよ」
光が千奈美にさらっと言う。
「なによ、あんたらなんか何回か事件請け負えば、簡単にそれくらいになるじゃない」
「それ、関係ない……ってか、一時期すんごい羽振りよかった時あったよね」
「え? そうだっけ?」
千奈美が光から目を逸らす。
「うん、俺まだ小さかったけど。 子供心に気持ち悪くってちなサンもう死んじゃうのかと思った――」
「明日……ゴミ出しの日だね」
こめかみがピクピクしている。
「嘘っ、嘘ですぅっ!」
「そんなことより、続きは」
頭を抱えて笹杖は言う。結局煙草が吸えていない。
「まあ、意外に頑固で引かなかったのよね。 この二人の男にそれだけの価値があるの、って聞いたら笑顔で、はいって答えたわ」
「……何年前だった?」
「え〜……あたしが二十歳だったから、六年くらい前ね」
「おまえ、当時神森は十七だぞ……」
「うっそぉ!」
千奈美は椅子から飛び上がった。
「二十歳って言ってた……何か証明書も持ってたし、落ち着いてたし――信じちゃったわ」
そう言って額に手を当てた。笹杖は溜め息をついて言った。
「調査対象は?」
「何かのパンフレットに――劇団、だったかしら……」
「それに載ってた松葉康と住永和巳って男だったと思う」
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――file13.つながる点 the connected point
「松葉と住永――!?」
ほぼ同時に声をあげた笹杖と光に千奈美は驚いた。
「何よっ」
「いや、どんなことを調べたんだ?」
「――そ、そうね……住所とか、周囲環境とか、そんなモンよ。顔写真がついてたからそんなに苦労しなかったしね。松葉は小さめだったけど」
――たったそれだけのことに、一千万……?
笹杖は顔をしかめて立ち上がると、キッチンのカウンターの上の煙草を手にした。
「あれ、あんた捜査中は吸わないんじゃなかったっけ」
「こんな複雑な状況、煙草吸わずに整理出来ん」
カチ、とライターが煙草に火をつける。
「俺、訳わかんなくなってきたぁ」
テーブルの上に上半身を寝かせる光。
笹杖は煙草を手に、ノートパソコンの前へと座った。はっとした表情の先には、メール画面があった。
《題名:調査報告。
送信者:武村
日時:11.28.19:05
神森政幸、婿養子に入る前は高沢政幸。
以前の使用人を探し出し、聞き込み。その結果、夫婦間の不仲により、行方不明当時(六年前)には別居中。
高沢政幸の両親は離婚しており、父方の姓を名乗る。弟が一人いて、上田和幸という。弟は母方の姓を名乗っている。
元使用人の話では、神森鈴音は非常に父を慕っていた、という話だ。
母親は事故死したが、その葬儀でも泣くことはなかったらしい。
あと、お前のメールにあった松宮電気責任者の井園信二だが、政幸と和幸の母方の従兄弟に当たることが解った。
判りにくいが、
高沢幸弘=(結婚)=上田好美――――姉妹――――上田奈々子=(結婚)=井園卓
↓ ↓
↓ ↓
↓ 政幸、和幸 ―――――(従兄弟)――――― 信二
↓ が生まれる (松宮電気・責任者)
(離婚)
↓
高沢政幸、上田和幸
ということだ。
神森鈴音からは上田和幸は叔父にあたり、井園信二は血縁者である。 以上。》
――上田? 執事の上田は叔父だったと?
笹杖は下の名前まで聞かなかった自分を恨んだ。いや、よくよく考えれば、向こうから隠したような素振りでもあった。
そして血縁者の井園。
彼を聞き込みした時の汗は、暑さなどではなかったのだ。血縁者から――上田が従兄弟であった場合――上田から頼まれてU.C.Aに隠そうとした、必死の結果か。
それならば、エレベーターはどうなる?
修理などしていなかった……?
全てが六年前につながる。
行方不明になった神森政幸、当時十九歳の緒方を含む三人の男三人による暴行事件、当時十七歳の神森鈴音が年を偽ってまで依頼した二人の男の調査……。
「まさか――復讐劇だというのか」
笹杖はそう呟き、メールの返信マークをクリックした。
《すまないが、ここ六年間の行方不明者リストに、松葉康(まつば やすし)と住永和巳(すみなが かずみ)の二人が居ないか捜してくれないか》
後ろのテーブルでは光と千奈美が話していた。
「でもさあ、ほんとあのお屋敷寒くて……」
「そんなに寒かったの?」
笹杖は振り向く。
「光、何簡単に話してる」
「だって、ちなサンだし」
明るく笑う。U.C.Aとしてやっていけるのか酷く心配だ。
「そそ、いい子ね〜光は。 一登はそのP子ちゃんとお喋りしてなさいよ」
そう言って笹杖の前にあるノートパソコンを指さした。またあだ名が付いたらしい。P子としばし見つめ合う笹杖をよそに、千奈美はまた口を開いた。
「それにしてもさ、そんな寒いなんて――死体でも隠してたりして」
“死体を隠す”
耳に入ったその言葉で、笹杖の脳裏に冷凍庫に入る前に防寒着を着る鈴音が思い出された。
やけに着るのが手馴れていた。それが意味するのは、よく冷凍庫やキッチンに入っていたということか。
だが、彼女は言った。
『お恥ずかしいことですけれど、一度も作ったことがなくて』
――そんな神森がどうして、よく冷凍庫やキッチンに行く必要がある?
「やめてよ、ちなサン。 何かリアルじゃん、あんな広い家だったら隠すスペースありそうだし」
光が顔を目一杯歪めて首を振った。
――『隠すスペース』……!
笹杖は「そうか」と一つ呟いて、パソコンから神森邸の構図データを呼び出した。
「光、ちょっとこっち」
「え?」
光は缶コーラを手に隣へ座った。千奈美も後ろを付いてくる。
「ここ、この神森鈴音の部屋の隣、何があった」
「えーと、エレベーター」
その立体図面には、広いエレベーターのグラフィックがあった。
笹杖は鈴音の部屋とされる部分をクリックする。長方形の部屋が表示される。
「ドアから入ってまっすぐ進んだ所に本棚があったんだな」
「うん、この立体の通りだよ」
「そして、この本棚の辺りが一番寒かった、と?」
「そうそう、ここ。 この隙間から」
本棚らしきグラフィックと、壁の隙間を光は指さした。
「エレベーター隣の部屋を見てみよう」
慣れた手つきでカーソルを動かし、隣のホームシアターを表示させる。
「ん、こんな感じだったよ」
そこには、真四角の部屋がグラフィック表示されていた。
「ここで一階を見てくれ」
笹杖は指で手早く操作すると、一階の冷凍庫を表示させた。
「何、冷凍庫?」
ドアから見た立体構図が表示され、大きな突き出した壁が目に付く。
「これはエレベーターだ」
「判ってるよ」
「だったら解るだろう」
「え?」
笹杖は突き出した壁を爪で軽く叩いた。
「ホームシアターや、神森鈴音の部屋にこんな壁があったか?」
「あ」
「ずっとこのグラフィックに違和感感じてたんだが、やっと解った」
髪をくしゃくしゃにして笹杖が言う。
「一階のこの図を見れば解るように、このエレベーターは1m半、ってとこだ。 その分を避けるようにして残りのスペースには冷凍庫が広がっている……なのに、二階にはエレベーターの裏のスペースが神森鈴音の部屋にも、ホームシアターにもない」
「そ、それって――」
「そうだ、そのスペースに何か隠してるってことだ」
「じゃあ、鈴音さんの部屋の本棚付近が異様に寒かったってことは」
光が指を立てて言う。
「そこからその裏に入れる可能性が高いってこと?」
「おそらくな」
「おっ、俺……すげー鳥肌立ってる」
少しわくわくした表情で、光は言った。
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――file14.確認 check
《調べてみたよ。 六年間のファイルの中に、住永和巳は五年前、松葉康は三年前の日付で捜索願が届いていた。》
翌朝、武村から届いたメールにはそう書かれていた。
笹杖はどうやらソファーで夜を明かしたらしい。誰かがかけてくれた毛布を端に無造作に置きながら半開きの瞼をこすり、まだ虚ろな脳を無理矢理回転させた。隣の部屋から光の微かないびきが聞こえる。
ゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫からお茶のパックを取り出す。
冷たい水分が喉を冷やす軌跡が下がってゆくのと同時に、目も少しずつ覚めてきたようだ。
「住永の捜索願が五年前……住永も出演した劇が上演されたのが六年前。六年前に行われたであろう暴行事件。その頃から行方不明となった高沢政幸」
まだ脳内で考えることが出来ないのか、目を閉じて笹杖は声に出して整理する。
「娘である神森鈴音は暴行事件後の劇を見に行った可能性がある……暴行事件の被害者が高沢だと仮定したとして、神森が復讐の念を抱いたとすると――つまりその劇は、加害者の一人である住永と出会う機会になったわけだ」
一息ついて、お茶を一口飲んだ。また、言葉を続ける。
「……その中の誰か一人だけでも接触出来れば、あとの二人とは芋づる式に接触出来る」
劇団での聞き込みを思い出して笹杖の動きが止まった。
「――持参したパンフレットを見せて千奈美に依頼した、って言ってたな。ということは……神森は住永と松葉の顔を知っていたということになるじゃないか」
何故見逃していたのだろう。笹杖は頭を掻いた。
一人ではなく二人とも顔を知っていたということは、一緒に居たのを見たから。一緒に居たのを見たということは、暴行事件を神森が目にした可能性が高いということではないか?
――高沢を被害者にすることで、全てのつじつまが合う。
だが、決定的なものがない。緒方の死体は出ていないし、住永と松葉に至っては神森との関係も見えてこない。それに何と言っても、神森鈴音の父である高沢政幸の行方が判らないんじゃあ話は一向に進まない。
しかし、だからといってこのまま放っておくわけにはいかない。父親に異常な執着心を持つ神森鈴音は、確かに人を一人は殺しているのだ。
「まずはあの不自然な空間を調べることだな」
お茶を冷蔵庫に直し、笹杖は光の部屋へ向かった。
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continue...
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2005/03/13(Sun)14:18:21 公開 /
昼夜
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昼夜さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
どうも、昼夜で御座います。
改めて全部載せたのですが、長いな。初めから読み返す読者様は皆無に等しいと痛感しました。まあ、推理小説なので長くても仕方ないか。
自己完結なコメントはこのへんにして(笑
もうクライマックスです。無理矢理感はつっこまないように。(ぇ