- 『玉響のように』 作者:ゅぇ / 未分類 未分類
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全角91550文字
容量183100 bytes
原稿用紙約263.7枚
序章:プロローグ
『奇跡は自然に反して起こるのではなく、私たちが自然だと思っていることに反して起こるだけである』―聖アウグスティヌス―
『流麗。俺、絶対戻ってくる。戻ってくるから、絶対待っててな!?』
『うん。……約束だよ』
『約束だ。忘れんなよ』
怪我をした指の治療のために、幼馴染みでピアノの良きライバルだった朝倉鏡はドイツへ経った。戻ってくる、という誓いにも似た約束を残して。それから6年。流麗の目に映るのは、TVや雑誌の中の「ピアニスト・朝倉鏡」だけである。塀から落ちそうになった流麗を助けたことが原因だった鏡の怪我をきっかけに、流麗は本格的なピアノレッスンから遠ざかったが、鏡はいつの間にかピアノ界のホープとして羽ばたいたのだった。鏡からは、何の音沙汰もない……流麗が今も想うのは鏡なのだけれど。
(でもマリアがいるもの。熱愛報道も、ホントっぽかった)
若く美しい邦人ピアニストの出現は、日本でのクラシックブームの火付け役となった。よく彼のドキュメントや密着取材が特集としてTVで報道されるのだ、自然、流麗もブラウン管を通して彼を目にすることが多くなった。
ついこの間TVで流れた、彼の熱愛報道。いつも鏡の傍にいて、それから鏡と同じように世界で活躍する24歳のピアニスト、マリア。彼女が、鏡の恋人だという。幼い頃の約束なんて、ただの遠い思い出なのかもしれない。いつからか、すでに諦めた恋だったけれど、流麗はずっと耐えてきた。きっともう会うことはないだろう。世界のスターになってしまった彼に会うことはないだろう。彼はあたしを忘れているかもしれない。けれど、それなら大丈夫。この想いは、心のうちに秘めておけるはず。
甘く情念深い音色。大通りの中ほどにある、小さな楽器店から漏れてくるのはそんなピアノの音色だった。
「何か良いのないかな……」
北条流麗(ほうじょうるり)は、そう呟いて楽譜を吟味する。馴染みの店主は、客が来ないのを見越して2階に上がっていた。入り口を入ってすぐこじんまりとしたピアノの展示場があり……といっても2台のアップライトと1台のグランドピアノ。3台の電子ピアノしかないものだったが、そんな展示場があり、様々なスコアを取り揃えたコーナーがある。そこからもう少し奥に入ると、先程の展示場よりは幾分立派に見える弦楽器のコーナーがあって、それからもっと奥に入ってようやく流麗のお気に入りのピアノが目に映るのだった。
そのピアノの脇に、幾枚かの写真が貼ってある。流麗が、ピアノをやめる10歳までに様々なコンクールで賞を獲ったときの写真だ。流麗がコンクールに出るときは、いつもここの店主が聴きに来てくれていた。
懐かしいことだ。観衆を右に見て、自分の想いをピアノの旋律に乗せて奏でるあの快感。あの快感、心地よさは忘れられない。流麗はピアノを愛していた。
「ふぅん……久しぶり。『舟歌』なんて」
ショパン曲集の中から、『舟歌』の楽譜ピースを見つけて流麗はピアノの前に腰を下ろす。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
奏でだした音色は、深く柔らかく切ない。ショパンとリストが昔から好きで、流麗は今でもまだ覚えている曲が多い。『舟歌』は、そのうちの1曲だった。おざなりに楽譜台にスコアを置いたまま、流麗は指を動かし続ける。一生ピアノを弾き続けていられたら良い。それだけでじゅうぶんだ。聴いてくれる人がいなくても、流麗はかまわなかった。ただ、毎日お気に入りのピアノの音色を奏でながら暮らせたら、それでかまわなかった。
第一章:天上の人
音楽雑誌を開いたまま、流麗はぼんやりと考えこむ。表紙に鏡が載っていると、思わず買ってしまう癖がなおらない。ただ、流麗の目当てはそれだけではなかった。
『稀代のバイオリニスト:奇跡の旋律』
そんなタイトルで、特集記事が組まれていた。そこに、若い貴公子の姿がある。カイン・ロウェルという名のバイオリニストで、まだ18歳かそこらのはずである。どこか神秘的な深緑の双眸を持っていて、彫りの深い西洋人らしい顔立ちをしていた。
バイオリンの音色は天下一品である。まるで一種の催眠術のように、人々を魅了して、その容姿の美しさゆえにファンも熱狂的だった。リサイタルのチケットは発売開始数時間で完売し、それが同じ学院内でともに学ぶピアニスト朝倉鏡とのコラボレーションだったりすると、数時間どころか数分ナ完売してしまうほどの人気なのである。
確かに容姿は、この世に惹かれない者がいないのではないかと思うほど卓抜したものであったが、流麗が虜になっているのはそれではなかった。
『全世界待望の新アルバム:森の妖精』
今までにカイン・ロウェルがリリースした3枚のアルバムは、全て持っている。流麗が虜になっているのは、その音色だった。最初に聴いたのが、彼が自身で作曲したという『星空のジオラマ』。そこに、彼のすべてが凝縮されていたようだった。
甘く深い音色。それが心を癒したかと思えば、哀しい旋律はまるで魔術ででもあるかのように、不思議と涙を湧き出させた。あれから流麗は、カインのバイオリンの音に吸い寄せられるかのように彼のアルバムを買い続けている。流麗の部屋のCDラックは、朝倉鏡(あさくらきょう)とカイン・ロウェルのCDでいっぱいだった。朝倉鏡も天才だと思う。だが、カイン・ロウェルのバイオリンは、何といえばよいのか、そんな言葉では現せない力を持っている。流麗はそう思う。一度でいいから、彼のリサイタルに行ってみたいものだと流麗はそう思って今、雑誌を前に考えこんでいるのだった。
『ヴェルンブルク音楽院:神の舞』
そう題して、日本主要都市東京、大阪、福岡でリサイタルがあるのだ。やや流麗に迷いがあるのには、わけがある。ヴェルンブルク音楽院から招待された3人の音楽家。それがカイン・ロウェルと朝倉鏡、そしてマリアなのである。朝倉鏡とマリアの姿を見るのは、何とも寂しい気がしたのだった。さて、カイン・ロウェルを選ぶか、鏡を避けることを選ぶか。それでさきほどからずっと、流麗はどうしようか迷っているのだった。チケットの発売日は、明後日である。発売開始数分で完売するようなチケットを買うには、相当の意気込みでもって臨まねば。どちらかといえばのんびりとした性質の流麗には、チケットを買う行為がどうにも苦手であったが、それを押してでも彼女はカイン・ロウェルのバイオリンが聴きたかった。
(……この次いつ来日するかわかんないし……)
後ろの席でもいい。行こう、と流麗はようやく心を決めた。
都会の夕暮れ。
流麗は制服のまま、いつものように楽器店に来てピアノと向かい合っていた。制服の胸ポケットには、明日の朝一番でチケットを取るための電話番号を書いた紙切れがしのばせてある。たったそれくらいのことで、少し心が浮ついているようだった。数冊のスコアをピアノの脇に置いていたが、そのどれも弾く気にならない。今までに厭というほど聴いてきたカイン・ロウェルのCDの音色が、頭のなかにこだましている。
流麗は、彼のデビューCDに入っていたパッヘルベルの『カノン』を思い出して、それを弾き始めた。彼のバイオリンの音色をひとつひとつ思い出しながら、流麗は自分でアレンジしながら鍵盤を叩いてゆく。どんな曲でも、流麗は自分の気分次第で自分の好きなようにアレンジすることができた。
思えば音楽の才能は、努力というよりは天性のものだったようだ。血のにじむような努力をしなくても、腱鞘炎になるほど何時間も練習しなくても、流麗の手指は驚くほど美しく細やかで情感のある音色を奏でる。不断の努力を重ねる音楽家よりもはるかに、人の心を魅了する音を奏でることができる。なぜ、と流麗は考えたことがない。だが、流麗が気付かないだけでそこには理由があった。
流麗は執着心がなかった。出来るならコンクールで1位を獲りたい、プロになりたい、そういう欲がなかった。ただどこででもかまわない、ピアノを弾きたい。ピアノが傍らにあればそれでいい。一番ささやかで、しかし一番贅沢な欲だけがそこに在ったから。だから、それにピアノが応えてくれる。音楽に、ピアノに愛された人間の手指は、神の音色を奏でる。それは、無条件に他のものの心を癒し、揺るがし、守る。
流麗の心が、カイン・ロウェルの音色に揺らいだのは。揺らいだのは、同じだったからだ。彼もまた、神に愛されていることを流麗の本能が感じたからだ。この人の音色は、同じだと。頭の奥で囁く声がしたから。それは幼馴染みの鏡に対する淡い恋心とは違った。いつ終わるかしれぬ恋心ではなくて、その想いは永遠に深く流麗の奥に根付くものだった。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
(……え?)
思うままに動かしていた手指が、止まった。バイオリンの音が、聴こえたからだった。いや、バイオリンの音が聴こえたからではなく、その音が流麗の心を烈しく捉えたからだ。それは、どうやら少し前から流麗の『カノン』に合わせて奏でられていたようだった。
「…………」
そろり、と流麗は後方の弦楽器コーナーを振り返る。そろり、という表現が滑稽なほどふさわしい仕草だった。聴こえてきた音色に、呑まれることを怖れるような、期待しているような瞳の色で振り向いた弦楽器コーナーで、一人の客がバイオリンの試し弾きをしていた。
背の高い、色素の薄い髪色の男である。サングラスをかけていて、その瞳は見えない。腰位置がやたらと高く、プロポーションは抜群だった。
彼が、ピアノの手をとめた流麗に向かって幾分尊大な態度で顎をしゃくった。その手はまだしっかり弓を持って、バイオリンを奏で続けている。曲はいつのまにかフォーレの『夢のあとで』に変わっていた。どうやら、弾き続けろ、という合図らしい。そのバイオリンの音は、流麗にはすぐ分かる唯一の音色で、混乱するまま彼女は再びピアノに向き直った。
『夢のあとで』も、カイン・ロウェルのCDでよく聴いている。ピアノ曲ではなかったが、曲の流れはじゅうぶんに知っていたから、流麗は男のバイオリンに合わせて指を動かし始めた。
(でも……だって、この音は……)
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
知っているのだ。この音色を。それは水か空気のように音もなく心に沁みこんでくる音色で、まるで頭がくらくらするような恍惚感を感じさせるもの。こんな音色を奏でる人間を、流麗は一人しか知らない。
(そんな……)
どこかで信じられず、しかしどこかで感じていた。彼だ、と思った。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫
すっ、と後ろで気配がした。男が弓を下ろしたのだった。動いていた流麗の指も、それに合わせてゆっくりと止まる。最後の最後まで洗練された音色が、ふっと空気に溶けて消えた。音が、色とりどりの粒子となって消えてゆくような錯覚さえ覚える。間違いない。
この音色を、あたしの耳が聴き違えるはずがない。
「何でこんなところに……」
確かめるよりも前に、言葉が口をついて出た。バイオリンを棚に戻した男は、幾分愉快そうな顔でこちらを見つめていたが、その双眸は愉快そうである一方でひどく真剣でもあった。
「何でこんなところに、とは?」
落ち着いた話し方である。ひとつひとつ、言葉を選んで話しているかのような印象を与える話し方だった。特に日本人と変わらぬ流暢な言葉だったが、それでも流麗の確信は揺らがない。バイオリンのうまい日本人だ、なんて発想はどこからも湧いてこなかった。
さっきの音色を奏でられるのは、世界中どこを探しても一人しかいないという烈しい思い込みが、流麗の中にある。
「こんな、小さな楽器店にあなたみたいな人がいるなんて」
はるか遠くの人だと思っていた人間が今目の前にいて、それなのに不思議とはっきりと話せている自分が、少しばかり奇妙に思えた。黄色い声で騒ぎ立てる、日本の典型的なファンとは毛色の違った少女を見つけて、男はむしろ好感をもったらしい。小さく笑って、数歩流麗のほうへ歩み寄ってきた。
「俺が誰か、わかるんだ?」
「……わかるわ」
少々無愛想ではないかと思われるほどに、あっさりと流麗は答えた。しかし心の中は、ひどく緊張している。
「なぜ?」
何で、ではなく、なぜと聞いたところにわずかな日本黷フ堅さが感じられた。物怖じすることもないまま、流麗はまっすぐに彼を見上げる。
「音を聴いたから……。神様に愛された人の音は、わかるもの。あなたが、きっと誰よりバイオリンを愛していて、バイオリンもきっと誰よりあなたを愛してるってこと、わかるんだもの。世界中探したって、一人しかいないわ」
緊張して口数が増える性質ではなかったが、今はなぜか饒舌になった。いつか生で聴きたい、耳にしたいと思っていた音色が思いもかけず耳に入って、流麗は一瞬の興奮状態に陥っているのだ。男は、周りに誰もいないことを確認してサングラスをはずした。
澄んだペリドットの深々とした双眸が、露になった。流麗がゆうべ見つめていた特集記事に載っていた写真と、同じ顔がそこにあった。写真で見るよりも、はるかに肌理こまかな肌と美しい顔立ちをしている。カイン・ロウェルだ、とじわじわ実感が湧いてきて、流麗は幾度か瞬きをした。
「きみの名前は?」
「流麗……北条流麗」
「ルリ? 聞いたことがある。ルリ・ホウジョウっていう名前は」
「え……?」
少し『ルリ』という発音がしにくいように見える。そこだけ、片言の日本語のようになった。
「日本人ピアニストのキョウが。知ってるだろう? キョウ・アサクラ」
朝倉鏡が、流麗の話をしたという。世界でも評判高かったルリ・ホウジョウはすでにピアノをやめた、と。そういえば、ドイツの音楽院で鏡とカイン・ロウェルはクラスメイトなのだということを、流麗は思い出した。そう、その音楽院のカイン・ロウェルを筆頭に朝倉鏡、マリアのリサイタルを聴きに行こうとして、ゆうべ雑誌と睨めっこしていたのだ。
(バカだわ、あたし。舞い上がって頭が混乱してる)
混乱している、と自分で自覚しているだけ冷静だった。混乱している、と気付いたせいで、カインを見る流麗の目に余裕ができた。
「おまえも楽神に溺愛されているようだな」
日本語の意味をまだしっかりと理解しているのかいないのか、やや態度がでかい。それに不快感など感じることもなく、こんな人なのかと目を見張る思いで流麗は立ち尽くす。
歩み寄ってきたカイン・ロウェルが、ひとつふたつ、鍵盤をたたいた。これも澄んだ美しい音がした。彼はバイオリンだけでなくピアノにも愛されているらしい。
「いい音だった」
態度はでかかったが、彼の音は繊細で柔らかい。ピアノの脇で積み上げられすぎてバランスを取れなくなった楽譜が一冊、音をたてて落ちた。拾おうとかがみこんだ流麗の胸ポケットから、紙切れがひらひらと舞った。
「なに? リサイタルに来るの?」
紙切れと流麗の顔を交互に見て、カインは訊ねた。
「チケットが……取れたら。噂では数分で完売だっていうから……」
「誰が目当て? まさかマリアではないだろう」
この人は、あたしの目当てが誰なのか本当にわからないのだろうか。流麗は拍子抜けする思いで、また瞬きをする。緊張のしすぎかもしれない。目がやたらと乾く。
「あたしは、世界中で一番カイン・ロウェルの奏でる音が好きなんです」
(……言った……)
一仕事終えたかのように、流麗は乾いた目をしばたたき、それから怖れるように一歩後ずさった。まだ耳の奥に、生で聴いたカイン・ロウェルの音色が残っている。そして、紛れもなく今、目の前にカイン・ロウェルがいることに流麗は半ば茫然としていたのだった。それで、彼が電話番号の紙切れとともに流麗に握らせた紙が何なのか、家に帰るまで気付かなかったのである。ありがとう、と囁くように言ってカイン・ロウェルは、それからすぐに店を出ていった。
第二章:神に愛されて
ひどく急な出逢いであった。こんなことがあったらいいなぁ、と心の奥底で願っていたことが夢に出てきた、そんな出逢いだった。家に帰ってからも、流麗は夕食も摂らずに惚けた顔でソファに座り込んでいた。都合の良い夢を見ているんだ、と流麗はさっきから何度も何度も思っているのである。だが、チケットセンターの電話番号を書いた紙切れとともに渡された『あるもの』を見るたびに、あぁ現実か、と思い直す。
―ヴェルンブルク音楽院:神の舞 S−16 ¥16000―
そう印字された長方形の紙が、別れ際カイン・ロウェルに渡された『あるもの』だった。流麗が、明日なかなかの覚悟でもって手に入れようと画策していたリサイタルのチケットだったのである。だからこんな都合のよいことがあるものか、と何度も何度もそれを見返した。見返しては、いや、偽物かもしれないと思って眉をひそめてみる。だが、その無駄な時間がひどく流麗の心をどきどきさせた。
(ほ……本物だったらどうしよう)
これは本物なのかと聞きたくても、あの異国の貴公子に連絡する術を持たないのである。信じるか、信じないか、選択肢はふたつしかなかった。
毎日、夢ではなかったかと疑ってチケットを見返し見返ししながら3週間あまりが経った。新しいクラスにも慣れて、ようやく授業を落ち着いて聞き出す頃である。リサイタルを明日に控えて、流麗は幾分そわそわしていた。自分がリサイタルに出るかのような、落ち着きのなさであった。
「流麗は明日何してんの?」
帰り道の街中にあるカフェでティラミスを口に運ぶ流麗に、小学校からの友人である戸田恭子が言った。ティラミスは、恭子のごちそうである。彼氏ができたとか何とか言って、その自慢話を聞かせたいらしい。昔っから、いつでもこれだった。彼氏ができるたびにケーキをおごるから話を聞け、と言い、失恋するたびに夕飯をおごるから話を聞け、と言う。今日は機嫌がいい。テニス部のさわやかな副キャプテンが恋のお相手だから、に違いなかった。
「あ……明日? 何で?」
「え、明日も話聞いてもらおうかと思って」
(そんなバカな)
「明日は家の用事が……ちょっと外せないわ」
「えぇ、そうなの? じゃあデートでもしとこっ」
(……はぁ……)
最初からデートにしておけばいいのに。デートがしたいのか、自慢がしたいのか分からない。どちらにせよ、明日大事な用事があるのは事実なのである。それは、流麗が生きてきた16年の人生の中で最も重大な用事にさえ思えた。小学生のころに幾度も参加したピアノコンクールだって、まるで緊張しなかったのに。今まで緊張したといえば、そう、英検の2次試験のときくらいだ。英語なんぞ話せるものか、と結局ニコニコしているだけで終わった英検の2級。アティテュード(態度)だけ満点で、見事合格したが、あのときの緊張だけは記憶に新しい。まあ、それだけだ。いや、あのときですら、これほどには緊張しなかった。もっと落ち着いていられたのだが。
(何だかなぁ……調子が狂うわ。幸運すぎて)
胸ポケットにわずかに感じるチケットの感触を楽しみながらも、やはりまだ疑っている。3週間のあいだ、片時もチケットを手放さなかった流麗である。食事のときもポケットにしのばせ、風呂やトイレに行くにも持ち歩き、学校はもちろん寝るときにすら枕元に置いておくほど。あげくのはてに、丁寧にチケットを入れている封筒が祝儀袋である。夜中に目を覚ましては、ちゃんと現実にあるかどうか確認までしていた。
何も知らない人が見れば、滑稽であったろう。いや、自分で自分の行動を思い返しても笑えるのだから。
「そういえばそろそろカイン・ロウェルと朝倉鏡のリサイタルじゃなかった? あんた騒いでたよね」
「へっ?」
ぼんやりと明日のことを考えていたところに、突然カイン・ロウェルと朝倉鏡の名前を出されて流麗はびくり、と肩を震わせた。普通の高校生なら、Jポップや洋楽のMDでも聴きそうなものを、流麗は毎日カイン・ロウェルの曲を入れたMDを聞きながら登校してくるのだ。朝倉鏡への流麗の想いも、カイン・ロウェルに魅了されてやまないことも、恭子はみんな知っているのだ。カイン・ロウェルと出会って、チケットまで渡された。その恭子にすら、流麗は事実を言い出せなかったのだった。どれほどチケットを見つめても、安心感は生まれてこなかった。幸せすぎて怖い、という表現を流麗は身をもって知ったのである。明日、無事にリサイタルを愉しんでこれたら、恭子に全部報告しようと思っていた。そう、はなっから疑ってかかっているわりに、明日のリサイタルには行く気満々なのである。
帰宅途中、流麗はわざわざ遠回りをして、明日のリサイタルが行われるホールまで見にいってから帰ったのだった。
5月17日。
学校なんて、とても行ける状態ではなかった。あれだけチケットが本物か偽物か、出会った男が本当にカインだったのか否か、自分の幸運が現実か夢か疑っておきながら、朝の7時に起きて服選びに夢中だった。
昼までに、数回封筒の中のチケットを確認した。それから、家を出る3時までに2回お風呂に入って、3回服を着替えた。結局オレンジのパステルカラーのワンピースに、白いボレロを羽織って落ち着く。だいたい開場時間が5時半なのに、3時に出るのがおかしかった。国際ホールまでは最寄り駅から20分程度―家からでも40分強あれば着くのである。自分の行動の滑稽さは、流麗が1番よく分かっていた。
音楽大学での講義が終わって早く帰宅した父親に声をかけて、流麗は外へ出た。いつもなら帰ってきた父親に紅茶を入れてやるのが流麗の日課だったが、今日ばかりはそれどころではなかった。家から数分のところにあるバス停から、最寄り駅までは10分程度である。時間はたっぷりありすぎるほどあったが、思えば馬鹿らしいほどにバスは早くやってきた。バスの座席に座ってから、流麗は2回ポシェットの中のチケットを確認した。バスの中の客がみんな、同じ行き先を目指しているように思えた。
(あたし、バカだわ……)
バカだわ、と思ってからもう1度、チケットとリサイタルの日時を確認する。見飽きるくらいに見つめたおしたチケットだったが、どうにも不安だった。
考えたりチケットを確認したりしている間に、バスはすぐに駅に到着した。小銭を数えるのがもどかしくて、千円札で260円の切符を買う。お釣りの10円玉をつかみそこねて、少しもたもたした。国際ホールの最寄り駅まで、急行でそんなにかからない。休日には友達や母親とよく行く駅なのに、今日はまったく知らない場所へ行くような気持ちがした。
1人で初めての旅にでも出ている気分で、流麗は終点の駅で降りる。ここでもやはり、一緒の電車に乗っていた客全員が国際ホールに向かっているような気がした。地下にあるホームから地上へ上がり、チケットの裏に描かれた地図を見つめながら歩く。これも飽きるほど、覚えるほど見たものだったが、地図を見ながらでないと不安だった。
国際ホールの真ん前までやってきて、そこでようやく流麗は落ち着いて建物を見上げた。
(着いちゃった……まだ4時前なのに)
3時に出たのだから、当然のことだった。もう少し迷うかと思っていたのが、意外にすらすらと場所が分かったのが、到着時間を早めたようである。それでも、流麗が1番に着いたわけではなかった。チケットを持った若い女性が、すでに何人か入り口の前で明るい笑い声をあげている。気付くと、入り口近くにミュージアムと描かれた小さな建物が隣接していた。そこに、『ヴェルンブルク音楽院:神の舞 グッズ販売!!』と描かれた看板が置かれている。写真集あります、というような広告が建物の壁にぺたぺたと貼り付けられていた。流麗の身体がそこへ行こうとしていたが、その建物近くできゃあきゃあと騒ぐ女性ファンたちの姿を見て思いとどまった。
(あの中には入りたくないかも)
怖気づいた、ともいえる。CDは全部持っているし、別に下敷きを買ったからといって彼らの奏でる音楽が聴こえるわけでもなかった。ホールへあがる石の階段の前で、流麗はもう一度チケットを確認する。それから、ホールの前にあるカフェへゆっくりと入った。まるで容疑者宅を張り込む刑事のような、仕草だった。
ワンピースにボレロを着た流麗は、意外にも人目を惹いた。今はクラシックのリサイタルでもジーンズを穿いてくる客が増えたようだ。幾分無作法ではなかろうか、と思いながらホールへ入る。チケットは、無事半券を切られてパンフレットと一緒に返ってきた。もちろんお客様このチケットは偽物です、と止められることもなかった。
赤い絨毯が敷きつめられてあって、壁は黒光りしている。壁に自分の顔が映って、思わずにやけていないか流麗は確認した。チケットは本物だったし、どんどん嬉しさがこみあげてくる。自分の顔の美しさに、通りすがる客たちが幾度か流麗のほうを見ていたことにはまるで気付かない。それどころか、自分がカイン・ロウェルとつい3週間前に出会ったことすらも忘れていた。
席は、1番良いところだった。1階の1番前で、それも真ん中であった。
(やだ、こんな良い席……)
そこで一瞬、カイン・ロウェルと自分が出会ったことを思い出す。あの時初対面で、なぜ彼はチケットを持っていたのだろう。しかもこんな特等席の。誰か特別な人にでも渡したかったのだろうか。ふと、疑念が湧きおこったが、今から始まるリサイタルの魅力の前にすぐ消え去った。
逸る心を抑えて席につき、流麗はパンフレットを広げた。『夢の競演』と銘打ってあり、カイン、鏡、マリアの順に顔写真とプロフィールが載っていた。
『カイン・ロウェル、18歳。5月17日生まれ……』
(あ、今日だわ)
『イギリスで生まれ、12歳で単身渡独。ヴェルンブルク音楽院に在籍』
あとは、彼が獲得した数々の賞の名が羅列されている。それから流麗は続けて、その下の段へ目を移した。
『朝倉鏡、16歳。3月14日生まれ』
流麗と同じ誕生日である。それは、昔からよく知っていた。
『東京で生まれ、10歳で渡独。ヴェルンブルク音楽院に在籍』
『マリア、24歳。2月1日生まれ。ドイツで生まれ、15歳でヴェルンブルク音楽院に入学、今も在籍中』
しばらく朝倉鏡とマリアのプロフィールを見ていたが、すぐに流麗はパンフレットを閉じた。このリサイタルは、前評判よりもはるかに超える評価と感動を呼ぶだろう。彼らの音色をよく知る流麗は、そう思った。
ブザーが鳴った。ものすごい拍手と歓声。若い客がひどく多かった。しばらくざわめきと嬌声がやまずに、流麗の隣に座る中年夫婦が小声で愚痴を言うほどであった。演奏順は、ランダムだった。若い客がついていることを意識してプログラムしたのか、マリアが出てきてはカインのバイオリンが、そうかと思えば鏡のピアノになったりした。鏡が出てきて、舞台中央で一礼をするときには、忘れずに流麗は顔を伏せた。鏡が、この幼馴染みの流麗を覚えている期待はほとんどなかったが、それでも顔をあげることはできなかった。前例のないリサイタルの形だった。少し落ち着かない心持ちがしながらも、流麗はどんどん惹きこまれてゆく。マリアの音もすばらしかったし、鏡の音もすばらしかった。力強くやわらかく、華やかで艶やかで。これが世界を魅了する音色なんだ、と改めて思う。
だが、そのなかでやはり流麗が最も魅了されたのはカインのバイオリンであった。すぐ目の前でバイオリンを奏でる彼の美しい手指がはっきりと見て取れて、流麗は涙さえこぼしそうになった。カインのバイオリンの伴奏は、マリアがつとめていた。鏡が弾くと、カインとともに前面に出てしまう感が否めないからだろう、と流麗は思った。
『カノン』だった。流麗の大好きなパッヘルベルのカノン。伴奏のマリアを、少し鬱陶しく思ったが、すぐに何も考えられなくなる。烈しくて、優しくて。それから朗らかで、哀しくて。女性的であったり、男性的であったり。完璧な音とはこのことを言うのだと思う。感情のすべてが、彼に支配されているかのようだった。彼のもとに神が舞い降りてきて、彼とともに音色を奏でだしているかのようだった。華がある。どんなに静かなメロディーのところであっても、まるで清らかな雪のような美しさがあった。甘く、切ない。時に鋭い。神に愛されているのだ、カイン・ロウェルは。
世界で最も神に愛されたバイオリニストなのだ。
流麗は、ふと自分の手指を見た。細く白い、長い指である。短い爪だが、形は美しい。ピアノの手だ。ピアノをやめてから6年間。流麗に弾けない曲は、ほとんどなかった。初見のスコアでも、すぐに弾きこなすことができる。歓声を浴びる音楽家たちを見て、今堰を切ったように懐かしさが心にこみあげてきた。
観客を右に見て、綺麗な音色を奏でる快感。観客の、幾分恍惚とした表情。忘れかけていた想いが、ふと蘇った。
神に愛されて……それがどんなに心浮き立つことか、改めて思い出した。
第三楽章:再会の刻(とき)
ふわふわと、身体中が浮いている思いがする。身体中を、あの音色がひたひたと満たしているような。リサイタルが終わって、すでに結構な時間が過ぎていた。あれだけ熱狂していた若いファンたちも、リサイタルが終わると取り澄ました顔でホールを出て行ってしまった。もしかすると、裏の出口などで演奏者がホールを出てくるのを待っているのかもしれない。
流麗は、しかしすぐに帰途につく気分でもなかったためにふらふらとホール内を歩きまわっていた。楽屋口までやってきてしばらく立ち尽くしていたが、流麗はすぐに踵を返す。係員もほとんど姿を消した中うろついていると、その楽屋口のすぐ手前に3つほどの部屋があるのに気がついた。金色の取っ手がついた、チャコールブラウンの重厚な扉である。貼り紙があった。
『ご自由に御使用ください』
大きめの明朝文字で印刷された貼り紙である。何を使用するのか、見ただけでは分からなかったので流麗はそっと扉を押し開けた。少し重い扉であった。
(……あ)
狭いとも、広いともいえない絨毯敷きの一室の中をのぞきこんで、流麗は思わず顔いっぱいに笑みを浮かべた。ピアノがあった。貼り紙には特に使用時間も書いていなかったから、流麗はまるで飛び込むように部屋に入る。黒光りする美しいグランドピアノにそっと歩み寄って、蓋を開けた。
(ベーゼンドルファだわ)
最高級のピアノだ、と流麗の笑顔がさらにめいっぱい広がった。なかなか触れることのできない素晴らしいピアノなのだ、鍵盤を覆う紅色の布をそっと取りはずして流麗は椅子に腰を下ろす。鍵盤が少し黄ばんでいて、黒光りする外見とは裏腹に意外と使い込まれているのが分かった。
これくらいの鍵盤の色が、1番好きだ。使い込まれていないような、あまりに真っ白の鍵盤だと、音が幾分硬くて少し味気ない気がする。
ぽーん、とドの鍵盤を叩いてみる。深みのある、何ともいえない美しい音がした。すぅっ、と身体中にしみわたるような音色に、流麗は満足して微笑んだ。父親が風呂上りにビールを飲んでは『五臓六腑にしみわたるとはこのことだ』だの何だのと言って幸せそうにしているが、そうだ。まさにこれだと思う。
「血統書つきのピアノだもの。愛されてきたのね」
いつもの癖で、小さくピアノに喋りかけて流麗は幾度か鍵盤をたたいた。昔から両親が仕事が忙しく、独りで家にいることが多かったせいか独り言が多いのが困る。1人でピアノに向かって話しかけては、1人で答えるという妙な癖がついてしまっていた。リビングにいる母親に、電話してるの、と聞かれることもあるほどだった。
「久しぶりだから……『ラ・カンパネラ』でも弾こっか」
せっかく美人なのにピアノに話しかけてばっかりじゃ男が逃げるよ、とよく恭子に言われる。いいのだ、男に逃げられても。ピアノがあればそれで、楽しく生きてゆけるんだから。
リストの『ラ・カンパネラ』を、ゆっくりと流麗は弾き始めた。鐘の音に似せた高音のオクターブで始まる、澄みきった感のある美しい曲である。流麗が弾くと、その高音のオクターブが本当に鐘の音に聴こえるようだった。北欧の教会にいるような、不思議な感覚がするのだった。
中学生のときにCDで聴いて憧れを抱き、自分でスコアを買って練習した曲だ。もともと暗譜は得意だった、今こうしてスコアがなくても問題ない。
まるでピアノを弾くために……はるか昔の作曲家たちが、己の音を再現させるためにこの世に遣わしたといっても良いような天賦の才能が、流麗にはある。流麗にもよくわからない。
曲の途中で、あれっ、と思うことがあっても指が勝手に動く。この指が、何もかも知っているかのように動くのだった。何も知らない人は、そんな大仰な、と言う。言うのだが、それでも指が動くのだから仕方ない。何に例えればよいだろう。簡単に言ってしまえば、反射神経みたいなものなのである。熱いヤカンに触れて、「熱っ!」と手を退けるのと同じ。あれっ、と思っても反射的に―いや、本能的に手指が動くのだった。
(素敵なバイオリンだったわ)
理想的な音色だった、とカインのバイオリンを思い返しながら流麗はピアノを弾きつづける。ペダルの響き具合も素晴らしく、ピアノが全身で流麗に共鳴してくれているのが分かった。
(……いいコ)
曲のクライマックスが近づいてくる。このピアノは、そこでどんな音色を奏でてくれるのだろうか。そんな愉しみが流麗の瞳を輝かせた。楽器には、それがたとえ全く同じ種類の楽器であっても、同じメーカーの楽器であっても、個性がある。どちらかといえば男性的で力強い音を出すのが得意なピアノもいれば、たおやかでおっとりとした音色を奏でるピアノもいる。少し極端なほどに潤った音色のものもいれば、乾いたドライな音色のものいるし、それから巧くバランスのとれた見事なエリートもいる。流麗がピアノを見る瞳は、人を見る瞳と同じだった。ピアノ、という名の同志を見つめる瞳だった。だから、彼らも流麗に応える。命などないように見えて、彼らはしっかりと息づいているのだ。そこには切り倒された木々の魂も生きている。その身ひとつで何百人もの人間の心を癒してやれるのだと、彼らは自信に満ちた心で佇んでいるのだった。そこに作曲家の魂が蘇ると、それはもう完璧な音色に他ならなかった。
「綺麗な音……」
曲の最後にくるクライマックスまで弾きあげて、流麗はそっと鍵盤から指を離し、そしてペダルから足を離した。ひと息ついて、ようやく流麗は落ち着いて部屋を見回し、そこでびくりと身体を硬直させた。
「どうも、聴きにきてくれて」
「え……あ……あの、チケット……」
いつからそこにいたのか、分からない。扉が開けられていて、そこに深緑の双眸を持った青年が立っていた。こうして改めてみると、標準的な日本人の身長よりもはるかに高い。彼の腰位置は、お父さんの胸位置と同じだわ。そんなことを思いながら、流麗は心を落ち着けるかのように二度三度、瞬きをした。
「あの、チケットありがとうございました」
本物だったんですね、とは言えなかった。
「おまえのピアノは、本当に見事だね。よほどピアノに愛されているとみえる」
イギリス生まれの美しい貴公子は、声楽も習っているのであろう美しい声で賛辞を送ってくる。意外なことだとは、思わなかった。自分がピアノを愛しているのと同じくらい、自分はピアノに愛されていると、流麗は知っていたからである。愛せば愛すほど、ピアノが自分に応えて美しい音色を奏でてくれることを、流麗はもうずいぶんと昔から知っている。
自分の美しい容貌が異性の目を惹くということにはまったく気付かないような娘だったが、ピアノのことに関してだけは誰よりも敏感だった。
「……あなたにそう言ってもらえると、ホントに嬉しい」
流麗の顔が、笑顔でいっぱいになった。世界中でもっとも神に愛されているバイオリニストに誉められるのは、何とも嬉しいことだった。
「もっと聴きたいな。他に何か弾けるものは? プロ並の腕なのに……もちろんCDなんて出していないんだろう?」
カイン・ロウェルは、確かに『もっと聴きたい』と言った。両想いだ、と思って流麗は飛び上がりそうに嬉しくなった。流麗が、いつでも『もっと聴きたい、聴きたい』と思うような音色を奏でる相手が、同じように自分の奏でる音色を『もっと聴きたい』と思ってくれたのである。何て素敵なことだろう、と思って流麗は長身のイギリス人を見上げた。
「カイン……さん」
「カイン、でかまわないよ」
人のことを「おまえ」と言うわりに、物言いはひどく穏やかで紳士的なように思われる。
「カインが、好きな曲は……」
まただ。また、夢にいるのではなかろうかと流麗は疑いだした。こんな都合のよい、夢のような出来事が起こるなんて。何かに謀られているんではないか、と流麗は思いながらも決して後に退かなかった。
「俺? 俺が好きな曲……ショパンが好きかな。ショパンのバラード」
流麗は、嬉しそうに笑って再びピアノに向き直る。ショパンの『バラード2番』を弾こうとしていた。4曲あるショパンのバラードの中で、流麗がもっとも気に入った曲だった。そっと傍らを見ると、そこにはやはり確かにカイン・ロウェルが立っていて、促すようにこちらを見ていた。そして弾こう、と指をあげたとき。
「カイン?」
わずかに開きっぱなしだったドアのほうから、声が聞こえた。カインがそちらを振り向くのと同じように、流麗も自然と顔をめぐらせる。その声が誰のものか、見当もつかなくて振り返ったのだったが、そこですぐに彼女は後悔した。後悔と同時に、何ともいえない複雑な気持ちがどっと押し寄せてきた。
そこに立っていたのが、朝倉鏡だったから。
第四楽章:切ない夜はカノンの音色に癒されて
空白の6年間が、戻ってきたかのように思われたのはほんの一瞬のことだった。ハッと現実に戻ったときにはもう、扉の傍らに立つ男はまるで知らない人にも見えた。
懐かしく、切なく、愛おしく、哀しく。そんな複雑な思いを胸にひそめたままで、流麗は一度は伏せた視線をそろりとあげた。カイン・ロウェルより少しばかり背が低く、どちらかというとやんちゃな印象を与えるような外見である。そのくせ線は細く肌も女のように綺麗で、日本人離れしていた。鏡はきっとあたしのことを覚えていない、と思ったのは間違いだったようであった。カインの傍らに、それもピアノ椅子に座っている少女を見て彼は棒立ちになった。流麗のことを、しっかりと覚えている眼をしていた。
「……る……カイン、何でおまえ……」
彼は確かに流麗、と言いかけたようだったがやめた。
「楽屋から出てきたらピアノの音が聴こえたから。そしたらこのコがいたのさ」
そっと大人びた笑みを見せて、カインが流麗の肩を軽くたたく。鏡が半ば茫然としたような風情でこちらを見つめていた。その一挙手一投足に流麗は緊張しており、そんな自分にまた緊張していた。
「幼馴染みなんだろ?」
何も知らないカインは、のんびりとそう言った。数年ぶりの幼馴染み同士の再会なのに、何故もっと抱き合って喜ばないのか、と不思議に思っているようなのが見てとれる。幾分訝しそうな視線で、カインが2人の顔を交互に一瞥した。
彼は知らないのだ。鏡が、必ず戻ってくるから待っていろと言ってドイツへ渡ったこと。流麗がそれを信じて、待ち続けていたこと。そして6年もの間、鏡からまるで何の連絡もなかったこと。流麗が、今でも昔のまま淡い恋心を抱いていること。何も知らないのだ。
あの茫然とした顔。幾分困ったような顔。もしかすると、約束を覚えていながら連絡をよこさなかったのかもしれない。流麗は思って、うつむいた。
「あ、鏡。そういえばマリアは? 4人で夕飯でも食べに行こうか」
カインが、他意もなくそう言う。神の音色を奏でる若い少女に惹かれたかたちで、彼はどうやらまだ流麗と離れたくないようだった。鏡がいやに慌てたような顔をして、また流麗はため息をつきたい思いに駆られる。これはひょっとすると、流麗を嫌っているわけではないのかもしれない。罪悪感のあるような複雑な表情を、彼はしていた。
「マリアは……楽屋においてきた。おまえがいないから、探しに来たんだ」
「何? 付き合って3年にもなれば、やっぱり倦怠期ってのがあるのかな」
「カイン」
カインの素朴な物言いを、鏡が牽制しようとする。この部屋の中で、ピアノとカインだけが堂々としていて、流麗はいやに恥ずかしくなった。もともと諦めの強かった恋だから、と流麗はうつむいた顔をあげる。鏡を困らせたくなかったし、鏡が他の女と一緒にいるところも見たくなかったし、それにこれ以上、鏡の浮かべる罪悪感をもったような表情を見たくなかった。何だか、ひどく自分のプライドが傷つけられるような気がするのだった。どうにもいたたまれない。鏡が流麗のことを、約束を破られて傷ついている女の子、というような表情で見るのがたまらなかった。確かに傷ついては、いるかもしれない。だが、申し訳なさそうな何ともいえない表情で見られるのは何であろうと厭だった。あたしは傷ついてなんかない、あんたとの約束なんて覚えてないわ、と声を大にして言いたい気持ちだった。
「流麗、悪い。あの……」
「久しぶりね、鏡。元気?」
だから自分の心を、ぐい、と違うほうへ向ける。ぎゅっ、と胸の奥が掴まれるような切なさを感じながら、流麗ははっきりと、それも嬉しそうに言ってみせた。そこには切なげな様子もなければ、恋をする女の甘さも何もなかった。幼馴染みが6年ぶりに再会して、それを素直に喜んでいる顔を、流麗は立派に演じてみせることができた。
(そうよ。演じることができなきゃ、女のコじゃないわ)
あたしは鏡がいないとだめなわけじゃないもの。鏡がいなくても、ピアノがいるもの。だからそんな申し訳なさそうな顔をしないでよ。哀しいし、それに何より腹がたつわ。
「あ……ああ、おまえは」
元気よ、と言って笑う。自分の笑顔が、何ともいえず乾いている気がして情けなかった。ピアノの鍵盤にそっと乗せていた左手が、少し震える。カインが、ふとそれを見た。
「まあ、恋人同士の邪魔をするのも悪いか。ルリ、ちょっと時間を」
流麗の手を鍵盤の上から退けて、カインはさっさと布をかぶせ、グランドピアノの蓋を閉める。何をするのかと思ったのも束の間、せっかく素晴らしいピアノに出会えたのにもう終わりなのかと流麗の表情に未練がましい色が浮かんだ。
こんなときなのにすぐピアノを最優先できる自分がいて、少し安心する。鏡を優先するようになったりしたら、自分は終わりだと流麗は思っていた。ピアノへの愛が、男への愛に移るようなことがあれば、それは自分がピアノをやめるときだと。それは自分が自分でなくなるときだと。そう思う。
「カイン? おまえ何を……」
カインが、ぐっと流麗の腕をつかんで歩き出した。見上げると、美しい横顔が幾分硬い。半ば引きずられるようにして、流麗は部屋の外へ連れ出された。鏡が追ってくることを途中で諦めたことを気配で知って、流麗は再び切なくなる。
「ルリ、ここで待ってて。動かないで、ここにいろ。すぐに戻るから」
頼んでいるのか命令しているのか分からない口調でそう言って、カインは楽屋口のほうへ踵を返した。すぐに戻るから、といったカインの言葉を信じて、流麗は手持ち無沙汰のままそこに立ち尽くす。どうせならピアノのある部屋においていってくれれば良いのに、と小さく独りごちた。
行き来するスタッフの姿もほとんど見られなくなって、裏口はひんやりとした空気を醸しだしていた。薄緑の鉄扉の上に、非常口と書かれたライトが病的にも思える光で当たりを照らしている。すぐ傍らの階段にも人影はまるでなく、いい加減心細く不安になった頃、不意に鉄扉が開いた。驚いて後ずさったが、鉄扉から現れたのがカインだと分かって大きく息を吐いた。さっき鉄扉とは反対方向に向かって歩いていったから、てっきりそちらから戻ってくるものだと思っていたのである。流麗の驚いた顔を見て、彼は不敵な笑みを美貌に浮かべた。落ち着いた美男子でいながら、もしかすると意外に悪戯好きなのかもしれない。
「車を先に出してきたんだよ」
流麗が訊く前に、彼は言った。流麗を丁寧に車の助手席に乗せてから、カインが運転席に乗り込む。どれほどの自由があるのか、リサイタルが終わった後は誰にも拘束を受けないようだった。流麗の都合を一度も聞かないで、カインは車のエンジンをかける。強引な行為を、強引と思わせないのが彼の妙技なのかもしれぬ。まったく不快感を感じさせないのがすごい、と思いながら流麗はシートに背をもたせた。よく考えると、会って間もない男の車に乗り込むなど危険極まりない行動だったのだが、流麗は助手席でホッとしたように息をつく。鏡と同じ空間から抜け出せた、というのが安堵感の原因だった。鏡の傍らにいると心持ちが落ち着かず、緊張する。自分のことを想っていない人間のことを必死に慕うのは、流麗のプライドが許さなかった。
「俺の泊まるホテルに、来てくれる?」
「……なんで?」
今日の昼間までは、チケットが本物かどうかで気を揉んだり、カインと出逢ったことが夢ではなかろうかと疑ってみたりしていたのが、今こうして彼の運転する車に同乗していると昔からの知り合いだったような錯覚を覚える。それが不思議で、流麗はほんの少し微笑んだ。
「いいから」
天上の人だったカイン・ロウェルの誘いを、流麗は断れない。どうせ今から帰るにしても、鏡のことを思い出して憂鬱になるだけだろうという思いが、流麗を少しばかり大胆にした。すいすいと道路を走り、ネオンの輝く都心の高層ホテルに着く。地下の駐車場に滑り込み、ごたごたした都会の街並みはあっというまに見えなくなった。
ホテルの中は、ほとんど誰もいなかった。フロントで鍵を受け取り、カインはすぐに流麗を伴って32階までエレベーターで上がる。それから『3206』と金字で描かれたルームナンバーの部屋の扉を、そっと押し開けた。来日しているあいだの、彼の拠点らしかった。
「どうぞ」
当然のように流麗を先に通す。知らず知らずのうちに緊張していたのか、唇が乾いていた。こんな近くに、あのカイン・ロウェルがいるのだと思うと、鏡のことなどごく簡単に忘れられそうだった。豪華な一室で、そこには当然のようにピアノがあった。グランドピアノの閉じられた蓋の上に、バイオリンケースが無造作に置かれている。
暖かな灯かりに落ち着いて、よくあたりを見回してみると驚くほどに大きな部屋であった。バスとトイレがどこにあるのか、よくわからない。ピアノが置かれているメインルームの右手にダイニングとキッチンがあり、左手に書斎、その奥に寝室があるようだった。
「どうぞ、座って」
ピアノの脇にある柔らかな皮のソファをすすめて、カインはキッチンへ立ってゆく。何をするのかと何気なくのぞきこむと、天下のカイン・ロウェルがお茶を入れてくれているのだった。
キッチンのほうで小さく物音がするほか、何の音もない静かな空間だった。時折座りなおしたときに、ソファの皮がきゅっ、と音をたてる程度である。5月とはいえ夜になれば幾分寒いなか、部屋の中は眠気を誘うほど温かく心地よい。
「紅茶で良かった?」
「あ……はい」
ソファの傍らにある透明のサイドテーブルに、カインがカップをそっと置いた。その手指が細く美しく、流麗は半ば見惚れるようにしながら軽く頭を下げる。夕陽色の紅茶が、透明感のある抜群の淹れ具合でもってカップの中で揺れていた。喉は渇いていなかったが、せっかく淹れてもらった紅茶がとても美味しそうに見えて口をつける。熱すぎず、ぬるすぎず、適度な温かさで紅茶が喉をおりていった。
カインは、流麗から少し距離をおいていた。ピアノ椅子にもたれるようにして、紅茶を飲んでいた。女と2人きりでいることに慣れているのか、それとも根っからの紳士なのか、穏やかで落ち着いた表情に笑みをたたえてこちらを見る。
「……鏡が好きなんだな」
紳士的、と思った瞬間にいきなりそんなことを言われて、流麗は思わずカップを取り落としそうになった。誰にも知られたくない心を、ほぼ初対面に近い男に突かれたかたちとなって、甘い香りのする紅茶を飲みくだす。
「…………」
何故か否定することもできないまま、流麗はおそるおそるカインを見上げた。相変わらず綺麗な顔をしている、と思う。彫りの深い美しい容貌と、鋭くきらめく深緑の双眸。高い鼻梁にすらりとした長身。これでは、鏡を超える人気が出るのも当然かもしれない。鏡の存在がなければ、流麗だってもしかすると一目惚れしていたかもしれなかった。
「何でだろうね、マリアといいおまえといい、キョウのどこに惹かれたのか」
ピアノではないだろう、とカインは言った。
「何で……?」
「キョウのピアノは素晴らしいよ。見事だ、きっとあれ以上の逸材はなかなかいない。しかし……」
しかし、と彼は言葉を続ける。
「おまえが理想とする神の音色ではないように、俺は思うよ」
綺麗な発音だった。母国語とは異なる日本語で、しっかりと丁寧に伝えようとしているのが雰囲気で分かった。言葉を、決しておろそかにしない厳しさがあるようだった。
「…………」
図星である。鏡への想いに、ピアノはそこまで関係なかった。小学生の頃の初恋を、いまだ引きずっているようなものなのである。いつも一緒にピアノを弾いていた少年に対する想いが残っているのは、流麗の律儀さによるところもあるかもしれなかった。待っていてくれ、と言って去っていったのだから、待たなければ。そういう気持ちもあったと思う。初恋と、その気持ちがあいまって、どんどん深みにはまっていったのだろう。
「だから連れ出したの? あの部屋から」
否定も肯定もしないまま、カインは瞳を伏せて微笑んだ。それがとても、格好よく見えた。
「ルリの指が、震えていたから」
不思議と、厭な気持ちはしなかった。図星をさされても、腹立たしくはならなかった。流麗は、自分でその理由が分かっている。知らず知らず、カインにすっかり心を許してしまっているのである。何もかも、カインのバイオリンが理由だった。CDを聴いていたときから、彼は神に愛された素晴らしい青年に違いないと思っていて。それから今夜リサイタルで彼のバイオリンを生で聴いてからは、心はどうにもふわふわと柔らかくなってたまらない。あんな音色を出せる、バイオリンに深く愛された男。流麗にとって、彼の奏でる音色が全てだった。あれだけの音色を出せる、それだけで彼に従っていく価値が生まれた。流麗の良いところでもあり、悪いところでもある。そして今、鏡と再会したことで、カインと出会った事実がようやく真実味を帯び始めてきていた。
「あんまり切ない顔をしていながら、それを必死で隠そうとしていた」
グランドピアノの上にあったバイオリンケースから、カインがそっとバイオリンを取り出した。バイオリンをいたわる優しい手つきだった。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
何もいわずに、彼は不意にバイオリンを弾き始める。パッヘルベルの『カノン』だった。再び鏡のことを思い出して幾分憂鬱になっていた心が、するすると溶けるように和らいでいくのが分かった。大好きな、曲だ。カイン・ロウェルのCDの中で、一番よく聴く曲だ。鏡の存在が、カインのバイオリンの音を聴くだけで消えていくように思われる。心が溶けてゆくのと同じように、思ってもいないほどあっさりと涙が頬を伝った。
会いたくなかった。
あんな切ない再会は、したくなかった。
第五楽章:岐路
『試みを怖れさせることで、勝ち取れたはずのものまで失わせる』
―ウィリアム・シェイクスピア―
『5月19日 PM4:00 ホテルのロビーで』
書かれた紙切れを、流麗はぼんやりと見つめた。よほど流麗のピアノを気に入ってくれたのだろうか、それとも一昨日聴き逃したショパンの『バラード』をどうしても聴きたいのだろうか。あの日ホテルから流麗の家の近くまで、しっかり車で送ってくれた。その別れ際に、また会おう、と渡されたのがこの紙だったのである。カイン・ロウェルが紛れもなく自分の傍らにいたときには不思議と現状を信じることができたが、こうして彼の姿が見えなくなってみると、またこれが夢なのか現実なのか疑わしくなってくるのだった。
(だって、カイン・ロウェルよ?)
夢にまで出てくるような、そんな憧れの人。一生に一度、握手でもしてもらってサインの一つでももらって、ついでにバイオリンの音色を聴かせてもらえたら。そう思っていた想い人が、まるで夢が叶ったかのように自分の目の前に現れて、チケットをくれて、それから憂鬱になった心をバイオリンで慰めてくれて、挙句の果てにまた会おう、だなんて。夢見ていたといっても、ここまで大それたことを夢見ていたわけではなかったのだから。こんな幸せで良いのだろうか、と思う。何かこのあとに、大きな不幸でも待っているんじゃなかろうかと。カインと親密に時間を過ごしたことも、鏡と再会したことも、今こうして高校の教室の中でぼんやりとしていると、現実味を持たなかった。
一昨日帰宅してから、この紙切れを見ては考えこんでいるうちにもう19日だ。きっと、ホテルに行けば必ずカイン・ロウェルと会えるだろう。頭が、分かっている。期待している。彼ともう一度会えること。頼めばバイオリンも弾いてくれるのではないだろうか、とそればかりを考えていた。とにかく彼の美貌よりも何よりも、バイオリンを聴きたいのだ。出来れば1日中ずっとでも、聴いていたい。
「流麗? ちょっと退いてよ〜、掃除できないよ」
クラスメイトが、不思議そうにこちらの顔をのぞきこんでいた。
「えっ!? あ、ごめん……」
気付くと終礼はもう終わっていて、がたがたと皆が掃除のために机を下げ始めたところであった。ぼんやりしていて、気付かなかった。慌てて立ち上がり、机を下げる。少し向こうの列で、恭子も怪訝そうにこちらを見ているのが分かった。確かに、この頃ぼんやりしすぎているのは、自分で分かっている。気付けばカインのことを、鏡のことを考えている自分がいた。まるで夢から覚めたようにあたりを見回しても、カイン・ロウェルや朝倉鏡を彷彿とさせるものは、欠片もなかった。だが、自分の手に視線を落とせばあの紙切れがある。流麗が書いたものではなく、カインの少し硬い日本語の筆跡だ。それを見て、今までのことがやはり現実だったのだ、と思い知るのだった。
ハッとして、時計を見た。もう3時半を指している。駅からホテルまで少し距離があるから、急がなければ間に合わない時間だった。慌てて机の横にかけてあった鞄をつかみとり、友達に慌ただしく挨拶をすると、流麗は短いスカートの裾を揺らして駆け出した。
「いい足してんなぁ……」
山根佑人(やまねゆうと)、という男子生徒が流麗の後ろ姿を見てしみじみと言った。
急行電車がなかなか来なくて、ようやく急行に乗ったときにはもうすでに3時45分だった。これでは駅に着くのが4時になってしまう。こういうときに、連絡先を知らないのは不便だと思う。普通の友達ならメールで連絡できるのに、と流麗はそわそわと時計に目をやった。座席に座って目を閉じても眠れるはずがなく、ただ過ぎてゆく時間に苛々とするだけだった。ようやくアナウンスとともにゆっくりと電車がホームへ入っていく。扉が開くと同時に一番前の車両から飛び出して改札を抜け、スカートの裾を幾分気にしながら階段を駆け上がる。地上に上がり、駅に沿って幾つかの路地を抜けると、居酒屋やバーが並ぶ通りが現れる。そこをまっすぐ走って、別の路線の駅近くにあるタクシーターミナルを横断する。するとそこが、ホテルの入り口だった。正式なエントランスではなく、タクシーターミナルに直結する裏口みたいなところ。しかし、それは先日カインが流麗を連れ出した裏口とはまた別のものだった。
時計は、3時59分を指していた。もっとも、流麗の腕時計が本当に正確だったとしたらの話だが。駅から、気合いで走ってきたのである。息を切らしながら、流麗はロビーに飛び込んだ。フロントマンが、何事かとこちらに視線を向けていた。
ちょうど客の団体がタクシーターミナルのほうへ出て行って、ロビーは一気に人少なになる。ロビーの隅に、あまり目立たないブースがいくつかあった。あたりを見回しても、カインらしき人は見えなかったので、流麗はひょいとブースをのぞきこんでみる。
(……うわ)
中年の男性がネットでアダルトサイトを見ていて、慌てて流麗は頭をひっこめた。なるほど、ブースに各1台ずつパソコンが置いてあって、ネットが使い放題らしい。5つほどあるブースを後ろからひょいひょいのぞきこんで、最後の1つのところで流麗は止まった。
パソコンの電源は入れられておらず、ちょうどその客は時計に目をやったところだった。やはりサングラスをかけているようだったが、後ろからでもすぐに分かる。明るい色素の薄い髪に、すらりとした長身。イギリス生まれの貴公子に、間違いない。
流麗はそっとブースの入り口に回った。おっと、というふうに、男がややのけぞる。どうやら彼もブースから出ようとしていたところのようだった。
「待たせてごめんなさい……!」
見上げると、笑顔が待っていた。待たされた、とも思っていないような顔で、流麗を見て紳士的な笑みを浮かべる。ただ、それがどんな意味をもった笑みなのかは分からない。神秘的といっても良い笑みだった。サングラスをしているから、余計である。
「よかった、来てくれて」
綺麗な顔で笑い、流麗の二の腕あたりを軽く叩く。ぽんぽん、と叩いて彼は言った。
「外は人が多いし……部屋でルームサービスでも取ろうか。ついついバイオリンに夢中になってしまってね、昼ごはんを食べてないんだ」
流麗を伴ってエレベーターのほうへ向かいながら、バイオリンを弾くジェスチャーをしてみせる。何人かの客が、カインに気付いたのか視線を向けた。だが高級ホテルに若い客の姿はなく、誰も騒いだりすることはなかった。それを知ってか知らずか、何とも堂々とした仕草でエレベーターに乗り、一昨日と同じ32階のボタンを押す。少しずつ、また現実味を帯びてきた今の状況に、流麗はひどく嬉しくなった。来日公演が終われば……いや、東京公演が終われば、こうして会うことなどもう二度とありえないのだということは、まるで考えてはいなかった。
「甘いものは好き?」
「……大好き」
そう、じゃあケーキセットでも頼もうね、と言ってカインがオーダーを取り始める。ケーキセットとパスタランチ、と言ったのが聞こえた。時計を見て、それから学校の鞄を見て、その鞄からのぞく教科書を見て、どんどん実感が湧いてくる。みんなが放課後遊んだりデートしているであろう今、あたしは大好きなカイン・ロウェルと一緒にいるんだ。しかもそのカイン・ロウェルが、あたしのためにケーキセットなんて頼んでくれている。永遠にこの時間が続けばいいのに、と流麗は思った。
今日のケーキは、艶々と輝くザッハトルテだった。上品にデコレイトされた金箔が目を惹く。綺麗に磨かれた銀のフォークが、きちんと添えられてあった。マイセンのティーポットとティーカップが同じ銀のトレーに乗せられていて、それをカインが当然のように手に取った。温められているとみえるカップに、音もたてずに紅茶を注いでくれる。
「シュガーは?」
砂糖は、といわないところが良い。流麗の偏見だ。クラスの男子が『シュガーは?』なんて言ったりしたら、気障すぎて卒倒するかもしれないが。
「ここのケーキは女性に人気があるらしくてね」
男とはいえ、そんなによく食べるほうでもないらしい。白い器に盛られた、ほんの少しのペンネを口に運んで彼はひどく満足そうだ。炒めた茄子を、さりげなく脇に避けているのが何とも滑稽だった。
(この人でも好き嫌いあるんだ……)
もしかすると、そんなに遠すぎる人でもないのかもしれない。
「おいしい?」
ザッハトルテはもちろん見ためのとおり、味も素晴らしかった。ショコラにありがちなくどい甘さはどこにもなく、さっぱりとした甘みが口の中にぱあっ、と広がる。その甘みが口に広がると同時に紅茶を飲むと、これがまた何ともいえない口どけ感を生み出した。カインの問いかけに、思い切りうなずく。良かった、というようにカインは笑った。
「そうだ、『バラード』を弾いてくれないか」
食事を終えて、ひとしきり学校のことやらリサイタルのことやら話したあと、たまたま音楽の教科書を見つけてカインが言った。たまたま、といったふうだったが、流麗にはそれが本題だということが直感的に分かった。ピアノを聴くためだけに呼んだのだ、といえば確かにそうかもしれなかったが、それは流麗にとって決して嫌なことではなかった。自分の姿を見るよりも前に、ピアノの音色を聴いてもらったほうが自分を分かってもらえるような気がする。流麗は、カインを見て笑った。
「ケーキセットのお礼に」
ピアノ椅子に座ると、気持ちがひどく落ち着く。すうっ、と心に澱んでいたもの全てが溶けてなくなっていく思いがするのだった。
「『バラード2番』でいいですか」
もちろん、とカインは言った。
心がどんどんピアノにシンクロしていく。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
最初は静かに始まって、それから突然烈しくなるところがある。そこが、いつ弾いても緊張する一瞬だった。ショパンは、その日何を考えていたのだろう。静と動、はっきりと分かれるこの箇所を作曲するときに、彼は何を考えていたのだろう。
(この曲は、もしかしたら恋かもね)
ピアノに問いかける。ずっとひそやかに秘めていた想いが、ふとした拍子に烈しく溢れだす。どうしたって止めることができない、人の想い。想いはいつだって『重い』から『想い』なのだ。流麗はそう思っている。音には、霊力があるんだと思っている。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
(それとも、抑圧された怒りかも)
ねえ、どう思う? と流麗はピアノに話しかける。ピアノを弾いているときばかりは、カインのことをまるで忘れていた。どんなにカインと出会って歓喜に浮かれても、流麗はピアノのことだけは決して忘れなかった。
…………♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫
ぱちぱち、と拍手の音がした。激しいメロディーのまま終わって、そっと指を離す。いつもこうだった。ピアノを全力で弾き終えたあとには、何となくぼんやりとした、ふわふわとした気分になる。それは何ともいえない快感だった。
「『愛の悲しみ』を知っている?」
「知ってるわ」
「あれの伴奏を頼もうか。俺がバイオリンを弾くから」
ぱっ、と流麗の顔が輝いた。カイン・ロウェルの伴奏を!? 素直に嬉しさが顔に出る。弾けるかどうかも確かめないで伴奏を頼んできたカインの強引さにすら、気付かなかった。細かいスコアの音符なんて、知らない。だが、ピアノを信じて指を動かせば、その曲にふさわしいように音色が奏でられることを流麗は理解している。どんなに突然のリクエストでも、流麗は決して動じなかった。ただカイン・ロウェルの伴奏ができる、あの音色の手助けができる、それだけで流麗は幸せに思った。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
それは、えもいわれぬ時間だったと思う。流麗は、決してカインのバイオリンが主役だということを忘れてはいなかった。あくまで伴奏だ、ということをしっかり理解していた。それをピアノに言い聞かせるのだ。
(今はバイオリンを引きたてるのが、あなたの役目なの)
これは癖だ。1人心の中で、ピアノに話しかける癖。
美しいバイオリンの音色。カインの奏でる神の音色を、後ろでそっと包みこむ。決して前へ出すぎず、後ろへ下がりすぎず、適度な距離をもってバイオリンの音色を助ける。ピアノはもちろん、流麗に応えてくれるのだった。流麗のピアノの音色がバイオリンの音色を包みこむことで、バイオリンの音色はさらに深みを増し、驚かんばかりに澄んだ音を弾きだした。カインが、満足そうに瞳を閉じる。今、2人はひとつになっていた。2人の想いが、シンクロしていた。それがひどく心地よくて、流麗もまた瞳を閉じる。恍惚とした時間。バイオリンはカインだけでなく流麗さえも愛し、ピアノは流麗だけでなくカインさえ愛し、それが至上の音楽を奏でることを可能にしているようだった。……鳥肌が、たった。
(……あたし、今1番幸せかもしれない)
流麗の顔から、何とも幸福そうな笑みがこぼれた。
奇跡は続く。
「何?」
ピアノ椅子からソファに再び移って、流麗はいくぶん叫ぶように問い返した。
「だから、ヴェルンブルク音楽院に一緒に来ないか、と」
「え……」
「そんなに驚くことではないだろう? おまえのピアノを聴けば、学院のお偉方だって来独を勧めるさ」
自分のピアノが世界に通用するものだと、流麗はしっかり分かっている。天才と謳われる鏡のピアノの音色にすら、何かしっくりとこないものを感じることがあるのだ。他の何に自信がなくとも、ピアノにだけは誰より自信があった。世界中の誰よりも、ピアノを愛している。他の何をおいても、ピアノをまっすぐに想うことができる。それだけが流麗の強みだった。だが、カインに面と向かってヴェルンブルク音楽院に来いと誘われると、驚愕のあまりの声が出なくなったのだった。流麗の煌めく双眸が、まっすぐにカインを見上げる。
「あたし……でも」
「もともと俺たちと対等の立場でピアノを弾いているはずの人間が、日本にいただけの話だよ。ほら、あるだろう? たとえばファンタジーか何かで、1人の主人公が7人の仲間を探し集めて同志になるとかっていうのが。それだよ。俺は、神に愛された同志を見つけたんだ。俺のエゴかもしれないけれど、俺はおまえを一緒に連れて行きたい」
「…………」
「俺は、おまえを連れて行きたい。できることならずっと、おまえのピアノを聴いていたいよ」
ひどく冷静な口調で、ひんやりとした容貌で、しかし真摯な瞳で熱っぽく口説いてくる。まるでプロポーズのような言葉に、頭の芯がくらくらした。
ああ、何と夢のような話だろう。たまに夢で見るくらいの、そんな憧れが今現実になろうとしている。あたしは早死にするんじゃないだろうか、と流麗は思った。頭がぼうっ、としてきた。
「あたし……ドイツ語できないわ」
「俺が教えるさ。ずっと傍にいて、サポートする」
「学校があるし……」
「俺が直接話をつけに行くよ」
「でも家族だって……」
「家族にも俺が」
「ドイツに行ったって、住むところが……」
「俺の家に住めばいい。家賃もタダだし、おまえのピアノなら特待生として学費だって免除されるに決まってる」
どんどん、自分の心が傾いてゆくのが分かる。自分を夢から現実に引き戻すように、流麗は数え切れない不安を挙げていく。しかしカインは、それを片っ端から片付けていった。もしも。……もしも、この人とともにドイツへ行って、毎日彼と音楽ができたらどんなに良いだろう。学校、それからドイツ語ができないことだって、そんなことはまるでどうだっていい。それほど流麗はピアノを愛していたし、カインのバイオリンに惹かれていた。
(でも、こんな大事なこと……)
「ルリ、一緒に来てくれないか。おまえの音色は、俺の理想の音色なんだ。こんなにもピアノに愛された人間を、俺は見たことがない。必ず俺は、おまえを守るから」
こんな大事なことを、今ひとりで決めてしまうわけにはいかなかった。
「……もう少しだけ、考えさせて……」
これが現実なのか、夢なのか、また悩まなければならない。
「俺は明後日まで東京にいる。このホテルにいるから、自分がどうしたいか決まったらここのフロントに。話は通しておくから」
ぐらぐらと自分が傾いてゆくようで、揺れていくようで、流麗は早くカインの熱っぽい口説きから逃れたかった。カインの美しく整った容貌が、いつもよりさらに美しく見えて怖ろしい。彼の瞳を見るのが怖かった。
「ルリ、俺は待ってる。自分のしたい道を、選ぶんだ。おまえには手に入れられるものがたくさんあるんだ。試みることを怖れるな。いつだってピアノはおまえを想っている。自分のしたい道を選ぶんだよ」
半ば適当に頷きながら、流麗は鞄を手にとって扉をほうへ歩いていく。豪華なホテルの部屋の造りも、まるで目に入らなかった。
これは岐路だ。あたしがどう歩いてゆくかの、岐路だ。道はふたつ。ピアノのために、ピアノだけを見て歩いていくか。それともいつか何かの仕事について、時折ピアノを奏でるだけの道を歩いていくか。
これはあたしの一生を決める問題だ。間違ってはいけない、と思う。だが、どちらが間違いかなんていうことは分からない。月並みな言葉だったが、人生は一度しかない、とは本当のことだと思う。
(あたしの人生はあたしのもので、あたしの人生は一度しかないわ)
流麗は瞳を閉じて考えた。どうすれば、後悔しないだろうか。答えは決まっているようなものなのに、流麗はそれでも考えた。
もしもカインの言葉が嘘だったら? ドイツ語ができなくてもサポートするなんて、嘘だったら?
(自分で勉強できるわ。死ぬ気になれば、何だってできるわ)
俺の家に住めばいい、と言ったのが嘘だったら?
(……自分で住むところを探す)
学校や家族の許しが出なかったら?
(あたしが自分で説得してみせるわ)
それですべてがダメだったら?
(そうしたら、諦めるわ)
あたしは無力だ。でも、あたしはそんなにいい加減じゃない。一生ピアノだけを弾いて、ピアノのために生きてゆけるなら、いくらだって努力できる。ピアノが好きだもの。好きって気持ちは、何よりも強く何よりも美しい。
さっきカインのホテルから帰ってきて、まだ数時間しか経っていなかった。
「ドイツ……」
一瞬、胸が締め付けられるような痛みを感じた。緊張のためかもしれなかった。あたしは今岐路に立っていて、ひとつの道を選ぼうとしている。防音室に置かれたピアノを、ふと一瞥した。ピアノが、こちらを見ているような気がした。ずっと一緒だよ、と。
流麗は家を飛び出した。
夜の街の明るさも、雑踏もまるで目に入らなかった。
(神様、見てて)
駅からホテルまで、自分でも驚くほどの速さで走って。さっきはあんなに曖昧で戸惑った気持ちで出てきたロビーを横目のフロントへ飛び込む。カインの名を告げると、もうすでに話を通していてくれたらしく、すぐにカインの所在を確かめてくれた。
エレベーターが32階にあがるまでが、もどかしかった。自分の中に、こんなに熱く突っ走るものがあるなんて思わなかった。エレベーターが32階に着き、まるで扉をこじあけるようにして飛び出す。『3206』の部屋。ドアホンを、しつこいほどに鳴らした。
扉がひらいたとき、カインは笑っていた。流麗を部屋に通して、さも愉快そうに笑っている。流麗は、怪訝そうに彼を見上げた。
「なに?」
「……いや、きっと今日中に良い返事をもってくるんじゃないかと思っていた」
見透かされている。
「毎日、バイオリンを弾いてくれるの?」
「弾いてあげるよ。一緒に来てくれるなら、いくらでも」
「……なら、あたし頑張る。行くわ」
カイン・ロウェルが、何ともいえない嬉しそうな表情で笑ってくれる。流麗はピアノが好きだった。音楽が好きだった。カインのバイオリンが好きだった。後悔したくない。したくないし、どうせ一度の人生ならば、自分の好きなことをして生きたかった。その道が今、目の前に開けているのだ。チャンスが、目の前にあるのだ。ここでそのチャンスを逃すことが、紛れもなく後悔に繋がると思った。
「決まりだな。これ、日本での俺の携帯番号。持っておいて」
大阪・福岡公演が終わったらまた東京に戻ってくるから、とカインが言った。
一世一代の大博打だ。あたしは、飛び出すんだ。どんなことがあっても、選んだ道をまっすぐ着実に歩いていくんだ。ピアノがいてくれる、きっと大丈夫。
『試みを怖れさせることで、勝ち取れたはずのものまで失わせる』
―ウィリアム・シェイクスピア―
第六楽章:心のメロディー
ドイツの主要都市ミュンヘンから北西へあがったところに、ローテンブルクという小さな街がある。中世の名残りが色濃く残るその街は、まるで中学生の頃に熱中していたRPGのようだった。カインたちの来日公演が全て終わった6月初旬、編入手続きと顔合わせ、ということで流麗はカインに従って来独した。幼い頃に乱気流に見舞われてから、ひどく苦手になった飛行機に揺られて珍しく機嫌が悪い。
「何、緊張してるの?」
両親は音大の講師であることが幸いしたのか、カインの直談判によってすぐに承諾した。特に母親のほうは何度か演奏会でドイツへ行っており、日常会話本を何冊か手渡してくれた。両親の要望で、学校へもすぐに話が通じた。その過程のどこかで、必ず誰かが止める。誰かがストップをかける。そうすればドイツ行きを思いとどまれるかもしれない、と最後まで思っていた流麗としては驚くほどスムーズに話が進み、引っ込みがつかない状態まで追い詰められたのです。思いとどまるきっかけはまるでなく、流麗のピアノを知っている者たちは皆手放しで喜んだ。
「緊張しないと思ってるの?」
ドイツまでの飛行機のなかで、すでにカインとは打ち解けた気がする。ここまで来ると、さすがにカインと出会ったことが夢だ幻だ、とは言っていられなくなった。
「さあ、あれだけ人前で、それも暗譜でピアノを弾きこなす子だから」
「緊張するわ。……もう頭がくらくらして」
まだ身体が揺れている心持ちがする。しかし、目の前に広がる街並みは何ともいえぬ美しいものだった。6月だというのにクリスマス専門店があるらしく、クリスマス商品が並んでいる。この街並みが、気に入った。カインの家は、アパートではなくしっかりとした一軒家だという。ドイツ人は物音にひどくうるさいそうで、安いアパートなどでは夜バイオリンを弾くことができないのだと。寮に入るのは嫌だったらしい。俺は共同生活が苦手だから、と彼は言った。
『Guten Tag,Guten Tag……』
あれがヴェルンブルク音楽院だよ、と指差された方向には、教会らしきもののもう少し奥に見える立派な建物があった。煉瓦づくりの荘厳な建物で、お寺で言えば本堂みたいなものが正面にどんと構えている。その両脇に、尖塔の建物がふたつずつ。はるか昔から今に伝わる名画のような、そんな美しい風景だと流麗は感心した。感心しながらも、とりあえずは最初の挨拶がうまくいくか、と『こんにちは』を唱え続ける。
サングラスをかけたカインの姿が人目を惹いたが、彼は何ということもなく流麗を伴って学院内へと足を踏み入れた。何人かの学生が、カインを見つけて声をかける。どうやらここでも人気者のようだ。その神秘的な美貌には、不思議なカリスマ性があるのだろう。
「とりあえず理事のところへ行こう。話は通してあるから」
美しい古さを感じさせる建物の中、中庭に面した廊下をずっと歩いていく。下は石造りで、歩くたびにカツン、カツンと乾いた靴音を立てた。突き当たりまで廊下を突き進み、階段を上っていく。授業中なのだろうか、建物内であまり人とすれ違うことはなかった。
(よく考えたら……やっぱり鏡とかマリアもいるのよね)
ここまで来て、またあの切なさが首をもたげる。ふとした拍子に生まれる怯えを、流麗はぐっと唇を噛みしめてこらえた。階段を上って左へ曲がり、またその廊下をずっと行ったところに古びた扉があった。綺麗、とはとても言えないものだったが、不思議と汚いとは思わなかった。中世の昔から連綿と続いてきた歴史を感じる、そんな荘重な美しさだった。
失礼します、とか何とか言ったのだろうか。カインが何かドイツ語で喋り、扉を押し開ける。カインのあとに続いて入ると、正面の机のところに白髪まじりの女性が腰をおろしていた。品のよさそうな老婦人だったが、顔の彫りが深いだけにひどく厳しそうに見える。
彼女が何かを言ってこちらを見つめるので、流麗も思わず見つめ返した。カインが流麗を一瞥してぺらぺらと何かを喋って、理事と思われる老婦人が微笑し、頷いた。
『Guten Tag』
(んっ? 今グーテンタークって言った?)
自信はなかったが、とりあえずこちらを見て話しているのだから何か返さねばならないだろう。そう思って、言ってみる。
『……Guten Tag』
二度三度、理事は頷いて流麗に握手を求めてきた。手を差し出されるままに、手を差し出す。老婦人とは思えない力強さで手を握られて、思わずどうしたら良いのかわからないままお辞儀をしておく。ドイツの習慣がどういうものなのか、今考えている余裕などなかった。
そこで理事がカインに目を移す。流麗のことを喋っているようだったが、早口で何を言っているのか分からなかった。ただカインと理事の会話が終わるのを待つ。
「学生に紹介するって。大講堂に行こう」
「へっ、紹介!?」
「ああ、俺が通訳するから平気だよ」
(勘弁してよ……)
いくら本番に強くて、あまり緊張しない性質だと言っても。身体の右側に観客をおいて、1人ピアノを奏でるのとはわけが違う。あまり無愛想にするわけにもいくまい。しかも今思えば、このカイン・ロウェルに傍にいてもらって、そのうえ通訳までしてもらうなど。
(絶対あたし、女の子ウケ悪いわ……)
だからといって、ここで泣いて帰る? 駄々をこねて困らせる? いや、そんなわけにはいかない、と流麗は片手で額を覆った。世界のカイン・ロウェルが一緒にいてくれるんだもの。大丈夫よ、大丈夫。
理事はついて来なかった。カインの後ろについて、ただ流麗は方向もわからぬまま歩いていく。大講堂というが、どれほど広いのだろう。とりとめもないことを思いながら、流麗は歩いた。カインはごく当然のことながら、このどれだけ広いかもよく分からないほど広い学院内を迷うことなく歩いていく。いい加減、この学校はどうなっているんだと思い始めたころにようやくカインが言った。
「ほら、あそこ」
指差した正面は、チャペルにもなっているようだった。大講堂というだけあって、広い。観音開きの重厚な扉は開け放されていて、何だかもうものすごく人が集まっているのが見て取れる。思わず流麗は、肩をすくめた。
(ここ、こんなに人がいるのね)
どうせ自己紹介とかさせられるのだろう。さすがにカイン以外知り合いがいないとなると、流麗の強心臓も幾分弱気になる。知り合いといっても、そう。何度も何度も夢か現実か疑った相手なのである。いつ消えてしまってもおかしくない、とさえ思う。
「ルリ、自己紹介できる?」
「……ん」
口数も、自然と減った。相手は外国人なのだ。通じるだろうか、それとも。
(いや、でも挨拶してるってことくらい通じるわよ)
1人無理に納得しようと、幾度か頷いてみる。それを愉しそうに見下ろしてくる天下のカイン・ロウェルが、今日は何だか憎らしく見えた。
カインが流麗を伴って講堂に入ると、一瞬波のようにどよめきが広がった。カインが女を連れて戻ってきた、というのが彼らの一大事だったらしく、流麗は自分に注がれる大量の視線をひしひしと感じる。とりわけ厳しい目線を感じるのはやはり、女子学生からで。視線で人を殺せるなら、あたしは今頃八つ裂きにされてるわ。流麗はなるべく誰とも目をあわさないようにしてカインのあとに従った。講堂の壇上には、音楽院らしい見事なグランドピアノが置かれている。それを見て、ようやく流麗は落ち着きを取り戻した。
壇上に進み出たカインと数人の講師らしき人間が、何か会話を交わしている。そして、カインが何度か頷くと流麗のほうへ向かってきた。
「ルリ、名前を」
マイクを渡される。やっぱりそうなるのか、と流麗は小さく息をついてマイクを握った。
『Ich heiβe Ruri(あたしの名前はルリです)』
一度声を出すと、驚くほど心が静まる。すっ、と落ち着くのが自分でもわかった。一気に人前に立つ感覚を思い出す。綺麗に澄んだ声に、男子学生が思わず嬉しそうな表情を見せた。
それ以外ドイツ語がわからずに、流麗は日本語を話し出す。
「ドイツには初めて来ました。よろしくお願いします」
すかさずカインが通訳をしてくれて、それから学生と講師たちの大きな拍手が流麗を包んだ。それでもやはり、拍手もせずに厳しい瞳でこちらを見つめる女学生たちはいた。その中に、マリアの姿もある。無意識のうちに鏡を見つけた流麗は、図らずもマリアの姿まで目に映してしまったのだった。何だかひどく厭な気分になって、気持ちを落ち着けるようにピアノを一瞥した。カインが、講師たちと軽く言い合っているのに気付かなかった。
「ルリ、おまえ今からピアノを弾ける?」
「えっ、ここで?」
「そう、そのピアノで。俺が話をつけていたんだが……マリアのように活躍し始めた学院生たちが卑怯だとゴネたらしくて」
それはそうだろう、と流麗は他人事のように冷静に頷いた。これでは顔パスも同然である、努力で学院に入って来た者にとっては我慢ならないことだろう。
「ここで弾いてみなさい、と。それを編入試験にするって言っている。まったく、編入試験はパスだって話だったのに……」
ピアノが弾けるのか。流麗の顔が輝いた。言葉も通じない異国の地、ドイツ。長時間飛行機に揺られて、こんなところまで来てピアノが弾けないとしたら、そのほうがつらかったかもしれない。何しろ、さっき何気なくピアノのメーカーをチェックしてみると天下のスタンウェイではないか。スタンウェイのグランドピアノは、なかなか弾けない。買うにしても、予算は700万以上の豪華絢爛なピアノである。これが弾けるなら、別に編入試験でも何でもかまわないと流麗は思った。
どうやら今度は、カインと講師たちの間で課題曲について揉めているようだった。今日来たばかりで、いきなり課題曲を言い渡されても困る、といった内容だと何となく知れた。知っている曲名が講師の口からひょいひょい出てくる。
(何でもいいから、早く弾かせてくれないかしら)
そう思うところが、流麗の最も流麗らしいところかもしれない。ピアノのことに関すると、まるで物怖じということを知らなくなる。一堂に集まった学生たちの好奇の視線も、今はそれほど気にならない。
「ルリ、暗譜で……」
「何?」
流麗の顔が、ひどく浮き浮きとしたものであることにカインが気付いた。不思議な生き物でも見るかのように、一瞬カインは目を見開いたが、すぐ安心したように言葉を続ける。
「そんなに弾きたいのか。『木枯らしのエチュード』は弾ける?」
ピアノピース一覧には難易度上級の上、つまり一番難しいランクに位置づけられている曲のひとつである。ショパンの『木枯らしのエチュード』。
講師たちが流麗の反応を窺っているのが分かった。学生たちは、今日来独した編入生に、そんな難しい曲目で、しかも公開試験を迫るのかと驚きの表情を隠せない。
雰囲気で、彼らが無理だ無理だとささやき始めたらしいのを、流麗は感じた。流麗が、飛行機に乗ってからずっと緊張していたのをカインは知っている。それだけに、いつになく不安になったのだろう。気遣ってカインがこちらを覗き込んできた。
「ルリ……」
「このピアノで弾くのね?」
「ああ」
よく使い込まれていそうな、美しいグランドピアノ。
流麗が、ひどく嬉しそうな顔で笑った。
『木枯らしのエチュード』。
弾きだしの音を幾つか拾って、感触を確かめる。あぁ、良い音だ。自然と流麗の顔に笑みが浮かんだ。それを見てカインは安心したのか、講師の横に静かに腰を下ろした。
今はもう、流麗の目にカインは映っていなかった。黒々と輝くスタンウェイの高級ピアノ。プロを目指すピアニストたちに奏でられて、ずいぶんと熟した雰囲気を醸しだす。よく弾きこなされたピアノにありがちな、鍵盤の薄い黄ばみ。弾きこまれているために、鍵盤の端々の塗料が剥げて、木が見え隠れしている。指に吸いつくような優しい感触に、流麗は幾度かそっと鍵盤を撫でた。
(……『木枯らしのエチュード』だって)
ね? この季節の課題曲にするには、ちょっとナンセンスね。思わない?
ピアノ椅子に腰掛けたまま流麗がなかなか弾き始めないので、さすがに学生たちが囁きだした。講師陣が、ひどく厳しい顔で流麗の様子を見ている。カインだけが、動じる様子もなく静かに座ったまま瞳を閉じていた。
(…………)
でも、仕方ないわ。あなたが音色を出してくれるなら、たとえどんな曲でも。
そっと、鍵盤に指を置きなおす。静かな旋律から始まるエチュード。そう、今が6月であることを忘れさせる木枯らしの予感。冷たい風の兆しが。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
弾き始めの音色で、講師陣が色めきたった。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
数小節で烈しい木枯らしの旋律に移る。そこで、学院生たちが顔色を変えた。レベルの差はあれ、皆プロを志す音楽家の卵なのだ。それが神に愛された音色なのかくらいは分かる。自分にその音色が奏でられるかどうかは別として。
木枯らしが吹くと、冬が来るのよ。ショパンはパリにいたんだっけ? ショパンでも木枯らしはやっぱり吹くのね。日本でも吹くのよ。あなたはきっとドイツ生まれだろうから、日本のことは知らないと思うけれど。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
何を考えなくても、手指が覚えている。ショパンが大好きで、自分で楽譜を買ってきては一人練習していた。この烈しさが好きだ。ああ、山から木枯らしが吹きおろしてくるのだ、と鮮やかに分かるこの旋律が好きだ。知らない人がいたら聴いてみるといい、と思う。
あまりに鮮やかに浮かんでくる情景に、胸がつん、とするあの思い。一度感じてしまったら、病みつきになって離れられない。
木枯らしに吹かれる並木道。不意に吹きおろしてくる冷たい風に激しく舞っては落ちてゆく落ち葉の数々。曇り空にひっそりと佇む教会。遠く聴こえてくる聖歌隊の歌声。
情景を想像するだけで、ピアノはそれをどんどん音色にしていってくれる。流麗は、音符というひとつひとつの呪文を丁寧に鍵盤に乗せてゆくだけでいい。
(ショパンは寂しかったのかもしれないよね)
えもいわれぬ美しい音色が、講堂に響きわたる。計算され尽くした、最高の音響だった。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫
最後の音色まで深く深く弾き終えて、流麗はゆっくりと鍵盤から指を離した。数分間の曲のなかで、まるではるか昔に戻ってしまったかのような錯覚を覚える。ほうっ、と大きく息をついた。何と素晴らしいピアノだろう。今までに色んなピアノと付き合ってきたけれど、これは今までにもなかなかいなかったピアノだ。
気位の高い音色を奏でだす。澄んだ湖水のような気高い音色。澄みきっているのに、深すぎて底の知れない神秘的な音色を生み出す。もしかしたら、このピアノの素材となった木はどこか湖のある森の奥深くで伐られたものなのかもしれない。流麗はそっとピアノを撫でて、それからハッと我にかえった。
(……忘れてた)
そういえば、公開試験といわれていたのだ。周りには200ほどの学院生がいたのだった。カインがいて、鏡がいて、マリアがいたのだった。思い出して流麗は、反射的に指をピアノから離す。
(…………)
講堂中が、しんと静まりかえっていた。前列の生徒のひとりが、ごくりと息を呑んだのが分かるくらいの静けさであった。何よこれ、と流麗はそっとカインのほうを見る。あんまりピアノに夢中になりすぎて、何か粗相でもしたろうか。しかし、カインの表情を見て流麗はホッと肩をなでおろす。ひどく満足げな表情をしていた。
ぱち、ぱち、と講師の幾人かが拍手をした。その拍手がどんどん拍手を呼んで、まるで大きな波のように拍手の嵐が流麗を襲う。単なる編入生の公開試験、では最早なかった。いうなれば、立派なピアノリサイタル。たった一曲のリサイタル。
前列の左端の生徒が、泣いていた。真ん中のほうの生徒が泣いていた。それは、その近くの生徒しか気付かないような静かな涙だったが、確かに涙だった。神の音色は、そう。涙を零させるほどの力がある。信じられないと、思うだろう。だが涙が、出るのだ。勝手に、出るのだ。無意識のうちに、心の奥から何か深く大きいものがぐいぐいとこみあげてきて。胸の奥が心地よく締めつけられ、快感に近い身震いが身体を襲い。……そして涙が頬を伝うのだ。流麗はすでにそれを知っている……カインのバイオリンで。いや、それよりもずっと前から、その曲とピアノとシンクロするだけで涙が零れるほど深い想いに浸ることができた。
『きみは合格だ、文句なしの合格だ。素晴らしかった、ありがとう』
流麗には分からなかったが、カインの通訳によるとそういうことらしかった。合格。その言葉を聴いてはじめて、今のが試験だったのだと改めて思い知る。正直のところ、すでに弾き始める前から試験はどうでもよかった。とりあえず眼前にある素晴らしいピアノを弾きたくて、弾きたくて仕方がなかった。ただそれだけで。
学院生のほとんどは、もう何の文句もなく流麗を受け入れていた。空気が、そう言っていた。歓迎の色が濃く、すでにカインを見る尊敬と羨望の眼差しと同じものが流麗にも向けられはじめている。学院生の一部は、先ほどよりもさらに冷たい瞳で流麗を見ているものがあったが、あれだけのピアノを聴かされては誰ひとり文句を言えなかった。
『ちょっと、カイン。どういうこと? ルリってキョウの幼馴染みでしょ?』
『そうだよ、それが何か?』
マリアの青い双眸が、怒りのあまりきらきらと輝いている。あのピアノを聴いたあとでも、まるで納得のいっていない顔だった。
『……何考えて、あんな子連れてきたのよ!』
ルリがここにいなくて良かった、とカインは思いながらマリアを見下ろす。今、流麗は講堂で皆にピアノをせがまれていた。そのどさくさに紛れて、カインはマリアに連れ出されたのだ。予想はついていたが、こうして血相を変えて問い詰められると複雑な気分だ。
『ルリと一緒に音楽をしたいと思っただけだ』
『何が良かったの、そんなに。顔?』
分かっているのに、何故そんなことを言うのだろう。あのピアノを聴けば、ピアニストとして世界で活躍するマリアなら嫌でも気付く。ルリのピアノは、世界の音色だと。神に愛された音色だと。気付いているはずだった。
『あれには、ソロでも活躍してほしい。それに……俺の伴奏もしてほしい』
『はっ!? 何ですって!?』
マリアの声が甲高くなった。カインは思わず唇をへの字に曲げる。声楽をやっていても、やはり怒ると声の美しさはなくなるようだ。
『あなたの伴奏を、素人のあの子が!? 冗談じゃないわよ、あたしは!?』
今まで、カインの伴奏はマリアがつとめてきたのである。何の予告もなしにそんなことを告げられれば、誰でも平静を失うであろう。それも東国の黄色人種に、誇り高きカインの伴奏の立場を奪われるなど。そのマリアの気持ちは痛いほどよくわかったが、だからといってそこで妥協するほどカインは音楽に対して甘くなかった。自分のバイオリンを、誰が最も活かしてくれるか。誰が最も惹きたててくれるか。それはカインが己で聴き、判断し、決めることである。今までは、確かにマリアでよかった。だがあの日、日本でルリと偶然出会ってしまった以上、マリアの音色で満足はしていられなかった。今までの中で至上の音色を、探しあててしまったのだ。プロのバイオリニストとして、バイオリンを誰よりも愛する者として、それを諦めるわけにはいかなかったし、諦めたくもなかった。
一生に一度、いや、何度生まれ変わっても一度出会えるか出会えないかの逸材を見つけたのだ。俺は、逃さない。あの音色とともに、歩いていきたい。そうでなければドイツ語もまともに話せないような娘を、わざわざここまで連れてきたりなどしなかった。
あの容貌に目を惹かれた、というのも確かに真実ではあるが。しかし彼女の音色が全て彼女の美しさを物語っていて、心が直感した。
『おまえにも弾いてもらうよ、もちろん。素晴らしい音色の持ち主だから』
これ以上ルリに対する風当たりが強くなってはいけない。カインは、つとめて穏やかな声でマリアに囁いた。
北条流麗、16歳。ヴェルンブルク音楽院編入試験合格。
彼女の編入は6月にヴェルンブルク音楽院に吹き抜けた木枯らしとなる。
第七楽章:光と影
今回のドイツ滞在期間は、8日間だった。8日間のうちに編入手続きなどを終え、学院のシステムや雰囲気に慣れることが目的だった。ドイツの常識にも、ある程度慣れておかねばならない。カイン以外の生徒も積極的に流麗の面倒を見ようとしてくれたが、彼らは日本語が話せないために、結局カインが流麗の面倒を一手に引き受けることとなった。
『……よろしく、お願い、します?』
「そう。しっかり発音できてるよ」
気付けば流麗の語学力は高かった。意欲があり、ひっきりなしにドイツ語で話しかけてくるクラスメイトたちの言葉を聞き漏らすまいとしていた。少しずつ、しかしごく順調に確実にドイツ語力をつけ始めている。
『ドイツ語、難しい』
片言のドイツ語で呟いた流麗を見て、カインは笑った。カインが、じゃがいもを塩コショウでたまねぎと一緒に炒めている。隣のフライパンで大きなソーセージが音をたてていた。流麗には、苦手なものがある。小さな頃から親がどれほど苦労して教えようとしても、てんで駄目だったもの。……家事一切、流麗にはできなかった。いつだったか、カップ焼きそばに湯を入れたままソースをかけて食べ、瞬間に吐き出した覚えがある。家事ができないそのせいで、一度彼氏にふられたことまであるのだから。
『でも、おまえが家事一切できないなんて意外だな。出来そうな顔をしてるのに』
『……家事? 意外?』
カインのドイツ語がまだはっきりとは聞き取れず、流麗は聞き返す。
「ああ、家事ができないのは意外だなって。出来そうなのに」
カインが笑って言い直した。
「よく……」
『よく、言われます』
少しでもドイツ語を話せるようになりたくて、流麗は幾度もドイツ語で言い直す。カインは、決して文句を言わずにそれに付き合ってくれた。そんな優しさが、異国の地では身に沁みる。発音が違っていれば、それを丁寧に訂正して教えてくれた。
「食べる?」
『Ya(はぁい)』
覚えたてのドイツ語。英語ほどにはまだ馴染みがなかったものの、周りがすべてドイツ語であるせいですぐに馴染めそうな気がする。
『いただきます』
『どうぞ』
簡単な日常会話くらいは、ここへ来るまでに日本やら飛行機やらで練習していたから、ドイツ語で話せた。
「カインって、料理が上手なのね」
「俺? ドイツで1人暮らしして、もう長いからな」
パンをちぎって、カインが言う。じゃがいもの炒め物が、流麗は気に入った。簡単な、いわば男の手料理みたいなものだったが、これが意外と美味しい。たまった疲れを癒すように、流麗はおかわりまでした。軽く暖房がはいっていて、心地よい。
カインの家は、ちょうど学院から車で40分ほど北にあがったところにある。学院から、森をひとつ越えなければならなかった。6月とはいえ、ドイツ北部の森はまだ寒い。夜ともなれば、意外と冷えた。カインの家は驚くほど広かった。近所には家が数軒しか点在しておらず、しかもその数軒それぞれの家までカインの家から車で10分以上かかった。日本でいえば、どこだろう。田園調布とか、芦屋とか。
見るもの聞くもの全てが珍しくて、流麗は興奮していた。飛行機でもほとんど寝ておらず、あの広い学院で散々歩き回っては生徒たちに囲まれて、その上車で40分もかけてカインの家までやってきたというのに、それでも眠くない。
夕食を食べ終えて、流麗は皿を流しへ持っていく。洗うだけでも、と思って流麗は洗剤をスポンジに落とした。綺麗に食べ終えたせいで、洗うのがひどく楽だ。面白いほどに泡がたって、何だかそのせいでドイツへ来たという実感がなかった。
「ルリ? 拭かないのか?」
「えっ? だってまだ泡がついてるのよ」
「……あぁ」
思い出したように、カインがそっと流麗の手から皿を取る。そして、泡のついたまま乾いた布でそれを拭いだした。
「……え!? 泡ついてるって!」
「ドイツではこのまま拭くんだ、日本と違って」
驚いたろ、とカインが肩をすくめてみせる。同じ空の下にいるのに、生活習慣も言葉も違う。不思議なものだ、と思う。人は、同じものを見て違うことを考える。それと同じことだか、と流麗はカインの手つきを見ながら思った。
「ルリ、練習室へ行こうか」
夕食の片付けを終えて、カインは言った。食堂を出て小さなホールを通り、階段を上る。階段を上った2階の突き当たりに、防音設備の整った練習室があった。
「好きなだけピアノを弾いて、好きなだけバイオリンを聴いていくといい」
「ホント?」
約束だろう、とカインがバイオリンを取り出した。
「……カイン、ありがとう」
「どういたしまして」
知り合いなどいない国で、こんなにも楽しいのは何故か分かった。眠れないほどわくわくしているのは何故か分かった。カインがいるからだ。バイオリンがあるからだ。そして何よりもピアノがあるからだ。不安は、姿を消していた。純粋に楽しい、と思った。
そうして、ドイツでの8日間が始まった。
数日もすると、流麗のドイツ語は飛躍的に上達した。ゆっくりで簡単な会話であれば、片言ではあるもののコミュニケーションが取れるようになったのである。
だがやはり傍にはカインがいた。興奮してクラスメイトたちが早口で話し始めると、カインが通訳にまわるのだ。それを女子生徒たちは羨ましそうに見つめていたが、表立って流麗に嫉妬をぶつける者はいなかった。だが。
『ねぇ、伴奏してもらいましょうよ。何か、伴奏を』
「……?」
ここのところずっと大人しかった口を開いたのは、マリアだった。声楽も嗜んでいる明るい声が、教室の中をぴんと貫く。伴奏、という言葉が分からずに流麗は少し離れたところに立つマリアを見上げた。鏡の姿はなかったが、それでもマリアを見ると目に浮かぶ。できることならば、この女性とは顔を合わせたくないのだが。流麗は浮かない顔で通訳を促す。
『おい、マリア……』
カインがマリアを牽制しようとした。そろそろ牙を剥こうとしているのだ。このドイツの山猫は。ずっと以前からともにこの学院で学んできた仲間である、それも親友鏡の恋人。性格もよく分かっているし、気に入らない同性に対してどんな態度に出るかもおよそ推測できた。もしかすると、鏡のほうがマリアを理解できていないかもしれない。
『何よ。何か文句ある? あなたが言ったのよ。この子に伴奏してもらいたいって。あなたが言ったんじゃない』
『それは俺の希望だ。あいつと伴奏したこともないのに……』
言いかけて、カインはホテルで『愛の悲しみ』を流麗とともに奏でたことを思い出した。
『……それならなお良いわ。その子の伴奏の腕が、どんなものか見せてもらいたいわ』
何人かのマリアの取り巻きが、それに便乗して頷いた。流麗に好意的なクラスメイトたちも、彼らなりに純粋に流麗のピアノが聴きたいと頷きをともにする。自分一人を置き去りにした会話に、流麗はきょとんとして彼らを見上げた。
(何を話してるのかしら)
ああまで早いと、さすがに分からない。流麗は出来うる限りマリアを見ないようにして、カインに視線を向けた。そしてカインの頬に、少し冷ややかな笑みが浮かんだのを見る。
「ルリ、伴奏をしてくれるか。マリアが聴きたいと言っている」
「伴奏?」
「ああ、俺のバイオリンの」
何だ、そんなことか。流麗の双眸がきらりと輝く。そんな愉しいことならば、もっと早くに通訳してくれても良かったのに。カインのバイオリンの伴奏なんて、何度やっても足りない。幾らでも、彼のバイオリンに合わせて奏でていたい。流麗の理想的な音色なのだから。流麗が何よりも恋い慕う、至純の音色なのだから。死にたいほど苦しいことがあっても、きっと彼のバイオリンを聴くだけで苦しみなど消えてしまうと思う。そう信じてやまない。
ぱあっ、と輝いた流麗の顔を見て、やはりカインは愉快でならない。何でこの子は、こんなにも幸せそうな顔をするのだろう。どんなにピアノを愛している者でも、緊張しないではいられないようなときに、何でこの子はこんなにも嬉しそうな顔をするのだろう。
ピアノを奏でているときの、彼女の何ともいえない表情がカインは好きだった。カインのバイオリンを聴くときの、ひどく嬉しそうな幸福そうな顔が好きだった。自分の愛し奏でるバイオリンを、他の誰よりも認め包んでくれているような心持ちもした。
「するわ、もちろん」
『フォーレの『夢のあとで』を弾いてよ』
日本語を理解できるマリアが、話の流れをつかんで要求してくる。カインはほんのわずかばかり不安を感じながらも流麗へ向き直った。
「ルリ、おまえ」
「フォーレって言った? なぁに、『シチリアーノ』? 『夢のあとで』?」
フォーレ、という言葉だけはかろうじて聞き取れた。流麗はただ楽しそうな顔でカインを見上げる。たいした度胸だ、とクラスメイトたちは幾分感心の目で見ていたが、マリアとその一派だけは刺々しい視線を突き刺してくる。意図的に早口で喋っているせいか、彼女たちの言葉だけはどれほど神経を研ぎすませても分からない。言葉は分からなかったが、しかし敵意だけはしっかりと感じ取ることができた。
(……ナンセンスだわ。敵意を感じるために神経使うなんて)
やめやめ、と流麗はマリアたちのほうから聞こえてくる早いドイツ語を聞き取る努力を放棄した。敵意をもっている人間に、わざわざこちらから向かってゆくこともあるまい。
「『夢のあとで』。弾けるか?」
任せて、と流麗がウィンクする。それがあまりに可愛らしい仕草で、幾人かの男子生徒は眩しげに目を細めた。西洋人の華やかさはなかったが、神秘的でしっとりとした美しさが彼らの目を惹いたようだ。カインが苦笑しながらバイオリンケースを手にとった。
カインが、バイオリンを取りだした。すうっ、とカインを取り巻く空気が一変する。バイオリンが、己の身体全てでもってカインに艶めかしく絡みついてゆく。バイオリンが彼に恋をしているのだ。
(あのバイオリンは、きっと女の子なんだわ)
微笑ましくて、流麗はそっと笑った。そして教室の前にあるグランドピアノの椅子に腰を下ろす。
「何、あなた本気でカインの伴奏をするつもりなの?」
不意にマリアが日本語で話しかけてきた。カインの目が鋭く光る。彼の瞳はまた、教室の扉を開けかけて手をとめた男子生徒を見つけていた。朝倉鏡である。
「…………」
伴奏をしろ、と言い出したのはマリアではないのか。そう思って流麗は不審そうに彼女を見上げた。こうして敵意を剥き出しにしてくる相手は、苦手だ。皮膚から、毒々しさに冒されていくような厭な気持ちがする。
「返事、できないの?」
その物言いに、カチンときた。日本語が上手でないから、とかそんな理由ではない。今、彼女は確かに故意にそういう物言いをした。女の勘だ。流麗には分かった。
「何だか卑屈なのよね。黒人じゃあるまいし。これだから有色人種って」
それで流麗の唇がへの字に曲がった。今までできるだけマリアの顔を見ないようにしていたのが、まっすぐに瞳をあげる。
「……伴奏しちゃいけないの?」
異国の地。初めてやってきたドイツで、周りには知り合いもいない。そんな状態でびくびくしているかと思えば、不意にまっすぐこちらを見据えてくる東洋の少女。マリアはやや驚いた表情を隠そうとしながらも、流麗を軽く睨みつけた。自分の家にいる召使を見るような、尊大な態度である。
「……よく伴奏する気になれるわね。世界のカイン・ロウェルよ? あなた、ソロのピアノでは多少聴ける腕かもしれないけど、バイオリンの伴奏はまたワケが違うわ」
カインが、彼女の物言いにいい加減視線を厳しくしてバイオリンを置いた。
『マリア』
『何よ。本当のことでしょうよ』
『マ……』
「だから何? あたしは誰かのためにピアノを弾くわけじゃないわ」
カインが驚いたふうに口をつぐみ、こちらを見た。いつでも、どこかボーッとしていて。のんびりしていて、ピアノを弾くことを最上の喜びとしている。確かに出会ってからそれほど時間が経ったわけでもないのだが、一緒にいるあいだに彼女が怒ったのを見たことがない。それが、日本人にとっては明らかに不利なこの場所で堂々とマリアに対峙したのだ。マリアにとってはよく知った場所、友達もたくさんいる場所で。
「……カインに迷惑をかけるかもしれないって、思わないの?」
一瞬詰まったあとで、マリアは言い返す。流麗が、何とも生意気な娘に思えてならないようだった。カインの口元に、小さく笑みが浮かんだ。
「世界のカイン・ロウェルに失礼じゃない? 無名の素人が伴奏だなんて」
「何で失礼なの。世界のカイン・ロウェルなんでしょ? 無名の素人が伴奏したくらいで、そんな偉大なバイオリニストがどうなるっていうの」
ああ、何と小気味良いことだろう。カインはそう思って、成り行きを見つめた。口を挟むつもりはなかった。この子は、大丈夫だ。俺が口出ししなくても、十分に立ち向かっているではないか。愉快だ、あの毒舌家マリアを詰まらせるとは。
さて、扉の外にいる男は今頃何を思っているのかな、とカインは思う。
「何、その言い方……!」
「だってそうでしょ。あたしは素人だもの。あたしが伴奏させてもらうのなんて、彼にとったら慈善事業みたいなものじゃない」
守ってやらねばならぬ小猫かと思えば、咬むことを知っている豹ではないか。
『マリア、おまえの負けだよ』
マリアの瞳が、怒りというよりはむしろ憎しみに近い色をもって輝いているのが分かった。それが少し気がかりではあったが、俺がついていればどうにかなるだろう。カインはそう思ってマリアを抑える。眩暈をおさえるかのように、マリアは額をおおって椅子に座った。
『……何してるんだよ』
今まで真っ向からマリアに対峙していた流麗の顔色が一瞬変わった。視線をどこに向けてよいか分からぬふうに、幾度か泳がせてからカインを見上げる。
『……キョウ。別に何もしてないさ。マリアがルリに伴奏しろといったり、するなといったり煮え切らないから』
鏡は、流麗と目を合わせようとしない。それはかえって二人の間に何かあるのだ、と周囲に教えるようなもので。ますますマリアの嫉妬を煽るようなものだった。
「ルリ、弾こうか」
カインが言った。このままだと、流麗が厭な思いをするだけだと彼は思った。
(あたし、この人嫌いだわ)
カインの言葉に、ピアノ椅子に座る。マリアの敵意剥きだしの視線が、身体中に突き刺さる気がした。しかし、負けまいと思う。
『……『夢のあとで』?』
わざと、ドイツ語で言った。カインがバイオリンを持つのを見て、鍵盤に指を置く。哀調を帯びたフォーレの『夢のあとで』。
(ねぇ、嫌な感じ。遠いところからやってきたいたいけな少女に対して)
ピアノに、吐き出してみる。指に吸いつく鍵盤の感触。よく知っている、ひんやりとした肌触り。流麗は、ちょっと苦笑してみせた。そしてちらり、とマリアを一瞥する。
(あたしのダメな癖ね。喧嘩を売られたら買っちゃうの)
やられっぱなしは、好きじゃないのよ。
第八楽章:白い羽
ソロとして有能なピアニストは、たいてい伴奏というものが苦手だった。己があまりに輝きすぎて、相手を引き立てられないのである。伴奏者は、あくまで伴奏者としての立場を失ってはならぬ。それは鉄則であった。伴奏者には、まあピアノ教師くらいの腕のピアニストが一番だろう。流麗のソロは本当に驚愕すべきものだった。これほどの腕ならば、他人のバイオリンを輝かせることはかえって出来ないに違いない。マリアはそう踏んだのである。それが彼女の最大の間違いだった。それが結局は、自分の嫉妬を煽る結果になるだけだと気付くことができなかった。
クラスメイトたちは、ほうっ、と感嘆の息を洩らした。少し緩やかな哀調の曲である。日本でよく聴いていた曲だった。まさかあのときは、こうしてカインのバイオリンに従って伴奏するとは思っていなかった。流麗は、決してカインを引き立てることを忘れなかった。
『すごいね……』
『カインのバイオリンにあんな見事にシンクロできるなんて……』
それに、何て楽しそうな顔でピアノを弾くんだろう。
『…………』
マリアは、唇を噛んだ。カインに嵌められた、と思った。この女、カインの伴奏をするのは決して初めてではないに違いない。それを、伴奏したことないのに、だなんて。
横に、鏡が立っていた。マリアは、すっかりドイツに馴染んだ日本人をそっと見上げる。昔からよく、ピアノの巧い幼馴染みの話をしていた。その彼女を見て、彼は今何を思っているのだろうと。
『…………っ』
懐かしいような、切ないような双眸。あの意外とやんちゃな鏡が、こんな表情をしているのは見たことがなかった。マリアの眉が人知れず吊りあがった。流麗は16歳。マリアは19歳。年下の少女にムキになる滑稽さに、マリアは気付かない。
たとえば遠距離恋愛の場合。きっとね、愛する人の夢を見たあとはこんな気持ちなのかもしれない。フォーレは恋をしていたのかもしれないわよ、ね?
流麗は生きいきとしていた。カインのバイオリンの魅力を、あますところなく引き立てた。プレゼントのラッピングのように。カインのバイオリンを、柔らかに美しく飾る。華やかなようでいて、清楚な輝きをもって彼のバイオリンを彩った。流麗はバイオリンの神の傍らにそっと立つ、まるで天使のようであった。白い羽をひっそりと背にたたんで、世界で最も神聖かつ壮麗な音色を奏でる音楽の天使。
そう、いつだって切なくなる。なぜこんなにも愛しているのに、すぐに会えないのか。ふとした拍子に思うのさ。たとえば……そう、夢を見たあとなんかに。切ない気持ちが募るんだ。そうだろう?
ピアノとバイオリンが、会話をしている。それを通じて、流麗とカインが会話をしている。そんな馬鹿な、と。きっとそれを見た人間以外、信じないだろう。だがしかし、一度見てしまえば分かるに違いない。会話ができるのだ。確かに、流麗とカインは会話をしている。
それはまるで奇跡に違いなかった。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫
『Thank you,Ruri』
少し彼も興奮していたのかもしれない。英語だったが、しかし流麗にも聞きとれた。
『You‘re welcome』
快感だった。流麗は、幾分頬を紅潮させて微笑んだ。
(あたしは知ってる、この感覚)
今までに何度も思い出していた。身体の右側にいっぱいの視線を受けて、最上の音色を奏でる快感。無表情な観客を驚かせる、明るく軽い快感。それを、また思い出す。
流麗は、謙遜を知っている。しかし、ピアノのことで謙遜することは決してなかった。ピアノに関してだけは、誰よりも自信があった。世界で一番流麗がピアノを愛していたし、ピアノも流麗を愛していた。それは決して裏切らない相手だった。約束を破らない相手だった。流麗から離れない限り、決してピアノから離れてゆくことはなかった。あたしはピアノと生きるために生まれてきたんだ、とずっと前から思っている。
『楽しかった?』
アメリカから留学してきたというパトリシアが訊ねてきた。焦げ茶の髪をした少女で、頬には少しそばかすが目立つ。ピアノ専門コースだと言った。
『楽しかった』
ドイツ語で答える。マリアが、少し向こうで苛々とこちらを見ているのが分かった。
「それにあたし、負けず嫌いみたいで」
『何? 何、今なんて言ったの?』
『ううん、何でもない。独り言よ』
マリアが歯噛みしたのが分かった。ケロッとした顔で、マリアに笑いかけてみせる。
(ケンカ売るんなら、買うわよ)
『伴奏、要求してくれてありがとう。とっても楽しかったわ』
伴奏、というところの発音が合っているのか気になったが、カインがこちらを見て頷いたのを見て安心した。
マリアの唇が、何かを言いたげに幾度か歪んだ。
鏡は、何もできなかった。それもそのはず、と納得はできる。日本で思いがけず幼馴染みを見たと思ったら、彼女はなぜかカインと知り合いで。日本公演を終えて一足先にマリアとドイツへ戻ってきたところ、カインの帰国が遅い。どうしたことかと思ったら、不意にカインが幼馴染みを連れてドイツへ帰ってきたのである。そして突然自分の恋人と険悪になりはじめたのだから。ただ成り行きを見つめるしか、鏡には当然できなかった。
「日本へ帰るのが嬉しいか? それともドイツを離れるのが寂しい?」
明日、日本への帰国をひかえてカインはそっと流麗に訊ねた。伴奏云々のいざこざがあってからマリアたちのひどく冷たい視線は感じていたが、カインが常に流麗の傍にいた。流麗が気付かないうちに、カインがうまいこと彼女をカバーしていてくれたおかげで何も被害を受けることがなかったのである。むしろカインが心配しているのは、流麗が正式にここの学院生になったときのことだった。俺が演奏会でドイツを離れてしまうときに、どうしたらよいものか。それが、さしあたってのカインの悩みの種だった。
「嬉しいわ。だってたった一週間ほどしかドイツにいないんだもの」
「そう。まあ、そうだな」
そんなカインの悩みも知らないまま、流麗はにこにこと笑顔を絶やさない。それが何とも微笑ましいようにカインには思えた。おそらく流麗は平気なのだろう。彼女は気付いているはずだった。自分のこれからのドイツ生活が、マリアたちとの確執の日々になるであろうことに。それでも平気なのだろう。ピアノがあれば、それで彼女は大丈夫なのだろう。
「ね、カイン?」
「ん?」
カインがぼんやりと自分のほうを見ているのに気付いて、流麗は顔をあげた。
「8月からなんだよね、新学期」
「ああ、高校の終業式が終わればその足でドイツへ戻ってこよう。迎えに行く」
「ありがとう」
思い返せば、どうだろう。このドイツ滞在は意外と楽しかったかもしれない。マリアがいるとか鏡がいるとか、そんなことはもうこの際どうでもよかった。数日前のマリアの発言で、流麗は、マリアと平穏な日常を作り上げていこうとする意欲を失っていた。
ケンカを売ってくるなら買ってやる、と思う。あんな人間がいるから、人種差別がなくならないんだとも思った。それにああいう性格の女性と付き合っている鏡にも、少し失望した。あれの何がいいんだろう、ピアノ? でもマリアより鏡のほうがピアノは上手なのに。
(……やめよ)
不毛だ、と流麗は思考から二人を締め出す。だが、マリアという存在があることに流麗はわずかに感謝もしていた。自分に真っ向から敵意をぶつけてくる存在。
(やりがいがあるわ。あたし、負けないからね)
ピアノをそっと撫でながら思う。ピアノと一緒なら、きっとどんな生活でも楽しいわ。たとえばそう、こちらに敵意を向けてくる人間がいたとしても。
「ルリ? だから早めに荷物をまとめておけよ。期末テストもあるんだろ?」
「……そうだったわ。勉強しなくちゃ」
勉強は苦手ではなかったが、好きでもない。頭はよかったが、秀才というわけでもなかった。どちらかといえば、授業中は窓の外を見てぼんやりしているタイプである。窓の外を見てボーッとしているか、知らず知らずのうちに鼻歌が出ていたりとか。だいたいいつもまともに人の話を聞かないせいで、怒られている。
「いつ1学期が終わるんだった?」
「7月のねぇ、いつかな。いつだろうね?」
「……俺、知らないぞ」
「20日前後じゃない? まあ、日本へ帰って誰かに訊けば分かる」
「それはまあ、ごもっとも。しかし呑気だな」
カインが苦笑した。流麗は不思議な思いで、彼を見上げる。こんなに気さくに話せる人だったのか、という思いだった。改めて考えてみると、夢にまで見た憧れのバイオリニストカイン・ロウェルと、終業式の話をしているのだ。そんな自分の運のよさが、今本当に光り輝いているように思われる。
(だからかもしれないわ)
マリアや鏡が、思っていたほど気にならないのは。カインは、呑気だなあ、と苦笑する。するが、しかしそれはカインのおかげだとも流麗は思った。彼がいるから、こんなにも気楽に物事を捉えられるのだと。
「もう、荷物が多いったら」
「おまえ、化粧品とか枕とか本とか……置いて帰国すれば?」
「えっ?」
「化粧品なんか日本で買ったらいいんじゃないのか、枕も」
流麗は、大きなバーバパパのパウダービーズクッションを一瞥して少し悲しそうな顔をした。恭子が去年プレゼントしてくれた、ピンクのお気に入りクッションなのである。あの手触りが何とも気持ちよくて、手放せなくなっていた。そうでなければ、わざわざ日本からドイツまでそんなかさばるものを持って来るものか。
「これ、高いのよ。知らない?」
「……3千円くらいだろう?」
「くらいって、3千円よ? 1円の3千倍よ。カインってば、庶民じゃないんだから」
カインが笑う。庶民も何も、3千円を1円の3千倍と解釈する人間など滅多にいるものではない。本当に変わった子だ、とカインは流麗の頭を軽くたたいた。
「おまえ、かさばるから置いていきなさい。日本へ帰ったら俺がプレゼントするから」
「……そんなこと言って、実はカインが欲しいんじゃないの?」
ピアノ椅子に腰掛けて、流麗はカインをつついた。嘘のようだった。彼との出会いが嘘か真か、あんなにも疑っていたこと。きっと今、流麗一人で部屋にいたならばまた疑うのだろうが。だが、今カイン・ロウェルは確かに流麗の横で笑っている。
「バカ。俺はおまえの終業式まで、ちゃんと日本にいますよ」
出来の悪い妹か何かを見るような目で、カインはこちらを見つめてくる。サングラスをしていない双眸は、ひどく美しい透明感をもって流麗を見つめた。魔性の瞳だ。こう、何だかぐいぐいと吸い込まれる心持ちがする。こんな瞳は初めてだと、流麗は思った。
「そうなの?」
「いるよ、もちろん」
これからが、あたしの人生で最も輝く時期かもしれない。流麗は思う。人生とは花のようなものだ。いつかきっと散るときがくる。あたしはその日まで、毅然と咲いていたい。地味でもいい、美しくなくてもいい。思いきり、堂々と咲いていたい。いつか死んでゆくその日まで、あたしはピアノを弾いていたい。今がチャンスだ。今が、飛び立つときだ。与えられたチャンスにみっともないほど貪欲に飛びついてでも、あたしはピアノと一緒にいるんだ。ピアノを弾き続けるんだ。思いきり、楽しむんだ。
「明日は、日本なのかぁ」
ぽぉん、とピアノの鍵盤をたたきながら流麗は笑った。
第九楽章:はじまりは今。
「…………」
恭子が、茫然としたのも無理はなかった。口をあんぐりと開けて驚愕の表情を隠せないのは、クラスメイト全員に共通していた。
「えぇ……イケメンバイオリニストと結婚かよ……」
山根祐人が呟いた。
「いや、そこまでは言ってないから」
恭子が山根の足を蹴る。クラス一のお調子者である山根でさえ、何とも間抜けな顔をして流麗を見ていた。担任教師も、意外に大きすぎたこの反応に苦笑いを隠しきれない。
「えっと……向こうの学校が8月から新学期なので、今学期いっぱいで一応高校をやめる予定で……」
「えぇ、嘘!? やめるの!?」
「マジで!?」
声が広がった。流麗は、愛されていた。高校一年のときからの、持ち上がりクラスである。しかもその大半が同じ中学だったということもあって、皆が感じた衝撃は大きかった。いや、流麗が昔からピアノが上手だったことはクラスメイト全員がよく知っている。音楽祭でも、合唱コンクールでも、いつでも流麗がピアノ伴奏をつとめてきたからである。何かひとつでもずばぬけた特技を持っていれば、どんなに他のことが駄目であっても決して見下されたりなんてしない。手に職をつけるのが一番いいよ、と両親がよく言っていた。
「え、流麗ちゃんホントやめるの?」
「うん……挫折したら戻ってくるかもだけど」
少し瞳を細めて笑う。流麗の癖である。
「もうドイツにずっと行ったきりになるの?」
「どうだろ、でも休みには戻ってくると思うよ。親も心配するし」
それは嘘だ。カインから話がいったとき、両親とも手放しで喜んだ。止めるもなにも、行って来い行って来い、と小躍りしていたものである。あれは心配している顔ではなかった。強いて心配、といえば流麗が苦手とする家事を少々気にかけているようだったが。もう少し心配して引きとめてくれると思っていた流麗としては、幾分拍子抜けすることとなった。そして、少し寂しい。
「あたし、応援するから」
ざわめくクラスメイトをよそに、恭子はぼそりと言った。
「仕方ないよ、流麗が決めたことなんでしょ。手紙寄越さなかったら、怒るわよ」
ほとんど彼女に相談しなかったことを怒っているのだろう、憮然としている。
「別に永遠の別れじゃないんだし、流麗が世界に羽ばたくチャンスなんだから。あたしたちは止められないんじゃない?」
「…………」
これだから、好きなんだ。流麗は笑った。ほら、いつだって分かってくれる。少しくらい言葉が足りなくても、恭子とは分かり合える。何も知らない人であれば、言葉少なでは決して真意は伝わらないだろうが、しかし恭子となら大丈夫だった。分かる。
「ありがとう」
こうしてクラスメイトたちと一緒にいるのも、あと少し。期末テストが終わって大掃除が終われば、もう終業式だ。ドイツで順調に事が進めば、来年の修学旅行にも皆と一緒に行くことはできない。あと少し……あと少し。一瞬、後悔の念が脳裏をかすめる。だが、だからといって後戻りなどできやしなかった。決めたのだ、カインについて行くと決めた。
本格的にピアノへ戻ろうと、決めた。たとえ鏡がいてもマリアがいても、それでも進まずにはいられない道が流麗にはある。きっと辛いことがあるに違いないと分かっていても、ぐいぐいと惹きこまれてしまう道がある。
今まで気付かないふりをしていた横道に、入ろうと流麗は決めたのだ。
こうして平々凡々と、学校生活を送る。そんな生活が流麗にとってのメインストリートだった。ピアノへの道は、そこから見ると獣道に等しい小さな道ではあった。だが、あそこを行けば、すぐに大通りへ出ることができる。そしてそこからが、流麗の本当にメインストリートになる。
たとえクラスメイトと離れるのが寂しくても、親と離れるのが寂しくても、日本と離れるのが寂しくても、それは決して譲れぬ道だと流麗は本能的に感じていた。そして、自分の本能がそれを求めていることを流麗は知っていた。
だから、ゆく。だから、ゆくのだ。
終業式の、数日前だった。学校で、盛大なお別れパーティーをしてもらって帰宅した流麗は、思わず呆けた顔で立ち尽くした。
「え……?」
「だから、鏡くんが来てるわよ」
母親が、じれったそうに言う。分かってるの、あんなに仲良しだった幼馴染みの鏡くんよ、と言った。流麗は、何となく不安な気持ちを抑えられないまま靴を脱いだ。流麗の部屋に通したという。親は、流麗と鏡の間の約束など知らない。
夕方からカインと会う約束がある。カインは、このことを知らないのかもしれない。思いながら流麗は数秒間ほど躊躇い、そっと自分の部屋の扉を開けた。期末テスト終わりで、雑に教科書が投げ出された机。朝倉鏡は、ぼんやりとそれを手にとりながら椅子に座っていた。
「……鏡……」
相当ぼんやりとしていたのだろう、流麗の声に鏡は慌ててこちらに向き直る。綺麗な双眸、すらりとした長身、いまや全世界にファンを持つ若者。いつのまにか、こんなにも遠くなってしまった幼馴染み。流麗は、しかし不思議と落ち着いた心で彼を見つめ返した。
どこか切ない胸の痛みは、じくじくと残っている。だが、流麗のプライドがそれを必死で押し隠した。これは、マリアの恋人なのだ。あたしとの約束も忘れて、ドイツに根付いてしまった昔の知り合いなのだ。そう、幼馴染み。幼馴染みであって、流麗の恋人ではない。
涙など流せない。流麗の知らない6年間を、彼はドイツでマリアとともに過ごしてきたのだ。思えば思うほど、流麗の希望通りに心は静かになった。
「……ドイツにいたんじゃ、なかったの?」
思い切って口を開いてみる。意外と声は落ち着いており、流麗はホッと胸をなでおろした。
「ゆうべ、戻ってきたんだ」
戻ってきて、今更この北条家に何の用があるのだろう。不思議に思って、流麗は怪訝そうに鏡を見下ろした。
「おまえ、ヴェルンブルクに正式に編入したのか」
話が長引く予感がした。流麗は、そっと自分のベッドに腰を下ろす。柔らかく、ベッドがたわんだ。
「やめてくれ」
「…………」
鏡が家を訪ねてきた驚愕と戸惑いが、その言葉で一瞬のうちに吹き飛んだ。今、何と言ったのだ。この男は。流麗は、幾分眉をひそめて彼の次の言葉を待った。
「マリアが、かわいそうだ。あいつがずっとカインの伴奏をつとめてたのに」
「マリアが、かわいそう?」
「あいつはカインが好きなんだよ」
流麗の頭は混乱した。意味が分からない、マリアと鏡は恋人同士なのではなかったか。
「マリアがどれだけ告白しても、カインと両想いになれない。カインは……おまえも知ってるんだろ、誰にも本気にならない奴だから。それで、俺と付き合ったんだ。俺もマリアを好きで、マリアも俺を嫌ってはいなかったから」
何となく、カチンときた。幼い日の約束は、もういいとしよう。たかが幼い日の約束、だったのだろうから。それはきっと流麗の独りよがりだったのだろうから、それで鏡を恨むことはできない。だが、カチンときた。だから、何だと? だからあたしに転入をやめろと、わざわざドイツから言いに来たのか。
『俺もマリアを好きで……』
その言葉が、ひどく切なく流麗の胸を貫いていた。しかし、流麗は顔色ひとつ変えなかった。切なかったが、ショックではなかった。何だか、ただひどく情けないと思った。卑怯だと思った。流麗が、静かに視線を伏せる。
「だから、ドイツへ来るのをやめてくれ。カインが何を言ったか知らないけど……」
鏡が、なぜか少し悲しそうな瞳でこちらを見ているのが分かった。
「マリアが、言えって言ったの?」
返事はない。鏡が黙った。冗談ではなかった。せっかく見つけた、せっかく手にしたチャンスをみすみす逃せというのだろうか。同じピアノを愛している者だというのに。
「あたしの、人生なのよ。分かってる?」
初恋の美しい幼馴染みに対峙しているという思いが、不思議なことになかった。
「マリアが可哀そうだから、あたしに人生を変えろって言うの?」
信じていた何かに、道を塞がれたような思いがする。腹立たしくて、それがかえって流麗を落ち着かせた。鏡は、ただ黙ってこちらを見つめる。何を考えているのか、分からない。
「流麗……、おまえが来たらきっとマリアが黙ってない。きっと何かされるぞ」
流麗の様子に、何かを感じたのかもしれない。何を言っても覆らない心を、流麗はもっている。ヴェルンブルクへの編入を、やめるつもりは毛頭なかった。
「……そんなの、分かってる」
鏡は再び黙った。
「そんなの、分かってるわ。あたしは、分かってて行くの。それでもピアノがやっぱり好きだから、行くのよ。そのチャンスをカインがくれたわ。カインを信じるわ」
「カインしかいないんだぞ? カインは、本気で人を愛したことのない男なんだぞ、それでもいいのか。カインに捨てられたら、どうするんだよ」
滑稽なことである。鏡の瞳が、心配している。
「あたしとカインは、別に恋人同士でも何でもないわ。それに、捨てられたときは捨てられたときよ。あたしがカインを信じてついて行くって決めたんだから、それはあたしの責任でしょ? カインのバイオリンが聴けて、ピアノも弾ける。こんな楽園、ないもの」
嫌な気持ちだった。俺がいるから、と言ってくれなかった鏡が悲しかったのかもしれない。流麗は幾分我慢するように唇を小さく歪めると、立ち上がった。一瞬、涙が出るかとおもった。
「あたし、用があるからこれで」
「流麗、おい……」
流麗に続いて立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた鏡の鼻先で扉を閉める。そして母親がリビングから何か言っているのもかまわずに、家を飛び出した。何かとても、悔しかった。
学校の帰り道にある、あの小さな楽器店。流麗は制服のままで、店に入った。店主はまた二階に行っているようだ、BGMでクラシックがかかっている他に何の音もしない。客もいない。よくこれで、長いこと店が続くものだと流麗はぼんやりと思った。
マリアのために、鏡はあたしの人生を変えようとした。あたしに、ゆく道を変えろと言った。それがとても悔しい。マリアがかわいそうだから……そんな理由で!!
あたしの人生は、あたしが決める。あたしが考えて、あたしが進む道を探す。あたしは誰も支配しないし、誰にも支配されない。あたしに命令できるのは、あたしだけ。
『迷うな、迷わされるな。常に自分に問わなければならない。無駄な迷いはないか。最善を尽くしたか。自分に対する猜疑心はないか。自分が正しいと思う道をゆけ。そのときは何も手にできなくても、きっといつか何かがついてくる』
いつだったか、カイン・ロウェルのCDジャケットに英語で書いてあった。英和辞典を片手に一生懸命和訳した。……あの時、素直に感動した。あの言葉が、常に流麗の胸にある。
『迷うな。迷わされるな。常に自分に問わなければならない。無駄な迷いはないか。最善を尽くしたか。自分に対する猜疑心はないか。自分が正しいと思う道をゆけ。そのときは何も手にできなくても、きっといつか何かがついてくる。していいのか、しては「けないのか。そんなことは考えるべきではない。己のしたいことを、どのようにして達成するかだけに全てを賭けよ。己がしたいと決めたこと、己がゆくと決めた道に対して、一瞬たりとも気を抜くな。それが栄光への道だ。環境が良くとも悪くとも関係ない。恨むな、羨むな。全ては己の責任だ。決して心を賎民にしてはならぬ。心はいつでも気高き貴族のままに……―カイン・ロウェル―』
「……どうした、ルリ」
ぼんやりとピアノ椅子に座っていた流麗は、そこで初めて待ち合わせの時間が来ていたことに気がついた。そっと流麗は声のしたほうを見上げる。流麗の胸をうった、あの誇り高き言葉。あれを口にした本人が、目の前に立っている。
「どうした、ルリ?」
相変わらず丁寧な発音で、カイン・ロウェルが流麗の顔を覗き込んだ。ひどく美しく澄んだ深緑の双眸が、今は鋭さを潜めた優しい色合いでこちらを見ている。流麗は、わずか呆けたような笑みを返した。我ながら、何となく情けない笑顔だった気がして再び苦笑してみる。
「あたし、頑張るわ」
「何、突然。どうしたの?」
幼子にするように、カインがピアノ椅子に座る流麗に目線の高さを合わせる。流麗と同じ目の高さまで長身を屈みこませたカインが、今世界で一番優しい紳士に見えた。鏡の言葉を思い出す。今まで一度も本気で人を愛したことのない奴だ、と。
(こんなに真摯な人が?)
そう思う。だって、たったの18年しか生きていない。たった18年で、そんなにも簡単に本気で人を愛せるものかと、流麗は思う。そう思うことで、鏡が言った言葉を打ち消したかったのかもしれない。
「……何かあった?」
「ううん、何もないわ。決意表明よ、ね」
鏡の言葉を思い出して、再び流麗は顔をしかめた。あの切ない恋心がゼロになったわけではなかったが、それでも彼の言葉にプライドを傷つけられたことに間違いはない。彼に恋をしていたから、ここで泣き崩れる。そんなわけにはいかなかった。そうするつもりもなかった。流麗は、幾分心配そうにこちらを見下ろしてくるカイン・ロウェルの綺麗な瞳を見返して思った。あたしは夢に向かって歩き出しているんだ、すでに。何が大切なのか、しっかりと見極めなくてはならない時期だった。
「もう明々後日だぞ、用意はできているのか?」
何ということもなく、長い手指でピアノの鍵盤を叩きながらカインが言った。彼はピアニストではないはずだったが、その手指に叩かれると不思議にピアノは柔らかく美しい音色を出す。バイオリンだけではない、ただひたすらに音楽の神に愛されているのだろう。裏切りの予感など微塵も感じさせない、何と理想的な関係。カインがどんな人間でも、かまわなかった。とにかく彼がバイオリンを愛し、音楽を愛していることだけは真実である。その真実ひとつがあれば、流麗はかまわなかった。カインにまっすぐついて行ける。そして、いつまでもピアノとともにゆける道をこの手にするのだ。きっと辛い。きっと腹もたつ。きっと心細くもなる。……けれど、きっと楽しい。
「俺、一度ドイツへ戻って仕事の打ち合わせをしてくるから。次会うのは終業式の日だな。昼には家に車を寄越すから、ちゃんと乗っておいでよ」
「今から戻るの!?」
「ん? そうだけど」
こともなげに言う。それほどに忙しいのに、可能な限り傍についていてくれるのか。嘘だ、と思った。鏡は、何かを見落としている。何か大切なものを見逃している。カインは、愛することを知らぬ人間ではない。決して、愛することを知らぬ人間ではない。彼は知っている。何かをひたすら深く想うことを知っている。
(あたしは、カインを信じるわ)
流麗は軽く唇を噛んだ。数日後には、ドイツ。新しい生活が待っている。落ち着いて考えてみれば、不安だらけの未来。だが、それでも夢に向かって歩いていける。流麗はそう信じて疑わない。ピアノがいれば、もうそれだけで夢は叶ったようなものだ。そして流麗は、伸ばされたカインの手をしっかりと取った。彼の大きく美しい手に、こんなにもしっかりと触れたのは初めてだった。
『信じられないわよ、カインの考えてることがわからないわ。あんな子を伴奏にしたいだなんて。あたしのこと何だと思ってるわけ!?』
『落ち着け、マリア』
『ちゃんと言ってくれた? ヴェルンブルクへ来るのはやめろって』
鏡は、あの日ようやくまともに言葉を交わした幼馴染みの美しい顔を思い出した。いや、思い出すまでもない。優麗でいながら芯の強い美しい容貌、忘れようと思っても忘れられるはずがない。きっともう会うことなどないと、そう思っていた矢先に流麗に再会して、鏡は動揺した。渡独した頃、孤独感に耐えきれず親密に近づいてくるマリアに心を移したことを痛烈に後悔した。再会したあの夜、走り寄って約束を守れなかったことを謝罪すれば良かったのだ。しかし流麗の傍らに、なぜかひどく仲良さげにカインが立っていた。
(……どういう経緯であんなに仲良くなったのか、カインに聞いてもはぐらかすし)
流麗がヴェルンブルクに来る。それは驚愕でもあり、歓喜でもあり、憂鬱でもあり、そして何より脅威でもあった。今でも覚えている、流麗のピアノの音色。あれは常人のものではない。幼心に、怖ろしいとさえ思ったあの音色。聴けば鳥肌が立ち、油断すると涙まで頬を伝うような音を奏でる少女だった。
(あれとカインが出逢ったのか……)
運命とは、怖ろしいものだと思った。運命論者ではなかったが、それでも流麗とカインが出逢い惹かれあっていることを考えると、運命を感じ得ずにはいられなかった。
『言った。言ったけど、あれじゃ聞くつもりはないぜ。流麗は必ずやってくる』
『……物分かりが悪い子なのね』
マリアのきつい双眸を見下ろす。流麗がここへやって来る日のことを考えた。マリアが黙っているはずがない、気に入らない人間は徹底的に吊るし上げるタイプの人間である。想いを寄せる男が絶えないほど美人だったが、とにかく考えることがきつい。嫌いな人間に対して、欠片も妥協できないのだ。つい今朝、日本からドイツへ帰ってきたばかり。流麗とマリアを比較せずにはいられない。
学院長に訊いたところによると、流麗が来るのは明後日。そこからヴェルンブルク音楽院は、怒涛の勢いで変革期へと入ってゆくと鏡は思った。鏡の地位も、きっと脅かされるだろう。あの北条流麗のピアノに、勝てる人間はいない。何もかもが、気がかりだった。そして何よりも、マリアの動向が気になった。
『自分からやめるように仕向けてあげるわよ』
マリアが、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。風が出てきている。
第十楽章:心きらきら
心がきらきらしている、というのが一番ふさわしい表現かもしれない。長身のカイン・ロウェルの後ろについて、空港へ降り立つ。二度目のドイツ、これからしばらくはこの地で過ごすのだ。快晴の空、何だかこの前来たときとはまた違う胸のときめきを感じて、流麗はきょろきょろと辺りを見回した。幾分落ち着きのない流麗を心配したのか、カインがそっと手を差し伸べてくる。その手を遠慮がちにとって、流麗は歩き出した。
「空が綺麗ね」
「晴れてるからね。こんな日はバイオリンも音が弾む」
小さく龍のかたちがプリントされた白いTシャツに、少し色あせたジーンズ。流麗には白がよく似合う。いつも恭子にちっちゃいね、と馬鹿にされる小さな胸が、白いスマートなシャツの下に綺麗に収まっている。バランスのとれた肢体が、カインの傍らで飛び跳ねるほどの元気さで踊っていた。
「何、楽しそうだな」
通りの両脇にはずらりと店が軒をつらねており、色とりどりの花を植えた鉢が並べられている。名前も知らない花が―いや、きっと有名な花なのだろうが―青空に向かってぐんと茎を伸ばし、葉を広げ、花弁を仰向けているのだった。
「どこへ行くの? 学校? 家?」
「ん? 今日と明日は家だよ。明後日、学校で始業式前の特別授業があるからそれに出たらいい」
カインについて歩いていきながら、自分の胸の鼓動を感じてみる。ほんの少しドキドキしているようだ、きゅんっとする感覚が頭の芯まで駆け抜けていく。
学院から少し離れたところにある、小さな駐車場にカインの車があった。広すぎず、狭すぎることもない黒いベンツである。手馴れた仕草で流麗を助手席に乗せ、カインはあの広い家へと向かった。窓を開けてもらう。何とも爽快な風が、流麗の顔を撫でて流れるように吹いていった。森をひとつ越える、そんな長い道のりもひどく楽しかった。
オートロックの扉を開けて、二人は中へ入った。もちろん人気はなかったが、何だろう。しばらく旅行で家を空けていて、そして何日ぶりかに自宅へ戻ってきたような、そんな感覚がする。あかの他人の家なのに、何と不思議な感じだろう。だが、八日間も滞在したのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。よくよく考えてみれば、あのカイン・ロウェルとひとつ屋根の下で八日間も寝食をともにしたのだ。
(ホントびっくりだわ)
びっくり、と思いながらもすでにこの環境に慣れてしまった自分がいる。傍らにカインがいるのが、何だかずっと前から定められていたことであるかのように当然に思われた。そしてまた、そう思っている自分に驚いてみたりもする。
「そうだ、ルリ。十一月にモスクワでリサイタルがあるんだ、そのときは一週間ほどだけドイツを離れるけど……どうする?」
「十一月? どうするって……」
「マリアが俺の伴奏でついてくるから、おまえはドイツに残っても大丈夫だろう。もし不安なら、俺が講師にかけあうからモスクワに一緒に来ても」
大きな荷物をリビングのソファに置いて、カインがポットに湯を沸かし始める。水の量が少なかったのか、間もなくしゅんしゅんという音が聞こえてきた。
「……一週間もいないの?」
訊いてはみたが、すでに彼についていく気はなかった。いつまでもカインにべったりくっついてばかりでは、決してドイツで成功することなんてできはしない。流麗はそう思った。一週間くらいなら、何とかできるだろう。この一ヶ月の間に、ずいぶんとドイツ語の練習もした。カインや、両親の大学に勤めるドイツ人講師を相手に、生のドイツ語にも触れてきた。自分で何とかしてみよう、と流麗は顔を上げた。
「あたし、ドイツ残る。頑張ってみるわ」
はい、とカインがコーヒーを手渡す。流麗がそう答えることを、彼はもしかすると予測していたのかもしれない。ひどく柔らかな笑みを双眸にたたえて、こちらを見返してきた。
『本当に大丈夫かな』
からかうように、ドイツ語で呟く。
「大丈夫ヨッ!! 熱っ」
コーヒーを口にしながら反抗したせいで、熱さにむせる。緊張の欠片もない仕草に、改めてカインは安心したようだった。笑ってはいはい、と頷いた。
「ねえ、『カノン』が聴きたいわ。パッヘルベルの」
コーヒーカップを両手で持ちながら、流麗はカインを見上げた。カインの美しい双眸は冷たく、ややもするとひどく冷酷そうに見える。顔立ちも美しいが故に、凄みを増して見えるのである。一度見たら忘れられないようなシャープな美貌は、見る人を圧倒する。心を惹きつけると同時に、得体の知れぬ怖れさえも抱かせる。だが、それも流麗にとっては美しく優雅なものにしか見えなかった。そう、大げさに言えば―ひどく大げさに言ってしまえば、流麗にとってカインは楽神の使いのようなものなのである。それを畏敬はしても、圧倒され怖れることはなかった。
「パッヘルベル? ああ、いいよ。弾こうか」
コーヒーカップを左手に持ったまま、カインが練習室へ向かう。流麗もあとに続いた。
「伴奏はおまえに頼むよ、ルリ」
「はぁい」
こんな日々が続けばいい、と思う。ピアノが弾けて、カインのバイオリンを聴けて、そしてそのバイオリンの伴奏ができる。まるでここは楽園、流麗が最も輝ける場所。決して手放してはならない場所だと、流麗は信じている。人は、生まれてきた以上、最も己が輝ける場所を捜し求め、そして見つけていかなければならないと思う。そして何より――。
(人生は楽しまなくちゃ、損だから)
心きらきら、きらきら輝く。こんな場所を、心のどこかでずっと探していた。絶え間なく響く、豊かな音楽に囲まれて暮らすことのできる夢の場所を。耳に入る音色のひとつひとつが、小さなきらきらとなって心に積もってゆくような幸せな感じ。そう、輝いている。
――『リサイタルがあるんだろ?』
マリアが不機嫌に頷いた。ここのところ、マリアの不機嫌が続いている。理由はひとつしかない、北条流麗の存在である。
『別に伴奏が流麗になったわけじゃないんだから、いつも通り頑張ればいいさ』
『それはそうだけど……』
これで伴奏が流麗に変更されるなんてことになったら、いったいどうなるのだろう。鏡は小さく肩をすくめた。昔は、流麗が何とも可愛い幼い子どもに見えていたのが、今思うと何となく大人に感じられる。マリアと比べてもそう思ったし、自分と比べてもそう思った。
『十一月だっけ?』
『そうよ。あと三ヶ月だし……あたしとルリって子が伴奏変わることはないと思うけど。心配なのは……』
いや、北条流麗はたとえ三ヶ月前でも一ヶ月前でも、数日前でもカインの伴奏をこなすだろう。鏡は思ったが、しかし口には出さない。口に出して言えば、流麗よりも前に自分が犠牲になりそうな予感がする。
『心配なのは?』
『心配なのは、カインがあの子を連れてモスクワに行くんじゃないかってことよ』
『…………』
それは鏡も幾分不安に思っていることだった。そこまで親密な仲なのだろうか、再会したあの夜はまだともかく、六月にドイツへやってきたときには相当仲が良さそうに見えた。あのとき感じた小さな胸の疼きを、鏡は今でも鮮明に思い出すことができる。
『さあ、もしかしたら流麗がついて行かないかもしれないし』
『ふん、どうだか。どうせカインがいなきゃ何もできない高校生でしょ?』
(さあ……どうかな)
空白の六年間。その間に、流麗がどう成長したのかは鏡にも分からない。だが、カインが連れて行こうとしても、ひょっとすると流麗はドイツに残るのではないかと鏡は予測していた。あれは、決して一人では何もできない高校生ではないはずだ。そう、まるで柳かコスモスのような。ふわふわと風に揺られていても、実のところはしっかりと地面に根を張っている。儚げで大人しそうな顔をしていながら、その意志は誰も崩せぬほどに強い。人当たりもよく、優しそうでいながら気高い。きっとそんな女になっている。
(……昔からそうだった)
『まあ、三ヶ月先のことを今から考えなくてもいいだろ。ストレスが溜まるぞ』
波乱の予感がした。
『改めて、よろしくお願いします。ホウジョウ・ルリです』
拍手がわきおこった。その大半が、心からの歓迎だった。もはやクラスメイトのほとんどが流麗をしっかりと認めている。ピアノ科とバイオリン科は別であり、カインの申し出を断って流麗は今ここにいる。たった一人でいながらまるで物怖じしない態度、東洋人離れした美しい顔立ち。その何もかもがマリアの逆鱗に触れていたが、まさか流麗はそんなことに気など遣ってはいなかった。
六月――あの時吹いた、季節はずれの木枯らし。それが今、まさに満を持してヴェルンブルク音楽院中に吹き荒れようとしている。八月二日、北条流麗はドイツヴェルンブルク音楽院で、初めての始業式を迎えた。
「……痛っ」
思わず日本語が漏れる。マリアが戸口に立っていた流麗の身体に、思いきりぶつかって行ったのだった。マリアのほうが、流麗よりも断然体格が良い。ひどくよろけて、流麗はその痛みをぐっとこらえた。
(……我慢よ、我慢)
鼻をくすん、とすすって練習室へ向かう。カインがついて行こう、と言っていたのを断った。英国留学生のジュリアがしかし、流麗に付き添ってくれていた。背の高い、金髪の生徒である。見た目はどこぞのセクシーモデルみたいなのが、口を開くと意外にさばさばしているのが流麗の好感を高めた。英語を話すときはひどく早口でわからない、だがドイツ語は母国語でないためか話すのが遅い。しかしゆっくりと話してくれるために、クラスで一番彼女のドイツ語が聞き取りやすかった。何となくわかる、おそらく強烈な個性の持ち主に違いない。カインとはなぜか折り合いが悪く、彼とのやりとりで時折『Fuck you』を連発し、挙句に『Kill You!!』と怒鳴ることさえある。それが、笑えた。
『なんなのよ、ねえ? あいつ』
マリアは19歳、しかしジュリアは彼女の一つ下の18歳である。そこまで表立って反抗はできず、ぼそりと英語で毒づく。中学高校と、オーラルコミュニケーションを選択していたせいか彼女の話す簡単な英語なら理解できた。
『まぁ……あたしは東洋から来たよそ者だもの』
流麗は、ふと笑った。もともとマリアは有色人種の類を見下していたふしがある。朝倉鏡はどうやら見事に彼女に打ち解けたようだったが、しかし流麗が女であることがマリアの気に喰わないのだろうと思われる。彼女がカイン・ロウェルに想いを寄せているというのが真実であれば、その気持ちは痛いほどわかる。鏡とマリアの熱愛報道を見たときの、あの何ともいえない胸の痛みを流麗は思い出した。
『そんなこと言ったって……あんまりじゃない。感じ悪いったら』
分厚いショパンの楽譜で口元を隠しながらジュリアが言うが、隠しても声が大きいので意味がない。しかし流麗は、それに便乗して悪口を言うことはなかった。
(感じ悪いわよね、ホントにねぇ)
言わないのは、自分が悪者になりたくないからではない。16年も生きてきて、そんな綺麗ごとを言うつもりはなかった。人に弱みを見せるのは、あまり好きではない。いつかマリアと本気で対峙するときに、こそこそと悪口を言っていた自分を見つめなおすのが嫌なのである。我慢できるまで我慢して、そしていつかマリア本人にぶちまければいいのだ。流麗はそう思っている。両親からも、そう教えられた。だから、とりあえず全ては己の心中におさめておく。
『ついて行かないんだって?』
『えっ?』
90分のレッスンを終えて、白髪混じりの講師がゆっくりとドイツ語で問いかけてきた。
『ついて行かないって……』
『カイン・ロウェルのモスクワ公演にだよ。てっきり君を連れて行くのかと思ってカインに訊いてみたら、君は行かないというじゃないか。幾分驚いてね』
まだところどころ分からない単語はあるが、それでもゆっくりと話してくれるために話の内容は掴める。ああ、そのことか。納得して流麗は講師を見上げた。
『ええ、いつまでもカインにべったりくっついて行動するわけにはいかないと思って』
彫りの深い顔立ちに、鷲鼻。見るからに厳しそうな男だったが、流麗の言葉に意外なほど柔らかな笑みを浮かべた。
『そうか、残るか。まあ、カインは今回オーケストラと協演するからね。うちの視聴覚講堂でも中継映像を流すから、観るといい』
『そうなんですか!? 良かった、あたし彼のバイオリンがとても好きなんです』
見ていて分かるよ、と講師は再び微笑んだ。微笑むと、その険しい顔立ちがくしゃくしゃに歪んで柔らかくなる。クラスメイトたちはこの講師を鬼と怖れていたが―確かにしっかり暗譜や初見ができていない生徒に対してはレッスンを受けることさえ認めないほど厳しかったが―それでも流麗はこの講師に最も信頼を寄せていた。流麗にも、決して容赦はしない。技術的、というよりも流麗は、ピアノを弾きだすと止まらないその癖でよく怒られた。
数え切れないほどのスコアを昔から暗譜しているせいで、レッスン時間の90分を大幅に過ぎてもまだ弾きつづけることがあった。そしていつも後ろの順番の生徒に、平謝りしながら練習室を出るのである。
『毎晩ピアノの夢を見ないようではまだまだ半人前だ』
講師はいつもそう言っていた。
『だがルリ、おまえはもう少しピアノ以外のことも考えたほうがいいんじゃないか』
その講師に、そこまで言わせるほどピアノに没頭してやまない。いつもレッスン時間を過ぎたことに大慌てをする流麗に敵意をもつ生徒は一部を除いては特におらず、むしろ流麗のロングレッスンは名物にすらなった。今日は何分オーバーするか、それで賭け事をする男子生徒さえ出て。確かに流麗は、嵐だった。
第十一楽章:敵対
「楽しい?」
「楽しいわ、すごく楽しい。こんなに毎日ピアノ漬けでいられるなんて」
少々ピアノを溺愛しすぎているふしがあるほど、流麗の顔は輝いている。家族と会えないのは寂しかったし、恭子や山根たちと騒げないのも寂しかったし、なにしろ日本がひどく懐かしかった。だが、その全てと引き換えてでも手に入れたかったピアノとの生活が今手中にある。……ドイツに来て二ヵ月半。
「本当に残って平気か?」
日本への懐旧の想いは、こうしてカインや鏡と日本語で話すことによって紛らわせた。
「平気よ。安心して行ってきて、ジュリアもパトリシアもいるもん」
「ジュリアねぇ……あいつは柄が悪すぎる。ヘタなラッパーよりタチが悪い」
「大丈夫だってば」
カインがロシアへ発つ日が眼前に近づいている。マリアがこれ見よがしに、カイン・ロウェルについてモスクワ公演へゆくことを吹聴してまわっていた。彼女が、カインの伴奏をつとめるのだ。そしてオーケストラでのピアニストを。
(いいなぁ……)
羨ましく思うのは事実である。カインのバイオリンの伴奏ができて、さらにオーケストラと協演できるのだ。あたしもいつかはそこへ立てるのかしら、と流麗は思った。ピアニストとしての一般的な名誉とか栄光とかは、彼女にとって取るに足らないものである。だが、カイン・ロウェルとともに舞台に立つこと。それからチェロやコントラバスやフルートや……そんな楽器たちに囲まれてピアノを弾くこと。あまりにもそれが楽しそうで、想像した光景があまりにもきらきらと輝いていて、流麗の心を惹きつけてやまぬ。
カインが優しそうな顔でこちらを見ている。二ヶ月半以上のあいだ彼とともにいて、分かったことがあった。普段の彼を、流麗は幾度かのぞいたことがある。そんなとき、いつでも彼は流麗の見慣れない冷たい表情をしていた。そのカリスマ性の故か、周りに人は絶えなかったがしかし、いつ見ても醒めきった顔つきをしていた。そのたびに、鏡の言葉を思い出すのである。
―あいつは、本気で人を愛したことのない人間だから―
けれど、今こうして向かい合うと彼は、必ず流麗が安心するような笑顔を向けてくれる。それが不思議でならなかった。ただ、カインが温かく優しいという噂は聞かない。ジュリアがカインを嫌うのも、それである。あんな冷血漢、人間じゃないわよ。そういうのが彼女の口癖で、いつも流麗はそれを疑問に思っていたのだった。
(…………)
「何かあったらメールしておいで。パソコンのほう」
アドレスを書いたメモを手渡される。
「ロックをかけておこう。今回のモスクワ公演には厄介なドイツ人がくっついてくるからな……」
半ば独りごちるように、彼は言った。
(ま、いっか。だってあたしはカインを嫌いじゃないし)
楽天的だね、とよく言われる性格。だがしかし、それは同時に皆から好かれる性格でもあった。鏡の言うカインの姿よりも、己で見たカインの姿を流麗は信じようと思っている。
「頑張ってね」
「おお、ありがとう」
ぽんぽん、と彼が流麗の頭をたたいた。
カインがモスクワへ発ってからの一週間は、予期していたもののやはり物足りなかった。贅沢も慣れるものだ、カイン・ロウェルの生のバイオリンを毎日聴かないと落ち着かない気がする。彼がモスクワへ行っている間は車を運転する者がいないため、寮生である仲の良いジュリアの部屋へ居候させてもらっている。カインとは出来ないような、女の子だけの話。年頃の女の子だけの空間で、それはそれなりに楽しい。異国での生活がつらい、といえばつらいのだろう。大変なことが多すぎるといえば、確かに多い。だがそれすらも覆いつくしてしまえるほど流麗の心は躍っていた。
カインのいない心細さと寂しさも、日々の忙しさとジュリアたち友人のおかげで幾分紛れる。女はいつでも恋してなきゃ、というジュリアを見ていると、自然恭子を思い出した。
不思議なものだと思う。カインに恋をしているわけでもないのに、いなくなってしまえばこんなにも心細い。昔はもちろん彼がいないことが当たり前だったのだが。
恭子たちのことを思い出しても、カインといた時には涙も出なかった。それが今では、ふと目を覚ました夜更けに恭子たちを思い出し、そのうえにカインがいないことも思い出して涙をこらえることがある。そして挙句に鏡を思い出し、マリアの存在を思い出し唇を噛むのである。そのうち自分ひとりでやっていかなくちゃいけないのよ、と流麗はそのたびに目をこするのだった。
『やっぱりすごいわね』
カインのバイオリンソロが終わって、舞台は15分の休憩の後にオーケストラ仕様へと様変わりしようとしている。マリアのピアノは見事にカインのバイオリンと調和し、視聴覚講堂に集まった講師たちを安心させた。ある者は感心し、ある者は感激し、ある者は羨望の眼差しを注ぎ、ある者は嫉妬の眼を向けた。
ジュリアの喋りは立て板に水。流麗がバイオリンの音色の余韻に浸ってぼんやりとしているのにもかまわず、休憩の15分間喋りつづける。休憩終了のブザーが鳴って、流麗は顔をあげた。
『あらっ、あんた聞いてなかったの? 人の話』
呆れた、という顔でジュリアが流麗の頬を軽くつねった。
音楽が始まった。モーツァルトの交響曲である。物心つく前から、CDでよく聴いていた曲だった。中継映像に見入る生徒たちはおとなしく口をつぐみ、講師たちも再び真剣な顔に戻る。燕尾服を着たカインが、この世にないほど格好よく見えた。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
音色の競演である、それはまさに夢のような。マリアがピアノを弾いているということも、さして気にはならなかった。流麗はそっと眼を閉じる。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
(…………?)
流麗の睫毛が、ぴくりと動いた。ふと瞳をひらいて、周りを見てみる。が、特に皆動くこともなかった。講師陣のほうを見ると、流麗が慕う例の講師だけが厳しい瞳で映像を見つめていた。
(何なの、これ)
異変に気付いた。おかしい、と思った。流麗の絶対音感が不審さを口々に言い立てる。幼い頃から聴きなれた音楽……。
流麗の眉がつりあがった。
流麗の眉がつりあがったのと同じくらいに、画面の中のカインの眉がひそめられた。それはもしかすると誰も気付かなかったかもしれないが、しかし流麗は真っ先に気付いた。
「…………」
思わず流麗は、腰をあげた。
『どしたの?』
小声でジュリアが流麗を見上げてくる。見上げてくる、といってもジュリアの背が高いために、立ち上がった流麗と座ったジュリアとの身長差はそれほど大きくない。流麗の顔色があまりに変わっているのを心配してか、ジュリアの声が大きくなった。
『……ルリ?』
その気配に近くのクラスメイトたちがこちらを振り向く。
「何、これ……」
流麗の異変にジュリアが立ち上がった頃には、そろそろ気付き始めた生徒たちも多かった。講師はもちろん気付き、幾人かは絶望にうちひしがれた顔で画面を見つめている。
画面の中ではオーケストラとカインのバイオリン、そしてマリアのピアノが調和している……―調和しているはずだった。いつもであればブラボー、と飛ばされる賞賛の声がブーイングだと気付くのに時間はかからなかった。時折アップで映しだされる指揮者の横顔が、明らかに憮然としている。カインのバイオリンが、どこかずれているように聴こえていた。
『……めずらしいわね。カインがヘマするなんて』
ジュリアが呟いた。それくらいで何を顔色変えているのか、とでも言いたげな表情で流麗のほうを見ている。
(違うわよ)
流麗は耳を澄ませる。カイン・ロウェルのCDは嫌というほど聴いてきたし、毎日彼とひとつ屋根の下で過ごしバイオリンを弾く姿を見てきた。オーケストラとうまく調和できない、そんな単純なミスをする奏者でないことくらい流麗はよく知っている。交響曲の独特のメロディー。ト短調の旋律に耳を澄ませると、ちょうどバイオリンがずれているかのように聴こえるタイミングでピアノの音色が入っているのが分かった。
画面に映るマリアの顔を、流麗は凝視した。ミスをして焦っているとか、困惑しているとか、そんな表情ではまるでなかった。あの気の強そうな眉を張って、ごく平然と鍵盤をたたいている。わざとだわ、と流麗は思った。マリアの体調が悪いのか、とも考えた。考えたが、バイオリンやオーケストラの邪魔になると分かっているならば余計な音を出さなければそれで良い。こんなところで、と思うような場所に無理に音色を入れてくるようなピアニストなど聞いたことがない。そこには半ば女の勘、というものがあったが、それでも流麗はマリアの故意によるミスだと確信した。
モスクワ公演初日。初日でこれでは、カインの名に傷がつく。カイン・ロウェルのバイオリンのためだけにチケットを取ってやってくる客は数え切れないほどいるのである。耳の肥えた客や、オーケストラの仲間たちにはピアノのミスだと分かるだろう。だが何も知らない者には、カインのバイオリンがずれているとしか聴こえないミスなのだ。現にジュリアまでがカインのミスだと思っているではないか。
今までマリアの嫌がらせに耐えてきた。ぶつかって来られても特に目くじら立てることもなかったし、プリントを破かれたりスコアを取られたりしても何とか乗り切ってきた。何もかも、直接流麗に向けられた敵意であったから。
「……信じられないわ……」
思わず日本語でマリアを詰る。教室の片隅で、朝倉鏡が立ち上がったのにも気付かなかった。おそらく原因は流麗である。流麗の面倒をみていることで、マリアが怒りをカインにぶつけているのだ。流麗を慈しむカインに怒りを抑えきれなくなったか、それともモスクワで何か二人の間に起こったか。卑怯だわ、と流麗は思った。名誉毀損ではないか、プロのバイオリニスト公演をずたずたにするなど。それも公演初日という重要な日に。
考えれば考えるほど流麗の怒りは高まり、彼女はその人生の中でも一番というほどに険しい表情で小さく叫んだ。クラスメイトの大半が、不甲斐ないカインの演奏に怒り出したのかと勘違いしている。
「最低……!!」
並べられた椅子の間を縫って、流麗が小走りに歩き出す。ジュリアもパトリシアも、日本語が理解できずにただ茫然と流麗を見つめた。講師たちが、早口のドイツ語で何かしら言い合って立ち上がり、流麗の感情の昂ぶりを抑えようとする。
『あとでちゃんとお説教聞きますから!!』
お説教、というドイツ語が合っていたかどうか分からない。分からなかったが、流麗は今それどころではなく、楽譜集とランチボックスを入れたバッグを無造作に手にしたまま視聴覚講堂を飛び出した。編入してきた日本人学生の突飛な行動に、皆多かれ少なかれ驚愕したようである。さざ波のようにざわめきが広がった。
『俺が面倒見ます!』
講堂を飛び出した流麗を追ったのは、他でもない鏡であった。慌てて流麗を追おうとしていた講師たちが、これもまた有無を言わせない様子の鏡に驚いて黙る。
『……日本人って、あんな国民性だったかしら』
ぽかん、と呆けた顔でジュリアが呟いた。
流麗は寮に走った。鍵を開けるのももどかしく、部屋に飛び込む。銀行に預けてすらいない現金でふくらんだ財布を、ふたつ並んだうちの右側の貴重品ボックスの中から取り出してバッグに放り込んだ。日本から持ってきて換金したものと親が定期的に送ってくるもの、カインが非常時のためにと渡してくれたもの。マンションでも借りられるのではないかというくらいに、しっかりした金額が貯まっている。
「……流麗!!」
思いがけず名を呼ばれて、流麗は驚いてふりむいた。
「何するつもりだよ!」
カインがモスクワへ発ってから、日本語を聞いたり話したりする機会は皆無に等しかった。久々に日本語を耳にした気がして、ひどく懐かしい思いがした。後を追ってきたのは意外にも朝倉鏡である。流麗は一瞬言葉を失って立ち尽くした。
「どうするつもりだ、そんなに動揺して!」
動揺? 冷静に行動しているつもりだが、そうかもしれない。ひどく動揺しているのかも。
「流麗!?」
「……行くのよ」
「何……?」
思いがけず、言葉がすらすらと口をついて出た。しかし鏡は、流麗の言葉をいまいち理解できなかったようである。何とも怪訝そうな顔をして訊き返してきた。
「行くのよ」
「どこに」
この期に及んで、どこに行くのかと訊いてくる鏡が何とも間抜けに思えた。どこに行く? 決まっている。決まっているではないか、そんなこと。
「モスクワ」
鏡が呆然としたのが分かる。精悍な瞳を見開いて、頭でもおかしくなったのかという顔でこちらを見つめてくる。流麗は、半ば鏡を押し出すようにして部屋の鍵を閉めた。
「モスクワ!?」
「そうよ。……何も言わないでね、あたしが行ったってどうにもできないって自分でも分かってるんだから」
「おまえ、でも……」
「だからって、ドイツでぼんやりしてろって言われても無理なの」
迷路のような廊下を、すたすたと歩き出す。鏡が慌てて追ってくるのが気配で分かった。
「一人でどうやって、おまえ……」
「誰かに聞いたら何とかなるわ。ホテルの名前も号室も聞いてるもの」
身体が勝手に動く。冷静な行動ではない、と頭の中で知りながらもモスクワに行くと決めた心は微動だにしない。流麗は人気のない方を無意識に選びながら小走りに寮を出て、公衆電話に向かった。カインがあれくらいのことでどうにかなってしまう、そんな心配はしていなかった。ただ、マリアの言動でカインの質が疑われるのがとにもかくにも厭で仕方がなかった。マリアへの怒りで、流麗の身体は動いていたといっても過言ではなかったろう。
――幼馴染みの少女に、こんなにも無鉄砲な一面があることを初めて知った。鏡が気付くよりも前に、音色の変化に気付いていた流麗を思いながら鏡は彼女を追いかけてきた。講堂を飛びだしていったい何をするつもりか。電話かメールでもするのか、と思った。追いかけてきてみれば、貴重品ボックスから財布を取り出してバッグに放り込んでいるのである。おかしい、と問い詰めてみるとモスクワへ行く、と平然たる顔で答えた。
(そこまでするのか)
演奏の異常が、カインの不調ではなくマリアのミスによるものだと鏡も気付いている。そして彼女のミスは、明らかに作為的なものだったことにも勘づいていた。しかし流麗がまさか、モスクワへ行くと言い出すなど誰が想像できただろう。おそらく講師陣も腰を抜かすに違いない。……カインのためだ。流麗をここまでの行動に走らせたのは、カインだ。鏡はこみあげてくる苦い思いを噛み殺した。
「一人でどうやって、おまえ……」
「誰かに聞いたら何とかなるわ。ホテルの名前も号室も聞いてるもの」
自分ひとりの公演のときには、マリアにも鏡にも一切何も言っていかないカイン・ロウェルであった。ホテルの名前も号室も、特に言ってゆくことはなかった。……考えればカインが連れてきた流麗である。彼なりに責任と心配を感じて、ホテル名や号室を伝えていったのかもしれなかったが、今の鏡にはそうして割り切って考える余裕がなかった。流麗の表情と行動が、あまりにひたむきすぎたせいでもある。ただ自分の面倒を見てくれている男を心配している、そんな表情ではなかった。こんなときなのに、流麗とカインの仲に思いをめぐらせている己が幾分情けないといえば情けなかったが、しかし流麗と俺とは幼馴染みだという思いがその自嘲を打ち消している。
流麗が公衆電話に駆け寄っていく。タクシーを呼ぶつもりだと、鏡にもすぐ分かった。確かカインが言っていたと思う。
―ルリは飛行機がどうにも苦手らしいな。
苦手な飛行機に乗ってでも、モスクワに向かうつもりらしい。その苦手な飛行機に、流麗は一人で乗っていくつもりなのだろうか。何ともいえない気持ちで、鏡はため息をついた。
(……ワケがわからん)
公衆電話から身を離した流麗の傍らに、鏡は駆け寄った。
「……俺も行く」
第十二楽章:絆
『サン・ピョートルホテルって何処です?』
鏡が一緒に来てくれて良かったかもしれない、と流麗は凍えながら思った。何とかなる、と思っていたもののこうして鏡がロシア語らしきものを話しているのを見ると、改めてそう感じる。
何を言っているのか、さっぱり分からないのだった。世界中で公演を行う朝倉鏡にとっては、ロシア語も話せて当然といったところであろうか。
切ない想いと複雑な悔しさはともかく、尊敬する。
「どこって?」
「ここから少し遠いって。タクシー拾おう」
「……ありがと」
一応つぶやいておく。鏡が、幾分驚いたような、はにかんだような顔で小さく笑ったのが気配で分かった。モスクワはすでに雪に覆われていた。
注意を怠ると、ふとした拍子に滑る。
(……寒)
ドイツとは寒さの種類がまるで違った。黒のハイネックにジーンズ。白いダウンジャケットを着ていたが、それは日本の冬においての標準の格好。ドイツではそう困ることもなかったが、モスクワの空港に降り立った瞬間しまった、と思った。空港を出た途端、手袋もつけていない細い手指がかじかんで無感覚になる。慌てて鏡が、流麗の分と自分の分の手袋を購入したのだった。足元は皮のショートブーツ、それでなくとも滑りやすい凍結道路ではこれでもかというほど滑る。滑るたびに、鏡がその手で抱きとめてくれた。
『サン・ピョートルホテルへ』
海外生活に慣れた人間が傍らにいると、何だかんだ言ってもひどく頼もしい。鏡には頼るまい、と無意識のうちに意識していた流麗であった。
曇天の空が重苦しい。ホテルへ向かう途中に、カインたちが公演中のホールを見かける。
「大きいのね」
「ああ」
煉瓦で造られた荘厳な建物で、どこからどう見ても伝統的。
観客を選ぶホールだ、と流麗は感心して見つめた。ちょうどそのホールが見えてからタクシーで20分も走ると、鏡が財布を取り出したことで目的地が近いことを知った。
「流麗、もう着くよ」
「はい」
外していた手袋をつける。素手を空気にさらしているだけで、凍傷にでもなるのではないかと思う寒さだ。包丁やカッターを持つときにも、手だけには傷をつけないように細心の注意を払う流麗である。両親も、流麗が高校生になるまで包丁やカッターを持たせてくれなかった。
――他のことにはこき使って下さって構いませんので、包丁だけは持たせないで下さい。
調理実習では、親がわざわざ教師に向けてそんな手紙を書いたほど。
目が見えなくなってもかまわなかった。目が見えなくても楽譜はたくさん覚えているし、鍵盤の場所は知っているから。たとえば脚に大怪我をして歩けなくなってもかまわなかった。ピアノを弾くのに―ペダルを踏むのは別として―足は必要ないから。
ただ、耳が聴こえなくなることと、手が不自由になること。それだけは決して耐えられないだろう。流麗は自分でよく分かっている。
ピアノの音が聴こえない、ピアノが弾けない、そんなことになるくらいなら死んだほうがましだとすら思う自分を、流麗は特に不思議だとも感じない。愛おしむように、手袋をはめた自分の両手をそっとすりあわせる。
『どうも』
精算を済ませて、鏡が手袋をはめながら車を降りてきた。鏡の視線に合わせて見上げると、そこには大きなホテルが聳え立っている。暗い空とは裏腹に、通りから見えるホテルのロビーはシャンデリアが煌々と輝いており、人心を惹きつける暖かさに溢れていた。
パソコンのメールを見て写してきたメモを、覚束ない手つきでバッグから取り出す。
「3820号室だって」
「38階か、スイートだな」
流麗に先立ってホテルの中へ踏み込む。暖房がよく効いている、まるで蘇る心地がした。
「ちょっと待ってな。座ってていいよ」
ロビーのソファを指差して、鏡がフロントへ向かった。
(…………)
このホテルに、きっとマリアもいるのだろう。流麗は言われたままにソファに腰を下ろしながら、ぼんやりとそんなことを思った。すべすべとした肌触りの素材でできた豪奢なソファが、流麗の動きに合わせてゆったりとたわんだ。ふかふかのソファに、沈みこむ。
ホテルというものは、やはりどこの国も似たようなものだ。似たようなもの、といっても日本でこれほど豪奢なホテルに泊まったことはないが。
だが、内装にしてもフロントにしても、それからエレベーターにしても自分の予想できる範疇なので幾分安心する。モスクワにやって来たのだ、という実感がまず湧かない。
「2部屋とっておいたから。これ、キー」
スイートじゃないけどな、と鏡がひっそりと笑ってキーを差し出してきた。
「どうせ今日このまま帰ることもできないだろ。学校には俺が電話かけてくるから、おまえ部屋番号知ってるなら行って来いよ」
初デートでいきなり流麗をラブホテルに連れ込もうとした、昔の彼氏をふと思い出した。海外生活を長くした男は、皆紳士なのだろうか。
「……ありがとう」
じゃあ電話してくるから、と言って鏡が踵を返した。
(鏡って、こんなお人よしだったかしら)
思いながらも、エレベーターに乗ってしまうとすぐに鏡のことは頭から離れた。38のボタンを押して、長身で体格のよい西洋人に囲まれ萎縮する。男にしろ女にしろ、西洋人は何故こうにもでかいのだろう。
学院にいても、いつも思う。エレベーターが38階に着く頃にはすでに他の客の姿はなく、流麗一人になっていた。静かに、エレベーターの扉がひらく。
降りるとそこは大理石の床に、敷かれた赤い絨毯。絨毯には金色の豪華な縁取りがしてあり、見るからに高級感が漂っている。来る場所を間違えたのではないか、と流麗は二度三度瞬きをしてからおそるおそるエレベーターから一歩踏み出した。エレベーターから出た正面には、誰が描いたのか分からない絵画――おそらく見る者が見ればそれなりの名画なのだろうが――が堂々と掛けられており、その手前に置かれたマホガニーのチェストにはどこぞの中国王朝のものかと思われるような壺が腰を据えている。
センスが良いのか悪いのか、もともとそういったことに無頓着な流麗にはまるで分からない。とりあえず凄い、の一言に尽きる。
「38…20……」
小声で確認しながら、左右を見渡す。一部屋一部屋の間隔が長く、部屋ひとつ探すのに妙に緊張しているのが滑稽に思われた。
(あ……あった)
この中にカインがいる? いや、いると疑わずに飛んできたが、もしもいなかったらどうしようか。辺りには人気もなく、物音ひとつしない。クラシックの音色が静かに流れているだけである。心を覆う緊張と不安をふりはらって、流麗は渇いた唇を舐めドアホンを鳴らした。ソフトで上品な呼び出し音が鳴り、それが幾分流麗の心を和らげた。
『はい?』
しばらく沈黙があった後、声が聞こえた。知らない言葉、もしかするとロシア語だったのかもしれない。どっと安堵感が押し寄せて、流麗は泣くように自分の名を言った。
「あたし、あたしです。流麗!」
日本語で喋っているということにも、気付かなかった。
『…………ルリ!?』
鍛えられた耳を持つカインである。ドアホン越しであっても、訪れてきた声の主が流麗であることにすぐ気付いたようだった。ぷつん、とドアホンが切れて十数秒後、ダークブラウンの重々しいドアが開けられた。
『ルリ!? どうした!?』
懐かしい深緑の双眸が、流麗の瞳に映った。こっちが心配して駆けつけてきたのに、蓋を開けてみれば流麗のほうが心配されている。そのことにホッとしながらも、流麗は思わず安堵に涙ぐんだ。カインが、そっと流麗の手を引いて部屋の中へ導いた。
「どうした?」
流麗に何かあったのだ、と彼はまだ思っているようである。瞳から心配の色が抜けていない。そこには、鏡の仄めかしたような冷ややかさは欠片もなかった。
「……カインの演奏を聴いて……飛んできたの」
そろり、と流麗は彼から視線を外した。取り乱して、ドイツからモスクワまですっ飛んできた自分が今さらながら少し恥ずかしくなったのである。
「俺の……」
聞いて、カインは全てを呑み込んだらしい。頷いて苦笑した。
「いくらマリアでもひどいわ……居ても立ってもいられなくて」
「……それでさっきまでケンカしていたよ」
いつもと同じように自分の手で紅茶を淹れ、流麗に勧めてから彼はソファにどさりと腰を下ろした。少し仕草が粗く、彼の不機嫌を物語っている。
「まさかおまえが来るとは思わなかったな。わざわざ苦手な飛行機で」
「あたし一人で行こうとしたら、鏡がついて来てくれたの。ロシア語なんて喋れないからあたし……結局助かっちゃって」
あいつならやりそうなことだ、とカインは親友を思って小さく笑った。
「問題はマリアだ」
大きな部屋のリビングに置かれたピアノ。そしてその蓋の上に置かれたバイオリンケースを一瞥してカインが低く呟く。ハッとした。
(……怒ってるわ)
怒っている。いや、傍目には怒っていると分かる表情はまるでなかったが、冷ややかなその無表情が明らかに彼の怒りを露にしている。流麗は黙ったまま、そろりとダウンジャケットを脱いでソファに置いた。
「おまえは俺の癒しだからな。いつまでモスクワにいれる?」
気付いたときにはカインの表情から氷のような酷薄さは消えていて、冗談めかした口調で流麗に問いかけてくる。
「学校には鏡が電話しておいてくれるって。だから、たぶん融通は利くと思うわ」
「それは良かった。おまえ、俺から片時も離れるな」
尊大なカインの口調が心地よいのは、何故だろう。数週間会っていなかっただけで、今こんなにも懐かしいのは何故。人は贅沢に慣れるものなのだ、と流麗は改めて思い知った。
「あたしは構わないけど……片時も離れるなって、迷惑じゃないの?」
こちらを見下ろす美しい容貌が、不敵に輝いて見える。
「俺がおまえと一緒にいたい他に理由がひとつ」
カインが長い脚を優雅に組みかえた。脚もあれだけ長いと、色々なところで不便が出てくるに違いない。そんな余計なことを考えながらカインを見つめる。
「少しばかりマリアを挑発させてもらおう。あれは、降ろす」
「えっ?」
「伴奏から、降ろす。近いうちに必ず」
そしてカインは、手にしていたティーカップをそっとおろした。
「おいしい?」
鏡に連絡をしてみると、もう夕食は部屋で食べたという。まさかカインがマリアを誘うわけもなく、結局彼が夕食のルームサービスをとった。
「初めて食べたかも。おいしい」
湯気のたつボルシチと小さな器で焼いたラザニア。焼きたてのパンがたくさん入ったバスケット。銀食器が落ち着いた渋い輝きを放っている。
流麗は温かなボルシチを銀のスプーンで口に運びながら頷いた。
部屋は暖房でよくあたたまっていたが、こうしてカインと向き合って温かな食事をして初めて身体の芯から温まった気がする。ようやくホッとして、流麗は息をついた。カインは食べるのが早い。流麗を相手に喋りながらでも、男らしい食べっぷりでさっさと食べ終えてしまう。
「いつも思うけど、カインって食べるの早いよね」
「そう? あまり味わって食べないからかな」
日本にいた時のクラスメイトと違って、『食う』と言わずに『食べる』と言うのが良いと流麗は思った。
「風呂沸かすから、先に入りな」
ドイツでの同居と、結局何の変わりもない。食べ終えて流麗のために紅茶を淹れると、まめまめしく風呂に湯をために行く。
(……マメよね。カインって……)
感心することばかりである。ドイツで一緒に暮らすうちに慣れたものの、こうして常と違う場所に来てみていると改めて思わずにいられない。
あの美貌に、天賦の才能。頭脳明晰で金持ちでもある。そのうえここまでマメであれば、女の子が目の色を変えて彼を求めるのも頷ける。日本人には滅多にいないタイプの男だと思う。
(あたしのお父さん、お風呂いれたこともないんじゃないかしら)
流麗の家は裕福なほうだった。もともとは父親の実家が資産家であるうえに、両親とも大学の教授である。母親はピアノ専攻、父親はバイオリン専攻で、ちょうど今の流麗とカインの状況と同じだった。カイン・ロウェルのバイオリンを聴きはじめたのも、実のところ父親が部屋で聴いているのに居合わせたからである。その父親はカインと違って一人では何もできない。
(当たり前といえば当たり前だけど)
同棲しはじめた頃は、シャワーとカランの切り替えも分からなかったらしい。カップ麺の作り方も分からず、カップ焼きそばに湯を入れたまま食べて目を白黒させたというエピソードを、流麗は母親から聞いた。母親がいないと何もできないのである。今でも時折、運転手を雇おうかと言い出すことがあるし、三人で充分広々と暮らしているのに家が狭いな、もう一棟増築しようか、と言うこともある。坊ちゃん育ちでバイオリンしか弾けない、妻がいないと何もできない、しかしそれがまた愛嬌のある父親でもあった。
気品溢れるカインの立ち居振る舞いを見ていると、自然父親を思い出すことが多い。
流麗は、そっとピアノの蓋を開けた。紅色の覆いをそっと外し、くるくると巻いて楽譜立ての横に置く。何ということもなしに、鍵盤に指を滑らせた。何を弾こうか、と決めるわけでもなかったが、自然と流麗の指は動き出した。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
ビゼーの『ハバネラ』である。幼稚園に上がるか上がらないかの頃なかなかこれが弾けなくて、幼心に苦労した覚えがある。ピアノ曲ではなかったが、これも意外と流麗の好きな曲であった。
飛行機の中で、たまたまイヤホンから流れてきていたからかもしれない。自然指がこの曲を奏でだしたのは。およそ7年ぶりほどではないだろうか、『ハバネラ』など弾いたのは本当に久々である。情熱的で官能的な女、ハバネラ。いつか中学の音楽の授業で見た映像を思い出す。
途中で幾つか忘れているところがあったが、音色が前後の旋律と調和するように指が勝手に鍵盤を叩く。
ハバネラって、きっと綺麗な人だったのね。男の人が夢中になるくらい。でもやっぱり、あたしはどうかと思うのよ。愛する男の人が輝いていられる状況をつくるのが、愛してる本当の証だと思うのよね。
男を骨抜きにしてしまうのが、正しい愛し方だとは思えない。ピアノを弾きだすとすぐに現実から遠ざかってしまうのが流麗の癖である。しかしピアノを弾きながらこうまで物思いに耽ることができるのは、流麗の類稀な特技でもあった。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪……
途中でバイオリンの音色が加わって、初めて流麗はカインがリビングに戻ってきたことに気付いた。視線をあげると、カインが笑みを返してくる。続けて、と言われていることを察して流麗は弾き続けた。バイオリンの音色がピアノとあいまってひどく艶めかしい。ふ、と広がりを増すときの音色がたまらなく官能的に聴こえる。
(やっぱり素敵だわ。カインのバイオリンは)
ねえ、とピアノに語りかける。ひどく久しぶりに二人で弾いた気がして、心は浮きたつようであった。
(ドイツに帰ってきたみたい)
祖国は日本なのに、ドイツに帰ってきたみたい、と思う自分が滑稽である。心配したほど順応力がないわけもないか。家族や友達は何より大切だったが、彼らといる時とはまた別に満たされた思いがする。あたしは世界一幸せな女の子かもしれないわ、としみじみ思った。
『何だって!?』
マネージャーが椅子から飛び上がらんばかりの勢いで叫んだ。マリアのマネージャーである。同じホテルの34階、マリアのマネージャーが宿泊している部屋だった。ハンス・モレンツ32歳。マリアの力を存分に活かす仕事を、どんどん取ってくる敏腕マネージャーである。そのハンスが、目を剥いてカインを見つめた。
『何だって、おまえそんな!』
まだ若いのにも関わらず、ちらほら白髪が出始めている。この男もマリアを可愛がりすぎて盲目になったのではなかろうか。思ってカインは視線を伏せた。
『マリアを伴奏から降ろすって、おまえ……めちゃくちゃだ!!』
『興奮するなよ、倒れるぞ』
魅惑的な双眸は、まるで温度を感じさせない。ハンスは興奮して椅子から立ち上がっていたが、カインは平然とソファに腰を下ろしたまま彼を見上げる。何をそんなに驚いているのか、とカインは不思議に思った。
『おまえだって困るだろう、伴奏がいなけりゃ……』
『困らないさ。俺にはルリがいる』
『ルリ? ルリって、あのホウジョウ・ルリか!?』
心底嫌そうな顔をする。
『ルリがモスクワに来てくれた。やはり俺はあの子に伴奏を頼みたいね』
『バカじゃないのか、おまえは!! あんなぽっと出の東洋人に伴奏なんて……』
『伴奏に東洋西洋が関係あるのか? アサクラキョウは東洋人だが見事なピアニストだ』
ぐっ、とハンスが言葉に詰まった。思えば初日公演は散々だった。若手の批評家やらルポライターやらが好き放題文句を言って帰ったものである。
オーケストラの仲間たちはカインのミスでないことに気付いていたが……伴奏者に演奏を妨害されるなど聞いたことがない。カインは己のバイオリンにプライドを持っている。世界で誰よりもバイオリンを愛している自信があったし、バイオリンに愛されている自信もあった。だから流麗のことも分かったのだ。ピアノに愛された少女だと、分かった。
『とにかくマリアは降ろす。伴奏者に妨害されたのは初めてだ』
『おまえを想ってのことだ、きつく言っておくから!!』
(馬鹿なことを……)
『そりゃルリも美人だし、おまえの気持ちも分からなくはないが……』
ため息をひとつついて、カインはティーカップをテーブルに置いた。こういう時いつもは決して音などたてない男だったが、このときはかちゃん、と音が響いた。腹立たしかった。しかし表情には出さないよう、ぐっと抑える。カインの部屋で寝ているだろう流麗を思った。
『ハンス、あんたバカか? 俺はルリが美人で好きだから彼女に伴奏をやらせよう、マリアが憎たらしいから降ろそうと言っているんじゃないよ?』
『じゃあ何故……』
『ルリの方が技術的にも情感的にも優っているから』
俺は見つけたのだ。日本で、今までにない最高のピアニストを見つけたのだ。彼女のピアノとともにバイオリンを奏でてみれば、奏でるこちらが恍惚とするような調和をかもしだす。マリアは確かに見事なピアニストである。それはカインも認めていた。
『マリアもルリも互角じゃないか!?』
『技術的に見れば……そうだな。マリアも負けてはいないさ。だが、マリアは幾分情感的に欠けるところがある』
しかしその見事なピアニストよりも、さらに素晴らしいピアニストを見つけたのだから仕方あるまい。カインは悪びれない。マリアが可哀そうだからとか、彼女に悪いからとかいった理由で己の考えを翻そうとは決してしなかった。
『ハンス、これは俺の公演だ。あくまでピアノは伴奏だ、俺のバイオリンが誰のピアノによって最も活かされるか……決めるのは俺だろう?』
マリアとよく似ている男だ、とカインは苦々しく思った。特にマリアを嫌った覚えはないが、昔からマリアやハンスの考え方には納得できないことがたくさんある。彼らはいつまでたっても、白人のほうが優位であるという考え方を捨てきれずにいるようだった。東洋人離れした朝倉鏡でさえも、時折彼らにかかると馬鹿にされるきらいがある。
『これだから、東洋人って分かんないのよ。所詮黄色人種だものね』
マリアが鏡とケンカしたときに悪びれずに言った言葉を、カインは今でも覚えていた。カイン自身もれっきとした白人であったが、両親の教育のせいなのか、それとも持って生まれた性質なのか、マリアのような考え方が分からない。
『おい、考え直してくれよ……』
ハンスが弱気になりはじめているのが分かった。自分が相当強情な人間だと、カインは自分で認めている。しかし、そうはいっても今回のことは一時の感情ではない。マリアが自分の公演初日をめちゃくちゃにしたから、というわけではなかった。流麗にどうにかして伴奏者になってほしい、いつが良いだろうか。今回のことは、それを実行に移すきっかけになっただけなのである。しばらく沈黙が続いた後、突然ハンスが目の色を変えて怒鳴った。
『……カイン、俺はマリアのマネージャーだ!』
(それがどうした)
カインは黙ってハンスを一瞥した。
『マリアが苦しむようなことをするなら……俺は許さないぞ』
むかっ、とした。私情と仕事を一緒にするな、と怒鳴ってやりたかった。ぴくりとカインの眉が動いたが、それでもその表情は微動だにしない。ただどんどん彼の美貌が冷たくなっていく。脅すつもりなのだろうか、この男は。
『ホウジョウ・ルリなんてのは、俺が抹殺する。どうせおまえの顔か何かが目当てで寄ってきた女だろう!?』
……久々に本気で怒りが湧き上がってくる思いがした。カインは、ソファを立った。
『抹殺……? できると思ってるのか』
『マリアのためだ!』
さっきの弱気はどうした、偉そうに。カインが忌々しげに舌打ちをする。マリアに惑わされて気でも狂ったか。この男には何も見えていない、マリアの栄光しか見えていない。こみあげる怒りを抑えて、カインはハンスを見下ろす。その双眸が、ぞっとするほど冷たかった。
『なら、この公演はマリアに伴奏を頼もう。二度とあんなふざけた真似をしないと誓うならな』
あからさまに安心した顔でハンスが頷く。しかしカインの心は変わったわけではなかった。
(この公演がおまえの最後の伴奏だ、マリア)
ルリを抹殺するだと? あんな逸材をみすみす逃す真似などするものか。何があっても、ルリは俺が守る。あれほど輝いているピアノの女神を、誰にも汚させたりはしない。
(ハンス、覚えておけ)
俺は必ずマリアを降ろす。俺は俺が輝くために、バイオリンのためにもマリアを降ろす。カインの顔が凍りつくように冷たい。珍しく乱暴にドアを閉め、エレベーターへ向かう。時々、流麗がソロのピアニストとして世界中から喝采を浴びている夢を見ることがある。そしてカインがバイオリンを弾くときに、流麗が伴奏をしている夢を見る。それが現実になればいい、とカインが心底願っていた。
(…………!)
思わず3820号室のドアを乱暴に開けて、カインは慌てた。流麗が部屋で寝ていることをすっかり忘れていたのである。そっとベッドルームへ向かう。ベッドルームへ入ると、オレンジ色のフットライトが柔らかく部屋を照らしだしていた。シャツを脱いで、ソファにひっかける。着替えるのが面倒で、そのまま流麗の眠る隣のベッドにもぐりこんだ。
『…………』
そっと隣のベッドを見る。こちらに顔を向けて寝ている流麗の表情が、はっきりと見えた。鼻筋の通った美しい容貌。唇がわずかに開いて、そこから寝息が規則正しくこぼれている。ほんの少しだけのぞいた白い歯が、妙にあどけなくて可愛らしかった。栗色の髪が、頬にかかっていた。目覚める気配はまるでない。薄明かりに照らされて、流麗の長い睫毛が頬に影を落としている。カインは初めて流麗と出逢ったときのことを思い出した。ドイツへ誘ったのは、ほとんど初対面に近い時だったと覚えている。年頃の少女一人では不安だっただろうに、彼女はひたむきな瞳でカインについて来た。俺を信じてついてきたんだ、と思うたびに流麗に対して優しい気持ちが芽生えるのが分かった。
『……ルリ……』
俺の見つけた片翼。誰も手を出すな。もう一度無防備な流麗の寝顔を見てから、カインは目を瞑った。公演で流麗が俺の伴奏をしている、そんな夢を見れたらいい……。
第十三楽章:夢幻
『状況? 何が状況だ。俺が状況をつくるのだ』
―ナポレオン―
結局、カイン・ロウェルのバイオリン公演は成功に終わった。特にカインをひどく批判したりする者もほとんどいなかったし、裏でどうハンスが奔走したのかマリアの名前も特に目立つことはなかった。流麗は公演期間中のほとんどをカインの傍で過ごした。
『あら、暇なのね。結局最後までカインにつきっきりだなんて』
『……まったくだな。ピアノのレッスンはしなくていいのかい、音楽院はそんな甘いものじゃないんだぞ』
流麗は口を閉ざす。ホテルのエレベーター前で、カインを待っていたところをハンスとマリアに話しかけられたのである。嫌いなら話しかけて来なければいいのに、この人は何故あたしにいちいち話しかけてくるんだろう。
不思議に思いながら、流麗はどう答えていいのか分からない。ハンス、というマリアのマネージャーも嫌な感じだ。カインのいない時にだけ、流麗に敵意を剥き出しにしてくる。いい年をして子供みたいだわ、と流麗は呆れた。
『で、こんなところで何してるのよ』
鼻で嗤いながらマリアがこちらを見下ろしてくる。マリアのほうが余程流麗よりも体格が良く、背も高いために自然マリアが流麗を見下ろし、流麗がマリアを見上げる構図になるのだった。威圧的なマリアの視線に怖気づくこともなく、流麗はまっすぐ彼女を見上げる。
(相変わらずでっかいんだから……)
どんなに頑張ってもあたしはこれ以上背が伸びないのに。
『おい、人が訊ねてるのに無視かい?』
何の衒いもなく見上げてくる流麗の視線が嫌になったのか、わざとらしくため息をついてマリアが眼を逸らす。ハンスが穏やかな口調で流麗を一瞥した。マリアの後ろに乗っかって、いちいち厭味を言ってくるこの男。
たまにマリアよりも腹が立つ、裏表のはっきりした人間だ。
(やな感じ、この人。カインがいたらバカみたいに大人しいくせに)
『何してるんだって聞い……』
そこでハンスがぴたりと口を閉ざした。
『待たせたね、ルリ。行こう』
カイン・ロウェルである。相変わらず美しい貴族的な容貌に、少しばかり野性味帯びた鋭い双眸。マリアとハンスを一瞥しただけで、まるで無視した形のまま流麗の傍らに立ち、エレベーターのボタンを押した。
ハンスが悔しそうに唇をぷるぷる震わせているのが滑稽で、流麗は思わず顔をそむける。我慢していないと、笑い声が洩れてしまいそうだった。
『ちょっとカイン! どこ行くの?』
自分が公演初日にカインに甚だしい迷惑をかけたことなど、まるで忘れたかのようにマリアが彼を呼び止めた。
『夕飯だけど、何か?』
静かなカインの口調が威圧感に溢れている。あくまでマリアを責めないのが、どうかするとハンスの恐怖を煽るようでもあった。別に怒ってなんていないよ、というようなカインの態度は確かに怖かった。あまりにも表面が静かすぎるせいで、心の奥で何を考えているのかがまるで分からないのである。ハンスやマリアの気持ちを考えると、さすがの流麗も少々哀れになった。
『行こう、ルリ。何を食べる、久々に和食でも食べたら?』
マリアが背後で舌打ちしたのが分かった。
「悪かったね、マリアのことも色々と」
「ううん、平気よ。大丈夫」
高級ホテルには何でも揃っている。25階のレストランにはしっかり日本料理の店も軒を並べていた。刺身の味は少しばかり悪かったが、それでも懐かしくて笑みがこぼれる。それを見ながらカインは言った。
「明日帰ったら、先生に怒られるかな」
「俺がちゃんととりなしておくよ」
モスクワ滞在は今日で最後になる。流麗のいない間に、カインと鏡の間でどんなやりとりがあったのか知らない。が、流麗がカインの傍に無事着いた翌々日に鏡はドイツへ帰国していた。マリアと一日デートしての帰国だったようである。ただ流麗は、あれから結局鏡に会っていない。きちんとしたお礼も言わないまま、彼は先に帰ってしまったのだった。
「そうだ、音楽祭の話は聞いてるか」
「音楽祭? あ、ジュリアが何か言ってたような気もするけど……詳しくは知らないわ」
ビーフシチューを口に運びながら、カインは頷いて言葉を続ける。
「12月の最後の日曜に、音楽祭が開催されるんだ。まあ前夜祭から後夜祭までを含めたら結局は土日月の3日間になるんだが」
要するに、文化祭のようなものらしい。模擬店のようなものも沢山出て、音楽院が一年で最も大騒ぎになる期間だという。それぞれコースの優秀者が、プログラムを決めて大講堂で演奏を披露する。
だいたいひとつのコースから5人ほど出場するという。バイオリンコースとしてはやはりカインが出るらしいが、あまりに他の追随を許さないためバイオリンコースは特例としてカインを除いた5名を選抜するのである。カイン以外のバイオリニストの芽を摘んでしまわないように、という学院側の配慮でもあった。
(へえ、出たいなぁ……)
「で、俺の伴奏を頼めないかと思って」
「へぇ…………え?」
ただの音楽祭ではなかった。ヴェルンブルク音楽院ほどの規模にもなれば――カイン・ロウェルや朝倉鏡、マリア・ルッツが属する音楽院ともなれば、世界中から耳の肥えた巨匠たちが訪れる。無名の音楽家が一気に巨匠の眼にとまる、大きな機会でもあった。
間の抜けた声を出したものだ、と自分でも思って流麗は慌てて口を押さえる。
「何を驚いてる」
カインが笑いながらスプーンを置いた。無駄のない仕草でナプキンを外し、綺麗に折りたたんでテーブルに戻す。
「嫌? いつも家で俺の伴奏をしてくれているのに」
「…………」
黙ったまま、というよりも何も言えないまま流麗は首を横に振った。
いやまさか、嫌なはずがない。カイン・ロウェルのバイオリンを神の音と憧れ慕い続けている流麗である。出たいなあ、と思った矢先に驚くほど旨い話が舞い込んできて、流麗は残っていた刺身を思わず噛まずに飲みくだした。詰まりかけた刺身を、苦しい息の中で嚥下してようやく落ち着き、それからもう一度唾を飲んで、水を飲んだ。
「音楽祭で俺の伴奏を頼んでもいいかな」
「いいの、あたしで? 弾きたいわ、すごく」
ぱあっ、と輝く流麗の顔を見て、カインもまた安堵したように微笑する。
「おまえの場合、ピアノソロでも選ばれるだろうから大変かもしれないけど……」
「そんなの平気よ!! あたし頑張る、そんなの全然大変じゃないわ!」
思わず興奮して手を叩く。嬉しいことがあると、子供のようにはしゃいでしまう癖がいつまでたっても抜けない。だがそんな姿を、何だかひどく温かな瞳で見守ってくれるカインがいるためについ甘えてしまうのだった。
この人には喜怒哀楽を表しても大丈夫だ、という安心感がある。箸をおいて、流麗は向かいに座るカインを見上げた。
「いい?」
「喜んでお受けするわ、頑張るね」
明日はドイツに帰る。音楽祭に向けて練習をするのだ、俄然やる気が湧いてくる。曲はパガニーニの『24の奇想曲』とエルガーの『愛の挨拶』。そして例に洩れずパッヘルベルの『カノン』の三曲だと。
それからその晩、カイン宛にジュリアからメールが来た。
――ルリへ。
転校のときの演奏が高く評価されてるわ。音楽祭の出場者の1人に選ばれたから、早く帰ってきなさいって先生たちが怒ってるわよ。課題曲はショパンの『舟歌』で、自由曲は自分で2曲好きなの選びなさいって。気をつけて帰ってきなよ、じゃあね★
あんたの素敵なジュリアより――
カインのパソコンに送ってきておきながら、カインへのメッセージは欠片もない失礼極まりないメールだったが、何はともあれ最高の報せに流麗もカインも笑顔を見せた。
(頑張らなきゃ……)
胸は高鳴る。心がふわふわして、どうにも落ち着かなかった。カインの伴奏は今まで家で幾度もしてきたけれど、それとはまた違った胸のときめきがある。あたしは望んでいたのだろうか、こうして聴衆の中に戻ることを。自分の指を見つめた。前から変わらない、長く細い綺麗な指。この指で、質の良いグランドピアノの鍵盤を叩くのを想像してみる。それは何にも代えがたい快感。帰ったらまず先生に謝らなくちゃ、と流麗はカインに片目を瞑ってみせた。あたしはずっとピアノを弾いていく。ピアノと一緒に生きていく。この幸せは絶対誰にも譲れない、奪わせない。
いつもはカインが流麗の頬におやすみのキスをする。……今日は流麗からカインの頬にキスをした。
『どう? 決まった?』
ジュリアが流麗の顔をのぞきこんできた。ドイツへ帰国しておよそ5日。課題曲のショパン『舟歌』は問題なかったが、なかなか自由曲を2曲に絞れず流麗は頭を悩ませていた。
『好きな曲がいっぱいありすぎて困るのよ』
モスクワで会ったのを最後に、マリアとはまだ顔を合わせていない。今月中旬に行う自分のソロリサイタルの最終打ち合わせなどで忙しいと聞いた。
『その中でも一番好きなのを選んだらいいのよ』
当然のように言ってのける。そんなあっさり、と流麗は彼女の言葉に思わず苦笑した。目の前に積み上げた楽譜集を見下ろして、ひとつ大きなため息をつく。放課後、レッスン室はそれでも温かく暖房が効いていて心地よい。カインが、レッスンがあるというのでそれを待っているのだった。
『あ……あたしそろそろ帰らなきゃ。寮、厳しくて困るのよね』
『うん、お疲れ様。また明日ね』
『また明日ね、ハニー』
妹を可愛がるように流麗の頭をぐるぐると撫でて、ジュリアが慌ただしく出て行った。金髪のグラマー美人とはいえ、性格はまるで男よりも男らしい。そんなジュリアが大好きである。彼女といると、少し恭子を思い出す。
(……そんなことより決めなきゃ)
弾きたい曲は幾らでもある。流麗が一番好きなのはリストとショパン。
その中から選ぶにしても膨大な曲数があるためになかなかそれも困難であった。
小さな音をたててレッスン室の扉が開いた。分厚いスライド式の扉で、開閉の音が静かである。入ってきた男を見て、流麗は笑顔を見せた。
「待たせたね」
「ううん。終わったの?」
ああ、と頷きながら、カインは扉の脇にある小さなソファに黒いコートを無造作に掛けた。流麗の目の前に置かれた数多くの楽譜集を見て、可笑しそうに笑う。
「決まらない?」
「決まらないわ。何がいいと思う?」
「ショパンは課題曲で出されてるから、自由曲は他のにしたら?」
「じゃあまずリスト」
リストの中で好きなのは何だろう、と考えてみる。横からカインが口を挟んだ。
「俺リストだったら『ため息』か『愛の夢』がいいかな」
『愛の夢』は有名な曲である。おそらくタイトルは知らなくても、大抵の人が耳にしたことのある曲だろうと思われる。いつだったか、映画にも使われていた。どちらかと言えば『愛の夢』のほうが簡単ではあったが、それでも皆に馴染みのある曲のほうがいいかもしれない。
「じゃあ『愛の夢』。あともう1曲は……そうね、ベタに『熱情』でも弾いとこうかな」
ベートーベンのピアノソナタ『熱情』。これもまた有名な曲で、ちょっとしたクラシックファンならば誰でも聴いたことがあるだろう。そろそろ本気で曲を決めなければならない。流麗はぱらぱら、と楽譜集をめくりながら幾度か頷いた。あまりベートーベンは好んで弾くほうではなかったが、『熱情』は好きだ。流麗は心を決めて、楽譜集をどさどさとまとめた。
「決まったな。楽しみにしてる」
それが嬉しいのよ、とは流麗は言わない。カインが楽しみにしてくれるのが何よりも幸せなのだ、とは口に出さない。しかし心の中でその喜びを噛みしめている。自分が神のように憧れる最高の音楽家に、自分のピアノを楽しみにしてもらえるなんてそんな幸せ。
「ありがとう」
その一言に、全てを込めて言ってみる。壁にかけてあった流麗のコートを取り、カインが着せかけてくれた。暖かそうなベージュのコートは、ドイツへ来てからカインが流麗に買ってくれたものである。品の良いベージュ色が、とても流麗に似合った。両親が今の流麗を見たら、どう思うだろう。
(お父さん、泣くかも。あたしがあんまり幸せそうだから)
想像して、少し笑えた。流麗に辛くあたる生徒はいたけれども、今は何もかもが幸せだった。どんな誹謗中傷を受けても流麗はまるで聞き流していたし、何も気にならなかった。誰が何と言おうと、流麗は自分の才能をよく知っている。そうやって流麗を傷つけようとする人間よりも、自分のほうが余程ピアノに愛されていることを知っている。
だから何も気にならなかった。マリアやハンスのことを考えればそれは確かに憂鬱だったが、カインがいる。ジュリアがいる。他にも仲の良い友達がいる。ただこうして、ピアノの音色に、バイオリンの音色に囲まれていればそれで流麗は充分に幸せだった。
12月。雪の量が極端に増え、音楽院からカインの家へ戻るのにも一苦労である。指だけは常に動くようにしていなければならず、流麗は厳重に手指を包んでいた手袋を教室に入ってからようやく外した。音楽祭の出演者に選出された生徒は、通常の授業から外れて本格的に講師とマンツーマンでレッスンに励む。
「……11時からか……」
レッスンの予約表を一瞥して、流麗は手袋をバッグの中に突っ込んだ。一昨日からマリアが戻ってきている。何かにつけぶつかってきたり、プリントを渡さなかったり、まるで小学生のような行為に及んでいた。
時々不安になる。こんなことで将来生きていけるのだろうか、と苛められている当人ながら思うのだった。
『……どうしたの?』
立ち尽くしていた流麗に、珍しくマリアが話しかけてきた。
『……別にどうもしないけど』
『あら、そう? なら良いんだけど』
大きく息を吸う。パウダールームに行って帰ってきて、レッスンに行こうとバッグの中を探ったとき。確実に家から持ってきたはずの楽譜がないことに気付いたのだった。トイレに立った時にはあったはずの楽譜。それから例になく話しかけてきたマリア。何もかも辻褄が合いすぎて、情けなくも笑いそうになる。
『あたしの楽譜、見なかった?』
『何? 楽譜がないの?』
マリアの見下ろしてくる視線が、やけに癇にさわった。その勝ち誇ったような顔。楽譜を隠すなら隠すで、もう少し分かりにくくすれば良いものを。
『あんたピアニストでしょ? 一応は。楽譜忘れるなんてちょっと自覚がなさすぎるんじゃないの? 他の音楽祭出演者にも失礼よ』
ここぞとばかりに言い立てる。横合いからジュリアが首を突っ込んだ。
『ちょっと、マリア! あんたが隠したんじゃないの? ルリの才能に嫉妬してさ!』
『……聞き捨てならないわね。何? どこに証拠があってそんなこと? ねえ、あんたに関係のないことじゃない、何で口挟んでくるのかしら。その下品な立ち居振る舞い、もう少し直したほうが良いんじゃなくて?』
ジュリアの鼻の穴が広がる。怒っているのだ。自分のことで二人が口論をしているのに、思わずジュリアの怒った顔が滑稽で流麗は口元を押さえた。
『人のこと泥棒扱いするんだったら、証拠もってきなさいよ。あんまり失礼なことばっかり言ってると警察呼ぶわよ』
もういいってば、と流麗はジュリアの袖を引いた。
『ちょっと、何でよ。ルリ!?』
『平気よ。楽譜から眼を離してトイレに行ったあたしの責任だわ』
そんなことは思ってもいない。トイレに楽譜を持っていって、落として濡らすほうが怖い。だがここで興奮してもマリアを喜ばせるだけだという確信が、流麗に平静さを保たせた。別にそこまで困ることはない。流麗は周りが不審に思うほど、落ち着いている。
『楽譜のことなんか、カインに頼んだって無理だと思うわよ』
カインがいなくては何もできないくせに。そんな表情がありありとマリアの顔に出ている。流麗の予約している講師は、あの厳格な紳士である。オットー・エアハルト講師。楽譜を忘れたなどと言えば、こっぴどく叱られるに違いない。それを見据えてのいじめだと思われた。音楽祭での楽曲を決めて、まだ数日。暗譜もできていない人間が楽譜を忘れるなど、自覚不足も甚だしい。マリアの勝ち誇ったような顔を見て、しかし流麗は微笑した。
子供ね、マリア。あたしはほとんど初対面に近いカインにくっついて、ドイツへやってきたのよ。こんなことでめげるような覚悟では、来てないわ。馬鹿よ、あなた。楽譜を隠したくらいで、あたしはピアノを弾けなくなるとでも思ってるの? 先生に叱られたくらいで諦めるとでも思ってるの? あたしは大丈夫よ。だってピアノが好きだもの。あたし、負けないわ。あなたみたいな人に、負けたくないわ。ケンカなら、幾らでも買うから。
『平気よ、ジュリア。もう全部、暗譜してるもの』
マリアが驚いたように眼を見開き、それから唇をぎりぎりと噛みしめたのが分かった。
それからレッスンに行って、流麗は当然のように楽譜無しで弾いてみせた。エアハルト講師には幾分叱られたが、それでも流麗はにこにことして特にこたえた様子も見せなかった。楽譜無しでエアハルト講師のレッスンを受けた、という流麗のその噂は、昼過ぎにはバイオリン科にまで広まっていて。
『ちょっと、あんたマリア・ルッツをどうにかしなさいよ!!!』
『…………』
喚くジュリアを片手で牽制して、カインはバイオリンをケースにしまう。
『それでルリはどうしたって?』
『暗譜してるわって言ってのけたわよ。マリアは相当びっくりしてたみたいだけどね』
その様子を想像して、カインは思わず口許を緩めた。大人しく品の良い美貌をして、なかなか鋭い牙を持っている。マリアも驚いたろう。
『あの子、ホントに暗譜してたのかしら』
心配そうに呟いたジュリアを一瞥する。この女は何を心配しているのだろう、と思った。流麗は暗譜している。暗譜している、というよりも様々な楽曲が彼女の頭の中には入っているのである。だから、時が経っても忘れない。長く時が経った頃に、不意に『愛の夢』を弾いてみてくれと言っても、彼女は完璧に弾いてみせるに違いなかった。彼女をただの天才と思っていては、こちらは驚かされるばかりだ。普通では、ないのである。尋常では、ないのである。カインはレッスン室で待っているであろう流麗を思いながら、黙ってバイオリンケースを持ち上げた。
『ちょっと、心配じゃないの!?』
『あれのピアノは心配ないさ。ただ俺が心配なのは……』
マリア・ルッツのことである。マリアが今回のことでさらに嫉妬を募らせて、流麗に辛く当たるのではないのだろうか、と。いや、ただ口でいじめる分には問題ないと思っている。カインがいちいち口を出さなくても、流麗は巧みに誹謗中傷を避けて通るに違いない。しかし、マリアが口だけで済ませるとは到底思えなかった。
(眼を離せないな……)
流麗に危害が及ぶようなことがあれば、許さない。カインは小さく舌打ちをし、まるでジュリアを無視するかたちで流麗の待つレッスン室に向かった。
第十四楽章:凍える命
ランチは、カイン・ロウェルと一緒だった。カフェテリアで2人揃ってパスタランチを食べ、流麗はカインがコーヒーを飲むのをのんびりと見つめていた。
「おいしいの?」
「何が?」
唐突な問いに、カインはきょとんとした瞳で流麗に視線をあてた。
「コーヒー。ミルクも砂糖も入れないでいつも飲んでるから」
「ああ……腰抜かすほど美味いっていうわけでもないけどね。コーヒーの甘いのは苦手なだけだよ」
ふうん、と流麗は彼の手元にあるカップの黒い液体と、自分の手元にあるベージュ色の液体とを興味深げに見比べる。隣の椅子には楽譜を入れたバッグが置かれてあった。
『カイン!』
カインは静かに眼を上げた。飲みかけのコーヒーカップをそっとテーブルの上に置き、軽く口許をナプキンで拭う。カインと同じバイオリン科の男子生徒だった。
『何?』
『先生が呼んでたぜ。音楽祭の打ち合わせがどうのこうのって。今年の音楽祭はポール・セザンヌが来るんだろ?』
『ああ……今行くよ。ありがとう』
流麗は瞳をくるんとさせて2人を見比べた。ポール・セザンヌという名前には記憶がある。確かフランス出身の巨匠。世界的な指揮者の名前だったと思う。流麗にとって巨匠といえば、ロシアのピアニストであり指揮者でもあるウラディミール・アシュケナージだったが、それでもポール・セザンヌの名前くらいは聞き知っていた。
「ルリ、おまえもおいで。俺から離れるな」
「……大丈夫よ」
「いいからおいで」
てっきりカフェテリアで待つつもりだった流麗は、驚いて眼を見開いた。
「え、でも……」
およそ強引にカインは流麗の手を引く。飲みかけのコーヒーを置いたまま流麗は立ち上がって、彼に手を引かれるままに従った。
「あたし、ポール・セザンヌって知ってるわ」
「そりゃ、有名人だからな。良い人だよ、俺の恩師だな」
「教わったの?」
「バイオリンを教わったり、彼が指揮する交響楽団で演奏させてもらったり。良くしてもらったんだ、イギリスにいた頃から」
「すごいわ、さすが世界のカイン・ロウェルね」
目を輝かせてはしゃぐ流麗の額を、カインはこつんと小突く。誉めても何も出ないよ、と笑いながらカインは流麗の手を引き歩く。……途中でマリアとすれ違った。
「どこに行くの?」
「講師室にね。クラウス・マイヤー講師の部屋へ」
クラウス・マイヤーというのがカインのバイオリン講師である。厳しいが故に音を上げる生徒も多かったが、そこは相当の実力者、彼とのレッスンを希望する生徒は後を絶たなかった。それでも他の講師よりは生徒が少ないせいで、放課後にはカインとマンツーマンでレッスンをしてくれるらしい。
本館の3階まで上がると、そこは講師室がずらりと並ぶ廊下が続く。ピアノのエアハルト講師の部屋を通り過ぎて、バイオリン科の講師室のほうへ歩き、ちょうど階段の踊り場の前まで来てカインの足が止まった。見上げると、ドイツ語で『クラウス・マイヤー』と書かれた名札がかかっている。
「あたし、前で待ってる」
カインが少し心配そうな顔で流麗を見た。入れば良いのに、と言いたげな顔だったがさすがにのこのこと部屋の中まで行くわけにはいかない。
流麗はバッグの中から楽譜を取り出して、軽く振って見せた。
「大丈夫よ。楽譜でも見ながら大人しく待ってるから、早く出てきてね」
ウインクをした流麗を見て、カインは納得したように笑った。
「じゃあ早く済ませるから。大人しく待ってろよ」
「はぁい」
カインがノックをして、部屋の中へ入っていく。カインの姿がドアの奥へ消えるのを見送って、流麗はひとつため息をついた。
(さて、と。ここまで来たけど……どれくらい時間かかるのかしら)
そうだ、と流麗はエアハルト講師の部屋をノックしてみる。
『どうぞ』
(良かった、いたわ)
『先生っ』
入ってきた流麗を見て、エアハルトは苦笑して持っていたペンを置いた。
『どうした、こんな昼間に。君のレッスンはもう終わったはずだろう?』
『ちょっと、時間ができたから先生の顔見に行こうかなって』
『まったく……』
こんな気さくにエアハルトに話しかける生徒は、流麗くらいである。朝倉鏡もマリア・ルッツもここまで明朗に気軽に声をかけたりしない。日本にいるときから、流麗は人に好かれるのが上手かった。人懐こい笑顔が、どうやら人の心をほぐすらしい。
『ねえ、先生。今度の音楽祭にポール・セザンヌが来るんですって。すごいですよね、カイン。今マイヤー先生のとこに呼ばれて行ってるけど』
レッスンから離れているエアハルトの表情は柔らかい。愛しい教え子を見つめる顔である。開いていた手帳をそっと閉じて、彼は流麗に向き直った。
『カインが好きかい』
『ええ、とっても。優しいし、カッコいいし、頭もいいし、それに何よりバイオリンの神様みたいだから』
流麗はまるでエアハルトの言った意味を理解していない。エアハルトはカインを異性として好きか、と訊ねたつもりだったが、まるで流麗は頓着もなく好きだと答えた。そこに恋があるのかどうか、誰にも見抜けない。
普段から見ていると、2人は限りない絆で結ばれているように思える。エアハルトはにこにことこちらを見て笑っている少女を見ながら考えた。
(……恋とは違うのか……)
恋は人を盲目にする。カインは昔から恋をされても恋をしたことはないように見えた。それほど彼のバイオリンは上達する以外に変化はなかったのである。この北条流麗は、カイン・ロウェルに並ぶ逸材だとエアハルトは確信していた。その彼女が、恋することによってピアノ以外に気をとられてしまうのは困る。それでさりげなく訊いてみたのだったが。
(友愛なのか何なのか……)
純粋なのだろう、と思う。彼女は色恋沙汰など無関係に、カインを慕っているのだろう。それが吉と出るか凶と出るか。マリア・ルッツもまた異性としてカインを慕っていること、エアハルトは知っている。生徒のことは大抵見ているだけで分かった。祈るしかないのかもしれなかった。
どうかどうか、流麗の将来が誰にも奪われないようにと。
『ところでルリ、カインには私の所に来ると言って来たのか』
エアハルトの言葉に、流麗はハッとして居住まいを正した。そうだ、言わずに来たのだった。怒られる、と流麗は慌ててバッグを持ち立ち上がった。
『わ、忘れてました。怒られるから、そろそろ失礼します』
エアハルトが眼を細めて笑う。厳しいけれど、とても優しい人だと流麗には分かっていた。軽く手を振る彼に笑顔で応えて、流麗は急いで部屋を出た。クラウス・マイヤー講師の部屋は右だったか左だったか、一瞬迷ってから右に歩き出す。突き当たりの階段の前、ちゃんとクラウス・マイヤー講師の部屋を見つけた。そっとドアに耳をくっつけてみると、人の声がする。
どうやらまだカインの用は終わっていないらしい。ホッとして流麗は辺りを見回した。階段の踊り場にある手すりに寄りかかって、ひとしきり暇を持て余した後、流麗は楽譜を取り出して開く。
(リストかぁ……)
『愛の夢』。音符を見るだけで、頭の中に音楽が滔々と流れ出す。手すりの上に指を乗せると、自然と指は動いた。いつだったか幼い頃、この『愛の夢』を聴いて泣いたことがある。悲しい曲ではないはずだったが、美しい旋律に何故か涙が零れる。流麗にとってはそんな曲だった。心を無にすればするほど、胸に響く。きっと純粋な愛を謳った曲なのだろう、と流麗は想像してみるのだった。リストはどんな恋をしていたのだろう、リストはどんなふうに女性を愛したのだろう、リストはどんな愛に憧れたのだろう、と。
(心が綺麗だったのね、リスト……は……)
何が起こったのか分からなかった。えっ、と思ったときにはまわりの景色が幾度か回転し、危ないと思ったときには身体中にひどい痛みを感じ、すでに身体は階段の下にあった。何か考える間もなかった。ただ何かに背中を押されたということだけ、分かる。
(え……?)
頭を打ったのかもしれない。ぐらぐらと揺れる視界の中で、階段の上を見る。霞んでしまいそうな瞳の中に、見慣れた女の姿がうっすらと映った。はっきりとは見えなかったが、それはこちらを憎悪の眼で見ていたかもしれない。長身の体を翻して、それは流麗の視界から消えた。
(……マリア……!)
頭がふらふらする。何とか立ち上がろうと、右手で体を支えて流麗は思わず悲鳴をあげた。流麗の顔から血の気が失せる。体を支えた右手に、鈍い痛みが走ったのだった。今まで経験してきた捻挫とか打ち身とか、そういった類の痛みよりもずっと烈しい痛みに流麗は慄いた。自分の心臓の音だけが、どくん、どくん、と耳に響いている。
まさか、と思う。きっと捻挫だ、と思う。きっと少し右手を打っただけ。
『ルリ……!?』
遠くにカインの声を聞いた。助けて、と言いたかったのに唇がうまく動かない。階段から落とされたショックよりも、右手の痛みのほうが余程ショックで流麗の息は止まりそうだった。必死に肩で息をする。駆け下りてきたカインの腕を感じて、そこで流麗は意識を失った。
手以外なら、どこでも良かった。ピアノさえ弾けるなら、どこを怪我しても構わなかった。どんな怪我をしても、ピアノさえ弾けるなら流麗は幸せでいることができた。中学生の頃に足を骨折したこともあったけれど、あの時だって別に辛くなかったと思う。皆と一緒に遊んだりできない鬱憤も、ピアノを弾いていれば晴れた。包丁だって持たなかったし、手指だけは決して怪我をしないように気をつけていた。ピアノをやめた後でも、無意識のうちに手指には気を配っていたのだ。
『複雑骨折だな。しばらくは絶対安静だよ』
『音楽祭は!?』
『……残念だが無理だろう、いいかいルリ。辛いとは思うが、今ちゃんと治しておかないと二度とピアノを弾けない手になるぞ』
『治るの!?』
『何度か手術をしなくてはならないだろうが、治るよ。今までどおりにピアノを弾くのは……もしかすると難しいかもしれないが』
生まれてはじめて、死にたいと思ったかもしれない。手を動かさなくても、痛みがある。だらしなく包帯を巻かれた自分の手を、流麗はじっと見つめた。これを少し外してしまえば、弾けそうな気がした。留め金を外し、流麗は包帯を外しはじめた。
『ルリ、やめろ』
気付いたカインが、慌てて流麗の手を押さえる。医師も慌てて流麗を宥めた。
『バカか、おまえ! やめろ!』
彼も動揺しているのかもしれない。話す言葉が英語だった。
「放して、お願い。もしかしたら弾けるかもしれないのよ。包帯さえなければ」
『流麗、自分の手を見たか。相当腫れているんだぞ』
カインが何を言っているのか、早口の英語で分からない。包帯を外しきった自分の手首を見て、流麗は愕然とした。ひどく腫れている。指を動かそうとしても、まるで自分の思い通りには動いてくれなかった。今までは流麗の思うとおりに、素晴らしく滑らかに動いてくれていた指が、動かない。その恐怖に、流麗の唇はみるみるうちに渇いた。
声にならない悲鳴が、唇をついて出た。涙が、溢れてきた。人前で泣くのは初めてだった。
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2005/02/08(Tue)12:05:35 公開 /
ゅぇ
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ゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
やっと試練がやってきて、一区切りなわけですが、どうでしょう。相当長くなったので、そろそろ読みにくくなってきたのではないのかと思い、次から二部みたいな形で新規投稿しようかと思うのですが(汗。あたしの独断では決めかねますね(笑)で、ストーリーのほうはここまでは予想通りです。一応。ただこの先どう進むか、さっぱりわからないまま……。とりあえず明日は会社説明会。髪きりに行かなきゃ!!と思いつつ。。これからもよろしくお願いします。