- 『[短編] 幻詠』 作者:覆面レスラー / 未分類 未分類
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原稿用紙約19.25枚
草木も眠る丑三つ時。
寝静まった両親の目を盗んで、僕と姉さんは逢瀬を交わしていた。
障子窓から忍び込む、霞月の蒼さだけが部屋の闇を仄かに照らしていた。 殺した息で夏の空気を吸い込むと、青畳の藺草から立ち上る青臭い薫り、蚊取り線香のたなびく白煙、そして窓際に吊るした青蚊帳を通り抜けてそよぐ夏の湿り気を帯びた風、戯れる姉さんの雪色の肌から翳ろう気だるい淫臭が溶け合っていて、気でも触れたかのように僕の脳髄を無茶苦茶に犯した。
犯された僕は、胸元を痒く滑り落ちる淫蕩とした汗の湿りに包まれながら、敷布団の上、暑さを忘れて、一層姉さんの身体に強くしがみ付いた。腰帯を解き露になった下腹部に触れる風だけが、冷たい。
腰を持ち上げると僕の火照った肌に、姉さんの冷たい肌が重なる。重なって触れ合って弾けた汗がほとり、と堕ちた。それが、布団にじんわりと滴の波紋が浮かばせる。
闇、闇、闇。
月明かりの部屋は何も見えない。
けれど、乳房の柔らかさも、きめ細かい肌触りも、しっとりと濡れた感触も全て掌で、指先で覚えている。僕の記憶が、確かな感触を伴って姉さんを悦ばせる。
その度に上がる、夜半に囀る虫の音色に入り混じる姉さんの押し殺したうめき声が愛おしくて、僕の劣情はより際立ってしまう。
僕は姉さんになりたい。姉さんの一部になって溶け合ってしまいたい。その一心が、姉さんを責め立て、証を刻むように肌を甘く噛ませる。
姉さんのうなじは甘ったるく溶けそうな塩の味がして、喉がゴクリと鳴った。
ああ――このまま、永遠にこうして狂うことができたのなら、僕は幸せなのに。
夏にすら翳ろう高熱に犯し犯されていく僕の脳髄。
その犯し尽くされて、バラけた脳髄が齎す思考は、秘所に桜紙を押し当てて、逢瀬の後始末をしながら肌を桜色に染める姉さんの横顔、それが情事の終わりに灯した行灯の明滅にぼんやり揺れる様にすら欲情してしまうのだ。艶やかに濡れたうなじ、はだけた肩口にくっきりと残る僕が刻んだ歯形の痣に、まどろみ蕩けそうな感情の塊を覚える。
正直、姉さんという存在が纏う濃厚な雌の空気が、僕が世界に触れるために在る様々な概念に狂いを生じさせるのは最早目を背けられない現実だった。
襖を開けて抜き足でそっと姉さんが部屋を立ち去った後ですら、下半身に残った快楽の疼きは全く収まる気配を見せず、僕は先までの行為を思い出しながら自慰行為に及んでしまう。
「姉さん、姉さん」と痴呆の様に口端歪め、奥歯を食いしばりながらうつ伏せになり、顔を布団に押し付けて闇の中に浮かんだ姉さんの性器のざらついた感触を想像しながら、声をくぐくもらせてその行為に及ぶ自分が、なにより嫌いだった。姉さんというリアルではなく、女性というリアルしか求めていないその行為。達した後は、そのまま布団や畳に沈み込んでしまいそうな酷い倦怠感に捉われる。
ぶるり、と身体を震わせ、大きく息を吐き、呼吸を整えながら仰向けになり両の目を腕で覆うと天井を仰ぐ。べっとりと右掌に張り付いた感触だけが生々しく鬱陶しかった。
†
思春期を過ごす学生生活を営む上で、欲しい物は何一つなかった。
級友達がお洒落や流行に関心を示している姿を、心の内で嘲り、斜めに見据えながら日々を適当にやり過ごす。たまに何が欲しいか聞かれることもあるが、調子を合わせて『〜が欲しい』と嘯いて見せるものの次の瞬間には、自分は何を欲しいと言ったのか、もう忘れていた。
僕には心の底から渇望するほど欲しいものは一つもなかった。
生きていく上で痛切に捨ててしまいたいもなら一つだけあったけれど。
それは――性欲。
僕にとって酷く醜くて歪んだ感情の塊。幾ら切り取ろうとしても切り取れない、視認できない臓器のようだった。それは明らかに、姉さんの本質だけを愛するためには最も必要が無い感情だった。性欲があるから、姉さんに快楽の欠片を見る。女性という不純物を混じらせる。射精感と疲労感からくる心地よい堕落した達成感に満たされたい一心で、それを姉さんの影に見てしまう。そんな自分が嫌いだった。性欲さえなければ、姉さんを心の底から愛していると立証できる。そう、頑なに信じて疑わなかった。夜伽も性干渉も要らなかった。ただ、ここにある感情だけでいい。揺るがない、何よりも大切な『愛』という感情。
それだけが欲しかった。
欲しくて、理解したかった。
いや――むしろ、それを立証するために性欲を失いたかった。
ざわめく教室の窓から、ぼんやり空を見上げる。
夕立が近いのか、真っ赤に染まった青に、雲が灰色く大きな影を落としていた。湿度の上昇が肌にしっとりとした汗を掻かせ、ワイシャツを不快に濡らした。胸元をバサつかせ風を送り込んでも、大して涼しくはならない。あぁ、今は真夏なのだと改めて実感する。今日から、夏季休暇だという事実だけが、僕の心を際限無く沈めていく。夕暮の空平線から迫り来る黒く透明な入道雲が、姉さんとの暗い先行きを映し出している気がした。
†
その苦悩も長くは続かない。
絶え間なく僕の心を支配している鬱屈した感情は、反射的な煩悩に掻き消されて、事の後に悩み火種にしかならないからだ。僕たちは夏季休暇となるが、両親は畑仕事のため休みなど無い。自然、僕は姉さんと二人きりで居る時間だけが増え、僕はそれを避けようと外をふらつくが、家に帰ると必ず姉さんが僕を出迎えた。
そして、僕を苦悩の淵に追い詰める。
例えば、両親が居なくなった夕過ぎ、縁側でふいに姉さんに唇を重ねられたとき。
例えば、蒸し暑い夜、蚊取り線香の煙たさに、姉さんの匂いが入り混じったとき。
例えば、寝入ろうとする僕の唇が、姉さんの舌の侵入を容易に許してしまったとき。
例えば、姉さんが僕を背中から抱き、下半身に冷たい手で触れたとき。
例えば、耳たぶを姉さんの舌先が舐め上げたとき。
例えば、「好きよ、康生」と甘い声で囁かれたとき。
例えば、快楽に触れようと、意識せず手が独りでに姉さんを欲してしまったとき。
僕は脳が毒を垂れ流し、それが下半身の奥から波状に広がり、男性自身がむくむくといきり立つ非常に緩慢な血液の流れを覚える。波打つ鈍痛のような疼きが脳の奥から指先や足先、僕の末端全てに染み渡って、抜けていく。
歯痒い。
いとも簡単に決壊してしまう、自己。
僕は僕自身をコントロールする術を持ち合わせない。
食欲も、睡眠欲も許容量を越えれば我慢できない。性欲の飢餓も、おそらくは。血が出るほど、頬肉を噛んで姉さんの愛撫に抵抗を試みるが意味などない。性欲の巨大で昏い口が開き、その痛みすら飲み込んでしまう。痛みが心地いいなんて、まるで変態のようだ、と自分で自分を笑う余裕も無く、快楽の下に僕の全ては容易にひざまずいてしまう。
後は、姉さんに玩ばれるがまま。
「駄目だよ、姉さん」
「何が駄目なの? 康生」
姉さんが、慣れた手つきで僕の腰帯を解く。
僕は姉さんの手を掴んで抵抗している素振りを見せているが、その手に力は篭っていない。僕の体が、僕の心を否定している。その事実に僕の心は挫けそうになるが、心を口に出すことで体の自由を取り戻そうとする。
「姉弟でこんなの、絶対に間違ってる」
「どうしてそう思うの?」
艶めいた紅い唇を斜めに吊り上げながら、姉さんは首を傾げる。
姉さんの問いに僕の心は必死で回答を探すが、答えなど元より、無い。
心だけが、足掻く。
「――どうしても、だよ」
「じゃあ、止める?」
はっとして姉さんを見つめる――と、姉さんは嫣然と微笑んでいた。
それは、僕の心が根底から覆されてしまう笑み。
ああ、僕は――
僕の心は――嘘を吐いている。
姉さんと、体で繋がりたくないなんて思うこの心は嘘だ。
本当は――壊れてしまうほど抱きたい癖に。
「…………」
僕の五感は最早潰れたの意志に共鳴するかの如く麻痺して働かず、僕に触れる姉さんだけを受け入れる。
「ほら、康生も止めたくないんじゃない。良いのよ、気持ち良いものね」
「……うぅぅ」
どうして、僕は泣く。
「泣いたって駄目よ」
姉さんが言う。
なら、僕に触れないで。
姉さんが触れる度に、心地よい痛みが僕の心をバラバラに刻んでいくから。
「……ふふ、固くなってる」
ほどなくして快楽が収束した塊は、白濁した液体となり放出され、あとには何も残らない。疲労感、寂寥感、曖昧に薄れていく快感。夏の暑さと肌の冷たさにあてられて茫洋とした意識の中、繰り返し姉さんの熱が陽炎となって匂い立つ後姿を見た。
まるで一夜の夢。
その行為は、現実でも夢でも夜毎断続的にループし、僕は限り無く、姉さんに近い色に染まっていった。
自分の心から姉さんを切り離せない程に。
†
「さよなら、康生」
姉さんはそう言って、大きなアタッシュケースを提げて列車に乗り込んだ。僕は列車とプラットフォームの隙間に隔たれながら姉さんと向かい合った。鍔広の屋根に覆われたプラットフォームは、青く入道雲を乗せて広がる空から指す日差しが届かない。
太陽がくっきりと影と光のコントラストを描いていた。蝉が激しく啼いている。山に囲まれた線路にほのめく蜃気楼からそよぐ風は透明な青だった。
姉さんが羽織った純白のショールが波打っている。
暑すぎて、別れに似つかわしくない日だ。
本当、似つかわしくない――
「そんな悲しそうな顔しないで」
そっと、掌が頬に添えられる。あの夜と同じ冷たさだった。自分はそんなに悲しそうな顔をしていたのだろうか。姉さんは微笑を絶やさなかったが、目元を悲しそうにゆがめていた。
ふと、風が、止んだ。
ペンキの剥がれ掛けた木造の構内に掛けられている古時計が姉さんの出立がそう遠くないことを僕に教えていた。
「……姉さん……」
口の中で小さく呟いてみる。狂おしいほどに愛しい言葉を。
本当は引き止めたくて、頬に掛けられた掌を掴んで、こちらに引き寄せたかったけれど僕はそれをしなかった。
それをしてしまえば、僕は――
じんわりと涙腺が緩んできた。もう姉さんの顔を見るのは耐えられない、と思った。その瞬間、唇に夏に似つかわしくない冷たさが触れた。姉さんの、味がした。やがてそれは、塩気を含んだ味に変わってしまったけれど。
けれど、それで僕は――
永い永い接吻だった。人目も憚らず、姉と弟である事も忘れて、ただ愛し合う二人で居られる事を願うような触れ合いだった。唇を離し、閉じていた目を開いて姉さんを見ると、姉さんの頬にも一筋、跡が残っていた。
「大丈夫。向こうに行っても康生の事は忘れないから」
姉さんは赤い目をしたまま、向日葵のように鮮やかな笑みを僕にくれた。
僕はうん、と小さく全てを信じきった幼子のように頷いた。
それが契機だったかのように、列車の出発を知らせるサイレンが二人だけの世界に終りを告げ、鳴り渡る。
「さよなら、百合」
「さよなら、康生」
初めて姉さんを名前で呼んだ。
それだけで、僕はもう大丈夫だった。
姉さんを見送ることが出来た自分に安心した。相手を犠牲にせず、自分を犠牲にできた自分に満足だった。
それが、どれだけ滑稽で、無垢で、世界を知らない子供の強がりのように見えてしまったとしても。確かに、僕の心は、一つだけ大人になっていた。
列車の窓から姉さんが身を乗り出して手を振る。
僕も振り返す。
列車は規則的に速度を上げ、僕と姉さんを遠ざける。
やがて列車は線路に漂う熱の陽炎に消えた。
「さよなら」
夏の果てに向かって、誰にも届かない声で呟く。姉さんを失ったことに悲しみを覚えない心が、悲しかった。
†
あれから一年がたった。
山奥の山村にあった列車はいつしか廃線になった。
終着駅だったプラットフォームに滑り込んでくる列車は、もうない。
それでも、僕は良くプラットフォームにやってくる。風雨に晒され、白いペンキが剥がれ落ち、黒ずんだ腐りかけの木が剥き出しになった構内は相変わらずで、屋根に遮られて無事だった時計が時折思い出したかのように、秒針を震えさせる。
夏の日は光と影のコントラスト、生い茂った草に覆われ始めた線路の枕木はそれらが訪れる度に、桟敷の向こうにある蜃気楼を思い出した。
僕にとって、ただ一つの違いしかない、あの日と同じ景色を。
それは、何処かに繋がっているはずなのに、線路の向こうが何処にも繋がっていないかのような苦い焦燥だけが、僕を責める景色。違っているのは、過ぎ去ってしまった時間の流れだけ。僕もこの村も空も四季も、そしてこの夏も何も変わらない。
あれから姉さんから手紙が幾度か手紙が届いた。
向こうに着いたこと。
僕が居なくて寂しいこと。
田舎とは全然違っていて、何もかもが目新しいこと。
両親の顔が久しぶりにみたいこと。
大学生活は概ね順調で心配ないこと。
たまにこっちが懐かしくなること。
意気投合できる友人ができたこと。
それ以降は知らない。
最初は三日、次は一週間、次は一ヶ月――段々と周期は遅くなり、やがて手紙は途絶えた。いつか送った手紙は住所不明でポストに返却されていたし、今年の正月にも帰ってこなかった。もう、姉さんが僕や両親の元に訪れる機会はないだろう。列車が無くなった今となっては、運搬トラックで丸々一日を掛けて山を二つ程越えてこなければならない。
だから、姉さんは一生故郷には、帰ってこないだろう。
そして、僕は一生この村をでることはないだろう。
僕と姉さんは遠く繋がっていても、互いが生きていく中でいつのまにか価値を失ってしまったのだから。
僕は姉さんという価値を失った代わりに、あれほど捨てたかった性欲を捨てることができた。けれど、今更捨てられた事実に左程意味は無く、静寂とした心は伽藍にも似て途方もない空虚だけが広がっていた。
僕はこの心を抱えたまま。
二度と線路を歩く事は無い。
「さよならだけが人生なんですね」
太宰は酔い泣きながら、そう悟った。
今、線路に立つ僕の心情はその想いにも似て――
夕立の近さを知った鳥が、力強く羽ばたきながら山を越えて街の方角へ飛んで行く。姉さんもああして、まだ見ぬ誰かを探して、旅立っていったのだろうか。それとも大切な人を想い、いつかは自分だけの場所へ帰ろうと想いながら故郷を後にしたのだろうか。
そして、僕とは違って、まだ線路を歩き続けているのだろうか。
それは、一生分からない。
僕は一生ここに佇んで動けないのだから。
列車の来なくなった、この終着駅のように、いつまでもここに居るしか出来ないのだから――
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2004/11/18(Thu)23:41:28 公開 /
覆面レスラー
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■作者からのメッセージ
京都に行きたい。たまには大阪を出たい。その一心で書き上げました。ゴメンナサイ、嘘です。ただ兄妹モノに飽きたので、姉弟モノにしようと思っただけです。次の短編はおそらく同性ものです(多分)。読んで頂けた皆様に、多大なる感謝。