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『好き好き大好き超愛してる。 その1〜その3』 作者:明日香翔 / 未分類 未分類
全角17930文字
容量35860 bytes
原稿用紙約50.7枚
 
 弟を地下室に閉じ込めてから二週間が過ぎた。

 私はその日の朝も弟の分の朝食を作り、家の庭から、地下へと続く階段を降りていった。その地下室は地下室と聞いて一般的な人々が思い浮かべるであろう地下室のイメージそのままの地下室で、石造りの壁と床に、いつも私は捕らえられたグレートヒェンのことを思う。夏でも少し肌寒いくらいの室温はけして生活するのに快適な空間とは言えなかったが、人間というものはその気になればどこだって生きてゆけるものだし、そのようなことは特に問題視すべきことではない。こつん、こつん、と靴が石畳を叩く音がする。ゆらゆらと揺れる蝋燭の光に私の影が様々に形を変える。
 暫く歩くと目的の場所に辿りつく。そこには絵に描いたような牢があり、薄汚れたベッドが隅に備え付けられている。その横には用を足すための便器と、申し訳程度という感じの錆付いた水道。それに付随して、なぜか場違いな浴槽。それからベッドの脇に積まれた本の山。
 牢の中に存在するものはそれで全てだった。ベッドにはいつものように弟が腰掛けていて、こちらの足音に気づくと顔を上げ「お早う」と言った。
「お早う」私は笑顔で言った。「朝ごはんよ。食べるでしょ? ご飯とお味噌汁と鮭。それからこの間静岡のお婆ちゃんの家から送ってもらったお茶。すごい美味しかったよ。あ、熱いから気をつけてね。火傷しないように」
 弟は微かに首を縦に振り、差し出された盆を「ありがとう」と言って受け取り、食べ始める。私は「ダメでしょー? ちゃんと、いただきますって言ってから食べなきゃ」と言う。弟はその言葉にああしまった言い忘れていた、というような調子で「いただきます」と言い、再び食物の咀嚼を開始した。私はその様子を満足気に眺める。自分の愛する人が自分の作った料理を食べてくれるなんて、この上ない喜びだ。食事のたびに私はそれを実感する。自分が他人に必要とされている感覚というのはどれだけ味わっても飽きることのない、一度味わってしまうと忘れることができなくなる、麻薬のようなものだ。無論私はどこぞの探偵のようにコカインもヘロインも吸ったことは無いけれど。
 私は弟が一心に朝食を摂っているのを眺めながら満たされた気持ちになる。「じゃ、食べ終わったら食器出しておいてね。お昼は――」少し逡巡する。「そうだ、冷蔵庫に昨日の残りの肉じゃががあったと思うから、後でそれ持ってくるね。悪いけど、それとご飯とお味噌汁で我慢してくれる? その代わり、晩御飯はあなたの好きなもの作ってあげるからさ。うーん、そうだ、コシードはどう? コシード。好きだったでしょ?」弟は私が喋っている間も、聞いているのかいないのかぼんやりとした表情でこちらを見ていた。「どう?」私がもう一度言うと「うん」と答えを返した。
「じゃ、決まりね」私は立ち上がり、踵を返す。「待っててね、今肉じゃが持ってくるから」そう言って立ち去りかけた時、弟が「お姉ちゃん、ありがとう」と言った。「……いつも言ってるけどさ、いちいちお礼なんか言わなくていいよ。私、あなたのお姉さんなんだから、当然だよそれくらい」
「うん」
 私は弟がお姉ちゃん、と言う時の優しい感じがとても好きだ。弟がそう発音した瞬間に、痺れるような心地よさが私の体を襲う。甘く官能的な痛みに私の心は千切れそうになる。それは確実に、家族愛とは違う別の何かだ。

 ※

 一時限目は体育だったので、少し憂鬱な気持ちになる。私は運動全般がどうも苦手だ。自らの努力不足を認めないわけではないが、天性の才能不足を言い訳にしても許されないことはないのではないかと思う。
「香奈ちゃん」私が体操着に着替えていると隣の席の春香ちゃんが話しかけてきた。「今日マラソンだってさ」
「そうそう、どうしてこんな時期にマラソンするのって感じよねー」と、咲も近寄ってきて会話に加わる。「普通、マラソンって冬にやるもんじゃないの? 今をいつだと思ってるのかしら、混じりっ気無しの純然たる盛夏なのよ。季節感も何もあったもんじゃないわ」
「マラソンって冬の季語だしね」私は言う。
「本当に?」春香ちゃんは驚いたように聞き返す。
「冗談よ、冗談。社交辞令みたいなもの。そういうの必要でしょ、日々の生活には。潤いっていうかさ」
 春香ちゃんはふーん、と判ったような判らないような言葉を返す。私は人生におけるウィットに富んだジョークの必要性について必死に説いてやろうかととも思ったけれど、もう少しでチャイムが鳴りそうだったので止めた。着替えを終えると「じゃ、先行くね」と私は言う。「あ、私も行く」と咲も言う。「ああちょっと待ってよ、私まだ着替えてないー」という春香ちゃんの声を背に、私たち二人は教室を出た。廊下を歩きながら、窓から外を見る。気持ち良いくらいに晴れた空の下、幾人かの生徒達が笑いながらお喋りを楽しんでいる。
 チャイムが鳴った。

 マラソンを終えぐったりとした体で机に突っ伏し午前の授業をやり過ごした。私の席は窓側の一番後ろという休息には最適のロケーションを保有している。教師にとってはデッドスペースのようなものだ。昼休みになっても全身を包む気だるさは消えない。そのままだらーっとしていると昼休み特有の喧騒が私の耳に入ってくる。「もおサイテー、あいつホント消えてほしいんだけど」あいつって誰のことだろ。「昨日さ、あれ見た? 妻夫木君が出てるドラマ。えーと、何ていったっけかな」見た見た。何だったっけかな、と私も考える。「聞いてよ、私こないだ役満上がっちゃったのよ! 国士無双国士無双!」私なんかチューレン上がったことあるもん、チューレン。
「かーなちゃん、お弁当食べよ」ふと聞こえる声に顔を上げるとそこには春香ちゃんが弁当の包みを手に立っていた。「うん」と言うと春香ちゃんは自分の席に座り、机をくっつけてから弁当を広げだした。「香奈ちゃんは今日お弁当?」「うん」私は鞄の中からファンシーな色遣いの布で包まれた弁当箱を取り出した。蓋を開けるとご飯と肉じゃが。「あ、肉じゃが」「うん」「それ、自分で作ったの?」「うん」
 私の返答が先ほどから適当なのは肉じゃがのせいで弟のことを思い出していたからだ。今頃私と同じものを食べているのだろうか。ていうか確実にそうだろうけれど。あそこには調理を可能とする器具も材料も無いし、かといって牢から出るなんてことは不可能だから。そんなのはロミジュリが悲劇的な結末を迎えることと同じくらいに必定だ。
 弟と初めてキスしたのはえーっと、いつだったか。そうだ、一年前。確か部活から帰ってきたばかりの弟が「ふぅ」とか言って居間のソファでくつろいでいるところに、私が「何か飲む?」とかいうようなことを言って弟が「ああ、うん。ありがとうお姉ちゃん」みたいに答えたところ、その瞬間私は弟のことが可愛くて可愛くて仕方がなくなってしまったのだけれど何気ない振りをして冷蔵庫からオレンジジュースを出して「はい」とか言って注いであげてたらあの子がもう無防備に笑うものだからつい我慢できなくなってオレンジジュースのボトルを落として中身が零れるのも構わずにそのまま
「どうしたの? 香奈ちゃん。ニヤニヤして。そんなに肉じゃが美味しい?」
「ああ、ううん。まぁ、普通」私は言う。
「今やらしいこと考えてたでしょ」いつの間にか前の席に陣取っていた咲が言う。手には紙パックのオレンジジュースを持っていた。「そういう顔してた」ずごーと音を立ててジュースを飲む。
「ちょっと音立てて飲まないでよ咲ちゃん」と春香ちゃんが注意する。
「そのオレンジジュースどこに売ってたの?」私は聞く。
「どこって、学食の販売機だけど。知ってるでしょ? あそこに自販機あるの。買ったことなかったっけ?」
「あるよ」
「じゃあどうしてそんなこと聞くのよ」
「さあ」私があの時最後まで注ぐことのできなかったオレンジジュースはどこで買ったものだっただろう。近所のスーパーか。それとも学校帰りにコンビニでか。
「変なの」咲は言う。「まあ、あなたが変なのはいつものことだけどね」
 失礼なことを言わないでほしい、と私は思う。「失礼なことを言わないでほしい」
「あなた、変わってるよ。やっぱり。そんなんだから彼氏できないのよ」
「咲ちゃんだっていないじゃない」春香ちゃんは言う。「そうだそうだ」私も賛同する。「五月蝿いな、春香、あんた彼氏いるからっていい気になってんじゃないわよ」「いい気になんかなってないよ。事実を述べただけだよ」「そうだそうだ」「あんたは私と同じ境遇でしょうがっ」咲から、べしっ、と痛くないツッコミが入った。「私、彼氏なんか要らないもん」私は本心から言う。
「えー、そんなことないよ。好きな人が自分の傍にいてくれるのって、嬉しいよ」
「うわっ、のろけか」咲は大げさに引いて言う。
「えへへー」春香ちゃんは照れたように笑った。
「のろけか」私も言う。言いながら、思う。好きな人が自分の傍にいてくれるのが嬉しいものであることくらい私だって知っている。だから二週間前弟を牢に閉じ込めて強制的に拘束したのだ。私無しでは生きてゆけなくなるように。

 昼食を食べ終わった後私は二人に、用があるから、と告げ図書室に向かった。昼休みの図書室というのは基本的に、騒がしい昼休みに縁遠い、居場所の無い人種が自分たちの安住の地を求めてやってくるものだが、私はその中の数少ない例外だ。カウンターに座る女子生徒に本を返した後、自身の読書欲を満たしてくれる書物を探して本棚を彷徨う。うろちょろしていた私はふと見覚えのある後ろ姿を発見した。
「芥子川さん」
「あ、香奈ちゃん。久しぶりだねぇ、元気?」
 芥子川さんは私の所属している文芸部の一年先輩だ。しかし、彼女が部活をやめてからはほとんど会うこともなくなっていた。嫌いというわけじゃなし、私の脳内でラベリングを施せば、かなり判定基準を辛めにしても好感の持てる人物に分類されるだろうが、特に積極的に会う理由も見当たらなかったので、自然、疎遠になっていた。人と人との関係なんて、そんなものだろう。
「芥子川さん、何読んでるんですか?」私は芥子川さんが小脇に抱えている本を見ながら言う。「ハードカバーですね」
「スタンダール全集」芥子川さんは嬉しそうに答えた。もっともこの人は常時嬉しそうな顔をしていてつまりその表情はデフォルトなので普段通りだ。「香奈ちゃんは? 何か本探してたり?」
「いえ、特にそういうわけじゃないんですが。『ブラウン神父の童心』読み終わったので、何か面白い本ないかなーと。暇つぶしに」
「そっか。じゃあ、バークリーなんかどう? 面白かったよ」
「そですか。ありがとうございます。じゃ、読んでみます」
「弟さん元気?」芥子川さんは急に言う。「香奈ちゃん自慢の弟さんは」
「元気ですよ」私は答えた。「芥子川さんのお兄さんはお元気ですか? 芥子川さんがラブラブな自慢のお兄さんは」
「えー、そんな、ラブラブなんかじゃないよ」普通だよ普通、と芥子川さんは言う。以前芥子川さんが部活をやめる前は、よく(というか毎日)お兄ちゃんがね、お兄ちゃんがね、と口癖のように話していたものだった。部室にいた私含めその他の部員たちはおいおいあんた何歳だよと内心かなり引いていたのだけれど、そのことに目を瞑れば後輩には優しいし可愛いし面倒見は良いしで素敵な先輩であることには間違いなかったので、まあ、重度のブラコンも個性といえば個性だ。それに私も人のことは言えない。
「芥子川さん、彼氏とか居ないんですか?」
「そんなのいないよ」
「そんなの、ですか」私は嘆息する。
「香奈ちゃんだっていないでしょ?」「いませんけど」「香奈ちゃん可愛いのに」「ありがとうございます。芥子川さんも可愛いですよ」「どれくらい?」「え?」「どれくらい可愛い? 私」「アナ・ジョンソンくらいでしょうか」「誰それ?」「じゃあ、メグくらい」「メグって、メグ・ライアン?」「いえ、『隣の家の少女』のメグです」「知らない」「じゃあ、フィービーくらい」
 それなら相当なものだね、と言って芥子川さんは笑った。私も控え目に笑った。そして挨拶をして別れた。私は本棚を移動し、薦められたアントニイ・バークリーの『最上階の殺人』を手に取った。
 チャイムが鳴った。

 ※

 ただいま、と誰も居ない居間に向かって言ってから私は二階に上がり自分の部屋へ。制服から私服に着替える。家の中と言えどもだらしない格好をするわけにはいかない。だって好きな人と会うんだもん。鏡で一応チェックしてから「よし」と言って一階に下り夕食の準備をする。コシードコシード。肉とか豆とか野菜とかを煮込んだスペインの料理。下ごしらえやら何やら色々しているともう六時だ。それから煮る。ぐつぐつぐつぐつと煮る。煮ている間は暇なので私は図書室で借りてきた『最上階の殺人』を読む。そういえば『毒入りチョコレート事件』は前に読んだことがあったような気がする、と思いながらある程度読み進めたところで料理が完成したので皿に移し、私は二人分の料理を持って地下室へと運ぶ。
「ごめんね、待った?」牢の前に到着すると、私は恋人同士の待ち合わせの時みたいに言った。「ううん、大丈夫」と弟は小さい声で言う。私は皿を牢の隙間から中に差し入れてやり、椅子(以前、家から運んできたものだ)に座り「じゃ、食べよっか」と言った。
「いただきまーす」
「いただきます」
 スプーンで掬って口に運ぶ。うん、我ながら上出来だ。「美味しい?」「うん」「そっか。それは良かった」「うん」「味付けがね、割と微妙な匙加減を要求されるんだよね」私は適当に知ったようなことを言う。「そうなんだ。でも美味しいよ」弟は言う。「そう?」「うん」「そっか。それは良かった」
 そんな感じで夕食の時間が過ぎた。
「ふぅ、満腹」
「うん」
「私、お風呂入ってくるからさ、その間にお風呂入っちゃいなよ。それから、何かして遊ぼう」私は言う。「着替え、まだあるよね」
 弟が頷いたのを確認してから私は家に戻り、洗面所で脱衣を済ませ入浴する。浴槽にぶくぶくと顔を沈めて遊んだりしながら私はいつものように自身の体の外見的特徴のことについて考えた。果たして私の体は人に見せても恥ずかしくないであろうほどの数値を所有しているのだろうか。比べたことがないので判らないが、服の上から見る限りでは咲も春香ちゃんもそんなに私と違いはないように思う。春香ちゃんは彼氏もいることだし、それなら私とてそこまで貧相な体つきではないと言って差し支えないのではないだろうか。それに、こういうことは個人的な趣味に大きく左右されるものだと聞く。
 何考えてるんだか。
 私は風呂から上がりパジャマを身にまとうとトランプを持って地下室に下りた。弟はすでに入浴を終え同じように寝間着に着替えている。
「今日は何する? 何でも良いけど……どうしようかな。ページワンでもやろうか」弟はその言葉に「うん」と言う。牢の格子越しに二人で二時間くらいページワンをして遊んだ後、私は「もうそろそろ上行くね、お休みなさい」と言った。「ほっぺた、近づけて。いつもみたいに」そして格子の間から弟の頬にキスした。お休み、と私はもう一度言う。弟もお休みなさい、と言う。
 私は自分の部屋でテレビを見た後、布団に潜りこんで本を読みながら眠りに就いた。



 寝る前にトランプやウノをして遊んでいる時に、いつも私はその日あったことを面白おかしく弟に話す。「今日さ、数学の時間が自習だったんだけどね」「うん」「どうしてか知らないけど、隣の席の春香ちゃん――前、話したよね。可愛いけど少し変わってる女の子――が突然鞄の中からバックギャモンを取り出してさ、これで遊ぼうっていうわけよ」言いながら私はダイヤの八の隣に九を並べて置く。二人でやる七並べは客観的に見て娯楽としての性能は低いと言わざるを得なかったが、元々カードゲームに興じるのは会話を行うための理由付けのようなものなので、まあ、平たく言えばどうでも良い。「変でしょ?」「うん」弟は少し笑いながらその隣にダイヤの十を置いた。「変わった人だね」「そうでしょ?」
 ゲームが終了してから、いつものように弟にお休みの挨拶をして頬にキスした後地下室を出る。そういえば、あの時以来唇にちゃんとキスしたことってなかったな。夜風に吹かれながら私はそんなことを考える。弟の乾いた唇の感触を想像し、人差し指で自身の唇に触れた。そこは、少し、かさかさしていた。

 その日は咲と春香ちゃんと、放課後の文芸部の部室でどうでもいいことを適当に話していた。授業が終わっても何となく帰りたい気分ではなかったので、部室でだらだらすることにしたのだった。
「だからさ、ジョン・トラボルタはあの時が一番格好良かったんだって」咲が言う。
「ジョン・トラボルタって誰?」春香ちゃんはそういう俳優とか芸能人とかに疎いのだ。「ジョン・レノンの親戚?」
「パルプ・フィクションとかに出てるよ、確か」私は言う。
「どうしてあれが真っ先に例として出てくるのよ」
「だって私、あの人が出演してるのあれしか観たことないし」机に頬杖をつきながら私は答える。「元々、そんなに映画って観ないしね」
「もっと他にもあるでしょーが。例えば――」
「二人とも、私に判らない話するの止めてよー」春香ちゃんは不満そうに言った。
「いい機会だからあなたも映画くらい観なさい。私がお薦めのやつ貸したげるから」
「咲のお薦めって何なの?」私は聞いた。
「『話の話』」
「うわっ」私は仰け反った。「マイナーっ。メジャーリーグかマイナーリーグかで言うとマイナーリーグってくらいマイナー」
「あなた、知ってるだけ凄いわよ。あれを知ってて映画に疎いとは言わせないわよ」
「だから私に判らない話しないでってばー」
 そんなことを話している間に下校時刻になる。元々部員が不熱心なせいで誰かいることの方が珍しい部室、もう少し滞在していても余り問題はなかったのだけれど「せっかくだから泊まりしよーよ、泊まり。明日日曜だしさ。今日はなんかそういうテンションなの」という咲の言葉に半ば引きずられる形で、少し早めに帰宅しそれからまた場所を改めてお喋りに興じようということになった。
 帰宅途中「場所、どうしようか」と咲が言った。
「え? 咲の家じゃないの?」私は言う。「言い出したのはあなたでしたが」
「まあ、それでも良いんだけどさ。私の家は何回も来てるでしょ? 二人とも。せっかくだから行ったことない場所が良いんじゃないかと」
「あ、それ良い」春香ちゃんも賛同。「私、香奈ちゃんの家行ってみたいなぁー」
「別に良いけど」
「あ、大丈夫? じゃあ一時間後くらいにあの、いつものミニストップで良い?」
「うん」
 私たちは別れ、それぞれ帰路につく。歩きながら、私は目を閉じて上空に浮かぶ月のことを思う。今までの会話のなかで誰もそのことには触れようとしなかったけれど、今日は満月だった。目を開ければいつだってその事実を確認することができる。私はそうしない。想像の中の月はいつだって完璧な円形を保っていて、私はその想像上の満月がとても好き。でもいつまでも目を閉じたまま歩いていては危ないので私は目を開けた。
 下を見て歩く。
 見たくないものからは目を逸らしてしまえば良い。人間って便利。

 帰宅した後私は弟に作り置きのカレーを温めて持っていってやる。「ごめんね、遅くなっちゃった」「ううん、平気だよ」「あ、今日友達が泊まりに来るから」「うん」それから自分の部屋に戻り二人分の布団を用意し、部屋を簡単に片付け待ち合わせのミニストップに向かう。春香ちゃんは既に来ていたが咲は未だ到着していない。「今日、急に泊まったりして大丈夫なの? 香奈ちゃんち」「あ、うん。親は長期旅行で居ないし。弟も友達の家に泊まりに行ってるから」「そうなんだ。長期旅行ってどれくらいなの? ご両親」「あと一ヶ月くらいは帰ってこないんじゃないかなー。うちの親いい加減だからさ」「ええーっ、大変じゃない、それって。私ならとても無理だな、一ヶ月もお母さんもお父さんも居ないなんて」
「いやーごめんごめん遅れて」とか言いながら咲が来る。
 ミニストップでお菓子とか飲み物の類を買ってから、十分くらい歩き私の家に着いた。咲も春香ちゃんと同じことを聞くので同じ説明をもう一度する。「いいなぁ、親が一ヶ月もいないなんて」と咲は言っていた。私もそう思う。
 私の部屋でテレビを見ながら三人で取り留めの無い話をする。さっきの続きの映画の話やら、最近読んだ本の話やら。
「ところでさ、この部屋、本多すぎ。小説とか漫画とか」咲が言いながら視線を動かす先には天井まで届くくらいの本棚が二つあって、私も見慣れたそれを同じように見上げる。個人的にはこれくらいの量大したことないと思うのだけれど、確かに他人の部屋に訪れた際これ以上の蔵書を見た覚えはないような気もする。
「そんなことないよ」
「そんなことあるよー」春香ちゃんがにこにこしながら言う。泊まりとかするとこの子は妙にハイテンションになるのだ。前に咲の家に泊まった時も、何故かニュースステーションを見ながらずっと爆笑していた。曰く「久米さんが、久米さんがー」お酒を飲んだわけでもないのに、どうしてそこまで笑い上戸になれるのか私には不思議だったけれど春香ちゃんが笑っているのは見てて気分の悪いものでないというかむしろ良いのでそれはそれで。「本だらけ本だらけ。丸善くらいあるよー。えい、レモン置いちゃえ」懐からレモンを取りだして本棚から入りきらずに積んであった『最終兵器彼女』の上に置く。あなた、どうしてレモンなんか持ってるんでしょうか。
「どうしてレモンなんか持ってるの?」
「ここにある本全部読んだの?」春香ちゃんは私を無視して言う。おい。「すごいね、人間図書館だ」
「別に全部の本読んでるわけじゃないよ。積んでるだけのやつも結構あるし」
「まあ、本読むのは私も嫌いじゃないけど、あなたのは異常。ブラッドベリ、実篤、安部公房、春樹、オースター、サガン――」指差しながら咲が言う。
「異常じゃない。弟もこれくらい本持ってるし」私は反論する。「分担して買ってるから、節約になるよ」だからバイトもしていないただの女子高生である私の溢れる読書欲をそれなりに過不足なく満たすことができているのは弟のおかげでもある。
「そういえば、弟さん見たかったなー」春香ちゃんが本棚を物色しながら言う。「可愛い? 可愛い?」
「あなた彼氏いるでしょーが」と咲。
「そんなの関係ないもん。ね、どう? 写真とかないの?」
 写真か。「ちょっと待って、弟の部屋に確かアルバムあったと思うから、取ってくる」そう言い残して私は部屋を出た。裸足のまま廊下をぺたぺたと音を立てて歩く、そんな、いつも聞いているはずの音がどうしてか今夜は妙に意識された。部屋の前まで来ると私は何も言わずにドアを開けた。判っていたことだが部屋の中には簡素なベッドと大きな本棚しかない。窓は閉まっているので部屋の中はぼんやりとした暗闇に包まれている。私は手探りで明かりのスイッチをつけた。
 ベッドは私が毎日整えているので、清潔さを保っていて汚れひとつない。本棚に目をやると、ある一部分の棚から本がごっそりと抜かれているのが目に入る。抜け落ちている分の本は、私が地下室に持っていってやったものだ。読書好きの人間にとって、読みたい時に手元に本が無いのはこの上ない苦痛であり、そのような痛みを弟に味わわせるのは酷なことであると考えたのだ。私は本棚の中からアルバムを探す。
「あ」それは簡単に見つかった。「あった」
 私はベッドに腰掛け何とはなしにぱらぱらとアルバムのページを捲ってみる。あ、これは小さい頃家族で遊園地に行った時の写真だ。あの時私はジェットコースターに乗りたくて乗りたくてでも身長制限に引っかかるから乗れなくて泣きながら親に抗議をして随分迷惑をかけたものだった。弟はその時まだ母親に抱かれていることしかできないような年頃で、泣き喚く私のことを不思議そうに見ていたような記憶がある。右上のやつは弟が小学校に入学した時のもの。その下のは私の誕生日会の写真。これ、何歳のバースデイだろう。ひーふーみー、と蝋燭の数を数えてみる。十歳か。ということはピースサインをしている私の後ろに写っている弟は八歳ということになる。
 アルバムを閉じ、私はベッドに横になった。
 そういえば、もう少しで私の誕生日だ。
 ごろごろと寝返りをうちながら、右手で軽くシーツを掴む。ごろごろごろごろ。弟に抱きしめられることを想像しながら私は目を閉じる。背中に回される温かい両腕。匂い。吐息。もっと強く抱いて、と私は懇願する。私の好きな弟はいつだって私の望み通りにしてくれる。強く強く抱いてくれる。離れることのないように。けれど、思い切り強く抱きしめられているせいで、私は弟の顔を見ることができない。「キスして」私は言う。弟は私の首筋に接吻する。「あ……ふ」心地良さに思わず目を閉じる。弟の唇が首筋を這い、私の唇を塞ぐ。息ができない。苦しい。
 シーツに接吻していたことに気づき私は少し赤面する。アルバムを棚に戻し、明かりを消し、部屋に戻る。「遅かったねー、あった? アルバム」「ごめん、探したんだけど、無かった。多分押し入れに仕舞いこまれちゃってるんだと思う」
「そっか、じゃあしょうがないね」と春香ちゃんは言う。

 お風呂入ってパジャマに着替え布団に入り明かり消してさあそろそろ寝ようかって時に咲が急に「忘れてた」と言った。
「何を?」
「春香の彼氏の話よ、カレシ」
「えー」春香ちゃんは曖昧なリアクション。話したいのか話したくないのかどっちなんだ。「えー」二回言うな。
「もうキスした?」寝転がり天井を見つめたまま、キスなら私もしたことありますが何か? と思いつつ私は訊く。
「あー、まあ、うん」頭を掻きながら答える春香ちゃん。「した」
「ほう」咲が言う。
「何それ、ほうって」私は言う。
「いや、ただ、成程なあと思っただけ」
「キスくらいするよねー? 好きな人とだったら」私は春香ちゃんに同意を求める。「舌入れた?」
「舌なんか入れないよー」顔の前で手を振りながら言う。暗いせいで良く見えないが多分顔を赤くしていることだろう。こういう女の子をして、可愛いというのだ。少なくとも私の価値観においては。「ていうか、香奈ちゃんもキスしたことあるの?」「あるよ」「うわ、何だこいつら」咲がだんだん、と床を叩く。こら、近所迷惑だ。「近所迷惑だから叩かないでください床を。倒置法」「あなたカレシいないくせにどうして経験済みなのよ」「色々あるのよ女には」「私も女だけど」「色々あるのよあなた以外の女には」ねー、と再び春香ちゃんに同意を求める私。「そうそう」頷く春香ちゃん。
「何かムカつくわ」そう言って咲は頭から布団をかぶってしまった。「寝る」
「何拗ねてるのよ」
「拗ねてないっ」
 拗ねてるじゃんか。
 それ以上咲は何も言わない。自然私と春香ちゃんも黙り込み、沈黙が訪れた。別に気まずいわけではないからどうということはないのだけれど私まだ眠くないのになあ、とかぼんやり考える。基本的に他人が傍にいると思考は収束しない。他人との会話はいつだって綱渡り的なものであり、そのような余裕は存在しないのだ。
「……ねえ、香奈ちゃん」春香ちゃんが小声で言う。
「何?」
「舌入れたの?」
「ああ」私は少し笑う。「入れてないよ」
「そう」
「春香ちゃんさ、もうしたの?」視線を宙に泳がせる。「セックス」
「してない」
 私も。
 私はその言葉を飲み込んだ。途端、ひどくあの子のことが恋しくなる。愛しくなる。淋しくなる。淋しくなることなんかないはずなのに。だって、いつでも好きな時に会えるんだから。

 ※

 二人が寝付いたのを確認してから私は部屋を抜け出した。首を飛ばされたデュラハンが慌ててがしゃがしゃがしゃと自身の頭部を拾いに行くように急いで、一階の窓からそのまま庭に出る。裸足なのも構わず地下への階段を一段飛ばしで下りる。石畳が足に冷たい。
 牢の前まで来ると蝋燭にぼんやりと照らされたベッドや浴槽が見える。弟はベッドの上で体育座りをしながら読書をしていたらしく、私が来たことに気づくと本から目を離しこちらを見た。
「起きてたの?」私は言う。
「うん」言いながら本を置き、こちらに近づいてくる。「お姉ちゃんこそ」
「なんか、ね」
 私はパジャマが汚れてしまうなあ、と思いながら牢の格子の前に腰を下ろした。「何読んでたの?」「『ウイーンの辻音楽師』」弟も向かい合うように座る。「そう」「うん」「眠い?」私はドミノ倒しのドミノを誤って倒してしまわないように、ひとつひとつゆっくりと並べるみたいに慎重に訊く。「少し」「そう」「うん」「泊まりに来た子って、この間話したあの子も居るんだよ」「あの、バックギャモンの人?」「そうそう」「はは」弟は思い出したのか、声を出して笑った。「あとね、咲っていう子。私のことを変な人呼ばわりするの。映画好きの子」「へえ」「キスしたことないんだってさ。今日春香ちゃんの彼氏の話題が出たんだけど、その時にキスしたかしてないかって話になってね。その事実が明るみに出たというわけ」「へえ」「彼氏いないんだって」
 私は泣きそうになる。
 初めてキスした時を思い出す。思い出して、だから何だというわけじゃない。だから、思い出すような種類のことではないのだ、そんなこと。
「……ねえ、キスして良い?」
 その言葉に弟は頬を近づける。「違う」私は言う。「唇に、」
 弟の唇が私の唇に触れた。すぐ離れた。
 私は格子の間から手を伸ばし、弟の右手を掴んだ。汗ばんだ手に、冷えた体温が心地良い。
「私のこと、好き?」
「うん」
 弟を抱きしめようとしたけれど、上手くいかない。私たちの間には鉄の格子が存在して、抱擁の邪魔をしているから。弟も私の背中に手を回そうとする。上手くいかない。でも、それだけだ。上手くいかなくて、少し悲しい。ただそれだけのことだから、私は泣きそうにはなっても泣いたりなんかしない。

 ※

 日曜日の午後は、池袋で買い物をした後、神保町で本を物色するというのがいつものパターンだ。高岡書店で漫画の新刊をチェックし、靖国通り沿いに書泉ブックマートに向かって歩く。池袋で洋服を購入済のため、私は普段持ち歩いているバッグの他に、大きなトートバッグを肩からさげている。重い。でも本の誘惑には勝てないので荷物が増えることを承知しつつも、途中の古本屋で岩波文庫やブルーバックスを漁る。
ワゴンセールの本の中に見慣れた名前を見つけた。泉鏡花。百円なら買っても良いな。いやでもさっき他の本買ったばかりだしなあ。まだ家にも沢山未読の本が山積みになってるし。
「・・・・・・どうしよう」呟く。
他人にとってどうなのかは知らないけれど、少なくとも私にとっては深刻な問題だ。通りの真ん中でうんうん唸っていると、不意に横から手が伸びてきて私の目的の本を取り上げた。「あ」私は思わずそちらを見る。そこにはおそらく大学生くらいの、顔にだいぶ幼さを残した青年がいて、泉鏡花を右手に携えながら私の方を不思議そうな様子で見つめていた。目が合う。
 すぐ逸らした。
「何か用?」青年は言う。声も男性にしては高い。しかしそれ以外は背が少し低いくらいで何ら変わったところのない普通の大学生だ。いやもしかしたら高校生か? 茶髪だけど。でもまあ髪を染めるくらい高校生でも皆やってるか。
「いえ・・・・・・別に」私は青年の右手に視線をやりながら言った。ああ人に持っていかれると何だか凄く惜しいことをしたような気分になるなあと頭の隅で考える。「すいません、本当に、何でもないんです。じゃ、私――」
「もしかしたら、この本、先に目をつけていた?」
 私が去りかけたところで青年はそんなことを言った。その通りです、と私は思う。でもなあ、どうしよう。別にそこまで欲しいわけじゃないしそもそも先に目をつけてたかなんて客観的に観察してないから判断できないし。とか、言葉には出さないけれど様々な思いが私の中を駆け巡り――駆けるというほどのスピードでもない、せいぜい競歩だ――結局私の口から出たのは「はあ、まあ」という曖昧極まりない返答だった。
「じゃあ、これ、どうぞ」青年は本を差し出し、言う。「別に僕の方は特別必要というわけじゃなし」
「あ、すいません」さぞ間抜けな表情をしていたことだろう、と自覚しつつ答える。「ありがとうございます――なんか、すいません」
「二回言わなくても」青年は苦笑した。
 この人、不思議な人だ。
別に態度や雰囲気が奇矯だというんじゃない。なんていうか、ステレオタイプに過ぎて、これといった特徴が無いのだ。このまま何事もなく別れたら間違いなく十秒後には顔を思い出せなくなってしまうだろうという確信がある。このような種類の人に会ったのは初めてだったので私は少し感動した(感激屋さんなの、私)。こんな感想を初対面の人に抱くのは勿論失礼なことだと理解しているのだけれど、都合の良いことにこの国では思想の自由というやつが保障されている。
私は思わず目の前の青年に見入ってしまう。
「・・・・・・あの、僕の顔に何かついてる?」青年が訊く。「もしくは僕が忘れているだけで実はあなたと僕とは知り合いだとか」
「いえ、そんなことは決して」私は言う。そしてなおも見る。
「はあ」
「あれ? お兄ちゃん?」
 聞き覚えのある声がしたので私は青年の顔からそちらに視線をやる。あ、芥子川さん。ていうことはこの人がお兄さん? お兄ちゃんと呼んでいるのだから多分そうなのだろうでもあんまり似てない。近づいてきて「あ、香奈ちゃん? なんで二人が一緒にいるのかな」と言う芥子川さんは淡い水色のミニスカートに橙色のキャミソールという格好。「いや、ていうか、この子霞の知り合いなのか?」あ、芥子川さんに対しては口調がくだけた感じ。当たり前か。兄妹だし。
 私は弟が「お姉ちゃん」という時の感じを思い出そうとした。
「香奈ちゃん?」
「あ、はい」私は答える。「偶然ですね。こんなところで会うなんて。お兄さんにまで」芥子川さんのお兄さんはその言葉に対して曖昧に頷いただけで何も言わなかった。
「それ、服?」芥子川さんは私が提げている袋を指して言う。「随分買ったねー」
「はあ、まあ」
「ね、お茶しない? どっかそのへんで。せっかく会ったんだし。この偶然を祝してさ。いやー、でもホントどうして二人が一緒に居るのかと思ったよ」
「本当に、偶然てあるものですね」泉鏡花がきっかけなんですよとは面倒くさいので言わない。
「ラプラスの悪魔でも居れば」お兄さんが言う。「偶然なんていう言葉を考え出した人間は鼻で笑われるだろうに」
 ラプラスの悪魔なんていう単語を日常会話に使用する人、初めて見た。これは私の個人的な意見だけれど、ラプラスの悪魔のことについて考えたことのある人なんて皆、予定調和で決定された未来に憧れを抱いたことのある輩に違いない。
 だから私も同類。
「気が合いますね」私は言った。
「はあ」訝しげな顔。
「気が合いますね」もう一度言った。

 書店に併設された喫茶店に入り、極めて簡単な自己紹介をしてから改めて会話が開始された。といっても主に喋っているのは芥子川さんで私とお兄さんは専ら聞き役に回っている。話題の大半は読書について(「あのね、この間ね、『順列都市』読んだんだけどね――」)、それから今日見て来たという映画のことについて(「もう、ショーン・ペンが超良かったのー。ね、お兄ちゃんもそう思うよね」「ああ、そうだな」)。正に機関銃のように言葉という銃弾を発射し続けていた芥子川さんに対し、私は「はい、そうですね」とか「そうですか、それは大変でしたね」とかそういった種類の返答をしていて、多分その様子は第三者が観察すれば心ここに在らずという状態であるというのが明白だったことだろう。でも芥子川さんは相手の反応なんてお構いなしに喋っていたし、お兄さんも同じような反応をしていたので、私ばかりが責められる筋合いはないように思う。
 誤解しないでほしいのだけれど、私だって芥子川さんに対していつもこのような態度をとっているわけではない。お兄さんが傍にいるせいだ。彼女は、実兄が何がしかの形で彼女自身に関わる際に限り、態度や手段が過剰になる。水を得た魚。違うか。魚は水が無いところでは生きていられないけれど、芥子川さんはお兄さんが居なくなったからって生きていけないわけではないだろう。
 そのはずだ。
 トイレに行く、と言って芥子川さんが席を立った時、私は小さく溜息を吐いた。ようやく訪れた静寂、聞き覚えのある曲が店内に流れていることに気づく。何だっけなこの曲。アイスコーヒーを氷とともにストローでからからとかき回しながら私はその名前を思い出そうとする。
「この曲、聴いたことありませんか?」私は言った。
「フリッパーズだよ、フリッパーズ・ギター」目の前に座っているお兄さんはアイスティーを一口すすってから答えた。「『青春はいちどだけ』」
思い出した。道理で聴いたことあると思った。
「ああ、そうですねそういえば。フリッパーズ好きなんですか?」私は訊いた。
「フリッパーズのライヴがあるからできるだけ都心に住みたい、というくらい好きだよ」少し笑う。「『東京星に、いこう』。知らないだろうけどね」
 やっぱ変な人だ。「あなたは変な人ですね」
「率直だね」お兄さんは言った。「君も人のことは言えないと思うけど」
「他にどんな曲聴くんですか? フリッパーズ以外に」
「あとは、レディオヘッドとかアズテックカメラとかフレイミングリップスとか中村一義とかが好きだと思う」
「思う?」
「聴いてるのは確かだけど」事務的な口調だった。「好きかどうかを客観的に判断する方法は何も無いからね」
「あなたは、芥子川さんのことが、好きですか?」私は言う。トイレの方を見る。芥子川さんはまだ出てこない。
 お兄さんは少し驚いたような顔をしてから、そこに言うべき言葉があるかのように、何もない中空に視線を彷徨わせた。私はその様子をぼんやりと眺めていた。少ししてから彼は飛び回る蝿を叩いて殺すかのような自然さで、まあ、おそらくね、と言った。
「君の言いたいことは何となく判るよ。過剰だっていうんだろう? 僕と霞の関係は」
「はい。見る限りには、そう思えます」
私は弟のことは言わなかった。言ってどうなるというのだ?
「実際的じゃないんだ」お兄さんはそう切り出した。「霞は多分僕のことが好きだし、僕も多分霞のことが好きだ。でもそれは・・・・・・なんていうか、他人を好きになるということとはちょっと違う種類のことなんだ。イメージなんだよ、全ては。本当に相手を好きになってるんじゃないんだ」
初対面の相手に語るようなことではないよな、こんなこと。私は冷静に相手の言葉を分析していた。もっとも、話を促したのは私なのだけれど。どうして、こうも、私の周りにはいつも適切な役割を果たすために存在しているかのような人物しか居ないのだろう。人生は都合の良いことばかりだ。
「必要だからお互いを求めて、それで自分の枠に無理やり押し込んでるだけだよ。一過性のものなんだ。自分の中にある相手の像が必要なだけで、それ以上でも以下でもない。サマー・ドッグみたいなものと言えば判りやすいのかも知れないな。金持ちの道楽、時期が来たら捨てられる。僕はそれに気づいているけれど、霞はまだ理解していないと思う、多分だけどね」
 沈黙。
フリッパーズの片方が青臭い歌詞をやる気の無い声で歌い上げているのが聞こえる。周りを見渡す。隣に座っているカップルの男の方が可笑しくもないエピソードを大げさに語り、それに対して女が馬鹿笑いをしている。奥の席には、煙草をふかしながら携帯電話で話をしているサラリーマン。私はアイスコーヒーを口に少し含んだ。飲んだ。苦い。
「実際的じゃないことの」私は言う。「何が悪いんですか?」
「別に悪いなんて言ってない。ただ、事実として、実際的でないだけ」お兄さんは目を伏せた。睫毛が長い。「生きている人間よりも、幽霊の方が存在感を所有しているのではないだろうか、というような種類の問題」
「――『ねえ、これって筋が通ってるかい?』」私は思い出しながら言った。「ブラッドベリですか?」
 お兄さんが口元を歪めた。それが笑みを示すものだということに暫く時間がかかった。「『読書家は自分の知識量を試されるような会話に、快感を覚えるのだ』」
 否定はしない。でも何となく面白くなかったので私は「芥子川さん、遅いですね」と言った。
「そうだね。でも、いつもこんなものだと思う」「そうなんですか」「ああ」「よく映画行ったりするんですか?」私は訊く。「え?」「よく映画行ったりするんですか? 二人で」「・・・・・・まあ、たまに。霞の好みはストレート過ぎて、あまり僕とは合わないような気がするんだけどね。この間観たのはソフィア・コッポラの――」
「私はレディオヘッドあまり好きじゃないです」
「急に、随分話題が戻ったね」
「芥子川さんとキスしましたか?」上目遣いで訊く。
「したよ」普通に答える。その感じ、気に食わない。僕らは古い墓を暴く夜の間に手に触れてすぐ崩れて消えてゆくって、
 五月蝿い、小山田圭吾。
 オレンジジュースを取り落とす。弟の顔を覗き込むようにして唇を重ねる。いつの間にか目を閉じていた。視界は暗闇で、二人が繋がっている感覚だけが、私を支配している。接続しているというより、お互いが変質して、溶け合って、ひとつになって。「・・・・・・んっ」「は、」
 目を開けるのが怖い、目の前に居る人は本当に私の愛しい人なのか不安になって、それと胸いっぱいの幸福感。好き。好き好き。好き好き好き好き好き。思わず目を開けたら夕暮れで赤と橙色が混ざって滲んで弟の顔も夕陽に照らされて、赤い。呼吸が苦しくなって、不意に私は唇を離した。
 弟は笑っていた。
「でも、他人のことを本当に好きにならなかったらキスなんてできません」私は言う。
「そんなことないよ。好きになっているのは実在する人間じゃなくて、自分の中にある理想の相手像なんだから。可愛くて格好良くて優しくて何でもできてどんなワガママも聞いてくれる、自分だけの恋人なんだからさ」
「しましたか? キスの後、その後にすること。ヤりましたか?」
「さあね」お兄さんは曖昧に答えた。
 見栄を張ってる、と私は思う。
 芥子川さんが戻ってきた。「なんかトイレ混んでてさっ。待った? 待った?」「結果的には」お兄さんは言う。「んもう、そういう時は、いや全然待ってないよとか言うのが普通だよっ」「ああ、まあ、そうかもな」「二人で何話してたの?」「音楽の話とか」
 そうだよね、とお兄さんが同意を求めるので私は「はい」と言う。
決心したよ私。あの子とセックスする。あの子のことが大好きなんだから、そんなの自然だよね。ちょっと怖いけど、私はあの子のことが好きなんだから。そう。大丈夫。そう決めた。
 さようなら処女。
 こんにちは他人。

 ※

 二人と別れてから、帰りの電車の中。私が乗っている車両には、私と、若い男女のカップルしかいなかった。私が本を読んでいて、向かい側の座席に座ったカップルは発情期の猫みたいにみっともなくベタベタしていた。いつもならそんなの全然気にならないのに今日はどうしてかひどく苛々したので、二十七回空想の中でそいつらを殺した。一回ごとに違う種類の殺し方を考えていたらあっという間に降りるべき駅に着いた。駅を出て家に向かう道すがら、今日の夕飯は何にしようかなと私は思った。
2004/11/25(Thu)03:08:55 公開 / 明日香翔
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よろしくお願いします。
三話まで書いてみました。
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