- 『月はわがままな夜の密室』 作者:瑞山堂 / 未分類 未分類
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全角24326.5文字
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序 ハーヴェストムーン
人類がようやく火星に先発入植隊を派遣,到着しその生活を始めようとしていた頃.当然,人類の開発の手は月にも及んでいる.月にはいくつかの「村」が生まれ,そこで生まれた「宇宙人」――ルナリアン,と呼ばれる――も人類には,いる.
しかし,今現在,月面上に人類は全く存在しない.『ハーヴェストムーン』と呼ばれる計画が進行しているからである.『収穫期の月(ハーヴェストムーン)』の名を冠するその計画は,月全体を人類が居住可能な環境とするため,月自体を『殻(シェル)』と呼ばれる巨大なドームで覆ってしまおうというものである.月という直径約3400キロメートルの岩石を覆うそのドームは,完成すれば間違いなく人類史上最大の建築物となる.
この,途方もなく巨大な建築物は,それでも完成しようとしている.その完成に実に10年以上の歳月を費やしている.その間,数々の技術革新があり,幾度も計画の微調整があった.それを乗り越えて,月のその巨大な『殻』は大量の資源,大量の資金,大量の労働力を費やして完成しようとしている.この10年間,人類は徐々に人工化していく月を見上げてきたのだ.月を密閉し,宇宙空間と完全に隔絶することを目的とした『殻』に覆われた月は,今まさに人類史上最大の「密室」と化している.
「密室」.そう,月は今現在密室と化している.それは辞書的な意味での密室であり,ミステリ的な意味での「密室」でもある.『殻』の内部,月の表面において,一人の人間の遺体が確認された.彼は,背中から腹部までを金属棒に貫かれ,絶命している.『殻』はその一週間前から完全に閉ざされており,人の出入りは全く無かった.計画の次なる段階,つまり『殻』内の環境を整える段階へと移行するためだ.
しかし,この事件で計画が一時凍結になる可能性もある.一体『殻』で何が起こったのか.事件が表沙汰になる前に,それを一刻も早く把握しなければならない.そこで,地上にある『ハーヴェストムーン』計画本部は一人の男を,管制作業衛星『ルナズルナ』に派遣することにした.それが2日前のことである.急なことで,派遣された男は事件に対するしっかりとした予備知識を持たないまま現地入りすることになった.彼は以前から現地と地上を結ぶパイプ役として働いていたため,現地の状況も地上の情勢もある程度把握している.だから,地上から現地へ派遣する人物としては最も適当であると言える.
彼,イーザクの役割は,『殻』で起きた『事実』の把握,及びそれによる計画への影響を調査することである.
1 ルナズルナ
プシュ,と空気が抜ける音がしてドアがスライドした.
まだ月と同程度の重力に不慣れなイーザクは部屋の中を見渡した.正面には巨大なモニタがあり,それ以外の壁も小さいモニタか,あるいはよくわからないマシンで埋め尽くされている.メインモニタの下には端末があり,その前に一人の男が向かって作業をしているようだ.その横で端末のモニタを覗いていた女性がこちらを振り向く.部屋の中には作業をしている男,振り向いた女性の二人しかいない.窓などは一切ないその部屋は明るく,マシンの作動音が常に幾重にも重なり響いている.
「地上から来た,イーザクです」
イーザクは入り口で礼をしようとし,少しバランスを崩した.その様子を見た女性はかすかに微笑み,
「ようこぞ,ルナズルナへ.私がプロジェクト・ハーヴェストムーンの現地チーフ,レイチェルです.……以前,二,三度お会いしたことがありますね」
と言った.
「えぇ.前回は確か,三年前でしたよね?」
イーザクは仕事柄,一年に二,三回地上と宇宙とを行き来する.この計画だけではなく,地球軌道上に建設予定のスペースコロニーや,火星への定期便ステーション,その他さまざまな計画に,イーザクは関わっている.彼は浅く広く,宇宙の情報を集め,地上へと持ち帰るのが仕事である.肉体的にも精神的にも,ハードだ.しかし,外見上はそのようには見えない.顔には常に,他人には不快感を与えない程度の薄笑いが貼り付いている.
それに対し,資料を読んだ限りではレイチェルは六年以上地球へ降りていない.現場チーフである彼女が地球へ降りなければいけない事態など,計画が頓挫しない限りはありえないのである.このルナズルナが,現在の彼女の家となっているはずである.
彼と彼女は,顔を合わせる機会が無い.必要が無い,と言い換えてもいい.イーザクは幾度もルナズルナを訪れてはいるが,レイチェルとは全くと言っていいほど会わない.
「3年経ってもあまり変わっていませんね」
「それは……どう受け取ればいいのかしら?」
微笑を絶やさぬまま,レイチェルは返す.
「いや,それはもちろん,あなたが美人なまま,という意味ですよ?」
多少わざとらしく慌てたように,イーザクが言う.レイチェルはくすくすと笑った後,
「ありがとう.……もう一人,紹介するわ」
後ろを振り向き,モニタに向かっている男を眼で指す.
「プロジェクトのメインプログラマ,ショウよ.……ショウ!」
しかしショウと呼ばれた男はレイチェルの問いかけを無視し,作業を続けている.
「もう……」
レイチェルはいかにも慣れているといった感じで呆れ,ショウの方へ歩き始める.
その足音を聞いたのか,やれやれ,といった雰囲気でショウは椅子に座ったままこちらへ振り向く.
「聞こえているよ,レイ.別に俺が自分で自分を紹介する必要はないだろ?」
髪を短く適当にそろえ,分厚いレンズのメガネをかけているその男は,身なりを全く気にしていないように見える.今も前を開けた白衣をだらしなく引っ掛け,色あせたTシャツ,ボロボロのジーンズを身につけている.唇の端を不自然に吊り上げ,ニヤついているかのようなその表情は初めて見る者ならばまず不快に思うだろう,とイーザクは感じた.
「ショウ」
ややレイチェルの声の温度が下がったような気がした.ショウは大げさに肩をすくめ,イーザクの方を見た.
「ショウ,だ.見ての通り,ただの天才プログラマだよ.誰かを殺すなんて……」
「ショウ!」
「そうなんだろ,地球人さん? あんたはルナズルナの誰かがこの事件を起こしたんだと思ってるんだろ」
じっと,イーザクの方を見る.
「……私はそんな予断を持つつもりは無いですし,持ってもいません.私がここに来たのは事件の調査のためで,それ以外のなんでもありません.私個人の意見も,調査に何の関係も無いです.それに……私の名前は,イーザクです」
イーザクもショウを見る.
しばらく二人の男は睨み合っていたが,やがてショウがくっくっくと笑い出し,最後には大笑いになった.
「まぁ,精精がんばりなよ,アイザックさん」
そう言って再びモニタに向かった.
二人の様子を見ていたレイチェルは頭を抑え,大きくため息をついた.
「ごめんなさい,イーザク.あんなのでも,腕は確かなの」
「わかっているつもりですよ,それは」
レイチェルは苦笑いをイーザクに向ける.だが,次の言葉を言う時にはその表情は真面目になっていた.
「では,早速始めます.よろしいですか?」
「えぇ.かまいません」
レイチェルはコンソールを操作する.正面のメインモニタに映っていた月,正確に言うと『殻』の映像が切り替わり,正真正銘の,十年前の月の映像が映し出された.
「もう理解されているとは思いますが,一応『殻』について解説しておきましょう.『殻』というのは,プロジェクト・ハーヴェストムーンの中核を成す建造物です.月全体を地球と同じような環境にする,そのために月を覆ってしまうドーム,それが『殻』です.『殻』と月表面の間は都市をつくるのに十分なスペースが存在するよう作られています」
メインモニタに映る月は徐々にその極から『殻』に覆われていく.
「『殻』の建造は実に十年にも及びました.これでも,当初の計画よりは早く進行しています.計画が立ち上がった当時,この計画自体,二十五年――四半世紀はかかるだろうと予想されていました.その間の技術革新も予想に含めて,です.宇宙空間での建造技術は予想以上に発達してきた,ということです」
彼女が言葉を終えると同時に,モニタ上の『殻』も完成した.
「『殻』が完成したのはつい十日前です.それからしばらくは,『殻』の動作確認や次の段階へ進むための準備などで『殻』は完全に閉じておく予定でした.――いえ,三日前までは完全に閉じていたのです.つまり,十日前から三日前までの一週間,『殻』は完全に閉じられ,『殻』内部と月表面の間の空間はやはり完全に宇宙空間と隔絶されていました」
「――つまり」
レイチェルの言葉を引き取るように,ショウが続ける.
「月は密室だった,ってことだ」
部屋に沈黙が降りる.その沈黙は事の重大さと,馬鹿馬鹿しさを象徴しているようだ,とイーザクは思った.
「……それでは,事件の説明に移ります」
「はい」
「事件が起こったのは三日前.……いえ,正確に言うと事件が明らかになったのが三日前,ということです.その日の,共通時間の昼頃.そのときにしなければいけない仕事はほとんど無かったので,この部屋にいたのは私とショウだけでした」
「そのしなければいけない仕事のひとつが,月表面の監視だった.……そのときの時点で『殻』内部に誰かがいるなんてことはありえなかったがな.なぜなら,『殻』を完全に閉じる前に,内部に人がいないかどうかは完璧に確認した.いるはずがなかったんだ.まぁ,実際何者かがいたわけじゃあない」
ショウの唇はやはり吊り上ったままだったが,その眼は何らかの情動を秘めてモニタの月を凝視している.
「あったんだ.月の赤道直下.まるで人類が月に到達する前からそこにあったように」
吊り上った唇はさらに吊り上った.
「……明らかに一週間以内に死んだと思われる,死体が」
「発見から六時間後に我々は調査班を編成,現地へ向かわせました.ところが,当然『殻』の中に入るにはそれを開けなければいけません.調査班は結局『殻』の表面で,地上からの返答を五時間以上待っていました」
そう言うレイチェルの声にはわずかに怨嗟が混じっている.イーザクにそのことを言ってもどうにもならないことぐらい彼女にもわかっているだろう.ただ,そのときに費やした労力と時間を想像してみれば,彼女が多少恨みがましい口調になるのもまた,イーザクにはわかる.
「地上からのGOサインが出た後すぐに,『殻』の閉鎖を解除,調査班は内部へ侵入しました.調査班が進入してからそれ以後,現在に至るまで『殻』の入り口は人による監視と機械による監視を絶やしていません.あぁ,ちなみに,閉鎖中の『殻』の内部は360度全方位自律監視装置――通称『マイク』を稼動させていました.それほど重要な監視ではなかったので予算もあまり取れず,マイクの数はそう多くはありません.マイクはあらかじめ決められたルートを移動し,一週間でもとの場所に戻ります.何か不振物を発見すればルナズルナに警告を発しそれに近づき,詳細を調査するようになっています.死体が発見された場所は閉鎖直後にマイクの一機がいた場所でした.つまり,マイクがそこを離れてからは1週間の間全く監視されてなかった,ということです.調査班が調べたところによると,そこには死体以外,他には何もなかったそうです.正確に言うと,周囲三キロ圏内に不振なモノはありませんでした」
「上は?」
「半径三キロの球内に,不振なモノはありませんでした.地下は確認していませんが.地下から地上に何か影響を与えようとすれば,必ず地上には跡が残りますから」
「なるほど」
「死体を回収し,検死,分析などを行った結果,その死体は『殻』建設時の作業員の一人であることがわかりました.これが彼のデータです」
レイチェルの言葉に合わせてモニタに被害者のデータが表示される.ざっと見た限りではおかしいところは無い.
「ご覧の通り,彼は至って普通の作業員です.彼の周辺の人間に聞く限りでも,彼が殺されたのは全く意外なことだったようですね.そして,彼の死因ですが……」
再びモニタの表示が切り替わる.検死結果のようだ.
「発見された時点で,彼は先の尖った金属の棒状のもので背中から腹部を貫かれていました.ほぼ即死と思われます.人がこれを行うにはかなりの力が必要でしょうね.金属の棒は『殻』の作業によく使う規格のものですが,先が削られていました.普通の作業ではこのような加工を施すことはありません.死亡推定時刻は不明.閉鎖後の『殻』内部の環境の変化が原因で,死亡時刻の推定が不可能になったためです.彼が最後に目撃された時のことについてですが,彼は閉鎖直前の『殻』上での最終作業に割り当てられていました.彼が最後に目撃されたのもその時で,閉鎖十五分前,同じ作業をしていた作業員によって確認されています.その五分後,作業員に『殻』からの離脱が指示されました.回収艇により作業員たちは回収されました.人数確認は行われたはずですが,何しろ当日は非常に詰まった強行スケジュールで進められていましたし,作業の規模も大きかったからひとりふたりいなくなってもわからなかったのでしょう」
「……まるで他人事のような言い方ですね」
「他人事です.人事の管理に関しては別の部署に完全に依存していますから.続けますよ.その後,点検作業等のために員数確認を行った際,彼を含めて四人の作業員が行方不明になっています」
「四人? なぜそんなに?」
「逃げ出したか宇宙ゴミ(スペースデブリ)にでも持ってかれたか,どっちかだと思うな.月と地球の間のどこかに,地上を追われた奴らが集まってコロニーを造った,なんて噂もあるくらいだ.月の周りには十年分のデブリが溜まってるしな」
「……そんなところでしょうね.詳しくは人事の方に.まぁ,そんなこともありますから,『殻』の周辺を適当に捜索しただけで特に追跡調査は行いませんでした.少なくとも我々は.これらを総合すると,彼が死んだのは『殻』が閉鎖されてから,発見されるまでの一週間の間,ということになります」
「フム……」
イーザクは腕を組んで考え込む.
「今日はこの辺にしましょうか.イーザクも疲れているでしょう?」
「あ,あぁ,そうですね.そうしましょう.えぇと,その前に.まず,明日からの調査において,私が動き回れる範囲,入手できる情報の範囲についてです.一応地上のお墨付きはありますが……」
「これを」
そう言ってレイチェルが胸ポケットから取り出したのは,1枚のカードである.受け取り,ぺらぺらと眺め回す.
「ルナズルナのランクAカードキーです.ルナズルナに入る際に登録をしておきましたので,ここを含めてほとんどの場所,ほとんどの端末を利用できます」
「ありがとう.ちなみにランクS,というのもあるのでしょうが,それは?」
「あれ,知らないの?」
訝(いぶか)しげにショウが問う.確かに,『ハーヴェストムーン』の地上と宇宙とのパイプ役であるイーザクがルナズルナのランクシステムを知らないのは,不自然なことではある.
「私がここに入るときはランクG――つまり,Guestであることがほとんどですからね.せいぜいランクCでしたよ,最高でも.それで用が足りていたんですからね,今までは.だから,ランクSを気にしたことはありません」
「なるほど」
ショウは頷く.高いランクをもらう――それはつまり,それだけ問題が深刻であるということでもある.
「ランクS,はルナズルナの最高ランクです.この権限が与えられているのは私,ショウ,そして今はルナズルナにはいませんが,もう一人います.その三人だけが,ルナズルナの全ての場所,全ての端末にアクセスできます」
「アイザックのシャワーも覗けるぜ」
「覗かない」
ショウは冷たくあしらわれた.
「ですが,あなたの調査にはランクAで十分であろうと私は判断しました.何か不都合があれば言って下さい.検討して,ランクSを与えるかもしれません.一時的に,ですが」
「いや,おそらくあなたの判断は適当でしょう.ありがとう.それと,あなたたち,または他の作業をしている人に話を聞くにはどうすればいいのですか?」
「その者の作業を邪魔しないのであれば,いつでもかまいません」
「わかりました.そんなところですね,とりあえずは」
「そうですか.何かあれば端末を通せばお答えしますので」
「はい.それでは」
と,イーザクは扉の方へ向かう.自動で扉がぷしゅと空気の抜ける音とともに開いたと同時に,彼は振り返り,言った.やはり,薄笑いが張り付いている.
「あぁ,そういえば,私の部屋はどこですか?」
そのときの彼の様子があまりにも間が抜けていたのか,レイチェルは堪え切れないようにクスクス笑い,ショウは吹き出した.
2 ショウ
自分にあてがわれた部屋で多少疲れた身体を横たえる.白く汚れ一つ無い天井に向けてイーザクは溜息を吐いた.胸のポケットからタバコを取り出し一本くわえて気づく.この部屋は“smokable”ではない.タバコをしまい,再び綺麗すぎる天井に向けて溜息を吐いた.
……どのように調査を進めるべきか? イーザクは考える.あの時――殺された作業員が最後に目撃された,『殻』閉鎖十五分前から,作業員の死体が発見される瞬間まで.『殻』およびその内部において何が起こっていたのか.まずはそれを把握しなければならない.それから事実を裏づけする証拠を探し出し,上――場所的に言えばイーザクがいる所の方が遥か上だろうが――を納得させる形で報告しなければならない.その報告は真実でなくても良い.その報告によって各所が収まるところに収まってくれさえすれば良いのだ.ただ真実を馬鹿正直に報告したところで,それは上の知りたいことではない.無能のレッテルを貼られるだけだ.そういう仕事を,イーザクは選んだ.
そこまで認識して,思考の方向がずれていることにようやく気づく.三度溜息をし,立ち上がった.
――シャワーを浴びて,少し眠ろう.
やはり重力の軛から逃れるのは,慣れていても辛いものだ,イーザクはそう思った.
三時間ほど眠り,イーザクは端末の前に座っている.衛星ルナズルナの構造をもう一度確認しておこうと思った.宇宙に上がる途中構造は大体確認していたし,数年前とはいえルナズルナを訪れているのだが,現在は多少違っているらしい.
ルナズルナは四つのブロックとそれを結ぶ十字のパイプによって構成される.正方形をイメージするとわかりやすい.四つの角が四つのブロック,対角線がパイプである.パイプが交わる点,正方形の中心に宇宙船その他がドッキングするようになっている.ドッキングブロックも含めれば,五つのブロックと言える.四つのブロックはそれぞれ独自に回転しており,月面とほぼ等しい擬似重力を発生させている.
四つのブロックは,作業ブロックと管制ブロック,それに二つの居住ブロックである.作業ブロックはちょっとした宇宙船を修理できるほどの設備がそろっている.多目的アーム,様々なものを様々な力で射出できる射出機(ランチャー),小型宇宙船用の船渠(ドック)など.管制ブロックはさきほどイーザクがいた場所であり,ルナズルナの中枢である.イーザクの部屋はもちろん,居住ブロックにある.
イーザクが探している場所は意外にもイーザク自身が入ってきた場所,つまり正方形の中心,ドッキングブロックにあった.胸ポケットを探ってそれがあることを確認し,部屋を出た.
ドッキングブロック.現在ルナズルナにランデブーしているものは無いので,非常に静かである.
イーザクは探していた場所を見つけ,そこに入った.扉の脇には“smokable”と書かれている.
部屋のあちこちにある手すりの一つに足を引っ掛け,タバコに火をつける.
吸う.
タバコを吸うのはずいぶん久しぶり――宇宙に上がって初めてである.何も考えずにぼぅっとふかしていると,扉が開いた.入ってきたのはショウである.彼はイーザクに気づくと,片手を挙げた.
「よぅお」
よくわからない挨拶である.それが挨拶であるのならば,だが.相変わらずでろんとだらしなく白衣を引っ掛けている.片方のポケットに突っ込んでいた手を引き出す.その手にはやはりタバコが握られていた.火をつける.
二人とも,無重力の中を緩緩と漂いながら,無言でタバコを吸っている.同じように緩緩漂う煙は室内を循環する空気に巻き込まれ,フィルタに吸い込まれていく.
「信じられないだろ?」
いきなりショウが話しかけた.イーザクがそちらを向くと,ショウは変わらず煙を見つめながら漂っている.
「何が,ですか?」
一応返事はしてみる.
「二十世紀には人が外でタバコを自由に吸えたんだ.こんな……」
ぐるりと器用に回転する.
「フィルタだらけの部屋の中じゃなくてな.もちろん外だけじゃない,どこだって自由に吸えたんだ.それが段々と“non smoking”の場所が増え,今じゃ“smokable”の場所でしか吸えないときてる.全く……」
そこでショウは盛大な煙とともに溜息をつく.
「そうですね.二十世紀に比べれば今の時代は我々タバコ飲みにとって住みにくい世の中でしょう.しかし」
イーザクは2本目のタバコに火をつけながら言う.
「宇宙に上がってまでタバコを吸わせていただけるのですから,テクノロジーの進歩様様なのではないでしょうか」
そういって飄々とタバコをふかすイーザクを,多少面食らったように見るショウ.それから声を殺しクククと苦しそうに笑う.
「ショウさん,お互い至福のときだというのに申し訳ないのですが,仕事の話をしていいでしょうか?」
「ん? ああ,かまわないさ.あんたがかまわないならば,ね」
笑いを堪えながら言う.
「それでは……」
灰を落とす.落とした灰は天井に吸い込まれていく.
「そうですね,『殻』を閉鎖する時のことを詳しく教えてください」
「それは,どの時点をさしているのかがよくわからないな.閉鎖の準備を開始したときか?それはもう1年も前の話だし,『殻』がその開口部を実際に閉じ始めたときというならば……」
「今回の事件を中心において,話していただければ結構です.それでも漠然としてる,というのなら,その日,被害者となった男が行方不明になった日,閉鎖が実行された日のことを」
「わかった.その日は……ほとんど前日からの徹夜だったな.前日の朝に仮眠を取ったぐらいで後はずっとCCR――中央管制室,あんたと会った場所に詰めていた.一度や二度,ここに来たがな.それで……前日にちょっとしたトラブルが起きて,その処理を当日の朝まで続けていた.ようやく一段落着いたときには『殻』表面での最終作業も終わりに近づいていたよ.そのときにここに来て,しばらくこいつを吸って,戻ったのがだいたい閉鎖開始一時間前だ」
「そんなときにCCRを離れていても良かったのですか?」
「ああ,俺がすることはそのときにゃもうほとんど無かったからな.前日のように何かトラブルが起きれば別だが.そうでなけりゃあ俺はただぼーっとモニタを眺めてるだけでよかったのさ.それで,俺からすれば何のトラブルもなく閉鎖は完了した.誰かが行方不明になったって,俺らには知らされないし,知らされたところでどうすることもできないさ.たかだか人一人の安否確認のために一年以上も前から準備してきた計画を一時停止させるなんて,馬鹿げてるだろ?」
「……それには答えかねますね.人の命の価値と計画の価値を天秤にかけることはできませんから」
「そうかい?俺には人にそれほどの価値があるとは思えないね.……あぁそうだ,まぁこれはいずれ聞かされるだろうが……この計画の作業員についてだ.ハーヴェストムーンに関わってる人間の半数は,俺やレイのような専門技術を持ったプロフェッショナルだ.現場で指示する奴もいるし,俺みたいにずっと座りっぱなしのデスクワークだけの奴もいる.わざわざ宇宙にあがってきたっつーのにな.で,問題は残りの半分だ.奴らはただ人数が必要な作業のために確保された頭数を稼ぐためだけの人間だ.中には志願してきた奴もいるが,ほとんどは強制的に宇宙にあげられた奴らだ」
「強制的?」
「そう,強制的.奴らはその刑期の分だけ働くためにつれてこられた,犯罪者さ」
これには多少驚いた.これだけの規模の計画には相当の人数が必要だとは思っていたが.
「まぁ元犯罪者というべきなのかもしれないが.世界中の刑務所の中からガタイのいい奴を選んで,連れてきて働かせてるんだと.鉄の檻の中から真空の檻の中へ移されたわけだ.どっちがいいかは知らんがな」
クククと笑う.
「ついでに言うと,行方不明になった四人の作業員は全てこの刑務所組だそうだな.ということは,もちろん殺された男も刑務所組だってことだ」
確かに,驚くことではあるが,イーザクの調査に関係あることなのかはわからない.一応,心にとめておくべきことではあろう.
「そうだなぁ……こういうのはどうだ? 殺された作業員は地球で何人もの罪の無い人を殺してきた殺人鬼で,今回の事件はその復讐劇だ,とか.犯人は敵を討つためにわざわざ月まで追いかけてきた……ドラマティックだとは思わないか?」
心底おもしろそうに,言う.ショウだってそんなシナリオを信じているわけではないのだろうが.
「その可能性はゼロ,とまでは言いませんが…….それよりも,当日,何か変わったことは無かったんですか?」
話を戻す.そういえば,ショウがいやに饒舌である.
「くくっく,あ,あぁ,そうだなぁ.別に何もなかったと思うが.……ぁあ,そうだ.変わったことといえば,ルナズルナにデブリがぶつかったな」
「デブリが? それは……危なかったのではなかったのですか?」
「いや,たいしたことはなかった.ほんの少し,ルナルナが揺れただけだ」
「ルナルナ?」
「あぁ,ルナズルナ,ここのことだよ.ルナルナの方が言い易いだろ?」
「まあそうでしょうが……だからレイチェルのことをレイと呼び,私のことをアイザックと呼ぶのですか?」
「いや,まぁそれもあるが,癖だよ.本名よりもニックネームで呼ぶ方が,俺は好きなんだ」
「そうですか.しかし,なぜ私がアイザックなのですか?」
「気に入らんかい? イーザクはIsaakのドイツ読みだ.してみるとあんたはドイツ人なのかもしれんがそれはどうでもいいさ.Isaakはアメリカ読みでアイザックだろ?日本人にはこっちの方が馴染み深いのさ.かの有名なアイザック・ニュートンのおかげだろうが」
「気に入らないわけではないのですが.私の名前はイーザクです」
多少不快感を混ぜて抗議する.言葉では否定していても,口調で気に入らないことを主張している.
「だから,ニックネームさ」
ふん,と鼻であしらう.
「まあ,かまいませんが.それよりもそのデブリ衝突のことです」
「あぁ,そうだったな.ルナルナにぶつかったデブリはそんなに大きくなかったし,速度もそれほどではなかった.だから揺れるだけですんだんだな」
「デブリはいつどこに衝突したのですか? それに,ルナズルナはデブリ衝突を許すような監視システムを使っているのですか?」
「デブリがぶつかったのは閉鎖完了直前だ.カウントダウン中に急に揺れたからな.あぁ,その辺の正確な時刻を知りたきゃ,後でログをあんたの部屋の端末に送っておくよ.ぶつかったのは作業ブロックだ.作業の連中が騒いでたよ.で,デブリ監視システムの方だが,これを構築したのは専門の業者で,彼らによると,万が一にもデブリが監視網を抜けて衛星本体にぶつかることはありえないと.システムに引っかかったデブリは早々に彼らが始末しているし,万が一にも,ならば億が一の可能性だったんだろと言ってやったらそれもありえないそうだ.デブリがシステムに引っかからない確率はそれこそ天文学的に――いや,この場合は違うな,量子力学的にとでも言えばいいのか? ――とにかく,とても低いそうだ.あるとすれば,人為的にデブリが誘導されたか――最もこの場合でも低いらしいが――,そうでもなければ一時的にシステムがダウンしたんだろう.まぁいずれにせよ大事故に繋がらなかっただけ良しとするしかないだろ.後で業者がシステムを調べていたが,どこにも異常は見つからなかったそうだ.奴らが言うには,この事件よりもデブリがぶつかったことのほうがよっぽど不思議なんだとよ」
「そうですか……」
考え込むイーザク.これも,この事件に関係あることなのか? 気になるといえば気になるが……そこで,結局事件に直接関係ありそうなことは聞けなかったことに気づく.
「ではショ……」
「いいかい,もう? そろそろ戻らにゃレイに叱られるんでね」
イーザクの言葉を無理やり遮り,ショウはそのまま部屋を出て行く.
気づけば,イーザクも相当な本数を吸っていた.最後に煙の混じっていない溜息をついて,イーザクは部屋を後にした.
“smorkable”な部屋を出たイーザクはそのままトレーニングルームへ向かうことにした.目的は自分の身体を無重力あるいはルナズルナの重力に慣らさないためである.ルナズルナに住む者,そして今後地上に下りる気の無い者以外は毎日トレーニングを欠かさず,自分の身体に負荷をかけなければならない.それを怠れば,地上へ下りたときに一歩も動けず,すぐさま病院送りの破目になる.地球の重力はそこに住む者に優しく,地球を離れた者に厳しい.
地上と宇宙を往復することが多いイーザクも,トレーニングを習慣としている.地上に下りて病院から報告します,では仕事にならない.
必要量のトレーニングを行った後,シャワーを浴びてとりあえず自分の部屋に戻る.少し休み,それからこれまでの情報を整理することにした.端末に向かい,宇宙に上がる前に渡された大雑把な事件の報告書とレイチェルから聞いた事件の内容をつき合わせながら入力していく.そうすればするほど,この事件の馬鹿馬鹿しさと不可解性が臭ってくる.そもそものハーヴェストムーン計画からして馬鹿馬鹿しい.イーザクはあまりミステリを好む性質ではないが,それでも密室がミステリにおいてどんな使われ方をするのかは一般常識の範囲で知っている.その密室の臭いがこの『殻』から臭ってくる.呆れるほどに巨大な密室.これが本当に密室だとして,どんなトリックが行われたのであろうか? ……その巨大さ故にどんなトリックも無駄と感じさせられる.しかし,現実として『殻』の内部で死体が発見されたわけだ.
一通り作業が終わると,イーザクは他のルナズルナの人々に話を聞きに行くことに決めた.何か事件の手がかりを得られれば,そしてそれ以上に彼らがこの事件に対し,どんな感想を持っているかを知りたいからだった.
3 レイチェル
二日間でほぼ全員に話を聞くことができた.しかし,彼らの話はその労力に見合うことはなかった.事件の手がかりなどは既知のこと以外,見つけることはできなかった.そもそも,ルナズルナのほとんどの住人がこの事件に無関心なのである.せいぜい,作業が滞っていて困るとか,逆にしばらく休むことができてありがたいとか,その程度だ.中にはミステリ好きな者もいて,その推理を披露しイーザクを閉口させた.
くたくたに疲れたイーザクは,それでもトレーニングを欠かすことなく,ますますくたくたになってトレーニングルームを出た.
「お疲れ様」
その時,声がかけられた.疲労で気が抜けていたイーザクは,それが自分にかけられたものだとはしばらく気づかなかった.すたすたと五,六歩歩いてようやく気づく.
声がした方を向けば,レイチェルがそこには腕を組み壁に寄りかかっている.その表情は面白いものを見ているかのように笑っている.
「あ,……いえ,はい」
まだ頭に霞がかった気分でイーザクは返答になっていない返答をした.レイチェルは堪えきれずクスクスと笑いながら,
「本当に疲れているようね」
と近づいてきた.それから少し困ったように言う.
「これからお酒でも付き合ってくれないかしら? ……そう誘おうと思ったけれど,その様子じゃあ無理そうね」
「あ,……え? ああ,そうですね.今は,無理なようです.……『夜』ならば,付き合えますよ」
何とかそう答える.今は共通時間で『昼』である.ルナズルナの中では昼も夜も関係無いのだが,外部との接触もあり,共通時間を採用している.
「そう? じゃあ……」
と,レイチェルは時間を指定した.イーザクが肯定を示すと,レイチェルはひとしきり気遣いの言葉をかけた後,立ち去った.
その背中を追うでもなくぼーっと眺めながら,この前とはずいぶん態度が違うなぁと思った.
少しの間廊下の真ん中に突っ立ってから,ふわふわと月面を歩くかのように部屋へと戻った.
電子音でイーザクは目を覚ました.彼はまず,自分はなぜ寝ているかを思い出そうとした.そしてここ二日の聞き込みに思い当たって少し鬱鬱となり,それでも自分がいつ部屋に戻ったのかを思い出せなかった.記憶を手繰(たぐ)る. ――最後の一人から話を聞いた後,後,……そうだ,もうトレーニングも済ましてしまってそれからゆっくり休もうと思った.だからトレーニングをこなして……こなして? トレーニングルームから出て,……そのまま部屋に戻ったのか.それで,ベッドに倒れこんで……なんでアラームをかけておいたんだ?
その疑問によって記憶の関が外れたのか,トレーニングルームを出てから部屋に戻るまでの記憶が流れるように思い出された.
イーザクは思わず手で顔を押さえた.やってしまった,と言わんばかりの仕草だ.現地の責任者とある程度親しく――親しすぎずに――なるという意味で,彼女の誘いを受けたのは,良い.彼女の態度が少々気になるが,杞憂だろう.その責任者にあんなみっともない姿を晒したのは……失態だ.
自分の油断を反省し,時刻を確認する.時刻は『夕方』――もっともイーザクにしてみれば朝だという思いが強いのだが.まだ,レイチェルとの約束の時間には余裕がある.記憶が朧な自分の行動に感心し,聞き込んだ話をまとめる作業を進めておこうと思った.
その部屋に入って,少し驚いた.ルナズルナのほとんどの部屋が宇宙建造物の基準となっている白地一色の壁であるのに対し,この部屋は地上の建造物を思わせるような壁紙で装飾されている.壁だけではない.照明も雰囲気を壊さない程度に抑えられ,部屋に五つあるテーブルは一見シンプルだがよくよく見れば凝っていることがわかる.そして部屋の最奥にあるカウンター,その中で様々なボトルを背にグラスを拭く男.うるさくない程度に抑えられたジャズのBGM.この部屋は徹底的に地上のバーを模しているのだ.
入る部屋を間違えたかとも思ったが,カウンターにレイチェルの背中を見つけ,そうではないことに気づく.彼女へ近づくと,カウンターの中の男が軽く会釈する.イーザクも同じように返し,レイチェルの隣に座った.
「驚いた?」
振り向きもせずレイチェルが問う.その声色に悪戯っぽい響を,イーザクは感じた.
「ええ,驚きましたよ.宇宙にこのような場所を作るとは……いえ,信じがたいですね」
たかが,と言葉を続けようとしてイーザクは飲み込んだ.彼女はルナズルナに十年住んでいるのだ.
「そう,たかが作業管制衛星にこんな部屋を作るなんて,普通ではありえない.ルナズルナは普通じゃないの.これまでの十年と,これからの十年.二十年の間人が居住することを想定しなければならない衛星だから」
レイチェルはそう言い,続けて何か好みはないかとイーザクに聞いた.彼が首を横に振ると,彼女は何か適当に,と男に言った.イーザクはヘヴィスモーカーではあるが酒はあまり飲まない性質である.かといって,飲めないわけではないが.
「私はここに十年住んでいる.だから,たまにこんな酔狂もしたくなるの」
「こんな酔狂,とは自分が指揮している計画中に発生した事故を調査するために訪れた男を,このような立派なバーに誘うことですか?」
「そう.あわよくばこの事件をなかったものにしてもらえないかという淡い期待の元で,ね」
皮肉を皮肉で返されて,イーザクは苦笑した.もちろん,彼女にそのようなつもりは全く無いだろう.
「さきほどこれから,と言いましたね.『殻』とドッキングしてからもこの仕事を続けるのですか」
「ええ」
レイチェルは肯いた.
このルナズルナは,現在月軌道上を周回している.月という衛星の衛星となっているだが,『殻』が完成すればルナズルナは『殻』とドッキングし,『殻』の一部となる.ルナズルナの住人が月の重力に慣れていたほうが都合がいいので,ルナズルナは月と同じ重力を発生させている.
ルナズルナが『殻』とドッキングする時点でようやくハーヴェストムーンに一区切りがつく.そのときに計画を離れる人間も多いはずだ.しかし,彼女はハーヴェストムーンが『実る』まで仕事を続けるようだ.
「ひょっとして,月生まれですか?」
男から出されたカクテルを受け取りながら,イーザクは不用意に聞いてしまった.彼女の態度につられて,イーザクも無意識に仕事気分を解いたようだ.
不用意なのはレイチェルも同じだったようである.わずかに驚いた表情になる.
「わかる? 確かに私は月生まれの月育ち.一度も地球に行ったことは無いわ.一生行くことは無いでしょうね.……いえ,私自身に,月を離れたくないという気持ちがあるから.行け,と命令されたら,それこそ『殻』の密室に閉じこもるでしょうね」
「地球が嫌いですか?」
「ううん,そうじゃない.ただ,月が好きなだけ.自分の生まれた星だもの.私は地球人じゃない,ルナリアンなの.そういう矜持がある」
「私にも一応地球人であるという誇りがありますよ.普段は意識しませんが.それでも,宇宙に出てみたい,月に行ってみたいという好奇心もあるから,こんな仕事をしているんです.あなたはルナリアンではあるのでしょうが,だからと言って地球に降りない理由はありませんよ」
「行く理由も無いわ」
やや強く,レイチェルが言った.そのことに自分で気づき,それからは再び抑えて言う.
「地球人が宇宙に来る理由が好奇心なら,ルナリアンが地球に行く理由もまた好奇心でしょう.でも,私にはその好奇心が無い.いえ,私の好奇心はすでに月にいる,ということで満たされているわ.それに,地球に行った後が大変でしょう?」
イーザクはそれに肯くしかない.
「月の重力に慣れ,生存がかかっているが故に清浄な空気に慣れた月の住人が地上に降りる.待っているのは六倍の体重と汚染されている大気です」
ハーヴェストムーンの第一段階は,まず月の住人を月から移すことから始まった.当時月にはかなりの地球人,そしてルナリアンが住んでいたのだ.月生まれの月育ち――純粋なルナリアンは地球に移住することすら身体的に不可能である場合が多い.ルナリアンはあまり環境の変わらないスペースコロニーに移住することができたが,お世辞にも良い環境とは言えないようだ.さらに,地球に移住できたルナリアン――地球で生まれたが月に住む者など――は激変した環境の中で生活しなければならなかった.両者とも,未だ肉体的,精神的に後遺症が残っている者も数多いという.
「あまりな仕打ちでしょう? ある意味で,地球人による月への侵略よ」
「さすがにそれは言いすぎでしょう」
話しているうちにレイチェルは次第に不機嫌になってきているようである.
「ハーヴェストムーンが終了した後には,彼らを優先的に月へ移住させることになっていますし」
「それはいつのことになるの? 予定では十年後.ようやく環境へ慣れたと思ったら今度はまた月へ連れて行かれる.全く地球人のわがままとしか思えないわ」
早口で言った後,興奮している自分に気づきばつが悪そうにグラスを傾けるレイチェル.
「地球人の,いえ人類の身勝手は今に始まったことではないでしょう.ともかく,あなたは月に残った」
「……ええ.私だけではないわ.ルナズルナにはルナリアンも多い.月で得た技術,技能を生かしてハーヴェストムーンに関われば地球に行かなくても済むから.私の場合は,大学を出て直接ハーヴェストムーンの研究所に入所した」
そこで彼女は何かを思い出したのか,薄く笑った.
「私が大学にいた頃は,ハーヴェストムーンへの反対運動がもっとも盛んな時期だった.当然私の大学でも毎日のように学生運動が行われていたわ……いえ,行っていたわ」
「あなたが?」
「ええ.皮肉でしょう? 私は学生運動の筆頭だった.毎日毎日……それが今では計画のチーフよ」
口調には苦いものが混じっていた.イーザクは中身の少なくなったグラスを弄びながら,ある考えを検討している.すなわち,レイチェルがこの事件の首謀者であるという可能性である.彼女はプロジェクトのチーフという立場にいる.加えて彼女は聡明である.その立場を利用すれば殺人を実行するのも容易いだろうし,事件上の証拠隠滅も可能であろう.動機は月への『愛星心』から.
しかし……最後の一口をあおりながらさらに考えを進める.動機がそうであるなら,なぜ今頃こんな事件を起こす? このような奇妙な事件が起こったというだけで,計画は止まるはずがない.それは彼女もわかっている.十年も時間があったのだから,もっと根本的な計画を練っていてもいいはずだ.それに,立場を利用すると言ったが,具体的にはどうやって立場を利用するのか? 彼女はルナズルナを離れることはないから,人を遣ったか,遠隔装置を用いたか? 人を遣えば消せない証拠が残る――その人自身を消さない限り.これは調べがつく.だから,人を遣うことは無いだろう.ならば,遠隔装置か……もしそうなら,彼女はコンピュータに相当精通していなければならない.もちろん,立場上人並み以上に熟達してはいるだろうが,ルナズルナのシステムを自由に操るほどではないだろう.ショウがいるので,その必要が無いからだ. 彼女は犯人ではない.それがこの会話中のイーザクの考えた結論である. イーザクは二杯目を男に頼んだ.そして最後の苦々しい台詞の後からしばらく黙っているレイチェルの方を向いた. 目が合った.
彼女はどうやらずっとイーザクの顔を眺めていたようだ.わざと照れくさそうに――少しばかりわざとではなかったかもしれないが――視線を逸らす.
男から二杯目を受け取りそれを眺めていると,隣からクスクスと笑うのが聞こえた.今度は堪えきれずに,というわけではなさそうだ.
「やっぱり,仕事のことを考えているでしょう?」
問いかける台詞ではあったが,彼女は間を置かず続けた.
「疲れたあなたを見たとき,仕事外のあなたが見てみたいと思ったの.……いえ,それ以前に,CCRであなたと会ったときから,かしら.それも,無理のようね.あなたはルナズルナにいるときは絶対に仕事の仮面(ペルソナ)を取らないと決めているのでしょう? 少なくとも私よりはアルコールにも強そうだし.あなたが仮面を取るのは地球だけかしら?」
イーザクは普段から顔に貼り付けている微笑を崩さぬまま,言った.
「……そうとも限りませんよ」
昨夜はあのまま他愛の無い話――機密を守るために彼女自身が来訪者の相手をしなければならなかった,というような仕事の愚痴や,地球はどんな感じなのかという話など――が続き,しばらくしてお開きとなった.レイチェルは足取りもしっかりしていたから,それほど酔ってはいなかったのだろう.それじゃあね,と言って自室に戻った.また,と返したイーザクも部屋に戻ることにした.
薄く残る酔いを心地よく感じながら,部屋のベッドに身体を投げ出す.湧き上がる欠伸を抑えきれず,大きく口を開いた.涙に霞んで,ルナズルナの白い天井が見える.
レイチェルとの会話,その時考えていたことを緩緩と反芻しながら,ゆっくりと眠りに落ちようとした.その途中,イーザクはある事に引っかかった.
半ばまどろむ身体を無理矢理起こし,端末へ向かう.確認したのは,『殻』閉鎖時のルナズルナと月の軌道.それが自分の不完全な考えと符合していることを確認し,それからこれまでに得た情報をもう一度確認する.
ルナズルナの都合のいい位置.
あの人のおかしい言葉.
密室の謎.
イーザクはある解釈に辿り着く.その解釈を幾度か検討した後,ルナズルナでの仕事を終えることを決心した.
その前に.
ぐっすりと眠っておきたかった.
4 イーザク
「それでは,ここでの調査は終わり,ということですか」
レイチェルがやや驚いた口調で言う.無理も無い.調査期間は一週間にも満たず,さらに一昨日の夜は彼と飲んでいたのだ.
「ええ,これが調査書です.現時点での報告内容をまとめてあります.あくまでも現時点,ですが」
そういって彼女に記録ディスクを渡す.
「口頭で報告しますので,それに異論がなければそのまま提出,ということになります」
「……わかりました」
ディスクを受け取ったレイチェルは肯く.椅子に座っているショウは何を思っているのか真剣な表情でイーザクを見ている.
ここはCCR.初日に訪れたときと同様,イーザク,レイチェル,ショウの三人しかいない.
レイチェルと飲み,仕事を終えることに決めたのが一昨日の夜.それから睡眠をとり,昨日のうちに調査書をまとめた.そして今日,さきほどその意志を二人に告げ,今に至る.
「結論から言うと,今回の事件は,事故として処理されることになるでしょう」
「事故?」
レイチェルもショウも訝しげな表情である.
「ええ,事故です.時間経過にしたがって,作業員に何が起こったのかを話しましょう.彼が作業を終え,離脱しようとしたとき,何らかの理由で彼は『殻』の,何百とある入り口のひとつの前まで移動しました」
「何らかの理由? なんだよそれ」
ショウが疑問をはさんだ.
「例えば,何か忘れ物をしたとか,不振物を発見したとか,そんなところでしょう.放置すれば彼の責任になるような,そしてすぐに済ませられるような何かがあったのだと推測されます.……あるいは,閉じようとする『殻』の中に入りたかったのかもしれませんね」
ショウは納得していないようだ.当然である.何の証拠も無い,完全な想像だ.だが,それでもつじつまが合えばいいのだ.
「その時点で入り口は閉じられる寸前です.入り口の前に移動する作業員に,絶妙なタイミングで偶然,刺さったのでしょう……十分スピードのついた,先の削られた金属棒が」
「あり得ないわ」
きっぱりとレイチェルが言った.
「あり得たのですよ.確率はゼロではありません」
「それは,そうよ.でもその確率がどれだけゼロに近いのか,わかっているんですか?」
「ええ.そのような,非常に不幸な出来事が,彼を襲ったのです」
「金属棒の先が削られていたことについては?」
「それも不幸のひとつでしょうね.あの棒はここの作業だけの規格というわけではなく,ほとんどの宇宙作業現場で使われているものです.あのように加工する用途も無いといえないでしょう? 現場での材料が足りなくなり加工せざるを得なかった,かもしれませんね」
レイチェルはまだ何かを言いかけたが,結局それは言葉にならなかった.
イーザクは続ける.
「衝突の勢いで彼の身体は『殻』入り口に入り込みました.まさにそれは,入り口が閉じる寸前です.そして彼の身体は監視システムの死角に偶然落下しました――ここでもありえない偶然が起きたわけです.そして入り口は閉じ,『殻』は閉じられた.その一週間後,彼の遺体は発見されました」
そしてつけえ加えるように一言.
「何か,異論はありますか?」
「……有り過ぎよ」
「全くだ」
ショウが呆れたように肯く.
「そんな偶然の積み重ねが起きるわけがない.が,どうせお前はあくまで起きたと主張するんだろう? それはいい.それよりも,死体が月表面に落ちた場所,それは確かに入り口のほぼ真下だった.けど,そこにはマイクがいたはず場所でもあるんだぞ.その周りに落ちたのなら,見つからないはずが無い」
「そうですね,偶然,彼の身体が天井付近に引っかかった,とすればどうですか? マイクが圏外に移動した後,死体が落下した.それなら一週間見つからないでしょう」
「また,偶然,か」
「ええ」
ショウが睨む.しばらく睨み合いが続いた後,レイチェルが言った.
「いいわよ,もう.あなたがそう主張するのなら,それが『事実』となるのでしょうね.それがあなたの仕事なのだから.わかりました.……いえ,個人的には納得がいきませんが,この事件は事故として処理される,そのことは.絶対に起こりえないことが起こったわけではないのだし,そういうことなのでしょう」
「ありがとうございます」
イーザクは頭を下げた.
頭を上げたとき,あいかわらず薄笑いが張り付いていた.
それから,いくつか事務的な会話をこなした後,イーザクは部屋を出た.
今日中にルナズルナを発つつもりである.
部屋のドアが開き,ショウが入ってきた.イーザクの予想通りである.ショウはすぐに部屋の中にいるイーザクに気づき,訝しげな顔をした.
「なんだ,まだいたのか」
「ええ」
ショウの姿を認めたイーザクはゆっくりと手に持っていたタバコを消火皿に押し付け,そのまま捨てた.視線はショウに向けたままである.
イーザクの様子を不審に思ったのか,ショウはイーザクとは反対の壁の方へ行きタバコを吸い始める.
「あなたに話があるんですよ」
イーザクは言った.
ショウは横目でちらっとイーザクを見る.どこか,違和感がある.
「ここからは,私個人からあなたへの話です.仕事は関係ありません.聞いてくれますか?」
その声は,普段のイーザクとは違う.微妙,自信があるというか楽しそうというか.明るさが混じっている,ショウはそう感じた.だから,少し興味をおぼえた.
「……いいさ.聞いてやる」
「そうですか」
イーザクは笑った.常に彼の顔に張り付いている薄笑いではなく.
「そもそも,あれだけの偶然が重なることなど絶対にあり得ません」
「は?」
一瞬,ショウはイーザクが何を言っているのかわからなかった.
「偶然加工されたスペースデブリが,偶然『殻』が閉まるタイミングで,偶然彼の身体に突き刺さり,偶然マイクにも引っかからなかった――こんなこと,あり得ない,と言っているんですよ.これが実際に起こった真実だとしたら」
嘲笑った.何に対する嘲笑なのか.
「異星人がUFOに乗って地球に降りてくるほうが,まだ現実的です」
「そりゃあそうだ.俺だって,あんな『事実』認めるつもりはない」
イーザクの様子がおかしい.ショウは警戒を緩めることなく彼と話す.
「そうですよ,そうです.私だって認めていません.アレは仕事用の『事実』です.これから私があなたに話すのは,私個人の見解です」
そこで,ショウはなんとなくわかった.これが,今のイーザクが彼の地の性格なのだ.普段の彼は,仕事用のパーソナリティに過ぎないのだ.
「まず,あの馬鹿馬鹿しい密室から.これは私がさきほど話したとおりのタイミングで間違いは無いでしょう.……というか,実際あの時に起こったことだけを見ていれば,あの滑稽な『事実』そのままでしょう.私はそこに一つの偶然も無いと思っています」
「へぇ」
今度は,ショウが笑った.
「おもしろそうな話じゃあないか」
そう言って,先を促す.二本目に火をつける.
「えぇ,おもしろい話です.この事件はある一人の人間によって綿密に計画・実行された殺人である,と言っておきます.動機は……そうですね,地上で大切な人を殺された恨み,なのかもしれません.動機はどうでもいいのです.さて,どのように話せばいいのか……まず,被害者についてですね.彼は,おそらくは死ぬ当日,犯人から命令されていました.全ての作業が終了し撤収が開始されたら閉鎖する入り口に向かいその中に入り込め,入り口が閉じられる直前ぎりぎり通れるか通れないかのタイミングで――とね.あるいは,もっと違った命令かもしれません.とにかく,彼は正確に入り口の中央部,あるポイントまであるタイミングで移動することを命令されたのです.もしかしたらお金か何かで釣られたのかもしれませんし,脅迫されたという可能性もありますが,それは彼と犯人のみが知ることです」
イーザクがタバコを取り出した.それをくわえて火をつけようとすると,ショウが火を差し出した.イーザクがやや驚いて彼を見ると,口からニヤニヤ笑いが消えていた.
「それで?」
「あ,えぇ,そこまではいいですね.後は,彼がそのポイントにそのタイミングで移動したとき,金属棒が飛来して彼を貫いた.彼は閉じようとする入り口に吸い込まれ,落下した.……この後の話は後に回しましょう.次は,ここ,ルナズルナで起こったことです」
実に美味しそうにタバコを吸う.俺よりもヘヴィスモーカーなのではないか,とショウは思う.
「犯人は事前にきっちり準備をしていました.加工された金属棒を用意し,ルナズルナのシステムを書き換え,マイクのプログラムを都合のいいように改竄しておいた.彼の立場と技術を利用して.準備は見事に整いました.金属棒はランチャーに装填され,正確なタイミングで正確なポイントに射出されるようにしました.もちろん,そんな記録などルナズルナに残らないように.そのためにわざわざありえない偶然であるデブリの衝突まで演出してごまかした.射出のタイミングと,デブリが衝突したタイミングは全く同時だったでしょうね.寸分の狂いも無く.射出された金属棒は矢のように宇宙空間を飛び,哀れな男を射抜いたわけです.犯人の計算通りに」
「犯人はルナズルナの位置と運動,月との距離,月自身の運動,金属棒の軌道,その他様々なファクターを計算に入れて金属棒を射出した,と?」
「えぇ,そうです.そう,これにはルナズルナの位置が重要でした.少なくとも,被害者のいる面に,ルナズルナがいなければならない.もちろん,過去のルナズルナの軌道を調べて,それは確認しました.ルナズルナの軌道が,私にこの仮説を気づかせてくれた一つの要因ですよ」
三本目に火をつける.
「デブリがぶつかったのも偶然ではなかったわけです.実際にはぶつかっていないのですが.さて,計算通りに棒が被害者の身体に突き刺さり,『殻』の内部に入り込みます.彼の身体はどこにもぶつかることなく,月表面に落下しました.偶然どこかに引っかかる,ということも無く.その様子を,そこにいたマイクは確認していたはずでしょう.しかし,マイクには細工が施されていました.すなわち,落ちてきたそれを無視しろ,とね.当然記録映像も細工されていることでしょう.マイクはそれを無視して自分のルートを黙々と調査します.一週間かけて.その間に細工はすでに取り除かれ,マイクは正常に動作するようになります.そして,彼の任務に従って,死体を発見したことをルナズルナに報告した,というわけです」
イーザクのタバコはすでに長い灰と化した.熱さを感じたのか,それを捨てる.二本目を取り出そうとはしなかった.
「犯人は,ほぼ完璧にこの殺人を終えました.彼が殺人を犯したという証拠はほとんど存在しないでしょう.彼は天才ですからね.ただ,ひとつ,ミスとも言えないミスを犯しました」
「へぇ……」
「地上から来た調査員に,こう漏らしたのです.『奴らが言うには,この事件よりもデブリがぶつかったことのほうがよっぽど不思議なんだとよ』と.私はこの台詞に引っかかりました.『奴ら』とはもちろんデブリ業者のことです.ならば,なぜたかがデブリ業者がこの事件のことを知っていたのでしょう? この事件はルナズルナの職員だけの機密であるはずです.職員が情報を漏らしてしまったのでしょうか? いえ,それは無いでしょう.実際,デブリ業者に会ったのは二人だけ.レイチェルとショウ,あなただけです.他の職員はデブリ業者の来訪を知りませんでした.レイチェルが漏らすでしょうか? そうは思えません.それなら,あなたが漏らしたのか? それもおかしい.レイチェルと雑談しているときに聞いたのですが,事件後,来訪者はレイチェル自身が相手をしてあげなければならなかったそうです.デブリ業者も,彼女がCCRまで案内し,そこであなたとともに作業をして,再び彼女が送った.つまり,デブリ業者が誰かから事件について知ることはできなかったわけです.ならば,彼が漏らした台詞は,彼自身がそう思っていたことではないのか? 私はそう考えました.彼は全く当たり前のことを言っただけです.計算しつくされて,起きて当然のこの事件よりも,デブリが衝突するほうが不思議だ,と」
笑いが,抑えきれない.
「ルナズルナを掌握できるランクSを持ち,天才的なプログラミング能力のある人物.私はこう結論したのですよ.この事件の犯人は,ショウ,あなただ,と」
「まったくまったく,クク,お前の言うとおりだよアイザック.で? どうする? 俺を犯人に仕立て上げるのか?」
「さきほども言ったとおり,これは私個人の見解であり,証拠は全くありません.それに,身内の犯行となればいろいろと面倒臭いのですよ.被害者である作業員よりも,あなたの存在のほうが,この計画にとって価値あるものです.なにより,あなたが犯人である,と言う結論は上がいい顔をしないですから」
「すました顔をして大層なことを言う」
それで,ショウは大笑いした.
イーザクもつられたのかどうか,笑った.
「この事件に偶然は無いと,そう言ったよな?」
「えぇ」
「それは間違いだ.お前がその結論に至ったこと,それがこの事件の唯一の偶然だよ」
ようやく2本目を取り出す.しかし,火をつけようとはせず,弄ぶだけだ.
「お前の言うとおり,この事件を仕組んだのは,俺だ.そのことに気づいたご褒美に,俺がなぜこんなことをしたのか教えてやろうか?」
「あまり興味はありませんが……せっかくだからもらえるものはもらっておきましょうか」
「理由は,おもしろそうだったからだよ.こんな馬鹿げたぐらい巨大な密室,今までにあったか? ……あるわけないさ.これを利用しない手は無いだろう.だから俺は奴を殺して,密室の中に放り込んだ.システムにちょこっと細工をすれば,人類史上最大の密室の出来上がり,というわけさ」
イーザクの顔にはすでに笑いは無い.
「愉快犯,ということですか?」
「あぁ,そういうことになるな.理解できないか? できないだろうな」
クククと笑うショウを横目に,イーザクが部屋を出ようとする.
「もうひとつ,おもしろいことを教えてやろう.俺が殺した作業員が犯した罪だ」
ドアの前でイーザクが立ち止まる.プシュ,ドアが開く.
「奴は地上で二十八人もの十代の女性を誘拐し,惨殺した.二十九人目を誘拐しようとして,捕まったんだ.奴が吐いた動機はなんだと思う? 『わがままな夜の女王である月のご機嫌をとるために,処女の生贄を捧げる』だとよ.月が徐々に変わってゆく姿を見て,気に触れたんだろうなぁ……まさに狂人(ルナティック)だよ」
プシュ,とドアが閉じる.
その部屋の中にはショウしか残っていない.
「だから俺は還してやったんだよ,ルナティックをルナに,さ」
部屋の中に,常軌を逸したような笑いが響いた.
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■作者からのメッセージ
初投稿です.
完成したのは二ヶ月前で,自サイトで細々と公開していただけでした.
ですが,いろいろな方の意見・感想を僭越ながらお聞きしたいと思い,今回投稿しました.
よろしくおねがいします.