- 『という名前』 作者:もろQ / 未分類 未分類
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全角1714文字
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原稿用紙約5.05枚
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と答えられて、森川新一はひどく驚嘆した。まさか、本物の猫からそんな台詞が飛び出すなんて。
新一が彼を見つけたのは、近くのスーパーで買い物をした帰りだった。その猫は茂みの陰で眠っていたが、新一に声をかけられたとたんパッと起き、暗がりから目をギラギラさせた。
「……どうした?」いきなり絶句してそこにたたずむ人間に、猫は尋ねた。新一は少し間をあけて、興奮気味に話した。
「お前、なんでそれを知ってるんだ?」
「何をだ?」
「その言葉だよ。『吾輩は〜』って」
「それがなんだ?」
あれ、と新一は不思議に思った。猫も不思議そうにこっちを見ている。新一はハッと思い立ち、突然ポケットに手を突っ込む。取り出した財布の中から千円札を一枚引き出し、猫の目の前でひらひらさせてみる。
「この人がお前の飼い主……じゃなくて、その言葉を書いた人だよ。知らないのか?」
「ああ、顔のみなら知っている」目の前のひらひらを目で追いながら猫が言った。新一は再び驚嘆した。握った手に熱がこもるのが分かった。
父親がファンだったこともあり、新一は昔から夏目漱石の物語が好きだった。漱石の書籍はもちろん全巻そろえている。「夏目漱石の会」なる個人団体に首をつっこんだり、父親と酒を片手に一晩中討論したりもした。そんな彼にとって、ここでの彼との出会いはとてつもなく貴重に思えた。もちろん小説の登場人物が実在するわけはないと思ったが、ファンとしての情熱が一旦燃え上がると、自分でも止められない事はよく知っていた。
「本当に? でも、ちょっとまって。じゃあなんで君は今生きてるの? 確か君は、水に落っこちて死んでいくんだよね?」すると猫はびっくりして、
「な、何を言っている! 吾輩は確かに水に落ちたことはある。しかしその時はちゃんと飼い主が引き上げてくれたわ! 全く、わけの分からないことを言うな!」と怒鳴った。新一もびっくりして、慌てて謝った。
「ごめんごめん。ふうん、そうなんだ。あ、その飼い主の事だけど、もしかして、教師……だったりしない?」
「なぜそれを知っている?」猫は目を開いた。その言葉を聴いて新一は、さらに嬉々として小さく叫びをあげた。
「そ、それじゃあ」新一は呼吸も乱れたまま言葉を続けた。
「その飼い主は、胃弱な割に大食いだったり、実は怠け者だったり……」
「そうだ。その通りだ」猫はフン、と鼻で笑った。新一がなんでもピタリと当てるので、猫の方も面白くなってきたらしい。新一はもはや興奮のあまり、頬を染め、脂汗をにじませて震えている。新一は妄想の中に入っていった。
まさかこんな出会いがあるなんて、本当に夢のようだ。こんな体験をした人間なんて、世界中のどこにもいないだろう。まさか、本の中の、しかも漱石の物語の猫と話ができるなんて、すごい。すごいぞ!
「うちに来てくれ!」新一は、轟くような大声で叫んだ。猫はびっくりして「なんだと?」と言った。
「僕と一緒に住んでくれ!部屋はなかなか広いし、掃除もまめにしてる。そうだ、毎日おまえの好きなものをやるよ。何がいい?」
怒濤のように言葉を浴びせられ、じっと黙っていた猫は、少し間をおいて口を開いた。
「お前の気持ちはとても嬉しい。吾輩も一度くらい、お前のような男に飼われてみたい。しかし私は飼い猫だ。私には別の飼い主がいる。彼女をおいて他へ行く事など、吾輩にはできん」
その途端、新一の情熱は一気に冷めきった。そりゃそうだ。この猫には苦沙弥という飼い主がいるんだ。僕のくだらない頼みなど聞けるわけがない。
「……そう、だな。馬鹿な事言ってごめん」
あれ? さっき猫はなんと言った? 「彼女」だと?
「おい、ひとつ聞くけど、お前の飼い主の名前は苦沙………」
「由紀だ。山本由紀。小学校の教師をしているぞ」猫は満足げに答えた。
「ナツメソウセキが大のお気に入りでな。吾輩もちらと写真を見た事がある」
「いや、ちょっと待て。そんな事はないだろう。そうだ、さっきだって『名前はまだ無い』と言っただろう。それが何よりの証拠」
「………言っておくが、吾輩の名前は『マダナイ』だ」
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■作者からのメッセージ
2回目の投稿になります。
「吾輩は猫である」を存分に活用した作品で、読んだ事の無い人には分かりづらい部分もあるかと思いますが、僕も読んだ事が無いので人の事は言えません。
よって、この作品を選んだ理由は全て冒頭部分にしかありませんので、オチは皆さんにも分かっていただけると思います。
どうぞよろしくお願いします。