- 『黒い犬(読み切り)』 作者:よるやみ / 未分類 未分類
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原稿用紙約17.75枚
アパートヘ帰る途中、晩飯を買うためコンビニに寄った。ちょうど混んでいる時間帯で、車を駐めるスペースが一箇所しかなかった。茶髪の若い連中が地べたに座り込んでたむろしている場所の真ん前だ。買い物を済ませて店を出たところで声をかけられた。
「ねえ、おじさん。ちょっと」
両目の位置が離れた、深海魚みたいな顔の金髪男がニヤニヤ笑いながら近づいてきた。気がつくと四、五人がこちらの周りを囲むようにしている。
「おじさんの車で泥が跳ねてさ、服が汚れちゃったんだよね」人目で安物とわかるズボンの裾を指しながら深海魚が言った。私はコンビニの方を振り返った。店員はこちらで起こっていることに気づいているにしても、気づかない振りをしている。
二万円を「クリーニング代」として払って、私はその場を後にした。運転しながら、はらわたが煮えるような思いだった。怒りに気をとられていたせいだろう、私はいつもよりアクセルを強く踏み込んでいた。アパート前の路地にさしかかった時、突然目の前に一匹の黒い犬が飛び出して来た。ハンドルを切り損ねて車はガードレールに激突し、私は意識を失った。
救急車の隊員に話しかけられたことを憶えている。腕を上げられるかと訊かれたので上げてみせた。隊員は何か冗談を言って笑った。次に気がつくとベッドの上だった。枕もとのボタンを押すと看護婦がやって来た。レントゲンを撮ったが骨に異常は無い。明日もっと精密な検査をするが、早ければ二、三日で退院できるだろう。ベッドから降りてもいいが、激しい動きは避けるように。少しふらふらしたが、気分は悪くなかった。夜の九時を回っていた。携帯は無事だったので、ロビーに出て上司と保険屋に連絡した。香苗はまだ会社にいた。手短に事情を話し、渡してある鍵を使ってアパートから着替えや身の回りの品を取ってきてくれるよう頼んだ。
その晩、夢を見た。寂しい夜道を黒い犬と一緒に歩いていた。首輪をつけていない薄汚れた痩せ犬だった。私が立ち止まると、黒い犬は振り返って物を問うような顔でこちらを見つめる。私はうながされるようにまた歩き始めた。半分より少し痩せた月が空の低いところにかかっていた。蒸し暑い晩だ。夜だというのにどこかで蝉が鳴いている。私は人を殺しに行くところだった。
踏み切りを渡り、赤い煉瓦塀が片側につらなる道を黒い犬の後について歩いた。前方に電話ボックスの明かりが見える。中で黄色い電話機に向かって話しかけていた中年の男が、何気なくこちらに目をやってぎょっとした顔になった。私は自分の体を見下ろしてみる。シャツの裾がはだけて、ベルトにはさんだ出刃包丁が見えていた。私はシャツの下に包丁を隠すと、何気ない顔で黒い犬の後について行く。
玄関の鍵は閉まっていた。社長の家を訪ねたことは一度しかなかったので勝手がわからなかった。玄関先でうろうろしていると、黒い犬があのうながすような顔でこちらを見ているのに気づいた。あとに従って家の裏手に回る。黒い犬は木戸の前で立ち止まった。木戸は中からかんぬきがかけられていたが、力を込めて押すとめりめりと腐った木の割れる音がして開いた。よく手入れされた庭には何かの花の甘い匂いが漂っていた。縁側は雨戸が閉てられていて、中に侵入することはできそうにない。突然、黒い犬がけたたましく吠え始めた。私は黙らせようとしたが、黒い犬は飛び跳ねながらさかんに吠え続ける。木製の雨戸の隙間から明かりが射した。私はあわててベルトから包丁を抜いた。がたがたと音を立てて雨戸が開き、社長が顔を出した。「こらっ、しっ、あっちへ行け」包丁が肉にぶつかると濡れた雑巾が床に叩きつけられるような湿った低い音がした。廊下の先で女の悲鳴が聞こえた時、私は馬乗りになって抵抗の無くなった社長の体を刺し続けているところだった。叫びながら逃げ出した女の後を追って、私は駆け出した。一家を皆殺しにするあいだ、黒い犬は狂ったように吠え続けていた。
入院するのは生まれて初めてのことだ。病院の食事は思っていたほどまずくはなかった。昼前に警察官が事故の状況を聴取に来た。車は修理のしようがないほど激しく壊れていたというから、思ったよりスピードを出していたのだろう。私は黒い犬について尋ねた。はねてしまったものと思っていたのだが、現場には血の跡も無かったし、犬の姿も見当たらなかったという。午後には会社の同僚と保険屋が相次いで顔を見せた。香苗がやってきたのは夕食の終わった後、面会時間が終わるほんの少し前だった。頼んでいた荷物を入れた小さな鞄を提げていた。
「悪いね。忙しいんだろう?」
「ちょうど支社のほうでトラブルがあったものだから。秋までに貯めとかなきゃいけないから有給も取れないし……」私たちはこの秋に結婚する予定だ。
「休みを取ってくれるほどのことはないんだ。大した怪我じゃないし、念のために検査してるだけだから」
面会時間の終了を病室のスピーカーが告げる。私は下まで香苗を送って行った。部屋に戻ると隣のベッドの患者から罪の無い冷やかしを浴びた。
消灯時間を過ぎると何もすることが無かった。同室の患者たちは本を読んだりイヤホンをしてテレビを見たりと思い思いに時間をつぶしている。香苗に文庫本でも頼めばよかったと私は後悔した。仕方なく枕に頭を埋めて眠気がやって来るのを待つ。ブラインドの羽根の隙間から黄色い月が見えた。三日月よりもう少し細い、鎌のように鋭い形の月だ。今年の春、香苗と一緒に海沿いの道を散歩した夜にもこんな形の月が出ていた。九州に住む香苗の両親に挨拶に行った時のことだ。夕食を終えた後で突然香苗がドライブに行こうと言い出したのだった。両親の前でかしこまっている私に息抜きをさせようと思ったのだろう。車を降りると波音と潮の香りが同時に体を包んだ。月明かりだけを頼りに私たちは歩いた。先に立って歩く私に少し遅れて香苗がついてくる。二人きりの時にも、香苗は手をつないだり腕を組んだりということをあまりしたがらない。時折振り返る私に香苗は黙ったままはにかんだような笑顔を見せる。満ち足りた沈黙を保ったまま私たちは海沿いの道を進んだ。潮騒と二人の静かな足音だけが耳に届くすべてだ。ひたひた、ひたひたと規則正しい足音のリズムが眠気を誘うように心地よい。月光を浴びたアスファルトが濡れたような艶に光っている。夜だというのにどこかで蝉が鳴いていた。蒸し暑い晩だ。ため息のようにひそやかな足音を立てて黒い犬は歩き続ける。私が立ち止まると、黒い犬は振り返って物を問うような顔でこちらを見つめる。私はうながされるようにまた歩き始めた。半分より少し痩せた月が空の低いところにかかっている。私は人を殺しに行くところだった。
夢を見ていることはわかっていた。昨日と同じ夢だ。踏み切りを渡り、何かの工場らしい赤い煉瓦塀が片側に続く道を進むと、やがて前方に明かりが見えた。中年男は暑さのためか電話ボックスの扉を足で押し開いたままだったので、黄色い受話器に語りかける声がこちらの耳に届く。ずいぶんと話がこじれているようだ。長距離の通話らしく積み上げた十円玉をせわしげに投入しながら、説得する気力もとうに失せたという様子ですでに何度も繰り返したはずの話を相手に聞かせている。「だからそれは承知したはずの……しかし兄さんの話では先方が……いやですからその件はもう……」横を通り過ぎるこちらに目をやった中年男がぎょっとした顔になった。私は自分の体を見下ろしてみる。シャツの裾がはだけて、ベルトにはさんだ出刃包丁が見えていた。私はシャツの下に包丁を隠すと、何気ない顔で黒い犬の後について歩き続ける。
ゆうべと同じように玄関付近でしばらく迷った後、黒い犬に教えられて裏の腐った木戸を押し開けた。庭の隅で鉢植えの月下美人が大きな花を三つ咲かせているのに私は気づいた。庭に漂う甘い香りの正体はこれだろう。けたたましく吠え続ける黒い犬を黙らせようとしていると、雨戸の隙間から光が射し、やがて社長が顔を出した。「こらっ、しっ、あっちへ行け」この声、この口ぶり、いつも俺たちに命令するのとそっくり同じだ。俺たちを野良犬ぐらいにしか思っていないのだ。黒い犬がけしかけるように吠え続ける。はじめは社長一人を殺すつもりだった。家族を手にかけるつもりはなかった。けれども黒い犬が喉のちぎれるほどの勢いで吠え猛るのに背中を押され、逃げる女の背中に包丁を突き立てていた。それからあとは、もうためらいもしなかった。
「ここの食事、悪くないでしょう。今まで三度入院したけど、ここのが一番旨いな。退院する気がなくなるくらいだ」
朝食の時、隣のベッドの片岡さんという患者が話しかけてきた。たしかになかなかいける食事だった。近所のファミレスよりよっぽどおいしい。
検査は午後からだったので、昼食まで病院内をぶらぶらして過ごした。ふらりと迷い込んだどこか別の病棟で、談話室の前を通りかかった時、部屋の片隅にずいぶん前の型のパソコンが置いてあるのに気づいた。「あそこのあれ、使えるの?」通りがかった看護婦に訊ねた。看護婦はさあ? と首をかしげると、多分使えるんじゃないかしらと言い残してせわしげに歩き去った。キーボードには埃がうっすらと積もり、しばらく手を触れられた形跡がない。電源スイッチを入れると、ブンと低い音がしたまましばらく何も起こらず、やはり故障かとあきらめた頃にようやく起動画面が現れた。インターネットにも接続しているようだ。パソコンの前に座った時には特に何をするつもりでもなかったのだが、気がつくと検索サイトに繋いでいた。「昭和」「大量殺人」「包丁」「一家皆殺し」、あの家の表札には何とあっただろう。藤崎? 藤村だったか? いくつかキーワードを組み合わせて検索をやり直した末にようやく目当ての情報にたどり着いた。戦後の凶悪犯罪をまとめたサイトの中の記事だ。私が二歳の頃に起きた事件だった。事件の現場がここからすぐ近くの場所であることに私は気づいた。考えてみれば当然のことだ。犬の縄張りはそれほど広くはない。
「……1973年9月20日の夜半過ぎ、古谷は勤務先の印刷工場社長宅に忍び込み、社長のほか妻、母親、二人の子供たちの計五人を持参した包丁で皆殺しにした。翌朝被害者宅にやって来た通いの家政婦が事件を通報し、駆けつけた警察が二階の寝室にいた古谷を逮捕した。古谷は犯行の前日仕事上のことで社長から叱責を受けており、そのことを恨みに思っての犯行であった。1975年12月、東京地裁で死刑判決。古谷は控訴をしなかったためそのまま刑が確定。1985年5月、刑が執行された。」
私はゆっくりと二度繰り返してその記事を読んだ。黒い犬について一言も触れられていないのが不思議に思われた。
夕食の時、片岡さんと話をしているうちに、彼がこのあたりの出身だとわかったので、ひょっとして心当たりはないかと訊ねてみた。
「踏み切りの近くで、赤い煉瓦塀の工場ねえ……駅の裏にあった繊維会社の工場がそんな感じだったけど。あの辺に踏切があったかな? ああそうか。今は高架になってるけど、二十年くらい前までは確かに踏み切りがあった。え、工場かい? とっくの昔に無くなって、今はショッピングセンターになってるよ。ほら何とかプラザっていうやつ」駅の西側にあるショッピングセンターになら私も何度か行ったことがある。三十年前の殺人事件についても訊ねようかと思ったが、思い直してやめにした。夕食の後で香苗に電話をかけて明日には退院できそうだと知らせた。香苗は明日の午後から地方に出張だという。支社のトラブルが長引いているらしい。消灯時間が来るなり私はベッドに沈み込んでまぶたを閉じ、眠りが訪れるのを待った。
回を重ねるたびに夢は鮮明さを増してゆき、はじめには気づかなかった細部が立ち現れてくる。奇妙なことに、また一方では当然のことにも思えるのだが、夢の内容をコントロールすることはできないのだった。電話ボックスの中年男にベルトに挟んだ包丁を見られてしまう事を私は知っているのだが、それを事前に防ぐことはできないし、中年男に驚きの目で見つめられた時にはまるでそうなることが分からなかったかのように心から慌ててしまうのだ。身の毛のよだつような悪夢であるにもかかわらず、夢の流れに身を任せることには不思議な快感があった。黒い犬の吠えるひと声ひと声が私を駆り立て、力をみなぎらせるのだった。包丁を振るいながら私は笑っていた。夢の中の殺人犯の笑いであると同時に、それは夢を見ている私の笑いでもあった。
昼前に診察を受け、退院を許可された。帰り仕度をしながら、昼食が配膳されるのをひもじそうな顔で眺めていたらしい。片岡さんに陽気な口調でからかわれた。ここの食事はおいしかったからと褒めると、一食くらいならサービスするわよと看護婦に言われ、外に出る格好のままベッドで食べることになった。一階の窓口に寄って手続きを待っているうちに、朝方は太陽も覗いていた空から突然大粒の雨が落ち始め、そのうち稲妻まで走り始める。入り口の自動ドアが開いて風が吹き抜けたかと思うと、髪の毛に雨の滴を載せた香苗が駆け込んできた。「よかった、間に合って」飛行機の時間まで少し余裕ができたので、急に思いついてこちらに向かったのだという。玄関を出ると、待たせておいたはずのタクシーはどうやら別の客に取られてしまったらしく姿が見えなかった。幸いなことに程なく雨は勢いを無くし、降り止んだかと思うとすぐさま嘘のように日が差し始めた。大通りまでの長い下り坂を私たちは肩を並べて歩いた。すれ違う人が皆やさしい顔をして空を見上げているので振り返ってみると、坂の上の空に濃い虹がたっていた。「きれいね」あどけないような顔をして空を仰ぎながら香苗が呟く。それから急に、香苗は私の手を取った。腕を絡ませたまま私たちは大通りまでの短い道のりを歩いた。「それじゃあ、あさってには戻るから。一緒に食事でもしましょう」私の手を離しいつもの顔に戻って香苗は言った。私たちは別々のタクシーを捕まえて別れた。
タクシーがアパートに近づいたところで、行き先を変更して駅の西側のショッピングセンターに向かってもらった。ユニクロにマクドナルド、靴の安売り屋とホームセンターそれにレンタルビデオ店が広い駐車場を囲むようにして並んでいる。辺りをしばらく歩いてみたが、夢に出てくる道を見つけることはできなかった。ひょっとするとここではないのかもしれない。せっかくなのでホームセンターに入って電池と風呂場の電球の替えを買った。刃物売り場の横を通りかかった時、大振りの肉切り包丁が目を引いた。刃渡りが30センチほど、細身の刀身に微妙なカーブがつけてある。樹脂製の握りは小さいが手に良くなじみそうだ。一万二千八百円というのは高くないと思った。匂いにつられてマクドナルドにも入った。病院の健康的な食事が続いたせいか、体がジャンクフードを求めているようだ。バスに乗ってアパートに帰り着いた時にはもう日が暮れていた。三日空けただけだが部屋はどことなくかび臭かった。窓を開け放って空気を入れ替える。ソファーに寝ころがってテレビを見ているうちにいつの間にか眠りに落ちてしまったらしい。気がつくと私は黒い犬の後について夜道を歩いていた。半分より少し痩せた月が空の低いところにかかっている。蒸し暑い晩だ。電話に話しかけながらすれ違った中年男が何気なく私の方に目をやってぎょっとしたような顔になった。私は自分の体を見下ろしてみる。ベルトに挟んだ肉切り包丁が服の下から姿を覗かせていた。中年男は携帯電話を耳に当てたまま慌てて遠ざかって行く。私は包丁をシャツの下に隠すと、何気ない顔をして黒い犬の後を歩き続けた。行く先はわからなかったが、黒い犬に従っていれば何もかも大丈夫だという気がしていた。
ひと気の絶えた住宅街をしばらく行くと、やがて前方にコンビニの騒々しい明かりが見えた。黒い犬はためらう様子もなくまっすぐに進む。この前と同じ場所に同じ連中がいた。地べたに座り込んで両足のあいだに唾を吐いている。社会のクズどもが。私は包丁を握った右手を後ろに隠したまま笑顔を保って近づいた。黒い犬のうなる声を聞いて連中が顔を上げる。「何だよ、おっさん」深海魚みたいに両目の離れた顔の男が口を開いた。立ち上がりかけた男の白くやわらかい喉笛めがけて私は肉切り包丁を振り下ろす。黒い犬が月に向かって吠えた。
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2004/10/15(Fri)19:31:26 公開 / よるやみ
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