- 『壊れゆく世界のすべて ―完―』 作者:神夜 / 未分類 未分類
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全角105734文字
容量211468 bytes
原稿用紙約295.9枚
「プロローグ」
『え〜っと、宿題の課題1って何でしたっけ?
……ああそうそう、教本を読んでそれを自分なりに解説せよ、でしたよね、ちゃんと憶えてますよ。間違ってもさっき友達に連絡して聞いたりしていないですから、いやホントに。でも、これって教本読む必要あるんですか? こんなのアカデミーで何百回も読んだり(読まされたり)聞いたりしてるんで暗記してるんですけど……。まあいいか、そこは暗記しているヤツだけの特権ってことで一つ。
では、さっそく課題1を。
今から約一五〇年前、この世界を襲った大災害【ファースト・ボルケーノ】(あの長ったらしい正式名称は忘れたので、ここではおれたちが俗に言うボルケーノと書きます。調べて書く、なんて芸当間違ってもしませんから安心してください) 世界と、そして人類の約半分を消滅させたこのファースト・ボルケーノとは、【カルスト】と呼ばれていた惑星が隕石の衝突で三つに砕け、その内の一つがこの世界に突っ込んで来たもので、その被害は世界の半分を焼き尽くすまでに及んだ。そしてその影響で世界は荒れるに荒れ、残った半分も荒野と砂漠に成り下がった。
世界の半分を失った人類、つまりおれたちの先祖はこの異常事態を迅速に対処し、生き残った者が一致団結して【シェルター】と呼ばれる、おれたちが住んでいる最初の建物を造った。シェルターとは、ドーム状の巨大な防壁特殊ガラスに囲まれた一つの町で、その中で人々は生活し、一つの国とした。シェルターの中は外とは違い、緑も水もあって、食糧には困らない。だから人はシェルターに住むのを好み、人口があふれ出すのを防ぐためにそこかしこにシェルターを造り上げ、一気にその数を増やした。そしてファースト・ボルケーノから約百五十年経った今現在、シェルターの数は正確には数え切れないほどに膨れ上がっている。一つのシェルターに人口約五十万人という割合だが、どうやってその基準を守っているのかは知らないし、多分オーバーしているのだろう、と教本には書いてあるが、本当のところはどうなんだろう? まあいいや。
そもそもの元凶、カルストは三つに砕け、一つはファースト・ボルケーノになって世界を壊したが、あとの二つはどうなっているかはよくわからないらしい。衛星の情報を頼りにするならカルストはすべて消滅したらしいが、それを完全には信じてはおらず、我々人類はセカンド、サード・ボールケーノに備えてシェルターの防壁の管理は怠らないし、日々研究されて調整、改良されている。
我々にできることは、ファースト・ボルケーノの時のような被害を出さないため、万全の体制で常時警戒を怠らないことであるのデス、と。
とまあこんな感じですね(めちゃめちゃ短縮したじゃないか、というコメンとはやめてください。これでもちゃんとした要点をまとめ、おれなりに一番良いと思えることを書いたんですから。そこんとこをちゃんと評価お願します)
さて、次は課題2を。これで終わりですよね? 違っても知りません、やる気ねえです。課題2は先の話を自分はどう考え、何を思うかを正直に書け、でしたよね?
じゃあ課題2を……って、これ本音で書いていいんですよね? (もし、ちょっとばっかりやばいことが書いてあっても怒らないでください。おれなりに本気で書いてますので。先生の良心におれは賭けます)
この話を読み、考えておれが導き出す結論はただの一つ。『だからなに?』の一言です。ぶっちゃけた話しをすれば、ファースト・ボルケーノがこの世界に来た時から人類はおかしいんですよ。教本には一致団結してシェルターを造ったと書かれてますが、本当にそんなことは可能なのか。人なんて皆本当は汚い生き物なんです、それはおれもそうですし否定はしないしむしろ肯定します。
もし、もしもファースト・ボルケーノがこの世に起こった時に生きていた人がいれば、おそらくおれの考え通りのことを言ってくれるはずです。ファースト・ボルケーノが起こった時、人類は形だけは協力し合い、隙あらば焼き尽くされてどこの国でもなくなったその領土を奪い合い、数多くの戦争が勃発した、と。それを勝手に良いように書いたのが教本だ、とおれは考えています。ですが、全員が全員そうだと言っている訳ではありませんよ。そりゃあ中には本当に心から相手を信頼し、手を取り合ってシェルターを造った人もいるでしょう。しかし、そんな人が果たしてどれだけいたと思いますか? そんなことができるのは、現実を知らない甘ったれた理想家だけです。普通はそんな芸当、ボルケーノの正式名称を調べて書くなんてことよりもやらないしやれないでしょう。おれはもちろん前者です。時と場合によって変わるかもしれませんが、たぶんそうです。
次に問題にすべきはシェルターの存在。これは画期的だと思います。実際問題、おれもこのシェルターの御かげで今日という日まで生きてこられたのだから、感謝はします、いや、するべきなのです。ですが、それとこれとは話しが別。シェルターは無意味に多い、それならなぜこの荒れ狂った大地を元通りにしようとは思わないのか。
そして決定的なのがもう一つ。これは、こう考えるのはおれだけかもしれません。世界では、つまりシェルターでの常識で考えると、シェルターを捨てて大地に降り立つ人はバカだのクズだの言われます。国を捨ててどこに行くつもりだ、ここを守ろうとは思わないのか、そんな勇気すらお前にはないのか。そんな罵声を、今までにたった一度だけ聞いたことがあります。シェルターを捨てる者は裏切り者のレッテルを貼られる。それは、果たして正しいのでしょうか?
おれは十歳の頃に両親を事故で失っています。それからは周りの人に少しずつ助けてもらいながら、今日まで、十七歳まで生きてきました。ほとんど一人で生き抜いて来たようなおれだからこそわかるんです。このシェルターでただのんびり過ごし安住だけしか知らないヤツが、仮にもその安住を捨てた本当の勇気ある者に向かってに罵声を浴びさせていいのでしょうか? シェルターを捨てて大地に降り立つには生半可の覚悟じゃできないでしょう。なにせ食糧は愚か寝る場所もない、外には何があるのかもわからない。もしかしたら突然変異した巨大な獣が蠢いているのかもしれない。そんな中、一人で大地に旅立つ人に、この世界の誰が罵声を浴びさせることができるのでしょうか? もし罵声を浴びせることのできるヤツが、一人で大地に放り出されたら何ができようか。三日も持たずに死ぬでしょう。その土地に自ら出て行くその人こそ、本当の英雄ではないのでしょうか?
少し、話の内容がズレてしまった……。
難しいことはもうどうでもいいです、なんかこれ書いてたら気分がブルーになってきました。宿題はこれで終わりにしようと思います。先生の言っていた行数に達していないかもしれませんが、もう書くことは尽きました。
あ、最後に一つだけ。ここに書いたのは、紛れもないおれの本音です。そして、誰にも言ったことない本当の本心をここに書きます。なぜか書きたい気分なんです。
おれは、シェルターを捨てようと思います。大地に旅立つことがおれの生き方なんじゃないかって考えています。
これを読んで、先生はどう思いますか? おれを罵倒しますか? 呆れますか? おれを、止めようと思いますか? ですが誰が何と言おうとアカデミーを卒業したらシェルターを捨てます。
生意気なことを書き殴り、すいませんでした。それではまた学校で。殴られてもいいように氷持ってくんで、先生は遠慮しなくてもいいですよ。
あー眠い……。
キシマ・峡(きょう)』
「無線機からはじまる物語」
あの宿題をそのまま提出したら、案の定アカデミーの先生に殴られはしなかったが二時間みっちり説教を食らった。
それもそうだろうな、とキシマ・峡は思う。実際、あのときはその場の気分でかなりかっこいいことを書きまくったし、先生以外の、例えば治安維持部隊の連中にでも見られれば下手したら捕まって牢獄に叩き込まれてる可能性だって否定できないのだ。それを考えればただ説教だけというのはかなり優しい。だがそれでも、先生の「お前は人生を棒に振るう気か?」と言われたのには多少なりとも腹が立った。あれはあれで峡が本心から思ったことを書いた訳で、何と言われようとアカデミーを卒業したらシェルターを捨てて外の世界に行こうと考えている。しかしそれがなぜ人生を棒に振ることになるのかを全く持って理解できない。だが、この世界の常識で考えればそれは真っ当な意見になるのだろう。
歪んでいるのだ、そもそもな話。この世界はファースト・ボルケーノが起こったせいで違う方向へと進み始めている。それが正しいのか間違いなのかは峡には断言できないが、個人の意見で言うなれば間違っているのだ。シェルターに留まらずに外の世界を見たいと思って何が悪いのか。それを止める権利など誰が持っているというのだろう。
とまあ、そんな小難しいことはアカデミーで考えるだけで十分である。アカデミーが終って放課後になれば、それ即ち天からの恵みである自由の時間なのだ。友人から遊びの誘いもあったのだが、毎度の如く峡はそれを断った。放課後には、行く場所があるのだ。
アカデミーの駐輪場に停めてあった自転車に跨り、ペダルを漕ぐ。無機質な光景が背後へと流れるその中で、峡はいつも通りにそこへ向かう。もう正確な日にちなんて憶えていないが、薄ら残る記憶から考えるとあれは確か十歳の、両親が死んでしばらくしてからだったと思う。両親は峡を一人この世に残して『事故』で死んだ。そんな両親が残した唯一の形見が、古ぼけた約一五〇年前に使われたとされる一つの無線機だった。
深緑の色をしたそれは小型のレシーバーみたいな形をしていて、造られてもう百年以上経つというのになぜか一向にそれ以上オンボロにならないという不思議なものだ。これはなにか特殊なもので出来ている、世界が誇る七つ道具の一つではないか、と峡は小さな頃から思っている。
やがて目的の場所へと到着すると石段の脇に自転車を停め、無線機を鞄の中から引っ張り出し、それを片手に持ちながら峡は歩き出す。石段を上り切ると視界に入って来るのは大きな空き地に人工芝を呆れるくらい綺麗に植えつけた広場である。ここは円状になっているシェルターのちょうど端っこに位置していて、一応名目では公園とされている場所だ。いやまあ、円状なのだから端もクソもないのだが、峡はそう思っている。しかしこの公園を使っている者は不思議と誰もいない。ここで誰かと会った試しもないし、実に味気ない場所だ。そしてそんな場所になぜ峡が来るのかと言えば、ただの昼寝である。それがいつからか習慣となっていた。
人工芝を踏み締め、公園のちょうどど真ん中に辿り着く。そこが、峡の特等席だった。ここは緩やかな坂になっているため、辺りに建物が何も見えなくなってしまう絶好の場所なのだ。ただ、目の前には少々邪魔なものがある。このシェルターにまるまるフタをするかの如く設置されている巨大な特殊ガラスだ。それが唯一の邪魔ものなのだが、逆を言えばそのガラスの向こうには茶色い荒野が見えるのが少しだけ嬉しかったりもする。それこそがいつか峡が踏み締める広大な大地だ。
ガラス越しに大地を見据え、峡は芝生の上に大の字に寝転がる。手に持っていた無線機の横っ面に手を当て、スイッチを押し上げて電源をOFFからONに切り替える。スイッチの近くのランプが赤く光り、それだけだった。ノイズも何も聞こえないし、何の変化もない。正直な話、峡はこの無線機がどういうものなのかをまったく知らない。ただ、考古学に詳しい先生に訊いてみたところ、これは無線機だと言われただけで、何ができるのかその詳しい内容はその先生にもわからないらしい。憶測で言うなれば、たぶん電話のように遠く離れた人と話ができるのではないかと思う。が、どうやってすればできるのかは検討もつかないし、電話同様にコードがないとできそうもないし、そもそもこれと同じものがこの世にもう一つあるか自体危ういのだ。
だから峡は、いつもただ電源をONにした以外は何もせず、寝転がった自分の傍らに置いておくのだ。そうすることで今は亡き両親のことを思い出せる、という訳ではない。ただ何となく、である。もしかしたら心の奥底では何かが起こるかもしれないと思っているのかもしれないが、どうでもいいことだった。
大の字に寝転がったまま目を閉じる。何も聞こえない静寂が支配するこの公園に一陣の風が吹き込み、峡の意識を遠い夢の国へと連れて去って行く。ここでこうしていることが、ただ純粋に心地良かった。しかし密閉されたシェルター内で自然に風など吹くはずもない訳で、人工で起こしているのだということはなるべく考えないようにしている。気分が壊れる。
意識が完全に途絶えそうになり、いつものように軽い眠りに就こうとして、いきなり響いた大音量のサイレンがそれを遮った。
何も知らない人間がこのサイレンを聞けば何事かとパニックに陥って慌てふためくほどの音量である。しかしそれにも関わらず、峡は目を瞑ったままでこのまま寝てしまおうかとのんきなことを考えいる。この馬鹿デカイサイレンの音は、シェルターに住む者なら誰しも聞き慣れていた。これを聞いて慌てる人間など、もはやいないのではないかと思う。
このサイレンは、第一次避難警報を告げるものである。
だが誰一人として慌てもしないし、峡もまた、その内の一人だった。
この避難警報は、何に対して発せられているのか。それはつまり、「セカンド・ボルケーノが来るから今すぐ避難しろ」という意味を差す。教本にも書いてある通り、ファースト・ボルケーノは隕石の衝突で三つに砕けたカルストの内の一つが突っ込んで来たことが原因であるからして、他の破片が再び突っ込んで来る可能性は少なからずあるのだ。衛星ではカルストはすべて無くなったとされるが、それを信じない原因はここにある。宇宙から迫り来るカルストの破片である隕石を、地上のレーダーが感知し、付近のシェルターにこうして避難しろ警報を鳴らすのだ。
ならば急いで逃げなければ、と思うかもしれない。だが、誰一人としてそんなことを思うヤツはいないのがシェルターの現状だった。この避難警報は、それほどまで日常茶飯事に発せられるのだ。しかしその度に何事もなく過ぎ去って行くので、いつしかシェルターに住む人々は驚かなくなってしまった。と言うより、むしろ感覚で言えばお昼を告げるサイレンに近いような気がする。だから誰も気にも止めないのだが、いつまでもチンタラとして避難しないと、治安部隊がやって来て強制避難させられるので皆仕方なく避難するのである。
お昼のサイレンは鳴り続け、密閉された空間に何十にも響き渡り、しかしいつまでも消えない残響として耳に届き続ける。
サイレンが鳴り始めて一分ほど経過してからやっと、峡は目を開く。が、やはりまだ行動に移す気にはなれず、睡魔の狭間を漂っていた意識は起き上がることを頑なに拒否する。まだ本調子ではない脳みそがぼんやりと、このままここにいれば治安部隊の魔の手から逃げられるかもしれないぞ、とつぶやく。それはいいかもしれない、と峡は不謹慎なことを思う。
本当にそうしようかと思ってガラス越しに見える濁った空を見つめていると、腹の中に岩でも音しかの如くに重い音が広がる。見なくてもわかる。これは、セカンド・ボルケーノからシェルターを守るためにある、ガラスの向こう側の隔壁が競り上がる音だ。軽い地震にも似た揺れが伝わり、時期にこの空も大地も無機質なコンクリートで閉ざされてしまうのだろう。そして、その隔壁だけでは安心しないのがまた治安部隊の悪い所だ。
別に誰も、避難したくない訳ではない。身の安全を守るためならどんなことでもしようと思う。それなのになぜ皆が進んで避難しようと思わないのか。その理由は避難すべき場所にある。第一次避難警報が鳴り響いた際には、住人はシェルター中央にある地下空洞に避難することになっている。家の中でも問題ないはずなのに、治安部隊は無理矢理そこに押し込もうとするのだ。もし隔壁が破られても生き残れるように、と。本当にそうなったら峡もその有り難味をわかるのだろうが、現状は途方もなく面倒であり、する必要もないのだ。今までに峡が生きて来たこの十七年間に、警報の間隔は短ければ一週間、長くても二ヶ月経たずして発せられ、その度に住人はすべての仕事を放棄して地下に潜り、しかし何事も起きずに時間だけが過ぎ、結局は誤報ということで開放される。だから避難するのに抵抗を覚えるのだ。
だがやはり避難しなければ後々面倒なことになってくる。ばっくれている現場を治安部隊に抑えられたら言い訳は効かないし、地下では人名確認も行われるため、そのときにいなければ問題となるので何もかも通用しない。つまり、どう足掻いたところで嫌々でも避難するしかないのだ。
そして、峡もそろそろ避難しなければならない時間だった。ガガンッ、と鈍く一際大きく音が鳴った。視線を上げると、シェルターを巨大な隔壁が完全に覆い尽くしていた。一瞬だけ中が暗くなり、しかしすぐに証明が灯ってさっきよりも内部を明るく照らす。気分が台無しだった。寝るのを諦め、避難するしか道はないのだろう。
ため息を吐き出し、いつまでも聞こえ続けるサイレンを無視して、のろのろとした動作で腰を上げ、亀のように無線機に手を伸ばし、
峡の体が凍りついた。
サイレンは鳴り続けている。何重にも反響して耳に届くそれは消えることなく、逆にうるさくなる一方だ。だが、峡の耳にはもはやその音は届いていなかった。不思議に思うほどサイレンの音は遥か彼方へ遠退き、峡の耳に届いているのは耳鳴りのような雑音。体はなおも凍りついたままだった。
『ガガ、ザッ、ピー……ガッ、ザァア―――――――――――――』
傍らに置いてある、今にも峡の手が触れそうな無線機から、そんな音が漏れていた。
今までこの無線機からは、ただの一度も音など出たことがなかった。それどころか動くかどうかさえ怪しいこの無線機が、ノイズを走らせていたのだ。
凍りついていた体が開放される。おっかなびっくりで無線機を手に取り、しかし何をしていいのかまったくわからなくて、駄目元で側面にあるチューナーをイジってみた。周波数が変わると同時にノイズが大きくなったり小さくなったりして、その度に峡の心を煽り立てる。
――もしかしたら何か聞こえるかもしれない。そう思っただけで、避難するこどなど綺麗さっぱり忘れて無線機に夢中になった。どうしたらちゃんと聞こえるのか、ただそれだけを考える。少し場所を移動してみたり、ぶんぶん振り回してみたり、周波数をもっとイジってみたり。
だが聞こえるのはノイズだけで、一向に声らしきものは聞こえてこない。弾んでいたはずの心がいきなり冷め、冷静さを取り戻す。静まり返った脳みそがただ一言、この無線機はただ壊れてしまっただけかもしれないとつぶやく。もう百年以上前の産物だ、無理もない。今までが異常だったのだろう。少しだけ期待しただけで十分だ。もうちょっとしたら治安部隊がここに来るかもしれない。だから早く避難した方が懸命だ。そう思って峡は無線機の電源をOFFにしようと指を当てた。
そして、峡の体は再度凍りつく。
無線機が、こんなことを言ったからだ。
『―――準備完了。いつでも行ける―――』
ノイズに混じって、声が確かに聞こえた。少しだけ機械的な男の声だ。
電源を切る手が完全に止まり、もう一度峡は無線機を食い入るように見つめる。しかし待てど暮らせど、その他は何一つ聞こえなかった。もしかしてあれは幻聴ではなかったのか。そんな考えが脳裏を過ぎる。ただのノイズがそれっぽく聞こえただけ。そう思ってしまった方がすっきりするのではないか、そんなことを思った刹那、峡は公園の外に複数の人間の気配を感じた。
治安部隊だった。早くここから逃げて避難しないと豪いことになるぞ、と冷静な部分は言うのだが、どうにも気持ちが治まらない部分が本当に逃げ出していいのかと言う。もしここを動いてしまったら、もう二度とさっきの声が聞こえなくなってしまうような気がした。あと少しだけここで、もう一度だけさっきの声が聞きたかった。
そんな峡の想いが伝わったのかどうかはわからないが、ノイズを垂れ流し続けていた無線機がもう一度声を発する。
『―――場所は? 場所はどこ? ―――』
さっきとはまた違う声。さっきのは男の声という感じだったが、今度は男の子という感じだ。
無線機を片手に身動き一つしていなかった峡の視界の中に、治安部隊が姿を現した。峡が上った石段から紺の制服に身を包んだ一団が出て来た。反射条件でその場に伏せ、自分の姿を隠す。ここからなら峡の姿は見られる心配はないが、もし近寄られたら一発でバレる。そうなっては逃げられない。どうするかを頭の中で会議が開かれて考える。素直に捕まって強制連行、なんてのは論外であって、残りの選択肢は一つしかなかった。このままやり過ごして、治安部隊がいなくなったら急いで避難。それだけだ。
人工芝に体を預けて伏せていた峡の右手にある無線機から、新たな声が聞こえた。
『―――チッ。その近くにはシェルターがあるじゃねえか―――』
最初に聞いた男の声。
新たな選択肢が一瞬で峡の脳裏に浮かび上がる。
まず、この無線機はなぜいきなりこんなノイズと声を出すのか。思い当たる理由は一つしかなかった。この近くに、この無線機と同じようなものが存在するからだ。その通信がこの無線機に流れ込んできている。そう考えると、会話の内容から発信源は内部ではなく、このシェルターの外部、つまりは隔壁で今は見えない大地の可能性がある。
峡の視界の中に、ついに治安部隊の一団からこちらまで歩いて来た一人が入った。時間がない、下手をすればあと数歩で峡の姿は発見される。決断するなら今しかなかった。考える。もし見つかったら説教だけでは済まない。
だったら、賭けてみるか。
決めた瞬間に行動に出た。寝そべったまま芝生の上を軽く転がり、やがて目が回って限界に近くなった頃になってようやく立ち上がる。姿勢を低く保ち、足音を立てずに、それでも最速で走り抜ける。坂になっている公園を抜けるとすぐに隔壁にぶち当たる。どっちにあったか一瞬だけ悩み、すぐに右だと思い出す。記憶のままに隔壁のコンクリートに沿って右へと走った。治安部隊の姿はもう視界にはない。騒ぎにもなっていないし追いかけて来る者もいない。しかし安心するのはまだ早いのだ。まだ走らなければならない。無線機からは相変わらずノイズが聞こえ、代わって反響するサイレンなどもはや聞こえない。
目当ての場所に到着する。隔壁に沿って緩やかに円を描いていたコンクリートが直角になっている場所。そこにはコンクリートとは違う、鉄で出来た扉が設置されていた。そこは万が一を想定して作られている、非常用の出入り口みたいなものだ。ここがシェルターと大地を繋ぐ唯一の出入り口。シェルターには合計でこのような扉が十七個設置されている。どれも開けてはならない決まりになっているのだが、暗号キーで操作しない限り開かない仕組みになっているので住人には無関係なものだった。が、峡にはその決まり自体関係ないのである。誰にも教えたことがない秘密。下手したら口封じで監禁されかねない秘密だ。
峡は、この扉の暗号キーを知っている。十歳の頃に、たった一度しか見ていないのに、なぜか憶えてしまったキー番号。だが今はそれが有り難かった。本当はアカデミーを卒業してから使うはずだったものだ。扉の脇に設置されている『0』から『10』までの電卓のようなキーボードに手を滑らせる。考えずとも指は自然とその番号を押し込む。
『5、8、3、10、5、5、7、2、4、9、2、3』
何を意味するのか知らないがそれが暗号キーの解除番号だ。
ピー。そんな気の抜けた音がなった刹那、扉のロックが外れた。ビンゴ。そうつぶやいて峡は分厚く重い扉を押し開ける。体が通り抜けられそうなほど開けたらそこから外に出て、今度は閉めるために逆から扉を押す。扉が閉まると同時に、ピーと音が鳴ってロックが掛かった。帰りはまた先と同じキー番号を入力すればだいじょうぶだ。
外に出てもまだ安心できずに、峡は扉に耳を押し当てて中の様子を窺う。が、あれほどの大音量のサイレンさえも微塵も聞こえてこないところを見ると、この扉は相当な代物らしい。だがそれも当たり前なのだろう。ここでやっと安心した峡は、異変に気づいた。
無線機から、ノイズが聞こえなくなっていた。慌てて無線機を目の前に持って来て見てみるが、ウンともスンとも言わない。スイッチはONになっていて、ランプは赤く光っているのでだいじょうぶだとは思うが、もしかしたらさっき逃げる際にどこかにぶつけて壊れてしまったのかもしれない。どうしようかと悩んでいて初めて、峡はそのことに思い至った。
無線機から視線を外し、ゆっくりと振り返る。そこには、広大な茶色い大地が広がっていた。
思わず声が無くなり、頭の中が真っ白になった。ここはシェルターの中でも特殊ガラス越しに見るものでもない。正真正銘、キシマ・峡は、大地に立っていた。
見渡す限り何も無い、地平線だって見える本物の大地。茶色い地面に石が混じった砂、どれもこれも作りものではない本物。踏み締めているこの地面も、頬に感じる風も、少し濁った空の光も、すべてが自然だった。夢見てきた大地に、峡はとうとう降り立ったのだ。
無意識に無線機を握り締め、足が勝手に動き出す。最初はゆっくりと歩き出し、しかし気づいたら走っていた。心の底から、見える世界に向かって叫んだ。
ついに立ったのだ、この大地に。普通なら治安部隊が関しているためまず不可能なはずだった。だが今日だけは違った。避難警報で治安部隊が出払っていたのが幸いした。向こうもまさか暗号キーを破るヤツがいるなどとは思ってもみなかったはずだ。そこを突いたのが成功した。隔壁で向こうからはこっちが見えない。つまり、峡は今、完全なる自由を手にしていた。
両腕を広げて永遠の大地へ向かって叫ぶ。その場でぐるぐると回って歓喜の叫びを上げ続ける。今なら空も飛べる気がした。不可能なんて何もないはずだった。
『目的地に到着、降下する』
「ぅわあっ!」
思わず声が出た。無線機から今までとは全く違う、ノイズ一切無しの完全な声が聞こえた。
また最初に聞いた男の声だった。その場で佇み、無線機をまじまじと見つめる。消えたノイズの理由を探る。シェルターの中ではあったノイズが今はない。簡単だった。隔壁が邪魔だったのだ。やはり発信源は外の世界だったのだ。
辺りを見渡す。この広大なる荒野のどこかに、この無線機と似たようなものを持った人がいる。そう思うと一度は冷めた心がまた踊り出した。見つからなくてもいい、と峡は思う。それでもいいから探してみよう。もし見つかったらこの無線機の使い方をもっと聞けるかもしれない。いや、そんなことよりも、シェルターの外部で生きてきた人に会えるかもしれないというのが最も興味を引かれた。どうせ警報が解除される隔壁は開かないし、それまでにはまだまだ時間に余裕がある。それまで、少し探検の意味も込めて探してみよう。
無線機から視線を外し、その一歩を踏み出そうとして、峡はふと気づいた。
空を見上げる。砂煙のようなもので太陽の光が鈍くなっているその空に、黒い小さな点が二つあった。何かの生き物かもしれないと見ていたのも一瞬だけだった。
その点は秒単位で大きさを増し、二秒後には驚くほど大きくなっていた。それはまず間違いなく、空から降って来ていた。文字通りに、それは峡の真上から、信じられない速度で降って来ているのだ。
声を上げている暇もなかった。防衛本能が勝手に働き、峡は慌ててその場から飛び退き、そして、
落下してきた何かの衝撃で大地に二つの巨大なクレーターが口をあけた。続いて地面が抉れる轟音が響き渡り、その拍子に吹き飛んだ石が峡の体にぶち当たる。声を上げている暇もなければ痛がっている暇すらなかった。すべてがスローモーションのように見えたその光景の中で、峡の目の前には二つの、車ほどの大きさの鉄の塊がいた。
片方が青色で、片方が赤色の塊。尻餅を着いたままで、峡は言葉を失いながら『それ』を見つめている。
空から落下して来た『それ』は、それほどまでに重いのか、地面は盛大に抉れて巨大なクレーターが出来上がったそこにいて、大地はまだ微かに揺れていた。声一つ上げられないその状況の中、峡は呆然と『それ』と見つめ続ける。そこで発見があった。それはただの塊ではなく、ちゃんとした形を持っていて、自分の足と思われるもので体勢を保っている。
『それ』は、例えるなら――そう、虫に似ていた。足は四本しかないがそれでも虫に似ている。そして正確にはそれは虫の形をした戦車のような機体である。二機とも全く同じような機体で、ただ色だけが違う。峡から見て右が青で左が赤に塗装してあり、光沢が鈍い光にでも反射してどこか気品のようなものが漂っていた。四本の足の根本、つまりはその本体に視線を向け、峡はやっとその存在に気づいて腹の底が冷たくなった。
その二機は、これ以上ないくらいの武装をしていた。よく見れば足も人一人分はありそうなほど大きくて、そこに無理矢理アーマーをはめ込んだようにゴツゴツしている。体の本体はそれ以上に大きく、教本でしか見たことがないような大砲や銃口のようなものがまるで戦艦の如く突き出ていた。戦艦から足が四本生えてきた、といのが一番正しいのかもしれない。それは端から見てもわかる。『これ』には、ちょっとやそっとの攻撃では傷一つ付けることもできはしない。
そしてその先端、顔と思わしき所は、大昔の漫画で見た『龍』と呼ばれる神話上の生き物によく似ていた。アーマーの隙間から見える蛇のような眼球が鋭い光を宿していて、そこから少し下には巨大な口があり、そこから数本の牙らしきものが覗いている。
青い塗装が施されるその虫の首が微かに動き、辺りを見渡して、眼球がぐるりと回り、峡を見て止まった。峡の心臓も止まった。
殺される、と本気で思った。そのとんでもない武装で跡形も無く消しされられてしまうのだと体の細胞一つ一つが直感していた。
何も言えないまま対峙すること数秒、唐突にその青虫が目を見開き、信じ難いことに口をきいた。
「おいっ! 人間がいるじゃあねえかっ! どういうことだ避難してるんじゃねえのかよっ!?」
聞いたことのある声。つい最近、どこかで聞いた覚えがある。
ぼんやりとそんなことを思っていると、青虫の声に反応するように赤虫もこっちを向いてすぐに同じような反応を見せた。
「うわっ! ホントだっ! どうしてここに人がいるのっ!?」
こっちも聞いたことのある声だ。二つの声を、つい最近、確かに聞いたはずだった。しかしどこで聞いたのかを思い出せない。男のような声と、男の子のような声。
手に持っていた無線機の重さを思い出す。峡の中ですべてが一直線に繋がる。間違いない。つい最近、なんてものじゃない。この青虫と赤虫の声は、数分前に無線機から聞こえた、あの声に違いなかった。
何もかもが一瞬で理解できた峡の目の前で、唐突にどこからともなく「ピピッ」と電子音が響いた。瞬間、それまで驚いていたはずの青虫の気配が一瞬で変わる。
「クソッ、んなことで驚いてる暇あねえぞ! 準備だ!」
その声で赤虫が我に返って峡から視線を外して前を向き直り、青虫の体がいきなりこちらに向けられた。
有無を言わさぬ口調だった。
「動くなよ人間のガキ! 動いたら死ぬぞ!」
返事をする前に青虫の口ががばりと開き、何もかも簡単に貫いてしまうような鋭い牙の連が峡に真っ直ぐに向けられる。このまま噛み殺されるのかもしれないと思った刹那、青虫の口の奥から何かが飛び出してきた。それは目にも止まらぬ速さで峡に到達し、体を力任せにがっちりと固定した。それが銀色の鉄の輪だと気づくまでにかなりの時間が必要だった。腕も巻きこまれているため身動きが全くできず、助けを求めるように青虫を見るとすでにこちらを向いておらず、赤虫同様に前を見据えてじっとしている。
唐突に怒りが沸き上がる。理由も知らないのになぜ拘束などされなければならないのか。何か自分が悪いことでもしたと言うのだろうか。そもそもお前たちは一体なんだ? 怒りが限界に達し、叫んででもこちらを振り向かせようとすると、鉄の輪から小さな筒が出現し、不思議に思ってそれを見ていると、急にガスコンロを点けるときのように「チッチッチッ」と乾いた音が鳴り響き、
峡が見ているそこで、いきなり火を噴いた。胸にとんでもない圧迫感が押し寄せてきて、気づいたらすでに足は地面に着いてはおらず、高速で後ろに飛ばされていた。声が出ない、視界が極端に狭くなる、よくわからないその光景の中で二機の虫を確認するがすでに米粒サイズだった。
そして火を噴いたのと同じくらい唐突に筒が沈黙した。飛ばされる力が無くなった峡の体は地面に叩き付けられて転がり、やがて静止しても拘束されているので立つこともできない。どうやら顔を強打したらしく口の中に鉄の味がする。すべてが終ったとき、峡は地面にうつ伏せに転がりながら、頬についた砂を払うこともできずに放置されている。一度は忘れた怒りが沸点を超える。待てコラ虫、と心の中で叫ぶ。どうして自分がいきなり拘束され、挙げ句の果てにはロケットみたいに吹っ飛ばされなければならないのか。
力一杯の罵声を遠くに見える虫に向かって浴びせようとして、峡は喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
女の子、だと思う。
遠くに見える虫の真上から、今度は女の子らしき人影が落下して来る。長い髪を宙に舞わせながら信じられない速度で虫と同様に空から降って来ていた。あの速度で地面に落ちれば骨折では済まない。下手をしなくても死ぬだろう。自分でもわからない叫びを上げようとしたときにはすでに、女の子は地面に激突するか否かだった。
そして峡は我が目を疑う。女の子は、青虫と赤虫の間に落下し、世界の法則クソ食らえで重力を一瞬で殺し、ふわりと着地する。腰まである長い髪が揺れるのが峡の目に焼き付く。
その声は、離れた場所にいた峡の耳に、風に乗って届いた。
「サファイア、ルビー、準備はいい?」
青虫が、
「任せろ、いつでも行けるぜっ!」
赤虫が、
「そっちこそ準備できてる?」
女の子が微笑む、
「もちろん。それじゃあ行くよ!」
「「了解!」」
青虫と赤虫の声が重なる。
そして女の子は両腕を上げ、右腕を青虫に、左腕を赤虫の戦艦のような体に叩き込むように押し当てる。ガチャリと機械的な音が響き、その手が引き抜かれたときにはすでに、それは装着されていた。白いスケルトンカラーの、人の腕の形をした何かだった。その腕は女の子と完全に同化していて、下に垂らすと地面に着くほど長かった。
一瞬だった。その手のようなものが地面を弾くと同時に、落ちて来たときのように女の子の体がとんでもない速度で空に舞い上がる。
その姿を目で追って、峡はやっと『それ』に気づいた。空に、『何か』があった。オレンジ色の塊だ。一見すればそう見えた。ただ、『それ』は二機の虫然り、女の子然り、空から降って来ていた。しかしその大きさは桁違いだった。今は遠くに見えるから小さく思えるが、間近で見れば見上げるような大きさに違いない。
――隕石。その考えが漠然と浮かんだ。
空に舞い上がったのにも関わらず、その女の子の声は不思議なほど鮮明に聞き取れた。
子供に言い聞かせるような、優しい口調。
「お願い。動いてね、ダイヤ」
空中で女の子が腕を振り上げる。上昇を続けるその中で長い腕を交差させ、手を重ね合わせる。その先には隕石がある。一目瞭然だった。女の子の腕の狙いは、隕石を真っ直ぐに捕らえている。まさか、と思う。冗談交じりなその予想は的中する。
一瞬で大気を切り裂いた。女の子の腕から、いや、手から何かが放たれた。目でも負えないスピードで空間を駆け抜けるそれは一線の光の柱。視界が白と黒だけで構成され、スローモーションのように時間が流れる。しかしその中にあってもなお、光の柱だけは速かった。
光が激しくなったと思ったときには視界が完全に奪われ、轟音が音を掻き消して爆風が巻き起こる。それに煽られて峡の体が飛ばされる。どこに飛ばされているのか、どっちが天でどっちが地かさえもわからない滅茶苦茶な状態だった。
意識が薄れて行くその中で、峡は空を見上げる。
オレンジの落下物、隕石と思われるものは、いつの間にかなくなっていた。
◎
意識は何とも言えない微妙な狭間を彷徨っていた。訳のわからない夢を何度も見たような気もするし、濁った空を見上げていたような気もしないでもない、お花畑を一人で笑いながら走っていたのは夢か現か。
脳みそがようやく活動し始めたのは、それから何分後だったのかはわからない。ただ自分は仰向けで地面に転がっていて、体の動きは依然として拘束されているということだけはわかった。腕に力を込めてみるが中途半端な力では絶対に壊れないことはすぐに感じ取れたので潔く諦める。
頬に付いた茶色い砂がなぜか無性に気になって、息を吹きかけて必死に落とそうと悪戦苦闘していると、どこからともなく声が漂っていた。息を吹くの止め、ぼんやりと視界を彷徨わせる。ここで初めて空から小さな砂のようなものが小雨のように降って来ていることに気づいた。
そして彷徨っていた峡の視線が、天地が逆さまになった大地に一人の少女と虫のような二機を発見した。会話は、彼女たちのものだと思う。
青虫は起用に首を回し、悪態をつく。
「ったく、こんなくらいならおれらが出る幕じゃねえだろうに。シンカイのヤロウ、いい加減ぶっ殺してやろうか」
女の子は苦笑して青虫の体に撫でるようにゆっくりと触れる。
「そんなこと言わないの。わたしたちだけで済むんならそれに越したことはないんだから」
「そうだよ。下手に犠牲なんか出されたらそれこそ大損だ」
赤虫が同意し、それでも青虫は不貞腐れているようにつぶやく。
「そうだけどよお。それでもな、これ以上お前が引っ張り出されてこんなことばっかりさせられてちゃ、終いにはぶっ倒れるだろうが」
「あ、心配してくれてるの? ありがと」
「ばっ、ちげえよっ! 勘違いすんなっ!」
「照れなくてもいいだろ。いつも影じゃちゃんと気にかけてるくせに」
「え、そうなの? なんだ、やっぱり優しいとこあるじゃん」
「うるせえぞテメえら! 次何か言いやがったらぶっ殺すぞっ!」
「はいはい、怒らない怒らない」と女の子が青虫を落ち着かせ、それから辺りを見渡して長い髪を腕でそっと払う。
「さて、帰りましょうか。わたし、シャワー浴びたいんだけど」
「そうだね。もうここにいる必要もないし、早く帰った方がいい」
「帰るんならとっとと帰るぞ。気分悪い」
だから怒らないの。そうだよ子供だなあ。うるせえぞテメえらっ! などと言い合いながら、一人と二機はゆっくりと歩き出す。
それをぼんやりと見ていた峡は、やっと事の重大さを理解した。今もまだ峡の体は拘束されたままである。これを外せるのはおそらく元凶である青虫だけ。つまり、今ここで青虫に置き去りにされてしまうととんでもないことになる。ここは出入りが禁止されているシェルターの外の世界、誰もいるはずのない大地なのだ。そんなところに拘束されたまま置いてきぼりを食らえばまず間違いなく飢えて死ぬだろう。こんな意味不明な展開と理不尽な拘束で死んでたまるか、と峡は思う。
しかし立ち上がろうにも体の自由はまったくなく、早くしないと行ってしまうという焦りが軽いパニックを引き起こす。芋虫のようにくねくねとその場で体を捻っていた峡だが、ふと気づいた。別に立ち上がらなくても、声を上げればいいだけのことではないのか。からからに乾いている喉から声を出そうとするとズキリと痛んだが構っている暇はない。
峡は腹の底から限界まで声を振り絞った。
「青虫ぃっ!! ちょっと待てコラあっ!!」
荒野にそんな情けない悲鳴が上がると、歩いていた一人と二機の足が止まる。最初に振り返ったのは女の子で、辺りを不思議そうにきょろきょろと見まわす。しかし一向に仰向けになった峡の姿を発見できなくて、何とも言えない表情で首を傾げて「空耳?」とつぶやく。
ここで引いたら本気で死んでしまう、と脳みそが警告を発する。今にも歩き出しそうな女の子に向け、もう一度声を張り上げる。
「ここだ!! ここにいるっ!!」
どこからか小さく「ヤベッ」と言う声と「忘れてた」と言う声が聞こえた。やべえってお前が元凶だろう、忘れて死んだら化けて出てやるぞコラ。そう内心で叫ぶ峡に賛成したかのように女の子が青虫と赤虫に「どういうこと!?」と詰め寄る。
しかし焦ったように二機は急いで女の子から視線は外して知らん顔を決め込む。それに食ってかかろうとした女の子だが、急に我に返って慌てて辺りを見まわす。
やがてその視線は、大地の上に無様この上ない格好で転がっている峡を見つけ出す。その状況を、女の子はすぐに理解した。何よりもまず最初に、女の子は手を振り上げ、すぐそこにいた青虫の脳天をぶっ叩いた。
青虫がキッと鋭い視線を女の子にぶつける。
「ってーな何しやがるっ!」
だが女の子はそれ以上に恐かった。
「あんたまたやったでしょ!? どうしてあんなことするのよ!? 無関係な人を巻き込んじゃダメだってあれほど、」
「いいからこれ外してくれっ!!」
このまま放っておいたらいつまでも拘束されていそうな気がしたので、峡は必死に悲鳴にも似た叫び声を上げる。
それを聞いた女の子はまた我に返り、二機を置き去りにこっちに走って来た。その後から渋々という感じで二機が近づいて来る。
なぜか青虫は本気で不機嫌そうだが、それはこっちの立場だ、と峡は思う。
まず、赤虫の言い訳はこうだった。
「ぼくは何も知らなかった。サファイアが何か言ってたのはわかってたけど、まだ準備できてなかったからそっちに専念したから全然気づかなかった。人がいたなんて驚きだ、初めて知った。それにしてもサファイアは酷いね。無関係な人をいきなり拘束してそのまま忘れてるなんて。ぼくには可哀想でできっこない芸当だよ」
その言い訳に青虫は反論する。
「テメ、ルビーこのヤロウ! お前もこの人間のガキがいること知ってたじゃねえか! おれが教えたら驚いていただろうが! それでお前が何もしないからおれが仕方なくこのガキを守ってやったっていうのに、何だお前それを、」
そして女の子は二機の頭を思いっきり殴り、こう言う。
「どっちも同罪!」
やっと体が自由になった。案の定あの鉄の輪は青虫にしか外せないらしく、青虫の口から出て来た変なコードらしきものを刺し込んんで数秒、カチリという音が響いてやっと外れて開放された。峡は立ち上がって腕を軽く回してみたりして自由になった喜びを噛み締めている。
それが一通り終ってから、峡は一人と二機を改めて見つめた。とにかく変わった連中だった。見えれば見るほどおかしい。二機の虫は先ほどと何の変化もなしで相変わらず変な形をしているのだが、不思議なのは女の子だった。年は峡と同じくらいのような気がするのだが、綺麗に整った童顔のようなその顔立ちが年下かもしれないと思わせ、しかし腰まである長い髪と服装が年上っぽく感じさせる。女の子の服は水着のようにぴったりと密着する白い素材で出来ていて、それがウエットスーツのように全身に広がり、裸体のシルエットそのままを浮かび上がらせている。それが年上かもしれないと思わせる原因だった。あの光を打ち出した腕らしきものは、すでに女の子の手にはなかった。
だがそんなことより、今はもっと確実な情報が欲しかった。自分の自己紹介などこの場面では無意味に思えたので、取り敢えず、
「君は……?」と訊いてみる。年上かもしれない、という思いがあっていきなり「お前は誰だ?」とは訊けなかった。
女の子は二機の虫から視線を外し、峡を見てゆっくりと微笑んだ。彼女は綺麗な瞳を持っていた。透き通るような、どうしたらこんな瞳になるんだ、と思うくらい本当に綺麗な瞳だった。彼女は微笑んだまま、峡に向かって簡単な自己紹介をする。
「わたしはルナ。こっちの赤いのがルビー。それでこのバカでアホでマヌケで失礼で礼儀が足りない青いのがサファイア」
青虫、もといサファイアが女の子、もといルナを睨むが、そのいろいろな感情は詰まった微笑を見て慌てて視線を外す。
そして峡がもう一度質問をしようとするより早くに女の子は笑みを打ち消し、真剣な表情で言った。
「それで、君はどうしてこんな所にいるの? シェルターじゃ今、避難警報出てるはずだけど?」
責めるでもなく、怒るでもなく、ただその答えが純粋に聞きたい、というような口調だった。
どうしようか一瞬だけ悩む。が、どの道ここで嘘を並べ立てても無駄な抵抗にしかならないだろうと思う。本当のことを一から十までしっかりと説明しなければどうなるかわかったものではない。敵意はないようだが、ルナの後ろには二機の武装した虫がいるのだ。下手したら殺されかねない。それは困る。だから正直に言おう。
そう考えて口を開きかけ、そして峡は思い出した。無線機を手に持っていない。あれがなければ説明もクソもない。もしかしたら信じてもらえない可能性だってある。あれがないと始まらないのだ。峡はどこかに吹き飛ばされたらしい無線機を探し始める。
辺りを見まわしてた峡に気づいた赤虫、もといルビーはふとそれを発見する。口をそっと開け、地面に落ちているそれを起用に銜えて峡に向け、
「もしかしてこれ探してる?」
その声に導かれるようにルビーを見た峡は、その口に銜えられた無線機を見つけた。ああそうそうそれそれありがとう、とつぶやきながら無線機を受け取ろうとすると、その手より一歩早くにルナの手が伸びて来て、ルビーの口にある無線機を引っ手繰った。
「お、おい?」
なぜか無線機を食い入るように見つめるルナにそんな声を出してみるが、気づかないのかルナはじっと無線機を見つめ続けている。やがてその顔が唐突に上がり、驚いた表情をするルナの視線と真っ向からぶつかった。
「これ、どうしたの?」
意味がすぐには飲み込めなかった。やがてその意味を理解して、何となく思う。やはり、これは珍しいものなのだろう。何せ百年も前の産物だ。原形を留めているだけでも貴重なのだろう。それにルナたちから見れば、峡は間違いなく異端者なのだ。おそらく、推測でいけばルナたちはここで何かをするために来て、そこに予想外の峡というおまけが付いていた。加えて無線機などどいう古臭い物を持っているのだ。興味も湧くのだろう。
しかし訊ねたルナには異様な迫力があり、それに気圧されつつも峡は訊ね返す。
「どうした、って……?」
ルナは言葉を変え、もう一度問う。
「この無線機をどうして君が持ってるの?」
「どうしてって、」
気づいたらそのままを述べていた。
「両親の形見なんだ、その無線機」
――え?、とルナの表情が固まる。
どうしたのかと思ったのだが、取り敢えず説明しなければならないのだろう。峡は今現在に至るまでの簡単な状況を説明をした。無線機を傍らに置いて昼寝をしようとしていたらサイレンが鳴ったこと、避難しようと思ったら無線機からルビーとサファイアの声が聞こえたこと、興味が出てシェルターを抜け出したらいきなりサファイアに拘束され、そしてこんなことになっている、というのを大雑把に話す。最後に「その無線機がどうかしたのか?」と付け加ええる。
すると女の子は苦笑ながら慌てて首を振った。
「ううん、なんでもいよ。あ、ごめんね勝手に」
無線機を峡に手渡し、
「でもね、ここは危ないよ。そろそろシェルターも落ち着く頃だと思うから戻った方がいいね」
それもそうなのだろう。だがしかし、峡にはそれ以上に重大なことがある。
このルナと名乗る女の子は、二機の虫のような機体は、そして空から降って来たあの隕石のようなものは一体何だったのか。こっちの状況説明をしたのだからそれくらいは聞いてもバチは当たるまい。それ以前にこちらは完全なる被害者であるのだから、それくらいは聞く権利があるはずだった。下手したら死んでいた訳だし。
無線機を片手に、峡はその質問をぶつける。
「あのさ、君たちは一体何なんだ? どうしてこの大地にいる? もしかして君とその後ろの虫は、」
「黙れ。テメえには関係ない」
いきなりサファイアの研ぎ澄まされた眼光が向けられて言葉を遮られる。サファイアには、なぜか明確な怒りと拒絶の色があった。たったそれだけのことで峡は何も言えなくなり、身動き一つできなかった。サファイアと圧倒的不利な状況で対峙する。
そこへルナが慌てて峡に言葉をかける、
「こらサファイア、そんな言い方しないのっ。ご、ごめんね、口は悪いけど悪い子じゃないんだ、ホント」
そこまで言ったルナは、すっと体の動きを止めて峡を真っ直ぐに見据える。
先ほどまでの態度とは一変して、ルナは真剣に「でもね、」と続けた。その口調は、どこか悲しげだった。
「これだけは言わせて。君は、【こっちの世界】に足を踏み入れちゃダメ。もとの、シェルターに戻ってそこで暮らしなさい。そこが君の生きる【世界】なんだから。ここでわたしたちに会ったこも見たことも体験したことも全部忘れて。誰にも言わないで、お願い」
泣きそうなルナの瞳に何も言えなくなる。
荒野に生温い風が吹き通り、それに乗って何かの排気音が聞こえた。ゆっくりとその音の出所を探ろうと視線を外した刹那、峡はルビーの姿がどこにもないことに気づく。後ろに何かの気配を感じたときにはすでにとんでもない睡魔が峡を襲っていた。
力が抜けてその場に膝を着く。何も考えられない。狭くなって行く視界の中で、「ごめんね」とつぶやくルナの声が聞こえたように思う。薄れて行くルナに向かって必死に手を伸ばすがそれは届くことがなかった。
待ってくれ。まだ聞きたいことはある。こんなとこで気を失ってたまるか。
そして、峡の意識は完全に落ちた。
身動き一つせずに横たわる峡を見据え、ルナがつぶやく。
「ごめんね……。……ありがとう、ルビー」
峡の後ろにいたルビーは無感情で答えた。
「いいよ。もう慣れてるから」
「……シェルターまで運んであげよう……」
その提案にはサファイアが反対する。
「ルナ。お前は甘過ぎる。それはおれたちの仕事じゃあない。いいか、よく考えろ。おれたちがシェルターのヤツらにでも見つかったらどうなるか。そうなったら、」
ルナの瞳から一筋の涙が流れた。それを拭うこともせず、ルナは嗚咽を押し殺して震えた声を絞り出す。
「ごめん、サファイア……。でも、でもね……」
「あ、お、おいっ、泣くな、泣くなって!」
慌ててルナを泣き止ませようとするサファイアに、またやったよ、とルビーはため息を吐き出す。
「あーあ、泣かせちゃった。ルナも辛いんだよ?」
「うるせえなわかってるっつーのっ! ……っつーあもうっ、わーったよ、運べばいいんだろう、運べば。クソッ、なんでこんなことになるんだ……」
ルナがやっと涙を拭い、サファイアに微笑む。
「……うん……ありがとう……」
「早くした方がいいね。もうすぐ来るよ」
遠くから聞こえる排気音を聞きながらルビーがそう言うと、サファイアは面倒臭そうに一歩その足を前に踏み出す。
「ったく、しゃあねえなあ。感謝しろよ、ガキ」
峡の体が持ち上げられる。
会話のすべては、もはや峡には聞こえていなかった。
一人と二機は、峡の体と共に一瞬で地面を抉りながら濁った空に舞い上がった。
遠くから、少しずつ排気音が近づいて来ていた。
「日常から非日常へ」
アカデミーという建物は、シェルターの中に三つある。他のシェルターがどうだか知らないので少ないのか多いのかはよくわからないが、とにかく三つだ。このシェルターに住む者なら誰しも七歳になったら一番近くのアカデミーに入学して、それから十一年を過ごして十八歳になったら卒業、というのが一般常識である。学年ごとにクラスが六つあり、その中に三十五人を無理矢理突っ込んだ形となっている。教室は毎年変わるのだが、窓から見える景色が対して変わり映えしないというのが一番の汚点だった。
「あ〜え〜ええっと……ああ、そうだここからだったな」
本日最後の授業を受け持つ独身で三十四歳のコマメという中年教師はそうやって一人で納得して教本をそのまま読み始まる。
アカデミーで十年を過ごして来て何百回、何千回と聞いたことのある「シェルターとは素晴らしいものである云々」を右の耳から入れて左の耳から出して行く。もはや聞かなくても話の内容はわかりきっているし暗記しているため聞く必要はなかった。他の生徒も同じことを思っているらしく、コマメの話など誰一人聞かずに隣の席の者と話していたり机にその身を預けて眠りこけていたりしている。
そんな光景を窓際の一番後ろ席から見つめていた峡は、何だかとても面倒な気分になって視線を窓の外へと逃がした。窓からは変わり映えしない光景が見えて、その中には活気づいているシェルター内の町がいつも通りにあった。誰もが誰もそうしていることが当たり前であると疑わない。なぜ気づかないのか。どうして変だと思わないのか。なぜ特殊ガラス越しに見えるあの大地に踏み出そうとしないのか。しかしそんなことを面と向かって言ってみても正気を疑われるか白い目で見られるかのどちらかで、下手したら治安部隊に通報される恐れもある。そもそも峡が今もこうしてのんきに授業を受けていること自体異常なのだ。他の連中から言わせれば「じゃあなんでお前はこんなとこでこんなことしてんだよ? 行くなら外の世界に行けよ裏切り者」になる。結局、アカデミーを卒業するまでは【この世界】に留まっているより他に道はないのだった。
そんなことを憂鬱気味に考えていると、前の席に座っている友達のミナミ・慎治(しんじ)が振り返った。その表情にはアリアリと「退屈だ」と書かれている。現に慎治が言った言葉はそれと似たようなものだった。
「死ぬほど暇だ。コマメのおっちゃんさ、普通にしてればいい先生なんだけどああやって教本読み始めると止まらないのが一番の欠点だよな」
峡はまだ憂鬱な気分を引っ張ったまま、ぼんやりと「そうだな」と返す。いい加減な返事が気に障ったのか、慎治は身を乗り出して怒ったような表情で峡の額を小突く。
「オラ若造、何ブルーになってんだ? またお得意の妄想か?」
妄想とは失礼な。立派な思案である。……いや、それも少し違うかな……? だがしかし妄想ではない。何か誤解を招く発言である。証拠に隣の席の女子生徒に何だか冷たい目で見られた。
「やかましい。お前みたいな万年発情男と一緒にすんな」
「うわ、ヒッデー。心配してやった友に発情男って、ねえミタさん、酷いと思わない?」
さっき冷たい目で見てきた隣の席の女子に尋ねてみるが、キラリと光る銀縁眼鏡に手を添えて軽蔑の眼差しを慎治に向けくるだけで何も言わない。しかしそれは如何にも「勉強の邪魔だ話しかけるなボケナス」という仕草だった。ガリ勉相手にその手のネタはタブーだアホ、と峡は思いながら視線を窓の外へ向ける。前では慎治がまだ何事かをもそもそとつぶやいており、その度に銀縁眼鏡に睨まれている。
そして峡は、ふと気づく。目の前の光景が、なぜか酷く歪んで見えた。目が悪くなったとかそういう問題ではない。ただ、当たり前であるはずの光景が、なぜか不自然に思えてしまったのだ。ああ、またきた、と峡はこめかみを押さえながら首を振る。その仕草に慎治が「妄想の中で殴られたのか?」と訊ね、峡は軽くシカトする。こういう現象が、最近ではよく起こるようになっていた。日常が日常に見えない。当たり前が当たり前に見えない。自分の意思ではどうしようもない現象。原因はわかっている。簡単だ。あのときから、これは起こるようになったのだから。
脳裏には今も焼き付いている。まるで戦艦から足が生えてきたかのような青虫と赤虫。舞う綺麗な長い髪を持った女の子。あれが現実離れし過ぎていたが故、感覚が狂ってしまったのかもしれない。刺激、と言えるのかどうかはわからないが、それが欲求にも似た何かを呼び覚ましてしまったのだ。もう一度会いたい、と峡は思う。
しかしあれから一週間が経過した最近では、あれは夢だったのではないか、と思うようになっていた。確かにサイレンを聞いたし、実際に鳴っていたのだと次の日に知った。そして無線機から流れたノイズも声も鮮明に思い出せることからあれは現実だったはずだ。治安部隊から逃げたのもそうだし、暗号キーを破ってシェルターの外に出たのも事実のはず。青虫と赤虫に遭遇したのも拘束されたのだって、女の子と会話をしたのも本当にあった出来事のはずだ。なのに、なぜか矛盾点が幾つもあった。
一つが、なぜあれほどまで簡単に峡は外に出ることができたのか。普通は治安部隊が警備しているから暗号キーを知っていたとしても出るのは不可能のはずだ。だが警報で出払っていたから、という理由で納得できなくもない。次に問題にすべきは青虫と赤虫、そして女の子の存在。誰もいないはずの大地にいて、しかも空か降って来た。あり得ない現象ではある。この目で見たとは言え、あれが現実だったのかはよくわからないというのが本音だった。そして一番の疑問点が、自分は気を失って倒れ、目覚めたときにはシェルター内にある公園の芝生の上に寝転がっていたことだった。それがあれは夢だったのだと思い知らせるには十分過ぎる効力を持っていた。
あれから峡はただの一度も外には出ていないが、自分が本当に外に出たのかさえ最近では怪しくなっていた。夢だった、と結論をまとめればなぜかすっきりするような気がしてならない。本当はただ眠っていただけではないのか。現実離れし過ぎていた記憶は、そうやって段々と薄れて行き始めていた。
だがそれでも、サファイアは、ルビーは、そしてルナは、この世にいたのだと、自分は外の世界に出て彼女たちに出会ったのだと、信じたかった。
彼女の存在を、忘れたくはなかった。
気づいたら、形を成さない言葉が無意識に口からあふれていた。
「なあ慎治。お前、外って行ったことあるか?」
まだつぶやいては睨まれていた慎治は、いきなりのその質問に素っとん狂に「はあ?」と顔を顰めた。それからすぐに真剣な表情になって峡にしか聞こえない声で言う。
「ねえに決まってるだろ。お前さ、いい加減にしとけよ。おれだから別に何とも思わないがな、ミタさんにでも言ったらお前、『お国のために貴様のお命頂戴っ、キェエエェエェィイッ!』とか言って本当に豚箱にぶち込まれるぞ」
それはミタさんに失礼だろ、と思っていると、突然慎治はハッとして先ほど以上に真剣に峡を見据え、さらに声を潜めて言った。
「お前まさか、あの日本当に外に行ったんじゃねえだろうな? マジにやばいぜ? あのときはおれが誤魔化してやったからいいけどよ、二度は通用しないからな」
「――ああ……。わかってる、感謝してる」
慎治が言う「あの日」とは、一週間前の第一次避難警報が発せられて峡が外に出てルナと出会った日のことである。本当に外に出たのかどうかはさておき、結局峡は地下空洞には避難しなかったのだ。普通ならそこで問題が起きたのだろうが、どうせ例の場所で昼寝して寝過ごしたのだろう気を利かせてくれた慎治が巧妙な手段で人名確認を誤魔化してくれたのだ。次の日にアカデミーでめちゃくちゃ怒られたが、本当のことを話したら呆れられた。だからそれとなく言い訳を作ってみた。結論をまとめると、慎治はあの日、峡はただ純粋に寝過ごしただけだと思っている。峡自身も最近ではそう思うようになってしまったのだが。
何とも言えない沈黙が峡と慎治を包み込み、二人の耳にはコマメの話が永遠と流れ込んでくる。先にその沈黙に耐え切れなくなったのは慎治だった。「ずはあー」とため息を吐き出し、それからすぐに苦笑していつも通りの台詞を吐く。
「あのよ、今日の放課後どっか遊びに行かねえ?」
しかしすぐに、「って、無理か。またあの公園で昼寝すんだろ。ああいいよいいよ、わかってるから」と付け足す。
峡は一瞬だけ考え、それを口にした。
「いいよ、遊びに行くか」
「わかってるって、みなまで言う――は? 今なんて?」
信じられないものを見るように、慎治は峡を見つめる。それに苦笑しつつ、もう一度同じ言葉を告げる。
「だから遊びに行くかって」
慎治の手が伸びて来て峡の額に触れる。
「……熱はねえみたいだな。何だ、何が目的だ? 言ってみろ、金はないが相談になら乗る」
慎治の手を振り払う。
「アホ。遊ぶのに目的もクソもないだろ」
「そうだが……どうしてまた?」
「……なんとなく、だな」
慎治はまだ峡を不思議そうに見つめる。
しかし慎治がそう思うのは仕方が無いのである。実際、休日ならまだしも、平日のアカデミーがある日に峡が遊びの誘いに乗るなど奇跡に近いのだ。七年前からの日課。シェルターの端にある公園に行って無線機を傍らに置いての昼寝。それを崩す気はなかった。それを慎治も知っているからこそ、今日も断るのだと思っていたのだろう。峡にしてみても、なぜ自分が遊びの誘いに乗ったのかを、よくわからないでいた。
漠然と思うのなら、そう。切っ掛けが欲しかったのかもしれない。一週間前のあの日、日常が非日常に崩れたように、日常を自分の力で非日常にしてみたかったのかもしれない。それで、もしかしたらこのどうしようもない感覚が少しでも治まるかもしれないと思った。無駄かもしれない。だけど、行動に移さないと何も変わらない。あのとき、暗号キーを破ったように、日常から少し出てみよう。もっと知らない【世界】を、知ってみよう。
考える峡を見つめていた慎治が、突然に唸る。
「むう。本当に乗ってくるとは思ってもみなかったからどこに行くとかまったく考えてねえ。お前さ、どっか行きたい所ある?」
「いや、別に。慎治に任せるよ」
「そういうのが一番困るんだけどな」
参った参った、と苦笑しながら、慎治はどこに行くべきが考え始める。
そんな慎治を見ながら、峡は思う。忘れよう、と。今はまだそのときではない。信じる信じないではないのだ。今は、忘れよう。
サファイア、ルビー、そしてルナ。彼女たちのことは、今は忘れていよう。
そうして、峡は窓の外へ視線を逃がす。そこには相変わらずに、活気づいているシェルターの町並みがあった。
トナミ堂という本屋は、峡が通うアカデミーから自転車で十五分ほど行った所にある。
シェルター内部に本屋がある、というのは案外珍しいことだった。そもそも他のシェルターとの流通が広まっていない【この世界】では本が入荷しないのだ。だから本屋を経営しようと思う人は少なく、よってシェルター内にそれがあるのは珍しいのである。しかしそれでも何かしらの裏ルートを使ってどこぞのシェルターから密かに入荷させるというコネを持っている人物が経営する、というのが一般には知られていない本屋の裏の顔だった。そしてこのシェルター内でそれを行える人物はただ一人、この本屋の店主であるトナミ・哲郎だ。治安部隊の目を盗み、危ない橋を何度も渡りながら本屋を経営し続けている。その甲斐あってか、本屋には常時人の姿があり、閑古鳥が鳴くことはない。
そしてそんな裏の世界なんて知るはずもない峡と慎治は、何の抵抗もなくトナミ堂に足を踏み入れたのだった。どうして本屋に来ることになったのかと言えば、事の始まりは結局どこに行くのかを決めれずに慎治が悩んでいたところ、銀縁眼鏡のミタさんがぼそりと「参考書買わなくちゃ」と漏らしたことだった。「あ、なるほど、それがあった。おし峡、暇潰しに本屋に立ち読みしに行こうぜ」と慎治が提案し、行く当てもなかったので峡はそれに従った。銀縁眼鏡が怪訝な顔をしていたのは言うまでもない。
久しぶりに訪れる本屋に、どこに何が置いてあるのかをすぐには思い出せなかった。そんな峡の横を、慎治がすいすいと歩いて行く。取り敢えずそれに付いて行ってみる。と、慎治が訪れたのは漫画の本が並べられている棚の、『新刊入荷』と札がある場所だった。そこと睨めっこすること数秒、慎治は「クソッ」と舌打ちをする。
「どうした?」と峡が訊ねると、慎治は忌々しげに顔を顰める。
「いやよ、この本あるじゃん?」
慎治が指差したのは何かグロイ絵が表紙の漫画だった。どうやらシリーズモノらしく、それには『三巻』と書いてある。
「これがどうしたんだ? 買うのか?」
「違げえよ。もう持ってんだよ、その巻は。てゆーか、噂だと違うシェルターじゃもうすでに八巻まで出てるらしいんだよ。いつになったら入荷しやがるんだ。新刊入荷って、もう三ヶ月も前からここに置いてあるじゃねえか」
本屋の事情などまったく知らない峡は、取り敢えず「まあそんなモンなんじゃねえの?」と慎治の肩を叩く。すると慎治は「もういい、おし、あそこに行くか」と一人で納得して一人で歩き出す。それにまた付いて行くこと三十秒、峡は足を止めた。慎治が振り返り、「どうした? 読まねえの?」と実に不思議そうに首を傾げる。
慎治が一人で真面目に読んでいるもの。どうということはない、ただのエロ本だった。
峡は歩き出し、慎治の首根っこを引っ掴んで引き摺る。
「お、おい何すんだ離せバカ」
「バカはお前だこのバカ。どこのシェルターにアカデミーの制服着たままエロ本読むバカがいる」
まだ手に持っていたエロ本を掲げ、慎治は言い切る。
「ここにいる。数多くあるシェルターにも、アカデミーの制服着たままエロ本読むヤツはおれしかいねえだろう」
「威張るな万年発情男」
慎治の手からエロ本を引っ手繰り、棚に投げ付ける。
「あーテメっ、コラ峡っ! 丁重に扱えっ! この世代にエロ本は宝のようなものなんだぞ!?」
「知るか」
「わからず屋めっ! いいさ、おれ一人で見てやるっ!」
「あ、慎治待――」
すべての時間が止まったかのように錯覚があった。
そのとき、このトナミ堂の店主であるトナミ・哲郎はレジの下で密かに次の入荷はいつ頃にしようかとメモに作戦を書き込んでおり、参考書売り場には銀縁眼鏡をキラリと光らせて参考書を物色するミタの姿があって、ある男はポケットに漫画の本を突っ込もうとしていて、慎治は投げ飛ばされたエロ本に手を伸ばそうとして、峡はそんな慎治を止めようとしていた。
全員が全員、その音に耳を傾けている。いや、聞いているのだが別に気にも止めていないような感じだ。シェルター内に、大音量のサイレンが鳴り響いている。
第一次避難警報だった。
トナミ・哲郎は何事かをつぶやきながらメモをレジの上に置いて立ち上がり、ミタは銀縁眼鏡を外し一瞬で金縁眼鏡を掛け直してぼやぼやしている周りの人間に早く避難しろクズ共と喚き出し、男は漫画をポケットに突っ込んで何食わぬ顔で店を出て行き、慎治は「何だよ、またかよ」と愚痴を漏らしてエロ本を諦め、
そして峡は一人、思考の泥沼の中にいた。体が麻痺したかのように動かない。なぜか体が震え出す。正体不明の何かが体の奥底から湧き出て来て、気を緩めればすぐにでも走り出しそうな衝動に駆られる。脳裏には今も焼き付いているのだ。忘れようと思っても忘れられない光景。そして、本心では決して忘れたくはないと願う二機の機体と一人の女の子の姿。日常をぶち壊し、非日常に走り出そうとしている自分がいる。もう一度、暗号キーを破って、自分が将来必ず降り立つ大地を踏み締めようとしている。
思考の泥沼から引っ張り出してくれたのは、トナミ・哲郎だった。
「お客さん、出てくれないかな? 避難しなけりゃならないからね」
「……あ。す、すいません」
軽く頭を下げて慎治を連れて店を出る。人波はある一定の場所へ向かって進んでいた。シェルターの中央にある地下空洞。今から峡もそこに行かねばならない。大音量のサイレンが鳴り続ける限り、そうするのがシェルターに住む人々の義務なのだ。だけど、でも――
「あー面倒臭。またあそこに入んのかよ……」
ぶちぶちと文句を嘆く慎治の後ろでは、トナミ・哲郎が実に慣れた動作で店のシャッターを下ろしている。それを終えると肩凝りを解すように腕を振りながら、ゆっくりと人波に任せて歩き出す。
「おれらも行こうぜ。治安部隊の連中に見つかったら面倒だしよ」
歩き出した慎治の背中に、峡は声をかける。
「ごめん。おれ、ちょっと行って来る」
慎治の返事も聞かずに走り出した刹那、
「待てコラ」
腕を掴まれた。振り返ったそこに、不機嫌そうな慎治がいる。
「言ったよな? 二度は通用しないって。それでも行くってのか?」
考えたのは、やはり一瞬だけだった。
「――ああ。行く」
「一つだけ聞かせろ」
「なに?」
慎治は言った。
「――帰って来るんだろうな?」
わからない、わからないが返事は決まっている。
「もちろん」
慎治はため息を吐き出し、峡の腕を離す。それから諦めたように笑った。
「いいよ、行けよ。また何とかして誤魔化してやっから。じゃあな」
「……ありがとう、慎治」
悪戯を思いついた子供のように笑っている慎治にそれだけ言い残して走り出した。
行くべき場所は、決まっている。人の流れに逆らって全力疾走した。もしかしたらダメかもしれない。そのときは潔く諦めて地下空洞へ行こう。でも、もし、もう一度非日常へ足を踏み入れることができたのなら、そのときは――
途中、治安部隊の装甲車を見かけた。発見されない内に裏路地に入って姿を隠す。ゴミが散らばる汚れた道を行く。やがて視界が開けたとき、すでに空は防壁に阻まれていた。それでも峡は止まらない。やがて石段が見えて来て、そこを駆け抜けて緩やかな坂を滑るように直走る。やはりサイレンの音はまったく聞こえない。今更に肩に掛けてあった鞄を思い出し、中から無線機だけを引っ張り出して芝生の上に放り投げる。片手で無線機の電源をOFFからONに切り替える。ノイズは聞こえない。だが望みを捨てるのはまだ早いのだ。
防壁に突き当たると体の向きを右に変えてまだ走る。やがて見えて来る分厚い鉄の扉。肩で息を整えつつも、暗号キーをあの日と同じように入力してぶち破る。ピーと音が鳴り、ロックは外れた。冗談のような展開だ、と峡は思った。こんなに簡単に行くなどとは思ってもみなかった。自分が何か、物語の主人公にでもなったかのような気分だった。
浮かれていたのだと思う。感情が昂ぶっていたのだと思う。
後になって思う。このときに、気づくべきだったんだ、と。
どうして一度ならず二度までもこんなにも容易く外に出れたのかを、もっと深く考えるべきだった。一度目は偶然かもしれない。しかし二度目ともなると偶然とは言い難い。それに、気づくべきだった。
だが昂ぶった感情はそんなことに気づくはずもなく、分厚い扉を押し開け、峡は大地へと再び足を踏み出した。
非日常の始まりだった。
外に出た瞬間、何か布のようなもので口を塞がれた。あのときと同じように、気づいたときにはすでにとんでもない睡魔が訪れていた。無線機の重みが消える、大地に無線機が落ちて無機質な音を立てる、どこからか排気音が聞こえていた。
意識が途絶えて力が抜けた峡の体を支えながら、男は自らの無線機に口を付ける。
「作戦成功、ターゲット補足。今から帰還するから準備よろしくぅ」
無線機が応答する、
『了解しました。お疲れさまです、シンカイさん』
通信が切れた無線機を手に持って、峡を見ながら男はつぶやく。
「すまんな、事情を説明してる暇はねえ。あとでゆっくりと聞かせてやるから、今はそのまま寝てろ」
その瞬間、遥か遠くの空に一線の光の柱が打ち出される。
その光景を見ながら、男は峡の体を背負い踵を返して歩き出す。
排気音が、近づいていた。
◎
父親の名はキシマ・亮。母親の名はキシマ・幸恵(ゆきえ)。
大好きだったはずその両親を顔を、今ではもうはっきりと思い出すことはできない。しかしそれでも、頭に乗せられた父親の大きな掌の感覚と、そっと抱き締めてくれた母親のぬくもりだけは憶えいる。すべてが変わってしまったあの日。記憶の中で埋もれつつある出来事。両親の笑顔を見たのは、あれが最期だった。
醜い罵声を聞いた。そのときは、それが両親に向けられているのだと気づかなかった。どうしてそんな酷いことを言うの、みんな誰にそんなこと言ってるの。そんな程度にしか思っていなかった。薄ら残る記憶が確かなら、そのときの罵声にはこんなのがあったと思う。国を捨ててどこに行くつもりだ、ここを守ろうとは思わないのか、そんな勇気すらお前にはないのか。あの頃の自分に、その正確な意味を理解することはできなかったけど、それでも酷いことを言っているのだということだけはわかった。
見送りは誰もいなかった。自分と両親以外は、そこには誰もいなかった。誰もいない公園から少し行った場所にある、【ここ】と【外の世界】を結ぶ大きな扉の前に、父親と母親は立っていた。当時はただ、この外には絶対に行ってはいけないと言われていただけだった。それなのになぜ父親と母親があっちに行ってしまうのかがわからなくて、ずっと泣いていたような気がする。
父親は泣きじゃくるその頭に手を置き、こう言った。
『お前は強い。だから、しっかりと生き抜け、峡』
母親は泣きじゃくるその体を抱き締め、こう言った。
『愛してるわ、峡。元気でやりないさい。約束よ』
強くなんてない。だから一緒にいて。
元気でやれない。だから一緒にいて。
そんな言葉を、自分はついに言えなかった。父親が押し込む暗号キーを見て、それを読み返せば強くなれるかもしれないと呪文のように繰り返した。重い扉が開いて【向こうの世界】が見えた。両親は最期の最期まで笑っていた、と思う。実際、あのときの両親の表情は今でも思い出せない。いや、そもそもあのときは両親の顔なんて見てなかった。ただ数字を繰り返しつぶやきながら涙を拭って鼻水を啜っていた。
そうして、自分は一人になった。
次に両親の顔を見たのは、三ヶ月後だった。アカデミーで知り合ったばかりの慎治と話しながら授業を受けていたら先生に呼び出された。行ってみると、そこには白い布を被せられて眠っている両親の姿があった。【外の世界】で事故に遭って死んでしまったんだ、と聞かされた。詳しい内容は知らない。当時の自分が聞いてもわからなかっただろうし、たぶん聞いても教えてはくれなかったと思う。
そうして、自分は本当に、一人になった。
それから後のことについては、少々記憶の混乱がある。何をしていたのか、何を思っていたのか。何も憶えていない。どうやって生きていたのかさえ思い出せない。やっと記憶が落ち着いた頃になってようやく、両親が死んで半年過ぎるまではまるで幽霊みたいにぼーっとしていて、何を言っても何をやっても無反応だった、と慎治に聞かされた。この頃からすでに慎治には大いに世話になっていたらしい。
昼寝をするという日課ができたのは、それからすぐだった。
今もそうだが、当時の自分にはもっとよくわからなかったはずだ。両親が唯一残した形見である、へんてこな機械。後にそれが無線機だと知る。それを持って、両親と最期に歩いた公園に来て、昼寝をするようになった。そこにいるときだけはなぜかすべてに救われた気がした。無線機を傍らに置いて昼寝をするのが純粋に心地良かった。そして、それがいつしか日課になり、それは七年経った今でも変わらずに受け継がれている。
もうあの頃のように泣きじゃくることもない。しかし最近では、ものすごく不思議に思うことがある。
なぜ、キシマ・亮とキシマ・幸恵は、【外の世界】に出て行ってしまったのか。なぜ、両親は事故で死んでしまったのか。キシマ・峡がシェルターを捨てて大地に降り立とうと決めた原因がそこにある。自分も両親と同じ道を歩めばわかるかもしれない。知らない両親に近づけるかもしれない。そう思って、シェルターから大地に行こうと決めた。
そしてどこで何を間違えたのかは知らない。知らないが、自分は出会った。
二機の機体と一人の女の子。
いつしか、それが手掛かりになるんじゃないかって、思い始めていた。
ふっと目が覚めたときにはすでに、さっきまで見ていたはずの夢が思い出せなかった。何か夢を見ていたような気がする、と漠然と思うだけで、結局何の夢を見ていたのかはついにわからなかった。
徹夜して三十分だけ仮眠を摂ったときのように、脳みそがまだ半分だけ寝ているような感覚が体を支配していて、このままもう一度寝てしまおうかと考える。しかし起きているもう半分の脳みそが「早く起きろ」と命令を飛ばす。「起きろ」と「寝ろ」の抗争は脳みその中で実に三分も続き、やがて火炎瓶を駆使した「起きろ」部隊が勝利の旗を挙げる。炎に包まれた「寝ろ」部隊は一瞬で覚醒して「起きろ」部隊に吸収された。
そんな夢みたいなことをぼんやりと考えていた峡は、その身をゆっくりと起こした。不意に自分の体に掛けてあった白いタオルケットのようなものに気づき、それをじっと見据えてからこんなの持ってたっけ? と首を傾げる。どっかから引っ張り出して来て無意識に被ったのかもしれないと一人で納得して、ベットから出ようとその足を体をずらし、
峡はやっとそれを理解した。
こんなタオルケット持ってたっけ、とかそんな次元の問題ではないのだ。そもそも、ここは自分の家の、自分の部屋ではない。だから持ってるもクソもないのである。頭が軽い混乱状態に陥った。取り敢えず部屋を見まわしてみる。コンクリートで四角に固められた割と広い部屋だ。ただそれは家具がまったくないのでそう思えるだけかもしれない。峡の視界で確認できる家具は、今現在座っているベットと、部屋の端に置いてある机と椅子だけだった。あとはコンクリートの壁にめり込むように銀色の扉が一枚。それ以外は、窓も無い灰色のコンクリートで固められた本当に無機質な部屋だった。
唐突に寒気を感じる。ここは自分の家でもなければ慎治の家でもない。他に友達の家に泊まったことのない峡にここがどこなのかをわかるはずもなく、どうして自分がこんな所で寝ていたのかがわからなくてなぜか泣きたくなった。正直な話、無性に恐かった。見ず知らずの場所で、たった一人で眠っていたのだ。何をされたのか何をしたのか、まったく憶えていないというのは冗談無しで恐怖心を煽り立てる。
落ち着け、と自分に言い聞かす。落ち着け、落ち着け、落ち着け。深呼吸、深呼吸して目を瞑れ、そして開け。よくわからないリラックス法で何とか平常心を取り戻すことに成功した。ベットの上に胡坐を掻いて座り直し、まず最初の問題を解決しようと思案する。
ここはどこなのか、という答えを出すのにはまず、どうしてここにいるのかを考えなくてはならない。確か今日は、珍しく遊びの誘いに乗って慎治と一緒に本屋に行ったはずだ。そこでエロ本を読むバカを何とか阻止しようとしていると第一次避難警報が響き渡った。考える。そうだ、自分は、慎治に一言だけ残して走り出したのだ。すべてが一直線に繋がり始める。公園を突っ切って暗号キーをあの日と同じようにぶち破り、シェルターの外に出て、いきなり、
頭の中で形ある一つの結論ができあがる。自分は、そこでいきなり口を塞がれ、気を失ったのだ。そして気づいたらここで眠っていた。つまり自分は、簡単に考えるとシェルターの外部にいた何者かに誘拐された、と考えるのが一番妥当ではないのだろうか。しかし誘拐って一体誰が自分なんかを攫うというのだろう。第一峡が気を失ったのはシェルターを出てからだ。と言うことは、その何者かは元から外の大地にいた人物、ということになる。待て、もしかしたら治安部隊の連中だという可能性もある。いや、それが一番可能性が高い。外に出ようとする裏切り者に制裁を与えるべく張っていたのだ。そしてまんまと捕まった愚かなるこの自分は、これからみっちりと拷問のようなことをされて、開放された頃にはミタさんのようなに「お国のために貴様のお命頂戴」とか言うキャラになっているに違いない。
一度は消えかけた恐怖心が一気に再発して、峡はベットから出てここから逃げ出そうとした。
無機質なこの部屋にある銀色の扉が横にスライドしたのは、ちょうどその瞬間だった。峡の動きが凍りつき、もうお終いだと人生を諦めた覚悟とは裏腹に、通路から入って来たのは白衣のようなものを着た二十代後半と思わしき男だった。少しだけ痩せ型で、無精髭を伸ばしていて、頭はボサボサに乱れており、口には火の点いていない曲がった煙草を咥えている。なぜか顔よりも、雰囲気自体がものすごく親父臭い男だった。
男は峡を見ると煙草を咥えた口を歪ませて笑った。
「おーおー目ぇ覚めたか。時間ぴったりだなオイ。気分はどうだ、キシマ・峡」
雰囲気は親父臭いのに、声だけは幼い感じが残っていた。何とも不思議な男だ、と峡は思う。
漠然とした疑問が浮かび上がる。この男は、一体誰なのか。治安部隊ではるまい。どう説明したものか、見た目というか何と言うか、取り敢えずこの男を見てすぐにこの人は治安部隊の連中ではないとわかった。それはたぶん、シェルターに住む者なら誰だってわかると思う。治安部隊には、独特の偉そうな雰囲気があるのだ。それなのにこの男にはそれがない。だからこの男は治安部隊の連中ではないと思った。だが、そうだとするならば、この男は一体誰だ?
そして、ふと気づいたときにはそれを口にしていた。
「……どうして、おれの名前を……?」
まだこちらから名乗ってもいないのに男は峡の名を言った。それは、向こうはこちらのことを知っているということだ。しかし峡はこの男を知らない。一度でも会えば忘れないような雰囲気をこの男は持っていた。だから会っているとしたら憶えているはずだった。だが峡は憶えていない。つまり初対面、ということだろうか。ならばなぜ向こうはこっちの名を知っているのか。疑問は疑問を呼び、答えの出ない自問自答を繰り返すばかりで一向にまとまる気配がない。
男は、峡の質問に何でもないことのように、まったく予期していない答えを返した。
「まあ、おれはお前の両親を知ってるから」
「――……え?」
「ちょっと付いて来い。話は歩きながらする」
峡の返事など待たずして、男は踵を返して歩き出す。よくわからないが従った方が良さそうに思えたので峡は慌ててベットから出る。そこで初めてベットの下に薄汚れた自分のスニーカーがあることに気づいた。スニーカーに足を突っ込んで踵を踏んだまま男の後を追う。無機質なその部屋を出ると、そこには左右に真っ直ぐに続く通路があった。人の気配がまったくしないのにも関わらず、通路は異様なほど蛍光灯の光に満ちていた。
峡が白衣の背中に追いつくと、それと見計らったように男は口を開いた。
「七年前にな、おれたちのことに初めて自力で気づいたシェルターの人間がいた。それがお前の両親って訳だ。それでな、いろいろあってちょこっとばかりここでお前の両親は働いてたんだよ。で、ある日ここから出て、大地で事故に遭って死んじまった。――お前には悪いと思ってる。あの事故は防ごうと思ったら防げた。それはおれたちのミスだった、本当にスマン」
一度だけ振り返り、男は深々と頭を下げた。何か言った方がいいのかと思って口を開きかけたが、それを待たずして男はまた歩き出す。
「おれたちは何なのか、それを説明する。簡単に言や防衛軍だよ」
「防衛軍?」
「おう。お前、カルストって知ってるだろ、あのファースト・ボルケーノの元凶の。正式名称は忘れたからボルケーノな。で、知ってるよな? お前らアカデミーの生徒がシェルターで何十回も聞いて暗記してるあの話だよ。おれたちの主な活動内容が……いや、まずこっちが先か。カルストが隕石の衝突で三つに砕けた、って話は知ってるだろ、さっきと同じ話だから。それでな、三つに砕けた内、一つはファースト・ボルケーノでこの世界に突っ込んで来た。そして残りの二つはどうなったのか。お前らが知ってる限りじゃ無くなったってされてるんだがありゃ嘘だ。本当はカルストの破片はまだ宇宙にある。大まかに言えば、残りの二つの破片の内、一つは数え切れないほどに粉々になって時々この世界に突っ込んで来ている。簡単に言えばそれがセカンド・ボルケーノだよ。お前らがシェルターの中で聞いてる警報はそれが原因だ。それでもう一つの破片が、サード・ボルケーノになる訳だ。この話はまた今度な。で、おれたちの役目はシェルターの人間に気づかれないようにセカンド・ボルケーノを破壊するってことなんだ。……な? だからおれたちは防衛軍って訳だ」
そう言いながら、男は顔だけで振り返って笑った。その顔が、ヒーローに憧れる子供のように無邪気だった。
峡は思った。この人は、どこかおかしいのではないだろうか、と。一体何を言っているのかがさっぱりわからない。最初の両親のことを聞かされたときは信じてしまったのだが、話が進むにつれて信じられなくなった。いきなり防衛軍だとかカルストとセカンド・ボルケーノがどうのとか言われても信じられる訳がない。物的証拠は何もない訳だし、そもそもこの男の素性すら知れない。そう言えば名前もまだ聞いていなかった。この少しおかしい男は、一体何者なのかという疑問がより一層深くなった。
そしてそんな峡の心境を見透かしたように、男は前を向いたままで「かっかっか」と笑った。
「信じられないだろうな、そりゃそうだ、普通は信じない。こんな話する白衣着たおっさんがいたら、おれでもまず間違いなく正気を疑うよ。けどな、だったらお前はまず、一週間前の出来事から疑わなくちゃならない。憶えているはずだ。お前は一週間前、禁止されている大地に降り立ち、そして、セカンド・ボルケーノを見た。嘘だなんて言わせねえぜ。あれは現実なんだから」
そう言われて初めて、それに思い至って思わず足が止まった。
一週間前のあの日、確かに自分は空から突っ込んで来る隕石らしきものを見た。あれがもしセカンド・ボルケーノだとするのなら、男の話は少しだが信憑性を増すような気がする。しかしだとしたら、あの一連の出来事は夢ではなく現実だということになる。ならば、二機の虫と一人の女の子もまた実在することになる。夢だと思い始めていた光景。完璧なる非日常の始まり。それが、薄皮一枚を残して目の前に転がっているだけの状況となった。手を伸ばせばすぐに届くその真相が、今はどうしようもなく恐かった。手を伸ばして足を踏み入れたら、もう二度と引き返せないと思う。日常をぶち壊して非日常に走り出そうとしたのは紛れもない自分である。が、この土壇場に来て躊躇っている。本当に、ここから先に歩み出してしまっていいのだろうか。
そんなことをいつまでも立ち止まって考えていた峡に、男が唐突に振り返った。
そこは、通路の行き止まりだった。
「ここが目的地だ。最後に一つだけお前に言っておく。怖気づいたのならやめとけ。何も知らずに今まで通りシェルターで暮らしたいと思うのなら、このまま引き返して突き当たりまで走れ。そうしたらあとはこっちですべて処理してもとの世界に戻してやる。だがもし、何もかも知りたいと願い、そして足を踏み入れる度胸があるのならこの向こうに来い。なに、逃げても誰も責めやしねえさ、それが普通なんだから。気負いするな、思ったまま行動しろ」
そして、男はゆっくりと前を向き、壁に手を置いた。刹那、壁が縦一線に割れて両側にスライドした。向こうから光があふれ、男はそこに入って行く。最後にもう一度だけ振り返り、本当に子供のように笑ってこう言った。
「まだ自己紹介してなかったな。おれの名はシンカイ。シンカイ・無明(むみょう)だ。一応、ここのリーダーをしてる。どっちかわからねえが、また会ったらよろしく」
扉が閉まるとシンカイと名乗った男の姿と光が消え、人気の無い長い通路に峡は一人取り残された。
人気がなく異様に明るい通路に一人佇み、峡は拳を握る。思ったまま行動しろ、とシンカイは言った。だったら、そうさせてもらおうではないか。引き返して突き当たりまで走れ、だと? 舐めるな、今更怖気づいて逃げ出すくらいなら最初から潔くシェルターの地下空洞に避難しているに決まっている。自分の意思でここまで来たのだ。だったら、最後の一歩も踏み出してやろうではないか。薄皮一枚で繋がっている日常を捨て、非日常に手を伸ばす。もう一度会いたいと願った。サファイア、ルビー、そしてルナに、もう一度会いたい。何も知らずにシェルターで過ごすなど願い下げだ。すべてを知ろう。それが、シェルターを捨てた両親に近づくための第一歩になるかもしれないのだ。迷いは、ここでシェルターと一緒に捨てよう。
峡は拳を解き、足を進めた。シンカイがやったようにそっと手を通路の行き止まりに添える。瞬間、そこからすっと縦一線に割れて両側にスライドして向こう側が姿を現す。光に満たされたそこは、人の気配がした。一人ではなく、数十人の人の気配。通路とは本当に別世界のようだった。光が失われ、目に入って来たそこは驚くほど広かった。巨大な円状のホールに見たこともないコンピューターが壁に沿ってずらりと並んでいて、そこに列になって何人もの人がディスプレイと睨み合いながら何やら操作をしている。天井はちょっとやそっとじゃ届かないほど無駄に高くて、ホールの中心部には何もなかった。
その場所に足を踏み入れて、まず最初に聞いてたのは「テメぇシンカイ! 昨日おれのメモリー勝手に触りやがっただろっ! なに引き出しやがったっ!?」という口の悪い青虫、サファイアの声だった。それに続き、「それはサファイアが悪いよ。だってセキュリティー面倒だからって掛けてないだろ?」と赤虫であるルビーの幼い声が届いて、最後に「だね、いっつも面倒だってほったからしておくからだよ。それはサファイアが悪い」と長い髪を持つ女の子、ルナの声を聞いた。
何もないホールの中心に、二機と一人は立っていた。その前には白衣を着たシンカイがいて、先のようにまた「かっかっか」と笑い、サファイアに中指を突き立てる。
「そういうこった。ルビーのセキュリティーはおれらでもどうすることもできやしねえが、お前はほったらかしだから簡単だった。それでな、引き出したメモリーだが――ああ、なんだ。やっぱり来たか、キシマ・峡」
突然にシンカイは振り返り、最初から何もかもわかっていたかのように笑った。
いきなり状況に付いて行けなかったのは、峡だけではなかった。サファイアは「なっ!? この前の人間のガキ!?」と声を上げ、ルビーは絶句しているのか何も言わずに峡を見つめている。そして、一番驚いていたのはルナだった。目を見開き、震える声を吐き出すようにこう言った。
「――……どう、して……君が、……ここに……?」
どう説明したものかと迷っていると、シンカイが助け舟を出す。
「一週間前、お前たちがここに帰って来てすぐに何か隠してるってことはわかった。ルビーとルナだけならいつも通りでわからなかったが、サファイアは隠し事すると態度に出るからバレバレだ。そこでメンテナンスのついでにメモリーにアタックしてあの日、一体何があったのかを引き出した。最初はおれも驚いたが、よくよく考えるとそうだろうなと思ってな。今日ももし外に出て来たら引っ張り出してやろうとおれが自ら出向いてこうして捕まえて来た。――ルナ、お前の思った通り、こいつの名前はキシマ・峡。キシマ夫妻の息子だよ。これが証拠だな」
と、一体どこから取り出したのか、シンカイの手には峡の無線機があった。それを呆然と見据えながら、ルナはただ一言「……やっぱり」とだけ漏らした。
いつどうやって口を開けば良いのかわからない峡に向かって、シンカイは両手を大きく広げる。
「ようこそ、我が防衛軍へ! しばらくはここにいてもらうことになるが気にするな! ここには食い物も水もヤニも、そしてもちろんエロ本だって常時装備で何でもある! 我々はキシマ夫妻の息子であるキシマ・峡! 君を、歓迎するっ!!」
その声がホールに響き渡り、痛いくらいの視線が峡に集まるその中で、サファイアの「おれは歓迎しねえっ!! どういうことだ説明しろシンカイっ!!」と叫ぶ声も、ルビーの「こうなっちゃうとあれだね、サファイアは本当にバカだね」と言うつぶやきも耳には届いておらず、ただこっちを驚いた表情のまま見つめ続けているルナの視線から目が外せないでいる。
シェルターの【外の世界】で、非日常が始まる。
こうして、キシマ・峡は、【この世界】を知ってゆく。
「ルナとダイヤとサイボーグ」
目が覚める切っ掛けになったのは、唐突に灯った光のせいだった。目を開けて最初に見たのが、無機質なコンクリートと新品同様の綺麗な蛍光灯である。いつから自分の家はこんなに無機質になったのだろう、蛍光灯を換えたのは何ヶ月前だったろうか、と漠然と思っていると、いきなり部屋にある銀色の扉がスライドしてルナが入って来た。
「おはよー! ……って、いつまで寝てるの? もう十時だよ?」
頭が冴えるどころか状況がまったく持って掴めず、パニックを通り越して脳が機能停止に陥った。ベットのシーツに包まって横になったまま、峡は幽霊でも見るかの如くルナを見つめる。目の前にいるこの女の子が一体誰であるのかすら思い出せない。ここはどこだろう、とワンテンポ遅れたことを悩み続けた。そして唐突にああそうだ、これは夢だ、そうに決まっていると機能停止の脳が理解した。夢は寝て見るものである、起きて見るものではない。だからもう一度寝よう、うん、そうしよう。そうして、峡はゆっくりと目を瞑った。
それを疑問に思ったルナは、不思議そうに首を傾げながらベットに近づいて来て、峡の隣へと普通に腰掛けた。
「どうしたの? 熱でもある?」
その手がゆっくりと伸び、額に触れそうになって、峡は一瞬で覚醒した。シーツを引き剥がしてベットの上を転がり、床に落ちて肩を強打する。声を上げている暇もなければ痛がっている暇もなかった。急いで起き上がって部屋を見渡し、ここはどこだっ!? と心の中で叫んでから、隅にある机を見つけて突風のようにその上に避難し、そこに置いてあった無線機を発見してようやく脳みそが正常に働いた。
何とも言い難い空気が漂っていた。恐る恐る視線を動かしてベットの方を見やると、そこにはきょとんとしたルナがこっちを見つめて呆然としていた。机の上で息を整えつつも、どうしたものかと一瞬だけ思い悩み、心の動揺を悟られないようにできるだけ落ち着いて口を開く。が、何と言っていいのかすぐにはわからなくて、気づいたときには「お、おはよう……?」と疑問系の挨拶をかましていた。
ルナはまだ少しばかり呆気に取られていたものの、ゆっくりと肯いた。
「う、うん……おはよう……?」
ルナの疑問系は至極当然である。せっかく約束のために起こしに来てあげて、熱でもあるのかと心配してやったらいきなり机の上にまで避難され、果てには疑問系で挨拶をされたのである。状況がよく理解できていないのはルナも同じだった。
しかしルナはすぐに表情を取り繕い、柔らかく笑う。
「わたし外で待ってるから、用意が終わったら教えて」
それだけ言い残し、ルナはベットから立ち上がってすたすたと部屋から出て行ってしまった。机の上からまるで獣のようにそれを見据えていた峡は、唐突に我に返った。慌てて机から下りようとして、その拍子に足を滑らしてまた床に落ちた。今度は椅子で足を強打し、無様この上ない体勢で苦悶の声を上げる。やがてその痛さが和らぎ、部屋に静寂と無機質な灯りが戻って来たとき、峡は一人で床に大の字で寝転がっていた。
乾いた笑いが漏れた。
「……アホか、おれは……」
二度の痛みは頭を正常に働かせるのには十分過ぎた。
ここはどこなのか、さっきの女の子は誰なのか、どうしてその女の子はここに来たのかを、一つ一つ確認するように思い出して行く。まず、ここはシェルターの【外の世界】、つまり大地にある建物だ。もっと正確に言うなれば、この建物はその大地の地下にある。実際にそれを見た訳ではないので証拠はないが、シンカイにそう聞かされた。そんなことで嘘を付いても仕方がないような気がするので、峡は信じることにしている。そしてここは、一応峡の自室に割り当てられた場所だった。昨日、シンカイに連れ去られて眠っていたあの部屋だ。
次にあの女の子は誰なのか。簡単だ。彼女はルナだ。大地で出会った一人の女の子。シンカイ曰く防衛軍と名されるここでずっと過ごしている、言わば峡の先輩だ。ちなみに年は峡と同じ十七歳らしい。それもシンカイに聞いた。そして、どうしてそのルナが峡の部屋にやって来たのかと言えば、それは昨日のホールでの出来事にまで遡る。シンカイがホールにいた全員に峡を紹介した後、ルナが険しい表情で近づいて来て「話があるから、明日わたしに時間をちょうだい」と言って来たのだ。どういうことなのかよくわからず、質問しようと思ったらルナはそのままホールから出て行ってしまい、それ以降、ついさっきまでルナとは一度も会っていなかった。会おうとは思ったのだが、シンカイに連れられて何人もの「お偉いさん」と呼ばれる人に挨拶巡りさせられて気づいたときには夜になっており、ベットに倒れ込むと同時に睡魔に襲われたのだ。
峡が最も動揺した理由が、ルナの態度だった。昨日は険しい表情で怒っているような感があったのだが、先ほどのルナにはそんな雰囲気は一切なかった。昨日のあれは気のせいだったのだろうか、と簡単に流せる問題ではない。そもそもルナには一度忠告されているのだ。「君は、【こっちの世界】に足を踏み入れちゃダメ」、と。ルナが言う【こっちの世界】が何なのかはまだよくわからないが、それでもそこに足を踏み入れたのは間違いなく峡だ。だからルナが怒っていても不思議はないし、むしろ当然の反応と言っていい。言っていいのだがそれは困る。相手に怒られたままの関係というのは息が詰まる以上に厄介だった。何もよりも、ルナとは一度ちゃんと話をしたいと思っている自分がいる。それがどういう方向に進むのはわからないが、話すだけはしなければならないのだろう。
そこまで思い出した峡は、唐突にいつまでも大の字に寝転がっていても仕方がないと思って起き上がる。用意が終ったら教えて、とルナは言った。だったらいつまでもチンタラしている暇はないのだ。女の子を待たせるのは気が引けて、峡は急いで洗面所へ向かう。この部屋には何もないと思っていたのが、どうやら間違いだったらしい。部屋には銀色の扉以外にも一つだけドアがあって、そこを開ければ洗面所とトイレがある。風呂は共同だ。昨日、一体何をどこでどう間違ったのか、「よし、挨拶はこれで終わりだ、峡、風呂入るぞ」とこちらの返事も待たずしてシンカイは峡を拉致し、貸切状態の二人で使うには広過ぎの馬鹿でかい風呂に無理矢理一緒に入れられた。何とも言えないあの状況を思い出し、気分が悪くなりそうだったので峡は蛇口を捻って冷水で顔と一緒にその思考を洗い流す。
着替えはこのままでいいだろう。これはシンカイが手配してくれたもので、普段着と変わらないので問題ないと思う。無線機を持って行こうかどうか少しだけ悩み、持って行っても今は意味がないような気がしたので手ぶらで通路に出た。通路の向かいにはルナが立っていて、峡を見るとまた笑った。
「さっきも言ったけど、おはよう。もうだいじょうぶ?」
頭は正常に働く、もう二度とあんな失態は繰り返さないと心に誓う。
「おかげさまで。それより、話ってなに?」
するとルナは昨日のシンカイのように歩き出し、通路を行く。
「ここじゃなんだから、もっと違う場所に行こ。それにいろいろ案内してやれってシンカイさんに言われてるんだ」
反対する理由はなかったので、峡はそれに従う。ルナと並んで通路を歩く。そこで初めて、ルナの身長は峡の肩より少し上くらいであることに気づく。ふと視界に入ったルナの長い髪は腰の辺りでまとめてあり、よくよく見ればルナは大地で出会ったときとは違い、女の子らしい格好をしていた。シェルターでいろんな女の子を見てきたが、ここまで髪が長く、そして綺麗な顔立ちをした女の子を見たのは初めてだった。慎治がいたら泣いて喜ぶだろうなと馬鹿げたことを思っていると、視線に気づいたルナが「なに?」と峡を見上げる。急に恥ずかしくなり、慌てて「なんでもない」と首を振った。それに不思議そうな顔をするルナともうしばらく歩くと、通路の突き当たりであるホールの扉の前に到着した。
ルナがそこにそっと手を触れると扉は開き、広いホールが姿を現す。昨日と同じように、何もない中央にはシンカイがいて、相変わらず白衣を着て曲がった火の点いていない煙草を咥えていた。そしてその両サイドには青虫と赤虫であるルビーとサファイアがいる。二機共、この建物内では武装していないらしく、今は戦艦とは程遠いただの車のような見た目になっていた。それが何だか無性に可笑しくて、笑い出しそうになっているとサファイアに睨まれた。
「おー来たか。目覚めはどうだ、峡?」
振り返ったシンカイは、昨日と変わらず子供のように笑ってそう言う。
「おはようございます。目覚めは……微妙ですね」
苦笑する峡に、ルビーが近づいて来る。
「改めて挨拶しておくよ。初めまして、キシマ・峡。ぼくはルビー、よろしく」
「ああ、よろしく」
「ほら、サファイアも挨拶したら? これからしばらく峡は仲間なんだよ?」
「……るせえ。人間のガキは嫌いだ」
この前から薄っすらとはわかっていたのだが、どうやら二機は同じ姿形をしていても、中身はまったくの別物らしい。ルビーとは良い友好関係を築けそうだが、サファイアと打ち解けるにはとんでもない努力が必要に思えた。が、こちらから歩み寄って火傷するのは御免なので、しばらくは様子見で手を打つとしよう。
隣のルナがシンカイに視線を向ける。
「今から峡を案内してくるね。また何かあったらすぐに連絡して」
「了解だ。……いや待て、男女二人の仲をどうこうするのは気が引けるな……。できる限りこっちで何とかするから、お前は楽しんで来い」
しかしルナは物ともせず、「これだからおじさんは嫌なの。サファイア、後で少し懲らしめてやって」とため息を吐く。
サファイアはゆっくりと体をシンカイに向け、眼光をギラリと発する。
「任された。昨日の怨みもある。存分にやるぞシンカイ」
「あー待て待て、お前がそう言うとシャレにならん。てゆーかそれは八つ当たりに思えるのはおれだけか? なあ、ルビー?」
「そうなんじゃない? ルナを峡に取られて拗ねてるんだよ、きっと」
「っ!? う、うるせえぞ貴様らっ! 上等だ、皆殺しにしてやるっ!!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ三人の声の中、ルナは峡の手を取って「行こっか」と走り出す。状況にまったく付いて行けなかった峡はそれに驚き、しかし抵抗できずにルナに連れられてホールの端にあるエレベーターに引っ張り込まれた。扉が閉まるとルナは峡から手を離し、扉の横に備え付けられていたボタンの列に歩み寄る。「1」から始まり、下に向かって「B10」とまで書かれているボタンの中から、ルナは「B5」のボタンを押した。微かな振動が伝わり、エレベーターは動き出す。上の液晶画面には「B10」と書かれていて、その数字がどんどんと上がって行く。つまり、先ほどのホールは「B10」にあったということだ。
微かに伝わるエレベーターの始動音に耳を傾けていると、閉まっているドアに凭れながらルナが笑った。
「賑やかだったでしょ?」
急な問いに「なにが?」と返しそうになって、すぐにそれがさっきの一連のやり取りについてだということを理解して素直に肯いた。
「面白そうなとこだな、ここ」
「そうだね、ここでこうしているのは本当に楽しいよ。ルビーがいて、サファイアがいて、そしてシンカイさんとみんながいて。わたしは、ここが大好きなの。だって、ここがわたしの家だから」
そう言ったルナの瞳は、とても澄んでいた。それに見惚れていて、何も言えなくなっている自分に気づいたとき、ちょうどエレベーターは目的地に到着する。液晶画面には「B5」と書かれていて、ルナが凭れていた扉がゆっくりと開く。ルナは踵を返して「付いて来て」と言い残して暗い通路に出る。それに従って峡もエレベーターを降りると、背後で扉が閉まって光が無くなった。
非常灯のようなオレンジ色の最小限の光以外は、ここには何もなかった。人の気配もしない、空気が心なしか冷たく思える。ここはどこなのだろう、という当たり前の疑問が浮かび上がる。通路は一直線に続いているような気がするのだが、しかし数メートル先は闇に閉ざされてまったく見えないので何とも言えない。前を歩くルナに何度も訊ねようとしたのだが、何も言わずに黙々と歩き続けるその背中に声をかけることがついにできず、峡は黙って後に続く。
やがて辿り着いたのは、通路の突き当たりにある驚くほど頑丈そうな一枚の扉だった。見た目だけでも圧倒されるその扉は、確認しなくてもその分厚さがわかるくらいに禍々しかった。ルナは扉の脇に設置されている暗号キーの前に立った。シェルターで峡が破ったあの暗号キーに似ている。ただしキーのコンソールは「0」から「10」ではなく、確か何かの授業で受けたような気がするアルファベットという文字で「A」から「Z」までの二十四字で構成されていた。
唐突にルナは振り返り、少しだけ苦笑して「ごめん、少しだけ目を瞑ってて。この暗号、一応機密事項だから」と言った。言われるままに峡は目を閉じ、それを確認したルナは実に慣れた動作で二十四のキーの中から決めたものを決められた順番で押し込んでいく。最後のキーを押し込んだとき、電子音が響いて扉のロックが外れた。目を瞑っていた峡は、その音を体全体で聞いた。シェルターの隔壁が競り上がるかの如く、鈍い音が響く。軽い揺れを感じて目を開けそうになり、しかしすぐにそれを何とか踏み留めた。
ガゴン、と鈍い音が響いたと同時にルナの声が聞こえる。
「もういいよ、目を開けても」
目を開ける。先ほどまであった扉はすでになく、そこには本当の暗闇があった。そこにルナが歩み出し、その体が闇に飲まれて消えた。急に心細くなり、慌ててその後を追って暗闇に身を任せ、刹那にその室内に光が満ちた。あまりの眩しさに反射的に目を瞑り、しばらくはまともに開けなかった。徐々に目が慣れ始め、やがて完全に開けるようになって部屋を見まわして、峡はやっと『それ』の存在に気づいた。
声を上げそうになって、それをギリギリで飲み込む。人間の腕だ、と本気で思った。しかし壁に貼り付けられるようにそこにある『それ』は人間の腕ではなく、人間の腕の形をした『何か』だった。見覚えがある。白いスケルトンカラーの人間の腕の形をした『それ』を、峡は知っている。今も目に焼き付いているのだ。この室内の灯りに照らされて輝いているように、あの日も鈍い太陽の光を反射して輝いていた。サファイアとルビーの体から引っ張り出されて、ルナの腕に装着され、そして隕石であるセカンド・ボルケーノを撃ち祓ったあの腕だ。名前は確か、
「――この子はダイヤ」
その答えをルナが口にし、続けた。
「わたしにしか動かせない、ルビーとサファイアの兄弟。そして、セカンドから、ううん、サード・ボルケーノから君たちを守ることができる唯一のもの」
ダイヤのもとへとルナは歩き出す。
それを呆然と見つめていた峡は、ぼんやりとそれを理解した。ルナが言った言葉。わたしにしか動かせない、自分たちを守れる唯一のもの。それはつまり、ルナが【この世界】を守ると言っているに他ならない。しかしいきなりそんなことを言われても、シェルターで過ごして来た峡には風呂敷のでか過ぎる話である。昨日初めて【この世界】についてほんの一握りの内容を聞かされただけですべてを理解できるはずもないし、実際に頭の中ではまだこの状況は非日常ではなく日常だと思っている自分がいるのだ。
ダイヤの側まで歩み寄ったルナは、そっとそのスケルトンカラーの腕に触れる。瞬間、何か音が聞こえたような気がした。それがダイヤの鳴き声であることに、峡はついに気づけなかった。だがルナはその鳴き声を鮮明に聞き取り、先ほどまでの柔らかい雰囲気を一瞬で押し殺し、昨日と同じような怒りを含んだ険しい表情で峡を振り返る。
「……君に訊きたいことがあるの。君は、どうしてここに来たの? あの日、わたしが言ったよね。こっちに来ちゃダメ、って。それなのに、なんで君はこっちに来たの? 答えて、キシマ・峡」
真剣に問いを重ねるルナの表情に、峡は言葉を飲み込む。
どうしてここに来たのか。自分の知らない両親を知りたかったから、という理由もある。もしかしたらシェルターでの生活を捨てようと思っていたそこに、その一歩を踏み出す切っ掛けが目の前に転がっていたからかもしれない。どちらも嘘ではない。ただ、本心でもない。心の奥には一週間前のあの日から、ルナの問いに対するの最も的確な「答え」がある。
「わたしは、君の両親に助けられたからこそ、今ここにこうしていられる。キシマさんには感謝してもし足りない。恩返しもしたかった。だけど、それはできない。だから君だけは、【こっちの世界】に連れて来たくなかったの。君にもしものことがあったら、わたしはキシマさんにどう言っていいかわかんない。そう思ったからこそ、あの日、君をシェルターまで運んであげたのに、君は自分からこっちに足を踏み出した。……ねえ、どうして? お願い、答えて……答えてよ、峡……っ」
ルナが、泣いた。
唐突なその出来事に何もできなかった。ルナがなぜ泣いているのか。それが気にならないと言えば嘘になる。ただ、今の峡にはそれを知るだけの資格はないのだろうと思う。嗚咽を押し殺し、涙を流しながら、それでも峡を真っ直ぐに見据えるその瞳に、今の自分は何もしてやれない。偉そうなことなどできるはずもないのだ。峡などでは到底想像もできないような経験をルナが積んでいるのだということは会ったときからわかっていた。でも、そんなルナに今の峡がしてやれることがたった一つだけ、あると思う。
それが、先の問いの答えを返すこと。形はもう出来上がっている。後は口にするだけ。この本音を、今ここで、ルナに返そう。
「――……会いたかったから……」
ルナは何も言わず、ただ峡を見据え続ける。
その涙に濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返し、峡は言葉を紡ぐ。
「サファイアに、ルビーに、そしてルナに。もう一度、会いたかったから。最初は好奇心だったんだと思う。だけど、今は違う。はっきりと言える。おれは、ルナに会って話しがしたかった。今でこそ両親のことが関係してきてるけど、違う。それがなくてもおれはルナと会って、話しがしたかった。……ごめん、そんな理由で約束破って。でも、これがおれの本音だから。紛れもない、本心だから。だから、その……」
そこで失速し、最終的に自分がこれから何を言いたかったのかがわからなくなって、無言でルナを見つめた。
ダイヤに手を添えていたルナはしばらく身動き一つせずに峡を見据え、やがて何が切っ掛けになったのかはわからないが、それでもぎこちなく笑った。
「……そっか……うん、そうだね……。間違っていたのはわたしの方。ごめんね、峡」
「……ルナ?」
うん、そっか、そうだよね、うん。ルナは一人でそう肯き、指で涙を拭って顔を上げた。そこには、今朝見たときのルナがいた。柔らかく笑い、その場で背伸びをするように腕を上げる。状況がよく掴めなかった峡はどうしていいのかわからず、ただルナを見ていた。
また音が聞こえたような気がする。そして、ルナが肯く。
「そうだね、ダイヤ。わたしもそう思うよ。――峡。これからよろしくね」
まだよくわからなかったが、それでもルナの雰囲気はどこか清々しいものがあって、峡は自然と笑う。
「……ああ。よろしく」
「うん。それじゃ行こっか。次はどこに案内して欲しい?」
そう言って手を差し出すルナは、すごく綺麗に思えた。
その手を取って、峡は歩き出す。この非日常を、歩んで行こう。サファイアと、ルビーと、シンカイと、そしてルナと共に。
ここから、本当の意味で進んで行けるような気がする。
どこかでもう一度だけ、音が聞こえた。それは、何かを祝福するような、そんな響きを持っていた。
◎
キシマ・峡がここに来てから、一週間が経とうとしていた。それで何が変わった訳でもないのだが、それでも峡はここの生活に慣れ始めていた。それは良い傾向だ、とシンカイは思う。峡がここで過ごすことに最後の最後まで反対していた赤い色をしたバカは捻じ伏せてやった。お偉いさんの中にも何人か反対勢力がいたが、それも上手く丸め込んだ。問題は何もない。すべてが順調だ。シンカイは大いに満足している。
そしてそのシンカイは、ホールの隅っこで白衣の背中を丸めながら誰も見ていないか最終確認をしていた。誰もこっちを向いていないかを何十回も確認した後、シンカイは白衣のポケットからライターを取り出す。石を回して火を点け、朝からずっと咥えていた煙草に命の炎を灯そうとゆっくりと移動させ、その火が煙草に触れるか否かの瞬間、ライターが何者かの手によって取り上げられた。
「ああっ!? あ、お、ちょいとマチちゃんっ! 何すんのさっ?」
マチと呼ばれたその人は、二十代前半の少しきつい目つきをした女性だった。コンピューター関連の座標系統の仕事に関しての腕前はここではずば抜けており、シンカイが絶大なる信頼を寄せる内の一人である。が、少々根が真面目過ぎるのが欠点だ。シンカイの無駄な行動にいちいち突っ掛かっている内に、いつしかシンカイのお目付け役に抜擢された悲しき女性である。
マチはシンカイから没収したライターを胸ポケットにしまうと、ため息を吐き出しながら毎度ながらのことを言う。
「シンカイさん、一体何度言えばわかるんですか? ここは禁煙です。吸いたいのなら喫煙所まで行ってください」
曲がった煙草を戦死した友人の墓標のように見つめていたシンカイは、悪戯がバレて母親に怒られている子供ような口調で「だってよお、喫煙所ってB2にしかないじゃん? そこまで行くの面倒だしさ、おれはここ離れられないしさ、だからねえ、マチちゃん?」とつぶやいてから、子犬のような視線をマチに向ける。が、一方のマチは知らん顔をして「それはそれはご愁傷様です」と言い残して自分の仕事へと戻る。
「おーい、マチちゃ〜ん、勘弁してくれえ〜! せめてライターだけ返して! それ最後の一個なんだから!」
その声も虚しくホールに響くだけで、マチはついにライターを返してはくれなかった。クソ、と悪態をついたシンカイは、ゆっくりと辺りを見渡す。誰も見ていない、マチもディスプレイと睨めっこしている、だいじょうぶ、行ける、とシンカイは心の中で拳を握る。先ほどのように背中を丸め、白衣のポケットからもう一つライターを取り出して悪魔のように笑う。甘い甘い、ライターがそれだけというのはカムフラージュだ。さあ、この煙草に火を灯そう。今こそ復活せよ、我が相棒っ!!
そしてシンカイが煙草に火を点けようとした刹那、ホールに警報が鳴り響いた。続いて赤い閃光が輝く。
ここにいる誰もが、その意味を理解していた。シェルターで言えば、第一次避難警報。ここで言えば、セカンド・ボルケーノの接近警報。
シンカイはライターを持ったまま立ち上がって振り返り、責任者としての表情を表す。
「状況は?」
その声に答えたのはマチだった。
「レベル5。大気圏突入まで凡そ四十二分二十五秒。座標はエリア108・67です。――ルナに連絡をします」
「頼む。全員聞いたな! 今すぐに【ヴァイセル】の始動準備だ! やれっ!」
ホール全体から「了解」という声が響き、それまでとは打って変わった緊迫した雰囲気が漂う。
その中で、シンカイはライターを握り締めながら思う。早過ぎる、と。ここ数ヶ月でセカンド・ボルケーノが突っ込んで来る割合がとんでもない数値になっている。この三週間では、今日ので三つ目。幾らなんでも多過ぎる。これは予兆ではないのか。ここの装置が弾き出した結論で言えば、ファースト・ボルケーノと同等の威力を持つサード・ボルケーノは、十年以内には動き出す予定だった。しかしそれが正確か、と言えばそれは違う。十年以内ということはつまり、長くても十年後には突っ込んで来る、ということを示す。だから今すぐにでもサード・ボルケーノが降り注いで来ても不思議はないのである。そして、この頻繁に起こるセカンド・ボルケーノはその予兆ではないのか、とシンカイは考える。
そもそもボルケーノにはレベル1からレベル7までの「威力の強さ」を表す数値がある。ファースト・ボルケーノの威力をレベル7と考えると、レベル1からレベル3までなら人間の手で十分に対処できるレベルだ。レベル1に至っては大抵は大気圏で燃え尽きるし、レベル2、3にしても大気圏でその面積の半分以上を剥ぎ取られてミサイル一発で粉々に砕くことが可能になる。しかしレベル4からは違う。そこからは特殊なことをしない限り破壊することはできなくなる。そしてシンカイたち防衛軍がする特殊なこととは、サファイア、ルビー、ダイヤの投入である。
【この世界】には、シンカイたちの他に防衛軍を名乗る組織が存在する。無名な組織を含めれば数知れずになるのだが、シンカイが知っている中でデカイ組織は自分たちを含めて五つだ。その中でレベル4以上に犠牲無くて立ち向かえるのはシンカイの防衛軍だけである。他の組織は自爆覚悟でミサイルを積んだ戦闘機を直接ボルケーノにぶち込んで粉々にする方法を取っている。レベル4以上のボルケーノが来る度に、少なくとも一人が死ぬというのが常識だった。しかしシンカイたちの組織はそんな犠牲は払わない。それを可能にするのがサファイア、ルビー、ダイヤ。それは、ある種のサイボーグだった。そしてそのサイボーグの中核を成し得ているのはルナ。レベル4から5までならサファイアとルビーで十分対処できる。しかしレベル6からはルナがいなければどうすることもできない。最も高い破壊力を持つダイヤ。これを起動させられるのはルナしかいないのだ。
今回のレベルは5。サファイアとルビーで対処できるそのレベルでもルナが駆り出される理由は簡単だった。危険な芽は完全に叩き潰しておくため。「もしも」が起こってからでは遅い。だから念には念を押してルナを出動させるのである。それは酷なことなのだと思う。だが、どうしようもない。もう一つ理由もあるのだ。もしサード・ボルケーノが突っ込んで来たとき、判断力が鈍らないように恐怖心を消し去っておくためだ。頻繁にダイヤを起動させてボルケーノを叩き落しておけば、来たるべきそのときに躊躇うこもなくなる。だから、酷だとは思うが、本心ではそんなことをさせたくないと思っていても、どうしようもないのだった。
シンカイの耳にマチの声が届く、
「ヴァイセル始動準備完了。サファイア、ルビーはすでに配置に着き、ルナは……今、到着しました。――行けます」
「ヴァイセル始動。エリア108・67、レベル5のセカンドを粉砕する」
「了解」
マチがコンソールに手を置き、とんでもない速さでキーを叩き始める。ホールの扉が開いたそのときだった。
通路からは峡が飛び込んで来て、シンカイを見つけると肩で息をしながら言葉を紡ぐ。
「し、シンカイさん、な、何なんですか、これ!? ルナに、ホール行けって言われて、それで、」
「だいじょうぶだ。落ち着け。これ、見てろ」
ホールの何もない所に突如としてホログラム映像が浮かび上がり、何かの画像が映し出される。
「――……なん、ですか……これ……」
峡の口から思わず声が漏れた。
そこに映し出されているのは、とてつもなく巨大な、歪な形をした戦闘機だった。
「サファイアとルビーには及ばないものの、それに近い破壊力を持つおれたちの機体だ」
そして、シンカイはホログラム映像を見ながら笑う。
「おれたちはヴァイセル、って呼んでる」
◎
ヴァイセルの格納庫に、二機の虫の姿があった。
外から聞こえるブースターのエンジン音を聞きながら、サファイアは内蔵された無線でホールにいるシンカイへ連絡を取る。
「シンカイ、今回のレベルと場所は?」
返事はすぐに返って来る。
『レベル5、エリア108・67』
「またかよ……どうなってんだよ、最近多過ぎじゃねえのか?」
「そうだね、サファイアの言う通りに多過ぎる。こんなこは初めてだ」とルビーが同意し、装着された武装の最終確認を行う。もしかしたら使うかもしれないそのときにトラブルでも起こったら話にならない。整備チームが完璧なメンテナンスをしてくれているのだが、ヴァイセルに乗って現場へ向かうその間にそうして過ごすのがいつからか当たり前になっていた。サファイアは面倒だからと言って確認などせずにいつも無線でシンカイと言い合っている。
『確かにな、おれもそう思う。もしかしたら、近いのかもしれない』
「――サードか?」
『……ああ』
何とも言い難い沈黙が生まる。サファイアは身動き一つせずに何かを考えており、ルビーは相変わらず最終確認の真っ最中、無線の向こうのシンカイは何も言わない。しかし内心では誰もが感じている。すべてが終るその日は、近いのだと。その結末がどのように転ぶかわからない以上、何も言えないのだ。
そしてその沈黙を破ったのは、飛行服に着替え終わってやって来たルナだった。
「二人とも準備はいい?」
「……問題ない」
「ぼくも同じ。ルナは?」
ルナは肯く。
「わたしも一緒。さて、行こっか」
刹那、機内のスピーカーから音声が聞こえる。
『エリア108・67に到着。サファイア、ルビー、ルナ、降下せよ』
刹那、格納庫の床にあるハッチが開き、濁った雲の隙間から遥か下の地上が姿を現す。目も開けていられないような威力の風が吹き込んで来て、それに煽られてルナの髪が慌しく舞う。ルナはそれをそっと手で押さえながら一度だけ深呼吸をする。そんなルナの横からサファイアとルビーがその一歩を踏み出し、ハッチから大地を覗き込む。二機は一度だけルナを振り返り、そっと肯くとそのまま突風の中へと身を任せた。
二機の機体は全く同じ速度で落下し、全く同じ軌道で大地へ突っ込んで行く。濁った雲を抜けると大地はすぐそこだった。体の重心を僅かにズラし、そのまま大地に激突した。二つのクレーターが一瞬で口を開け、大地の破片が粉々に砕けて飛び散り、それに遅れて轟音が荒野に響き渡る。二機は同時に首を上に向け、人間の肉眼では捕らえきれないほどの上空にあるレベル5のセカンド・ボルケーノを正確に認識し、信じられない速度で的確なデータを一発で割り出してそれを機体に装着されているダイヤへと転送する。
その光景をヴァイセルの格納庫から見ていたルナは、二機同様にハッチからその身を投げた。髪が風に煽られて舞うのを無視してサファイアとルビーの間を目掛けて信じられない速度で降下する。濁った雲を抜け、サファイアとルビーを見つけたその瞬間に意識はダイヤとシンクロする。スケルトンカラーのそれが弱い太陽の光に輝き、反重力装置がルナの体を覆い尽くす。落下のスピードはそれによって完全に殺され、何事もなかったかのようにルナはふわりとサファイアとルビーの間に着地する。
そうして、ルナが空を見上げたときにはすでに、セカンド・ボルケーノは肉眼で捕らえられるほど接近していた。
「起きて、ダイヤ」
そうつぶやいた瞬間にルナは腕を振り上げて二機の体に叩き込む。シンクロした感覚は意識せずともどこにダイヤがあるのかを正確に感じ取っている。ガチャリと機械音が響くのを確認してからルナは腕を引き抜く。そこには人の腕の形をしたスケルトンカラーのダイヤが装着されていた。下に垂らして長い指先が地面に触れた刹那、ダイヤは目を覚ます。
ルナにしか聞こえない叫びが大気を揺るがし、虚空に向かって吼えたダイヤは圧倒的な威力で地面を抉りながらその反動でルナの体を空に舞い上げる。
――良い子、ありがとう、ダイヤ。舞い上がるその中で、ルナは両手を重ね合わせる。獲物を捕らえれたダイヤは、サファイアとルビーから送られてきたデータを適合させてより正確な軌道を割り出す。すべてが一致、一撃で葬り去る準備はできた。残るはルナとの完全シンクロ、それだけだ。ルナが自らの意識をダイヤに送り、ダイヤはそれを受け入れる。
しかしダイヤの意識は、いつまで経ってもルナに送り込まれて来なかった。
ルナが疑問に思って言葉を紡ごうとした刹那、唐突にそれを感じた。ダイヤの意識が途絶え、重力を制御していた機関が機能停止に陥る。
ダイヤが、再び眠りに就いていた。
シンクロが無理矢理遮断され、ルナの頭の中に爆発的なノイズが直走る。それは、ルナの世界から感覚の全てを奪った。制御を失ったルナの体は突風に煽られ、まるで木の葉のようにバランスを崩して落下し始める。
その異変に最初に気づいたのはサファイアだった。
「ルナっ!! クソッ、ルビー!! こっちにデータ転送しろっ!! 急げっ!!」
言われたままにルビーはデータを一瞬でサファイアに転送し、それが終ると同時に地面を抉ってルナを激突から守るべく加速する。ルナは意識を保っているものの、どうすることもできなくなっている。このまま地面に激突すれば骨が折れる程度じゃ済まない。まず間違いなく死に至る。それだけは避けなければならない。ダイヤの機関はあてにできない今、ここは自分が守るしかないのだ。
サファイアはルビーから転送されたデータを重ね合わせ、大気圏に突入したセカンド・ボルケーノに標準を固定する。武装の中を駆け巡っているセキュリティープログラムを無理矢理ぶち破り、背中に備え付けられた主砲のエネルギーを蓄積しながら機関のすべてをフル活動させた。一対のカタパルトがサファイアから突き出てくる。それが最高峰まで達した際に制御を捨てる。内部を循環していた冷却用の水が高熱に触れてサファイアの中から蒸気となってあふれ出す。セキュリティーをすべて取り払って主砲に全機関の能力を集結させる。
「――セットッ!!」
狙いをセカンド・ボルケーノに向けて最後の誤差修正を実行する。だいじょうぶだ、軌道上の端にルナがいるが当たりはしない。爆風に煽られる危険性はあるがそこはルビーがカバーしてくれるはずだ。仲間を信じろ。蒸気が噴出し続けるその中で、サファイアは背中に背負った主砲を開放する。
キィィイイィィイィイィイィイイィィィイイィイィィン
主砲の中でエネルギーを圧縮するとそんな音が響いた。
そして、サファイアはそれを放った。
機体全体が軋んだ瞬間、主砲のカタパルトからねじくれた電流が流れ、黄緑色をした膨大なエネルギーが発射される。その反動でサファイアの四本の足が大地に半分以上めり込み、それを支えとして完全に狙いを固定する。神経回路が何本も焼き切れたが気にしている暇はない。発射されたそれは迫っていた隕石へと瞬間的に撃ち出されて――、突風が吹き荒れた。
気づいたときには遅かった。ルナの体は、突風に煽られて軌道上に完璧に乗った。直撃コースだった。
サファイアが声を張り上げるより早く、ルビーが助け出すより早く、ルナはそれを感じてダイヤに再度呼びかける。一度は眠りに就いたダイヤが僅かに目を覚まし、その瞬間に迫り来る『危機』を感知して機関を一斉に活動させる。スケルトンカラーのそれが光った瞬間、ルナの体は見えない何かに引っ張られるように軌道上を外れ、
サファイアから放たれたエネルギーの塊は、一瞬でルナの長い髪を飲み込んだ。ダイヤの制御を塗り潰したそれはルナのすぐ側を通り抜けると、そのまま勢いと威力を増しながら上空を駆け抜けてレベル5のセカンド・ボルケーノを粉砕する。世界の迷彩が白と黒で構成され、上空約一万メートルで炸裂した。その爆風はまだ宙を彷徨っていたルナの体を吹き飛ばし、地面に向かって加速させる。
ルナの体が大地に激突する瞬間に、ルビーがギリギリで制御区域に入った。全身の機関をダイヤに向けて転送、ハッキングでプログラムを砕いて無理矢理ダイヤを目覚めさせる。ダイヤが大音量で吼えた際に地面が衝撃波で抉れ、ルナの体から重力が消えた。それからゆっくりと、ルナの体が大地へと降りて来て横たわる。
サファイアの体から蒸気の噴射が終わり、それと同時に全ての機関の機能が停止する。ダイヤの防衛プログラムが作動してハッキングしたルビーの思考回路が焼き切れる。ダイヤは再び眠りに就き、そしてルナの意識はすでになかった。
排気音が近づいて来る。上空から、ヴァイセルがゆっくりと降下して来る。
ホールからその映像を見守っていた誰もが、身動き一つできなかった。
峡もシンカイも、例外ではなかった。
◎
連絡が入って、シンカイに「B1に来い」と呼び出された。
そこは休憩所のような造りになっていて、感覚では公園に似ている。壁や天井の全体が大きなモニターのような構造になっており、常時風景が映し出されていてまるで本物の公園にでもいるような錯覚を起こさせる。ホールにあるエレベーターから上がり、峡はとてつもなく広いその空間に足を踏み入れた。人の気配はしない。そもそも、シェルターにあった公園同様にここで人に会ったことがないのだ。この建物の中にいる人は皆、常に何かしらの作業を行っているためこの階でのんびりと過ごすという時間が無いのだった。
しかし今日は違った。人工芝が植え付けられているそこに、ルナが立っていた。峡は言葉を失う。
ルナが、髪を切っていた。腰まであった長い髪を、ばっさりと肩まで短くしていた。
ルナは峡を見つけるとにっこりと笑い、軽く手を上げて「おはよー」といつものように軽い挨拶をする。
それは、三日振りの挨拶だった。あの日から、レベル5のセカンド・ボルケーノを粉砕したあの日から、今日で三日経っている。その三日間、峡はただの一度もルナに会っていない。幾度となく会おうと思い、シンカイに掛け合ってみても許可は下りなかった。あの日出動した一人と二機は、危うい状況だったらしい。サファイアは神経回路が合計で二十三本焼き切れていて再接続に追われ、ルビーは思考回路がイカれてバックアップ及び修正に時間を費やした。ルナに至っては体の五感が完全に失われた状態で眠り続けていたそうだ。その知らせを受けたとき、峡はどうすることもできずに立ち尽くしていた感覚を今でもはっきりと思い出すことができる。
そんな状況だったのにも関わらず、それでもルナはここいて、峡に向かって手を振ってくれる。それが、本当に嬉しかった。涙があふれ出そうになるのを何とか堪え、峡は歩き出す。ルナが回復したことをこういう形で知らせてくれたシンカイに感謝したいと思う。ルナの側まで歩み寄った峡は、どうしようもない感情を押し殺し、それでも笑って「おはよう」と言葉を返した。
側まで来た峡を見つめ、ルナは言う。
「久しぶり。元気してた?」
何でもないような口調。それがルナの優しさだったのだろう。
だから、それに答えようと思った。
「何とか。ルナはどう?」
「わたしも何とか。無事復帰だね」
そう言ってルナは「あはは」と笑い、それから自分の髪を手でそっと押さえる。
「イメチェンしてみました。ねえ、似合う?」
似合う、という返答がついにできなかった。ルナにはどんな髪型でも似合うと純粋に思う。これも何の裏がなく、ただ単純にイメチェンしただけなのなら峡も似合うと絶賛するだろう。だが、裏がある。想像を絶する重い裏が。何もできずにただ見守っていただけの自分に、笑いながら「似合ってるよ」と言えるだけの資格はないのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。あの長い髪は、もう戻らない。
何も言えず、ただ一人言葉を飲み込んで拳を握る峡の心境を見透かしたように、ルナはただ笑う。
「さっきサファイアと会ったんだけどね、びっくりした。わたしのこの髪を見ていきなり、『悪い、本当に悪いっ!!』って何度も謝るの。サファイアがわたしに対して謝ったのってそれが初めて。でもわかるんだ。サファイアが口に出してわたしを誉めてくれたのって、この髪の毛だけなんだよ。『長い方がお前には似合う』って。だから余計に責任感じちゃってるんだね、きっと。別に気にしてないよって言ってもずっと謝って来て、それでちょっとムカっときてさ、一発殴ってやったの。そしたら元のサファイアに戻ってくれて一安心」
そこまで話したルナは、すっと峡を見据える。
「だからね、峡。君も気にしないで。これはただのイメチェンなの。何にも関係ない、ただわたしがそうしたいと思っただけ。変に気を遣われるとわたしの方が参っちゃう。だからお願い。君は、変わらないで。今まで通りにわたしに接して。……ね、峡?」
ルナの言いたいことはわかる。それを受け入れようとも思う。
ただ、それとは別の所で真っ黒な怒りが湧き上がる。どうしてこんなことになってしまったのか。あれは、一体何が原因だったのか。そもそもなぜ、ルナはこうなってしまっても何も変わらずにいられるだろう。なぜ、あれほどまでに危険な目に遭っても平然としていられるのだろう。怒って当然のはずなのに。恐がって当たり前なのはずに。泣いても、いいはずなのに。それでもなぜ、ルナはこうしているのだろう。
どうして、ルナだけがこんなことをしてるのか。どうして、ルナだけがこんな目に遭わなければならないのか。自分と同じ年の女の子が世界を守っている。自分と同じ年の女の子がこんなにも強い。果たしてそれは正しいのか。今回は髪だけで済んだ。しかし次もそうであるという保障はどこにもない。もしもう一度セカンド・ボルケーノが来て、ルナが出て行って今日と同じことが起きれば、今度こそ駄目かもしれない。二度とルナに会えなくなるかもしれない。それは正しいのか。ルナと同じ年で、ルナと同じ場所にいるのに自分は何もしていない。なのにルナは命を賭けてまで戦っている。
どうしてルナなのか。どうしてルナは何も言わないのか。ルナを一人犠牲にして平然としてられるここの連中に、初めて怒りが湧き上がった。理不尽だとは思う。ここの連中に反吐を吐けるほど自分が偉いのか。ここの連中以上に自分は何かしたのか。偉くもないし何もしていない。自分が怒っていい正当な理由など何一つない。しかしそれでも、何かに怒りをぶつけないことにはどうしようもなかった。
「――……して……」
喉から嘔吐のように言葉が漏れた。
一度漏れたものは自分の意思では止められない。
「……どう、して……」
「……峡?」
ルナが峡の顔を覗き込む。怒りが、向けてはならない人に向けられた。
言葉は爆発する。
「どうしてルナは笑ってられるんだよっ! なんでそんな普通にしてられるんだよっ! おかしいだろ、ルナ一人を駆り出して危険に晒して、それでもどうせまたあれが来たらルナは連れてかれる。おれは確かに何も知らない、だけど知らないからこそおかしいと言い切れる。おれと同じ年の女の子に全部おっかぶせて、何でここの連中は平気な顔をしてるんだよっ! ルナもルナだ! なんで断らない!? もしかしたら死ぬかもしれないだろ! 現にこの前だって、」
「峡」
あふれ出ていた言葉は、ルナの冷たいその声で呆気無いくらいに止まった。
怒りに熱されていた頭が冷静になる。それと同時に、自分が最低なことを口走っていたことに今更に気づく。言い訳もないしできる立場でもない。ルナの澄んだ瞳を正面から見れなくて、峡は視線を外して俯く。何も知らないくせに主張だけは一人前の最低な人間だった。自己嫌悪に陥る。情けなかった。結局は何も知らない。【この世界】のことも、そしてルナのことも。
知りたい、と思う。心の底から、すべてを知りたいを思った。遅くないのなら今からでも、ルナと同じ場所まで辿り着きたいと願う。
ルナは、怒るでもなく責めるでもなく、いつものように柔らかく笑った。
「ありがとう、峡。心配してくれるのは嬉しい。でもね、峡は勘違いしてるよ」
視線を上げる。ルナは言う。
「わたしは、強制させられたことなんて一度もないの。全部わたしが望んだこと。だからね、わたしに対して怒ってもいいけど、ここの人たちを悪く言わないで。みんな、峡と一緒のことを思ってる。それはわたしも言い切れる。それだけはわかって」
これだけは聞いておきたかった。
「……どうして、ルナはそんなことを望むんだよ……?」
ルナは、本心からその問いに答えた。
「家族を守りたいから」
その表情は、とても優しかった。
「ここにいるみんながわたしの家族なの。サファイアとルビー、シンカイさんやここにいる人たち。みんな、わたしの家族なんだ。だからわたしは守りたい。それはわたしにしかできないことだから。もしもわたしが危ない目に遭ってもわたしはそれを貫き通す。【あの日】、わたしはそう決めたの。それはね、峡。君も一緒なんだよ。君もここにいるんだったらわたしの家族なの。わたしは峡も守りたい。だからわたしは自分から前に出ることを望むの。サファイアとルビー、そしてダイヤと一緒に」
でもね、とルナは表情を少しだけ崩す。
「最近、ダイヤの調子が悪いの。前から少しずつダイヤとのシンクロ率が悪くなってたのには気づいてたんだけど、いつも何とかなってた。でも今日みたいのは初めて。きっとダイヤも疲れてるんだと思う」
初めて、そのことを形にして思った。
ダイヤとは、一体何なのか。ダイヤには、『意思』があるのだろうか。
気づいたときには、口に出していた。
「ダイヤって……一体何なんだ……? サファイアやルビーみたいに生きてるのか……?」
ルナは一瞬だけ考えるように首を捻り、すぐに「まあそうなるのかな」とつぶやいた。
「ダイヤもちゃんと生きてる。だけど、それはわたしにしかわからない。ダイヤとシンクロできるのはわたししかいないんだ。シンクロしているときはダイヤの思ってること、言いたいことがわかるの。だから、ダイヤは生きてる。サファイアやルビーみたいに動いたり喋ったりすることはできないけど、ダイヤはちゃんと生きてる」
それからルナは、「だから、ダイヤもわたしの家族なの」と言って笑った。
ルナは、峡のことも家族だと言った。だから守るのだと。危ない目に遭ったとしてもそれを貫き通すのだと。間違っていたのはやはり自分だったのだろう、と峡は思う。ルナのことを何も知らなかった。でも、これからなら知って行くことができる。経験はルナとは比べ物にならないけど、共有することはできる。ルナが話してくれたのなら、自分は何かできるようになるかもしれない。これから知って行こう。もう二度と、先のような過ちは繰り返さないために。
峡は唐突に頭を下げた。
「ごめん、本当にごめん。さっきのはやっぱりおれがバカだった。許して欲しい」
ルナは少しだけきょとんと峡を見つめ、それからすぐにいつものように柔らかく笑う。
「やめてよ、許すも何も峡のことを怒ってなんてないよ。どっちかって言うと嬉しかった。顔上げて、峡」
言われた通りに顔を上げる。そして、ルナの本当の笑顔を見たような気がした。
「わたしのこと、心配してくれてありがとう」
そう言って、ルナは短くなってしまった髪を少しだけ揺らしながら頭を下げ、しかしすぐに上げて小さな舌を出して「これでお互い様」と踵を返す。
人工芝の上を小鳥のように歩き出し、途中でくるりと回って峡を見つめる。
「行こ。峡にいろいろと話したいことがあるの。それに、峡にもシェルターでの生活がどんなのだったか聞きたい。いいでしょ?」
返答は、もちろん決まっていた。
知って行こう。ここから、一緒に。
【この世界】を、そしてルナを、知って行こう。
峡は歩き出す。ルナと共に。
人工芝の上を笑いながら歩くルナと峡を見守っていた虫が二匹、そこにはいた。
B1の隅っこの物陰に隠れるようにして、二機の虫はじっとしている。
やがて赤虫がぽつりと言葉を紡ぐ。
「あれだね、どうなるかと思ったけどこれで一件落着だね」
それに返答するは青虫。
「……どうでもいい、あんなガキのことなんか」
「なんだよ、まだルナの髪のこと気にしてるの? いい加減本当にルナに怒られるよ?」
青虫はバツが悪そうに視線を外し、それっきり無言になる。
しばらく沈黙が続き、唐突に赤虫が「あ、それだそれ」と思い出したかのように一人で肯く。
「なんだよ?」と不機嫌そうに視線を戻した青虫に、赤虫は言う。
「今のサファイアの心境を例えるとあれだね、『娘をどこの馬の骨ともわからない若造に取られた父親』」
「ばっ、おまっ、、お前思考回路まだぶっ壊れてんじゃねえのか!? ふ、ふざけんな、誰がそんなこと思うか! 殺すぞっ!!」
その反応に赤虫は満足そうに笑う。
「それでこそサファイアだ。いつまでも考えてるのはサファイアらしくない」
「――……るせえ」と青虫はつぶやき、それからすぐに起用に首を振って悪態をつく。
「クソッ、おれはもう帰って寝る。あいつら追跡したいんならお前一人でやれ」
そうして、青虫は歩き出す。
それを見送りながら、これでサファイアはだいじょうぶ、と赤虫は思う。そして、次の問題はキシマ・峡だと考え出す。今の関係がこのまま続けば、いつか必ず峡はルナの『あれ』を知る。そうなったとき、峡はどうするのか。ズルズルと時間ばかり引き延ばしてから知るのと、早い内に知っておくのとはどちらが峡には優しいのか。本当はルナの口から直接話すのが一番良いのだろうが、果たしてルナは言い出せるだろうか。秘密にしたまま押し通すのは峡にとっては酷なことだろう。それに、今や峡は家族なのだ。知る権利はある。自分の口から『あれ』を話すのは反則だとは思う。でも、そうしないと峡はもっと追い詰められるかもしれない。
赤虫は少しだけ目を瞑り、さらに考え込む。やがて、一つの結論が浮かび上がる。
「…………ごめんね、ルナ。でも、ぼくはルナが傷つくのは見たくないんだ……」
そうつぶやき、赤虫はゆっくりとその場から歩き出す。
次に『あれ』があるのは……二日後の夜。赤虫はもう一度だけ心の中でルナに謝る。
そうして、赤虫の姿がB1から消える。
二日後。
それが、峡がルナのすべてを知る日。
「心の支えとして」
ふと思う。
例えば三週間前のあの日、無線機の電源をあと数秒早くに切っていたらどうなっていたのか。例えば三週間前のあの日、シェルターの外に出なければどうなっていたのか。例えば二週間前のあの日、慎治と一緒にシェルターの地下空洞に避難していたらどうなっていたのか。もし何か一つでも違ったことになっていたとするのなら、自分はここにはいないことになる。つまりこれはとんでもない偶然が何重にも折り重なり、それにすべて身を任せた結果ではないのか。奇跡に近い偶然を経て、自分はここにいるのではないのか。
ふと思う。
しかしそれは本当に偶然だったのだろうか。偶然ではなく必然だったのかもしれない。もしくは、もしかしたらこれは見知らぬ誰かが思い描いていた台本通りの展開に進んでいて、自分自身が偶然だと信じようとしているこの状況は、【陰謀】という名の物語なのかもしれないのだ。だがそれを証明することはできっこないので真意はわからずじまいとなるのだが、だったらこれは奇跡に近い偶然だと思ってしまった方がしっくりと来るような気がする。
一つ一つの偶然が積み重なり、そして自分はここにいる。そう思った方が、妙に納得できると思う。
だからこれも、数多く起きる偶然の一つに身を任せた結果だったのだろう。
峡の隣には今、サファイアがいる。B1の芝生の上に座り込み、何も言わず、ただ隣り合わせに座っている。気まずい感じはしない。しかしそれでも何か話した方がいいのだろうかとは思う。が、結局は何を話して良いのかわからなくて先ほどからずっとこの状態が続いていた。どうしてこういう状況になったのかはよくわからないが、こうなってしまった経緯はわかる。つまりは偶然である。
はじまりはB4でルナと一緒に夕食を食べ終わって、いつもと変わらずにいろいろなことを話し合い、それからしばらくしてルナが思い出したかのように用事があると言い残して一人でどこかに行ってしまったことだった。やることが無くなった峡は、取り敢えず暇潰しにB1に行こうと決めた。この二週間でわかったことは、このシェルターに本当の暇人など峡一人しかいなくて、そんなハグレモノを相手にしてくれるのはルナとルビーと極稀にシンカイくらいであり、しかし常時一緒にいることなど到底できるはずもなく、よく一人で取り残されることがある。そんなとき、唯一気を許してのんびりとできるのがB1だけだった。そこに人は滅多にいないし、シェルターのいつも昼寝をしていた公園に似ているので羽を伸ばせる。場所は違えど日課を行えることは密かに嬉しかった。無線機は持って来ていないが仕方が無い、昼寝と呼ぶには程遠い時間帯だが誰か来るまでここで寝ていよう――そんなことを思い、ホールのエレベーターでB1に上がって足を踏み入れたら、そこに先客がいたのだ。
芝生の上に青い色をした虫が一機、蹲っていた。青虫は訪問者に気づくと振り返えり、しかしそこにいた訪問者が峡だと理解すると実に嫌そうに視線を外して沈黙してしまった。
どうしようかと迷う。自分はどうやらサファイアにはとことん嫌われているらしく、今までまともに会話したこともないし、一対一で出会うのもこれが初めてだった。この二人きり(?)の状況で昼寝をするのはなぜか自殺行為に思えて、仕方なく今日は部屋でじっとしていようと踵を返した際にいきなりサファイアに呼び止められた。
「――ガキ。待て」
しかし振り返ってもサファイアは向こうを向いたままで、もしかしたらさっきのは空耳かもしれないと思って再度歩き出そうとすると、少々イラついた口調でもう一度声が聞こえる。
「こっち来い。話がある」
一瞬だけ考え、ここで従わなければ殺されるかもしれないと思って峡は恐る恐る歩き出す。サファイアの隣まで歩み寄ると横目で様子を盗み見る。が、サファイアは依然として嫌そうな目つきをしていて、来たのは間違いだったのだろうかと不安に駆られる。この不気味な沈黙にどうしても耐えられなくなって、峡は必死に言葉を紡ぐ。
「……あの話って、」
「座れ」
一言だった。これにも有無を言わせぬものがあって、もし反抗したら今すぐ殺すからそのつもりでいろガキ、という裏の声がはっきりと感じ取れた。
言われた通りにサファイアの隣に腰掛ける。話がある、とサファイアは言った。その話とは何だろうと思う。サファイアが峡と一対一で話す内容など皆目検討もつかなくて余計に緊張が増す。深刻な話しだろうか、それとも世間話だろうか。後者はないと考えてもいいだろう、サファイアと面白可笑しく世間話する自分がまったく想像できないのが何よりの証拠だ。だったら前者か。しかしサファイアが話す深刻な話とは一体何だろう。サファイアから考えられる話と言えば――おれは前からお前が嫌いだった。どうせここじゃ誰も見ちゃいねえ、存分にやれる。死ね、ガキ。死体は大地に埋めてやる、本望だろ?――とかそんなことしか思いつかない。って待て、その想像は十分にあり得るだけに否定できないのが恐い。もしかして本当に――?
隣のサファイアをビビリながら見つめ、しかし先の想像が拭い切れないために何も言えず、どうすることもできなくて峡はサファイアと共にここにこうしている――というのが偶然を経て辿り着いた道のりの経緯だった。
かれこれそれからすでに十分近く経っている。だがその時間が教えてくれた。この沈黙は不吉なものではなく、ただ単にサファイアには『話したいことがあるのだがどうやって話せばいいのかわからない』というような少し変わった雰囲気があって、それに気づいた峡は待とうと思ったのだ。サファイアが話を切り出すその瞬間まで、こっちは沈黙を貫き通そう。これが、サファイアを知って行く第一歩になるような気がした。
そして、その沈黙は案外早くに破れることになる。隣のサファイアが唐突に「……クソッ」とつぶやき、それからすぐにこう言った。
「面倒なのはおれには合わん。単刀直入に言う。おれは、お前が嫌いだ」
それは知ってる、と峡は無言を押し通す。だが殺されるのは勘弁だ。そう言おうかどうかと迷っていると、さらにサファイアは続けた。
「だがルナもルビーもお前のことを家族だと認めてやがる。気分が悪いがそれはおれも認めてやる。だがな、一つだけ言っておく。もしルナに何かしやがったら、その瞬間に誰が何と言おうとおれがお前を殺す。それだけは憶えておけ」
さっきのとは違う沈黙が降り立ち、峡は思うままを無意識に口にしていた。
「…………サファイア、お前…………何言ってんの?」
「ああ!? テメえ今何聞いてやがった殺すぞガキッ!」
巨大な口をガバリと開け放ち、牙を剥き出しにして峡に襲いかかる。
「うわっ、待てって、違う誤解だっ!!」
あと数センチで腕に牙が突き刺さる寸前のところでサファイアがその動きを止める。それからすぐそこにあるサファイアの眼光が真っ直ぐに峡を射抜く。今までの峡ならそれに気圧されていただろうが今は違った。なぜか心の中の心境はこの状況とは百八十度違い、今にも笑い出しそうだった。サファイアを恐がっていた自分はどこへ行ってしまったのか、今やそんな感情はなかった。自分が馬鹿だったと思う。
峡は言う。
「当たり前だ。約束する。おれは、ルナを傷つけない。もしそうなったらサファイアがおれを殺してくれ。こっちからもお願いする」
口からは本心が漏れる。
「さっきのは、まさかサファイアがそんなこと言うなんて思ってもみなかったら驚いただけ。おれさ、サファイアのこと誤解してた。なんだ、お前、良いヤツじゃん」
刹那、胸を何かにどつかれてひとたまりもなく引っ繰り返った。それがサファイアに突き飛ばされたのだと気づくまでにかなりの時間が必要だった。そしてそれを理解すると息苦しさが一挙に押し寄せて来て、峡はその場で咳き込む。
そんな峡から視線を外し、サファイアはまた不貞腐れたように沈黙を押し通し始める。ズキズキと痛む胸を摩り、息を整えながら峡はそっと立ち上がる。そして腕を思いっきり振りかぶり、サファイアの硬いボディを一発ぶん殴った。ボコ、と実に情けない音がした。そんなもの、サファイアにとっては屁でもないのだろう。逆にこっちの拳がダメージを負った。手の甲が真っ赤になる。ダメージなど受けていないくせに、サファイアは声を張り上げる。
「なにしやがるガキテメぇっ!! 殺すぞっ!!」
ものすごいスピードでこっちを振り返ったサファイアに向かい、峡は大声で笑った。
「ちょっとした仕返しだ。一発やられたらやり返す、それがルールだろ」
「っんだとコラあ。上等だ、ぶっ殺すっ!!」
一歩を踏み出したサファイアへ峡は静止をかける、
「待て、さっきので帳消しだ。次やったらチクるぞ」
サファイアが怪訝なそうに峡を見据え、しかしすぐに余裕にあふれた感じに鼻で笑う。
「ハッ。誰にチクる気だぁ? ここの連中にか? それともテメえらシェルターお得意の治安部隊か? 上等だ、まとめて皆殺しにしてやる。誰でもいいから連れて来いや」
「おっしゃ、連れて来てやる。……ルナを」
その一言で、サファイアの態度が一変する。
「か、なっ、ガキッ、テメえぇ……っ!」
勝った、と峡は思った。何だか今までサファイアを敬遠していた自分が酷く情けなかった。話せばわかるヤツだ、というのは知っていたつもりだった。が、その機会が今までにはなかったのだ。しかし今、こうしてその機会が降り立ち、話してみて確信した。サファイアは、良いヤツである。扱いにもコツを掴めば困らない。サファイアの弱点はルナ。それは間違いないと思う。
だが、それは峡の誤算だった。確かにサファイアの弱点はルナである、それは間違いない。間違いないのだが、『ここに』ルナはいない。そもそもどこに行ってしまったのかもわからない。後でチクることは一応可能だが、今はそれをすることはできない。つまり、絶体絶命の大ピンチだった。
サファイアがのっそりと起き上がる。閉ざされた口の奥から「クックックッ」と笑う声が聞こえたように思う。峡は苦笑して、何でもないような素振りで手を上げた。
「あ、おれ用事思い出した。またな、サファイア」
踵を返して歩き出し、気づいたときにはぶっ倒れて顎を強打した。背中に何かとてつもないものが遠慮無しに乗っかる。サファイアの右前足だった。踏み付けている憎き人間のガキに向かって、サファイアは言う。
「どうしたオラ、ガキ。ルナ呼んで来いや、ああ?」
峡は腕を振り回して形ばかりの抵抗する、
「いいんだなっ、本当に呼んで来るぞお前!」
「行けよ、行けるもんならな。さあ、存分にやろうかクソガキィ」
ニタリとサファイアは笑う。そして、峡は笑いを噛み殺す。
ここに来て初めて、シェルターにいた頃の自分らしい行動に出たような気がする。何でもないようなからかい合い。当たり前だったそれが、本当に久しぶりに感じた。たぶん、ここでこんな会話ができるのはサファイアしかいないはずである。ルナともルビーとも、もちろんシンカイとも違う、最も自分に近い存在。それが、サファイアだ。言い換えれば、サファイアは子供臭いのだろう。そう、この踏み付けられている自分のように。
「待てコラサファイア、お前とおれじゃ差があり過ぎた」
「知るか。自業自得と思って覚悟決めろ、そして死ね」
「無茶言うなバカ。こんなとこで死んだらお前あれだぞ、やばいことになるぞ」
「それは任せろ。後始末はこれでも結構得意なんだぜ? だから潔く――」
『サファイアっ! 峡に何してるのっ!?』
その声がすべてを遮った。
峡を踏み付けているその足が瞬間的に退かされ、声が聞こえた方向を一発で振り返り、サファイアは慌てふためく。
「る、ルナっ!? い、いやっ、別にこれは――」
しかしそこにいたのはルナではなく、赤虫であるルビーだった。ルビーは必死に笑いを抑えているようにサファイアを見据え、言う。
「何慌ててるの、サファイア。ルナならいないよ。でも面白いね、その慌て方」
奇妙な沈黙があった。ここらでやっと峡は起き上がり、芝生の上に胡坐を掻いて座り直す。
やがてサファイアが震える声でぽつりと言葉を漏らす。
「……ルビー。再生してみろ」
その言葉の意味を峡は掴めなかったが、ルビーはしっかりと理解した。そしてもう一度、先の音声を再生する。
『サファイアっ! 峡に何しているのっ!?』
それは間違いなくルナの声だ。しかしそれは、ルビーの口から聞こえる。実に不思議な光景だった。サファイアは目を瞑り、感情を押し殺した声で「……説明してみろ」とルビーに弁解を求める。と、ルビーは別段変わった様子はなく、至極当然という感じに口を開いた。
「少し前にルナに頼まれた。サファイアが峡に何かしてるの見つけたらわたしの変わりに怒ってやってって。そのときに録音したのがさっきの声。うん、効果抜群。驚いたでしょ、サファイア?」
サファイアが本当に小さな声で何かをつぶやいた。ルビーには聞こえなかったらしく「なに?」と問い、峡にはそのつぶやきがはっきりと聞こえて背筋が凍りついた。今までのどのサファイアとも違う、正真正銘の怒りの声だ。峡はこれから起こることが容易に想像できて、その恐ろしさに負けて慌ててその場から避難しようと立ち上がり、今度はルビーにも聞こえる声で「殺す」とサファイアが言った。
何もかも遅かった。
「ぶっ殺すッ!! 覚悟しろルビィイッ!!」
B1のフロアを揺るがすような咆哮がサファイアの口からあふれ出て、峡は鼓膜が破れたと本気で思った。背後で爆発的な破壊音が響いて衝撃波が峡を直撃する。空気が鉄の塊みたいに突っ込んで来て、峡はあっけないくらい簡単にその場に倒された。その拍子に芝生を吹き飛ばして驚くべきスピードでルビーに襲いかかるサファイアを見た。静止する時間などなかった。峡の感覚で言えば一瞬の間だった。口を限界にまで抉じ開けたサファイアはその牙をルビーに突き刺そうと、
『サファイアッ!』
ルナの泣きそうな声を聞いた。
サファイアの動きがコンセントを抜いた電化製品の如くピタリと止まった。ルビーの装甲に牙が突き刺さるまでの距離はミリ単位だった。
時のすべてが止まる。峡は奇妙な体勢で引っ繰り返ったまま二機のやり取りを見守り、サファイアは未だにコンセントを抜かれたままで、そしてルビーは「うん、やっぱりサファイアはルナが好きだね。ルナもやっぱりすごい。もしかしたらってときのためにルナが一生懸命録音した声はどうだった?」と言って本当に楽しそうに笑った。
サファイアが震え始める。
「…………もういい。お前たちに勝てる気がしねえ…………」
見ていて気の毒になった。サファイアはゆっくりと牙を引き、のそのそと芝生を歩いて隅っこに蹲ってしまう。これはさすがにやり過ぎだろうと峡は思う。可哀想になって峡がサファイアに声を掛けようとしたとき、それをルビーの声に遮られた。
「ねえ、峡」
「ん、あ、ああ。なに?」
心の隅ではサファイアのことを気にしつつも、視線はルビーに向ける。
そこに、先ほどとは打って変わって真剣に峡を見据えるルビーを見た。ただならぬ雰囲気があった。今までのルビーからは想像もつかないくらいの――いや、この感じは一度だけ見たことがある。実際にその場にいた訳ではない。だが、今のルビーは確かにあのときと同じ緊迫した感じを持っている。あれは五日前のレベル5のセカンド・ボルケーノが来た日のことだ。ルナが髪を切ったあの日。あのときと同じ雰囲気を、ルビーは持っている。
それは、これから話すことがとてつもなく重要なことだと思い知らせるには十分過ぎる効力を持っていた。
「……一つだけ真剣に答えて欲しいことがある」
呂律が上手く回らない。無駄な声を発するよりは仕草の方が良く思えて、峡はただ肯いた。
ルビーは言った。
「峡は、ルナが好き?」
「――は?」
まだ隅っこに蹲っていたサファイアがピクリと動く。
「ぼくはもちろん好きだ。それはサファイアも同じ。だから峡に聞きたい。峡はルナが好き?」
一体なぜ、ルビーはいきなりそんなことを言うのだろう、と峡は思った。
が、答えはすぐに出せた。いつからそう想っていたのかはわからないし、そもそもこれがそういう感情なのかも実際のところはよくわからない。しかし自分は、間違ってもルナのことが嫌いではない。だったら、答えは一つしかないのだ。
峡は、その問いに答えを返す。
「おれも、ルナのことは好きだ」
ルナがいたらこんなことは絶対に言えないよな、と心のどこかで思う。
その答えに、ルビーは満足そうに肯きながら口をそっと開けた。そこに一枚のカードがあった。銀色の分厚く頑丈なカードだ。ルビーが「これを峡に渡しておく」と言ったので、峡はそれを受け取った。持ってみてわかったのだが、これは見た目よりも随分と重かった。
そしてルビーは、引き金になるその話題に触れた。
「峡は知るべきだ。今すぐにエレベーターに乗って。B10のボタンの下にあるスリッドにそのカードを挿し込むだけでいい」
「……なんのために?」
「ルナのために。だから――」
その声は、最後まで続かなかった。
ルビーの体が、峡の目の前から突如として消えた。消えたと思った瞬間に「ゴジャンッ!!」と鈍い音がB1全体に響いて揺れた。呆然と視線を向けたそこに、ルビーに牙を向けているサファイアがいる。
それは、すべてを押し殺した声だった。
「どういうつもりだルビー……ッ! テメえ、一体何企んでやがる……ッ!!」
返答次第ではこのまま殺す、とサファイアの眼は語っていた。
ルビーは先のようにルナの音声を再生することなく、はっきりとした自らの意見を述べた。
「ぼくはこうするのが一番良いと思ったからこうしただけだ。サファイアも思ってるはずだよ。このままじゃルナも峡も傷つく。だから、」
「だから何だっ!! わかってんのかテメえっ!! 今そのガキのそれを教えるってことは、ルナを裏切ることになるんだぞっ!!」
「違う。そうじゃない。いつかは必ず峡が知ることなんだ。いや、峡は知らなくちゃならない」
初めて、ルビーの殺意の篭った声を聞いた。
「上っ面だけでルナを知った気でいられるのは、ぼくは許せない。上っ面だけで好意を寄せられてもルナが可哀想なだけだ。これで何もかも終ってしまうかもしれない。でも、それでもぼくは峡は知らなくちゃならないと思う。そして、ルナも乗り越えなくちゃならない。それは、サファイアもわかってるはずだ。ぼくもサファイアに負けないくらいにルナが好きだ。だから、ぼくはこうすることが一番正しいと思った」
サファイアは何も言わない。じっとルビーを睨み続け、やがて牙をそっと引いた。それを見ていたルビーはぽつりと「……ありがとう、サファイア」とつぶやき、視線を峡に向ける。
事の成り行きを意味もわからずに見守っていた峡は、その視線に完全に射抜かれた。
「峡はルナが好きだと言った。だったら行くべきだ。もしここで怖気づけづいて逃げたら、それでルナが傷ついたのなら、ぼくが峡を殺す」
手に持った銀色のカードを握り締める。そして、サファイアが虚空を見つめながらつぶやく。
「――……行け、ガキ……。それでどうなってもおれは誰も怨まない。だから、行け。行かなければおれもお前を殺す」
ルビーとサファイアから向けられる言葉は残酷なほど痛かった。だけど、二機とも、その裏にはそれ以上に痛い気持ちを持っているのがはっきりとわかった。
敢えて返答はしなかった。峡は二機に背を向けて歩き出す。ゆっくりと、ゆっくりと芝生を踏み締め、五歩ほど歩いたときに想いは弾けた。銀色のカードを握り締めたまま峡は走り出す。B1の扉に体当たりするように通路に飛び出て、最後まで二機を振り返らずに駆け抜ける。背後で泣くように「……クソ」とつぶやくサファイアの声を聞いたように思う。それでも振り返らなかった。異常に明るい通路を走り、息が切れた瞬間に突き当たりにあるエレベーターに到着した。
壁にあるボタンを押すと扉はすぐに開いた。狭はそこに足を踏み入れ、握り締めていた手を解いてカードを見つめる。扉の横に備え付けられたボタンの列に歩み寄り、「B10」のボタンの下に視線を巡らす。そこに小さなスリッドがあることに、初めて気づいた。震える息を吐き出しながら、峡はカードをスリッドに挿し込む。瞬間に「ピー」と機械音が響いて扉が閉まる。微かな浮遊感を感じた刹那、エレベーターは下に移動し始める。液晶画面に「B10」と表示されてもなお、エレベーターはその動きを止めなかった。この建物はB10までしかなかったはずだ。少なくともルナに案内された限りではそれより下はなかった。それなのに、エレベーターは着実にそれより下に進んでいる。
がごん、という音と共に浮遊感が消えた。カードがスリッドから吐き出される。それを無意識に手に取った際に扉は開く。真っ暗な通路がそこにはあった。ダイヤがいるB5の通路より暗い。非常灯どころか、そこには灯りなど一切無かった。だからこそ、通路の最も奥に、四角に切り取られた光をはっきりと見つけることができた。それは、その向こうにある部屋の光が扉の隙間から漏れ出しているようだった。
カードを手に持ちながら、峡はその光を目指して歩き出す。思考が上手く働かない。自分が何をしたいのか、どうしてここまで来たのかさえわからなくなっている。なぜか心臓が破裂しそうなほど鼓動を打っていて、無音のそこではその音が本当に大きく感じられた。知らずの内に足音を殺していた。体が震え出す。頭のどこかで「ここから先に足を踏み入れるな」と警告が発せられる。そうした方がいいのかもしれない、と峡は思う。が、体は止まってくれなかった。足は静かに、それでも確実に一歩ずつ前進して行く。この先にルナがいる。それが確信へと変わる。
光が漏れるそこに辿り着いた。深呼吸をして震える息を吐き出す。心の準備などしている暇はなかった。気づいたら手を伸ばしていて、扉にそっと触れた。自動で扉は開き、眩い光が峡の目を直撃する。普通ならその光景はしばらく見えなかったはずである。それなのに、今だけははっきりと見ることができた。
真っ暗な通路の奥にあるその室内には、シンカイと数人の研究員らしき人がいた。室内には電子音とコンソールを叩く音だけが響いていて、黄緑色の液体が入った円状の巨大なガラスケースが幾つも壁に沿って設置されている。そこから分厚いケーブルが何十本と伸びていて、ホールにあるコンピューターとは全く違う機械にごちゃごちゃに接続されている。それが入力だった。ならば、出力も当然に存在する。機械からはまたケーブルが何十本と伸びていて、それが床を生き物のように這い、室内のちょうど真ん中にあるベットのような所へ辿り着いていた。
そのベットの上には、飛行服に身を包んだルナがいる。
ベットから身を起こしていたルナは、そこにいた誰よりも早くに峡を見つけた。
峡はその場で凍りついている。身動き一つできなかった。今現在見ているこの光景が、ただ単純に、恐ろしかった。ルナが、人ではない何かに思えた。
やがてそこにいた全員が峡の存在に気づく。シンカイも例外ではなかった。
そして誰よりも先に峡に気づいていたルナは、無表情のまま、いつかのようにこう言った。
「――…………どう、して…………峡が、…………ここに…………」
それは、絶望を感じさせる響きを持っていた。
機械から出力として伸びている何十本のケーブルは、ベットの上に辿り着いている。
それは、飛行服を通して、すべてルナに接続されていた。
言葉が、出なかった。
◎
それは、幾つもの偶然が重なり合った結果だった。
何か一つでも違えば、それは全く違う方向へと進んでいたに違いない。しかしそれでも偶然は重なり合い、それは起こるべくして起こった。
その日は、キシマ夫妻が防衛軍からシェルターに一度だけ戻る日であり、サファイアとルビーが初めて実戦投入された日であり、大地に一人の少女がいた日であった。
はじまりの日だ。
空には砂煙が相変わらずあって、その隙間から濁った太陽が弱々しく大地を照らし、風が吹く度に細かな石が耳障りな音を立てて転がり、砂が旋風に吹き上げられて舞いながら何もない大地へと消える。
そして何もないはずのその大地に、今日だけは三人の人間の姿があった。一人は背が高い優しそうな感じのする三十代後半の男性。一人は肩までの綺麗な髪をした柔らかな雰囲気を持つ三十代後半の女性。一人は白衣を着て曲がった火の点いていない煙草を咥えている二十代前半の男。その三人は、何もないはずの大地に立っている。いや、何もないというのは間違いだ。白衣を着た男の後ろには、クレーターが口を開けている。そこは銀色の分厚い隔壁があるどこかへ通じる入り口らしき場所だった。
男は言う。
「亮さん。いいんスか、本当に。何なら送りますよ?」
それに答えるは亮を呼ばれた男性。
「だいじょうぶだ。こんな見晴らしの良い所で迷いはしないよ。それに君はもうここの長だ。簡単に離れて良いもんじゃないだろ。――ああ、でももし迷ったらこれで連絡を取るよ」
亮は深緑色をした無線機を掲げた。それを見ると男は「かっかっか」と笑い、その後からぽつりと「ちげえねえッスね」とつぶやいた。そしてすぐに男は少しだけ寂しそうな顔をして「お二人がいなくなるのは結構辛いッスね……。おれだけでいけるか微妙ッスよ?」と自信がなさそうに苦笑する。
それに、女性は可笑しそうに笑った。
「心配しないで、シンカイくん。シンカイくんならだいじょうぶ。わたしが保証する。それにわたしたちはずっといない訳じゃないのよ。峡に全部話して、あの子がわかってくれたら峡を連れてまた戻って来るわ。そのときは今みたいに弱音吐かないこと。わたしと約束しなさい。それと、煙草は程々にね」
ポリポリと頭を掻き、シンカイと呼ばれた男は女性を見つめる。
「やっぱ幸恵さんには叶わねえッスわ。了解ス、弱音はもう二度と吐きません。あー……煙草は、はい、程々にしときます」
幸恵と呼ばれた女性は「よし」と言ってにっこりと笑った。
一通り話が終わり、小さな沈黙が降り立ち、大地に風が吹き込んだ頃になってようやく、亮が僅かに頭を下げる。
「それじゃ行くよ。いろいろとありがとう。次に会うときまで、元気で」
「そうね。行って来るわ、シンカイくん。またね」
シンカイは咥えていた煙草を手で取ると、背筋を伸ばして別れの言葉を言った。
「息子さんを連れて帰って来るその日まで、お元気で。本当に、ありがとうございました」
そうして、二人の夫婦は一人の男を残して大地へと旅立って行く。
偶然の中へと身を任すように、大地を踏み締めながら歩き出す。
二人の背中が大地の地平線に消るその瞬間まで、シンカイはずっとそこに立ちながら見守っていた。やがて二人の姿が完全に見えなくなるとシンカイはゆっくりと踵を返してクレーターに歩み寄り、そこから中に入る。鉄でできた階段を下りながら壁に備え付けられている赤いボタンを押す。腹に響く音が広がり、クレーターの口を二枚の隔壁が閉ざす。異様に明るい通路を無言で歩き、やがて突き当たりのエレベータへ辿り着く。
狭いその中に足を踏み入れ、「B10」と書かれているボタンを押し込む。扉が閉まってエレベータは下へ動き出す。どうやら誰もエレベーター待ちなどしていないらしく、目的地までは一度も止まらずに行けた。上の液晶画面に「B10」と表示されると同時に扉が開き、目に飛び込んで来るのは驚くほど広いホールだった。巨大な円状のホールにコンピューターが壁に沿ってずらりと並んでおり、そこに列になって何人もの仲間がディスプレイと睨み合いながら操作をしている。天井はちょっとやそっとじゃ届かないほど無駄に高くて、ホールの中心部には何もない。その何もない中心部にシンカイは歩き出し、ホール内をぐるりと見まわす。
今日から、シンカイ・無明は正式にここのリーダーを任された。それもこれも、キシマ夫妻の影響が大きかったと思う。しかしもちろんそれだけではない。シンカイは元々ここでは他者を寄せつけない能力を持っていた。機械を弄らせれば数分でその操作方法と内部構成を割り出し、戦闘機の座標転送をやらせれば右に出る者はいない。放っておいても責任者に抜擢されるのは時間の問題であったのだが、それでも少なくともあと三年は掛かっただろう。そしてその三年という時間を消し去ったのがキシマ夫妻だ。
何年も前からコツコツと積み重ね上げながら造り出したこの防衛軍の切り札とも言える存在。それは区別すれば【サイボーグ】と呼ばれる分野に入る、【ルビー】と【サファイア】という対ボルケーノの最終兵器だった。しかしシンカイは兵器という表現を嫌った。ルビーもサファイアも意思を持ち、喜びも怒りもすれば悩みもする。人間と何一つ変わらないその二機を、兵器とはどうしても呼べなかったのだ。
今現在では二機の調整は最終段階まで進んでおり、しかしそこである問題が起こる。ルビー、サファイアと同じくして、もう一機だけ【ダイヤ】というサイボーグを造り出していた。その頃、ダイヤはまだまだ実戦投入は難しいと考えられていた。そもそもダイヤの構造はシンカイたちも完全には把握していない。それはある種のウイルスだったのかもしれない。ルビーとサファイアが暗号で設計し、それを元にシンカイたちが造り上げたサイボーグ。それがダイヤ。どうやってその構造を造り上げたのかルビーとサファイアは絶対に口を割らなかったし、もしかしたらそれは何かしらのウイルスが侵入した結果なのかもしれなかった。だが、それは魅力的な能力を持っていた。設計図を見ただけですぐにそれを理解した。ダイヤは二機をも上回る性能を持ち、二機をも超越する破壊力を叩き出すのだ。それまでの仮定がどうであれ、見過ごすにはあまりに惜し過ぎる。当たり前のように、ダイヤの製造は開始された。
そして、シンカイたちの手によって造り上げられたダイヤは、覚醒する。しかしそれは、不完全な覚醒だった。まるで赤子のようだった。中途半端に目を覚ましたダイヤは、人には決して聞こえない咆哮を上げて辺りの機械を片っ端から破壊した。やがてそれは人間の脳さえも破壊する威力にまで跳ね上がる。だがそれを寸前の所で食い止めたのがキシマ夫妻だった。キシマ夫妻はシェルターに住む中で唯一独自の力でシンカイたちの存在に気づいた異例の人間だった。彼らをここに招き入れたのは他の誰でもない、シンカイだ。どうやってここを突き止めたのか、何をどこまで知っているのか、それを聞き出そうとしたのだ。しかしその途中でダイヤがその暴走を起こした。偶然にしてその場に居合わせたキシマ夫妻は、驚くべきことにそれを死人が出る前に防ぐことに成功したのだ。あのとき、どうやってダイヤを止めたのかを未だにシンカイは知らない。いつか教えてやる、とは言われたものの、それを聞くことはなかった。
必然だった。ダイヤを宥められるのはキシマ夫妻しかおらず、自然とダイヤの調整は二人に任され、やがてダイヤは完成し、それとまったく同時にルビー、サファイアの最終調整も無事終った。その成果はキシマ夫妻を通し、二人を連れて来たシンカイへと直接流れた。それがシンカイ・無明を一気に責任者へとのし上げることになる。確かにシンカイ個人の能力はずば抜けている。しかしそれが開花するのはキシマ夫妻がいてこそだ、とシンカイは思う。元来人をまとめるのは好きではないし、上手くやれる自信はあまりなかった。だが投げ出す訳はいかないし、弱音を吐くこともできない。それが約束だからだ。
ホールの中心に立ち、シンカイは新しい煙草を咥える。ここは禁煙である。でも自分は責任者だ。別に吸ってもいいのではないか。そんな囁きが聞こえた瞬間に、それは起こった。
ホール全体に警報が鳴り響いた。続いて赤い閃光が輝く。
セカンド・ボルケーノの接近警報。
――いきなりかよ、オイ。シンカイは心の中でそうつぶやきながらも、近くで座標を割り出している作業員に向かって声を張り上げる。
「レベルと場所は!?」
作業員は答える、
「レベル4、座標は200・17です」
早速のレベル4。ルビーとサファイアの出番だった。
初の実戦投入。それが皮肉にもキシマ夫妻が大地へと旅立った今日に行われるとは。
しかし迷っている暇はない。
「ルビー、サファイアをヴァイセルに乗せろ。レベル4のセカンドを粉砕する!」
ホール全体から「了解」という声が響き渡る。
○
どうしてそこにいたのかはわからない。
自分の名前が【ルナ】である、ということ以外、何も憶えていない。
それでもわたしはそこにいた。東西南北のどこを見渡しても見える光景は同じだった。少なくともわたしはそう感じた。人の気配が感じられない味気無い荒れ狂った荒野の地平線。それが、わたしの【世界のすべて】だった。一体いつから、どうしてここにいるのだろう、という当たり前の疑問は、当たり前過ぎるが故にまったく浮かんでこなかった。ただ、これがこの世界の姿なんだろうと思った。この世界はどこまで行ってもこうなのだろうと思った。
わたしはそこをだた一人で歩き続ける。そもそもこの世界に人なんていないと思う。だって、わたしが一人なんだから。風が吹き通り、髪がふわりと舞い上がる。今更に自分の髪が長いということに気づく。その場に立ち止まり、そっと自分の体を見てみる。足は裸足で微かな擦り傷がたくさんあった。痛さは感じないけど、それはどれだけの間この世界を歩いて来たのかを知るには十分だった。服装は真っ白いワンピース、だと思う。今は泥や砂で汚れてとてもそうは見えないけど、それはどれだけの間この世界で過ごして来たのかを知るには十分だった。髪の毛はどうだろう。元々長かったのか、それともここで生きている間に長くなってしまったのか。わからないけど、もう考えるのが面倒になってきた。もういいや。
わたしは止めていた足を進める。どこに行くのか、どこに行こうとしているのかもわからない。それでもわたしは歩き続ける。お腹が減った、と思う。いつからご飯を食べていないのかはわからないけど、とにかくお腹が減った。何か食べたかった。でも、何もなかった。わたしは諦めてぐうぐう鳴るお腹を無視して歩き続ける。喉が渇いた、と思う。けど、ご飯と一緒で何もないので諦める。わたしは何も言わずに歩き続けた。
唐突に、死にたい、と思う。だけどどうやったら死ねるのかわからないから諦めた。
お腹が減って、喉が渇いて、足が痛くて、寂しくて、悲しくて、でも嬉しくて、楽しくて、そして死にたい。わたしはルナ。でも、ルナってだれ? ルナはわたし。でも、わたしはわたしを知らない。何も知らない。それでもわたしはルナ? わたしは、一体だれ? 教えて。誰でも良いから教えて。質問しても答えてくれる人は誰もいない、それが寂しくて悲しく嬉しくて楽しくて死にたいくらいに辛い。もう何も考えたくない。
わたしは歩き続ける。チクリとした痛みを感じた。足を止めて視線を下に向ける。汚れた右足の親指から、真新しい血がじわりと滲み出ていた。痛い。ズキズキと痛いのが押し寄せて来る。初めて、恐い、と思った。だけど、もしかしたらこれで死ねるかもしれない、と喜んだわたしも確かにいた。
音が聞こえたのはそのときだった。空を見上げる。濁った光が射すそこに、『何か』があった。オレンジ色の、丸っこい『何か』。何だろう、と思う。そしてわたしの中から恐いという気持ちが消えて、綺麗という気持ちが湧き上がる。『何か』は落ちて来ている。わたしを迎えに来てくれたのかもしれない。だからわたしは『何か』に向かって両手を上げた。
光があふれた。『何か』に向かって『何か』が飛び出して行く。オレンジ色のそれに、黄緑色のそれがぶつかる。わたしの世界が白と黒になった。しかしすぐにそれは灰色になってわたしの世界を塗り潰す。目を開けていられなかった、気づいたら体が飛んでいた。背中を打った。さっきのよりぜんぜん痛くて、わたしは泣いた。
霞んでいる視界のその中で、わたしは見た。オレンジ色の『何か』がバラバラになって、その一つがわたしに向かって落ちて来る。やっぱり、『それ』はわたしを迎えて来てくれたんだと思った。霞んだ視界の中で、わたしはもう一度、手を向ける。どこかでこう感じた自分がいる。
――死んじゃう。
――――死にたくない。
目の前が真っ暗になった。
眠っていたような気がする。
目が覚めたとき、わたしは、この世界で始めて『誰か』の声を聞いた。
「かっ……ぐぅっ……シン、カイくん……聞こえるか……ッ!?」
『聞こえますっ! どうしました亮さんっ!?」
「こ、っちに……来て、くれ……! 子供が、いる……ッ!!」
『子供っ!?』
「ああ……頼んだよ……。………………すま、ない………………」
『ちょ、亮さんっ!? だいじょうぶですかっ!? ――オイッ!! 誰か今すぐこの電波傍受して居場所割り出せッ!! 今すぐだっ!! 急げっ!!』
わたしはゆっくりと起き上がる。そのときになって初めて、わたしの上に誰かが乗っていたことに気づいた。
血塗れな人が二人、そこにはいた。まるでわたしを庇うように、その人たちはそこいる。温かかった。それは、この液体がそうなのか、それともこの二人がそうなのか。よくわからないけど、とにかく温かかった。目から何かが出ていた。わたしは不思議に思って手で触れてみる。透明は液体だった。この赤いのとまったく違うもの。それは、一体何だったのだろう。
わたしの上に乗っていた人の手に、何かがあった。深緑色をした、へんてこな機械。よくわからない耳障りな音を出し続けて、横っ面に何か赤く光っているものがある。何をどうしていいのかわからくなくて、わたしはそれをじっと見つめている。
やがて、唐突にそれが喋った。
『ガガ、ザッ、ピー……ガッ、ザァア――――――バズンッ――――――お前は、誰だ?』
わたしは、知らずの内にこう答えていた。
「…………ルナ…………」
『――お前は、わたしの声が聞こえるか』
「…………うん…………」
『――巡り会えた。ルナ。わたしと、一つになれ。わたしには、お前が必要だ』
「…………あなた、だれ…………?」
『――わたしはダイヤ。お前の家族に成り得る者だ』
「…………か、ぞく…………?」
『――ああ。亮と幸恵も家族だ。……もう、この世にはいないが』
「…………悲しい…………?」
『――違う。悔しいのだ。わたしには守れなかった。だからルナに頼みたい』
「…………なにを…………?」
『――家族を守ることを。わたしの家族を、ルナに守って欲しい。わたしと、共に』
「………………………………」
『――駄目か?』
「…………ううん…………」
『――では?』
「…………わたしが、守る。ダイヤと、一緒に…………』
初めて、笑ったような気がした。
誰かに必要とされることが、なぜか今はただ純粋に嬉しかった。家族というものが何なのかよくわからない。それを守るというのはどういうことなのかもよくわからない。それでも誰かに必要とされ求められることが嬉しくて誇らしかった。だからわたしは家族になったダイヤと一緒に、家族を守って行こうと決めた。心の中が、なぜかあったかかった。
『――礼を言う、ルナ。……迎えだ。本当のわたしと出会えることを楽しみにしているぞ』
「…………うん…………」
ダイヤの声が聞こえなくなって、わたしはゆっくりと目を閉じる。
何も考えられなくなる、体に力が入らなくなる。
意識が深い闇へと落ちていく。
どこからか排気音が近づいていた。
◎
恐かった。とにかく恐かった。
理由のわからない正体不明の形にできないものが体の底からあふれ出てきて、それをどうしても抑え切れずに走り出した。どこを走ってどうやってここまで辿り着いたのかはわからないが、それでも自分は扉を抜けてここにいた。無機質な室内に、端っこに配置されている机の上に無線機がポツリと置いてある場所。自分が寝泊りしている部屋だった。自動で扉が閉まると室内は完全な闇に包まれた。灯りは点けなかった。それ以前にそのときはそれすらも忘れていた。ベットの上に倒れ込んで毛布に包まって馬鹿みたいに震えた。
体に生き物のようなケーブルが何十本も接続されていたルナの姿。
目を閉じて思い出される光景はそれしかなかった。あの光景は、ただ単純に恐かった。何も考えられなくなるくらいに恐かった。今まで自分が知っていたルナがまったくの別人に見えた。いや、それ以前にルナが人ではない何かに見えたのだ。信じたくはなかった、だけど感情がいくら否定しても理性は現実だと訴える。ルビーとサファイアが自分に知らねばならないと言ったルナの『あれ』とは、その光景だったのだろう。一体何のためにそうしたのか、『あれ』を見て自分にどうしろと言うのだろう。そもそも『あれ』は何だ? どうして同い年の女の子があんなことになっているのか。最悪の考えが脳内に浮かび上がっては消えてまた浮かび上がる。それが永遠と繰り返されて恐怖を倍増させ震えが増す。
ルナは、人ではないのではないか。
考えないようにしていた最悪の結論。まだ決まった訳ではない。ルナと過ごしたこの日々が全面的にその考えを否定する。ルナは自分と同じ人であるはずだ。それは間違いないと思う。だけど、だったらさっきの『あれ』はどう説明すればいいのかがわからない。普通の人にケーブルを接続するなどあり得る光景ではない。ならばどうしてケーブルを体に接続されていたのか。それは、ルナが人ではないからなのではないか。違う、違う、違う。ルナは人だ。自分と同じ人なのだ。そうに決まっている。そうじゃなきゃ嘘だ。そんなはずはない。そうだと、信じたかった。そうだと、祈りたかった。
真っ暗な部屋のベットの上で毛布に包まって震え続けた。
つい数分前の出来事のはずのそれが何年も前のことに思える。最後に見たルナの表情は瞼に焼きついている。泣きそうに、絶望を表していた。あのとき、自分が逃げ出さなければ何かが変わっていたのかもしれない。もしかしたらそのまま踏み出して何もかも知ればまったく違った方向へ進んでいたのかもしれない。こうしてベットの上で震える必要はなかったのかもしれない。だけど、現に自分は逃げ出してここでこうして震えている。今更戻って何もかも知りたいと願うのはできるはずもなかった。逃げ出した自分に、そうするだけの資格などあるはずもないのだから。しかしそれでも、自分は忘れられない。
上っ面だけで好意を寄せられてもルナが可哀想なだけだ、とルビーは言った。その通りなのかもしれない。自分は、ルナの表面ばかりに好意を寄せていたのかもしれない。だからこそ『あれ』を見て怖気づいて逃げ出しのだろう。ルナはどう思っているのだろうか。ルナは今頃どうしているのだろうか。自分と同じように震えているのか、それとも泣いているのか、もしかしたらいつもと変わらずまた会ったら普段と同じように「おはよー」と手を振ってくれるのかもしれない。だったら、自分はどうするべきなのか。今の自分が、ルナのために何をしてやれるのだろう。
ルナが好きだった。紛れもない本音が、ようやくわかった。
自分は、ルナが好きだった。確かに上っ面だけしか知らなかった。だけど自分は決めたのだ。ルナを知って行こうと。今がそのときだ。自分はどうするのか。決まっている。ルナのすべてを受け入れて、自分はそれでも好きでいよう。ルナはルナだ。もし最悪の考えになったとしても、それは他の誰でもないルナなのだ。恐れる理由は何一つない。真正面から向き合おう。それが、ルナにしてやれるただ一つのことだと思うから。
扉が控え目にノックされたのはそのときだった。いつの間にか震えは止まっていたがその音に体が反射的に震える。返事はしなかった。いや、できなかったのだ。やがてもう一度扉がノックされ、小さな、本当に小さなルナの声を聞いた。
「…………峡。……入っていい?」
そうやって、ルナが峡の部屋に入るときに確認を取ったのはこれが初めてだった。
やはり、返事はできなかった。それから数秒後、微かな振動音と共に扉が開いた。真っ暗な部屋に通路からの光が射し込み、そこに飛行服を着たルナが立っている。その一歩をゆっくりと踏み出し、毛布に包まって身動き一つしない峡に近づく。扉が閉まって部屋に闇が戻って来たとき、ルナがいつかのようにベットに腰掛けた。
その感触を、体全体で感じていた。格好悪い、と自分でもはっきりと思った。だけど、いざこうしてルナと話すことになると何を言っていいのかがまったくわからない。どうしていいのかわからなくて、峡はずっとベットの上で蹲っていた。部屋の中を、静寂が支配している。互いの息遣いさえも聞こえない。このままこうしていられれば、いちばん楽なのかもしれなかった。
突然にして毛布越しにルナの手を感じた。
「……ごめんね、峡。今まで黙ってて。いつか言わなくちゃと思ってたんだけど、言えなかった……。峡に嫌われるかもしれないと思っちゃうと、言い出せなかった……最低だね、わたし……」
数秒の沈黙、
「……あそこに行けって言ったのはルビーとサファイア?」
無意識の内に肯く、
「……そっか」
それっきり、ルナは何も言わなかった。
聞くなら今しかないと思った。
「…………あれって、何なんだよ…………」
声がうわずった。泣いていると思われたかもしれない。しかしそれも仕方がないのだろう。実際、自分でも泣いているのかいないのかわからなかった。
ルナは、ゆっくりとその答えを口にした。
「……わたしとダイヤを繋ぐ絆。ダイヤはわたしにしか動かせないって言ったよね……? だから、わたしにはああする必要があるの」
どうしてそんなことをする必要があるんだよ、どうしてルナだけがそんなことをしてるんだよ、おかしいだろ。声には出さずにそう心の中で叫んだ。声にできなかった。声にして叫べば、自分はまず間違いなく泣くだろう。どうしていいのかわからない。気の利いた言葉の一つすら見つからない。
それでもルナは、峡の心の中を見透かしたように言う。
「ダイヤと約束したから。ダイヤと一緒に家族を守るって、約束したから。そのためならわたしはどうなってもいいの。あの日、二人を守れなかったダイヤの変わりに、わたしがダイヤと一緒にみんなを守る。ルビーもサファイアもシンカイさんも。ここにいるみんなをわたしが守る。それはね、峡。前にも言ったけど、君を守ると同じことなんだよ……?」
わかってる。ルナがどれだけの覚悟を決めているのかも知っているつもりだ。
ただ、悔しいのだ。自分が何もできないことがただ悔しかった。自分にはルナやルビーとサファイアのように何かを壊し守るだけの力がない。そして肝心なときには怖気づいて逃げ出す大馬鹿者だ。そんな無力な自分がどうしようもなく恨めしかった。どうすればよかったのだろう。どうすればルナを守ってやれるのだろう。守ってもらうばかりではいけない。ルナが好きだ。だから、守ってもらうばかりではなく、自分もルナを守りたい。それをするには、一体、自分には何が必要なのだろうか。
答えは、すぐそこにあるのかもしれない。自分にボルケーノを打ち砕くだけの力はない。自分に命を張ってまでボルケーノから皆を守るだけの度胸もない。だけど、ルナの力になることはできる。直接的に何かできなくても、間接的に何かできればそれがルナの力になるのではないか。
ルナの、心の支えになってやりたかった。
毛布を剥ぎ取る。ゆっくりとその身を起こす。ルナを、真っ直ぐに見据える。同じ過ちは繰り返さないと誓った。だから、峡はそれを口にした。
「おれじゃ駄目かもしれない。でも、おれにできることがあれば何でもする」
「……峡?」
「ルナがおれを守ってくれるんだったら、おれはルナを支えてやりたい。話してくれないか。ルナのすべてを。嬉しいこと楽しいこと、寂しいこと辛いこと。何でもいいから。おれでいいなら何でも聞いて力になるから」
あのとき、ルビーにルナが好きかと聞かれた。自分は好きだと答えた。それから、ルナがいたらこんなことは絶対に言えないよな、と心のどこかで思ったはずだ。だけど今なら言えるような気がした。それでルナを支えてやれるのなら、喜んでそれを口にしよう。
この想いが、今、はっきりとした形になった。
「おれはルナが好きだ。だからルナの力になりたい。知りたいんだ、ルナを。だから、話してくれないか」
目を背けず、すべてを受け入れてもなお、ルナを好きでいたかった。
真っ暗な部屋で、互いの表情さえはっきりと見えないそこで、ルナはそっと肯いた。
それは、泣いているように思えた。寂しいのではない。辛いのではない。それは、嬉しいから。途方もない世界の中で、また一つ、大きな支えができたから。それが、嬉しかったから。
これから、何もかも始まるんだと思った。
「…………うん。ありがとう、峡…………」
ルナが笑う、峡が笑う。
峡がその手をそっと伸ばし、ルナの涙を拭いてやる。それにルナは照れ臭そうに笑い、
そして、
始まった瞬間に終った。
警報が響く、闇の室内を赤い閃光が切り裂く。
今までの接近警報の比ではない。峡にはわからなかった。でも、ルナにはわかった。
それは、レベル7の警報。
サード・ボルケーノが動き出した合図だった。
「壊れゆくその中で」
何もかも振り払ってルナと一緒にエレベーターに駆け込み、数十秒後に辿り着いたホールには、いつものコンソールを叩く音もディスプレイを静かに睨めっこしている人の姿もなかった。ホールは喧騒に包まれていた。誰も冷静でいられない状況に陥っている。呆然と立ち尽くす峡の耳に罵声が途切れ途切れに届いて来る。座標はどうなった、大気圏突入までの時間は、調整は終ったのか。その中で峡が正確に聞き取れたのは、たったそれだけだった。他は専門用語が入っていて何を言っているのかはさっぱりわからない。
何もないホールの中心部では作業員が止まる暇もなく横切り、そこにいたシンカイと二機の虫の姿を見つけるまでにかなりの時間が必要だった。先に走り出したルナの背中を追い、人の荒波を縫ってそこへ向かう。シンカイに子供のような笑みはなく、初めて見るような緊迫感あふれた表情をしている。サファイアとルビーは互いの口から出したコードを繋ぎ合わせて身動き一つしない。二機の眼光に光はなく、意識はデータの海へと堕ちている。
焦る気持ちを抑えつけ、ルナは静かに問う。
「シンカイさん、状況は?」
そう言われて初めて、シンカイはルナとその隣にいる峡に気づいたようだった。
小さな舌打ちをして、それがホールの喧騒に掻き消されたときにシンカイは喋り出す。
「見ての通り最悪だ。お前もわかってると思うが今回は今までの比じゃない。サードが完全に動き出した。しかもその周りに残りのセカンドをすべて巻き込みながらこっちに突っ込んで来てやがる。威力はファーストと同等、下手すりゃそれ以上になる。サードだけなら座標も割り出せるんだがそれを周りのセカンドが邪魔してやがってさっぱりだ。サファイアとルビーの演算回路を借りて割り出しに全力を注ぎ込んでるんだがいつになるかわからねえ。他の防衛軍にも連絡を取ってるんだがもともとヤツらはおれたちを嫌ってるからこっちもお手上げだ。こうなりゃおれが――もたもたすんなっ!! 死にてえのかっ!! ヴァイセルの始動はいつになったらできるっ!!」
シンカイが峡とルナを置いて走り出す。下に任せているより自分でやった方が数倍早いと判断したのだろう。その意図を感じ取ったルナもシンカイに続いて走り出し、近くに投げ出されたコンピューターの前に座り込んで峡にはまったく理解できない操作をし始める。
唐突に周りの喧騒が遠のいた。周りに誰もいないような感覚が全身を支配する。すべてが他人事に思えた。実感がまったく湧かない。誰一人として止まってなどいないのに、峡だけはホールの中心で気が違ったかのように立ち尽くしている。改めて自分の無力さを思い知った。自分にできることなど、本当に何もないのだろう。そもそも「何かをしよう」という気力すら沸き上がって来ない。心のどこかではいつまでも他人事だと思って傍観している。三週間前に初めてセカンド・ボルケーノの存在を知り、そして今はサード・ボルケーノの存在を知った。これで実感を持って行動しろ、という方が無理な話である。何もできないし、やろうと思ってもやれることなど何一つない。
本当に他人事なら今頃、自分は慎治と一緒にシェルターの中で大音量で聞こえるサイレンに顔を顰め、競り上がる隔壁を忌々しげに睨みつけ、迫り来る治安部隊から逃れて、来るはずもないボルケーノに悪態をついているはずだった。それなのに、自分は今、一体どこで何をしているのか。耳に届く警報と意味のわからない喧騒に魂を抜かれ、目の前を歩き続ける作業員を呆然と見つめ、着実に近づいて来るサード・ボルケーノを他人事だと思い、何もせずにただ立ち尽くしている。これは果たして、本当に現実なのだろうか。まさかここの人たち全員でドッキリ企画でもやっているのではないか。このままボルケーノは大地に激突し、あーもう駄目だーみんな死ぬー、ってときにシンカイは子供のような笑顔で「かっかっか」と笑って『ドッキリ!!』とか書かれた看板を掲げ、サファイアは「馬鹿だ間抜けだ情けねえぞガキ!!」とアホみたいに笑って、ルビーはただ笑いを噛み殺し、その隣ではルナが柔らかく笑いつつも目には涙を浮かべながら「ごめん峡、実はドッキリでしたー」と何食わぬ顔で宣告して、絶望に塗り潰されて呆けている自分を指差して笑うのだ。そうに決まっているのだ。だって、
「終ったぜシンカイッ!! ドンピシャだ!!」
サファイアの声に現実に引き戻された。
峡の視界が慌しいホールを映し出す。
そしてすぐにルビーが弾き出した座標と大気圏突入までの時間をホールにいるすべての者へと発する。
「サードが来るのは二時間三十六分十三秒後、座標は0・4。――ここの真上に近い」
一瞬だけ音が消え去り、ホールが沈黙する。
しかしそれはやはり一瞬だけであり、正確な時間と場所を知った作業員は先にも増して慌しくなる。早足だった者は全速力で走り出し、声を上げていた者は喉が焼き切れんばかりに怒声を張り上げ、コンソールを叩いていた者はヤケクソのように弾く。作業を放り出したシンカイが二機の元へと戻って来る。その表情は、明らかに動揺していた。
「間違いないんだろうなお前ら!?」
それは、ある種の救いを求める問いかけだったのかもしれない。だがそれでも、二機はその救いを呆気なく切り離した。
「間違いないよ。たぶん今から外に出て空を見上げれば結構はっきりと見えると思う」
「もしこれの粉砕に失敗したら地下にあるとは言え全員即死だろうな。しかもそれだけじゃ終らなねえ。ファースト同様にまた世界の半分をぶっ壊すぜ。一五〇年前とは違って今度の被害はそれよりデカイ。シェルターが一体何個ぶっ潰れるか検討もつかねえよ」
投げやりに答えたサファイアに、シンカイが言葉を失くす。シンカイの余裕が消え失せた表情は現実感などこれっぽっちも感じさせなかった。
ルナがコンピューターを持ちながらルビーに近づいたのはそのときだった。まだ口から出しっぱなしになっていたコードを問答無用で引っ手繰り、それをコンピューターに接続する。
「転送して!」
その意味をルビーは一発で理解して、サファイアと共に弾き出した座標及び大気圏突入までの時間をコンピューターへと流し込む。それを処理したルナはすぐさまコードを引き抜き、走りながら何やら操作をする。ホールにあるメインコンピューターから延びるコードをもう一度接続したときにはすでに必要なことはすべて終っていた。ルナはたった一つのボタンをゆっくりと押し込んだ。
突如としてホールの中心部にホログラム映像が浮かび上がり、全員が一度だけ手を止めてそこを振り返る。そこに映し出されているものを、この場にいた峡以外の全員が理解していた。ホログラム映像が映し出しているそれは、丸い石ころのようなものだった。まるで大地の表面を切り取ってそのままボールに貼り付けたようにデコボコしていて、所々が赤く蠢いている。その周りにはさらに小さな石ころが何十個も取り巻いており、その中の豆粒サイズの小さい石が時々赤い炎に包まれてそっと消える。
その大きさは、常軌を逸していた。約五十万人がのびのびと生活できるシェルターの大きさを持ってしても、その石は余裕で納まり切らない。そんな出鱈目なものがこの瞬間にも進んでいて、濁った空の中からここに向かって真っ直ぐに突っ込んで来ているのだ。見ていて笑える光景だった。実際に何人かの作業員は自嘲染みた乾いた笑いを漏らしていたし、サファイアに至っては口を盛大に開け放ちながら「かあーっ! ここまでデカイと笑えてくるなクソヤロォオーッ!!」と自暴自棄に陥り、シンカイは何も言わずに映像を見つめ、ルナは無表情に近かったと思う。
そして峡はただ一人だけ、やはりその大きさに現実を実感できていなかった。そこまで言うほどデカイのか、と漠然と感じているだけだ。そもそもこんな映像だけでその大きさを実感しろという方がやはり間違っている。専門知識がまるで無い峡にそれを求めるのは不可能に近い。確かに実際に見ればその大きさに言葉を失くすか発狂するかだろうが、今見ているのはただの映像であり、そこに映っているのは実感の湧かない程度の大きさだった。
まだ、心では他人事だと思っている自分がいる。しかしそれは、シンカイのその一言で砕け散った。
「……ルナ。お前とダイヤでどうにかできる大きさか?」
この状況にもサード・ボルケーノの大きさにもシンカイの無表情にも現実感などこれっぽっちも湧かなかったが、その名がすべてを引き戻した。行かせてはならない。何を思うよりも早くにそう感じた。もしここでルナを行かせれば以前のように本当に髪だけでは済まない。専門知識がない峡でもそれだけはわかる。だから、ルナを、行かせてはならない。
そして峡が何かを言うより早くに、ルナは呆然と首を振った。
「……無理だよ……。ダイヤでもこんな大きいのは絶対に無理……」
もしこのボルケーノを粉砕できなければ死ぬというのに、心のどこかではルナのその返答に無意識の内にホッとした自分がいた。
シンカイが近くにあった壁を盛大に殴りつける。考えがまとまらないのだ。サード・ボルケーノを甘く考え過ぎていた。ルナとダイヤがいれば、悪戦はするだろうが必ず粉砕できると思っていた。それだけの力がダイヤにはあると信じていた。それなのに、通常では考えられないダイヤの破壊力の上を、サードは行った。こうなってはどうすることもできはしない。ダイヤで応戦しても表面を削るだけで粉砕までは至らないだろう。被害は少しだけ抑えられるかもしれないがそんなもの何の役にも立ちはしない。どうすればいいのか、まったくわからなかった。責任者失格だ、とシンカイは思う。
しかし、ルナのつぶやきが活路を見出す。
「……でも、大きさが半分になれば何とかできるかもしれない」
「半分……? それで本当にどうにかできるのか?」
「自信はない、けど……ダイヤが、そう言ってる」
ルナは胸に手を当て、目を閉じている。それを見ながらシンカイは独り言のように喋り出す。
「……半分か。どうやってサードを削るか、それが問題だ。ヴァイセルを突っ込ましても高が知れてる……。ルビーとサファイアの主砲を打ち込んでも同じだろう……。もっと爆発的な威力の破壊が必要だ……が、ダイヤ以上の破壊力を持つものなんてこの世にあるはずがねえ……どうすりゃいい……」
唐突だった。誰もが必死に悩み、どうすればサードを半分まで削り取れるか考えていたその中で、サファイアがいきなり笑い出した。ホールにいた全員の視線が集まる。そして、ルビーもサファイアを見て「それしかないよね」と言って笑い出す。意味がわからなかった。どういうことなのかと全員が視線で答えを促し、それに気づいたルビーが説明しようと口を開く。
「つまりね、ぼくとサファイアが――」
それにサファイアが割って入る、
「簡単だぜ。おれとルビーがサードに突っ込んでオーバーフロー起こして半分ぶっ壊す。おれらの機関が暴発すりゃダイヤ以上の破壊力が生まれる。それでシメにルナとダイヤが残りの半分をぶっ壊せば事は完了、被害はなしでミッションクリア。――だろ、ルビー?」
それにルビーは満足そうに肯く。
「うん、そういうこと。さすがサファイア、ぼくと一緒のこと考えてる」
「当たり前だ」
二機が笑う。どうだこれで問題ないだろ恐れ入ったか、そんな感じに、二機は笑っている。
言うのは簡単だ。事実そうすればかなり高い確率でサードの半分をぶち壊し、ルナとダイヤが残りを粉砕してくれるだろう。だが、それには当然のように代償が付き纏う。二機がオーバーフローを起こして機関を暴発させればダイヤ以上の破壊力が生まれるのもまた事実。しかし、もしそうなれば、二機はもう二度とこの世に戻らないことになる。内臓をぶっ飛ばしてサードを巻き添えに自爆する。サファイアとルビーは、そう言っているのだ。
それにまず真っ先に反対したのは、他の誰でもない、ルナだった。
「ダメッ!! そんなの絶対にダメ!!」
走り出し、サファイアの頭を力一杯殴り倒す、
「何考えてんのよばかあっ!! そんなこと死んでも言うなっ!!」
「痛てえなコラ、何すんだ。取り敢えず落ち着け」
いつものようにサファイアは食ってかからない。
それは、ルナの涙を見たからだった。ホールにいた全員が自分の役割を忘れ、それを見守る。ルナの気持ちは全員痛いほどわかる、だがルビーとサファイアの意見が正しいこともわかる。だからこそ何も言えない。この中に口を挟んで良い者など誰一人としていない。
奇妙なまでに静まり返ったホールにルビーの声が響く。
「そうだよ、落ち着いてルナ。仕方が無いんだ、それしか方法がない。このままじゃみんな死ぬ。そうなればルナも死ぬ。ぼくとサファイアがそれがいちばん恐い。ぼくたちは死ぬのなんかは少しも恐くないけど、ルナが死ぬのは本当に恐いんだ。だからわかって」
「わかんないよっ!! だって、だって!!」
「だってもクソもねえよ。それしかねえんだから。泣いてんじゃねえよバカ」
バカじゃないバカなのはサファイアとルビーだよと叫んでからもう一度ルナはその頭を殴りつける。やはりサファイアは怒らない。
必死に涙と嗚咽を抑えつけようとしているルナに向かって、サファイアは静かにこう言った。
「ルナ。お前がダイヤと一緒にボルケーノに立ち向かうその理由はなんだ?」
一瞬だけ言葉に詰まったルナが、その問いに答えを返す。
「…………家族を、守るため…………」
「そうだ、それでいい。だからおれたちも家族を守るためにそうするんだ。今、家族を救える可能性を持ってるのはおれとルビーだけだ。それはわかるな?」
ルナは肯定も否定もしない、
「だったら取るべき行動は一つだけだ。おれたちが先陣切ってサードを半分ぶっ壊すから、あとはルナとダイヤで頼む。それが家族を誰一人として失わずに済む唯一の方法だ。それもわかるな?」
やはり肯定も否定もしない。しかしそれでも、心の中では「誰一人なんて嘘。だって、サファイアとルビーがいなくなっちゃうじゃない」とつぶやく。が、それは決して声に出してはならない想いだった。出せば最後、自分が何をしでかすかまったく予想がつかない。二機の意思を、無駄にしてはならないと必死に自分自身に言い聞かす。
そして、サファイアとルビーは言った。
「お別れだ、ルナ。楽しかったぜ」
「うん、楽しかった。元気でね」
その直後、瞬間的に声を張り上げる、
「シンカイッ!! 今すぐヴァイセルの準備をしろっ!! 大気圏に突入するより早くに迎え討つッ!!」
「整備チームに連絡を入れてっ!! 有りっ丈のデータをぼくとサファイアに転送して欲しいっ!!」
ホール内から爆発のような騒ぎが巻き起こる。シンカイが走り出してヴァイセルの始動準備に全力を尽くす。連絡を受けた整備チームが膨大な量のバックアップデータをすべて引き出す。方針が決まった今、ホールは加速し始める。誰一人として、諦めている者はいない。
その場で立ち止まっているのはサファイアとルビーを除けば、涙を流して立ち竦むルナと、状況を完全には飲み込めていない峡だけだった。
世界は、加速してゆく。
それから一時間が経過したときにサファイアとルビーへの膨大なデータ転送が終った。続いて武装と最終調整のために二機は意識を深い闇の中へと堕とす。同時にシンカイが他の防衛軍に無理矢理回線を捻じ込み、連絡を入れて「今回のボルケーノはこっちがすべて引き受ける死にたくなければ動くな」と警告を発して黙らせた。
二時間が経過したときにヴァイセルの完全始動の準備が整う。無駄な機能をすべて捨て去ってポットを収納し、サファイアとルビーの思い通りに動かせるようにセキュリティーを無効化させた。大地に巨大なカタパルトを突き出し、それが始まる格納庫へとヴァイセルを乗せる。同時にダイヤへの座標転送も終わり、すべての準備が完了する。
時間が過ぎ去るに連れ、峡はやっとこの状況を理解し、他人事ではなくなっていることに今更に気づいた。ヴァイセルが出動する十分前になってようやくサファイアとルビーに再会できた。皮肉にもその再会場所はヴァイセルの中だった。二機が「ルナと峡をここに呼んで欲しい」と頼んだらしい。ルナは泣き止んではいるものの、僅かに突けばすぐにでもまた泣き出しそうな不安定な精神状態にあるのは一目瞭然だった。ヴァイセルの中にルナと共に足を踏み出した峡は、いつもより大分少ない武装をしたサファイアと、体中からケーブルが突き出ているルビーを見た。
どうせこの武器は使わねえし武装しなくてもよかったんだけどな、と言ってサファイアは笑った。
動き難いけどこっちの方がこれを正確に動かせるから便利なんだよね、と言ってルビーは笑った。
そして、
サファイア……ルビー……本当に、行っちゃうの……? と言ってルナが泣いた。
峡は何も言わなかった。言葉が見つからなかったのもある。しかしそれ以上に、今は自分が何を言っても意味がないと思った。サファイアとルビーの覚悟は十分に感じ取れた。ルナの悲しみも痛いくらいにわかった。だから今は、何も言うべきではないと思った。
「だから泣くなよルナ。ったく、これじゃあもうずっと会えねえみたいじゃねえか」
「そうだよ。ちょっと行ってサード・ボルケーノを半分壊して来るだけなんだから」
そう言って二機は苦笑する。それは心配させないがため、ルナを少しでも安心させようと思うがための言葉。しかしそれが途方もなく痛い。峡でさえそう感じるのだからルナにしてみればその何十倍も痛いはずだった。
ルナがその一歩を踏み出し、姿勢を低くして膝を着いて二機の首へとそっと腕を回して抱き締める。嗚咽の度に肩が震えるのが二機へと直に伝わる。
ルナは言う。
「信じて、いい……? また会えるって、信じていい……?」
「おう。約束する」「うん。約束する」
二機は同時にそう答えた。
叶うことのない約束。それでも、それが支えになる。また会える。たったそれだけの言葉が今はとてつもなく大きい。
そうして、たったそれだけしか言葉は交わせなかった。サード・ボルケーノがヴァイセルの射程距離内に入った。もう出撃しないことには間に合わなくなる。
別れの時だった。
「行って来る。じゃあな、ルナ、ガキ。死ぬんじゃねえぞ」
「じゃあね、ルナ、峡。元気でやらなくちゃダメだよ」
そして、ルナは心を決めた。
泣かないで、笑顔でお別れしようと決めた。
「…………うん。……またね、サファイア、ルビー」
立ち上がったルナが踵を返す。
その際に峡にしか聞こえない、サファイアのつぶやきを聞いた。
――ルナを頼んだぜ、峡――
サファイアが峡を名前で呼んだのは、それが最初で最期だった。
峡は無言でそれに肯き、ヴァイセルを降りた。ハッチが閉まると同時にヴァイセルのローターが動き出してカタパルトに収納される。
格納庫に峡とルナだけが取り残される、どこかで空気を切り裂く排気音が響いて来る。
ルナが大声で泣き出す。その体を抱き締めながら峡は誓う。
ルナを一人にはさせはしない。サファイアとルビーから任されたのだ。
守り抜いてみせる。心の支えになってみせる。
ルナは峡に体を預け、いつまでも泣いている。
◎
「ルビー。お前、自分に思考回路があるのを怨んだことってあるか?」
それは、唐突に向けられたサファイアからルビーへの質問だった。
カタパルトに待機しているヴァイセルの翼端に灯りが点り、エンジンが息を吹き返す。微かな振動が二機の虫を包み込み、ヴァイセルの機関が一つ一つゆっくりと呼吸を開始する。
ルビーは二秒だけ考えてから、その問いに答えた。
「…………無いよ」
乾いた笑いを漏らす。
「おれもねえ。けど、」
サファイアが初めて吐く、本心からの弱音だった。
「今はどうしようもなく怨んでる。震えが止まらない。死ぬのが自分でも驚くくらいに恐い。情けねえって思うよ。いつも偉そうにグダグダお前らに文句言っといていざとなったらこうして弱音吐いてる。死ぬのなんて恐くねえっつってた自分が羨ましいとすら感じる。……お前は強えな、ルビー」
ルビーの機体から何十本と延びてヴァイセルのメインシステムとリンクしているケーブルから制御プログラムが送り込まれて来る。それを一個一個、手の指を動かすかのように確認して自分のプログラムに噛み合わせて馴染ませて行く。
何だそんなことか、とルビーはため息をつく。
「ぼくは強くなんてない。ぼくだって恐いものは恐いよ。でも、決めたから。死にに行くんじゃなくて守りに行くんだって。ぼくは、ルナと峡、ここのみんなのためなら死ぬのは恐くない。それどころかルナを本当の意味で守れるのが嬉しくもある。サファイアもそうなんじゃない?」
外から燃料を燃やしてエネルギーを圧縮する音が響き渡る。ヴァイセルを三つの光の盾が取り囲んでメーターがゆっくりと上昇し、機体に届く振動が徐々に大きくなる。
それもそうか、とサファイアは呆気ないくらい簡単に納得した。
「まあ、ルナを守れるんだから恐いっつーのは変だな。――ありがとうよ、ルビー。これでようやく吹っ切れた。そうだよな、おれは面倒なのが嫌いなんだ。やることはただ一つ、ルナとガキとここの全員を守り切る。それだけだ」
「そうだね」
ヴァイセルの機関がすべて最高峰に到達した。
カタパルトにねじくれたアーク電流が流れ込み、ヴァイセルの車輪を共鳴させる。
「行くよ、サファイア」
ルビーはそう言った。
「上等だ」
サファイアはそう答えた。
停滞していた歪な形をした戦闘機が遥か彼方にあるサード・ボルケーノに向かって吼える。
刹那、ヴァイセルがカタパルトを疾った。
ヴァイセルを取り囲む光の盾が空気の摩擦を相殺し、翼端の灯りが光速で空を切り裂く。疾ったと思った瞬間には車輪はカタパルトから離れ、アーク電流が糸を引くのが残像として残る。空に舞い上がったヴァイセルは戦闘機独特の細く黒い飛行機雲を噴き出しながら機体を垂直に起こして高速のロールを繰り返す。無駄なシステムを取り払ったヴァイセルの機関とルビーの回路が交わって本来以上の性能を発揮する。
色の悪い雲へと突っ込んだ際にロールが終わり、ルビーは機体を安定させて突き進む。雲を出たそこにあるのは濁った空だった。コックピットからそれを眺めていたサファイアは、今から自分たちがぶっ壊す予定のサードがセカンドを率いる最大級のボルケーノを目の当たりにした。やはり笑ってしまうくらいにデカかった。夜の空に浮かぶオレンジ色の光の玉。それを目掛けてヴァイセルはなおも加速を続ける。
機関をすべて制御しているルビーに少しだけ視線をやってから、サファイアはゆっくりと歩き出す。コックピットを出て小さな室内へと入る。扉が閉まった瞬間にその室内自体がゆっくりと下へ向かって動き出し、それはそのままポットに寸分の狂いもなく納まった。真っ暗闇なそこを赤外線の我が目を使って見渡し、目の前にあったコンソールへと口から出したコードを接続する。ぶおん、という間の抜けた音がした際にサファイアの前にスクリーンが浮かび上がり、ルビーが今見ているものが映し出される。それをぼんやりと眺めながら、サファイアは機関を駆け巡っているすべてのセキュリティーを外して行く。オーバーフローを起こす準備だった。
そして偶然にも、ルナと初めて出会ったときの記憶ファイルが見つかった。少し悩んでから、それを開いてみる。小さい頃のルナが自分とルビーを見ながらわんわん泣いている。ああ、そう言えば初めておれたちを見たときにルナが泣いたっけ。確かあれはおれたちを見てルナが「むし?」とか何とか言ってくれやがったからおれが怒鳴りつけてやったんだっけ。そうしたら泣いて泣いてもう大変だった。そんなルナを泣き止ませるために自分が必死に笑わせようと悪戦苦闘している映像までも鮮明に映し出される。初めて笑ってくれたルナの涙を目にいっぱい溜めながらの笑顔。最後に思い出せてよかった、とサファイアは思う。
その映像が終ったとき、ヴァイセルが大気圏を抜けた。
『サファイア。準備はいい?』
どこからともなくルビーの声が響き渡る。
サファイアは先のファイルをメモリーのいちばん奥底に守るように配置すると、口をがばりと開け放って高らかに笑う。
「いつでも来いや」
『行くよ、サファイア。――バイバイ』
「ああ。じゃあな、ルビー」
答えた刹那には、ヴァイセルの格納庫で爆発が起こった。積んであった火薬を爆破してサファイアが乗っているポットをサード・ボルケーノに向かって宇宙へと撃ち出す。
人間ならそれだけで圧迫死するGを物ともせず、サファイアは眼前に広がる笑うくらいにデカイボルケーノへと突っ込む。減速したヴァイセルを一瞬で追い越し、ポットが狙い通りの軌道に乗る。ルビーが見守る、サファイアが笑う。軌道上にあった小さなセカンド・ボルケーノに予定通りに衝突した際にそれは弾け、ポットの中から背中に背負ったビームライフルを出鱈目に乱射しながら周りのものをぶち壊して飛び出すサファイアを見てルビーが笑った。
青虫が宇宙を舞う。それはやがて敵の親玉に辿り着く。親玉に激突したサファイアは表面に足を埋め込んで固定し、早速この状況に狂い始めた機関を無理矢理フル活動させる。膨大なバックアップデータをすべての機関へ強制転送させ、それで生じたバグを一斉に始動させる。何十匹と発生したバグが機関の隅々まで駆け巡り、その内の一匹が、サファイアの核へと到達する。
目の前が真っ白になった。メモリーの奥底に守るように配置した記憶ファイルがバクに飲み込まれる。神経回路、制御プログラム、防衛セキュリティー、その他諸々のすべての機関がバクによって熱を帯び、サファイアの体が一瞬だけ大きく軋んだ。
思考回路さえも焼き切れたその中で、サファイアは記憶にすら残らない最後の叫びを上げる。
何もない宇宙に突如として、巨大な一厘の花が咲き誇る。
それは、サード・ボルケーノの内部にまで侵食し、真っ直ぐに伸びる亀裂を生み出した。
それを見ていたルビーは、こう言った。
「安心して、サファイア。サファイアを、一人になんかさせはしない」
機体から延びるケーブルに出力を最大にしてデータを搾り出し、ヴァイセルのメインシステムを破壊するかの如くにアタックをかける。それに刺激された機関は一発で目を覚まし、減速していたヴァイセルが再び加速し始める。
どこからか、ごおん、という排気音が響き、ヴァイセルのアフターバーナーが一瞬で点火した。光の盾が神速のスピードに付いてこれずに歪み始め、鋼の摩擦を受けた翼端灯が弾け飛ぶ。機体が尋常ではないほど揺れ出し、機内で幾つもの火災が発生する。コックピットに赤いランプが駆け巡って警報が鳴り出す。しかしそれでも、ルビーは加速を止めなかった。それどころか、それでもなおヴァイセルは加速している。
加速する中で、ルビーはサファイアと同じように、そのファイルを見つけていた。ルナと初めて出会ったときの映像。サファイアはこの頃からルナをよく泣かせていた。でも、だからこそサファイアはルナとすぐに仲良くなれた。自分はどうやって接していいのかわからずにすぐにはルナに溶け込めなくて、いつもサファイアを羨ましいと思っていた。サファイアはいつも自然体でルナと接していた。それは自分もそうだったはずだ。しかし心のどこかでは気取っていたのかもしれない。自分の殻を、最後まで壊せなかったのかもしれない。もっと積極的にルナに接してやればよかった。何となくそう思う。
そんな自分にルナが初めて笑いかけてくれたときの映像が出て来た。あれは確かルナと出会ってから二週間後だ。自分が昼寝をしていたら体中にマジックで落書きをされた。それを見てルナが本当に楽しそうに笑っていたのが鮮明に映し出されている。嬉しかった、もちろん。あれがなければ、自分はいつまで経ってもルナの笑顔は見れなかったかもしれない。ルナの笑顔が大好きだった。この思い出があるのならやっぱり死ぬのなんて恐くない、とルビーは思う。
ヴァイセルが今まで以上に揺れた。状況を確認する。レベル3程度のセカンドがヴァイセルの翼を直撃していた。軌道から外れて修正不能に陥る。それでも加速はちょっとやそっとでは止まらず、ヴァイセルは予定地点から少しだけ離れたサード・ボルケーノの表面に墜落する。
先ほどの花に比べれば本当に小さな花が咲く。予定と場所は違ったが問題ない、サファイアのオーバーフローはその誤差を無効にするほどの威力を持っていた。宇宙には小さな花がまだ咲いている。
そしてその花の中から、全身からケーブルを漂わせながら赤虫が姿を現す。足をサードの表面に埋め込み、無重力に狂い始めた機関を力の限り活動させる。膨大なバックアップデータをすべての機関へ強制的に転送させ、それで生じたバグを一斉に始動させる。何十匹と発生したバグが機関の隅々まで駆け巡り、その内の一匹が、ルビーの核へと到達する。
目の前が真っ暗になった。さっきまで見ていた記憶ファイルがバクに飲み込まれて消える。神経回路、制御プログラム、防衛セキュリティー、その他諸々のすべての機関がバクによって熱を帯び、ルビーの体が一瞬だけ大きく軋んだ。
思考回路さえも焼き切れたその中で、ルビーは記憶にすら残らない最後の笑みを見せる。
先の花同様、もう一厘が盛大に咲き誇る。
亀裂から光が噴き出し、巨大な隕石の約半分が消し飛ぶ。
宇宙に散らばる破片に紛れて、青い色をした透明な石と、赤い色をした透明な石が、綺麗に舞っている。
◎
泣いてごめんね、と言ってルナは笑った。
少しだけ赤い目をそっと擦り、肩までの髪をゆっくりと揺らしながら踵を返す。
その背中を、峡は呼び止める。
「ルナ」
ルナは振り返らずに足を止め、「なに?」と問う。
僅かな沈黙があった。しかしそれでも、峡は言おうと決めた。
心の支えになるために、峡はそれを口にする。
「……絶対に帰って来い。それでまた泣け。おれでいいならどれだけでも泣かせてやるから。辛いことも苦しいことも全部聞いてやる。だから絶対に帰って来い。無理はするな、何て言葉はおれは言わない。ただ、おれはルナに帰って来て欲しい。それだけなんだ。だから、ルナ。帰って、来いよ」
ルナは最後まで、峡を振り返らなかった。しかしそれでも、ルナは本当に嬉しそうに笑う。
「……うん。約束する」
それだけで十分だった。それ以上は何も言葉を交わさなかった。
ルナが歩き出す。やがてその背中が、B5の通路の闇に飲まれて消える。
通路の奥で、何かの叫びを聞いたように思う。
峡のその言葉が、ただ単純に嬉しかった。
絶対に帰って来よう。そう、ルナは思う。そのときの喜びを増やすために敢えて通路にいた峡を振り返らなかった。
そっと目を瞑って心を固める。サファイアとルビーは今頃どうしているのだろう。そろそろヴァイセルは大気圏を抜けた辺りだ。もう少しで、サファイアとルビーはいなくなってしまう。それはすごく悲しい。でも泣いてばかりはいられない。二機が切り開いてくれる道を無駄にしてはならないのだ。それが、残されたわたしに、唯一できることだと思うから。
通路の行き止まりまで辿り着く。扉にロックは掛かっておらず、室内には灯りが満ちていた。その中の一番奥の壁に、二本の白いスケルトンカラーの腕がある。蛍光灯の光に照らされ、それが綺麗に輝いていた。ダイヤは、いつもと変わらずにそこいた。ルナはダイヤへと近づく。冷たいその腕にそっと手を添える。
ダイヤがゆっくりと目を覚ます。目の前にいるのがルナであることを認識し、小さな咆哮を上げる。
「心配しないで、ダイヤ。――おはよう」
ルナは笑う。
「行ける?」
ダイヤは肯定する。
そっか、じゃ、行こっか。ルナがそうつぶやいた瞬間に、その手がダイヤに埋め込まれる。ガチャリという機械音が狭い室内に響き渡り、壁がゆっくりと横にスライドする。そこには、大地へと直通で通じるエレベーターがある。ダイヤの指先を床に着けながらルナはエレベーターに乗り込む。その内部にはボタンも液晶画面も無くて、ルナが乗ると自動で扉が閉まり、微かな振動と共に大地へ向かうために上昇する。
その途中、ダイヤが言う。
そして、ルナが肯く。
「だいじょうぶだよ。もう平気。だから、頑張ろう、ダイヤ。サファイアとルビーのように」
エレベーターが地上へと到着する。
扉が開いて見えるのは無機質な鉄の階段だった。そこをゆっくりとルナとダイヤは上がって行く。やがて頭上に銀色の隔壁が現れる。ここを抜ければ、大地はすぐそこだった。壁に備え付けられている赤いボタンを押し込む。重い音が響いて隔壁が真ん中から割れて視界が開ける。射し込む鈍い太陽の光をしっかりと見つめながら、ルナは大地へと足を踏み出した。
何もなかった。茶色い荒野が三百六十度どこまでも続いている。あのときのわたしの世界みたい、とルナは思う。後ろで隔壁が閉じる音を確認してから、ルナは三歩だけ歩み出る。ダイヤがつぶやく、ルナが濁った空を見上げる。
そこに、巨大なオレンジ色の光の玉があった。事情を知らなければすごく綺麗に見えた光景であろう。だが事情を知っている今、それは忌々しいものでしかなかった。荒野を吹き抜ける生温かい風がルナの髪を舞わせる。それをダイヤの指で押さえつけながら、ルナは目を凝らしてサード・ボルケーノを見据える。
そしてルナは、咲き誇る二つの花を見た。
オレンジ色の玉から突如として赤い花が咲き誇り、しばらくして消える。が、すぐにもう一厘の花が先の花同様に咲いた。空を白と黒の迷彩が覆い尽くす。その光が数十秒間続き、やがて視界に正常な迷彩が戻って来たとき、空にあったオレンジ色の玉は半分ほどの大きさを失っていた。二機は、自らの役目を正確にやり遂げたのだ。
先の花は、サファイアとルビーの花だった。綺麗だったよ、サファイア、ルビー。ルナが笑った瞬間にダイヤが大音量で叫ぶ。荒野が音を立てて弾け跳び、小さな旋風が幾つも巻き起こる。ダイヤも理解したのだろう。先の花の正体を、そしてなぜサード・ボルケーノの面積が半分も削り取れたのかを。泣くように叫び続けるダイヤに向かって、ルナは優しく声をかける。
「落ち着いてダイヤ。ダイヤは一人じゃない。わたしがいる。家族を失った訳じゃないよ。それの逆。サファイアとルビーは、家族を守ったんだよ」
ダイヤの叫びが落ち着いていく。
大地を無音の世界が包み込み、空に向かって真っ直ぐに視線を上げたルナは思う。
今度は、わたしの番。わたしが、ダイヤと一緒に家族を守る番。
ダイヤとのシンクロを開始する。腕に装着されたダイヤへと意識を送り込み、それに共鳴するかのようにダイヤがそっと鳴いた。そしてすぐに腕から波のようにダイヤの意識がルナの中へと流れて込んでくる。暖かい光に包まれているような感覚。それがルナとダイヤを一つにさせる絆。あの日、誓った約束。ダイヤと一緒に、家族を守る。誰一人として失いはしない。もう、誰も犠牲になんてさせはしない。ここにいるすべての人たちを守る。そのために、わたしは戦う。
峡は心の支えになってくれると言った。だったら、わたしは守ろう。家族として、大好きな人として、キシマ・峡を、守ろう。
その気持ちはダイヤへと直接伝わる。そしてその想いこそがダイヤの糧となる。スケルトンカラーのそれが七色に光り輝き、辺りに暖かい風を吹かせた。見上げるサード・ボルケーノがオレンジから赤へと変色し始めている。大気圏に突入した合図だった。もう時間は残っていない。この一撃で、何もかも決める。
「お願い、ダイヤ」
大地を揺るがす咆哮が響き渡る。
ダイヤは両腕に備わっている七段階あるリミッターを一発で抉じ開け、内部を駆け巡る機関を活動させる。透き通る蒸気を全体から一挙に噴射し、取り入れたルナの想いを糧として力を増幅させる。ダイヤがゆっくりと解き放たれていく。咆哮に混じれてエネルギーが圧縮する音がルナの耳を射抜き、ディーンドライブが始動を開始、マスターフィールが動き出してすべての機関が目を覚ます。ルナの髪が、風も吹いていないのにふわりと舞い上がる。
ダイヤが開放された。レベル6のボルケーノなら一瞬で葬り去る力が蓄えられた。しかしそれでも、まだ足りない。頭上に見えるレベル7のサード・ボルケーノを破壊するには程遠い。もっと力がいる。もっと想いがいる。ダイヤとのシンクロ率を上げた。
ルナは想う。頑張って。まだ足りない。ダイヤが言ってくれたんだよ、一緒に家族を守るって。だから、ダイヤの全部をわたしに貸して。わたしの全部をダイヤにあげるから、ダイヤはわたしに全部を貸して。守ろう。みんなを、そして峡を。二人で守ろう。――……ね? ダイヤ。
世界が共鳴する。ダイヤの意識がこれまででは考えられないほどの波となって流れ込んでくる。それをすべて受け止め、ルナは自らのすべてをダイヤに送った。ダイヤは答えてくれた。咆哮がその大きさを増す。
そして、ダイヤの破壊力が臨界点を超えた。スケルトンカラーのそれがゆっくりと赤く染まり始めている。膨大な力は熱を帯び、機関がオーバーヒートの一歩手前で止まる。それは、何もかも破壊するだけの力を持っていた。それでどうすることもできない『もの』なら、もう何を持ってしても破壊することはできない。最後の戦いだ。家族を守るために、ルナは最後の戦いへと赴く覚悟を決めた。
長い手がゆっくりと地面に下ろされ、ルナがダイヤに呼びかけ、
蓄えられたその力が一気に霧散する。蒸気が霧のように噴出し、スケルトンカラーから熱が消え失せ始めた。
それは、異常な光景だった。
「――ダイヤ? ね、ねえダイヤっ!? どうしたの、だいじょうぶっ!?」
シンクロが強制的に遮断され、ダイヤの意識がすべて飲み込まれる。咆哮が小さくなっていき、やがて完全に聞こえなくなった。
ダイヤが、再び眠りに就こうとしていた。
「待ってダイヤっ!! ダメだよっ、寝ちゃダメっ!! お願い、動いて、動いてダイヤッ!! ダイ――」
必死に呼び止めようとしたルナの頭の中に、強制遮断された反動で爆発的なノイズが吹き荒れた。
呻き声を漏らしながらその場に膝を着く。ノイズはその威力を増し、まるで塗り絵のようにルナの感覚を一つ一つ塗り潰していく。以前味わった感覚とまったく違う。力の反転だったのだろう。膨大な力を蓄え過ぎたが故に、それがすべてルナに降りかかっているのだ。常人ならばそれだけで発狂しそうな苦痛の中で、ルナは歯を食い縛る。もはや言葉は出なかった。ダイヤに想いが通じることだけを願い、意識の中でただ呼びかける。
しかしいつまで経ってもダイヤは返答しなかった。ルナの視界がノイズに塗り潰され始める。
世界が、闇に包まれる。
そして、その瞬間に、『それ』を聞いた。
◎
B5の通路から踵を返した峡は、そのままエレベーターに乗ってB10のホールに向かった。扉が開いて見えたそこには相変わらずの喧騒があって、止まっている人もいなければ冷静に構えている人もいない。それも当然なのかもしれない。なにせもしサファイアとルビー、そしてルナとダイヤを持ってしてもサード・ボルケーノが止まらなければ、どう足掻いたところで死ぬのだ。それで冷静に作業しろという方が無茶な話だ。
が、その中にあってもなお、峡だけは冷静でいられた。それは心の片隅では未だに他人事であるという考えが拭い切れていないからなのかもしれない。その場に立ったままゆっくりと視線を彷徨わせ、視界に映る大勢の人の隙間にシンカイを見つけ、声をかけようかどうか少しだけ悩み、しかしすぐにシンカイもまた戦っている内の一人だということに気づいて何も言わずに歩き出した。
ホールを無言で横切ってエレベーターとは反対側にある扉に手を触れ、一直線に伸びた異様に明るい通路に出る。扉一枚しか隔てていないにも関わらず、通路には喧騒どころか人の気配すらしなかった。それに少しだけ言いようのない不安を抱えながらも峡はまた歩き出す。無機質な通路には床を叩く薄汚れたスニーカーの音だけが響き、それがどこまでも反響して鈍い音へと変わる。それを無視して操られているように歩き続けた。
やがて自室に辿り着いて、灯りの付いていないそこに入る。微かに見える闇を横切り、部屋の隅に置かれた机の前まで歩み寄った。椅子を引いて力なく腰掛け、その身を机に預けて死んだように目を瞑る。
それからどれだけの時間が流れただろう。何も聞こえない部屋で何もせずにそうしていた峡が、突如として震え出す。静寂が微かな嗚咽に掻き消される。峡が灯りを付けない理由は、ここにあった。誰にも知られたくない。自分自身にさえも知られたくはない。今、自分が泣いていることを、知られたくはなかった。涙が止まらない、嗚咽が止まらない、そして、どうしようもなく恐がっている自分がいる。ルナを失うかもしれないこの状況が、何よりも恐かった。
帰って来い。峡はそう言った。ルナは肯いてくれた。それを、信じていいのだろうか。ルナを疑っている訳ではない。帰って来ると言ったのだから、ルナは帰って来るのだろう。だが、果たして、それは本当に叶えられる約束なのだろうか。ルナが戦おうとしているサード・ボルケーノは、峡に想像できる程度の話ではないのだ。それを相手に、ルナは無傷で戻って来れるのか。この状況をここの誰よりも理解できていない峡だが、その問いには答えを返すことができた。したくなくても、考えると絶対にその答えが浮かび上がってくる。ルナは、無傷でいられない。下手をすれば、もう二度と会えないかもしれない。ルナは、帰って来ないのかもしれなかった。
それが、どうしようもないくらいに恐かった。ルナを失うことが、自分でも意外に思うほど恐かった。今更に自分の無力さを嘆いても始まらない。それでも、何かできることはないだろうかと考えた。しかし、結局は何もなくて、自分が無力だということを再度思い知らせるだけだった。行き場のない感情が涙と嗚咽に混じれてあふれ出している。泣くことしかできない自分がもっと悔しくて、涙と嗚咽はいつまでも止まらない。
机の上に投げ出されている拳を握り締める。そして僅かに位置をズラした拳が、コツリと何かに当たった。視線を上げる。暗闇に慣れ始めた峡の目が、机の上に置かれたそれを捕らえる。長方形の形をしたへんてこな機械。両親の形見である無線機だった。無意識にそれを手に取る。最近はずっと忘れていたような気がする。ここに来てからこの無線機をずっとほったらかしにして来たような気がする。シェルターにいた頃は毎日持ち歩いていたもの。それを、今の今まで忘れていた。
思えば、この無線機から何もかも始まったのだろう。これからサファイアとルビーの声を聞かなければ、自分はここにはいない。これが無ければ、自分はここでこうして泣いてなんかいない。何か一つでも違ったら、自分は、ルナのことがこんなにも好きにならなかった。それでも自分はここにいて、ここで泣いていて、ルナのことがこんなにも好きで心配だ。辛い。しかし後悔はしない。ルナの支えになってやると決めたから。ルナと一緒に歩んで行こうと決めたから。だから。
峡は、無線機のスイッチをOFFからONに切り替えた。暗い部屋に赤いランプがぼんやりと灯る。心のどこかでは、何かに期待していたのかもしれない。もしかしたらこの無線機から何か聞こえるのではないか――。そんな、夢みたいなことを思っていたのかもしれない。だが現実は当たり前のように甘くなどなく、無線機は沈黙を守り通している。
ルナは、もう二度と、帰って来ないのかもしれなかった。
何もかも、諦めそうになっていた。
無意識の内に手が動く。横っ面にあるスイッチに指が触れ、微かな力を込め、
スイッチを、
聞いた。
『――キシマ・峡。聞こえるか』
体が凍りついた。
ノイズ一切無しに、聞いたこともない声が自分の名を呼んだ。スイッチに置いた指に微かな力を込めたまま、峡は身動き一つせずに無線機を凝視する。心のどこかで漠然と空耳だったのだろうかと思う。
が、その考えは次の一言で消え失せた。
『――ルナを、助けて欲しい』
この声は一体誰のものなのか、峡は不思議と理解できた。
サファイアでもルビーでもシンカイでも、そしてルナでもない声。こうして声を聞くのは初めてだが、はっきりと言い切れる。この声は、ダイヤのものである。どうして無線機からダイヤの声が聞こえるのか、という疑問は浮かんで来なかった。それよりもまず、その一言が心臓を抉り取った。峡は無線機に縋りつくように言葉を紡ぐ。
「ルナがどうかしたのかっ!?」
だがしかし、先の一言を残して、無線機は沈黙してしまった。
ノイズすら聞こえず、待てど暮らせどそれからは一言も喋らなかった。焦りが一気にあふれ出て来る。希望を揺るがすような不安に駆られ、峡は無線機を出鱈目にイジった。チューナーを回して周波数を変えてもやはりノイズすら聞こえなくて、こうしている時間にもルナに何か起こっているのかと思うとどうしようもなくなって、しかしそれを知っていても何もできない自分が死にたくなるくらいに悔しかった。
一縷の望みを賭けて、峡は無線機を持って走り出そうとする。目的地は決まっているのだ。大地に再び降り立つ。自分に何ができる訳でもない、もしかしたらただの足手纏いで終るかもしれない。だがそれでも、このままじっとしているよりかは百倍も千倍もマシだった。無線機を力一杯握り締め、椅子から立ち上がろうとして、
またしても峡の体が凍りついた。
無線機が、今度はこんなことを言った。
『何やってんだダイヤ。ルナを守り切るのがテメえの役目だろうが』
いつか聞いた男の声。すべてを始める切っ掛けを作ってくれた、あの声だ。口は悪くて子供のようで、しかし根はすごくいいヤツ。ここで、唯一峡と対等でいれる存在。
そしてすぐに、もう一つの声が聞こえる。
『そうだよ。ルナを傷つけたらダイヤでも怒るよ』
これもいつか聞いた男の子の声。踏み出す切っ掛けをくれた、あの声だ。幼い感じのする雰囲気とは裏腹に誰よりも冷静で、物事を判断するのに長けていて、真っ直ぐな意思を持っていた。
時間が遡り始める。口は自然と動いていた。
「……サファイア……ルビー……?」
意外なヤツに会った、とでも言いたげにサファイアとルビーは笑った。
『よお。まだ生きてたか、ガキ』
『峡も峡だよ。何泣きそうな声出してるの?』
「お前ら……どうして……?」
サファイアとルビーの声がなぜ聞こえるのか。それが最大の疑問だった。だって、この二機は、今頃――
その疑問は、サファイアは声に遮られる。
『んなことどうでもいいんだよボケ。おれがお前にルナを任せたんだ、最後まで守り切れ。できねえとは言わせねえぜ?』
『峡が何もできないヤツだなんてぼくらは思ってない。ルナを、守ってやって』
瞬間、無線機から爆発的な咆哮が直走った。暗い室内を揺るがせ、それは吼えていた。
サファイアとルビーは再度笑う。
『ようやくお目覚めかダイヤ』
『心配かけないでよ、ダイヤ』
無線機がぽつりと、『――……すまない』と言った。
『――礼を言う』
同刻、大地に横たわるルナの腕に装着されたダイヤが七色の光を帯びる。
『――キシマ・峡。力を借りたい。ルナを、助けてくれ』
言葉にしての返答は、ついにできなかった。それでも、峡は無線機を握り締めたまま走り出す。薄暗い部屋を飛び出して異様に明るい通路を爆走する。
自分が行ったところで、やはり状況は何も変わらないのかもしれない。しかしそれでも、賭けてみようと思う。自分がそこに行くことで、何かが変わるかもしれない。今がどうなっているのかはわからない。だが、ルナを助けようと決めた。心の支えになると決めたのだ。それを、最後まで守り通してみせる。
通路を息切れ一つせずに突っ走り、ホールに辿り着いて誰の目にも触れずにエレベーターに乗り込んだ。背後でシンカイが何事かを叫んだが聞こえなかった。エレベーターに備え付けられている『B1』のボタンを押し込む。僅かな振動の後、エレベーターは上昇し始める。その時間さえもが惜しく感じた。
握り締めたままの無線機がノイズを発する。そしてサファイアとルビーの投げやりな声を聞いた。
『あー……やべえ、限界みてえだな』
『そうみたいだね。もう残ってないや』
『しゃあねえ、後はお前とダイヤに任せるぜ』
『峡とダイヤ、二人でルナを守ってやって。約束だよ?』
どういうことか問い詰めようとした刹那、無線機からそれまでとは比べ物にならないノイズが生まれ、やがて『バズンッ』と何かが焼き切れる音が響いて沈黙した。
それは、本当の別れを差していた。
同刻、ダイヤのディーンドライブが呼吸を再開、マスターフィールが動き出してすべての機関は再び目を覚ます。
サファイアでもルビーでもなく、峡はダイヤへと向かって言葉を紡ぐ。
「おれがルナを助ける。だから、お前がルナを守ってくれ」
返答は、すぐに返って来た。
『――ああ。……ありがとう』
そのつぶやきと同時にエレベーターの液晶画面に表示されている数字が『B1』を差した。扉が開いた瞬間には峡は通路に飛び出して、一瞬だけ立ち止まってから目の前にある階段を全速力で駆け抜ける。数秒上ったときに見えた銀色の隔壁に立ち止まり、目に止まった赤いスイッチを叩き割るように殴った。腹に響く音があふれて、振動と共に隔壁が口を開け始まる。
峡は濁った空に向けて再び走り出す。
同刻、霧散して失われたはずの力が完全に蘇る。
スケルトンカラーのそれが赤く染まり始め、そしてその視界の彼方に一人の青年が飛び込んで来る。
大地に降り立った峡は四方八方に広がる茶色い地平線に視線を巡らす。
しかしすぐに見つけることができた。ある一定の場所が七色に光っている。そこに、ダイヤと、そしてルナがいる。
無線機をその場に取り残し、走りながら峡は彼女の名を叫んだ。
同刻、闇に閉ざされていたルナの世界に、光が射し込む。
○
何もなかった。真っ暗な世界にただ一人置き去りにされていた。
指一つ動かせない。呼吸をしているのかどうかさえわからない。それでも自分がまだ生きているんだなということだけはわかった。恐さはなかった。ただ、悔しかった。こうなってはもう家族を守れない。ダイヤとの誓いが終ってしまう。峡との約束が叶えられなくなってしまう。それがただ悔しかった。泣きたいのにどれだけ思っても涙は出なかった。そもそもどこに顔があって、どうやって泣けばいいのかさえわからない。
自分は、人としての機能を完全に失ってしまったのだろう。感覚が何もない。塗り潰された世界のすべてが戻って来ない。自分が今、どこでどうしているのかもわからず、ついさっき思っていたことも思い出せなくなっていく。
これ以上ない闇がさらに暗くなる。僅かに残っていたはずの光が完全に尽きる。意識も塗り潰され、すべてを失う。
何もない中で、ルナはただ峡のことを想う。そして、謝り続けた。約束を守れなくてごめんね、と。守れなくてごめんね、と。最後の最期に、お礼だけを残した。こんなわたしを、好きだって言ってくれて、ありがとう。
世界が本当の漆黒に塗り潰されそうになったとき、虚ろなルナの視界が小さな光に気づいた。一縷の望みを賭け、その光に感覚のない手を伸ばすイメージを浮かべる。胸の底がジワリと熱くなって、目の前の光は大きさを増す。
そして、自分の名を呼んでいる叫び声に気づいた。失われたはずの感覚が現実に引き戻される。引き金を引かれたそれは、一発ですべてを元通りにした。光が視界いっぱいに広がった頃にはもう意識ははっきりとしていて、自分が大地に横たわっていることも両腕に装着された暖かいものにも気づいた。ぼんやりと漂う意識をそこへ向ける。
大地に、峡がいた。それが夢か現かはついにわからなかったが、それだけで十分だった。無意識の内に心を澄ましてシンクロを開始する。ダイヤは、すぐに自分のすべてを渡してくれた。
守らなくちゃ。意識ははっきりとしているものの、なぜか夢の中にいるような気がする。しかしそれでもよかった。夢の中だろうが何だろうか誓いを守り切り、夢の中だろうが何だろうが約束を叶える。取って辿るべき道は、それだけなのだから。
その身をゆっくりと起こす。心の中でダイヤにお礼を言いながら、遠くに見える峡へ声にならない声でそっと呼びかける。
――危ないよ、峡。そこで待ってて。必ず、帰るから。わたしを、信じて――
それが伝わったのかどうかはわらからない。しかしそれでも、その場で峡は立ち止まり、静かに肯いた気がした。
ルナとダイヤのシンクロ率は、すでに限界を超えている。だがそれでも遮断されることはない。ルナはダイヤへ、ダイヤはルナへ意識を送り込み続ける。
立ち上がったルナは、視線を空へと向けた。真っ赤に染まった巨大な光の玉が、ゆっくりと落ちて来ている。それを視界に収めながら、ルナは長いダイヤの手を大地に添える。
――行くよ、ダイヤ。家族を、守ろう――
地面が抉れ、飛行服を纏った少女が一人、スケルトンカラーのそれと共に宙に舞い上がる。
ルナは両手を重ね合わせ、狙いをサード・ボルケーノに固定。自分とダイヤのすべてを開放した。
一線の光の柱が神速で撃ち出される。その反動でダイヤが軋む。スケルトンカラーの腕にゆっくりと亀裂が入って崩壊し始める。それでもなお、ルナとダイヤは互いのすべてを開放させ続けた。撃ち出された光の柱は、サード・ボルケーノと衝突する。世界のすべての迷彩が失われ、真っ白な空間が支配した。
その中で、ルナは壊れゆくダイヤを見つめていた。
――ありがとう。ダイヤ――
ダイヤは、笑っていた。
――ありがとう。ルナ――
それが、ルナの聞いたダイヤの最後の声だった。
ダイヤの咆哮が響き渡る。ダイヤが壊れたその瞬間、光の柱がその威力を増した。触れるものすべてを粉砕しながらそれは突き抜ける。
濁った空を掻き消すように、光の柱はどこまで疾った。
暖かい光に包まれたその中で、ルナは見ていた。
青い透明の石と、赤い透明の石と、白い透明の石が、一つに交わるところを。
それは、とても綺麗な光景だった。
バイバイ。サファイア。ルビー。ダイヤ。今までありがとう。
交わった石は、その想いに答えるように砕けて、小さな破片と共にパァアアっと舞い上がる。
三機が、あるべき姿へと戻ってゆく。
それを、ルナは、いつまでも見守っていた。
やがて光の世界から視界が戻って来たとき、すぐそこに峡を見た。
何よりもまず言うべきことがある。
ルナは笑う。
だたいま。峡。
「エピローグ」
『まず最初に言っておきます。無断で三週間もアカデミーをサボってすいませんでした。
ぶっちゃけ、どこに行っていたんだお前は、と聞かれても普通なら恐くて絶対に言えませんが、今回ははっきりと言います。明日の放課後、教員室に呼び出されて先生全員からボコボコにされて豚箱ぶち込まれるのを覚悟で言います。
この三週間、おれは、大地へ行ってました。これからは、おれが体験したすべての真実を書き記したいと思います。見るか見ないかは先生に任せます。でもおれから言わせてもらうと、きっと見ない方が良いでしょう。たぶん先生はぶっ倒れるような気がします。三行だけ猶予を与えます。倒れない覚悟がありましたら、どうか目を通してみてください。
さあ、勇気ある者よ、わたしが体験したすべてを知るがいい。……ってアホか。そんな前置きはどうでもいいのですが、本当に良いんですか? おれ、マジで書きますよ? ……まあいいか。どうせ最初の「大地へ行った」って所でもうアウトも同然ですしね。それでは、おれが自ら書き記す宿題課題・自主を堪能ください。
始まりは四週間前の第一次避難警報が発令された日のことです。その日、おれはシェルターを抜け出して大地へ降り立ちました。そこで青い色をした虫と赤い色をした虫と出会ったのです。虫、というのは少し違いますね、正確には虫のような意思を持った機体です。そこでおれはいきなり身柄を拘束されて死にそうになりました。青虫の放つ非道な罠に格闘するおれの目に、一人の女の子が飛び込んできたのはそのとき。彼女は空に浮かぶオレンジ色の玉、たぶん信じないと思いますがそれはセカンド・ボルケーノで、彼女はそれを一瞬で粉砕したのです。それからいろいろあって気づいたらおれはシェルターの中で爆睡してました。
そして三週間前、もう一度第一次避難警報が発令された際に、おれは再びシェルターから抜け出すことに成功し、いきなり拉致されて気づいたら防衛軍と名乗る組織に捕まっていました。簡潔にまとめます。カルストは無くなってなどいなかった。おれたちが聞く第一次避難警報の正体は、セカンド・ボルケーノがこの世界に突っ込んできている合図だったのです。それを破壊するのが防衛軍と呼ばれる組織の仕事だそうです。そこにはもちろん青虫も赤虫も、そして女の子もいました。
それからまたいろいろとあって、おれも防衛軍の生活に慣れ始めた頃、ついにサード・ボルケーノが動き出した。ファースト・ボルケーノと同等かそれ以上の威力を持つサードを止める手段はたった一つしかありませんでした。青虫と赤虫が自らの存在を引き換えにサードの半分をぶち壊し、女の子が危険を犯してまで残りを粉砕したのです。はっきりと言います。二機の虫と、一機の腕と、一人の女の子がいなければ、おれと先生の、この世界に生きる全員に「今日」という日はなかったはずです。「だから彼女たちに感謝しろよ」とは言いません。ですが、憶えておいて欲しいんです。おれたちが知らない所で守ってくれた人たちがいるというのを、知っておいて欲しいんです。信じられなくてもいい。信じられないのが当たり前。ただ、嘘だと思っていてもいいから、憶えておいてください。
世界を守ってくれた彼女たちの存在を、憶えておいてください。
さて、取り敢えずそれがおれの三週間分です(いや、よくわからん、と言われたらそうです、おれでもよくわりません。それ以前に、おれでさえもあの三週間の光景は夢みたいに思えているんですから。だから先生に一から十までしっかりとわかれ、という方が無理な話なんだと思います。結局は何が言いたかったのかと言えば、要点をまとめれば最後の一行だけです)。
カッコイイことは言いません。真実を書きます。おれはその三週間、ただ指を咥えて見ていることしかできませんでした。ただそれでも、後悔はしない。たった一人だけでも、その人の支えになれたからです。本当ならもっとたくさんのことをしなければならなかったのかもしれない。だけどおれは無力な人間です。自分でも嫌になるくらいに力がありません。そんなおれにできることと言えば、その人の心の支えになってやることくらいでした。……本当は胸を張って「おれがサードをぶっ壊したんだ!!」くらいなことを書きたかったのですが、これは真実を書くと決めたし、そもそもそんなことを書いたとしても頭の正気を疑われるのがオチでしょうから、敢えて事実だけを書きました。って、大地に行ったって時点で、シェルターの人から言わせればそれだけで「頭は正気か?」になるんでしょうけど。
一つ予言をしましょう。これから、世界は正しい方向へと向かって進み出します。人々はもう、シェルターだけに留まらずに、荒れ狂った大地に足を踏み出し始めます。何年後、何十年後になるかはわからない。もしかしたら百年後かもしれない。しかしそれでも、人は必ず大地に降り立ちます。そして、一五〇年前の、夢の国のような、本来のこの世界がその姿を現します。嘘だと思いますか? おれの正気を疑いますか? ならば賭けましょう。もし先生が生きてる内に何も音沙汰が無ければおれの負け、先生の墓標の前で土下座します。しかし先生が生きてる内に何か音沙汰があればおれの勝ち、マルイチの極上ラーメンを奢ってください。……どうしてそんなことが言えるんだ、って顔を先生はしてるんだと思います。理由は簡単です。もう大地に降り立っても、【危険】はないからです。隠れる必要も隠す必要もなくなるからです。だから、おれは言い切れます。この賭けは、必ずおれが勝つ、と。憶えておいてくださいね。
もう一つ先生に知識をプレゼントします。先生は、この世界に【宝石】なるものがあるのを知っていますか? 普通の石とは違う、光を当てれば輝く透明な石です。たぶん実物を見たら一発で心を奪われますよ。その宝石の中で、おれが知っている三つを挙げます。一つ目、【サファイア】。これは青い色をした宝石です。おれが考えるに、サファイアを言葉で表すなら「口は悪いが根はいいヤツ」になると思います。二つ目、【ルビー】。これは赤い色をした宝石です。おれが考えるに、ルビーを言葉で表すなら「冷静で真っ直ぐな意思を持ってるヤツ」になると思います。そして三つ目、【ダイヤ】。これはスケルトンカラーで最も硬い宝石です。おれが考えるに、ダイヤを言葉で表すなら「誰よりも人を守りたいと思うヤツ」になると思います。……どうしてそんなことがわかるんだ、って顔を先生はしてるんだと思います。理由は簡単です。だって、知ってるから。サファイア、ルビー、ダイヤを、おれは知ってるんです。石なのに知ってるもクソもあるのか、と思ってるでしょう? それがわかるんです。なにせ、彼らは意思を持っていたのだから。共に過ごした時間は本当に少ない。だけどおれは彼らを知っていて、そしてずっと忘れない。彼らを、思い続けて生きていきます。
さて、そろそろ先生はこう思っていることでしょう。「こいつ、とうとう頭が狂ったか」って。まあそう思われても仕方がないんですけどね。ですがそれも、賭けが終ればわかること。おれがこの賭けに勝てば、先生も嫌と言うほどわかると思います。長々と書いてきましたが、終焉は近いです。おれの物語は、あと一つで終わりを告げます。ここまで来たらもう最後まで読んでください。
あと一つというのは、一人の女の子についてのことです。彼女こそが、この世界を守った唯一の人です。おれが、心の支えになろうと決めた人です。彼女の「ただいま」と言ってみせてくれた笑顔は、おれはずっと忘れません。三機のように、彼女のことも思い続けて生きていきます。それが、新たに決めた、約束だから。おれは決して、彼女の、彼女たちのことを忘れません。
そしてその彼女ですが、今現在、おれの隣で「ねえ峡。お腹減ったね。どっか食べに行かない?」などと言ってる訳ですが、取り敢えずどっか食いに行くのはこれを終らせてからです。いや、もう終るんですけどね。
ここまで読んでくれてありがとうございました。いろいろとわからない所があると思いますが、もう黙認でお願いします。これを読んで、おれを殴るかどうかは賭けが終るまで待ってください。賭けが終ったら死んでるだろ、というコメントは全面的に却下。我慢してください。死んだら墓標から這い出て来てください。先生ならできるとおれは信じていますから。
それでは、飯を食いに行こうと思います。彼女と一緒に。最後に、彼女の名前を書き記します。決して表に出ることがない彼女の名。しかしいつの日か、胸を張っておれが書いたことを世界中の人々にわかってもらうために、まずは先生から知っておいてください。
彼女は名はルナ。おれの、大切な人です。
もう一度、読んでくれて、ありがとうございました。
あー……忘れるところだった。一つだけ質問です。
ボルケーノの正式名称って、何でしたっけ?
キシマ・峡』
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2004/11/11(Thu)17:21:44 公開 /
神夜
■この作品の著作権は
神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
さて、そんな訳で【壊れゆく世界のすべて】はこれにて完結となります。
前回に比べて迫力少なかったよなあ、とか、結局峡ってあんまり活躍してねえよなあ、とかいろいろと思うところはありますが、こういう物語構成にしてしまった我が不甲斐無さを恨むばかりです……すいません。いっそのこと、峡を出さずにルナ視点の物語にしたら問題はなかったのではないか、などとよくわからないことを思っていたり(苦笑
取り敢えず完結ですし、ぶっちゃけてしまうと最後の最後までボルケーノの正式名称を考えていなかった、っていう裏があるのですけどね(マテコラ
今まで読んでくれた皆様、誠にありがとうございましたっ!!楽しんで頂けたのなら嬉しい限り、微妙でしたら次回に頑張ります!!
また別の作品でお逢いできることを願い、これにて。
ありがとうございました。