- 『忘れ物(読み切り)』 作者:よるやみ / 未分類 未分類
-
全角4768文字
容量9536 bytes
原稿用紙約14.1枚
堅山という名は彼にぴったりだが、小学校に上がるまでは違う名前だった。
彼はベルトに結びつけた袋をほどいた。重みで締まった結び目をほどくのに二分以上を要した。その間に三回、天井に頭をぶつけた。文字が変形するほど詰め込まれたポリ袋を後ろに置き、もう一度頭をぶつけた。置いた袋に背をもたれて座る。狭いので膝を抱えた。袋の中の缶詰で背中が痛かったが、他に置くところはない。時計は15時44分18秒を示している。
残り4日と2時間11分と20秒ちょうど。
堅山氏は、内海ごしの町を見下ろす。
向こうに行ったりこちらに来たり、駐車場や家屋を避けてその川は細々と流れている。学校も図書館も川沿いにあるし、職場と彼の住む木造モルタルも川の両岸に向かい合っている。
「たくさん落ちてたな。綺麗な石が」
かつての河原はコンクリートで固められ、それなりの体裁を保ってはいるがやはり、細く曲がりくねっている。
小学生の頃、堅山少年は河原で座っていた。いつも座っていた。ふれた指先を石のくぼみに滑らせると、冷たくて気持ちよかった。握りしめると硬くて、ちょっと壊れそうになかった。何よりそれが好ましく思えた。
手のひらに馴染む、手触りのいい石を探した。冷たくてつるつるとしたやつが少年の好みだった。
出来れば平べったいのに角がなくて、それでいて薄すぎもせず少し横長で、大きさは拳の四分の一ほどで、指にぴったりの位置にちょっとしたくぼみのあるやつがよかった。欲を言えばそのくぼみもあまり深くなく、握る位置にある程度の融通の利く感じの、さりげないものがよかった。
そんは石はめったになかった。つまり無くはなかった。
河原の石は幾重にも重なっていて、しゃがんだ足を一歩も動かさぬまま日が暮れてしまうこともあった。夏休みには川底の石を探した。母親が置いていった水中めがねが役に立った。
どこまで探したのかわからなくなった。少年はひどく悩んだ。眠れない夜を何度かすごした。そして授業中に思いついた。放課後、鉛筆の束を握りしめた少年は河原に走った。
等間隔に鉛筆の生えた河原は他にないのではなかろうか。
少年の机に並べられた小石はいつしか小高い山をなしていた。彼が祖母に何かをせがんだ事はないし、石以外欲しがらなかった。だから堅山少年を「欲張り」と呼ぶのは罪である。
彼は、女の子が靴を選ぶように、その日の気分にあった石を一つ掴んで学校に行った。河原に行って、それに匹敵する石を選んだ。右手に握った新しい石を机に置いて、風呂に入り、居間に行き、煮物ばかりの食事を済ませた。入れ歯を外して食事をする祖母は梅干しに似ていた。それが少年の毎日だった。
少年は今日の石を山に戻し、明日の石をどれにしようかと考える。それは甘美な時間だった。選ぶのに熱中するあまり、ランドセルを忘れて行ったことだってある。
長い年月の間に、石の山は机に載りきらなくなった。彼の部屋である台所の、食器棚や冷蔵庫の上に進出し始めた。邪魔にならない場所を選んだのだが、祖母は石のことを不快に思っている。中学に入った頃から堅山青年はそのことに気づいてはいた。
彼が高校から帰ると、玄関にへたり込んでいる祖母がいた。
「さっきあんたの石が落ちてきて、足に当たったんだよ。どうしてくれる」祖母は足をさすりながらすごんだ。「痛い。ああ、痛い」
「ばあちゃん、とにかくお医者さんに観てもらおう」けれど祖母は頑なに拒んだ。そしてますます怒り出した。しわがれた声を張り上げた。
「今すぐあの石捨ててきなさい。全部、残らず」
石のほとんどは今の青年の掌には小さすぎた。だから素直に石をずた袋に詰め込んだ。けれど、いざ河原に来てみると、彼の石たちはぬきんでて美しく、勿体なく思った。石をひとつだけポケットに隠し、帰りがけに寿司屋に寄った。母親名義の通帳の残高が十万円を切った。
寿司を見ると祖母の怪我も治ったようだ。
「腫れもすっかりひいて、もう歩けそうだよ。ほら、あんたも遠慮しないで食べなさい」
堅山青年は高校二年の時に初めてあだ名を付けられた。「博士くん」だった。
夏休みの課題として、石の研究を提出したのがきっかけとなった。
庭のニレの木に最初の枯れ葉を見つけた月曜のことだ。朝の朝礼で名前を呼ばれた。教頭に促されて舞台に上ると、賞状を渡された。石よりおかたい題目の賞状だった。
祖母は少し下品なほど喜んだ。病院に行っては自慢し、八百屋に行っては自慢した。買いもしないくせに靴屋に行って自慢した。それでも足りずに手紙を書いて自慢した。
だから堅山青年は、地学を学ぶために大学に進学した。
学費、生活費は父親の保険金から支払われることになっていた。彼はノート一冊買うにもレシートを貰った。いくらか集まったところで封筒に詰め、伯父に郵送しなくてはならなかった。修学旅行のせいで母親の通帳には五万円も残っていなかったし、アルバイトは禁止されていた。
<22、アルバイトについて
君の父親は、君が大学を卒業し、しっかりとした社会人になることを望んでいた。学業をおろそかにして、アルバイトに精を出すことは父親に対する裏切りである。
以上の22項目は、無念の死をとげた君の父親の言葉だと思いたまえ。>
高校三年の誕生日に届いた手紙は、そう締めくくられていた。
「あんたに似て、律儀っていうか、生真面目な性格だねえ」
祖母はそう言ってお茶で口をゆすいだ。一度も会いに来たことのない伯父という人物が、堅山青年には今一つつかめなかった。
一人暮らしに不安はなかった。一人っきりに違和感もなかった。左手に石を握り大学に通った。
その教授は彼を可愛がった。高校生堅山君の研究発表を気に入ったというのもある。一年生なのにゼミに参加させたし、馴染みの小料理屋にも連れて行った。手に余るお中元を分け与えたりもした。
堅山青年は石の研究にのめり込んだ。けれども。
堅山青年は石のような人物であったが、石には共感できかねる点があった。
石は、捨てられても傷つけられても転げ落ちても決して、泣かない。
23時閉店の小料理屋の時計はすでに次の日を刻んでいた。
「本当はね、泣いているんだよ。知らないの?」笑い上戸の教授は長いこと笑ってから、ひとつ、しゃっくりをした。
教授はそう言ったが、青年は石が泣かないことをよく知っていた。
(石が泣いたとき、石は石でいられなくなる)
ずっと握り続けてきた彼は、そのことをよく知っていた。
「あら、先生は感受性が豊かでいらっしゃいますのねぇ」女将はそう言うと時計に目をやった。教授はその皮肉に気づかず、また笑い出した。
「少年の心っていうのかねぇ。僕はそういうのを持っててね。石の研究をしているのだって、石の気持ちがこう、ひしひしと感じとれるからなんだ。女将、実際、僕自身思うんだよ。そっちの教授になった方がいいんじゃないかってね、俳句なんか好きだねぇ。女将もどうだい。一緒に湖にでも行って、俳句でも」
教授の下品さは青年にはどうでもよかった。けれど、人間の感情を石に押し着せる教授が気にくわなかった。それを自慢げに語る横顔が気にくわなかった。人間の自惚れをそこに見た。
感情が、そんなに偉いのか。高貴な石を、愚弄するな。
二年生になった堅山青年は、身近にある一番大きな石の勉強を始めた。こいつは中身がドロドロで、熱くて、柔らかい。だからまだ、わかることの出来る気がしたからだ。
けれどその頃の地球物理学は核心に近づくほどに不明な点が多かった。大きすぎるせいで手でつかむことも出来なかった。結局なにも伝わってはこなかった。
卒業後は地元の駄菓子卸売問屋に就職した。
解離爆発説という、地球物理学そのものを完全に無視した学説を、卒業論文の研究テーマに選んだのが主な理由だ。教授に嫌われて研究職の道は断たれた。だから仕事なんか何でもよかった。
博士君は博士になれず、駄菓子をさばいた。
他にやることもない。堅山氏はまた、地球の内部構造を夢想し始めた。
市立の図書館にはその手の資料はほとんどなかった。けれど休日はいつもそこにいた。おかげで彼は妻を見つけた。石によく似た図書館職員だ。
結婚記念日のお食事も、夫婦それぞれの名前の、どの文字を受け継いでもかたい名前になる運命にあった息子も。娘も。ユーモアのかけらさえないもない夫婦生活であったが、彼は幸福を得た。
握り続けた石はペーパーウェイトとなった。左手には石に変わって指輪があった。
九年間は尿意をもよおした紙芝居師がめくるように早く過ぎた。そこからの一年は地球の公転よりも遅かった。ずっとずっと遅かった。
今。堅山氏は知っている。彼の空想科学は一つの答えを得たのだ。
マグニチュード8、5。1896年の三陸沖地震と同程度だ。けれど震源地はそれより12キロほど浅いく、沖合十キロの地点。つまり津波は免れない。
彼は胸のポケットから携帯ラジオを取り出して、スイッチを入れる。電波は昨日よりも乱れている。よく知られている地震の兆候だ。その乱れ具合も彼のノートに記された計算と一致していた。明後日にはまともに聞き取れなくなるはずだ。
何十万という感情が消える。悲劇は彼らにはない。悲しみはむしろ、残された側にある。
父は悲劇ではない。
母は悲劇ではない。
妻も悲劇ではない。
堅山氏は残業開けに見た妻の死体を思い出した。首を吊っての自殺であった。
彼は家中を探した。
全ての棚の全ての引き出しをひっくり返した。全ての本の全てのページをめくった。ゴミ箱を探した。生ゴミ入れも探した。裁縫箱を探した。天井裏を探した。冷蔵庫も化粧棚も探した。アルバムの写真を全部剥がした。遺書も、日記も、メモ書きさえも見つからなかった。
意味は、どこにも見つからなかった。散らかった狭い家は蒸し暑かった。ヒグラシの声が背骨に直接響いた。
どうして行ってしまったんだ私も一緒に行ってもよかったんだ、それが嫌だったのか一言でも言ってくれたならこんな事にはならなかったんだ、どうしても別れたいというのなら別れたしこの町が嫌だというならどこへでも越したのに、生きるのが辛いってそれだけ言ってくれたなら研究なんか辞めて世界一の医者を捜してやったのに私が嫌ならどうして文句を言わなかった髭だって毎日剃るよ変わるチャンスをくれなかったんだわからないよわからない、どうして、いつも、いつも、いつもいつもいつもみんな私を置いて行ってしまうんだいつだって何も言わず黙って消えてくんだ私のことを振り向いてくれないんだ居て欲しい人にかぎって何も言わないでどうしていつも黙って消えてゆくんだ。
捨ててしまいたいよ。感情なんて。
ポケットの中の右手は石を強く、とても強く握り、震えていた。
堅山氏は残り四日分の食料の中から鯖の缶詰を開けた。安っぽい、なにかのごまかしのような味がした。不幸なことに彼は味のわかる男だった。
とおく。とおく。
どれくらいだろうか。とおくの海から、汽笛がひとつ聞こえた。
彼は振り向いた。そこに海を、まるい、広がりをみた。
一番大きな石から自分が見えた。
堤防のさきっぽの、灯台の、そのさきっぽ。
そこには長い復讐が、小さくかたく座り込み、もうひとつ泣いていた。
彼は握りしめた右手を開いてやった。肩の力が抜けてひどい空腹を感じた。
窓のサッシに、最後の石を置いた。
「ここならよく見えるだろ。この町の最後が。さようなら。お別れしよう」
堅山氏は外付けのはしごの途中から飛び降り、堤防を全力で駆けていった。
-
2004/10/15(Fri)07:41:23 公開 / よるやみ
■この作品の著作権はよるやみさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
昔書いた物のリライトです。
感想在れば、嬉しいです。