- 『堕天使に旋律を 〜D』 作者:村越 / 未分類 未分類
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原稿用紙約89.85枚
求めたものは真実か。
願ったものは虚実か。
欲したものは現実か。
抱いたものは幻想か。
耳に届くのは旋律か。
心震わせるは戦慄か。
願望。尽きぬ願望。しかして、オレはそれに支配などされることはなく、ただ、ただ世界の中で命という名の業に捕らわれる。まるで生きた亡霊。
――笑わせる。
生きた人間が、何を亡くした霊と? まったく、どこまでいっても尽きることのない無限の矛盾だというのだ。
亡くしたものは……ある。けれども、それは本当にもうないのか。きっとどこかにあるのかも知れない。
――この考えこそが、飽くなき願望なのかも知れないな。
真に辛いのは生か。
誠に苦しいは死か。
どっちだっていい。
そんなのは些細なことに過ぎない。
たとえ、どちらだとしても、考えるだけで酷く俺を鬱にさせるということには変わりはないのだから。
ならば、何故オレは考えるのか。
――それは、考えている時間が楽だからだ。
夢想。
思考。
妄想。
空想。
どれもこれも、愚かなものに違いない。そう、所詮は愚かなものなのだ。オレも、お前も、あいつも。……誰もが。ともすれば世界すらも。
それを理解しているのはオレだけ。理解しているという仮定を勝手に想像するのもオレ。オレは、その思考の中で、絶対の賢人として悦に浸る。自分が愚かと知りながら。他人が愚かと信じながら。世界が愚かと願いながら。
これは現実ではない。しかして真実。オレの内に眠る、真実。
揺るぎない。
絶対の。
完全なる。
だから、オレは跳ばないし、飛べない、謡わない。
オレがするのはただ、ここに『いる』だけだ。
自分の、決して割れることのない殻の中に。
●
強くもなく、弱くもない風が一陣、オレを撫でるように流れていった。もう四月とは言え、まだまだ風は冬の匂いを残している。しかし、校庭の桜のつぼみの先端が少しピンク色に染まってきているあたり、冬と春の生きた対比を見ているようで、気分は悪くない。
口うるさい追撃者から色々と逃げ回っているうちに、気づくとオレは、そこにいた。そことは、視界をさえぎるものの何も無い場所。
上を向くと、あるのは一面の蒼。
正面を向いても、多少下方には違うものがあるが、視界の多くを支配するは、やはり蒼。
ここは、学校という名の法の檻の中で、唯一自由なのではないかと思わせてくれる空間。
果たして、振り向けば鉄製の入り口には『立ち入り禁止』の張り紙があるあたりはやはり法の中なのではないかとも思えるが、しかしその『禁止』というあまりにも身近な『禁忌』を犯してこの空間に俺がいる以上、やはりここは、学校という中で最も自由な場所に違いない、という確信も生まれてくるというものだ。
まあ、校内の誰もが、別に『立ち入り禁止』という張り紙に注視すらすることもないという昨今、本当にここが『禁断の園』と言えるかどうかは甚だ疑問なのではあるが。
人間のつくる『禁忌』とは、所詮いくら足掻いても『戒め』などではなく、『警戒』でしかない、そういうことか。まったく滑稽なもんだ。
神にでもならない限りは、人は人である。
当たり前と言えば無論そうであるが、オレには痛い論に違いなかった。
舌打ちを一つ、入り口の裏へと周り、壁に背を預けた。
――しぼっ
安い煙草に、これまた安い百円ライターで火を灯す。ゆっくりと煙を肺に満たし、果てしなく蒼い上方へと吐き出した。
これは反逆。自分への。空への。
果てしない空を汚してやろうという、反逆。憎い対象でしかない、蒼への反逆。
いや、それは違うか。
オレはまだ、未練ってやつを持っているに違いなかった。だからこうしてここにいるし、ここで女々しくヤニなんかをふかしている。大人しく自宅ででも吸っていればいいものを、わざわざ停学というリスクがまとわりついている学校内という空間の中で。
しかして、オレ自身はその未練ってやつを必死に否定しようとしている。その未練は真実と分かってはいても、それでも抱えている自分を否定せずにはいられない。まさに自分自身への反抗期。
だから、オレは煙で俺を満たす。
自分がどうしようもなく愚かで。それに気づいてしまうくらいに愚かで。どうにかしようともしないほどに愚かだと、自覚しているから。だから、オレは自分を汚い存在としてここに置いておきたくなる。まだ穢れたりないから、余計に汚そうとして、ヤニを吸い続ける。果たして、そんなことで本当に自身を汚すに足りているかは分からないが。
ため息染みた、煙を吐き出す。
まあ、自己満足で構わないさ。世の中、自己満足がなければ人間なんて存在できやしないさ。
そう思うオレも、所詮人間でしかないっていうのは実に滑稽だけれども。
と、
「――っ」
瞬間の刺激に、思わず手から『それ』を投げ捨てる。
いつの間にか火が手まで浸食していたらしい。実に間抜けで。実に滑稽だ。
ふと、なんとなくだが、どうしようもなく馬鹿な考えがオレを満たす。
「オレの反逆に、そろそろばちでも与えようってことだろ?」
苦笑。
まったく、馬鹿な考えだ。誰に向かって話しかけているのか。
今のは明らかなオレの不注意。第三者の力など、加わる疑いもない。それでもオレは、そう呟いた。そして、首を上方へともたげる。
「…………」
そこには、蒼があった。果てしなく、どこまでも。
しかして、蒼以外のものもあった。ほんの数十センチくらいのところに。
そう。それは、人の顔。屋上の上から、ちょこんと顔だけ出した少女。一瞬、その瞳のあまりの深さに、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
しかし、女はそんなオレの事情など知ったこっちゃないと言わんばかりに、
「へろー」
なんていきなり言ってくるものだから、オレは一瞬思考を止めてしまう。わずかのフリーズのあと、そして模索。
知り合いに、こんなやついたか……?
馴れ馴れしすぎる挨拶。よもや顔見知りか、と思いもしたが、おそらく答えは否。こんな目をしたやつはきっと忘れるわけがないと思ったからだ。
「はじめまして、だよね?」
そいつの一言で、オレの思考は霧散させられることになった。まあ、やはりというかなんというかだが。
「キミ、不良さん?」
そして、何の脈絡もない、首を傾げての、声。
おそらくは、オレの喫煙しているところを見ていでもしたのだろう。とは言え別段焦りもしない。ばれたから怖いっていうのは、あんまりない。あるとすれば、部の連中に迷惑がかかってしまう、ということか。
しかし、不良とかいう垣根は曖昧だが、まあ、放課後に屋上でヤニなんてふかしていたら、世間様では立派な不良というやつなのだろうなどと考えながら、
「周りから見ればそうなんだろうが、知らねえよ。別に悪いこととも思ってねえし、それになんだ、二十過ぎて普通になるものが、十六でしてたら不良? まったく世間様のご意向は寛大なこって。で、あんたにはオレがどう見える?」
正直、馬鹿なことを言ったと思った。「不良?」などと聞いてきたやつに、「どう見える」はないだろうよ。不良だと思ったからそう聞いた。オレが提示したのは、答えが分かっている問題を解かせる。そのようなもんだ。
しかして、オレの期待は裏切られるのだった。少女は、顎に人差し指を当てて、
「んー、わかんない」
などと言ってくる。そして、
「でも、悪い人じゃないと思うよ」
――馬鹿か?
自分で「不良か?」と聞いておいてそれは意味が分からない。というか『煙草』。このアイテムだけで不良と決め付けるには十分じゃないのか? しかも、言うに事欠いて悪い人じゃないと思うとは笑わせる。
「はんっ、初対面で決め付けてくれるじゃないか」
皮肉のつもりで言ったのだが、
「だって、キミ。不良って言われて怒らなかったじゃない? 怒るもんじゃないかな、初対面でいきなりそんなこと言われれば、普通はさ」
それ以前に、初対面でそういうことは聞くほうがおかしいと思いつつ、
「確かに、な」
不良か? と聞かれて頭にこないやつなどそうそういない。例え本当に不良じゃなかったとしても、普通は例外ではないだろう。
「でしょでしょ? だから、普通じゃないあなたは悪い人じゃないの。変な人ではあるみたいだけれどもねっ」
大きなお世話だ。笑顔で言えば許してもらえると思ったら大間違いだ。……しかしまあ、否定はできないのは痛いところなのかも知れないが。
「あんたも十分普通じゃない」
「あはは、やっぱりぃ」
けらけらと笑う。
なんとなく、この女を見ていると『無邪気』という言葉が浮かんできてしまう。初対面で、それでいてまだ二、三言しか会話をしていないにも関わらずそう思わせるほどに、こいつはどこか浮世離れした雰囲気を持っていた。
「ふふぅ。やっぱりキミいい人だね。ボクはタスクっていうんだ。キミは?」
「自分が名乗れば教えてもらえると思ったら大間違いだ」
言いながら、新しい煙草に火をつける。
「…………」
「…………」
「…………なんだよ?」
たまらず声を上げる。
「んー、べっつにぃ」
白々しいにもほどがある。
その深い瞳でじぃっと俺を見つめておいて、べつにはないだろう。
「だってさ、タカト君の方向いてちゃいけないってきまり、どこにもないでしょ?」
そりゃそうだ。
――と、気づく。
「ちょっと待て」
ん、と声を上げるタスクという名の少女。だから白々しいと言っている。
「今、オレの名前呼んだな?」
オレの疑念など知ったことかと言わんばかりの笑顔。
「そりゃあ知ってて当然だよぉ。『最も空に近い男』って言ったら、有名じゃない? 自分の知名度の高さに気づけない有名人って、結構タチ悪いよー」
名前を知ってて聞く方がタチが悪い。
「…………」
しかし、まだそんな呼び方をするやつがいたとはな。
苦笑。
一息、大きく煙草を吸い込み、そして吐く。俺の口から生み出されたくぐもった白が、頭上に広がる蒼を浸していく。
「……そんなのは、過去の話だ」
それに、もうどうでもいい話だ。
「ああもうっ。くらいくらーい。タカト君暗すぎっ。駄目だよ人生明るくいかなきゃ、ねっ」
言いながら、にっかーと笑う少女。
その笑顔が、妙に眩しく見えた。眩しく見えてしまう自分が、どこか嫌だった。どこかやるせなくなったオレは、タスクから顔を反らし、白い煙を、吐く。
所在ない気分になったオレは、まだ半分残っている煙草を指で弾いた。まだ火のついたままの煙草は宙を舞い、柵の手前に落ちる。
――と、
「あれ、あれれ、タカト君どこ行くの?」
頭上の声。
オレは顔を再び上に向けながら、
「? ここにいるぜ?」
え、といった表情になるタスク。
「あ、ああごめんごめん、なんか余所見してたみたい」
「?」
なんとなく不審に思わなくもないが、大して気にすることもないだろう。それよりも、てへへ、と笑うさまは……多分可愛いという言葉が合っているとなんとなしに思った。口が裂けても言うことはないが。
「ところでさ、タカト」
「ん、なんだ?」
「世界って、どう?」
「だからなんだよ、ぶしつけに」
しかも、質問の意図がつかめない。
「んー、なんていうかさ、嫌いなのかなあってなんとなく思ったんだよね」
ため息。
「違った? 怒った?」
違わないし、怒ってもいない。ただ、少し驚いただけだ。
「――嫌いさ」
短い一言。意識したわけでもないが、突き放したような言い方になってしまったことは否めない。
「そっか……。でも、さ。世界ってそんなに汚いものなのかなあ」
悲しいものに触れるような、一言。
世界は汚い?
汚い。
いや、違う。
世界はきっと、汚くなんかない。
本当に醜いのは何?
本当に愚かなのは誰?
それは――
「タカトぉー!」
不意に、オレを現実に呼び戻す声。
思わず上を見上げるが、そこにはすでに誰もいなかった。一瞬不審に思うが、少々深く思考の世界に浸りすぎていたうちに、愛想をつかせて帰ってしまっただけだろうということにしておく。
それよりも、優先順位が上なのはこっちだ。
先ほどの声。瞬間的にはタスクのものかとも思ってしまったが、それは一瞬の判断ミス。よくよく落ち着いてみると、正直間違えようもない、もういい加減聞き飽きた声だった。聞こえてきたのは背後。つまりは屋上の入り口。すでに敵は屋上まで足をつけている。
――ちっ、しつこい。
内心舌打ちをする。
ここにいるのは分かってんのよ、という言葉に内心ぞっとしないでもないが、どうせ口八丁のでまかせだということは分かっている。オレを探すときは絶対口にしている文句だからだ。
オレの名前を呼びながら、右回りに入り口を回ってくる。
馬鹿なやつだ。声を出しながら移動するなど、自身の位置を知らせているだけだということに気づかない愚か者め。
心中嘲りながら逆回りに、そいつとは対角を踏むように歩を進めていく。
あと少しで入り口だ……よし、着いた。
これでとんずら、というわけだ。
入り口の裏側からは、あいつの、
「あれーおかしいなあ。絶対ここだと思ったのにー」
という声が聞こえてきた。
ふ、愚かな。
オレは心中あばよと言いながら、屋上を後にした。
●
荷物を持って帰路につこうとした校門のあたりで、
「おーいタカぁ、ちょっと待てよ」
知った声が聞こえてきた。
振り向くと、ランニングパンツ――まあ、世間的には『青少年』ってやつがしっくりくるであろう感じ――の男が駆けてくるのが見えた。
「ん、なんか用か?」
「おいおい、言うに事欠いて、なんか用かはねえだろうに」
「……まあ、確かにな」
気のないオレの台詞に、目の前の男――ナガオはやれやれといった仕草を取る。そして、無言の視線をオレに投げてきた。まあ、長い付き合いでもあるし、今の俺の立場からしたとしても、言いたいことは大体分かる。
『今日も部活、出ないのか?』
まあ、そういう内容だろう。だからオレは、
「悪いな」
飽くまで答えだけを短く、簡潔に言う。それに、分かっていたかのように短いため息をつくナガオ。
「……怪我はもういいんだろ?」
「たぶん、な」
短い会話。
短い沈黙。
「心の問題、ってやつか」
短い一言。
オレは、沈黙で応える。
「まあ、仕方ない……と言えばそうかもしれないけどよ。でも、なるべく早く戻ってこいや。待ってるぜ、あいつ」
「わかってるさ」
オレの淡白な返答に、ナガオは少々半眼になり、
「本当か〜? 今だって、お前のこと探して校内中走り回ってるんだぜ? まあ、今タカが一人でここにいるってことは、見つけられなかったっていう証拠にもなるんだけどよ」
「知ってるさ。見つからずに逃げてきたばかりだからな」
オレが言うと、ナガオは大げさに手を顔に当ててあちゃあと唸った。そして、あいつどじなところあるからなあと高らかに笑う。
正直、こいつのこの明らかなさわやか系の性格はモテるに違いないとも思うのだが、本人曰くはそうでもないらしい。専門種目が長距離という、完全な汗泥競技だっていうのが原因だとかナガオは言うが、実際はどうなのかは知らない。
「で、陸上部期待の主将さんが、こんなところで油売ってていいのか?」
「あらー、相変わらず可愛くねえの。折角俺がさびしく一人帰宅路の親友に声をかけてやったってのに、皮肉しか返してもらえないとはねぇ」
おお、と言いながら懺悔のポーズで明後日の方を向く。
白々しいにも程があるが、これが逆にナガオの他人に好かれる点でもあった。気さくで、明るくて、でも決して軽いわけではない。そして何より面倒見がいい。そういうやつだ。オレなんかじゃなくて、こいつが主将になったのは適任というものだと常々思う。
「冷てえなあ。なんかつっこんでくれてもいいじゃんか」
反応も何もないオレに不満をぶつけながら、膝をはたいて立ち上がる。
「つっこみはキャラじゃなから、な」
「はっは、確かに」
笑うナガオ。
「まあ、俺のことなら気にすんな。今はアップの最中だ。スタートまではまだ二十分くらいあるからよ。しっかし、きっついぜ。だって今日千メートル×十本だぜ?」
言いながら、うへえと唸る。
「自分の立てたメニューだろうが……」
「はっは。違ぇねえ」
オレらの学校の陸上部には、顧問は遠征とかのときくらいしか顔を出さない。まあ、いわゆる名前だけの顧問というわけだ。そんな顧問が高校の陸上部の面倒など見れるわけがなく、部活のメニューは主将――今はナガオ――が立てることになる、そういうわけだ。
「ところでよ、帰るには中途半端な時間だよな? サトコに見つかりもせず、どっかでなんかしてたのか?」
「ん……まあ、ちょっと屋上で、な」
オレが言った瞬間、眉毛がピクリと動く。まあ、何をしていたかが想像できたのだろう。まったく、たまにその鋭さは鬱陶しくなる。
「ほどほどにしとけよ」
それでも、オレへの気遣いは必ずしてくれる。有難くもあり、やはり鬱陶しくもあるのだった。まあ、純粋な行為を鬱陶しいなどと評せるオレの方が鬱陶しい人間に違いないんだろうと思えてしまうあたり、そんな自分の思考こそが鬱陶しくなってくるのだが。
だから、苦笑しかできないわけだ。
「しかし、いつも音楽室のお前が、今日は屋上か。なんの心変わりだ?」
少々驚いたかのようなナガオの声。それもそのはず、オレが『ああいう』行為を行うのは、何事もなければ普段は音楽室……正確には音楽準備室を使う。色々と都合がいいからだ。しかし、今日は――
「サトコに先回りされていたんでな」
そう。音楽準備室を覗くと、教科担任であるヤエダとサトコが何やら話しているのが見えたのだ。聞かなくても容易に想像できる会話。
「タカトがきませんでしたか?」「いいえ、来てませんよ」
そんな感じだったのだろう。
虎子を得る必要もないオレは、無論虎穴になんて入ろうともするはずもなく、おとなしく屋上へと向かった、というわけだ。
「まあ確かに、放課後の屋上なんて物好きくらいしかいかないだろうからなあ。恰好の場所ってか?」
ナガオは言いながら、にぃっと笑う。
と、ふと、ナガオの『物好きくらいしか』のあたりで、頭の隅をよぎるものがあったのに気づく。
物好きは……いた。
――深い瞳の、あの少女だ。
「……ところで、ナガオ。タスクって名前の女の子、この学校にいるか知ってるか?」
「はぁ? 何を唐突に。……あ! お前、まさか」
「おい、そんな目で見るな。決して下心うんぬんとかそういうんじゃねえよ。ただ、たまたま話して、たまたま気になった。それだけだ」
「屋上で、か?」
「まあ、そんなところだ」
「ふーん」
とは言いつつも、どこかしら懸念な表情は無くさない。まあ、当然と言えば当然の反応か。
「で、そのタスクちゃんとやらの特徴は?」
「あ、おう……。瞳がなんか異様に深い。髪型はショートカットだったかな」
「…………」
「…………」
「……それだけ、か?」
数秒の沈黙の後、ナガオの一言。
それ以外って……なんかあったか?
「んん、ああ〜。あーと、そうだな、確か自分をボクと呼んでいた気がするな」
「……そういう問題じゃねえよ! 例えばほら、身長とかさ。制服のスカーフとか見れば学年とか分かるじゃんよ!」
「ん、それは無理な注文だな。だってな、顔しか見てねえし」
屋上の上からちょこんと出された顔としか話してない。ただそれだけだ。
「情報少なすぎだって! そんなんじゃ分かんねえよ」
「まあ、確かに、な」
「しみじみと言うなしみじみと」
ため息まじりにナガオ。
まあ、予想も十分にできていた展開だし、仕方のないことと言えばそうだった。別にオレにもナガオにも、学校中の人間を知っているなどという特異な能力など持ち合わせていない。そんなのはいても漫画の中だけだと正直思うわけだ。
「ん、別にいいさ。気になるくらいで、どうしても探そうってわけでもないしな」
それに、なんとなくとしか言いようがないが、また近々会える気もする。なんでと聞かれても根拠などないが。
「ほうほう。ま、サトコにはきっちり報告しておくよ」
いたずらっぽく笑い……と思ったら、瞬時に苦笑いに変わる。
「――って、報告の心配……ないみたいね」
「は?」
よく分からないと、苦笑するナガオに言おうとしたとき、背中をトントンと叩かれたのに気づく。
――悪寒が走った。
それでも、振り向かずにはいれないのは……そういう圧力染みたものが、きっと背後にあったからなのだろう?
そこには、般若がいた。
果たしてその正体は、陸上部きっての敏腕マネージャーにして、ナガオと同様の幼馴染、サトコである。部内最強の名は伊達ではなく、部の予算会議ではそのあまりの敏腕っぷりに、陸上部のオーガと呼ばれているとか何とか。まったく、何が敏腕なのかが果てしなく疑問でもあるわけだが。
そんなこいつも、普段は決してそんな怖いやつでもないのだが、怒髪が天をつくと、あまりの修羅っぷりに正直手をつけられなくなる。そして、その言わば『修羅モード』が今まさにナウなわけであるから……飽くまで善良市民なオレは震えるしかないわけだ。
視界の隅には、ご愁傷様と手を合わたのち、したたかにアップに戻るナガオが見えた。
それを恨めしく怨念を込めて睨みながら、追い詰められたネズミは……薄ら笑いくらいしかできなかった。噛み付くなんてとんでもない。相手は決して猫なんて生易しいものではなく、やはり鬼だったから……
「へ、へろーサトコ。今日も素晴らしい般若っぷりで」
「はいはいこんにちは。で、今日の部活サボリは何の用事?」
軽いジョークすら受け入れてもらえもしない。だから、オレは得意の苦笑い。
「はは……ええと、ぶ、部活今日あったんだ?」
「何を白々しい。まあどうでもいいけど、あんたさっき、屋上いたでしょ?」
普段のオレなら軽く受け流せるであろうソレを、サトコのあまりの迫力に、ついうっと唸ってしまった。
「な、なぜそれを」
「だって、ほら、あんたの吸殻」
「うおっ」
その手に握られているのは、確かにさっき吸いかけで投げた煙草そのもの。
「回収してあげたんだから、感謝しなさいよ〜」
嫌らしく笑う。
正直、全身が恐怖していた。
真に恐怖したものは、脂汗すらでないと初めて知った。
「よ、弱みでも握ったつもりか……」
必死に搾り出す声。口の中の水分はほとんどないため、まるで蛙の鳴き声のようなみじめったらしいものしか出てこなかった。
にたり、と笑う。
「弱み? 面白いこと言うわよねぇ。弱者に対して弱みなんて必要ないじゃない?」
ごもっともです。
「でしょぅ〜?」
言いながら、煙草をうりうりと押し付けてくる。顔は笑っているけれども、目が笑ってない。いや、違う。顔すらも笑っていない。それは笑顔なんかじゃない。憤怒の形相がすこーしだけ見方によっては笑っているように見えるだけで、オレの防衛本能が、目の前の女の憤怒を笑顔に見せようとしているだけに違いない。言わば般若の面が笑っているように見えるそれと相違ないのだ。
……まあ、どんなに論を並べたところで脅威が眼前にあるということに変わりはないのだが。
正直、教師でも一般市民でもいいからここを通ってくれと願った。
そうすれば、オレはただただ狂気に虐げられる弱者としか映らないわけで、誰かがきっと救いの手を差し伸べてくれるに違いない! ていうか、この状況下においては、オレの前の鬼が法の下にて裁かれるべき者だと誰もが認めるだろう! さあ、救済の手カモン!
しかし、いつまで経っても現れない救世主。そして、いつの間にか制服のネクタイを締め上げらつつあるオレは……絶望に気づくことになる。
帰宅で通りすがる人々は、所詮通りすがり。
どいつもこいつもアカの他人。
――ああ、
ここは、『学校』という法の中などではなく。
――そうだったのか。
『サトコ』という名の修羅が牛耳る空間の中だったのか……。
――馬鹿な。
ありえない。
「ちょっと、どこ見てるのさ」
不意に現実に引き戻されるオレの意識。
……どうやら少々トリップしていたようだ。む、オレとしたことが。
「い、いや、別に」
とりあえずはぐらかしてみた。
「ふ〜ん」
いや、口には決して出せないんだけれども、半眼で睨むのはまだいいとして、ネクタイそろそろ放してくれないと、結構苦しいんだが……。
しかして、その願いは叶うことはない。
相も変わらずふふふと笑う鬼だったが、
「おーい、マネージャー! もうスタート五分前だぞっ。そろそろタイム取る準備してくれよぉ」
遠くで、声。
向けられたのは間違いない、サトコその人だ。
そちらに向くサトコ。そして、気が揺るめば当然の如くネクタイを握る手も揺るむ。
――その瞬間を見逃すオレじゃなかった。
すかさずダッシュ。脱出成功。さすがオレ。
あ、という声を残すサトコだったが、部員のさらなる「マネージャー!」という声に、苦渋に満ちた顔をしながらオレに背を向ける。
「くぅ。仕方ないわ。今日のところは見逃してあげる」
正直いつまでも見逃して欲しいものなのだが、
「――けど、明日からはこうはいかないんだからね」
やはりそういう悪党染みた台詞を忘れないあたりはさすがというかなんと言うか。
「明日はもっと見事に逃げおおせてやるさ」
と、その瞬間、オレは目を丸くすることになる。聞こえるはずもない距離と声量だったが、あまりにタイミングが良すぎた。
サトコが振り向いたのだ。
振り向くだけでも背筋が凍るというものだったが、正直、驚きの類はそういうものではなかった。
一瞬だけの幼馴染の顔。
――いつか、見たような記憶のある表情。
――もう、二度と感じたくないと思った感情。
――悲哀。
「…………」
彼女の見せた一瞬のそれは、すでにグラウンドへと向かう遠い背中にさし変わっている。あまりに唐突で、短いそれ。オレの見間違いじゃないかとも思えるが、しかしこの感情は今の自分を明らかに苛むものであって、もしも実際は違ったものでも、オレの中での現実には偽りのない事象。結局要するに、オレは弱い。
ため息。
今更ながら、校庭……いや、世界が朱に染まっていることに気づいた。
――夕暮れ。
何故今更気づいたのか。
――背中。
朱に染まった背中が、オレの目に焼きついて離れなかったから。
ボリボリと頭を掻く。
「馬鹿なことを考えるのは……やめようぜ」
言葉。
誰に言うでもなく、果たして自分にすら語っていないのではないかとも錯覚できる、独白。自分にすら語らない言葉など何処にあるのだと思いつつ、それでも、そのオレはここにいるのだ。
いつの間にかナガオたちの練習は始まり、汗と泥にまみれた青春はそこにあり、その青春に包まれたサトコが、よく通る声でタイムを読み上げる。
そこに、オレはいない。いれない。いられない。
所詮、オレには青春の一ページを眺めることはできても、その場に入ることも、資格さえもない。言うなれば傍観者。その事実に、胸を締められるのだった。
いや、実際はそんなことはないのだろう。
きっと、オレが望まなくとも手を差し伸べてくれているやつはいるし、オレも心のどこかでそれをありがたく思っている。……しかし、オレは拒絶している。
理由は――多分ある。
苦笑。
今更ながら、「オレはどうあがいても傍観者」。そう考えてしまう自分が、余計に、酷く哀れに思えた。
自分だけが切り離されたような世界。
ここにいるのは自分だけ。
ここにいないのは自分だけ。
――堪らない、な。
だから、オレは背を向けた。
対象は、
校庭か。
仲間か。
世界か。
あまり、考えたくはなかった。
帰り道、木に引っかかった風船を取ろうとする女の子が公園にいたのに気づいたが、オレは一瞬立ち止まっただけで、すぐに再び歩を進めた。
足を止めた理由は、残照か、未練か、後悔か――
おそらくは、そのすべてだったのだろう。
●
空が、見えた。
小さな“窓”から、雲ひとつない、蒼い空が。
でも、どうしてだろう。何かが酷く悲しかった。
手を伸ばせば届きそうな気にもなってくる天空。しかして、手を伸ばしても届くことはなかった。なんだか寂しさが胸にこみ上げてくる。
だから、もう一度手を伸ばす。
やはり届かない。
――疑問。
どうして空はこんなに蒼いのに、こんなに狭いんだろう。
きっと空というものは果てしなく高くて、無限に広いものなのに、どうしてこの空はこんなに小さいんだろう。
酷く、悲しかった。
どうしても、あの“窓”を越えたいと思った。越えなきゃいけないと思った。越えることができなければ、悲しいのはいつまでも悲しいと思った。
じゃあ、とべばいいんだ。
でも、どうやってとべばいいのか。
とりあえず、とんでみる。
届かない。
とんでみる。
届かない。
とびかたが分からない。
届かない。
とぶハネがない。
届かない。
……酷く、悲しい。
とばなきゃいけないのに。
向こうに行かなきゃいけないのに。
でも、届かない。
酷く、悲しかった――
●
――パアアアァァァン
不意に、そんな音が聞こえた気がした。
ボリボリと頭を掻きながら、顔を上げる。なにやら、そこには見飽きた顔があった。
はて、しかしこいつは誰だったか。
必死に……いや、そんな大層な回転はしていない。なにやらぼーっとする頭の、とろい回転速度に合わせて怠惰に捻りだすその顔の正体。
しかして、結論を出すまではそう大した時間は要しなかった。なぜなら、
「私の授業で居眠りとはいい度胸だな、コシカワ」
虫唾の走るような声が、無理矢理オレの鼓膜を叩いたからだ。こんな耳障りの悪い声を捻りだせるのは一人しかいない。疑いもなく現国のフジヤマだ。
急に目覚めた脳細胞が、やたらと不快だと訴える。要するに、最悪の寝覚め、そういうことだ。
まあおそらく、それも当然なのだろう。今更ながらジンジンと痺れだす後頭部が、その事実を如実に表している。凶器は、ヤツの手で丸まっている教科書を見れば嫌でも分かるというもんで。
「ははは、いい読経でしたよ。先生は音読子守唄の達人ですね。一発でコロリでしたよ」
苦笑いに、一言。最悪の目覚めだとこんな言葉も出せてしまう自分が恐ろしい。
ピク、とフジヤマのこめかみあたりが疼いたのが見えた。
同時、クラスの何人かが、息を呑む音が耳に届く。
しかし、オレには別に「しまった」という感情はない。最悪のプレゼントに最悪のお返しは、人としての当然の義務。そう、オレは義務を果たしただけなのだ。
と、激怒するかと思われたフジヤマは、しかして何を思いついたのか、嫌らしい笑みを浮かべるだけだった。……そう、嘲笑という名の笑みを。
「コシカワぁ。確かお前、特待生だったよなぁ?」
急に声音を変える。
……正直、気味が悪い。
「ふむ、しかし私は最近、妙な噂を聞くのだが……はて、なんだったかな」
何を白々しい。
そして、わざとらしく手をポンと叩く。
「おおそうだ。貴様最近、部活に出とらんそうじゃないか。まったく、学力もスズメの涙ほどのお前がスポーツ優待生が部にも出ないなど、ゴク潰しもいいとこだな。しかし、それだけでは飽き足らず、何をするかと思えば……」
嫌な予感。
体が緊張するのを感じた。
「まったく、嘆かわしい。暴力から生まれるものなど、愚かな野蛮だけだと何故分からんのか。しかも、お前だけならまだしももう一人の特待生の……なんだったか……そうだ、隣のクラスのナガオとか言ったか? 本当に訳が分からんよ、今の若者は。あいつもお前も、そろいもそろって野蛮を絵に描いたようなやつらだな。人間なら人間らしい生き方をしろというのだ。まったく、実に失望だ」
どくん、と心臓が高鳴るのが聞こえた。血液が沸騰するような高揚。
――そこには……触れるな。
「やれやれ、うちに推薦制度も見直す必要が――」
――ガタっ
無機質。しかし明らかな感情がこもった音。見上げる位置にあったフジヤマの顔が、今では目下にあった。
一瞬、ヒッと唸るフジヤマ。
おそらく、オレの顔を見ての悲鳴だろう。鏡を見なくても分かる。オレが、今どういう顔をしているのか。
「き、貴様、教師に手を上げようというのか。い、いいいだろう。やってみろ。そうすれば貴様は――」
「――気分が悪いんで、保健室行ってきます」
へ、と間抜けな声を出すフジヤマ。普段のオレなら爆笑ものの滑稽さだったろうが、今はそんな気分なわけもなく、オレはただただ、教室の出口へと向かう。ただ、
「先生大丈夫ですか? ガタガタ震えてますよ。仕事熱心もいいですけど、体はお大事に」
そう言い残して、オレは教室を後にした。
●
教室を出たオレは、律儀に保健室などに行くわけもなく、音楽室にでも行こうとして、やはりやめた。
さすがに授業時間はよろしくない。授業があると考えるのが普通だし、もしなかったとしても、ヤエダに変に迷惑をかける可能性も否定できない。
だからオレは、昨日の放課後と同じ場所に行くことにした。
幸い、オレの教室から出た棟から二つ階を上がれば屋上になるので、授業外の教師に見つかることもそうそうない。
――キイィィ
金属の扉を開く音。
飛び込んでくる色は蒼。天気は今日も快晴。空はいつもどおりに蒼かった。時折吹く風が、まるで春の到来を知らせてくれるようで、妙に心地いい。
しかし、思うわけだ。
立ち入り禁止の張り紙をつけるくらいなら、鍵の一つでもつけとけっての。
まあ、どうでもいいのだが。
なんともなしに、空を仰ぐ。
――深い。
どうしようもなく、深い蒼。
それは、まるで吸い込まれるような錯覚を覚える。
ふと、思い出す。
同じような感覚を、昨日味わったことを。
もしやとも思い、屋上の上を背伸びで見てみるが、
「……はは」
笑えた。
何を期待しているんだよ、オレは。
今は授業中。そこに誰かいる方がおかしいというものだ。
「…………」
しかし、オレは今日はそこに上がった。正真正銘、学校で一番高いところへ。
何かを期待したわけでもないが、やはりそこは何もない空間。あるのは頭上の蒼。
――しぼっ
白い煙を生み出しながら、仰向けに寝転がる。
果てしない蒼空をバックにたゆたう白煙。
一人でこんな情景を眺めていれば感傷的にもなるというものだ。
「しっかし、オレも、ガキだよな」
苦笑。
フジヤマの一言。確かに、ナガオのことを出されて一瞬で頭に血が上ったが、元はと言えば授業中に居眠りをして、起こされて、それにつっかかっていったオレの方に非があるのは明白。
逆に言えば、オレがつっかからなければ、ナガオが汚されることはなかった。所詮、悪いのはすべてオレ。
やはり苦笑。
ナガオとサトコが同じクラスじゃなくて本当によかった。もし同じクラスなら、正義感の無駄に強いあいつらが何をしていたことか、想像すらしたくない。
――傷つくのも、間違いを起こすのもオレ一人で十分だ。
あいつらはいいやつだ。
いいやつ過ぎて、自分があまりにちっぽけに思えてしまうほどに。だから、オレにできることは……これ以上あいつらに深く関わらないこと。
――笑わせる。
何よりも温もりを求めているのはオレ自身。
誰よりもあいつらとの同じ時間を取り戻したいと思っているのもオレ自身。
なのに、オレがしているのはなんだ。
反抗か?
いったい何に反抗をしている?
何が気に食わない。何が嫌だ。何が怖い。
――拒絶。
いや、違う。そんなものは恐れていない。恐れる必要もない。誰が、何が、いったい誰を、何を拒絶しようというのか。
――やめだ。
ただでさえ気が荒れているときに、さらに精神的に自分を追い込んでどうするというのか。鬱になるだけで、思考は後ろ向きにしか進むことはない。
後ろに進むというのは、最早、滑稽以外の何物でもないというのに。
いつの間にか縮むに縮んだ煙草を指ではじき、新しい一本に火をつける。
大きく、煙を吐く。
一陣の風が、白煙を横に流していった。
しかし、改めて正面に広がる空が、本当に広いことを知る。そして、自分の如何に小さいことかを、思い知らされる。
――あの空は、狭かった。
夢。
あれはやはり、過去の幻影か。
届かない空。
とべないオレ。
――今でもそれに変わりはないが。
とべないのか、とばないのか。
――何を恐れるのか。
どちらにせよ、あんな夢を見るというのは、所詮はオレの惨めったらしい未練の表れなのかも知れない。
――まったく、笑わせる。
女々しいったらありゃしない。
空はこんなにも広いというのに。
――あの狭い空は、オレの心だったのかもしれないな。
所詮、オレから出てくるのは、苦笑と、ため息と、自嘲と――
と、そのとき、
ガチャ……キイイィィ
入り口から、音。そして、
「んん〜〜〜〜、やぁ〜っと昼休みだあっ。いやぁ、今日も風が気持ちいいし、お日様もでてるみたいだし、いい天気みたいで、よかったよかった」
声。
その声には聞き覚えがあった。昨日知ったばかりの音。
彼女の発言からすると、いつの間にか昼休みになっていたようで、どうやらチャイムが鳴ったのが気づかないほどに思考に没頭していた、そういうことなのだろう。
なんとなく……としか言いようがないが、オレはそろっと屋上の上から降りた。なるべく音を立てないように、裏側から。思うに多分、今の不安定なオレを、誰にも見られたくなかったのだろう。……そう思うことにした。
果たして、少女はまるでそれが日課であるかのように屋上の上に登る音がした。そして、何を考えているかは分からないが、屋上の上中をぺたぺたと四つんばいで歩き回る気配。
何がしたいのかは分からないが、しかして少女は、
「よぉーし、誰もいないな」
そう呟くと、
――しかして、オレは呼吸をする感覚も忘れることになる。
時が止まったかのような衝撃。
いや、時の流れが見えるような感覚が、まるで時が止まったように錯覚させているのか。
……正直、そんなのはどうでもよかった。
――旋律。
あまりにも澄んだ、あまりにも可憐な、あまりにも純粋な。
――音色。
そして、
――言葉。
タスクは詠っていた。
まるで、魔法にかかったかのような感覚が、オレに襲い掛かってくる。
とめどない何かが、押し寄せてくるような錯覚。
どうしてそんな、純粋に、世界を見れるのか。
どうしてそんな、世界を、美しく思えるのか。
どうしてそんな、人間に、期待を寄せるのか。
どうしてそんな、旋律を、華麗に生み出すのか。
オレは、完全にタスクの歌に酔いしれていた。
やがて、旋律にも終わりが来る。
オレの胸に残る思いは、それは何なのか。
分かっているような気もしたが、分かりたくなかった。少なくとも今は。だからオレは、彼女に気づかれないように、無言で屋上を後にした。
●
その日の放課後、オレは音楽室へと赴いた。そこに向かう大した理由は何かあるか、と聞かれても特にはないと、即答できる。というか必要ない。そこは、オレにとって居心地のいい場所だから。
音楽室と一言で言っても、一般の生徒の言うそこには用はない。主に授業で使う部屋の奥にある扉の向こう側。木製のドアに簡素な鍵。小さな出窓と薄い壁に隔たれたそこは、話し声もろくに遮断できない空間。そしてオレの目指す場所。
この高校には吹奏楽部だとか合唱部などといった部は存在しなく、さらには、この教室そのものが別棟に存在するためにグラウンドからの運動部の声も届くことはまずない。放課後のここはまさにほぼ無音の楽園だった。
「まあ、万人にとっての楽園かどうかは知らないけれどもな」
苦笑。
無音がイコールで楽園に繋がる人間などそうそういないだろう。うるさくもなく、寂れてもいない。普通の人間なら居心地がいいと感じるのはきっとそういう類の場所。なるほどオレはやはり世間とは離れた存在だと、今更思う。
しかし、そんなことを考えていても、オレは学校という俗な空間に縛られているに違いはなかった。それゆえにここにいるわけであるし、人とのつながりを求めているから、このドアの中の住人と接したいと思うわけだ。
どこまでも滑稽な男だな、オレは。
だから、苦笑は止まらない。
――コンコン
そんなに強く叩いたわけでもないが、音のない空間には妙に響くノック音。そして、時間のまもなく、
「……タカト君でしょう? 開いてますよ、どうぞ」
澄んだ声。
淀みのない声というのはまさにこういうものだとは思うが、その本人は決して淀みのない人間ではないっていうのが笑わせる。
別にどんな内容が返ってくるでも良かったオレは、その言葉を確認しきる前にノブの手をかけていた。
どちらかと言えば古めかしいドアだが、ちょうつがいの調子は意外と悪くなく、露骨な音など何もなくオレを部屋へといざなう。無音の空間には余計な音などいらないと言わんばかりのそれに、始めは赴きすら感じたものだ。
その部屋は、『準備室』と名うたれているわりには殺風景で、あるものと言えば簡素な机にレコード機器、後は備品が少々といったところだった。よく漫画とかで見る重奏器のほとんどすべては音楽本室にあるため、もはやこの室内はオレの楽園でもあり、ここの住人の楽園にも違いなかった。
「いやはや、そろそろ来る頃だと思ってましたよ。お久しぶりです」
などと白々しく言いながら、回転式の安っぽい椅子に腰掛けてこちらを向くのは、この学校での唯一の音楽教師、ヤエダである。
久しぶりってほど会ってなくもないだろうと心中毒づきながら、そいつを見る。
細くて艶のある黒髪をうなじの辺りで一本に縛り、丸い色眼鏡なんかをしているあたり、どう見ても遊び人にしか見えない。年齢も確か三十前半で、線も細く、背も高い。おかげで女子生徒からも人気があるようだが、のらりくらりとした性格柄か、意外とミーハーな生徒には飽きられるらしい。とは言え、実際はどうなんだか。正直数人は『食って』るんじゃないかと思うが、まあどうでもいいさ。
「お待ちしてましたよ、まさにずぅっとね」
言いながら、口元で人差し指と中指を立て、ウインク。
「またタカリかよ」
ため息まじりのオレの返答に、ヤエダは、
「まあまあ、いいじゃないですか。僕はキミに放課後の安息をプレゼント。そしてキミは僕に放課後の一服をプレゼント。悪い取引ではないと思いますが?」
言いながら投げキッスなんぞするな、気色悪い。
しかして、
「――ほらよ」
「ふっふ。どうも〜」
軽いやりくりのあと、揃って煙草をふかす。
「いやぁ。しかし学校で煙草が買えないっていうのは不便で仕方がないですね。まったく、購買で売り出せば絶対儲かるとは思うのですが、どうですかね?」
愉快そうに、そしてそれ以上に心底美味そうに煙を吐き出す音楽教師。オレは半眼で、
「相変わらず、教師の物言いとは思えないよな。学校でヤニなんか買えたら、それこそ問題じゃねえか」
言うと、ヤエダはちっちと舌を鳴らす。
「問題なのは、煙草という媒体に自己実現を満たそうという少年らしい欲望を認めない世間だと思いますね。何も考えなしにヤニをふかす輩も多いでしょうが、逃げ場もなく、自分を他に依存させることもできない少年少女が、一時の拠り所として煙草という道具を利用する。そういう心を持った若者も多いのは事実じゃないでしょうか? 煙草を否定するのではなく、非行を弾圧する。そういう心意気……というよりも余裕ですかね。欲しいもんです、大人にも、法にも。ちゃんと考えて吸っている人間は確かにいて、考えている人間は、無論そのリスク、業もきちんと理解している。そう思います。まあ、そういったことを本人は意識はしているにせよ、していないにせよ、ね」
「よくもまあ、相変わらずべらべらと」
感心はさせられる……が、痛い……いや、これは心地いい痛みってやつなのかも知れない。知りたくもないが。
「まあ、性分ですから」
また、ウインク。
「やめろ、気味が悪い」
「あらら、手痛いところで。まあ、悪いことがあるとすれば、自己実現の段階の喫煙が、依存となっていつまでも停滞してしまうパターンでしょうけれども」
「まさにあんたじゃないか」
「はっは。痛い痛いです」
笑いながら、机の上に置いたオレのシガレットケースから、もう一本の煙草を勝手に取り出すヤエダ。オレは別に咎めもせずに煙を吐き出す。
「まあ、酒に逃げるっていうのも、常習になれば愚行ですが」
「だから、あんただって」
「ははっ、ナイスつっこみ」
つっこまれることを前提に話しているとしか思えなかった。それに踊らされているが如きオレ。
――意外と悪い気分じゃなかった。
「ところで、昨日サトコさんがあなたを訪ねてきましたが……知ってるでしょう?」
「まあ、な」
――昨日。
そうだ。サトコがここに先回りしていたため、オレは屋上への階段を踏んだのだ。
「気づいてたのか?」
オレが言うと、ヤエダは顔を崩して、
「ええ、もちろん。僕の位置から丸見えでしたから」
――まったく、たぬきめ。
おそらくは、見えていたからこそ、オレのいる間はサトコの足止めをし、そしてオレの去ったのち、
「『屋上にでもいるんじゃないですか』、とでも言ったんだろうが……」
「あはは、ばれちゃいますか、やっぱり。まあ、いいじゃないですか、僕にだって楽しむ権利くらいはあるでしょう?」
「楽しんでいたのはあんただけだって」
「あっはっは。もちろんですとも、いやあ無礼講無礼講!」
ため息しか出ない。
「ったく、あんたと話してると調子が狂う」
「そうですか? 僕は楽しくて仕方がないですが」
そりゃそうだろう。
「それに、“疲れる”とかじゃなくて調子が狂うで済んでるあたりが嬉しいですね」
――気づくなまったく。毎回思うが、こいつのこの鋭さと狡猾さはなんなんだ。
確かに、意識しての言葉遣いだった。たまに思う。こいつと話しているときの妙な心地よさは……おそらく昔のオレの残光か。
苦笑。
「――で、どうなんです? まだ……心の整理はつかない?」
不意に表情を変えての一言。
あまりにも唐突で、胸が締め付けられるような思いになる。
――落ち着け。
心中で、二、三呼吸ほど数える。
「まあ、な」
所詮、こいつもオレを“昔”に戻そうとする。
正直言って、その気持ちが有難くもあり、それゆえに逆に鬱陶しくもあった。どうしようもない矛盾と、葛藤。
ふっ、と煙を短く強く吐き出し、まだ少し残った煙草を灰皿でねじ消すヤエダ。
「真実は常にそこにあるというものでもなく、虚偽に見えるものこそ、それが現実だったりするものなのですよ」
今更ながら気づく。オレの煙草も、すでに火などとっくに消えていることに。それでもオレは、咥えた煙草に触れようともしなかった。まるで、それに触れないオレを、ヤエダとは違う世界の住人だと誇示するかのように。
――馬鹿げた反抗ではあると知っていたけれども。
「……なんの、ことだよ」
疑問――反抗。
完全に、分からなかったわけでもない。けれど、分からなかった。分かりたくなかった。分かろうとする自分が、嫌だった。
「心、というのは、常にあるべき姿でもなく、ありたい姿を映す鏡でもない。でも、心はきっと、こうありたい、というものを持っているはずです。認めないのが弱さなんじゃありません。かと言って、逃げるだけでも必ずしも弱くはありません。認めたうえで、逃げること。それが弱さ、そう思います」
「分かんねえよ」
「……少しずつでもいい。あなたはもう分かっているはず。きっとタカト君に必要なのは、何かのきっかけと、少しの勇気」
「だから、分かんねえって」
――嘘だ。
オレは、明らかに痛がっていた。痛がる心が、オレの痛みのそのものだと、気づいている。ゆえに痛い。
それでも、音楽教師の言葉は終わらない。
「現実っていうものは、タカト君が思っているほど汚いものではありません。汚いと思ってしまうのは、そう思い込むのがあなたにとって楽な道だから。世界は、目に見える以上に美しいものだと、思います。……いや、信じてるんでしょうね、きっと僕自身も」
――そうなのだろうか。
“現実は、世界は、思った以上に、目に見える以上に美しい”
痛い、言葉。
けれど、優しい言葉。
何かが見える、残照。
どこかで覚えのある、記憶。
そして、旋律。
――屋上。
それは、脳裏をくすぶる、歌。
「……タスク」
オレの呟き。しかし、それはきっと、あまりに唐突で小さなものだったのだろう。ヤエダは、
「はい?」
と聞き返してくる。
なんとなく、としか言いようがないが、ヤエダには名前を聞かないで見ようと思った。聞き逃がされたから、というのが理由だったのかも知れない。
オレはようやく、もうただの冷えた物体でしかない煙草を灰皿に投げ捨てるようにして、
「屋上で、さ。歌の上手い生徒に会ったんだが――」
が、オレの言葉は最後まで紡がれることはなかった。なぜなら、
――コンコン
入り口をノックする音。そして、
ガチャッ
「ういーっす、センセ。そして、エスケーパータカっ!」
突然の来訪者が、現れたから。
へろーなんてお気楽に手なんか振っているヤエダを尻目に、オレは頭をボリボリと掻く。
「変な名前で呼ぶな」
「むむ。結構お気に入りなんだけどなぁ」
「オレはすこぶる嫌だ。……で、いったい何の用だよナガオ。しかも、部活の時間、過ぎてるんじゃないか?」
時刻はとっくに四時半を回っている。
オレの言葉に、一瞬キョトンとしたナガオだったが、次の瞬間、豪快に笑い出す。
「……おい。こちとら、いきなり爆笑されて何も感じないほど温厚でもないんだがな」
「はっは。わり、わり。じゃあヒント。来週、何あるか知ってるのかよ?」
「来週?」
はて、何か……あったか?
「おいおいその顔、本気かよ? まったく、お前はクールなくせにどっか抜けてるからなあ」
大きなお世話だ。
「テストだよ、て・す・と。今日からテスト休みで居残りは禁止〜」
「……あ」
そう言えば、そうだったような。
苦笑。
部活にも出ないと、そういう感覚すら鈍るってことか。それだけ、オレの中心に部があった。そういう表れでもあるのが、正直虚しさを駆り立てる。
――笑えないな。
「で、テスト週間に突入したの幼馴染様が、オレに何の用事だよ」
「気分転換に、遊びでも誘いに来た、そういうことじゃないですか?」
だんまりをしていたと思っていたヤエダからの一言。いつの間にか、ちゃっかりもう一本の煙草に手をつけているあたりがさすがというかなんと言うか。
「まあ、そゆこと」
ウインクするナガオ。
そして、それにまたもやウインクするヤエダ。
……所詮、ヤエダの策の上で踊っている。そういうことなのか?
それが、真実であれ、オレの妄想でしかないにすれ、
「気色悪い。男同士でアイコンタクトなんぞするな」
オレには、そんなことを言うくらいしかできなかった。
「タカト君」
部屋を出る際、背中から声がかかった。オレは、無言で首だけ振り返る。
「空は、いつでもそこにあるのですよ」
「…………」
オレは、片手だけ挙げて応えると、準備室を後にした。
――そんなことは、ずっと前から分かりきっていることだった。
●
「……聞いてねえよ」
オレの呟き。それはもはや、虫の鳴く声とも取れるくらいに微弱にして脆弱なものだったに違いない。
「だって、言ってねえもん」
そして白々しい親友の声。わざとらしすぎる口笛の下手なことこの上ない。
ナガオと共に着いた校門。
そこには……修羅がいた。
「待ってたわよ」
その人物の呟き。まさに前世から待っていてもおかしくないくらいの『負のオーラ』が見えたのはきっと、錯覚なんかではないと思う。
脂汗の止まらないオレを見てくくくと笑うナガオに怒りすら覚えないでもないが、その感情を圧倒するほどの恐怖が、オレを支配していた。
しかし、なんでオレはこんな単純なことに気づかなかったのか。部活が休みで、ナガオと一緒にどこかへ行くということは、サトコも当然ついてくる可能性が高いということに。というか、面白ければなんでもいいというナガオの性格上、まずサトコも誘っているであろうということに。
「へ、へろーサトコ」
とりあえずオレから声をかけてみる。なんかつい最近同じような状況で同じようなことを言った気もするが、まあそれは今はうっちゃっておくことにする。
「はいはい、こんにちは」
それまたデジャブ的な響きで。
「で、部活もろくに出ないタカトさんが、なんでハヤトと一緒にいるのかしら」
その眼光は、まさにアルミ缶をも貫くほどの威力があるに違いない。馬鹿な話だが、そもそもこんな生物がこの世に存在していることそのものが馬鹿な話だ。
「だ……んなこと言ったってなあ、ナガオ?」
「いや、俺に振るなよ」
振らせてください。
しかして、口笛ふきふき、いきなりアリの巣潰しを始めるナガオ。だから、親友が助けを求めている横でそういうわけ分からないマネやめてください。
と、ポンとオレの肩に手が置かれる。
――冷や汗が、流れた。
まるで錆付いたオンボロ人形のようにギギギと首を回すオレ。
沈黙。驚愕。
そこには……サトコがいた。修羅ではなく、サトコだ。しかも笑顔。
一瞬呆けるオレに、
「スクリューパインドライバーサンデー」
一閃とでも言えるような一言。その言葉で、オレは否応なく無慈悲な現実ってやつに引き戻されるわけだ。
――笑顔の意味。
『今日のところは見逃しておいてあげるから、おごんなさいよ』
サトコは、笑顔だろうとなんだろうと修羅だった。
『断ってもいいのよぉ』
加えてそんなことを言っているような気分になるから本当に嫌になる。……いや、実際言っているのには間違いないわけで。
オレに突きつけられたのは、選択肢という名の、脅迫だった。例え選択の権利はあったとしても、選択の余地はない。そんな矛盾した権利。
そんな中で、なんだか逆らえないような流れに流されていくしかないオレにもどかしさを感じるとともに、この状況は、黒い小生物をぐりぐりしながら悦に浸る人でなしによって仕組まれたということに苛立ちを感じずにはいられないオレだった。
――スクリューパインドライバーサンデー。
プロレス技なんだか、カクテルなんだか、それとも雷なんだか分からない。なんにせよ、まあなんというか、まさにつっこみどころ満載な響きであるが、それはわが町の誇る喫茶店、『どさゆさ』のゴールデンメニューにして最強、最興、最狂、最凶の四拍子そろったデザートだとか。
舌が三回転半ひねりをする、最強のテイスト。
ピカソもさじを投げる、最興のデコレート。
胃がトカチェフをしてしまう、最狂のボリューム。
そして、すーぱーふぁみこんを買えてしまう、最凶のコスト。
語呂が悪い上に、なんだか例えが非日常過ぎて分かりづらいったらないが、掲げている店のメニュー表が言っているらしいのでなんとも言えない。が、部活とサボリをうろちょろしていたオレでも、その噂くらいは耳にしたことはあるので、実際にとんでもないものなのだろうということくらいは想像に易いのは確かだったりもする。
まあ、ここまで解説したからして言うまでもないとは思うが、学校を出たオレら三人は一番に『どさゆさ』へと向かったわけだ。
カラン、という洒落た音とともに店内へと入るオレたち。
なるほど、小奇麗な店内は、ほどよく掃除も行き届いて清潔感があり、壁やテーブルの飾りつけや、花だのクロスだの、そろって可愛らしい。人気があるのも正直に頷ける雰囲気だった。
そして、何よりも……アレだ。オレらを出迎えるのが、
「いらっしゃいませ、三名様でよろしいですか?」
笑顔。
しかし、違和感。
何故か店員はメイド服だった。
これじゃあまるで、どこかの漫画かゲームだ。モニターの向こうから『萌え〜』とか聞こえてきそうな。……いやいや、幻聴幻聴。
しかして、ありえない妄想にぶんぶんと首を振るオレのことなど一切気にもかけず、
「スクリューパインドライバーサンデー」
メイド店員の質問の答えにすらなっていないサトコの言葉。まさに、有無を言わせない一言だった。あまりに非常識なサトコの言動にため息をつこうとしたオレだったが、その常識は一瞬で覆されるわけだ。
サトコの言葉を聞いた瞬間、スマイル有料とでも言わんばかりだったメイド店員の表情が、一瞬にして変わったのだ。そして、
「どさ?」
謎の、言葉。その表情は、まるで『ふぁいなるあんさ?』と聞くノミモンタロウ。
「ゆさ」
謎の、サトコの返答。それらは、まるで暗号。その表情は、まさに三つもボーナス残しているのに『あんさ』と答えるチャレンジャー。
しかして、店内は――ざわ、と緊張に包まれる。
――な、なんだこの雰囲気。
そして、ふと隣を見ると妙に唇厚く、目をギラリと光らせているナガオ。そして、『お前の名前には“ジョ”なんていう音はふたつどころかひとつすらないよ』と突っ込みたくなる意味不明ののけぞりポーズ。さらには、その背中に背負う擬音は、まぎれもなく沢山の『ゴ』と『ド』。
おかしいですよ、と叫びたい気分だった。
「チャレンジャーは、お客様のみでよろしいですね? となりますと、お連れ様は見物席になりますが、よろしいですか?」
メイド店員の問いに、サトコは無言で頷く。
「はい畏まりました。――キャプテーン。スペシャルは入りまーす」
厨房らしき方に叫んで、こちらになりますと、明らかに一般席とは違う店の奥へと案内するメイド。
そのオレらを無言で見送る一般客。
なんか、オレだけこの場から取り残された感があるのは気のせいか?
――おそらくそれは、気のせいなんかじゃなかったんだと思う。
――スクリューパインドライバーサンデー。
プロレス技なんだか、カクテルなんだか、それとも雷なんだか分からない。なんにせよ、なんというか、まさにつっこみどころ満載な響きであるが、それはわが町の誇る喫茶店、『どさゆさ』のゴールデンメニューにして最強、最興、最狂、最凶の四拍子そろったデザートだとか。
舌が味を否定し出す、最強のテイスト。
やくざもシッポを巻いて逃げ出す、最興のデコレート。
鼓膜がやぶれるて体が痙攣し出す、最狂のボリューム。
そして、すーぱーふぁみこんを買えてしまう、最凶のコスト。
要するにそれは、『食べきったらサービス。食べれなかったら罰ゲーム』の最たるものだったらしい。
ええと……。
しかし、だ。
状況が、よく分からない。
なんでこんな場所が喫茶店なんかにあるんだ? というか、ただの『これが食べれたら』企画で、何ゆえこんな場所に移動する必要があるのか? オレのそんな疑問も、おそらく口に出したところで破天荒な親友に笑い飛ばされるのだろうと思えてしまうのが、なんとも哀しくなってくる。
そこは、全面がコンクリートで、窓が極端に小さいうえにあまりに少ないために薄暗く、鉄格子の部屋が二つほどある空間だった。
――牢屋。
そんな単語が浮かんでくるのは、きっとオレだけじゃないはずだ。
そして、そのひとつの鉄格子の向こうにあるのは、簡素なテーブルとおあつらえな椅子。そして、精神統一するかのように目を瞑って微動だにしないサトコという名の女。
鉄格子の前にある、これまたおあつらえのベンチに腰掛けたオレは、あまりにこの場のジメジメした空気に、思わずため息をつく。さらに、隣でくひひと笑いながらうきうきしている親友の訳の分からな具合にもため息が止まらないわけだ。
なんとなく落ち着かなくなったオレは、ここに来る途中で買った煙草に火をつけた。ゆっくりと煙で肺を満たし、吐き出す。それを数回繰り返したあたりか。
――オレは目を疑うことになる。
失礼します、という言葉に振り向いたオレは、思わず煙草を口からこぼしてしまった。
入ってきたのは……パイナップル。いやいや、“何か”を抱えた人間だった。
……ひょっとして、店員か?
よたよたと歩くソレは、危なっかしいったらない。一体何キロあるんだよ。
……メイド店員の持っていたもの。人間の顔ふたつ……いや、まさに三つ分くらいもありそうな巨大な舟のようなガラス器。その中は、べっとりと白いクリームが敷き詰めてあり、さらにその上にパイナップルがででんと丸々一つ乗っかっていた。
――スクリューパインドライバーサンデー。
まさにソレ。
それは、奇妙な光景だった。
鬼とメイドと鉄格子。
しかもメイドは顔が見えない。……ていうか前見えるのかよ。
……しかし、なんだこの組み合わせ?
果たして、メイドは鬼のいる鉄格子の中に入っていく。
「冥土の土産にどうぞ」
うわ……笑えねえ……。
あんなの食ったら、まじで冥土行きだろう、というオレの心中などお構いなしにずん、とテーブルに超重量の船を浮かべるメイド。
「時間制限は特にございません。ただし、鉄格子に“誰か”が触れた時点で終了となります。ですので、お手洗いは先にお済ませください。他にも――」
その他つらつらとルールらしきものを述べていくメイド。そういうものなのか思いつつ、耳の左から入れて右から吐き出していたので、何を言っていたかは正直大半が分からない。まあどうでもいいが。
そして、説明も終わったのか、
「さて、それでは始めましょうか。私が鉄格子を出てからが開始になります」
言いながら、メイドが鉄格子を閉める音がカシャン、と鳴った瞬間、目をカッと見開き、
「ふふ……私はあなたに復讐するためにここまで生きてきたのよ」
やたらと物騒なことをのたまわるサトコさん。その鋭い眼光は、まるで親の敵を目の当たりにした修羅。
……って、食い物相手にすでに修羅モード!?
「――解説しよう!」
今まで、いいだけ黙っていたナガオが、いきなり叫ぶ。
あまりの唐突さとその音量に、思わずオレは耳をふさいだ。しかしそんなオレにはお構いなしに、
「実はサトコは、一月程前に、同じくスクリューパインドライバーサンデーに挑戦していたのだった! しかしその量をなめていた彼女――」
ナガオの言葉に、人の顔二つ分くらいあるソレを、半眼で睨む。……なめていたって……あの量見てナメルって、それこそなめてるんじゃないかとも思ったが、あえて口にはしなかった。
「はじめは普通に食べていた彼女だったが、途中からその見解の過ちに気づき、半分以上過ぎたあたりから急遽修羅モードに以降――」
っていうか、半分以上食うって時点で普通なんて言わない。
「しかし時すでに遅し。残りわずかにして、あえなく奴に敗退したというわけだ。そして今回。前回とはうって変わって全力全開らしい。サトコはやる気満々だ。はじめっから修羅モードで飛ばすようである!」
「……全壊しなきゃいいが、な」
「はっは。違ぇねえっ」
笑い事じゃないと思いつつ、オレは新しい煙草に火をつける。
しかし、
「あれは……正直無理だろ?」
まるで修羅の如くパイナップルに丸ごとかぶりつくサトコを尻目に、オレはげんなりしていた。
そして、パイナップルのあとにはあの生クリームの池があるのだ。
あんなの、見ているだけで胸焼けがする。
「まるで他人事なタカさんに朗報でござい」
心底嬉しそうに言うナガオ。こいつのこの顔は嫌い……というか駄目だ。ひじょーに、個人的に楽しんでいる目。だから、いやな予感が止まらないわけだ。
と、すっと何かが差し出された。それは、なんてことはないお品書き。……まあ、見ずとも分かる。この店のだ。
オレは別になんともなしにそれを受け取った。
「今サトコが食らっているのが、『全部食べたら』系のチャレンジであることは明白」
そう言うナガオに視線を合わせることなく、オレはメニューをぱらぱらとめくる。
「食い切れれば御代はチャラ。そして温泉年間フリーパスが進呈される」
「へえ……。ていうか、なんで温泉」
「秘密は『どさゆさ』」
「?」
よく分からなかったので、オレは再びメニューへと視線を戻した。
なるほど、少々高めだが、どれもこれも美味そうだ。人気はやはり、店内や店員とかだけでなく、提供物も含んだ当然の評価であるらしい。
「で、罰ゲームはアレの支払なんだ」
「へえ……」
無論、アレとはサトコが現在進行形で取っ組み合いをしているアレ。まあ、その手のものとしては普通のペナルティだろう。むしろそれだけなのかと聞きたくなるくらいだ。
「当然、今日は“もしも”のことがあったら、タカが払うんだろ?」
確かに、校門でそんな脅迫を受けて屈した。だから、オレは頷く。
「ふむ。まあいいや。で、だ。最後のページを見てみな。いや違う。うらだって。メニューのいっちばん最後の裏」
ナガオの言葉どおりに、メニューを一端閉じて、裏がえ――
――言葉が、出ない。
なんだこれ?
「ときにナガオ」
「おう」
「どうやら、オレは数の数え方を忘れてしまったらしい。親友として代わりに数えてくれるか? この値段の桁数を――」
「五けた」
完膚なき、無慈悲なまでの即答。
沈黙。
――しぼっ。
――すー。
――ぷぅ。
おもむろに、自分のライフラインを開く。皮製のういやつだ。去年の誕生日に親からもらったもので、結構自慢だ。
仲の良さそうな、夏目さんが三人。ひとりだけ逆さまなのはご愛嬌。
――すー……ぷぅ。
沈黙。
「――サトコぉぉぉぉぉ。死んでも食えぇぇぇぇぇぇ!!!!」
魂の叫びだった。
そいつは、強敵だった。
私が今まで生きていた中でも、まさに最強という名を欲しいがままにしているやつだった。
『私は敗北を知りたい』
そう言っていた日々が懐かしい。
この世の中は私が最強の生物だと思っていた。
私が伝説だと思っていた。
しかし、現実とは強さのインフレスパイラル。
時代も、ニーズも強者を欲している。
ゆえに、強者が生まれる。
まさに需要と供給。
そのふたつのグラフ線は常に交わっている。
いつも均衡が保たれているということを、今更ながらに知った……。
要するに、私は負けたのだ。
はじめての敗北。
知りたいと言っていた自分が懐かしかった。
海よりも深い……屈辱。
敗北の味は、決して蜜などの味などではなく。
ただただ、苦かった。
臥薪嘗胆とはよく言ったものだ。
しかし、私にはそんな苦渋を嘗める日々など耐えられなかった。
舞台は、整った。
保険もあるし、見届けもいる。
だから、ここで最後の決着をつける。
ここはあんたの処刑場。
あんたの唯一にして、無二の敗北が今日、この日。
前回は私の慢心が敗北を招いた。
だから、今日ははじめから全開。
もう、負けない。
私は最強の生物。
人は私を鬼(オーガ)と呼ぶ。
レクイエムは歌ってあげる――
――お前もまさしく、強敵(とも)だった。
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2004/10/29(Fri)13:41:44 公開 /
村越
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村越さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
相変わらずひねた性格の主人公がおりなす、学園連載物です。いつもながらにぎりぎりの更新速度の今作でありますが、さらに痛い事実が。
なんだかんだで長くなりそうな雰囲気になりつつ、明日から一週間ほどネット環境を遠ざかるということで、更新がやばくなりそうな……。
ガンバリマス。
というわけで、鬱系主人公の今作、第五話終了でございます。さて、今回は村越風の妄想言アホ編でございます。軽く流すくらいのものにしようと思っていたのですが、何故か深みにはまり、軽く次回も引きずります。息抜き編、前編といったところでしょうか。しかし、本当にこれで楽しんでもらえるのか、いくつくらいのネタを理解してもらえるか(『どさゆさ』なんてローカルすぎだし)が果てしなく不安でありますが、書いてて結構楽しいです(笑。違和感等ありましたら、是非報告、指摘等お願いいたします!
そして、バニラダヌキさん、卍丸さん、神夜さん、樂大和さん、ドンベさん、如月さん、ささらさん。感想ありがとうございます。あまり他の方の感想を書けていない最近ですが、やはりレスをいただけるだけで、連載ものは力になります。できれば最後までお付き合いいただけたらなあと妄想に浸りながら、今回はこの辺で失礼させていただきます。
では、次回にまたお会いしましょう。
……誤字脱字もまとめて直さなきゃいけないなあな村越でした。