- 『KILL YOU ―完―』 作者:神夜 / 未分類 未分類
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全角33317.5文字
容量66635 bytes
原稿用紙約98.2枚
「プロローグ」
まず最初は忠告するね。
でもそれでダメだったら、首を切り落とすよ。
それで次は目を取って、顔を削ぐの。
そいで次は……ええっと、わかんないや。でも、楽しいからそのときに思いつくと思う。
ああ、早く来ないかなぁ……。だぁーれもいないここってあんまり面白くないんだよね……。
最近は人もあんまり来なくなっちゃったし……。
早く遊びたいなぁ。もっと楽しいことしたいなぁ。
……ねえ? していい?
あたしが貴方に、してもいい?
――ネエ?
殺シテイイ?
殺サセテ。殺サセテ。殺サセテ。
アタシニ、貴方ヲ、殺サセテクダサイ。
――ねえ?
あたしと、遊ぼっか?
そう言って、少女は楽しそうに笑っている。
「世界から抹消された村」
【天神(てんじん)村】という語句でWWWに検索をかけると、1874件ものHPが一瞬でヒットする。
その中の一つを開いてみる。どこにでもありそうな、ただのBBSだった。
『bP 怪奇・世界から抹消された村・天神村』『bT 本当に地図にねえのな』『bP8 ネットでそれらしいこと書いてあるけどどれもアヤフヤ』『bQ3 そこに足を踏み入れると誰も帰っては来ないらしい』『bT4 近くの森の中で調査員の変死体が発見される』『bT8 小さな少女を見かけたという情報が多数』『bU6 ぎゃっはっはっはありえねえってそんな場所! お前ら馬鹿じゃねえ!?』『bV2 十五年前に伝染病に罹り、村人は全員息絶えたとされる』『bV6 未確認情報だが噂ではただ一人だけ生き残っていたらしい』『bW2 嘘に決まってんじゃん。てゆーか66のヤツ邪魔、消えろ』『bP00 でも本当にあったら楽しくねえ?』『bP23 おお、何気にいい感じの数字。それでは本題へ。1990年八月一日、天神村に法定伝染病の一つ、コレラが発生。村人は治療も受けようとはせず、村と一緒に心中を決意する。1990年九月十七日、村人の死体は医療科学班が回収。1990年九月二十四日、一人の生存者がいたという噂が流れる。十歳にも満たない子供だそうだ。まあたぶんデマだろう。当時はそれなにり騒がれていたが、いつの間にか騒ぎは収まり、それどころか誰もそのことについて語らなくなった。憶測は飛び交うが、最も可能性があるのが、bPで発言されているように【世界から抹消された村】だろう。っとまあ、簡単に言えば都市伝説みないなものなんだろうけど』『bP24 bP23のヤツ、長いしウザイ。空気読めよ、別に答え求めてる訳じゃねえんだしよ』
下らないBBSへの書き込みを見ながら奇琉沢祐一(きるさわゆういち)は盛大なため息を吐き出した。十五年前にこの世界から抹消されたとされる天神村。ネットで調べてみてもその村の正確な位置どころか、本当かどうかまでわからない情報がごまんと溢れている。そんな中から必要なものを抜き取ることなどまず不可能だし、そもそも本当にその村があるのかと訊かれれば正確に答えられるヤツなんていないのではないかだろうか。
が、祐一は高校を卒業してからの時間をその追求だけに継ぎ込み、二十四歳になった夏、ようやく確かな情報を得た。大昔の、もうこの世にはそれ一枚しか残っていないであろう地図を裏ルートで手繰り寄せ、それと今現在出回っている地図を噛み合わせて大体の目安はつけた。後は実行するだけである。結局、祐一は何をしたいのかと言えば、ただ一つ。
そこに行きたかった。ただそれだけだ。理由はわからないが、なぜか【そこに行かなければならない】と思えて仕方なかった。だから数年の月日を賭け、危ない橋を何度も渡りながらようやく情報を掴んだのだ。後は仲間を集めて乗り込むだけ。今はそういう状況だった。
「ダメっす祐一さん、やっぱ捕まらないっす。西崎(にしざき)さんと坂下(さかした)さん以外は『誰が行くかボケ』って断られましたー」
泣きそうな声で携帯電話片手に祐一に歩み寄って来る少しだけ小柄なこの男の名を近藤拓真(こんどうたくま)といい、祐一とは高校時代にオカルト研究会の先輩後輩という関係だった。祐一が天神村のことを追求することを知ると、なぜか拓真まで「おれも一緒にやりたいす!」などと勝手に助手を名乗り出たのだ。しかし拓真の腕はなかなかのもので、助手としてはこれ以上ない働きをしてくれた。
そしてなぜ泣きそうな顔をしているのかというと、折角天神村の在り処を突き止めたのに、それに同行するメンツが少な過ぎるからである。参加者は合計で四人。祐一に拓真、それと祐一の友人の坂下聖治に西崎晶だけなのだ。が、考えれば当たり前である。本当にあるかどうかもわからない場所へわざわざ行く方がどうかしているのだ。それにネットで『天神村』と検索しても、悪い噂しか出て来ない。そんなところに何の得もないヤツがおいそれと行く方がどうかしている。ちなみに坂下と西崎は祐一が頼み倒して参加してもらった。拓真は自ら行くと言い、祐一は始めから一人でも行く気だったので参加決定だ。
祐一は拓真から携帯電話を受け取りながら笑う。
「いいさ、足手纏いに来られるくらいなら四人の方が動きやすい。――時に拓真、一つだけ質問させてくれ」
拓真は首を傾げ、
「なんすか?」
「お前さ、【バイオハザード】ってどういう意味か知ってるか?」
何だそんなことか馬鹿にすんなよ、とそういう表情で拓真は答える。
「あれでしょ? ゾンビが出て来て銃ぶっ放すヤツ。おれ、あれめっちゃ好きなんすよ、あ、もしかして祐一さんもってアイタ、なにするんすか!?」
祐一は拓真を頭を叩き、再度盛大にため息を吐き出した。
「そんなこったろうと思ったよ……お前はさ、腕は良いが頭は弱いな。いいか、これだけは憶えておけ。【ゾンビ+銃=バイオハザード】という方程式は間違いだ。それはゲームで定着し切ってるからそういう誤解が生まれやすいが、本当は別モンだ。【バイオハザード=生物の危険性、生物災害】だ。まあゾンビもそうだっちゃーそうなんだが、今は関係ないから放っておけ。【バイオハザード】で主な危険性を伴うものは……そうだな、例えば、天然痘、エボラ熱、ラッサ熱、炭素菌、ペスト、狂牛病、スペイン風邪、エイズ、結核、マラリア等や、インフルエンザ、大腸菌O-157、その他諸々だ。――そしてなぜおれがいきなりそんな話をするかと言えば、今回は【バイオハザード=コレラ】の方程式が完成するからだ。天神村はコレラで消滅し、そして世界から抹消された。その理由はまだ調べないことにはどうとも言えんが、悪い噂ばっかり立つからかもしれん。ああ、違う、路線がズレた。――……もしかしたら命に関わる危険もある。それでも、お前はおれと一緒に行くのか?」
よくわからなそうな表情をしていた拓真は、最後の質問にだけ明確な答えを返した。
「もちろんす。来るなって言われても行きますよ、おれ」
満足のいく答えが帰って来た、と祐一は思う。
メンツは四人。たったそれだけで世界から抹消された場所へ挑むのである。完全な無駄手間になる可能性もなる。それでも、祐一は必ずそこに辿り着くだろう。聞こえるのだ。目を閉じて耳を澄ませば聞こえる。
誰かが呼んでいる。そんな気がする。
だから、行くのだ。世界に挑もうではないか。
八月三十一日のその日、祐一と拓真は馬鹿でかいリュックを背負って駅のホームで人を待っていた。
太陽が照り付けるそこで待つこと十分、まず最初に坂下が到着した。坂下は中学で暴走族に入隊、高校では暴走族の頭を張っていた190センチを越す巨体を持ち、顔もとんでもなく恐いヤツである。コンビニの駐車場でうんこ座りしている不良に『巨大兵器坂下』という名を聞かせれば飛び上がるだろう。そんな出鱈目なヤツだが、高校を卒業した辺りで人格が突如として代わり、今は昔からの憧れだった床屋で日々人の髪を切り続けている。ちなみに坂下には『床屋を紹介して何とか働かせてやった』という祐一に対する恩義があるため、天神村に来ることを拒否しなかった。それどころか「祐一のためになら喜んで行く」とまで言ってくれた猛者だ。何か荒事になったらこいつが役に立つに決まってる。
やって来た坂下に軽く手を上げ、祐一は言う。
「おう、久しぶりだな坂下。あの床屋には慣れたか?」
筋肉質な腕でガッツポーズを取り、坂下は「もちろんだ」と自信満々に答えた。
拓真が慌てて坂下のもとへ走り寄って頭を下げる。
「どうもっす! 来てくれてありがとうございますっ!!」
「拓真か。久しぶりだな。祐一とは上手くやったんだろ?」
「もちろんす! 祐一さんにはよくしてもらってます!」
「その言い方気持ち悪いからやめろ」
そんなことを話していると、今度は西崎が現れる。西崎は坂下とは比べ物にならないほどの痩せ細った体つきで、趣味はPCのオンラインゲームをやり続けること、部屋にはいろいろなアニメやゲームのフィギュアやポスターがある。西崎は簡単に言うオタクだった。が、PCの腕前はとんでもない。拓真もそれなりにすごいが西崎はその上を行く。危ない橋を渡る度に何度も力になってもらったし、祐一がこれまでやってこれた資金源を調達していたのもこの西崎だった。今回、その天神村に行くことにあまり肯定的ではなかった西崎だが、祐一が拓真に頼んで独自のルートで取り寄せてもらった最終兵器である、とあるアニメのフィギュア(世界でたったの七個しかないもの)を餌に連れて来た。もし世界と危ない関係になったらこいつの技術が必要になるはずだった。
話を続ける祐一と坂下より先に、拓真が西崎に気づく。そこまで走り寄って頭を下げる。
「ちわっす! 来てくれてありがとうございますっ!!」
しかし西崎は軽く手を上げただけで何も言わない。西崎はお手本のような無口だった。今まで西崎の声を聞いたのは、真面目な話でただの一言、「萌え」だけだった。
そんな個性の塊みたいな二人が集まったところで、祐一と拓真は二人を先導するように新幹線へと乗り込む。その道中、二人に今まで話さなかった今回行くべき場所や目的などを話した。
まず、天神村があると思われる場所は有名な自殺の名所として知られる樹海のど真ん中であることや、そこに辿り着けたら徹底的に調べ上げること。調べるものを具体的に言うと、なぜこの村は抹消されたのか、世界が本当に関与しているのか、生存者が一人いたというのは事実なのか、そして目撃が多々報告される少女とは幽霊なのかそれとも人間なのか。ずっと前から疑問に思っていたこと、その場で思いついたことを二時間も掛けて話し抜いた。坂下が途中何度も質問を投げ掛けて納得する度に大きく肯いていたのに対し、西崎は終止無言で押し通した。
新幹線に四時間も揺られて、目的地がある駅に辿り着き、そこからはタクシーを拾って樹海へと向かった。タクシーの運転手に「あんたらあんなとこに何しに行くの!? まさか集団自殺とかじゃないだろうねえ!?」と随分心配されたが「調査です」と笑っておいた。タクシーを飛ばすこと一時間で、やっと樹海へ到着した。運転手に別れを告げ、祐一たちは樹海の中を歩き始める。先頭が祐一で、拓真と続いて坂下、西崎となっている。
薄暗い森を歩く中、坂下が心配したように、
「祐一、方位磁石とかはあるんだろうな?」
それに答えたのは拓真だった。
「だいじょうぶす、最新のGPSを持ってきましたから」
「何だそれ?」
「難しいことは良い、絶対に迷わない方位磁石だと思え」と話すのは祐一である。それで安心したのか、坂下は黙々と後に続いた。西崎は存在感が無いのでいるのかどうか危ういがだいじょうぶだろう。
祐一が正確に書き記した地図とGPSを照らし合わせて樹海を黙々と進んで行く。最初の方こそ明るく鳥の鳴き声も聞こえていたはずなのだが、今は不気味な静寂だけが支配していた。太陽の光は死んでいるように弱く、落ち葉を踏み締める音以外は何も聞こえなくて、どこからか腐臭の匂いがする。白骨化した人間の死体らしきものを見たが、暗黙の了解で全員の頭からは忘れ去られる。
どれくらい歩いただろう。死んだような世界を歩いていた先頭の祐一が止まる。後ろの拓真が「どうしたんですか?」と声をかけ、前を覗き込んで息を呑む。坂下もそれに気づいて顔を蒼白にさせ、西崎だけは眉が動いただけで大した反応は見せなかった。
樹海には境界線があった。それは一目でわかるほどはっきりとしていた。祐一の二メートルほど前方から、まるで人工的に描かれたような黒い線が引かれており、そこから向こうが闇の世界のような有様だった。例えるなら簡単だ。線のこっち側がこの世で、向こう側があの世だ。
そして全員が驚いたのはそんなことじゃない。自殺の名所として名高いこの樹海の中心部に近いそこで、何も持たない少女がたった一人で立ち竦み、こっちを見ているからだ。それは境界線の内側、あの世の世界から祐一たちを見据えている。ショートカットの髪と活発そうな顔立ちで、服装はイマドキとは違う昔のセーラー服のようなものを着ている。そして、少女は満面の笑みで笑っているのだ。
全員の頭に一つの確信が生まれる。
――あれが、多々目撃されている少女。
他の連中がどうやってここまで辿り着いてあの少女を見たかなんてのは知らない。が、これだけは間違いない。少女を目撃したという話は、嘘ではない。事実だ。なにせ、今現在こうやって見据え合っているのだから。全員が動けず、笑う少女をただ見つめ続ける。やがて空気が凍りつき始め、この沈黙が拷問のように思えてきたその頃、
少女は言った。
「その線からこっちに来ちゃダメだよ」
拓真と坂下と西崎がその意味を掴み損ねているその中で、祐一だけは確かな確信が腹の中に満ち満ちた。
この少女が、ここに自分を呼んだ人物だ。何が目的で呼んだかは知らないが、ここまで来て引き下がれるか。そう、祐一は思った。そして数年を賭けて探して来た天神村はすぐそこだと直感が告げている。このまま突き進むしかない。この数年を無駄にしてたまるか。
誰も動けないそこから、祐一は第一歩を踏み出す。それには拓真と坂下が驚きの声を上げた。
「ちょ、ちょっと祐一さん、やっべえですって! 絶対におかしいですよあの女の子! も、もしかしたら本当にここから帰れなくなるかもしれませんよっ!?」
「そうだ祐一! 待てっ! 気持ちはわかるがここは抑えるべきだ! その線から内側は何かおかしいだろっ!!」
祐一はただの一言で一喝する。
「黙れ。帰りたきゃ帰れ。俺は行く」
歩調を少しも緩めない。二メートルを一瞬で進んで行く。
少女はなおも笑い、そして言い続ける。
「けーこく、けーこく、それ以上入ると本当に危ないですよー。これが最後です、早く帰りなさないー」
耳を貸さなかった。祐一は何かに取り憑かれたように境界線へと足を踏み入れる。それを止めようとした拓真も坂下も、そして西崎さえもが境界線の内側へと入った。
全員がその場に立ち止まる。
世界が変わる。空気の質がまったくの別物だった。漂う匂いは何かが腐った腐臭だけであり、太陽があるはずなのに視界は暗い。吐き気が押し寄せる。引き返そうにも一歩下がればあるはずの境界線がない。この空間はどこまでもどこまでも背後に広がっていた。
少女が、本当に、本当に楽しそうに笑った。
「あは。来ちゃった来ちゃった。ねえ、お兄さんたち、遊ぼ?」
その姿が掻き消える。
刹那、三人の背後から、「ぎッ……」と気味の悪い声が聞こえた。誰もが誰の声がわからなかったはずである。なにせ、その声を聞くのはこれが二度目なのだから。一番最初に気づいたのは祐一だった。リュックをその場に落とし、最後尾にいた西崎へと駆け寄る。その表情がまるで魂の抜けたような感じで、瞳から完全に光が消えていた。それでも立っているのが異様だった。
肩を掴んで必死に揺さぶる、
「お、おい!? どうした西ざ――」
最後まで言えなかった。
祐一が肩を揺さぶると同時に、西崎の首にスっと線が入り、人形のようにそこから上が地面に落ちた。遅れてシャーっと血が噴出し始める。
冗談のような光景だった。首を失った西崎の体が倒れる。
拓真がその場に膝を着いて嘔吐し、坂下が絶叫する。祐一は何もできずに、顔に浴びた血痕に触れる。
風が舞う。全員の視界に飛び込んで来る。
廃墟ばかりが建ち並ぶ田舎の町。暗い闇に閉ざされた空間。
その名を、天神村。
世界から抹消された村だ。
「ようこそ、天神村へ。生きて帰れるなんて思わないでね」
そう言って、少女は笑う。
「亡霊」
「それじゃ、その人はもらってくね」
少女がそう言うとその姿が闇に飲まれて消え、気づいたときには西崎の胴体も首もどこにもなかった。
そして、GPSが使用不能になった。電源は入っているのだが作動しない。それは電波を受信しなくなった証拠だった。あり得ない現象だ。宇宙から衛星で電波を飛ばしているそれを受信できなくなる。そんなものを遮れるはずもないのだ。しかし現に電波は遮られ、祐一たちはこの樹海を出る手段を失った。
否、どの道この天神村から出ることなどもはや不可能だった。境界線が無くなってしまったのだ。足を踏み入れた者がここから出る方法はないのであろう。さっきまでいたはずの、死んだような樹海でさえここに比べれば生き生きしている。ここは地獄と大差ない場所だった。草木は枯れ、太陽の光は届かず、風に運ばれて鼻に届くのは嫌な腐臭だけ。
天神村は小さな村だった。東京ドーム一個分ほどしかない面積の中にかつて家と呼ばれていた廃墟が十三軒。その中で比較的マシな建物を見つけ、死に物狂いで駆け込んだ。祐一が一番最初に中へ入り、何もいないことを確認する。次に入った拓真が背負っていたリュックの中からノートパソコンを取り出して起動させる。最後に入った坂下はドアを壊さんばかりに叩き閉め、鍵を掛けようとするが無駄だった。ドアノブに付いている鍵は錆びついて動く気配すらない。坂下は拓真のリュックの中から頑丈なロープを見つけると、ドアノブが回らないようにガチガチに固定する。
体重をかければすぐにでも壊れてしまいそうな腐ったテーブルを囲むように三人は互いを見据えあう。全員が心の中で言い聞かす、死にたくなければ冷静であれ。痛いばかりの沈黙が約一分続いたとき、その無音の世界を拓真の声が打ち砕く。
「ダメっす、ネットも繋がりませんし携帯もダメっす! 何なんすかここは!? これじゃまるで要塞じゃないですか!」
泣き出しそうな拓真を坂下の声が制止する。
「今はそんなことはどうでもいい、問題はあの女の子だ。あいつが西崎を殺した。おかしいだろ、人間をどうしてあんな風に笑いながら殺せる。異常者ってレベルじゃねえぞ」
拳を握り締め、坂下は歯を食い縛る。人を半殺しにすることを知っている坂下だからこそ、あの少女の異常さがわかるのだ。笑いながら人の首を飛ばすなど、常軌を逸している。そんなことをできるのは悪魔くらいだ。あの少女はその域に達している。化け物と呼ぶに相応しい。
無言を押し通す祐一に、拓真は視線を向ける。
「祐一さん、どうしたらいいっすか!? ここから出れないし連絡も取れない、このままおれたちあの子に殺されちまうんですか西崎さんのように! おれは嫌っすよ!? なにか、なにかねえんすか!?」
そこまで言い、唐突に何かを思い出したようにハッとする、
「ま、まさかあの子がこの天神村で唯一生き残ってたっていう人間じゃないっすか……?」
祐一の拳が、腐ったテーブルを殴りつける。瞬間に足は圧し折れ、テーブルの上に置いてあったリュックとノートパソコンが派手に床に転がる。それを信じられない目つきで眺める拓真と坂下の目の前で、祐一は嬉しさを噛み締めた表情で笑う。
「そんな訳ねえだろ。あいつはな、ただの死に損ないの《亡霊》だ。恐れるこたあねえ、おれたちは必ず助かる」
二人から見た祐一は、ある種の狂気を含んだ瞳をしていた。
同時に、祐一がイってしまったのではないかと思った。
「……祐一。お前、何か知ってるのか……?」
呆然としたその問いに、祐一は坂下ではなく拓真へ視線を向ける。
「いいか、今からおれが言うことを正確かつ確実に実行しろ。まず、拓真」
「は、はい……?」
一気に言い放つ、
「そのパソコンの中におれたちが高校のオカルト研究会で調べた黒魔術の魔方陣のデータが入っているはずだ。どこに突っ込んだかは憶えてねえが探せ。その中に一つだけチェック入れてあるのだがあるはずだ。探し出したらおれに言え、五分以内に必ず、だ。できるだけ早い方が良い、無理なんて言わせねえぞ。お前の腕はおれが保障する。だから死にたくなければ何も言わずにやれ。――坂下」
「お、おう……」
さらに言葉を紡ぐ、
「お前は今すぐ外に出て木の枝でも何でもいい、燃えるものを集めてきてくれ。魔方陣を書いたら燃やすものが必要になる。ライターはあるが肝心の燃やすものを忘れた。それはこっちの失態だ、すまん。ただ、おれはお前の度胸と強さを信頼している。お前ならあの《亡霊》にだって負けやしねえ。お前は最強だ。お前になら西崎の敵討ちだって可能なはずだ。だからこの最も危険な作業を引き受けて欲しい。できるか、坂下?」
迷っていたのはほんの数秒だった。『巨大兵器坂下』と呼ばれ恐れられていた頃の目つきが戻って来る。
睨まれれば誰もが息を呑む最強の男が帰って来る。
「任された。だが祐一、一つだけ聞かせてくれ」
「なんだ?」
「――それで、あのガキを殺せるんだな?」
疑問系とは侵害だ。殺せるかどうかではなく、殺すのだ。この世から、消滅させてやる。
「もちろんだ。頼んだ」
「ああ」
肯く坂下は踵を返し、ドアノブを固めたロープを強引に引き千切って外に出て行った。ドアが閉められたとき、拓真はまだ何も行動に移していなかった。祐一はそれを見て舌打ちし、怒声で一喝する。
「馬鹿野郎っ!! 五分以内っつってんだろっ!! 死にてえのかっ!!」
体全体を震わせ、やっと我に返った拓真は慌ててノートパソコンを拾い上げてとんでもない速さでカーソルを移動させてファイルを開き、キーボードを叩き始める。拓真はこれで問題がないと確認すると、祐一はリュックの中を漁り始める。
ごちゃごちゃと入ったその中から必要なものを取り出す。ライターにオイル、床に魔方陣を刻むためのナイフ。ナイフのカバーを引き抜き、グリップを握り締め、刃に写る自分の顔を見つめる。無意識に笑っている自分がいた。
殺してやる、と祐一は思う。《亡霊》などこの世にあるべきではないのだ。死んだ人間はいつまでもこの世に留まっているではなくさっさとあっちの世界に旅立てばいいのだ。自分から逝きたがらないのなら強制的に逝かせてやる。こんなところで殺されてたまるか。殺されるくらいなら殺してやる。《あいつ》はこの世界にはいてはならない存在だ。いれば必ず、遅かれ早かれ祐一の人生を脅かす。害虫であり、寄生虫のような忌まわしき《亡霊》。だからこの手で、葬り去るのだ。そのためなら犠牲など幾らでも払ってやる。そうさ、今おれがこうしているように。
拓真がその手を止めた。祐一に視線を上げ、報告する。
「発見しました! これっすね!?」
祐一はナイフを下げ、ディスプレイを覗き込む。
六角の星を書いた魔方陣。それだ。あれからまだ二分しか経っていないのに正確に探し当てるとはさすがは拓真である。やはり最高の助手だろう。
「ああ、よくやった。あとは坂下が戻って来るのを待つだけだな」
そう言って笑う祐一に、拓真はふとこんなことを言う。
「でも……あの、祐一さん?」
「なんだ?」
「――どうして、外に行かせたりしたんですか? だって、燃やすものならリュックの中に……」
リュックの中には、確かに新聞紙でも何でも燃やせるものは入ってる。木が良いと言うのであれば、わざわざ外に行かなくても木の枝の代わりくらいすぐに用意できる。なにせ、目の前には先ほど壊れたテーブルの残骸があるのだ。拓真の疑問は最もだ。普通は不審に思うだろう。
しかし祐一は、何事もないように答えた。
「すぐにわかるさ」
拓真の表情が曇り、真意を追求しようと身を乗り出し、
刹那、天神村に大音量の野太い悲鳴が上がる。
拓真の体が震え上がり、祐一は悪魔のような笑みを浮かべる。
そして二人は走り出す。
◎
床一面に広がった鮮血の中に、一人の少女が佇んでいる。
陽気に鼻歌を歌いながら生温いその肉塊に手を突っ込んでは引き千切り、引き出し、床に捨てる。
やがてその作業が終ると、少女は赤く染まった髑髏を掲げた。中途半端にこびり付いている肉片が実に生々しい。
「完成! さって、次はー……、あれ? あはっ、何だ、いるじゃん」
少女は窓から見える大柄な男を見据えて微笑む。
次はあのお兄さんと遊んでもらおう。
うん、そうしよう。
◎
坂下は廃墟を出てすぐに森へ向かった。
地獄のような灰色の世界を横切り、葉のついていない木々に走り寄る。手ごろな枝に手を掛け、力任せに圧し折る。
恐くない、と言えばこれ以上の嘘はない。いつ西崎のように殺されるかわからない恐怖は全身を駆け巡り、もし殺されるのなら自分はどんな殺され方をするのだろうという思考が脳内を掻き毟る。どうしてこんなことになったのだろう。どこで何が間違ってしまったのだろう。そもそもこの村は何だ? 本当に地球にある世界なのか? コンクリートで固めれた刑務所にだって何度も入ったし、暗闇やどん底の世界というのを幾度となく体験して、金属バットで殴られて生死の境目を漂ったこともある。だがそのときは恐怖などは微塵も感じなかった。世界なんてこんなモンだと思えばどうとでもなったし、もし荒事になったら力任せに殴り倒せばなんでも解決できた。
なのに。そんなクソみたいな世界で恐怖など感じずに生きてきたのに。
この世界が、この村が、この光景が、この空気が、このすべてが恐かった。体が震え出すのを止められない。枝を圧し折る手に力が入らない。
考えるな。何も考えずに祐一のために行動しろ。『巨大兵器坂下』の名が泣くぞ。人を数え切れないほど殴ったのは他の誰でもないこの自分だ。相手を殺してやると何度思ったことか。同時に、何度殺されると実感したことか。それに比べればこんな場所、どうってことないはずだ。それに相手は女の子だ。自分の半分も生きていない青二才のガキだ。恐がる必要など一切無い。そんなガキに負ける要素など一つも無い。襲われたら返り討ちにできる。そうだ、心を捨ててガキだろうが何だろうが殺してしまえ。
両手一杯に枝を抱え終わると、坂下は踵を返す。これでいいはずだ。なあ祐一、そうだろ? これであのガキを殺せるしここからだって出れるんだろう? こんなとこで死んでたまるか。まだ祐一に恩を返していない。必ずここから出て祐一に恩返しをしなければならないのだ。だから、
そして、坂下の足が止まる。両手一杯に抱えていた枝が地面に落下して耳障りな音を発する。
少女は、坂下の目の前に幽霊のようにふっと現れた。漫画のような光景だった。
「そんなに慌ててどこ行くの? って、あらら、どうしたのお兄さん。体が震えてるよ?」
くすくすと少女は笑う。
坂下は体の震えを無理矢理押し止める。だいじょうぶだ。相手はガキだ。おれが負けるはずない。だいじょぶ、問題は無い、平気だ、殺せる。自分にそう念じ、坂下は拳を握った。現役時代、コンクリートさえも破壊した拳が少女の顔面を狙う。
しかし拳が少女に当たる刹那、またもその体がふっと消える。大振りで空を切る拳を止め、辺りに向けて必死に視線を彷徨わす。
笑い声はいつまでも耳に届いている。
「そうこなくっちゃ楽しくないよね。お兄さん、あたしと遊ぼっか? ねえ、お兄さん。……その目、ちょーだい」
気づいたら、何かが目に飛び込んできた。
避けることも動くこともできず、坂下はそれを呆然と見据え、
音は聞こえなかった。ただ、一瞬で目の前が真っ暗になった。次いで目がジワリと熱くなり、その熱は一秒もしない内に劫火と化す。目がまるで燃えているかのような感覚。潰された目から血ではない透明の液体が流れ出す。
世界が死んだ。
「ぎゃっ、ぐぎゃっ、がぐがっ、あああァ、あああああああああああああァああああああァアァアアアっ!!」
絶叫する。
その場に膝を着く。手探りで地面を探し当て、坂下は必死に這う。一刻も早く祐一が待つ廃墟へと戻らねばならない。坂下は勘と偶然を頼りに進む。が、その方向は廃墟とは正反対だった。血ではない液体を地面に垂らしながら、坂下はそれでも這い続ける。
そんな坂下の後を、目玉二つを手の上に乗せて転がせている少女は楽しそうに追いかける。
「あは、あははははっ! さ、早く逃げないとやっちゃうよー? 逃げろ逃げろー!」
坂下はその恐怖に耐え切れずに立ち上がり、全力で走り出す。しかし暗闇の世界は一発で方向感覚を狂わせ、体が真横にズレたと思ったときには木に激突していた。意識が朦朧とする。足音が近づいて来る。絶望の足音だ。
死にたくない死にたくない死にたくない。
「く、来るなァアぁあっ!!」
絶叫しながら闇雲に腕を振り回す。死ぬくらいなら殺してやる。少しでもこの腕に当たれば位置がわかる。わかった瞬間に飛びついてその首を圧し折ってやる。木の枝を折るのと一緒だ。殺してやるんだ、死ぬくらいなら絶対に殺してやる。だから、頼む、この腕に当たれっ!!
そんな坂下を見ながら、少女は歌うようにこう言った。
「それじゃお兄さん、顔を剥いじゃいましょうね〜」
刹那、顔の皮膚の中に何かが入って来る。その数は合計で十本。
どうということはない。それは、少女の小さな可愛らしい指だ。
少女の指は、実に楽しそうに坂下の皮膚を剥がして行く。
少女はいつまで経っても、笑っている。
◎
祐一と拓真がその場に来たときには何もかもが終っていた。
坂下は木に凭れるようにして息を引き取っていた。坂下は、目玉を抉り取られ、顔の皮膚がすべて剥がされていた。剥き出しになった神経やら筋が人体模型のようだった。
拓真は魂の抜けたような表情でその場に膝を着く。
その少しだけ後ろで、祐一はただ一人、笑っていた。
その光景を遠くから見つめながら、少女は目玉を空高くに放り投げる。
そして、思う。
さて。次はどっちを殺そうかな。
「生贄」
坂下の死体の前で、拓真は呆然と座り込んでいる。視線は坂下に向けられているが、その目は何も見ていない。まるで人形にでもなったかのように、拓真はじっとその場で身動き一つしない。
そんな拓真を見据えながら、祐一はただ、こいつはもうダメかもしれねえなと思う。が、今更拓真のためだけに計画を止める訳にはいかない。《亡霊》を殺せるのならどんな犠牲も払ってやる。もう決めたことであり、西崎と坂下が死んだ今、それを止めることはもはやできないのだ。止めれば二人の死が無駄になってしまう。それに、この十五年間も無駄になる。それだけは何としても避けなければならい。そのためにはこの計画を実行する必要があるのだ。それには拓真が必要だ。自分ではなく、拓真だけが必要になる。まだ壊す訳にはいかない。いや、壊れても別に問題は無い。どちらかと言えば、壊れてしまった方がいっそすっきりするのかもしれなかった。
だが、取り敢えず今は拓真はどうでもいい。死にたければ死ねばいいのだ。そっちの方が手間が省ける。最優先にやらねればならないことが今はあるのだ。祐一は坂下が集めたと思われる木の枝を適当に拾い集め、拓真をその場に残して歩き出す。
廃墟に戻ってきた祐一は、床に散らばったテーブルの破片を蹴り飛ばして綺麗にする。近くに木の枝を放り出し、ナイフを取り出す。ノートパソコンを引き寄せ、その画面に映っている魔方陣を見つめる。円形の中に六角の星が描かれているその魔方陣を、正確に、祐一はナイフで床に刻む。それは実に順調に進んで行く。自分でも驚くくらいにスムーズだった。何度も何度も練習した甲斐があったと思う。多少の歪みは問題ないにしろ、あまりに歪みすぎると発動しない可能性も出て来る。しかしこの分なら問題ないだろう。最後の生贄を奉げれば発動する。
魔方陣がほぼ書き終わった頃になってやっと、廃墟に拓真がふらふらの足取りで入って来る。そして床に刻まれた魔方陣を見ると、呆然とつぶやく。
「……それ、結局は何なんすか……?」
関心のなさそうなその声が祐一の癇に障る。
黙っていろ。これはあの《亡霊》を殺すための最も有効な手段だ。しっかりしろ、いつまでもくよくよしてんじゃねえよ。たかだか二人の死体見ただけじゃねえか。そんなモンで魂抜けたみてえなツラしやがって情けねえ。
やはり拓真には無理だったのかもしれない。確かに拓真は優秀な助手だ。が、こいつは優しすぎる。子供臭さが染み付いているのだ。小さな動物が好きで、子供に人気者で、他人の痛みがわかるお手本のような人間である。ほんの少しだけ、こんなことに拓真を巻き込んでしまったことを後悔した。しかしその後悔はすぐに薄れる。なにせ、心の底では、近藤拓真のことなど少しも好きではなかったのだから。
拓真に限ったことではない。この世に生きるすべての人間が嫌いだった。思い知らせてやる、そう思ってこの十五年を過ごしてきたのだ。平和な世界しか知らないクズ共にこの世界がどれだけ汚れているのか思い知らせてやるためにここまで這い上がってきたのだ。それには、まず《亡霊》が邪魔だった。《亡霊》は必ずや祐一に害を撒き散らす。だから殺すのだ。そのためなら犠牲など幾らでも払ってやる。そうさ、西崎も坂下も、そしてこの拓真さえも。
ナイフが最後の一線を刻む。魔方陣が、完成した。次の作業に移ろう。
祐一はナイフを床に置いて立ち上がり、オイルを取り出す。持って来た木の枝にたっぷりとそれを注ぐ。
「……何する気なんすか……? その魔方陣って、一体何なんすか……?」
拓真の声を無視してオイルを垂らし続ける。
そして、拓真の瞳に活力が戻る。今までにない祐一の態度に、初めて怒りが湧き上がる。
「答えてください祐一さんっ! 坂下さんを外に出して一体何がしたかったんすかっ! それに、その魔方陣は一体何なんすかっ!」
それでも祐一は口を閉ざし、オイルを垂らし続けた。
その姿に拓真は歯を食い縛る。拓真は、祐一のことを心から尊敬していた。高校ではいつも自分の意見を真っ直ぐに貫き通し、クラスや部活でもリーダーシップに長けていて、祐一の周りにはいつも人がいた。頭が良くてスポーツ万能で、何に関しても天才的で。祐一のすること成すことはすべて正しかった。世界は祐一を中心に回っているのではないかと何度も思った。祐一のようになりたかった。だからこうして付いて来たのだ。しかし、拓真は初めて、祐一に対して疑問を抱いた。祐一のしていることが、正しいとはどうしても思えないのである。
この人は、間違っている――。
それは口から自然とあふれ出す。
「……おれは、祐一さんが好きでした。尊敬していました……」
祐一はオイルが空になるとそれを捨て、べたべたに濡れた木の枝を一本一本摘み上げて魔方陣の星の上に並べ始める。その無言の行動が明確に、「だからどうした?」と語っていた。
拓真は爆発する、
「おれは祐一さんの考えていることが今までずっとわかっていましたっ! 何をしたいのか、何を言いたいのか、全部わかっていたつもりです! なのに、今の祐一さんのやりたいことがおれには全くわからねえんすよっ! 貴方は今、一体何をしようとしてるんすかっ!!」
肩で息をする拓真に背を向け、なおも祐一は木を並べる。
無言の数秒が過ぎ去ったとき、祐一が立ち上がった。木の枝は、綺麗に星に沿って並べられていた。火を灯せば六角の星に沿って炎が渦巻くはずである。それをぼんやりと見据えていた祐一は、唐突に笑い出した。
「くっくっく……はは、あはっ、あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!」
異常な笑い方だった。笑い出したのと同じくらい唐突にそれは終わり、祐一は無表情で振り返る。
その無表情が、拓真にはどうしようもなく恐かった。こんな祐一を見るのは初めてだった。
「……拓真、寝ぼけてんじゃねえぞテメぇ」
「――……え?」
祐一が歩み寄ってくる。今すぐにでも逃げ出したいのに足が言うことを聞かない。
すぐそこまで来た祐一の手が拓真の胸倉を掴んで引き上げる。
「おれの考えがわかった、だと? はっ、舐めんなよ。お前におれの何がわかるっつーんだよ。お前がおれの何を知ってるっつーんだよ。ああ? おい、何とか言ってみろや」
締め上げられた口からは何も言えない。ただ、狂気を含んだ祐一の瞳が純粋に恐ろしかった。
「いいか、よく聞け。お前はおれのことを何も知らねえ。上っ面だけですべてを理解し合えたなんて思うんじゃねえぞ」
祐一の手が少しだけ緩まり、その隙を見逃さずに拓真は叫ぶ、
「だったらっ! おれに教えてくださいよっ! 祐一さんのこと、全部っ! おれは、おれは貴方みたいになりたいんすよっ!!」
その言葉が静寂を呼び込んだ。肩で息を整える拓真と、それを無表情で見据える祐一。
祐一はただ思った。
――クズが一丁前の口ききやがる。いいだろう、知りたいのなら教えてやるさ。なあ、拓真。
唐突にその口を開く。
「おれが九歳のとき、『おれたち』はある計画に選ばれた。それが終ってからもおれは二年間ずっと政府のクソ共に実験のモルモットとして薬物投与され続けた。副作用でのた打ち回る日が続き、気づいたら二年経ってる。それからいきなり学校に行け、だとよ。笑っちまうだろ? しかも記憶の隠蔽までされてよ、もうぐちゃぐちゃだよ、おれの頭ん中。お前さ、おれの考えてることわかるって言ったよな? 知ってるか? おれはな、腹の中では常に憎悪だけを持ってたんだよ。政府のクソ共と、テメぇらみたいなクズにすべてを思い知らせてやるためにな」
乾いた笑いを漏らす、
「おれはな、これまでに死体を嫌というほど見てきた。それも、えげつないものばかりだ。そもそもな、この天神村って所はもともと地図になんて無かったんだよ。そりゃそうだ、なにせここは政府のクソ共が実験のためだけに作り上げた村だからな。考えてみろよ? こんな樹海のど真ん中に普通村があると思うか? どう考えたっておかしいよな? ならなぜこんなところに村を作ったのか。簡単だ。実験の被害を最小限に抑えるためだよ。コレラでこの町が死んだ? 下らない作り話だ。ここはな、政府のクズ共が産み出した生物兵器、【バイオハザード】のお試し場だったんだよ。選ばれた人間がこの町に強制連行され、自由を奪われ、そしてただのボタン一つで地獄と化す。コレラなんて比じゃねえぜ。空気感染するその伝染病は一瞬で人間の体内に入り込み、中身を破壊する。吸い込んでから三時間で効果を発揮するそれの病状は至って簡単、まず体温が四十度を軽く超え、吐き気を伴う。が、吐き出されるのは消化物なんて生易しいものじゃあない。吐き出されるのは臓器さ。内臓だ。気持ち悪いなんてモンじゃないぞ。自分の腹ん中のものが自分の口から出て来るんだ。地獄さ、紛れもない」
祐一の笑みは自嘲染みたそれに変わっていく、
「なぜお前がそんなことを知っているのかって言いた気なツラだな、拓真。簡単だよ。ネットで噂流れてるだろ? たった一人の生存者がいたって。それがこのおれだよ。肉親を殺してまでおれは醜く生き延びた。これでやっと助かったと思ったら今度は防護服に身を包んだ化け物みたいな奴らに攫われてよ、そのまま研究所に缶詰さ。嘘みたいな注射器何度もぶっ刺されたし、冗談のような色の液体を体の中に何度も混入させられた。わかるか? ああ? お前にわかるのかよ、そのときの恐ろしさを。得体の知れないものを体の中に注入されるその恐さ、苦しさを、お前にわかるっつーのか? 舐めんじゃねえぞ。副作用はおれの脳みそまで侵食し、幻覚を見て自分で自分を食い殺す感覚を嫌と言うほど味わった。おれのこの髪はな、今は染めて黒だが、本当は真っ白だ。実験で味わった地獄はたった一週間でおれの髪を真っ白にしたんだよ。わかるか? それがどれほどの苦痛か。平和しか知らないお前みたいなクズがおれの何を知りたいって言った? お前にも地獄見せてやろうか、ああ?」
そこまで一気に言い放った祐一は、呆然とする拓真へ視線を向け続けた。
拓真は放心しているかのように狂気を含む祐一の瞳を見つめ続ける。
実際、拓真の頭の中には祐一の話は半分も入ってはいなかった。ただ、思うことは一つだけ。
この男は、一体誰だ――? この目の前の奇琉沢祐一という男は、拓真の知っている奇琉沢祐一ではない。この男は、ただの異常者だ。何を言っているのかもわからない。一体いつどこで入れ替わりやがった。本物の祐一をどこに連れ去った。心から尊敬した先輩を返せ。偉大な祐一を、返せ異常者。お前などあの女の子と何も変わらないではないか。貴様こそ本当のクズだ。
殺してやる。祐一の皮を被った異常者を殺してやるんだ。祐一を、返せ。
拓真が拳を握ったそのとき、祐一は唐突に拓真を突き飛ばした。それからポケットからライターを取り出して背を向ける。祐一の足元には、魔方陣がある。火を灯す気だと誰の目にも明らかだった。
「待てっ! お前は一体誰なんだっ! 祐一さんをどこへやった!!」
ライターの石を回すとボっと火が点いた。その灯りに照らされた祐一の表情は、完全なる無表情だった。
「――はっ、お前馬鹿か? おれはおれだよ。おれこそが本物の奇琉沢祐一だ」
拓真は立ち上がる、
「嘘だっ! 祐一さんはお前みたいなヤツじゃないっ!! おれの知ってる祐一さんは、祐一さんはっ!」
「簡単だよ。お前の知ってる奇琉沢祐一というのが偽物だ。これが本物のおれさ。言ったろ? 上っ面だけでおれを知ったと思うなよ、拓真。それがお前の長所であり短所だ。お前は人を信用し過ぎる。人間なんて汚い生き物だぜ。腹ん中で何考えてるかわかったモンじゃねえ。いい例がこのおれだよ。おれは今、お前を殺そうとしているんだからな」
「――……え……?」
その言葉が耳に届かなかった。いや、届いてはいるのだが脳が受理しない。
信じたくはなかった。祐一の口からそんな言葉が出て来るのが、まるっきり嘘だと思いたかった。
ライターを持った祐一が振り返る。
「お前はこの魔方陣が何かって聞いたよな? 教えてやるよ。これはな、あの《亡霊》を殺すための手段だ。が、発動させるのには条件が必要になる。何かを成し得たいのなら代価が必要である、それがこの黒魔術の条件。それを調べるのにわざわざ高校の三年間を潰したんだ。オカルト研究会なんて部に入ったのもそのためだ。そんなもの、この目的がなかったら入らなかったさ。……それに関してはお前に感謝している。黒魔術の詳細を調べてくれたのはお前だもんな。代価を復唱してみろ。この魔方陣が何をするものか知らなくても、それだけは憶えているはずだぜ? おれが教え込んでやったんだからな。さあ、言え」
口は、暗示を掛けられたかのようにその言葉を紡ぐ。
「……い、一時間以内に……半径一キロの範囲で三人の魂を……生贄として、奉げる……」
祐一は笑う。
「正解。一人目は西崎。二人目は坂下。そして三人目は、お前だよ、近藤拓真。おれのための死んでくれ」
そっと祐一の体が動く。拓真はその分だけ後ろに下がる。
「――嫌だ、」
声が震える、
「絶対に嫌だっ! お前みたいなヤツに殺されてたまるかっ! 殺されるくらいなら、殺してやるっ!!」
拓真は走り出す。本物の祐一になら命を奪われてもいいと思ったかもしれない。だがこいつは偽物だ。こんなヤツに殺されるのなら、いっそ殺してやる。そして自分だけが助かるのだ。そうだ、『こいつさえ殺せば自分は助かる』のだ。
拓真は祐一の横を通り抜け、床に置いてあるナイフへと飛びつく。それを祐一は何もせずに見ていた。ナイフのグリップを両手で握り締め、拓真は切先を祐一に向ける。
しかし祐一は逃げるどころか、両手を広げて再度笑う。
「いいねえ拓真。お前におれを殺せるかな? さ、どうした、おれの心臓はここだぞ? 外すなよ、殺すんなら一思いにやってくれ。苦しいのは嫌だからな」
拓真の手が震え出す。
「どうした、ここまで来て怖気づく気か? お前は優しいもんな、だから無理か? 人を殺す度胸もねえクセにナイフなんて人に向けてんじゃねえよ腰抜け。殺るなら殺れ、殺らないなら大人しく殺られろ。お前はどっちを選ぶ? 殺られるか、殺るか。おれはもちろん後者だ。お前がナイフを下ろせばおれはお前を殺す。さあ悩んでいる暇はねえぞ。殺せ、殺せ、殺せぇえ拓真っ! ははっ、あーっはっはっはっはっはっはっ!!」
歯を食い縛った拓真は、ナイフのグリップを握る手に全力の力を込める。
――殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる、おれが、お前を、殺してやる。そしておれだけは、助かるんだっ!!
「うっ、うあぁあああああぁぁあぁあ―――――――――――――っ!!」
拓真はあらん限りの声を張り上げ、その一歩を踏み出そうとして、
祐一の声を聞いた。
「時間切れだな、拓真」
「うん、そーだね、時間切れだよ、お兄さん」
「――え?」
何もかもが一瞬だった。
気づいたときには、拓真の胸から何かが突き出ていた。
それは、綺麗なピースサインをしていた。
後ろをゆっくりと振り返る。
そこに、少女がいた。少女は嬉しそうに笑う。
「惜しいっ、あと少しだったね。でも遅いよお兄さん。殺すのはこんなに楽しいんだから、悩んじゃダメだよ」
少女の右手が、拓真の背中に吸い込まれ、そして胸から出ている。
状況は至って簡単だった。後ろから、手で、体を、貫かれた。それだけ。
しかし頭は納得しない。胸から突き出てピースサインをしているその赤い手が新種のアクセサリーだと思う。これは玩具だ。どっきりなのだ。人間の体を人間の手が貫通するなどあるはずもないのだ。そんな光景は映画の中だけだ。それにしてもリアルだな。赤い血も中から出て来るこの気持ち悪い物体も。まるで本物みたいだ。あ、これ知ってる。これって心臓っていうヤツじゃなかったっけ? ああそうだ、そうに決まってる。はは、何だ綺麗じゃん、おれの心臓。すっげえな、こんな感じなんだ。初めてみたよ。あはは、すっげえ、すっげえよ、すげえすげえすげえ、めっちゃすげえ。あははははははは、心臓だよ心臓、すっげえなこれあははははは、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、死にたくないっ、死に――
力を失った拓真の体がゆっくりと倒れる。少女の手が気味の悪い音を立ててその体から引き抜かれる。
真っ赤に染まったその手を小さな舌でツツーっと舐め、少女は祐一を見つめた。
「最後だよ、お兄さん。特別大サービスしてあげるね。お兄さんは、どんな風に殺して欲しい?」
どんな風に殺して欲しい、か。祐一は少女をじっと見据え、そして。
笑った。
「あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!」
むっ、と少女は顔を顰める。
「何がおかしいの? 恐すぎて頭壊れちゃった?」
笑いを噛み殺し、祐一は少女に視線を送った。
「いやいや、頭は壊れるどころか最高だよ。まさかこうも予定通りに行くとは思ってもみなくてな。しかし、驚いた。――よお、久しぶりだな」
「何言ってるの、お兄さん?」
祐一はいつの間にか消えてしまったライターの火を再度点ける。
「おいおい、おれの顔を忘れたのか、《里奈(りな)》」
ライターに照らされたその顔が、十五年の月日を無にした。
少女の目が見開かれる。そして、それを口にした。
「――お兄……ちゃん……?」
「ああ。おれの本当の名前は末広(すえひろ)祐一。
――末広里奈。お前の、兄貴だ」
そう言って、祐一は微笑んだ。
「腐った世界」
一九九〇年八月一のこの日、世界政府公認の一つの実験が行われることになっていた。
公にはもちろん公表されず、その事実を知っていたのは各国のお偉いさんと選び抜かれた数十人の研究員だけだ。まず、その実験の名を【バイオハザード】という。そしてその【バイオハザード】というのは、法定伝染病を研究していた研究所が誤って産み出した新種の感染病である。研究員はその感染病を抹消しようと考えたのだが、トチ狂った馬鹿がそれを生物兵器として活用しようと動き始めた。研究所から上へ上へとその話は伝わり、一ヵ月後には日本を含める五つの国を交えた巨大プロジェクトにまで発展する。そしてそのプロジェクトを完全に成功させるため、大まかにしか病状が把握されていない【バイオハザード】に、更なる研究と追求が必要になった。
そこで実験である。実験体に用いられたのは最初は鼠などの小動物だった。が、次第にその実験は加速し、人間を殺す兵器なのだから実験は人間ですべきだ、という案が持ち上がる。議論の結果、異常なことにそれが罷り通った。実験の開催場所も協議の結果に日本となる。その理由は至って簡単。もし下手をして感染病が広がっても、海に守られた日本なら他の国に漏らすことはない、というのが表の理由で、真意はもし広まったら海を越える前にその国を抹消すればいい、それだけだった。
次に決めるべきは、日本の何処で実験を行うか、である。都会のど真ん中など論外、田舎でもやり辛い。考えればすぐに結論は出た。人のいない場所ですればいい。その人がいない場所から導き出されたのが、自殺の名所でも有名な樹海だった。樹海の中心部に一つの小さな【天神村】という村を作り上げ、そこに実験体、つまりは【バイオハザード】の餌食となる人間を住まわした。
ただ、一般市民をその実験体に選ぶのは反感があった。当たり前である。そこで導き出された結果が、日本の終身刑になった犯罪者と、各国の死刑になるべき犯罪者だった。合計で五十二人、天神村に作られた十三軒に家に四人ずつ押し込む形になる。なぜここに連れて来られたのか、ここは何処なのか、今から何が行われるのかなどの説明は一切されず、強制連行で引っ張り出された五十二人の人間は混乱しつつもそこでしばらく暮らすことになる。
そして、一九九〇年八月一のこの日、天神村に一つの放送が流れた。
――ようこそ天神村へ。君たちは選ばれた。喜び給え、君たちは特別なのだ。そう、君たちは偉大なる実験の実験体だ。さあ、我々が存分に納得できる成果を出してくれ。始めようではないか。君たちを殺す、我らが誇る生物兵器、【バイオハザード】の御出座しだ。
◎
両親は最低な人たちだった。悪魔と呼ばれる生き物がいるのなら、それはその二人だったに違いない。赤ん坊が泣けば泣き止むまで殴り、いつ死んでもおかしくないような育て方を平気で行った。そのやり方でここまで自分が育ったことが不思議だと思う。だから一つ下の妹も、そんな育て方をされたのにも関わらず自分のように元気に育ったのが余計に不思議だった。
そして、悪魔の二人はついに取り返しのつかない事態を招いた。殺人、だったそうだ。詳しい理由や動機、状況は当時九歳のガキだったおれに教えてくれるはずもわかるはずもなかった。ただ、その殺人で死んだのは四人。後から付いて来た話によると、殺されたのは悪魔の親戚家族だったらしい。殺した理由はついにわからなかったが、とにかくそれで悪魔は捕まった。そして、おれと妹は家を失った。
人殺しの子供を受け入れてくれる知り合いなど一人もおらず、路頭に迷っているところを保護された。否、保護ではなく実験体に選ばれたのだ。化け物のような連中に問答無用で連れ去れて、気づいたら腐った村にいた。そこに悪魔の両親もいた。やっと離れ離れになったと思ったらまた出会ってしまう。この世界は理不尽すぎると幼いながらに思った。今にしてわかるのだが、おれたちは偶然に実験体に選ばれたのではなく、両親のおまけとして、子供の実験体として選ばれたんだと思う。
殺しを重ねた腐った大勢の大人と、そんな大人が住まう腐った村で、おれと妹は腐った生活を続けた。
スピーカーから流れる罅割れたその声は、今でも鮮明に思い出せる。
――ようこそ天神村へ。君たちは選ばれた。喜び給え、君たちは特別なのだ。そう、君たちは偉大なる実験の実験体だ。さあ、我々が存分に納得できる成果を出してくれ。始めようではないか。君たちを殺す、我らが誇る生物兵器、【バイオハザード】の御出座しだ。
何がようこそだ、と思った。何に選ばれたんだ、と思った。何に喜ぶんだ、何が特別なんだ、何が偉大なんだ、何が成果なんだ、何を始めるんだ、何だよ【バイオハザード】って。呆然とするおれと妹の前に、悪魔の二人が悪魔のような形相で走り寄ってきた。恐くはなかった。ただ漠然と、ああ、殺されるんだなと思った。だけど、悪魔はおれと妹の体を担ぎ上げるとそのままガラス張りの浴槽のような密閉の場所へ閉じ込めた。
そのとき、おれと妹は、初めて悪魔の人間らしい表情を見た。悪魔は自嘲染みた笑いを見せ、こうつぶやいた。
――じゃあな、糞ガキ。
そして、天神村は死んだ。
いや、最初から生きてはいなかった。元から死んでいたのだ。
正し言い方は、天神村が、腐った。
ただの実験用の小さな瓶が天神村の中心で叩き割られ、その中に詰まっていた生物兵器【バイオハザード】が猛威を振るう。東京ドーム一個分のその地域は一気に飲み込まれ、そこに住まう五十人が抵抗虚しく感染する。ガラス一枚を隔てた向こうにいる悪魔の二人も例外ではなかった。
しばらくは何事もなく時間だけが過ぎた。だけど数時間後、正確には二時間四十八分二十七分後に異変は生じる。まずは母親だった。その場で人間とは思えない絶叫を上げ、長く伸びた爪で喉を掻き毟り始める。爪が食い込んで喉の肉が削れ、抉れ、血が噴出し、そして蹲る。一瞬だけすべての動きが止まったと思った次の瞬間には体が弓なりに剃り上がり、口から何かを盛大に吐き出した。あの頃のおれにはそれが何だったのかを知る由もなかった。ただ、黒が混じった赤色の、何だか気持ち悪い物体だった。大量のその異物を吐き出した母親は最後に目玉を床に落とすと同時に倒れて動かなくなった。次は父親だった。母親と同じように喉を掻き毟り、口から大量の異物を吐き出し、目玉を落として息絶えた。
呆気なかった。その光景を見ていたおれは、ただ、悪魔でも死ぬんだと思った。妹の震える手をしっかりと握り、おれはいつまでも異物に塗れた悪魔の二人を見つめていた。
それから一体何度夜が訪れ、日が昇ったのかは憶えていない。でもその時間は、永遠に等しかったと思う。食料も水もないその密閉空間から外に出る術はなく、妹と二人でそこから見える死に絶えた天神村をずっと見守っていた。やがて悪魔の体が腐り落ち、うじ虫が湧き上がった頃になってようやく、死にそうになっている脳みそが漠然とこう思った。
――ああ、腹減った。
隣を見たら妹がいた。自分の顔を見ることはできないが、たぶん自分も妹も同じ顔をしているのだろう。頬はげっそりと痩せ焦げ、腕は皮しかないほど細くて、世界を見つめてはいない虚ろな瞳にすべてを投げ出したような異常な笑み。そして妹は、もうほとんど息をしていなかった。あと数時間も放置すれば死んでしまうのだろう。
だから、おれは、こう言った。
――まあいいか。おやすみ、里奈。……いただきます。
そうして、おれは生き延びた。実の妹をこの手で殺し、少しずつ腹に入れた。
それでも意識は途絶え始め、一体あれからどれほどの時間が経ったのかわからなくなり、幾度目の太陽が空に昇ったとき、奴らは現れた。真っ白な巨大な防護服に身を包み、おれの姿を見つけるとガラスを叩き割って強引に引き摺り出した。抵抗するだけの力はなかった。ただ、嬉しくて嬉しくて涙が出そうだったのを憶えている。
――ああ、これでやっと終るんだ。ああ、これでやっとちゃんとしたものを食べれるんだ。
しかし現実は甘くなかった。連れて来られたのは雲の中のような真っ白の部屋で、そこには何に使うのかわからない大きな機器が沢山置いてあって、そこにいる数人の防護服を纏った化け物のような連中に囲まれながら、おれは手術台のような机の上に標本の虫のように貼り付けにされた。身動きできないおれを見下ろしながら、化け物共は笑っていた。
地獄だった。嘘みたいな注射器を腕に突き立てられ、冗談のような色の液体を体内に何度も混入させられた。脳みそが焼け、体が崩れ落ちそうだった。幻覚を何度も見た。夢の中のおれは、自分の体を美味そうに食っている。まず指を一本、また一本と少しずつ少しずつ噛み砕き、骨を吐き出し、肉を飲み込む。片手が終ったら次は逆の手。指が無くなったら今度は足の指。それもなくなったらさらに腕を食う。両腕が無くなったら両足。地面に四肢を無くして横たわり、狂気の笑いを上げる自分自身。美味そうに肉をいつまでもいつまでも貪り続ける自分自身。最後は歯を砕いて飲み込み、下を噛んで窒息。死んだと思ったら正気に戻る。そしてまた注射を刺されて液体を入れられる。気づいたらまた体を食っている自分がいる。
紛れもない地獄。終ることのない永遠の時間。自分の髪が真っ白になっていることにさえ気づかない。精神はボロボロで、脳は死んでいて、それでも幻覚は見て、自分を食う自分を味わい、注射器と液体は続き、終わりの来ない繰り返しの日々。
思った。
――世界は腐っている。
妹を殺したのは間違いだった。おれが殺されればよかった。そうしたらこんな苦しみを味わなくてよかったのに。変わって欲しい。もう嫌だ。お願いだ変わって欲しいもう嫌だここから助けて誰でもいいからおれを殺してくれ。
地獄の日々が二年続いた頃になってようやく、すべての実験は終った。
【バイオハザード】で一番のお偉いさんがおれの前に座り込み、満面の笑みでこう言った。
――さて、もう君には用はない。お疲れ様。
記憶の隠蔽。しかしその技術はまだまだ中途半端で、それも実験としておれに使われた。幸か不幸か、おれの中から消されたのは天神村の場所とそれに関係するすべての人間の顔だけだった。本当に忘れたかったことは何一つ忘れられなかった。そんな最悪な状況の中、国からの援助を受け、おれは普通の生活に戻ることになった。
偽名を使うから何にする、と聞かれた。決めてあった。だからおれはその名を口にした。そいつはその名を聞くとおれをゴミのように見た。
――はっ、ガキが考えそうな名前だな。
この名の本当の意味も知らないクセに黙ってろクソが。
そしておれは、一つの運を勝ち取った。【バイオハザード】の試作品を研究所から盗み出すのに成功した。失敗作だったのだろう。廃棄処分になる予定のものだから扱いは最低で、普通に転がっているのが異常だった。だからこそおれはそれを奪えて、ある憎悪が芽生えた。これを元に完全なる【バイオハザード】を制作して、政府のクソ共も、この世界で何も知らずに生きている人間にも思い知らせている。この世界がどれだけ腐っているのかを知らしめてやる。世界中の人間を殺してやる。そのためには金と研究所が必要だった。それを補うために必死に学業を学び、あらゆる手段で金を掻き集めた。その副産物で学校の成績はトップ、物知りだということで人気も出た。これもすべて利用できると思った。通う高校では優等生を演じた。
月日は過ぎる。
やがておれは、ある不審な情報を目にする。今やどうでもよくなった【天神村】だが、記憶から隠蔽された場所を知るために駄目元でWWWに検索を掛けたみた。そこで、おれは、見た。下らないBBSに書き込まれている少女の噂。嘘のようなその情報を集めると、そこから連想できる人物は一人しかいなかった。
末広里奈。おれがこの手で殺した、妹。
妹が生きている。そんなはずはない。だって、里奈は、この手で――。
否定すればするほど不安は増した。里奈が生きている。ならば、里奈が最も殺したいのはこのおれのはずだった。どうして生きているのかなんてのはわからない。本当に里奈かどうかも証拠は無い。だけど、里奈が生きているのなら必ずおれを殺しに来る。まだ【バイオハザード】を制作してもいない。こんなところで諦めてたまるか。世界のクソ共に思い知らせてやるまでは死ぬわけにはいかない。
殺されるのなら、もう一度、この手で妹を殺してやる。
《亡霊》など、この世にいるべきではないだ。
やがておれは近藤拓真に出会い、坂下聖治に出会い、西崎晶に出会った。
計画は進行して行く。《亡霊》なら物理攻撃では殺せない。だから嘘臭そうではあったが古の黒魔術なんてのも引っ張り出して来た。生贄は三人。メンツは十分。不思議がる拓真たちに言い聞かせる理由はこれで上等だった。
『なぜか【そこに行かなければならない】と思えて仕方ない』それで納得させた。
計画は順調。すべてを賭けて天神村の在り処を突き止めた。
《亡霊》を殺したら、始めよう。
おれの最大の計画を。この世界に災いを齎そう。
【バイオハザード】を世界に解き放とうではないか。
奇琉沢祐一。
確かにガキが考える馬鹿なメッセージだったのかもしれない。だけどそれに気づかなかった政府のクソ共はそれ以上の馬鹿だ。
平仮名に変換した苗字と名前の最初の二文字を取って繋げる。
『きる』『ゆう』
ガキ臭い。だがそれで上等だ。
【KILL YOU】
お前を、殺す。
世界のクソ共を、皆殺しにしてやる。
おれが味わった地獄を、お前たちにもくれてやる。
それにはお前が邪魔だ、末広里奈。
ここで、お前を、殺す。
火を灯そう。計画を実行させよう。
さあ、始めようか。
計画の、第一段階、始動だ。
「大好きなお兄ちゃんへのプレゼント」
ライターの火が吹き込んだ風に揺れる。
目の前にいる《亡霊》――末広里奈を見据えながら、祐一はいつまでも笑いを止められないでいた。
「長かった……本当に長かったよ、ここまで来るまでは……」
思い出すだけで吐き気が込み上げ、同時に憎悪の炎が腹に湧き上がる。
やっとここまで来れた。もう一度、この手で妹を殺せば何もかも上手く行く。そしてこの村から出れば、世界中に思い知らせてやれるのだ。自分に苦痛を与え、髪をも白く変色させたこの腐った世界に復習がきでる。これが、笑わずにいられる訳がないのだ。
数分の間、里奈は呆然と祐一を見つめていた。やがて無表情でポツリと一言だけ言葉を漏らす。
「――どう、して……?」
「どうしてもクソもねえだろう。おれはな、お前をもう一度、殺しに来たんだよ。お前にいられると迷惑なんだ。お前は必ずやおれに害を及ぼす。だからその前に殺す。この魔方陣が何だか知ってるか? これはな、お前を殺すための手段だよ」
膝を折る。ライターの火をゆっくりと床へと近づけて行く。
オイルで濡れた枝が並べられる、六角の星が円で囲まれた魔方陣。胡散臭い古の術だ。だが効果は出るはずだった。これで効果が出なければすべてが終る。里奈をこの世から消滅させることができなければここで殺されるのは自分だろう。しかし殺される訳にはいかない。だから、この魔方陣に火を灯そう。さあ、忌まわしき《亡霊》を消滅させよう。
ライターの火が枝に触れるか否かの瞬間に、それまで黙っていた里奈が唐突にくつくつと笑い出した。ライターの火の動きがピタリと止まり、祐一は狂気の瞳を里奈へ向ける。
「……何が可笑しい」
「可笑しいよお兄ちゃん。だって」
その場でくるりと回り、少しだけ上体を屈めて里奈は微笑む。
「そんなもので、あたしを殺せるわけないもん」
「――試してみるか?」
「いいよ、試しても。それってあれでしょ? 魂がどうのこうのって。無理だよ、あたしは《亡霊》さんじゃないもん」
祐一の笑いが納まる。おかしい、と祐一は思った。
里奈の目は張ったりでも虚勢を張っている訳でもない。ただ純粋に事実を述べているだけ、そういう目をしている。この魔方陣ではあたしを殺せない、と。あたしは魂だけの存在ではない、と。だからそんなものあたしには無意味だ、と。里奈は、そう言っているのだ。
ふざけるな。魂だけの存在ではない、だと? 黙れ。お前は魂だけの存在だ。魂だけの存在だから、十五年前のあのときからお前の姿形は何一つ変わっていないのだろう。肉体なんてあるはずないのだ。なにせ、里奈の肉体は、
「そんな訳あるか。お前の体は、このおれが――」
「それじゃ聞くね。お兄ちゃんは、あたしの体を、『全部食べた』?」
「……なに?」
「食べてないでしょ? だからあたしはこうしてここにいる」
「どういう意味だ」
そのままの意味だよ、と里奈は言う。
「あたしは死んでないもん。あたしはね、お兄ちゃんの食べ残し。だから《亡霊》さんじゃないの。残念でした〜」
小さな下をちょっとだけ出し、里奈は不器用にあかんべーをする。
無意識に、歯を食い縛っていた。それが予想以上に強く、奥歯がガリッと音とを立てて削れた。破片を床に吐き出し、祐一は言う。
「舐めてんじゃねえぞボケ。確かにおれはお前を全部食っちゃあいねえ。だがな、お前は確かに死んだんだ。それでもここにいるって言うのは、お前が《亡霊》だからだよ。だから、」
「わかんないかなぁ」
物分りの悪いお兄ちゃんだ、というような顔を里奈はしている。
「簡単に言うとね、あたしは蘇ったの。お兄ちゃんに食べられた部分を、再生してね」
「再生、だと……? ふざけるな、そんなことできる訳、」
唐突に、目の前がフラッシュバックした。拓真に言った自分自身の言葉が鮮明に耳に届く。
『【バイオハザード=生物の危険性、生物災害】だ。まあゾンビもそうだっちゃーそうなんだが、今は関係ないから放っておけ』
いや、あり得ない。そんな訳はない。ここで行われた実験、生物兵器【バイオハザード】の効力は高熱を出して内臓を吐き出す、それだけのもののはずだ。人をゾンビ化させるなどあるはずもない。そもそも人間の失われた臓器を再生して蘇らせるなどこの世界の何もかも超越している。あり得る現象ではない、あり得てはならない現象のはずだ。それにあの地獄を体験している最中もそんな話を聞いた憶えはない。研究員が知らない効果を発揮するなど無いはずだ。
――そりゃそうだろ。【バイオハザード】の効力を追求するための実験だったんだしよ。そこで思わぬ効果が得られても不思議ではないだろう? なにせ、未知の感染病なんだから。
嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ、あり得ない、そんな訳はないっ!! 確かに人をゾンビ化させる効力があったとしても不思議ではないだろう。だがしかし、失われた臓器を蘇らせて死んだ人間を復活させるなどあり得ない。そんなこと、できるはずもないのだ。
邪念を振り払え。惑わされるな。考える必要は無い。考えたいのならこの《亡霊》を殺してからゆっくりと考えろ。今やるべきことは一つ。
この《亡霊》を、殺すだけだ。
「……御託はいい。これで、お前は死ぬんだ」
もう、と里奈はため息を吐き出す。
「だから死なないって。そんなに言うなら早くやればいいじゃん」
いいだろう、やってやるさ。これで計画の第一段階は始動するのだから。
祐一は、いつまでも燃え続けていたライターの火を、ついに枝に押し当てた。一瞬の間を置き、チッ、と乾いた音が鳴った刹那、枝は一気に燃え上がる。炎は隣の枝も巻き込んで規模を大きくして行く。やがてすべての枝に炎が灯った瞬間、そこに六角の星ができあがる。
わあ、綺麗だね、と里奈は言う。
炎は大きく燃え上がり、そして――それだけだった。何の変化も表さない。ただ星の形に沿って枝が燃えているだけ。焚き木と何一つ変わらない光景だった。
「……嘘だろ」
ここに来て発動しない、だと? ふざけるな、そんなはずはない。手順は完璧だった。魔方陣も正確に刻んだ、炎だって献上している。三人の生贄も一時間以内に半径一キロ以内で殺して奉げた。西崎は首を落としていたから生きているはずがない。坂下も心臓が完全に停止していた。拓真はすぐそこで倒れている。生死の判別はしてないが心臓を抜き取られているから即死のはずだ。では、なぜ、この魔方陣は発動しない――?
偽物だった。そういう考えが浮かび上がる。わかっていた。古の黒魔術など胡散臭い代物だって。でも、それに頼らないことにはどうしようもなかったのだ。最後の最後でそれに裏切られた。ここに来るまでに実験しなかった自分が馬鹿だった。殺される。殺すことができないのなら殺される。魔方陣が発動しないのなら自分の命は無い。嫌だ。まだ死ぬ訳にはいかない。まだ、こんなところで、死ぬ訳にはいかないんだ。だから、頼む、動け、動け動け動け、動けぇえ―――――――――――――っ!!
力一杯に握った拳を床に叩き付け、声にならない絶叫を上げたそのとき、腐った世界に光が満ちた。視線を上げて初めて、祐一はすべてを知った。
床に刻まれた魔方陣から光があふれ出ている。呆然とそれを見つめていると、何かが膝を着いている祐一の真横を一瞬で通り過ぎて炎の中に突っ込んで行く。合計で三つ。生贄は三人。つまりそれが拓真たちの魂だ。
魔方陣は、発動していた。三つの魂を取り込んだ魔方陣は光を増し、部屋中に一つの柱を打ち出した。それが天井で向きを変え、ゆっくりと漂い始める。
祐一の口から乾いた笑みが漏れ、狂った声が響き渡る。
「かは、はっ、あはっはぁああっ―――――――――――――っ!! ざまあねえぜ里奈っ! 死ね、くたばれ《亡霊》がっ!!」
光の柱が狙いが里奈へと向けられる。里奈はそれをぼーっと楽しいそうに見上げていた。
そして、光は牙を剥く。魔方陣から放たれている光は、真っ直ぐに里奈へと降り注いだ。目も開けていられない閃光が満ちる。
真っ白な光景の中で、祐一はいつまでも笑っている。やがて光が収まり、炎が消えたとき、床に刻んだ魔方陣はどこにもなかった。
すべてが過ぎ去ったとき、そこにあるのは、腐った天神村と、そして。
「……………………え……………………?」
「だから言ったじゃん、無理だって」
里奈だった。里奈は先ほどと何も変わらない姿勢で、何も変わらずにそこにいて、何も変わらずに祐一を見つめている。
里奈は笑いながらその一歩を踏み出す。
「これはね、ここに来たおじさんから聞いたんだ。あ、でももういないよ、あたしが殺しちゃったから。でね、あの病気はね、口から感染したときはお母さんやお父さんみたいになるの。でも体の中に直接感染しちゃうとあたしみたいな体になっちゃうんだって。この体はすごいよ。びっくりするくらい早く動けるし、手がね、包丁みたいになんでも切れるの。それに怪我しちゃってもすぐに治っちゃう。すごいでしょ?」
誉めて誉めて、と里奈は祐一の前にしゃがみ込む。
祐一は身動き一つできない。
「でも体はおっきくならないし、お腹も減らない。眠たくもならない。それって、すごく寂しいんだ。それにここって何もないでしょ、退屈で退屈で本当に嫌になっちゃう。だから来た人を殺しちゃうの。逃げる人を追い駆けるのは何だか鬼ごっこみたいでしょ? 捕まえた人をくちゃくちゃやるのはおままごとみたいでしょ? だからすっごく楽しいんだ。今日は三人のお兄さんが遊んでくれた。すっごく楽しかったよ。それもお兄ちゃんのおかげだね、ありがとう」
里奈の手がそっと伸びて来る。
振り払うことも逃げ出すこともできはしない。魔方陣に魂を持って行かれたのは、祐一だったのかもしれない。その瞳は何も見てはおらず、目の前の里奈をただただ放心しながら視界に収めている。
里奈は子供の笑みを見せる。
「だからね、最後の鬼ごっことおままごとをしよ? 小さい頃によく遊んでくれたよね、お兄ちゃん。あたしはね、お兄ちゃんが大好きだよ。あたしの体を食べても怒らないよ。だって、だからこそ、こうしてお兄ちゃんと、ここで、遊べるんだから」
里奈の瞳が輝く。猟奇の瞳だった。
実の兄に、実の妹が甘える口調でお願いをする。
「――ねえ、お兄ちゃん。殺して、いい、よね……?」
伸ばされた手が、ついに祐一の頬に触れた。
そして、その手が一瞬で腐った。祐一も、里奈も、そのことがまるで理解できなかった。
「……え?」
「……あ、」
祐一の頬に触れた里奈の手が、文字通り腐ったのだ。蒸発するかの如く蒸気が上がり、綺麗な色の肌は沸騰し、皮が肉と共にずり落ちる。血もクソもなかった。よくわからない物体と化した肉片は祐一の頬を伝って肩に落ち、床に気味の悪い音を立てて落下する。残ったのは、嘘のような白骨だけだった。子供が絵にでも書いたような白い骨。それが、祐一の頬に当てられている。
どちらも、状況を理解できなかった。
「……嘘、なんで……? だって、怪我は治って、でも、だってこれそんな嘘、うそだよぉっ、」
里奈が手を引き戻す。肘から上が骨だけと化した我が手を震える瞳で見つめる。
「やだ、やだやだやだ、やだぁあっ! どうして治んないのっ? やだ、やだよぉおおっ!」
瞳から涙を流しながら、今度はその場に里奈が膝を着く。
そして、そんな里奈を見ながら、祐一は狂気の笑みを宿らす。
――おれの、勝ちだ。そう思った。敗者は勝者に殺されるだけ。今のルールなどそれだけで十分。勝ったのはおれで、負けたのはお前。だからおれが里奈を殺し、里奈はおれに殺される。簡単だ。さあ、殺そう。
祐一は、震える里奈へとそっと手を伸ばし、その細い体を抱き寄せた。抱き締めればすぐに折れそうなその肩を、折るかのように強く強く抱き締める。事実、圧し折るつもりだった。
「くっくっくっ、あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!! おれの勝ちだ里奈っ!! さっさと殺さなかったお前が間抜けだっ!!」
里奈の体が、全体から腐り始まる。蒸気を立て、肌が沸騰し、みるみる内に体が崩壊して行く。
どうしてこうなったかは知ったことではない。黒魔術が効いたのか、それとも何か自然的なものなのか、もしくは純正里奈の血肉がこの体にあることによって今の里奈が拒絶反応を起こしているのか。どれか知ったことではない。が、それでもこれで里奈は殺せる。計画はもはや狂わないところまで来ている。《亡霊》は、これでこの世から消滅する。次は世界のクソ共に思い知らせてやる。
おれの、復讐劇の幕開けだ。
ジュゥウゥゥウウウゥゥウゥゥゥ。そんな音を立てて崩壊して行く里奈の体。体が溶け落ち、内蔵が溢れ出て、髪が根元から束で床に落ちる。里奈の面影など、もはや存在していなかった。
しかしそれでも、里奈は笑った。
「……お兄ちゃん……ありがとう」
「はっ、何に対してお礼だあ?」
祐一が予想していなかったことを、里奈は言った。
「――この地獄から、助け出してくれて、ありがとう」
「……なに?」
ぐちゃぐちゃの顔で、里奈はにっこりと笑う。声が変質し始めている。
「お兄ちゃんはここから出れないよ。病気が外に出て行っちゃわないように、装置があるから。あたしは【無限ふぃーるど】って呼んでる」
「無限フィールド?」
あの境界線のことか、と祐一は思う。だがあんなもの、所詮は、
待て。忘れていた。あれは、一体なんだ――? あのときは目の前の里奈に気を取られて忘れていた事実。あの境界線は一体なんだったのか。感染病を外に出させないための装置だ、と里奈は言った。だったら、ここから出るのは不可能ではないのか。現に里奈がここから出れなかったのが何よりの証拠なのではないか。おれは、最後の詰めを、怠ったというのか。
「あのね、お兄ちゃん。あたしからの、最初で最期のプレゼントだよ。……受け取ってね」
体の中に何かが入って来る。視線を移すと、すでに白骨と化している里奈の腕が、祐一の体の中にめり込んで来ていた。その光景に頭の中が真っ白になった。身動きできない。口からクソみたいな呻き声が溢れた。
上目づかいに祐一を見つめ、里奈は続ける。
「ここにはね、もう病気はないの。でも、あたしの体の中にだけあるの。あたしだけがお兄ちゃんに渡せるプレゼント。お兄ちゃんは誰かに渡せないから注意してね……」
白骨の指が、祐一の体内にある心臓に辿り着く。何かがそれに触れる。そしてすぐに白骨の腕は祐一の体から引き抜かれた。刹那、一瞬でそこが完治する。里奈と同じような蒸気を立て、すべてが収まったそこには傷跡らしきものはなかった。
そして、抱き締めていた里奈の体は、骨だけになっている。その骨が最期の声を発する。
――大好きだよお兄ちゃん。地獄を交代してくれてありがとう。
白骨を投げ捨てる。必死に立ち上がろうとして尻餅を着く。目に付いたナイフを拾い上げ、立ち上がって一目散に走り出す。廃墟を出て、腐った村を行く。木々の枯れた森に入り、出口を求めて直走る。とんでもない速さだった。自分の足とは思えないほど高速の走り。自転車の比ではない。車のアクセル全開に匹敵するほどの速さだった。しかしそのスピードで行けども行けども、あるのは同じ光景だけ。何十分走っても光景は何一つ変わらず、やっと足を止め、祐一は背後を振り返った。
そこには、天神村がある。自分は、毛ほども進んではいない。手に持っていたナイフの重みを思い出す。何の躊躇いもなく、祐一はその切先を自分の心臓に突き刺した。激痛が走り、引っこ抜いた。確かに心臓を貫いたはずなのに自分はぴんぴんしている。傷口だって無い。
――地獄を交代してくれてありがとう。
その意味を、祐一は、やっと理解した。
その場に膝を着き、腐った村に向かって吼える。
間違いではなかった。その通りだった。
この世界は、腐っている――。
「エピローグ」
【天神村】という語句でWWWに検索をかけると、2048件ものHPが一瞬でヒットする。
その中の一つを開いてみる。どこにでもありそうな、ただのBBSだった。
『bP50 怪奇・天神村に住む白髪の男』『bP55 今度は女の子じゃなくて男らしいぜ』『bP68 ネットで噂あるけどどれもアヤフヤだよな』『bP73 そこに足を踏み入れるとナイフを持った男に八つ裂きにされるらしい』『bQ04 近くの森の中で猫の死体に紛れて白骨化した死体が発見された』『bQ08 ナイフを持った男の知り合いだという人間が多数いる模様』『bQ16 ぎゃっはっはっはありえねえってそんな男! お前らまだやってんの!?』『bQ22 狂気に歪んだ瞳をする狂った男らしい』『bQ26 未確認情報だが噂では仲間四人で天神村に入ってその男が皆殺しにした』『bQ38 嘘に決まってんじゃん。てゆーか216のヤツ邪魔、またお前かよいい加減消えろ』『bQ50 でも本当にいたら楽しくねえ?』『bQ73 今回は普通の数字だな。それでは本題へ。2005年八月三十一日、四人の男達が天神村に調査に行くと言い残して行くのをタクシーの運転手が目撃兼証言。2005年9月25日、三人の男は戻って来たが一人だけ天神村で行方不明になった。それからその男は度々天神村で目撃されることになる。真っ白の髪の男がナイフを持って何事かをつぶやきながら徘徊している、というのが一番定番。当時はニュースで行方不明としてそれなにり騒がれていたが、いつの間にか騒ぎは収まり、それどころか誰もそのことについて語らなくなった。憶測は飛び交うが、最も可能性があるのが、引っ張り返してきて悪いがまた【世界が抹消した】のだろう。っと、これまた簡単に言えば都市伝説みないなものなんだろうけど』『bQ74 bQ73のヤツ、だから長いしウザイって。空気読めよ、別に答え求めてる訳じゃねえっつってんてんだろ? てゆーかお前いらないって』
◎
忠告など誰がするか。
引き寄せてやる。引き込んでやる。
射程距離に入ったら一発だ。
首を一線に裂いて頭をカチ割る。脳みそ引き摺り出して踏み砕く。
今ならお前の気持ちがわかる。こりゃあ楽しい。病み付きになるぜ。
ここは最高だ。放っておいても噂を聞きつけてクソ共が次から次へとやってきやがる。
世界中のクソ共を殺してやれないのが唯一の心残りだが仕方が無い。
おれはここで永遠に生き続ける。なにせこの中にいればおれは最強だ。
勝てるヤツなんていやしねえ。銃でもおれを殺せない。
政府の野郎共、聞いてるか、見てるか。
お前たちは、一体どこまでおれの存在を隠し通せる?
楽しませてもらうぜ、なあオイ。
さあ、次の獲物は誰だ?
早く来い。
――ナア?
殺サセロテクレ。
殺サセロ。殺サセロ。殺サセロ。
オレニ、オ前ヲ、殺サセテクレ。
――なあ?
おれに、殺されてくれや。
そう言って、白髪のナイフを持った男は笑っている。
-
2004/10/12(Tue)13:24:32 公開 /
神夜
■この作品の著作権は
神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
果たして、本当に腐っているのは何なのだろう――?
みたいなセリフを物語のラストに入れようとしたのですが微妙でしたのでここで(笑
さて、ここまでお付き合いして読んでくれた皆様へ最大級の感謝を。何分初めてのジャンルなだけに不手際が多く、まとめ切れない感が大有りですが、一人でも楽しいと思ってくれたのならそれだけで満足です。
ただ、『その四』もこの最終章みたいに結構アヤフヤで書いた方が良かったのかなぁと思うのが心残りでしょうか。が、まあやっちゃったもんは仕方ないです、これでいいです、うん(マテコラ ちなみに、夜行地球さんの突っ込みを頂いて初めて、そうだ無人島があったか!?と気づいたアホです。情けないなぁ(苦笑
読んでくれた卍丸さん、夜行地球さん、バニラダヌキさん、樂大和さん、ゅぇさん、誠にありがとうございました。ラスト、どうだったでしょうか? 楽しんでいただけましたでしょうか? 穴があるのは自分の技量の無さが原因です、すいません。
しかし新たなジャンルに挑戦する、という難しさを改めて実感し、こういうのはやはり自分には向いていないのではないかと悩む神夜です。と言う訳で、次回からは自分に合った物語を書き始めるつもりです。テーマは【異能者バトルこてこて恋愛モノ】、ほのぼのですね。ちなみにもうしばらくはショート家業お休みです。ネタがありません(笑
それでは、また別の物語でお逢いできることを願い、読んでくれて誠にありがとうございました。
(誤字誤字up)