- 『プレイボール』 作者:明太子 / 未分類 未分類
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全角7107文字
容量14214 bytes
原稿用紙約19.75枚
小さな砂浜を軽快に駆けていた幼女が勢いあまって派手に転倒して顔から落ち、火がついたように泣き出した。
俺だってあんなふうに泣きたかった――正彦はその姿を見ていたら不意に涙があふれそうになって、唇を噛んでそれを堪えた。歯形にぴたりとはまる、ニコチャンマークの口のような唇の下の擦り傷がその時歯に触れてぴりっと刺激が走り、その痛みを紛らわすかのように彼は自転車のスピードをあげた。
今日は今年一番の暑さになるだろうと朝テレビで言っていた。正午過ぎの現在、彼にとってもすでに今年経験したことのないような体感温度に達している。
彼は野球のバットが入ったバッグをたすきがけにして背負い、サドルから尻を浮かせて、海沿いの道を錆び付いた自転車で駆け抜けながら殺人的な日差しを全身に浴びていた。自転車の前カゴには、家の防災袋を漁っていて見つけた古い携帯ラジオが入っていて、歩道と車道の切れ目のちょっとした段差を通るたびにカタンカタンとカゴの中で飛び跳ねた。
小さな海岸を通り過ぎて道が内陸に向かうと、今度は左手に一面の松林が広がり、その松林と道とを隔てるわずかな幅の芝生の上で、小柄な老人が芝刈り機を操縦している姿が見えた。何気なくその老人に目を奪われていると、刈り取られていくつものきれいな山型に積まれていた芝の香りが風に運ばれて鼻をつく。
その香りが脳髄を刺激して、正彦は少しだけ頭を動かして空を見上げた。
ツーアウト満塁。決して逆光ではなかった。何が起こったのか、正彦でさえもわからなかった。とにかく球の行方を追って空を見上げていた中堅手は突如ボールを見失い、この場面でエラーをすることの重大さが頭の片隅を過って己をも見失った。
ここから逃げ出す方法など考え付く間もなく、敵味方入れ乱れての歓声を全てかき消すかのように、ボールが柔らかい自然芝を叩く鈍い音を立てて彼の背後数メートルの位置に落下した。その瞬間彼は、ボールが自分に直撃することを恐れて頭を抱えていたように記憶している。そういう行動をとった精神よりも、ポーズそのものを思い出して恥ずかしさが甦った。
走者一掃、ゲーム終盤での逆転劇だった。ここからさらに逆転しかえすようなドラマは用意されることなく、あと一歩のところで全国大会への出場を逃し、強肩で外野守備の名手として鳴らした彼の中学時代最後の試合は終わった。
試合後、ベンチで一人うなだれる彼に誰も声をかけようとせず、そそくさと片づけを済ませてその場を離れていく中、その試合でピッチャーを務めていた同級の武内だけが近寄ってきて「お前今日三打点あげたじゃないか。チャラだよ、チャラ」と言って彼の肩の上に手を置いた。
正彦はその言葉に対して何の反応も示さず、ボールが消えた空をずっと眺めていた。唇を噛んで涙を堪えるのが精一杯だった。
正彦は、消えたボールにいつまでも未練を残しながら頭を下げて前方に視線を戻し、松林を通り過ぎた。
しばらく道なりに進んで大きな川に差し掛かると、彼は橋の手前で右折して、上流へ向かう川沿いの土手を走った。遠方に次の橋が見える。視界に入ったその橋が彼に与えた動揺は思ったよりも強烈で、一瞬自転車のコントロールを失いかけるほどだった。
あの試合を最後に野球をきっぱり諦めておけばよかったのかもしれない、ということは時々考える。というか、頭からこびりついて離れない。いつまで経っても消えないのは、それがもう変えることのできない過去だからだ、ということもわかっている。しかしいくら分析ができても、唇を噛んで何もかも体内に飲み込んできた彼は、それを消化する術を知らなかった。
特定の場所と強烈に結びついた思い出は、往々にして残酷なものでしかない。彼は、本来思い出したくもない過去を敢えて思い出すために自転車を走らせる。
高校では鳴り物入りで野球部に入部し、期待の一年生として迎えられていた初日、ウォームアップでキャッチボールを行っている時のことだった。はじめは二メートル程度の距離からボールを投げ合い、肩を慣らしながら徐々に間隔を広げていく。五メートル程度開いた時に正彦は自分の異変にようやく気づいた。
ボールが相手まで届かない。普通に相手に届くように投げたつもりが、相手の遥か手前でポトリと落ちてしまうのだ。同じ高校、同じ野球部に進学して、その時キャッチボールの相手をしていた武内は彼の実力を誰よりも知っており、何が起こったのかと訝しげな目つきで彼を眺めた。その度に正彦は肩をグルグル回して首を傾げ、照れを隠すための苦笑いをしてみせたが、何度投げてみても結果は同じだった。
なんだなんだどうした、と初日は自分に首を傾げる程度だったが、二日目も状況は何ら好転せず、正彦は目の前が徐々に白くなっていくような絶望感に満たされはじめた。
当初は、正彦に期待していた監督も先輩も楽観的且つ同情的だった。何緊張してるんだよ、もっとリラックスしろよ、なんて温かい言葉もかけてもらった。しかし彼はそんな視線を感じるほどに焦り、毎日部活が終わると独りで川原に寄って、十メートルくらいの距離をとって橋桁に向かってボールを投げた。
中学時代に強肩で鳴らした彼が、高校に入って『ボールを投げる練習』だ。こんな姿を誰かに見せられるわけがなかった。彼は常に周囲を警戒し、知った顔がないことを確認してからボールを投げた。
しかし何度やっても、ボールは橋桁に届かない。肩が痛むわけでもないし、違和感があるわけでもない。それは「投げ方を忘れた」としか説明しようのない、原因不明の病気のようなものだった。
やがて皆が彼を見る目も変わってきた。冷めた視線が、あいつ実はヘタクソなんじゃないかという声となって襲い掛かってくる。監督も「おい、お前バカにしてんのか?」などと容赦なく罵声を浴びせかけるようになった。己の姿を客観的に見れば何も言い返すことができなかった。武内だけは変わらず「伸び伸びやってれば元に戻るよ。気にすんなって」といつもと変わらぬ言葉をかけ続けたが、彼の呑気な笑顔はいつしか正彦には腹立たしいものになっていて、そんな感情を起こす自分にはもっと腹が立って、正彦はまた唇を噛んだ。
結局、一月経っても何の改善も見られなかった彼は、見えない圧力に負けて半ば強制的に野球部を辞めることになった。
辞めた当日、グラウンドを去る自分を追う武内の哀れむような視線を思い出して、自暴自棄になりそうになるのを必死に堪えていた正彦は、学校の帰り道、ふらふらと導かれるようにいつもの川原の橋の下に立った。
今さら無駄なことであるのはわかっていたが、彼はカバンからグローブとボールを取り出し、橋桁に向かって試しに一球投げてみた。
ボールは矢となって一直線に標的を叩き、勢い良く跳ね返った。
彼は、一瞬何が起こったのかよくわからなかったが、数秒遅れて状況を理解すると、
「……ああ、なるほど」
と声に出した。
――俺は野球をやっちゃいけないのね。
それに続いて心の中で呟いた言葉は今でも彼の記憶の中に鮮明に残っていた。
彼は、跳ね返って自分の足元にまで転がってきたボールをいつまでも拾おうとせず、代わりに壁に向かってグローブを思い切り投げつけた。グローブも、ボールと寸分違わぬ軌跡を描いて橋桁に当たったが、それは跳ね返ることなくその場に力なく落下した。
彼はありったけの力で、橋桁に亀裂が入るくらいに叫んでやりたかったが、唇を噛んで堪えた。
橋を渡り、そのまま直進していくと交通量の多い国道にぶつかる。正彦は、これだけ暑いというのにタオルを持ってこなかったのは迂闊だったと今になって気付いた。ベトついた鬱陶しい汗は歓迎だが、さすがに目に入るようなことがあれば色々と支障が出てくる。今は風を切って走っているから良いものの、ひとたび止まれば汗が噴き出て止まらなくなることだろう。
国道を右折した。平日の昼間なので人通りは少ないが、曲がってすぐに前を歩く二十歳前後の女性二人組に道を阻まれた。二人組は何やらおしゃべりをしながら、これ以下のスピードは出ないのではと思わせるほどゆっくりした足取りで、歩道を塞ぐようにして横並びに歩いていた。
道を塞いでダラダラ歩いている奴はその場で殺していいという法律がなぜないのか、と正彦は二人の後頭部を睨みつけながら、いつもより親指に力をこめてベルを鳴らした。ベルはその力に比例して、彼の怒りを乗せていつもより大きな音を出した。
二人組は、すぐ背後でベルが鳴ったというのにやたら鷹揚な動きで振り返ると、汚いものでも見るような目つきで正彦に一瞥をくれてそれぞれ道の両端に寄った。
いいねいいね、もっと俺を怒らせてくれ、と彼女たちの一瞥にえもいわれぬ快感をおぼえ、スペースが空いた二人の間を切り裂くように突っ切った彼は、振り返って二人に向かって意味ありげな笑みを投げかけてから、怒りの残滓を前方の景色に向けてあたりを睥睨した。
前方にファミレスの看板が目に入る。専用駐車場の敷地を囲むようにして、この位置から辛うじて読める『こだわり冷やし中華』と書かれた同じ幟(のぼり)が何本も立てられているのが遠目に映えた。
美樹とすれ違った店だった。
ボルテージが徐々に上がっていく。芝といい橋といい二人組といい、この昂りは期待以上だった。
クラスメイトが集団デートの話を持ち込んできた。主催者であるその友人にお目当ての女の子がいて、正彦はその子と遊ぶためのカモフラージュとして呼ばれたものだったが、副次的な目的としては野球を断念して気落ちしている正彦を励ますという名目もあった。
正彦に声をかけたのは、同じくカモフラージュ要員として声をかけられていた野球部の一年生エース・武内だった。
相手方のメンバーは当日まで知らされなかったが、その主催者お目当ての女の子が美樹と仲が良いということは知っていたので、彼女が来るのは間違いないと確信して、彼は事前に武内に打ち明けて協力してくれるよう持ちかけた。武内は、正彦の真剣な眼に屈したのか、美樹とは距離を置いて、誰かも分からない第三の女の子の相手をすることを快く了承した。
当日、待ち合わせ場所に着くなり武内は持ち前の明るさで、見た目がぱっとしないその第三の女の子の横についてしきりに話しかけた。正彦も武内に触発されて、同じようになれなれしく美樹に話しかけてみたが、美樹はひきつった笑顔しか返さなかった。その時は、まだ一日は始まったばかりだし、あまり慣れないことをするものでないな、という程度で正彦もあまり意に介さなかった。
しかし目的地であった遊園地に着いてからも事態は好転しなかった。二人乗りの乗り物などでは自ずと組み合わせが決まり、正彦は当然美樹とペアを組んで乗ったのだが、彼女の心がこちらに向いていないということがはっきりとわかってきた。それでも、まだ物理的な位置関係上は独り占めしているという状況が希望をつないだ。
そして遊園地を出、予定通りカラオケボックスに入ってから正彦は完全に叩きのめされた。美樹は、正彦と武内の間の席に陣取ったが、武内の隣を美樹が進んで確保してその隣に正彦が着いた、という構図だったから、『隣』といっても奥と手前では意味が全然違っていた。そして彼女は、正彦の話には適当に相槌を打ってあしらうようにして、身体は終始武内の方に向け、しきりに彼に話しかけるタイミングを見計らった。彼女の視線を痛いほど感じていた武内は、美樹の話にわざわざ迷惑そうな顔まで作って、ずっと第三の女の子に気があるそぶりを見せ、美樹が見ている目の前でその彼女と携帯アドレスまで交換した。
武内がその日、正彦が望んでいた以上の“完璧な仕事をした”というのは、誰よりも正彦がその眼で見ていたことだ。正彦にとって、了見が狭いと言われようとも、自分の恋は成就しそうにないが美樹の恋も然り、ということだけが失意の中での救いだった。
その数週間後、友達とダラダラ休日を過ごす目的で入ったファミレスの出入口で美樹とすれ違った。正彦の姿を認めた彼女は顔面蒼白になって、唇を震わせながら彼に釘付けになった。その表情を読む余裕もなかった正彦は胸を高鳴らせて、どうやって声をかけようか、なんて迷っているうちに、美樹が一人でこのような店に来るはずがないということにやがて気づき、連れの姿を探した。
それは彼女のすぐ後ろにいた。
連れの男――武内はこちらの存在に気づかずに、何食わぬ顔して美樹の肩に手を置き、何やら声をかけながら店を出て行った。美樹は心此処にあらずといった風情で、武内が話しかけるのも聞こえていないようだった。
「あれ? 今の野球部のエースじゃね?」
連れ立って来ていた正彦の友人があとから店に入ってきて、今しがた店を出て行った武内の後ろ姿と正彦の顔を交互に見やるように首を動かした。正彦はそれには返事をせずに唇を噛んでいた。返事をしたらどんな声になるか自分でも恐ろしくて、声を出すことができなかった。
――どこまで連鎖するんだ、これは。
週明けの放課後、正彦は校門の前で武内を待ち伏せた。幸いにも彼は一人で出てきた。
「おい」
「ん? おう、どした」
何も気づいていない武内は、正彦の姿を認めて呑気に手を挙げる。
「俺おとといさ、文也たちと二丁目のガストに行ったのよ」
正彦が間髪入れずに言うと武内の顔から瞬時に血の気がひいた。これ以上の説明は不要のようだった。武内の顔の鮮やかな変色ぶりを見ていたら、サディスティックな感情が一気に湧き出て、正彦は武内の胸ぐらを掴んで引き上げた。
このまま手首を上向きにひねって肩越しに投げれば、ホームベースからスタンドまで届くような気さえした。
「ごめんごめん。痛いって。本当にごめん……でも、向こうから言ってきたんだよ」
武内は、正彦に胸ぐらを掴まれるに任せたままそう言った。
無抵抗の男が放った、無抵抗であるが故の強烈な一撃。
そんなことは分かっていた――コイツは悪くない。悪くないんだけど。
結局正彦は湧き出た感情を再び飲み込んで、武内を殴らずに掴んでいた服を離し、唇を噛みながら黙ってその場を立ち去った。背後から遠慮がちに呼び止める武内の声だけが虚しく心に響いた。
彼が唇の下から出血していることに気付いたのは家に着いてからのことだった。
正彦はファミレスの前で自転車を止め、サドルにまたがった姿勢のまま、止まった途端に額に噴き出した汗を拭い、はめていた腕時計を見た。幟の布地が風を受けて一斉にはためく音が耳に心地良い。
そろそろだ。
おおよその時間は計算していたものの、あまりに絶妙のタイミングに、彼は偶然以外の何物かを感じずにはいられなかった。
今まで生きていて、これほど興奮したことは野球の試合でもなかったな、と彼は思った。燃料補給は終わった。これからはそれを使う番だ。
今一度『運命の総量説』というものを考えてみる。もう何度も試みたことだった。即ち、人間誰しも持っている運の量は同じであり、今は将来大きな幸運を掴むために不幸を溜め込む期間なのだ、不幸を溜めれば溜めるほど先には大きな幸運が待っている、世の中はそのようにできている、と。
その考えは思ったとおり、気休めになるどころか興奮のピークにある彼の神経を逆撫でした。もう引き返そうなんて思わない。彼はそんな不確かな未来よりも、今この瞬間の怒りの捌け口を求めた。
じっと見つめていた腕時計の秒針と長針が真上で揃う。
彼は最後の起爆剤として、カゴの中からラジオを取り出して電源を入れた。
午後一時。彼が今まで蓄積してきた我慢が臨界点を超える。
今の今までバカ正直に唇を噛んで我慢を重ねてきたことが全てこの時のためなのだったとしたら、それこそ運命だと思うしかない。彼は肩に担いでいたバッグを降ろし、金属バットを取り出して空になったバッグをカゴの中に叩きつけた。
家を出る前に周波数をあわせておいたラジオからは実況の声が流れる。実況の後ろから歓声も微かに聞こえる。彼は一瞬、美樹の歓声を聞き分けられたような気がした。
太陽は容赦なく照りつけ、気温はぐんぐん上昇しているのが肌身にもわかる。体感温度は四十度近い。
しかし、彼がかつて目指した甲子園のマウンド上はもっと暑いだろう。
武内をはじめ、元チームメイトたちが一列に並んで相手校の選手に向かって脱帽し、深々と頭を下げる姿を思い浮かべてみた。応援バスを連ねて移動した、美樹を含めた全校生徒がこれから甲子園初出場の母校への応援に酔いしれることだろう。我が校の生徒で今甲子園にいないのは、無念の病欠者と登校拒否児と自分くらいのものであるに違いない。
一連のその想像はウイルスのように脳を侵食し、狂気の世界へ押しやろうとする。彼はその力に身を任せた。
自転車の向きを反転させてペダルを踏み込むと、自転車は彼の意を受けてゆっくりと加速していった。
カゴの中のラジオからは試合開始のサイレンが鳴り響いて、武内が第一球を投げたことを実況が伝える。
後方に流れて行く景色の真ん中に先ほどの二人組を捉え、彼はペダルを踏む足に力を込めた。世界が自分中心に動きはじめたことに心が満たされてゆく。
――武内、頑張れよ。
彼は唇の下の擦り傷をぺろりと舐め、大きくバットを振りあげた。
<了>
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2004/09/26(Sun)13:50:50 公開 /
明太子
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■作者からのメッセージ
忙しさにかまけて怠けていたら完全に時期を逸しました(バカ)。もう秋か……。
なんだか後ろ向きな話になってしまいましたが、
なんでも批評・感想いただければ幸甚です。よろしくお願いします。