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『呪詛(加筆』 作者:蘇芳 / 未分類 未分類
全角3321文字
容量6642 bytes
原稿用紙約11枚
 
 酷い臭いが満ちていた。
床には腐敗した病院食らしきものがブチ撒けられ、形容し難いほどの異臭を発し、目を背けたくなる様を呈していた。
ベッドは吐瀉物で汚れ、壁には五本の細い血痕が、幾何学的な紋様のように刻まれていた。
壁を引っ掻いたのだろうか、所々の壁紙がめくれている。壁紙のめくれた部分に血が染み込み、まるで肉片が付いてるような錯覚さえも覚える。
ベッドに横たわる人物は、警察が犯人の拘束に用いる、拘束服を着せられて、ブツブツと何かを呟いている。
内容は聞き取れないが、それは不気味な物であった。
端的に聞き取り、自分で補完してみると、それは「嫌だ」と呟いているようだった。まるで古の術者が、相手を呪わんと唱えつづける呪詛。
そのような響きが、一拍途切れることなく続いている。
げっそりと削げ落ちた頬に、充血した紅い眼。そして目と対になるように、蒼白い肌。
筋肉が弛緩しているのか、口はだらしなく開いたままで、唾液がだらだらと垂れている。
切っていない、いや、切れないであろう頭髪は、かつて大ヒットを記録したホラー映画の人物を髣髴とさせる、気味の悪いものだった。
これが自分と同じ構造をもつ人間とは、俄かには信じ難い。
その鼻をつく腐臭と、呪詛の言葉。
それに耐え切れず、私は病室を辞した。


長いモルタルの床を歩き、院長室へと向かう。
途中すれ違った通院患者が、何か怯えたような表情を私に向け、目線を逸らした。
無理もあるまいな、そう思う。
看護士や入院患者、他の医師でさえも、私の顔を直視する事は無い。原因は、私の顔にあるのだろう。
私の顔には、大きな火傷の痕がある。顎から右の頬までを灼く、大きな火傷だ。
その部分だけ黒ずみ、醜く爛れている。
髪は染めていないにも関わらず、ほとんど白に近い。
恐怖に染まれば、一夜にして髪が白くなるという話がある。私の場合は生まれた時から白髪だった。自分で調べてみれば、単純に髪のメラニン色素が少ないだけだった。
異様な風貌に、ほとんどの人間が私を恐れていた。


無機質な扉の前に立ち、身なりを整える。
扉の上には明朝体で【院長室】と書かれたプレートが貼ってあり、それの影響で妙な威圧感とでもいう、圧迫感を示していた。
身内とはいえ院内での最高責任者に会うのだ、それなりに礼儀は見せないといけない。
ネクタイを正して、ドアを二回叩く。
 一拍置いて、扉が開けられる。
「あ、伊織さん、どうぞ」
 秘書の貴枝だった、それなりの美女である。この人も身内で、私にとっては従姉弟にあたる。
母方の従姉弟で、幼少の頃から何かと世話になっており、未だに頭の上がらない人物の一人でもある。
その貴枝に軽く頭を下げて、院長室の中に入る。
事務机に本棚。本棚の中には医学書やファイル、事典などが詰められているが、まるで今の状態が常とでも言わんばかりに、使われた形跡は無い。
ただ単に病院という場所だから、インテリアの一つとして置いてあるのだろう。
そして観葉植物が部屋の隅に一つ。青々とした針葉を広げるドラセナの幼木だ。
事務机の前には来客用のソファが一対に置かれ、その間にガラステーブルが置かれている。
足元は毛足の短い、赤茶けた色の絨毯が敷かれている。
この部屋の主、院長である高瀬源三は、事務机の上に置かれた書類に目を通していた。
 眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだった。
「院長、少しお話があるのですが…」
 遠慮がちに話を持ち出す。誰だって熱心に作業に打ち込んでいる人に話し掛けるときは、遠慮がちになるだろう。
 私の場合、原因がそれだけでは無いのだが。
「ああ、掛けて待っていてくれ」
 書類からは目を離さず、軽く手を挙げて、そう促した。
とりあえず言われた通りに、来客用のソファに腰掛ける。
おそらくあの書類は、昨日入院した参院議員の物だろう。
なにかと黒い噂が絶えないだけに、参院も慎重になっているのだろうか。このような場所まで、政治絡みの問題を持ってきて欲しくは無いのだが。
ガラステーブルには白いレースのクロスが敷かれ、丁度中心に位置するところに、灰皿が置かれている。
水晶か、ガラスか。とりあえず透明な灰皿に、吸殻は入っていない。
磨き上げられ、タールのこびり付きさえも見えない。
 煙草を吸おうかと思ったが、院長の手前でもあり、この灰皿を見てから、吸うのが悪いような気がしてきた。
「……」
 懐に入れかけた手を収め、両膝の上に置く。
「どうぞ」
 貴枝の声と共に、テーブルの上にコーヒーが置かれる。
 砂糖とミルクはついていない。甘いコーヒーが嫌いな事は、理解してくれているようだった。
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げ、コーヒーを一口啜る。
苦味と酸味、香ばしい香りが口の中に広がり、鼻へと抜けていく。
おそらく豆から出しているのだろう、私程度ならば、インスタントでも構わないのだが。
それを口には出さず、ちびちびとコーヒーを啜った。

「待たせたな」
 そう言って源三が、ソファに腰掛ける。
 間を置かずしてコーヒーが置かれる。よく気付く女性だ、と思う。
「突然お邪魔してすみません、あの患者なのですが…」
 源三が煙草を咥えると、貴枝が火をつける。
 源三の煙草、アークロイヤルの甘い香りが、鼻腔を擽った。
「ああ、私もお前を呼ぼうと思っていてな」
 そう言って煙草を咥え、煙を吸い込む。
「あの患者だがな、カルテは見たか?」
「いえ…精神病というのは分かりましたが……」
 カルテは見ていないが、あの様子を見る限りでは精神病だろう。
精神遅滞の延長か、それかPTSDだろう。
 併発して精神分裂病を引き起こしている可能性が高い。
「精神病、か…それだったら楽だろうな」
 言葉の意を汲み取れずにいると、煙草を灰皿に押し付けた源三が、重々しい声で続ける。
「あの患者は、こちらに移る前の病院でも、あの状態だった。無論、精神鑑定はできない。一度だが点滴を変えようとした看護婦が、ボールペンで腹部を刺されている。診察のしようが無いので、原因は一切不明。分かっているのは、暴力傾向と精神不安定のみ。そこでこちらに回されて来たのだが…正直なところ、うちでも持て余していてな、そこで伊織医師に頼みがある」
 嫌な予感がした。それが見事な形で的中するとは、思ってもみなかったが。
 源三がコーヒーを一口啜り、私の方を見る。
「人物の特定は出来ている、故郷は三次だ。三次へ行って、原因を探って来い。これは業務命令だ」
 釈然としなかった。何故ただの医師である自分が、病院にとっての業務外のことまでしないといけないのか。
そこまで一人の患者に拘るのは何故か。
 他にも、色々と思うところはあった。
「……はい」
 だが業務命令、逆らえば病院を追いやられるだろう。それに一介の医師に、院長に逆らうような力は無い。
それに断る為の、明確な理由というものが存在しない。ただ「嫌だから」という理由では、世間は渡っていけない。
嫌な事でも受け入れ、従うのが世渡りのルールである。
「分かりました…」
 不承不承にも承諾した。これが災難の、危険の始まりであるとも知らずに。
「よろしい、詳細は貴枝を通じて連絡する、それまでは院内で待機していてくれ」
「…はい、失礼させて頂きます」
 それだけ言って席を立ち、ドアノブに手を掛ける。
出て行く間際に、院長と貴枝に軽く頭下げ、そしてまたモルタルの廊下を歩いていった。


伊織が退室した院長室では、源三が頭を抱えていた。
 その顔は、酷く思い悩んでいる。そして後悔の色が強い。
「まさか、身内を使う羽目になるとはな……」
 オールバックで固めた髪に、両の五指を食い込ませている。
今にも頭皮を突き破り、血が流れ出しそうなほどに。
肩と手が小刻みに震えている。力が篭もり過ぎているのか、それとも恐怖しているのか。
その真意は定かでは無い。ただ源三は後悔していた。
小刻みに震える源三の肩に、貴枝の手が置かれる。
その顔には、悲しみの色が強い。
源三が、今にも泣き出しそうな童の表情を浮かべて、その手に自分の手を重ねる。
 院長室には、二人の嗚咽が響いていた。
2004/09/02(Thu)00:24:28 公開 / 蘇芳
■この作品の著作権は蘇芳さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
拝啓
残暑の尾を引く中、皆様いかがお過ごしでしょうか。この度は残暑を吹き飛ばそうと、テクモより発売された『零〜紅い蝶〜』をプレイしておりますが、それに突き動かされて、サスペンスホラーを書いてみようかと思いました。例の如くに更新が止まる事もあるでしょうが、続くところまではお付き合いくだされば、感謝の極みにございます。
敬具

投稿してから思ったこと、
「何だこれ、ひどっ…」
ちいとばかし加筆してきました。申し訳ない。
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