- 『テイク・ア・ルック・アラウンド 第二章まで』 作者:RAY SMITH / 未分類 未分類
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全角12055文字
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原稿用紙約33.55枚
1 柏木裕太
煙草の煙は光の加減によって本当に紫色に見えた。火を付ける手が震えている。最初の一服を吸い込むと、すぐに頭がくらくらしはじめた。カラスの声が聞こえてくる。何羽ものカラスの声だ。信じられない。先ほどから心臓は不自然な鼓動をくり返している。柏木裕太は信じがたい事態に巻き込まれていた。広島県の南部、山口県との境にあるサービスエリア。裕太は父の帰郷に帯同していた。目的地まで約五十キロのところ、ここいらで一息つくかと父はサービスエリアへと車を入れた(裕太はその場面、予兆なものがあったかどうか思い出そうとしたが、まるで無理だった)。
車から降りてトイレに行き、熱く燃える陽光のなか、レストランや土産もの屋のある建物へと歩いていった。自動ドアをすり抜け、冷房の効いた空間に出る。はじめてカラスの声を聞いたのはそのときだ。頭の後ろのほうから聞こえた。一羽でも、数十羽なんてものじゃない、カラスの声は壁だった。壁のように迫ってきた。
呆然とした。自動ドアの向こう側、頭の側面を押さえてわめいている男がいる。薄いブルーのシャツが血に染まっていた。空から握りこぶし大の石が降ってきて――駐車場から建物までは、階段があって市松模様に色つきの石灰石を敷き詰められた道があるが――男の手前の地面に落下し、粉々に砕けた。コンクリートブロックらしき白いかけらも落ちてきた(野球のボールぐらいの大きさだった)。また新しい石が暴力映画の銃撃シーンのように緩慢な速度で落下してきて、やがて髪の長い女の額をかち割った。
血だ――現実に出血している人間を目撃して、ありゃ血じゃないかと思ったのはいつぶりのことだろうと場違いに考えた。
多くの小石が車のフロントガラスを砕き、ボンネットを凹まし、子供を泣かせ、一緒に落ちてきた石のかけらとぶつかって砕けた。
救急車呼ばないと――思考の回転にいつもより以上の時間を要した。上からものが落下してきたとき、人間は本能的に頭をかばってその場にしゃがみこむだけで、動けなくなってしまうものだ。いまや周囲の時間は止まっていた。ぴくりともしない。冷たい静寂。なにもない強い静寂だ。動いているのは自分ひとりだけ、他はみな止まっている。死んだように口が半開きで、視線は虚空を彷徨っている人々。みんななにをしているんだろう。事実はまったくの逆だった。裕太だけ動いていなかったのだ。
左手でハーフパンツのポケットから携帯電話をとり出した。無意識だった。心が砕け散ったような女の悲鳴が聞こえる。カラスの声。窓ガラスの割れる音がひっきりなしにして、これじゃあ救急車なんか呼んでも無駄なんじゃないかと思った。むしろどうだっていい。
駐車場はまるでサバイバルホラーゲームの様相だった。複数のカラスが家族連れを襲っている。止まった車の車内に石が投げ込まれている。ボンネットに小さな炎が立っていて、今にも爆発炎上しそうだ。怯えた表情で車から出てくる子供たちに、すでに頭に傷を負った母親らしき女が「頭をさげなさい!」と叫んでいる。
つぎの瞬間、男の子は頭に落石を受けた。裕太は自分の口が開いてしまったのに気が付かない。男の子はそのままの勢いで倒れ、泣き疲れたように地面にぐったりした。
ぱっと血しぶきが飛び、母親がわけもわからない言葉を叫んだ。
もう死んだんだ。救急車呼んでも意味ない。
裕太もゲームをやったことがあった(二度もクリアした)が、その自動ドアから見える光景は、バイオハザードよりもさらにたちの悪い、むかつく光景に思えた。ゲームには病原菌で凶暴化したカラスに子供が襲撃を受けるシーンは出てこない(子供は死なない)。カラスはあんなに多くない。ゲームでは群れってほどでもない――ほんの二、三羽だ。それもベレッタかなんかの一撃ですぐ殺せてしまう――が、いまサービスエリアに立ち寄ってるカラスは、群れって小規模者でもなく大群だった、凄まじいほどの黒い放流、蠢く黒煙だった。ゲーム画面では血はあんなにべっとりしてないし、炎上する車も背景のなかに溶け込んで絵画みたいなもんだ――頭のなかでポリゴンだ! やっぱりゲームはポリゴンだ!≠ニ意味不明に絶叫する声がする――痛みにゆがむ男の顔もあんなにリアルじゃない。
リアル――? なに言ってんだ、これは現実じゃないか。
無意味な思考を振り払い、ゆっくりと踵を返す。足は震え、心臓は壊れた目覚ましのように早鐘を打っている。
「目があ!」と男の絶望的な叫びが聞こえる。「目がっ目がっ、目があああ!……」
思わず裕太は顔を背けてしまう。
駐車場――あれは多分、トイレの横、駐輪場のほう――から、どおん≠ニいう重心の低い、自動ドアが震えるほどの爆音が轟いた。振り返るとこちらに向かって停車していた軽自動車が爆発炎上した。
逃げなきゃ死ぬ――直観でそう悟った。幼い頃、見たことのない黒い大型犬にあとをつけられたことがあった。薄汚い体、涎を垂らした首輪のない犬だった。びびって裕太が走り出すと、犬も駆け足をはじめた。サイズからして、裕太の喉笛は犬にとっておしゃぶり程度の太さだった。間違いなく一口でばっくりだ。裕太は死の恐怖を感じた。走ってはしって、ようやく家の玄関に滑り込んだとき、自分の股間が濡れていることに気付いた。
あのときと同じように膝小僧が震えている。怖い。ちびるかもしれない。
待合室には人がたくさんいた。どういう状態だったかはさっぱり覚えていない。ただ小さく壁に囲まれた場所が必要だった。レストランに入り、レジカウンターの横から細い通路に入った。怖かった。カラスの声はまだ聞こえていたから。
通路を曲がり、突き当たりで
関係者以外の立ち入り厳禁
という札のついたドアを機械的な動作で開けた。ステンレスの銀色に埋め尽くされたレストランの厨房に出た。
「君きみ! なにをやってるんだ」
男の声が聞こえたが、つぎのドアまで同じペースで歩き通した。どこにあった、どんな色のドアだったかなんて覚えてない。とにかく建物の裏に出る通用口だった。
矩形の影の下、巨大なプラスチックのダストボックスがあった。ボックスのあいだに隙間があり、裕太はうずくまって、いまそこにいる。五十センチくらいの隙間だが、強引に体を押し込めた。そこからでも悲鳴や爆音、ガラスの割れる音、カラスの鳴き声が聞こえた。手が震えるほどの悪夢だった。わけがわからない。なんでこんなことになっているのか。両親の顔がちらついたが、どうでもよかった。ただ膝を抱えて自分の存在を消そうとした。カラスに見つからないようじっと息を殺していた。
*
「煙草なんて吸ってたら、追い越せないぞ」
父親は背丈のことを言っていた。夏休みに入る一ヶ月前から、裕太はサッカー部の練習にいかなくなった。サッカーは小学五年からはじめて、一年の頃までは楽しかった。いまでも好きだ。でももう行く気にはなれなかった。二年生に入ってから、練習内容がサッカーを楽しむものではなくなったからだ。夏休みのいまでこそ、練習は過酷そのもの。頭がおかしくなりかねないほどの猛暑の中、二時間走りっぱなしで、ボールに触れるのは最後の三十分ばかし。嫌気がさして、サッカーとは縁を切った。
かわりに悪友と付き合い、煙草を覚えた。暇なんだから仕方がない。
六月に入って、教師にトイレでの喫煙がばれてしまった。担任のおばさん教師は、二年生のこんな大事な時期に、頭の回転が鈍るよ、骨が育たなくなるよ、などとひん曲がった親のようなことを言っていた……
もうどうだっていいじゃないか、くそ。
マルボロは十本以上残っていた。唾を吐きながら一本吸って、一時間くらい経った。携帯電話で確認しているので確かだ。カラスの声はいまも続いている。いったいなんなんだ、どうすればいいんだと考えていたが、どうすることもできないというのが一番手だった。二番手はゲームのなかに入れた!≠ニ嬉しげに戻ろうかということ。三番手は親だった。親のことが気になった。死んでいるのかもしれない。二本目の煙草を吸い終えた。八割方どうでもいいと思っている自分が不思議だった。
携帯のアドレス帳を開く。自分でも信じられないが、友達にかけることにした。気軽な感じで話しかけるのだ。田舎行く途中なんだけど、信じられるか? カラスの大群が押し寄せてきて、サービスエリアがめちゃくちゃなんだ。すげえだろ。マジだって。人が死ぬとこ見たもん。ニュースになんじゃねえの。
ハエ叩きのようなアンテナマークの横に、いやに黒く威厳を持った二文字があった。
圏外か。知ってたよ。
【石の罠/たばこの煙、紫色の煙/ゴミ捨て場/圏外】
2 生存者七名
「ノゾミ、しっかりして」
母親が自販機で買ったばかりのスポーツドリンクをそっと娘の額に――本当に触れるか触れないかの位置に――当てた。そこはエリアの南端、レストランやトイレ、売店などと同じ建物にある待合室とでもいうべきスペースで、冷房のきいたソファとテレビのある休憩所だった。フロアは炎と夕陽で橙色に包まれている。
穂村正樹は自分のRV車からそこにいる全員を連れて屋内まで逃げてきた。ソファの横で寝転んでいる少女――四歳くらいだ。姪っ子に似てる――を中心に、疲れた感じの中年男ふたり、若い娘、妊婦、少女の母親、男女七名、不思議なことにソファに座っている人間はだれ一人としていなかった。みんな汗まみれの、たったいま人を殺してきたような青い顔をして所在なげに突っ立っている。
駐車場の、とくに建物側はほぼ壊滅状態で、十台以上の車輌が炎上、爆発を起こしていた。市松模様の舗装道は、死んでいるのか気絶しているか分からない人でいっぱいだった。
「大丈夫ですか」穂村はごく自然に妊婦に付き添っている若い娘に言った。「腕を切ってるよ。まだ血が出てる」
「え?」娘はいった。「ああ、はい。大丈夫です。包帯みたいなのがあればいいけど……」娘は妊婦に顔を戻し、「あの、あなたは平気ですか?」
「ありがとう」妊婦の額は赤く光っていた。「それよりあの子は大丈夫なの?」
穂村は少女のシャツを見つめた。子供服然とした、なんとまあどぎついピンク色だ。襟もとから黒い染みが大きな半円を描いて胸に広がっている。
見るな。
額が大きく紫色に腫れていて、少女は血の涙を流していた。石が当たったのだ。穂村はその瞬間、顔を背けた。外で泣きわめいていた少女は、急に黙ってしまった。あれだけ大きな声でお母さんと叫んでいたのに、母親に抱かれ、ここへ逃げ込んだときも、ぐったりとして反応がなかった。
母親はぶるぶる震える手つきで、顔の血痕とへばりついた髪の毛を拭っている。「ノゾミ、ノゾミ……」名前なのか。「……ノゾミ、ノゾミ……」母親の口から名前が呟かれるたび、穂村は気持ちが押し迫ってくるのを感じた。最初は部屋の隅でちょこっと見えるだけ。そいつはだんだん近づいてくる。おい、あの赤黒く腫れた額を見ろよ。ひどいぜ、赤ん坊に戻ったみたいだ。破裂しそうだ。赤ん坊は体よりはるかに頭がでかいよな。いや、もっとひどい――見るな――あれみたいに額が前にせり出してる。なあ、この子、もう……
「くそカラスの野郎! ふざけやがって!」眼鏡をかけた小太りの男がソファを蹴り上げた。「ぶっ殺してやる!」
男も耳を怪我している。落石を受けた――それにしても信じられない。カラスは意思をもって攻撃していた。穂村は見ていた。虚空を舞う黒い鳥が、おのおの自分の両足にしっかりと石を握っている姿を。細っこい鳥類独特の足で、健気にも人を攻撃するには最適なサイズの石を持っている姿は、滑稽ですらあった。
子供は一撃で致命傷。
「ああ、あの子。もうダメみたいだな」ソファに寄りかかっている親父がいった。「わたしも車に妻を置いてきた……」
「そんなこと言わないで!」誰か、妊婦か若い娘が強く囁いた。
カラスのけたたましい鳴き声が聞こえた。穂村は窓際に走り寄る。カラスは目に見えて増えていた。複数のカラスがつねに黒い弾丸のように、視界の隅から隅へと往来している。上空を見上げると、蝙蝠の集まりのようにカラスの群れが渦を描いていた。信じられない。振り返って、生存者たちの顔を確認した。なるべくでしゃばるような、教師気取りの口調は避けて、穂村は慎重に口を開く。「……みなさん、ここも危険かもしれません」
「どうするんだ」眼鏡の小太りが言った。先ほどからいらいらとソファの間を歩き回っている。「携帯は全部つながらない。助けなんてこない」
「まず外に出るのは無理ですね」穂村は窓ガラスを拳でノックしようとした……が、直前でやめた。「ここでしばらく電話がつながるのを待つしかない……」
当然のように、視線はどぎつい原色のシャツを着た少女に向かった。
見るなって。
無理な相談だった。どうしても凝視してしまう。あの腫れ方は尋常ではない。一刻も早く救急車を呼ばないと、間違いなく死んでしまう。ここでは応急処置もままならない。
でもどうやって? 救急車を呼ぶんだ? スティーヴン・キングの小説みたいにテレパシーを使うか。
「どこかに公衆電話があるはずだよ」くたびれた親父が言った。ここへ走りこんできてずいぶん経つのに、まだ息が上がっていて、ポロシャツの両脇には汗の染みができている。「こういうところには必ずある。――それにしても暑いな……冷房が壊れているのかも」
「どこがだ?」眼鏡の小太りが低い声で言った。「こんなに涼しいのに、危機感が足りないんじゃないか?」
なんだこいつは?――穂村は首を傾げたい気分になった。
「そうよ、公衆電話がある」妊婦が言った。
「電波がない心配もない」と、穂村。「トイレの近くか、向こうの……」
「いいぜ、探そう」笑いながら眼鏡男は言った。「だれが一番にあの緊急用の赤いボタンを押せるか競争だ。なあ、おっさん走ろうぜ。そしたら涼しくもなる」
にやけながら男はどたどたと待合室を横切り――そのとき男は破れたスニーカーのつま先で、間もなく死のうとしている少女の足を蹴っていった――売店のほうへと進んでいった。穂村は愕然とした。我が目を疑ったというのはこのことだ。
「なあ、どこに道があるんだ?」男は何事もないように振り返る。倒れた陳列棚、割れたガラスの破片、ひっくり返ったレジスターなどで潰れた通路を誇らしげに示している。「おめえらはなにを見てやがんだ? 向こうも塞がってんだろ、どこに道があるってんだよ!」
「うるさいわよ、なにも見てないのはあんたでしょ!」若い娘――高校生だろう――が立ち上がって金切り声で叫んだ。「いまこの子の足、蹴ったでしょ! 謝りなさいよ、ハゲ!」
「やめてください」穂村はふたりの仲裁に入った。「子供が死にそうなんだ」もう死んでる。「いまは一刻を争う。動ける者で手分けして公衆電話を探しましょう」――死んでいるのに?
娘は携帯電話を取り出し、なにやら試み出した。
「あんた名前は?」穂村は男に言った。「俺は穂村正樹だ。動けるんだろ」
中年太りの男はまたぞろ眼鏡のフレームに手を伸ばし、穂村を鼻で笑うと、背を向けてソファに座り込んでしまった。むろん独り掛け専用だった。
なんだこいつは、どうしようもない愚か者じゃないか。穂村はしきりに眼鏡の位置をなおしている肥満気味の男を見つめた。集団のなかに入ると、どんな手を使ってでも我を通そうとするクズがひとりかふたりはいる。妻を失った親父はいいとして、こいつの性格は露骨に悪いみたいだ。ああこいつは独身だなと思った。そしてスティーヴン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース』なんてまるで理解できないはずだ。
そんなことはどうだっていい、いまはどうやって救急車を呼べばいいか……
母親は静かに泣いていた。もうダメだとわかったらしい。いや、わかっていたんだ(みぃんな、知ってたよ!――穂村の頭のなかで、なにやらむかつく声色をもった生まれながらの楽天主義者≠フような声がする)。誰の目にも明々白々だった。落石を受けたときにはもうすでに際どい¥況だった。致命傷。猶予はわずかだった。それに間に合わなかったから、もう手遅れ≠フ状態になった。数分前までその、もう手遅れ≠フ状態だった。いまや死亡≠フ一言に尽きる。少女は死者だ。
額から汗のしずくが垂れた。髪の生え際に手をやると、オイルのような汗がべっとり手に付いた。しっかりと呼吸をしている意識があるのに、息苦しさを覚える。天井を見上げた。親父の言うとおり冷房が止まっているのかもしれない。冷気の入り口らしきものは見当たらなかった。冷房が死んでいるとなると、遺体の腐敗の速度は凄まじいはずだ。戦争に行ったことなどないが。
若い娘は、忙しそうに口を動かし、「……いまメールできるか試してるの。メールでもできたらすぐに助けを呼べる……」、携帯を操作しながら、ソファに寄りかかっている妊婦に話しかけていた。
「お名前はなんていうんですか? わたしは藤木アヤコです」
「野田愛美よ」妊婦は大きな息をついた。
「どうしてこんなことになってるのか、信じられませんね」
「そうね。信じられない」
そうだ、妊婦がいる。どっちにしろ救急車を呼ばないと。
返り血を浴びたふたりは、戦場から夕陽で橙色に染まった野戦病院に逃げ込んできた姉妹のようだった。日は強く傾いている。じきに夜だ。闇がやってくる。天井の電灯は無傷だったが、ちゃんと闇に反応して点灯してくれるか大いに疑問だった。窓を見るとカラスが相変わらず泣きわめき、炎は踊り、倒れている人はぴくりともしなかった。信じられない地獄絵図。外は危険だ。
遠くのほうで、ぱりんと窓ガラスの割れる音がした。
*
カラスの硬いくちばしが頭に突き刺さった。肩に乗ったカラスを手で振り払っても、べつの一羽が背中めがけて爪を突きたててくる。裕太は頭を守り、手を振り回しながら、必死で扉を探していた。
カラスは人を小馬鹿にするような、高いのか低いのかよくわからない太い声ではやし立て、矢継ぎ早に攻撃を仕掛けてくる。
黒い影が顔の真横を通り過ぎた。耳が切れたのがわかった。手で触ると耳の下のところに痺れのような痛みが走る。背骨を恐怖という積荷を満載した急行列車が通り過ぎていった。カラスの攻撃はナイフのようだった。
自分でもよくわからない声を発しながらめちゃくちゃに腕を振り回す――が、まったく当たらない。かわりに肘がダストボックスに当たり、裕太は悲鳴を上げた。数羽のカラスは周囲でホバリングをしながら、徐々に裕太の首にかけた輪を絞ってくる。
視界の隅にドアが見える。最初に入ってきたドアだろう。適当に振り回した左手がカラスの体に当たった。偽物のような、鳥の羽の気色悪い感触。ぞっとしながら、ドアに近づく。頭上で、「アア、アア!」と声がしたので、反射的に上を見ようとしたが、そうもいかなかった。一羽が肩に爪を食い込ませ、素早くくちばしでこめかみを小突く。ドアの手前の段差に足をとられ、倒れこむ、匍匐前進のような形になった。背骨に重い痛みが走る、なにか当たった。軽いセメントと石がぶつかる音がした。
くそったれ。
カラスは確実に殺そうとしていることを悟った。人間を殺し、死肉を喰らう腹積もりなのだろう。
裕太は肩に乗ろうとする一羽を右手で振り払った。と、偶然カラスの落としてきた石ころに手が届いた(川原にあるような、大きな丸石だった)。本能的に石をつかみ、雄叫びをあげながらめちゃくちゃに振り回す。一羽のカラスの胴体に当たったが、すぐに段差と接触してしまい、石は手から離れてしまった。視界がぱっと建物の影だけになる。カラスたちは驚嘆の声をあげながら、一瞬だけ裕太から離れていた。
いまだ。
サッカーで培った脚力を使い、一気にドアとの距離を詰める。ノブに手をかけ、ひねる、ドアの内側に向かって体を回転させる――DFを背にしてボールをキープしたときと同じだ――うまく室内に入ることができた。ドアの外側にカラスがぶつかっている音がする。
なんなんだ、ちくしょう。溜め息を吐いた。
頭では今回の旅行に持ってきた鞄のことを考えていた。車は駐車場のちょうど真ん中あたりに停めてある。鞄のなかに色いろ入っている。着替えに携帯電話のバッテリー、ライターのオイル缶。いま欲しいのは飛び出しナイフだった。いますぐにでも外に戻ってカラスの首を引っつかみ、そいつで喉を切り裂いてやりたかった。
ポケットになにかなかったか……左のポケットに何枚か食べたグリーンガムのパックが入っていた。一枚とり出して噛む。あとは糸くずと綿埃。オイルライターに、ひしゃげたマルボロの箱。尻ポケットに手を当てて、携帯電話を紛失していることに気付いた。
くそ!――絶対ぶっ殺してやる。
全身汗まみれで、自分でもひどい体臭だろうと思う。さらに耳の下から出血。シャツの肩口が少し破れ、セメントの地面で右手の爪を擦って白く傷付いている。無性に腹が立つ。カラスなんかに追い詰められて傷だらけになっている自分。サッカーの試合で三人を相手にしても倒れたりしなかったのに。
誰もいない厨房――カラスが侵入してきた痕跡はなかった。みんな死んだのか。避難したのか。
食べ残しの皿がそのまま漬けてある流しに近寄り、蛇口を捻った。水は小便の切れ際のようにちょろちょろと出ただけだ。喉は紙の筒のようになっており、たまらず手のひらにすくって飲んだ。室内は蒸し暑く、水は生温かった。
カラスの鳴く声は遠くに聞こえる。安全に思えたが、なぜかじっとしていられなかった。カラスの黒い小さな目がちらついている。裕太は耳の下の傷に触れ、顔をしかめながら厨房を出た。
通路も、レジカウンターも無人だった。めらめらとものが燃える音だけが聞こえてくる。影を踏みしめながらレストランの入り口に向かって歩くと、強烈な夕陽で目を開けていられなくなった。化学薬品が燃えるような強力な刺激臭がし、鼻がふさがる。
レストランの窓が一枚、というか窓全体が大破していた(レストランの窓は壁一面を覆っている)。さきの道は輸送トラックの歪んだ車体でふさがっている。以前、裕太はテレビでアメリカのハリケーンについての報道を見ていたが、店内はその映像よりもはるかに凄まじい光景だった。壁とボックス席が破壊され、テーブルは無残に引っ繰り返っている。物が散乱し、天井の壁紙がはげ、穴が開いている。店の奥のほうではまだ炎が燃えており、異臭はそのためらしかった。もしかしたら人間の焼けるにおいかも知れない。
どこかでガラスが割れた。
床にはスプーン、引き裂けて茶色いどろっとした液体がへばりついたソファ、赤いケチャップと黄ばんだチーズで汚れた皿などが落ちている。比較的無傷のレジカウンターのそばにうどん入りの丼がこぼれており、裕太は驚愕した。
……トラックが突っ込んで、それで窓が全壊、カラスは店のなかに入り、観光の途中だった家族連れや、自分みたいに里帰りの途中だった人たちを襲撃した……人の姿は見えなかったが、裕太はあえて探さなかった。
手のひらよりも大きい、カラスの羽が一本落ちていた。
*
自動ドアの向こうから、薄汚い背広を着た男が手を振ってこちらに駆けてきた。「きみ大丈夫なのか!」
裕太はびくつき、手からカラスの羽をとり落とした。驚きだった――が、すぐに自分が生きているんだから、他にもいてもいいだろうと思えた。とりあえず二度うなずき返し、男が立ち止まるのを見届けた……さらに男が夢のなかで思わぬ人物に遭遇したときのように、驚嘆の顔つきで裕太のつま先から頭の天辺までゆっくり視線を這わせるのも見届けた。
男は目も口も大きい、ハニワみたいに見えた。
「どこにいたんだ、名前は何て言うんだ?」
男の肩越しに何人かの人々が走り寄って来るのを見た。なかには女もいる。
「名前は、柏木裕太です」自分の声がまったく見ず知らずの成人男性のように聞こえた。「いままで建物の裏側にいたんです。でもカラスがきて襲われました」
「だれか友達は? 両親とか……」
「両親といたんです」唾が喉につかえた。持ち直して裕太は続けた。「――うん、そうです。トイレに行こうとして……違う、トイレはもう行った。トイレに行って、その帰りにカラスが騒ぎ出して、駐車場がひどいことになったんで、逃げたんです。そこのレストランのキッチンに入って……」
「キッチン?」男はさっと眉根にしわを寄せた。どうして早く言わなかったのか、という威圧のようなものを感じさせる。「飲み水があるかも知れない。こっちは大変だからな。子供がひとり死んでね、それに……」
「しっ」若い女が割って入った。「大きな声で言わないで下さい」
裕太の視線は女の子の全身から、一気に胸に集中した。物凄く大きく見えた。女はよくわからない英単語――ヘルター、スケルタ?――がプリントされたシャツを着ている。襟は半円形で、そんな大胆なシャツには見えない……けれどYの字を形作る、暗い秘密の谷間はしっかりと見えた。
「妊婦がいるんだ」男は続けた。「外は危険だし、冷房は完全に死んでいる。飲み水が必要なんだ――それに公衆電話。裕太くんは公衆電話を見たかな。レストランのなかとか」
オカマっぽい喋り方だなと思いながら、裕太は「いいえ」と答えた。仲間と遭遇して、質問に答える。なんだか頭のおかしいプログラマーの作ったドラゴンクエストだ。きみはオカマ好きかな?――「いいえ」。じゃあバイセクシャルですか?――「いいえ」。この人の胸はでかいですか?――「はい」。
「耳、怪我してる」女はいった。「痛くないの?」
「痛くない」冷静を装いながら、頭のなかでなんてでかいんだ≠ニ思った。できれば背後に回ってシャツの下に手を差し込みたい。でもつぎの瞬間には、馬鹿馬鹿しさに呆れる。ちくしょう、でも男はそういう生き物らしい。
ふざけた幻想を抱いたのも束の間、カラスのけたたましい声がすべてを打ち消す。幼稚で淫猥な妖精は消え、かわりに科学塗料の焼ける化学的なにおい、頬骨の辺りの、ちりちりとした痛み、自分の全身を羊膜のように覆う汗のにおいを感じた。シャワーを浴びたい気持ち。死ぬほどコーラを飲みたい気持ち。
「ここも危険だ」男が言った。「俺の名前は穂村正樹。あっちにまだ人がいる」
「向こうで休もう」若い女の子が言った。裕太からはふたつくらい年上に見える。
レストランからガラスの破片が散らばった通路を、ふたりについて歩く。生存者は何人くらいいるのだろうか。進んでいくに連れて、徐々に通路は荒れて、狭くなっていった。壊れた椅子、倒れた売店の商品棚、植木もスタンド式の灰皿も倒れ、アイスの冷蔵庫は巨大な生物に踏んづけられたようにへこみ、中身が四散していた。ハーゲンダッツ、ガリガリ君、全部溶けている。ひどい有様だ。
そのときぽんっ!≠ニいう破裂音が鳴った。まだ名前も知らない女の子が、袋入りのアイスを踏んづけたらしい。
「ああもうなにこれ」
飛び散るバニラアイス。裕太は笑いそうになった。特大のおならをしたのかと思ったから。
窓の向こうに、二台の車が折り重なり、激しく燃えているのが見える。車体は木炭のように黒ずみ、炎上後のように見えた。
天井が高くなり、広い空間に出る。ソファのある休憩室のような場所で、何人かの人間が座っていた。なるほど、一番大きなソファにお腹の大きな女の人が座っている。顔は汗まみれで、頬が紅潮している(しかしこの人はかなりの美人だ)。比較的年のいっている男性がひとり、さらに独り用の座席で、眼鏡で太り気味の男が肘に顔を乗せて眠っていた。
「桜庭さんはどうしたんだろ」穂村は裕太の腕を軽く掴み、小声で囁いた。「子供を連れてここまで逃げてきたんだけど、途中で石が頭に当たってね。ここへきて死んでしまったんだ……いやまだ生きてるかもしれないんだけど……でも俺にはどう見ても死んでる≠モうにしか見えないんだ」
「その子っていうのは、どこに?」
「あそこのソファのそばだ」穂村は顔をしかめた。「――くそ、もうどうしたらいいかわからないよ」
「裕太くんも座りな」女の子は妊婦の隣に、裕太はその隣に座った。「公衆電話はなかったし、ここでしばらく電話がつながるの待つしかないよ。外は危ない。たぶんそのうち、誰か助けにきてくれるんじゃないかな」
「よく生きてたね」妊娠中の女は笑った。「よくぞ」
「あ、この人は野田晴美さんね。赤ちゃん来月生まれるんだって」若い女の子は言った。「わたしは藤木アヤコ。高校二年生――裕太くんは中学生でしょ?」
「……うん」答えながらも、妙なテンションに戸惑いを感じた。この人は完全に修学旅行みたいなノリだ。危機的状況下における興奮状態というやつか。それにしても、男よりも女は柔軟にできている気がする。新しいクラスでも、女子は一日で仲間を作ってしまう。
「これからいつまで待つかわからないから、一応」アヤコは軽く笑いながら、言った。「……こんなこというのもなんか変だけど……よろしく」
「う、うん」裕太はやっぱり馬鹿らしい会話だし、この人もアニメキャラっぽいと思いながら答えた。「よろしく」
【羽、一本/ゴミ捨て場から待合室へ/他人の顔】
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2004/09/01(Wed)03:01:53 公開 / RAY SMITH
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