- 『涙の向こう ―完全版―』 作者:夜空 / 未分類 未分類
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原稿用紙約41.35枚
「プロローグ」
―涙が俺の頬をつたって落ちる。
青春の花びらが落ちるように、切なく、はかない涙。
颯爽とした木の葉は落ち、冬の冷たい風が俺に当たる。
まるで俺に罰を与えるかのように。強い風は情けない俺を嘲笑う。
もう彼女の匂いさえ、とばされてしまった。高一の冬、俺はもう二度と恋な
んてしないと思った。―
サッカー部の俺は高校生になって初めて彼女ができた。
何しろ俺の記憶のノートにはこんなページはないから、
俺はその恋人ができて有頂天になっていたんだ。
恋のマニュアルなんて考えたことがなかった。
恋なんてただただその人に尽くしてあげればいいと思っていたんだ。
でも実際恋はそんなにあまいものではなかったわけだ。
ある日俺は突然彼女に言われたんだ。
「なんで大地って私のために頑張ろうとするの?」
何故か彼女は怒っていた。「そんなのわかるでしょ?」
彼女は首を横に振る。
「麗華が好きだからだよ。」
「そんなことここで言って恥ずかしくないの?」
周りを見るとみんなこっちを向いていた。
「そりゃぁ・・・恥ずかしいけど」
「バッカみたい。」
「・・・」
今俺は自分の耳に入ってきた言葉が信じられなかった。
彼女は荷物をまとめている。俺の驚いた顔を見たからであろうか、
彼女は鋭い声で言った、俺の心臓をつく矢のように。
「大地ってルックスだけで全然男っぽくない。
・・それに・・・はっきり言って私のために頑張るってうざったいの。」
彼女は容赦なく俺を攻撃した。俺の心が打ち砕かれそうだった。
こんなのサッカーで言えばファウルで倒された後、ボールを蹴って当てられ
た感じ。まぁサッカーはゲームだからルールもあるわけで、イエローカード
(警告)が出るけどね。そんな俺を彼女は見透かしたのであろう、「恋愛は
ゲームよ。大地に私は難しかったってことね。レベルが高すぎたのよ。ゲー
ムオーバーね。」彼女はそれだけ言うとさっさと行ってしまった。
俺の目頭は熱かった。俺はあの日、食べかけのポテトと一緒に彼女に捨てら
れたんだ。
それ以来俺を取り巻く環境は一気に変わった。
所謂クラスの人気者ではなくなり、俺に一目おく人もいなくなった。
大好きなサッカーをしている時でさえ集中力を欠き、
顧問や先輩に注意されることが多くなった。
廊下を歩けば、俺が彼女にした悪いことの噂が耳に入る、といった具合だ。
まぁ当然といえば当然の結果かもしれない。
彼女は鈴木麗華といって、学校一の美少女だった。
バトン部では早くもリーダーを務め、某有名雑誌のモデルでもあった。
そんな彼女に魅了された男は少なくない。
もしかすると俺もそのうちの一人なのかもしれない。
いや、それとも”「美少女彼女持ち」の永井大地”といったような
キャッチフレーズでも付けたかったのか。ただ単に俺の名誉のためなのか。
部活の帰りだった。
友達の隼人がが俺を心配して声をかけてきたのだった。
「どこか具合でも悪いの?」そう思うのはごく自然な流れなのかもしれい。
俺は今日の練習で決定的なシュートを二回も外してしまったのだから。
「いや、別に。」俺はぶっきらぼうに答えた。
「そりゃぁそうだよなー。」俺の事情を知ってるんだか知らないが、隼人は
いかにも知ってるような様子で空を見あげて言った。
「大地、鈴木さんと別れたんだってな。よくそんなもったいないことができ
たよな。」
「俺の勝手だろ。」
怒った俺に隼人は申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめん。」俺は謝った。
「何かこの頃、何に対しても集中できなくなっちまったんだよ。ほら、俺の
噂あるだろ。お前も聞いたことあると思うけどさ。麗華が全部でっちあげた
んだ、きっとな。それなのに俺の頭からなかなか離れてくれないんだ。」
隼人はいつとなく優しい顔をしていた。そんな隼人の顔を見ると弱音を吐き
たくなる。
「俺さー、もう恋はしないことにしたんだ。まぁ明日からはサッカーに打ち
込んでプロにでもなってやるか!」俺は無理に明るく笑ってみた、心とは裏腹
に。きっと凄く変な顔だったに違いない。隼人が笑わないでくれたのがせめ
てもの救いだった。
「俺はいつも大地のこと信じてるさ。でも恋も良いものだよ。」
別れ際にもらった、この隼人の言葉に俺はどんなに勇気付けられたことか―。
それからというもの、俺は必死に練習に打ち込んだ。二年になって初めての、春の大会では、チームは予選敗退したものの、俺はチーム得点王となり、計5点を挙げた。隼人は好守備でチームを支え続けた。
ある日、一人の女の子が俺達の練習を見ていた。
暗くて誰なのかよくわからなかった。
「お疲れさまー。」練習が終わると女の子は走ってきた。
「おっ」隼人が笑顔で言う。
「横倉さん本当に着てくれたんだ。」
「うん。だって石井君が『俺毎日自主練してるんだ。』って言うんだもん。私、サッカー好きだし、それって来てって言ってるようなものじゃん。」
隼人は舌を出し照れ笑いしている。俺はそんな隼人が羨ましかった。
横倉さんは隣にいた俺にも挨拶をしてきた。
「横倉恵っていいます。よろしくね。」
「よろしく。」ドキッときた。何だろうこの感覚は?
彼女の優しそうな顔を見ると何故か落ち着いてしまう。心が安らぐ感じかな。そう、これは俺があの時諦めたものだった。
「おにぎり作ってきたんだけど食べる?」
「食べる。」隼人が即答した。
「ははっ。石井君に聞いてないんだけどな。永井君に
聞いてるの。」幼いいたずらっ子のように彼女は笑った。
「―?」俺はきょとんとした。何故だろう。
「あ、そうだった。ごめんごめん。何で永井君の名前知ってるかって。
春の大会見に行ったの。その時、一人飛びぬけて上手い子がいて、『誰』って石井君に聞いたの。そしたらそれが永井君だったってわけ。で、食べる?」彼女の優しそうな目が細くなる。
「う、うん。いいの?」俺も自然と笑顔になる。
「はいっ。」
「ありがと。」俺の手には可愛らしい丸っこいおにぎりが収まった。
隣では隼人が膨れっ面をしている。
「石井君にもあげるよ、はいっ。」
隼人はちょっと膨れながらもすごく嬉しそうだった。
帰り道―俺と横倉さんは同じ方だが、隼人は違う駅に出るので門を出るとすぐに別れた。俺は自転車通学なので「自転車取りに行くから。」と言った。横倉さんはちらりと後ろを振り返る。俺も気になって後ろを振り返った。隼人はもう曲がり角を曲がったようだった。隼人の足音さえ聞こえない。急に横倉さんが俺の腕を掴んだ。
「・・私・・・永井君に一目惚れしたんです・・・」
俺はどうしていいかわからなかった。頭がぼんやりする。熱でもあるのかな。自分が自分じゃなくなったような気がしてならないんだ。横倉さんの顔を見る。彼女も俺のことを見ていた。熟したりんごのような顔、その中にあるグレーの目は、俺に呪文をかけているんだ。どんどん俺は操られ、そして狂うんだ。もう何があったのかは覚えていない。気がつくと俺は横倉さんを抱きしめていた。彼女は静かに目を閉じている。
失いかけたものは俺の腕の中にすっぽり納まったのだ。
翌日の部活の帰りだった。いつもは俺とパス練するはずの隼人が今日は違う奴とやっていた。
「隼人ひどいなー。待っててくれたっていいじゃん。」
「ひどいのはどっちだよ。」
あまりの勢いに俺は転びそうになった。
「ちょっと待てよ。お前、何キレてるんだ?」
朝練の時はいつもと同じ隼人だったはずだ。なのに・・どうして。
俺はそれでもなお、隼人を冷やかすように言ってみた。
「は、はーん、何か良くないことでもあったようだね。」
その途端、プチッ、何かが切れるような音が聞こえたような気がした。
「いい加減にしろよ。」
こんなに怒っている隼人は初めて見た。
「練習後話してやるよ。」隼人は吐き捨てるように言った。
俺と隼人の友情の糸は切れてしまったらしい。
そんなに俺達の友情はもろいのか?
約束どおり、早とは練習後俺の所に来た。
「お前、本当に自覚ないのか。」
「だから俺は何もした覚えはないんだって。」
「・・・・」沈黙が続いた。辺りは一層暗くなった。
「何も言わないなら帰るよ。今日、横倉さんと一緒に帰る約束してるんだから。」
俺がくるりと背を向けた時、隼人が急にポツリと言った。
「・・・・それだよ。」何故かその言葉が俺の耳にははっきり聞こえた。
嫌になるほど、はっきりと、そして重々しく。
「人の好きな人とって楽しいか?確かに俺は大地みたいにかっこよくねーよ。でも俺はお前みたいに汚いことはしないな。」
隼人はスタスタと去っていった。その後姿はどこか寂しそうだった。
「隼人の好きな人だなんて知らなかったんだ。」
俺の言葉は隼人をとめることができなかった。
隼人の目には涙がにじんでいた。その光景はしっかりと俺の脳裏に焼きついたのだった。
よく雨の降る日だった。部活は中止になってしまい、あれから隼人とは一言も交わしていなかった。廊下は女子生徒の話し声でやかましかった。
うんざりした俺は、誰もいない教室で自分の席に座っていた。
そう、思えば、確か隼人は俺に言ってたんだっけ。
「俺、横倉さんって子が好きになったんだ」って。でもあの頃の俺は、麗華にフラれて全く女子に興味なんてなかったんだ。だからそんな隼人の話も上の空で聞いていたわけだ。・・・それに、あの子は隼人が呼んだ子だ。好きでもない子をわざわざ呼んだりしないよな。
嗚呼、ごめんよ、隼人。俺はまた一つ大切なものを失ったんだ。やっぱり何でも手に入れることはてできないんだよな。一つ得るごとにひとつ失うんだ。後ろから誰かが、眠りかけていた俺の肩を叩いた。横倉さんだった。
「どうしたの?こんな所に一人でいて。」
「うーん、ちょっと考え事かな。」
こう優しくされるとなかなか言い難い、俺が今、頭の中で考えていること。
俺は今、失ってしまったものを再び取り戻すことを考えているんだ。そして
もうその答えは見つかったんだ。・・・ごめんね、横倉さん。罪深い、情けない俺を許しておくれ。
「一緒に帰らない?」
「ごめん。」俺の声は震えていた。
「今日は無理か。そうね、勝手すぎた。」横倉さんは寂しそうに笑った。
勝手すぎた―俺の今考えてることの方が勝手すぎなんだよ。勝手すぎて醜いんだ。もう、横倉さんに理由など話せる力なんてなかった。
「別れよう。」プツリ、また何かが切れる音がした。今度は何の糸だろう。
横倉さんは俺の目を見ていた。彼女の目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
俺はこんな横倉さんを見てられなくて教室を飛び出した。情けないことに、俺の目も涙でいっぱいなんだ。涙の顔を見られないように、下を向いて俺は廊下を走る。
・・・俺は横倉さんと別れるより、涙とお別れしたいよ・・・。
一週間くらい経っても隼人の態度は一向に変わる気配がなかった。俺はまた一人で教室にいた。正直途方に暮れていたんだ。
麗華のこと、隼人のこと、横倉さんのこと―――――――――
俺は大切なものが失われてしまうのを怖がってばかりいて、全然前に進んでいないんた゛。寧ろ後退しているのかもしれない。俺は一匹の野良犬にも及ばないんだ。
チャンスは待つものではなくて、捕まえるものなんた゛。たまには大荒れの海の中、航海する事も必要た゛。わかっているのにできない、この悔しさ。俺に勇気がないだけなんだ。
「意気地なし。」少し声に出してみたら俺の目は涙でいっぱいになった。結局俺は大切な物を全て失っちゃったんだよな。
「意気地なし!」後ろから明るい女の子の声がした。重たい頭をあげて、後ろを見る。
そこに立っていたのは明るい笑顔がトレードマークの竹内美月だった。確か最初の自己紹介のとき、「あたしは美しくも、輝いてもいないのに美月です」とか言ってた子だっけ。竹内はくりっとした目の愛らしい顔と、無邪気な笑顔、底抜けの明るさが魅力の女の子だ。
「あーっ、永井君が泣いてる!」何か新しいものでも発見した時のように、楽しそうに竹内は言う。悔しいけど、コイツは何故か憎めないんだよな。俺は涙を見せないようにそっぽを向いた。
「放っといてくれよ、あっ、誰にも言うなよ。」俺の秘密を握った竹内は
「どうしよっかな〜。」と意地悪っぽく言う。
「・・・俺って男なのに情けないよな。」竹内になら何と言われてもよかった。コイツの言い方は軽いから。どうせ笑って「情けないね!」とか言うに決まってる。だが、どうだろう。確かに笑っていたが予想外のことを口にするではないか。もしかすると俺は心のどこかで期待していたのかもしれない。
「誰が男は泣いちゃいけないなんて決めたの?永井君自信でしょ。」急に彼女の顔が優しくなった。こんな彼女を見るのは初めてだった。
「泣きたい時は泣かなくちゃ。涙なんて我慢できるものじゃないもん。そのうち、泣きたくたって泣けない時が来るかもよ。・・・それに、『涙の数だけ強くなれるよ。』って言うじゃん。」
そういうと彼女は急に歌いだした。
―――♪涙の数だけ強くなれるよ。アスファルトに咲く花のように。
見るもの全てに怯えないで。明日は来るよ、君のために―――
俺もいつの間にか彼女と一緒に歌っていた。無邪気な彼女の笑顔は傷付いた俺の心を癒してくれたんだ。俺はコイツに一言言ってやりたかった。
「お前、十分輝いてるよ」って。
彼女の歌声を、俺は一生忘れないだろう。
その夜、隼人からメールが来ていた。そういや俺、前隼人に送ったんだっけな。謝りのメールを。懐かしい。どんなに激しい喧嘩も過ぎてしまえばなんでもない、これは青春の特権かな。
「俺こそごめん あっ、恵と付き合うことにした」なんて素っ気無いメールだろう。やっぱり隼人なりに俺のこと気にしてるんだろうな。それにしても、もう恵って。俺は横倉さんって呼んでたけどな。
「もうラブラブなようだね(笑)まっ『涙の数だけ強くなれる』だ」
俺もすぐに返信した。携帯をパタンと閉じる。
それにしても俺がこんなに笑うのは何日ぶりだろうか。
今の俺には妬みとか、僻みとか、そんなもの一切なかった。友達の幸せが心から喜べるんだ。俺が笑っている時、いつも竹内の笑顔が浮かぶのだった。
ゲゲゲッ、遅刻しそうだ。全速力でペダルをこぐ。追い風が心地よい。空もすっきりしていて、寝坊したのにすがすがしかった。今日は朝練がなかったからなあ。ちょうど曲がり角を曲がった時のことだ。目の前に女の子がいるではないか。
「危なーーーいっ。」
キィーーーーッ。
「あっ、永井君!」
「おっ、竹内じゃん。って、あぶねーよ。つーか、こんな所で何やってるんだ?」
竹内が意味ありげに俺を見て笑う。
「なんだよ?」
「大地君を待っていたの!」俺の顔は赤くなる。
今、コイツ何て言ったんだ?頭の中が上手く整理できない。
「聞こえなかった?大地君。」
「おい、その呼び方やめろよ。」実は少し嬉しかったんだけど、そう言ってみた。
「何照れてるの?全く可愛いんだから。」竹内の人差し指が俺の頬をつつく。俺は自分の顔が、だんだん熱をおびていくのがわかった。どう反応すればいいんだ?俺の頭の中はまるで泥棒に入られた家のようにぐちゃぐちゃで、もう何も考えられなかった。冷静に、冷静に。そうだった!!
「ってかそんな場合じゃねーよ!急がないと遅刻するぞ。」
時計を見たら後五分しかなかった。俺は頑張れば間に合うけど、コイツは頑張った所で間に合うのか。
「竹内、お前走れるか。」
「うん、任せて。あたし足には自信あるんだから。」
数十メートル進んだ途端、竹内がいきなり転んだ。
「きゃぁっ、いたあたたた・・・・。」俺は自転車から飛び降りてうずくまっている竹内に近づいた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。走れるから。とにかく遅刻しちゃうから、永井君は先行ってて。」
バカ、お前を放っとけるわけないだろ。
俺は竹内の目の、微かな涙を見逃さなかった。
「足くじいてるな。無理するなよ。」
俺は竹内を抱き寄せ、自転車に座らせた。
「ちゃんと捕まってろよ。」
もう遅刻は決定していた。でもそんなこと、もうどうでも良かった。
学校の規律なんかより、竹内と一緒にいる時間の方が大切に感じられた。
俺はわざとゆっくりペダルをこぐ。
空には太陽が出ていた、まるで俺たちに希望の光を与えているかのように。竹内はもう泣いてなんかいなかった。後ろから竹内の笑い声が聞こえる。
希望の光を放つ太陽、心地よい風、背中には竹内の温もり―――――
そしてここには何よりも大切な、竹内の無邪気な笑顔がある。
「大地、お前また新たな女の子ゲットしたの?」
放課後、サッカー部の仲間が俺のことを冷やかす。
「教室の窓から丸見えだったぞ。」
「ていうかさ、あの子誰なの?」
「竹内美月だよ。あ、勘違いするなよ、俺別にあいつの子と好きなわけじゃないし。」
俺は冷静に答えたつもりだったが、ぎこちない言葉しか俺の耳を通らなかった。
「たまたまあいつと会っただけなんだ。」
恥ずかしいことがあると、べらべら喋っちゃうのが俺の癖。微妙に耳が熱い。しかし、そんなことを指摘する人はいなかった。みんな黙りこくっているではないか。無言のままランニングを始めるのだった。
――そんなに俺のこと羨ましいか。俺自慢しすぎたかな――
ちょっと舌を出して、俺もランニングしだした。今日は気分がいいのだけれど、みんなが俺の話に夢中になってくれないのが残念だ。
「つまらないなあ!」
そう隼人の方を向いていったが、隼人は俺からわざと目線をそらした。
――何か変だ――
とても空気が重たい。どんよりしていて、絵の具で表現するなら灰色かな。俺はもう一度隼人の横に行き、肩を叩いた。
「俺、何か気に触るようなことした?」
隼人は下を向いたまま首を横に振る。
「竹内はいい奴だよ。」
「あぁ、わかってるとも、わかってるともさ……。」
「そうだ!」
急に隼人の声が高くなった。
「『涙の数だけ強くなれる』って何だよ。」
隼人は話題を変えたいようだった。俺としてはもっと竹内のことを話したかったけど……、まぁいいか!これも本当は竹内が俺にくれた言葉だし。
「俺らの哲学さ。」
そういった俺の顔は、誇らしげに笑っていたと思う。
隼人は、変なの、とでも言いたそうな顔をしていた。俺からしたら、この異様な空気の方が変だけどね。
おかしいとは感じぜずにいられない、この空気の意味が気になって気になって仕方がなかった。
それからというもの、俺はよく一緒に帰るようになった。でも何故か、火曜日と木曜日は無理なのだ、と断られた。「塾に行くから」と言う。一緒に帰ると遅くなってしまうらしい。
すごく天気の良い日だった。気候も最高で、まさにサッカーをするには最適な日だった。今日は木曜日。竹内とは一緒に帰れない日だ。せっかくなので、俺と隼人は居残り練を一時間延ばしたのだった。
ちょうど帰るときだった。校門を出る時、一人の女の子とすれ違った。帽子を深くかぶっていたからよくわからなかったけれど……、あれはどう見ても、竹内以外の誰者でもなかった。
――でも、どうして?今日は竹内は塾なんだよ――
少し不安が残るけど、俺は竹内を信じたい。それに、今は隼人と一緒だ。俺はまっすぐ家に帰ることにした。
家に帰っても落ち着けなかった。何か嫌なものを肌で感じるのだ。”虫の知らせ”というものか。夕食を食べるにも、箸を落したり、味噌汁をこぼしたり……。
「大兄変だよ……。」
妹がそういった瞬間、俺は玄関を飛び出した。
――あいつに会いたい、会いたい、会いたい――
ただ会いたいんだ。理由なんてそこにはない。必死にペダルをこぐ。いつもきちんと整えている自慢の髪も、もうくしゃくしゃだ。食べかけの夕飯の海苔が、俺の白い歯についてるかもしれない。ライトもつけずに信号は全部無視。「あぶねーよ」とドライバーの怒鳴る声。
どんなにかっこ悪くたって、どんなに情けなくたって、
「あいつに会いたい。」
この気持ちは誰にも負けないんだ。
学校の門をくぐった。自転車のまま校庭に突入する。校庭は静まり返っていた。言うまでもなく、竹内の姿はなかった。ここにいるのは……、誰でもない、汗臭い、不格好な自分だけだ。
「畜生!」
俺はしゃがんで拳で地面を叩いた。
「竹内美月ーー」
返事をしてくれないのはわかっていた。でも俺は力の限り叫んだ。
俺の声が校庭に響き渡る。情けなくて弱っちい俺の声。また校庭は静まり返る。
「竹内美月ーー」
叫んでは消え、消えては叫ぶ――。
あいつが来ないことは最初からわかっていた。なのに、何なんだ、この涙は。俺の頬を落ちる、熱い涙よ。
そう、今までもそうだった。急にあいつがふっと消えてしまいそうで、時々俺は怖くなるんだよ。俺が捕まえても、あいつは俺の手からするりと抜けて、あの笑顔で……、「バイバイ」って可愛らしく手を振るんだよ。そそて俺はまた一つ大切なものを失ってしまうんだ。
暗闇の中から何か一点光り輝くものが見えた。その光はだんだんこちらに近づいてくる。ぼやけて見えるから、異常に大きく見えるのか。あぁ、そうか、用務員さんか。彼の懐中電灯が見えるんだ。俺が一人で叫んでいたから、不審者だと思って駆けつけて来たんだ。俺は近くにあった小石を蹴飛ばした。あまり良い当たりでなかったので、小石はすぐに止まった。俺はやるせなさを感じた。
――この俺の情けない顔、用務員さんにお披露目か――
もう逃げようとなんて思わなかった。俺は敢えてこの情けない顔を晒すことを選んだ。こうすることで自分への裁きでもしようと思ったのか。
光はますます強くなった。夜空から出ている月の光と、その光で辺りは明るくなった。……美月だ!
もう逃がしたくはなかった。もう、離れたくはなかった。そこにはただ叫ぶ自分しかいなかった。どんなに不恰好でも気にならない。
「美月――、お前が好きだ!」
美月は迷うことなく俺の腕の中に飛び込んだ。我を忘れた俺は、もう一度、今度は囁くような声で言う。
「美月が好きだ…」
俺は美月を抱きしめなおして、美月の頬の涙を手で拭いてやった。いつもは紅潮している美月の頬だが冷たかった。俺は美月の頭をくしゃくしゃと撫でた。この感覚はもう二度と忘れないだろう。俺の心が、体が美月に魅せられていく。俺は初めて大事なものを抱きしめた、精一杯。美月の涙の理由―、取り合えず聞かないでおくことにしよう、美月が落ち着くまで。俺はずっと美月のそばにいて彼女を見守ってあげるんだ。それが俺の義務である。そう勝手に認識して、俺はもっと強く美月を抱きしめた。
突然、俺の頭に何かがずしりときた。夢の世界から現実に引き戻そうとする何か―。片手で美月を庇いながら、後ろを振り向く。サッカー部の先輩、河野卓の拳だった。
「お前、二年の永井じゃねえか。」
俺は不満げに先輩を見上げた。
「何、いいとこ邪魔するなって?ははっ、よく言うねえ。俺こそ言わせてもらおう。俺の女に手を出すなよ。」
「俺の女?」
思わず聞き返してしまった。女って、誰もいないけど。あぁ、美月を除いてね。
「お前が左手で触れてる奴だよ。」
辺りがいっそう静まり返った。虫の音が俺の頭をますます混乱させる。先輩が見ているのは間違いなく美月で、俺の左手が触れているのも間違いなく美月だった。俺は勢いよく、左手から美月を離した。
「本当なのか?」
俺はいかにも美月を軽蔑するかのように言った。美月はわざと俺から目をそらした。下を向いていて、彼女の口は一向に動く気配がない。いつもの美月のまっすぐな視線はどこにもないのだ。後ろを向いていても河野先輩の、厭らしい笑顔が見える。俺は全てを悟った。
「お前、二股かけてたんだよな……」
俺の声は太く厳しかった。それは美月に言い聞かせるだけでなく、俺自身に言い聞かせてる様でもあった。これでわかった、美月が火曜日と木曜日は俺と一緒に帰れない理由。
「なんで、なんで……よりによって河野先輩なんだよ。」
俺は地面に拳を叩きつけた。そう言うと急に悔しさがこみ上げてきて、涙で地面が湿ってくる。河野先輩―部活のサボり王で、後輩をいじめつくしている嫌な先輩。まさに非道徳的な先輩だ。けれども、そのルックスのせいか、女は腐るほど寄ってくる。そして練習しないくせに、サッカーの技術は格別だ。俺がただの嫉妬深い男なのかもしれないが、心から憎い、俺の大嫌いな先輩。二股をかけられただけで多大なショックなのに、相手が河野先輩なのだから、俺の痛みはなおさらだ。
「そんなに俺のこと傷つけて楽しいかよ……」
もちろん美月は返事などしなかった。顔を上げることすらしない。
「この女、俺のもので良いんだろ?」
にやりと河野先輩が俺に聞く。
「勝手にしろよ。」
敢えて河野先輩の言葉には反応しないで、美月に言葉を投げつけた。美月だけは心から信用していたのに……。俺の心はこうしてどんどんセンチメンタルになっていく。俺はくるりと、美月と河野先輩に背を向けた。
「お前って本当に最低な奴だな。」
河野先輩が帰ろうとした俺をとめた。最低なのは河野先輩だろう。もうこの際、どうなったって構わない。俺のプライドをかけて河野先輩の挑発に答えてやることにした。やられたままじゃ終われない。やり返さなくちゃ。俺は自分が河野先輩を殴りつけるをイメージしてみた。
「お前、この前サッカーの大会に出ただろう。好成績を残したらしいけど。あれは、俺が出してやったんだぜ。」
何を言い出すかと思ったら、この先輩、頭大丈夫かな。なんで俺が先輩に出してもらわなくちゃいけないんだよ。反応するにもできなかった。
「俺があの大会を辞退してやったから、お前が出れたわけ。」
そういや俺と河野先輩は供にトップ下で、河野先輩が出たら俺が出れないし、俺が出たら河野先輩は出れないのだ。あの時は嬉しくて嬉しくて、疑問にも思わなかったが……。
「美月に言ったのさ。俺と、ある約束をすれば永井を試合に出させてあげるって。どうせ俺はあんなレベルの低い、市の大会なんて出たって意味がないし。そうしたら美月はある約束をすることを選んだ。つまり、俺は言いたいのはだな、お前が大会に出れたのはお前の実力なんてものじゃなくて、美月のおかげだっていうことだ。」
俺は唖然とした。俺の知らない所でこんなことが起きていたなんて。でも許せなかった。俺が大会に出れたのは俺の実力じゃないってこと。認められない、というか認めたくない。
「美月は俺の実力を何だと思ってるんだよ。」
答えてくれない美月に腹が立ち、俺は美月の肩を思いっきり掴んだ。
「きゃぁっ。」
「止せよ。」
河野先輩が俺の手を美月から引き離させた。
「普通に考えて無理だろ、お前が実力で試合に出るのは。何せ俺とお前じゃ、天と地ほどの実力差だ。」
無性に腹が立った。でも悔しいけれど河野先輩に言われると言い返せない。認めたくないけれど本当のことなんだ。だからついつい美月にあたってしまう。たぶん、俺は美月に信じて欲しかったんだよ、俺の実力を。
「可愛かったなあ、『私、永井君の喜んでいる姿が見たいんです』っていう美月。恋する乙女って感じで。」
河野先輩の顔からは、あの邪悪な目は消え、優しそうな、しかしどこか寂しげな目が残った。微妙に目が輝いて見えるのは彼の涙のせいか。屈強な河野先輩という固定観念が俺の中から消えた。どんなに強そうに見える人でも、デリケートな部分はあるものだ。俺はその時、初めて河野先輩について少しわかったような気がした。
「ほら、俺の周りっていつも女がいるだろ。」
河野先輩の言葉はいつもと全く変わらないのだが、何故かこの時ばかり、彼の言葉が自慢に聞こえなかった。俺は黙ってうなずく。
「だけどな、そいつらは俺のルックスやサッカーに関しての知名度にくっついて来てるだけなんだよ。」
俺は妬んでいた河野先輩を初めて可哀想だと思った。彼が捻くれてしまうのもわからなくはない。いつも綺麗な女の子たちに囲まれていて、ろくに練習もしないのに彼のドリブルは鋭くて、彼が歩けば周りの子達は道を開け……河野先輩はそんな存在なのだ。俺と比べたら、河野先輩は太陽で俺は月。頑張って練習していたサッカーでさえ、俺は河野先輩という太陽の光をもらわなければ、俺という月は輝くことはできないのだ。実に哀しい。でも、哀しむばかりではない。月には夜空という、立派な味方がいるではないか。俺という月を引き立たせてくれる、真っ黒い夜空。きっとそれが美月なんだと思う。時には俺が夜空になって、美月のサポーターになってあげるんだ。誰一人、一人で生きていける人間なんていないんだから。
「なんで俺、こんなこと永井に話したんだろうな。俺はお前が羨ましいよ。」
そう言って河野先輩は俺に背を向けた。その背中は孤独で、寂しそうだった。河野先輩は本当の愛に飢えている。その姿は以前の俺にそっくりだった、最も立場は違うけれど。
「先輩。」
河野先輩は振り向くことすらしなかったが、俺の声に止まった。
「明日からは練習に出てくださいよ。俺、河野先輩を抜かしちゃいますよ。」
「ああ。」
河野先輩は短く返事をして、足早に校庭から出て行った。きっとそれは俺に涙を見られたくなかったからだろう。河野先輩のプライド。人はプライドというものを脱皮した時、大きくなれるのだ。河野先輩が部活に顔を出すのは、そう遠いことではないだろう。
後には俺と美月が残された。
「美月、俺のこと信用しろよな。」
「うん……。ごめんね。でも、あたし、大地の喜んでる顔が見たかったの。」
ちょっと悔しいけれど、俺はそんな美月が可愛く見えて仕方がなかった。後ろから美月をそっと抱きしめる。
「お前、いつも強がってばかりいるけれど、何かあったら俺に言えよな。」
「あたし強がってなんかいないよ。あたしは強い子だもん。それより大地こそ強がらないでよね。」
俺は男だから強がらなくちゃいけないの、と言おうとしたが止めた。美月はどうせ「誰が男は強がらなくちゃいけないって決めたの?」って言うに決まっている。
「たまには、その……俺にも甘えろよな。」
「……うん。」
恥ずかしそうに美月は微笑んだ。俺はそんな美月の顔に見入ってしまう。
「嫌だ、人の顔じろじろ見ないでよね。そんなにあたしの顔可愛い?」
「ああ、可愛いよ。」
美月の顔はますます赤くなった。
「何て言うかね、お前、輝いてるよ。ほらっ、あの美しい月の様に。」
俺は夜空に浮かぶ眩しい月を指差した。美月も夜空を見上げる。
――君の笑顔が見たいから
無邪気に笑う君が好きだから
君の笑顔を消したくないから――
――俺は進むさ、先が見えない道を
真っ暗なトンネルでは君はランプになり
かろうじて道を抜ければ君は月になれるのさ
そうしたら俺が夜空になって月の君を助けてあげるんだ――
これから先何があるかはわからない。でも俺がすることはただ一つ。大切なものを失わないようにするだけだ。俺は美月の目に残っている涙を救い上げ言った。
「涙の数だけ強くなれる、だろ?」
美月は俺の腕の中で笑った。凛とした花の様な笑顔の美月。
そう、俺にはいつだって美月の笑顔がある。
<終>
-
2004/10/07(Thu)18:53:16 公開 /
夜空
■この作品の著作権は
夜空さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
やっと完成しました。
時間かかりすぎて申し訳ありません。
まだまだ未熟者ですので、楽しんで頂けるかわかりませんが、たくさんの方が読んでくだされば光栄です。
UP遅れて申し訳ありません。