- 『It’s My Life』 作者:ゅぇ / 未分類 未分類
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全角31316文字
容量62632 bytes
原稿用紙約89.05枚
第一話:闇夜
若さとは不思議なものだ。はるかな過去から未来へとのびてゆく時のなかで、苦しい悲しい、と泣き喚きながらも無意識のうちに高く高く、生きいきと飛び上がろうとする。それが哀しいことなのか誇りかなことなのか、誰にもわからない、そんな時代。大人でもなく、かといって子供でもない、ひどく曖昧な境界人として生きてゆく、そんな時代。今思えばあまりに稚拙で純粋な日々だった。色褪せたようでいながら、ふと思い出せば何よりも色鮮やかで美しい日々である。ある日の午後に、不意に思い出して切なくなる、あの独特の胸の痛み。もう二度と戻れないと己の全てが知っているからこそ、時として切に願う。……あの頃に戻りたいと。もう一度だけ、あの頃に戻りたいと。
ビロードのような滑らかな喉越し。桐原真秀(きりはらまほ)は、グラスに残ったブラックベルベットを飲み干して、タバコに火をつけた。瞳を伏せると、頬に影が落ちるのではないかと思うほど睫毛が長い。12月24日、クリスマス・イブ。寒いものの雪が降るほどではない、この日は、真秀の25回目の誕生日だった。無表情のままタバコの煙を吐き出す美しい女性客に、顔馴染みのマスターはあえて声をかけずにいた。それでなくともクリスマス・イブの夜、カップル客が怒涛のように押し寄せる夜である。マスターも、それからまた他の店員も、客の対応に追われていた。
「いらっしゃいませ」
新しく入ってきた客に、一瞬辺りが静まりかえり、その後小さなざわめきがおこった。
「マスター。ギムレット」
若い男だった。どちらかといえば低く、よく通る美しい声色である。客の中でも一際目立つ、すっきりとした長身は抜群のプロポーション、不思議な力を持った強い双眸。驚くほど美しい顔立ちをしたその若い男は、ギムレットを注文するとまっすぐに店の奥へと歩いてきた。それまで全く反応を見せなかった真秀が、ようやくその冷めた視線をあげた。
「久しぶりだな」
手のひらから僅かにはみでるほどの、細長い包みを無造作に差し出しながら、彼は腰をおろした。誕生祝のシールが貼ってあるだけで、リボンもなにもない。ましてやメッセージカードもない、シンプルなそれを一瞥して真秀は改めて彼の顔を見つめた。23歳のときに僅かに会話を交わしてから2年ぶりだ、こうして彼と会うのは。まともに向き合うのは、もっともっと久しぶりかもしれない。
「…………」
運ばれてきたギムレットを口に含んで、男は何故か自嘲的に笑った。タバコの火を消して、真秀はバッグから包みを取り出し、男が真秀にしたのと同じように無造作に差し出す。
「元気そうで、綾」
大財閥若月グループの御曹司、若月綾(わかつきあや)。クリスマス・イブに25の誕生日を迎えた。同じ誕生日・同じ歳の二人。
「……出ようか」
差し出された小さな包みをポケットに入れて、不意に言う。飲みかけのカクテルを放ったまま、綾は席を立った。それに特に逆らうこともなく、真秀は静かに従う。席を立った真秀のすらりとした美しい立ち姿が、床に綺麗なシルエットを残している。客のほとんどが吐息をつくほどに、美しいカップル……理想的なカップルに見えるだろう。
店を出ると、痛いほどに冷たい冬の空気が身体にまとわりついてくる。ダウンジャケットを羽織って、真秀はひとつ大きなため息をついた。いったい何年ぶりだろう。何年もの年月を経て再会したにしては、ひどく冷めた表情。大通りをどんどん北にあがって、閑静な住宅地のほうへ向かう。繁華街から離れ、街の喧騒がまるで聞こえなくなった公園で、二人は自然と足を止めた。
「誕生日、おめでとう」
独り言のように、真秀は言った。何を思っているのか分からない、深い色合いの瞳はまるで綾を見ていない。どこか遠く、宙に視線が浮いていた。
「おまえも……真秀」
思い出す。この男を見ていると思い出すのだ、あの頃のことを。幼かったあの頃のことを。その時にはまるで気付かなかった、過去の美しさ。嫌でもその美しさを思い出すのだった。今ではこの手から消えうせた、そんな日々である。ぼんやりと青白い光をふりまく常夜灯を見つめる、真秀の長い睫毛が微かに震えた。
「まだ、結婚はしないのか」
「相手がいないわよ」
無愛想に応えた真秀の言葉。二人とも眼を合わせないまま、お互い違う方向に視線を泳がせていた。そうだった、いつからかあたしたちは同じ方向を見つめなくなっていたんだ、と真秀は脳裡に甦る思い出をおしころしながら考える。いつからだっただろう、二人違う方向へ目を向け始めてから何かが狂っていったのだと思う。いや、何かが狂い始めたから、二人別々の方向へ歩きだすことになったのか。
「綾こそ、結婚は」
たいして聞きたくもないことを、訊ねる。
「まだ。早くて来年だな。むこうが大学を卒業してから」
「あぁ、今年大学4年?早いよね、知り合った頃はまだ15だったのに」
若月グループの御曹司に定められた、婚約者。綾より3つ年下の令嬢が、気付けばもう来春には大学卒業だという。25歳という己の年齢が、今思うとひどく年老いて感じられる。これからの人生のほうがはるかに長いはずなのに、もうすでに命が暮れかけているような錯覚さえ覚えた。思わず真秀の優麗な顔に、嘲笑めいた笑みが浮かぶ。
「終わったんだろうな……やっぱり」
何が、とは問わなかった。ただ真秀は静かにうなずいた。あの頃に戻りたい、とこんなにも烈しく思ったことはなかっただろう。自分の胸を激流のように駆け巡るその思いに、図らずも真秀は身震いした。
(……断ち切れていない、あたしは)
無意識のうちにしがみついているのだ、過去に。忘れられないのではなくて、断ち切れていないだけなのだ。あの懐かしい日々の思い出だけを頼りに、ぼんやりと生きつづけている。その怖ろしさに、真秀は青ざめる思いがした。
「……真秀!?」
ぐらり、と辺りの景色が回転してゆく。何が何だかわからないまま、頭の真奥で、真秀は綾の声を聴いた。哀しいほどに色鮮やかな何かが、閃光のように真秀の脳裡に奔った。
第二話:夜の太陽
夏。
住宅地の片隅の公園、夜の12時近くともなれば人気はすでにない。ひっそりとした公園の中、青白い灯のもとで、骨が折れるような厭な音が鈍く響いた。人間の身動きによる衣服のこすれる音、それから低く呻く声、数人の少年が倒れ臥した中で、たった一人平然と立ち姿を見せている人影があった。複数の男を倒したのはどんなに屈強な男かと思いきや、その人影はひどくほっそりとした小柄なもので。
「…………」
8月の夜は熱帯夜、肌に粘りつくような厭な風が公園の茂みを揺らす。半袖の白い上着に、幾分色褪せたブラックジーンズ。倒れた少年のひとりが、罵りの声をあげて桐原真秀の足首をつかんだ。真秀の瞳は冷たい。誰もが眼を奪われるほどの綺麗な顔立ちの中で、わずかに銀色を帯びているように見える双眸だけが、やけに冷たく煌めいている。怒っているのか悲しんでいるのか、それとも愉しんでいるのかまるで分からない瞳の色合いなのである。彼女の脚が、足首をつかんだ少年の手を無情にも蹴り飛ばした。ただ面倒くさそうな、鬱陶しそうな色だけが真秀の瞳にたたえられている。少しばかり付着した土埃を無造作に払い落として、彼女はスニーカーの靴紐を直そうと屈みこんだ。風に煽られてちらりと覗いた白い胸元。そこにタトゥー。
「もう12時……」
無感情に呟いて、真秀は歩き出した。彼女の胸元に、十字架を象ったタトゥーが重く沈んでいる。誰もいない舗道、流れる微かな夏の夜風に髪をなぶらせ歩いていると、物思いはとどまるところを知らない。いつだって思い出す。真秀の眼裏を、母親の再婚相手の顔がふとよぎった。厭な顔だった。いったい何と説明すればよいのだろう、これといって見目の悪い男でもなかったが、真秀にとってはひどく汚らしいものに思われる。母親の再婚を、心から祝っていたはずだった。あの日までは。まさかその日を境に、今まで築いてきた温かなものが全て崩れだすなどとは、思いもしなかったものである。あの汚らわしい記憶。殺したいほどの憎しみと死にたいほどの哀しみを知った、怒涛のような火の夜。必ず自分を守ってくれるだろうと信じていた人間が、いとも簡単に離れていく現実。
「真秀? 何してる」
いつの間にか、賑々しさの絶えない歓楽街のほうへと戻ってきていた。
「綾……」
ぼんやりと通りを歩いていた真秀に声をかけたのは、まだ若い男である。若々しい肌と素晴らしい肢体と、それらを見れば若いと分かるものの、彼の双眸は真秀のそれに増して冷ややかな雰囲気を持っていた。その瞳を見ても、長身を見ても、まるで子どもの色がない。ひどく大人びた美しさだけが目立つ。若月綾、といった。
「今帰ろうと思ってたとこ」
真秀は自分よりもずいぶんと背の高い彼を見上げて、答えた。はだけた黒いシャツの下、若月綾の胸元にも同じように、十字架の形のタトゥーが彫られているのが分かる。それは印だった。この無秩序で猥雑な歓楽街一帯、その裏で絶大な力を誇る大きな集団『十字架(クロス)』のメンバーである印。綾が何故そんな集団に入ったのかが、真秀にはいまだ理解できない。あの有名な財閥若月グループの御曹司だというのに、何故こんなにも不安定な場所で生きているのだろう、と思う。
「飯は?」
訊いて、綾は胸ポケットからタバコを取り出し火をつけた。人通りの多いこの辺りで、しばしば二人の姿が人目をひく。名家の子息が何故こうしてふらふらしているのかは、前述のとおり真秀にとってまるで謎だったが、それでも綾が『十字架』のトップにいる男だということは現実。彼と出逢って1年半余りの夏の夜である。
「今から食べに行くわ。綾は」
「俺も行こう」
真夜中の徘徊に、流血沙汰のケンカ。やっていることはまるで非行少年のそれなのに、しかし綾のどこにも乱暴な匂いはない。なまじ整った美貌を持っているせいか、全ての仕草に神秘的な気品が感じられ、その気品がむしろ暴力的なほどに他を威圧するのだった。血の気の多い少年たちが、幾度束になってケンカを売っても彼には勝てない。いつだって悲鳴をあげて逃げてゆくのは挑戦者ばかりである。猥雑な街の中にいる息子をとめる人間は、今の若月家にはいなかった。両親は外国暮らし、まさか家政婦に止められるような生易しい男でもない。家を飛び出した真秀がそんな彼に出逢って、そして拾われたのは彼女にとってきっと幸運だったのだろう。
「マスター、何でもいいから夕飯作ってくれる」
通りから暗い路地に入って数分。ほんのりと光る橙色のフットライトが眼に温かいカフェ&バーがある。上品な店だった。胸元に見える『十字架』の証さえなければ、名家の御曹司以外のなにものにも見えない。いつも真秀は思う。本来、彼はこのような場所にいるべき人間なのだ。真秀とは違う。真秀のような野良猫ではない、彼は血統書つきのペルシャ猫なのだった。だがしかし、時折感じる不思議な胸の痛みを真秀は何とも思わない。どうやら己の運命を哀れんだり悲しんだりするような性分には生まれつかなかったらしい……。同じ生活をしながら、まるで立場の異なる同い年の男を、真秀は静かな思いで見つめている。
あ、そうだった。この男とあたしは、あの時からずっと違っていたんだ。何を勘違いしていたのだろう。あたしたちはきっと同じ方向を見ている、なんて。そんな馬鹿馬鹿しい夢。愚かしい、とは思ったが、あの頃の自分がひどくいとおしく思える哀しさに涙が出そうだ。
(……あたし……)
久しぶりに綾と再会して、無様にも倒れたことは遠く頭の奥で分かっていた。目を開けようとしたが、どうしても叶わない。一度真秀をとらえた過去の檻は、どうやら彼女をまだ解放してくれないようだった。真秀の心がひどく弱々しくもがいたが、それは怒涛のように烈しく、懐かしく、そして美しい思い出の中にどんどん沈んでゆく。一瞬現実に戻りかけた意識が、再びやわらかく薄れていった。過去に囚われるのは屈辱的なことだったが、真秀を包む想い出があまりにも優しすぎて。
(あたしは何を間違ったんだろう……)
失った日々は、何故こんなにも色鮮やかなのだろう。こんなとき一緒にいてくれる家族がいたなら、と夢見ることはとうの昔にやめた。まだ真秀の意識は底までゆきつかない。このまま眼が覚めなくてもいいかもしれない、と深淵に沈んでいく心の中で、真秀は思った。晴れあがった青空のように、高々とした心を持たねばならぬと、どこかでそんな不思議な使命感を抱いて生きていた頃。あの頃に戻りたい、と。苦しくても輝いていたあの頃に戻りたいと、さっきも思ったことを頭の真奥で再び思う。あたしの心には、きった何か一番美しいものがあるのだと、信じていた。あたしの未来は、きっと真夏の太陽のように輝いているのだ、とも。少なくとも綾の存在は、真秀にとって夜の太陽だった。闇を照らす唯一の光。それが自分の勘違いだと理解したとき、哀しくも恨めしくもなかった。ただ永遠の死が訪れたかのように、深く深く寂しかった。
(綾……)
そうだ。すべてが動き出したのは、確か19の秋。抜けるように蒼い空が、何故かひどく哀しいと思ったのを今でも覚えている……。
第三話:愛の夢
真秀は、愛されていた。誰よりも優しく、誰よりも深く綾に愛されていた。周りの女は皆真秀を羨んだし、男は皆真秀に愛される綾を羨んだ。それはずっと一緒に暮らしてきて移った情だけではなく、何よりも深い温かい家族としての、そして何よりも深い恋人としての愛情。少なくとも綾の瞳に欠片の嘘もなかった。それを真秀もよく理解している。だから。
「私が綾の婚約者なんだけど」
だから、そうやって突然16の少女が言い放って若月家に居座り始めたときも、真秀はあえて何も言わなかった。綾もまるで彼女を相手にせず、彼の瞳はいつだって真秀を見つめていた。
「俺の幼馴染みだよ」
相変わらず『十字架』のトップであることには変わりなかったが、もともと頭脳明晰の綾はきちんと大学に通っている。大学から帰ってきて、真秀の部屋でくつろぎながら彼はこともなげに言った。
「両親が決めた俺の婚約者だ」
また、思い出す。彼は、両親に婚約者まで決められるような家に生まれたのだと。不安なのか、それとも家柄に縛られたような綾の状況を哀れんでいるのか、真秀は幾分眉間にしわを寄せて、ベッドに腰をおろす彼を見下ろした。真秀の耳には、深みのある青いキャッツアイのピアスが光っている。去年の誕生日に交換したプレゼント、綾の耳にはきらきらと輝くシルバーのピアスが。
「結婚、するの?」
短く、訊いた。まさか、と答える綾の口調がはっきりしている。彼が結婚しないと言うならば、する気はないのだろう。無駄な嘘はつかないタイプの男だ、とこれだけ長い間一緒に暮していると分かるものだ。
「不安なの?」
下から顔を覗き込まれて、真秀はついと視線を逸らした。不安、といえば不安かもしれなかったが、しかし何故不安なのかははっきりとした形では認識できずに、真秀はただ困惑して黙り込む。ありふれた表現をすれば、愛する男と共にいることができるこの幸せが、いつ崩れるかわからないという不安か。しかしそんな不安をあっさり口にする性質の女では、なく。
「心配ない。俺はおまえを愛してるよ」
違うのよ。そんなことは心配していない、そんなことではなくてもっと何か、深く重いもの……。ひっそりと言葉を失くした真秀を、綾はまるで小さい子どもをあやすかのように抱きしめて笑った。階下から、綾を呼ぶ少女の声が聞こえる。真秀の瞳が、小さく揺れた。
(……崩れていくわ。こうやって)
心の奥底。そんなどす黒い予感が、淡雪のようにかすめてゆく。不安なのは、あたしの拠りどころが綾しかいないからに違いない。何とかしなければ、と真秀は悲しく思った。
婚約者の名は、井澤千春といった。見るからに品のよさそうな、けれど幾分わがままそうなのが見てとれる顔立ち。生まれながらの『お嬢様』として育ってきたのがよく分かる。きっと望んで手に入らないものなどないのだろう。
「桐原さん、あなたいつまでここに居座るつもりなの?」
この家を出なくてはならないと、真秀も思っていた。うまいものだ。綾がいない隙を見計らって、この千春という少女は人の心に的確に毒針を打ち込んでくる。真秀はこの娘が好きではなかった。綾の婚約者だからではなく、一人の人間として、一人の女として、真秀の中の何かがひどく千春に対して反発している。それはきっと千春も同じであるに違いない、いつだってわざとらしく『桐原さん』と呼んでくるし、言葉の端々に棘が見え隠れしていた。優しくされるのを望んでいるわけでもなく、かといってケンカしたいわけでもなかったが、彼女を見るとただただひどく厭な心持ちになるのであった。理由は分かっている。
「ねぇ、綾。お父様がね、千春の誕生日プレゼントにホテルのスイートを貸しきってくれるんですって。一緒に過ごしてくれるでしょ? お父様もお母様も喜ぶわ」
真秀は綾を深く愛している。千春も綾を深く愛している。真秀には誰にも負けない優麗な美貌がある。千春にもお嬢様らしい綺麗な容貌がある。けれど、真秀には決定的に足りないものがあった。しかし、千春には生まれたときから与えられているもの。
「悪いけど、桐原さんは留守番していてね。家柄もなくて、頼る家族もいない人なんてお連れするわけにはいかないのよ」
家柄。頼ることのできる家族。綾と同じ立場。そういったものが、何ひとつ真秀にはない。それらが何より大切なものだというわけではない。今さら家族を恋しく思うこともない。家柄を欲しているわけでもない。けれど、それも時と場合によるものだ。家柄が、立場が、何よりも必要な時だってある。誰だって知っているだろう? 現実はそんなものだ。
「真秀。あいつはおまえに嫉妬しているだけだ、放っておいていい。間違ってもあれの言うことを真に受けるなよ」
けれど本当のことだ。千春の打ち込んでくる言葉の針の数々は、すべて本当のこと。千春に言い返したことは、一度もない。綾の幼馴染で婚約者だ、という事実だけが真秀の全てを抑えていた。
そしてそうやって三人は千春の誕生日を迎えた。10月初めの日曜日。夜から綾とパーティーに出かけるといって、朝から衣装選びに躍起になっている少女を見ると、真秀はふと悲しくなる。この子にとって、あたしはただの邪魔者。実際には、あたしが綾と千春の中に割り込んだよそ者なんだわ。途中から不意に現れて、家柄も何も持たないくせに愛する人を奪っていった憎い女にしか見えないだろう。ほっそりとしたジーンズ。ゆったりとした黒いセーターを無造作に着た真秀は、目をみはるほどの気品があったが、その格好はまるで千春と正反対であった。
リビングでぼんやりと綾の帰りを待っていた真秀は、玄関の開く音で正気にかえった。時計はまだ午後3時過ぎを指している。この時間には、まだ綾は帰ってこないはずで、それを不審に思った真秀がリビングの戸を開け、玄関へ足を運んだ。そして、立ち尽くした。あっ、と思った。それから、時間が止まった気がした。
「君が……桐原真秀か」
あぁ、やっぱりあたしの存在は調べてあるんだ、と真秀は心のどこかでひどく冷静に納得してみる。
「わたしの息子をたぶらかしている若い女性とは、なるほど……」
このテの人間は、みんなこう感じが悪いのだろうか? 目の前に立つ恰幅の良い紳士は、何か不思議なものでも見るかのように真秀を見た。どう見てもあんたと同じ人間なんだけど、と真秀は冷めた思いで彼を見つめ返す。崩れていく、と思ったのはこれだ。不安だ、と思ったのはこれだ。いったいどうしたというのだろう、悲しくとも悔しくとも、何ともない。このときが来たんだ、と真秀の思考は乾いている。
「綾はまだ帰ってきていないのか……」
綾の父親は、いい時間に訪れたとばかりに真秀を見下ろした。
「ちょうといい、出て行ってくれるね。手切れ金ならいくらでも用意してやるから」
「……はい」
自分の応える声が、ひどく遠くに聞こえた。自我が何かに支配されて、その支配した何かが言葉を発しているかのような不思議な感覚。いくらでも用意してやるから、だなんてドラマみたいな台詞、ナンセンスだわ。あたしには温かい家族もいない、地位もない、家柄もない、もちろん財産だってない。
(……でもプライドはあるわ)
綾のためであっても捨てられない、人としてのプライドが。恋人のためにならプライドも捨てる? そんなこと出来るはずなんてないわ。綾の綺麗な冷たい顔が、眼裏に甦った。
(綾……)
心が、彼を痛々しいほどに求めている気がした。綾、あたしはあなたを愛している。でも、あたしは必要以上に物分かりが良いみたいね。ここであなたの父親とケンカする気力もないわ。バカだった、あたし。もしかしたら、最初からあなたと出会ったりなんかしなければ良かったのかもしれない。
うっすらと真秀の瞳が開き、枕元にいた綾の美貌が安堵で小さく輝いた。
「真秀……気付いたか」
いろいろと余計なことを思い出していたようだ。胸がやたらと詰まる思いがする。ようやく意識が25歳の現在に戻ってきたようだった。真上はホテルらしき白い天井で、自分の身体が横たわっているベッドは美しいブルーのペーズリー模様。真秀の病院嫌いを覚えていたのか、それとも手近なところにホテルがあったのか、ここはどうやら病室ではないようだった。
「綾……」
真秀が呟いた言葉は、あまりに小さくて、彼が聞き取れたかどうか定かではなかった。しかし安心したような綾の表情がひどく不思議に思えて、真秀は彼の瞳をぼんやりと見つめた。昔から変わらない、深くきつい双眸だ。まずい、と思ったのも束の間、抑えようとした真秀の瞳から一筋涙がこぼれた。青ざめた頬を伝って、ベッドの上にぽたりと落ちた涙が何故かとても切なくて。ぬぐうにもぬぐえずに、真秀はただ目を瞑る。厭な夢を見たようにも思えたし、懐かしい美しい夢を見たようにも思える。
「大丈夫だ、眠ってていい」
真秀が倒れたことと、それから珍しい彼女の涙に綾もさすがに動揺しているようで、彼はわずかに震える声でそう言った。きっと彼も思い出していたのだろう、瞳の奥に悲哀の色がちらりと見える。何を間違ったのだろう、まさか出会ったときから何かが間違っていたのだろうか。出会わなければ良かった出会いはないだなんて、そんなのは嘘だ。あたしはこの人と出会わなければよかった。もっと普通の恋があったはずなのに。だって、忘れたくてもこんな男はもう二度と忘れられない。あたしの心に、バカみたいに烈しい印だけ残してゆく。この先こんな人とは決して出会えないだろう。身体中の力が、今は抜けていた。髪をそっと撫でて寝かしつけてくれようとしている綾の大きな手の感触が、ひどく心地よい。ねぇ、綾。あたし、どんなに苦しくても悲しくても、あなたと一緒にいたかったわ。今、改めて思う。結局こんなに過去に囚われて苦しむなら、もっと他の苦しみ方が良かったって。あたしが、死んでしまえば全て終わるんだけれど。もう少し、もう少しだけあなたといたい。あなたがいてくれるなら、このまま死んでしまうのもかまわないくらい。再び意識を手放しかけた真秀の瞳から、また涙が流れた。
(……やっぱり再会なんて、するんじゃなかったかもしれない……)
現実なんて、こんなもんだわ……。
第四話:冬の月
「何で家を出た?」
「……出ないわけにいかないわよ。そろそろ出ようと思っていたところだし」
幾分そっけない感のあるソフトな声色が、ベッドの中でわずかにくぐもった。ずっと働いてお金は貯めていたし、一人暮らしをはじめるのに特に問題はなかった真秀である。繁華街の中にあるバイト先から歩いて数分の、小さなアパートの一室。真秀が若月家を出てから、綾は足繁くここに通ってきていた。
「俺に何も言わずに……」
「でもこうして会えるんだし……そんなことより夜ごはん連れてってよ」
真秀は、この手の話題をしばしば避けた。将来に言及しなければならなさそうな話題は、あまり持ち出したくなかった。だからわざと話題を変えて綾に抱きついてみる。甘えたときに、仕方ないなといったように見下ろしてくる彼の瞳が好きだ。微かに笑っている口元が好きだった。
街に出ると、厭なことを少し忘れられる気がする。あまりににぎやかで、猥雑で、ごみごみとしていて、だから余計に。よく行く店に向かおうとした二人の行く手を、その時ちょうど何かがふさいだ。
「……『十字架』の真秀じゃん」
若い少女が一人と、少年が二人。行きかう人々のなかで、若者たちが足を止めはじめる。サラリーマンなどは見て見ぬふりで足早に通り過ぎてゆく。真秀は黙ったまま行く手を塞いだ人間の目を見た。もともとそんなに優しい性質ではない。無駄に行く手を邪魔されたりすると、不機嫌になる。
「へぇ、近くで見てみたかったんだよねぇ……」
何かがおかしい、と真秀は思った。綾が……『十字架』の有名人がこんなに近くにいるのに、それには眼もくれない。何の萎縮もない。たいしたオーラを放つ人間でもないのに、綾の存在をまるで無視して、ただ真秀に絡んでくる。少女が人を小馬鹿にしたふうで、真秀の顎に手を伸ばした。
「触んないでくれる」
綾が動く前に、真秀が自分で女の動きを制した。
「おまえ……」
真秀の前に出ようとした綾に、少年が声をかける。
「綾さんは黙っててください。お願いします」
妙に礼儀正しい口調。
(あぁ……)
納得がいった気がして、真秀は小さくため息をついた。少女の手首を握りつけたまま真秀は彼女の身体をぐいと押し返す。
「通して。邪魔だわ」
「……ちょっとふざけないでよ! ちょっと、ねぇ!?」
「どいてって言ってんのよ。耳ぐらいついてるんでしょ、聞き分けな」
ケンカをしている時だっていつだって、ごく静かな表情の真秀が、珍しく殺気立っていた。声色も顔も綺麗なだけに、ひどく凄みがある。一瞬少女たちがたじろいで、数歩後退した。
「あんたは綾さんと不釣合いだわ!!」
真秀の何かがぱちん、とはじけた。
「あんたよりはマシだけどね」
風のように動いて少女の顎をつかむと、真秀は低く声を抑えて言う。今の真秀にその言葉は重すぎた。少年たちは手も出せずに立ち尽くす。真秀の冷え冷えとした気迫に、まるで歯がたたないようだった。口をつぐんだ少女を放って、真秀はそのまま歩き出し、綾もそのままそれに続いた。
「真秀……」
「わかってる。あれ、綾のお父さんの差し金ね」
綾に対する妙な態度。馬鹿馬鹿しい、と真秀は唇を歪めた。だから何を間違ったというのだ? ただ単に出会って惹かれあって、ただ単に愛し合って、だから何がいけないと? 真秀に足りないものがあるから? 鬱陶しい、何もかもなくなってしまえばいい。
「綾、好きよ」
心からのその言葉が、ふわりと宙に浮いた感じがした。
綾から別れを告げられたのはその年の冬。ちょうどぱらぱらと雪のちらつく、二人の誕生日だった。よく覚えている、あの日のこと。暖房もつけずにぼんやりとしていた部屋に、彼が静かに入ってきたあの日。
「千春と正式に婚約した」
不思議なほどに落ち着いている自分が、何だかひどく滑稽に思えた。まるでショックというものがない。分かっていた結末、すでに何回も見てしまった映画のように。真秀は、薄く笑った。
「真秀、俺は千春を見つけた。おまえもいつか誰かを見つける。俺たちはもう無理だ、諦めよう」
言葉が真秀の心をかすった。おまえもいつか誰かを見つけるだろう? 違うわ。あなたにとってはあたしが一時に人でも、あたしにとってはあなたは一生の人。決して消えない唯一の人。あたしがどれほど誰かを見つけようとしたって、きっと見つからない。あたしは、綾しかいらない。綾じゃないなら、必要ない。けれど、彼は彼の結論を見つけてしまった。
「あたし、綾と出会わなければよかった」
今までいったい何度思ったことだろう。それを初めて、真秀は綾の前で呟いた。綾の冷たい美貌が、今は本当に冷たく見える。何もかもが少しずつわからなくなってきた。どこから全てが狂いだしていたのかも。
「でも出会ってなくても、後悔してたかもしれない」
「……いつ、どこで俺たちの道が一緒になるのか、まるでわからなかったな」
アパートの下まで二人並んで降りる。通りのほうの賑やかさが遠く耳に響いてきた。まるで綾にふさわしくない古いアパート、ごちゃごちゃした自転車置き場。雪はやんでいた。そのかわりに月が出ている。身を刺すような寒さの中でくっきりと姿をあらわした冬の月を、二人はしばらくぼんやりと見つめた。二人の軌跡が、あれぐらい鮮やかだったなら良かった。
「真秀……身体を壊すなよ」
振り返った唇に、彼の唇がかするように小さく重なって。それから綾はすぐに背を向けた。小さく、真秀は微笑んだ。乾いた唇の感触、もう今では慣れてしまったその感触。カンカン、と階段の音が辺りに響く。鍵をあけて部屋に入り、ぺたりと真秀は座り込んだ。あ、この時がきたんだ、と今までに何度も思ったことを、また思う。この感覚にはもう慣れた。テーブルの上に置きっぱなしのコンパクトミラー。寒さで少し青ざめた顔が映っている。耳に青いピアスが光った。真秀の細い指が耳に伸びる。小さく肉の切れる音がして、青いピアスが床に転がり、白い手指が溢れた血で濡れた。
「……痛……」
ぽつりと呟いて、真秀は転がったピアスに視線を落とした。そして、初めて頬に涙が伝った。耳が痛いのか、綾との別れが哀しいのか、何なのか分からないまま涙が止まらない。涙を流しながら、ひどく笑いたい衝動に駆られて真秀はベッドに倒れこんだ。
『あの娘を捨てなければ、彼女の命の保証はない』
綾がそう言われてここへ来たことを、真秀は知らない。知らなかったが、決して彼に嫌われたわけではないということは直感的に感じていた。だから余計に、胸が痛んだ。あたしは、何を間違ったんだろう。あたしたちは、何故出会ったんだろう。何故運命は、あたしからいろんなものを奪っていくんだろう。それって、あたしのせいなんだろうか。あたしが悪かったのだろうか。まただ、今まで何百回となく思ったことが頭をめぐる。狂ってしまいそうだ、もう狂ってしまいそう。死んだほうが楽かもしれないと思って、真秀は初めて声をあげて泣いた。
「好きなのに何で……」
今頃、千春は晴れ晴れとした顔で笑っているのだろうか。その隣に、あんなにも見慣れたはずの綾が立っているのだろうか。どう考えたって、真秀と綾の道が重なるとは思えない、二人を遮る人間全てが消えない限りは。そしてこうして泣いている情けない現状。この現状を打破するにはどうすれば良いか? 真秀はわかっている。忘れるしかないのだ、彼のことを。そして彼に関わる全てのことを。……忘れられやしない。何もかも分かっているのに。自分の微かな泣き声が、真秀の自尊心をひどく傷つけた。あたしはこんなことで泣く女だったのだろうか。そう思うと、妙に自分が憎たらしく感じられた。泣いていいんだとか、弱音を吐いていいんだとか、そんな環境で育ってこなかったのが真秀の弱みでもあったかもしれない。
「綾……」
名前を呼べば戻ってくる、そんな望みはまるでなかった。だいぶ前から分かっていた結末。真秀の全てが事実を理解しているのに、ただ心がついてゆかない。その日一晩泣いただけで、真秀は再び想いを押し込めた。
それっきり綾の名を口にすることもなくなったし、涙を見せることもしなくなった。周りの人間が、彼女が『十字架』の人間であることを忘れるほどにひたすらバイトに打ち込むだけになって。
綾は綾の道をゆく。あたしはあたしの道をゆく。綾はきっとあたしを忘れることはないだろうし、あたしも綾を忘れない。それだけ。何を間違ったのか、どこで歯車が狂い始めたのか、そんなことはもう二度と考えないほうがいいに違いない。ほかの人と同じように惹かれあう恋をして、他の人と同じようにうまくいかずに終わる恋をしたのだ。別れる恋人もいれば、ずっと離れない恋人もいる。真秀と綾は前者に含まれた、たったそれだけのことだ。綾は特別だった、なんて思わないことだ。考えれば考えるほど苦しくなるだけ、つらくなるだけ、哀しくなるだけ。
「ここんとこ、真秀ケンカしなくなったよね」
「だよね。前までは売られたら絶対買う女だったのに」
駅前のカフェで働くバイト仲間は、そういう。愉しそうにこちらを見てくる彼らから目を逸らして、真秀は小さく声をあげて笑う。
「何それ? あたしは昔っから小心者よ」
そう、若月綾なんて、知らないわ。
第五話:記憶
バーの中では、ごくちょうど良い音量で『ロンドカプリチオーソ』が流されていた。耳に心地よいピアノの音が、どうやら人の心をほぐすらしい。滅多にクラシックなど流さない店長の、気まぐれであろう。デビッドボウイが大好きな店長である。
「どうした、真秀? 機嫌が悪そうだけど」
駅前のカフェで働きだしてずいぶん経った。
「しっっこいのよ。常連客が」
どこのエリート会社員だか知らないが、しばらく前からの常連客がやたらと真秀に言い寄ってくる。未成年のときのように誰彼かまわず殴りとばすわけにもいかず、夕飯の誘いだけを何とかこなしてようやく解放されたところだった。22歳、大学4回生も大半が過ぎた。若月家の御曹司と別れてから、大検を取って大学を受け、まともに大学生活を送っている真秀ある。もともと頭が良いほうで、高校程度勉強はすぐにマスターできた。別段子どもが好きとか、勉強が好きとかいうわけではなかったが、簡単に取れそうなのが教育免許だったから、その単位をとってきた。教育実習も無事終えて、教員採用試験も無事一次を通過して、一年遅れとはいえ普通に『大学生』をやっている。
「で、おまえ教師になるの?」
「さぁ……うまいこと採用されればいいけどね。科目も地味に国語だし」
ほとんど吸っていないタバコを灰皿に押し付ける。もう夜の12時近い。今夜は珍しく客が少なかった。マスターが話しかけてくる。夕飯を済ませているなら、と言って彼はアレキサンダーのグラスを真秀の前に差し出してくれた。見た目がひどく上品な、真秀の好きなカクテル。
「もうすぐおまえも23になるんだなぁ……」
「ってことはクリスマス・イブか。忙しくなる前兆だ」
馴染みのバーテンも笑って言う。もうすぐ23歳になるんだ、と真秀は改めて思った。23といえばまだ若いはずなのに、何だかもう人生の晩年のような気がするのが妙におかしくて、笑える。人生の前半に、いろいろ経験しすぎたのが原因かもしれない。父親が蒸発したり、母の再婚相手に乱暴されたり、母親から嫉妬され虐待されたり。それから……。それから、まるで身分違いの財閥の御曹司と恋をしてみたり。
(あたしって、意外に打たれ強いのかも)
悲しい思いも苦しい思いも、悔しい思いもたくさんしたはずなのに、それでも今こんなに元気な自分がいる。もしかしたら、本気で傷ついたり悲しんだりしたことなんてないんじゃなかろうかと思うほどに。
「真秀ってば、まだ彼氏いないの?」
ここの店員は、みな真秀と顔馴染みだった。まだ真秀が10代だったころから出入りしていた店である。真秀をまるで妹のように可愛がってくれるバーテンダーが、からかうように言った。
「ホント、美人なんだから彼氏の3、4人いてもおかしくないのに」
「彼氏って、複数いるもんなのか?」
「そりゃあ、真秀の顔じゃあ何人いてもおかしくないでしょうよ」
「あぁ、なるほど」
いつもと同じだ。くだらないことをしゃべりあって、笑い合う。そんな心地よい場所。
「彼氏できたら連れてきなさいよ?」
真秀は笑ってうなずいた。
「いらっしゃいませ」
ドアに近いほうの客にカクテルを作っていたマスターの声で、真秀と話していた二人も接客のためにその場を離れた。残り少なくなったカクテルを飲み干す。甘いテイストにナツメグの香りがふわり、と漂った。
「真秀」
一人になってぼんやりと宙を見つめていた真秀の名が呼ばれた。
(…………)
ゆっくりと、真秀は視線をあげた。怖ろしいものでも見たかのように、真秀の瞳が揺れる。傍目には凍りついていたかもしれない。
「真秀?」
もう一度呼ばれた声で、真秀はようやく正気に戻って声の主を見つめた。まるで、変わっていなかった。変わっていてくれれば、まだ良かったかもしれない。
「……綾」
すっきりとした長身。綺麗に整った男らしい美貌。幾分冷ややかな双眸も、以前のまま。間違いなく、若月綾だった。別れたのは19の冬。あれからちょうど4年になるか。短いようで長かった年月。
「久しぶりだな」
ひどく苛ついた。忘れよう、忘れようとしてきた4年の歳月が、今この瞬間に無駄になったようで、真秀は思わず眉をつりあげる。今ここで同じように、久しぶりね、と笑えというのだろうか。こんなときに彼の心中を察するほど余裕のある女じゃない、と真秀は腹立たしく思った。
「そう、ね」
かろうじて、それだけ口にする言葉が震えた。偶然会った、というふうではない。真秀が今でもよくこのバーに出入りしているのを知ってのことに違いなかった。自分の唇が、情けないほど乾いているのが分かって真秀はうつむいた。流血沙汰のケンカでも、こんなに緊張したりしない。これがケンカだったら余程いいのに、と馬鹿げたことを真秀は思った。
「千春と留学に行っていた。おまえがここを今でも訪れると知って、来てみた……」
『千春』。その名前も覚えている。幾分乱れ揺れていた真秀の思考が、そこでぴたりと止まった。
「俺と千春が結婚したら、立場上、二度と会えなくなる」
すぅっ、と何かが真秀の中から退いてゆく。自分でも驚くほど落ち着きが戻ってきた。二度と会えなくなるから、今会いにきた? だから、あの冬あの晩、別れたまま二度と会わなくて良かったのに!!
「マスター、出るわ」
マスターだけは、真秀と綾のことを知っている。彼は黙って精算を済ませ、接客に戻ってゆく。その気遣いがありがたい。黒いコートを無造作に羽織って、真秀はやや乱暴にドアを開け外に出た。
「真秀、俺は……」
「あたし、帰るわ。お互い会わないほうがいいのを分かってるのに、わざわざあたしを訪ねる必要ないのよ」
「俺はおまえをまだ……」
「それ以上は言わないほうがいい、綾。あたしたちは、もう別々の道に進み始めたって、わかってるじゃない。今、下手に自分の心を打ち明けたところで何が変わる? いろんなものが、また狂い始めるだけよ」
愛し合っている、それだけではどうにもならないものが、この世にはある。真秀は、それを知っている。綾も。愛が権力や地位に勝つときもあるだろう。それと同じように、権力や地位が愛に勝つときもあるのだ。真秀たちの愛は、それに負けただけ。もうそのことに触れられたくない。
「街で会うことはあるかもしれない。その時はきっと、普通に挨拶くらいできるわ。それでいい」
綾が黙ってこちらを見つめる。もしかしたら、一番苦しんだのは彼かもしれなかった。けれど、仮にそうだとしても、もうどうしようもないのだから。ゼロに立ち戻って、もう一度生きてゆくしかないのだから。いつかそれで良かったとおもえる日がくるに決まっている。仕方ない。
(きっとそれがあたしの人生なのよ)
もしもあなたと逢うことが
なければきっと心静かで
あなたを想って心ゆれ
あきらめきれぬ自分を憎み
もしもあなたと逢うことが
なければきっとこんなこと
出会うはずのない世界で
出会ってしまった過ちを
光のなかで烈しく悔やむ
もしもあなたと逢うことが
なければきっと
あなたを想って心揺れることなく
あきらめきれぬ自分を憎むこともなく
もしもあなたと出逢わなければ
『あふことの 絶えてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし』
中納言朝忠
第六話:ギムレット
時計は4時過ぎを指していた。ベッドから見える窓の外は夕陽らしい色で溢れかえっている。現実感がないままに、真秀はベッドの上に上体を起こした。すぐ傍らのサイドテーブルに、飲みかけらしいギムレットが放置されている。綾が自分で作ったのだろう、そんなにギムレットが好きなのだろうか。けれど思う。綾は、ギムレットのような男だと、時々。何かの小説に書いていなかったろうか。やわらかな甘さと鋭い強さをもちあわせたカクテル、とか何とか。綾のふとした拍子に見せる甘やかさに惹かれ、冷ややかで鋭い強靭さに惹かれ、何度もその腕の中で笑ったことを思い出す。どれほど気を失っていただろう、記憶が正しければ今日は12月25日のはずである。誕生日の昨日、いつものバーで久々に綾に会って、それから倒れた。
「起きたか」
「綾……」
向こうのソファに、真秀のダウンジャケットがかけられている。少し汗をかいたようで、昨日から着ているハイネックの服がわずかに不快に感じられた。
「悪かったわ、手間をかけて。まさか倒れるなんて……」
何も言わずに、綾は小さく笑った。視線を落として、控えめに笑う顔が懐かしい。
「夢を、見たわ。昔の夢を」
綾と一緒にいた、昔の夢を。決してこれからの夢にはなりえない、過去の美しく悲しい夢を見た。その夢の中で、無意識に心を整理していたのだろうか。不思議と今の真秀の心は落ち着いていた。ずっと意識を失くしていた病人が、記憶を失くして甦ったような、そんな感じ。子どもの頃に抱いていた夢を不意に思い出して、あの頃はそんな夢を見ていたな、と懐かしく思うそんな感じ。
「真秀、逃げようか。二人で」
だから、綾がそう言ったときも真秀は驚かなかった。
「馬鹿ね。若月の御曹司が何を考えてるわけ」
「俺が考えてること? 19のときに別れてから、ずっと桐原真秀のことばかりを考えているけど、それが何か?」
どうかしてしまったのだろうか、と真秀は思った。綾から言い出した別れだったではないか。それが6年も経って、突然何を言い出すのだろう。
(あたしがここで受け入れてはいけない)
きっとうまくいかない。
「真秀、俺は終わらせない。俺が守るから」
「別れを切り出したのも綾だったわ」
責めているわけではない。
「もう俺はおまえを守れる。親父に手を出させたりしないから」
必死になっているように見える綾が、以前と変わらず愛しく思われた。こんなに美しくて、仕草のひとつひとつが洗練されていて、誰からも憧れられるような綾の、時折見せる子どものような頑固さ。女をまるで不快にさせない強引さ。どうして良いかわからなくなる。自分がどんな行動を取るのが一番いいのか、惑わされる。
「真秀」
いわれるままに綾についていきたい衝動に駆られる。そうして幸せになれるかどうか全く予測もつかないけれど、心も身体も、真秀の全て何もかもが綾を求めている。よく考えればわかる。幸せになることが望みなのか? 違う。綾の傍にいることが望み。そのはずだ。
「綾、聞いて」
いつもと変わらない涼やかな眼元。冷たく見える美しい容貌。この男が、どこにでもいるようなごく平凡な男なら良かっただろう。なのに彼はどこにいてもわかるような異質のオーラを放つ。一目見たら決して忘れられないような、強烈な空気を。シャツからわずかにのぞく十字架のタトゥーが、懐かしく切なく真秀の心をうった。
「綾、あたしたちはもう終わった。月並みなセリフだけど、もう終わったのよ」
真秀は、ずっと寝ていたせいで痛む体をそっと起こし、ベッドから降りた。
先ほどまで辺りを照らしていた冬の夕陽は、すでに沈みきっている。群青色の空を見る間もなく、外はネオン輝く夜空に変わっていた。時間が進めば進むほど、外の喧騒がはげしくなってくるような街中。
「綾は、あの子と結婚する。あの時、全てを決めたのは綾よ。もう覆せない」
「それでもだ」
真秀は首を横にふった。ここで彼についていけばいい、そうすれば綾と一緒にいられる。その想いを、真秀の中の何かがぐいぐいと押し戻した。何故なのかわからない。怖れだ、とは思う。また引き裂かれることになったら、という恐怖感。まるで事故の後遺症のような、そんな恐怖感。不安。
「そんなに頑なに拒否されると余計に気合が入るな」
防音性の高い、質のよいホテルの一室。静謐(せいひつ)とした空間に身をおいて、苦笑をたたえながら呟くように言った綾を見て、思わず真秀も唇を歪めた。彼らしい言葉だった。
少し人を喰ったような、負けることをまるで知らない口調。それから幾分人を威圧する強く深い炯眼が、あまりにも彼らしくて。
「両親と千春の家族をみんな殺して、結婚しようか」
一瞬その瞳の本気の殺意が見えて、真秀は彼の足を軽く蹴った。
「物騒なこといわないでくれる。綾が言うと笑えない」
「まぁ、俺まで死刑になって、結局結婚なんてできないな、それじゃあ」
その冗談めいたやりとりで、忘れかけていた何かがわずかに甦った。
「もう25か、おまえ。老けたね」
「綾よりマシ。昔っから老けてる人に言われたくないわ」
冗談を言い合える、暖かな感情。冷たく苦しい思いを払拭しようとして顔を覗かせた感情。それがどういうことか、真秀も綾もよく分かっていた。神様が言っている。もう全てを忘れてしまえ、と。友愛にとどめて、全てを忘れてしまえ、ということ。
「来年の春でしょ。結婚、祝福するわ」
切り出して、全てが終わった。ひどく頭痛がしたが、今度は倒れずに何とかこらえた。
「……真秀」
「友達よ。昔っから、友達だったのよ。『十字架』の大事なメンバー。一緒にケンカしたりしてきた、かけがえのない友達」
ぎゅっ、と胸が痛んだが真秀はそこまで言い切った。見慣れた綾の美貌が、こちらを見つめている。わずかに真秀を非難するような強い光の瞳だった。
「あたしもそろそろ結婚相手を探すわ。結婚式に綾は呼ばないけどね。あなたのオーラに負けて旦那が哀れだから」
そこまで言って、真秀はジャケットを手にするとドアを開けた。分かる。綾はきっと追ってこないだろう。エレベーターで下に降り、ホテルを出ると外の寒さが体を刺した。一度だけホテルを振り返って、真秀はすぐに歩き出した。
「……目障りだ」
綾が誰かも知らないままに絡んできた男たちに絡まれて、彼は小さく呟いた。近頃まるでケンカというものをしていなかったが、昔『十字架』で散々ケンカまみれの日々を送っていたことを覚えている。脅しに怯えた様子もない長身の若い男に、暴漢たちは些少なプライドを傷つけられたのかすぐに暴力に訴えて出た。ちっ、とわずかに舌打ちして綾は動いた。流れるような動きで次々と相手を殴り、蹴り倒してゆく。むしゃくしゃしていたから、幾分手加減を怠ったかもしれない。何もかもに苛だって、今なら女が相手でも容赦なく殴れそうだった。
(……真秀)
友達? 馬鹿げたことを。おまえの言うとおりかもしれない。俺たちは友達だった。けれどそれだけじゃない。友達で、家族で、恋人で。全ての愛情を注ぎあっていたはずなのに。
俺があのとき、別れを切り出さなければよかったのか?
鈍い音がして、最後の一人が暗がりで倒れこんだ。
(……真秀)
財産も権力もいらない。それを理由に息子の恋人を殺すと脅すような家族も、それに加担するような婚約者も、俺はいらない。真秀以外が相手なら、俺もいろいろしてきた。いくらでもケンカをしたし、人を半殺しの目に遭わせたこともあった。誠実さの欠片もなく女を捨てたりもしてきた。けれど、真秀相手では違う。俺が、生まれて初めて本気で愛した桐原真秀だけは、傷つけられない。
「真秀……」
小さく呟いた。少し冷めたような綺麗な瞳が好きだ。どんなときでもヒステリックにならない節度のある美しさが好きだ。何かを考え込んでいるときに親指を口許にもっていく仕草が好きだ。数え上げればキリがない。
最初は触れれば切れるような容姿の美しさに惹かれ、そこからどんどん深みにはまっていった。そうしてはまっていく自分が嫌いではなかったし、常に自分を虜にする真秀のことが、何にも例えようがないほどに好きだった。俺は何を間違ったのだろう? どこで何を過ったのだろう。同じことを何百回も真秀が考えたとは、綾は知らない。けれど綾もこの数年、ずっと考えてきた。
「俺はどうすればよかった……?」
俺がこんな家柄に生まれてこなければ、きっと平気だったに違いない。とすれば、俺は生まれる前から間違っていたのだ。真秀は決して一緒になれないようになっていた。
(……家を出ようか)
綾は思った。思ったのはこれが初めてではない。
「家を、出ようか」
言葉に出すと、全てを決心できるような気がして綾は呟いた。けれど、家を出て働くにしたって、親が手を回したら? すぐに俺の働ける場所なんてなくなる。真秀だってどんな目に遭うかもわからず、真秀が働くにしても、真秀を雇ってくれる人間なんていなくなる。若月家には、それだけの力がある。
「綾! おかえりなさい!」
家に帰ると、いつものように千春が出迎えてくる。今日ほどこの顔を見たくない、と思った日もない。頷いてすぐに綾は彼女から目を逸らした。いまだに目にやきついている真秀の残像をけがされたくない。
「遅いんだから……ごはんは?」
「済ませてきた」
自然と言葉も短くなる。千春の声さえ聞くことが苦痛だった。
「じゃあ……」
「疲れてるんだ。寝かせてくれ」
「綾!?」
結婚すれば、この娘と一生をともにしなければならないのだ。考えただけで厭になる。俺には無理だ、千春と結婚するなんて。わかっているはずなのに、真秀は何と言った?
『祝福するわ』
俺と千春が、永遠に相容れないと分かっているくせに。俺がいまだに誰より真秀を愛していると分かっているくせに。何故あんなに無理をする? 分かっている。あれはあんな無愛想な顔をして、真っ先に俺のことを考えているんだ。分かっている。俺たちはまだ確実にお互いを想っている。なのにうまくいかないもどかしさ。誰のせいだ? 俺のせいか? 何が悪かった? そもそもこの家柄や権力や欲にまみれた両親は、俺にとって必要だったのか。こんなことなら、俺を生んでくれなくてもよかった。おまえを愛しているから、と。そんな理由で俺の愛する女を傷つけようとしないでくれ。そんな愛情はいらない。勘当されたほうがよほどマシだ。真秀がいるといないとでは、俺の人生はまるで変わってくるというのに。
綾は机の引き出しをそっと開けた。引き出しのずっと奥に眠る数枚の写真。真秀がコートフードをかぶって、綾の隣で笑っている。『十字架』の友達が撮ってくれたものだ。それから、店の前でピースをしている真秀。綾が撮った写真。タトゥーをのぞかせたタンクトップ姿で笑っている写真もあった。綾のジッポを選びに一緒に買い物に行ったときの。白い封筒のなかの写真は、それで終いだった。この笑顔を見ることができなくなったのは、いつからだっただろう。
(……俺は)
俺は諦めない。真秀がいないだけで俺はこんなにも乱れる。俺は俺のために、真秀を諦めない。
『おかえりなさい。ゆっくり休んでね』
千春が置いていったと思われるメモを、綾は無意識のうちに強く握り潰した。
第七話:戸惑いの鼓動
同じ空の下にいる。同じ大地の上にいる。それは当たり前の、確かな事実。しかし、姿が見えない。同じ空の下にいるのに、空の色は違う。同じ陽射しを浴びているはずなのに、姿を見ることができないだけで痛む心が哀しい。
「ドレスの用意もできたし、披露宴の用意も完璧ね」
こうして真秀と別れてから何回目かの春を迎え、来週に結婚式を控えた若月綾は、机に経営学の本を置いたままぼんやりと婚約者の姿を見つめた。ついこの間まで高校生だったと思ったら、今では大学4回生。それが来週には大学を卒業して、自分と結婚するのだというから驚く。気付けば長い年月が経ったものだと思う。真秀と出会ってからはもう10年ほど経っただろうか。その10年の間に、ずいぶんと自分が老け込んでしまったような気がするが。
父親の指示で、化粧品の新開発チーム長として働き出してから数年が経っている。去年の冬……久々に真秀と再会して、それから今日まで一度も彼女と会ったことはない。何度か、例のバーに行ってみたりもしたが、きっとそれを分かっていて、彼女が避けているのだろう。見かけることはなかった。
「何だか、実感湧かないわね。思わない?」
「あぁ……」
湧かない。焦りを越えて、もうどうでもいい気分になっていた。千春と結婚? それもいいかもしれない。下手に聡明な女を妻に迎えるよりも、あしらうことが容易な千春のほうが。その考えが、ひどくあさましいということは、綾が一番よく分かっていた。分かっていたが、真秀がいないだけで色褪せる世界のなかで、それをどうにかできるほど出来た男ではないと、自分の心で言い訳をしてみる。25にもなって、愛する女ひとり幸せにできないとは、己で己を嘲笑いたくなるものだ。
「綾? 何だかこの頃ボーッとしてない?」
「……春だからかな。眠くて眠くてしかたがない」
「あったかくなったものね」
真秀なら、年寄りくさいことを言うな、とでも言っただろうか。そんなやりとりが大好きだった。
桜のつぼみが大きくふくらみだしている。ほんのりと暖気をはらんだ春の風が、大きな窓からカーテンを揺らしながら流れ込んできた。
まだ、すぐ近くに真秀が笑っているような錯覚を覚える。覚えて、それから不意に彼女がいないことに気付くのだった。目の前で千春が紅茶を淹れている。婚約者を目前にして、他の女のことを考えるのは酷いであろうか。そうしてあっというまに桜がちらほら咲き始める。そうして結婚式の日がやってくる。
……俺が、すべてを捨てる日が。
「か、会長……!!」
披露宴式場の警備をしていたガードマンが慌てふためいて場内に駆け込んできたのは、ちょうど新郎新婦ふたりがライトに照らされて出てきたそのときだった。式場の入っている建物の外にも、会場のわきにもガードマンを置いていたはずだったが。
白髪の目立ち始めた若月綾の父親が、なにごとかと眉をしかめた。綾は冷めた瞳でそれを眺めている。客はみな、さすが落ち着いた新郎だとささやかに驚嘆していたが、それは自分の結婚式に対する無関心のせいだとは誰も思ってはいない。開きかけた重厚な両開きの扉の向こうで、屈強なガードマンと何かが揉めているのが綾にも分かった。無作法な闖入者を取り押さえようとした複数のガードマンが、いとも簡単に避けられ、蹴り倒されたことに何人もの客が驚愕の声をあげる。洗練されたガードマンが皆あっさりとうずくまった中で、ひとり立っている人間の姿をみて驚愕の声はますます大きく広がった。
「なんだ、きみは……」
若月財閥の会長が、立ち上がった。闖入者は、年老いた会長を一瞥しただけでひっそりと新郎新婦に視線を向けた。そのとき誰よりも落ち着いていたようでありながら、誰よりも驚愕していたのは誰だっただろう。
いったい何といえば良いのか。冷たいような温かいような。不思議な感情が綾の胸の真奥に沁みこんでくる思いがした。
若月財閥の御曹司と、明治時代からの名家井澤家の令嬢の結婚披露宴を邪魔した無礼な闖入者は、見れば小柄な女なのだった。下手をすれば告訴でもされかねないような大きな名家ふたつを相手に、まるで何もしていないかのような平然とした双眸で彼女がそこに立っている。
そう、天才的にケンカの強い彼女なら、ガードマンをものともせずにここまで入ってこれるだろう。彼女ならば、きっと。
「あ……あなたは……」
千春が凍りついた顔で声をあげた。自分の幸せのなかで、すっかり忘れてきた者を今やっと思い出したとでもいうような驚きの声。ドラマでもあるまいし、まさか自分の結婚式が妨害されるとは思っていなかった表情である。その姿などまるで目に入っていない様子で、会場のど真ん中に立っていた女が、静かな、しかしはっきりとした声で言った。静まり返った場内を震わせるような、透明な声色が綾の耳をうった。
「綾、愛してるわ」
烈しい想いが、怒涛のように綾の脳裡を駆け巡った。まだ胸に残る十字架のタトゥーが、熱をもって疼きはじめた気がする。俺は愛している、と思った。大財閥の息子に生まれてきて、ずっと静かだった心。強さしかほしくないと思っていた頃は、寂しさも哀しみも邪魔でしかなかった。安らぎも微笑みもいらなかったし、愛し方だって知ろうとも思わなかった。
女なんて、ただの遊び相手みたいなもので。それがいつから変わっていった? 全て真秀に出会ってからだ。『十字架』のトップとして夜が俺の味方をし、そして真秀と俺を出会わせた。何に惹かれただろう。他の女にはない涼やかな美貌にも惹かれた。俺を見つめる、媚のない瞳に惹かれた。愛想がないようでいながら、一番に俺を想ってくれる愛し方に惹かれた。そして、泣き喚きもせずに別れを受け入れるような彼女らしさに、惹かれた。
俺は愛している。何故だかわからない。15で彼女と出会ってからどんどん彼女に惹かれて、のめりこむように彼女を愛した。こんなにも変わらぬ想い、25にもなって、変わらぬどころかまるでさらに深みを増してゆく想い。俺は愛している、桐原真秀を。
「綾、愛してるわ」
少し離れたところから、言った声はひどく静かだった。怒鳴ることなどほとんどない彼女の声が、まるで叫びかけているように聞こえたのは気のせいだったろうか。
気を失うような衝撃を受けて、瞬間綾は自分がよろめくのを感じた。あの真秀が、感情をあらわにすることなど滅多にないあの真秀が、結婚式の披露宴式場に乗り込んで、あまつさえ公衆の面前で綾に告白した。それも新婦のいる前で。
まさかという思いと、嬉しいという思いが交錯するなかで綾はまっすぐ真秀の姿を見つめた。慌てふためいている両家の親も、呆然としている新婦も目に入らなかった。自分がドラマで見ていれば、馬鹿げたことだと笑い飛ばすような光景。それから感情。
「あなたしかいない」
あなたしかいない、と真秀はそう言った。いつも涼しげな眼元が、烈しいほどまっすぐに綾を見つめていた。そうだ。俺もおまえしかいない。真秀しかいない。俺のすべては、真秀がいないだけで色褪せる。それもひどく簡単に。親も傷つけるだろう。千春も傷つけただろう。すべてに迷惑をかけただろう。
それでも俺は。他の何に迷惑をかけ、他の何を傷つけたとしても、俺は真秀を選ぶことしかできない。何かが、俺の中の何かが強く烈しく真秀を求め狂っている。長すぎた、この10年間。俺の今すべきことは決まっている。俺の今したいことは決まっている。
真秀、俺の想いはおまえに向かう蒼い炎だ。美しく残酷で、冷たいほどの烈しさを包む。時におまえを傷つけさえする想いだ。真秀……。
綾の身体が、動いた。
第八話:夢の通い路
どれだけ迷っただろう。最愛の男の結婚式の日を目前にして。どれだけ悩んだだろう。何度も何度も考えた。忘れなければならないと思えば思うほど、彼を思い出した。愛しすぎたかもしれない。あまりにも、自分らしくないほどの愛しすぎたかもしれない。
教師仲間の噂とマスコミの騒ぎで聞いた結婚式の日取り。招待状がこないことだけが、救いだと思った。捨てられなかった、青いキャッツアイのピアス。思い出すことはいくらでもあった。
『十字架』の仲間にむりやり綾とふたり連れ出された花見。みんなで海にも行ったし、浴衣で花火にも行った。まだ未成年なのに、バーのマスターにカクテルをねだったり。それから綾のジッポを買いに行ったり、服を一緒に選んだりした。ケンカで何度も警察に補導され、何時間も説教をくらったりもしたけれど、それもひどく愉しかったと思う。
家族と失った苦しみも悲しみも、綾といるおかげでどれほど薄らいだだろう。あたしは生きてきた。地位や権力のある人間の目には見えないような、そんな小さな生き方かもしれなかったけれど、生きてきた。そのなかに、綾がいる。まぎれもなく、綾の姿がそこにある。あたしには、生きてゆくためにそれを守る権利があるはずなのだ。
(今、あたしがしたいこと)
思うままに、行動してみても良いだろうか。人生のうちで一度くらいは、無茶をしてみてもかまわないだろうか。それは、女一人で幾人もの男を相手に殴り合いをするよりも無茶だと、真秀には思われるが。数日前から風邪をひいたらしく、熱っぽい。ぼぅっ、とする。だからこんなことを考えるのだろうか。
しかし、音をたてて掌からこぼれ落ちたピアスの音で、真秀は正気にかえった。だめだ。もう忘れなければならない存在、彼が結婚してしまえばすべてが終わる。あのクリスマスの夜から何度、彼のことを避けてきた? 今までいったい何度、決心してきた? ここで再び何かを間違うわけにはいかない、と強く真秀は思った。そう、もしかすると、こう思うことが間違っているのかもしれない。ただの自己満足、かもしれない。
何に惹かれただろうか。彼の冷ややかな美貌に惹かれた。誰にも負けないオーラを持った強い双眸に惹かれた。子どもっぽい頑固さと粗雑さ、そこの同居する清潔さに惹かれた。初めて出会ったときはただ綺麗な少年だとしか思わなかった彼に、どんどん惹かれていった鮮やかな思い出。戻りたい、と哀しいほどに切望する過去。不思議だと思わざるをえないほどに輝く美しき日々。
どくん、と真秀の胸が波打った。そうだ、あたしは戻りたい。綾と再会した、あのクリスマス・イブの夜にも感じたこと。過去に囚われたまま、その鎖を断ち切れていない自分に対する恐怖と動揺。
今、思う。何が悪い? ひどく頭が痛んだ。あたしは、戻りたい。あの頃に、戻りたい。あの頃と同じ、苦しくても綾が傍にいた日々に戻りたい。そうだ、これはある種の独占欲かもしれない。綾を誰にも渡したくない。他の誰かの傍にいる綾を、決して見たくなかった。
あたしには綾しかいない。あなたしかいない。
真秀は時計を見た。黒いサマーセーターとジーンズ。あまりにもラフすぎる自分の格好を見返る間もなく、真秀の身体は動いた。一度身体が動いてしまうと、あとはひどく楽だった。
「どいてください」
案の定、ガードマンはまるで取り合ってくれない。何度か頼み込んで、やはりどうしても入れてくれないとわかると、真秀はその屈強な男たちの間をすりぬけて建物の中を目指した。ここで簡単に取り押さえられるわけにはいかない、と分かっている。不思議と落ち着いた頭のなかで、あたしは意外に向こう見ずなのかもしれないと真秀は滑稽に思った。考えてみれば、いくらでも他に方法はあるような気がするが。
いくぶん手加減をしていたガードマンも、真秀が一筋縄ではいかないことを知ると本気になって飛びかかってくる。彼らも必死なのだ、名家の結婚式を守るために。何があってもヘマはするな、と言い含められているのだろう。その彼らを嘲笑するかのように、真秀は彼らをよけ、蹴り倒し、わずかに開きかけていた最後の壁である大きな扉に手をかけた。
その場に一歩踏み込んだとき、会場は確かにざわめいただろう。見覚えのある老紳士が、驚愕の顔で立ち上がったのがはっきりと見えた。いつか綾に家で鉢合わせした、彼の父親だ。そしてその向こうに、千春と並んで立つ懐かしい美貌が見えたのだった。去年の暮れに会ってからは、徹底的に避けていた過去の恋人の顔が。一番落ち着いているように見えながら、おそらく彼が一番驚愕していたに違いない。いつも通り冷ややかな双眸が凍りつき、小さく揺れた気がした。そう、大それたことをしているはずだったが、真秀の心の中は何故かひどく落ち着いていた。ただ確実に、自分が綾を……少し向こうに立つ美しい男を愛しているのだということだけが感じられる。彼の隣に、白いウェディングドレス姿で茫然と立っている千春のことは、今はどうでも良かった。
一世一代の大博打。最初で最後の大きな賭けだ。自分がこの先どう生きていくか、これで決まる。
「綾、愛してるわ」
心の中で叫んだはずの言葉は、ひどく落ち着いた静かな声色となって発せられた。こうしてはっきりと彼に伝えたことは、ほとんどなかったと思う。顔色を失くした両家の親族に、申し訳ないと思う心がほんの欠片ほどだけある。それでも真秀の全ては動き出してしまった。
何度も思った。あたしには権力も地位も財産もない。ありふれた愛情を注いでくれる家族もいない。虚勢を張るだけの自尊心くらいしかない。いまさら、そういった数々のものを手に入れたいなどとは思わなかった。けれどただひとつ、欲しいものがある。他の何を捨てても欲しいもの。
「あなたしかいない」
ずっとあなたの傍にいられるという現実が欲しい。あなたの愛情が欲しい。胸のなかで終わる幻などではない、何より確かな現実が欲しい。綾が、こちらを見つめていた。衝撃を受けて動けない、といったような風情でこちらを見つめていた。それは決して迷惑や嫌悪の色をもった視線ではなく。ずっと閉ざされていた扉がひらいて、そこから何か透明なものが一気に流れ込んでくるような気持ちがした。凍りついていた6年間が一瞬のうちに流れ去り、19のときから不意に現在に辿りついたような心持ちがした。
決して運命論者などではなかったが、それでも彼との出会いはやはり運命だったように思える。こんなドラマがあったら、きっと何を暑苦しいことを、とでも思ったであろう展開。そのなかに自分がいる。きっとこの先何度も思い返しては、笑うだろう。まさかあたしがあんなことをするなんてね、とか何とか。そう、思ってもみなかった。こんな行動に出るなんて。
「あなたしかいない」
そう言ったときに、綾の唇が小さく動いた気がした。そこから何もいえないまま、真秀は黙って立ち尽くす。彼の唇は、マ・ホ、と動いたように見えた。真秀がそれを確信するより早く、少し距離を置いて対峙していた綾の身体が不意に動いた。
千春の、声にならない悲鳴を感じる。顔色を変え、声も出せずにいる親族たちの驚きを感じる。そのなかで、真秀は体じゅうに温かいものを最も強く感じた。
「……真秀」
耳もとで囁かれた声色に、歓喜の色が感じられた。
「バカなことを」
言った言葉が、ひどく温かかった。こんなに簡単なことだった。真秀が一歩踏み出しただけで、少なくとも二人の間に冷然として横たわっていた壁が、崩れて落ちた。それからのことを、真秀は知らない。……そこで倒れたから。
彼の熱に浮かされて、あんなことをしたのだろうか。今となってはそう思える。真秀の熱が下がって、朦朧としていた意識がはっきりした頃には全てが済んでいた。何を思ったか、井澤家の両親が二人の姿を見て心うたれたらしく、千春を説き伏せたのだという。はじめは信じなかった真秀だったが、金持ちは何を考えているかわからない。流行の感動ドラマでも観ていたのか何なのか、目を輝かせて真秀の見舞いにきた彼らをみて、真秀もようやく信じた。
「俺は勘当だけどな」
何かをふっきったような、あっけらかんとした笑顔で綾はそう言った。病み上がりの真秀には、正直何かを深く考えることは難しい。少し後悔を感じないでもなかったが、それでもいいと思えた。ああして行動してしまって、それから熱でしばらく寝込んで目覚めてからは、綾とのことについて深く悩むことが馬鹿馬鹿しく思われる。桜の花が、どんどん咲き始めていた。綾は今、真秀の住む小さなマンションにいる。19のときとは違う、もっと小奇麗なレディースマンションの一室。確実に時間が流れたのを感じる。
「カードも止められそうな勢いだったからな、できるだけ多く現金をおろしてきたぞ。ぎりぎりで先手を打てたかも」
札束を無造作に放り投げて、綾は小さく笑った。いつもと変わらない清冽で冷然とした顔だったが、そこに投げやりな色はない。本気で親に逆らって、最愛の女と走り出した人生。それがひどく愉快で、満足だったようだ。温かい春風が、窓際に立つ綾の髪をゆるやかになぶった。
「あたし、綾の人生を狂わせたかもしれない」
真秀は、小さく言った。これもいつも通り、あっさりとした声色で。明後日からは仕事が始まる。去年から採用された高校の新学期が。
「……そうだな」
白を基調とした綺麗な部屋に、長身の綾が妙に似つかわしかった。
「違うか。もともと狂っていた俺の人生が、おまえと出会って元に戻ったんだな」
ふと涙が出そうになる。春になると、人の涙腺はゆるみでもするのだろうか。
「千春の人生も、あたしが狂わせた。それでも」
わずかに罪悪感が残る胸。
「それでも?」
「それでも、あたしには綾しかいないと思った。それだけは、譲れなかったのよ」
誰にも譲れなかった。決して恥じることのない、そんな想い。いつだって、ずっと上に上に広がる青空に輝く太陽のように、きらきらと誇りかな想いなのだった。真秀の細い首筋に、ハートとかたどったネックレスが光っている。同じように綾の手首にはシルバーのブレスレット。去年の暮れに交換したプレゼント。そして昔のように、真秀の耳には青いキャッツアイのピアスが。綾の耳にはシルバーのピアスが。一度は失った、と思った日々が戻ってきたのだ。すべてがうまくいった、というわけではない。しかし桜が咲いているせいだろうか。それとも風があたたかいせいだろうか。どこか心は静かだった。
最終話:心に星を
「マスター、ギムレット」
「あたしアレキサンダー……」
雪が降っていた。柔らかなオレンジ色の灯りのしたで、マスターが笑っている。最初に火をつけた真秀のタバコから、直接火をもらう綾の仕草が人目を惹いた。
「真秀も綾も、誕生日おめでとう」
カクテルを差し出しながら、マスターが祝福する。彼の胸にも、実は十字架のタトゥーが入っているとは、真秀や綾といった『十字架』のトップしか知らない。25の春の終わり、二人一緒にバーを訪れたときのマスターの嬉しそうな顔を、今でも覚えている。
「おまえら、ホントにすごいよ」
真秀が綾の結婚式をぶち壊したあの翌年、真秀が懸命に働いた収入と綾のバイト代で、綾は大学を受けなおした。いとも簡単に教員免許を取って、真秀の心配をよそに家の近所の私立高校に見事採用されたのだった。そのときばかりは、こんなにうまくいっていいものかと真秀が焦ったものである。勘当された綾は、あれからカードを止められたものの、それ以上何かされることはなかった。千春の両親の口ぞえが、もしかするとあったかもしれない。
「おまえらの噂をきいて、ますます『十字架』のメンバーも増えたよ」
綾が、喉の奥で小さく笑う。今でも二人の胸には十字架のタトゥーが残っている。ここら一帯どこへ行っても、真秀と綾は若者の憧れの眼差しを浴びた。
「いらっしゃいませ」
客足は、クリスマス・イブの夜ということもあって絶えることがなかった。
「覚えているか、真秀。あのときも俺はギムレットを頼んで……」
「あたしはブラックベルベットを頼んで。外の出て、あたし倒れたのよね」
あのときに交換したプレゼントは、今も二人の身につけられて輝いている。
「今思えば、懐かしい……」
どちらかといえば低く、よく通る美しい声色。まるであの夜から変わっていない、強い瞳。
「あの頃は苦しくて仕方なかったはずなのが」
そこで彼はタバコの煙を吐き出した。
「今こうしておまえを隣にして思えば、懐かしく思い出せるもんだ」
義父に乱暴されたことも、母親に虐待されたことも。そんなことはまるで真秀の人生から消えうせていた。あれほど幼い心に痛みを与えた出来事も、綾と出会って時を過ごしただけで、いつのまにか姿を消した。
「お互い、年を取ったけどね」
胸に十字架のタトゥーを抱えて、ひどく荒れたまま出会ったこと。冷めた出会いだったはずが、いつか惹かれあって求めあったこと。彼の大きな邸のなかで、二人愉しく暮らしたこと。
「おまえが俺の結婚式に乗り込んできたのには、心底驚いたな」
「あたしが一番驚いた。あんな熱いこと、よくできたと思うわ」
綾の婚約者が現れて、すべてが崩れ始めたこと。あの頃はどれほど不吉な予感に悩まされたことだろう。何も持たない自分に向けられる綾の愛が、不安だった時期。冬の夜に、終止符をうった二人に道。声をあげて泣いた、あの夜を思い出す。
「あれから、もう9年か」
「初めて会ってからもう20年近くになるのよ。あの頃は思ってなかったわ、20年先も一緒にいるだなんて」
大学に行って4年間を過ごしたけれど、その思い出よりも綾との道筋のほうが烈しく心に残っている。そして彼をはねつけた23歳の再会。
「結婚して……何年だ? 7年?」
頷いて、真秀はカクテルを口に含む。その甘さが今ひどく心地よい。綾と結婚するとき、欠片の逡巡もなかった。桐原という苗字に、たいした未練もなかった。想いは尽きることを知らない。
再び全てが動きだした25のクリスマス・イブもこうしてこのバーにいた。倒れて、薄れる意識のなかで溢れるほどの過去を思い出して苦しんだこと。それから、目覚めた直後に綾から逃げよう、と言われたこと。それをつっぱねて、乾いた冗談で終わらせた冬の夜。きっとそのまますべて終わってゆくのだろうと思っていた。そしてきっとあれが運命の日。真秀が踏み出した大きな大きな一歩。
『綾、愛してるわ』
『あなたしかいない』
すべてが大きく変わった。あの言葉で。真秀の人生が鮮やかに変わり、綾の人生が鮮やかに変わった。真秀はもとから失うものなどなかったから良い。けれど綾は、生まれながらに持っていた権力も地位も財産も名誉もすべてを失くして、それと引き換えに真秀を得た。それが綾にとって良かったのかどうか、真秀には何とも言うことができない。しかし綾は笑っている。真秀の傍で笑い、彼女を抱きしめ、優しくキスをする。それだけで、良かった。
たったひとつの事実がすべてを動かしたことを、誰が知っているだろうか。綾は真秀を愛し、真秀は綾を愛し、ただそれだけだった。そのたったひとつの事実からすべてが始まり、動いたのだった。それが今、ひどく懐かしく思い出される。
「愛してるよ、真秀」
「……あたしも」
誰かの犠牲のうえに成り立ったはずの平穏な幸福。だが誰かを犠牲にしても、と望んだたったひとつの幸福。
ギムレットのグラスとアレキサンダーのグラスが、そっと寄り添ってカウンターの上に並んでいる。そろそろ12時近いクリスマス・イブの夜。二人の左薬指に、指輪が光っていた。
若さとは不思議なものだ。はるかな過去から未来へとのびてゆく時のなかで、苦しい悲しいと泣き喚きながらも無意識のうちに高く高く、生きいきと飛び上がろうとする。それが哀しいことなのか誇りかなことなのか、誰にもわからない時代。大人でも子供でもない、ひどく曖昧な境界人として生きてゆく時代である。今思えばあまりに稚拙で純粋な日々。色褪せたようでいながら、ふと思い出せば何よりも色鮮やかで美しい日々。ある日の午後に、不意に思い出して切なくなる、あの独特の胸の痛み。もう二度と戻れないと己の全てが知っているからこそ、時として切に願う。……あの頃に戻りたい、と。もう一度だけ、あの頃に戻りたい、と。
きっと気付く。
晴れあがった青空のように、高々とした心を持たねばならないということ。
光を遮る木々のすぐ上が、もう空なのだということ。
そしてどんなに雲がたちこめていても、その上には必ず青空があるということに。
完
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2004/09/30(Thu)23:20:03 公開 / ゅぇ
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■作者からのメッセージ
終わりました!!怒涛のように終わらせてしまいました。やっぱり『十字架』の話は絡める必要なかったです(汗)で、綾、おまえも教師かよ!!みたいな。微妙でしたね。稚拙なストーリーで申し訳ないです。お許しください(≧w≦)