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『タイム・パス  ―完―』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角77342.5文字
容量154685 bytes
原稿用紙約225.8枚




     「サバイバルゲーム」




 小さい頃からの夢だった。
 ずっと前から一度でいいからやってみたかった。
 そして今夜、やっと夢が叶う。
 廃校となった中学校に仲間と一緒に忍び込んでやってやろうと思う。
 神岸ルアの、小さい頃からの夢だった。


 時刻は夜の十一時を十分過ぎていた。
 夜中の学校はルア達以外誰もいなくて不気味なほど静かだった。。明かりは窓の外の満月だけで、しかし目が慣れてくるとそれだけの光で十二分に視界を維持できる。人の気配がいない夜の学校は、何だか少しだけ怖かった。
 今年の春、ルア達が卒業した時に廃校になってしまったこの都築(つづき)中学校の誰もいない教室の教卓の上で、ルアは一人で座り込んでいる。その肩にはエアーショットガンシリーズの『スパス(SPAS)12』を掛け、口にペンライトを咥えて手元を照らしながらスパスのショットシェル型マガジンに20グラムのBB弾を30発詰め込んでいく。弾を全部詰め、スパスのシェルカバーを開けてマガジンを入れる。予備のマガジンはあと三つあって、それらにはすべて弾が全発詰め込んであった。ペンライトの光りを消して、ポケットにライトと予備のマガジン三つを閉まってスパスのフォアグリップを引いて弾を撃てる状態にする。
 教卓の上から降りて黒板を見ると、白いチョークで大きく「好きだ!」と書いてある。昔に何かのアニメで見た通りその言葉を書いたのは、他の誰でもないルア自身だ。この教室はルアが中学三年の時に一年間使った教室で、この言葉は卒業式の日、つまりこの学校が廃校になる日に書いたものだ。あの時の自分が何故こんな事を書いたのかはもう忘れてしまった、何せあれから四ヶ月も経っているのだから仕方ない、というのは自分に対する言い訳で、本当はただ単に一度この言葉を黒板一面に書きたかっただけだ。
 あれからもう四ヶ月か、何となくそう思う。今はこの中学校を卒業して高校に入ってつまらない学園生活を送っているが、今日は八月一日。夏休みに入ってる。
 そんな夏休みの八月一日の午後十一時を十分過ぎた今、ルアは中学校で一番仲の良かった仲間三人を集めて、小さい頃からの夢を実現させた。一度でいいからやってみたかった。自分達以外誰もいない学校で、遠慮なく、何の心配事もない状況で、エアーガンの撃ち合いをしてみたかった。
 ルールはずっと昔から決めていた。一人ずつ学校で一番好きな場所に移動して、設定した時間が来たら行動開始。腰に付いた風船を割られたら戦死で、割られる前に割る。誰かと組んでもいいし、誰かを裏切ってもいいし、最初っから最後まで隠れて生き残るのもいい。ようは何でもありの最後の一人になるまで撃ち合いを続けるサバイバルゲームなのである。そして今回の特別ルールで弾補充は最初の一回だけでそれ以降はなし、弾の配分も考えて撃たないと最後に痛い目に会うという寸法だ。
 参加メンバーはルアを入れて四人。
 幼稚園の時からの親友の田畑将太(たはたしょうた)。エアーガンはサブマシンガンの『ウージー(UZI)SMG』。
 小学校のからの付き合いの猪崎薫(いざきかおる)。エアーガンはハンドガンの『グロック(GLOCK)17L』と『オートマグ(AUTO MAG)V』。
 何故かあだ名は『うんぴろ』の稲垣宏(ひろし)。エアーガンはサブマシンガンの『ヘッケラー&コック(H&K)MP5A3』。
 皆とは下駄箱で別れてそれぞれ好きな場所に移動した。誰がどこにいるかはわからない、だからこそ楽しいのだ。時計の針が十一時十四分を差した。設定時間は十一時十五分零秒。あと一分で行動開始。やっと、小さい頃からの夢が叶う。この誰もいない廃校となった思い出のたくさんある都築中学校で、サバイバルゲームの幕が上がる。ゆっくりと、ルアはスパスのセフティをOFFにしてBB弾の被害を少なくするゴーグルを付ける。
 設定時間到達、行動開始。
 黒板に「好きだ!」と書かれた教室を飛び出した。廊下をなるべく足音を立てないように進み、曲がり角で一度停止する。ルアが今いる場所は三階で、この曲がり角を曲がれば階段が姿を現す。しかし油断してはいけない。一気に角から飛び出して銃を向ける。誰もいない。少し安心してから、そのまま銃を前に向けた状態で階段を一番下まで降りた。
 聞こえた、と思う。エアーガンがBB弾を打ち出す音、銃声。微かだが、確かに誰かがトリガーを引いた。耳を澄ます。もう一度聞こえる。誰かと誰かが撃ち合いをしている。誰かはわからないが、そこに行く価値はある。
 その音のする方へと歩き出した。昇降口から外に出て、下駄箱を横切って新校舎の中に入る。ルアがさっきまでいた場所は旧校舎で、一年から三年までの教室と職員用の部屋がすべてそこにあって、新校舎には理科室や音楽室、つまりは移動教室に使う場所がすべてある。さっきの銃声はここから聞こえた。風船の割れる音はしていないから撃ち合いをしていた二人はまだ生きている。細心の注意を払って廊下を歩く。常に銃は前に向け、いつ何処で誰に遭遇してもいいように戦闘態勢は決して緩めない。足に何か当たる、小さくて丸い白い弾。誰かのBB弾だ。ここでさっきの撃ち合いが行われたのだろう。気になって歩いて来た廊下を振り返った。
 それが結果的にルアの命を救った。
 ルアが歩いて来た廊下の中央に、人が一人立っていた。その手にはサブマシンガンのヘッケラーを持っている。その銃を持っているのは一人しかいない。トリガーを引く音が聞こえ、続いて銃声が響く。急いで近くの教室に飛び込んだ。理科室だった。
「おまえ、うんぴろだなっ!?」
 ルアが教室のドア越しに先ほどの人影に向かって問う。
 カチャっとレバーを引く音が聞こえる。稲垣宏は嬉しそうにその問いに返す。
「命拾いしたな、ルア」
 ドアから顔と銃だけを出して立っている稲垣に向けてトリガーを引いた。スパスの銃口から弾が三発同時発射される。しかしそれらはすべてが空を切った。稲垣もどこかの教室に飛び込んだようだ。
 ルアがまたドアに身を隠してスパスのフォアグリップを引く。スパスは一度で三発同時発射する、だから一つのマガジンで十回しか撃てない。数の変わりに命中率を高めるのがスパスの特徴である。そして数をカバーするためにマガジンの予備が三つもあるのだ。
 物音一つに注意深く神経を配る。足音は聞こえない。夜の学校は異様なほど静かで、自分の心臓の音が聞こえる。どこか遠くで音楽が流れている、トラックがバックしている、警察のパトカーが元気に何者かを追い回し、踏み切りのカンカンカンという音が耳に入った。この音が鳴り終わったらここから飛び出して稲垣を攻める、そう決めて踏み切りの音に全神経を集中させる。えらく長い電車だった。中々音が鳴り止まない、違う合図にしようかと思ったその時に音が鳴り止む。
 理科室から飛び出して廊下の真中でスパスを構えた。稲垣はいない。すり足で前に進む。視線を上げるとそこにあるのは理科準備室の標札。稲垣は恐らくここに逃げ込んだ。その証拠にドアが少しだけ開いている。理科準備室のドアの前に立つ。ドアに手を伸ばそうとした瞬間、一歩早くにドアが開いた。
「もらったあっ!!」
 稲垣は真直ぐルアの風船に銃口を向ける。体を倒して横に逃げた。稲垣の弾はさっきまでルアの風船があった場所を通り過ぎる。
 廊下を二回転がってうつ伏せになった状態でスパスの銃口を稲垣の風船に向ける。急いで稲垣はその場から逃げようとして、それより一瞬早くにルアはトリガーを引いた。
 スパスの銃口からBB弾が三発同時発射されて、その二発は空を切り、残りの一発は風船を貫いた。景気良く風船は割れて、静か過ぎる学校にその音は響き渡った。
 うつ伏せのままで、ルアは笑った。
「俺の勝ち」
「……うっ」
 稲垣はその場に倒れ込む。これも今回の特別ルールで、風船を割られた者はこのサバイバルゲームが終るまでそのままの体勢でいなければならない。つまりは銃弾を受けて戦死した死体というわけだ。
 立ち上がって、ルアは次の獲物を探す。さっきの風船の音でここに集まってくるはずだ。だからこのままここに留まには危険が多過ぎる。ルアは取り敢えず廊下の突き当たりの階段を上って二階に行こうと決めた。新校舎は旧校舎と同じで三階まである。しかし三階まで行ってしまうともしもの時の逃げ道がなくなってしまう可能性がある。だから二階で様子を見なければならない。
 突然風船の割れる音がした。体が反射的に震える。音は二階から聞こえた。そこで誰かが死んだ。一度深呼吸をしてから、階段を慎重に上がって行く。二階に到着して角から廊下の様子を覗った。
 一瞬本気で驚いた。しかしそれが何なのかわかった時、思わず笑ってしまった。最低限に警戒しつつ、それに近づく。ハンドガン二丁をその場に投げ出し、仰向けで倒れている男が一人。目をしっかり開いてこちらを睨んでいる。
「おまえも死んだのか、猪崎」
 猪崎薫はその場で戦死していた。だがその口が微かに「あっち行け」と動いている。
「死体が口聞くな」
 猪崎の頭を足で軽く小突いて黙らせる。それまでは笑っていたルアだが、急に顔つきが真剣になる。猪崎が死んだ。やったのは恐らくもう一人の生存者、サブマシンガンのウージーを所持する田畑将太。同じサブマシンガン使いの稲垣とは一味違う。ここからはもっと気合を入れなければならない。慎重にその場から前に進む。死体の猪崎以外で、人の気配はなかった。音楽室の横を抜け、中央の階段から三階に上がった。廊下に出て左右を確認する。どちらからしようか少し悩んで、右から調べる。顔を少し出した。右、異常なし。今度は逆、つまりは左を見る。
 高速の何かが顔の横を通り過ぎる。それがBB弾だと理解したと同時に、もう一発前方からBB弾が飛んで来る。ルアのゴーグルに当たって跳ね返った。何処から狙われているのかわからなかった。急いで身を潜めた。息を整えてから、ゆっくり顔を突き出す。顔の横の壁にBB弾が直撃する。またすぐに顔を引っ込めた。
 何処から狙われているかわからない以上、まずは相手の位置を確認しなければならない。今スパスに入っているマガジンの残りは九発分。少しもったいないが、まだ予備は三つもあると考えれば惜しくはなかった。スパスの最終手段、ラピットファイアーシステム。トリガーを押した状態でフォアグリップを引き続ければマガジンの弾が空になるまで連続で撃ち出すことのできる、それがラピットファイアーシステムだ。身を潜めたままで、ルアはトリガーを押した。心の中で数を数える。5、4、3、2、1、
 飛び出した。廊下の真中に立ってスパスを構えてフォアグリップを連続で引いた。次々と三発ずつ弾が銃口から発射される。一回ごとに撃つ方向を変えて、どこに潜んでいるか確認をする。残り四回、動いた。確かに今動いた。そこに集中的に弾を撃ち続けた。そしてマガジンの中の弾が空になる。もう一度身を潜めた。祥吾の隠れている場所は多分コンピュータールーム。
 今度は祥吾の反撃が始まる。何発ものBB弾が撃ち出される音と弾が壁に当たって跳ね返る音が聞こえた。ルアの前にある壁を狙って撃ってきている。跳弾が時々ルアの体に当たる。風船だけは護ろうと壁に背を向けてスパスのシェルカバーを開けてマガジンを取り換える。祥吾の持っているウージーはマガジンは一つだけだが、メインと予備があってマガジンの下のボタンを押すことでメインから予備に切り替わる。メインがなくなって予備にするその瞬間が最大のチャンス。スパスのフォアグリップを引いてその時に備える。しかしその間も跳弾は常にルアの背中に当たる。冬なら厚着で全く痛くはないが、今は夏で着ている物は半袖のシャツ一枚。跳弾とはいえ、冬とは比べ物にならないほど痛みがある。
 連続で撃ち続けていた祥吾の銃声が、一回空砲になった。メインが弾切れになった合図。ルアがもう一度飛び出した。その瞬間にボタンを押す音が聞こえる。しかしウージーのフォアグリップを引く暇はルアは与えない。スパスのトリガーを押した。弾が風船に到達する前に、祥吾はコンピュータールームに飛び込んだ。ここで逃げてはダメだ。ルアがスパスのフォアグリップを引きながら走る。目的地はコンピュータールーム、祥吾が隠れている場所。銃声が聞こえた。体をそのラインからずらして避け、一気に近づいた。祥吾がコンピュータールームに再度隠れる。ルアは何の躊躇もなく祥吾の後を追った。
 コンピュータールームに入ってどこでもいいので一回撃った。隠れる時間稼ぎだ。一つの机の下に滑り込む。どこかでウージーのフォアグリップを引く音が聞こえた。ルアもそれに遅れてフォアグリップを引く。
「どうやら俺とおまえの一騎撃ちになったみたいだな」
 将太の声が聞こえる。どこから聞こえているいるのか耳を澄ますが、完全な位置が掴めない。
「うんぴろは始めっから相手になんねーのはわかってたけど、いきなり猪崎と撃ち合うとは思わなかったよ」
 声が少しずつ移動している。
「どうした、俺の声で位置を確認しようとしてるのか?」
 机の上に気配を感じた。何かが上に乗った。机の上からウージーの銃口が突き出る。
「食らえ」
 ウージーから弾が発射される。その場から飛び出して弾を何とか避け、将太がいる机の上に向かってトリガーを引いた。将太が机の上を転がって弾を避けて床に下りてまた身を潜める。ルアもさっきとは違う机の下に身を隠した。
「楽しいなあ、ルア」
 本当に楽しそうに、将太はルアに話し掛ける。
「俺達の小さい頃からの夢だったもんな。それが実現したんだ。やっぱり、楽しいよな。そう思わないか、ルア」
 机の下で、ルアも喜びを噛み締めていた。
「ああ、楽しいな。すごく」
 今まで緊張が張り詰めていて実感していなかったが、こうやって誰かに言われて始めて気づいた。この気分、ずっと昔から味わってみたかった。何の遠慮も無くて心配事なんてなにもない。ただ今この瞬間をこのままずっと感じていたかった。だけど、それはできない。だって、
「最後に勝つのは俺だ」
 ルアは自信たっぷりに何処にいるかわからない将太に言う。何処かで将太の軽い笑い声が聞こえた。
「馬鹿言え。俺が勝つ」
「いーや、俺だね」
 二人のフォアグリップが同時に引かれる。
「これで終りだ、将太」
「これで終りだ、ルア」
 二人が同時にその場から立ち上がった。先にトリガーを引いたのはルアで、スパスからBB弾が三発同時発射される。それを紙一重で避けて今度は将太がウージーのトリガーを引いた。その場にしゃがんでやり過ごす。
 二人が逆方向に移動しながらフォアグリップを引いて続けざまに撃つ。放たれた弾だけではなく、跳弾にも気を配りながら安全な場所から何度も撃ち続ける。スパスに弾切れが近づいてきた。後二回撃てばマガジンは空になる。予備のマガジンに取り換える暇はない。ならばこの二回で勝負を決めなければならない。ウージーが後何発で弾切れになるかはわからないが、残された弾で撃ち合いをしてもこちらが圧倒的不利には変わりない。だからこのラスト二発で決めなければならない。
 将太のウージーから撃ち出された弾がルアのゴーグルに直撃する。反射的に目を瞑った。それが失敗であると気づいた時には遅かった。将太の姿を見失しなってしまった。この室内のどこかにいるはずだが、まったくわからなくない。このままで狙い撃ちである。姿勢を低くしてその場で辺りを警戒しながら見渡す。
 左からBB弾が飛んでくるのがわかった。そして左に向いたが、それが将太の作戦だと気づいたのはいつだっただろう。そのBB弾はウージーから発射された物ではなく、将太が素手で投げた物だった。右から強引にスパスを踏み付けられた。床にスパスが押さえ付けられ、ルアの手から離れる。風船にウージーの銃口が突き付けられた。
「チェックメイト」
 将太の口癖だった。しかし、まだ望みを捨てるのには一足早い。
 風船の割れる音がした。
 風船が残っているのは、銃口を突き付けられているルアだった。将太は何が起きたのか理解できずに割れた自分の風船を呆然と見る。
「油断したな、将太。このゲームは別にエアガンで風船を割らなくてもよかったんだよな?」
「……参ったな、クソッ」
 ルアの右手が、割れた風船の欠片を掴んでいた。ルアはスパスで風船を割るのを諦め、右手で風船を潰したのだ。当然将太は自分が勝ったと思い込んでいたのでそんな手が来るとは思いもよらず、油断したというわけだ。
 勝敗は決まった。その場に、将太は倒れ込む。


 第一回サバイバルゲームの優勝者――――神岸ルア。




「てゆーか終るの早過ぎ。まだ始まってから三十分ちょいしか経ってないし」
 稲垣が愚痴を漏らす。
 時刻は今、午後十一時五十分を示している。四人はサバイバルゲームを終え、新校舎の昇降口の正面にある階段に腰掛けている。
 一番始めに戦死した稲垣は、一番何もしないでいる時間が多かったので不機嫌になっていた。その逆に、ルアと将太はかなり上機嫌だ。そして猪崎は中途半端に死んだ分、複雑な心境だった。しかし全体的にはとても楽しいゲームとなっていて、全員が内心では楽しんでいる。もう一度やろうと稲垣は主張するが、こんなにも早く終了するとは思ってみなかったので予備の風船は持ってきてはいなかった。
 これからどうするか考えていると、元々暗かった廊下がさらに暗くなる。月が隠れてしまったのだろうか。そんなことを暇潰しに考える。やがて雲が流れて、月がもう一度姿を現して暗い廊下を少しだけ照らす。
 そして、ルアは不思議な物を目にした。
 それが何なのかはよくわからないが、大きな箱が一つ、廊下の真中に置かれていた。いつからそこにあったのだろう。さっき通った時はなかったはずだが、今はそこに箱がある。あれが何なのか気になった。
 時刻は十一時五十四分を示していた。
 確認のために、一応は誰かに聞いてみる。
「なあ、あの箱なんだろ?」
「箱?」
 応じたのは猪崎だった。
「廊下の真中にあるだろ、ほらあそこ」
 猪崎はルアの指差す方向に視線を向けて、「あっ」と声を漏らす。どうやらルアだけに見える幻ではないらしい。やはりそこに大きな箱は存在する。益々あれが何なのか知りたくなってきた。
「あの箱なんだろ?さっき通った時はなかったよな?」
 ルアがその場の全員に問う。そして全員が「なかった」と答える。
 しばしそのまま箱を眺めていたが、いきなり将太が立ち上がった。
「わからないんだったら確かめれいいだろ。どうせやることなくて暇だったんだし」
 それもそうだと思う。暇潰しにをするなら持って来いの物がそこにある、それを使わない手はない。全員が立ち上がって箱に近づいて行く。
 なんだろうか、これは。近くで見るとそれは木製の箱で、それなりの大きさがあった。大きさは学校の掃除箱程度で横倒しになっていて、その上と中央と下が白い糸で縛ってある。中央に何かしらの言葉が書いてあったが、所々消えていて、しかも昔の言葉らしく大半が理解できなかった。どうせたいした事なんて書いてないだろうと決めつけて四人は面白半分で白い糸を解き始めた。中から死体でも出てきたら怖いよな、と冗談を飛ばして上の糸を解く。でも本当に死体だったらマジで怖いな、と少し恐怖心が出てきて下の糸を解く。
 時刻は十一時五十九分を示していた。
 ルアの手が、糸を解くのをやめた。ルアがそれ気付いた時、目の錯覚かと思った。糸を解くに連れて、次第に箱から青いモヤみたいな物が溢れ出している。何故かそれに気付いたのはルアだけで、他の三人は気付いていないらしく糸を解き続ける。何か嫌な予感がする。中央の糸が解けかかった。青いモヤが青い光りに変わる。背筋に虫唾が走る。
 気付いたら叫んでいた。
「待て! それ以上はダメだっ!!」
 ルアの叫びと同時に、箱を縛ってあった糸はすべてなくなった。
 一瞬青い光りは消える。そして、箱を閉じてあった木の板が吹き飛んだ。耳が破壊されるようなこの世の物とは思えない不気味な轟音が吹き出し、青い光りが箱の中から溢れ出した。これには全員が気付いたらしく、ルアを含める全員が言葉無くその光りを目を見開いて見ている。
 そして、箱の中からいくつもの光りの玉が飛び出した。全部で七つだったと思う。それは天井を透き抜けてどこかに消えてしまった。轟音と青い光りはすでにもうなくなっていた。何が起きたのか理解できなかった。今自分達が見た物が何だったのか、この箱が何だったのか、全く説明できなかった。
 時刻は十一時五十九分で、止まっていた。



 本気で怖くなった。目の前にあるこの箱は何なのか、あの音と青い光りは何なのか、天井に消えたあの七つの光は何なのか、解いた白い糸は何故どこにもないのか、どうして時計が止まってしまったのか。どれ一つ説明できなかった。恐怖だけが体を埋め尽くした。
 本気で、怖くなった。何が起きたのかわからない以上、このままここでいつまでも突っ立っているのは危険がある。ルアが「ここから早く逃げよう」と主張する。ここから一刻でも早く離れたかった。初めはゆっくり、しかし次第にその足取りは速くなっていく。最終的には全員走っていた。階段の所にある自分のエアーガンを掴み取って昇降口のドアノブを回して外に出ようとして、
 ドアノブが回らなかった。鍵は掛かってない。鍵は内側に付いているから閉められても平気なのだが、何故か鍵も掛かってないのにドアノブは回らなかった。
「なんで!? どうしてっ!?」
 ガチャガチャと左右に振るが一向に開く気配はしない。涙がでそうになった。後ろからもの凄い勢いで将太がウージーを昇降口のガラスに叩き込んだ。しかしガラスは割れない。まるで強化ガラスのようだった。全員が手分けして近くの窓をエアーガンで割ろうとするがどれ一つ割れない。
 死ぬほど怖かった。
「なんで割れないんだよ!? これって普通のガラスだろっ!?」
 恐怖に支配された表情で、猪崎は叫んだ。
「わからないよそんなこと!!」
 稲垣も恐怖に絞め殺されそうな顔をしていた。
 何度も同じ場所に叩き付けるが傷一つ付かない。一度全員が昇降口に集まる。なるべく落ち着いて、恐怖を必死に胸に押さえ込んだ。不気味な静寂に心が潰されそうになる。
 初めに口を開いたのはルアだった。
「何が起こったんだろう……」
「わかんねーよ、そんなこと……」
 将太がそれに答える。その答えに、稲垣が食って掛かった。
「わかんねーよってあの箱開けたからこうなったんだぞ!?」
「知るかよ! 俺のせーじゃねーだろ!」
「開けてみろって言ったのおまえじゃないか!!」
「そんなこと言ってねーよ!!」
「二人とも落ち着けよ、今はそんなこと言ってる場合じゃ、」
「黙ってろ猪崎!」
「そうだ、うるさいんだよ!」
「なんだと!? ふざけんじゃねーぞ!!」
「三人ともいいから黙れよ!! 今はそんな場合じゃねーだろ!? まずはここから出ること考えるべきだろ!?」
「出れないよ」
 一発で静寂が戻って来た。聞いたこともない声が、四人の中に紛れ込んだ。四人が一斉にその声の方向を向く。
 廊下の真中に、小さな少年が一人、立っていた。顔に気味の悪いお面を付けて、見る限りでは小学生くらい。服装は半ズボンに半袖の薄汚れたシャツ。靴は履いてなく裸足だった。そして、その少年には影がなかった。
「ここからは出れないよ。君達は開けてはならない箱を開けてしまったからね」
 幼い少年のその声は、不気味なほど廊下に響いた。
 この少年は誰だろう、とその疑問が全員の中に渦巻く。見た事のない子供、気味の悪いお面のせいで顔がわからないから誰か確かめようもない。やっと、少年の言葉の意味を悟った。ここから出れない、開けてはならない箱。それがあの箱だと気付いた時、ルアの顔が青ざめる。何かの小説で読んだことがある。この世には開けてはならないパンドラの箱が必ず一つはあって、それを開けた者は死ぬ。しかしそれはあくまで小説の中の物語であり、現実ではない。ルアは自分自身に言い聞かすが体が自然に震えた。
「君達は選ばれた。逃げることはできない」
 震える声を、ルアは口の隙間から漏らした。
「君は、誰なんだ……?」
 少年は笑った。本当に笑ったかどうかなんて確かめようがないのだが、笑ったと思う。
 少年には始め、影がなかった。しかし、何故か今は影がある。そしてその影はどんどんと大きさを増してゆく。少年の体が蠢き始め、中から何かが皮膚を破って這いずり出てくる。黒いマントのような布、少年がしているお面とは少し違う仮面、紫色の腕、爪が長い指、足があるかはどうかはわからない、そして少年の皮膚を突き破って出てきたそれは、完全な形となった。仮面を土台にしてそこから黒いマントが体の部分らしき物を隠して、そしてそのマントの両方から紫の腕とその先から長い爪がある手が伸びている。足がないようだった。マントが床から30センチ辺りの所で浮いている。影はそのシルエットを浮べていて、ゆっくりと腕が両側に広がる。少年の抜け殻はいつの間にか消えていた。
 仮面の中から、幾つもの音が重ねられた声が聞こえた。
『我が名は神魔。愚かなる人間どもよ。自ら止めた時間の流れを、死を持って後悔するがいい』
 神魔と名乗った黒マントは、そのような事を言ったと思う。
 ルアもそうだが、将太も稲垣も猪崎も、これが現実だとは到底思えなかった。ただ廃校になった学校に忍び込んで遊んで、帰り際に箱を見つけてそれ開けたらそこから何かが飛び出して、昇降口のドアは開かなくて、ガラスは割れなくて、今目の前にいるこの黒いマントは宙に浮いていて、少年の抜け殻は消えていて、いつの間にか時計は止まっていて、
 どこから間違った方向に進んでしまったのか。
 どこから時計の針は止まっていたのだろうか。
『ここから逃げることは許さん。時間の流れを取り戻したいのならば、自らの手で掴み取れ』
 それだけ言い残すと、神魔はゆっくりと消えていった。文字通り消えたのだ。黒いマントと気味の悪い仮面は、いつまでもルアの目に焼き付いていた。誰一人言葉を出せなかった。レールを踏み間違えた列車のように、四人は現実から脱線してしまった。
 人の気配を感じた。ルアがそこを向くと、微かな白い光りを体に纏った少女が一人、廊下の真中に立っていた。変わった服と肩より少し短い髪、綺麗な顔立ちと清潔感のある雰囲気。少女は嬉しそうに笑うと、ルアに向けて手を振った。何が何だか分らず、取り敢えずルアは手を振り返した。少女はさらに嬉しそうな顔をした。
 そして突然、ふっと消えた。気付いた時には、その少女はルアの隣りに立っていた。思わずその場から仰け反った。
 ぺこりと、少女は頭を下げた。満面の笑みを浮かべ、少女は嬉しそうに話した。
「こんばんわ、皆さん。この度、神魔さんから皆さんの案内人を仰せ付かったニナです。どうぞよろしくお願いします」
 丁寧にそう説明した少女は、もう一度頭を下げた。
 どこから脱線したのか、どうしてこんな事になってしまったのか。あの箱は、あの神魔は、この少女は、一体何なのか。
 何一つ分らない状況で、ルアはただその少女を見ていた。
 少女は、名をニナといった。


    ◎


 そもそもあの箱は『神迷』と呼ばれていて、その中には七つの魂が封じ込められていた。『神迷』を縛っていた白い糸はその七つの魂を外へ漏らさないためのもであり、それが何者かの手によって解かれた時だけ七つの魂は外に解き放たれる。解き放たれた魂は何かに憑依して活動し、それらをすべてもう一度、解いた人物の手で『神迷』に封じ込めない限り、ここからは出ることはできなくなる。すべての魂を封じ込めるまでは時間の流れが止まり、もし封じ込められなければ永遠にこの場所に留まる事になる。
 時間の流れを取り戻したければ、すべての魂をもう一度封じ込めるしかない、とニナは説明した。
 呆然とその話し聞きながら、ルア達はしばし硬直していた。ニナはまだ説明を続ける。
「七つの魂の内、一つはわたし、もう一つが神魔さん。残りの五つはどこかに憑依しています。そこまで案内するのがわたしの役目なんですけどね。神魔さんとわたしを封じ込めるのは最後なんですけど、取り敢えずは一番近い場所に憑依した物に案内します。そーそーそれと言い忘れていましたけど、もし憑依した物に食べられたり殺されちゃったりしたら、誰かがすべての魂を封じ込めるまでずっとこっちの世界には戻って来れませんから注意してくださいね。……えっと、これで大体の説明は終わりなんですけど、何か質問はありますか?」
 質問はなかった。
 いや、聞きたいことは山ほどある、あるがどれも口に出しすことができない。もし、このニナの話が本当ならば、この都築中学校のどこかに憑依した魂を封じ込めなければならないが、果たして信じてもいいのだろうか。確かに、ニナの話しを信じればこれまでの不可解な状況に対してすべての合点が行くが、まさかとは思う。魂とか封じ込めるとか、それができなきゃここから出れないとか、ここは小説や漫画の中ではない。誰が何と言おうと、ここは現実なのだ。そう思いたかった。どこからこの異次元的な空間に迷い込んでしまったのだろうか。
「じゃあ質問はないですね。では、これからわたしが案内しますので着いて来てください」
 ニナがルア達に背を向けて歩き出す。ちょっと待て、ルアがそう言うより早くに将太がその台詞を言った。
「ちょっと待てよ。なんだよそれ。いきなり訳わかんねーことばっかり言いやがって、そんなモン信じられるわけねーだろ」
 困ったように、ニナは将太へと視線を向けた。
「ですけど、信じてもらわなければここから出れませんよ? それでもいいんでしたら別にいいですけど」
「……よし、百歩譲ってその話を信じよう。だけど、おまえらを封じ込めた後にここから出れる保証はあるのか」
「保証ってわけじゃないですけど、わたし達を封じ込めたら『神迷』は消えます。そしたらここを覆っている神魔さんの力が消えるわけですから、自然と出れます。止まっちゃった時間も元通り流れ始めますよ」
 将太が言葉に詰った。何かを考えているのだろう。それはルアも同じだった。ルアが聞きたかったことはすべて聞いてくれた、だったら後はこの話しに乗るか降りるかを決めるだけである。しかし、降りればここからは永遠に出れないとまで言われている。乗るしか選択肢はないと思う。その事を皆に告げようとすると、急にドカリと稲垣が持っていたヘッケラーが床に落ちた。視線が稲垣に集まる。その表情は、完全に恐怖に蝕まれていた。
「……うんぴろ?」
 心配そうにルアが稲垣の顔を覗く。しかし視線がどうも噛み合わない。
 やがて、掠れた声でぽつりとつぶやく。
「……いやだ、」
 突然大声になる。
「僕は嫌だ! そんなこと知らない! 早くここから出してくれよっ!!」
 狂ったように叫び続けると、いきなり稲垣は走り出した。
 突然のことに引き止めるのが遅れた。暴走する車の如く稲垣は走り続ける、とんでもない早さだった。ルア達が「止まれ!」と叫ぶが聞く耳を持たない。階段を上がって二階に行って廊下を突っ切ってまた階段を上がって三階に行ってまた廊下を突っ切ってどこまでも走り続ける。尚も悲鳴にも似た叫び声は上げ続けていた。そろそろルア達の息が切れ始める。夜とはいえど今は夏。少ししか走ってはいないが汗が首筋を伝う。
 そんなルア達の横で、空中に浮びながらニナは怪訝そうな顔をした。
「まずいですよ、ルアさん。このまま行けばあの人の所に行ってしまいますよ?」
「なんで俺の名前知ってんだよ! って、そんなことはどうでもいい! あの人ってなんだ!?」
 稲垣が廊下の突き当たりを曲がった。そこには三階から下に降りる階段がある。
 ニナはさらに怪訝な顔をした。
「行っちゃった……」
 直後、
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああッ」
 腹に響く絶叫が聞こえた。思わず耳を塞ぎたくなった。
 しかしそれをどうにか押さえ、ルア達は稲垣の後を追って角を曲る。足が自然と動くのをやめた。体が、細胞の一つ一つのが逃げろと信号を発しているようだった。二回へと続く階段の降り返し地点に、稲垣はいた。しかしその下半身がない。いや違う、下半身が床に呑み込まれているのだ。腰より下が完全に床に呑み込まれいて、稲垣は両手で必死に床にしがみ付いている。
 別に、それだけならただの笑い話で済んだかもしれない。だけど、そこには何かがいて、何かは生きていて、何かは蠢いていて、
 稲垣の体の周りに赤い線がススッと入り、そしてその線の内側が開いた。巨大な口、そう表現するのが一番いい。巨大な口がぱっくりと開いて、その周りには鋭い牙が何本も付いていて、その口の奥にまた小さな口があって、それが稲垣の下半身に食い付いていた。
「タス、助けッ!! 助けてェえええええええええッ!!」
 稲垣の悲鳴が聞こえる。しかし体が凍ったみたいに動かない。だが動いた所で、助けに行けるとは到底思えない。ただ怖かった。その場で腰を抜かさないだけマシだったはずである。稲垣の体が更なる力で口の奥底に引き摺り込まれる。階段の手擦りの棒にしがみ付き、何とか力に抵抗する。しかし時間の問題なのは目に見えていた。ニナは言う。
「助けに行かなくていいんですか? このままじゃあの人食べられちゃいますよ?」
 そんなことわかっている、わかっているけど体が動かない。動け、動け、動いてくれ。しかし体は震えるだけで動こうとはしない。稲垣の腕が限界に達しようとしていた。掴んでいた指に力が入らなくなってきている。体が少しずつ引き寄せられていた。そして、ついに巨大な口は実力行使に出た。口の中から何本の触手らしき物が飛び出てくる。それは一本一本稲垣の体を取り巻き、力任せに締め付ける。稲垣の口から「あ、ぐッ」と息の詰る声が漏れる。稲垣の手が、手擦りから離れた。触手は一気に稲垣の体を口の奥底に連れ込んで行く。
「る、ルアぁあっ!!」
 稲垣の最後の声を聞いた。奥に連れ込むと、巨大な口が閉じる。もう一度開いたときには稲垣の姿はなかった。その変わりに、奥から何かが浮き上がってくる。丸い球体だった。そしてその上が二つに割れると、中から巨大な目玉が現れた。眼球がグルグルと動いて次なる獲物を探し始める。うんぴろが食われた、そう考えただけで本当に体から力がすべてなくなるようだった。どうしても体が動かない。触手が一本伸びて来る。どうやら目玉はルア達の存在に気付いたらしい。
「ルアさんルアさん、何してるんですかっ? 死んじゃいますよっ?」
 ニナが慌てたようにルアに問い掛ける。
 しかしいくらやっても結果は同じで体は動かない。触手はもうそこまで来ていた。ダメだ、早く動け、何かないのか、何か。やっと、自分が手に持っている物の存在を思い出した。スパス12。何とか神経を集中させて右手を無理やり動かした。スパスの銃口を自分の足に向ける。歯を食い縛った。
 そして、ルアはトリガーを引いた。銃声と共に足首に激痛が走った。しかしその痛みの御かげで体の自由が一発で帰返って来た。すぐさまフォアグリップを引いてすぐそこまで来ていた触手に向けてトリガーを引いた。弾は見事命中して、触手が痛みに耐え兼ねて口の中に戻って行く。もう一度さっきの動作を繰り返して将太と猪崎に向けてトリガーを続けざまに引いた。二人も激痛と引き換えに、体の自由を取り戻した。
「おい将太、猪崎っ! 手伝えっ! あの化け物をぶっ殺す!!」
 勇気なんていくらでも絞り出せた。何が何でも、目玉の化け物を『神迷』に封じ込めて稲垣を助け出さなければならない。封じ込め方なんて知ったこっちゃなかった。まずは何をしてでも、あの目玉をぶっ殺さなければ気が済まない。ルアが先頭切って階段を降り始めた。スパスのフォアグリップを引いて口の中目掛けて一発撃った。それにどうやら怒気を持ったらしく、触手が何本もルアに伸びる。しかし負けじとその後ろから猪崎が援護する。触手一本一本を的確に撃ち抜く。
 もう少しで目玉に辿りつこうとした瞬間、ルアの足が触手に絡み取られた。一気に上に持ち上げられる。足が上になって逆さまに吊り上げられた。しかし、ルアの顔がニヤリと笑う。目玉がすぐにその意図を読み取って視線をその方向に向ける、が、
「くたばれッ!」
 階段の上から飛び降りた将太が、ウージーの銃口を真直ぐ目玉に向けてそのまま突っ込む。
 ズシャッ。
 緑の血が吹き出し、ウージーの半分以上の部分が目玉の中へと減り込んだ。
 目玉の両側に足を置き、将太はルアと同じような笑みを浮かべた。
 ぐるりと、目玉の中でウージーを回転させる。目玉が震え始めた。さらに、えぐる。震えが激しくなる。
「チェックメイトだ、目玉野郎ッ!!」
 ウージーを、引っこ抜いた。大量の緑の血と、ぶっ壊れたラジカセから流れる悲鳴のような声が漏れた。ルアの足に絡み付いていた触手が離れて床に落とされる。そして、目玉の部分から徐々に光り始めた。次第に光りは規模を増して行き、空中で固まって小さな光りの玉となった。『神迷』から飛び出した光りの玉だった。つまりそれが、封じ込める魂。魂はそのまま壁を通り抜けて消えてしまった。ルアも将太も猪崎も、そのままの体制で動けなかった。
 ただ一人、ニナだけが驚いたような表情をしていて、やがて嬉しそうにポツリとつぶやいた。
「すっごーい……」
 今頃になって足が震え始めた。一番危険な役をこなした将太も同じだったのだろう、ルアと同じくらい足が震えている。猪崎はその場にヘたれ込んだ。そして、ルアは気付いた。辺りを見まわすが姿が見えない。あの目玉野郎は封じ込めたと思う、なのにどこに姿が見えない。震える足を強引に押さえ付け、無理やり体を立たせて階段の上でこっちを見ているニナに視線を向けた。
「どういうことだ? なんで稲垣が戻って来ない」
「なんでって……あれ? 説明しませんでした? 憑依した物に食べられたり殺されちゃったりしたら、誰かがすべての魂を封じ込めるまでずっとこっちの世界には戻って来れませんから注意してくださいねって、言いませんでしたっけ?」
 確かそんなようなことは言っていたと思う。だけど、もし本当にそうなら、
「だったら何か? あと六つの魂を封じ込めないと稲垣は戻って来ないのか」
「そうなりますね」
 もし本当にそうだとしたら、あと六回も先ほどのような危険な目に合わなければならないということだろうか。今度は自分がさっきのような目にあうかもしれない。本音を言ってしまえば、それは本気で怖かった。だけど、稲垣は仲間だ。ルア達の仲間なのだ。仲間を失ったまま平気でいられるほど、ルアの心は冷たくはない。
 肩が両方から叩かれた。将太と猪崎だった。二人もルアと同じ心境なのだろう。
 心は決まった。ルアは、将太は、猪崎は、
 笑った。
 ニナが不思議そうに首を傾げる。
 魂がなんだってんだクソが。都築中学校の卒業生をナメなよ、まとめて封じ込めてやる。
 学校でエアーガンの撃ち合いが、サバイバルゲームがルアの小さい頃からの夢だった。
 この命懸けのサバイバルゲーム、真向から受けてやる。
「おもしれえ、やってやるよ」
 この誰もいない廃校となった思い出のたくさんある都築中学校で、命懸けのサバイバルゲームの幕が上がった。


 神岸ルアの、小さい頃からの夢だった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「微かな記憶、大切な思い出」



 次にニナに案内された場所は新校舎一階の理科室。
 そこに魂は二つ憑依したらしい。理科室で憑依する物なんて相場は決まっている。しかも二つも憑依したとなれば決定的だ。しかしルアの記憶では、それがあるのは小学校の理科室であり、中学校の理科室にそんな物があるのかどうかはわからなかった。もしかすると理科室のどこかにあったのか、もしくは『神迷』の魂はそんな物関係ないしどこからか奪って来て憑依したのか。だがどちらにしても、憑依した物の予想は出来るので今回の魂は簡単に封じ込めることができるような気がする。それも二つ同時に。そんなことを考えていた。
 ルア達は理科室のドアの前に到着した。
「行くぞ」
 ルアがそう言うと、二人は肯いた。
 エアーガンの弾はここに来る前にすべて詰め込んだ。だがエアーガンの弾で、魂の憑依した物を壊すなんてできないことをルア達はよく理解している。だが少なくとも何かの役に立つはずだ。それにエアーガンの攻撃はBB弾だけではない。そのまま殴ればそれなりの威力を発揮する。先ほど封じ込めた目玉野郎がそれを証明していた。
 ドアを開ける前に、ルアはスパスのフォアグリップを引いた。そして将太も猪崎も。
 そっと理科室のドアに手を掛け、一気にドアを開けた。三人が同時に室内に向けて銃を構える。
 だが見た限りでは何もいない。ルアが理科室に一歩踏み込んで、
 気付いた。気付かなければよかったとさえ思う。
 理科室の前にある黒板と教卓の間に何かが一つ立っている。吐き気を覚えた。そこには人体模型が一体、こっちを見ている。
 確かに、映画などで動く人体模型を見たことはある。だけどやはりあれは映画であって、作り物であって、実物ではないのだ。しかし今、ルアを見ている人体模型は本当に生きている、動いている。体の真中から左半分が普通の人で、右半分が人間の内臓を現していた。左半分だけならまだいい。右半分は直視できるものではなかった。剥き出しの臓器が、脳味噌が微かに動き、眼球がギュルリと回転して、心臓が鼓動をし、大腸が蠢く。腕は皮膚がすべてなくなって神経が体の輪郭を作っていて、足もそれと全く同じ作りだった。
「なんだよあれ!? 生きてる! 動いてるぞ!?」
「いいから突っ込め猪崎!」
 三人はニナをその場に残して理科室に乱入して、問答無用に動く人体模型に向けてトリガーを引き続けた。
 弾が左半分に当たっても何も起きないが、右半分は違う。弾が一発当たるごとにブチュっと臓器を破る音がする。それと同時に少量の血が吹き出でて、人体模型の口から「あ、あ、」と本当の人間のような声が上がる。よく外科医はこんな人間の体を手術できるなと本気で尊敬しながら、トリガーを引いた。
 そして、ついに人体模型は行動を開始する。右半分に何十発もの白い弾の痕跡を残し、歩く度に血を床に落としながら、ゆっくりとこちからに向かって歩いて来る。さらなる勢いで三人はトリガーを引き続けた。目玉野郎の時とは違う恐怖が三人を襲う。人体模型がもうすぐそこまできていた。右半分に弾が当たる時に吹き出る血が、微かに三人に飛び散る。血は生暖かくて、たったそれだけのことで吐きそうになった。どうにか吐き気を押さえ、何とかトリガーを引き続けた。
 ルアのスパスが弾切れになった。予備のマガジンに取り換える余裕はない。これ以上、このエグい人体模型を近づけたくはなかった。少し迷った挙句、ルアは最終手段に出た。スパスの持つ場所を変えて、右に思いっきりタメを作る。人体模型が、射程有効距離に入った。スパスを人体模型の顔面目掛けて力一杯振り回す。
 止めておけばよかったと本気で後悔した。
 ルアの振り回したスパスは、見事に人体模型の顔面右を捕らえる。直後、脳味噌が粉々に吹っ飛んで、大量の血が飛び散って、目玉が弾けた。
「う、うわああああああああっ!!」
 叫ばずにはいられなかった。
 人体模型の首から上がもげた。本当にもげた。血が真直ぐ上に吹き出して、しかしそれはすぐに止まって今度は下に流れ始める。人体模型の心臓の鼓動がさらに速くなった。押さえていたはずの吐き気が押し寄せてくる。
 堪らなく、将太が叫ぶ。
「こんなの現実じゃねーだろっ!? ありえねーって!!」
「現実だっ!」
 ルアがそう返すが、すでに限界だった。
 その場から全員が逃げ出す。何を置いてもまず、これ以上この人体模型を見ていたくはなかった。ルアが理科室を一番最初に飛び出して、続いて将太が飛び出して来る。外で待っていたニナが二人の服に飛び散った真っ赤な血を目にして「うわぁ」と声を漏らし、
 猪崎が悲鳴を上げた。二人が瞬間的に足を止め、振り返る。
 悲鳴を上げる猪崎の腕を、首から上が無くなった人体模型の手が掴んでいた。神経が剥き出しになっているその腕は、冗談なしに怖かった。
「猪崎っ!!」
 ルアと将太が同時に叫ぶ。
 床に転がる人体模型の首から上、右半分が吹っ飛んだ顔がニタリと笑う。残った左半分の口から「ケケケケケ」と笑い声が聞こえた。猪崎が更なる悲鳴を上げる。無我夢中で腕を振り回し、何とか人体模型の腕を解こうとする。だが中々上手くいかない。そんな時、急に猪崎を掴む腕の力が弱くなった。しかし人体模型の腕はしっかりと猪崎の手首を掴んだままだ。
 恐る恐る、猪崎はその腕に目をやった。
 人体模型の腕が途中で千切れていた。千切れた両方から血が流れる。猪崎の顔から血の気が失せた。そして、猪崎を支えていた物が壊れた。腕を振り回して掴んでいる手を吹き飛ばし、その拍子でその場に倒れ込んだ。人体模型の体がゆっくり猪崎に近づく。更なる悲鳴を上げる。何かが反対方向から迫ってくる。視線を向けると、猛スピードで右半分が吹っ飛んでいる首がこっちに向かって突っ込んできていた。悲鳴が絶叫に変わる。その場から一瞬で立ち上がり、しかしバランスを崩して転倒だけは避けようと右足を前に出した。
 その右足が、迫ってくる首を思いっきり踏み潰した。
 グシャっとスイカの割れる音がした。そして、猪崎はその場で気を失った。背中から後ろに倒れ込んでいく。ルアと将太はそれに気付いて急いで猪崎の元に駆け寄る。将太が猪崎を抱えて理科室の外に飛び出て、その後を追って来るように動く体だけ残った人体模型を、ルアがスパスで薙ぎ倒した。
 三人が廊下に避難して、ドアを力任せに閉めてさらに理科室から遠ざかった。
「ルアさん! まだあと一人この中にいるんですよぉー?」
 ルア達の跡を宙を浮きながら追って来るニナは、引き止めるようにそう言うのだった。
 そんな事、全く聞いていなかった。一刻も早くここから離れたかった。
 別の意味で、本気で怖かった。


 理科室では、残された人体模型がゆっくりと光り輝く。飛び散った血も、吹っ飛んだ臓器も、すべてが光っていた。やがてそれは一ヶ所に集まり、宙に浮いて光りの玉となった。ゆっくりと進みだし、壁を通り抜けて理科室から消え去った。
 ルア達の服に飛び散った血も、スパスに付着した肉片もすでに消えていたが、そんなことには全く気付かずにルア達は走り続ける。


     ◎


「どうして逃げちゃたったんですか?」
 ニナは不思議そうに、疲れ切って廊下に座って壁に凭れているルアを見下げた。ルアは目の前にいるニナに視線を上げる。
 どうしてって、理由なんて決まっている。あんな物をこれ以上見たくなかったのだ。それは全員が同じで、これ以上あの人体模型を見ていたら本気で精神崩壊を起こしかねない。
 心配になって猪崎を見る。猪崎はつい先ほど意識を取り戻した。今は将太と何か話しているが、どうも笑いがぎこちない。だがそれは当然だと思う。ルア自身も今は心から笑える状況ではない。
「ねえルアさんてば!」
 肩をニナに揺すられる。
「なんだよ……」
 嫌々に返事を返すと、いきなりニナは悲しそうな顔になった。
「……わたしのこと、嫌いになっちゃったんですか……?」
 目には涙まで溜めている。嫌いにって言われても、まだ初めて逢ってからそんなには時間は経ってないのに、いきなりそんな事を言われても困る。困惑しきっていると、ニナの方が先に口を開いた。
「やっぱりそうなんですね……」
「いや、そういうわけじゃねーけど……」
「じゃあ、好きですか……?」
「はあ……?」
 また泣きそうな顔だ。やめてくれ、その顔は苦手だ。女の子の泣き顔なんてこれっぽっちも見たくはなかった。
 仕方なく、ルアは答えた。
「ああ、俺はニナが好きだよ」
 ニナは嬉しそうに笑った。
 ルアの心がカタリと音を立てる。ルアはその嬉しそうに笑うニナの表情に、見覚えがあった。遠い昔の思い出、心の中で眠っていた微かな記憶――。どこだろう。確かに、ルアはニナのこの嬉しそうな笑顔を見たことがある。しかしいつどこで見たのか思い出せない。一体どこで見たのだろうか。微かな記憶の中には、確かにニナがいる。だけど、その記憶の根本が引っ張り出せない。もしかして、以前にもニナに会ったことがあるのかもしれない。いや、会っている。ルアは何の証拠もなかったが、そう言い切れる自信があった。
 不意に、ルアはそれとは違う事を思い出した。稲垣を追い掛けている時、ニナは自己紹介もしていないルアの名前を言った。何故、ニナはルアの名前を知っていたのか。ニナの言葉、「嫌いになっちゃったんですか?」それは、かつて二人が出会っていたことを現すのではないのか。もしかしたら、ルアは完全には覚えていないが、ニナはルアと会ったときのことをハッキリと覚えているのではないか。
 いつしか、口が勝手に動いていた。
「なあ……。俺達って、昔どこかで会ったことあるのか?」
 唐突に、ニナの表情が変わった。
「――……え?」
「なんかさ、ニナのさっきの笑顔に見覚えがあるんだよな……」
 ニナの顔を見た。驚いたような、そんな表情をしていた。
 それが何を意味しているのかは、ルアは全くわからない。
 やがて、ニナは小さくつぶやいた。
「ルア……さん……。あの……っ」
「何話してるんだよ、二人して」
 いきなりの将太の声が、ニナの小さな声を掻き消した。将太の後ろには猪崎もいる。どうやら二人の話しに一段落付いて、こっちを見たら何やら話をしていたので乱入したのだろう。
「いや、別になんでもないよ」
 今はこの話しは止そうと思う。また後で聞けばいいだけだ。そう、また後で……。
 ルアは立ち上がった。まずは理科室に憑依したもう一つの魂を封じ込めるのが先だ。一つが人体模型、そうとくればもう一つは決まっていた。人体模型があるなら骸骨の模型もあるはずだ。もう一つは恐らくそれに憑依していると見てまず間違いない。今度は骸骨、内臓もなければ血も出ない。さっきの奴と比べればまだかわいいとさえ思えるのは感覚が麻痺してしまった証拠だろうか。
「さあ、もう一つの魂をぶっ倒すぞ」
 将太も猪崎も立ち上がった。ルアを先頭に三人は理科室へと歩き出す。その後ろを、少し遅れてニナが付いて行く。その表情が悲しそうだが、そのことにルアは気付かなかった。


 もう一度、マガジンに弾を全弾詰め込んだ。今度は骸骨なのでそれはあまり意味のないことだと思うが、用心に越した事はない。
 人体模型の怖さに我を忘れてがむしゃらに走ったせいで、三階まで登っていた。そこから理科室までに行くのには、少しの時間が掛かった。いつの間にか将太が先頭を切って、その後にルアと猪崎が、そして少し離れた所にニナが続く。ルアは隣りの猪崎に視線を向けた。顔が引き攣っている。無理もない。さっきまで気を失って、その原因を作った場所にもう一度赴くのだから当然と言えば当然だ。
「怖いのか?」
 ルアの問いに、猪崎は苦笑いを浮かべた。
「怖くないって言えば嘘になる。だけど、」
 苦笑いが消し去り、今度は強い意志が見て取れる真剣な表情になった。ルアは、猪崎のそんな顔が好きだった。その顔を見るだけで、自分にも不思議と勇気と度胸が湧いてくる。猪崎独特の力だった。
「うんぴろを助け出さなきゃなんねー。アイツは馬鹿で間抜けだが、俺達の仲間だ。そうだろ、ルア?」
 猪崎のその表情は、勇気と度胸を起こさせる。
「ったりめーだ」
 そう言って、ルアは自信に満ち溢れて笑った。


 再度理科室の前に到着した。意を決してドアを開け放って、それと同時に中へ飛び込んでエアーガンを構えた。
 何も見えなかった。理科室から一歩入ると、そこは完全なる闇だった。廊下も暗いが、この中はその廊下が明るいと思えるほどの暗闇。自分の手さえ微かに見えるだけだ。さっきここに来た時はこんなには暗くなかった。廊下と同じくらいの明るさだったのに、今は違う。本物の闇。全く中が見えない。どこから何が来るかわからないこの暗闇は、人体模型の時よりも恐怖心を浮き出しにした。
「おい、皆ちゃんといるんだろうな?」
 ここには自分一人しかいないではないかと不安にさせた。視界が全くない闇は、どんな物よりも人間を孤独にさせる。
「おう、ちゃんといる」
 将太の声。
「俺もだ」
 猪崎の声。
 一人、声が聞こえない。
「ニナ? おい、ニナ!」
「え、あ、はい。なんですかルアさん」
 暗闇から戸惑った声が聞こえた。
「いや、いるならいい」
 少しずつ、辺りを警戒しながら前に進む。全神経を視覚ではなく聴覚に集中する。何も見えないとなると、視覚は捨てて物音を聞くために聴覚を研ぎ澄まさなければならない。一つ一つの物音に敏感になる。サバイバルゲームをしていた時、ルアは稲垣との撃ち合いでここに逃げ込んだ。その時はいろいろな音が聞こえてきたのに、今は何も聞こえない。
 突然、何かが物音を立てた。瞬間的にルアと猪崎がそこにエアーガンを向ける。
 弁解気味の将太の声が聞こえた。
「わ、わりぃ、今の俺だわ……」
「脅かすなよ!」
 ルアがその方向にいるであろう将太に言う。
 しかし何も見えないと本当にそんな物音一つで驚く。どうにかして視界を保てない物だろうか。
「あ……っ」
 猪崎の声だ。
「今度はなんだよ!」
「いいもん見つけた。ちょっと待ってろ」
 猪崎がどこかにエアーガン二丁を置いた。その空いた手が伸びて行き、テーブルの上にあったマッチとアルコールランプを手に取る。小学校の時にアルコールランプの使い方は教わっているから、火を付けるのは屁でもない作業だ。
「ジャジャーン! アルコールランプー!」
 ドラえもん顔負けのアイテム説明をする。それを暗闇で猪崎はルアと将太に見せようとするが、二人には全く見えない。
「アルコールランプ? そんなもんどこにあったんだよ?」
 ルアが聞くと、猪崎はさも当然に答える。
「テーブルの上だよ」
 ルアは疑問を覚えた。
 その瞬間、ボっとマッチの火が灯る。辺りの視界が一発で戻ってきた。その光りを頼りに、猪崎はアルコールランプのフタを開けた。それと同時にマッチの寿命が尽きる。視界がまた消える。「死ぬのはえーんだよ」と愚痴を漏らしてから、猪崎はもう一本マッチに火を灯した。そしてそれをアルコールランプに引火させる。小さなその火は、理科室を完全に照らし出した。
「おい猪崎、お前そのランプどうやって見付けたんだよ……?」
 ルアのその言葉の意味を理解できず、猪崎はそのまま答えた。
「だからここにあったんだよ」
「なんでだよ、なんでお前はそれが見えたんだよ……?」
「なんでって…………………あ、ああっ」
 考えるが、すぐにその意味を理解した。
 この理科室は、今はアルコールランプの火の御かげで視界が保てるが、ついさっきまでは自分の手も微かにしか見えない暗闇で、テーブルは愚かその上に置いてあるマッチとアルコールランプなど見えるはずもないのだ。だが、そんなことにも関わらず、猪崎だけにはそのマッチとアルコールランプが見えた。そしてマッチの火までも糸も容易く灯してみせた。それが何を意味するか、やっと理解した。
 そして、それは同時に絶望と危険への理解だった。
 油断、していたのだろう。理科室で憑依する物は勝手に人体模型と骸骨と決めつけ、それ以外の物には憑依しないと高をくくっていた。そしてその浅はかな考えが、最悪の状況を生み出した。
「猪崎! それを捨て、」
 ルアの叫びより一瞬早く、それは起こった。
 アルコールランプの火が燃え上がった。あっという間にその火は天井まで伸び、天井に当たった所で方向を変えた。まるで炎でできた龍のように、火は天井を這う。しばらくその龍は天井を這った後、いきなり方向を変えた。ランプを持っていた猪崎に視線を向ける。そして口を限界までに開け、唸った瞬間、天から落ちてくる龍の如くに猪崎の頭上から襲いかかった。一瞬で、猪崎は炎の龍に飲み込まれた。声一つ聞こえなかった。そしてまた一瞬で猪崎の体を覆った炎が消え去る。炎が消え去ったそこに、猪崎の姿はなかった。すべては一瞬の出来事。
 テーブルの上で、アルコールランプの火は小さく輝いていた。
 今度は、猪崎がいなくなった。また一人、仲間を失ってしまった。それは、ルアの心に完全なる衝撃となって押し寄せる。
「っんの野郎ォオッ!!」
 ルアがスパスを振り上げて、テーブルの上で輝いていたアルコールランプを力一杯叩き割った。砕けた瓶の破片が当たりに散らばる。そして、床一杯にランプの中のオイルが広がり、そのオイルに火は引火した。瞬く間に火は炎となって規模を増して行く。
「何してんだよっ!! 広げてどーすんだ!!」
 将太の声が聞こえるが、そんなこと頭には入ってはいなかった。
 炎がまるで生き物のように移動し始める。徐々に燃え広がる中心部に集まり出し、ゆっくりと炎が何かの形を浮かべ始める。今度は龍ではない。それはルア達よりも一回り大きい人の形。そして、炎は完全なる人の形を作り出した。口と目の部分がくっきりと浮び、口から不気味な雄叫びが上がる。
 怖さよりも、暑さに負けてその場から逃げ出した。
「ルアさん? どこ行くんですか?」
「いいからこい!」
 ニナの手を掴んで廊下に転がり出た。ここでやっとニナは炎の化け物に気づいて「わっ」と声を漏らした。どうやらこの少女はテンポが通常よりかなりずれているみたいだ。しかし今はそんなことは関係ない。
 廊下を何も考えずに走った。理科室から炎の化け物が追い掛けて来る。ここでやっとどうにかしなければと思う。しかし相手は炎の化け物だ。BB弾でも、直接殴っても、何の意味もないのは目に見えている。たとえ水をぶっ掛けてもあれだけの炎に通用するとは到底思えない。
 時々後ろを振り返る。炎の化け物は歩きながら追って来ていたので、ルア達とかなりの差ができていた。しかしルアが見ているその最中、炎の化け物はすうっと右手らしき部分を前に向ける。その右手の先には、ルア達がいる。
 一瞬だった。炎の化け物の右手が龍になるのと、その龍が伸びるのとは同時だったように思う。炎の化け物から伸びた龍は瞬時にルア達に追いつき、簡単に追い越してしまった。ルア達が足を止める。目の前に立ちはだかる龍の存在は途方もなく大きく感じた。後ろからは炎の本体が近づいて来る。廊下はかなりの高温に達していた。夏で暑い上、ここまで暑いと脳味噌が溶けるのではないかと本気で思った。炎はもうそこまで来ている。
 このままでは二人とも猪崎の二の舞だ。それだけは何としてでも避けなければならない。ルアと祥吾は絶対に生き抜き、この命懸けのサバイバルゲームに勝利して二人をこっちの世界に連れ戻させなければならないのだ。こんな所で負けるわけにはいかない。しかしこの危険な状況を乗り越える策はなかった。どうするか考えるが、暑さのせいで考えがまとまるにまとまらない。焦りだけが増していく。
 この炎に水は通じない。だったら、他に通じる物は。ええっと、何か、何か。ついに頭がぼんやりしてきた。
 火事の時って、どうやって炎を消すんだっけ。そんな馬鹿みたいな言葉が出てきた。まず始めに連想したのは赤い車、消防車。そこから長いホースが伸び、水が噴き出る。だから水じゃだめなんだって。じゃあ他に使える物はなんだっけか。赤い車。赤い。
 完全なる偶然だった。それを目にしたのも、それがここにあったのも、すべてが偶然の重なりで、しかし結果的はそれが突破口となった。壁の出っ張りの陰、赤い影が微かに見える。ルアはそれまで握っていたニナの手を離してそれに飛びついた。赤い装甲、黒い取っ手。希望の光、炎の天敵。ルアの味方、いつもはあっても何の意味もないそれは、ルア達の危機を救った。そこにあったのは一本の消火器。廃校となった学校にこんな物が残っているなんて、何たる幸運だろうか。
 気が動転していて、消火器の使い方をど忘れした。そんな自分が信じられない。しかし忘れた物は仕方ない。そうなれば聞くだけだ。
「将太!! 消火器どうやって使うんだっけっ!?」
「ああ!? 消火器だあ!? んなもんピン引っこ抜きゃいいだけだろってうおっ!!」
 将太のすぐ横を龍が掠める。袖が少しだが焼け焦げる。
 ぐずぐすしている暇はなかった。消火器の上に付いていた黄色いピンを引っこ抜いた。次にホースを止め具から引き離してグリップを握った。
 ホースの狙いを真直ぐ天井を這う龍に向ける。それに気付いた龍は口を大きく開け放ち、そのままルアに向かって突進してくる。もう、そんな物は怖くなかった。暑さもとうに消え去っていた。
 狙いを完全に龍に定め、グリップを握り緊めた。一瞬ホースがガクンと揺れて、すぐに真っ白の粉が吹き出す。突進してきた龍に、粉は容赦無く降り注いだ。瞬間に龍の動きが静止し、突然に大声で唸りながら体を振り回す。やがて、龍は顔の先端部分から消え去り始まる。ルアはそれでも容赦しない。消えて行く龍の体にさらなる量の粉を噴射して消滅を促進させる。龍の体が完全に消え、今度はホースの狙いが炎の化け物の本体に向けられた。顔の部分がゆっくり左右に振られる。いやいやをしているつもりなのだろうか。だが、そんなこと知ったこっちゃない。今までやってくれた分、猪崎の分を噛み締めて封じ込められやがれ。
「消え失せろ化け物!!」
 グリップを再度握り緊める。煙が噴射され、それが直撃した炎の化け物が叫ぶ。何度も体を捻りながら回転し、徐々に足の部分から消え始めた。やがて、炎が光り始めた。しかしまだ消火器の噴射を緩めない。光りは大きさを増して、空中で小さな玉を作り出した。その中に残った炎が吸い込まれていく。やがて炎がすべて消える頃、その場には白い粉しかなかった。
 気付いた時には、ルアも将太も、もちろんニナも、消火器の粉のせいで真っ白だった。
 笑うしかなかったと思う。


     ◎


 都築中学校は室内に温水プールがある。
 新校舎一階の中央階段の下にある通路を突き当りまで行くとそこに扉があって、それを開けると温室プールが姿を現す。室内は完全なガラス張りであり、月明かりが妙に明るく感じる。大きさは他の中学校と何一つ変わらない、変わらないが設備がきちんとされているのはすごい。小さなジャンプ台もあれば飛びこみ台は当たり前、シャワーなどの設備も完璧で、それは廃校になった今でもちゃんと作動する。
 理由は簡単だ。この都築中学校のプールだけは今も使われている。元々、このプールは地元の小学生のスイミングスクール用にも使われていて、綺麗な水と程好い温度で評判がよく、年中生徒に使用されていた。今はどうだか知らないが、少なくともスイミングスクールの生徒は使用しているらしく、水は綺麗だった。水の温度もちょうどいい。泳ぐのには何の心配事もない。
 ルア達が何故ここに来たのかは決まっている。もちろん泳ぐのだ。
 先の炎の化け物に使った消火器のせいで、ルア達は真っ白になった。いくらなんでもそのままで次の魂を封じ込める気にもなれず、水道で少しでも洗い落とそうとしたが、よくよく考えればプールがあるのに気付き、わざわざ鍵の掛かった扉を破壊してまでここに来た。
 ニナが言うには、このプールには何も憑依していないらしい。だから心置きなく泳げる。しかし、稲垣と猪崎をすぐにでも助けたいと思う気持ちはある、あるのだが真っ白のままで二人に再会したら笑われるのは目に見えている。それだけは嫌だった。だから、ルアと将太は泳ぐのである。
 水着などは持っていない。だから服も何も脱がずにプールに飛び込んだ。静かだったプールに二人分の水飛沫があがる。大きなその波紋はそのままプール全体に行き渡った。何度も潜って体から白い粉を吹き飛ばした。水が少しだけ白くなってしまったが、そんなことはお構いなしに二人は泳ぎ続けた。
 しかし、何故かニナだけはプールには入ろうとはしなかった。プールの端っこに座って脚だけを水に浸らせている。まだ顔や服には白い粉が残っている。
 ルアがそれに気付いてニナに近づく。将太はクロールで向こうまで泳いで行ってしまった。
 ニナの前まで泳いで行く。
「ニナ、なんでおまえは入らないんだよ?」
「え……、あの、その……」
「まさか泳げないとかじゃないよな?」
 ニナはむっとした顔になった。
「お、泳げますよ! だけど今は入りたくないんです! 着替えも持ってないですし!」
「ふーん……」
 悪知恵が働いた。ニナの手を取って、一気にプールに引っ張り込んだ。
「きゃっ!!」
 見事に、ニナは頭からプールに落ちた。ルアが大声を出して笑う。将太が何事かと泳ぐのをやめてこちらを振り向く。
 しかしそれとは裏腹に、ニナは必死だった。手足をじたばたさせて水飛沫を上げる。プールに入ろうとしない奴は、大体がカナヅチだ。それをルアはよく知っていた。小中と、よくそれで体育の時間のプールで友達を溺れかけさせたことがある。しかし全員が足が底に付くとわかると同時に、さっきまで慌てふためいていたのが嘘のように、何でもなかったように冷静を装う。その哀れな姿がまた面白かったものである。
 やっと、事態の深刻さに気付いた。ニナがいつまで経っても水飛沫を上げるのを止めない。本当に溺れている。こんな水位が浅いプールで。
 しかし心配になった。急いでニナの体を支えに入る。だがいきなりしがみ付かれてルアまでひっくり返りそうになって、ギリギリで踏み止まった。
「落ち着けってニナ!」
 やっと水飛沫が止んだ。ニナの体はルアにしがみ付いたまま身動き一つしない。濡れたニナの髪に少しだけ理性を揺さぶられたが、何とか留まった。首を振ってその考えを吹き飛ばし、しがみ付くニナにもう一度視線を向ける。いつまでも離れようとしないニナを不思議に思い、肩を手を置いた時に初めて気付いた。焦りに焦った。
「おまえ泣いて……」
 声を押さえて、ニナは泣いていた。肩が微かに揺れる。
 さすがに罪悪感を感じた。いくらなんでも女の子をプールに落とすのはまずかった。それで泣くとは思ってもみなかった。しかし実際に、ニナは泣いている。女の子を泣かすとは不覚だった。いくらなんでもそれはやり過ぎだ。
「あ、あのさ……。ニナ……、」
 突然に視界が回転して、水飛沫が上がって、気付いたらルアは水の中にいた。何がどうなったのか状況が理解出来ずに、水の中でしばし考えていたが、いきなり水の中にいたので息が限界だった。体が酸素を求めている。急いで体の向きを変えて水面に飛び出た。大きく、何度も深呼吸をして、やっと体が落ち着く。目の前にいる少女に視線を向ける。
 ニナは涙を浮かべた目で、少しだが笑った。
「これで恨みっこなしです」
 やっと理解した。ルアはニナに倒され、水の中にいたのだ。それで恨みっこなし、ということは取り敢えずは許してくれたということだろうか。少し不満を覚えたが、まあこれで一軒落着ならいいだろうと思う。だが一言、言っておかなければならない。
「悪かった、ごめん」
 ニナは笑った。そして、ぽつりと言葉を漏らした。
「前にも、こんなことありましたよね」
「……え?」
 はっと何かに気付いたニナは、両手で口を押さえた。
 前にも。それは確実に、昔何処かで二人が逢っていることを差していた。
 だけど何処で。さっきもそうだった。ルアは昔、ニナと逢っている。その事をルア自身はハッキリとは覚えていない。だが、ニナは違う。ちゃんと、鮮明に覚えている。それは間違いないはずだ。ルアの中にある微かな記憶、ニナの嬉しそうに笑った顔。ルアの中にある思い出せない物はなんなのか。その先には何があるのか。それが、どうしても気になった。
「ニナ、やっぱり俺達ってどこかで逢ってるんだな? そうなんだな?」
 真直ぐ、ニナの瞳を見据えた。その瞳は、少し涙で潤んでいて、それはどこかルアを不思議な気持ちにさせた。
 口を押さえていた手がゆっくりと下がる。ニナも真直ぐルアの瞳を見据え、手を胸の前で組んだ。その手を見て気付いたが、ニナの服が水で濡れていて体のラインをくっきりと浮び出していた。全体的に、ほっそりとした体をしていた。細い肩、小さな手、ふっくらとした胸、濡れた髪、滴り落ちる雫。腰から下が水に浸かっていて、水面に映える月が幻想的に二人を照らしていた。ここは全くの異世界ではないかと錯覚させられる。
 ルアの心が、またカタリと音を立てる。この光景も、ルアは知っていた。心のどこかにある微かな記憶の中に、この光景も確かに存在する。しかし、やはりその根本が引っ張り出せない。何処だろう、何処で逢ったのだろう。大切な思い出だったはずだ。忘れてはならない大切な記憶。その光景の中で、ルアはニナに約束した。――――約束?
 ニナの口が、ゆっくりと開いた。
「……あの、ルア……、さん……」
 その後の言葉は続かなかった。
 静かなプールに、何かの音が響き渡った。小さな音だが、確かに聞こえてくる。耳を傾ける。綺麗な音。聞いたことのある音だった。時にやさしく、時に激しく、時に静かに。学校で、何度も聞いた事のある音だった。
「これって……ピアノの音、だよな……?」
 何処からか、綺麗なピアノの音が聞こえていた。
 出所はわかった。そこ以外には有り得ない。
 ピアノがある場所、つまりは音楽室。そこに、魂が憑依してる。次に目指す場所は決まった。
「ニナ、話しはまた後でしよう」
 ニナは少し視線を下に向けたが、すぐに笑った。
「はい」
 ルアがプールから上がる。濡れた服が体に張り付いて気持ち悪かったが、夏の夜にはどこかそれも心地良かった。
 いつの間にか、将太もそこに来ていた。
 二人並んで、学校の音楽室から聞こえるピアノに耳を傾ける。
 待ってろ、すぐに封じ込めてやる。残る魂は四つ。
 ゆっくりと、二人は歩き出した。


 その後ろで、ニナはいつまで経ってもプールから上がろうとはしない。
 俯いたままで、身動き一つしない。濡れた髪に隠れた顔から雫が一滴、流れた。
 それがただの雫だったのか、もしくは涙だったのかは、わからなかった。
 ただ、ニナはいつまでも経っても、プールから上がろうとしなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「親友」



 音楽室は新校舎の二階の右端に位置する。
 プールからそこ近づくに連れて、ピアノの音はかなり大きく響く。学校は静寂に包まれていたので、そのピアノの音は廊下に何重にも反響して、始めは綺麗な音だが、徐々に化け物の呻き声のように変化していった。
 何の曲だろう。そう思うようになっていた。何処かで聞いたことのある曲だった。それもかなり有名な曲、しかし題名が思い出せない曲。音楽の時間、教師が流して感想文を書かせるのに使う典型的なその曲は、鳴り止むことなく響き続けている。
 音楽室の隣りにある階段から二階に上がって、前と後ろに二つある内の、後ろのドアの所から中の様子を覗う。机と壁が邪魔で、肝心なピアノのある場所は見えないが、その辺り一帯が紫色の光りを帯びている。確実に、そこにある何かに魂が憑依したことを示していた。
 隣りでウージーを構える将太に視線を巡らせる。将太が軽く肯いた。
 次にルアの後ろにいるニナに視線を向けた。しかし、ニナはうつむいたままでルアの視線に気づかない。様子がどうもおかしかった。さっきもそうだった。ルアと将太がプールから上がってもニナはなかなか上がろうとはせず、ルアに何度も呼ばれて、ようやくはっと顔を上げてプールから上がった。それからはずっとニナはうつむいたまま口を聞こうとはしない。
 小声で、ニナに呼びかける。
「おい、ニナ?」
 しかしその呼び声にも全く気付いていないらしく、うつむいたままだった。ルアが数歩近づいて、肩を揺すってやっと顔を上げた。どこか悲しい表情をしていた。
「な、なんですか?」
「なんですかって……どうしたんだよ? さっきから様子変だぞ?」
 ニナは視線を外して、またうつむいてしまった。
「そんなこと、ないです……」
 何か言おうと思ったが、次の言葉が出てこなかった。
 しばし悩んだ後、ルアはニナに「ここで待っててくれ」と言い残して、再度将太の隣りに移動した。
 二人が静かにフォアグリップを引く。何に憑依したのかわからない以上、理科室のように乱入するのは危険だった。先のアルコールランプに憑依したの魂のせいで、迂闊に行動できなくなっていた。だがそれがなくても軽率な行動は避けるべきだろう。
 音楽室のドアを音を立てずに静かに開けた。人一人がやっと入れるほどに開けたら、そこからルアが入ってその後に将太が続いた。一番近くの机に隠れて、魂が憑依した物は何なのかを確認する。その間もずっと、ピアノの音が止むことはなく鳴り続けていた。
 机からほんの少しだけ顔を出して、前方のピアノに目を凝らす。音を奏でるピアノを中心にして紫色に光っている。ピアノが中心、ということは魂はピアノに憑依したのか、そう考えた時、ピアノから少し離れた場所に立って指揮をしている一人の男の存在に気付いた。それが誰なのか、一瞬で理解した。小学校の時から幾度となく、音楽の教科書で目にした人物がそこに立っていた。そして連鎖的に今流れている曲の題名も思い出した。
 そこに立っているのは間違いなく、ベートーヴェン。流れている曲は交響曲第5番八短調「運命」。
 小中と、よく音楽の教師に聞かされた曲だった。その度に書かされる感想文の枚数は数知れず。そのつど、そこに立っている音楽界の有名人のベートーヴェンを恨んだ物である。しかし、今まではCDでしか聞いたことのなかったその曲が、生で聞くと幻想的な気分にさせた。これが音楽の力なのか。しばしその綺麗な音楽に耳を傾けていたルアだが、急にはっと我に返った。ダメだ、その手に乗るな、そう思わせていきなり追いかかってくる作戦かもしれないぞ。心に言い聞かして何とか音楽から耳を遠ざける。
 隣りの将太にもう一度視線を向けた。ピアノの音に掻き消されるかどうかの微妙な小声で、二人は会話をする。
(なあ、これってどっちに憑依してるんだ……?)
(知らねーよ。でも、指揮してるのはベートーヴェンなんだから、アイツじゃないのか?)
(でもピアノも音出しているぞ)
 どちらに憑依しているかわからない。そうなった以上は簡単に行動に移せなかった。どっちかを攻撃したらもう片方から襲われた、なんて洒落にならない。ニナを廊下に残してきたのがあだとなった。もしかしたらピアノとベートーヴェンの両方に憑依したのではないかと考えるが、プールからここに来る時に聞いたが、ニナは音楽室には一つしか憑依していないと言っていた。ならば、どちらかが偽物だ。ベートーヴェンかピアノに憑依した魂が、もう片方を意図的に動かしている。だがそれはどっちなのか。悩んでいても答えはでなかった。
 思ったが、ピアノはここにあって当たり前だ。音楽室にピアノがあるのは常識。しかしベートーヴェンはあるのだろうか。ベートーヴェンの写真があるのは小学校で、果たして中学校にあっただろうか。そう思ったが、よくよく考えてみると人体模型も似たようなものだった。多分、何らかの方法でここにない物でも何処かから奪ってきて勝手に憑依するのだろう。だがそうなら、どちらが偽物か判断するのは簡単だった。ピアノの前で指揮を取っているベートーヴェンは実体化している。だったら、何処かにベートーヴェンの写真があるはずだ。そしてその写真はベートーヴェンのいた場所だけ空白になっている。この考えは間違いないと思う。そうと決まれば次の行動は簡単だ。何処かに空白のある写真を捜せばいいだけのこと。もしそんな写真があったら、憑依したのはベートーヴェンでピアノは偽物。写真がなかったら憑依したのはピアノと考えれば、どちらを攻撃すればいいかは自然と決定する。
 将太にその考えを話してから、二人で手分けして写真を捜した。
 意外にも、それは早くに見つかった。指揮をしているベートーヴェンの足元に、一枚の写真が落ちている。写真の背景は暗い色だが、その中心が何かの形に沿って空白だった。間違いなく、それだった。攻撃目標はベートーヴェンに決まった。しかし問題はその攻撃方法だ。ベートーヴェンは紫色の半透明で、BB弾は愚か直接殴っても通用しそうにない。かと言って炎の化け物のように消火器も使えない。だとしたら何か方法はないのもか、あの半透明のベートーヴェンに通用する攻撃方法は。
 考え込んでいると、いきなりピアノの音のボルテージが上がった。思考の泥沼にいた二人は飛び上がるほど驚いて、ルアが少し足をずらした。それがいけなかった。ルアの足をずらした先にギターが何本も転がっていて、靴が見事に弦を弾いた。ボローンと素っとん狂な音が飛び出た。
 瞬間的に足を引っ込めたが、すでに遅かった。ピアノの音は止み、ベートーヴェンは手を上に上げたまま硬直している。ルアがゆっくり机から顔を出す。それと同時に、ベートーヴェンの腕が下がって体の向きを変える。ルアとベートーヴェンの視線が合った。思わず息を呑んだ。
 幾度となく見てきたベートーヴェンの顔とは、似て非なるものだった。体が紫色なのもあるが、まず何よりその口だ。がっちり閉じた唇から、二本の犬歯が吸血鬼並に突き出ている。目の周りはクマでもあるようにどす黒く、瞳には不気味な光りが宿っていた。
「ど、どうすんだよルア! 怒っちまったぞ!」
「し、知らねーよんなこと!」
 二人が言い合っていると、ベートーヴェンの口が限界までがばあっと開く。顎が外れるかどうかの微妙な間で開かれたその口から、「シャァアアアアアッ!!」と猫の威嚇のような声が漏れる。右手を上に上げた。それと連鎖しているのか、ピアノがぐらりと動くと、そのまま宙に浮いた。
「う、嘘だろ、オイ……」
「投げる、とかじゃねーよな……」
 ルアの予想は的中した。
 ベートーヴェンが右手を振ると同時に、ピアノは宙に浮いたままルアと将太に襲いかかった。
 机の下から飛び出して廊下に転がり出る。その直後に、ルア達がいた場所にピアノが突っ込んできて派手な音を奏でた。衝突音もあったが、それだけではない。木が折れる音や弦が切れる音、それに加えて意味不明な音も聞こえた。ギシャギシャと薄気味悪いその音は、確実にピアノから聞こえている。その音の発生源に目を凝らす。どうやらけん盤から聞こえてくるようだった。
 そして、けん盤とピアノとの境目が一気に裂けた。けん盤が形を変えて牙に変化して、巨大な口が出来あがった。口がゆっくりと移動して、ルア達に向き直る。音楽室のドアを国境として、しばしルアと将太、そしてピアノの動きが止まっていた。動くに動けない、そんな状況だった。先に行動を起こしたのは、ピアノだった。口を大きく開いてこっちに突っ込んでくる。
「ぅわああああああああっ!!」
 二人して叫んだ。大口で突っ込んでくるピアノが、単純に怖かった。
 その場から離脱しようとして、ルアが気付いた。ニナがうつむいたまま動かない。まさかとは思うがそうだ。この騒ぎに全く気付いていない。
「ニナっ! ニナっ!!」
 しかしニナは身動き一つしない。
「クソっ!」
 ニナに走り寄って腕を掴んで問答無用にその場から逃げた。それにやっと気付いて、ニナは混乱する。
「え、あ、なんですかルアさん!? どこ行く―――」
 瞬間、ピアノがドアにぶち当たって激しい音を立てた。どうにかドアは壊れなかったが、もはやドアが壊れるのは時間の問題だった。
 その音で、ニナは動くピアノに気付く。
「ルアさんルアさん! なんですかあれ!?」
「知るかっ!! 俺に聞くなっ!!」
 音楽室から少しでも離れなければならない。あんなピアノに食われるなんて絶対嫌だ。将太が先頭を走って、その後をルアとルアに手を引かれてニナが続く。音楽室の逆の廊下の突き当たりの階段に差しかかろうとした時に、豪快な音が聞こえた。音楽室のドアがぶっ飛んだ。
 ドアがついに破壊されたのだ。ドアがなくなった音楽室から、ピアノが廊下に飛び出てくる。その上にベートーヴェンが乗っていた。サーファーのように重心を低くしてバランスを取りながらピアノを操っている。それは、他の人が客観的に見ればギャクマンガのような光景で笑い出しそうだが、今のルア達にしてみればその光景は単純に恐ろしかった。
 ベートーヴェンの腕がルア達に向けられる、とピアノが動き出してこっちに向かってスピードを上げ始める。絶妙なバランスでピアノの上に乗り、こちらに笑いかけるベートーヴェンを無視して、三人は階段を駆け下りた。二階に到達した頃に、ベートーヴェンとピアノは階段に差しかかっていた。あれだけ大きいと階段では時間を食うはずだ。ならばその間にどこかに身を隠すのが得策だ。
「どこか隠れる所はないか!?」
 ルアがそう言うと、将太が不敵に笑った。
 将太の自信が秘められたその表情を、久しぶりに見た気がする。
 そんな将太が、言うのだった。
「隠れるより、攻めだ」


 ピアノに乗ったベートーヴェンは、新校舎の一階で人間二人を捜していた。
 階段で思いの他時間を食ってしまって、いつの間にか見失ってしまった。近くにいれば、人間独特の気配でわかるが、今はそんな気配がしない。つまりは人間二人はこの近くにはいないということになる。しかし気配の名残がここにはある。それはつい先ほどまで、人間がここにいたことを証明していた。
 気配を辿るのに神経を集中させる。大体の行き先は見当がついた。ピアノに指示をして、その気配を追う。一階の中央の階段の下にある通路に辿りついた。この先に人間の気配がある。扉が邪魔だったが片方は元から壊されていたので、もう片方を破壊すれば簡単に通ることができた。視界が開けてガラス張りのプールが姿を現した。
 ここに人間の気配が充満している。だが、充満し過ぎているので人間がどこにいるのかは正確にはわからない。辺りを見まわすが、どこにも人間の姿はない。プールの淵に移動する、と。
 ――――ポチャンッ。
 水面に何かが落ちた。小さな何かだ。その中心から波紋が生まれる。
 上に視線を向けるが何もいない。しかし、水面に落ちた何かからは人間の気配がする。ピアノにもう一度指示して水面の上を移動する。落ちてきた何かはぷかぷかと浮いていた。
 ベートーヴェンはそれを拾い上げる。
(……ビン?)
 それは透明な瓶だった。先端にはコルクでフタがしてあり、中には何かの液体が入っている。不思議に思ってコルクを抜いて液体の匂いを嗅ぐ。アルコールの匂いだった。その匂いがどうも嫌いで瓶を捨てようとした時、人間の気配を感じた。


 チャンスは一瞬、ベートーヴェンが瓶を手に持った時だ。
 瓶には理科室から調達してきたアルコールが入っている。そしてルアの手にはライターとアルコールを染み込ませて丸めた布。将太の手には何で構成されたかわからない鉱石。どれもこれも、先ほど理科室でかっぱらってきた物だ。
 将太が「隠れるより、攻めだ」と言ったその後、三人は理科準備室に赴いてアルコールと簡単に割れそうな瓶、手頃な布にライター、それと鉱石。アルコールを瓶に注いでコルクでフタをして、布にもアルコールを染み込ませた。それらをすべて持って、今度はプールに足を運んだ。一番高い飛び込み台の上に身を隠し、ベートーヴェンがプールに来るのを待った。そしてここに来るなり、プールに瓶を投げ込んだ。
将太が考えた作戦はここからが本番だった。
 ベートーヴェンは思惑通りに瓶を拾い上げた。そして将太が鉱石を瓶目掛けて投げ付ける。当たるかどうかは運だった。しかし、こういう時こそ神は味方するもので、将太の投げた鉱石は完璧に瓶を直撃した。瓶が割れて中のアルコールが吹き出して下にいたピアノを容赦なく覆った。次はルアの出番だ。アルコールを染み込ませた布にライターで火を付け、火の塊と化した布をピアノ目掛けて放る。瓶を鉱石で狙うよりかは圧倒的に簡単で、火の塊はアルコール塗れのピアノに接触した。
 チィっと音がして、一瞬でピアノは燃えあがった。口となったけん盤から不気味な呻き声が上がる。炎を纏ったピアノは動き回り、しばし燃え続けていたが、やがて動かなくなって静かにプールの底へと沈んでいった。
 魂が憑依した方を倒さなければならないはわかっていたが、まずは動くピアノからどうにかしないとベートーヴェンに近づけない。だからピアノを燃やしてプールに沈めようと考えた。そしてその作戦は今、見事に成功を成し遂げた。ピアノはプールの藻屑と成り果て、今や身動き一つしない。
 残るは透明のベートーヴェンだけとなった。彼はピアノが沈んだ真上の水面に立っている。水面に浮んでいるのだ。その光景にはさして驚きもしなかったが、それとは違う所に驚いた。ベートーヴェンは、本当に悲しそうな顔で沈んだピアノを眺めている。
 そんな光景を横目に、三人は飛び込み台から下りた。これからどうやってベートーヴェンの魂を封じ込めようかと考え始めた瞬間だった。ベートーヴェンがばっとルアに視線を飛ばした。微かに気圧されたルアだが、何とか真正面から視線を返した。さっきまでのベートーヴェンとは違った。犬歯も伸びてなければクマもない。教科書に載っているベートーヴェンそのものが、そこには立っていた。少し安堵を覚えた。
 異常ではなくなったベートーヴェンは、ゆっくりと両腕を上げた。片手には指揮する時に持つ棒、タクトがどこからともなく姿を現した。そして、水面に立ちながら、ベートーヴェンは指揮をし始めた。初めは小さく、しかし次第に激しくなっていく。それに連れて、どこからともなく音が聞こえてきた。いろいろな楽器が混ざっている。その多種類の楽器の音が不思議なメロディを奏でていた。一瞬、そのメロディが綺麗だと思ったが、それは吹き飛んだ。
 ベートーヴェンの腕が最高まで上がった時、正しく轟音と呼ぶに相応しい音が響いた。もう一度、腕が最高まで振り上げられる、と。
 プールの周りのガラスが、一枚残らず叩き割れた。
「な、っ!!」
 あまりの出来事に、ルアは思わず声を漏らした。
 次から次へと割れたガラスの破片が降って来る。それを何とか振り切り、少し考えてから、ルアはプールに飛び込んだ。それに続いて将太もプールに飛び込む。ニナが何か言ったが、音に呑まれてまともに聞こえなかった。
 まず、ベートーヴェンの指揮を止めなければならない。その場所に泳いで渡った。それに気付いたベートーヴェンは、さらに激しく腕を振る。音の巻き起こす振動によって、プールに流れが生じる。それに手間取ったが、何とか沈むピアノの場所まで辿り付いた。
 ルアがピアノに乗り、腰から上を水面から出した。腕を払ってベートーヴェンを殴ろうとするが、やはり透明なだけあって擦り抜けてしまう。しかし、何度目かのルアの腕が、何かを弾いた。それは宙を舞って近くの水面に落ちた。それと同時に轟音が止む。水の流れも元通りになった。ルアの腕に当たって飛んだのは、タクトだった。
 ベートーヴェンが、初めて人らしい表情をした。焦ったように辺りを見まわし、水面に浮ぶタクトを見付けると、そこに走り出した。
 それがないと音楽が出せない、そう気付いた。
「将太っ! それを先に奪えっ!」
 偶然タクトの近くを通った将太にそう指示をして、ルアも再び水に身を投げた。
 ギリギリだった。ベートーヴェンの手より一瞬早く、将太の手がタクトを握った。ベートーヴェンが絶望を現した表情をした。将太も予想がついたのだろう。作戦を述べた時のように不敵に笑い、タクトを両手に持ち替えて、
 真っ二つにへし折った。
 それと同時に、ベートーヴェンの体が光る。水の藻屑と化したピアノも同じに光っていた。それぞれが水面から浮び上がり、空中で混ざり合って一つの光りの玉、魂となった。そしてそれはすっと動き始めると、プールから姿を消した。
 ルアと将太は、水に浸かったままでその光景を眺めていた。
 考えが違ったのだ。どっちにも、魂は憑依していた。分離憑依も可能なのだろう。
 だが、今となってはどうでもいいことだった。
 残る魂は後三つ。もう少しで、止まった時間が動き出す。


     ◎


 せっかく乾きかけていた服がまたびしょ濡れになってしまった。
 上の服だけ絞って水気を飛ばし、それをまた着た。着れなくはないが、やはり違和感が残っていた。だがその違和感も、夏の夜では何故か心地良いと思える。どこからか風が吹き込んで来た。濡れた髪を、濡れた服をゆっくりと撫でて通り過ぎて行った。
 今、ルア達は新校舎一階の中央階段にいる。『神迷』の箱を見つけた場所だった。
「ニナ、次の魂ってどこに憑依したんだ?」
 ルアのその問いに、彼女は考え込んだ。やがて、
「それが……、まだ憑依してないんです……」
「憑依してない?」
 ニナは肯いた。
 将太が疑問を口にする。
「どうして? あの箱開けた時に全部どっかに憑依するんじゃないのか?」
 そうなんですけど、と言ってしばらく悩んで続きを説明する。
「憑依したら、その場所がわかるようになるんです。ですけど、」
「まだわからない、と」
「そうです……」
 あの『神迷』を開けてから、正確には時間は止まっているが、多分一時間以上経っている。にも関わらずまだ憑依していない魂がある。詳しいことは何一つわからないので言い切れはしないが、多分そういう現象は珍しいのだろう。ニナの表情もどこか不安がある。
 しかし、憑依していないとなるとそれはそれで困る。一刻も早く稲垣と猪崎を助け出さないといけないのだが、もしこのまま魂が憑依しないなんてことになったら助け出せないし、ルアと将太もここから出る事はできない。それだけは何としても避けたい。だが魂を封じ込めようとしても、憑依どころか居場所までわからないときている。こちらから攻めるのは不可能、となればこのまま待つしかなくなる。
 暇潰しに、ルアと将太はエアーガンに弾を詰め直す。近くに稲垣のヘッケラーが落ちていた。それも拾い上げて弾を詰めた。ルアがスパスを背負ってヘッケラーを構える。将太は愛用のウージー一筋だ。フォアグリップを引いてどこでもいいので狙いを付ける。トリガーは引かない。
 再度二人は階段に腰掛けた。窓の外では満月と星が嘘のように輝いていた。それをぼんやり眺め続ける。
「なあ、一つ聞いていいか……?」
 将太が、窓の外を眺めながらニナに言う。
「なんですか」
「おまえさ、去年の夏に……」
 ぴくっと、ニナの肩が揺れる。
 それから将太は、しばし無言だった。何かを考え、どう言おうか悩んでいるようだった。
 ルアは一人で将太の言葉の意味を探る。去年の夏、か。そう言えば去年の夏、夏休みの少し前に入院したっけ。一年前の出来事を思い出す。ルアは肺炎が原因で五日間病院に入院した。そこで、
 そこで――? ふと顔を上げた。そこで、その後の言葉が浮んでこない。
 将太が、やっと口を開いた。だがどこか諦めたような表情。
「いいや。さっきの言葉、忘れてくれ。きっと俺の思い違いだと思うし」
 しかし、ニナはそれでは納得しなかった。何かを必死で思い悩み、やっとの覚悟を決めたような表情で将太を見た。
「いえ……、それは、」
 その時だった。
 一瞬で、空気が変わった。
 それはルアと将太にもハッキリとわかった。夏の夜の空気が消し去り、何かの気配で埋め尽くされる。背筋が冷たくなった。必死で視線を辺りに巡らす、だが何の異常もない。しかし、
 何かが来る。
 証拠はないが確信はある。確実に、何かがこちらに近づいてくる。空気を変えたその元凶が、音も立てずに近づいて来る。風が吹き出した。だがさっきの風ではない。冷たく、体に重く纏わり付いてくる風だ。冷や汗が何度も流れた。どこからか、何かが確実に近づいて来ていた。その何かの存在はおまりにも大きかった。力が入らなくなり、自然と体が震えた。
 恐怖に押し潰されそうになった。
「ニナ、どうなってんだ!?」
 ルアが声を張り上げる。少しでも恐怖を和らげたかったが、その程度はどうにもならない圧倒的威圧感だった。
 ニナの答えを待ったが、いつまで経っての返事は返ってこない。彼女も、恐怖に押し潰されそうな表情をしていた。
 やがて、何の前触れもなく気配は消えた。風が止んで何事もなかったようにさっきまでの夏の夜の空気が返って来た。不自然過ぎたその現場に、誰一人として口が聞けなかった。何がどうなったのか。気配の元凶はどこへ消えたのか。疑問が残るが、どうしても言葉が出てこなかった。手がやっと震えから開放された。何度も握ってその感覚を確かめる。
「な、なんだったんだよ、今の……」
 呆然と将太がつぶやく。
 刹那、ニナの表情が変わった。恐怖に顔を歪ませていた。
「……逃げてくださいっ!!」
 将太に向かってニナは叫ぶ、しかしそれは遅かった。どうにもならなかったと思う。
 突風が吹き荒れた。室内で台風が巻き起こったのだ。将太を中心として、ハリケーンが何本も渦巻く。その場で踏ん張らないと後ろに吹き飛ばされそうだった。ガラスが揺れ、掲示板に張られた紙が糸も簡単に破れてどこかに飛ばされいく。蛍光灯が幾つも割れた。突風が収まり始め、ハリケーンは消え去り、静けさが戻って来る。たが、まだ少し風が吹いていて、それは纏わり付く風だった。
 ルアがどうなったのか現場を確認しようと見まわす。ニナはそこにいる。そして、台風の中心にいた将太に視線を向け、それは起こった。
「があ、ァあああっ、あああああああああああああああああっ!」
 突然、将太が頭を抱えてその場に蹲った。腹の底から絞り出す呻き声。体の芯から冷たくなった。
 何が起こったのか理解できなかった。将太の歩み寄ろうとして、いきなりニナに腕を掴まれた。その表情は、恐怖を通り越して絶望になっていた。
「だ、ダメです! 逃げてください!」
 ニナはそう言う。だが、はいそうですかと従えるはずもなかった。
「な、何言ってんだよ! 逃げろって将太が」
 そこで言葉が途切れた。いや、言葉を失ったというのが正しい。
 月明かりに照らされ、将太はゆっくり立ち上がった。
 また、あの気配だ。風が、いつまでも止まない。将太を中心とし、風が床を這っている。まるで生き物だ。
 うつむいていた将太の視線が、上がる。
 不敵な笑顔。しかし、その表情は冷たかった。まるで、別人のように。
 そんな将太が、言うのだった。
「案内人が逃げろ、だと? んなこと言っていいと思ってんのかよ、小娘」
 それは正真証明の田畑将太で、だけど将太ではなかった。


 田畑将太は、神岸ルアの幼稚園時代からの親友で、一番身近にいる存在。
 そんなルアが、わからないはずなかった。外見、声は将太。それは当たり前だ。何故ならそれは将太なのだから。だが、決定的に違った。外見や声は同じでも、中身が違う。全くの別物が今の将太の中にいる。それは絶対だった。
 居場所のわからなかった魂は、将太に憑依した。そう思わせるには十分で、しかし納得まではできなかった。できるはずもない。
 将太は自分の腕に視線を落として何度も握っては開け、握っては開けた。そして嬉しそうに笑う。
「やっと、やっと肉体を手に入れた。これで『神迷』……いや、神魔さえ必要ない」
 だが、と視線がルアに向けられる。
「貴様が最後の人間か……。おまえがいなくなればこの肉体は永遠に俺の物。今すぐ殺してやりたいがそうもいかない。それが『神迷』のルールだからな。……よかろう、対等にやろうではないか」
 ウージーが光った。そしてスパスも。ヘッケラーだけが光らない。それどころか、ルアの手に持っていたヘッケラーが突然吹き飛んだ。廊下の端まで転がり、壁に激突して停止する。スパスの光りが収まった時、肩にそれまでとは比べ物にならない重さがずっしりと加わる。驚いてスパスを持つと、今までの二倍以上の重さがあった。プラシチックだった場所が鉄になっている。まるで、このスパスが
「本物にしてやった」
 将太は続ける。
「今から俺が百八十数える。零に到達したら戦闘開始。俺がこの肉体を手に入れるかおまえが死ぬ。または俺が封じ込められておまえ達は生き残る。命を掛けた完全なるサバイバルゲーム」
 ざわりと、ルアの体が冷たいものに蝕まれる。
「小さな頃からの俺達の夢だったよなあ、るあぁ」
 それは嬉しそうに、将太は笑う。
 今まではまだ現実だと微かだが思えていた。こんなことがあってもいいのではないのかと考えていた。適当に必死めいてやればどうにでもなって、簡単に稲垣や猪崎を助け出せると思っていた。どれもこれも、勝手に思い込んでいただけだ。結局の所は覚悟がなにもできていなかった。適当にやって、適当に助け出して、後々あんなことがあったよなと笑いながら話せる、甘ったるい考えだけで覚悟など微塵もなくて、自分がどうしようもない馬鹿だと思う。
 これは、果たして現実なのか。魂は物に憑依するんじゃなかったのか。どうして、しかもよりにもよって将太に憑依してしまったのだろうか。この廃校にはもっといろいろあったはずだ。なのに何で、どうして。
 口が勝手に動いていた。
「嘘だろ……、冗談かなんかだろ……」
 声が震えていた。
 将太は不愉快そうに舌打ちをする。
「クソが、やる前から何怖気づいてんじゃねーよ。いいか。おまえは俺を……」
 そこで言いよどんだ。そして、
「いや、おまえの親友を殺さない限り、ここからは出れないんだよ。その為に俺の銃とおまえの銃を本物にしてやったんだ。それが俺だけが持っている能力。どうだ? これで簡単に俺を殺せる。逆に俺もおまえを簡単に殺せる。ではゲームを始める」
「ふざけるなっ!!」
 気付いたら叫んでいた。
「簡単に殺せるだと? いい加減なことを言うな! そんなに簡単に人を殺せるわけないだろ!」
 ルアのその声で、風が変わった。
 怒声が返ってくる。
「いい加減なこと言うのはどっちだ。テメぇら人間が今までどれだけの命を奪ってきたと思ってる。テメぇらが殺した命の怨念が集合体となったのが俺達『神迷』の魂なんだ。今更何偽善者ぶってんだ」
 怒声は止んだが、今度は静かに、確かな怒りを込めた声で話す。
「人間が生きる為に何かを殺すのは仕方ない。そうしなければ人間は死ぬ。だがな、これだけは覚えておけ」
 風が這い、勢いを増して行く。やがてそれは小さな竜巻と変化する。
「殺す必要のない命までおまえ達は殺している。それを殺戮と呼ばずになんと呼ぶ。そんなおまえ達が人一人殺すことになんの抵抗を覚えようか。さあ、それがわかったのならゲーム開始だ」
 将太が、数を数え始める。
 何も言い返せなかった。それどころか、耳には入るが半分以上が頭に入ってはいない。人を殺す、それ自体には何も感じなかった。ただ、その殺す人というのだけ何度も心の中を反響する。親友を、将太を殺せっていうのか。そんなこと、できるはずない。
 六十数え終わった。ルアが身動き一つしないことに苛立ったのか、将太はウージーをルアに向けた。それがぼんやりと視界に入って来る。トリガーを引くのが見えた。銃声が空気を裂く。火花が上がって、ルアの左肩に激痛が走った。見れば服が破れて血が流れ始めている。掠った程度だが、かなりの痛さがあった。声一つ上げなかった。血が流れ出ている肩が、どうしても自分の物だとは思えない。思考回路がぱったりと停止していた。
「ゲームは始まっている。動かなければこのままおまえを殺すぞ」
 将太の声で、しかしそれは将太ではない。
 頭の中がぐるぐると回転する。殺される、だからその前に殺せ。ふざけるな。誰がそんなことをするか。それだけ考え、また思考回路が停止した。
 ウージーの銃口が、再度ルアに向けられる。今度は肩ではない。銃口は真直ぐ、ルアの心臓を狙っていた。体が動かなかった。指一本動かす事ができない。どうしても、今のこの状況が現実だと思えない。このまま死ぬんだろうか。
 トリガーが引かれようとした時、一人の影が動いた。
「ルアさん!!」
 ニナだった。ルアの手を取って走り始める。やっと足だけを動かせた。おぼつかない足取りで、ルアはニナに付いて行く。廊下を突き当りまで行って階段を上がって三階まで走った。
 どうしても、現実だとは思えない。
 現実とは何なのか。何が現実で何が空想、どこからが本当でどこからが嘘なのか。すべてが本当ですべてが嘘なのか。考えがまとまらない。自分はこの後どうなってしまうのだろう。ニナに手を引かれ、走り続けた。力が、出なかった。
 親友を、殺すのだろうか。


 三階のコンピュータールームに、ルアとニナは身を潜めた。
 すぐ側で座り込んでいるニナに呆然と見ていた。
「どうして、何もしなかったんですか。もう少しで死んじゃうとこだったんですよ……」
 声は小さかったが、ほんの少しだが怒りが感じ取れた。
 しかしそんな声を聞いてもなお、何の力も出てこなかった。
「じゃあどーすればいいんだよ……。将太を殺せっておまえは言うのか」
 自分の声が恐ろしく冷たく感じた。多分、今ニナを見ている目つきも冷たいのだろう。
「そうじゃないです、殺すんじゃなくて魂を封じ込めるんです」
「どうやってやるってんだよ。魂を封じ込めるにはその憑依した物を壊さなくちゃならないだろうが……」
 階段の目玉野郎も、人体模型も、炎の化け物も、ベートーヴェンとピアノも、すべては憑依した物を、またはその実体その物を壊した。そして魂になって封じ込められる。だが今回はそれとは違う。魂は人間、よりにもよって将太に憑依した。魂を封じ込めるにはその肉体を壊さなければならない。それはつまり、将太が死ぬということだ。そんなこと、認めれるはずがない。魂をすべて封じ込め、稲垣と猪崎を助け出したが将太がいない、それでは何の意味もない。全員が一緒に、ここから抜け出さなければならない。全員で、止まった時間を進めなければ意味がないのだ。
 ニナが、言葉を探しながらゆっくりと一言一言、ルアを説得しようとする。
「でも……、封じ込めないと、ルアさん達はここから出れないんですよ……」
 頭に血が上った。目が熱くなる。本当に、涙が出そうになった。
 力一杯、本気でルアの隣りにあった机を殴った。ニナがびくっと体を震わす。
 すべでに涙が流れていたのかもしれない。心の底から、ルアは叫んだ。
「じゃあ本当に将太を殺せってのか!! ふざけんじゃねーよ!! そんなことできるわけねーだろ!!」
 でも、とニナは言いかけ、ルアはその言葉を遮った。
「夢、語り合った親友殺せって言うのか……。できるわけねーだろ……、できるわけ……」
 小さな頃からの友達を、自分の手で殺せるわけがない。
 小学校の自然教室の夜、二人で同じ布団に潜り込んで普段できないようないろんな話をした。その時間が、どれほど楽しかったことか。中学になって、修学旅行で、今度は稲垣と猪崎も加わって夜中に話をした。二人は友達で仲間だ。しかし将太は違う。小さな頃からの親友なのだ。その親友を殺せなければここから出れない、だったらこのままここにいる方がずっとマシだ。自分の手で親友を殺めるより、ここで永遠に生きる方がどれほどマシなことか。
「違います」
 そんな声が聞こえて、ルアは視線を上げた。
 ニナの表情は真剣だった。
「殺すんじゃなくて、助けるんです。ルアさんが……ルアさんが、自分の親友を、自分の手で助けるんです」
 無言でその言葉を聞いていた。ニナは真剣だった。その目には、ほんの少しだが涙が潤んでいた。
「できる、のかよ……。本当に、俺にできんのかよ……」
「できます」
 ニナは言い切る。
「だって、ルアさんですから。わたしを助けてくれたように、絶対にできます」
「……ニナを、助けた……?」
 しかしニナは答えずに、さらに言葉を続けた。
「それにあの人は、ハッチさんはわたしが絶対に死なせたりはしません」
 涙目で、精一杯、ニナは笑った。
 そして、
 コンピュータールームのガラスが割れた。遅れて銃声。
「な、なんだっ」
 決まっている。すでに百八十は数え終わっているはずだ。そしてここにいるのがバレたのだ。机の下にニナと一緒に隠れた。風が室内に入って来る。ガラスを踏み潰す音が聞こえる。それと微かな笑い声。廊下側の割れたガラスの向こうに人が立っているのがわかる。月明かりがその影を室内全体に浮び出していた。それは間違いなく、将太の物だ。
「どうしたるあ。反撃してこいよ。このままじゃおまえは死ぬだけだぞ」
 覚悟がなかった。
 だったら、その覚悟を絞り出してやる。親友を殺す覚悟。否。親友を助ける覚悟だ。親友だからこそ、自らの手で助けなければならない。この手で。
 一度拳を握った。強く、強く。そして開いて手をスパスのフォアグリップに掛けた。引く。本物の弾がスパスに装弾される。
 覚悟を、決める。
 机から体を出して将太の立っている隣りのガラスに照準を合わせてトリガーを引いた。ウージーより大きい銃声がして、窓ガラスが木端微塵に砕けた。しかしそれ以上に、スパスの反動が凄かった。踏ん張れない体勢だったのがなおのこと悪く、後ろの吹き飛んで壁に頭を打ち付けた。痛みが走るが何とか堪え、頭を何度か振って視線を前に向ける。将太の姿はすでにない。どこかに隠れたのだろう。ルアももう一度ニナのいる机の下に隠れた。フォアグリップをもう一度引く。
 どこからか声が聞こえる。
「やっとやる気になったか。おもしれえ、そうじゃなければ張り合いがない。さあ、俺を殺せるかな、親友」
「誰が殺すか」
 どこから聞こえるかわからない声に、ルアは反論する。
「殺すんじゃない、助けるんだ。親友に憑依したクソみてえな魂から」
「言ってくれるじゃねーかよ、餓鬼」
 影が現れた。ルアが応戦しようとして、体を止めた。ウージーはエアーガンになると一発ずつしか撃てないが、本当のウージーはサブマシンガン。連射能力が本職。そしてその能力が発揮された。数え切れない銃声が響く、ルアとニナの上方を高速の銃弾が通り抜け、壁や窓に激突して何構わず破壊していく。机の下で体を小さくした。隣りのニナの肩を抱いて引き寄せる。そのままでしばらく銃声を聞いていた。何発かが机の側面を叩いて気味の悪い音を立てる。この机が以外にも丈夫だったのが唯一の助けだった。
 銃声が止んだ。弾切れだ。マガジンを取り換える前にここから飛び出さなければならない。二本の足をしっかり床に固定して、スパスのトリガーを引いた。当てる気は毛頭ない。威嚇だ。将太の横、ギリギリを狙って撃つ。ウージーのマガジンが落ちた。廊下のガラスが砕け、ルアはニナの手を取って走り出した。さっきとはまるで逆だった。廊下に飛び出て、しゃがんでマガジンを取り換える将太を横目に階段に向かった。マガジンが装着される。一度フォアグリップを引いて装弾完了。将太がトリガーを引いたのと、ルアとニナが階段の曲がり角に入ったのは同時だった。壁が何十もの弾丸によって削られる。急いで階段を駆け下りた。一階までは行かず、二階の廊下を掛け抜けた。後ろから足音が追って来る。ニナの手を離してスパスのフォアグリップを引いて後ろに向けて撃った。これも当たらなかったが、少しは追い付くのを遅らす事ができる。二人で中央階段のどちらに行くか一瞬悩んで、上に決めた。
 中央階段にだけ、屋上に向かう階段がある。そこは普段から新入禁止になっていて、鍵が掛かっているが、その鍵をスパスで壊して階段をさらに登った。最上階に始めて入った。小さな部屋があって、そこに一つのドアだけがある。そこにも鍵が掛かっていたが、それも壊した。ドアを開けて、ルアは都築中学校の屋上に足を踏み出した。
 風が体を通り抜ける。夏の風だった。月と星が、信じられないくらいに綺麗だった。どうして屋上に来たのは自分でもよくわからない、わからないがどうしてもここに来たかった。ここに、来なければならない気がした。何歩が歩み出た。何もない屋上。だけど、それがなぜか安心感を持たせてくれた。鍵が壊されたドアが、さらに壊れる。
 後ろを振り向くと、そこには将太がいた。
「屋上か。おまえの死に場所にはちょうどいい」
 夏の風は、気持ちよかった。
「俺は死なない。そして、将太も。死ぬのはおまえだ。クソ魂」
 将太が不愉快そうな顔をした。
 屋上にきた理由がわからないなんては冗談に決まっている。場所は違えどここは屋上。親友と夢を語った場所だ。
「覚えてるか、将太……」
 昔の思い出を、知らず知らずの内に喋っていた。
「小学校を卒業して中学に入って、初めての授業サボって小学校に向かって、屋上に勝手に入り込んで、いつか学校でエアーガンの撃ち合いしたいって話したよな……。昔から思ってたけど、あれだけ真剣に、それを夢だと思ったのはあの時が初めてだったよな……。そして今日、夢が叶った。それがこんなことに巻き込まれるなんてな……。だけど、」
 スパスのフォアグリップを引いた。
「今すぐ助けてやるからな、親友」
 トリガーを引いた。今度は威嚇ではない。本気で将太の体を狙った。弾が一瞬で将太のいた場所を通過する。いつの間にかしゃがんでいた将太が反撃に出る。ウージーの銃口から火花が飛び散った。何度も転がってその場から逃げた。映画などでよくあるが、転がって弾を避けるのは意外にできたりする。しかしそれを続けざまにやるには無理があって、転がっている内に平行感覚を失う。立ち上がって、二三歩よろめいてすぐにジャンプしてまた転がった。さっきまでいた場所に銃弾が叩き込まれる。再び、ウージーが弾切れとなった。ルアが立ち上がってフォアグリップを引く。照準を将太に向けてトリガーを引いた。今度は将太が左に転がる。スパスが弾切れになるまで撃ち続けた。両方の銃が弾切れになった時、ルアは屋上の中心に、将太は屋上の左端ギリギリの所に立っていた。
 二人とも、マガジンを取り換えようとはしない。
「へえ、上手いことやるじゃねーかよ」
「諦めろ、クソ魂。今すぐ将太の体から離れやがれ」
 賭け、だった。
 もしこの魂が追い詰められれば、自分から他の物に憑依してくれるのではないか。そう考えた。この賭けが失敗すれば、ルアに他の手はもう残ってはいない。考えるだけの時間もない。これで決めなければ、待つのは最悪の選択だけである。
 将太がルアから視線を外し、後ろを見た。一歩後ろに踏み出せばそこには何もない。あるのは三階分下にある地面。落ち方にもよるが、落ちても死ぬわけではない。骨を折る程度だろうが、それも避けたかった。何しろ、魂は落ちても無傷だが、傷つくのは将太の体なのだ。無傷で、将太を助けたかった。だから、何としてでもこの掛けに勝たなければならない。将太の視線が、ルアに戻った。
 永遠とも思える時間が過ぎてゆく。ゆっくり、将太が口を開いた。
「残念だな。俺達『神迷』の魂は、一度憑依したら自分の意思ではそこから離れることはできない。離れるなら憑依した物が無くなるか、実体が消されるかのどっちかだ。俺の場合は前者。つまりこの体を消す、言い替えればこの体の主を殺すしか方法はない」
 そう言って、将太は笑う。
 ウージーのマガジンが落ち、新しいマガジンが装着される。フォアグリップが引かれてトリガーに指が掛かった。
 最悪の選択しか、もう残ってはいなかった。奇跡と呼ばれる物を、信じるしかなかった。
 ルアはスパスのマガジンを取り換え、フォアグリップを引いた。二人が銃口を、互いに向け合う。
 同時にトリガーが――――引かれなかった。
 何が起きたのか、理解できなかった。突然、将太が手に持っていたウージーを取り落とした。両手が小刻みに震え、苦しそうに顔を歪める。
「な、なに……っ! おまえ、まさかっ!?」
 一人で、誰かに向かってつぶやく。
 頭痛がするのか、両手で頭を押さえて体を埋める。その場に膝を着いた。
「なぜだっ……あがっ! ……おまえの意識は、……うぐッ、俺が、完全に……、消し、さっ………ああ、ぎゃあああああっ!!」
 しばしそのまま叫び続け、やがて沈黙した。頭を両手で抱え、うつむいたまま身動き一つしない。
 本当に、何が起きたのか理解できなかった。スパスを構えるのをやめて、歩み寄ろうとした時、将太が急に立ち上がった。反射的にスパスを構え直す。しかしトリガーを引く必要はなかった。
 視線を上げた将太の目が、それを証明していた。
「……情けない、なあ……。こんなヤツに、体乗っ取られる、なんて……」
 それは正真証明の、田畑将太の声だった。
 将太の意識が戻った、そう思った時には走り出していた。しかし、
「来るなあっ!!」
 その叫びに、それ以上前には進めなくなった。意識は完全なる将太だが、何故か顔を歪めている。まだ頭痛がするのだろうか、頭を片手で押さえこんでいる。その痛みに歪めた顔で、将太は弱々しく笑った。
「わりぃな……、体奪い返したのに、早速限界だ……。もう長くはこの意識を保っていられない……。大ピンチって、ヤツだな……」
「将太、なんだよな……?」
「ああ、正真証明の俺だ……、けど、」
 痛みに負けたのか、また膝を着いて声を押し殺しながら歯を食い縛った。
「時間がない、よく聞け、ルア……。俺を……殺せ、」
「な、なに……?」
「このままだと、また意識奪われちまう……、そうなる、前に……俺を、おまえの手で、殺せっ!」
「で、できるけねーだろ!? そんなこと!」
「殺れっ!!」
 将太が立ち上がる。頭を押さえるのを止め、握った拳を前に突き出す。
「俺の親友だったら、それくれーやってみせろ! 俺の、タメにっ!!」
 ルアが、スパスのトリガーに指を掛ける。
 目を閉じて考える。本当に、できるのだろうか。このトリガーを引けば、終る。けど――
「大丈夫だ、ルア。俺は死なねーよ……。すべて終ったら、また、逢えるから……」
「けど……っ!」
 視線が変わる。
 ルアに向けられていた視線が、今度はニナに移る。
 そして小さな声で、ニナに語りかけ始める。
「なあ、やっぱり、勘違いじゃねーんだよな……?」
 ニナは何も言わず、ただ将太を見ていた。
「やっぱり、おまえはあんトキの……」
 ずっと黙っていたニナが、ぽつりと一言。
「……ハッチ、さん……」
 将太は笑う。
「よかった、間違いじゃねーな……。ルアを、頼む」
 ニナは肯き、再度、視線がルアに戻された。
「さあ、トリガーを引け。もう、長くは、……ぐうァっ」
 痛みが走ったのか心臓の辺りを右手で抑えたが、視線は真直ぐルアの目に向けられている。
 そんな将太の姿を見て思う。ここでトリガーを引かないで何が親友だ、と。結局は自分の手が汚れるのが嫌なだけな卑怯者だ。だが、もう違う。覚悟を決めた、腹をくくる。真直ぐ、親友を見据えた。心の中で、思う。
 また、逢えよな。
 ああ、必ず逢える。
 声が返ってきた。もしかしたら勘違いかもしれないが、それで十分だった。スパスの銃口を将太に向け、指に力を入れる。最後に一瞬躊躇ったが、もう何も失いたくない。親友の言葉を、信じるしかない。いや、信じなければならないのだ。
 トリガーが引かれ、乾いた銃声がして銃口から火花が吹き出し、将太の体が後ろに吹き飛んだ。笑顔だった。痛みに耐えながらも、将太は笑っていた。――じゃあな、親友。そんな声を聞いたような気がする。
 そして、将太の体は屋上から消えた。


 こうするしかなかった。
 親友を、信じるしかなかった。
 スパスの重さが変わった。本物からエアーガンに戻ったのだ。
 そんなスパスを取り落とし、膝を着いた。
 誰もない廃校となった都築中学校の屋上で、神岸ルアは一人泣いた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「笑顔は綺麗で」




 いつからか記憶が曖昧になっていた。
 もう泣いてはいない。涙はいつの間にか止まっていた。ここはどこだろう、一瞬そう思ってすぐに屋上だと思い出した。屋上の階段がある場所の壁に凭れて、ルアは座っている。ぼんやりと、視線を巡らす。空にはやはり月と星があって、夏の風はどこか気持ちよかった。
 立ち上がろうとして初めて気付いた。ルアの隣りで、ルアの肩に頭を預けて、ルアの手を握って寝ているニナがいた。どこまでもお気楽な子だなと思って、しばしその寝顔を見ていた。聞くのをずっと忘れていたが、ニナとはどこで、どうやって逢っていたのだろう。確かにニナとは出遭っている、出遭っているがその記憶がない。しかし微かには思い出せる。嬉しそうな笑顔と、プールに二人でいる、その二つは完全に思い出した、だがその他が全く思い出せない。まるで初めっからそんな記憶はなかったように。
 ふとニナの言葉と将太の言葉を思い出した。わたしを助けてくれた――よかった、間違いじゃねーな――それと、ニナが将太に言った、『ハッチさん』。まず、そのハッチさんというのは将太のあだ名だ。小学校の時に、よくルアが将太をハッチと呼んでいたので間違いない。しかし何故そのあだ名をニナが知っていたのか。それがまず疑問1。次に疑問2、わたしを助けてくれた、その言葉と今までにニナが言ったルアと逢っていることを証明する言葉。何故ニナはルアが覚えていないことを鮮明に覚えているか。最後が将太だ。よかった、間違いじゃねーな、その前にはおまえはあんトキの、そう言っている。やはりそれは、将太も昔、ニナに逢っていることを指しているのだろうか。しかし何故、将太が覚えていてルアが覚えていないのか。それが最大の疑問だった。将太の記憶の中にニナのことが残っていた、恐らくニナ同様に鮮明に覚えているのだろう。ならばどうしてルアだけが鮮明に覚えていないのだろう。所々しか思い出せないその理由は何なのか。記憶を極限まで絞る。
 ――去年の夏、病院。その言葉が、胸の中で突き刺さった。去年の夏といえば、ルアが肺炎で病院に入院した時期だ。その時のことを思い出す。別に変わった所など何もない。普通に五日間入院して、普通に病院生活を送って、違う、普通に退院して、違う、それからは普通に生活して、違うっ!!
 はっと顔を上げた。そうだ、違う。何かが抜けている。その普通の病院生活の中の、何かが抜けている。そこだけ空白になっている。これは何なのだろうか。この違和感は何だろうか。確かに、その五日間の中で何かがあった、思い出せない記憶に存在する何かが、最後のピースになる。それが揃えば、すべてが繋がる気がする。何だ、何を忘れいる? その五日間で何があった? ニナと将太だけ覚えていてルアだけが覚えていないその記憶はどこにある? 俺は一体、何を失っているのか。
 頭の中で、ノイズの激しく、揺れ動く映像が生まれる。ハッキリとはしないが、それは間違いなく、失っているルアの記憶だった。
 ――約束。記憶の片隅にある、ニナと夜のプールで何かを約束をしたはずである。それは何だ、一体何を約束した?
 ――……です。何だ、これは何だ?
 嘘のような綺麗な顔立ち、肩より少し短いショートの髪、澄んでいる瞳、清潔感のある不思議な雰囲気を持った、変わった服を着た、すごく可愛らしい子、しかし何かを背負ったような暗い表情。それを初めて見た時、助けてやりたいと思った。
 ニナ。そうだ、この子はニナだ。初めて逢った時のニナだ。肺炎で入院した病院で、一緒の病室になった女の子、それがニナだった。
 ノイズが消え去り、揺れが止まる。鮮明にすべてを思い出していた。失っていた記憶は、あまりにも大きかった。どうしてこの記憶を忘れていたのだろうか。忘れてはいけない思い出だった、忘れてはいけない記憶だった。しかしどうして忘れていたのか。すべてを、完全に思い出していた。
 いつどこでどのようにニナに出遭ったのか、夜のプールでの約束、何故稲垣でも猪崎でもない将太だけがニナのことを覚えていたのか。
 そして、ニナの本当の名前も――


 ニナが目を醒ました。
 いつの間にか眠ってしまったらしく、気付けば隣りにいたはずのルアが少し離れた所に立っていた。思い出すと、確か泣いているルアを慰めようと隣りに腰掛け、しかし何を言っていいかわからず、取り敢えずルアの手を握ったのだ。そしてそこから記憶がぷっつりと途絶えている。寝てしまったのだろう。立ち上がって、両手で目を擦って頭を少し振った。ルアのすぐ後ろまで歩いて行く。
「ルアさん……?」
 声を掛けたが、返事はなかった。どうしていいかわからず、そのままでいると、ルアの声が聞こえた。
「思い出したよ……」
「……え?」
「思い出した……。全部、何もかも。去年の夏、ニナと初めて出遭った時からの五日間。全部思い出した。もちろん、約束も」
 声が出なかった。
 ルアが、記憶を取り戻している。でもどうして。確かに、ルアの記憶を取り戻すことが一番の望みだった。だけど、
「……どう、して……?」
 絞り出すように、それだけ何とか言えた。
 ルアが振り返る。横顔が、すごく綺麗に感じた。正面から見詰め合った。
 そして、ルアは笑った。あの時と同じように。
 わたしにだけ、その笑顔を向けてくれたあの時と同じように、わたしだけに、その言葉をくれたあの時と同じように、ルアさんは笑って、わたしに言ってくれた。


「俺は、おまえのことが好きだから――」


     ◎


 始まりはあの日、今から一年前の七月十四日、まだ都築中学校が廃校になってなく、神岸ルアがそこの中学三年生として通っていた時のことだ。


 朝から気分が悪かった。熱もありそうだが、とにかくせきが酷かった。喉がやけるほど熱く、まともに何かを食うこともできない。そんな調子で朝起きて、嫌々学校へ行く用意をし始めた。学校を休んでもいいのだが、その日は体育があったので休む気になれなかった。体育の授業内容はプールで、とにかく稲垣を叩き落さなければならないのだ。その楽しみを考えたら、学校を休んでいてはいけない。朝食は抜いて、遅刻ギリギリの時間に登校した。やっぱりせきが酷く、熱っぽかった。額に手を当てるといつもよりかなり熱い。幸い、体育は一時間目なのでそれが終ったら早退しようと考える。教室に入って席に付いて、担任が入ってきて軽いショートホームルームを終え、クラス全員でプールに向かった。そこで将太に顔色悪いぞと言われて、しかし大丈夫と答えた。だがそうは言ったものの、このままプールに入るのには無理があった。体育の教師に見学要請を出し、その時間は見学となった。稲垣をプールに落とす夢はまだ諦めてはいない。まだまだその程度の力なら残っている。一時間目が始まって、ルア意外の生徒が水着に着替えて授業が始まった。準備体操をして体をプールの水に慣らし始める。ここで出番だ。せきがさらに酷くなるのを感じた。プールの淵に座っていた稲垣の後ろに移動し、右足で力一杯蹴りと飛ばした。頭から水面に飛び込んで、稲垣は溺れかかっていた。それをクラス全員で笑って、稲垣の罵声を聞いて、そこでルアの記憶はふっとなくなった。
 気付いたら保健室で寝ていて、時計を見ればまだ二時間目が始まって少ししか経ってはいない。倒れたと気付くまでに時間が掛かったが、気付いたらもう学校にいても仕方ないという感情が出てきた。保健の先生に断って帰り支度をして教室で鞄を持って、将太と猪崎と稲垣に帰ると伝えて自転車置き場に向かった。そのまま自転車に跨って、ふらふらする頭を何とか堪えて家に帰った。家に帰っても誰もいない。ルアの両親はルアが中学校に上がった時に、アフリカだかどこかに渡った。恵まれない子供達に何たらこんたらがルアの両親達の夢で、ルアを置いて外国に行ってしまった。別にそれが不自由だとは思わない。家事は初めの一年はめんどうだったが、慣れればどうってことないし、親が家にいないということは勝手気ままに生活できるということだ。
 交通手段として、父親に中学入学祝いに原チャリをプレゼントしてくれたのは嬉しかった。免許は偽造してくれてそれを持っているが、この三年間で減点されたことはない。私服に着替えて寝ようかと思ったが、あまりにもせきが酷いため、一応病院に行こうと決めた。病院に必要な物と金を探し出して、ついでに原チャリのキーを持って外に出た。原チャリに跨ってエンジンを掛け、二三回アクセルを吹かして道路に出た。ルアの運転は三年間も乗っているだけあって、普通に上手い。だが今日は少し勝手が違った。せきはするは熱はあるはでは少しハンドルが覚束ない。しかしこの程度で事故に合うほどルアはひ弱ではなかった。病院は近くに大きな私立病院があって、大袈裟だとは思ったがそこに行く。無駄に広い駐車場の、無駄に広い自転車置き場に原チャリを止め、中に入って受付に手続きを済ました。看護婦さんに呼ばれて検査室に入って約五分。いろいろな検査をされ、出た病名は、風邪だと思っていた。しかし、
 病名は肺炎で、しかもこのまま入院する羽目になった。必死の抵抗も虚しく、看護婦に強制的に病室まで連れて行かれ、点滴まで打たれた。病室は二人部屋だった。個室がよかったが、生憎空いてなかった。大部屋だけは嫌だと看護婦に言うと、この二人部屋に案内された。廊下側と窓際にベットが一つずつあり、一台ずつテレビもあった。窓際がよかったが、何故か廊下側にされた。窓際にはまだ誰もいないようだったが、とにかく、これも強制的に決められた。入院期間はだいたい五日間だと言われ、その間は学校は休めと言われた。仕方なく学校に連絡して、担任にそう伝え、その後に将太に電話を代わってくれとお願いした。将太はよくルアの家に泊まることがあるので、合鍵を渡してある。だから将太に着替えとかを持って来てもらうおうと思った。そのことを将太に伝えると、夕方くらいに持って行くと返事がきた。
 さて、やることがなくったわけだ。点滴があるから激しい運動もできないし、どこかを歩き回るのもしんどい。取り敢えずベットに横になってはみたものの、眠気は全くない。暇だったので病室内をテクテク歩く。さすが病院というだけあって汚れは愚かゴミも落ちてはいない。まあ当然と言えば当然だが。窓の外から景色を眺める。この辺はどこに何があるかは熟知している。だから別に見ていても何も変わったことはない。つまり、これも暇だった。まさか入院するとは思っていなかったので遊び道具は何も持ってきていないし、本を読もうにもその本すらない。やることが見つからないので、ベットに横になってテレビを付ける。昔やっていたドラマの再放送があったのでそれを見ていた。ずっとテレビを見て時間を潰して、空にある太陽が傾き始める。やっと夕方が近づいて来た。そう思うと、さっきまではなかった眠気がいきなりルアを襲う。せきは朝よりかは酷くなかった。やはり点滴の御かげなのだろう。テレビを付けたままで、ルアはしばし眠っていた。
 目が覚める原因となったのが、廊下でぎゃあぎゃあ騒ぐ集団のせいである。それは間違いなく将太に稲垣に猪崎だった。ドアが乱暴に開き、廊下から病室に流れ込んでくる。どうやらうるさ過ぎて看護婦に怒られそうになったから急いで入って来たようだった。将太が着替えと、ルアが一番好きな小説、「イリヤの空、UFOの夏」というのを持ってきてくれたのがもの凄く有り難かった。三人に五日間入院することを告げると、猪崎と稲垣は羨ましそうにいいなあと言うが、実際はそんなにいいものじゃない。とにかく暇なのである。
 そのまま四人で話し合っていると、いつの如く最後には大声で笑い飛ばすことになるのだ。そうなれば当然ここは病院であり、病院は静かにするものであると、看護婦が襲い掛かってくるのだ。本当に三人の逃げ足は速かった。看護婦がドアを開けて怒鳴ったのと、三人がその場から看護婦の横を通り抜けるのは同時だった。その時に将太がまた来るからなと言い残し、看護婦は廊下を駆ける三人にもう二度と来るなと叫んでいた。結局そうなれば、怒られるのはルアだけだ。三十分みっちり説教され、辺りが赤く染まった辺りでやっと開放された。病室内はまた静かになっていしまった。病院ではそれが当たり前だが、そうなればまた暇になってしまう。しかし今は本がある。何度も読んだこの小説だが、本当に何度読んでも飽きない。秋山瑞人は天才ではないかと思う。最初から、ルアはその本を読んでいく。小説を読んでいると時間を忘れる。辺りが暗くなり始め、小説の中では伊里野が中込達に質問攻めに合い、浅羽がトイレと言い残して教室を出ていった辺りだった。
 病室のドアがゆっくり開いた。夕食かな、と思ったが違った。女の人が一人入って来た。恐らく母親だろう。嘘のような美人だった。そして、その後ろに女の子が一人くっついていた。
 嘘のような綺麗な顔立ち、肩より少し短いショートの髪、澄んでいる瞳、清潔感のある不思議な雰囲気を持った、変わった服を着た、すごく可愛らしい子、しかし何かを背負ったような暗い表情。
 母親らしい女の人が、ルアに向けてお辞儀をする。ルアがどうも、と言って頭を下げる。しかし少女は何の反応も示さない。
 その少女は、ルアと同じ中学三年生で、ルアと同じ病室で、ルアと同じ肺炎で入院するのだそうだ。
 少女は名前を、山瀬仁菜といった。


 不思議だった。
 仁菜は何も喋ろうとはしなかった。どんな言葉を掛けても、笑いもしなければ怒りもせず、悲しむこともしなかった。それが不思議で、ルアは何度も仁菜に話し掛けた。自分の名前、好きな物嫌いな物、今はどんな学校で何をしていたのか、趣味、大好きな本の話。しかしどの質問や話にも、仁菜は何も答えてくれはしなかった。どれだけ喋り掛けても、結果は同じだった。
 太陽が完全に沈んで辺りが暗くなった頃、仁菜の母親は一度家に帰って行った。ルアは少し挨拶して、そして母親にこの子と仲良くしてやってくださいとお願いされた。別に嫌ではなかったので、もちろんと答えた。それからは、隣りのベットに座って窓の外の景色を眺め続けている少女に、何度も何度も、返事なんかされなくても、何度も話し掛け続けた。どうしてか、この少女が放っておけなかった。こんなにも綺麗な外見をしているのに、この暗い表情に隠されている物は何なのか、どうしても知りたかった。いや、知らなくてもいい。ただこの少女の笑った顔、笑顔が見たかった。
 あまり美味しくはない夕食を食べ終わった。ルアはすべて食べたが、少女は何一つ手を付けてはいなかった。看護婦に何かを言われても、何も答えはしなかった。それからもルアは何度も話し掛けたが、結局は何の返事も返してはくれなかった。時間だけが過ぎていき、そろそろ病院内にも静寂が高まり、消灯時間が来ようとしていた。眠たくはなかったが、看護婦に無理やりベットに寝かされ、電気も消された。少女との間にはカーテンが引かれ、ついにルアはその笑顔どころか声も聞けなかった。どうしようもなかったので、次の日にもう一度話し掛けようと決めて、目を閉じた。
 しかし閉じたはいいが、全く眠れなかった。たまに聞こえる廊下を歩く音の数を数えて暇を潰した。横になったまま、どれだけの時間が流れただろうか。時計がこのベットからは見えない位置にあるので今が何時なのかはわからない。ベットの隣りに引かれるカーテンを眺めて思う。もう、この子は寝たのだろうか。
 ダメもとで、ルアは話し掛けてみた。
「なあ、起きてる……?」
 案の定返事はなかった。それどころかその声にも反応しない所を見ると、やはりもう眠ってしまったのだろう。ならばこれ以上の行為は無駄なので、ルアも寝ようと目を閉じる。また足音が聞こえた。それをまた数える。合計で四十二歩。我ながら馬鹿なことをするよなと思う。やることが本当になくなって、ようやっと少しだが眠気が出てきた。目を閉じて寝ることだけに神経を集中させる。
 それからどれくらいの時間が流れたかわからない。かなり眠ってしまったのか、それとも数分しか経っていないのかわからないが、ルアは声を聞いた。小さな、消え入りそうな声だった。半分寝惚けた頭で、それがどこから聞こえ、何を言っているのかを分析し始める。初めが『ま』で終りが『か』の疑問系。誰だろう、何を言っているのだろう。やっと通常に戻り始めた脳味噌で、さらに言葉を聞き取った。「ま……おき………すか?」。そう聞こえた。なんだろうと思う。
 そして、ハッキリとその言葉を聞いた。
「まだ……起きてますか……?」
 飛び起きた。布団を剥ぎ取ってカーテンの向こうにいる少女へと視線を巡らす。すぐさま返事をした。
「あ、ああ。起きてるよ……」
 返事を返したはいいが、それからまた少女は無言になってしまった。しかしそんなことはどうでもよかった。初めてこの少女の、山瀬仁菜という子の声を聞いた。思っていたよりもずっと、澄んだ声だった。このままカーテンを開いて話し合いたい気持ちを必死で押さえ、少女の次の言葉をずっと待った。
 だがいつまで経っても返事が返ってこない。ルアがあれは聞き間違いではなかったのかと考え始め、こちらからもう一度話し掛けようと出そうとすると、やっと声が返ってきた。
「……わたしのこと……もう、放っておいてくれませんか……?」
 一瞬意味がわからなかったが、すぐに理解した。しかし納得はしなかった。
「ど、どうして……?」
 またしばらく返事が返ってこなかったが、ルアは待った。いつまでも、朝になるまで掛かっても、返事を待ち続けようと思う。やっと言葉を返してくれたんだ、この機会を逃したら絶対に後悔する。だから、待つのだ。
 今度はさっきよりも返事が早かった。
「……わたしが……悲しくなるから……」
「悲しくって……どういう」
「放っておいてくださいっ!」
 急な大声に体が反射的に震えた。言葉が出てこなかった。何故この少女はここまでして自分との接触を拒むのか、それがどうしても知りたかった。何か勘違いしているのならその誤解を解いておきたいし、もしそうじゃなかったとしても、理由くらいは教えてほしい。
 カーテンの向こうから、押し殺したような声が聞こえた。
「おねがいですから……もう、放っておいてください……」
 泣いているような声だった。いや、泣いているのだろう。
 だがしかし、放っておいてと言われても、泣いている女の子を放っておけるはずもなかった。理由が知りたかった。どうして拒絶するのか、どうして泣いているのか。それだけは、どうしても知りたかった。
「……理由を、教えてくれないかな……?」
 返事はなかったが、ルアは続ける。
「もし君が今泣いている理由が、俺にどうにかできるものなら何とかしてやりたい。けど、それが俺にできないことだったら、俺はもう何も言わないから……。だからさ、理由だけでも教えてくれないかな……?」
 しばらく、少女の微かな泣き声だけが病室内に聞こえた。
 ルアはずっと待った。この仁菜という少女が返事を返してくれるまでずっと待とう。今出来る事は多分それしかない。それ以外には思いつきもしない。時計の秒針のカチ、カチの音と、微かな少女の泣き声がいつまでもルアの耳に届いていた。カーテンの向こうにいる少女は、今何を思って泣いているのだろう。それをもし話してくれたら、少しでも力になれるかもしれない。だったら、いつまでも待とう。少女から話してくれるまで待ち続けよう。それが今、ルアがするべきことなのだ。
 自分でも、どうしてこんなにも気に掛けるのかわからなかった。けど、放っておけなかった。この少女の、表情に巣食う影を取り除いてやりたかった。ただ、この少女の笑顔が見たかった。
 時計の秒針が一体何回音を出したのかわからない。ルアは身動き一つせずに、ベットの上に座っていた。いつの間にか少女の泣き声は聞こえなくなっていて、少しだけ安心した。
「…………わたしは」
 そんな声が聞こえて、ルアは視線をカーテンに向けた。正確には、カーテンの向こうにいる少女にだ。
「本当は昨日、フランスに行く予定だったんです……」
 話しの内容がよくわからなかったが、まさか旅行とかではあるまい。だが、声が少し震えていることに気付いて何も言わずに言葉を聞き続けた。
「だけど、昨日から熱っぽくて……。それで今日ここに来たら肺炎だって言われて……」
 それで入院してしまった、ルアと同じだ。
 声のトーンがさっきよりも下がったことに気付く。
「フランスなんて……行きたくなかった……。友達と一緒に……皆で高校に行きたかった……。皆で同じ高校に行って、皆で遊んで……。好きな人の話しや、いろんな話しを、もっと……したかった……」
 また、泣き声になってしまう。涙を拭う仕草や嗚咽を抑える肩の揺れが、カーテン越しにハッキリと伝わってくる。
 これだけは訊きたいと思った。自然と声が震えていた。
「フランスには……、どれだけ……」
「……三年、です……」
「三年……」
 あまりにもその時間は大きかった。大人になって海外で三年を過ごすのと、まだ中学生の時に海外で三年過ごすのには、重みが全く違う。仲のいい友達と別れ、言葉が違う世界で暮らさなければならないということは半端な孤独感ではすまない。少女が何故ルアを拒むのかが何となくだがわかった気がした。このままこの病室でたったの五日間だが、その思い出を残してしまうとそれが孤独感の中で思い出され、耐え切れなくなってしまうからだ。それだけではない。中学からの三年間なら同級生は皆、高校を卒業する。しかしこの少女は、仁菜でけは友達に三年も会えず、全く違う場所で一人きりで卒業する。それがどれほどの悲しみと不安を生み出すかは計り知れない。昨日旅立つ予定だったということは、もうすでに仁菜の心の中では覚悟が少なからずあったはずだ。しかしそれが入院という理由で日本に留まることになり、覚悟が乱れ始めたのだ。覚悟を維持するために誰にも心を許さず、退院するまでいようと思ったのだろう。しかしそこで、何から何まで気に掛けて話し掛けてくる人に出遭ってしまった。それがルアだ。もしルアに友達の意思を持ってしまったら、覚悟が崩壊すると感じたのだろう。そうなれば悲しみがさらに残るだけだ。だから、仁菜は話し掛けてくるルアを拒み続けたのだ。
 だけどもし本当にそうだとしたら、なおのことこのまま放っておくわけにはいなかった。この少女を、心から助けてあげたいと思った。ルア自身に出来ることなんてたかが知れている。だけでこの五日間で、何とかして少女の不安や悲しみを少しでもいいから和らげてあげたい。たったそれだけでいいから、力になってあげたかった。
 言葉を探して、探して探して、今送れる一番いいと思う言葉を送った。
「……俺が、力になるから……。約束するから……。だから、もう泣かないでくれ……」
 考えてこんな言葉しか言えないなんて、どうしようもなく情けなかった。だけど、今はそんな言葉しか言えなかった。そんな簡単な言葉だけど、絶対に約束は守る。この五日間で、出来る限りのことをしようと思った。
 その言葉を聞いた少女は、何度も何度もカーテン越しに肯き、やがて小さな、だけどの本当に嬉しそうな声で言った。
 ――ありがとう、ございます、と。


 次の日の朝になって、仁菜が変わった。いや、本当の仁菜に戻ったのだろう。昨日までとは比べ物にならないほど明るく元気でよく笑う。その笑顔が綺麗な顔立ちをより引き立てて、ずっと可愛く見えた。
 ベットに座りながらあまり美味しくない朝食を食べ終わって、少し話をした。その話しの始まりは仁菜の言葉だった。
「そう言えば、まだ名前聞いてませんでしたよね?」
「ああ、そうだったな」
 ルアは仁菜の母親から仁菜の名前を聞いていたので知っていたが、考えてもみるとルアはまだ自己紹介をしていなかった。
「俺は神岸ルア。ルアでいいよ」
 仁菜は不思議そうな顔をした。「るあるあ」と口の中で繰り返し、
「変な名前ですね」
 そう言う。
「ほっとけ」
 だが、ルア自身もそう思ってはいる。
 本当のことを言えば、ルアの本名は『神岸瑠亜』だ。だがその名前で、しかも漢字で書くと女みたいなのでいつからかカタカナで自分の名前を書くようになった。そっちの方が男っぽく感じるし、それに書くのが楽なのだ。中学高校のテストでもカタカナで書いたし、バイトの履歴書にもルアで通した。だから名札の所は常に『ルア』なっている。それどころかあまり仲の良くない知り合いに、「瑠亜って知ってる?」と聞いても、大半が「誰それ?」と返してくる。しかし漢字をカタカナにするだけでそう答えた奴全員が神岸ルアだと理解する。学校の出席簿もルアになっていたし、この病室の名札もルアと書いてある。そうしないとわからない奴がいるかもしれないからだ。
 と、そういったことを仁菜に話した。初めは不思議がっていたが、最後にはなるほどと感心して自分も『仁菜』ではなく『ニナ』と名乗ると言い出した。それは何とかルアが阻止したのだが。それからはまたいろいろな話しをした。好きな物嫌いな物、今はどんな学校で何をしていたのか、趣味、大好きな本の話。昨日は返事をしてくれなかったが、今日は違う。楽しく笑って、二人で話しをした。ルアが好きな秋山瑞人の小説を読ませてあげると、仁菜は面白いと言ってくれた。どこか安心して、その小説の話でまた盛り上がった。
 一日がこんなに早く過ぎた日なんて今までの記憶にはなかった。辺りが赤く染まり、日は沈んで行く。二人で夕食を食べ、また話しをする。すぐに日は暮れ夜になり、消灯時間を過ぎても寝ようとしない二人を看護婦が怒りに来て、ようやく寝ることにした。だが電気を消してカーテンを引いて横になってもなお、二人はずっと話し続けていた。
 この時間が、ただ単純に楽しかった。ずっとこうしていたかった。


 入院三日目、病院での二度目の朝を迎える。昨日の夜更しが原因なのか、二人が起きたのはちょうど看護婦が朝食を運んできたときだった。眠気が覚めない体と頭で、二人はあまり話をしないで呆然と朝食を食べた。
 曜日でいうと今日は土曜日、つまり学校は休み。いつもなら嬉しく思う曜日だが、今のルアにはたいしてその意味を持たなかった。そして今日は土曜日であり、学校は休みであり、だから昼前に将太がルアのお見舞いに果物を持って来てもならんら不思議はないのだが、そんなことをすっかり忘れていて、将太が病室に姿を見せた時にルアが言った言葉が、「おまえ学校サボったのか?」だった。その後散々将太に馬鹿にされたのは言うまでもない。
 しばらく二人で騒ぎ合っていたので、将太が気付かなかったのも無理はないと思う。だがやっと気付いた。ルアの隣りのベットで、二人のやり取りを不思議そうに見ている少女のことに。
「あん、そっちの子は?」
「ああ、その子は山瀬仁菜。俺のルームメイトってとこだな。で、仁菜。こっちが俺の友達の田畑将太。少し変わってるけど、いい奴だから安心していいよ」
 うるせーと将太がルアを殴り、仁菜のベットに歩み寄る。仁菜は少し怯えたように将太の行動を目で追った。
「初めまして、山瀬仁菜さん。神岸ルアの親友の田畑将太です」
 何気に言葉使いを丁寧にし、親友を強調したのはまあ無視していいだろう。仁菜は戸惑いながらルアを一度見て、頷くルアを見て今度は将太に視線を移して躊躇い気味に挨拶をする。
「は、はじめまして……、山瀬仁菜、です……」
「おう、よろしく」
 握手を求める将太の手を、遠慮気味に握る。
「俺のことは……そーだな、ハッチさんとでも呼んでくれて構わないから」
「懐かしいな、その呼び名」
「まあな」
「それより、うんぴろと猪崎は? 一緒じゃねーの?」
「何か用事があるってよ」
「ふーん……」
 別に二人がいなくても、というよりいない方が静かなので、病院の中ではそっちの方がずっとよかった。取り敢えず将太が持ってきた果物を食おうということになる。ルアの希望でメロン、仁菜の希望でリンゴの二つに決定する。リンゴの皮を剥くのは簡単だったが、問題はメロンだ。普通に切ってはダメなのでしばし考えた結果、何を思ったが将太がナースコールで看護婦を呼び出し、メロンを切ってくれませんかとお願いをする始末。将太は今日で帰るからいいが、ルアと仁菜はもうしばらくいなくてはならないのだ。恥ずかしいことこの上ない。そんなこんなでリンゴとメロンを三人で食べた。この辺りでようやく仁菜の様子が変わり始めた。将太への警戒心がなくなったのだろう。遠慮気味ではあったが、「ハッチ、さん」とも呼んでいたし。それに関しては少し安心した。親友と、力になってやると約束した女の子との喧嘩など絶対に見たくはないのだ。
 力になってやる、か。仁菜と将太が話し合っている間、ルアは一人で考える。力になってやるとは言ったものの、考えてもみればまだ何もやってはいない。ただ話していただけだ。具体的に何をしたらいいのかわからないし、それに自分に何ができるだろう。そんなことを考えてしまう。首を振って考えを吹き飛ばした。まだあと二日ある、二日。これだけあったら何かできるはずだ、何か――
 って、ちょっと待て。
「おい、何話してるんだよ?」
 将太が仁菜に、ルアには聞こえない声で何かを話している。
「何って、小さき頃のルアの嬉恥ずかしの昔話」
 平然と答える将太。小刻みに仁菜の体が震えている。笑いを噛み殺しているのがハッキリと見て取れた。将太とは小さな頃から一緒にいたわけで、将太しか知らないルアの裏話なんかも当然理解しているわけであって、それを仁菜に話されるととんでもなくマズイ状況なわけで、何としてもその愚行を止めなければならないわけで。二人の間に割って入って将太を少し遠い所に放置して、仁菜の肩を掴んで問う。
「何を、どこまで聞いた!?」
 必死だったと思う、いや、現に必死だった。
 しかしそんなルアを見ると、噛み殺していた笑いがついに溢れ出した。大声を出して仁菜は笑う。それはルアにとっては嬉しいことではあったが、その笑いの原因が原因だけに素直に喜べない。それどころか仁菜に何を知られたのかが余計に気になってさらに必死になって問い詰めるが、仁菜は断固として口を閉ざして小刻み肩を振るわせているだけだった。
また時間はすぐに過ぎて夕方になって、そろそろ将太が帰る時間となった。
「後二日で退院だったよな。じゃあ多分もう来ないんでよろしく」
「もう来るな」
 まだ仁菜に何を話したのか教えてもらっていないので、少し不機嫌気味にルアは将太を見る。将太は肩をくすめるだけだった。そして今度は仁菜に別れを言う。
「仁菜もじゃあな。後二日、こいつのことよろしく頼むよ。それとさっきの話しは俺達二人の秘密ってことで」
「はい」
 嬉しそうに仁菜は肯く。あまり嬉しくないやり取りだった。
 そしてドアに手を掛け、じゃあお大事に、とそれっぽいことを言って廊下に出て行った。ドアが閉まるまでずっと見送っていた。閉まってからもしばらく何もしないでそのドアを見ていた。
 先に口を開いたのは仁菜だった。
「いい人、ですね」
「まあな……」
 素直には返事できなかった。またしばらく無言でいた。こんなにも長い間、二人揃って口を開かなかったのはこれが初めてではないのだろうかと思う。仁菜の方を見ると、いつの間にか視線が外に移っていた。夕日に照らされる仁菜の顔を、しばらく見ていた。今、仁菜は何を思っているのだろう。声を掛けようと思ったが、どうしても言葉が出てこなかった。言いたくても言えない不思議な感覚に囚われる。口を動かすが声が出ない。
「この空を……」
 外を見たまま、仁菜はつぶやく。
「この空を、わたしはいつまでここで見ていられるのかな……?」
「え……?」
 視線が室内に帰って来て、ルアに向けられる。
「ルアさんと話したことも、ルアさんと一緒にいれたことも、ルアさんと出遭えたことも、わたしは忘れません。ずっとずっと、覚えています」
 どうして、仁菜はこんなことを言うのだろう。
「どうしたんだよ、急に……」
「聞いて下さい、ルアさん」
 彼女の目は真剣だった。澄んだ瞳の奥に何かの力が宿っている。そんな仁菜の姿を見ると、何も言えなくなった。
 仁菜は一度軽く微笑んで、そして、
「ほんの少ししかルアさんと過ごした時間はないです。でも、そのほんの少しが本当に楽しかった。今までのどの時間よりも……。ルアさんはわたしに約束してくれましたよね? わたしの力になってあげる、って。もう、十分過ぎるくらい力になってもらいました……」
 ぺこりと、少女は頭を下げた。
「ありがとうございました。でも、あともう少しの間だけ、お付き合いしてください」
 顔を上げた仁菜の顔は、本当に綺麗な笑顔だった。


 次の日の朝、入院してからの四日目。
 この日、点滴を打つのが終った。考えてもみれば、入院して一日目で熱もせきもほとんど感じなくなっていた。それを思えば、点滴の力は凄いと感心する。点滴をもうしなくていいというのは何だかそれだけで嬉しくて、仁菜と一緒に外に出た。久しぶりに吸う外の空気は、少し美味しかったと思う。隣りでルアと同じように深呼吸する仁菜を見る。
 昨日のことはもうあれっきり触れてはいない。触れないほうがいいのだと思った。でも、本当にそれでいいのだろうか。仁菜はそれで十分だと言ったが、ルアにしてみれば全く何もしてはいない。これで終らせるのは納得できなかった。だけど仁菜がそれでいいと言うのなら、ルアがどうこうするもの違う気がする。しかし、どうしても「だけど何かしてあげたい」という言葉が拭い切れなかった。
 病院の庭は広く、小さな池まであった。二人で並んで池のほとりに座って水面を眺めていた。鯉らしき魚が泳いでいた。
 ぽつりと仁菜は言う。
「ルアさんて、泳げますか?」
 少し考える。
「得意じゃないけど、泳げる。仁菜は?」
 恥ずかしそうに笑う。
「実は泳げないんですよね……。水は何だか怖くて……」
 泳げない人の典型的な理由だなと思う。だがそんな人をプールに落とすのがルアの楽しみだとは言えなかった。
「泳げるようになりたかったなあ」
 空を見上げ、雲を眺める。
 仁菜はもう少しでフランスに旅立つ。残された時間は限られている。だけど、それでも。その限られた時間の中で、仁菜にしてやれることはなんだろう。何をしてやれるんだろう。
「プール……、行ってみないか?」
 自然とそんな言葉が出ていた。
「え……? でも、わたしは退院したらすぐに……」
「だから今日行こう」
 呆気に取られた顔を仁菜はした。
「きょ、今日ですか……?」
 腹は決まった。やれると思う。いけると思う。自己満足かもしれない。だけど、それでも。
「ああ、今日だ。今日の夜中、ここから脱走する」


 そう言った手前、本当にやるつもりだった。大体のことはもう解決済みだ。点滴はもうないから自由に歩けるし、見回りに来る看護婦にはダミーを使えば問題ない、受付の所にいる中年のおばさん看護婦はいつも居眠りしているから楽勝だ。詳しいことを病室内で話し合った。最初は不安気味だった仁菜も次第に乗り気になっていて、最後には彼女自身もいろいろと案を出していた。
 さて、時間は過ぎて行き、太陽は傾いて夜になろうとしていた。
 計画実行時刻は二十二時三十分。
 そして今、その時間に到達しようとしていた。二人して上着を羽織って、適当な服を何枚かベットとシーツの間に放り込んで如何にも人が寝ていますという感じにする。まずはこれで見回りの看護婦は騙せる、と思う。何も喋らずに少し視線を交わした後、肯いて静かに廊下に出た。足音は聞こえない。階段に向かって走り出す。敵地に乗り込んだスパイの如く身を小さくし、足音を最小限に止める。階段を下りて受付を頭を出して覗き込む。案の定、中年のおばさん看護婦は寝ていた。もう一度、仁菜と視線を交わして走りだした。自動ドアを抜け、どこまでも広がる夜空の元へと辿りついた。ここまで来れば安心できる。
「あー、怖かったですね」
 胸を撫で下ろし、仁菜は言う。
「おもしろかっただろ?」
「もちろんです」
 満面の笑みを浮べ、夜の景色に見惚れるようだった。月と星が、どこまでも続いていた。
「でも、これからどうやってプールまで行くんですか?」
 それはまだ仁菜には話していなかった。仁菜を驚かせたかったのだ。仁菜を手招きして無駄に広い駐車場に向かった。その端にある自転車置き場まで行くと、昼はそれなりに数がある自転車が数える程しかなく、その中で一際目立った原チャリが置いてあった。ポケットからキーを取り出し、その原チャリの鍵穴に差し込んで回す。軽く電気が灯った。
「仁菜、後ろ乗れ」
 その様子をぽかんと見ていた仁菜が、急に我に返ったように、
「な、な、なんですかそれ!?」
「なんですかって、原チャリ」
「違います、なんで中学三年生のルアさんがそんな物を持ってるですか!?」
「父親からのプレゼント。ほれ、免許書もある」
 偽装免許を仁菜に見せる。しかし仁菜は納得しない。
「いいから乗れって。運転には自身あるから」
 自転車から出してエンジンを掛けた。前にルアが乗って、仁菜に乗り方を簡単に説明した。恐々だったが、仁菜はゆっくりとルアの後ろへと乗った。
「掴まってろよ」
 仁菜の細い腕が、ルアの腰に廻される。それが少しもどかしかったが、何とか振り切ってアクセルを開けた。バイクがエンジン音を響かせて走り始める。まだ仁菜の腕の力は弱かった。悪知恵が働く。道路までノロノロ運転で走って道路に出るや否や、車がいないことを確認して力一杯アクセルを開けた。バイクが一瞬で加速する。「きゃあっ!」と仁菜の悲鳴が聞こえた、腕の力が強くなる。それが面白かった。
 仁菜が何か言ってる。怖いとか止めてと言ってるのかと思ったら、気持ち良いなんて言ってやがる。それなら遠慮はいらない。アクセルを更に廻す。メーターが限界まで飛び上がる。
 夜で、しかも昼間でも車通りの少ないこの道は、今は二人乗りのバイクしかいなかった。道の真中を走って、真直ぐ突き進む。
 この瞬間が、ただ楽しかった。


 近くの市営プールに到着したが、出入口には鍵が掛かっていたので近くのフェンスを攀じ登って中に侵入した。プールの水を張り替えたばかりなのか、塩素の匂いがいかにもプールらしかった。月明かりだけでも十分に明るくて、水面に映える月はどこか幻想的だった。靴を脱いで裸足になって、足だけプールに入れる形で座った。二人並んでプールの淵に腰掛け、たまに足を動かすと綺麗な波紋が広がり、それはどこまでも続いていった。それがなんだか楽しくて、ずっとそうしていた。ふと二人で空を見上げると、流れ星が一つ飛んだ。無くなった流れ星を少し残念に思う。
 しばらく無限の夜空を眺めていた。
「……一つ、聞いてもいいですか……?」
 夜空を見上げたまま、ルアは仁菜に言い返した。
「……ん?」
「どうして、わたしのためにここまでやってくれるんですか?」
 自然と視線が水面に戻った。
 その質問に、すぐには答えることができなかった。初めは好奇心だったのかもしれない。悲しみが巣食う少女の表情の理由はなんだったのか。それが知りたかったのかもしれない。だけど、それだけではなかった。考えて初めて気付いたが、多分そうだろう。
 視線を、また夜空に戻した。ちゃんと言おうと思う。
「好きだから、かな」
「―――……え?」
 視界の端で、仁菜の視線がこっちを向くのがわかった。しかしルアの視線は夜空に向いたままだ。
「初めはただの好奇心だったんだろうな、きっと。でも今は違う」
 隣りに座っている仁菜に視線を移した。驚いたような表情をしている。それが何だかおもしろかった。
「俺は、仁菜が好きなんだ」
 その言葉を聞いた瞬間、仁菜の頬が赤く染まる。
「……あ、あの……、わ……わたし……っ」
 仁菜が何か言おうとして、突然だった。
 なあっ。
「え、あ、きゃあっ!」
「ちょ、うわっ!!」
 二人分の水飛沫が盛大に上がり、大きな波紋がプール全体に渡った。
 猫の鳴き声だったと思う。いつの間にか、仁菜の後ろに猫がいて、いつからいたのかわからないが、静寂が支配していたこの空間でのその鳴き声はかなり多きく響いた。それに仁菜は驚いてルアにしがみ付いて、しかしバランスの悪い体勢だったので二人道連れプールに落下したのだ。
 頭から落ちたので平行感覚を完全に奪われていた。それに仁菜がしがみ付いているので余計にどっちが上でどっちが下なのかわからない。ここで仁菜は泳げないことを思い出した。それが原因でルアより深いパニックに陥っているのだろう。ならばここはルアがしっかりしなければならない。足がプールの底に付いた。一気に頭を水面から出して体勢を整える。それ同様に仁菜も体勢を立て直していた。
 仁菜の顔がすぐ側にあって、その腕がルアの首にしっかりと巻きつけられていた。笑うしかなかったと思う。
 誰もいないプールで、二人は抱き合って笑った。それを見ているのは無限の夜空に浮ぶ月と星だけだ。波紋が収まり、二人の笑い声も小さくなっていった。
「わたしも、ルアさんが好きです」
 いきなりだったので、何言ってんだよと言い返しそうになるのを堪えるのに必死だった。
 抱き合ったまま、互いの瞳を見つめたまま、仁菜は言う。
「少しの時間しか一緒にいてませんが、それでもわたしはルアさんが好きです」
 濡れた髪が、濡れた肌が、濡れた服が、少し暖かい温もりが、愛しく思えた。月の明かりが、それだけでここが別世界だと思わせた。
 未来のことなんて分らない、だけど言い切れる。
「三年後、仁菜が帰ってきたら」
 遠い未来、どうなっているかはわからないけど、気持ちだけは変わらないと思う。
「仁菜が帰ってきたら、一緒に暮らそう。もちろん、仁菜の両親にあいさつしてから」
 笑い掛けると、仁菜も笑ってくれた。髪から水滴が滴り落ちた。仁菜の瞳に浮んでいたのが、プールの水だったのか、それとも涙だったのかは、どっちでもいいと思った。
 誰もいないプールで、いつしか二人は笑っていた。このまま笑っていたかった。
 仁菜の笑顔は、綺麗だった。だからもう一度、ルアは仁菜に言うのだった。


「俺は、おまえのことが好きだから――」


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「何処へ行くかは風任せ」




 夏の風が体を透き通るように吹き抜けて行く。
 あの時、空港で感じた風と何一つ変わらない夏の風だった。


 神岸ルアに見送られて、山瀬仁菜は両親と共に飛行機に乗った。どれだけお礼を言っても言い足りないくらいのことをルアにはしてもらった。フランスから帰ってきたら何よりもまず、誰よりも先にルアに会いに行こう。それから、二人で仁菜の両親の所へ行くのだ。ルアの住所も電話番号も教えてもらった。フランスの家に着いたらすぐにでも電話しなければならない。この飛行機に乗っている時間さえもがもどかしく思えた。
 飛行機は離陸してからすでに一時間は経っている。何時間で到着するのかはわからないが、それなりに掛かると思う。それまでは寝ていよう。余計なことを考えようとすると、ルアのこと以外何も考えられなくなってしまう。そうなれば一人で赤面するのがオチなので、恥ずかしかった。だったら残される選択は寝るだけだった。
 座席を少し倒してから体重を預けて目を瞑った。思うことはただ一つ。
 良い夢を見られますように。


 寝てしまってからどれくらい経っただろう。夢を見た記憶はないが、気分は良かった。両親も他の乗客も皆寝ていて、起きているのは仁菜だけだった。機内は不思議なほど静かだった。ただ微かに飛行機のエンジン音がどこからともなく聞こえていた。
 窓の外に視線を移すと、そこには上空から見た無限の夜空が広がっていた。辺り一面何もない。恐らく海の上を飛んでいるのだろう。もう一度眠ろうかと思ったが、何故か眠れなかった。窓の外の景色をぼんやりと眺める。
 今、ルアは何をしているのだろうと思う。寝ているかもしれないし、もしかしたら仁菜と同じように夜空を見ているのかもしれない。そうだったら嬉しいな。自然と笑みが零れた。機体が揺れた。
 乱気流にでも入ったのかと思ったのはほんの一瞬だった。機体の揺れが激しくなる。続いて窓の外から爆音を聞いたような気がする。機内のスピーカーから途切れ途切れに何か聞こえていた。
『緊急……バッ、乗客……すみ、ジジ、救、ガガガ、ビッ、ザァ――、ばつん』
 急に回線が遮断した。この辺りでようやく眠っていた乗客が起き始め、激しい揺れに全員が呆気に取られる。何もできなかった。
 そして、一瞬で座る向きが変わった。平行になっていたイスが、初めはゆっくりと傾いただけだったが、ある一点を越えると急に垂直近くまで傾いてしまった。やっと事態の深刻さに気付いた。乗客があたりで悲鳴を上げている。事故が起きた、そう初めに叫んだのは誰だったか。シートベルトを外していたせいで全員が同じ方向に吹き飛ばされる。仁菜も吹き飛ばされたがギリギリでイスにしがみ付いた。何が起きたのか、まだ理解できなかった。もの凄いGが掛かって意識が飛ぶ。
 すべてが真白な世界で、仁菜はただ思っていた。


 ――ルアさん


 そして、機体はコンクリート並に強度を増した水面に直撃し、大爆発を起こした。


     ◎


 真白な世界がただそこにはあった。
 自分の体がそこにある。まるで空を飛んでいるような感覚だった。
(ここは……)
 どこだろうとやっと思った。目は開いているはずだが自分の体が見えない。不思議な感覚に囚われる。状況を一つ一つ整理していく。飛行機に乗って、そしてその飛行機が――恐らく事故にあったのだろう。辺りを見まわすが、やはり真白い空間しか見えなかった。両親も、他の乗客も、仁菜自身の体すら見えない。ここはどこだろう。わたしは、どうなってしまったのだろう。
 ふと後ろに気配を感じた。振り返るとそこには一つの箱があった。白い糸で三箇所結んである不思議な箱だった。導かれるように、仁菜はその箱に近づいて行く。手を伸ばせば届く場所まできた時、白い糸がゆっくりと解かれ始めた。箱を閉じてあった木の板が少しずつ上がり始める。それに連れて青い光りが溢れ出す。そんな奇妙な光景を、仁菜はずっと見ていた。箱の中から五つの光りの玉が浮上する。最後に紫の光りの玉が出てきた。その玉が光りを増していく。そして、何かが現れた。黒のマント、変わった仮面、紫の腕。仮面が土台となってマントが体の形を作り出す。仮面の奥から声が聞こえた。人のものではないとすぐにわかった。
『我は神に仕える悪魔、神迷の製造者、神魔なり。我の権限により、山瀬仁菜に問う』
 急に自分の名前を言われ、どきっとする。
 神魔と名乗る黒マントは言った。
『山瀬仁菜、おまえは生きたいか』
(……え?)
 マントが風に吹かれるように揺れる。
『おまえの肉体は先の事故で消滅した。残ったのはおまえの魂のみ。そしてこの空間は我が作り出した神迷の制限区域。おまえは生きたいか。おまえは人間に戻りたいか』
 何を言っているのだろう。ここはどこで、この人は誰で、自分はどうなったのだろう。事故? 飛行機事故のことだろうか。肉体が消滅した? じゃあ、わたしは死んで――
『まだ死んではいない』
 心を読まれたようで思わず神魔の仮面を見た。
『おまえが望めば人間に戻ることは可能だ。だがそれには試練を乗り越える必要がある。おまえはどうする。生きるか、死ぬか。選択はおまえ自身の自由。決めるがよい』
 生きるか、死ぬか。もし、死ぬを選べばどうなるのだろう。考えるまでもない、死ぬのだろう。じゃあ、もし生きるを選べばどうなるのか。それ以前に、本当に自分は死んだのだろうか。もしかしたら、これはただの夢なのではないのか。
『夢ではない。信用できないならば、自分の目で確かめろ』
 真白の空間がいきなりぐにゃりと曲がる。何重にも弧を描き、白から黒へと変化していく。真白から真黒の空間になったと思った瞬間、今度はまた真白になる。そしてその中心から青い光りが漏れる。それはどんどんと規模を拡大し、海となった。上には空があって太陽があって、下には海で。いつの間にかそこには完全なる海の真中になっていた。見渡す限り水平線で、何もなかった。ただ自分の真下の海に何かがある。それが何なのか理解できなかったが、理解した時は全身から力が抜けた。
 飛行機の残骸だった。真黒に焦げた部分もあれば傷一つ付いていない部分もあるが、どれもこれもバラバラになっていた。だがそれだけバラバラになっていながら、飛行機の名前が入ったプレートだけが奇跡的に残っていた。残ってなかった方がよかったと思いたくなった。それは間違いなく、仁菜が乗っていた飛行機だった。人の気配は感じない。人の影もない。そこには無機質な備品が浮んでいるだけだった。
 その光景を、見ていた。誰もいない。皆、もしかして、
『生き残った者は一人としていない。おまえの肉親も例外ではない』
 空間が消え、また真白になった。そこにあるのは箱と五つの光りの玉と、神魔だけだった。神魔は仁菜に向かって再度尋ねる。
『おまえは、生きたいか』
 何がどうなったのかわからなかった。
 涙が流れたと思う。実際に涙を見たわけではない。だけど、涙は流れたはずだ。
 どうしてこんなことになってしまったのか。それだけが知りたかった。何か、わたしはしたのでしょうか。
 助けて。誰か助けて。
 ……助けて、ルアさん……。


 生きたい。
 そう思ったのは、それからどれくらいの時間が経った後のことだろう。
 生きていたい。ルアさんと逢いたい。だから、生きていたい。
『心は、決まったようだな』
 仁菜は肯く。
『訊かせてもらおうか山瀬仁菜』
 わたりは、ルアさんと逢いたい。ここで死んではいけない。ルアさんに、逢いたい。だから、
(わたしは、生きます)
 神魔の、笑い声が聞こえたような気がする。それは嘲るとかそういう笑いではなかった。
 マントが激しく揺れる。それに鼓動して光りの玉がそれぞれ輝く。神魔の手が両方に開かれた。
『神に仕える悪魔、神迷の製造者、神魔の権限により、山瀬仁菜に試練を与える』
 体がじわりと熱くなる。そして、気付いた時には仁菜には体があった。何も違わない、それは仁菜自身の体だった。
『最後に一つ聞いておく。おまえが生きようと望む理由はなんだ』
 考えるまでもなかった。生きたいと望む理由はただ一つ。そう。
「ルアさんに、逢いたいからです」
 風が止んだ。神魔の仮面が輝く。
『山瀬仁菜の試練は決まった。今この瞬間を持って、神岸瑠亜の記憶に存在する山瀬仁菜の記憶を完全封鎖する』
「え?」
『おまえが乗り越える試練は、この時より約一年後。神岸瑠亜が我等を、神迷を見つけ出し、試練を乗り越え、そして山瀬仁菜の記憶を取り戻す。それらをすべて乗り越え時、山瀬仁菜に止まった時間の流れを与える。つまり、人間に戻るということだ』
「もし……、もしその試練を乗り越えられなかったら……」
『山瀬仁菜及び神岸瑠亜の魂は神迷に閉じ込められる。生きたいと願うなら、二人でこの試練を乗り越えてみせよ』
 後戻りはできない。違う、初めから後戻りなんてできない。だけど、できたとしてもやる気なんてなかった。
 前に、進むしかないのだ。
 ルアさんに、もう一度逢いたかった。


     ◎


「それが、ルアさんと別れたあとに起こったことです」
 夏の風が吹き抜ける屋上で、仁菜はすべてを語った。ルアは何も言わず、ただその話を聞いていた。
 どうすればいいのだろうと思う。どうしたらいいのだろうか。すべてを思い出した今、取るべき行動は決まっている。決まっているのだがその一歩が踏み出せないでいた。いろいろな考えが頭の中で渦巻く。確かに、ルアは仁菜が好きだった。記憶の封鎖で忘れていたことは事実だが、それでも思い出したからにはその気持ちは変わってはいない。
 神魔とは、神迷とは何なのか。
 何故こんなことをするのだろうか。
 何を望んでいるのだろうか。
 仁菜を見た。仁菜の視線は真直ぐルアを見ていた。言葉に詰る。
「……封印する魂は、あと二つなんだな……?」
 そんな言葉が口から漏れる。
 仁菜は表情を変えなかった。
「はい」
「それは……あの神魔と……、」
「わたしです」
 感情が高まるのがわかった。拳を握り緊める。もう何がなんだかわからなくなっていた。口から言葉が溢れるのを、抑え切れなかった。
「わたしですじゃないだろ!? おまえまで封じ込められたらここから出られないんだろうが!」
 声が返ってきた。ルアと同じく、感情が高まっていたのだろう。
「違います! 神魔さんはちゃんと約束を守ります!」
「どうしてそう言い切れる!?」
「ルアさんに逢わせてくれたからです!!」
 ふっと感情が消えた。それでも仁菜は続ける。
「ちゃんと、神魔さんはルアさんに逢わせてくれました……。だから、ちゃんと約束は守ってくれます」
 そう言い切った。
 白状すると、ルアも神魔の言うことを信じたいのだ。しかし神魔が、神迷が何なのかわからない以上、容易に決断はできなかった。このまま残る二つの魂を封じ込め、将太も稲垣も猪崎が戻って来て、それで仁菜も人間に戻って全員でここから出れて何もなかったように日常を生きれたらそれに越したことはない。だけどもし、それとは全く逆の最悪の展開になったらどうする、そう言う考えが残り続ける。魂を封じ込めてもここから出れず、ルア自身、それに将太も稲垣も猪崎も、仁菜さえもここから戻れなかったからどうすればいいのだろうか。最悪の結末になってしまったら、すべてが無駄になってしまう。稲垣と猪崎の悲鳴も、将太の決意も、仁菜の思いも、ルアのすべても無駄に終ってしまう。そうなればここまでの出来事はなんだったのか、それこそ仁菜が過ごしたこの一年は一体どうなってしまうのか。
 悪い考えばかりが浮ぶ。しかしそれも仕方のないことだった。だけど、それでも。
「……神魔を……、信用してもいいのか……?」
 まだ決意は決まっていない。だけど信じてすべてが最善の方向に進めば何も問題はない。
「信じても、いいのか……?」
 仁菜は表情を変えなかった。ルアの瞳を見つめたままで、真剣だった。
「神魔さんは、絶対に約束は破りません」
 決めなければならない。いや、初めから決まっていたのかもしれない。
 将太に向けてトリガーを引いた瞬間から、プールで仁菜に好きだと告白した時から、もう決まっていたのかもしれないかった。自分のことしか考えてない決意は、捨てなければならない。全員のことを考えた上での決意をするのだ。ここで逃げたら仲間の、そして大事な人の信用を失う。ふざけるな、と思う。自己中心野郎でもなければ臆病者でもない、神魔が神迷が何だって言うのだろうか。覚悟を決めてその一歩を踏み出せば、何も恐れることはないのだ。
 最初の魂を封じ込めた時に思ったはずだ。魂がなんだってんだクソが。都築中学校の卒業生をナメなよ、まとめて封じ込めてやる。この命懸けのサバイバルゲーム、真向から受けてやる。怖い物なんて何もない。サバイバルゲームが夢だった。命懸けのこのゲームを受けて立った時に心は完全に決まっていた。いいだろう、最後の勝負と行こうじゃないか。
 吹っ切れた。覚悟を決めればすべては最善の方向に傾く。腹の底からじわりと熱い物が浮んでくる。それを抑えきれなくて、ルアは笑った。
「神魔を信じるよ、仁菜」
 仁菜の表情が初めて変わった。
「神魔のとこに連れてってくれ。俺に与えられた試練ってヤツを、乗り越えてみせるからよ」
 仁菜は笑った。その目に少しの涙が浮んでいた。そして少し掠れた声で、仁菜は「はい」と肯くのだった。


 行きます、と仁菜は言った。
 瞬間、目の前が真白のになった。すべてが白かった。辺りを見まわすが、そこにあるのはどこまでも続く無限の空白の空間だった。何も感じない、何もいない。さっきまでいた屋上の気配はなかった。夏の夜空も夏の風もなく、そこにあるのは真白な景色だけだ。
 隣りに仁菜がいた。話し掛けようかと思ったが、仁菜の視線が前方に向いたまま身動き一つしないので話し掛けられなかった。仁菜の視線を追ってみる。どこを見ても同じだが、確かに仁菜はこの空間のどこかを見ていた。視線を追っていなければ、しばらく気付かなかっただろう。真白の空間にただ一点、黒い点がある。ボールペンの先くらいの大きさの黒い点がルアと仁菜の前方にあった。ルアは目を凝らしてそれを見る。その小さな点の中に何かがあるのがわかった。だがそれが何なのかがわからない。さらに目を凝らす。――と。
 黒い点が大きさを増した。徐々に大きくなっていく。そしてバレーボールくらいの大きさまで広がった瞬間、いきなり速度を増した。それこそあっと言う間だった。真白の空間を真黒の空間が支配していく。その勢いに呑まれて、ルアは目を瞑って腕で顔を覆った。そして次に目を開けた時、黒く染まった空間はなく、先ほどと何も変わらない真白の空間があった。だが一つ、決定的に違った。ルアの前方、黒い点があった辺りに、箱があった。間違いない。夜の廊下でルア達が開けた、一年前仁菜が見た、すべての元凶がそこにはある。
 神迷を縛ってある三ヶ所の白い糸が解かれ始めた。すべてが解かれた時、神迷を閉じていた木の板が開かれる。それに連れて青い光りが溢れ出した。そして中から五つの光りが浮び上がる。神迷を取り囲むようにそれらは並んだ。最後に紫の光りの玉が出てきた。その玉が光りを増していく。そして、何かが現れた。黒のマント、変わった仮面、紫の腕。仮面が土台となってマントが体の形を作り出す。
 ――神魔。
 忘れもしない、このサバイバルゲームの発案者だ。そして神魔は人間のものとは思えない声で言う。
『山瀬仁菜、案内ご苦労だった』
 ルアの隣りで仁菜は首を振った。
 神魔の仮面がルアを指す。
『神岸瑠亜。我が試練によくここまで来た。それは誉めてやろう』
「そりゃどうも」
 兆発的に返したつもりだが、神魔の何事もなかったように話しを続けた。
『山瀬仁菜に課せた試練はもうすでに越えているようだな』
 記憶のことを言っているのだろう。その辺は理解できた。考えればこいつが仁菜に関する記憶を封じ込めた張本人。腹が立ってきた。しかしそれを何とか抑えた。今はそれどころではないのだ。
『神岸瑠亜そして山瀬仁菜。おまえ達に残された試練は一つ。魂をすべて封じ込めるだけとなった』
 突然、ルアの隣りにいた仁菜の体が軽く光った。気づいたら仁菜は神魔の隣まで移動していて、ルアに向き合う形となった。
『神岸瑠亜。最後の試練だ』
 受けて立ってやる。これが最後だ。これさえ越えれば将太や稲垣に猪崎、そして仁菜もここから開放されるのだ。あともう少しですべてが終るのだ。止まった時間の流れが、再び流れ出すのだ。
『その前におまえに訊いておかねばならないことがる』
 仁菜の表情が曇った。それとは逆に神魔の仮面は光り輝く。
『おまえは最後の試練を受けるか否か。それを訊いておかねばならない』
「な、なに?」
 試練を受けるかどうかだ、だと。そんなの決まっている。受けなければここまできた意味がないのだ。
 だからルアは迷わず答えた。
「考えるまでもない。受けてやる」
『それが必ず死ぬと知ってもか』
「……なんだと?」
『我を封じ込めるということはこの空間が消えるということだ。そうなれば何の力も持ってはいないおまえみたいな無力な人間にここから出ることは不可能となる。つまり、おまえは死ぬということだ。それでも、受けるか』
 抑えた感情が膨れ上がる。
「ふざけるな! 仁菜っ! 約束と違うじゃねーか!」
 仁菜は何も答えず、曇った表情のままで下を向いてしまった。それがさらにルアの感情を膨れ上げた。
「これじゃあ今までのことが全部――」
『もちろん、受けないと選択すれば話しは違う』
 ルアの声を神魔が遮る。
『受けないと決めれば、おまえと仲間の三人はこの神迷の空間から外の世界、時が正確に流れる世界に開放してやる。何事もなかったように生きるためにここでの記憶は消してやる。受けないと決めればそうなる。その意味を知った上で決めるがよい、神岸瑠亜』
 疑問が浮ぶ。
「仁菜は、仁菜はどうなる?」
『受けないと決めれば山瀬仁菜はこのまま神迷の中で、我々と共に生きる。だがそうなってもおまえには何の損もないだろう。我が記憶を消してやるのだから、おまえの好きな方を選ぶがよい。今まで通り消えた記憶を持ちながら仲間との日常を選ぶか、死を選んでまでも山瀬仁菜の思いを救うか。どちらを選べばおまえに好都合になるかは、考えるまでもないがな』
 すべては、初めから神魔の陰謀ではなかったのか。
 何故飛行機事故に巻き込まれた乗客の他の誰でもない、山瀬仁菜という少女を神迷の中に引き摺り入れたのか。詳しいことはわからないが、ルアの推測で考えるとこうだ。そもそも神迷は誰か人間の魂が必要でその適任者を探していてそこで見つけたのが仁菜で、しかも神迷に止める理由としては丁度良いものを持っていた。だから良い餌を振り撒いて仁菜を戸惑わせて神迷に引き摺り入れ、ルアに試練を持ち掛けてここでも餌を振り撒いてルアを誘惑し、仁菜を諦めてもとの世界で暮らすように差し向け、絶望に蝕まれた彼女を取り込もうとしているのではないか。もしかしたら飛行機事故を起こしたのもこの神魔かもしれない。
 そんな連中の言い成りになるものか。それにそんな神魔の言葉になどに惑わされ以前に、ルアは決めている。あの夏の夜、病院から抜け出して行ったプールで仁菜と交わした約束、例え自分が死のうとも守ってみせる。それが今、ルアが仁菜にできることなのだ。好きだと告白したあのときから、すべては決まっていたのだ。
「仁菜、」
 俯いていた仁菜が顔を上げた。その表情はまだ曇っていた。
 初めてあった時、確か仁菜はあんな表情をしていたなと思い出す。そして思ってはずだ。助けてやりたいと。笑顔を見たいと。そんな笑おうとはしない仁菜に向かって、ルアは笑い掛けた。
 驚いたように仁菜は目を開く。そしてその目に涙が溜まる。一筋涙が流れると同時に、不器用だったが、仁菜は笑った。
「決まった」
 視線を神魔に向け直す。余裕たっぷりに笑って、そして自身満々の目で、ルアは神魔を見る。
「最後の試練とやら、受けて立ってやる。死のうがなんだろうが知ったこっちゃねえ。俺は仁菜が好きだ、だから守るんだ。誰にも邪魔させねえぞ、それが例え神だろうが悪魔だろうが、そして、神魔だろうがな」
『死が伴うとわかっていながら、それでも受けると言うのか』
「ああ、受けてやる。このサバイバルゲームを生き残ってやるぜ」
『そうか……』
 突然に神魔のマントが靡く。ルアの後ろから風が吹きぬけた。神魔の両手が両側に上げられ、仮面がさらに輝く。五つの魂が神迷を中心に弧を描いて回り始め、それぞれ神魔の仮面同様に光だした。
『我は神に仕える悪魔、神迷の製造者、神魔なり。我の権限に置いて―――神岸瑠亜の試練を終了する』
「……え? どういうことだよ……?」
『おまえはもう自由だ。最後の試練は、おまえが受けるか否かに掛かっていた。もし受けないと決めていたら、我はおまえを殺していた。だが、おまえは自分の死を省みず山瀬仁菜を救おうとした。これはそれを見るタメの試練だったのだ。だがもうわかった。おまえはすべての試練を乗り越えた。誇りを持って、仲間と共にここから正確に時間が流れる世界に帰るがよい』
 神迷の中から、三人の人影が浮び上がる。一瞬でそれが誰なのか理解した。
「将太! 猪崎! 稲垣!」
 宙に浮いたまま、ゆっくりと三人はルアに近づいて来る。意識はないようだが、ただ気絶しているだけのようだった。ルアの目前で、三人はいきなりその場に落ちた。まるで見えない力が消えたように、いや事実三人を支えていた物が消えたのだろう。急いでルアは三人に歩み寄った。そして誰よりも先に将太に駆け寄り、肩を掴んで確認した。安堵の息が出た。傷も何もついてはいない健康な体だった。
『その者達の身体を掴んでいろ。離せば戻れなくなる』
 言われるままに猪崎と稲垣の腕を取った。
『もう逢う事もない者達よ、自分達の世界に帰るがよい。止めた時間を、おまえ達に返す』
 ゆっくりと、ルア達の体が輝き始めた。そして少しずつ光った場所から光りの玉となって消えて行く。そんな夢みたいな光景の中で、ルアは仁菜に視線を移した。どうしたことか、仁菜はこっちに来ようとはしない。早くしなければ完全にルア達の姿が消えてしまう。
「おい仁菜! なにしてんだよ! 早く来いっ!!」
 しかしそんなルアを見ながら、仁菜は笑って首を振った。
「まだ、わたしはそっちには行けません」
「どうしてっ!?」
 仁菜は何も答えず、ただルアを見ていた。稲垣の体が完全に消え、猪崎の体も消えた。しかしルアの手で掴んでいる感触だけはそこにある。ルアの足もほとんど消えていたが、何故かその場に立っていられた。そして、将太の体も消えた。残ったのはルアだけとなった。
「おい何とか言えよっ!! なんで来れないんだっ!!」
 将太が、猪崎が稲垣が戻って来て、全員が外の世界に出れるのに、どうして仁菜だけが残るのだろうか。これでは意味がないのだ。全員でここから出なければ、この試練を受けた意味がなくなってしまう。何のタメに最後の試練を受けると決めたのかがわからなくなってしまう。仁菜も一緒に、ここから外の世界に行かなければすべてが終ってしまうのだ。
「安心してください」
 叫ぶルアに、仁菜は静かにそう言った。
「わたしも、必ずあとでそっちに行きます。だから、少しだけ待っていてください。お願いします、ルアさん」
 真剣な仁菜の瞳と口調に圧され、それ以上何も言えなかった。体がもう半分以上消えていた。
 最後に、最後にこれだけは言いたかった。
「絶対に、後から来るんだな……?」
「はい」
 真剣な瞳と口調のままで、仁菜は肯いた。
 それだけで十分だったと思う。これで安心できた。仁菜は後から必ずこっちに来る。だったら、その時ルアに出来ることは笑顔で迎えてやることだ。笑顔で、仁菜に言うのだ。だから、今はこれでいいのだ。
 最後に、ルアは仁菜に向かって笑ってみせた。仁菜も、嬉しそうに笑ってくれた。
 そして、ルアはその場から消えた。


 真白の空間に残ったのは仁菜と神魔と神迷と五つの魂だけだ。
 仁菜の笑顔が消えた。隣りにいた神魔に視線を向ける。神魔は何も言わず、その視線に真向から見ている。
「神魔さん、わたし、」
『よくやってくれた、山瀬仁菜。もう十分だ。おまえも、神岸瑠亜と共に自分の世界に帰るがよい』
 仁菜の瞳に微かな涙が浮ぶ。
「……いろいろと、ありがとうございました……」
『礼を言うのはこちらだ。人間の本質を見ることができたのだからな』
 神魔の視線が変わった。先ほどまでルア達がいた場所を真直ぐ見ている。
『神岸瑠亜、か。良い眼と心を持っていた。あんな人間を見れただけで、我等は満足だ。これでこそ神迷を作った甲斐があるというもの』
「人間が殺してしまったモノの気持ちが集まってできたのが、神迷の中にいた魂さん達、ですよね……」
『その通りだ。彼等は皆、人間に殺された魂が集まり、具現化したものだ。天国にも地獄にも行けずにこの世界を漂う存在。我が仕える神が神迷のことに思い立ったのだ。神迷を見れた人間に試練を課し、それを本当の意味で乗り切れるかどうか。もし乗り切れたのならば、魂達も自分を殺した人間がどういう物かを知り、納得して成仏してくれるだろう』
 神魔が後ろの神迷に視線を返す。そこにはすでに、五つの魂はなかった。
『さらばだ、同志達よ。我が仕える神に出会えたら、少しは話をするがよいぞ。きっとわかり合えるはずだ』
 そして今度は、仁菜に視線が向けられる。
『山瀬仁菜。よく試練を乗り越えた。もうおまえを縛る物は何もない。心置きなく羽ばたくがいい』
「でも……」
『どうした』
「でも、皆がいなくなっちゃたら、神魔さんは一人ぼっちになちゃうんじゃないですか……?」
 仁菜は、初めて神魔の笑い声を聞いたような気がする。笑った声を聞いたことはあるが、それはどこか淋しそうな声だったが、今は違う。心から、神魔は笑っていた。
『山瀬仁菜。おまえは優しく有り過ぎる。それではいずれ不幸を呼ぶかも知れぬぞ』
 仁菜も笑った。神魔と同じく。
「だいじょぶですよ、わたしにはルアさんがいてくれますから。……でも、神魔さんには……」
『我も大丈夫だ。我には神がいる。それだけで十分なのだ』
「本当ですか……?」
 それでも仁菜は、神魔が心配だった。もしここで仁菜が外の世界に行ってしまえば、ここには神魔しかいなくなる。一人は孤独なことを、仁菜はよく分っていた。だから余計に、神魔の気持ちを考えてしまうのだ。
 そして仁菜は、それを見た。見間違いだったのかもしれない。
 微かだが、神魔の仮面が笑ったような気がした。
『どこまでも、優しく有るのだな。ならば、もし今度会える機会が在れば、その時は――』




     ◎     ◎     ◎


 夏の風に体を撫でられ、ルアは意識を取り戻した。
 都築中学校のグランドの中央で仰向けに倒れていた。頭上の無限の夏の夜空に少し見惚れつつ、どうしてこんな所にいるのだろうと考えた。そして思い出した時には立ち上がっていた。近くに将太も稲垣も猪崎も仰向けに倒れている。大丈夫だ、全員寝ているだけだ。辺りを見まわした。しかし、どこにもその姿がない。必死で探した。
 校舎の中央にある大きな時計が、十一時五十九分でまだ止まっている。
 再度、夏の風が吹きぬけた。その風で一瞬目を瞑った―――と。
 その風に乗ってきたように、ルアから少し離れた場所に一人の少女が校舎の時計を見上げるように立っていた。それが、一瞬誰だかわからなかったが、わかった時には涙が流れていた。
 何処からとも無く、神魔の声が聞こえたような気がする。
 ――山瀬仁菜。おまえの止まった時間、確かに返した。
 髪が肩より長く、顔付きや体付きもずっと大人っぽくなった少女が、山瀬仁菜が、そこには立っていた。
 時計の針が微かに揺れ動く。そして長針は完全に動いて零時を差し、
 廃校となった都築中学校の誰もいない校舎の中央の大時計から、
 一年越しの二人の思い出が始まると同時に、
 止まっていた全員の時間が動き出した。
 長い長い一日が終え、永遠にも近い一年が過ぎた。
 時間の流れが止まる事は、もうないだろう。


 ゆっくりと、ルアは仁菜近づいた。
 仁菜もルアに気付いて、ゆっくりと歩き始める。
 笑顔で、言う事があるのだ。一年越しの言葉だ。
「俺は、おまえが好きだ。だから、一緒に暮らそう。これから、ずっと」
 少し大人っぽくなった仁菜は、一年前よりずっと綺麗だった。
 そんな綺麗な笑顔で、嬉しそうな声で、仁菜は肯くのだった。


 一年越しの、思い出が始まる。



     ◎     ◎


 その光景を遥か彼方から見ていた。
 良い物だ。山瀬仁菜、おまえは誰よりも優しい。だから、誰よりも幸せに成れ。
 ふと、自分の言葉を思い出した。
 ならば、もし今度会える機会が在れば、その時は――。
 笑いが零れた。
 その時は――もう一度我の名を呼んでくれ、か。
 どこまでも、甘くなったものだな。
 紫の腕が伸び、マントの土台となっていた仮面にその手が触れた。
 ゆっくりと、仮面が外される。
 何も遮る物がなくなった今、もう一度その光景を見た。
 やはり、笑いが零れる物だな。
 神魔は体の向きを変えた。その後ろには神迷があった。
 仮面を再び付け直し、思うのだった。


 さて、次は何処へ行こうか。
 風にでも、訊いてみようか。








2004/09/07(Tue)16:04:36 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
これにて【タイム・パス】は完結となります。今まで読んでくれた皆様、誠にありがとうございました。
まだまだ青かった頃の神夜のこの物語、少しでも楽しんでもらえらのなら光栄です。
また別の物語でお逢いできることを願い、今までありがとうございました。
しばらくはショート及び短編勝負かと(笑
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