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『47と53の憂鬱 (完)』 作者:ドンベ / 未分類 未分類
全角108028.5文字
容量216057 bytes
原稿用紙約340.4枚

 47と53の憂鬱

 1−日常的な非日常

 運命の神様という奴がいる。誰も見たことはないくせに誰もが知っている、そんな不思議な男性三十八歳(個人的イメージ)だ。
 彼はもう中年のくせに悪戯が大好きで、ちょっとした悪さ程度のものから人生終わらせかねない程の悪質な悪戯まで、好き勝手にやりたい放題らしい。特にスポーツ選手や芸能人、一言で言えば著名人と呼ばれる人種の元にはよく顔を出すらしく、そういった人種の書いた自叙伝では随所に彼の存在が見て取れる。
 俺は普通の高校生。だから彼の世話になることは無いと思っていた。

「つまりね、印税でウハウハなんてもう昔の話なのよね」
「ふーん」
 繁華街にあるファーストフードショップは、休日ともなれば見ただけで脱力してしまうほどの人混みで溢れる。主に若い世代がひっきりなしに訪れ、普段ならカウンターからは滅多に出ない店員が客の整理を行うほどだ。人混みの嫌いな俺にとって、絶対に訪れたくない場所のトップランカーが休日のファーストフードショップだったりする。
 俺は今、そのファーストフードショップにいた。
 ただし、今日は平日。古本屋に暇つぶしのネタを買いに行った帰り道、立ち寄ったその店で、運命の神様の悪戯に遭遇していた。
「最近じゃあれなんだって。初版は印税無しで、増版した場合に限って印税契約があるっていう作家さんも多いみたい。特にデビューしたての新人さんとか」
「はぁ。ま、でも原稿料っつーのがあるでしょ?」
「原稿用紙一枚につき三千円っていう話を聞いたことあるけど」
「あー、それは……」
 彼女の言葉に、頭の中で少し考える。
 問1 原稿用紙一枚三千円の原稿料で、一億を稼ぐには?
「えっと……」
 マイコンピュータフル稼働……約十秒沈黙……三万三千三百三十四枚。桁が大きすぎて、それがどれだけ大変なのかわからない。中学時代の読書感想文は、確か五枚くらい書いて提出したから……あぁ、なるほど。
 俺には無理だ。
「あの、高杉くん? どうかした?」
「ん? ……あぁ、ごめん。ちょっと数学的な考察を」
 視線を正面に戻すと、俺の顔をのぞき込む彼女と目があった。普通の会話において十秒の沈黙はかなり長い部類に属する。音楽で言えば、テンポ120の曲なら五小節分、下手すりゃAメロの半分が終わってる。
 その長さを実感した後、こんな時だけは計算の速い自分に呆れた。
 俺の言葉を理解できなかったらしい彼女が尋ねてきた。
「数学的な考察?」
「パソコンってすげーなーみたいな、そんな数学的考察」
「……?」
 答えを聞いても理解できなかったらしい。ちなみに言うと、納得されたらそれはそれで悲しい。
「よくわからないけど……高杉くんって理系なんだ」
 微笑んで彼女は言った。どうやら好意的に勘違いしてくれたらしい。勘違いなのだから好意的も何もないのだが。
「……そっちは文系っぽいね」
 もう冷めてしまったポテトを口に運び、そう呟く。
「うん。まだ一年だから、あんまり関係ないけど」
「確かに」
「見た目通りだった?」
「七割くらいは」
「七割か。う〜ん……残りの三割が気になったり」
「……」
 彼女は高校のクラスメイトだった。名前は窪居澄佳。入学して半年が過ぎた十月現在、言葉を交わした回数は一回。ぶっちゃけ今日初めてしっかりその声を聞いた。
 小腹が空いて立ち寄ったこの店に、彼女はいた。窓際の席に陣取り、熱心に目の前の表通りを眺める姿がなんだか印象的だった。
 最初はお互い、別々の席に座っていた。表通りを見つめるその横顔に、見覚えが無かったわけではない。だが、自分から声をかけるほど近しい知人になった記憶もなかった。
 だから彼女がこっちを振り向き、声をかけてきた瞬間、俺は運命の神様とやらに悪態をついていた。
 彼女の周囲には、どうしてかいつも悪い噂が漂っていた。
「残りの三割が気になったり」
 彼女は俺を真っ直ぐに見て、さっき自分で言った言葉を繰り返した。
「ね、見た目と違った部分って?」
「あぁ……それはあれ? 先入観によるイメージと現実との差異を探る試み、とか?」
「ついでに言うと、わたしに対するわたし自身のイメージと、お友達から見たわたしのイメージとの差異を探る試みだったり」
 初めて言葉を交わしたその日に、友達に昇格したらしい。
 なんだかダッシュな展開だ。
 彼女は真面目くさった表情で俺を見つめ、それから不意に相貌を崩した。
「あれだね、高杉くんって、言葉遣いが面白いね」
「あ、そう?」
「無駄に難しいって言うか……あっ、ごめん。無駄とか――」
「そこが一番大事な要チェックポイント」
「……ふふっ、そうなんだ」
「そ。無駄を省いたら俺の人生に何が残るんだ、みたいな」
「きっとたくさん残るよ。自分では気付いてないものが」
 そう言った彼女の声は、妙に優しく俺の耳に響いた。
 何気なく時計に目をやると、そろそろ六時になろうかという時間だった。彼女と話し始めてからは三十分くらい、そこで不意に会話が途切れた。上手い具合に、さっきの話題は流れたらしい。
「……差異、か」
 口の中で噛み砕くように呟く。
 本当のことを言えば、俺が最初彼女に対して持っていたイメージと、今の俺が持つイメージとの差異は、三割に収まるほど少なくはない。
 学校で見た彼女から連想できる言葉の第一位は、孤独。いつも彼女は一人だった気がする。それは受動的な孤独ではなく、能動的な孤独……つまり周囲から避けられているのではなく、周囲を避けているように俺には思えた。そんな彼女を孤高ではなく孤独と感じていたのは、俺が彼女を取り巻く噂に毒されていたせいだろうと、彼女と話し始めて少したった頃に気付いた。
 今、目の前に座るクラスメイトは、話しやすい普通の高校生だ。よく笑い、笑った顔がまたよく似合う。こんな彼女がどうして学校では一人なのか……さっきまでは理解できた事柄が、今はもう全く理解できない。なかなかに希有な経験だ。
「随分長くここにいるでしょ」
 十秒よりは遥かに長く続いた沈黙を破る。
 表通りを見つめていた彼女が、こっちを振り向く。
「えっ?」
「こんな場所でなにしてたん? あ、ちなみに俺は、古本屋に寄った帰りで、腹減ったから」
「あ、本、好きな人?」
「ライトノベルが主食だけど、基本的にジャンルは問わない」
「夢は小説家だったり」
「あー、さっきの話を聞くに、それは無理っぽいから。主な原因は腱鞘炎で」
「パソコンで書くのは?」
「最近のパソコンって、電源がどこにあるのかわかりにくいよね。てゆーか、普通はわからんよ」
「……」
 原始人を見るような目つきで見つめられた。
「あの……」
「あい?」
「握手してください」
 握手を求められた。
 俺は何者だ。
「……と言うのは冗談で」
「冗談なのか。握手求められるの初めてでちょっと嬉しかったのに。くそう」
「握手してください」
「いやぁ、どうもありがとう。これからも頑張るよ」
 芸能人気取りで、差し出された手を取った。
「……で」
 冗談モード解除。
「そっちは? ここにいた理由」
「あ、うん。ちょっと人間観察と哲学的思考を」
「あー」
 そこはかとなく怪しげな香り漂う理由だ。
 関わり合うのは若干危険?
「うん、必要だよね、人間観察とか哲学的思考って。満ち足りた人生送るにはもう必須事項だよね」
「そ、そうかな? そんなこと言われたの初めてで――ていうか言いながら立ち去らないでっ!」
「……」
 さりげなく場を後にしようとするも失敗する。
 俺の背中のカバンを掴んだ彼女は、俺を強制的に椅子に座らせ、
「じょ、冗談に決まってるでしょ!」
「俺には少し難しいジョークだった気がする」
「わかって欲しかったなぁ……」
「でも、半分くらいは本気でしょ」
「うん。冗談と本気の割合が半々くらいで――ってちょっと待って!」
 立ち上がったところで叫ばれる。
「嘘だからっ。綺麗さっぱり全面的に嘘だから!」
「……信仰している宗教は?」
「無宗教! 誰も知らないような団体にも所属してないしっ、自分しか知らない神様もいないしっ!」
「そう。やっと安心した」
 呟いて席に着く。
 新興宗教に勧誘され、我に返れば檻の中なんてオチを最近よく見かける。それはさすがに勘弁して欲しい。
「もう……そんなに変かなぁ。人間観察とか、哲学的思考とか……」
「まぁ、変というか……何というか」
「それはつまり何とも言えないっていうこと?」
「あぁ……ニアピン賞」
 本当はホールインワンだったのだが、さすがにそれを口に出すのははばかられた。
 彼女は一度、大きくため息をつき、
「人の流れを見るのが好きなの」
 そう言い直した。
「ただ見てるだけなんだけど好きなの」
「あぁ……いや、ごめん。さっきの取り消す。変じゃない」
「いいよ、変でも。多少のリスクを背負うのは、覚悟してるし」
 何に対してリスクを背負うのかが、少し気になった。
 だが、俺が尋ねるより早く、彼女が口を開いた。
「人の流れを見ながら、色々考えるの」
「例えば?」
「高杉くんは、小説に最低限必要なものって、なんだと思う?」
「……」
 どうも話題がころころ変わっている気がする。
 ついていくのがやや困難。
「……文章力」
 少し考えてそう答えた。
 我ながら無難な答えだ。
「その心は?」
「んー……まぁ、俺なんかがこんなことを言ったら怒られるかもしれないけど。ただの文章なら誰でも書けるでしょ? 日本人なら九十五パーセント以上が文字を書けるわけだし。書き手としては素人でも、読み手としてそこそこの経験を積んでいれば、面白いストーリーを書ける可能性も秘めている。そこでただの文章と小説の垣根はって聞かれたら、やっぱり文章力だと思う」
 素人の文章を読む機会はたまにある。高校の文芸部が月に一回発行している会報もその一つだ。いくつかの文章の中から読むべき文章を選別する際、文章力で選ぶのが一番“当たり”をひく確立が高くなる。
「それは正論かも」
 彼女が言った。
「やっぱり大事だよね、文章力。わたしもインターネットとかで小説系のサイト見ること多いんだけど、そういう時は文章力で線引きしてたり」
「んじゃ、同じ意見ってこと?」
「う〜ん……わたしが考えていたのは、ちょっと違う」
 そう言った彼女が、窓の外に目をやった。
 そこを歩く、人、人、人……それは物書きにとって、消費者となる可能性を秘めた群。支離滅裂に思えた彼女の言葉が、何となく関係性を持ち始める。
 そして、
「わたしが必要だと思うのは」
「あ……はい」
「日常的な非日常」
 その言葉で、繋がった気がした。

 それから彼女が言ったことを要約するとこんな所だ。
 ――ファンタジーやミステリーと言ったジャンルをのぞく、一般に現代文学などと呼ばれる小説に必要なのは、起こり得ないことを起こり得ると思わせること。彼女の言葉を借りれば、日常に非日常を紛れ込ませるスキルだとか。
 現実は人が想像する以上に起伏が少ない。運命の神様なんて言葉が存在するのが何よりの証拠。つまり予想外の事態が起こったとき、神様という存在をもってしなければ現象をのみこめないほど、現実において人の価値観は小さく狭いのだ。小説はその絶妙のラインを突く必要がある。ドラマティックに装飾し、劇的に物語を展開させるだけなら誰にでもできる。求められるのは整合性。非日常として用意された世界が許容する範囲の設定と、それを超えずに物語を動かすテクニック。整合性だけなら、どんな小説にも必要だ。ミステリーの世界では境界条件などと呼ばれ、ファンタジー小説では世界観という形で姿を現す。
 現実を舞台に小説を書こうと思ったら、その条件はひどく厳しくなる。奇跡を起こすにも下地が必要と言うこと。整合性を無視した小説は小説にはなり得ないのだ。整合性を無視することはストーリーを無視することに繋がるからだ。何でもありが許されるのは現実だけだよね……と、戯けるように彼女は言った。それはなかなかに面白い言葉だった。現実と小説のアイロニカルな対比。普段、彼女がこんなことを考えているのだとしたら、
「……そりゃ、友達も少なくなるわな」
 深夜の自分の部屋で、煙草に火をつける。中学の頃、先輩に教え込まれ、それが癖になって今に至る。週に一箱ほどのペースは、高校生としては多い方か少ない方か……まぁ、多いに決まってるか。
 煙草を吸いながら考える。
「見た目で形成されたイメージ」
 俺にとってのそれはどうだろう。
 学校での俺、高杉涼介という生徒は、成績は標準をやや下回るやる気のないありふれた高校生だろう。社会に依存する割合が少ない代わりに、平々にして凡々の日常を過ごす。簡単に言えば、友達が少ないから退屈と言うことだ。少ない友達とは深い付き合いを持つのは、俺のような学生の特徴か。広く浅くより、狭く深くを選んだタイプ。俺は少し狭すぎるかもしれないが。
「先入観で形成されたイメージ」
 俺にとっての彼女はどうだろう。
 窪居澄佳というクラスメイトは、少なくとも今日まで、俺にとって未知の存在だった。外から見た彼女は、顔だけなら学年トップテンに入る実力を持ちながら、社会に依存するどころか社会を拒否しているように思える。この場合の社会という言葉が指すのは、学校を中心に形成されたごく小さなコミュニティのことだ。だが、小さいとは言え、一般的な高校生にとって、それが社会のほぼ全てであることも確かだろう。彼女はそれを拒否した。普段、学校で見せていた氷のような無表情は、そのための壁に思えた。そして拒否した世界の外側で、彼女はあんなにも笑顔だった。
「……運命の神様、か」
 三十八歳のおっさんに悪態をついたのは、当然、彼女の悪い噂があったからだ。巻き込まれるのはごめんだと思う程度の悪い噂。
 それはありがちな噂だ。エンコーとかエンコとか……高校生で免許なんてとれたか、なんて噂を聞いた時には思ったのだが、エンコーとはどうやら援助交際の略語らしい。聞いてみれば納得できる話だった。抜群の面貌を持ち、自分達を受け入れなかったものに対する当てつけか。悪い噂を流すなら、その辺が相場だと言うことも理解できる。しかしこれは、噂を好意的に解釈した場合の話。悪い方に考えることだってできる。むしろその方が簡単に思えるほど、噂は具体的だったりする。
「あーもーおっさん、勘弁してくれって。……面倒なことになるなよ、マジで」
 煙草を灰皿に押し付けながら、再び運命の神様に悪態をついた。
 彼女の言った、起こり得ないことと、起こり得ること。
 今日の偶然はどうなのだろう。
 現実が許容する誤差の範囲に収まるのか?
「……ふむ」
 そこでちょっと楽しげな言葉を思いついた。
 運命的な出会い……改めまして、
「小説的な出会い、なんちて」
 自分にしか届かない呟きをもらし、それから少し笑った。


 2−グラフィティダイアローグ

「はぁ? 小説的? なんだそれ?」
「……」
 それは翌日の学校でのことだった。
 俺の通う高校は、ごくごく普通の学校だ。この場合の普通とは学力……つまり偏差値において真ん中辺ということを意味する。特別に頭のいい奴もいないし、敬遠されるほど進学率も低くない、そんな学校。
 俺の目の前に立ち、バカにするように俺を見下ろすのは、このクラスでは唯一と言っていい友人、鎌田裕弥くんである。
「意味わかんねって。なに? 曲がり角で美人の転校生とでもぶつかったか?」
 裕弥は活字離れが進んだ現代社会の被害者である。だからこういったステレオタイプなボケも平気でかます。現代文の教科書でさえ「目眩がする」という理由で嫌がるのだから、小説という言葉に明確なイメージを描けないのも納得できる。
 ちなみに、その出会い方はマンガかゲームの世界での話だ。
「おーいこらー。答えろー」
「……いてぇ」
 沈黙決め込んでいたら殴られた。
「小説的な出会いってなんだよ」
「あ、いや、何となくそんなフレーズはどうかなぁと思ったと言う話で」
「つまり特に深い意味は無いと?」
「簡単に言えばそうなる」
 昨日の夜、煙草一本と引き替えに思いついた哲学的表現を裕弥で試してみた。その結果がこれだ。俺の得た教訓は、実験するなら目的に適した被験者を選ばなければならないと言うこと。伝わらないことは、まぁ、最初から覚悟していた。説明文がなければ伝わらない表現、言語としての機能を備えない単語。俺以外では彼女くらいしか意味を理解できないだろう。文字ではなく表現を暗号化する手法、か……うん、これはちょっと新しいかもしれない。
「まーた君は本の虫か」
 裕弥が呆れたように呟いた。
 朝の教室、まだ人もまばらなその場所で、裕弥は空いた椅子を引きよせ、俺のちょうど正面に腰を下ろす。
「昨日もあれだろ? また古本あさりに行ったんだろ?」
「正解」
「よくそんなに本とか読めんなー。字しか書いてねぇじゃん」
「いや、たしか本ってそういうものだよね」
「社会の教科書とか? あんな感じで絵とか写真とかをさ、もっと載せるようにしないか?」
「いや、俺に言われてもね」
 ため息をつきながら裕弥の言葉に応える。
 そもそも、本という単語から教科書を連想する人間がどれだけいるだろうか。いくら馴染みが薄いとは言え、もっと他に思い浮かべるべきものがあると思うのだが。
 裕弥は退屈そうに大きな欠伸をした。そして、俺の机に突っ伏した。
「……こら、裕弥」
「俺って今すげー眠かったりするんだよねー」
「じゃあ自分の机で寝ろ」
「遠いしー」
「五歩だろ、五歩」
 俺の席は窓側の前から三番目。裕弥の席は二列隣の前から四番目だから、大股で歩けば五歩どころか三歩で辿り着ける距離だ。アリンコでさえ一分あれば十分だろう。
「……すぐそこだろうに」
 徐々に人の増え始めた教室を見回して、一つ、気付いたことがある。
 窪居澄佳の席は、俺の右斜め後ろだった。本当にすぐそこだ。
「小説的な出会いってさー」
「……あん?」
 裕弥の呟きに、視線を戻す。
 裕弥は少しだけ顔を上げ、こっちを見ていた。
「誰と出会った?」
「はっ? ……いや、だからそれはちょっと思いついただけで」
「言えないような奴なわけか?」
「……」
 口ごもるのは裕弥の疑問を肯定しているようで嫌だったが、言葉が出てこなかった。また一つ大きな欠伸をこぼして、裕弥は顔を上げた。
「ふーん。ま、言いたくないことをほじくり返すのは趣味じゃねぇからいいけどさ」
 窪居澄佳の名前を口に出す、それをためらう自分がいる。
 俺と裕弥が共有する価値観の根底には、無関心がある。それは未来に対する無関心だった。俺や裕弥は、たぶん本気になったことがない人種なのだ。毎日を何となくで過ごし、そして同じスタンスで次の毎日を迎える。
 昨日の話で言うなら……それは終わりと始まりのない物語だろうか。人の生における唯一の結果が死で、唯一の始まりが誕生。しかし物語はその途中から始まり、その途中で終わる。つまり、物語にならない物語が、必ずどこかに存在しているということ。俺と裕弥が立っているのは、たぶんそんな場所だ。登板予定のないピッチャー、出荷されない製品。そこにいたはずの誰か。そこにあったはずの何か。
 俺は求めただろうか。事実を事実として語れないのは、そこに意志が介在するからだ。俺は意志を持ったのか? たまたまそこにいただけの俺が、たまたまそこにあっただけの時間に、意味を求めただろうか。
「意味、ね……」
 意味と問われれば、あれほど無意味な会話もないだろう。流れに身を任せるままに思考し、求められたから思考を言葉にした。今までの俺と何が違うだろう。
 物語のキャストとして不適格の俺。主役でも脇役でもない登場人物……そんな立場の自分。
「……なぁ」
 退屈そうに窓の外を眺める裕弥に声をかける。不適格者の俺に唯一できること、それは傍観者として物語を眺めることかもしれない。
「なんだー? 友達甲斐のない涼介くん」
 頬杖をついた裕弥は、投げやりな声で答える。些細なことで簡単に地に伏す信頼……それを守る努力くらいは、させてもらってもいいだろう。
「そう言わんでくれ……でさぁ、一つ質問」
「あーん?」
「窪居澄佳ってどう思う?」
「……」
 裕弥の表情が変わった。変わるのも当然だ。
「窪居って……はっ? お前、窪居といい関係になっちゃったわけ?」
「なってないから。単純にどう思うかって質問」
「どう思うかって……そりゃ」
 裕弥は口をつぐんだ。その視線は俺の右斜め後ろ……主のいない窪居澄佳の机に注がれている。
「……とりあえず、いい話は聞いたことがねぇよ」
 沈黙のあとに返ってきた答えは、予想通りのものだった。
「なんだっけ……援助交際だっけ? あれの常習なんだろ。男をとっかえひっかえ……つーか、客か。あいつが男と歩いてる姿はいろんな奴が見てて、いつも男は違って、か……。俺さ、あんまそーゆー噂とか好きじゃねぇんだけど、否定するのもなんかな。耳に入ってくるのは一々腹立つくらい具体的な話だし」
「やっぱりそうか」
「まぁ、俺の情報源なんてあてにならねぇけど……なんだ? 窪居とどうかしたのか?」
「なにをしたわけでもないんだけど……」
 実際、ただ言葉を交わしたと言うだけの話だ。相手が普通のクラスメイトなら珍しい話でもない。窪居澄佳相手でなければ、こんなに気にすることもなかった。気になった理由は、あまりにもイメージと違ったことと……そして会話の内容。あれは結構楽しかった。
「おーい。俺の質問に答えやがれー」
「あぁ……うん。昨日、本屋の帰りに声かけられて」
「うわ? マジで?」
「そういうこと。一時間くらい話して。楽しかったりしたから」
「なるほどね……そりゃ隠したくもなるか。オッケー。事情は了解しました」
「どうも」
 裕弥の言葉に微笑みながらうなずく。その直後、彼女が教室に現れた。
「噂のあの子の登場ってか?」
 茶化すように裕弥は言った。
 俺は苦笑し、彼女に目を向ける。
「……」
 氷塊。
 氷解。
 そこには二つの選択肢があったと思う。
 彼女と目が合った。それは一瞬だったけど、確実に交錯したはずだ。そして昨日のことを考えるなら、彼女の堅い表情が氷解するという展開だって、用意されていたはずだ。
 その選択肢は選ばれなかった。彼女が選んだのは、氷の塊のような無表情だった。

「まぁ、今さらその程度のことでトキメキ抱えちゃうのもなー」
 学校の帰り道、昨日の出来事の全てを裕弥に話した。会話の内容も全て話すつもりだったのだが、途中で止められた。裕弥曰く「結論だけを手短に話せ」。そして俺が結論を話し出すと「意味わかんねぇからもういい」。
 結局、偶然顔を合わせて小説に関する興味深い話をした、とだけ伝えた。伝えたというか、それしか伝わらなかったというか。
「青春ドラマってのも、似合わねぇしな」
 肩を揺らしながら裕弥が呟く。
 俺はうなずき、
「確かに高校生らしい会話ではなかった気がする」
「あぁ……そっちじゃなくて。俺達のキャラ的にっていうの?」
「あ、はいはい。社交的じゃないってことね」
「んーまー、言葉で言えばそうかもしれんが……」
「友達が少ない」
「んなもん確認しなくても知ってるっつーの」
 肩を小突かれる。
 どうやら裕弥、友達が少ないことはそれなりに気にしてるらしい。
 裕弥は大きくため息をこぼし、
「なんだかなー……涼介が高校生らしくない理由の第一位は、その理屈っぽいところだと思うんだがなー」
「感情先行で生きるのはちょっと苦手」
「だろーな。それは見てりゃわかる」
 俺の言葉にうなずいた裕弥は、どちらかと言うと感情先行で動くタイプの人間だ。しかし裕弥の場合、大きな行動を起こすほどの感情を抱えることは滅多にない。所詮感情だって外部からの刺激が無ければ沸き起こらない。裕弥はその刺激のほとんどを拒絶している。
「やっぱお前、本読みすぎだって」
「いや……でも本読むのやめたら、暇になるし」
「なんかあるだろー。ほら、空想とか妄想とか?」
「それは……」
 人間観察と哲学的思考に肩を並べるくらい怪しい。
 昨日同様、逃げ出そうかどうか迷っていたら、
「小説だって同じようなもんだろーが」
 投げやりな口調で裕弥が言った。その言葉が、なんだか気になった。
「……同じ?」
「そっ。ま、滅多に本なんて読まねぇ俺が言うのも変だけど。結局、フィクションの物語なら、全部作者の頭の中で生まれたものだろ? だったらそれって、空想とか妄想とどう違うんだ?」
「文字になって装丁されている」
「そーだよな。そこは違うよな」
「……でも、そこしか違わない」
 それは彼女の言葉の延長線上に位置することかもしれない。
 起こり得ないことを起こり得ると思わせる、それはつまり日常にドラマ性が秘められていると錯覚させること。錯覚、その言葉が意味するのは、現実は小説とは異なると言うこと。逆に言えば、文字として見せられた錯覚は、空想でしかないということ。
 小説とは、作者の空想を文字というメディアを通して多数の人間が共有するためのツール? 個人の感性はハードウェア、作り出された空想がソフトウェア。だとしたら小説に必要なのは、第一に多数のハードに対応可能なソフトであること。言い換えれば、誰もが共有しやすい空想を構築すること……これは彼女の意見と似ている。
 共有した仮想世界で何を感じるか、それは読者に委ねられる。自身が作り出した空想に対するリアクションならば、作者は感想に対して責任の全てを負う必要がある。そこに小説の可能性が秘められている。空想でしかないかもしれない小説を読んで得た感情は、現実世界にまで影響を及ぼすから。
「なるほど」
 小さく呟く。
 俺の少し前を歩いていた裕弥は、足を止めて振り返る。
「ん? あ、もしかして腹立ったか?」
「まさか」
「じゃあどうした?」
「裕弥は小説家には向かないな、と思って」
 俺が言うと、裕弥は大きく笑い声をあげた。
「ははっ、なーんだよ今さら。んなこと知ってるって」
「なんて言うかさ……小説を空想や妄想って割り切れるような人間は、ものは書けないかなって」
「てことは、涼介はそこまでは割り切れないと?」
「俺は必要としてるから。……裕弥的に言うところの、他人の妄想」
「ん? もしかして小説家狙ってる?」
「あぁ……同じこと、窪居澄佳にも言われた」
 昨日の言葉を思い出す。夢は小説家だったり……語尾を『たり』で結ぶのは、彼女の口癖だろう。悪くない癖だと思う。
「んで? お前は狙ってんの?」
「今のところ、その予定はない」
「そっか。でもさっきの話だと、窪居は狙ってそうだよな」
「あ……そうなの?」
「なんだ? 涼介、思わなかったか?」
「……なに?」
「普通さ、目の前歩く人波眺めて小説の事なんて考えるか? 俺なんかうざいとしか思わねぇし……俺じゃなくたって、もっと他に考えるべき事ってあるだろ」
「……」
 なるほど……と、今度は心の中で呟いた。
 彼女が小説家を狙っているかはともかくとして、思考のベクトルがそういう方向に向いていたことだけは確かだろう。美容師ならば髪型に目がいくだろうし、服飾デザイナーならば服装、経済学者ならば平日の夕方における歩行者の年代なんてことを気にするかもしれない。
 目の前で会話していた俺が気付かなくて、後から話を聞かされただけの裕弥が気付いた。その差はなんだろう……やっぱり俺は、例の噂話に囚われたままなのだろうか。
「涼介さ、知ってるか?」
 思考が深みに落ちかけようとしたとき、裕弥に声をかけられた。
 どこかぼーっとした頭で、裕弥に目を向ける。
「……なにが?」
「お前って、考え始めたら手がここに行くんだよ」
 言いながら、裕弥は俺の顔に向かって指を突きだしてきた。その指は、真っ直ぐに俺の鼻の頭を……いや、裕弥の指と鼻の頭の間に、何かが挟まっている。
 それは、
「知ってたか?」
「……全然」
 挟まっていたのは俺の指、右手の中指だった。
 楽しそうに裕弥は笑った。
「いやー、前から俺は気付いてたんだけどさ。てっきりお前、わかっててやってるもんだと思ってたから」
「俺……そんなに頻繁にこんなことしてた?」
「結構な。テストの時とかすごかったぜ? 鉛筆持ってるか鼻に手をやってるかって感じで」
「うわ……全然気付いてなかった」
 自分の右手を見る。別に特別なことなど無い、普通の手だ。中指の指先も普通、もちろん指紋だってちゃんと残ってる。ペンだこくらいはあるが……鼻だこなんてできたら本気で困る。他人にどう説明すればいいんだ。
「そーゆーのって直らねぇよ、なかなか」
 歩き出しながら裕弥が言った。
「ほら、さっさと帰ろうぜ」
「……あぁ、わるい」
 答えて、裕弥の隣に並ぶ。
 そして、
「なんかいい方法ないかな」
「手癖を直す方法? 鼻の頭にからしを塗るとか?」
「いや……それはただの危ない人だ。直る前に人間関係が破綻する」
「鼻の頭に画鋲を逆さに張り付けておくとか」
「それはもっと危ない人だ」
「鼻を削る」
「できるか阿呆」
「中指を詰める」
「順番間違ってるだろ」
「じゃあ……」
 その日は裕弥と別れるまで、そんなくだらない話に花を咲かせた。
 それでも収まらない思考が、頭の奥で渦巻いていた。


 3−トライトーン

 ――何事もなく一週間が過ぎた。

「涼介ちん、最近どーよ?」
「どーもこーも」
 世界は何一つ変わらなかった。窪居澄佳との会話、それは俺の日常においてかなり非日常に近い偶然であるはずだったのに、世界は変わらなかった。
 それは“物語が始まらなかった感覚”に似ていた。表紙をめくったら白紙だった。文字どころかちょっとした汚れもない白紙が延々と背表紙まで続いていた。いや、背表紙まで続く白紙を、俺が確信してしまったと言った方が正しいか。
 少し考え方を変えれば、それは非常にわかりやすく理解できる。つまり“白紙という物語”だったのだ。俺の日常を表すのに、これ以上に適切な言葉があるだろうか。変わらないこと、変わり得ないこと。転換させようにも、その対象が無いということ。
 白紙のページを繰る、そんな日常の中で、思考ばかりが加速していった。
「退屈そうじゃん?」
「まぁ。でも今に始まったことじゃないし」
「本はどーしたん?」
「元手が」
「おー。運転資金が底をついたって?」
「俺の株買わない? 一株五百円で」
「配当は?」
「赤字決算なもんで」
「買うかーばかー」
 裕弥との会話は、いつもこんな調子だ。まるで時間を進めるためだけに会話しているような錯覚に囚われる。無為な時間、物語にとって必要性のないシーン。没稿とでも言えばいいか。だが俺の場合、物語自体が存在してないのだから、必要性の有無を問われる以前の問題だ。
「若者らしくねーなー」
 若者で溢れる昼休みの校庭を眺めながら、裕弥が言う。
「すごく元気いっぱいに見えるんだけど」
 俺も裕弥同様、校庭に目を向けて答えた。
「いやいや、あのスポーツマン達のことじゃなくて。俺らね、俺ら」
「制服で無駄に汗かくのはちょっと」
「わかるけどね。んでもって、それをわかっちまうところが悪いってのもわかるんだけどね」
 裕弥が苦笑しながら言う。
「あー……なんかこう、若者らしいことってないか? お気楽でお手軽でお若い、みたいな」
「若者ならば夢を語るが良し。未来は君達のためにある」
「はーいはい。俺の嫌いな言葉ランキング第一位が“夢”だから。んでもって“未来”は第三位」
「二位は?」
「可能性」
 今度は俺が苦笑した。
 若者という言葉から連想される単語はことごとく上位にランクされてそうだ。
「この場合は、理由とか聞いた方がいいのかな」
 校庭に目を向けたまま尋ねる。
 裕弥はうなずき、
「目開けてたって閉じてたって、夢は夢だろ?」
 こともなげに言った。
「なーんかさ、俺は嫌いなんだよ。なんつーか……あれだよ、あれ。夢追い人は素晴らしい、みたいな若者の風潮」
「俺の夢って王様になることだったりするんだよね」
「あー、それは夢っぽいから許可」
 許可された。
 裕弥は「お前王様になったら俺大臣ね」とこぼし、それから現代文の教科書を机の中(その机は他人の机だったりする)から取り出した。
 珍しいこともあるもんだな、と思っていた俺の前で、裕弥は教科書の目次のページを開く。そして、その中の比較的古い文学作品がいくつか並ぶ部分を指さし、
「例えばここに名前載ってる人達の時代」
 いつもより少し真面目な口調で言った。
「この人らの時代はさ、信じてれば叶った時代じゃん? なんて言うか……」
「信じ続けることが困難だった時代」
「おー、そうそう。そんな感じ」
「解説するなら……そうだな。価値観が多様ではなかった時代、かな。大まかに分ければ、普通と異端の二つしか無かった。書けば書けるということに気付いている人が少なかった。入口が狭くて理解者の少ない時代だ」
「うんうん、それですよ。さっすが涼介ちんですよ」
「一株五百円なんだけど」
「いらねーよ赤字男」
 ひどい言われようだった。
 しかし、その言葉でちょっと思いだした。
 一時期、自分を査定するホームページが流行っているなんて話を聞いたことがある。あれなんか、価値観の多様化を示すいい例だろう。個人に値段を付けるという発想が認められる時代……それ以前に、そういった発想が生まれる時代か。
 金額なんて基準を持ち出さなければ自分を計ることさえできない、それだけ価値観は多様化してしまった。
「まー、だからさ、俺が夢嫌いなのはそこなんだよ。一途なら叶うなんて、このご時世で誰が保証してくれんだ?」
「神様とか」
「俺、その人知らねーし」
「まぁ……うん、おふざけは無しにして言うと、一途で夢を叶えた人っていうのは、たぶん才能があった人なんだろうな」
「スポーツとか見てるとなー。今なんて、型通りの根性論は体壊すだけって時代だろ?」
「アプローチの仕方……方法論か。高校生風に言うなら傾向と対策とか?」
「わりぃ。途中で意味わからんくなった」
「……それは失礼」
 いつもと違う真面目な口調で放たれた裕弥らしい言葉に、やっぱり笑うことしかできなかった。
「なんかね……昔読んだ本に書いてあったんだけど」
 不意にある言葉を思いだして、口を開く。
「推理小説だったと思うけど」
「あん? なんだ?」
「ある登場人物がね、こんなこと言ってた。……わたしは実現する可能性が僅かでも存在することを、夢とは呼ばない……って」
「おー。かっこいー」
「だいぶ極端な意見だとは思ったけど……でもたぶん、夢語る前に目標かかげろってことなんだろうね、それは」
 夢なんて単語を使うから、根性論さえ許されると勘違いしてしまうのだろう。真っ直ぐに進んだ先にゴールがあるとは限らないのだ。不足したスキルの補完、対象の分析……まぁ、その辺のことを語りだしたらきりがないけれど、努力する以前にすべきことがいくらでもあるのだ。
 穴の空いた容器にいくら水を入れたって、溜まるはずなど無い。
「俺の趣味はバスケだったりすんのよ」
 裕弥が言った。
「でもって、目標はNBA入りだったりもするんだよねー」
「煙草は吸う人?」
「吸わねーよ。スタミナ落ちるし」
「偉いじゃん」
「偉くねーよ。なんて言うか、俺的に“しない”ことは誰にでもできることなんだよ。俺は何かを“する”ってことができない……ま、結局してないだけなんだが」
「バスケ部は?」
「団体行動ってなーなんかなー」
 言ってることが滅茶苦茶だ。バスケって、確かチームスポーツだったはずだ。
 裕弥らしいと言えばそれまでだけど。
「努力ってのができねーのかなー、俺」
 なんだか呆れるような声で裕弥が呟いた。
「最近さ、思うんだよ。ほら、高校入ったら、嫌でも将来とかってものと向き合わされるだろ? それ考えた時にさ……必要だからするって公式はわかりやすいんだけど、誰にとって必要なのかってことを考え始めたらアホっぽくなってよ。今までだって大した努力はしてねーし。でも俺はここにいるし」
「流れに身を任せれば、どこかには辿り着くからね。流れからこぼれないようにだけ、気をつけてれば」
「そーそー……あ、一つ言っとくけど、バスケはそこそこのもんだぜ、俺。バスケに関する全てのことは、俺にとって努力じゃねーんだ。楽しみなわけ、楽しみ」
「だから目標に辿り着けなくてもいい、か……」
 裕弥の抱えているものが、その時、少しだけ見えた気がした。
 心の永久機関……完結しすぎてしまったサイクル、そんなもの。
「勝負すりゃ、そう簡単には負けねーんだけどね、俺」
 裕弥は言った。でもたぶん、そんなことを言いながら、裕弥は知っているのだろう。
 舞台に立たなければ、勝負さえさせてもらえないことを。
 それを裕弥が知らなければどれだけ救われただろう。行き先を指し示すだけで、全てが回転し始めたのに。
「うわっ、目眩してきた」
 何気ない手つきで現代文の教科書をめくりながら、裕弥は戯けるように言った。
 そんな声をかき消すように、予鈴が鳴った。

 その日の夕方、新たな運転資金を手に入れた。簡単に言うなら、お小遣いをいただきましたありがとうお父さんお母さん、みたいな。
「……ふ〜む」
 通い慣れた古本屋で、かれこれ一時間以上立ち読みをしていた。いつもの如く暇つぶしのネタを探しに来ていたのだが……昼の会話のせいだろう。
 目の前の活字が全く頭に入ってこなかった。
「夢、か……」
 窪居澄佳のそれはなんだろう。彼女は夢を夢として語るだろうか、それとも夢を目標として語るだろうか。
 学校での彼女の態度には、なにか理由があるように思えた。もちろん、噂も同じだ。しかし噂に関して言えば、金が理由だと言われれば理解はできる。俺は理解できればそれでいい。
 周囲を避け続けることによって得られるマージンとはなんだろう。リスクならいくらでもある。理解不能であることは、人間にとって不安要素でしかない。そして不安要素は排除されると相場は決まっている。昔は精神病がそうだったらしい。ロボトミー手術というものがあった。脳の一部を傷つけることによって人間性を失わせる手術だ。サイコパスにはロボトミー手術を……マイナスをせめてゼロにという考え方だ。さすがに現代にそんな手術は残っていないが、考え方だけならまだまだ健在だ。出る杭は打たれる。彼女は拒否することで突出してしまった。おおっぴらに打たれていないのがせめてもの救いか。
「……救いってな」
 そこまで考えて、少し笑った。
 いつの間にか、自分の思考が随分と彼女寄りに回転するようになってしまっていた。自分だけが彼女の素顔を知っているとでも? 行間を読みきったとか? 
 自惚れだ。二つの表情のどちらが彼女の素顔であるかなんて、誰にわかるはずもない。ギャップの理由を知りたい……それじゃ、ただのスケベ根性じゃないか。
「……でも、それが一番近い」
 説明できる理由が欲しい。整合性、整合性を求めること……物語に対して、整合性を求めること。
 読者の思考。
「もう何でもいいや」
 大凡一時間半の時間をかけて選別した暇つぶし候補の中から、手近にあった一冊を手に取る。代金は二百円。二百円で数時間を買う行為。
 俺にとって重要なのは、二百円に値する本かどうかということよりも、数時間に値する本かどうかということ。真剣に読むという行為は、それだけ精神力を使う。読み終えた時、報われないと感じたら、文句の一つでも言いたくなるだろう。有料だろうが無料だろうが、それはほとんど関係ない。相手が商品として成立した本なら、査定の基準を高くするまでだ。だがその差にしたって、時間を重視する俺にとっては、あって無いに等しい。対象に応じた期待値……もちろんそれは、個人によって変わるだろうが。
 加速したくだらない思考を抱えたまま、古本屋を出る。表通りを突っ切り、真っ直ぐにファーストフードショップに向かう。先週のことが頭をよぎり、一瞬、そこへ行くのをためらったが、所詮それも一瞬の出来事。腹が減ったら満たす、人間は生物なのだ。精神的な欲求を創作物で満たす行為と何一つ変わらない。だから、すでに古本屋で一時間半の時間を潰した俺が空腹に抗ったって、何の意味もない。
 いつも笑顔を絶やさない店員に、一番安いセットメニューを注文する。代金と商品を交換し、店内を見回す。店の最奥、窓際の席がぽっかりと空いていた。
「……やけだ、やけ」
 嫌でも彼女のことを思いだした。たぶんそれだけあの日の会話は俺にとって鮮烈だったのだろう、そう自分に言い聞かせた。
 騒がしい店内を突っ切って、窓際の席に座る。手に持ったトレイをテーブルに置き、何気なく窓の外に目をやった、その瞬間だった。
「――」
 言葉にならなかった。聞いたことはあっても、見たことなんてあるはずがなかった。百聞は一見に如かず……なるほどね、少し使い方が違う気もするけど。
 知っていたはずの情報で自分がここまでショックを受けるとは、さすがに思っていなかった。
「……勘弁してくれって、おっさん」
 ガラス一枚隔てたその場所で、彼女が驚きに目を見開いていた。


『――ん? 窪居の噂? あぁ、知ってる。俺も見たことあるし。あいつ、腕とか組んでた。相手の男? 中年のおっさん……どうせ客だろ。最近の流行だし。あ、最近でもないか。ちょっと昔の、あれだよあれ……』


 そんな風に語る気になれないのはどうしてだろう。
 構築された世界観が、音を立てて崩れていった。


 4−商品価値

 少し視野を広げて、裕弥の言う“空想”について考えてみよう。
 空想の条件は、それが実話を元にしていないこと。一言で言うならフィクションであることだ。
 フィクションの物語は至る所に見ることができる。第一に幅広い意味での小説。細分化された小説のジャンルの中で、一番単純な分類がフィクションとノンフィクションの区分けだろう。本という形態をとるメディアで探すなら他にはマンガか。
 映像系のメディアならドラマや映画だろう。小説を元にドラマを作り、その影響で小説が売れるなんて話はよく聞く。もちろんここでもフィクションとノンフィクションの区分けは必要か。他にはアニメーションやゲームなんかも含まれる。報道番組なんかは歪曲された実話だから、分類上はノンフィクションか。とはいえ、隠された意図に着目し、時間的に長いスパンで観察すれば、ある程度楽しめるフィクションの物語に成り得るかもしれない。相当ひねくれた楽しみ方だが。
 次は音声として表現された物語。ラジオドラマなんかがここに属する。インストルメンタルをのぞく音楽もそうだろう。もちろん、インストを物語ととらえられる感性を持つ人もいるだろうが。わかりやすく考えるなら、物語を感性に依存しすぎるような分野はのぞいたほうがいいだろう。
 他……その他なんて言ったら怒られるかもしれないが、場を共有することによって初めて楽しめる物語というのもある。演劇やオペラ、ミュージカルとかその辺全てだ。この手法をとるのが、作者の意図が一番明確に伝わるだろうか。セリフや演技、モノローグ、効果音を含めた音楽、そして何より臨場感。全てが揃って作品となる。テレビ中継された演劇なんて相当分類が難しいが、俺にとってはどうでもいい。そういうのはカテゴライズの専門家がやればいいことだ。
 一通り思いつく限りの“空想”を挙げてみた。視野を広げるだけで、これだけたくさんのメディアが“空想”に基づく物語の範疇に収まった。むしろフィクションの世界を掘り下げたと言った方が正しいか。
 全てがフィクションのストーリーを元に作り出された作品だ。その事実が意味するのは、メディアによる好き嫌いは許されても、優劣の判断はつけられないと言うこと。どんなジャンルで表現さえれていようと物語りは物語でしかない。例え夢を語り、可能性を誇示し、未来にすがろうと、鎌田裕也という人間は鎌田裕也でしかないように。メディアの選択は方法論と変わらない。目的に即した手段……言い換えれば、物語に適した演出、ただそれだけのこと。
 じゃあ、ここで一つの疑問を。

 ――これらは全て芸術か?

 たぶん答えは否だ。
 演劇などをのぞく全てのメディアが、大量生産された“物”によってストーリーを伝えている。映像系のメディアについて言えば、多数の人間が同じ映像を共有するという手法は、大量生産された“物”を多数の人間に頒布する手法と、現実的な意味においてそれほど差はない。つまり、多数の人間が全く同じ内容のもの(またはそれに準ずるもの)を、望めば購入できるということ……もっと正確に言うなら、多数の人間が、同じだけの金銭的負担で同じだけのストーリーを得られるということだ。これらを芸術と定義できるだろうか。感性という部分を抜きにして考えれば、これらは商品ではないだろうか。作品ではなく商品、芸術ではなく商売。そしてこの考え方は、演劇などについても同様に適用される。場を共有するということを最低条件にかかげるなら、消費者の人数を制限していることになるが、それもステージの数を増やすことで現実的に制限は解消される。公演期間をのばすことと、本を増刷すること、何が違うだろうか。
 先の疑問に対する俺の答えは、本当は単純なものなんだ。

 ――それらの全てが商品だ。

「……あぁ、俺ってたぶん阿呆だ」
 二時間ほど前に古本屋で買った本を見る。
 あの時は考え事をしていた。そのせいで本の内容を真剣に吟味したわけではない。単純に出だしが面白そうだったから、買ってみてもいいと思った。そして腹が減ったから、手近にあったこの本を選んだ。
 俺は阿呆だ。二百円とは言え、金を出すのだ、もう少し真剣に考えてもいいだろう。
「前に読んだことある本じゃん……」
 暇つぶしに読み始めて初めて気付いた。夏休みに一度買った本だ。
 この本なら、マイ本棚の右下辺りに並んでいるはずだ。本当に右下かどうかに関しては自信がない。自信がないなら確かめればいいのだが……確かめることができない。
「本物の阿呆だ、俺は」
 俺はまだ、あのファーストフードショップにいた。
「八時半、か……」
 窪居澄佳と視線があったのは、六時半から七時の間。正直、あまりよく覚えていない。
 彼女は驚いた表情のまま立ち止まっていた。その表情は、隣に立つ腕を組んだ男に促されて歩き出すまで消えなかった。もしかしたら、今までたくさんの人間に目撃されたことを、彼女は知らないのかもしれない。初めて見られたことに気付いた、だからあれだけ驚いた。それはそれでわかりやすい理由だ……でも、彼女の言う整合性の観点から見ると少し弱い。
 俺は手に持った二冊目の小説を見る。
 これは結構面白い小説だった。空想の完成度が高かった。たぶん古本ではなく新品で買っていても、俺は買ってよかったと思っただろう。
 空想を元にして作り出されたストーリーは腐るほどある。それこそ星の数より多く存在するだろう。それらを二つに分ける基準がある。
 商品であるか、商品でないか……この二つだ。
 窪居澄佳が俺の目の前から去って二時間、俺はその商品にならない空想から必死に逃げていた。
 それは思考にベクトルを持たせ、エネルギーを与えるような行為だった。考えたくないことを考えないという目的においては、その行為は確かに有効だった。おかげで俺は、嫌いな言葉ランキング第三位の未来から、二時間逃げ続けることができた。窪井澄香との二度目の遭遇、驚きの表情、それらが示唆する未来……そんなもの考えたくはない、考える必要などない。流れに身を任せるのが俺の信条であり、何を考えたところでその流れは変わらないはずだから。だが、考えたくないくせに、思考は動き始める。だから本当にどうでもいいことを考えた。裕也の言う空想についての無駄な考察。しかし、特別に考えたいわけでもないことを考える行為が、楽しいはずもない。空想の考察に飽き、商品になった空想に逃げようとしたら、その逃げ場も閉ざされていた。短期間で読み返すほど、この商品が面白かった記憶はない。何より、俺は空想の全貌を知っている。今の精神状態なら、思考はすぐに嫌な方向へ誘われるだろう。
「……人間観察と哲学的思考を」
 ガラス張りの景色に目をやる。
 平日の午後八時半を過ぎた表通り。忙しさの中で見向きもされない空間だけがそこにある。流れる人波はほとんど人ではなく波に近い。波があるという以外、俺にとってどんな意味も持たない。
 そんな風に俺は毎日を過ごしてきた気がする。
 どうしてあの時、彼女を波ではなく人と捉えてしまったのだろう。集団を形成する個の一つとして見ればいいだけの話なのに。
 彼女の中にグレーゾーンを見てしまったからか。
 俺という人間の物語に彼女が関係性をもったからか。
 それともその逆か。
 俺がこの席から動けずにいるのは――、
「や、やっぱり話しかけにくかったり……」
「……」
 たぶんその声をもう一度聞きたかったからだと、声を聞いてからわかった。
 視線を店内に戻した俺の目の前に、彼女が立っていた。
「あ、あの……質問」
「なに?」
「……座ってもいいかな」
「いいと思う」
「じゃ、じゃあ……」
 小さく呟いて、彼女は抱えるように持っていたホットコーヒーを狭いテーブルに置く。それから優しく椅子を引き、そこに腰を下ろす。俺のちょうど正面に位置するポジション。距離は一メートルに満たない程度。その空間が会話で満たされることは……ない。
「……」
「……」
 気まずい沈黙というものを初めて体験した。
 俺の耳に届くのは、誰かがページを繰る音。物語に巻き込まれた感覚だ。誰かの作った空想に、登場人物として放り込まれた、そんな錯覚……錯覚させられている、自分。
 今までの俺は常に読者だった。例え自分の物語に対してでも、俺は読者のような視点で見ていた。裕弥の言った努力ができないと言う言葉、あれが原因の一つだろう。能動的な意志を持たない人間は、現実の濁流に呑まれ流されるだけなのだ。それだけ現実の流れは早く、激しいのかもしれない。抗おうとも、より早く流れようとも思わなかった。流れ自体には、興味がなかったのだ。だから視点は、自ずと流される自分に向いた。何も無い空間から自分を見下ろすように、俺は俺を見てきた。
 そんな俺の世界が、壊れようとしている……そんな気がする。
「……商品、だと思ったんだよね、俺」
 沈黙に耐えられなくなった。
 存在しないと言うことは、それだけで深い意味を持つ。満たされることの無かった空間を満たそうと、言葉ではなく感情が動き始めてしまう。
「えっ? ……商品?」
 僅かなタイムラグをおいて、彼女が顔を上げた。
「……それ、なんの話?」
「先週の話の続き。いや、続きっていうよりは、主張の転換、かな」
「ごめん……よくわからない」
「小説に必要なのは商品であることじゃないかって、思ったわけ」
 その言葉で、やっと疑問は晴れたらしい。
 彼女は力無く、それでも硬い表情を少しだけ和らげて微笑んだ。
「考えてたんだ……もしかして、わたしのせいで考えさせちゃったり」
「んー、否定はできないけど、俺にとっても興味深い話だったし」
「じゃあ……先週にならって」
「ん?」
「その心は?」
「あぁ……」
 先週のやり取りを鮮明に思いだし、少しだけ苦笑した。
 それから視線を彼女に向け、
「小説に対して、読者が負うリスクは大まかに分けると二つある」
「それは?」
「一つは金銭的負担、もう一つは時間的負担」
 言いながら思考を加速させていく。
「これは一般的に小説と呼ばれる商品に対して負うリスク。実際には、商品ではない小説もたくさん存在する」
「矛盾してる?」
「今のところは。でも……ここで少し過程をとばして、結果を考えてみる」
 そこで言葉を切り、すでに氷も溶けてぬるくなってしまった二時間前に購入したアイスティを飲む。
 予想通り不味かった。
 ため息をこぼしてから、再び口を開く。
「結果っていうのは、小説が読者に対して果たすべき責任についてって意味なんだけど」
「あ、うん」
「俺が思うに、それはリスクに対してリターンで応えるってことだと思うわけだ。つまり負担を負った分だけ何か得をする……いや、違うな。得をさせなければならない」
「厳しい意見だなぁ」
「俺もそう思う。でも、ま、理想論ってことで。……んで、そのリスクについてなんだけど――」
「金銭的負担と時間的負担を分けて考える理由はない」
「……その通り」
 結論を横取りされた。なかなかに気持ちがいい。滅多に味わえない快感だろう。
「なるほど。言われてみれば納得かも」
「まぁ、これはあれだ……精神的な部分にウェイトを置いた考え方だけど」
「でも、この考え方じゃなきゃ納得できないことってあるよ」
「例えば?」
「ウェブ上の小説とか。本当に面白い小説に出会ったとき、それを所詮商品にならない駄文だろうって言われたら悲しいもん。高杉くんの考え方なら、時間的負担に対してだけでも責任を果たせば、その小説は値段の付かない商品っていうことになるんだよね。本当の商品と肩を並べる、立派な商品に」
「そういうことだね」
 うなずいて、二時間前に購入したポテトに手を伸ばす。
 やっぱり不味かった。
「商品であること、か……それは自分の創り出したものに対して責任を持たなければならないっていうことだよね」
 独り言のように彼女は言った。
「厳しいね。……でも、そうか。趣味なら趣味って断らなきゃダメなんだよね。誰が何を求めて見に来てくれるかなんて、わからないんだから」
「あの……それ、インターネットの話?」
「あっ、ご、ごめんっ。ちょっと考え事してたり……」
「いや、いいんだけど」
 答えて、二時間前に購入したハンバーガー……うわっ、なんか食べたくない。
「……厳しいなぁ」
 彼女がまた、呟いた。
 てっきりそれも独り言だろうと思っていたら、何やら面皮が疼く。これはおそらく、視線が痛い、などという表現で表される痛みだ。
 ハンバーガーとにらめっこしていた視線を上げる。
「厳しいよ、高杉くん。特にアマチュアに対して」
「あ……あぁ、はい。ごめんなさい」
「謝られても困るけど」
「ま、でも俺って純粋な消費者だし。逆にアマチュアに対するメリットでもあるわけだし」
「趣味で創作活動している人は、高杉くんにとってアマチュアなの?」
「心構え次第かな。言い訳として趣味って言葉使うような奴の創作物には、あまり興味をひかれない」
 対象とする消費者をどう限定するかという問題だ。
 不特定多数の人間の目にとまる場所で作品を公開する、そういった場合ならわかりやすい。そのような場所では言い訳など通用しない。つまり限定しないと言う状況。作品が純粋な商品であり、読み手が純粋な消費者であるという状況だ。彼女がよく口に出すウェブ上という場は、基本的にそうなのだろう。新聞で見ただけだが、匿名の掲示板での書込にさえ、最近じゃ責任を負わされるのだから。私的なスペースではないこと、これが一つの条件か。
 対象を限定するなら、コミュニティを作るしかないのだろう。しかも会員制で、ある程度条件が明文化された会則を持つコミュニティだ。あらかじめ入り口を狭くする方法か、これは。
 禁じ手として、消費者の感想を限定するという方法もある。趣味だから厳しいリアクションは欲しくない、感覚を共有できる者だけしか客と認めない……まぁ、禁じ手というほど悪い方法でもないか。要はどこを目指すかという問題だし。
 趣味=自己満足という図式……言葉の捉え方の問題。趣味が完全な自己満足で、創作活動をしたことのない俺だから言えることかもしれないが。
「わたしね、劇団に所属してるの」
 考えをめぐらせていたら、そんな言葉が聞こえた。
 最初、その言葉の意味がわからなかった。
「……えっ?」
 慌てて聞き返す。
 彼女はどうしてか微笑んでいた。秘密の共有……そんな単語が頭をよぎる。
 また、妙な感覚に囚われる。
 自分の知らない場所で、物語が動き始めようとしている。
「劇団。わかるでしょ?」
「あ、わかる」
「小さい劇団なんだけど……わたし、何年も前から所属してて」
「……知らなかった」
「誰にも言ってないから。やっぱりちょっと恥ずかしかったりするし」
 グレーゾーンが少し見えた気がした。
 だが、まだ足りない。
「高杉くんの話聞いて、わたしもしっかりしなきゃって思って」
「あ、いや、そんな真面目に受け取らなくても……」
「いいの。人から見たら偉そうな目標かかげてるんだから、それくらいしないと」
「……」
 目標、か。
 正直に言えば、彼女の口から夢という言葉は聞きたくはなかった。それは俺の思い入れのせいではない。彼女の行動を計るとき、夢という言葉は基準として弱すぎるように思えたからだ。それが目標なら、少なくとも骨格だけはしっかりした。後は色々なことが見えてさえくれば、全てのことが一直線に繋がるだろう。
 でも……と、思考が別の方向へ向かう。
 一つの疑問が消え、新たな疑問が生まれる。どうして彼女は、それを俺に打ち明けたのだろうか。今まで誰にも言ってないなら、俺が選ばれた理由というものがあるはずだ。言葉を交わしたからか。“お友達”だから? それとも、何かもっとわかりやすい理由が――、
「高杉くん、ストップ」
「……はい?」
 いきなりの停止命令。
 つられるように思考が止まる……が、まさかそんなものを止めたかったわけではないだろう。
「ちょっと動かないでね」
「あ、はぁ」
「じゃあ……」
 彼女は楽しそうに笑いながら、俺の顔に向かって指を伸ばしてくる。……いや、違う。彼女の指が向かっているのは、
「知ってた?」
「……先週、知った」
 彼女の指が向かっているのは、俺の鼻の頭。正確に言うなら、鼻の頭にあてられた、俺の中指だ。
「先週?」
 手を元に戻した彼女が、不思議そうに言う。
 俺はうなずき、
「どうやら悪癖らしくて。ちょうど一週間前かな、裕弥に言われるまで自分では気付いてなかった」
「ゆうや……くん?」
「あぁ、鎌田ね。鎌田裕弥」
「あ、あぁっ。ごめん! 名前知らなくて……」
「いいって。俺だってクラスメイトのフルネームなんて、知らない奴の方が多いし。名字さえ知らない奴もいるし」
 入学して半年の過ぎた今でこの状況。たぶん俺は、知らない奴は知らないまま次の学年を迎えるだろう。
「そもそもあれだよ。四十人分も名前覚えろってのは横暴だよ」
「しかも毎年覚えなきゃいけなかったり」
「そうそう。頭のキャパにも限界があるんだから」
「だよねっ」
 担任の教師が聞いたら怒りだしそうな話題で、声を出して笑う。
 いつの間にか満たされた空間。そして気付けば感情まで満たされているように感じるのは、俺の勘違いだろうか。
「わたし、教室では高杉くんのすぐ後ろでしょ? だから、たまに見てて」
「恥ずい」
「そ、そんなことないよっ。悪くない癖だと思うよ」
「そうかなぁ……」
 呟きながら、意図的に中指を鼻の頭に持っていく。ほとんど力を入れずに、鼻の頭を撫でる。意図的にやればやるほど意味がわからなくなる。
 少し中指に力を込め、鼻の頭を押し上げたら豚の真似する高校生じゃないか。そんな高校生はどうだ?
「……」
 そんな高校生はどうなんだろう。
「ぶー」
「んぷっ!」
 豚の真似をしてみた。偶然にもコーヒーに口を付けていた彼女は、吹き出しそうなのを堪えているのか、視線を外してうつむいた。しかし、その肩の震えからするに、相当うけたらしい。
「ふむ、なかなかいい一発ネタを手に入れた気がする」
「た、高杉くんっ!」
 笑いの収まったらしい彼女が、身を乗り出して叫ぶように言う。
「やめてよっ! コーヒー吹き出すところだったでしょ!」
「吹き出すときは横向いてね」
「そ、そういう問題じゃないのにっ」
「ぶー」
「――っ!」
 二発目も決まった。
 気分爽快だ。
 それから三分ほど、彼女は笑ったり怒ったりを繰り返した。
「ぶー」
「……もう慣れたもんねー」
「それは残念だな」
「いいけどね……わたし、遊ばれてるだけでも」
 ため息と共に言って、彼女は苦笑する。それから財布を取り出し、
「あ、あのね」
「はい? どうかした?」
「少しだけお願いがあったり……」
「……はい?」
 意味がわからない。
 彼女は財布の札入れに手を入れ、何やら迷っているようだ。
 札入れに入るサイズで迷うもの……今までの流れを踏まえて考えれば、それは、
「み、見に来て欲しかったりっ!」
「……」
 目の前に一枚のチケットが差し出された。
 言うまでもない、彼女の所属する劇団のチケットだろう。
「こ、今週の土曜日なの。定期的に開いてる舞台なんだけど……それで、あの、練習の成果を見せるだけの舞台だから、小屋も小さいんだけど……文字通り小さいんだけど」
 明らかに不必要な説明が加わる。相当緊張しているらしい。
「……来て、くれないかな」
 沈黙を挟んで、彼女は消え入りそうな声で言った。
 その沈黙は、彼女の心境を痛いくらい鮮やかに象徴していた。
「行くよ」
 チケットを受け取った。
「見させてもらう」
「ほ、ホント?」
「本当に本当。ただ俺、演劇とかさっぱりわからないから」
「い、いいのっ。見に来て欲しいのっ。ただそれだけだから……」
「じゃあ、喜んで」
 言って、彼女に笑顔を向ける。視線のあった彼女は、慌てて視線を外し、恥ずかしそうに、それでも綺麗な笑顔を俺に見せた。
「……楽しみにしてる」
 それが選択であることは気付いていた。俺が選んだと言うことも。そしてたくさんの解決していない問題があることもわかっていた。
 流れは急だ。でも今回の場合、飛び込んだのは俺自身の意志だ。
「だいぶ遅くなったし」
 時計を見て立ち上がる。
 いつの間にか九時半を過ぎている。閉店まであと三十分もない。
「帰ろうか」
 彼女は小さくうなずいた。
 俺という存在を巻き込んで、物語が動き始めていた。


 5−ひとのゆめ、めじるし

 一歩だけ立ち位置をずらしてみよう。
 今いる世界から、一歩だけ外側へ。
 そしてこの物語を読もう。
 無責任な消費者と割り切って。

 まず、考えるべきは配役だ。この物語において主役は誰だ? たぶん窪居澄佳だ。なぜなら彼女の存在を軸に物語が変遷しているからだ。そして俺という存在は脇役。窪居澄佳という物語に関わった、数多くいるだろう脇役の中の一人が、高杉涼介という人間だ。
 窪居澄佳について今の時点でわかっていること。まず第一に、彼女が孤独を選んだこと。学校での彼女は常に一人、友人の存在どころか、クラスメイトと会話する姿さえ見えていない。その状態を彼女が望んでいるかどうかについては、明確な理由が示されているわけではない。しかし事象の観察から推論を導き出すことくらいはできる。イジメをうけているわけでもない彼女……この場合、ほとんどそれは断言できるだろう……特に学校生活において大きな問題を抱えているわけでもない彼女が、教室の中では孤独だという事実。さらに加えるなら、彼女には人目を引く要素、つまり他者とは一線を画す美貌を持っているという事実。これらの事実を踏まえ、イジメという要素を否定して考えるなら、導き出される孤独の理由は二つに絞られる。一つ目は、現在の状況が自然発生的なものであること。二つ目は、彼女自身がこの状況を選んだこと。一つ目の推論は、彼女の持った他者に対してアドバンテージとなる容姿を考えるなら、やや整合性に欠ける。突出した存在は、才能を称えられるか、叩かれるかのどちらかだ。少なくとも、周囲が彼女に対してなんのアプローチもしない状況を、自然と捉えるのは難しい。よって、二つ目の推論の方が可能性は高いと言えるだろう。
 次に、彼女にまつわる噂。彼女はたびたび、明らかに恋人とは思えない年齢の男性と連れだって歩いている姿を目撃されている。これに関しては登場人物、つまり俺自身も確認している。しかしここで注意しなければならないのは、その行為が援助交際という言葉に当てはまるかどうかということ。何らかの事情があって、そう言った男性とつき合いがあるという可能性も捨てきれない。そして、その“何らかの事情”を否定する根拠は、今のところない。彼女自身もそれについては何ら言及していない。推論を導き出そうにも、手がかりが少なすぎる。
 第三、彼女が劇団に所属していること。そして、女優という目標をかかげていること。この目標について言えば、彼女自身が口に出したわけではない。しかし会話の流れを見れば、ある程度断定してもいいだろうと思われる。整合性の観点から見て、伏線のない意外な展開には少々無理があるからだ。
 この三つが現在、窪居澄佳について事実としてわかっていることだ。
 続いて、その窪居澄佳の周辺で起きた事実についてのみ、整理してみることにする。
 彼女はある日、偶然同じ店に居合わせた一人のクラスメイトに声をかけた。感情的に踏み入った話をしたわけでもない二人の関係は、それから一週間、停滞する。そして一週間後、二人は初めて顔を合わせたのとほとんど同じ場所で、望まぬ邂逅を果たす。紆余曲折を経て、二人は再び言葉を交わす。一週間前と変わらず、二人の会話は生産性のない議論に終始するが、会話の最後で彼女は自分が劇団に所属していることを告白する。そしてそのクラスメイトである俺は、週末は土曜日に開かれるという公演を見に行くことにする。
 以上が、この物語から事実として読みとれる事柄。
 それらを踏まえて、読者の視点に立った俺が考えるべき事は?

 ――今後の展開――

「わ、わかるはずがない……」
 暗い夜道を歩いていた。右手には窪居澄佳からもらった演劇のチケット。左手はポケットの中。そして思考は世界の外側へ。
「まぁ……でも、改めて考えてみると、大したことが起きたわけじゃないんだよな」
 この一週間……いや、十日間くらいの間、随分とたくさんの出来事に巻き込まれたような気がしていた。しかし、巻き込まれるどころか、彼女と言葉を交わした機会すら二回しかなかった。そしてその会話の内容も、小説というメディアに対するどうでもいいような議論がほとんど。物語を進展させようにも、登場人物にその気無しという感じだ。
「演劇、ね」
 演劇など、俺は生まれてこの方見たことがない。演技力なんて言わずもがな、演劇を見る際のマナーも知らない。と言うか、そんなマナーは存在するのだろうか。フォークは左手、ナイフが右手、みたいな?
「……フォークとナイフは関係ないだろう」
 自分の思考に失笑しながら呟いて、足を止める。
 家を出てからそろそろ三十分がたつ。文字通りの小さな小屋には未だ辿り着けない。
「はて」
 薄暗い夕闇の中、チケットに目を向ける。
 それは非常に質素なチケットだった。厚手の紙に、今日の演目(日本語でもアルファベットでもない文字が混じっているので読めない)、開場・開演の時間、チケットの料金(三百円)、会場の住所だけが書かれている。チケット下部に“オークショニア”という文字があるが……オークショニアとは、確かオークションを仕切る人のことだ。ハンマープライスとか、なんかそんなことを言う係りの人だ。しかし、今日俺が客として参加するのはオークションではなく演劇。これはおそらく、劇団の名前かなにかだろう。
「劇団“オークショニア”ね」
 聞いたこともない劇団。彼女自身もしきりに『小さな』を強調していたから、有名な劇団ではないのだろう。そもそも俺の知っている劇団なんて、劇団四季くらいだ。春組・夏組・秋組・冬組のある劇団……だったっけ?
「……てか、そんなことを考えている場合じゃない」
 また時間をロスした。
 すでに地元で三十分も道に迷っているというのに、これ以上くだらない理由で時間を潰してどうする。
 改めてチケットに目を落とす。会場の住所を凝視し、
「北だ」
 呟いて歩き出した。

 驚いたことに、本気で北に向かったら会場に辿り着いた。
 周囲の風景を眺めると、どうも見覚えがある気がする。
「……あぁ、ここって裕弥の家の近くか」
 一分ほど考えてわかった。
 以前、一度だけ裕弥の家に招かれたことがある。目的は夏休みの宿題を写すためだ。夏休み前、あらかじめ個々の分担を決めておいたおかげで、随分と手間が省けた。作戦勝ちと言えるだろう。
 会場はチケット以上に質素だった。一軒家とアパートの乱立する住宅街の一角に、箱形のコンクリート建造物があった。一階部分には窓が無く、視線を建物の上半分に向けてやっと、窓が目に入ってくる。二階の窓は、全て暗幕のようなカーテンで覆われており、わずかな明かりすら漏れていない。建物の外壁にもなんら色気はなく、てっきり今日の公演を知らせるポスターくらい張ってあると思っていた俺は、最初、この建物が会場だとは気付かなかった。入口は二つあり、一つは明らかに客用(もしくは資材搬出入用)と思われる、通りに面した大きめのもの。もう一つは住宅街の狭い路地に面した小さなもの。小さい方の入口には、『劇団・オークショニア』と書かれたプラスチックのプレートが張ってあり、これが無ければ、たぶん俺は今日の公演を見れなかっただろう。
「辿り着くだけでここまで苦労するとは……」
 呟きながら、時計に目をやる。時間は六時を少しだけ過ぎたところ。開場時刻が六時ちょうどだから、ギリギリアウト。演劇の世界には、開場時刻と同時に会場入りしなければならない、等というマナーがあったりするのだろうか。
「とりあえず入るしかないか」
 意を決して、通りに面した方の入り口を開ける。
 開いた瞬間、どこか熱を帯びた空気に包まれる。そして、
「ようこそいらっしゃいました」
「……」
 目の前に美形のおねいさんが立っていた。思わずその顔を見つめた、何故ならタイプだったから。
「こちら、パンフレットになります。ごゆっくりどうぞ」
「あ、どうも」
 美形のおねいさんからパンフレットを受け取る。もう少しお話しして電話番号を書いた紙も受け取りたかったが、視線でさっさと奥に行けと促された。
 少し重くなった足を引きずりながら、暗幕で仕切られた会場内に足を踏み入れる。
「……へぇ」
 初めて見るせいだろう、思わず感嘆の声が漏れた。
 会場は半地下になっていた。俺の立つ入口からステージまでは十メートルほど。ステージの幅は五メートルくらいか。客席はステージに向かってなだらかに傾斜しており、すでに半分ほどが埋まっている。囁くような声が交錯するその場にはアンビエント系の音楽が控えめなボリュームで流れていて、独特の雰囲気を演出している。
 俺は客席のちょうど真ん中辺りの席に腰を落ち着けた。
「本格的だな……それとも、これが標準なのか?」
 呟きながら、周囲を見回す。とにかく見るもの全てが新しい。だがしかし、新しすぎて意味がわからない。二分で飽きた。
「……パンフレット」
 飽きたのでパンフレットを取り出した。
 会場内の照明は少し弱くて字は読みにくかったが、それでも読めないほどではなかった。
 パンフレットの表紙には、例の不思議文字列。そして『presented by auctioneer』。表紙をめくると、演目の冒頭部分だろう。一ページ目には四行詩のような文章が載っている。続いて二ページ目からキャストの紹介。ページを真ん中で分割し、一ページにつき二人分の劇団員の紹介がのっている。
 ページを進めて、彼女の名前を探す。窪居澄佳という名前は、五番目にのっていた。
「ヒロインではないのか」
 少し残念に思いながら、彼女のプロフィールに目を通す。
 まずは名前から始まって生年月日、性別、年齢、身長、体重、スリーサイズ、趣味、特技、etc……と続く。
「……ふ〜ん」
 読みながら違和感を覚えたのは、俺のせいなのだろうか。
 キャストの個人情報を、これだけ詳細に記さなければならない理由は? それともこれが演劇の世界での常識なのか。引き抜きなどを考慮してあらかじめ記しておいた……まぁ、言われてみれば納得できる理由か。たぶん彼女だって、一生をこの劇団で終わろうなどとは思っていないだろう。いつどこでスカウトの目が光っているとも限らない、だからこその情報開示。それが演劇界での掟……なのか? 知らないけど。
「ま、素人があれこれ言うのも違うし」
 余計なことは考えず、真っ白な心で開演を待つことにした。時計を見ると、開演までは残り五分。パンフレットを閉じ、空席のままだった隣の席に置く。
「それでは……どんな“商品”を見せてくれる事やら」
 微笑みながら呟いた。
 いつになく心は高ぶっていた。

 考えたことはないだろうか。これだけフィクションの物語が溢れた世の中で、完全にオリジナルの物語など存在し得ないと。
 ストーリーの基礎となる世界観の部分について見てみよう。
 今現在、この世の中で新しいストーリーを創り出そうと考えたとき、今までのどんなストーリーにも無かった新しい世界観を生み出すことは可能か? 可能性の話をすれば、それは可能だ。しかし、現実的にはほぼ不可能と言っていい。ストーリーは溢れすぎたのだ。百パーセント、どんなストーリーとも被らない世界観など、あり得ないと言ってもいいだろう。
 仮に、百歩ゆずってそんな世界観を生み出したとしよう。
 ではその世界観を利用して表現したいテーマは?
 これに関して言えば、世界観以上にあり得ないだろう。なぜなら表現しようとしているのが人間だからだ。ファンタジー小説が良い例だ。そこに描かれた世界は、どこにも存在しない世界だ。しかし描かれた感情は理解できる。ファンタジー小説の存在意義はそこにあると俺は思う。存在し得ない世界を利用して、表現したい感情を際立たせるのだ。現実を舞台にした小説では不可能だった事柄が、そこでは可能になる。しかし、鍵となる感情について考えたら、そこには限界が存在する。読者に理解でき、なおかつ納得させ得るだけの感情でなければならないからだ。そういった種類の感情には限界がある。そしてたぶん、それらは描かれ尽くしてしまった。
 王道を踏襲することは、別に悪いことではないのだ。ありがちなストーリーだって、演出次第でかつてない輝きを放つこともある。
 やはり結論はそこに行き着く――商品であること、商品として完成されていること。
 必要な要素を取りそろえ、技術の限りを尽くして演出し、表現する。きっと、どんなストーリーだって名作になり得るだけの可能性は秘めているのだ。矛盾を排し整合性を追求するのも技術の一つ。骨格さえできてしまえば、あとは肉付け次第で美しくも醜くもなるだろう。

 俺が初めて観た演劇には、そういった肉付けの跡がまったく見て取れなかった。

「……終わり、ですか」
 一時間半の舞台が終わる。俺を包むのは気怠い脱力感。エンディングミュージックの流れる場内には、盛大とは言えないまでも拍手が鳴り響いている。
 俺は大きすぎる期待をしていたのだろうか。
 話の内容はいたってシンプル。ひょんな事からタイムスリップした主人公は、歴史としてしか知らない過去の世界にとばされる。戸惑いと恐れの中で主人公は日々を過ごし、やがて自分とは異なる時間軸を生きていたはずの女性と恋をする。出会うはずのなかった二人、そして別れの決められた二人。主人公の懊悩と選択が物語のメインテーマ。
 ありがちな話だった。そして演出が特に優れていたわけでもなかった。過去、どこかで誰かがやっていて、未来、どこかで誰かがやるであろう物語。
 演劇は小説とは違う。声、表情、音楽……いくらでも演出のしようがあるはずだった。しかし苦しみを煽る効果音どころか、言葉遊びの類さえ見られなかった。ありがちなストーリーにありがちなセリフをのせ、演出を放棄した。俺にはそんな風にしか見えなかった。
 演技については専門的なことなどわからない。しかし、一時間半を通して特に引っかかることもなかった。それは彼女も、彼女以外のキャストも同じだ。たぶんキャストの質は高いのだろう。脚本の段階で問題がある……素人の俺にそう思わせるストーリー、か。
 商品価値を計るまでもない。
「拍子抜けしたなぁ……それとも、こんなもんなのかな、演劇って」
 呟きながらパンフレットを取り出す。舞台には幕が下りて、場内には照明が戻ってきている。
 さっきは途中までしか見なかったパンフレット、それを今度は裏表紙からめくっていく。
 探していたページはすぐに見つかった。
「……手抜きだなぁ」
 それは裏方スタッフを紹介しているページだ。
 キャスト以外のスタッフ、総勢四名。照明と音響がそれぞれ一人、小道具が二人、以上。
 脚本はどうやらこの劇団の団長である河原田大樹という男のオリジナルらしい。演出からなにから、全てこの男が担当している。こいつが元凶か。
「帰るか」
 場内を見回すと、すでに座席の半分が空いていた。終演したのだからそれは当然だ。中にはステージに歩み寄り、幕の隙間から顔を出した出演者と話し込んでいる者もいる。近所の知り合い同士で見に来たのか、楽しそうに感想を話しているおばちゃんもいる。そして立ち上がろうともせずにパンフレットを見つめる人間が、数人。
「……」
 立ち上がろうとしていた俺は動きを止める。
 それは開演前には気付かなかったことだ。
 彼女の言葉の通り、どうやらこの公演は、地元の人間を対象にしたものらしい。訪れた客の大半が普段着姿だ。ほとんど無料に近い価格設定もそれを意識してのことなのだろう。だが、そんな客層の中に、妙な奴らが四・五人紛れ込んでいる。
「……パンフレットに何かあるのか?」
 その異質な人間達は、一様に正装していた。高そうなスーツを着ている男が数人、シックでいながら高級感漂わせるドレスを着た女が一人。その全てがパンフレットに目を向けている。たぶん、上演中ステージに向けていたよりも、ずっと真剣な視線を。
 俺も彼らにならってパンフレットを見た。
 表紙から順々にページを繰る。特に目を留めるべき事柄は無いように思える。パンフレットのほとんどがキャストの紹介で終わっている。写真を見るに美形が多いようだが、将来俳優を目指す人間達だ、ある程度容姿の平均点が高いからといって、驚くことでもない。
 一通り見終わった俺の視線は、やがて窪居澄佳に落ち着く。
「……なにか、か」
 特別なことと言えば、それは俺にとっては特別なことなのかもしれない。
 彼女は小さな写真の中で笑顔だった。これを学校の人間が見たらどう思うことだろう。こんな顔で彼女が笑えることを知っている人間が、どれだけいるだろう。
 いや……それは少し違うか。彼女は演劇の道を歩む人間だ。笑えと言われて笑えないはずがない。彼女が目標をかかげる限り、笑えなければならないのだ。
 彼女の素顔が見えない……そんな言葉が俺の思考を捕らえる。
 あの日、驚きに凍りついた彼女の表情は、どっちだろうか。
「ふーん。若いくせになかなか目の付け所がいいじゃないか」
「――うわっ!?」
 突然、背後から声をかけられた。慌てて振り向いた俺の目に映る……スーツ姿の男。
「な、なんですか?」
 立ち上がり、男と距離をとる。思わず声の乱れた俺とは異なり、男は悠然と座席に座ったまま俺を見据える。
 どうやらこの男は、俺の背後からパンフレットをのぞき込んでいたらしい。いや、俺の視線を追っていたと言った方が正しいか。
「……後ろからのぞき込むなんて、趣味悪くないですか?」
「なんだい? ふふっ、そう邪険にすることもないだろう。僕は怪しい者じゃない」
 怪しい香りを漂わせる男が怪しい者じゃないと言う。余計に怪しくなってきた。
「いやいや、しかし意外だよ。まさか君のような若者が僕と同類だったとは」
「……同類?」
「隠す必要も無いじゃないか。だが、同類にしてライバルだ、警戒する気持ちは理解できるけれどね」
「……」
 言葉の意味が全くわからない。世界観を共有していない感覚……別の世界に紛れ込んだ感覚。手がかりが足りない。
 男が続ける。
「一つだけ忠告しておこうか。警戒するより先に、行動を起こした方がいい。準備するのに時間もかかるだろう? 特に君のような年代だと、色々と制限があるだろうからね。未成年とは辛いものさ……ふふっ、ちなみに僕は二十八歳だ」
「聞いてないですよ」
「そうかい? ははっ。まぁ確かにその通りだ。年齢など関係ない。しかし、年長者からの忠言だ、真摯に受け取っておくのも悪くないだろう。君がそれを手に入れたいと思うならね」
「……なに?」
 戸惑った俺に笑顔を見せて、男が立ち上がる。
 パンフレットをヒラヒラと振りながら、
「君とはまた会うだろう。その時には結果が見えているはずだ。この言葉の意味、わかるだろう?」
「……それって?」
「んん? なにかな?」
「それって何のことだ?」
 真っ直ぐに尋ねた。俺には理解できない何かを見るようなその瞳を、真っ直ぐに見据えて。
「それを手に入れる……それってなんだよ」
「ふふふっ、君はそういう考え方の人間か。僕にとっては言うまでもないことなのだけれどね」
 男はことさら楽しそうに笑った。
 そして、言った。
「決まってるだろう? 商品だよ」

 加速度的に、というのは、つまり二乗に比例して、という意味なのだろうか。そんなものに答えを求めたところで、もちろんあるはずがないのだが。おそらく、文章における表現など、その程度のものなのだろう。感覚的に理解できればいい。どれだけ美しい言葉を使ったところで、読者の感覚と合わなければ、それはただ流れを乱すだけの過度な演出にしかならない。中庸という言葉がある。何事も適度がベスト。この場合の適度とは、正解を探すではなく間違いを選ばないと言う意味での適度だ。もっと正確に言うなら、正解を選ぶのは読者だということ。
 少し装飾してみようか。
 物語は加速度的に流転する――つまり立て続けに事が起こるということだ。
「感想、聞きたくて」
 会場を出た俺の目の前に、窪居澄佳が立っていた。
 劇中で着ていた衣装そのままの彼女は、恥ずかしそうに微笑みながら、両手を体の前で握り合わせる。
 俺は彼女にはわからないようにため息をこぼす。事象を整理する暇もない。
「……場所、変えようか」
 周囲を見回して言う。
「座れる場所とか……公園とか? この辺にある?」
「あ、うん。あるある。五分くらい歩くけど」
「体火照ってるからちょうどいいかな」
「じゃあ、行こうか」
 俺の言葉に応えて、彼女は歩き出す。俺はその隣に並ぶ。
 衣装のままで外を出歩くのは恥ずかしくないのかと思ったのだが、考えてみれば彼女にとって衣装姿など特別なことではないのだろう。いつもここで練習しているのだ、今さら隠す理由も緊張する必要もない。
「出てくるの、遅かったね」
 彼女が言った。
「何かしてた?」
「いや……何と言えばいいか」
 あの男のことを思い出す。商品、その言葉が頭を駆けめぐる。しかし俺は、説明する言葉を持たない。意味不明、当てはめるとするならその言葉が一番いいか。そんな言葉を選んでいる時点で、説明するべきではないとわかる。
「……余韻、かな」
 少し考えて、そう言った。嘘ではないが正直でもない、そんな類のいわば誤魔化しだ。
「演劇見たのって、初めてだし。その辺のことを色々と」
「そっか……じゃあ、ちょっと早いけど」
「ん?」
「感想。……いいかな?」
「……」
 さて、俺が答えるべきはどんな感想だ?
「……拍子抜け」
 今度は誤魔化しではなく、正直なところを言葉に出した。それは彼女のためなどと言う理由からではない。自分の感覚が正しいものなのか、それとも見当違いのものなのか、それをまずは確かめたい。
「ストレートに言うよ。……一番問題あると思ったのはストーリーだった。俺はどんなストーリーでも磨けば輝くと思っている。にもかかわらず、今日の演目はステレオタイプを素直に踏襲した普通の物語だった。素人の俺が言うのも変だけど、演出が圧倒的に足りてない。演劇としての演出なんて俺は知らないけど、それ以前の問題。言葉の選び方も、シナリオの構築の仕方も。もう少し……いや、もっともっと手を入れるべきポイントはあったはず。それが俺の感想」
「……」
 彼女はすぐには答えなかった。心なしか歩くスピードが落ちる。俺もそれに合わせ、歩幅を狭める。スピードはゆっくりと落ち……やがて、止まる。
 そして、
「ありがとう」
 彼女は言った。
「……えっ?」
「本当はわかってたの。だからわたし、高杉くんが見る前から言い訳したり……」
「あ、あぁ……」
 俺を誘ったときの彼女の言葉を思い出す。
「卑怯だよね……触れる前から言い訳なんて。高杉くんは厳しい目を持ってる人だし、たくさん本も読んでるみたいだし……だから、覚悟はしてたの。それでもやっぱり言い訳しちゃったから……ありがとう。嬉しいの、素直な感想って」
「……でも、素人の俺の意見を真剣に受け取られても」
「消費者はみんな素人だよ」
「……」
 それは毅然とした口調だった。
 目標という言葉が頭をよぎる。
 商品と、そして消費者の関係。商品価値を認めるか、そうでないか。ジャッジを下すのは消費者だ。
 対象に応じた期待値……それは消費者としての俺のやり方だ。提供する側に立つ彼女が、足を運んでくれた観客に期待値など求められるはずがない。例えそれが、チケットにプレミアムが付くほどの公演でも、文字通りの小さな小屋で開かれた公演でも。
「ごめん……でもやっぱり、ちょっとショックだったり」
 呟いて、彼女はまた歩き始めた。
 俺もそれに続く。
「今日はすごく緊張したの。今までで一番緊張したから……自分勝手に落ち込んじゃったり」
「あの……一つだけ。気休めにもならないかもしれないけど」
「なに?」
「演技は良かったと思う。すごく自然な演技で、むしろ脚本が演技に見合って無いというか」
「ホント?」
「素人だけど消費者だから」
「あ、うん。そうだよね」
 言いながら彼女は笑った。
 やがて、住宅街の一角に、小さな公園が見えてくる。
「ここね、落ち込んだときとかによく来る場所なの」
 彼女が言った。かなり意味深な言葉だ。
「このベンチがわたしのマイポジション」
 暗い公園に一つだけ設置された街灯、その下にあるベンチを指さして、彼女は言う。
「誰かと一緒に座るなんて初めて」
「光栄です」
「飲み物とか買ってくればよかったかな……」
「いいって。それより、座ろ。疲れてるでしょ?」
 言いながら、左手を彼女の前に差し出し、
「俺ってアメリカナイズされた軟弱ジャパニーズだから。レディファーストで」
「……ふふっ、ありがと」
 微笑みながら彼女が腰を下ろす。
 一息おいて俺もその隣に座る。
 彼女は上体を屈め、視線を地面に向けながら、
「これから落ち込みます」
「……えっ?」
「だから……慰めて欲しかったり」
 さすがにその言葉には困った。落ち込む原因を作った俺が、慰め役をかってでる。なんだかおかしなサイクルだ。
「……じゃあ、第一回慰め弁論大会」
 迷った末に、ひどく天の邪鬼な慰め方を選んだ。
 意味のわからなかったらしい彼女が顔を上げる。
「そ、それはなに?」
「何というか、型通りの慰めフレーズはマジ恥ずかしいから、わかりづらく回りくどく慰めようかと」
 言いながら苦笑する。
 彼女は俺に視線を向け……そして、微笑んだ。
「高杉くんらしくていいと思う」
「それじゃ……始めます」
「うん」
 うなずくと同時に、彼女は視線を地面に戻した。
「今日の議題は、理想的な感想について。まず感想の前提条件として、感想を言う側が作品に触れているということがある。作品に触れずに感想を書くなど、本来なら不可能なはずだから。しかし、状況から見るある程度の先入観があれば、作品に目を通さなくてもそれっぽい感想を口に出すことはできる。例えば今回の場合で言うなら、劇団の規模とか、キャストやスタッフの知名度とか。その筋に通じた人間なら、それらしいことを言うだけなら言える」
 どんな創作物だって、数を読めば創り手の傾向くらいは見える。作者がどんな美学を持っているか、なにが好きでなにが嫌いか。伏線の張り方の癖や、キャラクターの役割分担などのことだ。その傾向を掴み、あとは知名度や作風からくる先入観があれば、漠然とした感想くらいは誰にでも言える。
「……でも、そういった感想は、論外なんだ。作品に触れてもいない人間、加えて作品のいわばパッケージに対する感想なんて、感想にはなりえない。中身を見て初めて、感想を抱くのが普通だから。だからそう言った感想は理想を追求する際には論外となる。では、今度はまともな感想について考えてみる」
 そこまで言ったところで、彼女が体を起こす。俺を見ることはせず、公園の外にある街灯に視線を向ける。
 俺は続ける。
「第一に、いいところばかりを誉める感想。日本人の、特に素人にはこれが多いと思う。謙虚が売りの国民性だから。でもそれは、はたして本当に良い感想と言えるか。作品には良作も駄作もあるのだから、いつもいつも誉めるばかりでは、感想を受け取る作者にとって、ためになるのかならないのか。結論は後回しにして……二番目、悪いところばかりを指摘する感想。これも正直微妙。どんな作品にも粗はある。完璧な作品にだって粗はある。なぜなら一つの作品に対して、消費者は腐るほど存在するから。消費者全ての感性に受け入れられる作品なんて、人間の多様性を考えればあり得るはずがない。つまりあら探しをしようと思ったらいつでも可能と言うこと。作者は感想に対して真摯でなければならない……とは言え、いつもいつも貶されたら、創作意欲自体が無くなる可能性もある。だから貶すだけではダメ」
 言葉を止め、一度大きく息を吐く。さっきまで貶すだけだった自分が何を言っている……とも思ったのだが、最終的に主張したいのはそんなことではない。
 彼女の様子を探るのはちょっと怖かったので、あえて視線を夜空に向けて後を続ける。
「……最後に。専門的な観点から評価した感想。これは作者にとって最も有益な感想なのではないかと俺は思う。自分の欠点を指摘してもらえるのだから、これほどありがたい感想はない。次につなげる意欲も湧くし。でも、一つだけ問題がある。これを理想としてしまったら、素人の消費者は感想を言えなくなってしまう。それはおかしいんだ。商品が相手にするのは、ほぼ間違いなく素人だから。……そこで、俺の結論」
 長々と続いていた弁論大会がクライマックスにさしかかる。そこまで大袈裟に言うほどのものではないけれど。
 しかし、一番大切な部分……それは一番伝えたい部分と言うことだ。
 俺は彼女に視線を向ける。顔を上げた彼女が、同じようにこっちを見ていた。驚いたのか、彼女は一瞬視線を泳がせ、それでも最終的には、俺の顔に視線を落ち着けた。
「ここから先はね……消費者である俺が創り手に望むこと」
「……うん」
「結論、次につなげて」
「えっ……?」
 あまりにも簡単な言葉だったせいか、彼女は戸惑うように口を開いた。
 補足のために後を続ける。
「俺の考えでは、理想的な感想なんて存在しないんだ。どれだけ感想に対しては真摯であれ、なんて言ったところで、消費者の側が真摯でない場合は結構多い。俺だって小説を買うとき、作者の名前で選ぶことはよくある。そして内容がいまいちでも、好きな作者だったら否定的な感想ってあんまり浮かんでこない。消費者は自分勝手なんだ。だから……だからこそ、次につなげて欲しい。俺はなにかに触れたとき、ほぼ十割の確率で感想を持つ。求められれば口にも出す。いいところだけを言えと言われれば、それもできるけど……でも、したくない。特に、今は」
「えっ……い、今は?」
「……そう」
 苦笑しながらうなずく。
 結局、恥ずかしいことを言う羽目になった。
「目標を持っている人に……適当なことは言いたくないんだ。特に夢ではなく目標を持ってる人には。だからつなげて欲しい。俺の感想をどう受け取ってくれてもいいから、また次、精一杯やるだけの気力は……無くしてほしくない、かな」
 恥ずかしいこと、これにて終了。
 さすがに視線を合わせていることに辛くなり、公園の外にそれを移す。
 彼女はしばらく黙っていた。沈黙は迷いではなく、俺の言葉を吟味してくれているのだろうと、素直に信じられた。
 やがて、彼女は言った。
「……わたしは、あると思うんだ、理想の感想」
「えっ?」
「受け手の心構え次第で、感想は全部理想になると思うの」
「……」
 やっぱり彼女はそういうタイプだ。
「わたしの場合、見てくれただけで嬉しいから。……今はね、ちょっと特別なの」
「なにが?」
「言い訳したり、落ち込んだり……今は、少しだけ甘えたくなったり」
「うーあー……えっと、何というか、めっちゃ照れるというか」
「いっつも一人だったから。少しだけ……気、弛んじゃったかも」
「……」
 一人。
 孤独。
 舞い上がっていた心が、あっという間に静まりかえる。
「……なにか聞きたそうな顔だね」
 俺の表情で察したのだろう、彼女は呟いた。
「わたし……言った方がいいのかな」
「言いたいなら」
「……言いたくなかったら?」
「言ってくれるのを待つ」
「待ってくれるの?」
「俺が待たせてもらうの。言いたくなったら言ってくれればいい。少なくとも今の俺は……無責任な野次馬とは、違うから」
「えっ?」
「見えたものを信じるだけっていうか」
 噂に踊らされる必要が無い程度には、彼女のことは見えている。もちろん、見えているつもり、というだけの話だが。
 自分自身に対しても整合性を求めなければ。頼られていいだけの人間に。
「……信じてくれるんだ」
 弱々しい声で彼女は呟いた。
「かなり嬉しかったり」
「まぁ……でも、あれだよ。信じるって言っても、たくさんのものが見えてるわけだし」
「あ、ひどーい」
「あぁ……ごめん。ただ、個人的な趣味の話をさせてもらえば……」
「なに?」
「……目標として未来を見据えている人には、頑張って欲しいから」
 それは後悔だろうか。主役に対する、脇役の嫉妬、か……裕弥が聞いたらなんと言うだろう。
「人の夢は儚いの」
 唐突に、彼女が言った。
 意味がわからず、俺は聞き返す。
「……それは、なに?」
「わたしが夢って言う言葉を使いたくないわけ」
「わけ……?」
 考える。
 人の夢は儚い……わかると言えばわかるけど、儚いから夢という言葉を使わないなんて、理由になるだろうか。むしろ今の世の中は、せめてフィクションの中だけはと、儚いものにすがりたがるような世の中だし。
 人の夢は儚い――あぁっ。
「人偏+夢=儚い」
「正解っ」
 彼女は嬉しそうに笑った。
「わたしなりの人生論だったり」
「言葉遊びが人生論か。うん、いい生き方だと思う」
「目標は“めじるし”だから」
「必ず到達すべき場所……ね」
「夢ではなく目標って言われたとき、ちょっとびっくりしちゃった。……同じようなこと考えてたんだって」
「少し違うけどね。俺は他人として夢や目標語ってるだけだし。でもそっちは、自分のものとして、でしょ?」
「うん、だから……頑張るよ。……次も」
 彼女が立ち上がった。
 少し歩いてから俺を振り向き、
「高杉くんの感想、絶対に次につなげるから」
「そうしてくれると嬉しい。できれば脚本書いてる全ての元凶に伝えて」
「全ての元凶って……あ、団長のこと? ……でもあの人、純粋な脚本家じゃないから、どうかなぁ」
「……次、期待してるから」
「うん、頑張る」
 彼女にならって、俺もゆっくりと立ち上がる。そして、一メートルほどの距離を置いて見つめ合う。
 彼女は微笑んでいる。パンフレットに載っていた、あの微笑み……でも、違う。今は笑わなければならない理由なんてない。だからその笑顔は純粋で……理由のない笑顔だから純粋で。
 俺がそう思いたいというだけの話かもしれないけど、それでも、
「頑張るから」
 その笑顔は、今までのどんな笑顔よりも、綺麗だった。
「また、来てね」
「喜んで」
「それじゃ……そろそろ、戻るね」
「うん」
「……バイバイっ」
 彼女が小走りで立ち去る。
 脇役としての自分の立場が定まった、そんな瞬間だった。


 6−ハーフタイムショウ

 鎌田裕弥の目標。
 まさしく夢物語に近い――目標。

「なー、涼介。今日の夜、時間あるか?」
「はっ?」
 学校の休み時間、いきなりそんなことを聞かれる。
 一眠りしようかと思っていた俺は、体を起こし裕弥を見る。
「……夜?」
「そーそー。八時くらいから眠くなるまで」
「俺、男色の趣味はないんだけど」
「ばかものー」
 殴られる。
「俺だってお前と夜の街にしけこむ気はねぇよ」
「あぁ、そう。安心した」
「なんだよお前、俺のことそんな目で見てたのか?」
「何というか……ほら、裕弥はマッチョだし。俺的人生経験によるとマッチョにはそっち系の割合多めだし」
「ものすっごい偏見だな……まぁいいけど。それで、今日の夜だよ。時間あるか?」
「居酒屋までなら」
「おいこらー」
 やっぱり殴られる。
「涼介ちん、どしたの? もしかして俺のこと嫌いになったとか?」
「ごめん。なんか楽しかったもんで」
「ま、いいけどなー。時間ないならないで」
「いや、ある。時間」
「最初からそう言えこらー」
 三度殴られる。
 手加減された拳とは言え、そろそろ頭が痛くなってきた。
「お前と話してると疲れる……」
 本当に疲れたような表情で言って、裕弥は窓枠に腰を預けた。
「ま、いいか。これでメンツ揃ったし」
「メンツ?」
「そー。俺ってさ、ほら、NBAのドラフト候補じゃん?」
 いつの間にか裕弥がドラフト候補に昇格していた。
 先週までは、夢……もとい目標を語る正しい若者だったのに。
 視線を泳がせながら、裕弥は続ける。
「でさー、いくら自分で練習してたって限界ってあるじゃん。一応、バスケってチームスポーツだし」
「やっと気付いたか」
「知ってたっつーの。俺が嫌なのは私生活までチームメイトと連むような馴れ合いベタベタの世界」
「まぁ、変に情が移ったらプレーの質が落ちる気はするけど」
「だろ? 一緒に下校とか最悪だろ? そんで女子マネージャー取り合ったりすんだぜ? あーもー勘弁だってそんな世界」
 俺に人のことを言えた義理はないが、それは明らかに偏見だろう。
「……でも、何となく話は見えてきた」
 頬杖をつきながら呟く。
 メンツ、バスケ、チームスポーツ……この片仮名キーワードから導き出される答えは。
「試合でもあるのか、今日」
「男と以心伝心かー。あんま嬉しくねーなー」
 言いながら裕弥は笑った。
 どうやら喜んでいるらしい。
「ま、その通りで。試合あるわけよ、今日。月に二・三回集まってんだけどよ。今日がその日で、でもってメンツの一人が風邪ひきやがったというわけ」
「もしかして裕弥、学校とは別のクラブチームとか入ってたりする?」
「まーさか。今日集まるのは、ほら、昔のご学友とか?」
「裕弥に学友がいるとは思ってなかった」
「うるせーよ」
 窓枠に座った裕弥が、笑いながら俺の机を軽く蹴る。試合が出来るからか、今日の裕弥は機嫌が良いらしい。
「……学友、ね」
 そんな話は今まで聞いたことがなかった。友達の話どころか、俺は裕弥の過去……俺が出会う以前の裕弥について、何も知らない。知ろうと思ったこともない。
 それで構わないのだ。知る必要のない物語までほじくり返す意味はない。小説で言うなら外伝的な位置づけだろうか。本編にからんでこないのなら、無理して挿入することは流れを壊す以外、何の意味も持たない。満たされるのはくだらない欲だけだ。
 だが、俺がこうして裕弥とお友達をやってるのは、俺と裕弥が出会ったから……出会った瞬間があったからだ。つまり、俺と裕弥は、共通するエピソードを持っていると言うこと。
 きっかけは、本当にくだらない些細な出来事だった。
 今思いだしても笑ってしまうような――。

 その日、学校では進路説明会が予定されていた。高校に入学して一週間、兜の緒だかふんどしの紐だかを締め直させる儀式だ。
 俺の両親はその日、少し遅めの春休みをとって田舎に帰省していた。金曜日を休みにし、木曜日の夜からの帰省。共働きで仕事の忙しい両親は、たまにそうして世間の感覚から外れた休日をとることがあった。俺が彼らの旅行に付き合うことは、盆と正月くらい。別段珍しいこともない、そんな家族があるというだけの話。一人きりの家も、書き置き一つで旅行に出かける両親も、俺にとってはいつもの日常だ。だが、いつもの日常とは言え、今まで家にいた両親という名の束縛がなくなれば、多少気が緩むのが人の情というもの。
 おもいっきり寝坊した。
 目が覚めると午前十一時。目覚まし時計を見た瞬間に学校に行く気は無くなっていた。
 それから日曜日に親が帰宅するまで、俺は怠惰な週末を享受した。
 そして、明くる月曜日。
 人生で初めて呼び出しをくらった。
『お前達は何を考えているんだ!』
 目の前で進路指導主任という名の教師が怒鳴っていた。たぶんストレスが溜まっているのだろうと判断し、特に言葉の内容について深く考えることはしなかった。ただ、お前達……その言葉は引っかかっていた。
 すぐ隣に見たことのある顔……後にそれは鎌田裕弥という名の日本人だと判明する……教室で見かけたことのある男が一人、立っていた。
 その男も、進路説明会をサボったらしかった。
『いいかお前達っ、高校生というのはなぁっ――』
 それからその教師が話した内容を、ほとんど覚えていない。デフレがスペクタクルで就職難は喘ぎ声を出しているとか、そんな内容だった気がする。
 やがて俺達は、こんな言葉と共に解放された。
『しっかり考えなければいつか後悔するぞ!』
 その予言が外れることを、俺は確信できた。
 そして、隣に立つそいつも同じだった。
『……後悔ねー』
 進路指導室を出て、しばらくたったころだ。隣から小さな声が聞こえた。声の主が同じく呼び出しをくらい、同じ教室に戻るためにたまたま隣を歩いていたあの男だと気付くのに、少しだけ時間がかかった。
 俺は隣を振り向いた。
 男はどこか虚ろな視線で、廊下の先を真っ直ぐに見つめていた。
『しねーよ、そんなもん……少なくとも俺はしない。将来に関してはな。そもそも後悔っつーのはさ、俺にはできねぇんだ。大体俺は――』
『努力をしない』
『……はっ?』
『もっと正確に言うなら、後悔するほどの努力はしない。だから後悔しない』
『……』
 独り言に突然割り込んだ俺を、足を止めた男は呆けたように見つめた。
 そして、
『おー、それだよそれ。てゆーかあんた誰?』
 同意と疑問の波状攻撃。
 苦笑しながら疑問だけに答える。
『さっきからずっと隣に立っていたサボり魔です』
『あー、今のうちに断っておくが、俺が先週の金曜休んだのはサボりじゃねーぞ』
『あれ? 違うの?』
『パソコンが二万で売ってたんだよ。金曜限定で。これはもう買うっきゃねーだろ』
『……そういうのをサボりと呼ぶんじゃ』
『だからちげーって。非常にナイーブで繊細な家庭の事情だって』
 ナイーブも繊細も同じ意味だと思ったが、ツッコミは放棄した。
 何故ならその物言いに笑いがこみ上げてしょうがなかったからだ。
『あっれー? なに? 俺、なにか変なこと言ったか?』
『いや……ごめん。繊細な家庭の事情というやつを考えたら』
『なんだとーこらー。プレパラートなめんなよ』
『プロレタリアートね、労働者は』
『う、うるせーこのインリンめっ!』
『たぶんインテリね、それ。正確にはインテリゲンチア。インテリになったつもりはなかったけど』
『うっわー、むかつく。俺は今、ものすごくむかついてる』
 昼休みの廊下で、初対面の俺達はそんなことを話した。会話の内容にそれほど意味はなかった。もちろん、楽しかったのは確かだけど。
『……もーいいわ。口じゃあんたに勝てる気がしない』
 しばらくして、男は呆れたように言った。
 俺は勝ち誇るように苦笑し、それに答える。
『無駄な知識は豊富だから』
『自分で無駄って認めるのか?』
『有益な知識なんて努力に対する燃料みたいなものだから。そんなもののために俺は知識を蓄えたくない』
『後悔するほどの努力……ってか?』
『どうでもいいんだ、そういうの。俺は犬に追われる羊じゃない。群に流されるだけの羊だ』
『んー、なんかよくわからんけど、感覚的にはわかる』
 男はわざとらしく腕を組み、何度もうなずいた。
 それから俺の肩に手を回し、
『な、にいちゃん、名前は?』
『その言い方、極め道のスカウトにあってるような感じがする』
『あんたの悪いところって、そうやって話を逸らすところだろ。ま、いいけどな、楽しいから……んじゃ、まずは俺から自己紹介か』
 左腕を俺の肩に回した男が、右手で自分の顔を指し、言う。
『鎌田裕弥だ。一年……って、あんたも一年か』
『ついでに言うと同じクラス』
『うわっ? マジで?』
『やっぱり気付いてなかったのか……俺は高杉涼介。ちなみに俺が金曜日休んだのは、寝坊したから』
『近付くなサボり魔』
『近付いたのはそっちが先ね。それから俺的に激安パソコン買いに行くのもれっきとしたサボりだから』
 すぐさま距離を置いた裕弥に向かって言う。
 俺の言葉に、裕弥は最初苦笑し……やがて、肩を震わせて笑い、
『いやー、なんかあんたとは上手くやってけそうな気がする』
『光栄なことで』
『どうも俺、人付き合いって苦手でさー』
『最近の若者はコミニュケーションが苦手な傾向にあるらしいから』
『俺はあんたも同類だと思ってんだけどね』
 その言葉に明確な答えは返さなかったが、そう思うのが普通だろうと俺も思った。
 同じ教室にいながら、お互いがお互いの名前を知らなかったのだ、同類としては十分だろう。
『チャイム鳴ってんなー』
 疲れたような口調で、裕弥は言った。授業の開始を知らせるチャイムをBGMにして。
 俺は腕時計を見……そして、
『行きますか。将来のための勉強をしに』
『後悔はしねーけどね』
 答えた裕弥は、楽しそうに笑った。

 高速道路沿いの雑居ビルの谷間……自称NBAドラフト候補が試合の場として選んだのがそこだ。
 おそらく、どうにも使い道がなかったのだろう。狭苦しい角地、しかも半端ではない騒音。道路が入り組んでいるせいで交通の便も悪い。都会の真ん中にポツンと現れた『人の住むべきでない場所』。
 そんな場所に、半面のバスケのコートとリングがあった。
「涼介ちん、パース!」
 コート上でフリーになった裕弥が、俺に向かって手を振りながら叫ぶ。バスケに関しては全く自信のない俺は、ボールという名の責任を裕弥に投げつける。裕弥は喜々としてそれを受け取る。そして、ショウタイムの始まり。
 裕弥は本当に上手かった。
「きなさーい、おまえらー」
 心のどこかで思っていた。勝負の舞台に立たない者は、一様に実力に欠けるのだと。しかし、それは違ったらしい。努力の結果……いや、そんなことを言うと裕弥は怒るか。才能の保持者としての裕弥は、素人の俺が見て嘆息するほどの実力は秘めていた。
 軽やかなステップで裕弥はドリブルを始める。何やら股の下を通すそのドリブルは、クロスオーバードリブルなどと命名されているらしい。裕弥の目の前には、日本人の規格を大きく外れた長身アフロの通称ウォレスくん(そう紹介された)が立ちふさがる。さらには俺をマークしていたカラフル五分刈りのロッドマンくん(そう紹介された)が、裕弥に駆け寄りマークする。あえてマークされるのを待つように、裕弥は一つも二つも呼吸をおく。
 そして、裕弥は不敵に笑う。
 それは信じていると言うにはあまりに不遜だった。確信する、その言葉が一番正しい。裕弥はきっと確信している……自分が力を持ち得ていることを。
「それじゃ、いっくぜー」
 その瞬間に何が起きたのか、俺にはよくわからなかった。ただ、気付いたときには、裕弥はゴール下に走り込み、体中のバネを使ってダンクを決めていた。
「ゴールっ!」
 無邪気なその声に苦笑する。楽しみとしてこのレベルまで到達できたなら……それこそ、本物の才能と呼ぶべきものじゃないのか。
「そんじゃ、十分休憩な」
 ご学友達にそう言って、裕弥は俺に歩み寄ってきた。その場に座り込んだ俺の隣に並び、
「サイン欲しくなったべ?」
「……なるか、馬鹿」
 ため息をつきながら答えた。すぐ頭上を通る高速道路の騒音のせいか、思考が上手くまわらない。照明代わりの雑居ビルの明かりとか、星は見えないくせに月だけはしっかり見える都会の夜空とか……そんなどうでもいいもの全てが俺を貶めているように思える。
 不意にスタートラインに立たされた気分。
「NBAいけよ」
 沈黙の後、そう呟いた。
 顔を裕弥に向け、
「というかさっさと行け。明日にでも行ってしまえ」
「あ、あれ? どしたのー涼介ちん?」
「滅茶苦茶上手いじゃん。この隠れ努力の虫が」
「そりゃ練習はしてっけどよー。前にも言ったとおり、あれは努力じゃねーの」
「虚しくなるだろ……主に自分が。普段同じように怠慢学生やってたやつが、これだけ上手かったら」
「あれ? そんなこと気にしてんの?」
 こともなげに裕弥は言う。俺は裕弥の手からボールを奪い、ゴールに向かって投げつける。当然のように入らない。寂しげにコートを転がるボールに、自分を重ねる。どこに辿り着くこともない軌跡、誰も待っていない終着駅。
 舞台に立たない才能――舞台に立った目標。
 鎌田裕弥。
 窪居澄佳。
 徹底的な脇役――俺。
「互いをおだて上げて仲良しごっこなんて好きじゃねーから、慰めは言わねぇけどさ」
 裕弥の呟きに、ゆっくり顔を上げる。
「やればできるに決まってんだよ、俺の中では。むしろやってできないことなんてないってな。やるまでが難しいんだ。そして続けるのはもっと……って感じで。俺はバスケは続けてる。でもそれ以外は全部放棄だ。学生が勉強せずにバスケばっかやってんだ。これくらいの場所にはこれる」
「それはお前のご学友も同じだろ? それなのに、この中では群を抜いて上手いじゃん」
「あいつらは俺と同じじゃねぇよ」
「はっ? そうなのか?」
「そーなの。あいつら、働いてるかんね」
 思わぬ言葉が飛び出した。
 どうやら彼らは働いて……って、働いてる?
「……なに?」
「あ、聞こえなかったか? あいつら、社会人やってんの」
「うっわ……マジでか。……てっきり同じ高校生だと思ってたのに」
 呟いて、楽しそうに話をする派手な頭の諸君を見る。
 今日集まったのは、俺と裕弥の他に四人。一時期流行ったスリーオンスリーをするためには、最低六人は必要だったそうだ。ウォレスくんとロッドマンくんの他は、アレンくんとレジーくんがいる。アレンくんは複雑に編み込まれた髪型で、レジーくんは単純なスキンだ。
 俺と比べれば、皆遥かに上手かったが……そうか、社会人か。
「あいつらのうち、二人は高校中退してんだよ。髪型を怒られてキレたりとか、そんな理由で。もう二人は高卒で働いてる」
 裕弥が言った。
 その声はいつもと変わらない調子だったが、
「いや……ちょっと待てこら。平均年齢っていくつ?」
「あいつらの? たぶん十八くらいじゃねぇの?」
「……」
 またしても衝撃の発言。
「なんだー涼介ー。器がちっちゃいぞー」
 裕弥にそう揶揄される。
 しかし……いつか考えたように、標準的な高校生にとって社会とはつまり学校を指す。指さないのかもしれないが俺の場合はそうなのだ。
 というか俺、さっきレジーくんの頭、おもいっきり撫で撫でしたぞ。ワックス塗っていいですか、とか言いながら。
「そんなにビビんなよ。あいつら、年とかそういうこと気にしねぇから」
「……お前、どうしてそんな人達と知りあってんの?」
「昔ちょっとやんちゃしててよ。それでまぁ」
「……」
 なんだか今日は衝撃発言の連続だ。
 しかも今回のは、俺の身が若干危険。卒リンとか、なんかそんな感じの危険だ。
「レベルとか気にせず楽しめてる俺は、しばらく上には行けねぇよ」
 俺に対する気遣いからか、裕弥がそんなことを言った。
 その声はわずかに虚しさを内包している気がした。
「そりゃね、もっと上手い奴らと勝負したいって気持ちはあるけどな。でもそのために面倒なこと我慢して……とか言われるとよ、それはなんかな。スキルに関する指摘なら受け入れられるけどよ、バスケとは何の関係のないことまで考えろ、なんて言われたらな。それはちょっと違うだろ」
「もしかして、中学の時にバスケ部入ってたとか?」
「そゆこと。そんで俺の性格だから、色々と言うわけだ。下手くそとかもっと練習やれとか勝ちたくねぇのかとかばかものーとか」
「言い過ぎだ」
「しょうがねぇだろ。俺がやりたいのはバスケだぜ? バスケットマンごっこじゃねぇんだから」
「まぁ……わからないでもないが」
 狭い世界での価値観というのは、得てしてそう言った危険をはらんでいる。広い世界へ飛び立つ前の、過程としての狭い世界……そう認識するなら、基準はその広い世界におかなければならないのだ。しかし現実はそうもいかない。狭い場所で僅かな優劣を競い合い、認められれば満足する。果ては自分の立場なんてものまで意識しなければならず……いつの間にか、基準は地に堕ちる。
 実力を磨くための場で退化する。そうして消えていく“夢”は腐るほどあるのだろう。
「もし俺の才能が本物だったらよ、こんな場所で埋もれるはずはねぇんだ」
「スカウトマンはそんな暇じゃないと思うけど」
「そーかもしんねーけどね。でもな、将来性とか語られんの、マジで嫌なんだよ。今の俺に力がないならそれでいいんだ」
「こんな場所からでも鳴り響くような実力って?」
「そゆこと。未来や可能性を担保にケツ叩かれるなんて、俺には耐えられねぇよ。前にも言ったけどな、俺は何もしなくてもここにこれたんだ」
「あぁ……そうか。何もしてないから、まだ、ここにいるのか……それとも、何もしてないから、今、ここにいるのか。そんなものは誰にもわからない」
「そして俺は結構上手い」
 言って、裕弥は無邪気に笑った。
 その笑顔を見ながら、俺は何となく思う。
 馬鹿みたく純粋にバスケが好きで、そしてバスケの最高峰がNBAだった……きっと、ただそれだけの目標なのだろう。だから努力も必要なかったし、夢として語る理由もなかった。半直線上に点在する“めじるし”……その中で、確認できる限りでは一番遠くにあったNBAという場所。だから目指した。その場所に辿り着いた時、今よりももっと純粋にバスケを好きになれる気がしたから……なんて、それはさすがに美化しすぎか。
 半直線に原点しか存在してない俺の……やっぱりこれは、嫉妬か。
「……裕弥さ」
 同じ目標を持つ裕弥に聞いてみたいことがあった。足を踏み入れてしまった俺ではない、外から見た裕弥の意見を。
「窪居澄佳って、才能あると思うか?」
「はーい? 意味がわかんねーですけど」
「彼女さ……演劇、やってるんだよね」
「はっ?」
 裕弥が俺を睨むように見つめた。先週の土曜日、彼女の舞台を見に行ったことは、まだ話していない。
「なにお前、やっぱいい関係になっちゃってんの?」
 予想通りの言葉が返ってきた。
 小さく首を振り、柔らかく否定しながら、
「違うから、いい関係とか。ただ……なんというか、お友達になったらしくて」
「それはあれか? お友達から始めましょうっていうあれ?」
「違くて。そういう色っぽい意味無しで」
「あー……まーそうか。いくら青春時代だからって、何でもかんでもスカイブルーってのはなー」
 スカイブルーは裕弥なりのジョークだろう。とりあえず今は受け流して、聞きたいことを聞くことにする。
「外から見てる彼女にはさ……そういうの、感じたりする? ほら、可能性みたいな」
「可能性って言葉、好きじゃねーんだけどね。でも……ま、見えてない部分が多いって意味では、変化する余地はあるんじゃねーの」
「余地、ね……」
「俺の基準は大物になれるかどうかってとこだから、あんま当てにされても困るけど……ただ窪居の場合、人間的に底が割れてないじゃん。それは単に、知らないから計りようがないって意味だけど」
「それでいいよ。俺はその知らない奴の意見を聞きたかっただけだから」
「ふーん……てことは涼介、それなりに親しいお友達になっちゃったわけだ」
「……」
 こういう時の裕弥は鋭い。
 思わず目を逸らした俺に、裕弥はなんだか居心地が悪くなるほどの優しい視線を向けた。
「隠されりゃ、ショックもうけるけどさ」
 苦笑するような調子で、裕弥が口を開いた。
「別に文句言う気はねぇよ。てゆーか、そんな権利あるとも思ってねーし。この前の時はさ……なんつーか、疎外感っつーの?」
「隠そうとしたのは悪かったと思ってる。隠す必要なんてなかったという意味で」
「そんなにかしこまらんでくれ。あの日は俺も若かったっつーことで」
「まぁ……何というか、難しいんだよな、こういうの。今までが今までだったから」
「今までだって好き勝手にやってただけだしなー」
「その結果として、なにもしていなかっただけで」
 変化に巻き込まれた……受動的ではあるが、それは巻き込まれた方にとっても変化なのだ。俺の周囲には主役になり得るだけの人間が二人もいた。限りなく読者に近い場所に、俺は脇役として立っていた。本当は俺だって、動き出せばどこへだって行けたのかもしれない。
 でも、違う。
 主役の可能性を秘めた俺が、それを望んでいない。いや、むしろ今の立場を望んでいる。
 脇役として流れに巻き込まれ、例え慣れないことに戸惑っても……それでも、見届けたいのだ。すぐ側にあるストーリーを。
「ま、隠すなら上手くやってくれや。俺にばれないようにな。隠すってのと、言わないだけってのは、微妙に違うだろ? 嘘とゼロっつーか」
「裕弥らしくない的確な例えにちょっと感動」
「うるせーよ」
「まぁ……でも、頑張るよ」
 裕弥の言葉にうなずく。今の俺にとって、それはさほど困難な事ではない。何故なら俺は、隠さなければならないような事情を持ち合わせていないからだ。ただ、そんな状況がいつまで続くかと聞かれれば……それは、わからない。
 自分自身に求めた整合性、それが満たされた時、裕弥に隠さなければならない事情を俺が知ってしまう可能性も、あるにはあるのだ。
「休憩しゅーりょー!」
 大きな声で言って、裕弥が立ち上がった。俺も疲れた体にむち打ち、立ち上がる。
 立ち上がった裕弥が、不意に俺を振り向いた。
「なー、一つ質問」
「あ、なに?」
「もしかして涼介ちん、窪居澄佳にホの字だったり?」
「まさか」
 問いに対する答えは、自分で思っていたよりずっと簡単に出てきた。
「事態にのめり込んでるだけ」
「はっ? それはどーゆーこと?」
「彼女に関して……なんと言うか、スケベ根性と言うか」
「うっわー、最低じゃん」
「自分でほじくり返してるわけじゃないから、そう言わんでくれ」
「ま、他の奴らが触れたがらない場所に触れようとするのは、涼介らしいと言えばらしいんだろーが」
「見えるものを見たいだけだよ、俺は。……それで、試合」
「おー、忘れてた。わりーわりー」
 無責任なNBAドラフト候補は、悪びれる様子もなくそう言って、社会人軍団に笑顔を向けた。
 俺は少しほっとしていた。動き始めた物語が、一旦停止したみたいに。少なくとも現在、俺が知る限りにおいて、話を進める要素は一つもなかったはずだった。
 つまり俺は、
「ほら涼介! ぼーっとしてんなっ!」
「あ、ごめん」
 油断していたのだ。


 7−オークショニア

 バスケをやっていた時間は、三時間ほど。半分ほどが休憩時間だったが、バスケットボールというスポーツは、思いのほかタフなスポーツだった。遊びの試合とは言え誰もが真剣……いや、遊びだから真剣になるような奴らの中での遊び。三時間も続けられたのは奇跡に近い。奇跡の代償は、爽快というにはほど遠い疲労感。特に喫煙者の俺にとっては苦痛に近いレベルの疲労だ。
「明日が死にそう……」
 呟きながら夜の街を歩く。
 都会とは言え十一時を過ぎれば、さすがに街は静まりかえる。毎日、日付が変わるまでざわめきに支配されるような場所は、都会の中でもごく一部だ。
 昼間とはうって変わって人の少ない繁華街を眺める。
 ほとんどの商店がシャッターを下ろし、人の息づかいが感じられない。街が眠るとはこういうことを言うのだろう。たまにすれちがう人影は、疲れた顔のサラリーマンばかり。そんな人間とすれ違うたびに、空気が重みを増していく気がする。
 この街で綴られるストーリー。
 その中に、幸せな過程の描かれたものが、どれだけあるだろう。
 そんなことを考えていたときだった。
「私の物語に興味はないかね?」
「……」
 闇から湧いて出るように、一つの声が響いた。
 俺は思わず立ち止まる。一呼吸おき、慌てて周囲を見回す。
 声の主はすぐに見つかった。電柱に背を預け、足を組み、黒いコートを羽織った男。妙に芝居がかった仕草で、かぶっていたテンガロンハットを持ち上げる。
 俺の中で危険信号が灯る。危ない――この男は明らかに危ない。たぶん主に精神が危ない。そして巻き込まれたら必ず損をする。
 関わり合いを持たぬが吉……だから、緊急避難を――、
「私の物語に興味はないかね?」
「……」
 僅かな逡巡の間に、男は俺の目の前に移動していた。
 どうやら、これでもう逃げられないらしい。
 男は帽子の下から俺の顔をのぞき込み、続けた。
「ふっふっふ……少年、私は君を待っていたのだよ。他の誰でもない、君だ。あぁ、何と長かったことだろう。数十年待ち続けたと思えるほど待ちこがれていたのだ、君が通りかかるのを」
「それたぶん勘違いです。あなたが待っていたのって、ゴドーとか言う人ですよ、きっと。俺じゃないです。そんなわけで、俺はこの辺で失礼します」
「私の物語に興味があるだろう?」
「……」
 男が俺の行く手を遮った。
「少年、君はそれを望んでいるはずだ。わからないかね? ページをめくるのだよ」
「わからないですよ……というか、マジうざいからそこどけよ」
「ふっふっふ。少年、感情的になってはいかんぞ」
「マジでうざいのでそこをどいてください」
「はっはっは! なかなかに洒落の通じる少年だ。気に入ったぞ」
「頼むから気に入らんでくれ……と言うか、本当に勘弁してください。俺とあなたには、なんの関係も――」
「窪居澄佳」
「……」
「ふっふっふ……少年、いい目つきになったじゃないか」
 一歩後ずさり、男と距離を置く。しかしそれは、逃げ出すためでも攻撃するためでもない。
「ページをめくる気にはなったかね?」
「……話を聞くくらいなら」
「ふっふ。まぁいいだろう。この程度の共通項だけでは、その程度の譲歩しか得られないとは思っていた。来たまえ、話をしようじゃないか」
 言って、男は歩き出す。
 俺はためらった。
 窪居澄佳……この男と彼女にどんな関係が? いや、それ以前に俺に何を伝えたい?
 理由だ、そこがわからない。
 男の行動の理由。
「どうしたんだね」
 小さな路地を折れようとした男が、俺を振り向いた。
「心配せずとも獲って食ったりはしない。ついて来なさい。二十四時間経営の喫茶店を知っている」
「一応言っておくが、俺は未成年だぞ」
「私は法を犯すのが嫌いでね。くだらん会話は時間の無駄だ。早く来たまえ」
 男の眼光が鋭く光った。まるで蛇に睨まれたカエル、逃げるという選択肢を捨てた自分はまさしくその通りだと思った。
「なんだよ、これ……」
 俺は油断していた。
 なんの心構えもなしに、新たなシーンが始まった。

「コーヒーはホットとアイス、どっちが好みかね?」
「アイス」
「店員よ、アイスコーヒーを二つだ」
「……」
 連れてこられた喫茶店は、見る限りでは普通の喫茶店だった。オーナーらしき男と女の店員、従業員はその二人だけらしい。店内にいる数少ない客は、店に置かれたマンガを読み耽っている。マンガ喫茶に近い普通の喫茶店といったところだろうか。
 傍若無人な男の注文の仕方に戸惑っているところを見ると、店員もぐるなんてことはないらしい。
 男が口を開いた。
「君は高杉涼介少年だね?」
「住民票にはそう書かれていたような気がする」
「なるほど、名前にはそれほど大きな意味がないと言いたいのだな? いや、それとも言葉に対する根元的な疑問か? ふむ、なんにしろ興味深いトピックだ。気に入ったぞ、少年」
「それはさっきも聞いた」
「ならば言い方を変えよう。より気に入ったぞ」
「勘弁してくれ」
 答えながら、男の様子を探る。
 帽子をとった男は、最初の印象よりずっと若かった。二十代後半か、三十代前半くらい。口さえ開かなければ二枚目の男前で、身長も高く細身の体は均整がとれている。
「アイスコーヒーお持ちいたしました」
 店員がグラスを二つ持って現れた。俺と男の前にグラスを並べ、不穏な空気に一瞬眉をひそめて去っていく。
 男はそんな店員の様子など気にも留めず、グラスを鼻先にもっていき香りを味わっている。しかし、香りを味わうならアイスではなくホットを選ぶべきだろう。裕弥ばりの微妙なボケだ。本来ならつっこみたいところなのだが……さすがにそんな雰囲気ではない。
「良い豆を使っている」
 わかりもしないくせにそう言って、男がアイスコーヒーに口を付ける。
 俺もそれに倣って、アイスコーヒーを口に運ぶ。緊張して渇いたのどに、その冷たさが気持ちいい。
 一口だけ飲んで、今度は俺から口を開く。
「どうして俺の名前を知っている?」
 尋ねると、男は楽しそうに笑った。
「少年、君は会話に流れを求めないタイプのようだな。あまり目にしないタイプの人間だ」
「誉められてるのかどうか微妙だな」
「誉めているのだよ。その疑問を聞くのなら、もっと前にふさわしいタイミングがあったはずだ」
「今さら俺の名前を知ってることくらい、別に不思議な事じゃないだろ」
「ふむ……なるほど。会話ではなく物語の流れ、か。いいぞ、少年。その調子だ」
 目を細めてそう言われるが、嬉しくも何ともない。
「くだらん質問はなしにするわ……」
 ため息を付きながら呟く。
 それからアイスコーヒーを一気に飲み干して、
「あんた、窪居澄佳とどういう関係だ?」
「……」
 それは鍵となる質問だったのだろうか、男は意味ありげに沈黙した。
 二つの視線が交錯する。俺から見た男の目は、明らかに状況を楽しんでいるものの目だった。世界観を理解した人間に、自分の理解度を試されているような感覚。
 やがて男は、コートの懐に手を入れ、小さな紙を取り出した。
「見たまえ」
「……これは、名刺?」
「いたってオーソドックスな名刺だ。戸惑うこともあるまい」
 差し出されたのは男の言葉通り、普通の名刺だった。その字面に見たことのある単語を見つける。
 一つ目は、劇団オークショニア――そしてもう一つ、河原田大樹。
 その名前には覚えがある。あまり良い印象のない名前……、
「あんたが全ての元凶か」
「む? なにかね?」
 真っ正面から言うと、男……河原田大樹は、初めてその顔に疑問を浮かべた。
 どうやらこの男、あれだけベタなストーリー書いておいて、まったく自覚はないらしい。
「少年、全ての元凶とはどういうことだ?」
「いや……まぁいいわ。それについては」
「ふむ。ならばサラッと流すことにしよう」
 興味ないようにうなずいて、男は本当にサラッと流した。
「これで私と窪居くんの関係が理解できただろう?」
 何事もなかったように男が続ける。
「わざわざ確認するまでもないかもしれんが、私が劇団オークショニアの団長だ」
「それについてはわかった……で? その団長さんが俺に何の用だ?」
「これは親切心なのだよ」
 またしても意味不明な言葉が飛び出す。
 俺以上にこの河原田大樹という男は、会話の流れを壊すのが好きらしい。
「聞くところによると、君は窪居くんと随分仲が良いらしいじゃないか」
「ただのお友達だよ」
「それは知っているとも。彼女自身の口から確認もとっている。しかし今までの彼女には、そんなただのお友達すらいなかったのだ」
「……ちょっと待ってくれ」
 男の言葉を遮る。
 嫌な空想が俺をとらえた。それはあまり考えたくないことではあったが……それでも、違和感。
 違和感が消えない。
 俺は聞いた。
「もしかしてあんた……劇団員のプライベートまで管理してるのか?」
「……ふっふっふ、さすがだ、少年」
 明確な回答はなかった。だが、肯定と受け取るには十分すぎるほどの返答だった。
「誤解のないように言っておくが、私は強制したことはない。だがしかし方針として掲げてはいる。俗世間に揉まれて我を見失うようでは、一流にはなれないとね」
「それはあれか? 低いレベルでの価値観に囚われると負けるぞって意味の言葉か?」
「そう受け取ってくれて問題ないだろう。とかく一般人は、何かを“している”というだけで賞賛したがる。無論それは多少の皮肉も込めた賞賛だが。しかし彼女の場合、形としての結果は、一応、示している」
「舞台に上がってるってことね……」
「そうだ。しかしそんな場所を到達点にされては困るのだよ。祭り上げられたヒーローなど、張りぼて以上に醜いではないか」
「……それが理由か」
 窪居澄佳が孤独を選んだ理由……男の言葉の内容。
 高い場所を目指すものにとって、消費者レベルの世界など意味がないと言うこと。正確に言うなら、中身ではなくパッケージで人間を評価するような世界には意味を見出せないということか。確かに一般社会はそうだろう。学歴やら親の職業が暗黙のうちに意味を持つ現実、夢や理想という言葉が美しいとして語られる現実。パッケージを所有することには何の意味もないのに。しかし過程にいるものの中身を見る人間など、ほとんど存在しないと言っていい。過程にいることに意義を見出しているようでは……遥か先まで続く階段など、登り切れるはずがない。
 だからこその孤独?
 いや……それは違うだろう。何気なく日々を過ごしているように見えて、真剣に前を向いて進んでいる人間だっているはずだ。何気ない日々というものが、芸の肥やしになることだってあるだろう。何よりあの彼女が、大衆レベルの価値観を否定するはずがない。補足的な理由としては、この男の話は納得できるかもしれない。だが、それが全ての理由と言われたら、どう考えても弱すぎる。“それも理由の一つ”なら認められるが、“たった一つの理由”としては認められない。もっと限定的な、有無を言わせぬ理由が――、
「窪居くんは最近、なにやらやる気になったようでね」
「……ん?」
 男の声で、思考が現実に引き戻される。
 男はやっぱり笑顔で、俺を見ていた。
「私に提案したのだよ……脚本を団員皆で見直したらどうだろう、とね。私は驚いた。今までの彼女は演じるだけだったのだから。しかし、理由を聞いて納得した。なにやら友達に励まされたと言うじゃないか。しかも彼女は、それを嬉しそうに語るのだ。……ふっふっふ、青春とはいいものだ。少なくとも私にとって、団員のモチベーションがあがるのなら、それに越したことはない」
「そこで俺の名前が出てきた?」
「心当たりはあるだろう?」
「まぁ……探すまでもなく」
 あの夜の出来事。次につなげて欲しいと言った俺の言葉。それを真剣に受け止めてくれた窪居澄佳というクラスメイト……単純にそれは嬉しいことだ。
 しかし、何故だ。
 嬉しいはずなのに、この不快感は。
 この男が明かした孤独の理由は、本当に真実か?
「私はビジネスに興味があってね」
 男の話題が飛ぶ。
 さすがにもう慣れたので、戸惑うことはなかったが。
「世の中は金に支配されていると言ってもいい。そうは思わないか、少年」
「主観に影響される範囲が狭いという意味では、金はいい尺度になるとは思う」
「だろう? そこで、私は考えたのだよ。私が今、所有する商品とはなにか、と」
「……」
 商品という言葉に反応した。
 先週会った、あの男の嫌な笑顔が思い浮かぶ。
「ふっふ……意外な場所に商品はあるものだ。つまりそれは、価値さえあれば、どんなものでも商品になりうると言うことだ」
「あんたの書いた脚本のことか? そのわりには低い価格設定だったと思うけど」
「あんなものは余興にすぎん。私はあんなものとは比べものにならないほど価値のある商品を所有している」
「あんなものって……あんた、自分の書いた脚本を――」
「劇団員だよ」
「……」
 空気が凍りついたような気がした。男の言葉が意味するところを、なんとなく想像できてしまったからだ。たった一言でたくさんの事柄が関係性を持ち始める。
 窪居澄佳――彼女を軸に考えろ。孤独を選んだ彼女の周囲に漂う、きな臭い噂話。劇団員の彼女、演じることのできる彼女。価値さえ見出せばどんなものでも商品になりうると言う男の言葉。
「ふっふっふ……気付いたようじゃないか、少年」
「あんた……でも、それって」
「彼女たちは演じているのだ。求められるがままに……ね」
「……商品って」
 そういうことだったのか?

 斡旋――その言葉を聞いて、どんなイメージを人は抱くだろうか。
 河原田大樹の語ったビジネスとはこうだ。
 劇団オークショニアの団員には、演技力の向上という名目で一つの義務が課されている。舞台の外で役柄を演じる義務だ。
 まずは客を募集する。自分の生活に不満を抱えた人間達が客だ。客は仲買人である河原田大樹に注文する。こんなシチュエーションを……この劇団員に、と。劇団員は客の注文通りの役柄になりきる。その注文は、主に自分の子や恋人役といったものが多いそうだ。一定の時間内、劇団員はその役柄を演じきり……徹底的に演じきり、そして報酬を受け取って仕事は終了。劇団員の多くは、その報酬から劇団に所属する費用を捻出しているそうだ。河原田大樹曰く、自然な演技の訓練にもなって一石二鳥だと……しかし、その内実はどうだろう。
 法を犯すのは嫌いだ、河原田大樹はそう言った。その言葉を信じるなら、世間で言うところのいかがわしい行為には及ばないはず。しかし、中年の男と腕を組んで歩く彼女の姿は、演技の訓練をしているように、他人に見えるだろうか。
 俺を見てあれだけ驚いた彼女は……目標を追っていただろうか。

「くそっ……意味がわからん」
 十二時近い時間になって、俺は解放された。
 男が言うには、自分が高校生の頃はこの時間には寝ていたとか……今さら何を言ってるんだと俺が思ったのは言うまでもない。しかし、言葉の内容とは裏腹に、その眼光は鋭かった。今すぐこの店を出ろと言われているようだった。
 あの男は苦手だ。どこまでが本気でどこまでが冗談か、さっぱりわからない。
「ビジネス、か……」
 細い路地を縫うようにして歩く。男に案内された喫茶店は、表通りから外れた路地裏にあった。一度表通りに出、家に着く頃には十二時を過ぎているだろう。
 曖昧な記憶を頼りに歩きながら、ずっと同じことを考えていた。
「……理由だよ、理由。それを俺に言った理由ってなんだよ」
 窪居澄佳、ひいては劇団オークショニアに関するあまり知られていない事実を明かすことが、あの男にとって利益になるとは思えなかった。客の募集に関しては、意外なことに結構広い範囲で行われているらしい。それは法を犯していないからだろうか。法律に違反していないからと言って、胸を張れる商売でもないだろうというのが俺の意見だ。
 理由については、一つだけ心当たりがあった。だが、それを認めるのは、どうしてか……どうしても、できなかった。
「運命の神様か……」
 結局、思考はそこに辿り着く。
 やっぱり俺は巻き込まれた側なのだ。主観の部分でそう決めつけてしまっている。こうして立て続けに面倒ごとが起これば、逃げたくもなるだろう。逃げ道を残す行為……あまりかっこよくはない。だが、常に受け身の俺に、何が出来るというのだ。
「文句あるかくそう」
 誰もいない暗闇に悪態をつく。そんな俺の目に、表通りを照らす街灯の灯りが見えてくる。
 少しだけほっとする。これでわけのわからない空間から抜け出せる……そう思っていた。
「……えっ」
 いつもの表通りに出て一分もたたない頃だ。
「た、高杉くん……」
 俺の目の前に、彼女が立っていた。
 俺はその時、確信した。
 河原田大樹の意図を。
「……友達かい?」
 彼女の隣には見知らぬ男が立っていた。まるで父親のように尋ねる男……つまり客。
 そして“商品”である彼女は――、
「あ、ごめんなさい……勘違いだったみたい、です……」
 徹底的に演じきった。

 この邂逅はストッパーだ。河原田大樹によって仕組まれた、河原田大樹のためだけの。
 おそらく状況にのめり込ませたくなかったのだろう。ストレートに言ってしまえば、河原田大樹は俺と彼女に恋愛感情を持たせたくなかった。何故なら今まで従順な“商品”だった彼女が、それを放棄する可能性が出てしまうからだ。熱を帯び始めた感情に冷や水を浴びせる。効果的と言えば効果的だ。感情よりも疑問が先立つ状況……まさしく今の俺がそうだ。
 彼女は今の自分をどう説明するだろう。俺が決定的な疑問を口に出したとき、何と答えるだろう。全てが目標のためだと答えるだろうか。答えは返ってくるだろうか。
 河原田大樹が、今日、俺と接触したかった理由。急かすように喫茶店を追い出した理由。
 あの男が仲介人ならば、彼女がいつからいつまで“商品”であるかなど、知り尽くしているに決まっている。絶妙のタイミングで罠を仕掛け、種明かしで時間を稼ぎ、解放してイリュージョンを見せる。あいつの嫌な笑顔が思い浮かぶ。
 俺がどちらを信じるか――トリックか? 幻か?
「……今日はちょっと慰められるような気分じゃなくてさ」
 日付が変わって一時間ほどがたった頃、俺は先週来た公園にいた。
 そこには先客がいた。
 その先客はたぶん落ち込んでいるだろうと思った。
「ごめん。邪魔だったら帰る」
「……そんなことない」
「俺には多くのことが見えていると思ってたんだよね」
 立ったまま、そして微妙な距離を残したまま話しかける。
「でも、そんなものは錯覚だった。俺には他人よりは多くのものが見えていた。でもそれは、相対的に多いと言うだけだった。全体像の何割が見えているかなんて、もう自信はない。どれだけ種明かしがされたって……それが虚像に思えてしかたない」
「あの……なんの話?」
「河原田大樹と会った」
「えっ……」
「……落ち込むのは前回だって同じのはずなのに、俺は今しかここにいない」
 知らないことがこんなにもたくさんあるなんて、思っていなかった。
 見えたものを見るだけ、それが間違っていたとは思わない。だが、提示された材料から物語を読む、流れを捉え先に目を凝らす行為……その過程が完璧に抜け落ちていた。想像力が足りていない。種明かしされて納得できるなら、種明かしされる前から思い至ってもよかったはずなのだ。河原田大樹が明かしたのは、方程式の部分。事象と事象を結ぶからくり。何一つ新しい事がわかったわけではない。あいつがしたのは、“商品”という言葉で今までの事象を結びつけただけ。言葉の並べ替えゲーム。序列と関係性。
 河原田大樹によって構築された、法則、世界観、設定……なんだって構わない。
 あいつの手の平の上で踊らされていた自分が……いや、今もきっと踊らされている自分に、腹がたってしょうがなかった。
「情けない……自分が。俺はもっと早く気付いていてもよかったのに」
「聞いたんだ……」
「援助交際じみたことをやってた理由はわかった。納得できたこともあるし、納得できなかったこともある」
「……一つだけなら、質問に答えます」
 人差し指をすっと立て、彼女は微笑む。
「このセリフ、ずっと前から言ってみたかったり」
「なんか……結構平気そうだね」
「来てくれたから。……自分勝手だけど、嬉しかったから」
「光栄です」
「ふふっ……じゃあ、質問は?」
「どんなことでもいいの?」
「うん。どんなことでも」
「じゃあ……」
 考える。
 彼女は何を知っているだろう。何に気付いていて何を知らされていないだろう。それとも、全て知っていて全て受け入れているのだろうか。河原田大樹が“親切心”から俺に教えたビジネスのように、核となるキーワードはなんだ?
 質問は一つだけ。
 できることなら、全ての法則を解き明かすような質問を――、
「バナナはおやつにはいるんですか?」
「え、えっ?」
「いやー、どっちかなって思って。ちなみに個人的には、バナナはおやつではなくてデザート派」
「あ、あのっ、高杉くん? 質問って――」
「話してくれるのを待つのが俺流」
「あっ……」
 口元を手で押さえ、悲鳴のように彼女はこぼした。
「ま……そういうことだから」
 全ての法則を解き明かすような質問、そんなものを俺は知らない。そもそも、自分が何を知りたいのかさえわからない。河原田大樹によって繋がったたくさんの事象、それはきっと繋がっただけでは終わらないだろう。法則から洩れた事柄がまだいくつか残っている。関係性を俺が見出せていない事象だ。核心を突けばそれは繋がるのか、それともまだヒントが足りないのか。関係性がそもそもない事柄なのか。
 なんにしろ、今の俺では、聞くべき質問というものが選べない。
「……どうしよう。今すっごく嬉しかったり」
 彼女が口を開く。見ると、その目は輝いているように見える。つまり夜の街灯を反射させている……という意味の表現なのか、これは。
 俺を真っ直ぐに見つめ、彼女は続ける。
「本当はね……あんまり聞かれたいことじゃないの。団長に会ったなら聞いたよね? 一応、これって名目では演技のためだって」
「聞いた」
「でもね、ほとんどの劇団員はそうじゃないの……みんな、お金のためにやってる」
「劇団に所属する費用……ってやつ?」
「そう。うちの劇団に所属してる人って、お金に余裕ある人はほとんどいないんだよね……わたしもそうなの。でも、劇団の維持には経費がかかるし、舞台をするにもお金は必要だし」
「つまり結構な額をとられるってことか」
 止むに止まれぬ理由というものだろうか。
 金のため、そしてだからこそ後ろめたい行為。金のためという理由は、そこらで体を売っている若者達と何ら変わらない。何のために金が必要かという部分が異なるだけ。聞けば納得できる理由でも、聞く人間によっては言い訳に聞こえる理由。
 だから彼女は一人を選んだのだろう。学校生活と舞台活動、二つの事柄を天秤に掛け、リスクを鑑みて、前者を捨てた。
 河原田大樹の掲げた、大衆に依存するなという方針……強制されることのない方針なんて、よく言えたもんだ。裏でこんなことをさせられたら、誰だって周囲を遠ざけるだろう。だが、彼女がそれを認めている。外から見ればひどく歪んでいるように見えて、実際は確固たる価値観に沿った行動。
 面倒なものを抱えてる。そんなものを抱えながらでも追求したい……目標、か。
「……いつか言えたらいいなって、思ってる」
 足下に視線を落として、彼女が呟く。それから再び視線を俺に向け、
「きっと目標に辿り着けたときには、全部話せると思うの。良い思い出として」
「俺としては、愚痴るのもありだと思うけど」
「うん、ありがとう……でも、一度それやっちゃうと、張りつめてるものが切れちゃいそうだから」
「そういうもんなのか」
「わたしの中ではそういうもの、かな」
 含みのある言い方だ。
 たぶん彼女の抱えるものは、俺が想像するよりずっと大きいのだろう。つまり想像力を限界以上に広げれば、語られずとも見えてくると言うことだ。もちろんそれは大変な作業だが。
「わたしもバナナはおやつにはならないと思う」
 明るい笑顔で彼女が言った。
「だって一本の単価とか出すの、小学生の低学年とかには難しいよね?」
「あぁ……わり算覚えるまでは確かに」
「しかも割り切れなかったり」
「消費税は値段にはいるのか税金なのか、とか」
「それに房から取っちゃったら、そもそも商品にならないしね」
 それは本当にどうでもいい話題だった。たぶん、完璧に無駄な会話。でも……それが楽しい。こうしている時間が気持ちいい。空気が柔らかい。この場所だけが、特別な世界であるような。
 錯覚――なのだろうか、この感覚は。
「……明日、学校だよね」
 言って、彼女が立ち上がる。
「もう少しで二時になっちゃう」
「休むかな、明日」
「いいの?」
「まぁ……俺の中では高校って、卒業さえできれば、成績なんてどうでもいい、みたいな」
「大学受験って、内申点とかほとんど関係ないしね」
「だからといって俺のような人間が学校休むと、より馬鹿になってしまうのだが」
「じゃあ、頑張らないと」
「んー……」
 呻くように答え、それから少し苦笑した。
 自分以上に頑張っている人間にそう言われたら、なんだか素直にうなずく気になった。
「……帰ろうか」
「うん」
 落ち込んだときによく来るという公園を出る。どうしてか気分は良かった。そしてたぶん、それは彼女も同じだろうと思えた。そう思えたことに意味があった気がした。でもそこは深く考えなかった。
 深く考えなかった。
「じゃあ、わたし向こうだから」
 交差点で立ち止まり、彼女が言う。
 俺は疲れで麻痺した思考を理由に、少しだけ足を踏み出す。
「……送ってく?」
「いいよ。こんな時間だもん」
「だよ、ね……」
「じゃあね」
 彼女が歩き出す。自分を包む倦怠感とは違った感情を突き詰める暇もなく。
 彼女は一度だけ振り向いた。
「また明日ねっ!」


 それはとても綺麗な笑顔で、無邪気な約束で――でも翌日。
 窪居澄佳は、学校に来なかった。


 8−彼方の景色

 彼女が学校に来なくなって、三日が過ぎた。
「また弥明後日……なんちって」
 一週間が終わろうとしている金曜日。いつもより穏やかな昼休み。
 大きな窓にはめられた景色が、ゆっくりと秋を深めていく。校庭の脇に植えられた木々が、その色を失っていく。緑から茶、そして喪失……俺を抱く不安感が季節のせいでないことは、もちろんわかっていた。
 秋に抱くイメージ、そんなものは表現を積み重ねることによって読者に刷り込まれた仮初めの偶像だ。校舎の脇に植えられた樹木は、ただ日差しの弱い冬への準備として葉を落としているだけだし、校庭を駆け回る制服達の中には、限られた青春を謳歌しているなんて考えている者はいないだろう。夏より薄く見える空の色は太陽と地球が見せる視覚的な差異でしかなく、安定しない風は高気圧と低気圧の位置関係による時期的な現象で何を運んでくるわけでもない。
 それなのに、まるでこの風景につられたかのような不安が俺をとらえる。
 この感覚は――そう、知らぬ間に物語が終わっていたような、そんな感覚。
「おーい、涼介ちん、なにをメランドリな顔してんの?」
「……メランコリックね、それ」
「あー、そうそう、たぶんそれだ」
「ちなみにメランドリは、確かロードレースの世界選手権かなんかの選手だったよね」
「おーおー、そうだ。昔二輪にはまってたんだよ、俺」
 その昔とは“やんちゃ”していた頃の話だろうか。
 だとしたら、この男と友達付き合いを続けるのは相当危険かもしれない。
 裕弥は学食で買ってきたらしい菓子パンを二つ、俺の机の上に投げた。それから自分はいつもの如く窓枠に腰を落ち着け、近くにあった椅子に足を乗せる。
 菓子パンのうちの一つ、アンパンに裕弥は手を伸ばす。
「今日はアンパンやねん」
「聞いてないし。それからどうして関西風なのかわからないし」
「いやー、なんかほら、関西ってだけでなんか楽しくないか?」
「ついに言ってることの意味までわからなくなった」
「俺、関西弁好きやねん。なまら好きやねん」
「それ北海道弁ね、なまらって」
「涼介のツッコミはいいなー。やっぱツッコミしてもらうなら涼介だよなー」
 トイレ掃除にはクイックル的なノリでそう言われる。誉められているのだろうが、かなり微妙だ。
「半分食う?」
 アンパンを真ん中で割った裕弥が、その片方を俺に差し出して言う。
 俺は軽く首を振り、
「昼飯なら食べたから」
「んー……でもあれだぜ? 食うものしっかり食わないと元気でないぞ?」
「しっかり食ってるつもりだけど」
「でも元気ないだろ?」
「……」
 言われて、やっと気付いた。
 たぶん裕弥は、俺を元気付けるためにあんな会話を……友達、か。そんな暑苦しい友情ごっこを求めたつもりはなかったのに。
「……わるい。なんか気にさせたみたいで」
「あーこらこら、やめてくれ。そーゆーのに気付いたときはサラッと流してくれ」
「まぁ……嫌がるだろうとは思ったけど。ちょっと嬉しかったから」
「こ、こら涼介ちんっ! 気持ち悪いぞ! 不気味だぞっ!」
 少し本音を見せたらボロクソに言われた。
 俺は苦笑し、それから呟く。
「この前バスケした後、会ったんだよね、彼女と」
「……」
 裕弥は何も答えなかった。沈黙で答えたとも言えるが。
「また明日……ってね。小学生みたいだけど、そんな別れ方して」
「それで涼介ちんは、また明日という契約が履行されなかったことに対して怒っていると?」
「怒っているとは違う。……違和感かな、これは」
「はっ?」
「そこには理由が必要なんだよ。物語の中でど忘れとかうっかりミスとかは許されないんだ。唐突すぎる展開っていうのかな……そういったものが許されるためには、伏線が必要なんだよ」
「おいこら涼介」
 身を乗り出した裕弥に、頭を叩かれる。
「意味がわからんて。君は何について話しているわけ?」
「立ち位置を変えて世界を眺めた感覚……って言っても、意味不明だよな、確かに」
「うんうん、余計にわからんくなったし」
「……これ、ちょっと見てもらえる?」
 言って、机の中からA4版の冊子を取り出す。一週間前にもらったパンフレットだ。
「なにこれ? 映画?」
「演劇」
「あぁ、なるほど。これが窪居の所属してる劇団の……てことは涼介、観にいったのか?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてませーん」
 裕弥がふてくされた。
「可愛くないから、その顔」
「それも聞いてねーよ」
 今度はぶっきらぼうな口調で言って、裕弥はアンパンのゴミを丸めた。そして、俺の手からパンフレットを取り、
「ふーん、結構しっかりしてんじゃん……って、オークショニア?」
「ん? どうかした?」
「これってうちの近くにある劇団じゃん」
 そのことを裕弥が知っていたのには、正直、驚いた。
 小説を読まない裕弥のこと、演劇を含めた広い意味での芸術に関する造詣は……これ以上はお友達と言うことで、以下略としておこう。
「知ってたのか」
 驚きをそのまま口に出す。
 裕弥はパンフレットのページを興味なさそうにめくりながら、
「まぁな。なんか近所では有名だぜ? なんつーか、庶民的な芸術っつーのか」
「なるほど」
「それにあそこ、美形の劇団員ばっかりなんだろ?」
「あぁ……まぁ、言われてみれば」
「それが評判になる一番の理由。近所のおばちゃん達にとってはさ、テレビの向こうのアイドルよりは近い存在で、しかも芸術だから後ろめたくもない」
「評判になってるのか……」
 それは知らなかった。あの日のことを思い出せば、たいした宣伝もしてないように見えて、確かに客の入りはよかった。来ていた客も、ほとんどが普段着姿。ある程度年をとった人間が若者に興味を引かれるのも、わかると言えばわかる。この年でわかってどうするとも思うが。
「俺の親も何回か観にいったことあるらしくてよ……なんか、そこそこ演技の質はいいって話だぜ?」
「裕弥の親って、演劇とか見る人?」
「うちの親はいたって普通の素人だよ。ただ、なんて言ってたか……そうそう、入れ替わりが激しいって」
「……入れ替わり?」
 また新たなキーワードが姿を見せた、そんな感覚だった。姿を消した彼女と入れ替わりという言葉が結びつき、嫌な感覚が俺をとらえる。
 戸惑った俺には気付いていないのか、裕弥はパンフレットを置き、もう一つのパンを手に取った。
「ま、これだってただの先入観だろうけど。ほら、劇団って言ったって、小さいだろ? だから母親いわく、質のいい劇団員はスカウトされるはずなんだと。偉そうなコト言って、ただ自分の観てるものがレベル高いって言いたいだけじゃねぇかって俺は思ったけど」
「つまり、馴染みの劇団員がいなくなったりすることがよくある、それはたぶん引き抜きで、だからレベルは高いはず、と」
「よくっつーか、たまにだと思うけどな。そんな一年で総入れ替えとかはねーだろ?」
「あぁ……なるほど。劇団の規模を考えればって話ね」
「いや、あんま真剣に考えてねーけどね、俺は」
 そこまで言って、裕弥はパンを食べ始めた。
 俺は机の上に置かれたパンフレットを手に取った。久しぶりにそれを開く。
 窪居澄佳が学校に来なくなった今、彼女に繋がる手がかりと言われたら、これくらいしか残っていなかった。裕弥に見せれば俺には見えない何かが見えるかもしれないと思い、今日は学校に持ってきていた。もう一つ、河原田大樹の名刺もあるが、書かれていた番号に電話をしてみても繋がらなかった。忙しいのか、いつも留守番電話サービスに繋がるだけなのだ。
 パンフレットに目を通していく。題目と劇団名の書かれた表紙に始まり、キャストのプロフィールが数ページ続き、最後のページには裏方のスタッフ名簿と奥付。
 これと言って特に目新しい事柄は――いや、ちょっと待て。
「……霜月製薬?」
 協賛という項目に目が留まった。見落としていたと言った方が正しいか。
 協賛……つまりパトロンか?
「涼介、便所いこーぜー」
 頭を叩かれた。
「……いや、ちょっと待てこら。今、俺を叩くタイミングだったか?」
「んー、なんか真剣な顔でご旅行中みたいだったから、俺が正気に戻してやらねば、と」
「ずっと正気だっての」
「でも中指、また鼻の頭だぜ?」
 言われて気付いた。例によって例の如く、鼻の頭と中指の先が仲良くいちゃついていた。
 慌てて右手をポケットに突っ込み、
「……これは癖だ」
「いや、知ってるけども。ま、なんにしろ便所だ、便所」
「……それはいいけど」
 裕弥に促されるまま、立ち上がる。
 男とは悲しい生き物なのだ。何を好きこのんで連れだってトイレなんかに……とも思うのだが、飯を食うときに飲んだウーロン茶のせいか、確かにトイレには行きたい。行きたいと思ってしまった自分自身が何より一番悲しい気が。どうでもいいことなのだが。
「裕弥、霜月製薬って聞いたことあるか?」
 昼休みの騒がしい廊下を歩きながら、何気なくを装って裕弥に尋ねた。
 裕弥は顔だけを俺に向け、
「はい? 四文字熟語?」
 その勘違いはさすがにどうだろう。
「……ただの製薬会社ね、これ」
「ふーん。で? それがどうか?」
「別にどうというわけでもないんだけど。聞いたことあるかなって」
「ない」
「あ、そう……一応、そこそこ大きな製薬会社だったはずなんだけどね」
「俺って薬とかほとんど使わない人間だしなー」
「ふーん」
「こら涼介、今馬鹿に付ける薬はないって思っただろ」
「いや……本っ気で思ってないから。それにツッコミ待ちならもう少し時間が欲しい」
「そりゃ失礼。微妙なボケかと思ったから、これはもう一つかぶせにゃと思ってよ」
「かぶってる……かなぁ」
 時間を浪費していた。学校という檻に囚われ、行動に移れないことを理由に。
 しかし、自由を得たとして、今の俺に何が出来ただろう。
「あー、これからまた二時間も退屈な授業かー」
 狭いトイレの中で、裕弥が言った。
 努力ができない友人の言葉に苦笑しながら、
「それでも休み時間よりはまだいいだろ」
「あ、そうか?」
「低いレベルの背比べだけど……」
 トイレの小さな窓から、秋の空を眺める。哀しさとか寂しさとか……人が秋という季節にどういうイメージを抱こうと、俺には関係ない。ただ、一つだけ譲れないことがある。
 まだ、終わってはいないはずだ。
「授業中って……ほら、静かだから」
「寝るためか?」
「考えるんだよ」
 限界まで読み、考える――俺にできることがあるとしたら、それだけだろうと思えた。

 放課後、裕弥は掃除当番として学校に残された。暑苦しい友情ごっこの嫌いな友人である俺は、掃除が終わるのを待とうとも思わなかった。そういう友情ごっこがしたいなら部活にでも入ればいいと俺は思ったし、きっと裕弥も同じことを言っただろう。
 歩き慣れた通学路をことさらゆっくり歩く。
「……終わってはいないはず、か」
 俺がそう思った根拠は、他人に説明しても、誰一人として同意どころか理解さえ示してくれないだろうと思えるほど弱いものだ。
 これが終わりであってはいけない理由――それは、過程がすっぽり抜け落ちているから。
 終わりにはある程度読み手を納得させられる理由が必要なのだ。こういう結果に辿り着いた、その過程だ。しかし彼女が学校から姿を消す理由は、少なくとも俺には思いつかない。それを探そうにも、重要人物に連絡を取る手段すら断たれている。全てのキャストが、揃って姿を消した、そんな状態。最悪、河原田大樹に連絡がつけば、俺は納得できたかもしれない。自分を脇役と位置付ければ、後付けの整合性だって許される気がした。
 しかし、何も無い。
 全てが綺麗に無くなりすぎている。
 まるで自分だけが、いつのまにか物語の外に追い出されたように。
「……ん?」
 住宅街の細い路地で、妙なものに気付いた。
 俺の歩く先、五十メートルほど向こうにある交差点に、三人の若い男女がいた。男が二人、女が一人。男二人は曲がり角の住宅の塀によりかかり、何やら地図らしき本を二人でのぞき込んでいる。女は男達の対角線上にある角で、携帯電話を手に話し込んでいる。土地に不慣れな人間が道に迷ったように見えなくもない。男二人は細身の長身、一人は短髪で一人はオールバック。同じ男である俺が言うのも悲しいが、なかなかに顔もいい。そして女の方も、遠くから見てそれとわかる美形のおねいさんだ。
「……」
 俺は歩みを進める。スピードを速めることも落とすこともせず、視線をどこに向けるでもなく漂わせて。
 それは意思表示……気付いていないと言う、意思表示。窪居澄佳なら、きっとこの表現の矛盾に気付くだろう。気付いていないなら意思表示する対象はなんなのだ、と。
 交差点を通り過ぎようとしたその時、
「ねぇ、そこのお兄さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 俺の右手から女の声が聞こえた。そして、左手から息をひそめた何かが迫り来る気配……こんなもの、あらかじめ備えていなければ感じ取れるはずがない。
「ねぇねぇ、お兄さ――」
「甘いよ、美形のおねいさん」
「えっ――」
 言って、走った。すぐ後ろで、男の驚くような声が聞こえた。
 安全な距離を置いて、立ち止まる。
 いいね……最高に。まだ終わっていなかった。これでまた、次のシーンに進む余地が残された。
 振り向いて三人と向き合う。
「あなた……気付いてたの?」
 十メートルほど離れた場所で、女が言った。相当驚いているらしく、すぐに二回目の襲撃を受ける雰囲気ではない。
 少し会話でも楽しもうということか。
「いつから気付いてたの?」
「あんた達三人は、顔の平均点が高すぎるから」
「……そんなことで?」
「理由はもう一つ。あんた達三人を選んだのは、河原田大樹だろ?」
「そこまでわかっているのね」
「まぁ、俺も健康な男の子だし」
「……はい?」
「久しぶり、チケット係の“美形のおねいさん”」
「……」
 女は黙った。その横で、男二人が女の顔をのぞき込む。
「なるほど……納得だわ。団長が見くびるなと言った理由、やっとわかったわ」
「一応詳しく説明しておこうか。……河原田大樹があんた達三人を選んだ理由は、俺が見に行った前回の公演に出演してなかったからでしょ? 出演者はパンフに顔が載ってるし。それはつまり俺に面が割れてるってことだし。知ろうと思えば知り得る情報は、すでに提示されているのと変わらないってことかな。まぁでも、例え三人とも本当に見たことがない人だったとしても、俺は怪しんだと思うけど」
「どうして……って、聞いてもいいかしら?」
「まだ終わっていないからだよ」
 言うと、女は眉根を寄せた。
 やはりこの手の言い方は誰にも理解してもらえないらしい。それで構わないが。
「こちらの用件を伝えるわ」
 女が口を開いた。わからないことはそのまま流すことにしたのか、それとも“仕事”をこなすだけと決めたのか。
「団長があなたに会いたがっているわ」
「会いたいならそっちから出向けって伝えて欲しいんだけど」
「それは無理ね。団長はとても多忙な人なの」
「仕事が終わってからまた連絡してくれ」
「それも無理。いつ終わるかもわからないから、あなたに待っていて欲しいそうよ」
「……それはつまり、俺を拘束するってことか?」
「心配しないで、それなりのもてなしはするわ。ただ“いつ終わるかもわからない”から、しばらく待つことになるかもしれないけれど」
 俺の問いに、明確な否定の言葉は返ってこなかった。むしろ肯定か。王様待遇の捕虜……まぁ、王族気分は味わってみたいと思うが、俺は平民の出だ。束の間の王族気分なんて、夢と変わらない。
「こちらには時間がない。捕まる気がないのならそう言え。どうせ結果は同じだ」
 オールバックの男が言った。どうやら気の長い方ではないらしい。
 しかし……どうする。このまま従うか? そうすれば、河原田大樹との面会は果たせる。それは俺の望んだことだ。だが、あいつと言葉を交わして何がわかる? あいつの構築した法則が全て見えるのか? いや、そんなものは隠されたらそれでおしまいだ。綺麗に用意された幕引きの材料の中で、俺は矛盾に気付けるか?
「……悪いけど、捕まる気はないわ」
 三人の襲撃に備え、身構えて言う。
「あんたら、信用できないし。特に河原田大樹が信用できない」
「団長は嘘をつかない人よ」
「そうかもしれないとは思ってたよ。河原田大樹は自分に絶対の自信があるんだろ? だから嘘なんて必要ない」
「そうね……団長はそういう人よ。だからどう? 捕まって――」
「もうやめろ」
 オールバックの男が一歩前に進み出た。
 女を睨みつけ、
「くだらん会話は時間の無駄だ」
「少しは楽しみたいじゃない?」
「必要ない。……いくぞ、ガキ」
 言葉と同時に、オールバックの男は走った。今まで無言を貫いていた短髪の男も、まるで申し合わせたようなタイミングでそれに続く。ついでだから俺も同じタイミングで逃げる。気の短い人間の行動は、予測しやすくていい。
「あ、ちょ、ちょっとぉっ!」
 後方で女の叫び声が響いた。もちろん、立ち止まるつもりなどない……まぁ、状況が違えば立ち止まったとは思うのだが。
「……さて」
 走りながら、後ろを少しだけ振り返る。男二人との距離は、詰まらないし離れない。俺は運動神経にはそれなりの自信があるが、スタミナには自信なし。何故ならスモーカーだから。対して俺を追う三人は、運動神経もスタミナもそこそこのものだろう。ある程度高いレベルでの演技には、それにふさわしい肉体というものがあるだろうし。
 俺が後ろを走る三人より勝っているポイント――それは、周辺地理に通じていること。
 十五年以上、この街で暮らしてきたのだ。簡単には追いつかれない抜け道くらい、いくつも知っている。
「この年で鬼ごっこなんてな」
 呟くと同時に、民家に侵入した。

 追いかけっこが始まって十五分――そろそろスタミナが限界。
「あ、あいつらっ、しつこいっ……くそっ!」
 周辺地理に通じているはずの俺だったが、追いかけてくる三人を振り切ることはできなかった。
 民家に不法侵入し、廃屋で窓を蹴りつけて破壊し、交差点で轢き殺されそうになり……それなのに振り切れない。それどころか、後ろから迫り来る足音が減ることすらない。たまに後ろを振り向くと、俺の背中を追うのは感情のこもらない三つの視線だった。会話しているときにはまだ感情の見えた美形のおねいさんさえ、今は無表情。なんだか、河原田大樹という力の大きさを感じた。
「も、もうやばい……くそっ、こうなったらっ……」
 交差点を折れ、比較的大きな道に進む。この道が続くのは、あのファーストフードショップがある、この街一番の繁華街。
「はぁ……はぁ……」
 荒れる息を落ち着けながら、しっかりと前を見据える。徐々に通行人が増え始め、俺はその隙間をぬうようにして駆け抜ける。人口密度の高い場所で追いかけっこをするなら、三人よりも一人の方が有利だろう。いざとなったら大声で助けでも求めればいいが、それをしてしまったら拘束されるのとあまり意味は変わらない。
「そう……変わらない」
 小さく呟く。
 さっきからなんかいい感じなんだ……全ての事柄が繋がりそうな、そんな予感がする。
 ゆっくり考える時間が欲しい。
「……疲れたぞ、くそう」
 吐き捨てるように言って、立ち止まる。振り返ると、人混みの向こうに三人の姿が見える。多少距離が開いたとは言え、逃げ切るにはまだまだ足りない。
 抜け道で振り切れないなら、あとはもうこの街で生きたキャリアを利用するしか、俺に武器は残っていない。
「これが失敗したら……その時は終演か」
 すぐそこにある店に飛び込んだ。

 そして、作戦は成功した。

「……助かった。けど疲れた」
 この街の繁華街には、通い慣れた古本屋がある。店主のおっさんと初めて口をきいたのが、去年の夏。以来、俺とおっさんは、ミステリについて薄っぺらく語り合う仲だ。
 店に駆け込んだ俺は、おっさんに自分が下ネタ系の危機を抱えていると伝えた。このままトイレに行けないと本気で痛いネタになるからトイレを貸してくれ、ということだ。おっさんは快く俺を家の中まで通してくれた。そして俺は店の出入り口ではなく裏口から外に出た。そういう作戦。
「さて……問題はこれからだ」
 繁華街からは少し離れた狭い袋小路で立ち止まる。そして、冷静に考える。
 今の俺に許された選択肢は、三つあった。
 @捕まる
 A逃げ切る
 Bその他
 ――この三つだ。
 過程の部分をとりあえず省略し、結果について考えた選択肢だ。もちろん、その他がある時点で数を限定できないだろうと言われれば、それは確かにその通り。だが、今の俺が沿うベクトルというものを考えたら……河原田大樹の法則に従うか抗うかというベクトルだ……選択肢はこの三つで十分。コインを投げた時、裏表以外の立つとか割れるなどという選択肢が必要ないのと同じ理屈だ。
 まずは、@捕まる――について考えてみる。
 これは俺の希望を満たす選択肢ではある。俺が求めるのは過程だ。窪居澄佳が学校にこなくなった、その結果に辿り着く過程を知ることができれば、俺は満足できる。しかし、河原田大樹がそれをしゃべるだろうか。おそらくは“嘘をつかずに真実を隠す”といった類の話術で、上手くかわされるだけだろう。それでは、俺の本来の目的は満たされない。中途半端な説明などは欲しくない。
 では、A逃げ切る――についてはどうだろうか。
 逃げ切った結果、俺が得るものとはなんだろうか。河原田大樹の法則を乱した? 違う、それでは何一つ得てはいない。システムにノイズは付き物だ。河原田大樹がこんな些細な事で乱されるはずがない。だからこその法則だ。今まで逃げ続けてきた俺が言うのも何だが、逃げ切っただけでは変化さえしない。何より、俺は情報を得られない。
 最後に、Bその他――この選択肢。
 考えるまでもない。今の俺には“選ぶことができない”。その他という言葉が指す具体的な内容を俺が思い浮かべられない現状で、選べようはずもないのだ。可能性はある、だが可能性があったところで、その可能性が影響して生じた結果を思い浮かべられないようでは、そんなものは無いことと変わらない。何でもありの現実における想像力の限界。奇跡に必要な下地。
「……となると、だ」
 人のいない袋小路で、アスファルトの地面に座り込む。そろそろ日は傾き初め、住宅の塀に囲まれたこの場所はひどく暗く思える。思考が行き詰まったからか。
 本当に行き詰まっているのか。
「正解のない問題なんて無いはずだ」
 そう呟いて、自分の意識を鼓舞する。
 俺の抱えた問題……一見して、全ての選択肢が誤りであるように思える問題。特におかしいのが、@とAが共に正解ではないというところ。@もAも、間違いという解答に辿り着く過程はひどく複雑だ。しかし結果は河原田大樹の予想の範囲内。そもそも、河原田大樹の予想を超えることが重要なのか? 違う、そんなことはどうでもいい。
「……そう、どうでもいいんだ」
 ここなんだ、さっきから引っかかるのは。自分が根底から間違っている気がする。思考のベクトルが誤った方向を向いている。俺は今まで何を見てきた? 
 この“物語”の中で。
「あ、そうか……」
 読者、キーワードはこれだ。
 自分が何をすべきかなんて事は、今は頭から追い出せばいいのだ。
 必要なのは……そう、読むことだ。
 物語の流れを読むのだ。
「……」
 思考が回転し始める。
 今の事態について、根本的な問題……それは、河原田大樹が“どうして”俺を拘束しようとしたのか。そして、それが“今日だった理由”はなにか。ここまで考えれば、答えは自ずと見えてくる。
 ――河原田大樹は、今日、何かをしている。そしてそれは、俺に絶対に知られたくないことである。
 それは“いつ終わるかもわからない”仕事と美形のおねいさんが言っていたそれだろう。俺を拘束する、または追いかけ回すという方法で、仕事の間不安要素を消し、その後、自らの手で全てに幕を下ろす。俺をこれだけ意識していることから見ても、その仕事とやらに彼女がからんでいることはほぼ確実。そしてもう一つわかること……それは、今の俺が持った情報で、その仕事というものが想像できるということ。
「考えろ……今考えなければいつまでたっても辿り着けないぞ」
 焦りのせいか、今までに俺の得た情報が、奔流となって頭を駆け抜ける。
 ――窪居澄佳というクラスメイト。彼女にまつわる噂話。その噂話の真相。彼女の持つ目標。劇団に属していること。定期的に開かれる公演。商品価値のない公演。笑顔の並ぶパンフレット。文字通りの小さな小屋で会った男。商品と言った男。同類にしてライバルという言葉。その時になれば見えるという結果。河原田大樹という男。ビジネスに興味のある男。世の中を金で計る男。劇団員を商品と呼ぶ男。河原田大樹のビジネス。実生活で演じるというビジネス。金のための仕事。目標を追うための金。霜月製薬というパトロン。レベルが高いと言われる演劇。頻繁に入れ替わる劇団員。美形揃いの劇団員。
 劇団『オークショニア』。
「――えっ?」
 その瞬間、全ての事柄が繋がった。繋がった気がした。最悪のベクトルに沿って。
 オークショニア――競売人。
 彼の捌く商品とは?
「……そういうことかよ」

 俺はBその他を選んだ。


 9−変わらぬ結果

 そこには一台の高級車が停まっていた。車に詳しくもない俺には、それが高級であるということしかわからない。二輪にはまっていたという裕弥なら、あるいはメーカー名くらい知っていたかもしれない。だが、そんなことに意味はない。高級車が停まっている、意味を持つフレーズはここだけ。
 大きくて厚い扉に手をかける。建て付けが良いのか、ほんの僅かな音を立てただけでそれは開く。あの時のように美形のおねいさんは待っていない。今頃はまだ街中をかけずり回っているのだろう。
 ここは文字通りの小さな小屋――客席に現れた俺を、ステージに立った河原田大樹は、はっきりそれとわかる驚きの表情で見つめた。
「……少年?」
 河原田大樹のそんな声を聞いたのは初めてだった。驚きと戸惑いの滲む声。河原田大樹が乱れる……それは、法則に立ち向かったからか。
「俺はここに来るはずじゃなかったんだろ?」
 客席の真ん中に立ち、河原田大樹に話しかける。
 最初、呆然としていた河原田大樹は、徐々に余裕を取り戻し、
「さすがは私の見込んだ少年だ」
 以前会ったときと変わらぬ微笑みを浮かべ、言った。
「ふっふっふ……その顔だと、どうやら全てに気付いたらしいな」
「そうでもなけりゃ、こんな場所には来ないし」
「問題なのは“場所”かね?」
「あぁ……はいはい。問題なのは“今日”という時間だろ」
「いい答えだ」
 あっという間に立場が逆転する。その自信はさすがだ。
「まず私は何について聞くべきだ?」
 俺に向き直り、腕を組んで、河原田大樹が言う。
「少し時間が余っているのだ。少年、話に付き合う気は無いか?」
「……間違いの始まりは、たぶん、あの三人を俺に差し向けたことだよ」
 呟くように答える。こんな話をしに来たのではないと思いながら、それでも受け身にならざるを得ない自分が腹立たしい。
「あの三人に襲われなければ、俺は今日、このからくりに気付くことはなかった」
「ふむ、そうか。私は今日あたりが危ないとふんでいたのだが」
「てっきりあんたは全てにおいて計算尽くだと思ってたけど……あんたらしくないミスだな」
「ミス? ふっふ……少年、やめてくれたまえ。私の判断にミスなどはない」
「じゃあ今日のこれはどうなんだ?」
「確率の問題だよ、少年」
 言って、河原田大樹はステージの上を歩き出した。ゆっくりと楕円を描くように歩きながら、
「つまりだ、ここには二つの可能性があった。一つ目は今日、君が私の思うままに捕まるか、逃げ回るかという確率」
 やっぱりか……と、ため息をこぼす。
 共に河原田大樹の思うままである“捕まる”と“逃げ回る”という行為、それを天秤に掛けていた自分が情けない。そして、それを平気な顔で口に出す、河原田大樹という人間。
 悔しいが、自分に敵う相手ではないように思えてくる。
「もう一つは、窪居くんが姿を消して三日目の今日、君が行動を起こすという確率」
「そしてあんたは後者の方が確率は高いと判断したのか」
「三という数字には意味があるのだよ、少年。三日目であることに意味があるのだ」
「意味がわかんねぇよ」
「わからぬのなら説明しよう」
 ステージのちょうど真ん中、客席の真ん中に立つ俺の正面で、河原田大樹は足を止める。そして、右手の指を三本、突き上げる。
「君も知っている言葉だ。仏の顔も三度まで。二度あることは三度ある。三度目の正直……つまりこういうことなのだよ。変わらぬ日常は、変わらぬからこそ意味があるのだ。そこに変化が訪れたとき、人は三回目で疑問を抱く。人間の思考と言うものはそう出来ているのだ」
「言葉による言い訳が必要だってことか?」
「ふっふっふ……少年、やはり私は君が好きだ。良い言い方だ。言葉による言い訳……そう、その通りだ」
「あんたに誉められても嬉しくないんだけどな」
 河原田大樹の言いたいことは、たぶんこんなことだ。
 人が積み重ねてきた長い経験の中で、三という共通した数字に気付いたとする。しかしそれが三でなければならない理論的な理由を人は見出せなかった。だから言葉が生まれた。三という共通項を持つ言葉が。今の世の中、原因不明の病気にも何かしらの名前がついている。原因も治療する方法もわからないのに、だ。怪奇現象や超常現象だって、それを語る言葉がなければ、もっと怖ろしい存在として世に広まっていただろう。
「私の考えは理解してもらえたかな?」
「まぁ……案外信心深いってことだろ」
「どう言ってくれても構わないがね。少年、私は君を見くびっていたのだよ。それについては本当に心から謝罪しよう。まさか君が気付くなどとは思っていなかった。私の予定では、君はただひたすらに逃げ続けるはずだった」
「あんたの手の平の上で、か」
「動かぬ理由は無かったのだよ。しかし、動く理由ならばあった。簡単に言えばそれだけの話だ」
 言ってから、河原田大樹は腕時計に目をやった。
 時間が余っている……そう言っていた。それは予定していた時間を余すだけ彼女が従順だったと言うことか。それとも、何か予定外のことでも起きたのか。
 後者ならばどうでもいい。前者ならば……それは、俺がここに来た意味すら揺るがす。
「あんたのしてるビジネスは、法律に違反しないのか?」
 核心に触れる質問をぶつけた。
 時計を見ていた河原田大樹が顔を上げる。しかし、その表情は全く乱れない。
「法律を犯すのは嫌いなんだろ?」
「ふむ……少年、私が嘘をついたという可能性は考えないのかな?」
「それを考えてたら俺はここに辿り着いてない。正直に言えば、俺は誰の言葉も疑わなかった」
「素直な少年だ……というわけではなさそうだな」
「言わないことと嘘をつくことは違うだろ?」
 いつか裕弥の言った言葉を借りた。
「悪いけど、そんなことは許容できないんだよ。嘘まで認めてしまったら、それこそなんでもありの世界になってしまうだろ?」
「少年の得意な流れを読むということだな」
「正確に言えば物語として捉えるってことだよ。物語の本筋に関わらないようなくだらない嘘ならば構わない。または、嘘をつくとわかっている人間の嘘ならば許される。何故なら、そういった人間の嘘は、どうして嘘をついたのかというところに意味を見出せるから」
「情報の過不足ならば認められるが、真偽は定まっていなければならないということか」
「簡単な表現ありがとう……で、どうなんだよ」
 河原田大樹を睨みつけ、詰問するような口調で言う。
 俺にとってはここが勝負所だった。もし絶対に見える河原田大樹を崩せるなら、ここしかポイントはない。
 だが、河原田大樹は笑った。それはつまり、まだまだ余裕があるということだった。
「君は非常にいびつだ、少年」
 微笑みながら、河原田大樹は呟いた。
「滑稽だ。君のその均衡はどこで保たれている? まぁ、予想くらいはつくがね」
「……くだらないことはいいから答えろよ。あんたのしてることは法律に触れないのか?」
「それが君の拠り所なのだろう?」
「……」
 俺が口に出したその質問は、河原田大樹の核心をつくはずだった。
 しかし、核心をつかれたのは俺の方だった。
 嫌な汗が額を伝う。河原田大樹は大声で笑った。
「はっはっは! いいじゃないか少年! 君は非常に若い! 正しく若いっ! さすがは私の見込んだ少年だ……くっくっく、それでいいのだ、少年。君はそこに立っていればいい」
「質問に答えろよ」
「私は嘘をつかない」
「……じゃあ」
「当然だ。全ての方面に話はつけてある」
「……」
 河原田大樹の言うとおりだった。俺の拠り所は、その時、綺麗に崩れ去った。
「金だ、少年。おそらく君も予想はしていたのだろう? だが認めたくはなかった。ふっふっふ……君は君の核心にひどく近付いているのだがね。まぁいいだろう。私にとってはそれでいいことだ。……いいかな? 少年、世の中は金だ。そして私は、金に支配されぬものは自分の世界には入れさせない。様々な方面に話を付けるためには時間が必要でね、そのための三日だ。質の高いビジネスを展開するならば、本契約だけを目指すのではなく、準備やアフターサービスに努力を怠ってはいかんのだ。手間や時間を惜しむなと言うことだ……しかしこれは、少年にとって大して重要なことではなかったようだがね」
 もう隠す必要など無いと言うことか、河原田大樹は俺の中で微かに曖昧だった部分に、自ら説明を付けた。河原田大樹の言ったとおり、俺にとって“大して重要なことではなかった”部分までもが、明らかにされる。
 そして、
「少年、これで全ての疑問は消え去ったはずだ」
「……だからどうしたよ」
「説明したまえ。君がここに辿り着いた過程を」
 そして、何一つ変わらなかった結果を……か。
「事実関係を振り返り、自分を納得させるのだ。少年、君ならできるだろう?」
「……あんたに言われたくねぇよ」
 答えながら、しかしそれしか方法が無いこともわかっていた。
 俺の見落としていた河原田大樹のウィークポイントは無いのか……それを探すには、もう一度ゼロから振り返るしかない。
「先週の土曜日だ。一人の男と会った」
 俺は口を開いた。
「そいつは俺に言ったよ……自分達は同類だって。同類にしてライバルだと、俺に言った。最初これは、あんたが言ったビジネスに関する言葉だと思った。でももう一つそいつが俺に言ったことがある。結果が見える」
「ふむ……その彼については心当たりがあるが、続けたまえ」
「そうするつもりだよ。……今日までは、意味のわからない言葉が一つあるくらい、どうでもよかったんだ。いずれ全てが繋がるだろうと思っていたから。でも今日、あんたが動いた。それでわかるのは、あんたが今日、彼女に関する仕事をしていること。そしてそれを俺に気付かれてもいいが、全てを知られたくはないと思っていること」
「私が三人を差し向けたせいで、ということか」
「そう。仕事という言葉も、あいつらの口から出た言葉だし。そして一番大事なのが、今日の仕事が以前、あんたが俺に言ったビジネスとは全く異なるビジネスだと言うことだ」
 そこで一度言葉を切る。無性に煙草が欲しくなるが、制服姿の俺が持っているはずもない。河原田大樹なら持っているかもしれないが、こいつに物を乞うのは嫌だ。
「どうした、少年」
「……いや、なんでもない」
 口元の寂しさは、とりあえず我慢することにした。
 正面に視線を向け、再び口を開く。
「ヒントは出尽くしているはずだった。そうでなければ、あんたがあの三人を俺にし向けた理由がない。だから考えた。全ての言葉を序列も時系列も無視して、ただ頭の中で繰り返した。そうしたら不意に、思考が嫌な方向へ向かった。そしてまぁ、その方向が正解だったわけだけど」
「一番重要だった言葉だけを聞かせてもらおうか」
「オークショニア」
「……」
 俺の言葉に、河原田大樹は沈黙した。その顔は本当に楽しそうだった。
「……この劇団が本当にオークショニアとしての役割をしているならって考えたんだよ。そう考えれば、今までどうでもいいように思えていた事柄まで意味を持ち始めた。例えば公演のパンフレット、あれは商品カタログだろ? キャストが商品なら、主役からちょい役まで同じ大きさで扱われていても不思議はない。次は、ここの劇団員がある程度の頻度で入れ替わる理由。これはつまり売れたってことだ。こんな場所に正装した客がいたのも、それがオークションなら理解できるし、霜月製薬なんて大手の製薬会社がスポンサーになっていたのも、裏のビジネスの顧客集めのためだと理解すれば無理はない。なにより先週会った男の言葉が、これで全てしっくりかみ合う」
「よく辿り着いたじゃないか、少年」
「認めるんだな」
「私は嘘は嫌いでね」
「少しは謙虚になれよ……これ、つまりは人身売買だろうが」
 そう、それが答えだった。
 こいつは自分にとっての商品、つまり劇団員を売り捌いていたのだ。先週会った男はバイヤー。パンフレットを真剣に眺める俺を見て、俺もバイヤーだと思ったのだろう。俺に対するあの忠告の真意は、さっさと競り落とさなければ自分が買うぞという意味だ。そしてたぶん、あいつは買ったのだ。
 窪居澄佳を。
「彼女の家庭環境なんて俺は知らないけど……そこもあんたが言うには、金で片を付けたんだろ」
「まさかこの国にある全ての家庭で愛が溢れているなどとは、君は言わないだろうな」
「わかってるよ。……言われりゃ納得できるんだよ。そしてあんたは、そういう背景を持った人間しか劇団に入れなかった」
「商品価値のある人間と言って欲しいぞ、少年」
「誰がそんな言葉口に出すか……くそっ」
 吐き捨てた俺を見て、河原田大樹はやっぱり笑った。そして、視線を移動させる。腕時計ではない……舞台の袖へ。
「団長、誰かいるんですか?」
 そんな声が聞こえた。
 そして次の瞬間、
「時間通りだな」
 そう言った河原田大樹の視線の先に、窪居澄佳が立っていた。
「……」
 俺は何も言えなかった。声をかけるべきだったのかもしれない。それなのに何もでてこなかった。
 同じ劇団員らしい男に連れられた彼女は、舞台の床を見つめていた。まるで力のこもらない視線を、ただそこに落としているだけのようだった。そしてたぶん、俺も同じような瞳の色をしているだろうと思った。
「窪居くん、お客様だ」
 河原田大樹が俺の方に手を差し出し、そう言った。
 彼女の視線があがる。そして、交錯する。
「――えっ」
「……三日ぶり、だね」
 笑顔を浮かべようとした。だがそれは失敗した。代わりに声が少しだけ震えた。
「た、高杉くん……ど、どうしてっ?」
 彼女が河原田大樹を見る。
「これはどういうことですか!?」
「私を非難しないでくれたまえ。彼は自分でここに辿り着いたのだ」
「で、でもっ」
「そいつの言ってること……あってるから」
 力無く呟く。意識したわけではないが、苦笑という笑みは自然と出てきた。
「ちょっとね……考えたんだよ、色々と。今まで与えられた材料でどこまで辿り着けるかって……ま、辿り着いたからって、何一つ変わらなかったんだけど」
「あ……わ、わたし……」
「俺は自分でここに来た。……本当に、ただそれだけだから」
「ご、ごめんなさいっ! わたしっ……」
「謝るようなことしてないでしょ。俺が知らなかった……いや、気付くのが遅かっただけだし」
「でもっ――」
「時間だ、窪居くん」
 俺達の会話に、河原田大樹が割り込んだ。
 腕時計に目をやりながら、
「先方が待っている。そろそろ行きなさい」
「……はい」
 彼女はうなずく。
 ステージを降り、客席の真ん中の通路を付き添いらしい男に連れられるまま歩く。俺は真っ直ぐに前を見ていた。しかし彼女はこっちを見ていなかった。視線は交錯しない。付き添いの男が俺を睨んだ。そこを退け……そう言いたいのだろう。俺は体をずらし、通路の左端による。男が俺の横を通り過ぎる。そして彼女が。
「一つだけ」
 俺は口を開く。すぐ後ろで、彼女が立ち止まる気配だけを感じた。
 お互いに背中を向けた状態で、尋ねる。
「目標……どうするの」
 それは、俺が彼女に興味を引かれた、一番大きな理由だったはずだ。
 彼女は掠れるような声を漏らしてから、言った。
「……時間切れに、なっちゃったり」

 その瞬間、一つの目標に向かっていた彼女の物語は、幕を閉じた。


 10−終わりの続き

 彼女が自身で物語を終えてから、ちょうど一週間後の金曜日、朝のHRで担任が告げた。
 窪居澄佳が今日をもって学校を去る、と。
 さすがに週の明けた火曜日くらいから、話題にはなっていた。一週間近く欠席の続くクラスメイト。話題にならない方がおかしいだろうが、しかし誰一人として彼女を心配する者はいなかった。
 それは例の噂話を語るときと同じ口調。囁くように、呟くように、触れるのを怖れるように、その名前を口に出す。彼女の笑顔さえ知らない人間が、物知り顔で彼女を語る。
「涼介ちん、どゆこと?」
 担任が教室を出、授業が始まるまでの束の間の休み時間、裕弥が俺の元へやってきた。
「転校って、あいつ、どこ行くん?」
「さぁ……知らない」
「はっ? 知らんの?」
「転校するってのも俺は知らなかったし。そんな俺が、行き先なんて知ってるはずもない」
「……」
 真剣な表情で裕弥が俺を見る。先週の金曜日にあった事なんて、説明できるはずもない。だから俺は語らない……結果以外は。
「終わったんだよ」
「……あん?」
「たぶん……そういうことだよ。これで物語は終了。彼女の話は綺麗に幕を閉じました、と」
「相変わらず意味わかんねぇけどよ……一つだけ、聞かせろや」
「なに?」
「本当に綺麗に終わったのかよ」
「……」
 尋ねられる。そして俺は考える。
 綺麗に終わる物語、それはつまりどう言うことか?
 たぶんそれは、全ての材料を使い切ったということなのだろう。張られた伏線、示された謎、選択の余地、可能性の幅……それらが全て解決した、またはゼロになった状態が、綺麗に終わると言うことだ。
 だったら窪居澄佳の物語は?
 言わずもがな、だろう。彼女に関する謎は全て解けている。俺が感じていた彼女に対する疑問は、河原田大樹が全て綺麗に拭きさった。最後に現れた姿が悲劇的だったというだけだ。何よりそれは彼女が選んだ結末だ。疑問を差し挟む余地もない……だからこそ彼女もそれを選んだ、そんな結末。
「あーもーそんなしけたツラしたエンディングがあるかよ」
 裕弥が言った。そして俺を殴った。
「……今の、全く手加減が感じられなかったんだけど」
 殴られた頭を押さえながら裕弥に言う。
 だが、裕弥は謝罪するどころか俺を睨みつけ、
「当たり前だばかもの。終わったならしゃきっとしなさい、しゃきっと」
「余韻というものがあるだろ」
「うるさい。涼介がメランドリだと俺まで調子出ねぇんだよ」
「だからメランコリックだって言ってるだろ」
「こんな長い単語一回聞いただけで覚えられるかよ」
「七文字だろ、覚えろよ」
 裕弥の言葉に、殴られた怒りも忘れて呆れた。そして、そんな気分がシンクロしたわけでもあるまいが、裕弥は大きくため息をこぼすと、
「なんつーかさ……そんなアホみたくうつむいてる暇あったら、劇でも観にいきゃいいじゃん」
「どこにだよ」
「オークショニアに決まってんだろ」
「はっ?」
「明日またやってんだろ? うちの母親もいくって言ってたし。俺は行かねーけど」
「……明日?」
 思わぬ単語に聞き返す。
 裕弥はうなずき、
「そーそー。久しぶりに観にいけるって、母親やたらとはりきってたし」
「明日……」
 それは知らなかった。しかし、確かに彼女は言っていた。
 定期的に開いている舞台。
 前に観にいったのが二週間前だから、次の舞台が明日でも何ら不思議はない。
 不思議はない……けど。
「なんだっけ、定期公……なんとかって言うんだろ、こういうの?」
「定期公演。そこまで言ったら最後まで言えよ」
「うるせーな。出てこなかったんだよ。……とにかく、行ってみりゃいいじゃんか。そこで窪居と会えるかもしれねーし」
 裕弥はこれぞ妙案とでもいうように俺を見たが、その可能性はおそらくゼロだろう。
 しかし……この感覚はなんだ? 確かに“彼女の物語”は終わったんだ。でも……そう、裕弥の言うとおり、全てが綺麗に終わったわけでもないんだ。それは、河原田大樹の唯一にして無二のミス。“彼女の物語”には何一つ関係しなかった、それでも確実なミス。
 本当はこの一週間、ずっとそのことを考えていた。でも俺には、動き出す理由がなかった。見えなかったのだ、可能性に影響された未来が。
 これは展開だ……全て終わったかに見えた状況が、また新たなシーンへ向かって整いつつある。
 必要なのは、あと一言。
「裕弥」
 苛立たしげに窓の外を見る裕弥に声をかける。
 裕弥は不機嫌な表情のまま俺を振り向き、
「なんだよ、チキンヤロー」
「お前と友達で良かった」
「おぉぇっ!」
 友情示したら吐かれた。
 倒れ書けた裕弥が、真っ赤な顔で俺に迫る。
「こ、こらぁっ涼介! 今のは本気でやばいだろっ! なんつーかアデレードヘアピンで多重クラッシュってくらい危ねーだろ!」
「やっぱ四輪も好きなのか」
「あんなもんはたしなみだたしなみっ! オートマなんて余裕だろうがっ!」
「いや、もうお前が何に対して怒ってるのかさっぱりわからないから」
 それに、さりげなく無免許運転の告白されても困る。
「とにかく……助かった。光明が見えたって感じで」
「意味わかんねーって。なんだよコーミョーって。それ、どこのサーキットの話だよ」
「F1の話じゃなくて」
「はっ? じゃあインディか? カートか? それともGT系か?」
「……お前、詳しすぎ」
「車は速くてなんぼなんだよ」
「高一のセリフじゃないよな、それ……」
 元やんちゃ小僧の言葉に苦笑しながら、窓の外に目を移す。
 まだ、終わっていなかった……いや、彼女の物語は終わったのだ。変わったのは考え方。
 配役の変更だ。
「……明日、か」
 俺は動く理由を得た。

 約一週間ぶりに訪れたそこは、相も変わらず営業努力の跡がなんらうかがえなかった。ポスターも無し、呼び込みもいない、おまけに入口の扉は閉まっている。こんなもの、一度来たことのある人間に連れられていなければ、これから演劇が始まるなんてわかるはずもない。
「ようこそいらっしゃいまし――って、えっ?」
 扉を開いた俺の前で、美形のおねいさんが言葉を失った。
 どうやら、俺がここに来るとは思っていなかったらしい。
「……何の用?」
 十秒ほどの沈黙のあと、そう尋ねられる。警戒されていると言うよりは、純粋に驚いているように見える。
「もう終わったはずじゃなかったの?」
「……知ってるんだ、それ」
「団長から聞いたのよ。違うの?」
「彼女が自分から幕を引いたんだよ。時間切れって言って」
「ふーん」
 納得してるのかしてないのか、おねいさんが俺の顔をのぞき込む。
 そして、
「じゃあ今日は、純粋なお客さん? それともバイヤー?」
 楽しそうに尋ねた。
「ほら、どっち?」
「バイヤーって言ったら?」
「今日のお薦め商品はあたしなんだけど。あなたになら買われてもいいかなって思うし」
「会話を楽しみたいから?」
「そうね。退屈な生活って嫌いなの」
 その言葉は、目標を追う人間らしいと言えばらしいのだろう。思えば自分がいつ売られるかもわからない生活だ、これほど刺激的な生活もそうそうない。平穏主義の俺には耐えられないだろうが。
「そっちは今日も出演なし?」
 今度は俺から尋ねる。
 おねいさんは首肯し、
「演目、前回と同じだから」
「あぁ、そうなのか」
「二ヶ月に一回変わるのよ。あたしは次回、ヒロイン役」
「大抜擢って感じ?」
「あなた、結構失礼ね。でも、本当に観にこない? これも何かの縁だし」
「脚本次第では」
「そうよね。そこはやっぱり問題よね」
 どうやら河原田大樹の脚本に問題があることは、劇団員共通の認識らしい。俺の言葉に、おねいさんは無邪気に笑った。
 俺は腕時計に目を落とす。開演時間まであと五分。
 少し真面目なことを聞いてみることにする。
「答えにくかったら答えなくてもいいけど」
「あ、なに?」
「自分が商品になるってことに抵抗は?」
 聞くと、おねいさんは迷い無く首を振り、
「全くないわ」
「河原田大樹の金儲けの道具にされても?」
「それは一つの側面よ。あたしはステージに立つ機会を与えられている。そして実際に、このステージからもっと大きなステージへ進んだ人もいる。澄佳は時間切れって言ったのよね? その言葉、正しいわよ。時間切れがあるということは、勝負する時間もあったということだから」
「……なるほど、ね」
「納得できてない顔ね」
「そりゃまぁ、そう簡単には」
 どこかいたわるようなおねいさんの声に、小さくうなずく。
 不思議なくらいあっさりと、おねいさんの口から彼女の名前が出てきた。それはつまり、今回のようなことが、ここでは当たり前のこととして認識されているということだった。もちろんそこには、純粋に引き抜かれた人間も含まれるのだろうが。
「そろそろ始まるわ」
 おねいさんが言った。
 気付くと、暗幕の向こうから聞こえていた音楽が止んでいる。
「チケットはサービスしてあげる。パンフも一応渡しておくけど」
「どうも」
 差し出されたチケットと、前回と同じパンフレットを受け取る。
「楽しんでいってよね。そんな気分じゃないかもしれないけど」
「ま……出来る限りの努力は、ね」
 苦笑しながら答えて、会場の中に入った。

 粛々と舞台は進み、あっけなく終演する。内容は前回と本当に同じ。俺の抱いた感想も同じ。あの男、演劇で商売するつもりは本気で無いらしい。
 窪居澄佳の演じていた役には、彼女と同じ年代の別の劇団員があてられていた。パンフレットを見ると、小道具の名前が一つ入れ替わっている。まったくもってやる気を感じられない配役だ。それでも演技はなかなかのものだった。
 裕弥の言葉があったからか、俺はステージよりも客席を見ていた。庶民的な芸術という言葉の通り、普段着姿の客が大半を占める。七割くらいはおばさんで、残りはおじさんや親に連れられた子供、そして異物の混入も少々。確かにステージを眺めているだけで心は豊かになりそうだ。もちろんそれは、純粋にキャストの(そして容姿の)質がいいからだが。
 終演後の客席で、一人の男が歩み寄ってきた。
「どうやら僕の勝ちのようだね」
 男は言った。
「思いのほかスムーズに事が進むんで、少し拍子抜けしたよ」
「まぁ、この年ですから」
「なるほどな。日本という国はそういう国だとは言え、君も歯痒かっただろう?」
「現実認識が甘かったんですよ。そう考えることにしました」
「そうか……まぁ、そうやって一つ一つのことを学んでいけば、いずれ目指す場所にもたどり着けるだろう」
「彼女は一人しかいないですけどね」
「ふふっ、そう言われると僕も辛いがね」
 男が俺の隣に座る。もう興味はないのか、パンフレットは持っていない。
「これは僕にとっても競争なのだよ」
 幕の下りたステージに目を向けながら、男は呟いた。
「この劇団の演技のレベルは、素人目に見ても高い。こんなことを言っては河原田さんに悪いが、あの脚本でこれだけ客が集まるのは、けっしてキャストの顔だけが理由ではない。事実、引き抜きで消えていく人材も多い。もちろん、オーディションなどの方法で自ら去る者もね」
「演劇、観る人なんですか?」
「さっき言ったとおり素人だよ。ただ、大人には大人のつき合いというものがあってね。回を重ねれば素人なりに目も肥える」
「あぁ、納得です」
「僕も少しは迷ったんだよ」
「……えっ?」
 男の言葉の意味がわからなかった。
 俺が顔を向けると、男は少し困ったように微笑み、
「彼女の才能を生かすか殺すかという天秤だ」
「……それであなたは、殺す方を選んだと?」
「まだ完全に決めたわけではない。君は知らないか? 所有しながら伸ばすという方法もある」
「あの……意味がわからないです」
「二年ほど前の話だよ。一人のご婦人が、この劇団からまだ若い少年を購入した。そのご婦人は財はあったが家族がなかった。だからその少年に自分の息子になることを求めた」
 男の言葉を聞きながら、自分がその部分に何一つ思いを巡らせていなかったことに気付いた。購入する目的の部分。むしろ決めつけていたと言った方が正しいか。表のビジネス、その延長線上に裏のビジネスもあるものだと思っていた。
 河原田大樹の言葉通りなら、金で片の付く家族の元を離れ、そして仮の姿でも自分を求めてくれる人の元へ行く。どちらが当人にとって幸せか……少しだけ決心が揺らいだ。
 男は続ける。
「そのご婦人は最初、購入したことに何の迷いも持っていなかった。しかし彼と過ごす日々の中で、彼女はその溢れる才能に魅せられてしまった」
「……返品、ということですか?」
「自分で育てたのだよ」
「あぁ」
 なるほど、とうなずく。
 この『オークショニア』に代わる過程を提供したということだろう。
「それから彼女は英才教育を施した。余りあるほどの財を彼女が持っていなかったら……と、僕なんかは思うがね。購入して財産が尽きていれば、そして才能に出資するほどの金がなければ、少なくともその後の生活は彼女の求めた幸せではあっただろう」
「……でもその人はそうしなかった」
「少年が頭角を現すのにそれほど時間はかからなかった。僕は当時の二人に会ったことがあるが……なかなかどうして、人間というのは皮肉な生き物だ。当時の二人は、僕が知るどんな家族よりも家族らしかった」
 男は遠い目で語った。その表情を見ながら、俺は思う。
 もしかしたらこの人も、家族が欲しかっただけなのかもしれない。価値観の崩壊したこの国で産を成した人間が求めるのは、低俗な劣情ではなく当たり前の温もりなのかもしれないと。
「……それで、その少年は今、どうなったんですか?」
 自分の感情を沈めながら、尋ねる。
 男は一度、皮肉にも思える笑みを浮かべ、
「成功しているよ。最近はテレビでの露出も増えた。プライバシーの問題もあるから、その名前は言えないが」
「……」
 これも一つの結果と言うことか。
 どこにどんな形の幸せが転がっているかなんて、誰にもわかるはずがない。
 それでも……俺は、
「本契約って、もう終わったんですか?」
 その言葉を口に出した。
「なんだい? やめてくれよ、今さら競るなんてことは」
 本当に無邪気に男は笑う。何を思って笑っているのだろう。窪居澄佳との生活でも思い浮かべているのか。
 男は満足げな表情で口を開く。
「君も知っての通り、お試し期間は十日間だ。彼女が僕の元へ来たのが先週の金曜日だから、まだ数日の余裕があるのだがね」
「もう終えたんですか?」
「明日の夜にでもと思っているよ」
 欲しかった言葉を手に入れた。たぶんこれが最後の武器。そして、俺の手にした初めての武器だ。
 心地よい疲れに浸るような顔で、男は続ける。
「まぁ……まだ慣れない部分はあるよ。だがそんなものは徐々に慣らしていくさ。全ては時間が解決してくれることだ」
「そのための演技力ですし」
「そう。仮面家族などと言う気はないがね。それでも人間にとって、自分以外は皆他人だ。家族、知人、友人、恋人……まぁ、なんでも構わないが、僕は自分に足りていない部分を補いたかっただけだ」
「例えそれが演技でも……商品でも、ですか」
「家族に思えないような家族と共に暮らすくらいなら、僕は家族に思える商品を選ぶさ。そしてもう選んでしまったのだから、後は信じるだけだ」
「その演技が……」
「……現実だと、ね?」
 俺を見て、男は悪戯っぽく笑った。
 日常を非日常と錯覚させること。小説ならば、文字によって作り上げられた仮想空間がフィルタとなる。この人の場合は、フィルタに演技が用いられた……ただ、それだけのこと。彼女がどんな役柄を求められたのかはわからないけれど、この人はそれを見て錯覚する。現実という舞台の上で。
「それじゃあ僕は失礼するよ」
 男が立ち上がった。
 俺に柔らかい微笑みを向け、
「今日は君の様子を見るだけで帰るつもりだったのだがね。まだまだ僕も若いな……安堵すると、ここまで口が軽くなるとは。気分を害したなら謝っておくよ」
「負けたのは誰でもない、自分の責任ですよ」
「いい心がけだ。僕もそうやってここまであがってきた。……君と今度会うときは、もっと明るい場所で会える気がするよ。それじゃ」
 男が立ち去る。その背中に、俺は答える。それは勘違いですよ……と。
「……疲れた」
 男が会場から出たのを確認して、大きく息をこぼす。
 こうなることは覚悟して来たとはいえ……台本のない演技がここまで疲れるとは。
「俺って金持ちに見えるのかな」
 なりふり構っていられないということで、男の勘違いを利用させてもらった。前回会った時に聞いた、結果が見えるという言葉と、いずれまた会うだろうという言葉から、あの人がまたここに来ることは予想できた。もちろん、それが今日かどうかということに関しては、そこまでの自信はなかったが。
 結果は俺が求めたとおり。バイヤー同士、ライバル同士の友情というやつか、これだけ都合よく情報を引き出せるとは、実際、思っていなかった。精神的に嬉しくない情報まで知ってしまったが、やっぱり贅沢は言ってられない。
「演劇の才能……あるのかもな、俺」
 だったら俺の商品価値も上がるかもしれない、なんてことを考える。しがない高校生を、多少の思い込みがあったとは言え高校生成金と勘違いするだろうか。しかし今の会話は、演劇と言うよりは詐欺に近いか。状況と先入観を利用した話術……詐欺の常套手段だな。忘れることにしよう。
「さて」
 改めて場内を見回すと、客はもう一人も残っていなかった。あれだけ長々と話し込んでいたのだから、当然だろう。
 俺はパンフレットを持って立ち上がる。ちょうど同じ時、入口からチケット係のおねいさんが場内をのぞき込んだ。
「あー、ちょっと。何してたの? そろそろ閉めたいんだけど」
「すんません。もう帰ります」
「もしかして、この綺麗なお姉さんを待ってたとか?」
 俺の方に歩み寄りながら、おねいさんが言った。自分で自分が美形だと認識しているらしい。鏡を見ればわかることだから、別に驚くべきことでもないが……それでも俺は少しだけ苦笑し、そして小さく首を振りながら言う。
「俺の中では美形のおねいさんなんで」
「えっ? おねいさん?」
「なんというか、親しみを込めた呼び方というか」
「ふーん。じゃ、私生活で親しいこととかしちゃう?」
 ものすごく魅力的なお誘いを受けた。どうやら本気で気に入られているらしい。
 だが、
「それはまた今度ってことで」
「あら、ふられた。かなしー」
「滅茶苦茶平気そうだけど」
「残念なことに、男で落ち込んでいられるほど暇じゃないのよね」
「なるほどね……じゃあ、そんな多忙なおねいさんには迷惑かもしれないけど」
「あ、なに?」
 笑顔のまま、おねいさんが俺をのぞき込む。
 そんな彼女に向かって、
「河原田大樹に伝えて。明日の午後四時、会いに来るから待ってろよって」


 11−友情と一時の別れ

 日曜日の午前中、裕弥を呼びだした。こうして学校以外の場所で顔を合わせることは、今までほとんどなかった。
 目的はバスケットボール。才能の確認作業だ。
「おーい、涼介ちん。相手になってねーぞ」
「黙れドラフト候補。少しは手を抜け」
「八百長で勝って嬉しいか?」
「嬉しいに決まってるだろうが。将来お前がNBAいったら、滅茶苦茶自慢出来るし」
「やっぱ手は抜けねーなー」
「器の小さい奴だな。一回負けてみろよ。結構気持ちいいぞ」
「負けるとしても相手は涼介じゃねーよ」
 退屈そうに言って、裕弥は俺の目の前で腰を落とす。俺はその目を睨みつける。
 以前バスケをしたときに、アレンくんからディフェンスのコツを教えてもらった。なんでも、ボールではなく相手の視線を追えばいいとか。要は動き出すタイミング。出し抜けさえくらわなければ技術より根性だ……と、実は高校野球ファンのアレンくんは言った。明らかに根性論大好きっぽいアレンくんのアドバイス。信じるに値するかどうか……果たして。
「……」
「……」
 無言で睨み合う。もう随分とこうしている気がする。周囲に響くのは都会の雑音と、ボールが地面を叩く音。神経が研ぎ澄まされる。
 そして、
「こっちかっ!」
 裕弥の視線が左に動いた。俺はすかさず左に飛んだ。抜群の反応速度。バスケは素人でも運動神経には自信のある俺だ、オフェンスならまだしもディフェンスなら――、
「涼介、なにしてんの?」
 その声は背中から聞こえた。
 振り返ると、リングにぶら下がる裕弥が。
「お前ね、攻めようとしてる相手の前開けたらダメだろうが」
「……視線はどうした」
「あん?」
「だってお前、こっち見ただろ」
 言いながら、ついさっき裕弥の視線が向いた方を指さす。
「あれはフェイクか? 素人の俺にそんな高等なフェイク使ったのか?」
「なに言ってんだよ……ほら、猫いんじゃん」
「……」
 言われて気付いた。
 不吉の象徴である黒猫が、指さした俺の手の先で、呑気に毛繕いなんかしていた。
 裕弥が言った。
「人間慣れしてんなーと思って、ちょっと気になったんだよ。そしたらお前、いきなり飛ぶし。おかげでまぁ、スコアは20−0になったわけだけれども」
「……アレンくんって虚言癖あるだろ」
「はっ? そうなのか?」
「そうに決まってる」
 信じてたんだぞ、アレンくん。未だかつて無いくらい集中して、未だかつて無いくらいの速さで反応して……そして、未だかつて無いくらいの恥をかいた。
 どうしてくれるんだ。これでギャラリーいたら、尻尾巻いて逃げ出してるぞ。
「涼介、今日はどうしたん?」
 ボールをつきながら、裕弥が歩み寄ってきた。
「変じゃねぇか、お前」
「そう?」
「なんつーかさ……一昨日まではあんなへこんでたのによ」
「メランドリだったんだよ」
「メランコリックだろ。それくらい覚えたっつーの」
 三度目の正直というやつか、裕弥はちゃんと覚えていた。
 俺は少しだけ苦笑し、
「勝負だ裕弥」
「いや……だからお前、その機嫌の良さはどっからきてるんだ?」
「NBAいくまえに一回勝っておきたいだろ」
「だからお前じゃ勝てねぇって」
「そんなものはやってみなきゃわからんだろ」
 言って、裕弥の手からボールを奪う。
 スリーポイントラインの外側に出て、
「今度は俺のオフェンスだろ?」
「まー、いいけどさ……んじゃ、やりますか」
「おう、その意気だ。そして負けろ」
「一回五百円で負けてやるよ」
「黙れ赤字男」
「それは涼介な」
「今は黒字だ」
 俺はドリブルを始める。腰を落とし、姿勢を低くして……アレンくん曰く、これがオフェンスの基本らしいが、信用するに値するかどうか。
 それ以前に、圧倒的にスキルが足りていないのだが。
「こいよ、涼介」
「……言われるまでもなく」
 裕弥の言葉に応えて、俺は動く。
 もちろん、その後何度繰り返しても、俺がゴールを決めることはなかった。

 ワンオンワンを始めて一時間が過ぎた。
「……おーい、涼介ちーん。休憩しませんかー?」
「ま……まだっ、だ」
「限界まで息上がってる奴のセリフか、それが」
「だっ、だまれっ」
「いいんだけどね……ほら、君のオフェンス」
 ボールを投げつけられる。大した勢いもなかったのに、受け取るときにファンブルした。裕弥のため息を背中に聞きながらボールを拾い、そして裕弥の正面に立つ。
「これが最後のオフェンスな」
 裕弥が言った。
「これでお前がシュート外せば、お前の負け」
「は、はっ?」
「五十点だよ五十点。今のスコアは50−0。ハンデ五十点なんだろ? その間にお前はゼロだ。もうこれで十分だろ」
「……」
 自分でハンデを提示しておいてなんだが、すっかり忘れていた。
 スコアを数えている余裕など無かったというのが理由だ。
「勝ちにこだわる涼介なんてな」
 裕弥が呟く。
「新鮮っちゃ新鮮だけどよ」
「……たまには、いいだろ」
「たまには、ね……その“たまに”が今日だった理由はなんだよ」
 さすがは裕弥と言ったところか。微妙なところだけは良く気付く……まぁ、今日の俺はどこからどう見てもおかしいか。
 俺は時間をかけて息を整える。
 そして、
「勝っておきたいんだよ」
「だから、その理由はなんだよ」
「最後に一回くらいさ」
「……はっ?」
「隙あり」
 一瞬、裕弥が油断した。俺はその隙を逃さない。利き腕ではない裕弥の左側……俺から見ると右側に体を入れ、とうとう裕弥を抜き去る。そのままの勢いでゴール下に駆け込み、シュート。
「よし」
 ガッツポーズと共に振り向く。俺の放ったボールはリングの縁を転がり……落ちた。リングの外側に。
「うわっ……フリーで外した」
 さすがにこれはショックだった。フリーのレイアップを外す……NBAなら減俸ものだ。
 これで試合終了か、と振り向いた俺の目に、立ちつくす裕弥の姿が映った。
「……最後?」
 裕弥は呟いた。
 それから足下に転がってきたボールを拾い、
「最後……って? お前、何する気だ?」
 気付かれるだろうと思って口に出した言葉だったから、俺は別に動揺はしなかった。
 ただ、裕弥がここまで動揺するとも思っていなかった。
「おい、どーゆーことだよ、涼介」
「……まだ決まったわけじゃないんだけどね」
「わかる言葉で言えよ」
「NBAいけよ」
 素直な気持ちを言葉にする。
「頼むからいってくれ。やれば出来るんだろ? だったら辿り着けるってことだ」
「……意味がわかんねーよ」
「俺はそれ、持ってなかったんだよな」
 呟くように言って、その場に腰を下ろす。周囲には相変わらずの騒音、それも今日で聞き納めだと思えば邪魔には感じない。
 裕弥は俺の目の前で立ち止まった。
 視線を合わせず、俺は口を開く。
「結構昔なんだよね、俺がそれに気付いたの。若いってことはいいことでさ、まわりの奴らはなんかよくわかんないけど未来を純粋に信じてた。平気な顔で可能性に夢を見てるんだよ。結果を結果として認めないような顔でさ、やれば出来るなんて言いながら。でも俺は思ってた……可能性を語るということは、つまり今の自分が何も所有していないことを認めるということだって」
「俺の嫌いな言葉が一通り出てきたな。嫌がらせか?」
「そうじゃなくて……なんて言うかさ、俺的に夢語るところから一歩前に進んだ場所が、目標として掲げるってとこなんだよ。でも俺は語るべき夢すら持ち合わせてなかった。だから本が好きでさ……そこは純粋な可能性の世界だったから」
「話の先が見えてこねぇよ」
「窪居澄佳の目標、取り返してこようと思う」
「……」
 裕弥は沈黙した。絶句と言った方がいいかもしれない。その顔は驚きに彩られている。
「……一つだけ方法があったんだ。それ、見つけたから。見つけてしまったら……俺にはもう、動く以外の選択肢は無いように思えてさ」
「付き合ってたのか?」
「憧れてたんだよ、たぶん。そして嫉妬もしてた。だからせめて、叶うにしろ転ぶにしろ、最後まで走りきって欲しかった。今、彼女は強制的に舞台を下ろされてる。現実的なしがらみのせいでね。だからそのしがらみ、俺が取っ払えないかと思って」
「涼介に特攻とかは似合わねぇぞ」
「そういうつもりはないよ。……これはただの契約だから」
 俺は立ち上がる。裕弥の手からボールを奪い、ゴールめがけてシュートする。力が抜けていたせいか、ボールは綺麗な軌跡を描き、リングに吸い込まれた。
「……こんな時に入られてもな」
 苦笑しながらゴール下に行き、ボールを手に取り……裕弥に投げつける。
「俺の中では、裕弥も窪居澄佳と同じだから」
「……はっ?」
「目標だよ。掲げたなら辿り着けってね。方法論、傾向と対策。辞書引けば意味はわかるから」
「……本気っぽいな」
「脇役の反乱ってやつ。可能性を残したキャストに問題があったんだよ。外伝を待つほど俺は人が良くない」
「やっぱ意味不明だけど……なぁ」
「ん?」
「お前がそこまでする理由ってなんだ?」
「……」
 その質問は、たぶん最高に良い質問なのだろう……すぐに答えることができなかった。
 そこを突き詰めれば何かが見つかりそうな気はしていた。ただそれは、俺にとって苦痛だった。こんな瞬間は今までに何度かあったけど、俺は避けてきた。……そう、意図的に避けてきた。
 深く考えなかった――そんな瞬間。
 それは物語に関係ない、考えようとした自分に対して、俺はそんな答えを突きつけた。俺に出来るのは動くこと、残された可能性を潰していく行為だ。そうやって少しずつ結果に近付くのだ。徹底的な脇役として、完璧な結果に。
 だから今は、考えない。
「中途半端で終わるの……嫌いだし」
「お前に言われたくねーよ」
 俺の答えを聞いた裕弥は、呆れるように、そして投げ出すように言った。
「なんだかなー……ま、いいけどよ。そーゆーくだらん理由っつーのも、逆にお前らしくていーかなーって思っちまったし」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
「誉めてねーよ」
「受け取り方の問題だって。俺の気分がよければそれでいいんだよ」
「また自分勝手なことで……んで? 別れの雰囲気満々だけど、再会の予定はあんのか?」
「俺に才能があれば、かな」
「才能?」
「そう、才能」
 裕弥の言葉にうなずく。
 昨日の男の話からするに、それは可能性として存在しうる未来だ。もちろん条件として、ただ側にいるだけで他人を魅了してしまうほどの圧倒的な才能を、俺が持っていなければならないということがある。そして自分にそれがあるかと聞かれれば、迷わず首を横に振るのだが。
 そもそも、こんなことは全てが成功した後に考えればいいことだ。俺という人間に、才能以前の商品価値がなければ、脇役の反乱も鎮圧されて終了だ。
「荒っぽいことすんのか?」
 ボールを指の上でくるくるまわしながら、裕弥が俺に聞く。
「反乱とかって物騒な言葉も聞こえたが」
「そうだな……ま、少しは荒っぽいこともって、考えてるけど」
「ふーん。じゃ、よ」
 言ったと思ったら、裕弥はボールを俺に投げつけて、歩き出した。裕弥の向かう先には、裕弥が家から持ってきたバックパックがある。汗かいたときに着替えるシャツなんかが、前回のバスケの時には入っていた。その中から裕弥は、全長三十センチ、刃渡り二十センチ弱ほどの危険物をとりだした。
「ほら、これやるよ」
「……なぁ、裕弥くん。お前のしてたやんちゃって、集団暴走行為だろ」
「趣味のツーリングだっつーの」
「だからお前免許ないだろ。と言うかこの危険物はなんだ。ここが空港だったら捕まってるぞ」
 裕弥の手に握られたそれは、簡単に言えばナイフ。決して十徳ナイフとかではないものだ。素人の俺から見れば明らかに“戦闘用”だ。
「脅し以外の目的で使ったことはねーから安心しろよ」
「いや……脅したことはあるのかよ」
「そーゆー世界だったからしょうがねーだろ」
「そんな世界で生きてた奴が娑婆でのうのうと……」
「お守りなんだよ、お守り」
 力強く言って、裕弥は鞘から刃を抜き出す。
 太陽の光を反射させながら、
「こんなもん持ってたって、自分が強くなるわけじゃねーのはわかってんだよ。でも、こんなもんのおかげで相手の虚勢は剥がせるんだよ。使い方の問題だ。涼介なら間違った使い方はしねーだろ」
「……そんなに俺を信用していいのか?」
「不気味なこと言うな……って、いつもの俺なら言うんだけどよ」
 言い淀むようにして、裕弥は不意に表情を崩した。
 苦笑するような、それでいて今にも本当に崩れてしまいそうな、そんな表情で、
「友情ごっこは嫌いだけどよ……でも、それが本物の友情だったら、ごっこ遊びにはならねぇだろ」
「そういう心構えでバスケも頑張れよ」
「あぁ、そうだな……つーか、こんな時に説教すんなボケ」
「でもすっごく恥ずかしいだろ、今」
「んなことはわかってるけどよ……あぁっ、くそ! ほらっ!」
 叫んで、裕弥は再びさやに収めたナイフを俺に押し付ける。
「持っとけ。とりあえず持っとくだけでいいんだよ。気持ちの問題だ。最後の手段があるって思ってれば、余裕も出来るだろ」
「なるほど、ね……じゃ、いただくよ、最終兵器」
「好きに使えよ。でもてめー、何年かかってでもいいから絶対返しに来いよ」
「最後の友情ごっこか?」
「それめっちゃ高いんだよ。必死にケンカして金巻き上げてやっと買ったんだからよ」
「そんなものに必死になるな阿呆」
 せめて自分で働いて買ってくれ……と言うか、別れ際が全く美しくない。
 これから死地へ赴く勇者に向かって、もっと他に言うことは無いのか。それとも本気で死地へ向かうつもりなら、裕弥のくさいセリフとかも聞けたのだろうか。
 しかし死んだら全てが無に帰すから、死ぬわけにはいかない。そこがまた格好悪くて悲しい。
「……俺、帰る」
 呟いて、裕弥は俺の手からボールを奪った。俺に背を向け、バックパックにボールを突っ込み、
「……たまに連絡よこせ」
「そうだな……出来ればそうする」
「くそっ……ばかたれ」
 裕弥は走り去った。
 アスファルトを叩く足音は、すぐに都会の騒音にまぎれ、消えた。
「……これで失敗できなくなったな」
 時計を見ると、いつのまにか十二時を過ぎていた。これから家に一度帰り、必要な物を持って河原田大樹の元へ。歩けば一時間ほどの道のり、自転車なら三十分かからないが……歩きでいいか。少しは気分に浸ろう。クライマックスに居合わせることのできた感慨にふけっても、今は許される気がする。
「よし。それじゃあ行きますか」
 俺はゆっくりと歩き出した。


 12−今、ここにある武器

「ゴドーでも待つつもりかね」
 河原田大樹の第一声がそれだった。
 四度目になる文字通りの小さな小屋。資材の搬入でもしたのか、客席の椅子が全て片付けられている。河原田大樹はステージの中央で、腕組みをして俺を少しだけ見上げた。俺も先週と同じように客席の中央に立ち、河原田大樹を見据えた。
「残念ながら、今日の私には時間がないのだよ」
「……そうだろうとは思ってたよ」
「何をしたいのかは知らないが、手短に済ませてくれるかね」
「成り行きしだいかな……俺の予定では、最低でも五時間くらいかかるんだけど」
 言いながら、肩に提げたスポーツバッグを置く。客席のはじに整然と並べられた客席用のパイプ椅子を一つ引き寄せ、やっぱり客席の中央に置いて座る。
 河原田大樹は眉を寄せる。その顔は今までにない、真剣なものだった。先が読めなくなったのだろう……この物語の先を。
「説明しようか?」
 ポケットから煙草を取り出し、言う。
「どうして俺がここに辿り着いたのか」
「……こことはどこのことを言っているのだ?」
「今日はあんたにとって重要な日なんだろ?」
 煙草に火をつける。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「それは誰からの情報だ?」
 尋ねられた。かなり強い口調だった。
「情報のソースはどこだと聞いているのだ」
「あんた自身だよ」
「……なに?」
「終わったと思ったんだろ? だから油断した。しゃべりすぎたんだよ」
「もっとも重要な言葉を教えたまえ」
「その前にもう少し流れを考えてみないか?」
 携帯灰皿を取り出し、その中に煙草を押し込む。
 そして河原田大樹と視線を合わせる。
 相変わらず、河原田大樹の視線は強かった。相対した弱者を押し黙らせるだけの迫力があった。しかし、今の俺は弱者ではなかった。その視線には見透かせない武器を所有している。
「今までのあんたには隙がなかった」
 俺は口を開く。
「例えば初めて会ったとき、あんたは必要な部分しか語らなかった。それは俺にとって必要な部分ではなく、あんたにとって必要な部分だけ、という意味だ」
「それがどのような意味を持つのだね」
「持つんだよ、配役を変えれば」
「……」
「俺はずっと、この物語の主役は窪井澄香だと思ってた」
 沈黙した河原田大樹に構わず、後を続ける。
「実際、彼女を主役とするなら、物語は幕を閉じたんだよ。あんたは彼女のいた世界の一部を構築した。つまりは世界観の部分だ。ま、一部というにはそれは広すぎたけど……しかし、全ては条件だ。与えられた境遇も、環境も、タイムリミットも。これらを物語として見るなら、問題はその条件の中でキャストがどう動くかということだった。俺が興味を引かれたのもその部分だった。脇役として彼女と関係を持ち、流れに身を任せながらその物語を見ていたかった。あんたには必要のない情報を語る義務はなかったし、それが全て条件だったなら、語ったとして事の順序に意味はないはずだった。まるで自分が悪役であるように振舞い、語らないことが当然のような演出までして」
「悪役などというキャストは、主観の中にしか存在し得ないはずだが」
「あぁ……うん、そうだな。それは確かにそうかもしれない」
「少年、言っていることが回りくどいぞ」
「じゃあ、すぱっと言うよ。裏のビジネスに関する事は、後出しにしなければならなかったんだろ?」
 言って、河原田大樹を見据える。
 裏のビジネスに関して重要なのは、気付けなかった俺ではなく、あの日に気付かされたという部分だった。設定ととらえた時点で、俺は河原田大樹の術中にはまっていたのだ。
 三日という時間は、確かに必要だったのだろう。動く理由があったというのも本当だろう。だが一番重要なのは、俺を“動かさなければならなかった”という部分。
 もっと正確に言うなら、“河原田大樹は俺を動かさなければならなかった”ということ。
「あんたを主役として考えたんだよ。そうしたら、後出しにしたことまで意味を持った」
 物語を構築した人間……窪居澄佳を一人のキャストとして動かした人間、河原田大樹。舞台に上がることのなかった脚本家。そんな一人の男の物語。
 今やっと、クライマックスに辿り着いた。
「ビジネスには慎重なあんたのこと、不安要素を残したくなかったんだろ? 窪井澄香と俺が知り合ったのは、あんたにとっては嫌な偶然だった。商品が商品を辞める可能性が出てしまうから。たぶん、その時点で入札の話は来てたんだろ? あんたのところには。商品を失っては困る……しかし、知り合った事実を消せるはずがない。だから終わらせる必要があった」
「ふむ……続けたまえ」
「はいはい。……じゃあ、まずは可能性の話についてしようか。まずは三日たってもあんたが動かなかった場合の可能性」
 言いながら、人差し指を立てる
「この場合、俺が動くという可能性があった。窪井澄香と友人関係をもつ俺が、四日目以降に行動に移る可能性だ。考えてみれば、姿を消した彼女にコンタクトをとる方法は、無いわけではない。彼女の家族に詰問するもよし、表のビジネスの性質を考えれば携帯電話くらい持ってるだろう。金と時間さえかければいくらでもその可能性はある」
 情報社会の現代で、完全に姿を消すのは難しい。特に法を犯さない主義の河原田大樹、様々な場面において、現実的に無理の無い方法でビジネスも行っているはずだ。それならばどこかに跡が残る。本気にさえなれば、その跡をたどるのは不可能というほど無謀なことでもないだろう。もちろん、俺のような人間が本気になるかどうか、という問題は別にしてだ。
「じゃあ次に、俺があんたの思い通りに動いていたときの可能性」
 人差し指に次いで中指を立て、言う。
「これはまぁ、あんたの立てた予定通りなんだから、いまさら語る必要もないかもしれない。ただ、俺の推測で話すなら……新しい受け入れ先が決まった、なんてところが妥当か。窪井澄香をまるめ込み、電話で俺に忙しいからもう会えないなんて言わせれば事は済む。彼女はあんたに従順だったみたいだし、そもそも劇団にはいるときにそんな契約はしてるだろうし……どう? 俺の推論。間違いがあるなら指摘して欲しいんだけど」
「くだらないことに割く時間はない。あたらずとも遠からずとだけ言っておこう」
「そうですか……まぁ、大きく間違ってないならいいけど」
 ため息とともに呟いて、立てたままの人差し指と中指で煙草を取り出す。今までとは立場が違うとはいえ、やっぱり緊張はしているらしい。
 落ち着かない気分を煙草で紛らわせながら、
「つまりあんたは終わらせなければならなかったんだ。ビジネスに支障を来たさないためには、圧倒的な整合性で物語を終わらせるしかなかった。それにはあの日が最適だった。否が応でも俺を動かさなければならなかった理由がそれだ。表のビジネスを語った必要性は、夢に対する彼女の真剣さと自分の持つ圧倒的な力を俺に思い知らせるため。そして一番大事なのが、俺を納得させるための舞台を整えるということ。あんたが俺の前に姿を現していなければ、俺には宙ぶらりんの謎ばかりが残されたわけだし。あんたは俺に、動き出す余地すら残したくなかったんだろ? だが同じ時に裏のビジネスについてまで語っていたら、彼女が変化する可能性があった。俺に説得され、意趣変えする可能性だ。的確なタイミングで情報をリークする手腕か。嘘をつかないキャストの、真実ではない事実……見事だと思うよ、今考えれば」
「だが君は、ここへ辿り着いた」
「……」
 急かすように言われる。
 河原田大樹は明らかに焦っていた。時計を見ると、ここへ来てから三十分ほどが過ぎている。タイムリミットはせいぜい一・二時間くらいか。その中で、俺の武器が見えていないことに焦っているのだろう。
「物語が終わるって、どういうことだと思う?」
 わざと余裕を持たせた口調で尋ねる。
「一つの物語が、綺麗に幕を閉じるための条件だよ」
「つまらん。謎や疑問が全て解消することだろう。少年の言葉を借りるなら……可能性が全てなくなること、とでも言えば満足か?」
「そうだね……大満足だよ」
「ならばそろそろ解放してはくれまいか。私には時間がないのだ」
「そうはいかない。……だってあんた、まだ可能性残してるじゃん」
 二本目の煙草を携帯灰皿に押し込む。立ち上がり、座っていた椅子を壁際に戻す。そして、左手をポケットに入れる。
「あんた自身が言った言葉なんだよ。本契約、そして準備やアフターサービス。材料が少なすぎたけど想像は出来た。お試し期間みたいなものがあるだろうってね。これだけの大きな買い物、そして現代人の生活のサイクルを考えれば……まぁ、一週間より短いなんてことはないだろうと思えた」
「想像の域を出ん仮説だな」
「そう、だから確証を得るため、バイヤーになりすまして情報収集させてもらった。相手は……まぁ、わかると思うけど。彼女を購入した本人だ」
「……ふっふ、なるほど。やっと読めたぞ、少年」
「じゃあこっちも隠さず目的を言う」
 左手をポケットから出す。
 その手に握る――スタンガンを。
「本契約させないから」

 河原田大樹は豪快に笑った。
「ふははははっ! いいではないか少年っ! 君はやはり若い! 力の差というものがわからんかね? そんなもので私を止められるとでも思っているのか? やってみるがいい。万事において抜かりなし。結果は何一つ変わらんよ」
「別にあんたを一生拘束しようなんて思ってない。今日が終わるまで俺に付き合ってくれればいいんだ」
「それが甘いというのだ、少年。だが……まぁいいだろう。相手をしてやろう」
 言って、河原田大樹は着ていたスーツの上着を脱ぐ。腕時計をはずし、スーツの上着と一緒にステージに置く。
「さて……私はどうすればいい? 私から攻撃を仕掛けようか? それとも君が動くのを待つか?」
「好きにすればいいよ」
「そうか。ならば好きにさせてもらおう」
 河原田大樹が動いた。そこに迷いは全くなかった。
 ステージを降りた河原田大樹が、俺に向かって歩いてくる。わずかに傾斜した客席スペース、俺を見上げるようにしながら、しかしその足取りは軽い。
 俺から三メートルほどの距離を置いて、河原田大樹は足を止めた。
「くだらん事に気をとられたな、少年。そこが命取りだ」
「保身、とでも言いたいのか」
「わかっているじゃないか。君の選んだ方法は、確かにあらゆる方法の中で最良の結果を得られる唯一の方法だっただろう。しかし、確率が低すぎるのだ。少年、君は期待値という言葉を知っているかね?」
「結構よく使うほうかな」
「ならば少年、君が愚かだったとしか言い様がないな」
「それは若者の権利だろ」
「……くだらん」
 呟いた瞬間だ、河原田大樹が走ったのは。
 状態をかがめ、重心を下げ、重力さえ利用した加速。それは裕也のドリブルより速い。俺が反応するころには、すでに懐に入られていた。スタンガンをあきらめ、左肘を突き出してガードする。
 しかし、
「く、くそっ」
 弾き飛ばされる。
 体をひねって衝撃を殺すが、相手の動きには迷いがない。全ての流れを読みきったように。
 笑み、そして拳。
「甘いのだよ少年っ! 最良の結果を得るにはリスクが必要だ。目先の利益に気をとられているようでは富など築けんのだよっ! それが現実というものだ!」
 言葉と共に拳がふってくる。あっという間に客席の壁に追い込まれる。左腕一本のガードでは間に合わない。腹、肩、腰、胸――もうどこが痛くてどこを守るべきかもわからない。
「観念したまえ! 君は決定的に欠落しているのだよっ! 君は正しく脇役でありすぎだのだ! 答えてみたまえ! これが脇役の行動か!?」
「う、うるせーこのっ!」
 苦し紛れにスタンガンを突き出す。
 しかし――いない。目の前にいたはずの河原田大樹が、いない。
「君の得意な流れはどうした、少年」
「えっ――」
「遅い」
 左手首に痛みが走った。一瞬の麻痺、そして武器の喪失。
 背後から蹴り上げられたスタンガンは弧を描き、床に落ち、傾斜した客席を滑ってステージの手前で止まった。
「茶番だ」
 河原田大樹の声に振り向く。立ち位置が入れ替わり、壁を背にした河原田大樹……しかしその余裕は、すでに興奮する必要さえないほどの。
 呆れたような口調で、河原田大樹は言う。
「終わりにしないか、少年。これで君には、万に一つも勝てる望みはなくなった」
「……でも、まだ終わってないだろ」
「両の拳が武器だとでも言うつもりか? ふっ、それこそ茶番だ」
「やってみなけりゃわからないだろうが」
「ならばくるといい」
 河原田大樹が半身に構える。とどめの一発でも入れるつもりか。
 そう……それがあんたの悪癖だ。
「負けられないんだよ」
 言って、俺は駆ける。右手を背後に引きながら。河原田大樹も右腕を振りかぶる。クロスカウンターのタイミングか。
「終わりだ、少年」
 それは、閉幕の言葉。
 拳と拳の交錯、すれ違い……そして、二つの拳が標的を捕らえることは、なかった。
「……」
 右手を中途半端につきだした状態で、河原田大樹は沈黙した。
 俺は荒い息を整え、
「まだ……あるんだよね」
 言って、右手に力を込めた。ズボンのベルトに挟み、シャツで隠していた裕也のナイフを握った右手に。
 河原田大樹の首筋に刃を押し付け、リーチの分だけ距離を取って威嚇する。
「ふむ、これは予想外だったぞ、少年」
 首筋にナイフを突きつけられながら、しかし河原田大樹は余裕を見せた。
 体は微動だにせず、顔だけで不気味に笑って、
「だが、これからどうしようと言うのだ」
「しばらく俺に付き合ってもらうって言っただろ」
「この状態でか?」
「あんたも役者の端くれだろ。待ってみろよ。ゴドーが来るかもしれないだろ」
「少年……君に足りないものが何か、自覚しているか?」
「はっ?」
「覚悟だ」
「えっ――」
 その言葉に、一瞬だけ戸惑った。そして、河原田大樹は動いた……いや、体は動かなかった。左腕……左腕だけが動き、俺の右手首を捕らえた。
「ぐっ……」
「もう遅い」
「うわっ……」
 腕の力だけで突き飛ばされる。常人離れした河原田大樹の握力に、俺の右手は大切な預かり物であるはずのナイフを離す。客席を情けなく転がった俺は、自分のスポーツバッグを背に、やっと止まる。
 河原田大樹が笑う。
「ふっふっふ……わかったかね、力の差が」
「……」
「言葉もないようだな」
「……」
 その通りだった。
 裕也に渡された大切なお守りでさえ、河原田大樹の虚勢は剥げなかった。いや、きっとそこには虚勢などなかったのだろう。
 期待値の問題、か……知っているんだ、そんなことは。
 力で敵う相手ではないことくらい。
「思ったよりも早く済みそうだ。少年、少し話をするか」
 河原田大樹が言う。
 俺は床に打ち付けた腰をさすりながら、立ち上がる。
「どうだね? それとも、話をする余裕などもう無いかね」
「……まだまだ余裕だよ」
「くっくっく……それは楽しみだ。足下のバックから新しい武器でも取り出すかね? 多少なら待ってもいいが、少年、どうするのだ」
「リスクが大きすぎるのはわかっていたんだよ」
 俺は呟いた。
 それはたぶん、脇役の懺悔だった。
「あんたという人間が、スタンガンやナイフ如きで負けるはずはなかったんだよ。あんたの言う覚悟ってのは、欲しい結果を得るために人を殺す、そういう覚悟のことだろ? でも俺には、そんな覚悟なんて必要なかった」
「私には敵わないからかね?」
「そう……理由の一つは、あんたが肉体的に弱いとする根拠が何一つ無かったこと。俺はたぶん、あんたに関することをそれなりに知っている。でも、そんな俺の知り得た情報の中に、あんたを弱いとする情報は一つも無かった。伏線が無いんだよ。もちろん、肉体的に強いとする根拠も無かったけど、影響力の強さは計り知れないほどだった。そんな奴の弱点がケンカなんて……しかも伏線無しにそんな弱点を持ち出されたって、納得できるはずがないだろ」
「ふっふっふ。少年、いいぞ。やっと冷静になったようだな」
「ずっと冷静だったよ……少し若者らしいことをしてみたかったんだよ、さっきは」
 裕弥には悪いことをしたかもしれない。最終兵器なんて言っておきながら、俺は最初から役に立たないことを確信していた。スタンガンで存在を隠し、タイミングを計り、それでも相手を止められなかった。俺が守れたのは裕弥の信用だけだ。
「君は非常に若者らしいではないか、少年」
 言葉を切った俺に代わって、河原田大樹が口を開いた。
「心配せずとも良い。ある意味において、君は正しく若い」
「ある意味? ……そういえば前も言ってたな、正しく若いって」
 あれは確か、俺が法律を理由に河原田大樹を問いただした時のことだ。思い返すと、他にもいくつかわからない言葉があった。
 俺が非常にいびつだと言い、滑稽だと言い、均衡がどこで保たれているのかと問うた。そして、俺は俺の核心にひどく近付いているが、辿り着いていないとも。
「君達は哀しい素数だ」
 河原田大樹が呟く。その声は、本気で俺を哀れむような……“俺達”を哀れむような、そんな声だった。
「……君達?」
 俺は聞き返す。
 河原田大樹は大きく息を吐きだし、
「わからぬか。まぁ、わからぬのも仕方なし……わからぬところに問題があるのだがな」
「時間ないんだろ? もったいぶらずに言えよ」
「君と窪居くんのことだ」
「……」
 やっぱりか……と、思った。
 その名前が出てくるだろうことは、なんとなくわかっていた。本当に根拠も何も無いのに……ほとんど、確信していた。
「君たちは似ている。しかし、絶対に相容れなかった。大きさの近い素数と同じだ。むしろ100の要素をそれぞれに割り振った結果とでも言えばいいか」
「感覚的な言い方だな。あんたらしくないんじゃないのか?」
「それこそ感覚的な主張だ、少年」
「あぁ……そうかもね」
「問題を抱えていたのは君だ」
 河原田大樹にそう言われる。
 非常にいびつで、滑稽な、保たれるはずのない均衡を保った、核心に辿り着けない……俺の抱えた問題。
 心がざわめき始める。
「一つだけ質問しよう」
 真っ直ぐに俺を見つめて、河原田大樹が言う。
 その質問とは、
「窪居くんのために君がここまでする理由はなにかね」
 裕弥に聞かれたことと同じだった。
「答えたまえ」
「……答えてどうするんだよ」
「私が君の矛盾を全て指摘してみせよう」
「そんなことを望む人間がいるか?」
「では質問を変えよう。君のやり方に沿った質問だ」
「……なんだよ」
「今日の君の行動は、脇役の行動か?」
「……」
 答えられなかった。
 心をえぐられるようだった。そこには触れたくなかった。触れてはいけなかった。何故ならその瞬間に、読者の視点を持った俺が消えるからだった。物語を読むような感覚で生きてきた俺のスタイルを、俺自身が否定することに繋がるからだった。
 でも知っていた。
 行動には理由が必要で、大きな行動を起こすにはそれなりの理由が無ければならない。個人の価値観に沿っていなければならない。読者としての俺、物語を読み、脇役と立場を決めた俺の行動。
 その行動の理由。
「私に言わせれば、そもそも配役などにさして意味はないのだよ。主役も脇役も、所詮一つの物語を構成する要素に過ぎないのだ。観客さえ要素の一つと言ってもいい。わかるかね? 存在する全てのキャストには、全てのキャストを主役とした物語が存在するのだ。現実など良い例ではないか。今まで君が目にしてきた世界は、誰によって観測されたものだ? 主観は誰だった? 第三者の主観が混ざったことがあったかね」
 くだらないとでも言うように、河原田大樹はため息をこぼす。
 そしてまた、俺に尋ねる。
「もう一度聞こう。今日の君の行動は、脇役の行動として成立するものかね?」
「……この物語には、まだ可能性が残されていた。俺はその部分を消したかっただけだ」
「違うな。もしその言葉が真実だとするなら、少年、君はどのような未来を思い描いた? 脇役としてストーリーに割り込んだ君が指摘する、可能性に影響された未来だ」
「思い描けりゃいいだろ……選択肢として存在する理由なんて、それで十分だろ」
「少年、嘘を言ってはいかんぞ」
「なにが嘘だよっ」
 河原田大樹を睨みつける。精一杯の否定の感情を込めて。
 しかし、通じない。
「いい瞳だ。しかし、虚勢だ」
 笑みと共に一蹴される。
「そこが若いというのだ、少年」
「……黙れよ。より深い部分まで可能性を掘り下げて何が悪いんだよ」
「違うな。君は掘り下げようなどとは思っていなかった」
「じゃあ今日の俺はっ――」
「可能性を利用したのだ、君は。ただそれだけだ」
「……」
 言いかえすことすら出来なかった。
 何故なら、その言葉が正解だったから。
 本当に……文句のつけようもない、完璧な正解だったからだ。
「君の抱えた問題は、一つだけ。君は自らを流れに身を任せる脇役とし、物語を読むと言いながら、思考の方向性を選別した。純粋な登場人物ならば無視できないはずの事柄を無視したのだ。それは登場人物に許される行為かね? 君の知る物語の中では、“何の理由もない意図的な思考”など許されていたかね? たまたまや偶然などという理由で、物語の大局が変化するとでも思っているのか?」
「反則……だよな、それは」
「やっと認めたようだな。では聞こうか。何の理由もない意図的な思考、この言葉の嘘とはどこかね」
「何の理由もない……ってところ」
「いい答えだ」
「あるんだよ……理由なら、本当は腐るほどあったんだよ!」
 叫んでいた。
 確かに俺は彼女に憧れていた。自分にはない物を持った彼女に嫉妬もしていた。だから最後まで走り抜いて欲しかった。その結果を見届けたかった。
 ――でも本当は隣に寄り添いたかったし、求められるなら協力したかったし、求められたかったし、愚痴だってこぼして欲しかった。無邪気な笑顔は綺麗だったし、その口癖には好感が持てたし、柔らかい空気は気持ちよかったし、理由なんてわからないけどいなくなって欲しくはなかった。
 いつからそんなことを考え始めたかなんて、よくわからない……いつからかこの出会いを、運命の神様に感謝し始めていた。
 だから、認められなかった。
 時間切れなんて言葉は。
「吹っ切れたか、少年」
 河原田大樹は満足そうに言う。これで本当に全ての矛盾が解決した、そう言うことだろう。終わりを認めていれば矛盾のなかった俺が、終わりを認めないことで生み出してしまった矛盾。
「……腹立つくらい鮮やかに斬られたって感じかな」
 苦笑しながら答える。
「やっぱあんた、さすがだよ」
「ふっふ。そう誉めるな。身に余る」
「たまにはいいんじゃないか? 調子に乗ったって」
「私が全てにおいて完璧だったというなら、どんな美辞麗句も受け入れるがね。しかし私は、ミスを犯した」
「素直じゃん」
「今だからこそ言える言葉だ。全てが終わった今だからこそな」
「……全てが終わった、か」
 呟いて、俺はしゃがみ込む。足下にあるスポーツバック。その中に、手を入れる。
「……少年?」
 河原田大樹の声が曇った。俺の行動に意味を見出せないのだろう。次のシーンが読めない……いや、河原田大樹にとっては無いはずだったシーンが始まったのか。
 全てが終わっただって?
 やめてくれ。
 俺はまだ、唯一の武器を行使していない。
「あんたのおかげで、随分とさっぱりした気分でこれを使えるよ」
 言いながら右手を掲げる。
 右手に持った一枚の紙を。
「少年……それはなんだ?」
「武器だよ」
「……武器、だと?」
「そう。さっき半分だけ説明したけど、俺があんたの言う覚悟を必要としなかった理由は、もう一つある。わかるか?」
「……」
「その様子じゃ、俺の行動が全く読めてないみたいだな」
 呟きながら足を踏み出す。
 河原田大樹の正面まで進み、
「スタンガンもナイフも、俺にとっては武器じゃなかったんだよ。わかるだろ? 行使する側が武力として認めていないんだ。殺す機会のあった俺がそれをしなかったのは、覚悟が足りないなんて理由からじゃない。最初からする気がなかったんだ。この物語は殺人を許容していないってね、選択肢を用意していなかったんだよ。俺が行使すべき武器は、最初から最後まで一つしかあり得ない。わかるだろ? 利用すべきは、物語の可能性だ」
「少年、これは――」
「契約書だ」
 言って、俺は頭を下げる。

「俺の全てをあんたに売る。だから、窪居澄佳を俺に売ってくれ」


 0−そんな高校生の結末

 のどかな田舎町の朝。時間の進み方さえ遅いのではと思える、穏やかなワンシーン。
 冬の予感を乗せた冷たい風が、小さな駅舎を駆け抜けた。ホームで電車を待つ、数少ないスーツ姿の裾を揺らしながら。
 この町は都心から電車で一時間ほどの距離にある、ありふれた田舎町だ。駅のホームから少し視線を上げれば、建設途中の高速道路の高架が見える。平地に広がる田畑と近代的な高架の織りなす風景は、お世辞にも美しいと呼べるものではない。最近建てかえられたらしい駅舎も、その慎ましい外観がまとう新築の空気のせいで、やっぱりどこか周囲から浮いている。山腹には豪奢な別荘が点在して建ち、高みから下界を見下ろしているようだった。
 しかし不思議と、線路だけは自然によく馴染んでいた。上りと下り、計四本の直線は、けっして自然を切り裂くことなく、遠慮深く緑の隙間をぬうように続いていた。
 ホームは線路を挟むようにして二つだけ。朝という時間にも関わらず、そこには数人の客しかいない。
 上り線のホームには、一人の少女がいた。彼女はベンチに腰を下ろし、旅行というにはあまりにも小さいカバンを足の上に乗せている。思い詰めた視線を地面に落とし、周囲の景色を楽しむ余裕もないといった様子だ。
 そんな彼女のちょうど正面、下り線のホームには、一人の妙な男がいた。ロングコートに身を包み、足下には大きなスポーツバック。口元に煙草をくわえたまま、男は壁に取り付けられた鏡をのぞきこむ。そこに映った顔は――乱れた髪に、無精髭、サングラス。肌はまだ若々しい。どこかアンバランスな風体。満足げにうなずいて、男は鏡から視線を外す。
 静かな空気が流れた。風が揺らす木々の音は、まるでオーケストラのように壮大にして荘厳。たまに聞こえる野鳥の鳴き声はバイオリンソロのように鮮やかで、柔らかい日差しはチェロのように世界を優しく包み込む。
 しかし、
『一番ホームに電車がまいります。白線の内側にさがって……』
 スピーカーから流れる無機質な声によって、静寂はやぶられる。下り線のホームにいた客が、思いだしたように動き出し、ホームの床にペイントされた乗降口のマークにそって並ぶ。そんな中で、男は携帯電話を取り出す。
 やがてシルバーの車体が駅に滑り込んでくる。ゆっくりと動きを止めた電車から降りてくる者はいない。並んでいたわずかな客が、電車に乗り込む。
 上り線のホームで少女が立ち上がった。その手には、やっぱり携帯電話が握られていた。
『も、もしもしっ!』
 彼女は叫ぶように言った。
「顔を上げて」
『えっ!? あ、あの、もしかして――』
「顔を上げて。そして真っ直ぐ前を見て」
『ま、真っ直ぐ、前……』
 呟きながら、彼女が顔を上げる。
 そして、電車の窓越しに、二つの視線がぶつかる。
 妙な変装をした男――俺は、中指で鼻を押し上げ、
「ぶー、なんて言ってみたりして」
『――っ!』
 俺の視線の先で、窪居澄佳が涙をこぼした。



 遡ること十五時間ほど前。
「……いいだろう」
 河原田大樹はうなずいた。今までに無い長考だった。しかし、うなずいた。
 それはつまり、俺を商品と認めたということだ。
「来たまえ。契約をしよう」
 言って、河原田大樹は歩き出した。ステージの袖から裏に入り、楽屋を通り抜け、事務所らしき二階へ向かう。
 初めて見る劇団の裏側は、乱雑に散らかっていた。小道具か衣装かわからないが、そこかしこに意味不明な物体が散らばっている。生活の跡も簡単に見て取れ、ペットボトルやコンビニの弁当のゴミで溢れるポリ袋がいくつもあった。整理整頓がされていたのは、事務所の部屋だけだった。
「座りなさい」
 河原田大樹は応接セットを指さし、言う。たぶんそこは、普通の引き抜きに際して使われる、客用のスペースなのだろう。
 俺は高級そうなソファに腰を落ち着ける。
 そして、聞く。
「……買ってくれるんだな」
「勘違いされないように言っておくがね。男女共に需要はあるのだよ。ちょうど新しい話をもらったばかりでね……相手は不動産関係の成り上がりだ。忙しいらしく、公演と予定がかみ合わないのだ」
「俺は何をすればいいんだ?」
「君は料理は得意か?」
「はっ? ……まぁ、うちの親はあんま子供に興味ないし。自分で飯作ることも多いけど」
「ならばいい。家庭的な息子を演じたまえ。先方に受け入れられれば、十日以内に本契約だ」
 言いながら、河原田大樹は契約書にペンを走らせる。俺が急ごしらえで作った契約書の文章を、何カ所か訂正し、
「見たまえ」
「……おう」
 差し出された契約書を見る。細かい訂正が五カ所ほど入り、そして、隙はなくなった。
 ただ、一点だけ気になるポイントがあった。
「俺を買うのはあんたなのか?」
 購入者の欄に、河原田大樹と書かれていた。
「何か問題があるかね」
「いや……まぁ、買ってくれるならそれで」
 河原田大樹の言葉に首を振る。
 実際、俺を買ってくれるなら、相手が誰だって構わないのだ。要は金……こんなことを言うと、河原田大樹に毒されたようで嫌だが。
 河原田大樹は俺の手から契約書を取り、それを眺めながら、
「たまに難儀な商談が持ち込まれるのだ。先方の出した条件は、三年間だけのリース」
「三年間って……そんなこともあるのか?」
「それくらいが限界なのだよ。この世の春は長続きしないのだ。求める気持ちが強ければ強いほど、夢を手に入れる代価が金だと気付いたとき、虚しくなるのだ」
「今さらって感じがするけど」
「そこまで綺麗に割り切れることではない。だからこそ君は、完璧に演じなければならない」
 特に感情を浮かべずそう言って、河原田大樹は契約書に捺印した。
 これで俺は、河原田大樹の所有物になったわけだ。
「……今だから言うがね」
 ソファに深く腰掛け、大きなため息をこぼし、河原田大樹が呟いた。
「私が君を怖れた最大の理由は、商品が奪われそうだからなどという理由ではないのだよ」
「はっ? ……じゃあ?」
「人というのは本当にくだらない生き物でな、一人では何も出来ないくせに、関係性を持った他者が現れた瞬間、思わぬ力を発揮することがある」
「あんたにも想像の及ばない力……ってことか?」
「そうだ。君の言い方を借りるなら、主役としての私が、喰われると思ったのだよ」
「喰われるって……そんなこと――」
「そう、君が思っているうちは安心だがね」
「……」
 配役には意味がない。全ての登場人物には各々を主役とした物語が存在する。しかしそれでも、登場人物全てを巻き込んだ大きな流れは存在する。その流れの中で、主役を務めるべきなのは……たぶん、一番強い感情を持った人間。
 俺は最初から脇役だったわけではないのか……主役になれる可能性を、自分で放棄した、そういうことか。
「私はこう考えているのだ。……人間はそれぞれが固有の数字を持っている。価値観などと呼ばれる部分を数字に見立てるのだ。そして大体の人間が、他者と共通項を持っている。その共通項の部分が重要でな。他者と一部でも価値観を共有できた人間には、共闘という選択肢が許される。それは非常に大きな可能性を秘めた選択肢でね……しかし、対処できないかと問われれば、そんなことはないのだ。何故ならそれは、ありがちな展開だからだ」
「人生経験ってやつか」
「面倒ごとに巻き込まれた回数が多いというだけの話だ。金は金、何一つ変化はせん。喜怒哀楽はどれだけ大きかろうと喜怒哀楽でしかない」
 金と喜怒哀楽を同列に語るその言葉に、河原田大樹らしさを感じて、少し苦笑した。
 そんな俺の前で、河原田大樹は時計に目をやると、
「時間だな」
 疲れた口調で呟き、立ち上がった。
「君のせいで面倒な仕事が増えた」
「あぁ……それは悪かったと思ってる。本気で」
 河原田大樹の言葉に、素直にそう答える。
 まとまりかけていた契約を破談に持ち込んだ上に、その後始末までさせてしまった。俺に関することだって、これで全部終了というわけにはいかないのだろう。
「まぁいい。判断したのは私だ。これに見合う利益を上げてくれたまえ」
「頑張るよ」
「……いいだろう。君はここで待っていなさい。九時過ぎには戻ってくる」
 河原田大樹が歩き出す。
 その背中は、今まで見たどんな河原田大樹より小さかった気がした。
「初めてだったのだ」
 事務所を出るところで、河原田大樹は立ち止まった。
「君達ほど綺麗に要素を分け合った人間に会ったのは、初めてだった」
「……要素?」
「そうだ。似てはいるが共有はしない、共に語るがベクトルは異なる。……君達が気付かなくて良かったと思う」
「気付く……って?」
 河原田大樹の言葉に戸惑う。たぶん俺と窪居澄佳のことを語っているのだろうが……俺はなにに気付くべきだったのか。
「どんな数字でも一つだけは共通の因数を持つ。数学の世界ではほとんど省略されているが、それでも共有する数字を持つことは事実だ。そこに理由を見出せたはずなのだがね……共通項など探らず、純粋に加法に従えばよかったのだ」
「あぁ……そうか。……何となくわかったよ、言いたいこと」
「ならばそこで後悔を抱えたまえ。私に面倒ごとを押し付けた罰だ」
 今度こそ河原田大樹は事務所を出る。
 珍しく感情的な言葉を残して。
「……共通の因数、か」
 たぶんそれは、価値観や理由などと言う言葉では説明できない特殊な感情のことだろう。何一つ共有していなくても、お互いがお互いを許容は出来た、その理由。相手が同じ感情を持っているか、そしてその感情が自分の方を向いているのか、厳密に確認する術はない……つまり、信じるしかない、そういう物。むしろ信じることができるた理由と言ったほうがいいか。今までの俺が持ったことのなかった、馬鹿みたいに純粋な感情が、たぶんそれだ。今まで無視し続けてきた感情が。
 きっと、その部分で通じ合えば、他に何一つ共通項を持っていなくても同じ方向に進めたのだろう。下手に価値観を共有するより、ずっと大きな力を得て。
「どうなのかな……彼女は」
 確認する術を、静かな事務所の中で探していた。



 携帯電話の電源を切り、ポケットにしまう。変装のためとは言え、秋にコートは早すぎる。付け髭とカツラのせいか、額にはうっすらと汗が浮かぶ。
 俺の隣に立っていたサラリーマン風の男が、俺から離れていった。ただでさえ怪しい風体の男が、携帯電話で「ぶー」なんて言ったのだ。気味悪がられて当然だろう。
 走り出した電車の中で、入れ替わるように一人の男が近付いてくる。
 そして、
「今のは合い言葉かなにかかね?」
 河原田大樹は聞いた。
「窪居くんは随分と慌てていたようだが」
「手癖だよ。ただ、そこに意味を持たせたんだ。その意味を知ってるのは、彼女だけだった」
「私がこんな機会をもうけたのは、窪居くんを泣かせるためではなかったのだがね」
「そうなんだろうけどね。……あの涙のおかげで、確認できたから」
「確認?」
「俺達が持ってた共通の因数ってやつをさ」
 たぶん惹かれ合っていたのだろう。最初からではないかもしれない。でもいつからか、同じように惹かれ合ってはいた。俺が選ばれたことには理由があった。俺が選んだことにも……もちろん、理由はあったのだ。
「客の家までは、どれくらいかかるんだ?」
 隣に立った河原田大樹に聞く。
 河原田大樹は手帳を取り出し、そこに書かれた住所を見つめ、
「まだしばらくかかるな。電車を乗り継ぎ、その後はバスだ」
「この変装、疲れるんだけど」
「自分で選んだことだろう。窪居くんに姿を見せる気はないと言ったのは、君ではないか」
「そうなんだけどね」
「まぁ……しかし、心配はいらん。先方が住むのは静かな別荘地だ。金持ちしか知らぬ別荘地。ゆっくり休めるだろう。光栄に思いたまえ」
「……だね。三年間、楽しむよ」
 さわやかな朝の景色が、窓の外を次々と通り過ぎていく。もうそこに、彼女の姿を見ることはできない。
 彼女を買ったあの男には悪いことをした。きっとあの人も、純粋に家族が欲しかっただけなのだろう。特に根拠はないけれど、あの人と交わした少ない言葉から考えて、きっとそうだと思う。ただセンチメンタリズムに浸りたいだけかもしれないが……それでも今は、これでいいと思う。
「彼女にはなんて説明したんだ?」
 窓の外に視線を向けたまま、尋ねる。
 隣からは大きなため息が聞こえ、
「先方が窪居くんの才能に出資したいと申し出た……と、そう伝えた」
「納得してた?」
「不思議そうな顔はしてたがね。今頃、おぼろげに事情は察しているだろう」
「まぁ……そうだろうな」
 河原田大樹のビジネスについて知っている彼女だから、結果から事情を探るくらいのことは出来るだろう。才能に出資したいと申し出た先方が俺だった……そうやって単純に捉えてくれればいいのだが。
「……やっぱ余計なことしたのかな、俺は」
 ついさっきのニアミスを提案したのは俺だった。論理的な理由のない、感情先行の提案だ。彼女の顔をもう一度見たかった。彼女の反応を確かめたかった……そんな、自分勝手な理由だ。
 河原田大樹は、どうせ会うのならしっかり顔を合わせたらどうだと言った。その場で全て説明すべきだ、とも。でもそれをやったら、俺が立ち止まりそうだった。自分の持つ感情に気付いてしまった今、彼女を前にそれを押さえつける自信はなかった。俺が自分の商品価値を放棄することは、再び歩き始めた彼女の足を止めることにつながる。そうなってしまったら、自分が何のために万策尽くしたのか、わからなくなってしまう。
「あんたはどう思う? こういう物って……やっぱ、あんまり背負いたくないかな」
「くだらんことを気にする必要はない。期待を背負って倒れる程度の目標ならば、最初から持たぬ方が幸せだ。結果を求めるのだ、犠牲など付き物と考えられなければ、いずれ失敗する」
 俺の問いかけに、河原田大樹は強い口調でそう返した。俺という商品を購入してしまった、そんな自分に対して言い聞かせているのかもしれないと、少し思った。こいつにとっての金は、たぶん何より尊い犠牲なのだろうし。
 河原田大樹は一度小さく咳払いをし、
「そんなことよりも私は、君の根回しの方が気になるのだが」
「あぁ……親のことか? あんたの言う商品価値なら、俺にもあると思うぞ。しばらく家を空けるって話もしてきたし」
「金はいいのか? 面倒なことになるくらいなら、私は金くらい出すつもりだが」
「逆に怪しまれるよ、そんなことしたら」
「ならばいいがな……私もそれなりのフォローはするが、君に出向いてもらうことになるかもしれん」
「そんな余裕あるのか?」
「相手方は忙しいと言ったはずだが」
「……なるほどね」
 答えながら、これからの三年間に思いを馳せる。
 家庭的な息子を演じながら、俺は何を考えていくだろう。何を感じていくのか。演技が本気になる瞬間は、いつか訪れるのか。
 三年間という芝居の幕間で、俺は何を考えるか……きっと、彼女のことを想うだろう。目標に辿り着いて欲しいと願いながら。初めて声を交わしたあの瞬間から始まる、あまりにも短すぎた物語を思い返しながら。
「正直なことを言うとだね、この契約では割りに合わんのだよ」
 唐突に、河原田大樹がそんなことを言った。
 隣を振り向いた俺を見て、
「わかるかね? 赤字なのだよ。そして私は、赤字が何より嫌いだ」
「……金が足りないってか?」
「売れる物が他にないかということだ」
「内臓は売らないぞう」
「……ギャグのセンスはないようだな」
「いや、マジだから、マジ」
 顔をしかめた河原田大樹に向かって言う。
 こんなタイミングで親父ギャグなど言うはずがない。もちろん、多少意識はしたが。
 しかし……所有というのはそういうことか? 臓腑さえ河原田大樹の好きにされる? いや、でもこいつは法律犯すのが嫌いだし……、
「君の想像しているような事をする気はない」
 河原田大樹が言った。
 その言葉に、一度はほっと胸をなで下ろすが、
「しかし……そうだな、君の想像できないようなことは、してもらおうかと考えている」
「はぇ? な、なにさせる気だよ。断っておくが俺はまだ十五だぞ。遅生まれだ、遅生まれ」
「そんなことは関係ない」
「ね、年齢の関係ないこと? ……なにさせる気だ」
 嫌な予感が大挙して押し寄せてくる。三年後、当面の客との契約が切れたとき、自分が何をさせられるのか。商品としてのイロハを教え込まれ、転売されるくらいのことは覚悟していたが、それでもまだ甘かったのか。そもそもお試し期間で商品価値を否定され、契約を結んでもらえなかったら、俺はどうなる?
 未来は見えないからこそ怖い、暗闇とわかっていれば備えも出来るし逃げ出せもしようものだが……なんて、冷静に考えている場合ではなさそうな気がする。
 冷や汗をぬぐった俺に、河原田大樹は無邪気にも思える微笑みを浮かべながら、
「気が緩んでいるな、少年。物語がもう終わったとでも思っているのか?」
「いや……終わっただろ、完全に」
「甘いな、少年」
 妙に芝居がかった仕草で、河原田大樹は首を振る。わざわざ大きく間をとり、それから俺を真っ直ぐに見つめ、
「物語を書きたまえ」
 ほとんど命令するようにそう言った。
「……は、はい?」
「そもそもこの私が、赤字覚悟の契約などするはずがなかろう。しかも君の演技に関しては、全くの未知数ときている。だからこその物語だ」
「……」
 思わず絶句した。
 全く予想していなかった展開に、言いかえすべき言葉の一つも浮かんでこない。そんな俺を見て、河原田大樹は何故か得意気に笑う。
「私の新しいビジネスだ。演劇自体を商売にするのもいいかと思えてね」
「俺に……脚本が書けるとでも?」
「いきなり脚本は難しいだろう。私には教えてる暇もない。まずは練習として、小説を書きたまえ。私の見込みが正しかったのか、それだけでも見極めたいのでな」
「書けって言われても、何を書きゃいいんだよ。俺にはネタなんてないし……」
「ふっふっふ。何を言う、少年。あるではないか」
 言って、河原田大樹は俺の顔を指さした。
 俺を真っ直ぐに見つめ、
「思い出すのだ。君が見てきたもの、感じたもの、聞こえた声、考えたこと……そして、思考から逃げたこと」
「あ……」
「気付いたようだな」
 それは、純粋な衝撃だった。
 そう……今の俺は、もう消費者の立場にはいないのだ。
 商品であり、同時に創り手の立場でもある。
 何より、短いけれど濃密なストーリーに巻き込まれた。
 今までは、脇役として。
 そしてこれからは――、

「君自身を主役とし、この物語を書くのだ」


 完結/終わったのか始まったのか
2004/09/19(Sun)03:40:21 公開 / ドンベ
■この作品の著作権はドンベさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 理屈っぽいものを書いてみたいと思い、書き始めたものです。本当に申し訳ないですが、読む人を選びそうな文章です。
 ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

 感想の書きにくい文章だと思いますが、どんなものでもかまいません、思ったことをそのまま書いてもらえればと思います。厳しい批評、批判、遠慮なく書いてやってください。よろしくお願いします。

 十二話と0話公開、これにて終了です。最後の最後にめちゃくちゃ時間開いてしまいました。自分の甘さがたくさん見えてきて、それをなおしている間に……と、なんか本当に情けないです。
 トータルでの長さは、たぶん四百字詰め原稿用紙で三百五十枚くらいになると思います。長いです。長すぎです。ここまでお付き合いいただいた方々、本当に、本っ当にありがとうございました! これだけたくさんのリアクションをうけながら物を書くのは、自分にとって初めての経験です。今までに無い貴重な経験です。改めて……ここまで読んでいただいた方々、本当にありがとうございました。

 流浪人さん>ありがとうございます。ラスト、どうだったでしょうか。自分の中でやりたいことは全部やったという感じなのですが……ちょっとやりすぎだったかな、という気も。予定通りではあるのですが、時間が経てばたつほどこれでいいのかという疑問に囚われてしまって……いかがでしたでしょうか。感想や批評、どんなことでもかまいません。一言いただけると本当に嬉しいです。よろしくお願いします。

 夜行地球さん>ありがとうございます。主人公はこんな行動に出ました。予想を裏切れていたら……最高なのですが、僕って発想が貧弱だからかなり不安で……。せめて期待していただいた分だけはと、必死に書きましたが、いかがでしょうか。感想のほう、どかよろしくお願いします。

 神夜さん>ありがとうございます。ここまでお付き合いいただき、本当に嬉しいです。よくよく考えてみたら、本当にヒロイン、全然出てきてないですね。しかもこんなラストになって……うぁ、どうでしょうか。というかこの話男ばっかりです。今度は女の子一杯出てくる話を……って、今ちょっと頭悪くなりました。すみません。……えぇ、長々と続いたこの話ですが、いかがだったでしょうか。率直な感想をいただけたらと思います。よろしくお願いします。

 バニラダヌキさん>ありがとうございます。今回、ラスト付近を推敲しながら、バニラダヌキさんからいただいたご指摘について、自分がどれだけ甘かったか再認識させられました。かなりの部分に手を入れましたが、かなり危ういことになっている気がします。今さら言い訳……本当に申し訳ありません。何か引っかかる事柄がありましたら、どうか遠慮なく書いてやってください。よろしくお願いします。

 卍丸さん>ありがとうございます。裕也の役割は、僕の中ではヒントを出す人でして。この人がいなければ主人公はラストにたどりつけていないという意味で、まぁ、二人はいい友人だったのかなぁと。そしてたどり着いたラストですが……いかがでしょうか。なんか自分はこんなラストばっかりで、芸がないなぁと書き終えて思いました。どんなことでもかまいません、一言いただけると本当に嬉しいです。よろしくお願いします。


 ここまで読んでいただいた方々、繰り返しで、しかも語彙が少なく同じ言葉しか浮かんでこず申し訳ないのですが……本当にありがとうございましたっ!
 この話に少しでも目を通してくださった方、そして感想を書いてくださった全ての方々に、改めて深く感謝いたします。
 ありがとうございました!
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