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『ココロの繕い 更新第五回』 作者:春一 / 未分類 未分類
全角26342文字
容量52684 bytes
原稿用紙約83.05枚







 欠けた部分を補う。
 
 友人をつくる、恋人を求める、そういった自分の欠けた部分を補ってくれる人を探す事。
 球状のパネルを埋めるジグソーパズルみたいなもので、
 誰かの足りない所を誰かが、
 誰かの足りない所を誰かが、
 補っているから心は、人は、そしてそれをピースの一部とする社会は安定している。
 世界、とすると傲慢が過ぎるので、そう表現することは控える。

 しかし、その『並び方』、そして『補い方』が全てうまくいっているとは限らない。
 何故なら、全く別のパズルのピースがどこぞから迷い込んで来る時があるからだ。
 それは紛れもなくこの世界に生まれて、この世界に育ったモノなのだが、先天性のものか後天性のものか、歪みを持って生じて来てしまったのである。歪み方も、そのモノが人である以上、性格や容姿のように千差万別だった。
 例えば、誰かを好きになることの出来ないヒト。狭義の意味での『愛』が、欠けている人。
 これはあまり、困らないのかもしれない。最初からわからない、という前提にこの歪み、いや、他の歪みも全てが存在するが、これは人間にとって一番必要でいて、なければ一番どうでもいいものなのかもしれない。一番大事なものの筈なのに、それを知らなければ何も痛くないし、何も苦しくない。
 次に、何も、誰も怨むことの出来ない人。
 これは、誰も好きになれない人とは対極に、人にとって一番苦しい歪みだ。誰かに傷つけられた時、なじられた時、犯された時――怨むことで、そして復讐することで、道徳的にその行為が間違っていたとしても、多少の心の平静は取り戻せる。
 逆に、そう出来ない人物は悲惨である。痛みと苦痛、そして嫌悪感――それら全てが、残るのだから。

 他人に補ってもらうことの出来ない彼等は苦悩した。苦悩して苦悩して、『自分でどうにも出来ないと思い込んだ』馬鹿は、自ら自分を壊した。中身か外身か、勿論の両方の場合が存在し、中身が壊れた場合には作為的なものではない、壊した本人の意思ではないと思われがちだが、『中身』をいくつかに分けてしまったり、機能出来ないようにすることは、やはりただの逃げだ。直接心に干渉出来るのは、自分一人なのだから。
 そして逆に、自分で自分を壊さなかった彼等は、『自分で自分を補完する』能力を得た。
 自らの今まで使用していなかった何処かを無理矢理に起動させて、心か、体か――いずれにしても、本当に自分一人でどうにかしたのである。
 
 ――――まるで、ピースの繋ぎ目を潰して、繋ぎ目を埋めるように。








 誰かの斬撃の光跡が、いつまでも空に残る春の夜。
 桜は八部咲きと言った所だろうか、その頃が一番美しいのだ、と、本で読んだことがある。
 まあ、一般論だけれど。中途半端――もとい、『ちょっと欠けた感』に美しさを感じる、日本人の嗜好に合っているのだろう。
 丘の上に、一本だけ屹立する巨木の下へ歩いて行く。
 なだらかな丘の頂上にそびえるこの桜の樹の下は、好きな位置だ。場所、というと愛着が沸いてしまうので、位置と言うことにしている。
 その枝は冬なら、寒空を侵食する毛細血管のように不快だけれど、今はまさに桜雲。丘の上空を全て占拠する淡い桃色は、傘だった。傘なら安心出来る。 
 昼の間尽力して、熱線から護ってくれる自分の黒傘を置いて、樹の根元、少し窪んでいてもたれかかりやすそうな位置に腰を降ろした。
 降ろして、その反対側にいる先客に声をかけた。――いや欠けた。なんと切り出していいのかわかりにくい状況だったからだ。
 むむむと少し悩んでから、こちら側に流れて来る紅色の川を見つつ訊ねた。
「まだ話せるかい?」
 はい、と、夜桜の壮大さから来る存在感に掻き消されそうな、儚げな声が返って来た。――つまり僕は、訊いておきながら半分上の空だった。それほどどうでもいいことだった。
 それきり返事はない。
 演出用の、小細工的なライト――それでもあった方が綺麗だ――に咲き誇る桜たち。僕はそこから零れ落ちてくる、一枚の花弁の螺旋運動を見送った。
 ひらりひらりと落ち、その終点はさっきの川だった。
 そこでまた、そちらに意識が向いてしまう。まるで桜の樹が、意識的にそうし向けたようだった。
 彼女――桜は女性めいてるので彼女と決め付ける――の意思だか好意だかに嘆息して、とりあえず、もう一度声をかける。
「歳、いくつ?」
「…十、六です」
 言下に咳き込んで、それからトマトジュースを零したような音が届く。多分向こう側では、本当にトマトジュースが吐き出されたのだろう。
 一気に苛ついた。
 鉄臭い川を乗り越えて大樹を回り込み、その誰かの前髪の生え際を掴んで、幹に叩きつけた。
 少女、だった。
 今にも夜風に溶けていきそうな日本人形めいた黒髪は、おかっぱというのだろう、切り口が全て直角だった。痛いのか辛いのか、零れる涙の伝う頬には血の気がまるでない。唇も紫色だった。
 小柄で、女の子の脆さと、女性の危うさを一つにしたような、年相応の少女のカオ。
 良家の、世間知らずが故に無垢なお嬢様を連想した。
 こういうのを、可愛い、と言うのだろう。けれどそんなことは僕にとって関係ない。
 口の端からは、先のトマトジュースが一筋、涙のように流れている。
 しかし、命奪う川の出所にナイフを突き立たせた少女は、――いや、切り口の狭間にナイフを突き立てた少女は、総合的に見て幸せそうだった。
 それが腹立たしかった。ここまで怒ったのは、久々だった。
「君、死ぬんだろ。誰も自分を補ってくれなくて、生きることが辛くなったんだろ」
 早口にそう言いながら、僕は腕に込める力を増した。
 この子は半分同類だけれど、馴れ合う気はさらさらない。
 少女の片手は、手首から上がない。大分時間が経ったためか、その平たい切り口からの出血量は、今は小出しの蛇口ほどだった。自力で斬ったのだろう。普通、誰かの手によるものと考えるのだろうけれど、彼女は僕に助けを請わなかった。今も、痛そうに泣きながら微笑している。
「そう、みたいです。ああ、痛い。――これも自分でつけた傷じゃないんです。だけど、この傷を受けて決めました」
「このまま逝くことを」
「…はい」
 彼女はうん、と頷く。
 最後に僕は手を離して立ち上がり、不可解だった事の確認をとる。いつもならここで、さよなら、と別れを告げる所だろうが、今回は何故かそう出来なかった。嫌味を言ってやりたいのか、なんなのか良くわからなかった。
「その癖君は、最後に誰かと話そうとしたんだね。――それじゃあ」
 傘を掴んで踵を返す。全く、桜が穢れる。死ぬ事を受け入れた人間を見ていると、虫酸が走る。何かも諦めて、『責任のない自由』にすがろうとする。せめて誰も見ていない場所で、誰にも発見されない死に方をしろ。そうやって死んだ人間は、きっと本当に死にたかった人間だ。
 実は、自分一人でだってこんな世界、どうとだって出来るのに。
 
 ――――そう、断つことすら。

 と、後ろから、蚊が鳴いた。いや、蚊の鳴くような声で、だ。
 仏心を出して振り向くと、声と、まだ意識も命も残っているらしい少女は鳴いていた。よく聞くと「行かないで」と言っている。
 去り際に確認しなかった顔はきっと、狼狽していたのだろう。自分の本心を悟って、いや、少女に言わせれば悟ってしまって。
 勿論こういう優柔不断めいた心の移り変わりは、前の自分を見ていて嫌だけれど、不確実に死にたいと思っている人間よりはまだ、救い甲斐がある。
 嘆息の中に笑みを混ぜて僕は、訊いた。
「どうにかしたい?」
 死にたくない? と訊ねるのは莫迦の所為だろう。どうにか出来れば死ぬ理由はない。    
 はい、と少女は答えた。
 じわり、と少女の瞳が、苦い紅茶のような紅色に変色し始めた。
 僕と同じの、紅に。
 僕は少女に近寄らず、さらに訊いた。
「どうしようもなくどうにかしたいの?」
「よく、わからないんです」
 言いつつも、瞳の色は揺れない。ただ一心に、紅色を目指していた。 
「でも、」
 笑い出すのを噛み殺すように、少女の顔が歪んだ。僕はそれを見て一瞬、失笑する。
「――ここにいちゃ、駄目ですか。ここで泣いたら、駄目ですか」
 言い切った少女の眼は真紅に変わった。ああ、これで、僕等の仲間になった。
 ただ、仲間になったからと言ってどうということもない。馴れ合い、果ては依存。ふざけるな。そうするくらいなら僕は死ぬ。誰も見ていない場所で、誰にも発見されない場所で死んでやる。もとより、迷惑のかかる人間は『そうやって死ねば排除できる』。
 ただまあ、このまま血染めに死なせるのも可愛そうだ。生きるという意志が、夢があるなら、その望みを適えるアテもある。
 僕は少女を背負った。それから、断ち切られた小さな手も拾った。持ち上げても、もうそちら側からは血が出なかった。
 少女は驚いたような表情を虚ろにカオに乗せて、最後にやはり可愛らしく(と、いうのだろう)、眠る直前の子供のようにむにゃむにゃと言った。
「白い髪、汚しちゃってすみません…」
 そう、僕の眼は、最初から紅かった。
 負ぶった少女の体は、意識がないのだから重いのか、と思いきや、羽根のように軽かった。
 血がないからだろうか。
 とりあえず急ごう。

 彼女の意思の為に。







                  ◆





 

 誰かの千切り取られた白い優しさが、欠片みたいに浮かんでいる昼。
 わたしが目を覚ましたその場所には、大きな窓があった。そこから望む青空は広いから、ここは多分、高い位置にあるのだろう。
 窓の反対に頭を動かしてみて、驚いた。視界を埋めるモノ達が、知らない誰かの知らない部屋だったこともそうだが、私のベッドの傍らで丸椅子にすわって、本を読んでいる人がいたから。 
 男の人だった。
 薄っぺらな文庫本みたいな形の本を読んでいるその人は、金髪碧眼の異人さんだった。淡くウェーブのかかったプラチナブロンドの髪に、気だるそうに半開きになり、本に向かう姿勢の半分ほどの真剣味も感じられないその眼は、青灰色。
 若いのか大人なのか、よくわからない。顔だけが少年のようだ。
 首が、女の人みたいに細い。
 顎が、女の人みたいに尖っている。
 肩幅も狭いし花の茎みたいに華奢で、立ち上がっても身長は、私より少し大きいくらいだろう。
 それでも、この人は男の人だ。そう確信させる雰囲気が、その人にはある。
 そして、――そして格好良かった。表情の鋭角的なラインの中に、気だるそうな態度の中に、ページを繰る仕草の中に、言い表せない艶とか、華みたいなものが混じっている。――きっと私は、外見ばっかりで人を判断する人間なのだ。
 そう、自分に僅かな嫌悪感を抱きつつも、わたしはその人に見とれていた。
 昨日会った人といい、なんだか皆カラフルだなと思って、わたしは違和感を感じた。
 昨日、あれからどうなったのだろう。
 なんだか泣いたり笑ったり、忙しかった気がする。――いや、泣いたり笑ったりというのも微妙な表現で、きっと感情の起伏が激しかったから、そう思うのだろう。心は醒めつつも、冷めているみたいだった。昨日の心の移り変わりが、はっきりと観測出来ていた。……きっと眠ったからだ。
 と、
 活字を追う眼の動きの中、横目に、その人が唐突にわたしを捉えた。
「ああ、おはよう。よく眠れたかい?」
 美麗な容姿に溶け合うような、ハスキーな声でにこりと笑いかけて来る。
 わたしはわき腹でなく心臓を、槍で貫かれてしまう。
 飛び退る海老のように、わたしは体を起こそうとして、
「――ふぎゅ」
 枕の中に、頭を押し込まれた。  
「まだ、起きたら駄目だ。血が足りなくて倒れるよ。それでなくても君は、不安定なんだからな」
 まるで医者のようにそう言い、面白げに頬を指で突付かれた。馴れ馴れしくされるのは嫌いだけれど、その人にはどうも、普通の男の人みたいないやらしさがまるで感じられなかった。自然と頬に熱が帯びていくのがわかるあたり、おそらく贔屓だ。
 熱い頬か心かを誤魔化すように、わたしは訊いた。
「……あの、ここは何処なのでしょうか? あなたは、わたしを助けてくださったんですか?」
「まあ、そんなところかな。君を担いで来た――見ただろ? 白い髪と、紅い眼のあいつに頼まれて、俺が治した。くっつけただけだが、後は君の血を造る早さ次第で帰れるよ。……で、ここは勿論、俺の部屋、と」    
 俺の部屋。一抹の不安が過ぎった。
「……何か、しましたか?」
 しかし、彼は興味なさげに短く、笑っただけだった。
「患者を襲う馬鹿がどこにいるんだい? すくなくとも俺は、反応がなければ楽しいとは思わないが」
 さらりと怖いことを言い、また視線を頁に落とす。
 それから、わたしは愚問をしていたことに気付く。わたしの怪我を治してくれた人なのに。
 あれ、でも。
 怪我が治ったなんて、おかしい。おかしすぎる。わたしの手首は、皮一枚残さず断ち切れていたはずだった。
 なくなったはずの右手を動かそうとすると、その人は流れるような動作でそれを押さえつけて、言った。
「そっちは少しも動かしたら駄目だ。本当に、止血して『ただくっつけているだけ』だから、君が疑うとどうしようもなくなる」
 見れば、その人の視線は眠そうに頁に落ちたままだ。
 わたしは不可解な単語に、半分皮肉を込めて質問を投げる。
「疑うとって、どういうことですか? 信じれば断ち切れた手首が、治るんですか?」
「ああそうだよ。……あいつが言わなかったかい? 『こんな世界どうとだって出来る』って」
 言わなかった。教えてくれなかった。ただ、わたしの弱さを叩き壊して、ここまで運んでくれた。
 真意はまるでわからない。でも、命の恩人であることは確かだ。
「――言わなかったんだね。あいつ、異様に人に厳しいからなあ。“僕”って一人称が、まるで当てはまらない」
 くっくと笑うその人に、そうですね、とわたしは心から同調して、自分でも微笑んでいたと思う。
 そこで、がぼん、と音がして部屋へ誰かが入って来た。――あれが、ドアを開ける時の音なのだろうか。
 入って来たのは、昨日わたしを助けたあの人だった。
「白、おかえり」
 薄い文庫本にしおりを挟んで、蒼い眼の人が迎えた。
 白、と犬みたいな呼ばれ方(それとも本名なのだろうか?)をした紅い眼の人は、左手にビニール袋をさげ、もう片方の手には室内だというのに黒い傘を握っていた。
 わたしのことなどまるで気にしていないように、白さんはビニールから取り出したチューハイを、部屋の隅にある小さな冷蔵庫に入れていく。
「毎度も言いますけど、ここは僕の家じゃないですよ。零図さん」
 レイズさん、というのか。外国人にしても面白い名前だけれど、ともかく覚えておこう。
「いいじゃないか、俺の要望としてそうしておけば。それとも君は『世界はどうとでもなる』と言いつつも、脳の為手【して】として凡人である俺を見下すつもりか?」
「……これもいつも言ってますが、別に僕たちは普通の人と同じですよ。だから見下すつもりも、まして資格もないです」
「それが勘にさわるんだよな。俺は凡人として、君達が羨ましくて仕方がないよ」
 ……なんだか棘のある会話の内容だけれど、二人とも終始笑っている。何故なのだろう。この二人はどこまで真剣なんだろうか。
 てらてらしたチューハイの缶をいくつもしまい終えると、白さんはわたしの方を一瞥してからレイズさんに訊ねた。――最初から私が起きていることを、知っていたらしい。
「それでその子は、大丈夫なんですか?」
 わたしに聞いてくださいよ、と思う。きっとレイズさんに訊いた方が、正確な情報を得られるからそうしたんだろうけれど。
「ああ。信じる心はなかなか強い。俺との大した会話もなしに、治る、ってイメージを持ってくれたよ」
「へえ、まあ、とりあえず良かった」
 言って、白さんは踵を返してドアの方へ向かう。わたしみたいな普通の人では理解し難い早さで、もう帰ろうとしている。
 それを、レイズさんが引きとめた。
「ああ、待ってくれ白。切れそうだから、入れていってくれないか?」
 何をだろう、と思う間もつかの間、
 ぽう、と火が灯った。
 白さんの指先に。
 わたしにはそれが何なのか、大方の予想がついてしまった。まさか、こんな状況と位置関係で、手品をするはずがない。白さんはこちらに背中を向けている。
 白さんはその指を電灯のスイッチの、少し上の方へ近づけ、火をその中へ溶け込ませた。
 すると、通り過ぎる時妙な模様を浮かび上がらせながら、橙と赤のグラーデーションが、部屋の壁づたいに波紋を広げた。
 とりあえず、わたしはレイズさんに尋ねる。
「あれは、何なのでしょうか」
「火、だね。君等にしても、かなり珍しい『信じるカタチ』だ。エレメントを操っているあたり、あいつの力はもしかするとPKを越えて、魔術や魔法の領域に近いのかもしれないな」
 そう、本当に羨ましそうにレイズさんは説明してくれた。
 こちらに気が向いていないせいか、レイズさんの頭の中の白さんのイメージを、噛み砕かずに飲み込まされた感じだった。
 でも、一応、わかってしまう。
 なんでなんだろう。
 なんでこんなに、驚けないんだろう。どうしてこんなに、簡単に受け入れることが出来るんだろう。
 多分それが、わたしと白さんが同じ世界、同じ領域にいるからだということは、わかっている。それでも『そうなって』から日が浅いわたしはただ、まだ驚いていたかったのに。
 振り向かず、白さんが言った。
「次来る時には、鍵つけといてくださいよ。信じる力だって無限じゃないんですから」
「ああ、わかった。でも君、無限じゃない、と言いつつ諦めていないから、無限なんだろ?」
「限界まで行ってみないと、よくわかりませんけどね」
 レイズさんは、は、と溜息交じりに失笑した。
「あるのかないのか。全く、本当に羨ましいよ」
 白さんは今度こそ何も言わずに、んぼが、とドアを鳴らし、静かな嵐のように去って行った。多分、来てから五分と経っていない。その上わたしを見たのは一度きり。
 鏡を見れば、わたしの眼は、白さんと同じに紅い。
 その向こう、いや背後にいるレイズさんの頬に向かって、わたしは燕返しを入れた。
 平手で。
 頬を女性のようにおさえるレイズさんに、多分涙目のわたしはこう言った。……涙目になっている理由もわからないけれど。
「羨ましい、って、本当に非道い言葉です」
「俺にはわからないよ。だって俺は、凡人だからな」
 わたしはかぶりを振る。
「そんなことありません。『世の中にどうしようもないことなんて一つもないです』」
「そう思えるのは餓鬼で、そう気付けるのは何かが外れた奴だけさ」
 もう一発の平手は、普通の人なら入れていたのだろう。もう駄目だ。普通の人ならここで、この人を怨んでいる。
 やがてレイズさんの頬に紅い手形が浮かんで来た頃、レイズさんはまた文庫本を読み始めた。
 眠そうな瞳で。
 そこでわたしは気付く。ああこの人はきっと、一晩中わたしのことを見ていてくれた。
 凄く申し訳なくなった。流石に、『羨ましがっていた』ことを割り切ることは出来ないけれど、せめてわたしの手首を護る為に起きていてくれた、この人に感謝すべきだった。
「あの、その、ごめんなさい」
「何が?」
 大して怒った様子もなく、レイズさんは返してくる。――それが余計、怖かった。でもたぶん、この人は本当に怒っていない。
「いえ、一晩中、看病してくださっていたんですよね?」
「まあそうだけど。でも、ただあいつの頼みだからやっただけだ。他意はないから、お礼ならあいつに言うといい」
 言いたいのはお礼じゃなくて、謝罪の言葉だった。
 わたしが言葉を返すのを躊躇った隙をついて、レイズさんの微笑が入る。――燕返しより、威力があるかもしれない。
「ああでも、お返しついでに一つ、世界のどうしようもないことを教えてあげようか」
「え……?」
 何を言っているのだろう、この人は。人間に出来ないことなんておそらく、未来を含めて考えればない。
「俺はね、」
 そこで、くっくとレイズさんは笑う。非道く不吉な笑みだ。
 それから言った。
「俺は、女だよ」
 刹那、
 ずん、と音を立てて、わたしの浮ついた憧れは消えた。
 レイズさんの高笑い。その後、呼吸を整えて続けた。
「……ふふ、『お姉さま』でいいから、俺の代名詞は」
「――お断りします!」
 わたしが布団にもぐりこむと、またレイズさんの高笑いが聞こえる。それでもその笑いが、凛としていて格好いいと思えてしまうわたしはきっと馬鹿だ。
 どうしようもないことは未来にではなく、過去にあったんだ。過去にあったことに関しては、どんなに間違ったことでも誰も干渉出来ない。
 そこでまた、気付く。
 それはただ、時間を越えることを諦めているのだと。
 きっと今、一時的にわたしの瞳の色は苦くなった。
 
 白さんみたいに強くは、わたしはまだ、なれないだろう。
 それでもまだ、欠けた部分を自分でどうにか出来るわたしには、なんとか出来る。

 それから、凄くつまらないことを考えた。
 炎を信じる白さんは、多分恋が出来ないのだろう、とか。

 レイズさんに言ったらまた、非道く馬鹿にされてしまう。

 これからのことを考えることより、今のこの、全然不可解なはずの状況の方が、なんだかわたしには嬉しかった。





 
                           
                  ◆ 
 
 





わたしがここに来てから四日が経つ。
 零図さんがあと三日ほどで傷は治ると言ってくれたから、わたしはまる一週間ここで寝込むことになる。
 零図さんのことはそれほど好きになれなかったけれど、悪い人ではないと思った。動けないわたしの為に、絶妙なタイミングでわたしの欲しがるものを取ってくれたりした。この人は、他人の心が読めるのではないかと疑ってしまう程。
 けれど、零図さんは必要以上の心配もしなかった。ただ何か、染み付いた癖でそうしているだけのようで、仕事なのか、この人の常がそうなのかは、まだ良くわからない。
 でも結局、何故か安心出来る。それでいいのかもしれない、とわたしは今の状況に甘んじることにした。
 零図さんは食事と用を足す時意外には、常に本を読んでいた。
 本、とは呼べないような、薄いパンフレットのようなものから、辞書より厚い、表紙からわかったのだけれど、日本語では書かれていないようなものまで。
 そんな色んな種類の本を吐き出す大きくて古い、アンティークみたいな、病室めいた白い部屋に浮く豪奢な本棚は、きっと魔法の本棚だ。
 
 時たま、颯爽と白さんが来る。いつも部屋の中まで黒傘を持って入って来る。
 出不精なのか、ただそうしたいからそうしているのか、全く外へ出ようとしない零図さんの為に、生活するのに必要なものを届けているようだった。
 この、白さんも人の心が読めるのではないかと思って零図さんに訊くと、「あいつのパシリには周期があるんだよ」と楽しげに答えてくれた。――ぱしりっていうのはきっと、買い物みたいな意味なのだろう。
 その度に零図さんは、白さんに「何か面白いことはなかったか」と訊いている。白さんはいつも素っ気なく「最近は特にありませんよ」と答えている。
 なんなのだろう。二人は一体、どういう関係なのだろう。
 そう思っても、わたしは血走った眼の白さんの様子が怖くて、何も訊けなかった。

 時々しか顔を見せない白さんは勿論だけれど、零図さんの方も、わたしの素性だとかをまるで詮索しようとはしなかった。ただ興味がないだけなのか、全て調べがついているのか、わたしにわかるはずがなかった。
 でも、わたしは色々と尋ねた。
 零図さんはそれに、嫌がる様子もなく全て答えた。――きっとわたしが、あたりさわりのない質問ばかりしかしなかったからだろう。
 わかったことは、ここは天燎【てんりょう】マンションの十三階なのだということ。ひとフロア全て、零図さんのものなのだという。
 屋敷から見る、あそこなのかと理解出来た。マンションの名前なのに漢字が使われているからよく覚えていた。と言っても、やはり見ていただけなのだから、わたしの認識は「大きいマンション」くらいなのだけれど。
 高いな、と思っていた場所に、わたしはいる。特に他意のない気持ちで、不思議だったからそうつぶやいたつもりだったけれど、僅かな優越感に浸るわたしはきっと嫌なひとだ。

 そうして三日が経つ。
 わたしはついに我慢の限界を超えて、今は「コーラ戦争に勝った!」という表題の文庫本を繰っている零図さんに尋ねた。
 青と赤の表紙。今私は、多分赤の側にいる。
 したくてしようがない。
 やりたくてしようが、ない。
「あの、わたしの手、まだ動きませんか?」
 零図さんは頁から目を離して、わたしの眼を覗き込みながら自分の顎を撫ぜた。――わたしは何故か、そうされるといつも眼を離してしまう。勢い込んで訊いたにも関わらず、私は半分力を減らした。
「……んー…。もう大丈夫だとは思う。でも、一応大事を取ってやめておいたほうがいい。――それとも何か、やりたいことがあるのかい?」
 あるのかい、と訊ねた零図さんの態度は爽やかな青年にしか見えない。……それでも本当は女のひとなんだと、自分の認識を書き換えてしどろもどろに答えた。
「はい、というかその、わたしの手は、四日後にはちゃんと動くのですか」
「ああ、それはどうかな。ちゃんと、と言われるとどうだろう。繋がるっていうのは神経も含めてのことだけど、あと四日間を潰す趣味程度のリハビリテーションは、必要なのかもしれない。――君みたいな怪我を負うケースは少ないから、なんとも言えないが」
 趣味、程度。
 それなら。
 わたしは含みのある零図さんの言い方を無視してさらに訊ねた。
「それなら、手の動く今からし始めてもよろしいのでは」
「……んー、まあ、大丈夫かな。じゃあ、どんなのがしたい? さっきも言ったけれど、こんなのはやってもやらなくても一緒だから君が選んでいいよ。その為の道具も用意しよう」
 零図さん、ごめんなさい。アリアは嫌な子です。
「それじゃあ、林檎の皮むき、ですとか…」
「ああ、いいね」
 と言って、零図さんは丸椅子から重い腰を上げた。
 ちょっと待ってろよ、とまるで優しげな彼氏のように台所へ立つ零図さんに、わたしは心から謝った。
 はい、と果物ナイフと、一昨日白さんの買って来ていた林檎と器を渡された。頬が歪むのを、必死に堪えた。
 零図さんも私も定位置に戻ったけれど、私の気持ちはどこか違う場所だ。
 そこでわたしは、一度もしたことのない皮むきを始める。
 ここは本当に病室だ、と、そう思った。本で、ずっと病室で林檎の皮むきをする女の子の話を読んだことがある。
 ココロの欠けた私がいるに相応しい、ここは静かなサナトリウムの一室。どうせ家には帰れない。ずっとここにいたいなと、そう思った。
 鏡を見ると、瞳がまた苦くなっている。――――それでもいいから、はやくしたい。
 わたしは林檎を削っている。時々直角にナイフを入れてみる。時々切っ先を突き入れてもみる。僅かに飛沫する果汁に、密かに胸が躍る。
 やっている内、やっぱり焦れて来た。涼しい顔で本を読んでいる零図さんを――やっぱり、憎めない。
 矛盾だらけのココロだ。重いものを乗せた側の天秤の腕が、勢い良く上昇する感じに似ている。追えば追うほど逃げる、蜃気楼にも。
 やがて、零図さんが立ち上がった。
 それをわたしは、獲物を狙う猛禽のような目で見ていた。
 用を足しに立ったその後ろ姿が完全に消えるのを待って、わたしは自分の左腕をナイフで切りつけた。浅く切っていたせいか、時間が経っていたせいか、わたしの腕の今までの傷は今入れた一線以外にない。
 痛い。
 久しぶりにするから、少し力をかけ過ぎた。
 でも、やめられなかった。痛いことは嫌い、でも傷つけることは好き。傷つける快感への欲のほうがきっと大きいのだ。そこでだけ、わたしのココロの天秤は安定している。
 誰かに傷つけられた――――手首を絶ち斬られるほどの痛みだったから、今回はいつにも増して仕返しをしてやった。小さくて弱くて、少しもいい方法とは思えなかったけれど、人を怨むことの出来ないわたしにはそうするしかなかった。
 今、わたしの眼は真っ黒。
 そうするしかないと、諦めているから真っ黒だ。
 紅く、前向きになりたい。燃えたい。でも、時々こうして逃げては、駄目ですか?
 と、
「――――あ……」
 切りながら天井を見て震えていたわたしは、気付いた。
 左手を斬っていたナイフは、腕の内側へ達していた。びゅう、と細くて可憐な噴水があがった。――自分で可憐というのも、可笑しいけれど。
 白いシーツにばたばたと落ちて、弾痕のように紅く汚した。綺麗だ。綺麗だけれど、どうしよう。ちょっと眼を盗んで、ちょっと切るくらいのつもりでいたのに、シーツを汚してしまったら言い訳も出来ない。まして、今のわたしには洗濯してお詫びすることもできない。
 そこで、くく、と嘲ってしまった。
 ああ、わたしはおかしい。
 人とは違う。
 こうするしかないと自分を誤魔化して、結局、この行為が楽しいと思っている。
 後に残るのは、虚しさだけ。それでもやる前の欲求に負けてやってしまう。愚かしい。
 一瞬の噴水のあと、わたしは眠くなった。劣等感が睡魔に誤魔化されて、薄らいでいく。――これでいいの。こうなれば、また燃えることが出来るから。


                 ◇



「全く」
 と、誰かがつぶやいて、わたしは眠りから醒めた。
 眼を開けると、
「――ふわ!?」
 乱暴に両の頬をつねられた。
「いはい! いはいへふ!(いたい、いたいです)」
 わたしが抗議すると、わたしの頬は誰かの手から開放されてゴム風船みたいに元に戻った。
「痛い……」
 頬が嫌な熱を持って、赤く腫れているだろうわたしは涙目、それから三白眼で、頬をつねった人――――白さんをにらみつけた。
 が、睨み返された。
 白さんの顔をよく見たのは、これが初めてだ。びくつきながらもきちんと観察してしまうほど、白さんの顔は痩せていた。
 本来なら鋭い顔つきをしているだろうその顔は、肌と髪の白さに優しげにぼかされている。
 肘丈の白いシャツと、黒いジーンズ。零図さんの代わりに腰を降ろされた丸椅子の脇には、あの黒傘。全てモノトーンの配色――――
 けれど、その両目は紅い。横断歩道のストライプに血を一滴だけ垂らしたみたいだと、わたしは感じた。きっと、その無機質な雰囲気のせいだ。
 すっかり萎縮したわたしを見据えて、白さんは言った。
「あんたは馬鹿だ」
「はい…」
 もう怒る気にもなれなかった。
 怖い上、おそらく白さんはわたしのやっていたことを知っている。
 頬と耳に熱さを感じながらわたしは、小さいころ父さまに叱られたことを思い出していた。
「このナイフ、零図さんが渡したの?」
 頷くことしか出来ない。
「そうか……。意外と迂闊だったな。あんたが、あれほど血が出るまで切ると思わなかったんだろうね」
 え、それじゃあ――。わたしは顔を上げた。
「零図さん、知っていたんですか? ……わたしに自傷癖があることを」
「ああ、ついでに僕もね。怨めない、って為手は、そうなることが多い。けれど零図さんも僕も、それをどうとも思っちゃいない」
「同じ、だからですか? わたしと白さんが」
 白さんは何故か面食らっていた。わたしは何かまずいことを言ったのかと思い返すと、そういえば、わたしが白さんのことを白さんと呼んだのは初めてだった。
 面食らって、でも、白さんは答えた。本名でないことはわかった。
「ああ、同じだけど僕の場合、正直言うとどうでもいいって感じかな」
「……。人のことだからですか」
「ああ。でも零図さんは違うよ。ただ慣れただけだ。仕事柄ね」
 わたしが「仕事柄?」と首を傾げると、
「聞かなかったのか? 零図さんはあれでカウンセラーだ。ココロに欠陥のある僕達にカウンセラー、その庇護下。わかりやすい構図だろ?」
 わかりやすく驚いた。
 確かに零図さんには、どこかこなれた態度があった。普通の人と変わらず接してくれる、いや、そんな善意を通り越した、ただ慣れた感があった。
 もっともわたしは欠けた部分が部分だから、そんなつまらない差別を受けたことはないけれど。
 でも、とまた違和感を感じる。
「それじゃあどうして、零図さんはあなたにあんなに辛くあたるんですか?」
「あれは本心半分、労わり半分なんじゃないかな。僕があたりさわりのないことを言われることが嫌いなのを知ってて、そう言ってるんだろう」
 ああ、そうなのか。
 確かに白さんは、変に労わるときっと怒り出しそうな型に思えた。      
 そう気付けるのに、今まで気付いていなかった。
「で、あんたの傷のことだけど」
 現実に引き戻された。白さんは続ける。
「血が出すぎたらしい。入院期間二日追加だって」
 それじゃ、とまた、白さんは立ち去ろうとする。本当にこの人は、行動が突拍子もない。
 唖然として目だけでその後ろ姿を追っていると、白さんは、あ、と声を出してこっちへ戻って来て、雑多な用紙類のごちゃごちゃ置かれているテーブルの上から、何か探し出した。
「はいこれ」
「……――」
 手渡されたのは、さっきのものと違うナイフ。
 わたしが即座に、本気で噛み付こうとすると、白さんはそれを手で制して言った。
「別に嫌味を言ってるんじゃない。ただ、矛盾をいつまでも抱えてると危険だから、時々これで調整するといい。それだけだよ」
 わたしが色んな意味を持つ血が頭にのぼって何も言えないでいる内に、白さんは本当に出て行った。
 あの人は、本当に何がしたいんだろう。
 わたしには興味がない、と言っておいて、わたしのココロの心配をしている。 
 ナイフの刃を、指でなぞった。ギザギザに刃がこぼされていて、血があまり出ない。
 勝手な予想だけれど、これはわたしみたいな患者が来た時に渡すものなのかもしれない。――止めて、それでも駄目だった時の最終手段だろうか。でもそれを結果的に止めるのが、カウンセラーの役割じゃないだろうか。
 ナイフを見つめていると、和室があるらしいふすまから、零図さんが頭を抱えながら出てきた。今まで何故か、眠っていたらしい。
「あれ、白はどこに行ったんだい? 帰ったのか?」
 語調の半分も覇気がなくて、顔からは血の気が失せている。それから、わたしがナイフを持っているのを見止めて狼狽した。
「あー……。頼むから血はやめてくれ。それだけはどうも、全然慣れないんだ……」
 わたしはちょっと、面白くなって少し深く切る。零図さんは蒼くなって逃げ出した。
 その時わたしは、嬉しくて、純粋に笑った。きゃあきゃあ言っていたと思う。
 自分を傷つけることに驚いているんじゃなくて、その結果出た血に驚いてくれている。そんな、ある意味自然な対応がたまらなく嬉しくなった。
 
 また一滴、血をシーツの上に垂らしてしまっていた。
 血の染みは、今のたった一滴。誰かがシーツを取り替えてくれたのだ。

 ……それに、パジャマも新しいものに変わっていた。

 あの人は本当に、わたしに興味がないんだ。
 あの人は本当に、死が嫌いなだけなんだ。
 
 少しがっかりした。






                   ◆








 僕は実は、零図さんのことが好きだ。
 勿論それは、あの人が女の人だからっていうんじゃないけれど、何か、親しい男友達がいたらこんな感じなのだろう。多分僕の、愛着の沸かない位置の一つだ。
 あの人がカウンセラーだから、という部分を含め気に入っている。
 だから今日も、あの人の所へ物資を調達する。スーパーで今日は食料品全般を買っていく。直前に携帯に連絡があって台所用の洗剤も頼まれたから、それも。――あの人が台所に立つ所を、僕は見たことがないけれど。
 
 この、習慣めいた買出し兼散歩には、別に大きな目的がある。零図さんは、土産話的にその目的の遂行を楽しみにしているらしい。
 五日前からこの町で、人間の五体の内の一つを、一人づつ順番に切り取って失血死させる、という殺人事件が横行している。
 人を殺す人間。望まぬ死をもたらす人間。それこそ、生きていてはいけない人間だ。その犯人を焼殺するのが、僕の目的だ。
 傲慢な断罪者、社会を戒める正義の味方――どう思われても構わないけれど、ただ僕は、生理的に嫌いだから殺す。
 その殺人鬼がこれから殺すはずの人間と、殺人鬼一人の命。殺人鬼一人の命を絶てば、僕の大嫌いな『死』は最小限に留められる。これでいい。
 天秤にかけて軽い方を消す。ここでだけ僕の矛盾は、ない。

 と、意気込んではみるものの、中々そいつの捜索はうまく行っていない。警察との繋がりでもあれば別なのだろうが、犯人を殺す、という前提のもと動く僕にとってそれは、あっても足かせにしかならないだろう。彼ら警察は、捕まえて、裁くことを別の組織に任せている。生ぬるい集団だ。
 そんな感じで、結局、右手、右足、左足を切り取られた被害者が出ている。悔しくて、家に戻ればいつも何か壊してしまうのだが、ともかく次に来るのは左手、最後に頭だろう。頭、の被害者が出る前に、そいつと被害者達の命の重さが釣り合う前に、そいつを殺さなければいけない。
 切り取るというのは、大分面倒な作業だ。何せ時間がかかる。凶器はナイフ、それで、骨まで断ち切っている。犯人は男に違いないだろうけれど、それにしても、あの切り口は見事なまでに平坦だった。ナイフで居合い抜きでもした印象。
 たった一つの手がかりは、この間桜を見に行った時に見つけたあの少女だけ。
 後から聞いた所によると、少女は一連の事件の最初の被害者だったらしく、何か手がかりが得られるかと思ったのだが、零図さんの話によると彼女はその時のことを何も覚えていないらしい。……役に立たない。
 ただ、他の被害者とは違う所があった。あそこで吐血したように、内臓に打撃を受けていたらしい。……しかしこれは、あの少女が抵抗した際の副産物的なものに過ぎない。
 ナイフに付いた指紋なんてものは、僕等には調べようがない。
 
 警察の目については面倒だから、派手にかぎまわることは出来ない。今は血の匂いを辿ることが出来るくらいで、家具類が使い物にならなくなっていって困る。
 その血の匂いも、昨日から振り出した雨に洗い流された。 
 
 現実、行き詰っていた。
 それでも諦めはしない。
 そいつは、僕が燃やしてみせる。

 徒然考えていると、いつの間にか十三階に着いていた。
 エレベーターを降りながら、是非全て自分の手で成功させたかったが、合理的に目的を達する為に、零図さんの手を借りることを決めた。
 毎度あの人にだけは頼りたくなかった。日本に来る前にも二、三度こういうことがあったが、あの人には相談せずにどうにかしたんだが。
 部屋の鍵は僕の炎だから、インターホンを押す必要はない。この部屋の人間と僕とクリス以外の人間が無断で入ろうとすると、皮膚が全て焼けるくらいの火力にしてある。――最も、クリスは絶対にここに来ないだろうが。
 高級なマンションのくせに建てつけの悪いドアを開けて、中に入る。
「ああ、おかえり白」
 またそう言うのか……。この人は男ぶっているが実の所、結婚願望が強いんじゃないだろうか。――まあ、それは、何も歪んでいない人で言うところの思い上がりだ。僕は餓鬼なのだから。
「ここは、僕の家じゃありませんよ」
「いいじゃないか。俺の希望として。それとも君は――
 以下略。
 ベッドの上で一生懸命に林檎の皮むきをしている、この間の少女を一度見てから僕は尋ねた。またすぐに帰ると思っていたらしい二人は、少し驚いている。
「零図さん、最近起こっている殺人事件、知ってますか?」
 零図さんは面くらいつつも、興味深げな顔をして少し身を乗り出して来る。
「ああ、少しは知っている。本で読んだからな。――もしかして君が今回追っているのは、その事件についてか?」
 少女は不思議そうに零図さんの方を見ている。多分、あの魔法の本棚のことを知らないのだ。あの本棚は零図さんがロンドンにいる時に買った古い本棚で、世界中の色々な場所から本が迷い込んでくるのだ。
「ええそうです。望まない死が、もう三度起こっています。手段を選んでいる場合じゃないと思って」
「ふむ、そうか……。じゃあ、ここまでわかっていることを、出来るだけ主観を省いて教えてくれ」
 実際に「手を貸してください」というのはやはりしゃくだから、僕は暗に助けを求めたのだが、その意思を零図さんは汲み取ってくれた。零図さんのこういう、ツーカー的な頭の回転の速さか配慮かが、僕は好きだ。勿論僕が犯人を殺そうとしていることも、零図さんは知っている。が、いつも止めない。
 僕は調べたことの全てを伝えた。――その時間がとても短かったので、僕は少し自分に苛立った。
 零図さんは虚空を見つめて顎を撫ぜる。それから、曖昧な口調で始めた。
「白、君は犯人が、五体を切り取るつもりだと言ったな?」
「はい」
「しかしそれは実のところ、僅かに先入観があるのではないかと思うんだ。それから、犯人が一人だということも」
 一瞬驚いてから僕は、ああ自分の悪い癖が出たなと心中で認めた。零図さんは続ける。
「確かに新聞では同一犯の可能性が高いと報じているが、別に、それを鵜呑みに信じる必要もない。自分一人でどうにかするのが、君等のスタンスだろう?」
 痛い所を突いて来る。零図さんの手を借りた時点で、僕がアルビノでなかったら今、少し眼が苦くなっているのかもしれない。
 それから、仕方なさそうな顔つきになって零図さんはさらに言う。
「俺が言いたいのは、全ての可能性を捨てるな、ということだ。君はどうも、何もかもを天秤に載せて計るような癖や、猪突猛進的な部分があるから、そう忠告はしておく。……しかしただ、今回のケースは同一犯だと思うのが自然かもな。犯人が薬をやっていたとしても、それはダウン系だろう」
「何故ですか?」
 天秤か定規かを、いくらか捨てた僕は尋ねた。零図さんはやや、微笑する。
「人間の体――しかも骨を、だ。それを断つというのは、かなりの力と度胸がいる。……勿論そんな度胸はいらないが、そんな稀な二つの条件を持つ人間が、インスタントに二人も三人も現れるということは考えにくいだろ? それに、アップ系の薬の中毒者なら、こんなに目的をはっきりとさせずに快楽的に人間を殺す」
 随分遠まわしになったけれど、これで一応、同一犯だということは零図さんの中で確定したようだった。これから色々と考えていく上での、心構えを持てということなのだろう。
「さて、それで、だ。人の五体――最も首の部分らしいが、を断つ方法を考えてみる。おそらくナイフ、なのだが、これはあまり効率のいい方法ではないと思える。一瞬で断ち切ることは絶対に不可能だから、きっと被害者は全力で抵抗するだろう。そうすれば犯人の皮膚や髪、そんなものが被害者の爪から採取されたりするはずだが、今回はそんなものはなかったということだ」
 言い、零図さんは今日の新聞をひらひらさせ、また、「信じきる必要はないけどな」と言った。
「だとすると、どうするんですか? あそこにあったナイフがフェイクだとして、抵抗の出来る誰かの腕を断ち切る方法は他にありませんよ」
 最初に被害にあったこの少女には、縄の跡や、何かを飲まされたか嗅がされたかして、眠っていたような感じはまるでなかった。実際、確実に犯行を成功させようと思ったら、凶器がナイフでないにしろ、切っても起きない程度の麻酔はかけるだろう。新聞で読んだ所、他の犠牲者達も同様だった。
 見れば少女は、ズタズタになった林檎を見つめて蒼くなっていた。僕の言葉で、あの時の状況でも思い出してくれれば助かるのだが。
 そこなんだよな、と、いかにもな台詞を吐きながら零図さんは首を捻る。 
「本当に、君等の力を使ったのではないかと思いたくなる。それとも、被害者皆に切らせるとかな」
 はは、と零図さんは乾いた笑みを漏らす。きっとこの人の中では、それらの線が薄いと判断されているのだ。
 と、突然、今まで押し黙っていた少女がか細い声で口を挟んで来た。
「わたし、自分でなんか切っていません。わたしにそんな力があるとお思いですか?」
 驚いていた僕は、ああなんだ、そんなことかと心中で呆れると、
「ああ、すまないね。これも可能性の一つとして、だよ。――ときに、アリア」
「なんです?」
「君、白と一緒に、しばらく暮らす気はないか?」
 アリアという名前なのか。弥生時代の人みたく両のもみあげから長方形の房をつけて、おかっぱで長い、日本人形のような髪をしている癖に。
 と、
「っな、何をおっしゃってるんですか!?」
 その声に僕は驚いた。
 別に、一つ屋根の下に寝泊りするだけだろう。しかも、まだ決まってもいないのにこの焦りようはなんなんだ。
 零図さんが半分からかうように言う。
「ああ、結論から言ってしまった。すまないな。つまり俺が提案したいのは、白に、アリアを連れて囮捜査でもしてもらおうか、ということだ」
 アリア、と呼ばれた少女は首を傾げたが、僕には零図さんの意図が大体飲み込めた。
「つまり、犯人が唯一目的を達成出来なかったこの子を、もう一度犯人に襲わせるってことですか?」
「……襲わせる、というのは少し違うか。しかし意図は全く掴めないにしても、これだけの目的を持って犯行を重ねる奴ならば、もう一度、ということもあり得るかと思ってな。直感的に、犯人はどうも神経質そうだ」
 それからまた乾いた笑みを漏らす。直感……この人は本当に、心理学者なのだろうか?
 それから零図さんは、頭を抱えてぼやき始めた。
「それから白状するとな、俺はアリアの血がどうにも駄目だ。――別に血自体全てが駄目なんだが、殊にこいつのは、出血量が多い」
 だから追い出そうというのか。今は正気らしい少女は、本当にすまなそうな顔をしている。
 でも零図さん、あなたは本当にカウンセラーか? いつも僕より突拍子もないことを言う人だが、今回はイレギュラーなものとはいえ仕事放棄と来た。非道い。
「わたしはかまいません。どうせお家には帰れませんから、白さんの所でお世話になれれば嬉しいです」
 と、少女が微笑む。自嘲めいた笑いだったが、眼が紅いままだから許す。この子がそれでいいのなら、それでいいのだろう。
「白、お前はどうだ? 殺せる確率だけで言えば、上がるとは思うが」
「僕はおおいに賛成です。ただ、クリスが間違いなく文句を言うと思いますが」
「……あいつのことは放っておけ。君の目的の為だと言えば、黙るだろうしな。しかしこれは、あくまで『犯人が五体を切り取って被害者を確実に失血死させるつもり』な場合にのみ意味がある。不毛な活動になるかもしれないが、それでもいいのか?」
「別段、この子がいても何も変わりませんから。ただ面倒なのは、やっぱりクリスです」
 生活費はクリスの莫大な資産でどうになかなる。しかしそのクリスと悶着を起こした時に、この、アリアという子は愚か、自分すら家に入れなくなる可能性すらある。――陣だの結界だのを張られて。
 折れたように、しぶしぶ零図さんが答えた。
「……わかった。俺が説得を試みるよ。もう何年ぶりかに話すから、壁もいさかいもあって嫌なんだが……。他に犯人を見つける手立てがなさそうだからな」
「お手数かけます。僕からも話してみます」
 苦笑いして、僕は今日は帰ることにした。説得にはおそらく、一晩かかるだろう。
 電話口に立つ零図さんは、「本棚にいい資料が迷い込んでくるかもしれないから、期待せずに待っておけ」と言い、
 ベッドの上の少女は、僕に控えめに手を振って来た。





                  ◇





 今日でともかく、退院ということらしい。
 零図さんには、凄く悪いことをしてしまったと思う。だから追い出されて当然なのに、わたしの行くあてがないことを、少しでも気にかけてくれたことには、心からありがとうと言えた。
 九日間はわたしの中で、意外に温かい間だった。
 零図さんは他人のはずなのに、あの建てつけの悪いドアの閉め様、「また来いよ」と言ってくれた時の笑顔が目に焼きついている。
 降りるエレベーターの中で、何故かわたしは涙ぐんでしまった。――涙もろいのかもしれない。

 白さんと並んで、マンションのロビーを出た。
 わたしがこのマンションに入院(?)した最初の日とはうってかわって、今は曇天。人の体温みたいに生ぬるい雨が降っていた。
 何も言わずに歩きだす白さんは、いつもの黒い傘をささない。いや、今のように脇差みたいにぶらさげてているだけで、晴れの日もささないのかもしれなかった。
 わたしは零図さんにもらった傘をさして、腕に巻いた包帯に雨がなるべく当たらないように気をつけながら、白さんの後をついて行く。ポケットに手を入れて歩く白さんの歩調はすごく早い。わたしは自然と小走りになった。
 会話はない。
 白さんの本名、零図さんと白さんの本当の関係、クリスさんて誰ですか、白さんの御家はどんな所ですか、どうして傘をささないんですか、ナイフありがとうございます――――
 有象無象が出てきては消え、出てきては消えした。わたしがこれから白さんに利用されるとしても、それはどうでもいいことで、ただわたしは今、この沈黙がどうしようもなく痛いと感じていた。
 どうしてだろう。
 人と話すのは、そんなに好きじゃないのに。
 ただ雨音が、沈黙をいくらか和らげてくれていた。
 わたしは凄く、不安定だった。自分で言うのも弱くて情けないけれど、実際、今わたしの眼は色が濃くなったり薄くなったり忙しいと思う。見たら、自分で笑ってしまうほど。
 零図さんが最初に言ったのは、こういうことなのだろう。普通の人みたいに補い合いたいと思いながら、独りでどうにか出来る――そう、白さんみたいな(予想だけれど)人になりたいとも思っている。
 すごく優柔不断だ。わたしは弱くて小さい。これならいっそ、諦めてしまおうか――
 でも、何を?
 諦めるような、大切な何かをわたしは持っているのだろうか。
 わたしにはなにもない。家族、友達、恋人、わたしには今、どれもない。夢中になれることだって、何も持っていない。
 じゃあ、わたしは何を諦めたくなかったのだろう。
 と、突然。
「ごめん、傘貸してくれないか?」
 白さんの紅い眼が、わたしを見つめていた。
 わたしは突然夢の世界から引き戻されて、しどろもどろになった。でも、声は聞こえていたから、条件反射的に傘を差し出す。
 白さんは、ありがとう、とだけ言って、わたしの隣に来た。
「……ご自分の傘を、使えばよろしいのでは?」
「ああ、これは、晴れの時に沢山働いてもらってるから」
 よくわからない返事だった。晴れの時用の傘なんて――ああ、日傘だけれど、でも、雨の時にだって使えると思う。
 横顔を見つめても、白さんは気だるそうに虚空を見つめているだけ。――もうちょっと『いつまでも見ていたい』と思えるような表情をしてくれないだろうか。
 そこまで考えてはっとなる。ああ、この状態は……

「……あいあいがさ……」

 思わずつぶやいてしまった。
 つぶやいてから、頬に当たる雨がやけに冷たく感じられた。視線を右横に戻すと白さんは聞こえていなかったのか、――それとも雨音に掻き消されてしまったのか、また呆と、しかし鋭い目つきで虚空を睨んでいる。
 ともかく、聞かれなくて良かった。でも、どこかでがっかりしているのは何故なのだろうか。

 それから白さんの御家の、「上野【うわの】」という表札が見えるまで、わたしたちは何も話をしなかった。
 
 わかったのはただ、相合傘にも壁があるということだけだ。















私こと、クリストファー・ウィリスは零図唯【れいず ゆい】が嫌いだ。
 あの、男か女かはっきりさせておかない所がいい、みたいな思想が嫌いだ。中途半端すぎる。
 私の名前も男性のものだけれど、それは親の責任である。
 魔術だとか魔法だとかさいきっくだとかいーえすぴーだとか、才能がないとどうにもならないようなことに憧れて、ないものねだりしている部分も嫌いだ。というか、魔術を学ぼうとしている人間全般が嫌いだ。あれは学ぶものじゃない。
 それ以上に、あの本棚は元々私の家のものなのに、あいつはそれを持っていきやがった。
 ――最も、私の集落にやって来た人間に本棚が盗まれて、サザビーズに持っていかれたのが元凶なのだが。
 お金を積んで本棚を取り返し、イギリスに帰ってもいいのだが、そうするのはこの上なくしゃくだ。実力行使に出ようとすると人間の目がうざったい。が、幸い私の寿命は人間よりも長いし、帰ってもすることがないから、奴が死んで、あの本棚の所有権が誰にもなくなる時を待とうと思っている。
 のだけれど、
 昨日の夜、その唯から電話があった。
 会話をするのは云年振りだ。ようやくあの本棚を返すつもりになったのかと思いきや、居候が一人増えるから面倒を見てくれと来た。
 別に、空岐【そらき】のことを居候だとは思っていない(生活費を出しているのは私だが)が、資金もあるし、別に一人増えた所で何も変わらないので、一応承諾しておいた。行くあてのない子だ、と言われれば断る訳にもいかなかった。――それでも一晩、わざと反発してやったけれど。
 
 でも、しかし、結局私は状況に呑まれてここにいる。
 空岐のどうしようもない殺意めいた雰囲気にも惹かれたし、唯の誘う手管たる話術にハマったことも事実だ。
 ――何より、向こうの大学で魔術の研究云々を手伝わされることも飽きていたし、保守的な田舎である私の集落で一生を終える気もさらさらなかった。私はもう若くはないけれど、刺激を求めてはいた。
 それで、来てみたこの国。
 ……どうなのだろう? 確かに、新しい発見は沢山あった。でもそれらは、外国に足を運べば必ず得られるような感動ばかりだ。
 空岐と非公式――私たちにとっては公式だ――に解決したごたごたも、一応は楽しい。最後がかならず犯人の焼死、というのがどうにも夢見が悪いが、まあ人間だからいいだろう。私たちには犯罪なんて言葉と縁がないから、いい刺激である。
 ああ結局、この国に来てわかったのは、私は快楽主義者だということだけだ。
 全ての行動へ至る動機が、「今退屈だから」、及び「それが楽しそうだから」。
 
 でもま、それでいいんじゃないだろうか。
 究極の快楽を追い求める放浪者、これが私で。
 
 しかし、どうも、その「究極の快楽」(何故か、何度も口にするのが嫌だ、この言葉は)は、なかなかこちらを向いてくれそうにない。
 いや、正確に言えば、永遠に、か。しかもそれは、私が生きている間に消滅するだろう。
 
 そうなったらまた、楽しいことを見つけに行くのだ。
 
 ――どうにも、私はエルフらしくない。

 



 


                  ◇






 来客までの間、ひとまず朝刊を読む。
 めくってまず、目を剥いた。一面に、この町のことが載っていたからだ。
「……うわ、すごく空向きな事件だわ」
 そうつぶやいて、最近唯の所から空岐が帰宅する時刻が遅いのはそのせいかと得心した。
 空岐にとっての私の役割は、戦闘要員ということらしい。だから借り出されるのは大体ラストだ。彼のスタンスは欠けた人――為手というらしい――としての「自分一人でどうにかする」、そして彼としてのやり方「合理主義」、それを基本としている。大抵私の出番はないし、考える時点で私の協力は請うて来ないから、実は私は、生活の為に利用されているだけなのかもしれない。――そう思うとちょっと寂しい。
 でもまあ、楽しいからいいのだけれど。
 そこで「ただいま」と玄関から声がした。空岐の声だ。
 私は下着の上からシャツという格好だったが、空岐は男の癖に、全くそういう所に頓着しない。一応、まだ身体の年齢が若い女性としては寂しくもあるものの、共同生活をする上では実に便利だ。
 唯から聞いた、新しい同居人も女の子だというから、この格好で別段問題はないだろう。
 フローリングの床を移動して、縦長の板チョコレートみたいな玄関のドアを、サンダルを突っかけてから開けた。日本人の、こういう和洋折衷っぽい家のつくりは意外と好きだ。ポリシーはないけれど、実用性が高いと思う。 
「おかえり」
 と言うと、空岐はああ、うん、とだけ言って中にずかずか入って、ソファに体を埋めた。全く、いつもながらにぶっきらぼうだ。
 視線を扉の方へ戻して、驚いた。
 日本人形がそこにいたからだ。夏季によく見る、勝手に髪の伸びる人形と遜色ない程だ。――怖いという意味ではなく、精巧だという意味だ。
 でもあの人形は、人毛を使っているから伸びるだけなんじゃないの?
 と、私が思考をそらしていると、
「これからしばらく、お世話になります。不束者ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
 なんて、空岐の後ろに隠れるようにしていたその子に、玄関口で土下座されてしまった。
 私も相手につられて玄関マットに頭を擦り付けていると、空岐に「何やってるんだよ」と突っ込まれた。
 こういう子をきっと、ニンゲンコクホウというのだ。日本に来てから数年、こんな種類の人間が実在することは知っていたが、見たことがあったのは動く絵でだけだ。イギリスではあまり普及していないそれは、日本のオイエゲイという奴らしい。
 また思考がそれた所で、少女が顔を上げた。初めてその顔をじっと見つめる時間が出来た私は、こうつぶやく。
「……可愛い……」
 きっと私はその時、自然と眉を困った風に寄せ、口元を緩みまくらせていたに違いない。
 私を見上げるその目が、口元が、頬が、全部柔らかそうで、無理に形容するならその顔は子犬だ。私の尖った長い耳よりも、この子に三角形の体毛の生えた耳を生やした方がよほど似合うと思う。
 次の瞬間、私は私の容姿を見て驚く、子犬めいた少女の態度を無視して、抱きついて居間まで移動させた。うん、こうして一日中過ごそう。
 と、腕の中から――といっても、私達の身長に差はない――少女が声を発した。
「あ、あのう……」
「うん、なに?」
「あの、髪、綺麗ですね」
 確かに、緑というのは、人間達には見られない色なのだろう。パステルグリーンというのだろうか、緑にミルク色を混ぜたような、私の髪はそんな色だ。
 寝起きで手入れなんかする前なのだけれど、まあ、綺麗と言われたのなら綺麗なのだろう。
 ありがとう、とお礼を言って、忘れていた。名前を聞いた。
「宵宮アリアと申します。宜しくお願いいたします」
「アリアか……G線上? それとも私と馬鹿空の間柄を解消する為の、銀の糸でも紡いで来てくれたの?」
「……。ごめんなさい、よく、わかりません。お役に立てなくてすみません」
 うん、何かこの慎ましやかな態度が、私の心に染み入って来るようだ。私はこの子を勝手にアリりんと呼ぶことにし、私も名乗った。
「クリストファーと言うと、男性のお名前では?」
「ああうん、何かね、私の両親がわざとこうしたみたい。……非道いよねぇ、ちゃんとした女児なのに」
 これは私の本心だ。クリスと呼ばれる分には、クリスティーナかもしれないし、クリステルかもしれなく、それなら女性の名前だからいいのだが……。
 くりすさん、とアリアは私の名前をつぶやいて、暗記作業をする。その間に私は、アリアと一緒に空岐の向かいのソファに座った。
 私と空岐の住む家は、平たく言うと新築住宅だ。
 同じ不動産屋が紹介する住宅を固めてあるような場所――いわゆる新興住宅街に、位置する。二階建てで、唯が家具を選んだ為、まあ中は、住んでいる人間の種類とエルフ以外は、一般家庭と何ら変わりがないだろう。
 空岐の年齢は十八。私も見かけはハイティーンで、昨日唯に聞いた所によるとアリアは十六だそうだから、きっと近所の新婚夫婦達は、「あの家は本当になんなんだろう」とアリアが来たことでさらに困惑するに違いない。回覧板を届けに来たり、勧誘に来る人間は、私が出ると耳に視線が来て、空岐が出ると一度面食らってから慣れ、次回からは中を覗かれるという対応だったのを覚えている。
 人間というのはどうも、異分子を異端視したり排除したりする傾向があるようだ。――向こうの大学で研究のフォローをしていた頃から、それには気付いていたけれど。
 イギリスと比べると殊、この国ではその傾向が顕著な気がした。キンジョヅキアイ、というものや、人間関係が薄いからそうなのだ、と昔唯に聞いたが、そうなる理由についてはまだ私にはわかっていない。
 まあ、私の快楽の追及に別段さし障りがないので放置だ。
「空岐、今日はどうするの? また出るんでしょ?」
「ああ出る。ただ今日はその子、置いていくよ。まだ血が十分じゃないみたいだから、今日はまだ休ませてやってくれって、零図さんが」
「あ、そう。あなたにしては、随分優しいのね?」
「――はぁ、これが優しいのか? 僕はともかく、傷をしっかり治してからの方が襲われやすいと思っただけなんだけど」
 アリアが蒼くなっている。空岐の物言いはいつもこんななのに、最初からこれでもつのだろうか。
「はぁ、そう。なんでもいいけどさ、ただ、怪我人なんだから優しくしてあげてよ?」
「ああ、望まない死をもたらす奴を、殺すまではね」
 そう言い、空岐は立つ。私はこういう、戦意に燃える男の人が意外と好きだ。ずっとここに住んでいるのも、空岐がいるからだし。
 でも、今回ばかりはこの、アリアという子を不憫に思った。空岐は素性も知れず、行くあてすらないこの子を利用することしか考えていない。
 空岐は黒傘を持って、白髪鬼よろしく颯爽と出て行く。
 出て行こうとして、
「――あ、冷蔵庫の中のミルフィーユは駄目だ。甘味は僕の材料だからな」
 ばたん、そして雨の中を行く足音が遠ざかって行った。
 ――全く。
 見栄を張ったり、シニカルぶっているのならまだ救いようがあるが、あいつのはあれで素だ。始末が悪い。
 アリアは目に見えて塞ぎこんでいる。行くあてがないとはいえ、こんなことにつきあってしまったことに後悔しているのかも知れない。
 窓断続的に叩く雨。
 風と共にかなり強いけれど、それでもあいつは傘をささないんだ。何故かは知らないけれど、とりあえず馬鹿。
 沈黙を破って立ち上がり、私は鼻歌を歌いながら冷蔵庫に向かい、開けた。
「何、なさってるんですか……?」
「勿論、あいつのミルフィーユを食べちゃうの。――むっ、ティラミスまで隠してたわね?」
 おお、思わぬ収穫。消臭剤の裏からこんにちは、っと。 
「そんなことして、よろしいんですか? 叱られますよ。それに、朝から……」
「だいじょぶ。あいつ実はフェミニストなんだから。女の子には手出ししないわ」
「それはそうかもしれませんけど……。きっと太りますよ?」
「だいじょーぶ。女の子は、『きっと夢と恋と甘いもので出来ている』んだから。甘いものの比率が少し増えたなら、他のものの割合を減らせばいいわ。……甘いものを増やした暁には、減るのはきっと恋の割合だけど」
 私が冗談を言って振り返ると、アリアは噴出した。
 む、とりあえず良かった。可愛い娘に曇り顔は似合わぬ。ふふ。
 
 ……結局アリアの方が、私より食べた。口が小さいのに、私の倍ほどのスピードで咀嚼して行った。――これが彼女のPKなのだろうか?
 
 ともかく、これでまた日本にいることが楽しくなりそうだ。
 いらっしゃいませ、お客様。当店のミルフィーユはお口に召しましたでしょうか。代金は白髪鬼の雷となっております。

 微笑む顔の、二つの光は紅。
 
 ちょっと羨ましく思いつつ、第一希望のティラミスを頬張る私だった。


2004/08/04(Wed)12:57:48 公開 / 春一
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■作者からのメッセージ

 軽ーい展開デス。新たなる異能者(?)クリスが登場した回でした。

 『もはやなんでもありで』

 そんな、日常系伝奇ぽく出来たらいいです。
 男性キャラ一人…。女性視点ばっかり書いているとどうも…
 『面白い』。

 痛くは…しばらくないと思います。
 プロットも脳内のみで、ミステリ調になったのも完全な成り行きとは言わないまでも、かなり偶然に頼った部分があります。
 駄目ですね……。
 しかし今回はキャラ視点をがりがり変えてるので、書いていて、飽きや怠慢が全く来てません。故、この速度です(爆

 この後は遅々更新で行きます。ヨビコさん(予備校)が激化して、キスくらいでは制止出来なくなったので。

 でもしかし、今はやはり下積み状態デス。初回と三回がただ、そいつのキャラクターを説明する為にそうなったって感じ…なのでしょうか(言い訳

 では、批評を中心とした感想をお待ちしております。宜しくお願いします。

 それではでは…。 

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